2012年01月28日

ファン心理として

もう、まったくもって余計なお世話の話なんですが、
かなり気になってしまいまして。


たまたまテレビをつけたところ、音楽番組がやっていました。

司会はタモリさん。
色々な歌手が出ています。

タモリさんは、歌手の「JUJU」を絶対に
「JUJUさん」と、「さん」づけで呼びます。
他の番組でもそうでした。

割とフランクに芸能人を呼ぶイメージがありますし、
実際に呼び捨てにしていたり、「ちゃん」づけだったりすることもあるのに、
なぜか「JUJUさん」なんです。

しかも、呼ぶときの声の雰囲気に、どこかしら敬意や
気恥かしさのようなものが混ざっているように感じられます。

ファンなんでしょうかね?


さて、それで気になった内容というのは「JUJUさん」ではなくて
別の歌手「絢香さん」のほうです。

「絢香」といえば、バセドウ病で二年ぐらい休養していたことで有名ですが、
復帰後の様子が、僕には気になってしまいました。

年末の紅白の時もそうでしたが、甲状腺の腫れが相当に目立ちました。

甲状腺ホルモンの働きを抑える方向で投薬治療をしているんでしょうが、
甲状腺肥大そのものは免疫反応によるものなので
こちらの回復は自然に収まるのを待つか、手術か放射線か、だそうです。

甲状腺は首にあって、喉ぼとけの下あたりにある部位です。
見た感じ、相当に腫れていると思います。

復帰してきたぐらいですから、ホルモンのレベルでは
ある程度、安定したコントロールが出来ているんだと思いますが、
決して「治って」、万全な状態で出てきたわけではないんだろうと思われます。

色々と複雑な影響が出ているんじゃないかと心配してしまいます。

見て取れるレベルで言えば、姿勢が変わっていました。

頭の位置や背筋の伸び方も変わっていたと思います。
何が原因かは分かりません。

ホルモンのバランスが変われば生理的な状態も変わるでしょうし、
病気に伴うセルフイメージの変化も関わっているかもしれません。
そうした内面の変化が姿勢に表れている可能性もあるでしょう。

一方、様々な生理的変化、あるいは体のレベルとしての違和感が先だって
楽にしていられる姿勢そのものが変わった可能性もあると思います。
そして姿勢の変化がさらに心情にも影響を及ぼす。

芸能界という特殊な環境要因も含めて、色々な相互作用が絡んでいるはずです。

個人的に心配になるところがあります。

単純に、綾香のCDをiPodに入れているというだけの理由でなく、
僕にとっては音楽に対する理解の仕方が変わったキッカケが絢香だったので
個人的に思い入れもあるのかもしれません。

それ以前の僕の音楽の楽しみ方は「見る」というやり方でしたから。
顔の前に流れる音楽を、音の構成として視覚的に変換するようにして
その映像変化の美しさを楽しむ、という方法だったんです。

それが、絢香を見て、体の中に音を通すタイプの音楽の楽しみ方があるのを
自分自身で実感できたのが数年前の出来事。

それから、音楽を聞く機会が増えて、その範囲も広がっていきました。

そんなことを知らず知らずのうちに思い出として関連付けて、
おせっかいにも心配な気分が出てくるのかもしれません。

好き勝手に歌って、また沢山の音に包まれて、
体の中に音楽を通してもらいたいものだと感じます。

なぜか人体は進化の歴史の中で、甲状腺を「喉」に配置してきたみたいですから。

cozyharada at 23:52|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2012年01月26日

今年の作品

ちょっと前の話ですが、書道展を見に行ってきました。
自分が出展していたところです。

六本木は国立新美術館で、建物の半分ぐらいを使っての開催でした。
全部で2000点ぐらいという話だったかと思います。

2か月前ぐらいに書いていた作品ですから、
久しぶりに見ることで、少し客観的に眺められた気がします。

特に、自分で書いて、チェックしている段階ではペラペラの紙のままですが、
落款が押されて赤色が加わったものを表装して、額に入れ、大きな会場に飾る…
そういうプロセスを経て僕の目に飛び込んできたものは
しばらく前とは随分違った印象に感じられました。


去年は自分の作品の前に行ったとき、愕然としたのを覚えています。
もっとマシに書いていたつもりでした。

書道の団体というのは、結構厳しい風潮があるそうで、
出展者に色々な肩書というか、位置づけが設定されます。
会員、準会員、会友、一般と。

「一般」というのは、初出展の場合や、特に団体に所属する意思を示さない場合、
あるいは他の団体に所属している人が出展した場合などに呼ばれる肩書です。

最初は全員、「一般」からスタートです。
それが、何かの賞をもらうと、「会友」として認めてもらえる。

で、「会友」の人が一定基準以上の賞を取って、ポイントを重ねると
「準会員」に推薦されます。

なので、準会員までは長いこと続けて、チョットずつポイントを重ねていけば
なれる可能性は高いわけです。

正確には覚えていませんが、「会員」になるには複雑で
推薦されるとか、なんとか賞を何回とるとか、基準がさらに厳しかったはずです。

つまり、書道団体の「会員」というのは肩書としては結構スゴイことらしいんです。

僕のイメージだと「会員」といえば、
申し込んで会費さえ払えばなれそうな感じがしてしまいますが、
書道の世界では違うようです。

ちなみに、僕が出展した団体は、他よりも古いしきたりを無視していて
純粋に作品の出来だけで評価をしようというスタンスらしいですが、
他の団体だと、もっとややこしい大人の事情が関わるんだとか…。


で、展覧会の会場は、会員の部、準会員の部、会友・一般の部と
場所ごとに分けられて展示されていました。

入口に近いのが会員の部。
会友・一般は入り口から離れたところにあります。

それで一通り眺めていくと、最初は良し悪しの基準が分かりませんから
会員の人たちの作品でも何が良いんだか分からなかったりするわけです。

まして、会員になると、独自性・芸術性の高いものが増えてきます。
平たく言うと、「なんて書いてあるか分からない」ということです。

それでも、会員を一通り見て、準会員のゾーンに行くと
雰囲気が一気に変わるのが実感できます。

やはり会員の人たちの作品のほうが「何か」美しく感じるものがあるんでしょう。

そして会友・一般のゾーンに行く、と。
ここは大半が書道教室の生徒の作品で埋まります。

一方、準会員ぐらいだと書道教室の先生、
会員になると有名な先生、と比率が高くなっていくようでした。

ですから、会友・一般のゾーンは急に見栄えが変わります。

僕が去年、自分の作品を見て感じた印象は、まさにその
会員の人たちが放つ「芸術性」や「美しさ」が欠けている、ということでした。

本当にガッカリしたのを覚えています。
バランスも悪いし、余白もバラバラだし、稚拙な印象があるし…。

比べられるほどではないと分かっていても、比べて初めて気づくものがあったんです。


それが今年は、チョット印象が違いました。
改めて客観的に自分の作品を眺めて、ガッカリすることは無かった。

「もっと、ここをこうしておけば…」という悔しさや、
「この部分はチョットみっともないなぁ」という残念な感じもありましたが、
全体としては悪くないと感じられたんです。

