2008年07月22日

納得感をもてるか

何かの情報を理解するとき、自分にとって重要なことがあります。

『納得感』です。

これは感覚的な部分もありますが、同時に論理的でもあります。
内的な順番としては、「なんとなく」の納得感が先にあって、
それを言葉で説明しようとした時に論理が出てくる、というところでしょうか。

僕の中では全ての情報に辻褄があっていることを強く希望しているフシがあるんです。

何かを学ぶ時には当然、情報の取捨選択をするわけですが、
どうやら、残っていくものは、この納得感に裏付けされているようです。


それは必ずしも科学的な説明ができるかどうか、ではありません。
筋が通っているかどうか、です。

例えば、植物に音楽を聞かせたり、話しかけたりすると成長が促進される、
というような話に関しても、信じてみようと思える部分と、そうでない部分があるわけです。

植物に毎日、「おはよう」とか、心を込めて話しかけているときと、
「馬鹿」とかの罵詈雑言を浴びせるときで比較するような実験を耳にします。

科学的に言えば、それは「実験」と呼んでいいものではありません。

でも、僕の判断基準は「科学的かどうか」だけではないんです。
「そういうのもあるかもしれない」と思う話と
「それは、あり得ない」と思う話が両方あるんです。

それに対して、僕の考えを聞きかじった人は、
僕が科学的に判断しようとしているように受け取ることが多いみたいですが、
断じて、そうではありません。

植物に話しかけるときに優しい気持ちを向けたほうが成長が良い、
それはなんとなく「あるかもしれない」と思える話です。

ところが、そこから派生してきた話として、
植物に文字を見せる、あるいは文字を書く、という内容まで出てくるんです。

例えば、果物などに「ありがとう」って文字を書くと
「馬鹿」って書いたものよりも長持ちする、というような話です。

これは全く納得できません。
筋が通っていないんです。

「ありがとう」という気持ちを向けた植物の成長が良いことと、
「ありがとう」という文字を書いた植物の生長が良いことでは意味が違いすぎます。

「ありがとう」という文字には本来、意味がないわけです。

英語であれば「Thank you」ですが、これは皮肉にも使われるものです。
誰かがぶつかって、手に持っていたコーヒーをこぼしてしまった。
その人は急いでいて、その場を走り去った。
その状況で出てくる言葉も「Thank you」なんです。

「ありがとう」と口では言いながらも、全然感謝していない状況だってあるはずです。

文字情報だけには意味がないんです。
それはコミュニケーションを考えれば当然のことです。

そのこととの辻褄を考えれば、「ありがとう」と書いたものに
何らかの効果があるという推測すら筋が通っていないことに気づけるはずです。

仮に、水の瓶に「ありがとう」って書いたものと、「馬鹿」って書いたもので
植物に水をやって、成長を見比べるような実験をしたとします。
何度も実験を繰り返して再現性を確認できたとします。

その結果、「ありがとう」の瓶の水のほうが成長が良いということになったとして、
僕の解釈は「ありがとう」という言葉の大切さには結び付きません。

そんな話には納得しません。

僕の解釈は、
「ありがとう」って書いた瓶だと認識して植物に水を与える人の気持ちと
「馬鹿」って書いた瓶だと認識して植物に水を与える人の気持ちに差があるはず、
というところへポイントが向きます。

その実験をする人が「『ありがとう』のほうが成長するはず」と思い込んでいれば、
その結果には差が出るかもしれません。

でも、水を与える人と実験の提唱者を別の人にして、
「こんな実験には意味がない」と思っている人に水を与える役目をしてもらったら、
その結果には差が出ないような気がします。

「植物にも気持ちが伝わる」と「植物にも『ありがとう』が分かる」のは別問題です。

僕がそんな実験をするのであれば、「ありがとう」の瓶と「馬鹿」の瓶を
もう一度上から紙を貼って実験者に見えない状態にして、
そして水を与える人もボランティアで実験の意図を伝えずに集めた人たちを選び、
毎日違う人に水を与えてもらうことをします。

こういう実験のやり方をダブルブラインドと言いますが、
影響しそうな要素は極力省かなくては論理的な力がないわけです。


「植物にも気持ちが伝わる」ということは
僕にとって「あるかもしれない」と思える内容です。

でも「『ありがとう』と書いた水や植物にポジティブな効果がある」という内容は
全く「納得がいかない」内容です。

受け入れられない理由は科学的じゃないからではありません。
筋が通っていないからです。

僕がやるとしたら、全く逆の実験をして反論をするかもしれません。

植物に「ありがとう」という文字を書く。
一方のグループには「ありがとう」という気持ちを込めて丁寧に文字を書く。
もう一方には「馬鹿じゃないの?」という気持ちを込めて雑に文字を書く。

文字情報はどちらも「ありがとう」ですが、向ける気持ちを変えるわけです。

この結果に差が出たとしたら、それは「納得がいく」タイプのものかもしれません。


「信じる」のと「鵜呑みにする」のは違うと思います。
「信じられる」と言いながら、「自分で考える」を放棄するのは
僕の信念では絶対にできないことです。

2008年07月20日

『パート』という言葉

自分の中には色々な自分がいるものです。

一人でノンビリとテレビを見ている自分、
いつもの職場の自分、
仕事の場面で初対面の人と接している自分、
尊敬する人物と話すことができたときの自分、
家族と一緒に話しているときの自分、
中学時代の友人と話しているときの自分、
車を運転しているときの自分、
通勤ラッシュで揉みくちゃにされている自分、
趣味の世界に没頭している自分…。

どれも自分ですが、それぞれの自分には違いがあることに気づけるはずです。

誰かとの関係であれば、それは役割を演じているとも言えるでしょう。
八方美人という言葉もあるように、
相手によってコロコロ態度を変えることを良しとしない見方もあるようですが、
逆に全ての人に対して完全に同じ接し方をしていては社会性に問題も出てくるはずです。

相手に合わせて振り回されすぎるのも自分にとってストレスとなるでしょうし、
いつでも自分を一定に保っていくのもコミュニケーションという観点では
困る状況が出てくるでしょうから、バランスが大事なことは言うまでもありません。

相手によって態度が変わるというのは相手に合わせることが自然とできる、
つまりペーシングが上手いという見方もできるわけです。

ただ、注意したほうが良いのは、相手との関係が膠着していないかということです。
ある程度、相手との関係が継続していくと、お互いに一定のパターンで
コミュニケーションをとるようになっていく傾向があります。

相手に合わせるところから出来上がってきた関係であったとしても
自分のペースで関わってきた中で出来上がった関係であったとしても
ある程度の時間が経過すると関係性が硬直しやすいわけです。

自分の中にいる沢山の自分の中から、
「その人と一緒にいるときの自分」というのが決まってくるんです。


で、そういう色々な自分には、それぞれ個性があるようです。
自分の中に様々な人格があると思ってもいいかもしれません。

それをサイコシンセシスでは『サブパーソナリティ』と呼びます。
日本語に訳して『副人格』というケースもあるようですが、
多重人格のような印象を感じる言葉のようにも感じます。
違いは、それぞれの人格のときの記憶が残っているか、です。

