2009年11月25日
新規性のカタマリ
テレビを見る時間帯が深夜枠中心になっていたり、
見る番組が限られていたりするため、僕が知っている芸能人は
必ずしも流行りの人ではないことがあるようです。
なので、もしかすると以前から数多くの番組に出ている人なのかもしれませんが、
少し前から気になっている芸能人がいます。
『谷桃子』。
グラビアアイドルだそうです。
ただ、注目すべきは、その内面。
バラエティ番組での突拍子もない言動がスゴイんです。
羞恥心や他人の目を気にする様子が感じられません。
芸能人なので、そういうキャラクターに徹している可能性も考えられますが、
だとしても、あの全力っぷりには只者ではない印象を受けます。
これまでにテレビで見たことのないタイプ。
「天然ボケ」や「不思議ちゃん」、「おバカ」キャラとは違います。
強いて言うと、初めて『鳥居みゆき』を見たときに近いような気もしますが、
そこまでの頭の良さや「分かっている」感は見えてきません。
近いところがありながら、陰と陽ぐらいの対極のイメージもある。
とにかく斬新です。
過激な系統に行くと、見ているのが気恥ずかしくなることがあるものですが、
それを感じさせないところに光るものがあるように思えます。
僕の中では好奇心をかき立てられる人物です。
見る番組が限られていたりするため、僕が知っている芸能人は
必ずしも流行りの人ではないことがあるようです。
なので、もしかすると以前から数多くの番組に出ている人なのかもしれませんが、
少し前から気になっている芸能人がいます。
『谷桃子』。
グラビアアイドルだそうです。
ただ、注目すべきは、その内面。
バラエティ番組での突拍子もない言動がスゴイんです。
羞恥心や他人の目を気にする様子が感じられません。
芸能人なので、そういうキャラクターに徹している可能性も考えられますが、
だとしても、あの全力っぷりには只者ではない印象を受けます。
これまでにテレビで見たことのないタイプ。
「天然ボケ」や「不思議ちゃん」、「おバカ」キャラとは違います。
強いて言うと、初めて『鳥居みゆき』を見たときに近いような気もしますが、
そこまでの頭の良さや「分かっている」感は見えてきません。
近いところがありながら、陰と陽ぐらいの対極のイメージもある。
とにかく斬新です。
過激な系統に行くと、見ているのが気恥ずかしくなることがあるものですが、
それを感じさせないところに光るものがあるように思えます。
僕の中では好奇心をかき立てられる人物です。
2009年11月23日
文章を速く読む人
今日の勉強会は刺激的でした。
個人的にも実りのある情報を沢山いただけたように感じています。
ご参加の方々、情報を共有して下さいまして、ありがとうございました。
以前から僕は、NLPの中の『チェイニング・アンカー』という技法は
ストラテジーのインストールのために利用するのが効果的だと考えていましたが、
今回、その考えをより実感できたと思います。
何かの作業を効率的にしたり、上達したりするために、
今までに自分がしていたのと違う意識の仕方を心がけるように努力すると、
確かに継続的な努力によって新しい手順(ストラテジー)を身につけることができますが
それは一般的なトレーニングで体験の量が必要なように時間を必要とします。
特に重要なのが、ストラテジーと呼べるぐらいまで
詳細な意識の向け方の手順を調べたものを取り入れていく場合、
その過程で余計な意識の仕方を入れては良くないわけです。
別のところへの意識が加わった瞬間に、意識の仕方の手順が変わってしまいますから。
せっかく新しい効果的な手順を身につけようとしているときに
目的とする意識の流れの中に含まれていない雑念が入ってしまっては
結果的に別の手順を進めていることになってしまうということです。
そういう意味では、最初に新しい意識の手順を身につけていくキッカケとして
無理やりに雑念を含まない目的通りの手順を記憶させてしまうほうが良い。
記憶させる効率は決して高くはないかもしれませんし、
それだけで完全に身につくわけではありませんが、
始めの一歩を正確に踏み出すことは大きなメリットになると考えられます。
0から100を目指すとき、1が生まれてしまえば流れに沿って進められる。
ところが、新しく何かを始めるときには、100に向かう道筋の1を踏み出すのが
意外と難しかったりするものです。
スポーツなどで基本をシッカリとトレーニングするのは
この最初の踏み出しの部分で余計な癖をつけない効果があるでしょう。
NLPでストラテジーを取り入れていく場合には、
上手くいっている人の意識を、正確な流れで再現する必要があります。
そうでないと別物を身につけて違う結果になる可能性があるからです。
そこで、始めの一歩として、正確な意識の流れを作るために
チェイニング・アンカーで意識の手順を繋げてしまうというわけです。
で、やってみるとコレが確かに効果がありそうな印象でした。
特に今回は、「本を速く読む」という方法が見えてきた部分があり
実りのある時間になったように感じています。
人は内的に感じられる五感の情報に対して
それぞれの得意・不得意があって、意識しやすい感覚情報と
気づきにくい感覚情報とがあるようです。
本を読んで文章を理解する、という一見するとシンプルな内容においても
自分の内側でどのように感覚情報を処理しているかは人それぞれ。
逆に、同じような情報処理をしていても
その処理が行われている際に感じられる感覚情報を
何を中心に意識していくかにも違いがあります。
僕は個人的に、内部の声を聞くの敏感なようです。
内部の映像は意識はしていますが、あまり詳細には捉えていない印象。
映像は抽象化されたものを、そのままボヤっと見ている感じがします。
なので、本を読むときにも自然と声が聞こえるんです。
これは自分が読んでいるというよりも、文字が音になったものが聞こえる感じ。
これが話せないぐらいの早口で聞こえます。
一般的な会話の3倍速ぐらいでしょうか。
文章も文字で捉えるというよりも、句読点ぐらいまでの範囲をガバッと捉えて、
その捉えた範囲の文章が瞬間的に早口の音に変換されます。
僕にとっては、その音を聞くことが「本を読む」という行為。
話してもらっているのを聞いているのと同じ感じです。
同時に、その聞こえてくる内容に対して議論をしている印象もあります。
一方、フォトリーディングや、他の速読の中にも
この文字を音にせずに読むという方法が伝えられます。
今回は、その方法を運よく学ばせてもらえましたが
やっている作業は比較的、僕の読み方と違い部分を感じました。
多分、僕も文章を見た瞬間に内容の把握を始めているんでしょう。
ただし、その音を聞くことに専念している。
それを文字の絵づらだけに集中してスピーディに目を進めていくと、
いつも聞こうとしていた声を気にせずに目を動かしても
なんとなく内容が入ってくるのが実感できました。
速読で言われる「音にしないで読む」ということの意味は
「自分で心の中で音読をして発話をしながら読む」ことを避ける部分ではないでしょうか。
見た瞬間に聞こえてきてしまう感覚を持っている人の場合には
それは文字情報が既に、別の感覚情報に置き換えられていますから
理解を進めていくスピードは比較的速く保たれるように思います。
あとは、眼で文章のカタマリを追いかける速さの問題。
そのスピードを上げれば理解力は落ちるかもしれませんが、
内容把握は十分に可能でしょう。
僕の場合、本を読むことの重要な意味として
内容をインプットして情報を集めること以外に、
本の内容と議論をして自分の考えを整理していくことがありますから、
重要な情報整理の仕方としては、聞こえてくる声と対話する必要がありそうです。
それを必要とせずに、何が書いてあるかを把握する目的であれば、
音を無視して文字だけを写真のように取り込んでいく方法で
効率的に本が読めそうに思いました。
文章をカタマリとして捉えて、その内容を発話を介さずに理解するというプロセスと、
書かれている文章を心の中で発話しながら音読するときと同じプロセスで理解するのでは
随分と情報処理の仕方が違うと考えられます。
おそらく速読のポイント、文章の効率的理解のポイントは
発話の印象を含めずに、受動的に文章そのものを頭に入れていく感覚にある。
それが僕の現状での実感です。
そのときに文章のカタマリを写真のように映像的に意識していくか、
聞こえてくる声のように音声的に意識していくか、という部分には
本人が内的に感知しやすい感覚情報の種類が影響するだけで、
発話の感覚を含めないという作業内容自体は同じなのかもしれません。
本の読み方のタイプを内的に自覚していることとセットにしながら
脳の活動部位などを調べてみると、言語野の動き方にも
違いがあるかもしれないと僕は推測しています。
読書中のブローカとウェルニッケの活動量に差があるんじゃないだろうか?と。
そして個人的には、本を読むときに自然と聞こえてくる声を聞いていたわけなので
周りの話し声がノイズとして非常に不愉快だったんですが、
今回学んだ文字を写真のように取り込む方法を心がけると
周りが多少うるさくても文章の理解が邪魔されにくくなった実感もあります。
僕の場合、文字のカタマリを写真のように捉えて取り込もうとしても
目に入った瞬間に音声が聞こえてしまうんですが、
それを聞こうとしなくても良いという点が気を楽にしてくれました。
本と議論したいときは静かな環境で聞こえてくる声と対話をして、
情報をインプットしたいときは、声を聞かずに文字だけに集中する。
そんな使い分けもできそうです。
もちろん、「文字をカタマリとして捉えて、それを写真のように取り入れる」
という説明だけで、その読み方を実感するのは難しいはずですが、
そのときに何を意識すればいいかが分かると、
なんとなく内容が入ってくる実感が得られるようです。
この意識の向け方が、本を速く読むときの技でしょう。
そのポイントと、具体的な練習法、それからバックグラウンドの理屈を簡単にまとめ、
その方法をインストールするためのチェイニング・アンカーの技術を加えれば
一つの速読術としてアピールできそうなぐらいの内容かもしれません。
タイトルは『本は剥がして読め』とか『はがし読みスピード読書術』とかでしょうか。
本を読む以外の部分も含めて、人それぞれの技や才能を
色々と垣間見て、その一端を感じさせてもらえた時間だったように思います。
個人的にも実りのある情報を沢山いただけたように感じています。
ご参加の方々、情報を共有して下さいまして、ありがとうございました。
以前から僕は、NLPの中の『チェイニング・アンカー』という技法は