少なくとも、去年よりは上達を実感できるものでした。

そして、何よりも興味深く感じたのは、僕の作品は異質だったということです。

もちろん、そんなに全部をキッチリと見ているわけではありませんが、
会員を含めて大半の作品と比較して、他からは感じにくい印象があったんです。

それは「細かい」感じ。

決して文字が小さいわけではありません。
作品のサイズが小さいのでもない。
黒の量が少ないわけでもないんです。

でもスケールの大きさが無いことに気づきました。

それを感じさせる要因は、おそらく、細部に対する意識の高さでしょう。
一画一画、筆先が緻密に紙と接しているような雰囲気。

まぁ、細かいのは僕の特性の重要な部分ですから嫌ではありませんが、
このサイズの作品を書いていて、この細かさを意識している人は
他には滅多にいないんだろうと実感しました。

その「細か過ぎる」感じが、他と異質な理由の1つだったと思います。

文字の縁取りが際立って見える感じがしました。
ピシッと、シャキッと、クッキリと、文字の形が浮き出て見えるんです。
なので全体にスッキリと、シャープな感じはありそうでした。

逆に、その特徴が、作品全体としての一体感というか全体性というか、
一気に目に飛び込んでくる「雰囲気」を弱めているようでした。

モノマネに喩えて言うと、細部にこだわって良く研究されているモノマネだけど、
でも、それ一本ではショーとして楽しめるような魅力はない…
そんな感じでしょうか。

このあたりの違いは、注意の向き方の特性に関係しますから
好みとしてはハッキリ分かれるところなのかもしれません。

絵画でも写実性を目指すか、印象を描くかで、好みが分かれるのですから
書道においても、どういう部分を重視するかは人それぞれでしょう。

ただ、その書道団体の好みは、明らかに「細かい」方向ではない。
もっと「全体的」な印象を重視しているように思えました。

その意味では、僕の作品は「細か過ぎて伝わらない」ものだったのでしょう。

そこではなくて、もっと他の要素で足りないところが沢山あるわけです。
全体としての印象をコントロールできるように。
これが今後の大きな課題でしょう。


今回で僕は、良いとされている作品に共通するサブモダリティの特徴と
自分の作品のサブモダリティの特徴を比較して、
自分のものには無くて、優れた作品にはある特徴を
サブモダリティのレベルで捉えることができたような気がしています。

あとは、その特徴を練習していく必要がありますが。

多分、そのためには、もっと大きな文字を書くのが良いとは思っていますが…。
なかなかそんなことはできないので、そこが困りものです。

代替案を探してみます。

2012独立展






















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繰り返しのお願いで恐縮ですが、アンケートへのご協力をお願いいたします。

「一年に何冊ぐらい本を買っていますか?」という内容です。
細かく計算しなくても、大体で結構です。

あと数人、お手伝いいただけると嬉しいです。
宜しくお願いします。

29日(日)までの予定です。

  アンケートはこちらから>>

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2012年01月24日

大学制度が変わる?

ちょっと前ですが、東大が秋入学の方針を進めているというニュースがありました。

これまで4月に入学だったものを、世界の主流に合わせて
秋から新年度をスタートしようということらしいです。

それによって、国際交流が盛んになって、留学もしやすくなるだろう、と。


僕にはメリットよりもデメリットのほうが遥かに多く思えます。

変えなければいけないことが多すぎます。
変えること自体は構わないでしょうが、それによって起こる悪影響が大きそうで。


仮に東大だけが秋入学だったら、東大に合格した高校生は
高校卒業後に半年ぐらい猶予期間があって、その間に好きなことができるでしょう。

一生懸命、受験勉強を続けてきた学生ですから
半年ぐらい休みがあっても良いのかもしれません。

裏を返せば、これまで休むことなく勉強ばかりしてきて東大に入った学生がいたら
その人たちにとっては未体験の時期を経験することになります。

もっと勉強したくなれば良いですが、ヤル気を失う可能性も否定しきれません。
予測不可能な半年が、後の学生生活に与える影響は未知数だと思います。

例えば、インターンのような形で社会生活を経験しておくとか、
ボランティアをやっておくとか、そういった体験の幅を広げる行為も良いでしょうが、
今まで知らなかったものを知ってしまったとき、後戻りはできません。

中には「自分のやりたかったのはコレだ!」と思い立ち、
東大で勉強することをやめてビジネスを始めたり、
海外に飛び出したりする人も出てくるかもしれません。

本人にとっては好きなことをするんですから、一向に構わないと思いますが、
国立の大学、それも日本の最高学府という位置づけの立場からすると
学生に対して期待していることもあるはずです。

少なくとも、これまでに東大が学生に求めてきていたこととは
大きく反する方向性じゃないかと思えます。

こうした試みによって、学生の可能性を広げたり、世界観を拡大するのは
それ自体は大事なことだと思うので、そういう方針の大学があっても良いでしょう。
ですが、それが東大に期待されていることなのか?という気がします。

例えば、秋田に国際教養大学というのがあって
そこでは全ての授業が英語で行われるそうですが、
こうした新しい試みは、新しいものとして立ち上げたほうが効果的かもしれません。

実際、国際教養大学の学生は、その歴史の浅さや入試の偏差値に関わらず、
学生が大学生活を通して身につけるものによって、
採用などのときには企業から高く評価されているそうです。

新しい試みがマッチするものと、そうでないものは
その元々の性質を意識したうえで考えていったほうが良いんじゃないでしょうか。


とはいえ、現実的には東大だけが時期をズラして、
東大生だけに半年のフリーな時間を与えるという趣旨ではないのでしょう。

実際は、東大だけが秋入学というわけにはいかないでしょうから、
他の大学も追随して、日本の大学制度の標準が秋入学になるだろう…
と見込まれているそうです。

つまり、東大生だけが半年の自由時間を持つわけではない。
全部の大学が秋入学になる。

すると、当然でしょうが、高校の卒業時期も変わるだろうと思われます。
高校も秋入学、秋卒業になるのか、
それとも、高校は春入学・秋卒業となって3年半の教育期間になるのか。