NLPではサブパーソナリティと同じような考え方として
『パート』というものを扱います。

自分の中の一部分を色々な形でイメージしたりするんです。

そこには身体感覚を視覚的にイメージする形でトランスを深めていく種類の、
フォーカシングと似た手法も混ざっているように考えられます。

エリクソンは、もっと無意識を全体的に信頼しながら関わっていたようですから
身体的に表れる反応を無意識のメッセージとして
コミュニケーションをとっていたのではないかと思います。

自分の中には色々な自分がいる。
その自分は時に、自分自身が望んでいないような行動をしてしまう。
自分の中の一部の人格が勝手に困ったことをしてしまう、という感じです。

もちろん大半の人はその時の記憶があるので、後で思い返して後悔するわけですね。
困ったことの多くは、「つい、やってしまった…」という後悔を伴います。

つまり、自分の中の「ある自分」がやってしまう行動。
それは無意識の行動とも言えるわけです。

だからこそ、その「ある自分」という無意識の部分に対して
コミュニケーションをしていく手法が生まれるのでしょう。

NLPでは、その「ある自分」のことを『パート』と呼ぶことにしましょう、と。

そのこと自体は非常に重要な内容だと思います。


パートという考え方の起源がどこにあるのかは知りませんが、
家族療法家のヴァージニア・サティアはセラピー中の語りかけとして
「それは、あなたの中の〜というパートがしてくれてるのね」
というような表現をしていたそうです。

これは日本語に訳すときの問題も含むように思います。

サティアの文脈を推測すると、それは素直に「部分」と訳して良いんじゃないでしょうか?
「その行動をするのは、あなたの一部分なのね」というニュアンス。

サティアの言っていた『パート(part)』という表現は
「それは、あなたという人間全体が生み出している問題ではなくて
 あなたのホンの一部分だけが生み出している問題なのね」
と、部分化しながら受け止めていた、
彼女の優しさの表れだったんじゃないかと思うんです。

一人の人には色々な部分がある。
自分勝手に振る舞うときもあれば、他人に優しく接するときもある。
でも、それだって全て、その人の一部分なんです。

色々な部分を持っているけど、その人という存在は素晴らしい。
色々なところがあって、その人なんだ。
そんな前提のもと、その人全部を受け入れるような姿勢が
『パート』という言葉の裏側にあるような気がします。

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2008年07月17日

心の交流を視覚化してみる

僕には福祉関連の方々と出会う機会もありますが、
全体的な印象として大柄な人が少ないような気がします。

僕の勝手なイメージかもしれませんが、職種や立場ごとに
体格のデータを平均値として取ってみると意外と差があるんじゃないかと思うんです。

もちろん個人差はあるはずです。
ただ、全体的な印象として福祉の方々には大柄な方が少ないように感じるんです。

それは誰かが言っていることではなく、僕がそう思っただけですから
「福祉系=小柄」という思い込みの目で見た歪んだ解釈ではないつもりです。

福祉の方が集まる勉強の場に集まる人々であったり、
「こういう人が援助職をすると援助を受ける側は幸せだろうなぁ」と思うような
気配りの素晴らしい人を見てきた印象を総合した結果、
そんな気がしてきたという話です。

これは男性、女性を問わないようです。
男性だと背の高い方にもお会いしますが、そんな方はスラッとしています。

理学療法士などでは大柄な方も見た記憶があります。
それも体を扱うという意味で、納得できる要素だと感じます。
ただ、大柄なのに圧迫感がない感じがするんですね。

福祉の方々は大抵、体が角ばってないんです。

なんというか、人の懐に入り込むのが得意な方々というイメージを受けるわけです。

小柄な方は人の気持ちの下側にスッと入り込むイメージ。
ワンダウンポジションを地で行くことができるのかもしれません。

背は高めでもスラッとした人は、人ゴミをすり抜けるような感じで
人の心のガードの内側へ入っていけるイメージを受けます。
プールの中を、体を横にしながらスーッと進むような。

とにかく相手に近づきやすい印象が外見から受け取れる気がするんです。


まぁ、これは僕個人の勝手な印象ですから、曖昧なものでしょうし
同意してもらうことは難しいだろうと予測しています。

 人の気持ちを静かにかき分けながら中に入り込んでいく。

それ以外にも、心の交流の仕方に対して様々なイメージを持っています。
人によって特徴があるように思うんです。

 自分は動かずに人の気持ちを受け止める。
 人の気持ちの正面に立たず、ヒョイヒョイとかわす。
 自分の気持ちを強烈に発して相手を巻き込む。
 人の気持ちの中にあっても自分は動かず、人の気持ちを受け流す。
 人の気持ちを浸透させるように受け入れてから別のところへ流す。

それぞれに向いている立場や職業があるように感じます。

言葉に限らず、コミュニケーションというものを心の交流と捉えたとき、
僕にはそんなイメージが視覚的に浮かんできます。

絵に描いてみると面白いかもしれませんね。


そんな風に、人の発している様々なメッセージを
何らかの形で表現してみると、今までと違った整理の仕方ができるように思います。

2008年07月15日

鵜呑みにしない

前回に引き続き、マナーに関して思うところを書いてみます。
デリケートな問題だとは思いますが、マナーに関して
考えてみるほうが良い部分があるとも思うんです。

例えば、小学校のときには「食べ物を残してはいけません」と習った人も多いと思います。
人によっては、お茶碗のご飯粒を1粒も残さないように気をつけることもあるでしょう。

ところが、中国や韓国では出された料理を残すほうがマナーなのだそうです。
食べきれないほどの食事を出すことが、もてなしの心だということです。

文化が違うわけですね。
それは伝統的に長い年月をかけて積み重ねられてきた習慣であって、
長い年月の間に暗黙の了解として、多くの人に受け入れられた考え方だと言えます。

そうした習慣がマナーとして定着し、それを守ることが美徳だとされるようになると
人は自らの判断や思考を失います。
「マナーだから守る」ということに疑いが無くなるわけです。

だからといって、一つ一つのマナーを「なんで?」と考えていると
他の人からは「面倒臭い奴」として扱われるようになってしまう。

僕はこの、「なんで?」という根本思考は大切なことだと考えます。
その答えを他人に求めるから反感を買うんです。
それは手抜きです。

疑問を持ったら、自ら考えてみればいい。
分からなければ、一生かけてでも考え続ければいいと思います。
それだけ大切なテーマになるはずです。

しかしながら、実際には大半の人がマナーや常識、文化という言葉で説明されるような
暗黙のルールに関して、自らの頭で考えることをしません。

誰かから言われたことだから、という理由で信じるわけです。

ゲシュタルト療法のフレデリック・パールズは、
そのように他人から言われた内容をそのまま受け入れてしまうパターンのことを
『イントロジェクション(鵜呑み)』と呼び、神経症的メカニズムの1つと考えました。

食事に限らず、マナーとか礼儀作法と呼ばれるものには様々なものがありますが、
それはNLPで言えば、信念ということになります。
ビリーフです。
思い込みとさえ言えるんです。