ストラテジーのインストールのために利用するのが効果的だと考えていましたが、
今回、その考えをより実感できたと思います。
何かの作業を効率的にしたり、上達したりするために、
今までに自分がしていたのと違う意識の仕方を心がけるように努力すると、
確かに継続的な努力によって新しい手順(ストラテジー)を身につけることができますが
それは一般的なトレーニングで体験の量が必要なように時間を必要とします。
特に重要なのが、ストラテジーと呼べるぐらいまで
詳細な意識の向け方の手順を調べたものを取り入れていく場合、
その過程で余計な意識の仕方を入れては良くないわけです。
別のところへの意識が加わった瞬間に、意識の仕方の手順が変わってしまいますから。
せっかく新しい効果的な手順を身につけようとしているときに
目的とする意識の流れの中に含まれていない雑念が入ってしまっては
結果的に別の手順を進めていることになってしまうということです。
そういう意味では、最初に新しい意識の手順を身につけていくキッカケとして
無理やりに雑念を含まない目的通りの手順を記憶させてしまうほうが良い。
記憶させる効率は決して高くはないかもしれませんし、
それだけで完全に身につくわけではありませんが、
始めの一歩を正確に踏み出すことは大きなメリットになると考えられます。
0から100を目指すとき、1が生まれてしまえば流れに沿って進められる。
ところが、新しく何かを始めるときには、100に向かう道筋の1を踏み出すのが
意外と難しかったりするものです。
スポーツなどで基本をシッカリとトレーニングするのは
この最初の踏み出しの部分で余計な癖をつけない効果があるでしょう。
NLPでストラテジーを取り入れていく場合には、
上手くいっている人の意識を、正確な流れで再現する必要があります。
そうでないと別物を身につけて違う結果になる可能性があるからです。
そこで、始めの一歩として、正確な意識の流れを作るために
チェイニング・アンカーで意識の手順を繋げてしまうというわけです。
で、やってみるとコレが確かに効果がありそうな印象でした。
特に今回は、「本を速く読む」という方法が見えてきた部分があり
実りのある時間になったように感じています。
人は内的に感じられる五感の情報に対して
それぞれの得意・不得意があって、意識しやすい感覚情報と
気づきにくい感覚情報とがあるようです。
本を読んで文章を理解する、という一見するとシンプルな内容においても
自分の内側でどのように感覚情報を処理しているかは人それぞれ。
逆に、同じような情報処理をしていても
その処理が行われている際に感じられる感覚情報を
何を中心に意識していくかにも違いがあります。
僕は個人的に、内部の声を聞くの敏感なようです。
内部の映像は意識はしていますが、あまり詳細には捉えていない印象。
映像は抽象化されたものを、そのままボヤっと見ている感じがします。
なので、本を読むときにも自然と声が聞こえるんです。
これは自分が読んでいるというよりも、文字が音になったものが聞こえる感じ。
これが話せないぐらいの早口で聞こえます。
一般的な会話の3倍速ぐらいでしょうか。
文章も文字で捉えるというよりも、句読点ぐらいまでの範囲をガバッと捉えて、
その捉えた範囲の文章が瞬間的に早口の音に変換されます。
僕にとっては、その音を聞くことが「本を読む」という行為。
話してもらっているのを聞いているのと同じ感じです。
同時に、その聞こえてくる内容に対して議論をしている印象もあります。
一方、フォトリーディングや、他の速読の中にも
この文字を音にせずに読むという方法が伝えられます。
今回は、その方法を運よく学ばせてもらえましたが
やっている作業は比較的、僕の読み方と違い部分を感じました。
多分、僕も文章を見た瞬間に内容の把握を始めているんでしょう。
ただし、その音を聞くことに専念している。
それを文字の絵づらだけに集中してスピーディに目を進めていくと、
いつも聞こうとしていた声を気にせずに目を動かしても
なんとなく内容が入ってくるのが実感できました。
速読で言われる「音にしないで読む」ということの意味は
「自分で心の中で音読をして発話をしながら読む」ことを避ける部分ではないでしょうか。
見た瞬間に聞こえてきてしまう感覚を持っている人の場合には
それは文字情報が既に、別の感覚情報に置き換えられていますから
理解を進めていくスピードは比較的速く保たれるように思います。
あとは、眼で文章のカタマリを追いかける速さの問題。
そのスピードを上げれば理解力は落ちるかもしれませんが、
内容把握は十分に可能でしょう。
僕の場合、本を読むことの重要な意味として
内容をインプットして情報を集めること以外に、
本の内容と議論をして自分の考えを整理していくことがありますから、
重要な情報整理の仕方としては、聞こえてくる声と対話する必要がありそうです。
それを必要とせずに、何が書いてあるかを把握する目的であれば、
音を無視して文字だけを写真のように取り込んでいく方法で
効率的に本が読めそうに思いました。
文章をカタマリとして捉えて、その内容を発話を介さずに理解するというプロセスと、
書かれている文章を心の中で発話しながら音読するときと同じプロセスで理解するのでは
随分と情報処理の仕方が違うと考えられます。
おそらく速読のポイント、文章の効率的理解のポイントは
発話の印象を含めずに、受動的に文章そのものを頭に入れていく感覚にある。
それが僕の現状での実感です。
そのときに文章のカタマリを写真のように映像的に意識していくか、
聞こえてくる声のように音声的に意識していくか、という部分には
本人が内的に感知しやすい感覚情報の種類が影響するだけで、
発話の感覚を含めないという作業内容自体は同じなのかもしれません。
本の読み方のタイプを内的に自覚していることとセットにしながら
脳の活動部位などを調べてみると、言語野の動き方にも
違いがあるかもしれないと僕は推測しています。
読書中のブローカとウェルニッケの活動量に差があるんじゃないだろうか?と。
そして個人的には、本を読むときに自然と聞こえてくる声を聞いていたわけなので
周りの話し声がノイズとして非常に不愉快だったんですが、
今回学んだ文字を写真のように取り込む方法を心がけると
周りが多少うるさくても文章の理解が邪魔されにくくなった実感もあります。
僕の場合、文字のカタマリを写真のように捉えて取り込もうとしても
目に入った瞬間に音声が聞こえてしまうんですが、
それを聞こうとしなくても良いという点が気を楽にしてくれました。
本と議論したいときは静かな環境で聞こえてくる声と対話をして、
情報をインプットしたいときは、声を聞かずに文字だけに集中する。
そんな使い分けもできそうです。
もちろん、「文字をカタマリとして捉えて、それを写真のように取り入れる」
という説明だけで、その読み方を実感するのは難しいはずですが、
そのときに何を意識すればいいかが分かると、
なんとなく内容が入ってくる実感が得られるようです。
この意識の向け方が、本を速く読むときの技でしょう。
そのポイントと、具体的な練習法、それからバックグラウンドの理屈を簡単にまとめ、
その方法をインストールするためのチェイニング・アンカーの技術を加えれば
一つの速読術としてアピールできそうなぐらいの内容かもしれません。
タイトルは『本は剥がして読め』とか『はがし読みスピード読書術』とかでしょうか。
本を読む以外の部分も含めて、人それぞれの技や才能を
色々と垣間見て、その一端を感じさせてもらえた時間だったように思います。
2009年11月21日
眼の奥が
以前から偏頭痛はあったんですが、
最近は今までにないタイプの痛みを感じることが多いので
チョット気になるところです。
大体、左目の奥から後頭部にかけて。
強くなると両目になることもある。
偏頭痛は脈打つ感じとか、症状の出るタイミングとかで
典型的な症状として納得感があって、この頭痛は「偏頭痛」だなと思えます。
でも、最近の痛みは調べても良く分かりません。
痛みの出る場所と、季節要因を考えると「群発頭痛」というヤツかとも考えられますが
「非常に痛みが強い」という話にまでは当てはまらない気もしたり。
偏頭痛のピークと同じくらいの痛みなので。
そういえば、去年もこの時期ぐらいにヒドイ頭痛に見舞われたことがありました。
それは確かに典型的な症状として記述されるように
「じっとしていられず動きまわってしまう」という感じだったのを覚えています。
あのときは本当に酷かった。
深夜に救急外来へ行って、痛み止めの点滴を打ってもらいました。
あれが群発頭痛の発作だと考えると、同じ時期に似たタイプの痛みが起きるのだから
分類としては群発頭痛に当てはまるのでしょうか。
頭痛で、うめき声をあげずにはいられないことは
痛みのピークになると結構ありますし、
主観的な体験に基準はつけられないものだとも思うので
やっぱりなんとも言えないのかもしれません。
重要なのは診断して名前をつけることではないはず。
そうは考えても、症状がハッキリすると少し安心するのも正直なところ。
激しい痛みは収まっても、目の奥の痛みが長く続くのは気になります。
また痛みが来るのでは?なんて想像するのも嫌ですから。
僕の注意は常に、目から額にかけての辺りに集中する傾向があるので
疲労が蓄積してくると頭痛に繋がりやすいのは当然だろうと思います。
感覚として自覚しやすいとも思われますし。
意識をお腹のあたりにまで下げる時間を取るのが必要な気がしています。
あとは、目を開けながらも自分の内側に籠っていく方法を身につけるか。
頭痛の肯定的意図も自覚してはいるんですが…。
自分の置かれているところを考えると対処が難しいかもしれません。
最近は今までにないタイプの痛みを感じることが多いので
チョット気になるところです。
大体、左目の奥から後頭部にかけて。
強くなると両目になることもある。
偏頭痛は脈打つ感じとか、症状の出るタイミングとかで
典型的な症状として納得感があって、この頭痛は「偏頭痛」だなと思えます。
でも、最近の痛みは調べても良く分かりません。
痛みの出る場所と、季節要因を考えると「群発頭痛」というヤツかとも考えられますが
「非常に痛みが強い」という話にまでは当てはまらない気もしたり。
偏頭痛のピークと同じくらいの痛みなので。
そういえば、去年もこの時期ぐらいにヒドイ頭痛に見舞われたことがありました。
それは確かに典型的な症状として記述されるように
「じっとしていられず動きまわってしまう」という感じだったのを覚えています。
あのときは本当に酷かった。
深夜に救急外来へ行って、痛み止めの点滴を打ってもらいました。
