2017年11月17日

久しぶりに催眠

催眠のトレーニングの機会が久しぶりにありました。

僕自身はそれほど催眠を積極的につかう機会はありませんが、
過去には集中的に学んだこともある分野です。

催眠の効果への理解が深まるにつれ
催眠でなければならないところが減ってきた分
使う頻度が下がったようにも思われますが、
一方でその効果を上手く活用すると
より効果的にできるものも多いようには思います。

今回のトレーニングで、そういう補助的な活躍の仕方も
工夫しても良いのかもしれないと感じました。


しかし、それ以上に僕が今回発見した大きなポイントは
自分が思いの外、英語で催眠ができそうだ 、ということ。

外国からの参加者がいた関係で、
僕も英語で催眠セッションをする機会があったんです。

催眠の型式だと普段よりゆっくり話せること、
考え過ぎずに自然な流れで口から言葉を出すこと、
内容の論理性が重要ではないこと、
ボキャブラリーとしても馴染みのある分野だということ、
…そのあたりの影響でスムーズな感じを体験できたんでしょう。


全体構成としても、与えられた課題としても
クライアントの個性への合わせ方としても
日本語でやるのと大きな違いがなかったのではないかと思われます。

裏を返すと、日本語で催眠をやるときも
言葉そのものよりも重要な要素が多い
という話でもあるのかもしれませんが。

あとはペーシングによる同調でしょうね。

相手が英語話者だからこそスムーズにできた、と。

そこは自分の力ではなさそうなので、
一人だけでやるのとは事情が違いそうです。

とはいえ、ネイティブ相手だったら
それなりにやれそうな気もしたのはチョットした発見でした。


cozyharada at 23:07|Permalinkclip!NLP | 心理学

2017年11月14日

おもてなしの言葉

外国人講師の接待で和食に行く機会がありました。

料亭と呼ぶほどのものかは分かりませんが
外国人向けに設定されているフシは多々見受けられました。

部屋の内装は、ただ和室というだけでなく
茶室としても使えそうな作りになっていて、
床の間には掛け軸なんかもあったりしました。

トイレの草履を含めて、全体的に日本文化を強調した感じ。
それでも和室の中央は掘りごたつのようになっていて
座椅子と合わせ、外国人の人が和室を楽しめるような
工夫を色々と重ねていたんだろうと思います。

実際、外国人のお客さんを連れてきている人が多い様子で
少し強調された日本の伝統が見せ場なのかもしれません。


当然、接客担当の人(仲居さん?)も和服です。

しかしながら今どきの若い日本人女性を教育するのは大変なんでしょう。
畳の部屋そのものに慣れていない人も多いと思われますし
家族旅行で旅館に行ったことだってない人もいる可能性さえありそうです。

若い仲居さんたちの所作が期待に追いついていないだけでなく、
仲居頭の人がやってもらいたいクオリティのサービスは
十分に得られていないようでした。

教育上のお叱りの声なんかもあったりしましたし。

それでも、10年も勤めてくると仕事の安定感は増すみたいです。
なかには自信と安定感を携えた人もいました。


また、外国人のお客さんが多いということで
英語の教育も多少はしているように見えました。

その中に一人、かなり流暢に英語を使える仲居さんがいたんです。
前述の10年勤務の人。
英語が話せることも自信の一因かもしれません。

実感したのは、サービス業における言葉というのは
 「業務として何をするか」以上にトレーニングしにくいのだろう
ということです。

ときどき妙な言い回しが聞こえてきてしまいました。

例えば
「当店の料理長はフランス料理あがりなもので…」
とか。

「あがり」は、あまりフォーマルでない気がしますが
そんなことはないんでしょうか?

僕は、あまりポジティブなニュアンスで使われない印象を持っています。
(僕の理解が届いていないかもしれませんけれど)

また英語についても流暢ではあるものの
フォーマルさが一切出ていない種類のものでした。

アメリカの接客業ならフレンドリーで済むところでしょうけれど
和風の「おもてなし」をしている様子とはミスマッチです。

声のトーンにしてもアメリカの女子高生ぐらいの雰囲気。

発音は奇麗だったんです。
だからこそ余計にネイティブからすると
相応の年代を思い起こさせてしまいそうな気がします。

きっと高校生のときにホームステイや留学をしていたとか
大学の時に交換留学で行ったとか、そんな感じじゃないかと思われます。

小学校や中学校ぐらいの時期の帰国子女の可能性もありそうです。

しかし確実性が高いのは、海外で生まれ育ったわけではないこと、
そしてある程度若い時期だけで日本に帰ってきていること、でしょう。

ネイティブ感覚があるわけではなく、また
大人の英語に接していない可能性も高そうです。

そうなると流暢だけれどもフォーマルさが一切ない子供っぽい雰囲気が
接客としてしていることと不一致感を生み出します。

ちょうど日本語でも、丁寧な言葉遣いができているのに、
その中に「フランス料理あがり」という言葉があると
異質に感じられるようなもの。

むしろ、おぼつかない日本人英語だけれど
一生懸命に話そうとしている方が好印象を与えられるかもしれません。

話の内容そのものではなく、言葉の選び方とか
声のトーンとかにも、メッセージ性が出てしまうんだろうと思われます。

自分でも気をつけたいものです。

2017年11月10日

スピーキングのトレーニング

外国語をやっていて、おそらく一番もどかしいのは
言いたいことが言葉にできない瞬間ではないでしょうか?