現代社会で通用するマナーは誰かから与えられたものですから、
知識として与えられた経験がなければ、それを知ることは難しいものでしょう。

そのマナーを知らなければ、偶然以外ではマナーを守れませんし、
マナーを守っていなくても罪悪感を覚えることもないはずです。

マナーを知っている人が、他人のマナー違反に対して不満を持つ。
これが重要なポイントです。

マナーに詳しく、マナーを守る人ほど、社会生活において他人への不満が大きくなる。
不思議なことが起きているわけです。

だから、マナーについて鵜呑みにせずに考えてみたほうが良いような気がするんです。


たぶん、僕の実家はマナーにうるさい部類だったのではないかと思います。
祖母はテレビで芸能人が食事をする場面を見ると、たいてい文句を言っていました。

「アラアラ、左手で箸を持って」ということもありました。
他の人からしたら気にならないことでしょうが、
そういう文化の中で育ってきたのでしょうね。

父は実際、左利きですが、ほとんどの作業を右手でこなします。
強制されたようです。

でも、僕はそういう発想が好きじゃなかったんです。
だから僕のマナーは結構いい加減です。


祖母のように、誰かのマナーが気になるというのは
知識が信念になっているからだと思われます。
「こうするのが普通だ」と思い込んでいるわけです。

しかし、相手にしてみたら知らない情報ですから、認識すらできません。
いたって普通の行為なんです。

例えば、トーストやお餅を食べる時。
普通にかぶりつくと、歯型が残りますね。
当たり前だと思います。

でも、この歯型を残さずに食べる人がいます。
一回かじった後、すぐにその横をもう一回噛み切る。
すると一直線に近い形に跡が残るわけです。

これも1つのマナーだそうです。

僕がテレビを見ていて、歯型を残さずに食べること気づいたのは、
小泉孝太郎さんと藤井隆さんぐらいです。
どちらも品のある人だと思います。

ただ、多くの人がそのようなマナーを知らないような気がします。
多くの人は歯型が残っても気にならないでしょう。
自分の食べたトーストでも、他人のトーストでも。

僕も気にしません。
知識として聞いたことはありますが、絶対にそうすべきだとは思っていないからです。

マナーの多くは、『そうするほうが良い』という類のものではないかと思います。
このことが、僕がマナーに対して考え直してみたほうがいいと思う部分です。

なぜなら、マナーや礼儀作法というのは、
人を思う気持ちから生まれてきたものだと思うからです。

一緒に同じ時間を過ごす相手に対する心配り。
その心配りを合理的に形にしたものがマナーだと思います。

小笠原流の礼法も、茶道の作法も無駄がありません。
無駄のない動きは美しい。
そういう観点もあるように感じます。

西洋のマナーがどうかは分かりませんが、
例えば「スープを飲んで残り少なくなったとき、皿を傾けるのは手前から奥」
というのも皿の裏側を相手に見せないようにという配慮が元だとは聞きます。

フランス式のマナーではスプーンは奥から手前に動かしますが、
これも誤って向いの相手へスープを飛ばさないようにという配慮だそうです。

そして、茶道の作法の根底には相手への心遣いが満ちているように感じます。
ふすまの開け閉め一つとっても、季節によって作法が違うわけです。
それは冬の寒さを考えた心配りを反映したものです。

作法という型の中に込められた心。
そのことを知っている人の作法は洗練されているように見えます。
絶対に手を抜きません。
相手が作法のことを知っていようが、知っていまいが関係なく、
自分ができる最大限に心をこめて振舞います。

そのことが作法を知る人には分かるわけです。
知っている程度によって、受け取れる量も違います。

だからこそ、分かる人同士は作法という型を徹底することを通じて、
お互いに相手が込めている心の度合いを知ることができるわけです。

言葉を使わずに、気持ちの交流をしているということです。

そうしたマナーや作法に込められた心を知る人は、
相手にマナーを押し付けないように感じます。

相手が快適にその場を過ごせるようにするための心配り。
マナーや作法の裏にあるその心を知る人は、相手のマナーがどうかよりも
相手にその場を快適に過ごしてもらうほうを大切にするはずです。


とはいえ、いつでも相手が快適に過ごすことが優先かといえば、そうではありません。

相手をもてなす場、相手と一緒に快適な時間を過ごす場であるなら
相手に作法やマナーを押し付けることはないでしょうが、
人には当然、自分の時間というものもあるわけです。

公共の場というのは、そこにいる全員と快適に過ごすことを目的にはしていません。
自分は自分として確保しながら、全員と折り合いをつける場です。

公共の場で、全員がそれぞれの個人的な希望を優先していたら
その場はメチャクチャになってしまいます。
トラブルが絶えません。

公共の場では、自分の個人的な要望をある程度抑え、
不特定多数の他人への迷惑を考えるべきところです。
それが社会性であって、人間が人間として成立しうる要素です。

人間は意識で社会性をコントロールするわけです。
自分の本来の欲求をコントロールするから、社会は成り立っているんです。

そこでは、ある程度の我慢と他人への配慮が必要なわけです。

それも礼儀作法やマナーとして考えることもできますが、
マナーを守ること以上に本質的な部分があります。

それは誰もが我慢しているということです。

我慢しているから、他人のワガママに不快感を抱くわけです。
「自分は我慢しているのに、あの人ったら…」ということです。

自分は公共の場だから静かにしている。
皆も暗黙の了解として静かにしている。
だから、自分のスペースと自分の時間をある程度確保できるわけです。

公共の場の中で、自分の空間と時間を維持するために
自分も他の人の空間と時間は邪魔しませんよ、という交換条件が働いているとも言えます。

電車の中で、誰かが携帯電話で話していたり、イヤホンから音漏れしていたり、
大きな声で会話をしていたりすると腹が立つのは、
自分は他人を邪魔しないことで自分のプライバシーを維持しようとしているのに
他の誰かが自分のプライベートを優先して声や音で侵害してくるからです。

それに対して不満が沸くのは当然でしょう。
ただ、それは相手がマナー違反だから不満を感じるわけではないんです。

ここを区別する必要があると思います。

自分が努力して維持している公共性をないがしろにして
公共性の代わりに得られるはずのプライバシーを侵害する相手の
公共性のなさが不満の対象なんです。

「自分は気を遣っているんだから、お前も気を遣えよ」という交換条件です。

食事やビジネスなど、個人的な人間関係におけるマナーと
公共の場でのマナーでは意味が違うんです。

個人的な人間関係では、相手との関係の構築が目的になります。
だから相手への心配りが前提になるわけです。
マナーを通じて相手への気持ちを示すということです。

その意味では、相手と良い関係を作りたいと思うのであれば、
相手のマナーは問題ではないはずです。


それでも個人的な人間関係で相手のマナーが気になってしまうのは、
そのマナーという信念に自分自身が凝り固まっているからです。

「マナーは守るべきだ」という信念が固まっている可能性があります。

自分が知らないマナーは守っていないかもしれないのに、
他人のマナーが気になるのは、そのマナーに対して思い込みが強いのかもしれません。

そういう時には、相手との関係と自分のマナーに対する思い入れと
どちらが大切かを考えた上で、責任ある行動をとればいいはずです。

どうしても自分にとって大切なマナーであれば、相手へ正直に言う選択もあります。
相手のマナーが気になる場には同席しないという選択もあります。

もし正直に言うなら、本当に自分の気持ちを正確に伝える必要があります。
「それはマナー違反だからやめて欲しい」というのは自分の気持ちに嘘をついています。

「マナー違反だから」ではありません。

「自分がそのマナーを守ることを大切だと思っているから、
 それに反した振る舞いを見ていると不愉快な気持ちになってしまう。
 あなたとは良い関係を築きたいのに、それができなくて残念だ。
 その原因は自分の思い込みにあるのだけど、それを変えるのは難しいから
 出来れば、その振る舞いを変えてもらえないだろうか?」
という提案が正確でしょう。