あれが群発頭痛の発作だと考えると、同じ時期に似たタイプの痛みが起きるのだから
分類としては群発頭痛に当てはまるのでしょうか。
頭痛で、うめき声をあげずにはいられないことは
痛みのピークになると結構ありますし、
主観的な体験に基準はつけられないものだとも思うので
やっぱりなんとも言えないのかもしれません。
重要なのは診断して名前をつけることではないはず。
そうは考えても、症状がハッキリすると少し安心するのも正直なところ。
激しい痛みは収まっても、目の奥の痛みが長く続くのは気になります。
また痛みが来るのでは?なんて想像するのも嫌ですから。
僕の注意は常に、目から額にかけての辺りに集中する傾向があるので
疲労が蓄積してくると頭痛に繋がりやすいのは当然だろうと思います。
感覚として自覚しやすいとも思われますし。
意識をお腹のあたりにまで下げる時間を取るのが必要な気がしています。
あとは、目を開けながらも自分の内側に籠っていく方法を身につけるか。
頭痛の肯定的意図も自覚してはいるんですが…。
自分の置かれているところを考えると対処が難しいかもしれません。
2009年11月19日
誰が書いたのか
コンビニの雑誌コーナーの前にある棚に
ビジネス書や実用書の類が置かれていることがあります。
過去に売れた商品をそのまま置いたり、印刷と製本の仕方を変えて置いたりして
売れ筋の本が販売されることが多いようですが、
先日、チョット気になる本を見かけました。
『おとぎ話の深層心理』。
これはメタファーの再学習としても、実際の物語を把握しなおす目的にも、
その物語の意味合いを分析するにも、役に立つのではないかと思って購入しました。
立ち読みするまでもなく、掘り出し物ではないかと期待して
早速レジに持って行ったんですが、なんとも不思議な本でした。
全体的にはユング心理学や精神分析の流れが色濃く出ているようにも感じるものの、
解釈の方向性として極端な印象を受けるものもあったように思います。
「この内容で出版して、それがコンビニに並んでいいのか」と
僕の中には、その大胆さに対する驚きが生まれました。
で、誰が書いた本かと本の中を探してみても
どこにも著者の名前が見当たりません。
一体、どういう位置づけの本なのでしょうか。
なんだか興味がわいてきました。
個人的には昔話そのもののストーリーを数多く読み直せましたし、
その昔話や童話の成り立ちを知ることもできたので良かったんですが。
いや、それにしても
過激な解釈が多かった気がします。
ビジネス書や実用書の類が置かれていることがあります。
過去に売れた商品をそのまま置いたり、印刷と製本の仕方を変えて置いたりして
売れ筋の本が販売されることが多いようですが、
先日、チョット気になる本を見かけました。
『おとぎ話の深層心理』。
これはメタファーの再学習としても、実際の物語を把握しなおす目的にも、
その物語の意味合いを分析するにも、役に立つのではないかと思って購入しました。
立ち読みするまでもなく、掘り出し物ではないかと期待して
早速レジに持って行ったんですが、なんとも不思議な本でした。
全体的にはユング心理学や精神分析の流れが色濃く出ているようにも感じるものの、
解釈の方向性として極端な印象を受けるものもあったように思います。
「この内容で出版して、それがコンビニに並んでいいのか」と
僕の中には、その大胆さに対する驚きが生まれました。
で、誰が書いた本かと本の中を探してみても
どこにも著者の名前が見当たりません。
一体、どういう位置づけの本なのでしょうか。
なんだか興味がわいてきました。
個人的には昔話そのもののストーリーを数多く読み直せましたし、
その昔話や童話の成り立ちを知ることもできたので良かったんですが。
いや、それにしても
過激な解釈が多かった気がします。
2009年11月18日
「美人薄命」仮説
人の注意は色々なところに向けられるものです。
意識は同時に2つのことをできないというのは必ずしもそうではない。
いくつかのことを同時に作業できます。
その中で、人によって意識しやすいところに個人差があります。
自分の体の外で起きている出来事を観察するのが好きな人もいれば、
自分の頭の中に湧き上がるイメージに敏感な人もいます。
自分の体の中に起こる身体反応を感じることを中心にする人もいます。
このような意識の向く部分には個人差があっても
注意の向け方を心がけていけば、あまり今まで意識していなかった情報にも
気づけるようになっていくはずです。
ただ、これは意識的な取り組みをすれば、という話。
人が普段、生きている中で自分の注意が向いているものに
個人的な偏りがあるなんてことを自覚する人は滅多にいません。
僕がこういうことを知ったのは、NLPを体験して、
それを自分なりに整理して、多くの人を見て、話を聞いて、
その中で気づいてきた過程があるからです。
僕の場合、感覚情報に注意を向けるという発想をNLPで学んでいなければ
こんなことは知らなかっただろうと思います。
ですから、自分の感覚情報への注意の向け方の癖を
他人と比較することなく自覚できている人は少ないと思うんです。
であれば、それを意図的に変えようとする人も少ないでしょう。
ところが、直接的に感覚情報への注意の向け方を変えようとするのではなく、
何かの目的のために、感覚情報に対する注意の癖が変わっていくことはあるようです。
僕は元々、体の内側で起きる反応を素直に感じ取っていた時期がありますが、
理系に進み、生物化学系という観察・分析主体の分野をやっていくうちに、
自分の体の外側に注意の対象の大部分を向ける癖ができました。
最近はコミュニケーションやら心理やらというのを仕事にするようになって
自分の体の内側にも注意が向くようになりましたが、
僕にとっては体の反応を比較的無視していた時期が長かったように思います。
そのような職業的なトレーニングによって注意の方向が変わることはあります。
自分の振る舞いをコントロールする仕事の人は
否応なしに注意の方向が自分の体の外側に向かいやすいでしょう。
自分の振る舞いの全てをコントロールするといえば、
典型的にはミス・ユニバースの代表になるような人たちです。
自分がどう見られているかを常に意識する人たちと言ってもいいかもしれません。
指先の動きや細かな姿勢、体の動かし方の細部にまで注意を向ける人。
それを「周りからどのように見られているか」という視点で観察しますから、
注意は自分の体の外側を客観的にモニターするようなところに移ります。
鏡に写っている自分をいつも見ている状態。
意識的に「美人」を作り出そうとしていくと
注意の大部分が体の外側に向いていくわけです。
人によっては「内面からも美しく」ということを言ったりしますが、
その場合の内面は、自分の考え方とか感情とかを指すことが多いようで、
それもやはり外側からどのように見られるかという発想に繋がっていたりします。
自分の感情さえも、その様子がどのように見られるかという観点で
意識的にコントロールしていく人までいます。
素晴らしいプロ意識だと思います。
それは確かに一部のスキもない美しさに結びつくでしょう。
しかし、感情は複雑なものです。
日常の様々な場面で、自分の体の中には複雑な身体反応が表れます。
生理的な反応が起こるわけです。
このような生理的な反応は、ホルモン類が引き起こす体の状態として
常に自分自身によってモニターできる仕組みがありますが、
強く外側に注意を向けるということは、この反応を無視している傾向と言えます。
体の外側に注意を向ける度合いが高いほど、
体の内側に起きる環境適応のための自然な反応に気づきにくくなるんです。
とりわけ、身体反応の変化は非常に複雑で、
一言で「怒り」の身体反応と呼べないような
色々な想いが入り混じった反応もあるものです。
それを感じないようにするのは、自分の気持ちのある部分にフタをするようなもの。
自分の本当の気持ちや体からのメッセージを聞いていない状態でしょう。
すると、その身体反応がストレス対応のものとして重要であったりすると
体はその反応というメッセージを自覚できるレベルにするために、
反応を強めたり、何か違った形の反応に変えたりする傾向があるようです。
つまり、体の痛みとして表れる。
ストレスを無視していると、体に不具合が出てくるというわけです。
程度問題の差はあれ、例えば、肩コリがあるというのは
肩コリの状態になる前から、目や首や腕に疲労感の身体反応を出しているものです。
それに気づかないか、気づいていても対処できない状況があって無視していて、
その結果として疲労が蓄積してくると、分かりやすいメッセージとして
肩コリという体の症状になって出てくる。
そんな傾向かもしれません。
肩コリになる前の体の反応を敏感に感じ取って、
「疲れてきたから休もう」とか「少しリフレッシュしよう」とか
そういう発想を抱ける人は肩コリになる前に体のケアができてるということです。
弱い身体反応のレベルで意識できるぐらい、常日頃から体の内側に注意が向いていれば
身体的な痛みにまで発展することは少ないと考えられます。
痛みは人にとって自覚しやすい重要な感覚ですから
ストレス対応のメッセージを痛みにして出してくるのは分かりやすい手段なんでしょう。
その痛みにさえ気づかなかったりすると
胃潰瘍のようなストレス性の病気になったりもするのだろうと思います。
運動をすることは、そのようなストレスケアの方法の1つですが、
体を動かして体に蓄積した疲労の状態を取り除く以外にも、
自然の体の内側に意識がいきやすくなる効果もあると考えられます。
僕はヨガを勧められたことが多いんですが、
ヨガをやれば体の内側の状態に注意が向きやすくなり、
それによって自然と体の内側とコミュニケーションする時間が取れるから
という理由もあるようです。
そして、美人の中にも同様にヨガをやる人がいます。
セレブの間で流行っていたりするのも理由でしょうか。
しかしながら、自分がどのように見られているかを常に意識する美人は
ヨガをやっていても自分の体の内側に注意を向けるよりも
自分のポーズが美しいかどうかに注意が向きやすいかもしれません。
すると体を動かすことで疲労は軽減されたとしても、
依然として体の内側に注意が向く機会は得られないままです。
例えるなら、体が「大変だよ」と教えてくれているのに
「まあまあ」と言って、なだめてしまう状態。
表面的なケアはしてくれても本当に大事なメッセージは無視されてしまう。
そういう状況が続くと、体のほうも最後の手段に出るのかもしれません。
痛みでもってもストレス反応を自覚してもらえないとなると