どこかの教育段階で半年間延長されるのかもしれませんし、
そもそも小学校から始まりが秋になるのかもしれません。

まぁ、全ての教育制度が秋から始まるほうが世界標準には近いんでしょう。

すると、もう、桜は新しいスタートの象徴ではなくなってしまいます。

あれだけ多くの音楽に描かれ、人々の心の内側に染み込んできた
桜と旅立ちのイメージの繋がり。

何のメリットがあるんだか知りませんが、
東大の一声で日本の文化が大きく変わるのは、いかがなものかと思います。

桜の美しさは変わりません。
それでも桜を見たときに心の中に蘇る思い出の美しさは無くなってしまいます。

桜が宴会のためだけのものにならないことを願うばかりです。

桜をバックに小学校の門で記念写真を撮り、
桜をバックに卒業式を迎える。
…そんな日本の季節感が失われていくのは、なんだか寂しい感じがします。


そして、日本の大学と欧米の大学のシステムで大きく違うのは
卒業のタイミングの数です。

日本の卒業は必ず3月(でした)。
欧米は、卒業に必要な単位を取り終わった学期で卒業です。

なので欧米の大学では春に卒業する人も、夏に卒業する人も、
冬に卒業するひともいるわけです。
各学期の終わりが大学の終了時期になるんです。

まぁ、卒業式が一般に設定されるのは年に一回らしいですから、
その時期に合わせて単位を取り終える習慣もあるようですが。

とはいっても、必ずしも決まった時期に大学を終えるわけではないんです。

それにともなって、ここが重要なんですが、就職の時期も色々ある。
大学を卒業したら、すぐに仕事が始まるんです。
職が決まっていた場合には。

どうやら大学卒業後も就職活動を続けるという人もいるみたいですが、
日本のように会社の始まりも4月に決まっている、というわけではない。

これが可能なのは、従業員の入れ替わりが頻繁な企業風土があるからだと考えられます。
特に「中途採用」とか「新卒」なんていう意識も大きくないんでしょう。

大学生にしてみたら、卒業と同時に仕事が始まるわけですから、
日本の大学生みたいに春休みを使って卒業旅行なんていうのは無い、と。
卒業したら休みを挟まずに仕事が始まる。

秋入学した欧米の学生が、丸四年で卒業単位を取得したら、
最後の春学期を修了した後に夏休みはやってこないわけです。

ですから、就職も秋からということにはならない。
しかも卒業時期が色々あるので、学生を卒業したら
色々なタイミングで就職に移っていくそうです。

ところが日本は、毎年4月に一斉に新入社員を入れる。
「中途採用」という言葉を用意して、「新卒」と区別をして。
実績や経験と能力を積んできた「中途採用」を即戦力として採るのではなく、
将来性を見込んで、未知数の「新卒」を採用していく風習があります。

それには企業文化として、企業が家族のような意味合いを持つことが関係するでしょう。
欧米式の労働力をベースとした職に対する契約関係ではなくて、
会社という共同体に対して所属する契約をするわけです。

だから日本の企業では、能力や技能に応じて職が選ばれるというよりも、
組織の中で色々な仕事に配置されていくようです。

組織に所属していて、職種に対して業務契約をしているのではないので、
色々な職種を転々としながら、企業の一員として働いていく、ということです。

この傾向は大きな企業ほど強くなるようですから、
当然「終身雇用・年功序列」なんていうシステムも生まれてくる。

会社に「就社」するのであって、職種に「就職」はしていない。
そういう風土の中だからこそ、大学生が一斉に就職活動をして、
皆一斉に、4月になったら「新卒」の「新入社員」が大量に生まれると考えられます。

つまり、大学側の都合としてだけでなく、会社側の都合としても
4月の新年度に合わせて、新入社員を入れる時期が好都合になっている、
という側面もあるはずなんです。

大学全部が秋入学になったら、企業の採用活動はどうなるんでしょうか。
就職のスタイルはどうなるんでしょうか?

大学は秋卒業で決定するんなら、「秋に新入社員を一斉に採用する」
という方法で対応できるのかもしれません。
年度の都合など、細かいことはあるかもしれませんが。

もしこれを、卒業のシステムまで欧米式に合わせていったとしたら
企業の採用のスタイルにまで大きな影響が出てくるはずです。

これまでの日本の伝統に合ったような、
「大学を卒業した人が一斉に、会社に所属する」タイプの就職では
対応しきれなくなってくるような気がします。

東大が入学時期を秋にするだけのことで、
学校教育システム全体から、日本の文化、会社組織にまで
幅広く影響が出ると思うんです。


メリットと言われている国際化の話に関しても、
僕はむしろデメリットに働くと思っています。

海外から日本に留学しにくる学生は、比較的、日本語を身につけていたり、
そうでなくても、ある程度の覚悟を持ってきたりするケースが多い印象を受けます。

一方、日本から海外に留学に行くケースでは、
「英語を身につける」ために留学するという人が非常に多い。

MBAを取りに行くとか、ロースクールに行くとか、博士課程で留学するとか
目的がハッキリしている場合は、留学前から英語力が求められますが、
大学の学部生として留学するようなケースでは事情が違うようです。

決して十分とは言えない英語力でも、海外で過ごしながら英語を訓練して
それで大学の授業にもついていくように努力していく人が多いんです。

英語力が基準に達していない人のための
大学の前段階のような教育システムもありますし、
大学直属の語学学校なんていうのもある。

ここで準備をすることで、通常の大学教育に移っていける。
そんなケースが留学の実情の中に含まれているそうです。

にも関わらず全ての大学が秋スタートになると、
海外の大学との時期の差がなくなってしまいます。

東大の話では、その時期の差が留学しやすくなる要因とのことらしいですが、
僕は完全に逆効果だろうと考えられます。

この半年のズレがあるから、この期間で留学した学生は準備ができているんです。

語学の集中的なトレーニングを行って、
習慣の違う教育システムでついていけるように慣れていって、
それから実際の学校教育に入っていく。

それをいきなり、ピッタリのタイミングから留学するとなると、
多くの日本人大学生にとっては現実的な負担を大きくしてしまうと思うんです。

世界標準に合わせることが国際化なのかどうかは僕には分かりませんが、
実際に留学しようとする学生にとっては厳しい変更じゃないでしょうか。


こうして考えると、メリットとされる国際化の効果も疑わしいですし、
日本の社会や制度、文化や人の心に与える影響も大きいでしょう。

もっと深い意図と狙いがあるのかもしれません。
そうであって欲しいとも思います。

ただ、もっと他に、先にやることがありそうな気もするんですけど…。


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お手数をおかけしますが、アンケートへのご協力をお願いいたします。

