2009年07月04日
気体の状態方程式
高校の化学あたりでやった内容だと思いますが、
気体の性質を表す『状態方程式』というのがあります。
PV=nRT
で表され、Pは圧力、Vは体積、nは分子の数、Rは比例定数で、Tは温度です。
化学系で学習や実験を進めていくときには頻繁に出てくる内容。
物理化学とかで、よく使っていた記憶があります。
この式の意味をざっくりと解説すると…。
まず風船の中にガスが入っていると想像すると分かりやすいと思います。
そうすると風船の膨らんだ大きさがV(体積)に当たります。
で、風船の中の気圧がP。
気体の分子は高速で動きまわっています。
その分子が風船の中に何個入っているかがnです。
Rは数式の調整のための数値なので内容を理解するうえでは無視して大丈夫。
Tは風船の中の気温だと考えると良いと思います。
ここで圧力Pに着目すると、Pは分子の数と比例することになります。
同じ大きさの風船の中に、分子を沢山閉じ込めたほうが
ギュウギュウ詰めになって圧力が上がるというわけです。
気体の分子は高速で飛びまわっていると考えるので、
同じ体積の中に沢山の分子を入れて圧力が高まった状態にしたら
分子同士がぶつかり合う頻度が上がります。
ぶつかったときには運動エネルギーが消費されるので、
その分だけ熱エネルギーに変わります。
つまり、温度が上がるわけです。
圧力と温度も比例するということです。
今度は体積Vに着目すると、Vと圧力Pは反比例します。
同じ数の分子が入った風船の大きさ(=体積)を大きくすると
分子の数は変わらないので隙間が増えて密度が下がり、
気体分子が動き回って風船を広げようとする力(=圧力)も下がるわけです。
体積Vだけを大きくして、分子の数nを増やさないと、温度Tも下がります。
分子同士が運動して熱エネルギーが生まれますから
体積Vだけを大きくして風船の中をスカスカにしてしまうと
エネルギーが少なくなって温度が下がるんです。
体積Vを大きくして、圧力Pも温度Tも下げずにキープしようと思ったら
分子の数nを増やすしかないということを式は説明しているということです。
で、分子の数nを増やすと、圧力Pを変えないようにしていれば
体積Vが大きくなるか、温度が上がるかという変化に結びつきます。
分子の数が増えると、ぶつかりあう頻度も上がってエネルギーが増える。
ぶつからないようにするために、外に向かって広がろうとする圧力Pが増え、
そのときには熱エネルギーによって温度Tも上がります。
風船の中はエネルギーが高まって、大きく広がっていこうという力が上がる。
自然と体積が大きくなろうとする状態なわけです。
最後に温度Tに着目すれば、温度を上げることの影響も理解できます。
温度を上げるというのは運動を活発にすることを意味しますから、
同じ数の分子であれば、運動が大きくなる結果として風船を押し広げようとする力、
すなわち圧力が上がり、体積を増やそうとする方向に進むことになります。
逆に、温度を下げてしまうと運動が小さくなりますから
広がろうという力も小さくなっていくということです。
もし、分子の数を増やして、体積も圧力も変えないように維持しようとしたら
自然と分子同士はぶつかりあって熱エネルギーを上げていってしまうので、
逆に外から温度を下げるようにしてやる必要が出てくるわけです。
こんなことを考えていると、なんだか人間関係や組織の活性化にも
共通する部分があるように思えてきます。
組織の規模を体積V、
組織が大きく広がろうとする力を圧力P、
組織内の人数をn、
組織内のエネルギー、モチベーションを温度T、
という具合に置き換える。
すると、上手いこと組織のダイナミクスが説明できそうな気がします。
上記の説明を、人に置き換えながら読んでいただければ
その意味が実感できる人もいるかもしれません。
気体の性質を表す『状態方程式』というのがあります。
PV=nRT
で表され、Pは圧力、Vは体積、nは分子の数、Rは比例定数で、Tは温度です。
化学系で学習や実験を進めていくときには頻繁に出てくる内容。
物理化学とかで、よく使っていた記憶があります。
この式の意味をざっくりと解説すると…。
まず風船の中にガスが入っていると想像すると分かりやすいと思います。
そうすると風船の膨らんだ大きさがV(体積)に当たります。
で、風船の中の気圧がP。
気体の分子は高速で動きまわっています。
その分子が風船の中に何個入っているかがnです。
Rは数式の調整のための数値なので内容を理解するうえでは無視して大丈夫。
Tは風船の中の気温だと考えると良いと思います。
ここで圧力Pに着目すると、Pは分子の数と比例することになります。
同じ大きさの風船の中に、分子を沢山閉じ込めたほうが
ギュウギュウ詰めになって圧力が上がるというわけです。
気体の分子は高速で飛びまわっていると考えるので、
同じ体積の中に沢山の分子を入れて圧力が高まった状態にしたら
分子同士がぶつかり合う頻度が上がります。
ぶつかったときには運動エネルギーが消費されるので、
その分だけ熱エネルギーに変わります。
つまり、温度が上がるわけです。
圧力と温度も比例するということです。
今度は体積Vに着目すると、Vと圧力Pは反比例します。
同じ数の分子が入った風船の大きさ(=体積)を大きくすると
分子の数は変わらないので隙間が増えて密度が下がり、
気体分子が動き回って風船を広げようとする力(=圧力)も下がるわけです。
体積Vだけを大きくして、分子の数nを増やさないと、温度Tも下がります。
分子同士が運動して熱エネルギーが生まれますから
体積Vだけを大きくして風船の中をスカスカにしてしまうと
エネルギーが少なくなって温度が下がるんです。
体積Vを大きくして、圧力Pも温度Tも下げずにキープしようと思ったら
分子の数nを増やすしかないということを式は説明しているということです。
で、分子の数nを増やすと、圧力Pを変えないようにしていれば
体積Vが大きくなるか、温度が上がるかという変化に結びつきます。
分子の数が増えると、ぶつかりあう頻度も上がってエネルギーが増える。
ぶつからないようにするために、外に向かって広がろうとする圧力Pが増え、
そのときには熱エネルギーによって温度Tも上がります。
風船の中はエネルギーが高まって、大きく広がっていこうという力が上がる。
自然と体積が大きくなろうとする状態なわけです。