文章を読んでいて構造がややこしいのは
頑張って時間をかけて解読すれば、まだ対処できそうです。
何より、自分一人で読んでいるわけですから時間がタップリあります。

単語を知らなければ、それはもう調べるしかないですし、
逆にいえば知らないだけなので、気持ちを引きずらず、潔く次に進めます。

外国語である以上、聴き取りは常に大変なものだと思いますが、
こちらは聞けなかったときに意外と諦めがついてしまいがちです。
「あぁ、無理だ。分からない。」と。

聴くのは『必要性』があるから聴き取ろうとするのであって
「聞きたい」という自発的な『欲求』があるわけではありません。

その点、言いたいことが上手く言葉に言い表せない状況は
「言いたい」考えが頭に浮かんではいて、
「伝えたい」気持ちが起こっているときです。

話すときには「言いたい」欲求がある、と。

会話の流れの中だと尚更でしょう。
付け加えたい考えが浮かんだり、質問に答えようとしたり。
まず、言いたいことが浮かんでくる。

にもかかわらず、それを的確な言葉に変換できない。
…そういう”もどかしさ”です。


実体としては母国語でも同じようなことは起きていて、
ややこしい文章は理解が大変なものですし、
意味の分からない単語は調べるしかないですし、
滑舌によっては母国語でも聞き取れないこともあります。

母国語の会話でも、聴くのは多くの場合、必要性からであって
話すほうには、浮かんだ考えを口に出したい欲求が伴います。

そして母国語でも考えを的確に言葉に変換できなくて
「うーん、なんていったら良いか…。えーっと…。」
なんていうことはあるものです。

これもやはり、もどかしくはあると思われます。
とりわけ会話のテンポが速いときや、
質問されて「答えないといけない」プレッシャーを感じるときは
上手く言えない”もどかしさ”は大きくなるでしょう。

ただ外国語の場合、さらに
言いたい内容が母国語(別の話せる言語)で浮かんでしまって
「日本語だったらこう言うのに…。英語だと何て言うんだ?」
という感じの考えも同時に浮かんできます。

ただでさえ考えを言葉に変換できないのは”もどかしい”のに
母国語の場合との比較が加わってしまって
「言えるはずのことが言えない」という意味で
”もどかしさ”や悔しさが大きくなってしまうと考えられます。

これは学習の過程で避けられないところなのかもしれません。


ここで1つのやり方は、
浮かんだ考えを母国語の言葉そのものとして
対応する外国語に変換(翻訳)しようとせず、
むしろ
 一端その内容を、同じような意味で簡単な日本語に置き換えて
 それを簡単で自分の分かる外国語に変換する
というものです。

これだと知らない単語があっても何とか対応できますし、
最低限、自分の伝えたいことを言葉にすることができます。

例えば絵を見ていて「奥行きが上手く表現されている」と言いたいとき
「奥行き」に当たる単語が思いつかなかったとします。

そうしたら「近い」「遠い」といった単語を使って
「このものが遠くにあるように見える。リアルだ。」
などと言うようにする。

そういうやり方です。

これは現実的な対応力をつける上で重要な訓練だといえます。

全ての単語を覚えられるわけはありませんから
こういう表現方法を身につけられたら
少ないボキャブラリーでスムーズな会話ができるようになるでしょう。

別の言語を身につけようとした場合にも
ボキャブラリーは最低限のままで流暢に話せる可能性があります。


しかし、これだと自分の言いたい考えを
いつまでも的確に言葉にすることができません。

母国語に追いつかない、という”もどかしさ”が消えないわけです。

だったら、言いたいことが言えなかった瞬間に
その内容を、なんとかしてでも外国語に置き換えて
それを覚えて練習してしまえば効率的でしょう。

「奥行き」にあたる単語が分からなかったとき、
それをその場で調べるなり、教えてもらうなりして、
「奥行きが上手く表現されている」という日本語の内容を
もっとも的確に置き換えた表現を言えるようにしてしまう。

そういう作業を繰り返していくと、
自分が普段使っている母国語をそのまま外国語にできます。

個人の使う母国語には偏りがありますから
自分の母国語のパターンを外国語に置き換えようにするのは
かなり手っ取り早く、しかも”もどかしさ”を早く解消できる方法でしょう。

この作業を会話のレッスンの最中にできたら良いんですが、
なかなかそのトレーニングをさせてくれる講師はいません。

浮かんでしまった母国語の内容をそのまま言葉にして伝えても
それを外国語に変換できるバイリンガル講師でなくてはいけませんから。

しかも、母国語モードで考えるのではなく
極力、外国語で会話している状態を維持しつつ、
どうしても対応させられなくて”もどかしい”ときだけ
その言葉を母国語で言って、変換してもらう。

そしてその場で何度か言い直して使えるように記憶させる。

そういう臨機応変な対応が不可欠でしょう。

会話の流れをキープしたまま、語学トレーニングのモードと
自由に行ったり来たりできる柔軟性も必要だと思われますし。

何より、そういうトレーニング法を理解してくれたり
協力してくれたりする先生が少ないはずです。


なので比較的よく行われるのが
 自己紹介や自分にまつわる話を一度、母国語で書いたり、
 あるいは話したものを書き起こしたりして、
 その内容を外国語に訳してもらって、それを練習する
という方法です。