細かく計算しなくても、大体で結構です。
もう少し人数が増えてもらえると助かります。

ご負担にはして頂きたくないですので、
5分もかけずにお答えいただけたら嬉しいです。

  アンケートはこちらから>>

2012年01月22日

全開で進めると

以前にも書きましたが、今年は、それぞれの方に対して
最大限のトレーニングの効果を発揮できるように工夫しながら
勉強会を進めていこうと考えています。

もちろん、全ての回の、全ての内容がそうなるわけではないでしょうが、
カスタマイズしながらトレーニングをするスタイルは有効だと思いますので。

特に、トレーニング中に重視ていくことになるポイントは、
多くのコミュニケーションの場面で役立つものであることが多く、
技術的な解説をするとオーバーラップしやすい部分だと言えます。

色々な共通点、接点があるんです。

ペーシングも観察も質問も、相互に関係し合いながら進む。
そこの関係を理解するには、実際に体験したことに解説を加えるのが良い気がします。

だからこそ、角度を変えながらトレーニングを繰り返し、
内容を整理しながら体験を結びつけていくと、
重要なポイント同士が繋がって、自在に使いやすくなると期待されるんです。


1つ1つの技術としてバラバラに学ぶのでもなければ、
基礎の部分だけのトレーニングだけでもない。

効果を発揮するポイントを関連づけていくのが狙いの1つです。

どんな場面でも、状況に応じて望ましいコミュニケーションの形を考え出し、
それを実行できるようになれれば、困ることは少ないでしょう。

ですが、「こういうときには、こうするのが正しい」という状況別の対応を学ぶだけでは、
未知の状況に対して、望ましいやり方を設定することが難しい。

逆に、「色々な場面で使える、〜という技術があります」というスキルの紹介だけでは、
それを、いつ、どんな目的で使えば良いのかを判断するのが難しくなる。

望ましいと思うのは、他の誰かから「こういうときは、どうしたら良いんでしょうか?」と
質問されたときに、全く自分が体験したことのないケースでも
効果的だと思える方法を考え出し、その見本を示せるような状態です。

誰かから聞いたことを引用して、そのまま伝えるのではなくて、
自分の身になったものから生まれてくるメッセージを伝えられる。

そういうのを1つの指標として、重要なポイントを
繋げ合わせていくためのトレーニングをやりたいんです。


ここで、個別の技術を身につけている人にとっては、
それを、どのよう使いこなしていくか、が重要なポイントになるはずです。

だからこそ、ある程度、実践的な練習をしながら
状況に応じて、どうやって技術を使い分けていくかをトレーニングしたい。

そうしてトレーニングをしようとすると、一回の実習の中で
重要な技術が複数使用されることになります。

その中で、各技術を関連付けられたら、使い分けも自在になると想像しているわけです。

とはいえ、勉強会にご参加の皆さんが全員、同じトレーニングを経験しているわけでもなく、
同じ技術を持っているわけでも、同じ特性を持っているわけでもありません。

だからこそ、1人1人に合ったトレーニングの仕方が必要になる。
カスタマイズでやりたいのは、ここに対応するためです。


で、実際に先日、その形式での勉強会を開催しました。
勉強会という呼び名が良いかどうかも微妙ですが、
セミナーやワークショップとも違う気がします。

やってみて自分で気づいたのは、疲労の度合いが高いこと。
今までの勉強会にはなかった消耗を感じました。

情報を拾っている量も、頭の中でやっている作業も
たぶん、大きく増えているんだろうと想像しています。

自分の印象としては、もっと効率的に、かつ効果的にする余地が沢山ある、という感じ。

それには数を重ねる必要がある気もします。

実験的な試みとしてやってみましたが、
やっている側としては楽しいトレーニングですので
工夫をしながら進めていこうと考えているところです。

もちろん、ご参加の方にとって役立つことが最優先ですから
ご意見なども聞きながら検討できたら何よりです。


次回は、少し、言葉の細かい使い方に注目してみようかと思っています。

2月19日(日)の夜の予定です。
ご都合が合えば、お越しください。

2012年01月19日

アンケートにご協力ください

心理学の授業で宿題が出ました。
実験の流れを把握しましょう、ぐらいの簡単なものです。

ですが一応、アンケートを取る必要があります。

なので、お手数ですが、ご協力をお願いいたします。
匿名ですので、個人情報は必要としていません。


人数が多いとデータとしてカッコイイのと、
相応の結果が得られましたら、ブログで概要だけですが報告します。

★詳しいレポートをご希望される場合は、アンケートフォームの下のほうの欄
 「結果報告をご希望ですか?」
とあるところで、必要をお選びいただき、
 「メールアドレス」をご記入ください。

後日お送りします。


調べる内容は、気軽な感じで、皆さんが購入している本の数としました。

色々な分野の本がありますが、コミュニケーションに関する本と考えてください。
一応、このブログも勉強会も、心理とかコミュニケーションを中心にしているつもりですから。

ご自身の判断で、「コミュニケーションが絡む」と思った内容の本はカウントしてください。
ビジネス分野など曖昧に思うものもあるかもしれませんが、
「人間関係と関わるかどうか」の基準で判断して頂いても良い気もします。

ご自身の中での基準と照らし合わせて、
「コミュニケーションと関係する内容」の本を購入した数をカウントしてください。
大雑把で結構です。

(僕の場合、英語関係は含めますが、数学や分子生物学の本は含めないと思います。)

あんまり詳しく言うとデータに先入観が入りそうですから抑えますが、
人によっては段々と買う量が増えていったり、減っていったり、一定だったり、
色々とあるだろうと思います。

なので、
 『一年間に購入した本の冊数』
をフォームにご記入ください。

「一か月に1冊ぐらいは買っているかなぁ…。じゃあ、大体10冊ぐらいか」
というのであれば、『約10冊』として、『10』と、ご記入いただくことになります。


おそらく、このアンケートを見ている方の大半は
コミュニケーションや心理について学んだり、興味のある方だと思います。

すると、キッカケがあったと思うんです。
「この年からコミュニケーションや心理を学び始めた」と、
ご自身でターニングポイントのように感じる時点が。

その年を、『1年目』と設定してください。

その次の年は『2年目』、そのまた次の年は『3年目』…と増えていきます。

★フォームの設定上、『2年目』までしか項目がありませんから、
『3年目』以降がある方は、お手数ですが、
 「3年目以降に買った本の数(例: 3年目:約10冊、4年目:約10冊…)」
の欄に追加をお願いします。