残りはもっと深刻な体の症状になってくる…。
推測ですが、そんな可能性もあるんじゃないかと思います。
美人は「自分がどのように見られるか」という外部の意識を高め過ぎるあまり
自分の体の内側に注意がいかなくなり、体からのメッセージを受け止めず、
体の内部に身体的な問題が蓄積していったりしやすいと考えてみる。
すると「美人薄命」という言葉にも、シックリくる部分があったりします。
全ての美人が短命ではありませんし、
世間で美人と呼ばれる人たちの中にも体の反応を自覚している人もいます。
実際には、自分の体の内側の反応と上手に関わり、
自分の中の問題をケアしていくことで、内面が外見に影響するケースのほうが
僕の身の回りでは頻繁に見て取れるんですが。
プロ意識とはいえ、片寄りがある部分には気をつけるポイントがありそうです。
意識は同時に2つのことをできないというのは必ずしもそうではない。
いくつかのことを同時に作業できます。
その中で、人によって意識しやすいところに個人差があります。
自分の体の外で起きている出来事を観察するのが好きな人もいれば、
自分の頭の中に湧き上がるイメージに敏感な人もいます。
自分の体の中に起こる身体反応を感じることを中心にする人もいます。
このような意識の向く部分には個人差があっても
注意の向け方を心がけていけば、あまり今まで意識していなかった情報にも
気づけるようになっていくはずです。
ただ、これは意識的な取り組みをすれば、という話。
人が普段、生きている中で自分の注意が向いているものに
個人的な偏りがあるなんてことを自覚する人は滅多にいません。
僕がこういうことを知ったのは、NLPを体験して、
それを自分なりに整理して、多くの人を見て、話を聞いて、
その中で気づいてきた過程があるからです。
僕の場合、感覚情報に注意を向けるという発想をNLPで学んでいなければ
こんなことは知らなかっただろうと思います。
ですから、自分の感覚情報への注意の向け方の癖を
他人と比較することなく自覚できている人は少ないと思うんです。
であれば、それを意図的に変えようとする人も少ないでしょう。
ところが、直接的に感覚情報への注意の向け方を変えようとするのではなく、
何かの目的のために、感覚情報に対する注意の癖が変わっていくことはあるようです。
僕は元々、体の内側で起きる反応を素直に感じ取っていた時期がありますが、
理系に進み、生物化学系という観察・分析主体の分野をやっていくうちに、
自分の体の外側に注意の対象の大部分を向ける癖ができました。
最近はコミュニケーションやら心理やらというのを仕事にするようになって
自分の体の内側にも注意が向くようになりましたが、
僕にとっては体の反応を比較的無視していた時期が長かったように思います。
そのような職業的なトレーニングによって注意の方向が変わることはあります。
自分の振る舞いをコントロールする仕事の人は
否応なしに注意の方向が自分の体の外側に向かいやすいでしょう。
自分の振る舞いの全てをコントロールするといえば、
典型的にはミス・ユニバースの代表になるような人たちです。
自分がどう見られているかを常に意識する人たちと言ってもいいかもしれません。
指先の動きや細かな姿勢、体の動かし方の細部にまで注意を向ける人。
それを「周りからどのように見られているか」という視点で観察しますから、
注意は自分の体の外側を客観的にモニターするようなところに移ります。
鏡に写っている自分をいつも見ている状態。
意識的に「美人」を作り出そうとしていくと
注意の大部分が体の外側に向いていくわけです。
人によっては「内面からも美しく」ということを言ったりしますが、
その場合の内面は、自分の考え方とか感情とかを指すことが多いようで、
それもやはり外側からどのように見られるかという発想に繋がっていたりします。
自分の感情さえも、その様子がどのように見られるかという観点で
意識的にコントロールしていく人までいます。
素晴らしいプロ意識だと思います。
それは確かに一部のスキもない美しさに結びつくでしょう。
しかし、感情は複雑なものです。
日常の様々な場面で、自分の体の中には複雑な身体反応が表れます。
生理的な反応が起こるわけです。
このような生理的な反応は、ホルモン類が引き起こす体の状態として
常に自分自身によってモニターできる仕組みがありますが、
強く外側に注意を向けるということは、この反応を無視している傾向と言えます。
体の外側に注意を向ける度合いが高いほど、
体の内側に起きる環境適応のための自然な反応に気づきにくくなるんです。
とりわけ、身体反応の変化は非常に複雑で、
一言で「怒り」の身体反応と呼べないような
色々な想いが入り混じった反応もあるものです。
それを感じないようにするのは、自分の気持ちのある部分にフタをするようなもの。
自分の本当の気持ちや体からのメッセージを聞いていない状態でしょう。
すると、その身体反応がストレス対応のものとして重要であったりすると
体はその反応というメッセージを自覚できるレベルにするために、
反応を強めたり、何か違った形の反応に変えたりする傾向があるようです。
つまり、体の痛みとして表れる。
ストレスを無視していると、体に不具合が出てくるというわけです。
程度問題の差はあれ、例えば、肩コリがあるというのは
肩コリの状態になる前から、目や首や腕に疲労感の身体反応を出しているものです。
それに気づかないか、気づいていても対処できない状況があって無視していて、
その結果として疲労が蓄積してくると、分かりやすいメッセージとして
肩コリという体の症状になって出てくる。
そんな傾向かもしれません。
肩コリになる前の体の反応を敏感に感じ取って、
「疲れてきたから休もう」とか「少しリフレッシュしよう」とか
そういう発想を抱ける人は肩コリになる前に体のケアができてるということです。
弱い身体反応のレベルで意識できるぐらい、常日頃から体の内側に注意が向いていれば
身体的な痛みにまで発展することは少ないと考えられます。
痛みは人にとって自覚しやすい重要な感覚ですから
ストレス対応のメッセージを痛みにして出してくるのは分かりやすい手段なんでしょう。
その痛みにさえ気づかなかったりすると
胃潰瘍のようなストレス性の病気になったりもするのだろうと思います。
運動をすることは、そのようなストレスケアの方法の1つですが、
体を動かして体に蓄積した疲労の状態を取り除く以外にも、
自然の体の内側に意識がいきやすくなる効果もあると考えられます。
僕はヨガを勧められたことが多いんですが、
ヨガをやれば体の内側の状態に注意が向きやすくなり、
それによって自然と体の内側とコミュニケーションする時間が取れるから
という理由もあるようです。
そして、美人の中にも同様にヨガをやる人がいます。
セレブの間で流行っていたりするのも理由でしょうか。
しかしながら、自分がどのように見られているかを常に意識する美人は
ヨガをやっていても自分の体の内側に注意を向けるよりも
自分のポーズが美しいかどうかに注意が向きやすいかもしれません。
すると体を動かすことで疲労は軽減されたとしても、
依然として体の内側に注意が向く機会は得られないままです。
例えるなら、体が「大変だよ」と教えてくれているのに
「まあまあ」と言って、なだめてしまう状態。
表面的なケアはしてくれても本当に大事なメッセージは無視されてしまう。
そういう状況が続くと、体のほうも最後の手段に出るのかもしれません。
痛みでもってもストレス反応を自覚してもらえないとなると
残りはもっと深刻な体の症状になってくる…。
推測ですが、そんな可能性もあるんじゃないかと思います。
美人は「自分がどのように見られるか」という外部の意識を高め過ぎるあまり
自分の体の内側に注意がいかなくなり、体からのメッセージを受け止めず、
体の内部に身体的な問題が蓄積していったりしやすいと考えてみる。
すると「美人薄命」という言葉にも、シックリくる部分があったりします。
全ての美人が短命ではありませんし、
世間で美人と呼ばれる人たちの中にも体の反応を自覚している人もいます。
実際には、自分の体の内側の反応と上手に関わり、
自分の中の問題をケアしていくことで、内面が外見に影響するケースのほうが
僕の身の回りでは頻繁に見て取れるんですが。
プロ意識とはいえ、片寄りがある部分には気をつけるポイントがありそうです。
2009年11月15日
涙の息づかい
「僕の初恋をキミに捧ぐ」という映画が上映中だそうです。
見てはいませんが、ともて悲しげな内容のようです。
テレビでも予告が流れていたりしますが、
この映画の主題歌「僕は君に恋をする」も、また涙を誘う歌です。
僕は聞いていると泣きそうになります。
平井堅という歌手が、そういう系統の歌を歌うことが多いため
その声を聞いた時に、すでに悲しみに浸りやすくなっている部分もあるでしょう。
メロディーラインやアレンジの仕方も、涙を誘う歌に多い傾向かもしれません。
こちらのyoutube のページでも聞けますが、僕が推測するに
この歌のポイントはサビの繰り返しのところでしょう。
繰り返しが印象を強く植え付けるというだけではありません。
この繰り返しのリズム、テンポ、息継ぎのタイミング。
ここが大きいと考えています。
特に、この歌手の歌い方の特徴がそれを強調します。
かなり呼吸音を強く入れるんです。
音楽を聞くこと自体が、もともとトランスに導きやすい効果を持っていますが、
その中に一定のリズムと繰り返されるメロディーラインがあるので
そのトランス誘導の効果は高いと言えます。
さらに呼吸音が入る。
聞いていると無意識に呼吸を合わせやすくなると考えられます。
少なくとも、その呼吸をしている状態が引き出されやすくはなる。
呼吸を中心にしてトランスに導かれ、その呼吸の状態が引き出されるわけです。
そして、肝心の呼吸の状態に関して。
ここで繰り返される音符の長さと呼吸のタイミング、肩で短く強く吸い込む息づかいが
泣いている時の嗚咽の感じに近いように僕は分析をしています。
呼吸に合わせているだけで、悲しい感じが体感できる人もいることでしょう。
作曲の段階でそんなことを意識しているとは思えませんが、
感情を乗せるように曲を作ると、自然に息づかいなども
その感情を反映しやすいものになったりするのかもしれません。
ヒット曲を息づかいで調べてみるのも面白いような気がしています。
見てはいませんが、ともて悲しげな内容のようです。
テレビでも予告が流れていたりしますが、
この映画の主題歌「僕は君に恋をする」も、また涙を誘う歌です。
僕は聞いていると泣きそうになります。
平井堅という歌手が、そういう系統の歌を歌うことが多いため