一方、公共性の高い場で、他人のマナーに不満が沸いてきたら
それは自分の領域を侵害されたように感じている可能性が高いでしょう。

電車の中で誰かが居眠りしていても不愉快にはならないと思います。
それは自分を邪魔されていないからです。

でも、居眠りをしている人がイビキをかいていたら不満を感じるでしょうし、
自分の隣で居眠りをしている人が寄りかかってきたら不満だろうと思います。

公共の場で感じる不満には「自分が邪魔された」という気持ちの
関わっている部分が大きいということです。

それは当然のことでしょう。

そこで考えることは「あの人はマナーが悪い」と
ルールを振りかざすことではないように思います。
本来は「あの人は私を邪魔するから不愉快だ」という考えのはずです。

どちらも不快な気持ちは変わりません。
ですが、自分の気持ちに気づけているかという点では違いがあります。

ルールやマナーを振りかざすことを続けていると
裏にある自分の正当なワガママの気持ちを無視することになります。

すると「マナーだから守るべき」という信念が強固になっていってしまいます。

マナーを守っていないから不愉快なのか、
自分の時間と空間を邪魔されているから不愉快なのか。

誰のためのマナーなのかを考えてみる必要があるように思います。


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2008年07月13日

予想外の行動

先日、食事に出かけた時のことです。
ファミレスのような気軽な店でした。

一人のキャリアウーマン風の女性が颯爽と店に入ってきました。
服装も歩き方も、気品がある感じでした。

席に着く時も、注文するときも、料理が運ばれてくるのを待つ間も、
まるで高級フランス料理店にいるかのように振る舞っていたんです。

きっと色々と気を遣って自分の見せ方を考えているんでしょう。
一人だけ別世界というほど。

しばらくして料理が運ばれてきました。
店員さんは普通のバイトでしょう。
ごくごく一般的なマニュアル通りの対応です。

料理をテーブルの上に置かれると、その女性はまたもや品のある仕草で
店員さんのほうへ小さくお辞儀をしました。

そして、料理に正対して再び小さくお辞儀。
それから割り箸に手を伸ばしました。

おもむろに割り箸を割ると、なんと…。

その女性は体を右へねじり、席の横で割り箸の断面同士を擦り合わせました。
シャッ、シャッ、シャッ…。

僕はビックリしました。

そして何事もなかったかのように女性は正面へ向きなおり、食事を始めました。
その仕草は当然のように気を遣ったものでした。

姿勢もよく、食器を持つ仕草も、口に食べ物を運ぶ量すらも色々と気を配って
自分がいかに品良く見えるかということを心がけているようでした。

なのに、唯一。
割り箸を割ったときだけ。

きっとナイフとフォークであれば、隙のない作法で食事をされる方なんでしょう。

別に、割り箸を擦り合わせる行為がダメだと言っているわけではありません。
その女性の他の行動があまりにも頑張っている様子だったため
他とのギャップが大き過ぎたということです。

マナーに対する僕の考えは後日書こうと思っていますが、
僕がその時に感じたのは、自分のことは意外と気づかないものなんだ、ということです。

その人にとっては、当たり前の行為だったんでしょうね。

立ち方、歩き方、座り方…、そういったことは一生懸命に磨いてきたのかもしれません。
美しく見えるための行動を追求してきたのかもしれません。

割り箸を擦り合わせてケバだったところを取る行為がマナーとしてどうかは、
僕にとってはあまり気にならないことなんですが、
単純に美しい所作には見えなかったという話です。

それだけ美しく見える振る舞いを追求してきたような方なのに
気づくことのできないほど、当たり前の行為だったのでしょうね。

当たり前だと思っていると気づくことができません。
知らないことも気づくことができません。

自分の行動を客観的に振り返ってみると意外なことにも気づけるでしょうが、
それ以上に他人に指摘してもらうのは重要な気づきにつながりそうです。

厳しい指摘は苦しいものですけど。

2008年07月09日

特別なお客様として

以前にもブログに書きましたが、近所の飲食店に非常に接客の素晴らしい方がいます。

僕の見立ては、接客業というよりも対人援助職向けの気配りを持つ人、という印象。

先日などは、その店員さんがいなかったときに、
わざわざ1人のお客さん(70〜80歳位)が他の店員さんに質問をするほどでした。
「今日は、あの娘はいないの?」
「ええ、今日は3時までの日なんです」

案の定、お年寄りにモテるんですね。

で、しばらくしたら、その店員さんが私服で店に入ってきました。
聞こえてきた会話の内容からすると、早く仕事を終えて休憩した後、
事務所で雑用をこなしに戻ってきていたのだとか。

それでもう一度、店に入ってくるというのが凄いと思いました。

わざわざ一人のお客さんのために、仕事時間外なのに
会話のためだけにやってきたわけです。

そうすることで、お得意様になるかとか、そんな算段はきっと無かったことでしょう。
単価の安い店です。

何より、そうやって会いたがっているお客さんは、
既にその店員さんのファンになっているわけですから。
ますますファンになったかもしれませんね。


そうやって、そのお客さんと話した後、店員さんは私服のままで
別のお客さんのところへ近寄って行きました。
今度はお婆さんです。

またまた聞こえてきた会話によると、そのお婆さんは、たまにしか来店しない方のよう。
でも、しっかりと覚えていて会話を始めるわけです。

私服のままメニューを持って行き、近くで話を続けていました。
お婆さんが注文を考えている間、その相談相手にもなっていたんです。
色々と事情を聴いた上で、2人で注文を決める。
そんな感じでした。

その作業はニーズの把握から自己決定までのプロセスを踏んでいたと言えます。
もちろん対人援助に求められるレベルの内容ではありませんが、
自然とその流れをやってのけるのはセンスの現れだろうと思います。

素晴らしいコミュニケーションは、見ていても心地いいものですね。
空いている時間だからこそ可能な場面だったのでしょうが、
それでもなかなか出来ることじゃないように感じます。


後日、僕の隣の席に、一人の初老の女性が座りました。

念のため言っておきますが、決してその店がお年寄りばかりということではありません。
色々な方がお客さんとして入っていますが、
お年寄りが1人で入れる店だということが重要なポイントだと思うんです。