そして、そのキッカケの年よりも前は、おおよその平均で数えてください。
(「学ぶ前に買っていた本の数・年平均(例:平均10冊)」)



つまり、もうお気づきかもしれませんが、
「コミュニケーションや心理を学ぶ前と、学び始めてからで
 本を購入する数が、どう変わっているか?」
ということです。

ウソで書いて頂いても、こちらでは気づくことはできませんが、
大体のデータで良いですので、大雑把にご記入いただけたら嬉しいです。

なお、「読んだ本」の数ではなくて、「買った本」の数です。
「買ったけど読んでいない」本も数えてください。

図書館で借りたのは…「買ってない」に分類しましょうか。

なので、買った本の数を年間で数える、という作業です。
もちろん、実際に本を1冊、2冊と数える必要はありません。
「1か月で大体、こんなもんか…。じゃあ、一年なら…」ぐらいで良いです。


期日は25日ぐらいをイメージしていますが、
沢山集まったら、早めにフォームを閉じる可能性もあります。

何も気の利いたお礼ができないのが残念ですが、
ボランティアとしてご協力いただけましたら幸いです。

よろしければ、お知り合いの方にもアンケートのことをお伝えください。

よろしくお願いします。


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2012年01月17日

教われる喜び

最近、なぜか少し前のことを思い出します。
数年前ぐらいが多い。

意識的に振り返っているわけではないんですが、
何かの会話のキッカケや、ふと出歩いて見かけた景色から
「あの頃は、こんなだったなぁ」と。


僕が、まだ会社で研究職をしていた頃、
職場でコミュニケーションに関して痛い思いをしたことがありました。

それがキッカケで、色々と勉強を始めたんです。

そして、たまたま一番早く開催スケジュールが設定されていた講座で
NLPをやることにしました。

当時は、まだNLPで検索しても、いくつかの団体しか見つからなかったものです。

申し込んだ団体のホームページには「第三期」という文字。
それなりに実績もありそうだし…と自分を納得させたのを覚えています。

まぁ、それには複雑な事情があって、
僕が、ほぼ、その団体の一期生だったわけなんですが。

今思えば、しっかりと定まっていない雰囲気は多々見受けられましたし、
配られる資料がコピーの熱でホカホカしていたようなこともありました。

思考錯誤的な部分があったからこそ、柔軟に色々と試せて、
「正しいことなんて存在しない」、「色々なことがあって良い」というメッセージを
あらゆる体験を通じて感じられていたのが楽しかったものです。

背景には笑ってしまうような事情があったこともあったみたいですが、
それでもトレーナーのスタンスが柔軟性そのものを示していると感じていました。

受講生一人ひとり、それぞれを尊重する。
そんな姿勢が根底にあったのは間違いないと思います。

結果的に、そのトレーナーが実際のトレーニングをしていくことは
時間経過とともに、その団体の中で減ってしまったのですが、
僕はその人のやり方が、実は、かなり好きでした。

僕には、今やもう、そのトレーナーから学ぶことは出来ないだろう…という講師が、
どういうわけか結構な人数いるんです。

それが懐かしくもあり、寂しくもあるわけなんですが。


また、僕がNLPの受講生だった頃、その団体にとって一期に近い受講生だったこと、
さらには人数も少なかったこと、同期に地方から来ている人が多かったこと、
そういうのが重なって、毎回のように懇親会へ行っていました。

そんな中、そこのトレーナーの一人と懇親会の席で近くに座った日のことです。

おそらく、当時その人が勉強して、ハマっていた内容だったんだと思いますが、
何やら少し精神論的な、「この世の真理」について話し始めたことがありました。

知りたかったら教えてくれる、と。
もしくは、どこに行ったら学べるか教えてくれる、と。

当時の僕は、人の心やコミュニケーションを学ぶことに対して、
今とは違う意味で貪欲だったものでした。

知れるものは何でも知りたい!
役に立つかどうかは二の次で、興味があったら全部やりたい。
そんな状態でした。

にも関わらず、その提案だけは断ったんです。

好奇心として聞いてみたい気持ちはありましたが、
かなりハッキリと断ったのを覚えています。

「結構です。まだ知りたくありません。自分で分かるときが来ると思いますから」
そんな感じで言いました。

本当に大事なことだったら、自分で理解しなければ意味がない、と
瞬間的に感じていたんだと思います。

もっと気を使って優しく断ってあげても良かったんですけど。
当時の僕には、そんな細やかな技術もありませんでしたし、
何より、「余計なことをするな」と、少し不満を感じていたのもあったでしょう。

今にして振り返って、我ながら大事なことを感じていたと思います。

…もしかすると、仮に聞いていたとしても鼻で笑って忘れていたかもしれませんが。

ですが、やはり自分にとって大事なことには、自分で気づくのが大切。
色々と振り返って、そう感じることが沢山あります。


その点、僕が参加していた別のワークショップでは
そのワークショップの先生は、僕が質問したときに
意図的に答えを言ってくれませんでしたから、
先を見越して配慮をしてくれたんだろうと感じます。