これだと自分の言いたいことをそのまま外国語に置き換えられます。

慣れてきたら、会話のトピックごとに自分の意見をまとめてみて
それを外国語に置き換えて覚えることを続けたらいいんでしょう。

様々な会話の内容について、自分が母国語で言いがちなことを
そのまま外国語で覚えられるようになります。

この作業のメリットは、会話のようにリアルタイムではないところ。

一人でやるなら、ライティングを中心にやっても良いのかもしれません。

まず日本語で書いてみて、それを英語にする、とか。

第二外国語をやるのであれば
英語で書いたものをフランス語やロシア語に置き換える、
といった感じでしょうか。


複数の言語を習得しようという場合にも良さそうな気がします。

ありがちな会話のトピックごとに母国語で自分の意見を書き、
それを常にストックしておいて、
全ての言語でその文章を言えるようにするトレーニングを行う。

自分の考えを、自分の言葉で表現するパターンを把握しておいて
それを言語化していくという内容です。

この勉強法(スピーキングのトレーニング法)、
勉強会のような形でやってみても良いかもしれません。

cozyharada at 23:29|Permalinkclip!NLP | 心理学

2017年11月07日

集中的にトレーニングをしたい

例年、秋は忙しい印象があります。

その理由の1つは、きっと書道でしょう。
作品制作のために費やす時間が、普段よりも多めです。

とはいえ、今年の作品製作期間ももう少しで終わり。
納得のいく形になるかどうかは別にして
締め切りが迫っているところなんです。


それが終わったら少し時間的に余裕が生まれそうなので
そのあたりからフランス語を自分でトレーニングするのと
ロシア語の復習をキッチリするのとに力を入れたい気分。

ロシア語は文法中心で進んでいるため、
圧倒的に練習量が少ない。

単語や文法項目は覚えるだけですし、
それほど覚えるのにも時間はかからなそうな気はしていますが、
それでもまとまった時間が必要ではあります。

もう少ししたら、そこを追いつけそうだ、と。

フランス語については集中的にトレーニングをしたいところです。
一通りの文法は抑えられていると思いますから
運用力を高める目的で、とにかく練習が重要だろう、と。

スムーズにアウトプットできるようにするためのトレーニングと
地道な聴き取り力の土台作りが必要だと感じています。

教材は買い込んであるので、あとはコツコツやるだけ。
そのぐらいの時間はできるはずなので。


おそらくロシア語のほうは、本当に基礎ということで
今までの復習分を頑張って一通り覚えてしまえば
そのあとの理解も一気にスムーズになるのではないかと想像しています。

つまり効果が実感しやすいだろう、と。

その点、フランス語の方は効果の実感が微妙です。

地道なトレーニングが成果として感じられるのには
まとまった期間が必要だと思われます。

幸い、英語を勉強していたときに
振り返って「随分と分かるようになったなぁ」と
感じる経験はありましたから、
その意味で見込みをもって取り組めるとは思いますが。

それでも自分の技能の向上を感じられるかどうかで
ヤル気や楽しさが変わってくるのも実情で、
 どれだけ効果を実感するタイミングがあるか
も考慮する必要があるでしょう。

たまにではあっても、効果を感じるための場として
テストとか、実用的な会話の機会とか、
そういったものを取り入れられたら良いのかもしれません。

英語だとそういう機会も多く用意されているんですが…。
フランス語だと探すところから苦労しそうです。

2017年11月04日

癖を直すには

ジムに通い始めて半年が過ぎました。

だいたい週二回ぐらいの頻度でしょうか。

東京を離れていたり
夜遅く帰って次の日の朝が早かったり、
というのが4日以上続くと間隔が空いてしまいますが、
そういう特殊な事情がない限り
意外とコンスタントに続いています。

効果が実感できるのが地味なヤル気を出してくれる気がします。

僕の場合、セミナーの後は体が固まりやすいんです。
特に目からくる疲れが首や肩に溜まります。

少し別の観点からいうと、意識の配分が
自分の身体の中よりもセミナールームにいる受講生のほうに
大きく偏ることになりますから、
その意味でも自分の身体を酷使するところがあるんでしょう。

普段は意識に上がっている体感覚が薄れます。

その点、ジムに行って体を動かすと
筋肉の運動や血行を通じて身体の感覚に意識が戻りやすく、
しかも固まった筋肉もほぐれていきます。

固まった肉体を緩める目的にも
偏った姿勢で酸欠になった部分の血行を回復する目的にも
意識が離れていた身体へ注意を戻す目的にも
ジムでの運動が役立っているようです。


そして体を動かす効果としてもう1つ実感できるのが
自分の身体の使い方の癖です。

普段の動作では気づくことのできないアンバランスさ、歪みが
体に負荷をかける動作をすることで自覚できるんです。

エアロバイクを漕いでいれば重心の偏りや姿勢の歪みに気づき、
重りを動かすタイプのマシントレーニングをすると
力の入り具合が左右で違っていることに気づきます。

肉体的にいうと、僕は左腕、左足に力を込めやすいようです。

ですが、普段の生活で筋力のバランスを気にすることはないですし、
歩いている間の全ての時間を、自分の歩行姿勢や動作のバランスに
注意を向けることに使っているわけでもありません。

他に目的や事情があれば、関心の度合いが下がってしまいます。


普段の生活では、その場面において優先度の高いことがあって
そっちを気にするあまり、自分が何をしているかへの関心が下がる。

言い換えると、自分が作業として求めている『結果』に注意が向いて
その最中に「どのようにやっているか」という『プロセス』へ
関心が向きにくくなってしまう、ということです。

そのプロセスの中に癖があって、場合によっては
その癖が結果にさえ影響を与えているかもしれないのに、です。

癖があることにさえ気づかないで過ごしてしまうのが
多くの人にとっての日常なんだろうと思われます。

そこで自覚を高めるためには、
強制的に自覚の度合いが上がるようなことをするのが効率的。

僕の身体の使い方に関して言えば、それがジムでの運動であったり
整体で身体を緩めてもらうことだったり、
瞑想の類であったりするようです。


もちろん、他者からのフィードバックによって
自覚の度合いが高まることもあります。

自分が知らず知らずのうちにやってしまっている癖を指摘してもらい
それを自覚できるようにすることで、
普段のプロセスの最中から心がけて修正する、と。

最近僕にとって役立ったのは英語の発音です。

日本人にありがちな話なんですが、
僕は子音をルーズに発音することがあります。

まぁ、日本語だってアナウンサーのように滑舌よく発声してはいませんし
ネイティブの英語話者にだって発音がルーズな人は大勢います。

誤解を招くほどではないけれど不正確。
そんな音を出すことがあるみたいです。

日本語の癖で「ン(n)」の音を、鼻母音の「ん」にしてしまうとか。

それから口の動きが弱めでルーズになりがちなので
ワ行(「w」[w])、ヤ行(「y」[j])、ラ行(「r」[r])が
曖昧になりやすいようです。

母音を出す前に子音の音をしっかり出す必要がある、と。

同じく有声音の「th」(the, then, thereなど)についても
「d」[d]の音に近づきやすい傾向があるみたいです。

確かに言われてみると、そうだと実感できます。

有声音のときの呼気の量が少ないのもありそうですし、
摩擦音が弱いとも説明できそうです。

とにかく指摘されると気づけるけれど
会話のほうに一生懸命になっていると気づけなかったわけです。

しかしながら、一度指摘してもらって
それを「修正しよう」という意欲が生まれると
あとは色々な場面で気づきに上がりやすくなります。

自分でも他人でも、とにかくそのことが気になるようになる。

そうやって少しずつ正確さの感度が上がって
癖を修正していくことができるのかもしれません。


他人からフィードバックをもらうにせよ、
普段と違う動作で負荷をかけるにせよ、
いつもと大きく違うインプットで強めに意識を向けない限り
自分が自然とやってしまっている癖には気づきにくいのでしょう。