最後に温度Tに着目すれば、温度を上げることの影響も理解できます。
温度を上げるというのは運動を活発にすることを意味しますから、
同じ数の分子であれば、運動が大きくなる結果として風船を押し広げようとする力、
すなわち圧力が上がり、体積を増やそうとする方向に進むことになります。
逆に、温度を下げてしまうと運動が小さくなりますから
広がろうという力も小さくなっていくということです。
もし、分子の数を増やして、体積も圧力も変えないように維持しようとしたら
自然と分子同士はぶつかりあって熱エネルギーを上げていってしまうので、
逆に外から温度を下げるようにしてやる必要が出てくるわけです。
こんなことを考えていると、なんだか人間関係や組織の活性化にも
共通する部分があるように思えてきます。
組織の規模を体積V、
組織が大きく広がろうとする力を圧力P、
組織内の人数をn、
組織内のエネルギー、モチベーションを温度T、
という具合に置き換える。
すると、上手いこと組織のダイナミクスが説明できそうな気がします。
上記の説明を、人に置き換えながら読んでいただければ
その意味が実感できる人もいるかもしれません。
2009年07月02日
骨
先日、『山中俊治ディレクション「骨」展』に行ってきました。
ディレクターの山中氏は慶応大学で教授も務めるプロダクトデザイナー。
JR 改札の SUICA のタッチセンサーを開発した方です。
初めて SUICA を導入するにあたって、カードをタッチするという作業を
誰もが直感的に行えるような形をデザインしたわけです。
その作業は単純な試行錯誤の連続だったそうですが、
結果として生まれた微妙な傾斜によって、日本全国の改札に広まることになりました。
最初は「慣れない人達が、いかに直感的に操作を理解できるか」が
デザインに求められていたわけですが、そのデザインが普及するほどに
誰もが操作法を覚えてしまうようになって、デザインの意味がなくなっていく。
その部分に刹那的なものを感じると語っていました。
製品をデザインする上では、外見の中に機能が含まれることが多く、
それが洗練されてくると何とも言えない美しさ、「用の美」が生まれるようです。
人にとって使いやすいものには美しさが宿るというのは
そもそも人間の持つ美意識というものが、どこからやってくるのかを
理解する1つのキッカケになるのかもしれません。
この展示会では「骨」がテーマになっていましたから
実際の生物の骨から、工業製品の「骨」と呼べるようなものまで
広い範囲で作品が展示されています。
一通り眺めてみて感じるのは、骨というものの機能に対する想いでした。
考えさせられたわけです。
特に、工業製品の骨と言われた場合には、
そこに動物の骨とは異質な何かを感じます。
自動車には骨格やフレームと呼ばれる土台のような部品があります。
これも展示されていましたが、「車の骨」と言われると直感的に、そんな気がします。
ところが椅子の骨、机の骨、掃除機の骨、時計の骨と言われると
なんだか理解しがたいところがある。
たしかに、機械式時計の中身を分解して展示してあるところは、
それはもうメチャクチャ美しいです。
意味の分からない小さな部品。
どうしてこんな形をしているのか理解ができないけれど、
それらが組み合わさって時計としての機能を生み出す数々の部品。
一つ一つが芸術品のようです。
僕は時計に興味がありませんでしたし、腕時計をつけるのも好きじゃありませんが、
ああいう機械式時計の中身を見せられると一気に関心が高まります。
たぶん、僕が機械式の時計を買ったら、外側から時計を眺めながらも
心の中で時計の中で動いている細かい部品同士のエレガントな動きを
勝手に想像して楽しむことになるんだろうと思います。
完全に中身が透けて見えるような時計があったら買っちゃうかもしれません。
文字盤は見ずらいでしょうけど。
ただ、そんなに美しい時計とはいえ、「時計の骨」と言われると
どれが骨と呼ぶに相応しいかは分かりにくくなってしまったんです。
そこで生物の骨のほうへと意識を向けてみました。
そこでは進化を踏まえた分子細胞生物学からも解剖学からも、
さまざまな観点から骨を眺めることができるでしょう。
骨は進化的に見ていったとき、カルシウムの貯蔵庫としての役割があります。
原始の海にはカルシウムイオンが豊富に存在していた。
そのなかで体内にカルシウムを蓄積させられた生物が
カルシウムの少ない淡水域に活動範囲を広げていったという説です。
その説の信憑性はともかく、カルシウムが細胞分裂を始めとして
あらゆる生物にとって不可欠であることは間違いないところでしょう。
もちろん、骨には形態を支えるためのフレームとしての働きもあります。
骨も生体の一部であって、細胞によって生み出される器官です。
骨は成長するし、生まれ変わっていく体の一部分でもある。
生物という1つのシステムの一部分なわけです。
皮膚や内臓、筋肉などと同様に体の一部分だということです。
ただ、骨はリン酸カルシウムの結晶を主成分に持つために
生命活動を終えたあとも形を残していきやすい性質を持っている。
そこに他の器官とは別の印象を感じるだけであって
生命というシステムとして見たときには他の器官と同様だという話になります。
僕個人としては、そうした生物的な意味合いの他に
形態や外見というデザインを含めた観点からすれば、
骨には他の身体器官にはない意味があるとも思うんです。
例えば、全身の血管を並べて眺めてみたとき
その人の外見を想像するのは難しいでしょう。
指紋や眼球は、個人を特定できる要素を含んでいますし、
DNAを調べれば誰であるかは特定できますが、その人の外見は分かりません。
その点、骨は骨だけを見て、その人の外見を想像できる部品だと思えます。
最近、ターミネーター4の映画が公開されていますが、
ターミネーターの頭の骨を見れば、シュワルツネッガーの顔が想像できます。
骨は、他の器官と比べて外見に対する影響が強いと思うんです。
そうやって考えると、工業製品の骨というものも少しイメージしやすくなります。
その製品らしい形を決める部品ということでしょうか。
近年に開発されていく電子工業製品は、小型・薄型という
省スペースの方向に進む傾向が見受けられます。
そこでは機能が優先されているわけです。
必要な機能を満たすために最適な骨格が決まっていく。