で、僕の隣にその初老の女性が座ったところ、
いつもの店員さんが、他のどの店員さんよりも早くやってきました。

そしてメニューを差し出しながら、口を大きく動かしました。

普通は何かしら声をかける場面です。
「いらっしゃいませ」とか「お決まりになりましたらお呼びください」とか、
何らかのマニュアルがあるものでしょう。

その店員さんも普段なら言葉をかけます。
でも、その時は声を出しませんでした。

その代わり、大きく口を動かしていたんです。
たぶん、その形は「どうぞ」だったように見えました。

その表情には暖かい笑顔が溢れていました。

しばらくして、その店員さんが再び席に寄ってくると
隣の席の女性は手荷物から何かのカードのようなものを取り出し、
それを店員さんに見せました。

店員さんはニッコリとほほ笑みながら大きくうなずき、
メニューを下げて去って行きました。

後ほど食事が運ばれてきたわけですから、おそらくそのカードで注文したのでしょう。
推測ですが、その女性は耳の不自由な方だったのではないかと思います。

その方が何度、その店に来ているのかは分かりません。
頻繁に来る方だから、そういう暗黙の了解が出来ていたのかもしれません。

仮にそうだったとしても、その方への心配りは素晴らしいものでした。
1人の人として個別に見ているわけです。
かといって、過剰な特別視があるのでもないんです。
混雑時に相応しい、適格な対応だと感じました。

そして、そうした暗黙の了解ができるまでのプロセスにも関心がわいてきます。
当然のように、その女性の事情に合わせた対応をとっているんです。
その方も安心して食事をしていかれるのでしょう。

少なくとも数回は来店している方だからこそ、
可能なコミュニケーションだと考えられます。

その方が何度も店に来るに至るまでに、その店員さんが
どれだけ安心感をもたらしていたのかという部分が素晴らしいと思うんです。


その飲食店はチェーン店です。
特別なサービスが売りの店ではありません。

ただ、その店舗の個性を生み出しているのは、その店員さんじゃないかと僕は思います。
凄い人がいるものです。

ちなみに、最近その店が改装工事中で、僕は残念な思いをしています。

誰よりも僕自身が、その店員さんに引きつけられて店に行っているのかもしれませんね。

2008年07月07日

『コールドリーディング』

久しぶりに『コールドリーディング』の新刊が出ました。
今回もキャンペーンを交え、力を入れているようです。

コールドリーディング~ニセ占い師に学ぶ! 信頼させる「話し方」の技術 (FOREST MINI BOOK)


石井裕之さんの『一瞬で信じこませる話術コールドリーディング』が出版されて
もう3年にもなるんですね。
早いものです。

僕にとって占い師の話術というのは非常に面白く、
単なる好奇心や、遊びとしてやってみたい程度の気持ちで石井道場に申し込み、
自分で実践を重ねていきました。

楽しかったんですね。
それまでとは人の見方が変わってきたわけですから。

それは話術としてのコールドリーディングの部分ではなく
観察から読み取るという部分での効果でした。

コールドリーディングにおいては、今回の本にも書かれていますが
ストックスピールという、誰にでも当てはまる内容の言葉が大きな意味合いを持ち、
海外では「コールドリーディングを学ぶ=ストックスピールを覚える」というほどに
中心部分を占めているのだそうです。
ストックスピール集のような本もあるんだとか。

ストックスピールはネタとして一生懸命考えたり、集めたりするのもいいと思いますが、
そういった誰にでも当てはまる内容に説得力を持たせる言い回しそのものが
経験的に蓄えていくべきコミュニケーションの技術だと思うんです。

ポイントは言葉の抽象度。

フェラーリよりもスポーツカー、スポーツカーよりも自動車、自動車よりも乗り物、
といったほうが抽象的な言葉と言えます。

抽象度を上げた言葉を使うことで聞き手が勝手に、
自分の具体的体験と結び付けてくれる効果があるわけです。

抽象度が高い言葉でリーディングすれば外れにくいわけです。
「最近、何か乗り物で失敗しませんでしたか?」
と聞けば、電車の乗り過ごしかもしれないし、自転車で転んだかもしれないし、
車をぶつけてしまったかもしれないし、幅が広いわけです。

内面的な記述は基本的に、抽象度が高い言葉でされますので
外れにくい特性があるようにも考えられます。
自分の内面ですから言われたほうも当てはめようとするでしょうし、
人間の無意識のバランスを考えれば全く当てはまらない特性も少ないでしょう。

ただ、抽象度が高過ぎると当たり前になってしまう側面もあるわけです。
具体的なほどリアリティが高まるんです。

そのバランスを取りながら、言葉を選ぶ。
この技術が役に立ちます。

相手を完全に理解することは絶対にできないわけです。
相手を理解しようとするほどに、膨大な量の情報を話してもらう必要が出てきます。
時には過去の苦しい体験も聞いてしまうことになるかもしれません。

それは負担をかける行為です。

大切なのは、自分が相手を理解することよりも
相手が理解されていると感じてくれること。

いかに負担をかけずに必要な信頼関係を築いていくかと考えると
コールドリーディングの話術における抽象度のコントロールは
非常に役立つと思うんです。

…石井裕之さんは、そういう説明の仕方ではありませんが。


ちなみに、今回の新刊はコールドリーディングが実践しやすい形に
まとめられているように感じますので、初めてでも読みやすそうです。

僕個人としては、コールドリーディングの話術としての凄さは
以前の作品のほうが充実していると思います。

リーディングにはミスがつきものですから、
そこをどのように利用していくかという発想が重要だと考えます。
その意味でも、以前の本は高度なんです。

でも、それだと「凄い話術なのは分かったけど、実際にできそうな気がしない」
ということになってしまう場合があったのかもしれません。

その点、新刊はコールドリーディングを実践してみるのに
とても使い勝手がいい形になっているように思います。

NLPのミルトンモデルは不特定さや曖昧さで相手に考えさせる部分がありますが、
コールドリーディングは特定していきます。
特定するから「当たっている」と感じるわけです。

特定しながら外さないための話術。
それさえあればコミュニケーションが上手くいくとは言い切れませんが、
ある場面では非常に役立つ技術じゃないでしょうか。

2008年07月04日

テクニックと技術

書店の心理読み物のコーナーやビジネス書のコーナーには
心理テクニックを扱っている本が結構見受けられます。

読んでいて面白いですね。
心理学を学んでいない人からすると興味を引く内容だろうと思われます。

そういった心理テクニックの大半は、何らかの心理学の文献を参考にしていたり、
有名な法則を元にしていたりするようですが、1つの仮説を語っているわけです。

過度に一般化した解釈や、特定の状況に左右される内容など
読んでいると誰もが「なるほど、そうかも」と思ってしまうような、
いわば「あるあるネタ」の様相を呈しているとも言えるでしょう。

中には、催眠的な手法であったり、心理臨床や心理操作、交渉術の達人が
経験的に使っていた方法や技法として活用されるものを
心理テクニックとして紹介しているものも見受けられます。

確かに、こういうのは面白いんです。
使ってみようかな、という気になったり、好奇心をかきたてられたりします。

ただ、あくまでテクニックであって、個別の技法だという部分もあります。
本質的な要素というよりは細かい部品ということです。


すると、「テクニックではなくて心が大切だ」という主張も出てくるわけです。
テクニックの対極として、気持ちや心のあり方を見ているんです。
うわべのテクニックなどなくても、本当に気持ちがあれば伝わる、
相手へ心を向けるほうが大切だ、と。