地道な作業ですが、そこに妥協をしないで続けられるかが
どこまで辿り着けるのかを決めるような気もします。

せっかくやるからには、やってみたいものです。

cozyharada at 23:33|Permalinkclip!NLP | コミュニケーション

2017年11月01日

大きな感情が表れるとき

ロシア語の講座には全部で8人の生徒がいます。

大学の公開講座になっていますから、
OBには若干の割引があったり、そもそも結びつきの強さがあったり、
参加している方の中には結構な割合で卒業生がいそうです。

その中に一人、20代ぐらいの女性で
勉強の得意そうな雰囲気の人がいます。

実際、毎回の講座にはしっかりと予習をして臨んでいるようで
単語帳を見ながら暗記もしているし、
質問も積極的にして確実に身につけようとしている印象を受けます。


おそらく非常に負けず嫌いの傾向が強く
塾でも学校でも優等生で通してきたんでしょう。

質問をするときの言葉遣いや声のトーンからも
若干の敵対心というかケンカ腰というか
自分の正しさを示そうとするような雰囲気が感じ取れます。

で先日、その人が練習問題を当てられて答えるときに、
ちょっとした間違いをしたんです。

予習として解いてあったものを読みながらでしたから
それなりの自信とともに言っていたと思います。

確かに少しだけ複雑な部分ではありました。
英語にはない文法項目でしたし。

「あなたたちの辞書」という言い回しの訳なだけなんですが、
英語だと「your dictionary」か「your dictionaries」か
いずれかしかありません。

それがヨーロッパ言語になると、
フランス語でもスペイン語でもロシア語でも
2人称(あなた)にあたるところが
「君」と「あなた」のように親しみ度合いで2種類あるんです。

そして「君たち」のように2人称複数形になったものが
「あなた」という敬意のある2人称単数と同じ形になります。

もちろん「あなたたち」という2人称複数も同じ形です。

ですから「君」という親しい関係の2人称単数にあたる単語が1つ。
それとは別に、
 峽たち」(親しい2人称複数)
◆屬△覆拭廖雰桧佞里△襭何余涼運堯
「あなたたち」(敬意のある2人称複数)
の3つに対応する単語が1つある、ということです。

この問題では「あなたたちの」ですから
後半の3つのほうの話です。

さらにロシア語でもフランス語でも、
「誰々の〜」という所有形容詞は
あとに続く名詞が単数か複数かによっても形が変わります。

ですから「君の1本のペン」と「君の複数のペン」では
「君の」の形が変わるんです。

当然、もう一方の「君たち、あなた、あなたたち」に対応するほうでも
後に続く名詞が単数か複数かによって形の違いがある。

そういう意味で、「あなたたちの辞書」という日本語は
ロシア語に変換するときには少し複雑なわけです。

2人称単数のほうなのか、2人称複数(敬意のあるほう)なのか。
後に続く名詞は単数なのか、複数なのか。
この両者を同時に扱う必要がある。

そこでその負けず嫌いの人は、
2人称複数のほうにするのを見落としてしまっていたようなんです。

ですから実際には「君の複数の辞書」として訳してしまった。


かなり準備もしているし復習もしているし、
自信があって負けず嫌いの優等生といった感じですから
間違いが気に入らないわけです。
間違っていることを認めたくもない。

それで「いや、でも…」なんて食い下がりかけたんですが、
このロシア語の先生が一風変わったコミュニケーションの持ち主で
相手の気持ちを汲み取るとかは一切しないし、
オドオドしながらも自分のペースを崩さないような
いかにも大学教授といった人なんです。

そのため彼女の質問を途中で遮り、
上記の違いを独特のペースで説明し始めました。
かなり分かりにくい説明だったと思います。

途中、何度か答えを言い直させようとして問いかけるんですが
解説そのもののやり方がグチャグチャなうえに
間違えを指摘されたことで平常心を大きく失っている彼女は
まともに理解することもできなくなっていました。

ほとんど泣きそうな状態。
内側にもどかしい怒りも溜まっているので
ほとんど小さい子供の「癇癪」に近い状態だったと思います。

優秀さと正解を自分の存在の拠り所として育ってきたら
無理のない状況だったことでしょう。

はたから見ていれば
「たかがロシア語入門の練習問題の1つを
 半分だけ間違えただけなのに、そこまで…」
と感じた人もいたかもしれませんが
(その感情すら見ていない人もいたでしょうが)
本人にとっては重要な部分なんだろうと考えられます。