同時に、その骨格が全体のデザインにも大きな影響を与える。
デザインと機能は切っても切り離せない関係にあって、
それを繋ぐものが骨なのかもしれません。
生物の形は機能と密接に関係しているように思えます。
鳥は空を飛ぶために、魚は水中を泳ぐために適した形をしている。
その形と機能の両方を支えているのが骨ではないだろうか。
そんな風に思えてきたわけです。
これから先の製品には、そんな"骨のある"ものが増えていくのかもしれません。
ディレクターの山中氏は慶応大学で教授も務めるプロダクトデザイナー。
JR 改札の SUICA のタッチセンサーを開発した方です。
初めて SUICA を導入するにあたって、カードをタッチするという作業を
誰もが直感的に行えるような形をデザインしたわけです。
その作業は単純な試行錯誤の連続だったそうですが、
結果として生まれた微妙な傾斜によって、日本全国の改札に広まることになりました。
最初は「慣れない人達が、いかに直感的に操作を理解できるか」が
デザインに求められていたわけですが、そのデザインが普及するほどに
誰もが操作法を覚えてしまうようになって、デザインの意味がなくなっていく。
その部分に刹那的なものを感じると語っていました。
製品をデザインする上では、外見の中に機能が含まれることが多く、
それが洗練されてくると何とも言えない美しさ、「用の美」が生まれるようです。
人にとって使いやすいものには美しさが宿るというのは
そもそも人間の持つ美意識というものが、どこからやってくるのかを
理解する1つのキッカケになるのかもしれません。
この展示会では「骨」がテーマになっていましたから
実際の生物の骨から、工業製品の「骨」と呼べるようなものまで
広い範囲で作品が展示されています。
一通り眺めてみて感じるのは、骨というものの機能に対する想いでした。
考えさせられたわけです。
特に、工業製品の骨と言われた場合には、
そこに動物の骨とは異質な何かを感じます。
自動車には骨格やフレームと呼ばれる土台のような部品があります。
これも展示されていましたが、「車の骨」と言われると直感的に、そんな気がします。
ところが椅子の骨、机の骨、掃除機の骨、時計の骨と言われると
なんだか理解しがたいところがある。
たしかに、機械式時計の中身を分解して展示してあるところは、
それはもうメチャクチャ美しいです。
意味の分からない小さな部品。
どうしてこんな形をしているのか理解ができないけれど、
それらが組み合わさって時計としての機能を生み出す数々の部品。
一つ一つが芸術品のようです。
僕は時計に興味がありませんでしたし、腕時計をつけるのも好きじゃありませんが、
ああいう機械式時計の中身を見せられると一気に関心が高まります。
たぶん、僕が機械式の時計を買ったら、外側から時計を眺めながらも
心の中で時計の中で動いている細かい部品同士のエレガントな動きを
勝手に想像して楽しむことになるんだろうと思います。
完全に中身が透けて見えるような時計があったら買っちゃうかもしれません。
文字盤は見ずらいでしょうけど。
ただ、そんなに美しい時計とはいえ、「時計の骨」と言われると
どれが骨と呼ぶに相応しいかは分かりにくくなってしまったんです。
そこで生物の骨のほうへと意識を向けてみました。
そこでは進化を踏まえた分子細胞生物学からも解剖学からも、
さまざまな観点から骨を眺めることができるでしょう。
骨は進化的に見ていったとき、カルシウムの貯蔵庫としての役割があります。
原始の海にはカルシウムイオンが豊富に存在していた。
そのなかで体内にカルシウムを蓄積させられた生物が
カルシウムの少ない淡水域に活動範囲を広げていったという説です。
その説の信憑性はともかく、カルシウムが細胞分裂を始めとして
あらゆる生物にとって不可欠であることは間違いないところでしょう。
もちろん、骨には形態を支えるためのフレームとしての働きもあります。
骨も生体の一部であって、細胞によって生み出される器官です。
骨は成長するし、生まれ変わっていく体の一部分でもある。
生物という1つのシステムの一部分なわけです。
皮膚や内臓、筋肉などと同様に体の一部分だということです。
ただ、骨はリン酸カルシウムの結晶を主成分に持つために
生命活動を終えたあとも形を残していきやすい性質を持っている。
そこに他の器官とは別の印象を感じるだけであって
生命というシステムとして見たときには他の器官と同様だという話になります。
僕個人としては、そうした生物的な意味合いの他に
形態や外見というデザインを含めた観点からすれば、
骨には他の身体器官にはない意味があるとも思うんです。
例えば、全身の血管を並べて眺めてみたとき
その人の外見を想像するのは難しいでしょう。
指紋や眼球は、個人を特定できる要素を含んでいますし、
DNAを調べれば誰であるかは特定できますが、その人の外見は分かりません。
その点、骨は骨だけを見て、その人の外見を想像できる部品だと思えます。
最近、ターミネーター4の映画が公開されていますが、
ターミネーターの頭の骨を見れば、シュワルツネッガーの顔が想像できます。
骨は、他の器官と比べて外見に対する影響が強いと思うんです。
そうやって考えると、工業製品の骨というものも少しイメージしやすくなります。
その製品らしい形を決める部品ということでしょうか。
近年に開発されていく電子工業製品は、小型・薄型という
省スペースの方向に進む傾向が見受けられます。
そこでは機能が優先されているわけです。
必要な機能を満たすために最適な骨格が決まっていく。
同時に、その骨格が全体のデザインにも大きな影響を与える。
デザインと機能は切っても切り離せない関係にあって、
それを繋ぐものが骨なのかもしれません。
生物の形は機能と密接に関係しているように思えます。
鳥は空を飛ぶために、魚は水中を泳ぐために適した形をしている。
その形と機能の両方を支えているのが骨ではないだろうか。
そんな風に思えてきたわけです。
これから先の製品には、そんな"骨のある"ものが増えていくのかもしれません。
2009年07月01日
7月の勉強会
7月の勉強会のお知らせ
久しぶりの勉強会開催となります。
日時は7月20日(月・祝)の10時から。
今回は「言葉」という部分に、こだわってみようと考えています。