その声を聞いた時に、すでに悲しみに浸りやすくなっている部分もあるでしょう。
メロディーラインやアレンジの仕方も、涙を誘う歌に多い傾向かもしれません。
こちらのyoutube のページでも聞けますが、僕が推測するに
この歌のポイントはサビの繰り返しのところでしょう。
繰り返しが印象を強く植え付けるというだけではありません。
この繰り返しのリズム、テンポ、息継ぎのタイミング。
ここが大きいと考えています。
特に、この歌手の歌い方の特徴がそれを強調します。
かなり呼吸音を強く入れるんです。
音楽を聞くこと自体が、もともとトランスに導きやすい効果を持っていますが、
その中に一定のリズムと繰り返されるメロディーラインがあるので
そのトランス誘導の効果は高いと言えます。
さらに呼吸音が入る。
聞いていると無意識に呼吸を合わせやすくなると考えられます。
少なくとも、その呼吸をしている状態が引き出されやすくはなる。
呼吸を中心にしてトランスに導かれ、その呼吸の状態が引き出されるわけです。
そして、肝心の呼吸の状態に関して。
ここで繰り返される音符の長さと呼吸のタイミング、肩で短く強く吸い込む息づかいが
泣いている時の嗚咽の感じに近いように僕は分析をしています。
呼吸に合わせているだけで、悲しい感じが体感できる人もいることでしょう。
作曲の段階でそんなことを意識しているとは思えませんが、
感情を乗せるように曲を作ると、自然に息づかいなども
その感情を反映しやすいものになったりするのかもしれません。
ヒット曲を息づかいで調べてみるのも面白いような気がしています。
2009年11月13日
音源の場所
最近は色々と無料ダウンロードの音声ファイルなどが手に入るので
たまにそういうのを聞くことがあります。
先日、移動中に音声を聞こうとしてMP3プレイヤーに入れて持って行きました。
で、イヤホンを使って聞いてみたんです。
すると話し声が耳元で聞こえます。
頭の上というか、後頭部あたりというか、
頭の中心よりも後ろ側から聞こえる感じがします。
すると全然、内容が頭に入ってきません。
同じ人の話を実際に聞いたこともありますし、
同じく音声をCD教材で聞いたこともあります。
そのときは内容が入ってくる。
なのに、イヤホンで聞くと途端に理解力が落ちる感じがします。
なんというか、自分で頑張って音の聞き方を工夫しないと
それを理解に繋げられない印象があったんです。
まぁ、しばらく聞いているうちに慣れてきましたが。
おそらく、僕は人の話を聞いて理解するときには
自分の前側から声が聞こえてくる状態でインプットしているんだと思います。
そして、そうやって前から音を受け取って、
話の内容も自分の頭の外で組み立てる感じがあります。
体の中に入れて感じるというよりも、目の前に話を組み立てていく印象。
イメージや概念の組み合わせを顔の前に作り上げていくような方法です。
なので、聞いた話というのは自分と違うものとして
客観的に組み上げられていく感覚があるんです。
ただし、僕の顔の前には多分、いつもそういう概念の組み合わせのような構造があって、
それが僕の理解している客観的な情報体系になっているようです。
話を聞くときは、相手の言葉の内容を、僕の顔の前にある情報の体系と重ね合わせて
元あった情報の体系をリニューアルする形で内容が整理されていきます。
そのときに聞いている内容に矛盾があったり、
僕が作ってきた情報の体系に取り込もうとした時に繋がらない部分があると
話の内容と議論するような声が内側から沸きあがるような気がしています。
そういう話の聞き方をして、目の前に客観的な情報理解の体系を作るので
話が聞こえてくる場所というのは、その情報体系を描く場所よりも奥のほう、
前側にあるのが便利なんだと思います。
声の聞こえてくる場所と、自分の顔との間に、理解した内容を浮かべる場所がある。
そんな感じです。
一方、自分の体の中で体験して感じている内容も言葉にするときはあって、
その場合には目線を下げて、胸の中心か胃のあたりを眺めるような状態になり
ノドの奥のあたりでお腹に向かって独り言をつぶやくような心の声が聞こえます。
このノドの下あたりから腹部に向かって、体の中を通すような声を聞くやり方が
僕にとっての主観的な想いを言語化するときなんでしょう。
イヤホンを使って、耳元で声を聞く場合は、若干この印象に近いようです。
実際にイヤホンで聞くときは、後頭部から口のほうへ向かって
声が通っていく印象がありますが、声のトーンによっては
もっと低いところを通ることがあります。
なので、催眠的な声で語られる内容は、イヤホンのほうが体に染み込む感じはします。
イヤホンを使って、お腹に響くような声でメッセージを聞くと
なんだか自分を納得させられているような気分を感じます。
後ろから押さえつけられる感じというか、押し込まれる感じというか、
とにかく必要以上の説得力や受け入れやすさを感じてしまうんです。
この印象が僕だけのものかは分かりませんが、
他にも同じような聞き方をする人はいるだろうと推測されますから
その点では目的に応じて音の聞き方を変えるというのも役に立つ方法でしょう。
僕は本を読むときにも、目の前から心の声として本の内容を聞いていますので、
本を読むという行為は、他の人の話を聞いているときと近いわけです。
こういう理解の仕方をする人は、きっと音声教材をイヤホンで聞くのが
あまり好きではないような気がします。
むしろ自分で、その内容を文章から読んだほうが内容を理解しやすい。
逆に、相手の話を聞くときにも、文字で書かれた内容を理解するときにも、
自分の体の中に声を通して、自分が発話するようにして納得していくタイプの人は
きっと本を読むよりも朗読してもらったのを聞くほうが効率が良いのではないでしょうか。
人それぞれ、文章の内容の理解の仕方があって、
その方法に近い形で情報を客観的にインプットできると
きっと効率的な理解の仕方が可能になると思います。
同じ内容を色々なパターンに合わせて表現して作れたら
多くの人に伝わりやすいものになるかもしれません。
まぁ、技術的にも労力的にも大変でしょうが。
ちなみに、音を聞くという意味で言うと、音楽を聴くときも同様だと思われます。
目の前に置いたスピーカーから聞こえてる音楽と
イヤホンやヘッドホンで聞く音楽とでは随分と印象が違う気がします。
僕は特に、音楽を見るように聞く癖があったので
スピーカーのほうに向いて音楽を聞いていました。
それをイヤホンやヘッドホンにするだけで、かなり体に響く感じになります。
確かに、以前からイヤホンで聞くほうが気持ちが入りやすかったんですが、
それは音の聞こえてくる場所の影響もあったんだろうと思います。
音楽の場合には、体の後ろ側から聞くというケースもあります。
楽器演奏を後ろ側に置いて歌うようなライブを行う人たちは
背中側から音楽の響きを受けることになります。
BGMを後ろ側から聞く状態というのは、かなり体に響きやすく
その音楽の中に包み込まれて入り込みやすい状態だと考えられます。
コンサートやライブで歌手がノリノリになるのには
あのバックバンドの存在の意味もあるように思います。
合唱の人たちが数列に並ぶのも、一体感とともに
全員の声に体が包まれるようにして歌を聞けることで
その歌の中に入り込みやすい効果がありそうです。
後ろからの声というのは、それ自体が力づけの印象を与えるのかもしれません。
こういう調査を実生活に利用できる形にしてみたいものです。
たまにそういうのを聞くことがあります。
先日、移動中に音声を聞こうとしてMP3プレイヤーに入れて持って行きました。
で、イヤホンを使って聞いてみたんです。
すると話し声が耳元で聞こえます。
頭の上というか、後頭部あたりというか、
頭の中心よりも後ろ側から聞こえる感じがします。
すると全然、内容が頭に入ってきません。
同じ人の話を実際に聞いたこともありますし、
同じく音声をCD教材で聞いたこともあります。
そのときは内容が入ってくる。
なのに、イヤホンで聞くと途端に理解力が落ちる感じがします。
なんというか、自分で頑張って音の聞き方を工夫しないと
それを理解に繋げられない印象があったんです。
まぁ、しばらく聞いているうちに慣れてきましたが。
おそらく、僕は人の話を聞いて理解するときには
自分の前側から声が聞こえてくる状態でインプットしているんだと思います。
そして、そうやって前から音を受け取って、
話の内容も自分の頭の外で組み立てる感じがあります。
体の中に入れて感じるというよりも、目の前に話を組み立てていく印象。
イメージや概念の組み合わせを顔の前に作り上げていくような方法です。
なので、聞いた話というのは自分と違うものとして
客観的に組み上げられていく感覚があるんです。
ただし、僕の顔の前には多分、いつもそういう概念の組み合わせのような構造があって、
それが僕の理解している客観的な情報体系になっているようです。
話を聞くときは、相手の言葉の内容を、僕の顔の前にある情報の体系と重ね合わせて
元あった情報の体系をリニューアルする形で内容が整理されていきます。
そのときに聞いている内容に矛盾があったり、
僕が作ってきた情報の体系に取り込もうとした時に繋がらない部分があると
話の内容と議論するような声が内側から沸きあがるような気がしています。
そういう話の聞き方をして、目の前に客観的な情報理解の体系を作るので
話が聞こえてくる場所というのは、その情報体系を描く場所よりも奥のほう、
前側にあるのが便利なんだと思います。
声の聞こえてくる場所と、自分の顔との間に、理解した内容を浮かべる場所がある。
そんな感じです。
一方、自分の体の中で体験して感じている内容も言葉にするときはあって、
その場合には目線を下げて、胸の中心か胃のあたりを眺めるような状態になり
ノドの奥のあたりでお腹に向かって独り言をつぶやくような心の声が聞こえます。
このノドの下あたりから腹部に向かって、体の中を通すような声を聞くやり方が
僕にとっての主観的な想いを言語化するときなんでしょう。
イヤホンを使って、耳元で声を聞く場合は、若干この印象に近いようです。
実際にイヤホンで聞くときは、後頭部から口のほうへ向かって
声が通っていく印象がありますが、声のトーンによっては
もっと低いところを通ることがあります。
なので、催眠的な声で語られる内容は、イヤホンのほうが体に染み込む感じはします。
イヤホンを使って、お腹に響くような声でメッセージを聞くと
なんだか自分を納得させられているような気分を感じます。
後ろから押さえつけられる感じというか、押し込まれる感じというか、