それで思い出したのは、
 僕は個人として、もうここ何年も
 そこまで強い感情を体験していない
ということでした。

先日、スカイプが動かなくて先方を待たせてしまったときと
寝坊をして遅刻してしまったときには焦りが出ました。

でも逆に言うと、大きな感情が起こっていないようです。

確かに以前はあったんですが。
他人から気づかされることは多いものですね。

cozyharada at 23:20|Permalinkclip!NLP | 心理学

2017年10月29日

翻訳中の頭の中

ようやく翻訳に一区切りがつきました。

つくづく実感するのは、翻訳作業に重要なのは
英語力という曖昧なものではなく、
言語一般の運用能力なのだろうということです。

英語力と一口に言っても
読解、聴き取り、聴解、語彙、ライティング、スピーキング…
など色々と細分化ができそうです。

もちろん語彙や表現方法を知っているかどうかは
自分が話すうえでも、聞いて理解する上でも重要です。

一方、こと翻訳に関してであれば
(調べる時間がかかることを除くと)
調べて済む範囲としてさほど大きな問題ではなさそうに感じます。

その点、文章を読んで理解する力は、もっと重要そうです。
文章構造を捉えて、論理展開を踏まえ、
何を表現しようとしているかを判断する。

これには文法知識や語彙だけでなく、
頭の中で文章の内容に沿ったイメージを
組み立てる力が求められるように思えます。

実際、母国語で何も気にせずに話すときでも
頭の中には、その文章の内容に対応した
イメージが先行していると考えられます。

伝えたいことが頭の中で組み上がり、イメージのようなもの
(NLP的に言うと五感情報の組み合わせ)が作られて、
その内容に対応した言語情報が選び取られる、と。

この作業において、イメージと言語ラベルの対応が
どれぐらいスムーズに作られているか、
同じようなイメージを違う言語ラベルで正確に言い分けられるか、
…といったあたりが微妙なニュアンスの違いへの理解力を生みます。

翻訳というのは…

 まず、1つの言語で表現された文章を読んで
 一度頭の中でイメージに変換しながら理解して、
 その伝えたいニュアンスを捉える。

 それから、そのイメージを別の言語で最も的確に再現できて、
 かつ、元の文章構造と大きく違わない形に変換する。

というのが求められるのではないでしょうか。

スペイン語とフランス語の翻訳のように
文法構造が殆ど同じであれば、
単語を置き換えるだけで成立する可能性もあります。

英語でもフランス語でもドイツ語でも
ヨーロッパ語圏は、それなりに共通点が多いので
意外と訳の作業は大変ではないかもしれません。

日本語と韓国語も比較的シンプルな対応だけでできるんだとか。
(僕は知らないので聞き伝えですが)

それと比べると、英語と日本語の差は大きい。
文章構造だけでなく、理解のために作り出されるイメージそのもの、
つまり伝えようとしているイメージさえも違うんです。

日本語は静止画が多いけれど、英語は動画が多いとか、
日本語は横から見るイメージが多いけれど
英語は正面に向き合ったようなイメージが多いとか。
そういった違いもありそうです。

そこをシンプルに単語の置き換えで対応すると
英語を日本語にしたときに奇妙で理解しがたい文章になりがちです。

何が書いてあるかは分かるけれど、意味が捉えられない。
そんな感じ。

英語と日本語の翻訳が、そのように
シンプルな単語レベルの対応だけでは成立しないとすると、
翻訳では文章そのものを読解する能力が必要になると考えられます。

つまり頭の中でイメージを組み立てて、
そのイメージの持つ微妙な意味合いの違いに敏感になりながら
それとピッタリ合った言い回しに置き換えていく、と。

これをやるには、そもそも
 頭の中のイメージ(=伝えたいこと)を
 言葉で正確に表現する能力
が必要になるでしょう。

それが2つの言語のどちらにも求められる。

この能力は、単純に英語や日本語で
つっかかることなく流暢に言葉を出せることとは無関係です。

流暢に表現しているからといって
その言葉の選び方が伝えたい内容を
適切に、過不足なく表しているとはいえません。

だから母国語でも言語運用能力に差があるわけです。

アメリカではアカデミック・ライティングを中心に
ある程度、このトレーニングをするようです。

少ない文字数で濃密に、しかも論理の飛躍なしに
表現したいことが全て詰まった形の文章になるように書く。

手直しをされながら、何度も書き直してトレーニングする、と。

しかし日本の教育には、そういう要素が少ない印象があります。
僕は少なくとも受けた記憶がありません。

おそらく僕の場合、
理系の研究報告として論理性のある考察を書くトレーニングを積み、
英語の勉強としてアカデミック・ライティングをやり、
それをNLP的に五感のイメージと対応させる習慣がついたことで、
言語表現と伝えたいイメージとの対応が
かなりスムーズになってきたんだろうと思われます。

それは文学的な美しさとは全く別物で
ニュアンスの違いをやり取りする上での正確性だけの話です。

今、翻訳の依頼を受けると、
これまでの地道なトレーニングが役立っているのを実感します。

裏を返すと、高校の頃、英語の授業でやっていた読解練習は
ただの単語の一対一対応としての訳であって、
何の理解もしていなかったような気がしてきます。

辞書を引きながら1ページ分の訳が終わって、
書きあがった日本語の文章を見直しても
チンプンカンプンだったのは無理もないことでしょう。

根本的な言語能力のトレーニングも
1つの役立つ要素なのかと思います。

cozyharada at 23:43|Permalinkclip!NLP | コミュニケーション

2017年10月26日

トラブル続き

なんだか最近、トラブルが続きます。

よく分からないけれど上手くいかない結果に巻き込まれて
色々と手を打つ必要が出てきたり。

なぜかパソコン絡みで急なトラブルが起きて
大事なオンラインミーティングができなくなり、
スケジュールを改めてもらったり。

肉体的にも精神的にも負荷のかかる仕事が重なったり。

自分の不注意で先方に迷惑をかけてしまったり。

幸い破滅的な結果には結びついていませんが
振り返ってみるとトラブルが多い印象です。


不思議なもので、いろいろとスケジュールが重なって
気ぜわしくなっているときほどトラブルが多い気がします。

もちろん、忙しさから自分の落ち着きがなくなって
自分の不注意からしてしまうミスも含まれますから、
そちらのほうは、ありがちな話ともいえるかもしれません…
反省とは別のレベルとして。