論理や話の分かりやすさ、質問の仕方など、広く関わる部分です。
自分自身の思考力を磨くためにも大切なテーマになるだろうと思います。
さて、質問というと学校で習った「5W1H」というのが思い出されるかもしれません。
しかし、「5W1H」の質問では不十分です。
日常会話というレベルであれば、そのような質問で話を進めていても
さほど問題になることはないでしょうし、話がふくらむこともあるでしょう。
ただ、コミュニケーションや人の心という部分にフォーカスを合わせていったときには、
質問は、はるかに意図を持ってする必要があります。
『何を知ろうとしてする質問か』を意識するということです。
その意味において、「なぜ」という質問は効率的ではありません。
相手に対して投げかける質問としても、自分自身への問いかけとしても、です。
NLPには「メタモデル」と呼ばれる質問の形式がありますが、
そのなかにも「なぜ」という質問は含まれません。
「『なぜ』と聞いても言い訳を聞くことになる」などというのが
巷で一般的に言われる説明のようですが、それは正確ではないでしょう。
「『なぜ』と聞かれると問い詰められる印象になる」というのも
十分に説明しきれているものとは言えません。
それこそ『なぜ』、言い訳を聞くことになるのか?という話です。
また、コンサルティングの場面においては「なぜ」という質問が頻繁に使われます。
ロジカルシンキングとか原因分析とかというものです。
現状をよく分析して、対策を練っていく。
これが効果的な視点として機能しているからこそ使われるのでしょうが、
この場合の「なぜ」が効果を発揮する1つの要因は客観性にあると考えられます。
出来事や現状を自分と切り離して客観的に分析すれば、
「なぜ」という質問が効果を発揮することはあるわけです。
一方、自分自身の考えや本人の問題について「なぜ」と問いかけた場合には
様々な思いが混乱して表れてきてしまいがちです。
その中には自分の立場を守りたいような気持ちも含まれてきます。
これでは客観的な分析は難しいでしょう。
そして、ロジカルシンキングでは「なぜ」を繰り返して問い続けます。
「なぜ」に対する答えを出し尽くそうとする。
この部分も有効に働いているはずです。
自分自身について「なぜ?」「なぜ?」と繰り返し問い詰められたら
答えることに対して負担が大きくなってしまうもの。
個人的な話題に関しては「なぜ」を繰り返しにくいことも
「なぜ」という質問がコミュニケーションにおいて不十分な理由と言えます。
ロジカルシンキングで効果的な「なぜ」も、コミュニケーションという
人間同士の交流の場面においては効率的ではないわけです。
以上のことは「なぜ」という質問が、理由を尋ねる言葉であることと関係しています。
そもそも理由は1つに限定されないことが多いものです。
物事は複雑に絡み合っている。
そこで理由を尋ねると、自分にとって最も馴染みのある説明の仕方が
答えであるかのように言葉にされてしまうんです。
「なぜ」と聞かれたときの答え方にも癖があるわけです。
「なぜ」と聞かれて自分の動機を答える人もいます。
「なぜ」と聞かれて客観的な正当性を話す人もいます。
「なぜ」と聞かれて自分のルールを話す人もいます。
その人が答えやすい答え、つまり普段から意識している答えが
「なぜ」の質問に対しては出てきやすいんです。
これでは「なぜ」と聞いたところで、有効な答えは得られません。
その理由は本人が自覚している。
もし、問題解決のために理由を探そうとしているなら、
既に知っていて役に立たなかった理由を話しても、何も進まないわけです。
ロジカルシンキングの場合には「なぜ」を繰り返して問い続けますから
普段は意識していなかったような理由も出てくる可能性があります。
意味があるはずです。
ただ、ロジカルシンキングであったとしても、「なぜ」という質問だけでは
本人の意識の向け方の癖が生み出す影響を取り去ることはできません。
より効果的にするために、「なぜ」という質問の形を使いながら
自分が何を知ろうとしているのかに意識を向けることが必要です。
「なぜ」という質問が有効でない一番の理由。
それは「なぜ」という質問で知ろうとしている内容が曖昧だということです。
質問をする側が、知ろうとしている内容を明確にすることができれば
「なぜ」という質問を使う必要がなくなるんです。
それは別の例に置き換えて説明すると
「いつ?」と聞くか、「何時何分?」と聞くかという違いに似ています。
出張で乗る飛行機を予約するときには、その後の行動予定なども踏まえて
「何月何日、何時何分の飛行機か」というのを明確にしておくのが一般的でしょう。
飛行機の時間を知りたければ「何時何分の便ですか?」と聞くわけです。
「いつの便ですか?」と聞いたときには、「7月25日です」というように
知りたかった情報と違う答えが帰ってきてしまうかもしれません。
「なぜ」という質問は理由を聞くときに用いられるものですが、
どのような理由を答えるかは、答える側に委ねてしまっている形式なんです。
理由と呼べるようなものは1つではない。
周辺には沢山の情報があるんです。
そのことを質問する側が意識していないから、
「なぜ」という曖昧な質問になってしまう。
質問する側は自分が何を知ろうとしているのかを意識するためにも
理由や論理といった「人の心の中で情報がどのように整理されているか」の構造を
理解しておくことが大切だということです。
今回の勉強会のメインテーマは、まさにこの部分。
相手の心の中を理解するために、意識というものの構造を理解しようというわけです。
シンプルな構造として理解できるようになると、他人の話が分かりやすくなります。
他の人からすると「話が飛ぶ」と言われるような人に対しても
話を理解しやすくなりますし、話の流れを取り戻すこともしやすくなります。
言葉の使い方が難しくて理解しにくいような内容も
随分と追いかけやすくなるでしょう。
同時に、自分が「分からない」部分を意識できるようになります。
「分からない」部分が分かれば、質問によって理解を深めることができるはずです。
何を質問すれば良いかが明確になってくるわけです。
また、自分が話をするときにも「分かりやすい」構成を作りやすくなるでしょう。
論理的に説明するということの意味をご理解いただけるものと期待しています。