とにかく必要以上の説得力や受け入れやすさを感じてしまうんです。
この印象が僕だけのものかは分かりませんが、
他にも同じような聞き方をする人はいるだろうと推測されますから
その点では目的に応じて音の聞き方を変えるというのも役に立つ方法でしょう。
僕は本を読むときにも、目の前から心の声として本の内容を聞いていますので、
本を読むという行為は、他の人の話を聞いているときと近いわけです。
こういう理解の仕方をする人は、きっと音声教材をイヤホンで聞くのが
あまり好きではないような気がします。
むしろ自分で、その内容を文章から読んだほうが内容を理解しやすい。
逆に、相手の話を聞くときにも、文字で書かれた内容を理解するときにも、
自分の体の中に声を通して、自分が発話するようにして納得していくタイプの人は
きっと本を読むよりも朗読してもらったのを聞くほうが効率が良いのではないでしょうか。
人それぞれ、文章の内容の理解の仕方があって、
その方法に近い形で情報を客観的にインプットできると
きっと効率的な理解の仕方が可能になると思います。
同じ内容を色々なパターンに合わせて表現して作れたら
多くの人に伝わりやすいものになるかもしれません。
まぁ、技術的にも労力的にも大変でしょうが。
ちなみに、音を聞くという意味で言うと、音楽を聴くときも同様だと思われます。
目の前に置いたスピーカーから聞こえてる音楽と
イヤホンやヘッドホンで聞く音楽とでは随分と印象が違う気がします。
僕は特に、音楽を見るように聞く癖があったので
スピーカーのほうに向いて音楽を聞いていました。
それをイヤホンやヘッドホンにするだけで、かなり体に響く感じになります。
確かに、以前からイヤホンで聞くほうが気持ちが入りやすかったんですが、
それは音の聞こえてくる場所の影響もあったんだろうと思います。
音楽の場合には、体の後ろ側から聞くというケースもあります。
楽器演奏を後ろ側に置いて歌うようなライブを行う人たちは
背中側から音楽の響きを受けることになります。
BGMを後ろ側から聞く状態というのは、かなり体に響きやすく
その音楽の中に包み込まれて入り込みやすい状態だと考えられます。
コンサートやライブで歌手がノリノリになるのには
あのバックバンドの存在の意味もあるように思います。
合唱の人たちが数列に並ぶのも、一体感とともに
全員の声に体が包まれるようにして歌を聞けることで
その歌の中に入り込みやすい効果がありそうです。
後ろからの声というのは、それ自体が力づけの印象を与えるのかもしれません。
こういう調査を実生活に利用できる形にしてみたいものです。
2009年11月10日
道具選び
最近のお買い物。
勉強しに行きたいセミナーに対してと、趣味に対してでは
金銭感覚が全く違うというのが、自分のことながら面白いものですね。

趣味でやっている書道とはいえ、目的もあってのことなので
完全に仕事と切り離した内容ではありませんが。
僕は結構、道具の違いを意識しやすいタイプのようです。
これは書道に限ったことではなく、スポーツに関してもそう。
道具にこだわっていると、「技術も大したことないのに…」というような
チョット照れたような恥ずかしいような気持ちがしないでもありません。
また、道具に対しても思い入れを持っているというほどでもなく、
技術がないからこそ、道具が変わったときの結果に意識が行きやすいのかもしれません。
どんな道具を手にしても、一応同じような動作をしようとするんだと思います。
その動作を結果基準ではなく、自分の体の感覚を基準にして
いつも通りのものにコントロールしようとする癖があるんでしょう。
だから道具を変えた場合、同じような動作をしたつもりなのに
道具から感じられる体の感覚へのフィードバックや、
動作の結果として得られるものが変わってくることに違和感があるんだと思われます。
書道でいえば、同じように手を動かして、同じように体感覚を感じようとしても、
筆の硬さや筆先の動き、毛のまとまり、墨の柔らかさ、紙の滑り方など
色々な感覚の違いが意識されてしまいます。
道具が違うと、書いているときの感覚が全く別物なんです。
仮に、文字が筆先によって描かれていく様子や、
筆先と紙の触れ方、筆先の動き方といった視覚情報を基準にして、
「書の出来栄え」という結果をコントロールしていたとしたら、
道具が変わったとしても、道具に合わせて自然と動作を変えて
いつも通りのパフォーマンスを発揮できると考えられます。
スポーツでも同じでしょう。
例えば、ゴルフや野球の場合、どんなゴルフクラブやバットを使っても
いつも通りにクラブやバットの打球部を動かすことができれば
道具を選ばずに同じような結果を出せると思います。
一見すると、道具を選ばない器用なタイプと思えるかもしれませんが、
実際には、道具の動き方をチェックポイントとして基準において、
その基準に対するフィードバックで動作をコントロールしているのかもしれません。
僕は、多分、その逆のタイプなんでしょう。
道具の動き方をチェックポイントにせずに、自分の筋肉の使い方や
体の各部の動き方、重さの感じ方などをチェックポイントとして、
いつも通りの動作そのものを再現しようとする。
だから道具が変わると、道具の動き方が全く変わってしまうわけです。
ゴルフや野球であれば、いつもと違うゴルフクラブやバットを使うと
同じようにスイングしたつもりでも、道具の挙動が予測と違っていて
全然上手くいかなかったりするんです。
バットが軽い場合など、当たっているはずの感覚でスイングしているのに
バットの動きが予想よりも速くなりすぎてしまって空振りしたりするということです。
道具を使って何かをする場合には、
道具の動き方を基準において調整をしていくタイプと
体の動き方や感じ方を基準において調整をしていくタイプと、
両方があるんじゃないでしょうか。
そして、道具にコダワリが出やすいのは、体基準のほう。
不器用なところもあるのかもしれませんが、
色々な違いを感じ取れて楽しい側面もあったりします。
ちなみに、今回購入した筆は羊毛のわりには細い芯のような弾力があります。
毛先の動きはハリがあるのに、全体としては柔らかい。
食べ物に例えると、アルデンテの手打ちパスタみたいな感じでしょうか。
軽く力を入れて穂先を操作しようとすると弾力があって揃いやすく、
ちょっと力を入れて筆の根元まで使おうとすると柔らかくできる。
強弱を表現しながら、線の端は綺麗に仕上がるような印象があります。
なんとなく、同じ書き方をしても上手そうに書けてしまいそうな気がします。
書きやすいし、楽なんですが、もうチョット難しいほうが
のちのち上手くなりそうな気もしていて、悩ましいところです。
そんな筆の個性を感じながら、書きたいものに合わせて筆が選べるようになったら
かなり楽しいんじゃないかと予想しています。
僕は少しピアノをやっていた時期もありますが、
いわゆる習い事程度だったので、自分の気持ちをピアノで表現できたりはしません。
「今日は気持ちを乗せてピアノでも弾いてみよう」なんてことはできないんです。
自分の内面を自由に乗せられる媒体が欲しい想いはありますから、
その意味でも筆には期待していたりもするのかもしれません。
勉強しに行きたいセミナーに対してと、趣味に対してでは
金銭感覚が全く違うというのが、自分のことながら面白いものですね。

趣味でやっている書道とはいえ、目的もあってのことなので
完全に仕事と切り離した内容ではありませんが。
僕は結構、道具の違いを意識しやすいタイプのようです。
これは書道に限ったことではなく、スポーツに関してもそう。
道具にこだわっていると、「技術も大したことないのに…」というような
チョット照れたような恥ずかしいような気持ちがしないでもありません。
また、道具に対しても思い入れを持っているというほどでもなく、
技術がないからこそ、道具が変わったときの結果に意識が行きやすいのかもしれません。
どんな道具を手にしても、一応同じような動作をしようとするんだと思います。
その動作を結果基準ではなく、自分の体の感覚を基準にして
いつも通りのものにコントロールしようとする癖があるんでしょう。
だから道具を変えた場合、同じような動作をしたつもりなのに
道具から感じられる体の感覚へのフィードバックや、
動作の結果として得られるものが変わってくることに違和感があるんだと思われます。
書道でいえば、同じように手を動かして、同じように体感覚を感じようとしても、
筆の硬さや筆先の動き、毛のまとまり、墨の柔らかさ、紙の滑り方など
色々な感覚の違いが意識されてしまいます。
道具が違うと、書いているときの感覚が全く別物なんです。
仮に、文字が筆先によって描かれていく様子や、
筆先と紙の触れ方、筆先の動き方といった視覚情報を基準にして、
「書の出来栄え」という結果をコントロールしていたとしたら、
道具が変わったとしても、道具に合わせて自然と動作を変えて
いつも通りのパフォーマンスを発揮できると考えられます。
スポーツでも同じでしょう。
例えば、ゴルフや野球の場合、どんなゴルフクラブやバットを使っても
いつも通りにクラブやバットの打球部を動かすことができれば
道具を選ばずに同じような結果を出せると思います。
一見すると、道具を選ばない器用なタイプと思えるかもしれませんが、
実際には、道具の動き方をチェックポイントとして基準において、
その基準に対するフィードバックで動作をコントロールしているのかもしれません。
僕は、多分、その逆のタイプなんでしょう。
道具の動き方をチェックポイントにせずに、自分の筋肉の使い方や
体の各部の動き方、重さの感じ方などをチェックポイントとして、
いつも通りの動作そのものを再現しようとする。
だから道具が変わると、道具の動き方が全く変わってしまうわけです。
ゴルフや野球であれば、いつもと違うゴルフクラブやバットを使うと
同じようにスイングしたつもりでも、道具の挙動が予測と違っていて
全然上手くいかなかったりするんです。
バットが軽い場合など、当たっているはずの感覚でスイングしているのに
バットの動きが予想よりも速くなりすぎてしまって空振りしたりするということです。
道具を使って何かをする場合には、
道具の動き方を基準において調整をしていくタイプと
体の動き方や感じ方を基準において調整をしていくタイプと、
両方があるんじゃないでしょうか。
そして、道具にコダワリが出やすいのは、体基準のほう。
不器用なところもあるのかもしれませんが、
色々な違いを感じ取れて楽しい側面もあったりします。
ちなみに、今回購入した筆は羊毛のわりには細い芯のような弾力があります。
毛先の動きはハリがあるのに、全体としては柔らかい。