それは素晴らしい考え方です。
確実にイイ話です。
心が暖まるようです。

では、テクニックと気持ちの2つに分類すればいいのでしょうか?
大まかに分類すれば、確かに2つに分けられると思います。
2つの対極として、テクニックと気持ちを設定するわけです。
行動と、あり方。
DoingとBeingと言ってもいいでしょう。

その分け方は気をつけないと落とし穴にはまるように思うんです。

テクニックという言葉が良くない。
「Doing=テクニック」とした結びつけ。
それによって、Doing、つまり行動レベルのことが
表面的で本質的でないかのように思われてしまう危険性があるんです。

僕はそうではないと思います。
むしろ、行動に表せなければ意味がない状況さえあります。

良く言うじゃないですか?
「根は良い人なんだけどねぇ…」って。

逆に聞きたいぐらいです。
根が悪い人ってどういう人ですか?どれくらいいるんですか?って。

根が良い人だって、悪気が無かったって、良かれと思ってやったって、
人を傷つけたとしたら、それは傷をつけたことに変わりないんです。

交通事故が起きた時、悪気はなかったって主張しても
その事故で失われたものは戻らないんです。

気持ちが大切だ、あり方が大切だって言うのであれば、
それを行動のレベルで表して、相手に伝えられるほうが良いと思います。

別に伝える必要がないのであれば構いません。

でも、心理とかコミュニケーションとかに興味のある人というのは
現状で自分の身の回りに起きている人間関係をより良くしたい思いがあるから
何かを学ぼうとするんじゃないかと思うんです。

そういう人たちは既に、素晴らしい気持ちを持っているんじゃないでしょうか。
相手を思う気持ちを持っているんじゃないでしょうか。

「どうしても人を好きになれないんです」とか、
「なぜか他人を悪く思ってしまうんです」とか、
そういった気持ちの部分を変えたくて本を読んだり、
セミナーに行ったりする人は滅多にいないと思います。

もしいたとしても、その人の気持ちは既に素晴らしいじゃないですか。
人を好きになれない自分を悪いと考えられる気持ちがあるんですから。


確かに、究極的には気持ちや自分のあり方に行きつくと思います。
相手を大切に思うことがポイントだというのなら、
その度合いをどれだけ高められるかということになるでしょう。

でも、それが通用しない分野もあります。
福祉や介護といった分野ではコミュニケーションの技術が必要とされます。

相手の本当の気持ちを汲み取り、相手の望む対応をする。
言葉だけでなく、全身の表情で相手に伝える。
これも全て技術です。
Doingの内容です。

こういった技術は、心理読み物に出ているような表面的なテクニックとは違います。
きわめて高度な技です。
コミュニケーションという行為における本質的な技術です。

本で軽く紹介されるようなテクニックというのは、喩えて言えば
野球ならバックハンドトスや、ジャンピングスローのようなものです。

そればかり練習してもゲームには大きく影響しないでしょう。

一方、気持ちが大切だという考えは、
野球で言えば「状況を考えて走塁する」「仲間を信じる」というようなもの。

大切なのは間違いないですが、上達しようというレベルにおいては
また別の方法も必要だろうと思うんです。

野球で言えば、ボールをしっかり捕る技術、狙ったところに投げる技術、
遠くまで、速く投げる力、バットをボールに当てる技術、バットを力強く振る力…、
身につけるべきポイントは沢山あるわけです。
だから練習するんです。
キャッチボールをして、ノックを受けて、素振りをして、打撃練習をして技術を磨き、
それとは別にランニングやトレーニングをして筋力もつけるんです。

テクニックがなかったら、ゲームには勝てません。
スポーツなら当たり前なのに、人間関係になると
テクニックよりも気持ちが大切だという考え方が主流になってくるようです。

それは人間関係の主軸が気持ちという内面の部分にあって、
表面に現れる行動はその表現だ、という前提によるところがあるのかもしれません。

人の心を大切にしようという気持ちが、テクニックに目を向けることに対して
罪悪感のようなものを感じさせるのかもしれません。
人の心はテクニックで扱うような軽々しいものじゃない、とでも言うような。

それはテクニックという言葉の意味を浅く捉えているんです。
テクニックは小手先だけではありません。
本質的な技術だってあるんです。

自分の気持ちをストレートに伝える方法でコミュニケーションをとる人がいたとしましょう。
相手を想う気持ちは溢れんばかりです。
好きだ、好きだと全力で伝えます。

それは野球なら、ストレートをキャッチャーミットめがけて投げるだけのようなものです。
そんなピッチャーはなかなか勝てないでしょう。

そこで仲間を信じて、全力で投げ込むことに集中するのも手です。
投げる間合いを不規則に変えるようなテクニックを使うのも手です。

もし、そのピッチャーが勝てるピッチャーに成長したければ、
球速やキレを増すようなトレーニング、フォーム改造、コントロールを磨く、
決め球となる変化球を身につける、などの技術的、能力的トレーニングをするはずです。

ストレートに気持ちを伝えるコミュニケーションしかしない人は、
一週間だけ連絡を取るのを止めるとかいうテクニックに走ったり、
もっと相手を大切に思うように気持ちを向けたりすることもできます。