聞いてもいないのに大事なことを教えようとする人もいれば、
聞いたのに大事なことだからこそ教えないようにする人もいる。

そんな自分の経験を比べるように思いだして
感慨深く浸っていたりします。

2012年01月16日

久しぶりの痛み

久しぶりに一生懸命に走りました。

しばらく気管支が痛くて、ゼーゼーいう感じ。
こんなにも一気に心肺機能に負担をかけたのは、どれくらいぶりでしょう。

いつ頃からか痛みを感じやすくなっていた右ヒザにも、
走った衝撃のせいでしょうか、痛みが残っています。


その日は出かける用事があったので、辺りが暗くなってきたころに出発しました。

余裕を持って現地に到着していたかったので
調べた電車の時間に合わせて出発する予定だったんです。

ところが、出かける直前にプリンターの調子が悪くて、色々と手を打っていたら、
予定していた電車の時間に駅に着くには、ギリギリになってしまいました。

なので、ちょっと慌てて外に出たわけです。

とはいっても早めに歩けば間に合うだろう、という見込み。

そのまま駅の近くまでやってきました。
外は日が暮れかけていました。

で、駅が近づいてきたところで、足元の違和感の正体に気づきました。

照明に照らされて、やっと分かりました。

「左右の靴が違う!」

やってしまいました…。


玄関先に2足靴を出していたのと、慌てていたのとで
そんなことになってしまったみたいです。

足元に違和感があるのを、薄々感じてはいたんです。

とはいえ、革靴とスニーカーで間違えているわけではないので
物凄く劇的な違いがあったほどではありません。

どちらも履き慣れていたことも、違和感を減らしていたんでしょう。

何より、意識の大部分が「予定時間に駅へ到着すること」に向いていて
とにかく早く歩こうとしていたんだと思います。

駅に間にあって少し気が緩んだ瞬間に
今までの違和感に注意が向いたんだろうと思い出されます。

催眠術で「注意を一点に向けさせて、その間に暗示を入れる」
という方法がありますが、こういうことかと痛感します。


言い訳ですが、僕の住まいは玄関先に外の光が入らない構造なんです。
なので電気をつける必要がある。

特に日が暮れてくると真っ暗に近くなりますが、
外出するなら、やはり電気は消してから。

暗がりで靴を履いてはいるんです。

まぁ、それでも何度もそんなことがあったわけではないので
その日は普段と違う状態で、外出を迎えようとしていたんでしょう。


それにしても、こういう失敗に気づいたときは
瞬間的に色々と判断するものですね。

そのまま強行、という可能性も考えました。
外は暗いし、予定の場所でもテーブルで足は隠れる。
電車で我慢をすれば良いだけ…。

でも、すぐに却下されました。
羞恥心と礼儀が上回ります。

また、途中で靴を買ってしまう、というアイデアも出ましたが、
道すがらで靴屋があった記憶もなく、時間を考えると厳しい。

唯一、ギリギリ予定に間にあって、かつ羞恥心を最小限に抑えるのが
そこから走って戻り、靴を履き替えてくる、ということでした。

走りながら携帯で乗換案内を見て、出発時間を調べ
体力と、許される時間と、その後に回復するまでの時間と…
色々なことを予想しながら走ったんです。

冬の冷たい空気の中で、ジョギングとは違った走り方をすると
こんなにも気道が苦しくなったものか、と少し懐かしくもなったり。


自分の体力の低下にもガッカリでしたし、
おっちょこちょいな失敗にもガッカリでしたし。

なんともお恥ずかしい話です。

結局、予定には間にあいましたし、
何食わぬ顔を出来るぐらいまで回復もできました。

こっそり、膝と気管支の痛みを感じながら。

なんだか、出発の段階から一日分以上に疲れてしまった気分でした。

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2012年01月15日

スローモーション

今の住まいは、壁が薄いのか、窓が大きいからか、
なぜか外の音を良く拾います。

おそらく反響しているんでしょう。
完全にクッキリと聞こえるんです。
部屋の中で音声が鳴っているぐらいにハッキリです。

なので、目の前の道で立ち話をされたり、電話をされたりすると
その会話の内容を一字一句もらさず聞きとれてしまいます。

せめて車通りが多かったり、電車が近くを通ったりすれば
雑音の中で聞こえる声になりますし、
街中のように多くの人が話していれば
それも雑踏の中の声として聞き取りにくくなるでしょう。

ですが、外も内も、基本的に音は少ない。
いわゆる「静かな」住宅街の感じがあります。

だからこそ、静かな中でハッキリと会話が聞こえると
その話を無理やり聞かされているような気分になってくるわけです。

他のことをしているときに会話を聞かされる。
それも耳元で大音量の感じ。
このことが僕にはストレスフルなんです。


で、それ以上に耐えられないのが
車でスピーカーから宣伝を流しながら走っている業者。

特に頻繁にやってきて、かつメッセージが不愉快な廃品回収業者は
不快感のアンカーが出来上がってしまっているぐらいです。

セミナー中に、たまたま会場近くを同じ業者の回収車が通ると
話をしている最中でも自分の中に苛立ちが上がってくるのが分かります。

セミナー会場ぐらいだと、僕の住まいとは比べられないほど
遠くから鳴っているように聞こえますから、
現実的に邪魔されている量は小さいはずです。

なのに瞬間的に苛立ちが出てくるということは、
まぁ、普段の繰り返しで作られたアンカーなんだろうと想像できます。


その業者が特に不愉快な理由の1つは頻度。
一日に同じルートを三回ぐらい、毎日通ります。

そんなに廃品は出ないでしょうに…。

当然、焼き芋の移動販売車と同様に、ゆっくりと走りますから、
スピーカーの音が聞こえ始めてから、聞こえなくなる距離に行くまでに
最低でも数分はかかるんです。

わりと遠い段階から聞こえてしまうぐらい、音を良く拾う部屋なんでしょう。
同時に、その業者の音量はデカイ。

一度、歩いているときに横を通ったことがありますが
違法なぐらいじゃないかと思う音量でした。

まず、この大音量を長時間にわたって、高頻度に聞かされるのがツライ。

しかし、もしこれが電車や高速道路の騒音だったら
多分、僕の場合、もっと不満は少ないと思います。

実際、以前に住んでいたところの前は大通りで
車通りが多くて、ひっきりなしに音が聞こえていましたが
そういうのは気にならないみたいです。

雑音としてバックグラウンドの扱いで処理できるんだと思います。

うるさい環境でも会話であれば相手の話が聞きとれるのに、
それを録音してしまうと全く聞けなくなってしまう。
そのように雑音は背景として無視しながら、特定の音に集中できるのと一緒でしょう。

一方、言葉になると、そうはいきません。
耳に入った言葉は、僕の頭の中で理解のプロセスにかけられます。

確実に、その言葉の内容を追いかけるようにリピートして
他に頭の中で聞こえていた思考の内容が聞こえなくなります。

考えが遮断されてしまうんです。
遮断されて、聞こえてくる言葉の内容に、頭の中が占拠される感じ。

何度もやってくる業者のスピーカーのメッセージは覚えているぐらいなので
知っている無駄な情報で頭の中を占拠されるのが不満なんだと思います。


ところが、業者の種類によっては、あまり不満を感じないのもあります。

大きな違いは、録音されたメッセージ。

内容ではなくて、話し方だと思います。

僕が不満を感じる傾向のあるのは、気持ちが入っていないヤツ。
棒読みでやられるのが嫌なんです。

音声を吹き込んだ人、つまり話し手側にとって
全く気持ちの乗らない、どうでも良い情報を読まされている感じを受けます。
自分が口に出している内容なんて、どうでも良い…、そんな印象。