食べ物に例えると、アルデンテの手打ちパスタみたいな感じでしょうか。
軽く力を入れて穂先を操作しようとすると弾力があって揃いやすく、
ちょっと力を入れて筆の根元まで使おうとすると柔らかくできる。
強弱を表現しながら、線の端は綺麗に仕上がるような印象があります。
なんとなく、同じ書き方をしても上手そうに書けてしまいそうな気がします。
書きやすいし、楽なんですが、もうチョット難しいほうが
のちのち上手くなりそうな気もしていて、悩ましいところです。
そんな筆の個性を感じながら、書きたいものに合わせて筆が選べるようになったら
かなり楽しいんじゃないかと予想しています。
僕は少しピアノをやっていた時期もありますが、
いわゆる習い事程度だったので、自分の気持ちをピアノで表現できたりはしません。
「今日は気持ちを乗せてピアノでも弾いてみよう」なんてことはできないんです。
自分の内面を自由に乗せられる媒体が欲しい想いはありますから、
その意味でも筆には期待していたりもするのかもしれません。
2009年11月09日
見えない世界
風邪やらインフルエンザやらが流行っているようです。
ホテルやセミナー会場、店舗など、至る所に消毒薬が置かれているのを見かけます。
この消毒薬、大体の場合がアルコール系です。
病院で患部の消毒に使われるのもアルコールですが、
器具や設備の消毒には、通称「オスバン」という消毒液が使われます。
これは強すぎない界面活性剤。
中性洗剤よりも弱い洗剤が薄められていると考えれば良いかと思います。
薄めた洗剤で消毒ができるのは、細菌の細胞膜を界面活性剤の成分が破壊できるから。
菌が洗剤で破裂するわけです。
アルコールで殺菌できる理由は厳密には分かっていないようですが、
70%ぐらいのアルコールの殺菌力が強いことは知られていて
よく使われる消毒用アルコールは大体この辺の濃度になっています。
仮説として言われるのは、アルコールの分子が細胞膜の間に入り込んで
細菌を破裂させるからだというもの。
アルコールでも菌が破裂するから殺菌できる、と。
僕は大学時代から会社にいた頃まで、ずっと微生物を使った研究をしていたので
この辺りのことは知識レベルでも、実感的な体験のレベルでも
それなりの情報を持っていると思います。
専門知識に近かったということです。
で、近頃よく見かける消毒液は、そのラベルから中身の成分を見てみると、
アルコールと界面活性剤、それと手荒れを防ぐための保湿成分が入っているぐらい。
殺菌力はあると考えて良いでしょう。
ところが、多くの風邪の原因はウイルスだということが知られていて、
冬に流行るインフルエンザも、ウイルスによって感染します。
ウイルスは細菌とは違うんです。
細胞ではない。
細胞膜がないんです。
もっと小さくて、タンパク質の塊に遺伝子が詰め込まれたような単純な形をしています。
ということは、細胞膜を破裂させると考えられているアルコールでは
ウイルスは破壊されない可能性が高いように考えられるわけです。
アルコールが作用するタイプのウイルスも知られていますが、
アルコールが全く効かないタイプのウイルスも知られています。
界面活性剤の成分はタンパク質の構造を変えるように作用して
ウイルスを破壊するのかもしれません。
その辺は、実験的にウイルスを破壊できるか調査していることでしょう。
きっと色々と検討して、最もウイルスを壊しやすい成分を選んではいるはずです。
ただ、細菌に対して作用するよりは、ウイルスに対する効果はずっと小さい。
一般的なウイルスが不活性化されるまでには、
少なくとも結構な時間がかかるようです。
1分間ずっと消毒液に手をつけていることはないでしょうから、
実際の使用状況を考えるとウイルスへの効果は高くないように僕には思えます。
商品には「ウイルス除去」と書いてあったりするので
洗い流すような効果も含まれているのかもしれません。
石鹸で丁寧に手を洗うのと、消毒薬を手にすりこむのと
どちらが病原体を除去するのに効果的なんでしょうか?
僕自身の体験的な知恵やイメージを含めると
手の消毒ということに関していえば、良く手を洗うほうが優先度は高い気がします。
水でも洗い流されることは十分にあるはずなんです。
ウイルスの除去の意味では、昔ながらの「うがい・手洗い」というのが
かなり効果的だと思われます。
こういう話は、僕がある程度、専門として扱っていた時期があるから気になることで、
僕なんかよりも、病原体の扱いを研究している人たちは遥かに詳しいでしょう。
それでも、僕の中の情報量として、微生物に関するものの比率は高いと思います。
消毒・殺菌の研究をする人たちには比べ物にならないとしても
ウイルスと細菌では性質が違っていて、消毒の仕組みも違うのは頭にあります。
そんな情報量があるからこそ、日常生活でも消毒液のことなんかが気にかかる。
ラベルを見て成分を調べたり、「これで効果がどの程度あるのか?」なんて
考えを巡らせてみたりするんだと思います。
僕が会社にいたころ、職場のメインテーマは研究活動でした。
会社がどうやって利益を上げているのかなんて、実感レベルでは感じられません。
というよりも気にしてさえいない。
それが会社を辞めたあたりから、世の中が違って見えました。
街中を歩いていても目にする店舗の経営を
「売り上げはどうか?」「単価はどれくらいか?」などと
気になるようになりました。
以前にあった店が違う店に変わったのを見たときも、
そこに店舗経営に関する様々な考えが浮かぶようになりました。
今、コミュニケーションや心理を扱うようになって
日常生活で視野に入る人の行動や振る舞いが
数年前とは全く違ったものとして見えている気がします。
知識や知恵があるから初めて得られる視点というのがある。
仕事の方向を変えたり、興味の方向が変わったりすると
自分の視点が変わることを実感できるように思います。
知らなかったことがあったという事実よりも、
気にしてさえいなかったことが沢山あったことに気づけます。
自分は世の中のことを全然知らないということを意識できます。
今までの自分と大きく違うことをやってみるというのは
その意味で学ぶことが多いようです。
心理系の勉強をしていると、「他人をジャッジしない」ことの大切さを耳にします。
自分の価値判断で他人を評価してはいけない、と。
これは少し危ない考え方を含んでいるようにも思えます。
他人を評価しないということは、何にも気づいていない可能性もあるからです。
大事なのは、「自分が自分の判断基準で他人を見ていることに気づいていない」状態を
自覚することではないでしょうか。
例えば「あの人には優しさが足りない」という判断をしているとき、
自分だけの判断基準で「優しい」かどうかを判断していることが多いでしょう。
自分が知っている情報でしか物事に気づくことができないのですから、
自分が知っている「優しさ」だけしか気づいていないかもしれないんです。
むしろ、積極的にジャッジできる基準を増やしていくほうが
役に立つ可能性もあると思います。
「優しさ」であれば、その判断基準を増やしていく。
自分が今まで「優しさ」として捉えていたことだけでなく、
他のごく少数の人が「優しさ」と捉えるようなことまで気づけるようになっていく。
もし、全ての人の持つ「優しさ」の基準を知り、
誰を見ても、その人の中に「優しさ」を見出せるようになれば、
そのとき初めて「あの人は優しい」と判断する必要がなくなるかもしれません。
「ありのままに感じる」というのは「何も判断しない」ということではなく、
「全てを知って、全てを自覚する」ということなのかもしれません。
「何も判断しない」というのは「何も気づいていない」のかもしれません。
「全てに気づいている」と「判断のしようがなくなる」のかもしれません。
そんなことを思いました。
ホテルやセミナー会場、店舗など、至る所に消毒薬が置かれているのを見かけます。
この消毒薬、大体の場合がアルコール系です。
病院で患部の消毒に使われるのもアルコールですが、
器具や設備の消毒には、通称「オスバン」という消毒液が使われます。
これは強すぎない界面活性剤。
中性洗剤よりも弱い洗剤が薄められていると考えれば良いかと思います。
薄めた洗剤で消毒ができるのは、細菌の細胞膜を界面活性剤の成分が破壊できるから。
菌が洗剤で破裂するわけです。
アルコールで殺菌できる理由は厳密には分かっていないようですが、
70%ぐらいのアルコールの殺菌力が強いことは知られていて
よく使われる消毒用アルコールは大体この辺の濃度になっています。
仮説として言われるのは、アルコールの分子が細胞膜の間に入り込んで
細菌を破裂させるからだというもの。
アルコールでも菌が破裂するから殺菌できる、と。
僕は大学時代から会社にいた頃まで、ずっと微生物を使った研究をしていたので
この辺りのことは知識レベルでも、実感的な体験のレベルでも
それなりの情報を持っていると思います。
専門知識に近かったということです。
で、近頃よく見かける消毒液は、そのラベルから中身の成分を見てみると、
アルコールと界面活性剤、それと手荒れを防ぐための保湿成分が入っているぐらい。
殺菌力はあると考えて良いでしょう。
ところが、多くの風邪の原因はウイルスだということが知られていて、
冬に流行るインフルエンザも、ウイルスによって感染します。
ウイルスは細菌とは違うんです。
細胞ではない。
細胞膜がないんです。
もっと小さくて、タンパク質の塊に遺伝子が詰め込まれたような単純な形をしています。
ということは、細胞膜を破裂させると考えられているアルコールでは
ウイルスは破壊されない可能性が高いように考えられるわけです。
アルコールが作用するタイプのウイルスも知られていますが、
アルコールが全く効かないタイプのウイルスも知られています。
界面活性剤の成分はタンパク質の構造を変えるように作用して
ウイルスを破壊するのかもしれません。
その辺は、実験的にウイルスを破壊できるか調査していることでしょう。
きっと色々と検討して、最もウイルスを壊しやすい成分を選んではいるはずです。
ただ、細菌に対して作用するよりは、ウイルスに対する効果はずっと小さい。
一般的なウイルスが不活性化されるまでには、
少なくとも結構な時間がかかるようです。
1分間ずっと消毒液に手をつけていることはないでしょうから、
実際の使用状況を考えるとウイルスへの効果は高くないように僕には思えます。
商品には「ウイルス除去」と書いてあったりするので
洗い流すような効果も含まれているのかもしれません。
石鹸で丁寧に手を洗うのと、消毒薬を手にすりこむのと
どちらが病原体を除去するのに効果的なんでしょうか?