NLPを学んだ方であれば「メタモデル」の部分への理解を深めて頂けると思いますし、
質問力へ興味をお持ちの方にもオススメのテーマだと思います。
質問や論理という言葉の内容を深めるためには
言葉だけではない情報の構造を理解しておく必要がある。
そんな少し逆説的なテーマになるでしょう。
言葉に対して苦手意識がある方こそ、
言葉になる前の構造を理解することが役に立つはずです。
言語能力に自信をお持ちなのであれば、相手を理解するために、
言葉の裏側にあるものを捉えやすくなるのではないでしょうか。
こまめに実習を挟みながら、理解を深めて頂こうと考えております。
ご興味とご都合が合いましたら、是非お越し下さい。
※最近は多くの方からお申し込みを頂いています。
定員を設けていますので、ご注意ください。
定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。
詳細は以下のとおりです。
※勉強会の趣旨に関しましては
勉強会070725 ( http://rikei.livedoor.biz/archives/50205495.html )をご覧下さい。
【勉強会の詳細】
【日時】 7月20日(月・祝)
◆午前の部 10:00〜12:30
◆午後の部 13:30〜16:30
★午前、午後いずれかのご参加も可能です。
【場所】 北とぴあ 803会議室
(JR京浜東北線・王子駅北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅、5番出口直結)
【参加費】当日、会場にてお支払いください。
◆午前の部 ・・・4,000円
◆午後の部 ・・・5,000円
◆午前・午後両方ご参加の場合 ・・・7,000円
テーマ: 『論理と質問』〜メタモデルを含めて〜
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
言葉がコミュニケーションの全てではありません。
言葉以外のコミュニケーションが、その質を向上させる部分は大きいと思います。
その一方で、人間は言語活動を通じて様々なものを発展させてきた部分もあるでしょう。
物事を考えるというプロセスの大半は言語を介して行われるはずです。
言語に関する理解を深めれば、考える力が高まると予測されます。
ところで、コミュニケーションの醍醐味の1つに
「共同で何かを生み出す」というプロセスがあるような気がします。
何かの目的に向かって、他者と意思を伝えあい、協力して進んでいく。
その過程にあってはコミュニケーションが不可欠でしょう。
そこで必要なのは言葉のコミュニケーションだけではありません。
ミュージシャン同士がアドリブで1つの音楽を作り上げていく光景などは
言葉を使わないコミュニケーションを介して新しいものを生み出す典型例だと思います。
とはいえ、それは多くの人が気軽に体験できるものではありません。
言葉を上手く利用すれば、コミュニケーションによって何かが生まれる瞬間を
多くの人が体験できるだろうと思うんです。
カウンセリングはクライアントの問題を解決する方向を共同で生み出す作業、
コーチングは目標に向かうための道筋を共同で生み出す作業と言えるでしょう。
会議や打ち合わせ、ディスカッション、ブレインストーミングなどは
話し合いを通じてプランやアイデアを生み出すための作業と言えます。
そうした作業の目的は、1つのことを共有するだけに終わらないはずです。
共同作業を通じて、一人では生み出し得ない何かを作り出す。
お互いのリソースを活用して、効果的に新しいものを生み出すわけです。
お互いの脳ミソを繋ぎ合わせながら、新しく何かが紡ぎだされてくるプロセスは、
なんとも言えない知的な興奮や楽しさを伴うものです。
そして、その感動は多くの場合、言葉になって表現された瞬間に訪れます。
言葉によって形になるということです。
そんな喜びを感じられる能力が人間に備わっているということは
それが人間にとって大切なものだからかもしれない…。
そうやって想像してみると、言葉に対して意識を高めてみる時間を取ることは
意外と有意義なことのように思いますが、いかがでしょうか?
参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています
久しぶりの勉強会開催となります。
日時は7月20日(月・祝)の10時から。
今回は「言葉」という部分に、こだわってみようと考えています。
論理や話の分かりやすさ、質問の仕方など、広く関わる部分です。
自分自身の思考力を磨くためにも大切なテーマになるだろうと思います。
さて、質問というと学校で習った「5W1H」というのが思い出されるかもしれません。
しかし、「5W1H」の質問では不十分です。
日常会話というレベルであれば、そのような質問で話を進めていても
さほど問題になることはないでしょうし、話がふくらむこともあるでしょう。
ただ、コミュニケーションや人の心という部分にフォーカスを合わせていったときには、
質問は、はるかに意図を持ってする必要があります。
『何を知ろうとしてする質問か』を意識するということです。
その意味において、「なぜ」という質問は効率的ではありません。
相手に対して投げかける質問としても、自分自身への問いかけとしても、です。
NLPには「メタモデル」と呼ばれる質問の形式がありますが、
そのなかにも「なぜ」という質問は含まれません。
「『なぜ』と聞いても言い訳を聞くことになる」などというのが
巷で一般的に言われる説明のようですが、それは正確ではないでしょう。
「『なぜ』と聞かれると問い詰められる印象になる」というのも
十分に説明しきれているものとは言えません。
それこそ『なぜ』、言い訳を聞くことになるのか?という話です。
また、コンサルティングの場面においては「なぜ」という質問が頻繁に使われます。
ロジカルシンキングとか原因分析とかというものです。
現状をよく分析して、対策を練っていく。
これが効果的な視点として機能しているからこそ使われるのでしょうが、
この場合の「なぜ」が効果を発揮する1つの要因は客観性にあると考えられます。
出来事や現状を自分と切り離して客観的に分析すれば、
「なぜ」という質問が効果を発揮することはあるわけです。
一方、自分自身の考えや本人の問題について「なぜ」と問いかけた場合には