でも、相手を大切にできるようなコミュニケーション技術を学ぶこともできるんです。
相手の気持ちを感じ取って、対応する技術を学ぶこともできるんです。

そして、さらには自分自身の人間的魅力を高めるような
(ピッチャーなら球速を上げるような)トレーニングだってできるんです。


うわべのテクニックではない、本質的なコミュニケーション技術。
その素晴らしい気持ちを相手に届けられるように、
技術を磨くのも大切なことだと思います。

これまでは、そういった発想が少なかったのかもしれません。
コミュニケーションは心のもの、気持のものという前提があったのかもしれません。

あたかもスポーツでは技術が大切だということのように。

それでも最近は、スポーツにおいてメンタルトレーニングが盛んになってきています。
心の重要性が認められてきたのでしょう。

コミュニケーションは、ある意味でスポーツとは逆の見方を受けていたように思います。
技術よりも心が大切だと捉えられてきた。

これからは、コミュニケーションの技術も注目されるようになるような気がします。

cozyharada at 23:56|PermalinkComments(2)TrackBack(0)clip!コミュニケーション  | NLP

2008年07月02日

都合のいい学び

僕はマンガが結構好きなんです。

社会人になるまで、家には大量のマンガがありました。
今では大半を処分してしまいましたが、好きなものは少し残っています。

絵画でも、文章でも、書でもない。
その表現技法は実に素晴らしい可能性を秘めていると思います。


で、僕の好きなマンガの中に、「ゼロ THE MAN OF THE CREATION」というのがあります。

ストーリーは各回完結で、主人公である天才贋作者「ゼロ」が
芸術作品や破損した物品を複製しながら謎解きが進むようなパターン。

この物語自体が雑学的に面白い上に、芸術的要素も入っているので
僕の興味を俄然ひきつけてくれます。

しかも、主人公が孤高の天才というあたりも僕の心を打つようです。

その主人公の天才性を語るエピソードが盛り沢山なわけですが、
彼の特技は「本物を複製する」というところにあります。

初期には人間をも複製するようなエピソードもありましたが、
最近では美術品、骨董品が中心になってきています。

どうやって本物を複製するかというと、原材料から同じものを集めることに始まり、
作者になりきって作品に魂を込めるところまでやるんです。

この魂を込めるってのがカッコイイんですけど、
ここで強調したいところは別の部分です。

それは超人的な記憶力。

主人公は一度見たものを克明に記憶しています。
その記憶のみを頼りに、本物を複製することまでやるわけです。

映像記憶、フォトメモリー、直観像記憶などと呼ばれる能力です。

図書館の蔵書も全て暗唱できるレベルで記憶していたりします。
どこの図書館の何番の棚の、何段目の何冊目にある本の何ページかまで覚えていると。

実際、このような超人的な能力を持った人というのもいるそうです。
サヴァン症候群など、自閉的な傾向となることが多いと言われます。


そして、こうした直観像記憶というのは抽象化能力の反対にあるものです。
克明に詳細を記憶するということは大体の意味合いを掴むことと対極にあります。

直観像記憶ができるということは、シンプルなマンガが描けないということです。
実物どおりに描くことはできても、デフォルメした絵は描けないんです。

一般に人は、丸の中に点が2つあるだけで、それを顔として見てしまいがちです。
目が2つあるだけで、顔に見えてしまうんです。

車を正面から見ると顔っぽく見えますし、壁のシミが顔に見えたり、
木の凹凸が顔に見えたり、とかく顔を見つけたがる傾向があるようです。

それだけ人の顔というものに敏感にできているという意味かもしれませんが、
そのように顔を認識できるのは、顔というものを抽象化して認識しているからです。

「人の顔を描いて」と頼まれれば、特定の誰かの顔ではない
デフォルメしたマンガの顔を描くことができるのも、
顔を抽象化して理解しているからだということです。

それは直観像記憶とは逆のことです。

詳細な情報から意味を読み取るのも抽象化です。

「愛」と聞いて理解できるのは、「愛」にまつわる体験を抽象化して
「愛」という概念を抽象的に理解しているからです。

過去の体験を「こんなこともあったなぁ」と何らかの意味付けをするのも
体験を出来事の記憶から、意味の記憶へと抽象化していることになるんです。

直観像記憶の場合、それが起こらない(非常に起こりにくい)と考えられます。

詳細な情報を記憶することには、意味を理解するのが難しいという側面が付随するわけです。

「ゼロ」というマンガの主人公は直観像記憶もありながら、
同時に超人的な抽象化能力で誰にも思いつかないような発想をも生み出します。
正反対の特性を併せ持つ、天才なんです。
…まぁ、だからマンガなのかもしれませんが。


このように詳細な情報を正確に認識して整理・記憶する能力と、
情報を抽象化して意味を読み取り、意味ネットワークを作り上げる能力と、
両方に秀でているのが最高なわけですが、実際にはそれが難しいので
我々一般人は両方向を努力する必要があると思うんです。

現代社会においては、情報を正確に記憶する必要があるかと考えると
膨大な情報量をすぐに取り出せるIT関連技術があるわけなので、
記憶するよりは正確に整理することが実践的なように考えられます。

例えば、本から何かを学ぶ時、本一冊を暗唱できるようになるよりも、
その本一冊から意味を読み取って理解するほうが実用的かもしれないということです。

その時に気をつけなければならないのが、飛ばし読みのような理解です。
速読の技法の多くは、断片的な情報を集め、それを再構成する方法を取ります。

これにはリスクが伴う気がします。

情報を自分の持っている意味ネットワークでつなぎ合わせ、
自分の理解している内容に当てはめて納得してしまう可能性があるからです。

具体的に考えると、こういうことです。

 「怒りの感情を抱えたまま人と接すると、相手に怒りが伝わってしまうので
  怒りの感情は吐き出してしまったほうがいい」ということを学ぶ。
 ここから「怒りは抱えたままにしないほうがいい」と理解する。
 誰かに対して怒りの感情を持った時に、相手に対して吐き出す。
 怒りをぶつけられた相手は不愉快になり関係が悪化する。

こういうことは情報を正確に把握していないことで起こります。
もっと詳しい内容として、場面や人間関係などを把握していれば、
相手に直接怒りをぶつけるという内容ではないことが分かります。
目的は相手に怒りの感情をぶつけないところにあるわけです。

部分的な情報だけが印象に残り、それを普段の自分がやっている行動や
自分がどこかで学んだ内容に結びつけてしまうと、情報の意味が変わってしまいます。
新たなことが学べなくなってしまいます。


新たなことを学ぶ時、何とも関連づけずに個別のこととして理解すると
本質を理解することができません。

同じ事例のときに、学んだことをソックリそのまま真似をすることになります。
うわべで知識を仕入れるということです。

一方、新しい情報を自分の知っていることに当てはめて解釈すると、
新しいことを学ぶことはできません。
自分の理解と考えを他人の情報の断片を使って補足しているだけです。

「〜さんもこういっていた」と言いながら自信を補っているわけです。
元の情報で重要だったポイントとは無関係かもしれないにも関わらず。

どちらも新たに学ぶ情報を正確に理解しようとしていないんです。

興味深いのは、うわべだけで理解するのも、自分に都合よく当てはめるのも、
どちらか一方の傾向が出やすいということではなさそうだという点です。

気をつけないと、どちらもやってしまいがちなんですね。

つまるところ、両方とも、良く考えていないんだと思います。

自分に全くない情報が入ってきたときには
関連付けられないから個別の情報としてソックリそのまま覚える。
まだ理解できていない状態なんだろうと思います。

本質的な意味がつかめていないから、似た状況でのマネしかできないわけです。

ところが、自分の理解している範囲に関わる情報が入ってきたら、
自分の理解している部分だけが飛び込んでくるんでしょう。
他の知らない部分は途端に目に入らなくなり、断片的な解釈が始まる。

その断片情報は捻じ曲げて解釈され、新しい学びにはならない。
これも分かったつもりになって本質的な意味を理解しようとしないからです。

全ての情報を正確に把握し、その意味を理解しようとする。
分かったつもりにならないことが大切なんだろうと思います。

うわべだけの知識を仕入れて分かったつもりにならない。
分かるまで、その意味を考える。

分かったつもりになって、新たな情報を曲げて解釈しない。
本当に分かるまで、その意味を考える。

「分かりたい」という気持ちが強ければ、
分かったつもりになることもないんでしょうね。

何者かの権威にすがり、その情報を鵜呑みにすることで安心したいのか。
自分で考えて、自分で答えを見つけたいのか。

目的が違うんだろうと思いました。

cozyharada at 23:53|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP  | コミュニケーション

2008年06月30日

TOTEモデル

名前をつけると「それ」っぽくなるケースって結構ありますね。

言われてみれば当たり前のことと思えるような内容を
1つの法則のように簡略化して名前をつける。
心理学とかビジネス分野で多く見られるような印象があります。

理系はこのあたりがシビアですね。
法則とか定理の類は本質的な情報として整理されていなければ受け入れられませんし、
新規制と進歩性がなければ特許としても採用されません。

オリジナルというのは本来、とても困難なことなはずです。

心理療法では、特に欧米の研究者たちによって
オリジナルの手法が発表されるケースが多いそうですが、
コミュニケーションという人と人との関わりは曖昧なものでもあって
100%同じ内容になることは決してあり得ないわけです。