聞いてほしいと思っているわけでもなければ
自分が楽しくてやっているわけでもない。

「だったら、言わなくたって良いじゃないか」という気分のように思います。

あまり不満を感じないほうの業者は、読んでいる人が上手いんです。
「上手い」というか、「素直」というか、もっと自然な会話に聞こえる。

なので、廃品回収の案内文ではあっても、
その内容を伝えようという気持ちが込められている印象を受けるんです。

こちらに対して話しかけてきているように聞こえる分、
聞こえてきている僕としても、そっちに気持ちを向け返すような気分なんでしょう。

気持ちの入っていないのが嫌なところは大きい気がします。

せめて、お経ぐらい安定したイントネーションだったら違うんですが、
気持ちが入っていないのに、不自然に音の抑揚だけあるのも不満。

イメージで言うと、小学校の卒業式に皆で声を合わせて言うような感じ。
「皆でカレーを食べた、はんごうすいさん。…はんごうすいさん!!」
「楽しかった修学旅行。…修学旅行!!」

もしくは、小学校の運動会で、慣れない子供がアナウンスをやるような。
「次は、6年生の組体操です。力を合わせた演技をごらんください」

日常会話では絶対にあり得ない、不自然に強調された抑揚。
小学生なら一生懸命やっている雰囲気が伝わって好感もありますが、
業者の録音は、一切の気持ちが乗っていないのに抑揚だけ強いんです。

もう、その辺の非言語的なミスマッチ感が
僕の注意だけを、ひたすら引っ張っていくようです。

非言語と内容が一致していること。
自然で聞きやすい言い方であること。
このあたりは、コミュニケーションで重要なんだろうと改めて感じます。


もう一点が、スピード。

聞きやすくしているつもりなのかどうか分かりませんが、
録音している音声は、これも不自然に遅いんです。

日常よりも2倍から3倍ぐらい遅い印象を受けます。

僕が作業をしているときは、頭の中で沢山の声が行き交いますから、
かなり早口で情報が流れている感じがあるんです。

そういう状態のときに、極端に遅い言葉が聞こえてくると、
その遅いスピードの言葉の流れに、一時的に頭の中が占拠される。

遅いのは読む速度もそうですが、間の取り方も遅いので音の空白があります。

「こちらは……廃品回収車です……ご家庭内で……ご不要になりました……」
と文節ごとに1,2秒の間がある。

この余計な空白の時間が「絶妙」に不快なんです。

一時的にスローな音に占拠された頭の中が、間の部分で解放されますから、
その空白の時間が続くと、僕の頭の中で早口な情報処理が再開されるんです。

空白の時間が終わる直前ぐらいのタイミングです。

なので、一瞬考えが再開した頃合いを狙って
見事にまた、遅くて不自然な言葉が頭の中を占拠する。

邪魔された→戻った瞬間に邪魔された→戻った瞬間に邪魔された→…
と、僕の中には気持ち悪いスピード変化が繰り返されるわけです。

分かる人にしか伝わらない喩えだと思いますが、
 『ウーマンラッシュアワー』のコント「バイトリーダー」と
 『スリムクラブ』の漫才が、繰り返し急に切り替わる
みたいな感じです。

多分、もっと普通の間の取り方、普通の話すスピードであれば
不快感も相当なレベルで減ると思います。

もしくはテープの再生速度を3倍ぐらいにするか。
それだったら、僕の頭の中のスピードが急にブレーキをかけられる不快感は
かなり改善されるような気がします。

まぁ、いずれにしても、僕には対処の方法がありませんが。


コミュニケーションとして不自然で、意味を伴わない音だけの表面的な言葉。
思考速度よりも数倍遅いテンポで流れる音としての言葉。

この組み合わせが僕には合わないみたいです。

真剣に仕事の打ち合わせをしている隣の席で
『戦場カメラマン・渡部陽一氏』のモノマネの練習をしている人がいる感じ
「みなさん……こんにちは……。渡辺……陽一……です。」
「みなさん……こんにちは……。渡辺……陽一……です。」
「みなさん……こんにちは……。渡辺……」

気になって考えられません。

2012年01月12日

テレビの影響

なんだか最近やることが多い割りに、クリエイティブな刺激が少ない感じです。
テレビをつけている時間も減ってきた気がします。

そんな中で、たまにテレビをつけると、新年のこの時期だからかと思いますが、
新しく始まる番組の宣伝なんかが放送されていたりします。

かといって、それも全部を見るわけでもないので断片的な情報になる。

断片的だからこそ余計に気になってしまった気がするのが
これから放送される予定だという「13歳のハローワーク」です。

数年前に、原作が有名になったのを覚えていますが、
僕は読まなかったので、詳しい内容は知りません。
情報からすると、色々な職業を分かりやすく紹介しているんだとか。

一方、ドラマで始まる「13歳のハローワーク」は
 主人公の警察官が22年前、バブルの時代にタイムスリップをして
 当時、中学生だった自分と出会い、未来を変えるために再教育する
といたストーリーだとか。

短編の番組紹介を何度か小耳にはさんだ程度ですが、
インパクトのある設定に、自然と覚えてしまいました。


しっかりとドラマを一通り見れば、
詳しい物語の世界に入り込むように見れるでしょうから、
ふと客観的になって「もし自分だったら…」などと
考えることは減るかもしれません。

しかし、番組宣伝で断片的にだけ紹介されると、むしろ
その設定だけが飛びぬけて記憶に残り、
そのストーリー設定について自然と考えてしまいやすいと思います。

少なくとも、僕は考えてしまいました。
「もし自分が今、中学校の自分に会うことになったら…」と。

そういう設定自体は、決して斬新なものではないでしょう。

だからこそ、
 なぜ、この時期に?
という疑問が生まれます。

昨年は大震災があって、原発のこともあって
大変な思いをした人たちも多かったはずです。

それに対する政府の対応や、今後のエネルギー問題、
他にも年金だ、TPPだ、不況だ、就職難だ…と様々な将来への不安が
世の中に蔓延しているんじゃないでしょうか。
(社会問題が沢山出てこない自分もどうかと思いましたが…)

知り合いに聞いた話ですが、「2012年でマヤ歴が終わる」ということに関して
マヤの子孫の人たちに「世界は滅亡するんですか!?」と聞くのは
日本人だけだということでした。

(その人も長老と話をしたときに、「お前は、あれを聞かんのか?」と言われたとか。
 そのぐらい悲観的に将来を捉える人もいるようです。)

仮に、そんな風に将来への不安を抱える人が多いとしたら、
その人たちが「13歳のハローワーク」の番組宣伝を見て
「自分も中学生のころに戻って、自分にアドバイスできたらなぁ…」なんて思ったら、
それなりに影響力のある発想をもってしまう可能性があると考えられます。

逆に、そういう潜在的な願望があると見越して、
そんな番組を作ったのでしょうか?