様々な思いが混乱して表れてきてしまいがちです。
その中には自分の立場を守りたいような気持ちも含まれてきます。
これでは客観的な分析は難しいでしょう。
そして、ロジカルシンキングでは「なぜ」を繰り返して問い続けます。
「なぜ」に対する答えを出し尽くそうとする。
この部分も有効に働いているはずです。
自分自身について「なぜ?」「なぜ?」と繰り返し問い詰められたら
答えることに対して負担が大きくなってしまうもの。
個人的な話題に関しては「なぜ」を繰り返しにくいことも
「なぜ」という質問がコミュニケーションにおいて不十分な理由と言えます。
ロジカルシンキングで効果的な「なぜ」も、コミュニケーションという
人間同士の交流の場面においては効率的ではないわけです。
以上のことは「なぜ」という質問が、理由を尋ねる言葉であることと関係しています。
そもそも理由は1つに限定されないことが多いものです。
物事は複雑に絡み合っている。
そこで理由を尋ねると、自分にとって最も馴染みのある説明の仕方が
答えであるかのように言葉にされてしまうんです。
「なぜ」と聞かれたときの答え方にも癖があるわけです。
「なぜ」と聞かれて自分の動機を答える人もいます。
「なぜ」と聞かれて客観的な正当性を話す人もいます。
「なぜ」と聞かれて自分のルールを話す人もいます。
その人が答えやすい答え、つまり普段から意識している答えが
「なぜ」の質問に対しては出てきやすいんです。
これでは「なぜ」と聞いたところで、有効な答えは得られません。
その理由は本人が自覚している。
もし、問題解決のために理由を探そうとしているなら、
既に知っていて役に立たなかった理由を話しても、何も進まないわけです。
ロジカルシンキングの場合には「なぜ」を繰り返して問い続けますから
普段は意識していなかったような理由も出てくる可能性があります。
意味があるはずです。
ただ、ロジカルシンキングであったとしても、「なぜ」という質問だけでは
本人の意識の向け方の癖が生み出す影響を取り去ることはできません。
より効果的にするために、「なぜ」という質問の形を使いながら
自分が何を知ろうとしているのかに意識を向けることが必要です。
「なぜ」という質問が有効でない一番の理由。
それは「なぜ」という質問で知ろうとしている内容が曖昧だということです。
質問をする側が、知ろうとしている内容を明確にすることができれば
「なぜ」という質問を使う必要がなくなるんです。
それは別の例に置き換えて説明すると
「いつ?」と聞くか、「何時何分?」と聞くかという違いに似ています。
出張で乗る飛行機を予約するときには、その後の行動予定なども踏まえて
「何月何日、何時何分の飛行機か」というのを明確にしておくのが一般的でしょう。
飛行機の時間を知りたければ「何時何分の便ですか?」と聞くわけです。
「いつの便ですか?」と聞いたときには、「7月25日です」というように
知りたかった情報と違う答えが帰ってきてしまうかもしれません。
「なぜ」という質問は理由を聞くときに用いられるものですが、
どのような理由を答えるかは、答える側に委ねてしまっている形式なんです。
理由と呼べるようなものは1つではない。
周辺には沢山の情報があるんです。
そのことを質問する側が意識していないから、
「なぜ」という曖昧な質問になってしまう。
質問する側は自分が何を知ろうとしているのかを意識するためにも
理由や論理といった「人の心の中で情報がどのように整理されているか」の構造を
理解しておくことが大切だということです。
今回の勉強会のメインテーマは、まさにこの部分。
相手の心の中を理解するために、意識というものの構造を理解しようというわけです。
シンプルな構造として理解できるようになると、他人の話が分かりやすくなります。
他の人からすると「話が飛ぶ」と言われるような人に対しても
話を理解しやすくなりますし、話の流れを取り戻すこともしやすくなります。
言葉の使い方が難しくて理解しにくいような内容も
随分と追いかけやすくなるでしょう。
同時に、自分が「分からない」部分を意識できるようになります。
「分からない」部分が分かれば、質問によって理解を深めることができるはずです。
何を質問すれば良いかが明確になってくるわけです。
また、自分が話をするときにも「分かりやすい」構成を作りやすくなるでしょう。
論理的に説明するということの意味をご理解いただけるものと期待しています。
NLPを学んだ方であれば「メタモデル」の部分への理解を深めて頂けると思いますし、
質問力へ興味をお持ちの方にもオススメのテーマだと思います。
質問や論理という言葉の内容を深めるためには
言葉だけではない情報の構造を理解しておく必要がある。
そんな少し逆説的なテーマになるでしょう。
言葉に対して苦手意識がある方こそ、
言葉になる前の構造を理解することが役に立つはずです。
言語能力に自信をお持ちなのであれば、相手を理解するために、
言葉の裏側にあるものを捉えやすくなるのではないでしょうか。
こまめに実習を挟みながら、理解を深めて頂こうと考えております。
ご興味とご都合が合いましたら、是非お越し下さい。
※最近は多くの方からお申し込みを頂いています。
定員を設けていますので、ご注意ください。
定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。
詳細は以下のとおりです。
※勉強会の趣旨に関しましては
勉強会070725 ( http://rikei.livedoor.biz/archives/50205495.html )をご覧下さい。
【勉強会の詳細】
【日時】 7月20日(月・祝)
◆午前の部 10:00〜12:30
◆午後の部 13:30〜16:30
★午前、午後いずれかのご参加も可能です。
【場所】 北とぴあ 803会議室
(JR京浜東北線・王子駅北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅、5番出口直結)
【参加費】当日、会場にてお支払いください。
◆午前の部 ・・・4,000円
◆午後の部 ・・・5,000円
◆午前・午後両方ご参加の場合 ・・・7,000円
テーマ: 『論理と質問』〜メタモデルを含めて〜
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