しかし自分が起点になっていないトラブルに巻き込まれる。
普段だったらスムーズに進むところがそうならない。
これが重なるのは何とも奇妙な感じです。

秋の終わりに2週連続で台風が日本列島を直撃する…
なんていうのと同じぐらい、偶然かもしれないけれど
「滅多にない厄介なケース」として感じられます。

それによって自分の日々の行動に支障が出ないよう
しっかりと心身を調えるのが可能な範囲の最善でしょうか。


そういう意味でいうと、最近ふと目に留まったフレーズ
 『心の目を閉じる』
というのは意味がありそうです。

忙しさの理由の1つになっている資料の翻訳ですが、
その中でパッと目に留まった言い回しでした。

資料の本筋の内容とは無関係で、
ただの説明の一部に使われていた
資料を作成したご本人特有の言い回しなんだと思います。
(内容的に著作権に引っかかるとかいうものではないはず)

ただそれが今の僕の状態に役立ちそうだった。
それで印象に残ったんでしょう。

忙しい時ほど、目を閉じても
頭の中、心の中が動き続けるような感じがするものです。
眠れないときなんて、余計にそんな状態でしょう。

むしろ目を閉じることで一層、
頭の中の作業が意識に上がりやすくなって
さらに気ぜわしさを高めてしまうこともあるかもしれません。

そんなとき、心の中の目を閉じるような”つもり”になるだけで
スーッと落ち着いていく部分があるのにも気づけます。

そういうリセットの仕方も大事な時期という印象です。


まぁ、それ以上に慌ただしさに一区切りがついたあたりで
大きめのリフレッシュをする必要はありそうですが。

cozyharada at 23:27|Permalinkclip!NLP | 心理学

2017年10月22日

海外からの”達人”

この週末、4日間にわたって
海外から講師を招いたセミナーのお手伝いをしています。

自分でやるときとは全く違った肉体疲労もありますが
刺激的な体験をさせてもらっている感じです。

先生は心理学で博士号をとった発達心理の専門家で
大学では教育学部に身を置きながら、
学生の教育だけでなく社会人向けのトレーニングにも
長きにわたって携わってきたとのこと。

自然体で大げさではないものの
実直で無駄のない、洗練されたスタイルで講座をしています。

もちろん学び方の構造そのものも教育は発達の観点から
意図的に設計されたものだと思われますが、それ以上に
受講生とのやり取りの中にも効果的なアプローチが多々見られます。

かなり多くのことを工夫しているんでしょう。


サラッと見てしまったら何がスゴイんだか分かりにくそうでも
実体としては、熟練されているからこそのシンプルさがある。

料理人でも様々なパフォーマンスを見せて
見る方でもお客さんを楽しませようとするタイプの人もいれば、
ただひたすらに全てを料理に注ぐ人もいます。

ともすると所作に美しさが感じられないほど
当たり前に、むしろ適当そうにやっている様子でも、実際は
その何気ない自然体が知恵と技術と経験の集大成になっている…
そういう達人がいます。

素人から見ると簡単そうに見えて、
それぐらいできてしまいそうな気がするのに、
出来上がったものには決定的な違いがある、と。

書道なんかもそういった分野でしょう。
過度にならず、さりげなく、絶妙なバランスを取る。
そこに伝統的な美の基準と品格が出るようです。

アメリカ人で、大学の教授でありながら
そういうタイプの人がいるというのは面白いものだと感じます。


個人的に興味があるのは、
どれぐらいの意図でセミナーを設計しているのか、です。

表面的に伝えていることと、実際に出そうとしている影響とには
もしかしたら差があるんじゃないかという気もします。

分かりやすくビジネス分野の人たちに魅力的なテーマを作り、
裏で与えている影響は、もっと人間的な側面のほうにあるような印象。

大勢の人に向けて分かりやすい構造を作りつつ、
その中に大切な種をまいておくような感じでしょうか。

こういう方向の伝え方も求められるのかもしれないと思った次第です。

2017年10月19日

【ワークショップ】心を調える実践会(2017.11.5)

ご案内: 11月5日

   心を調える実践ワークショップ


日程のお知らせだけブログの片隅に出していましたが
 11月は、5日(日)に
修行の場としての実践ワークショップを行います。

繰り返しと発展を重ねながら継続するのがポイントになりますので
ご案内の内容は先月のものと同じです。

先月にご参加の方は、下の方にスクロールしていって
そのまま申し込みフォームをご利用ください。
(もちろん大事なコンセプト説明ですので
 読み直して頂くのもありがたいですが)

一応、継続の重要性を強調するために関連した内容を追記しておきます。


最近、勉強の仕方というのは難しいものだと、つくづく感じます。

勉強熱心な人を見かけるにつけ、その勉強のやり方の個人差が
大きな違いを生み出しているように思われるからです。

ある人は徹底的に原点から学ぼうとします。
手に入るのであれば中古でも原著を手に入れ
できるだけ大元に近い、歪みの少ない情報に触れようとする。

伝言ゲームとまでは言いませんが、
世間に広まる情報は、媒介する伝達者が増える
(≒伝言ゲームの人数が増える、ステップが増える)
ほど、伝えられる内容に含まれる変化が大きくなりがちです。