そのためオリジナルと称される手法の内訳を分析していくと
本質的には似たものになっていることは想像に難くないでしょう。

つまり、やり方として手順をまとめ上げたものというのは
説明の仕方によって変わる可能性が高く、実際の内容として
客観的に見て取れる交流の方向性には通じるものが多いだろうということです。

コミュニケーションにおいて「自分が何を意識して人と関わるか」という部分は
人によって、やりやすさに違いがあるんでしょう。
それが数多くの手法が生み出される理由だろうと考えられます。

相手の目を見て話を聞くことを意識すると良好な関係を築きやすい人もいれば、
相手の立場になって話を聞くことを意識するほうが上手くいく人もいます。
相手の肩に手を置いている想像によって心を通わせる人もいれば、
相手の幸せを祈りながら話を聞くことを大切にする人もいるわけです。

どういう意識を持つか。
それに名前をつけると1つのテクニックになってしまうのかもしれません。


NLPとして本に記載される内容の中にも、名前の効果を強く感じるものがあります。

例えば、「TOTEモデル」です。

聞いたことのない人にとっては凄そうな印象を与えるかもしれません。
でも実際は、ごくごく当たり前の内容です。

TOTEというのはTest-Operate-Test-Exitの頭文字。
入力(Input)から出力(Exit)までの間にTestとOperateを繰り返すというもの。
満足のいく結果が得られるまで、よくチェックして、やり方を変えてみよう、
そんな内容のことです。

失敗ではなく、フィードバックだということですが、
まさに、このプロセスはシンプルなフィードバック制御そのものです。

面倒臭いまでに詳細に説明すれば、大きな意味を持つ部分もあるのかもしれませんが、
詳細に説明しなければならない時点で便利なモデルではないわけです。


上手くいくまで、やり方を変えてみる。
当たり前のことですが、実際には難しいところがあるからこそ
こういったシンプルなモデルが「TOTEモデル」などと名付けられているのでしょう。

人は不思議なもので、上手くいかないときほど特定のパターンで硬直してしまいます。
交流分析でいうゲームなどは、この典型ですね。

ちなみに、目標に対してチェックして、やり方を変えるという手順は
ビジネス分野で良く使われるPDCAサイクルと似ています。

説明の図が違うので、どちらもオリジナルを主張するでしょうが、
僕にとっては同じ内容としか思えません。

どちらにもメタレベルからの学習のステップが入っていない点で
実用性に欠けた説明モデルだと判断します。


TOTEモデルはシンプルなフィードバック制御のモデルだと思います。
サーモスタットと似たようなもの。

例えば、お湯の温度を40℃にキープしようとしたとき、
最初の温度が25℃だったら加温するわけです。
で、温度を計る。35℃。
まだ低いから加温する。温度を計る。今度は45℃。
高くなり過ぎた。加温をやめる。待つ。
温度を計る。42℃。まだ待つ。
計る。39℃。
また加温する。49℃。高過ぎる。
待つ。待つ。待つ。
計る。と、40℃。目標温度達成。

とまぁ、こんな感じですね。
実際には、すぐにまた温度が下がって加温、放置を繰り返すわけですが。

シンプルなフィードバック制御であれば、熱量と加温時間と制御下限を設定して、
39℃以下になったら5秒加温する、というようなルールを作るわけです。
すると40℃付近の温度を行ったり来たりする制御ができます。

でも、実際に人間が考える場合であれば、もっと上手くやるはずです。

最初にある程度の時間で加温して温度を測定し、時間と温度上昇の関係を予測する。
で、設定温度よりも少し手前になると予測される時間だけ加温して、温度測定。
そこからは、こまめに短時間の加温と温度測定を繰り返す…。

といった感じでしょうか。

これもまだTOTEモデルで説明できる範囲です。

ところが、制御工学ではもう少し巧みなことをします。
設定温度との差に応じて加温条件を変えるということです。
PID制御と呼ばれるような方法でしょうか。

温度が低いうちは一気に加温して、温度が設定値に近づいてきたら少しずつにする。
人間が考えそうなパターンをプログラムとして作ったわけです。

こういう具合に、実際にやってみた結果を一通り分析して、
そのプロセスをパターン化することが、学習において非常に重要なんです。

確かにTOTEモデルを繰り返していれば必ず成果には結び付きます。
しかし、より短期間で成果を上げるためにはTOTEモデルで試行錯誤したプロセスを
一通り分析して、そこから上手くいくパターンを学習する必要があります。

具体的な例で説明するとしたら、こういうことです。

例えば、訪問での営業を考えてみます。

まず初対面。礼儀正しく話しかけて「忙しい」と断られる。
二回目の訪問。今度は気さくな雰囲気で話しかけてみる。が、断られた。
三回目の訪問。担当者が不在。対応してくれた若手社員と話す。
 身につけていた腕時計で趣味が合い、話が盛り上がる。
四回目の訪問。先日の若手社員と話しているところへ担当者が来る。会話がはずむ。
 チャンスと踏んで、商談に持ち込む。が、断られる。
五回目の訪問。担当者との話の中から、困っていることが聞き出せた。
 それに見合った商品を販売できた。

これをTOTEモデルという観点で見たら、毎回違うアプローチをしています。
礼儀正しいのはダメ。気さくなのもダメ。不在じゃ話にならない。
会話が盛り上がっても商談とは無関係。困っていることを聞けたら、上手くいった。

結果的には上手くいったので、TOTEモデルとしては完結しています。
目標達成です。

では、別の機会にはどうなるか。
このプロセスで何を学んだかが重要です。

何も学んでなければ、初対面の対応は同じでしょう。
間違った学習をしていたら、上手くいったポイントとして
「困ったことを聞けばいい」という内容を学んでしまいます。

TOTEモデルでは、上手くいくまで違うやり方をすればいい、
というシンプルな考えに基づいて進めていきますが、
その発想で行くと上手くいったときのやり方にポイントがあると考えがちです。

でも実際は、そうとは限りません。

先の例で言えば、何度も足を運ぶうちに
良好な人間関係ができたことがポイントだったかもしれないわけです。

上手くいくまで結果をフィードバックとして活用し、やり方を変えていく。
その途中では、これまでの経緯を全てフィードバックとして活用しなければなりません。

そして上手くいった最後の段階で、
これまでの全てのプロセスを振り返る必要があります。

ここが重要だと思います。
上手くいった時こそ、そこに至るまでのプロセスから本質を学ぶ必要があるはずです。

原因と結果を短絡的に結び付けるのではなく、
複雑なプロセスから意味を見出すということです。

以前に上手くいった方法や、他の誰かが上手くいった方法が
同じように上手くいくわけではないんです。

名前のついた手法を学ぶ時、名前の知れた人の技術を学ぶ時には、
鵜呑みにしてしまうのは危険な気がします。

cozyharada at 23:23|PermalinkComments(2)TrackBack(0)clip!NLP  | コミュニケーション
おしらせ
  ◆ 次回の勉強会   
近日公表予定

【日時】 未定

【場所】 未定

【テーマ】 未定
      
詳細は後日


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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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