言葉がコミュニケーションの全てではありません。
言葉以外のコミュニケーションが、その質を向上させる部分は大きいと思います。
その一方で、人間は言語活動を通じて様々なものを発展させてきた部分もあるでしょう。
物事を考えるというプロセスの大半は言語を介して行われるはずです。
言語に関する理解を深めれば、考える力が高まると予測されます。
ところで、コミュニケーションの醍醐味の1つに
「共同で何かを生み出す」というプロセスがあるような気がします。
何かの目的に向かって、他者と意思を伝えあい、協力して進んでいく。
その過程にあってはコミュニケーションが不可欠でしょう。
そこで必要なのは言葉のコミュニケーションだけではありません。
ミュージシャン同士がアドリブで1つの音楽を作り上げていく光景などは
言葉を使わないコミュニケーションを介して新しいものを生み出す典型例だと思います。
とはいえ、それは多くの人が気軽に体験できるものではありません。
言葉を上手く利用すれば、コミュニケーションによって何かが生まれる瞬間を
多くの人が体験できるだろうと思うんです。
カウンセリングはクライアントの問題を解決する方向を共同で生み出す作業、
コーチングは目標に向かうための道筋を共同で生み出す作業と言えるでしょう。
会議や打ち合わせ、ディスカッション、ブレインストーミングなどは
話し合いを通じてプランやアイデアを生み出すための作業と言えます。
そうした作業の目的は、1つのことを共有するだけに終わらないはずです。
共同作業を通じて、一人では生み出し得ない何かを作り出す。
お互いのリソースを活用して、効果的に新しいものを生み出すわけです。
お互いの脳ミソを繋ぎ合わせながら、新しく何かが紡ぎだされてくるプロセスは、
なんとも言えない知的な興奮や楽しさを伴うものです。
そして、その感動は多くの場合、言葉になって表現された瞬間に訪れます。
言葉によって形になるということです。
そんな喜びを感じられる能力が人間に備わっているということは
それが人間にとって大切なものだからかもしれない…。
そうやって想像してみると、言葉に対して意識を高めてみる時間を取ることは
意外と有意義なことのように思いますが、いかがでしょうか?
参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)
Powered by NINJA TOOLS
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています
2009年06月29日
決定的瞬間!
この間、決定的瞬間を目撃しました。
整骨院に向かっている途中、細い路地を歩いているときのこと。
目線は既に、整骨院の看板のほうへ向いていました。
そのとき、右のほうから一匹のトンボが飛んできたんです。
目の前1mぐらいをサッと右から左へ通り抜けていきそうな瞬間。
すると、パッと足もとから1つの塊が飛び上がりました。
それが何か分かったとき、トンボが通り抜けていくはずの飛行線が中断されます。
猫でした。
白と黒の模様をした小柄な猫が、ジャンプしてトンボに飛びかかっていたんです。
僕がそれをハッキリ意識できたときは、猫がトンボを捕まえたぐらいのタイミング。
僕の脳裏には、猫が両方の前足でトンボを挟み込む瞬間が焼き付いています。
まさに僕の視野の中心、目の前の1mぐらいのところで
跳び上がった猫が、飛んでいるトンボを捕まえるシーンが映ったんです。
器用に両の前足で捕まえたトンボを、空中でそのまま口にくわえ直し、
見事に四本の足で着地する猫。
捕まえる直前から着地するまでがスローモーションのように記憶に残っています。
目の前で急に起きたハプニング性と、狩りの見事さに対する感動、
そして猫の可愛らしい姿が印象的な出来事でした。
猫は着地するなり僕のほうを振り返り、こちらを警戒しました。
僕が歩きを続けると、猫は後ずさりします。
獲物を取られないようにでもしていたのでしょうか。
その口にはトンボの羽が飛び出ていました。
投稿ビデオで見るような場面を、まさに間近で見ることができたわけですが、
その光景が心を揺さぶる度合いは、画面を通じた印象とは別物です。
その理由の1つには画面の大きさというのがあると思われます。
僕の心の中には、実際よりも遥かに大きな映像として場面が残っているんです。
インパクトが強かったことが推測されます。
テレビ画面では想像できないほどに大アップの感じがしました。
モニターに映った映像であれば、背景を含めた全体像の中に
注目すべきシーンが映し出されますから、
いかに衝撃的な光景も背景を含んだ1つの絵として認識されるように感じます。
それと比較すると、実際に体験する衝撃的なシーンは
背景に比べてメインの出来事の映像だけにピントが合って
景色の中から飛び出てきているように捉えられるようです。
僕の場合、極端に猫の映像だけが実際よりもアップになっていた印象。
もう1つ理由を挙げるとすれば、実際に自分の目に映る視野は
モニターのような画面と比べると、特定の部分に集中しやすいことでしょうか。
テレビ画面であれば、映像全体が視野の中心に近いところで捉えられます。
映画館のような大画面であっても、メインの情景はスクリーンの中心になるでしょう。
それに比べると、自分が実際に目にする光景は、特定の場所に焦点が当たり
その他のものは周辺視野で捉えることが多いと考えられます。
自分にとってメインの関心事が視野の中心になるということです。
すると、何かの衝撃的な出来事を目撃する際には、
自分が注意を向けていなかった予測していない部分で
大きな変化が起きることになります。
一気に注意が、その部分に集中していくわけです。
その過程には驚きを伴います。
「なんだ!?」と感じて、無意識的な反応として警戒をするわけです。
それが急に視野の中心にやってきます。
一気にその場面に注意を向けるようになる。
釘付けになる感じと言えば良いでしょうか。
この印象は強烈です。
おそらく視覚からPTSDになる場合には、
これをもっと酷くしたような注意集中の動きがあると思われます。
「ハッ」と注意を向けるような変化が視野の中に起こり、
一気に注意を集中してズームインしたような印象になる。
その瞬間に恐ろしい映像が飛び込んでくれば、その恐怖感は増大されるのも当然でしょう。