だからこそオリジナルに近いところから学び直し、
細かな違いさえも誤解とならないように正確さを心がけるようです。

これは大変な労力と時間を要します。
後から情報源を検索できるように、引用文と書籍名、ページ数などを
記録しているのも見たことがあります。

要領が良い学び方ではないようで、
本質的な特徴を掴み、一通りを整理できるようになるまでに
時間がかかりやすいところはあるみたいです。

その分、整理が進むにつれて情報量の多さと
理解の深さは増していきます。

時間はかかるけれど到達点は高いのかもしれません。


別の人は、関連することを幅広く勉強します。
その分野で評判のいい本、話題の本を手に入れ
その本を何度も読み返してノートにまとめ、情報を整理する。

主な話の展開を押さえつつ、
重要なところ、役に立つところを抽出します。
要点をまとめるわけです。

まとめの作業の時に、正確な引用をするかどうかよりも
自分にとって使える内容になっているかの方が重視され、
自分なりの勉強ノート集のようなものが増えていきます。

こういう勉強のスタイルは学校教育で効果的だといえます。

大学の後半に専門分野を学ぶようになるまでは、
幅広い分野の要点を押さえておくのが求められます。

そこでは教科書の正確な引用は重要ではありません。
むしろ同じような内容であれば「分かっている」とみなされます。

厳密な情報ではなくても、ポイントを押さえ
「これって、こういうこと」という大まかな理解を増やす、と。

このスタイルは要領がよく、短い期間で幅広い内容を捉えられます。
その反面、情報の正確さは減り、複雑で細かい区別はなくなります。


世の中としては、後のタイプの勉強法のほうが人気があるようです。

新しいことが分かるし、早くポイントも掴める。
面倒なことが少なく、分かりやすく、好奇心の範囲も広がります。

一方、本質に近づこうとしたときには
前のタイプの勉強法のほうが目的には合っているように見えます。

狭い範囲ではありますが、深く学べます。
正確な情報を細かく区別して、場合分けをしながら整理する。

膨大な情報量に繰り返されるパターンを自然と掴めるまで
時間はかかるものの、膨大な情報から抽出される共通点は
法則の重要性として揺るぎないものとなるわけです。

そして興味深いことに、
どんな分野でも本質に近づくと似てくる部分がある。

だからこそ「本質」なのかもしれませんが、
どのルートでも到達点は同じところに向かっているのかもしれません。


目的として「到達点」を重視するのだとしたら、
1つのことで深堀りするほうが効果的だと思われます。

ポイントを押さえたら新しいことに進むのは
知識の範囲を広げ、好奇心を満たす楽しい行為ですし、
それによって自分の経験則が整理されるときもあるでしょう。

言葉で納得できる喜びは大きいと思います。
その一方、自分が大事だと思うこと、好きなことが
ポイントとして抽出されてしまう可能性もあるんです。

厳しく言うと、自分が分かっていることの再確認であって
到達点として先に進んでいるわけではないかもしれない、と。

到達点のほうを重視するのであれば
目先の楽しさがなくても地味な取り組みを続ける。

その限られた骨組みの中で、知識と体験を重ねて情報を増やし、
骨組みに肉付けを続けていくスタイルです。

そして骨に肉がついてきたころ、本当の姿が見えてくる。

いろいろな骨格に共通する特徴を知りたいのであれば
いろいろな動物の骨組みだけを見たらいいでしょう。

自分が解体しなくても、他の人が残してくれた骨格標本があります。

しかし1つの骨格をもとに肉付けをして
その本体の全体が掴めるようになると、
骨とは違った生の実体が見えてきます。

そして、どんな骨格を基にした生の実体にも共通点がある。
こちらは肉付けが終わったものを理解して初めて見える特徴のようです。

ここでいう到達点とは肉付けが終わったあとの全体像のほうです。
本当はどんな姿をしているのか?
それは骨格だけではありません。

しかし一度、骨格に肉付けをしていれば
骨格だけを見ても元の姿が想像しやすくはなります。

こっちが分かってくるのを「到達点」、「本質」と呼んでいるんです。


このワークショップでやっているのも本質を目指す方向です。

広く浅く、新しい知識を次々に仕入れていくのではなく、
1つの原則を基にして、そこを骨格として
ディスカッションやワークを通じて理解と経験を増やし
情報の肉付けをしていこう、と。

厳密には毎回カスタマイズされながら異なった内容になるわけなので
同じことの繰り返しではないですが、
「1つの骨組みにまつわることを続けていく」点では
繰り返しの修行が効果的だということです。

そこで本質を掴んでいくほどに、苦悩が減り、楽になり、
同時に他人の苦しみへの共感性が高まることで思いやりが増える。
そして自由になります。

そんな感じの時間を取りましょうという話なんです。

以下は前回の内容の繰り返しになりますが
ワークショップのご案内と申し込みフォームです。


----------【以下、本文】----------

具体的に何をするかは毎回、ご参加の方に応じて
柔軟に変わっていくはずですが、
原則とする部分は常に共通しています。

とにかく『心を調える』をテーマとして実践する

人は生きてくる過程で社会に合わせることを求められ
効率的な振る舞いのパターンを学習してきます。

そして学習されたものがワンパターンになり自動化される。

このパターンが、置かれている状況で上手く働いてくれれば
何も問題を感じることはないでしょう。
スムーズに進んでいるように感じられると思います。

一方、今までのパターンが通用しなくなったとき、
とりわけ今まで上手くいっていたもの、
自分の強みだったものが空回りしだしたときには、
大きな行き詰まりが感じられるようです。

無理もありません。
今まで強みとして使えて望ましい結果も出ていたのですから
それ以外の方法を模索しようともしてきていないでしょう。
ワンパターンになっている度合いが強く、
柔軟性が小さくもあるからです。

しかも強みだと自認していたということは、
それが自分らしさの支えにもなっていたわけでもありますし、
能力面の自信の源にもなっていたはずです。

そこに空回りが出て上手くいかない環境に身を置いている…。
となると、上手くいかない不満だけでなく、
自分の強みへの自信を失っていく体験にもなります。

ショックの度合いが強いんです。

かといって変わろうと思っても、
「でも、これが自分らしさだから…」と
その強みとは真逆のことなんてやりたくも思えない。

例として良くあるのが、
 何でも自力で切り開いてきた行動力のある人が
 管理職や経営者として他人に仕事を委ねる必要性が出てきたときに
 部下へ仕事を任せられず自分で仕事を抱えてしまう
といった話です。

自力で頑張る行動力という強みが、
管理職・経営者という状況に合わなくなってきている。
その状況に適応するために変化を求められている、ともいえます。

もちろん今までのパターンを使い続けるのも1つです。
上手くいく環境に身を置くようにするのも1つでしょう。
(例:自力で頑張りすぎて人に任せられない → 一人で仕事をする)