そのあたりがチョット気になります。

まして、設定はバブルの時代です。

今の学生は「就職難だ」と周りから言われても、それしか知らないために
良かった頃と比較をして苦しむことはないはずです。
大変なのは事実だとしても、そんなものとして受け止めているでしょう。

一方、バブル時代を謳歌した人は違います。
それを知っているんです。

そこに映像的にバブル時代を再現する。
「あの頃は良かったなぁ」と思わせたいのでしょうか?

必要以上に将来への不安を感じるのも困るかもしれませんが、
あまりにも現在から目をそむけさせているような印象を持ってしまいました。

純粋に娯楽として楽しめれば良いんですが。


ちなみに、僕は将来への不安というのは小さいほうだと思いますが、
「今の自分が、中学生だった頃の自分に会いに行ったら…」
というのは、考えさせられるものがありました。

といっても、色々と考えるまでもなく、すぐに結論が出るんですが。
 余計なことはしないな、と。

今の自分が知っている大事なことを中学生の自分に教えたら
知らないほうが楽なことも同時に気づかせてしまうでしょうから。

わざわざ、そんな時間を長くする必要はない。

「色々と苦しい思いをする時もあるけど、それも後からすると大事だから」
なんて言ってあげたとして、それで苦しみが楽になっても逆に困るかもしれない。

まぁ、僕は頑固なので、そんなこと言われたところで考えを変えないでしょうけど。

だからといって「もっと苦しめ」というのも変ですし。

別に良いんじゃない?ということで、何も言わないのが結論になりました。
話をしても、せいぜい「そう、良かったね」ぐらいしか言わないでしょうね。

そう考えると、今から22年後の自分が、今の自分に会いに来ても
きっと「今は、そういう時期だったよね。良かったね」としか言わないんでしょう。

自分に対してなのにドライだなぁと思ったら、少し寂しいですね。


ただ、今の自分が中学生のころに戻ったら、
そこにいる間は、当時飼っていた犬と心ゆくまで遊ぶと思います。

後悔はないですけど、お礼の意味も込めて。

cozyharada at 23:16|PermalinkComments(1)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2012年01月10日

頑固で少し困っています

久しぶりに大学の授業を受けてきました。

心理学の導入の授業。
その先の専門的な内容を受けるには、必須の科目だったので
今期は、まずこれを修了する必要があるとのことです。

90分の授業でしたが、かなり短く感じました。
内容が面白かったわけではありません。

もしかすると英語だから集中して聞いていたのかもしれませんが、
自覚としては、それほどでもない感じ。

教員が日本人なので、英語もチョット分かりにくく感じます。
ですが、本当に英語力のある人は、どんな英語であっても分かるらしいので
「なんかチョット…」という感じさえも、僕の英語力不足を示しているのでしょう。

まぁ、日本語であれば、
おかしな日本語で話されても言いたいことは分かるでしょうし、
よほどでない限り、方言が混ざっていても分かるでしょうから。
聞きにくさや理解しにくさを感じるとしたら、自分の能力を反映しているんだ、と。

で、授業に関していうと、講義の内容も、講義の進め方も、
決して面白いものとは言えませんでした。

にもかかわらず、授業が短く感じられた。

おそらく、僕が大学生だった頃よりも、話を聞くことに慣れたんだと思います。

あるいは、年を重ねるにつれて、時間を短く感じるようになるのか…。
うちのお婆ちゃんが生きていたころは
 「あら、また『サザエさん』。もう一週間経つのね。早いわねぇー」
と毎週言っていたものです。

そう考えると、時間の感じ方自体にも違いが出ている可能性はありますが、
社会人になってからの勉強のほうが、真剣になったのは自信がありますから
まぁ、勉強の仕方も変わってきたんじゃないかと想像しています。


それにしても、授業の内容は予想と遥かに違っていました。

正確に言うと、内容自体は予想の範囲ですが、
その予想通り入門的な心理学の授業を、受けるときの自分の気分が
予想を遥かに上回って、残念な気分だったんです。

英語で受ければ心理学でも謙虚に楽しめるかと思ったんですが…。
自分を甘く見ていたようです。

イライラすることはありませんが、なんというか、
何かを学んでいる感じというのは非常に薄い。

特に、初回は概要の意味合いが強いでしょうから、
今後、個々の内容に深入りしていくと違ってくるかもしれません。

少なくとも、来期からの専門科目であれば、
楽しく勉強できるんじゃないかと期待しているところです。


授業中、色々と気を遣っている自分に気づきます。

他の生徒の知識量とか、教員の専門性とか、教員の性格的な特性とか、
授業全体の予定とか、授業時間の延長を嫌がる学生の様子とか…。

何を、どのタイミングで、どのような言い方で質問するか、
ということを常に頭の中で巡らせながら授業を受けていました。

「これは言わないほうが良いか…」ということが多くて、
思い浮かんでは抑える、思い浮かんでは抑える…を繰り返していた感じです。

僕が過去、多くを学ばせてもらった先生は、皆さん
どんな質問にも対応できる幅の広さがありましたし、
受講生一人一人に合わせて提供する情報を変えていましたし、
説明の仕方を工夫することで授業時間全体の時間も調整していました。
そして、場合によっては時間を延長しても内容を深めようという姿勢もあった。

そんな先生は、なかなか大学にはいないのかもしれません。

何より、僕の観察が、「踏み込むと危険」な雰囲気を察知しているので、
僕が積極的に学びたい気持ちよりも、一個人とのコミュニケーションとして
相手を気遣っておいたほうが安全という判断が上回ってしまいました。

それは苛立ちや不満というよりも、寂しさに近い気分です。

僕が書道を楽しめるのは、素直に学びを吸収できるからのような気がします。

大学生気分を味わうのが目的でもないので、
英語のトレーニングの場として心構えを工夫したほうが良さそうです。

おしらせ
 アンケートのお願い 
    お手数ですが是非
    ご協力をお願いします。

こちらにご協力ください>>


  ◆ 次回の勉強会   
近日中にご案内します

【日時】 2月19日(日)
     18:30〜21:30


【場所】 北とぴあ
      近日発表

     JR王子駅より2分
     南北線王子駅直結

【テーマ】 近日発表

詳細はこちら>>
次回は2月19日(日)夜の予定



<実践の場のご案内>

調整中です

【日時】 未定

【場所】 未定

詳細は後日

日程調整中です。


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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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