僕自身の体験的な知恵やイメージを含めると
手の消毒ということに関していえば、良く手を洗うほうが優先度は高い気がします。
水でも洗い流されることは十分にあるはずなんです。
ウイルスの除去の意味では、昔ながらの「うがい・手洗い」というのが
かなり効果的だと思われます。
こういう話は、僕がある程度、専門として扱っていた時期があるから気になることで、
僕なんかよりも、病原体の扱いを研究している人たちは遥かに詳しいでしょう。
それでも、僕の中の情報量として、微生物に関するものの比率は高いと思います。
消毒・殺菌の研究をする人たちには比べ物にならないとしても
ウイルスと細菌では性質が違っていて、消毒の仕組みも違うのは頭にあります。
そんな情報量があるからこそ、日常生活でも消毒液のことなんかが気にかかる。
ラベルを見て成分を調べたり、「これで効果がどの程度あるのか?」なんて
考えを巡らせてみたりするんだと思います。
僕が会社にいたころ、職場のメインテーマは研究活動でした。
会社がどうやって利益を上げているのかなんて、実感レベルでは感じられません。
というよりも気にしてさえいない。
それが会社を辞めたあたりから、世の中が違って見えました。
街中を歩いていても目にする店舗の経営を
「売り上げはどうか?」「単価はどれくらいか?」などと
気になるようになりました。
以前にあった店が違う店に変わったのを見たときも、
そこに店舗経営に関する様々な考えが浮かぶようになりました。
今、コミュニケーションや心理を扱うようになって
日常生活で視野に入る人の行動や振る舞いが
数年前とは全く違ったものとして見えている気がします。
知識や知恵があるから初めて得られる視点というのがある。
仕事の方向を変えたり、興味の方向が変わったりすると
自分の視点が変わることを実感できるように思います。
知らなかったことがあったという事実よりも、
気にしてさえいなかったことが沢山あったことに気づけます。
自分は世の中のことを全然知らないということを意識できます。
今までの自分と大きく違うことをやってみるというのは
その意味で学ぶことが多いようです。
心理系の勉強をしていると、「他人をジャッジしない」ことの大切さを耳にします。
自分の価値判断で他人を評価してはいけない、と。
これは少し危ない考え方を含んでいるようにも思えます。
他人を評価しないということは、何にも気づいていない可能性もあるからです。
大事なのは、「自分が自分の判断基準で他人を見ていることに気づいていない」状態を
自覚することではないでしょうか。
例えば「あの人には優しさが足りない」という判断をしているとき、
自分だけの判断基準で「優しい」かどうかを判断していることが多いでしょう。
自分が知っている情報でしか物事に気づくことができないのですから、
自分が知っている「優しさ」だけしか気づいていないかもしれないんです。
むしろ、積極的にジャッジできる基準を増やしていくほうが
役に立つ可能性もあると思います。
「優しさ」であれば、その判断基準を増やしていく。
自分が今まで「優しさ」として捉えていたことだけでなく、
他のごく少数の人が「優しさ」と捉えるようなことまで気づけるようになっていく。
もし、全ての人の持つ「優しさ」の基準を知り、
誰を見ても、その人の中に「優しさ」を見出せるようになれば、
そのとき初めて「あの人は優しい」と判断する必要がなくなるかもしれません。
「ありのままに感じる」というのは「何も判断しない」ということではなく、
「全てを知って、全てを自覚する」ということなのかもしれません。
「何も判断しない」というのは「何も気づいていない」のかもしれません。
「全てに気づいている」と「判断のしようがなくなる」のかもしれません。
そんなことを思いました。
2009年11月07日
砂を噛む思い
アメリカと日本では随分と文化が違います。
僕は海外ドラマシリーズでは『LOST』だけは見ていますが、
そこにも普通にカウンセリングや精神科の場面が出てきますし、
メインの登場人物の中にも臨床心理士が入っていました。
職種的にも日本で受ける印象以上に一般的なものなんでしょう。
衆ごとに免許があったり、その資格の基準をチェックするような機関があったり、
仕組みとしても習慣としても、困ったら相談に行くという流れが自然なのかもしれません。
病気になったら医者に行く。
内面や人間関係でトラブルがあったらカウンセラーのところに行く。
そんな感覚なんでしょうか。
この辺の一般認識は聞いてみたいものだと思います。
ただ、そうした相談を受ける職業が一般的なのと同等か、それ以上に、
アメリカでは訴訟が一般的なようです。
すぐに裁判沙汰になる。
そのような家族間のトラブルをめぐる訴訟においても
判決の条件の中に「セラピーを受けること」という内容が入ったりもするそうです。
セラピストやカウンセラーが訴えられることも当然あるでしょう。
カウンセラーやセラピストが一般的である反面、
彼らの負う責任やリスクも大きいように思えます。
そういう背景においては、セラピーやカウンセリングの場面で
取り返しのつかない失敗をしてしまって苦しむこともあると思います。
何をもって失敗と呼ぶかは本人の受け取り方によるとは思いますが、
コミュニケーションを介してする仕事である以上、
ミスコミュニケーションとしての失敗は数えきれないぐらい含まれるはずです。
ただ、それでも何とか「結果オーライ」に持っていく。
その取り繕う能力というのも相談援助職に求められる技術でしょう。
そうした複雑なコミュニケーションの中で
間違いと自覚するほどのミスも避けられないのかもしれません。
そこで感じる後悔や自責の念が成長に繋がっていく。
失敗したことを反省して、技術を向上させていく。
全ての職業において起こることでしょうが、他人の人生に深く関わる仕事においては、
そこでの失敗の苦しみは相当強いものです。
そうした失敗からの学びに関して、こんな意見を目にしました。
アメリカのカウンセリングの大御所の一人、サムグレイディング。
カウンセラー教育指導協会の会長を担ってきたり、
カウンセリングの教科書を書いたりと、教育と実践に力を入れてきた人物です。
彼はこう言っています。
「セラピーにおける辛い経験というのは、貝のなかにある砂粒のようだ。
はじめは非常にいらだたしく感じる。
打ちのめされるほどのダメージを受けることもある。
しかし、忍耐強くジックリと時間をかければ、
真珠のように賢者の知恵にもなるものだと思う。」
綺麗なメタファーだと感じます。
失敗の痛みを自分の体の外に出そうとしないイメージなのが
僕にとって腑に落ちる部分です。
失敗したことや辛い気持ちを手放して
学んだことだけを活かして前に進んでいくスタンスもあるでしょう。
ですが、人と関わる以上、相手の心に対する自分自身の辛い体験は
自分自身の中に残していきたいような気持ちもあります。
じっくりと時間をかけて、小さな砂粒も真珠になるまで育んでいく。
そこには「簡単に片づけて分かったような気にならない」
という意味合いがありそうな気がします。
心の痛みが長く続くことがあります。
真珠になるまでは、それでいいのかもしれません。
僕は海外ドラマシリーズでは『LOST』だけは見ていますが、
そこにも普通にカウンセリングや精神科の場面が出てきますし、
メインの登場人物の中にも臨床心理士が入っていました。
職種的にも日本で受ける印象以上に一般的なものなんでしょう。
衆ごとに免許があったり、その資格の基準をチェックするような機関があったり、
仕組みとしても習慣としても、困ったら相談に行くという流れが自然なのかもしれません。
病気になったら医者に行く。
内面や人間関係でトラブルがあったらカウンセラーのところに行く。
そんな感覚なんでしょうか。
この辺の一般認識は聞いてみたいものだと思います。
ただ、そうした相談を受ける職業が一般的なのと同等か、それ以上に、
アメリカでは訴訟が一般的なようです。
すぐに裁判沙汰になる。
そのような家族間のトラブルをめぐる訴訟においても
判決の条件の中に「セラピーを受けること」という内容が入ったりもするそうです。
セラピストやカウンセラーが訴えられることも当然あるでしょう。
カウンセラーやセラピストが一般的である反面、
彼らの負う責任やリスクも大きいように思えます。
そういう背景においては、セラピーやカウンセリングの場面で
取り返しのつかない失敗をしてしまって苦しむこともあると思います。
何をもって失敗と呼ぶかは本人の受け取り方によるとは思いますが、
コミュニケーションを介してする仕事である以上、
ミスコミュニケーションとしての失敗は数えきれないぐらい含まれるはずです。
ただ、それでも何とか「結果オーライ」に持っていく。
その取り繕う能力というのも相談援助職に求められる技術でしょう。
そうした複雑なコミュニケーションの中で
間違いと自覚するほどのミスも避けられないのかもしれません。
そこで感じる後悔や自責の念が成長に繋がっていく。
失敗したことを反省して、技術を向上させていく。
全ての職業において起こることでしょうが、他人の人生に深く関わる仕事においては、
そこでの失敗の苦しみは相当強いものです。
そうした失敗からの学びに関して、こんな意見を目にしました。
アメリカのカウンセリングの大御所の一人、サムグレイディング。
カウンセラー教育指導協会の会長を担ってきたり、
カウンセリングの教科書を書いたりと、教育と実践に力を入れてきた人物です。
彼はこう言っています。
「セラピーにおける辛い経験というのは、貝のなかにある砂粒のようだ。
はじめは非常にいらだたしく感じる。
打ちのめされるほどのダメージを受けることもある。
しかし、忍耐強くジックリと時間をかければ、
真珠のように賢者の知恵にもなるものだと思う。」
綺麗なメタファーだと感じます。
失敗の痛みを自分の体の外に出そうとしないイメージなのが
僕にとって腑に落ちる部分です。
失敗したことや辛い気持ちを手放して
学んだことだけを活かして前に進んでいくスタンスもあるでしょう。
ですが、人と関わる以上、相手の心に対する自分自身の辛い体験は
自分自身の中に残していきたいような気持ちもあります。
じっくりと時間をかけて、小さな砂粒も真珠になるまで育んでいく。
そこには「簡単に片づけて分かったような気にならない」
という意味合いがありそうな気がします。
心の痛みが長く続くことがあります。
真珠になるまでは、それでいいのかもしれません。