その一方で、
 状況に適応するように自分が変化する
という向き合い方もあります。

このワークショップにおける『修行・実践』の形態としては、基本的に
 自分が変化して状況に適応できるような「しなやかさ」を育む
方向性で進んでいきます。

中には改善しようのない状況もあるかもしれません。
その場合には「変えられないことを無理に変えようとする」心の癖を
調えるように取り組むことになるでしょう。
これも「自分が変化して適応する」1つの形です。

とにかく自分が変化する。

ただし無理やりにというのではなく、
より自然体で柔軟に、です。

今まで身につけてきたものを捨てるのでもありません。
新しいやり方も身につけて、選択肢を増やして柔軟性を高めます。
ワンパターンから離れて、クリエイティブな自由度を高めます。

そういうスタンスです。


そのために技術トレーニング、心理療法的なイメージワーク、瞑想、
質疑応答やディスカッションを行います。

新しいやり方を「知る」だけで解決されるケースもありますから
その場合は質疑応答やディスカッションが機能します。

今までやったことのないやり方を身につけるには
技術トレーニングが有効です。

心の癖になってしまったワンパターンの振る舞いを変えるには
イメージワークや瞑想が効果的でしょう。

哲学的な問い、実存的な問いなども出てくるかもしれません。
そのあたりはディスカッションや瞑想で取り組むことになりそうです。

 ※実際には、質疑応答やディスカッションなど
  ワークショップ中の様々な体験が心の癖を調える刺激になります。

変化の種類は、
 ・今までのパターンとは違ったパターンを学習し直す(再学習)
 ・今までのパターンを手放す(脱学習)
の2通りだとも説明できます。

以上のことを前述のとおり、ご参加の方のニーズに合わせて
いろいろな技法を組み合わせながら進めていきます。
(もちろんご要望があれば技法そのものへの質問も解説します)


「心を調える」という趣旨でいうと、
再学習と脱学習は両方とも実践することになるはずです。

実践の効果は悩みが減って楽になること。

身体が調うと痛みがなくなったり、日々が快適に過ごせたりするように
心も調うと、それだけで楽になっていくものです。

日々のストレスが蓄積した心の”しこり”、”こわばり”を緩め、
必死にしがみついている”昔の癖”を手放したり、学び直したりする。

それはちょうどマッサージや施術を受けて身体が調うのと、
自分で姿勢や歩き方を変えたりストレッチで柔軟性を高めたりして
だんだんと昔の身体の癖を修正していくのとに対応しそうです。

そうして心が楽になっていくと、自然と持ち味も発揮されてきます。

スポーツ選手がマッサージやストレッチで体のケアをするのは
身体に疲労が溜まっていると運動のパフォーマンスが落ちるからです。

心も同じようなものです。
心に苦悩が溜まっていると、その人の持ち味が発揮しにくい。

その人が持って生まれた素養や、
もしかすると、この世に求められている姿なんかも、
スムーズに表しにくくなってしまうのかもしれません。

多くの人は「自分らしさ」や「本来の自分」、「自分の使命」などを
何か定まった1つのことのように捉えて、それを探そうとしがちです。

しかし厳密には、「これだ」と定められるものは
過去の体験の延長でしかありません。
これまでに作られた心の癖をもとに判断した「自分らしさ」なんです。

自分はそれほど限定されたものではありません。
あなたはそんなに制約されていません。
はるかに大きな可能性が、変化を受け入れるスペースがあります。

もっとも自分らしい、本来の自分の姿は
あらゆる心の歪み、心の癖から解放されたときに見えてきます。

ワンパターンから離れ、そのときどきで最善の対応ができる。
そのときに内側から自然と表れているものが「自分らしさ」です。

どうやらこれは、心の癖から完全に離れたとしても
個人個人で違った表れ方をするようなんです。
経験によって学習されたものから離れてもなお
人間にはそれぞれ違った素養が備わっているのかもしれません。

心の歪みを取り除き、自然な状態に調えるのは、
自分を自分らしく生きる実践でもあるわけです。

自分らしさの修行をして、ひたすら自分を実践するんです。

だから修行はいつまでも続きます。
自分が自分でいる限り、それは修行なんです。

そういうワークショップです。
それを一緒にやりませんかというお誘いです。

心に響くものがあり、時間の都合があうようでしたら
お気軽に足をお運びください。



◆録音に関しまして
ワークショップ中の内容は、ICレコーダーや
スマートフォンなどで記録いただいても構いませんが、
あくまで個人的なご利用の範囲でお願いいたします。

※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
 十分にご配慮ください。



※内容の密度の関係で定員を設けています。
もしかすると逆に、最少決行人数へ届かない場合もあるかもしれません。
いずれの際も改めてお知らせいたしますので、なにとぞ御了承ください。





【ワークショップの詳細】

≪心を調える実践会≫

【日時】  2017年 11月5日(日)
       10:00〜16:30


       ※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。


【場所】 滝野川会館 304集会室
    (JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
    (東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
    (JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)


【参加費】 ・・・15,000円

       当日、会場にてお支払いください。

    ★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
     ご了承ください。








修行に終わりはないそうですから、このワークショップも
継続的に開催していきたいと考えています。

コミュニケーションの技術的なこと、知識レベルのこと、
哲学的な問いについてのこと、心の苦しみについてのこと…。
心と関することであれば取り組めます。

そのときどきで、ご参加の方に応じて、内容は変わるはずです。

同じ内容を何度もやる場合もあれば、
毎回違ったことをやる場合もありえます。

人によって体験することも違うでしょう。

体系化されたプログラムではなく
そのときどきの実践を重ねていきます。

禅の大事な側面に「修行を分かち合う」ことがあるらしいです。

ワークショップという形で同じ場、同じ時間を過ごすのは
それだけでも何かの意義があるのかもしれません。

お越しをお待ちしています。

おしらせ
 ◆ セミナー情報 

日程確定

《心を調える実践会》

【日時】 2017年12月23日(土)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    304集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分

詳細は後日>>
次回は2018年の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



 ◆ お問い合わせ 
  技術向上、
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  執筆・講演…

  諸々のお問い合わせはこちらへ>>



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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