こうしたことを考えると、『目に焼き付けておきたい情報は
視野の中でグイっとアップになるようにズームインして見るようにする』
というような記憶法が想像できます。
実際に、対象物や自分の眼を近づけるようにして
物理的にズームインしていくのも1つの方法かもしれません。
そういえば、映画でも衝撃的なシーンが急にアップになるということがあります。
あれも強烈なインパクトを与えるための方法として
無意識にデザインされていたものだったと考えても良さそうな気がします。
体験の強烈さの生み出し方として考えていくと、
こうしたインパクトの上げ方が、無意識のプログラムを変えるのに役立つはずです。
NLPの「スウィッシュ」の技法の中に含まれるアクションが
こうした作用と関係していると考えると納得感が高まります。
もっと他にも応用できないものか、考えてみたくなりました。
整骨院に向かっている途中、細い路地を歩いているときのこと。
目線は既に、整骨院の看板のほうへ向いていました。
そのとき、右のほうから一匹のトンボが飛んできたんです。
目の前1mぐらいをサッと右から左へ通り抜けていきそうな瞬間。
すると、パッと足もとから1つの塊が飛び上がりました。
それが何か分かったとき、トンボが通り抜けていくはずの飛行線が中断されます。
猫でした。
白と黒の模様をした小柄な猫が、ジャンプしてトンボに飛びかかっていたんです。
僕がそれをハッキリ意識できたときは、猫がトンボを捕まえたぐらいのタイミング。
僕の脳裏には、猫が両方の前足でトンボを挟み込む瞬間が焼き付いています。
まさに僕の視野の中心、目の前の1mぐらいのところで
跳び上がった猫が、飛んでいるトンボを捕まえるシーンが映ったんです。
器用に両の前足で捕まえたトンボを、空中でそのまま口にくわえ直し、
見事に四本の足で着地する猫。
捕まえる直前から着地するまでがスローモーションのように記憶に残っています。
目の前で急に起きたハプニング性と、狩りの見事さに対する感動、
そして猫の可愛らしい姿が印象的な出来事でした。
猫は着地するなり僕のほうを振り返り、こちらを警戒しました。
僕が歩きを続けると、猫は後ずさりします。
獲物を取られないようにでもしていたのでしょうか。
その口にはトンボの羽が飛び出ていました。
投稿ビデオで見るような場面を、まさに間近で見ることができたわけですが、
その光景が心を揺さぶる度合いは、画面を通じた印象とは別物です。
その理由の1つには画面の大きさというのがあると思われます。
僕の心の中には、実際よりも遥かに大きな映像として場面が残っているんです。
インパクトが強かったことが推測されます。
テレビ画面では想像できないほどに大アップの感じがしました。
モニターに映った映像であれば、背景を含めた全体像の中に
注目すべきシーンが映し出されますから、
いかに衝撃的な光景も背景を含んだ1つの絵として認識されるように感じます。
それと比較すると、実際に体験する衝撃的なシーンは
背景に比べてメインの出来事の映像だけにピントが合って
景色の中から飛び出てきているように捉えられるようです。
僕の場合、極端に猫の映像だけが実際よりもアップになっていた印象。
もう1つ理由を挙げるとすれば、実際に自分の目に映る視野は
モニターのような画面と比べると、特定の部分に集中しやすいことでしょうか。
テレビ画面であれば、映像全体が視野の中心に近いところで捉えられます。
映画館のような大画面であっても、メインの情景はスクリーンの中心になるでしょう。
それに比べると、自分が実際に目にする光景は、特定の場所に焦点が当たり
その他のものは周辺視野で捉えることが多いと考えられます。
自分にとってメインの関心事が視野の中心になるということです。
すると、何かの衝撃的な出来事を目撃する際には、
自分が注意を向けていなかった予測していない部分で
大きな変化が起きることになります。
一気に注意が、その部分に集中していくわけです。
その過程には驚きを伴います。
「なんだ!?」と感じて、無意識的な反応として警戒をするわけです。
それが急に視野の中心にやってきます。
一気にその場面に注意を向けるようになる。
釘付けになる感じと言えば良いでしょうか。
この印象は強烈です。
おそらく視覚からPTSDになる場合には、
これをもっと酷くしたような注意集中の動きがあると思われます。
「ハッ」と注意を向けるような変化が視野の中に起こり、
一気に注意を集中してズームインしたような印象になる。
その瞬間に恐ろしい映像が飛び込んでくれば、その恐怖感は増大されるのも当然でしょう。
こうしたことを考えると、『目に焼き付けておきたい情報は
視野の中でグイっとアップになるようにズームインして見るようにする』
というような記憶法が想像できます。
実際に、対象物や自分の眼を近づけるようにして
物理的にズームインしていくのも1つの方法かもしれません。
そういえば、映画でも衝撃的なシーンが急にアップになるということがあります。
あれも強烈なインパクトを与えるための方法として
無意識にデザインされていたものだったと考えても良さそうな気がします。
体験の強烈さの生み出し方として考えていくと、
こうしたインパクトの上げ方が、無意識のプログラムを変えるのに役立つはずです。
NLPの「スウィッシュ」の技法の中に含まれるアクションが
こうした作用と関係していると考えると納得感が高まります。
もっと他にも応用できないものか、考えてみたくなりました。
2009年06月28日
縄文時代から
たいていの植物は種で増える。
大きな木も実をつけ、種を落とす。
種から芽が出る。
芽は日に日に伸びていく。
その成長は早いものに見えるかもしれない。
それでも近くで種を落とした木とは随分と高さに違いがある。
芽の高さから見上げたら、木の頂上は高過ぎて見えないこともあるだろう。
芽はグングンと伸びていく。
芽の高さから見下ろせば、地面は日に日に遠くなっていく。
毎日、毎日、大きくなっていく。
そして芽は、やがて苗木と呼ばれるような大きさになり、
他の木よりは低いけれども、木として成長を続けていく。
地面は随分と遠くなっている。
その頃に顔を出した芽は、かなり低いものに見えるかもしれない。
周りにある木を見上げれば、まだまだ頂上が見えないかもしれない。
木は毎日、伸び続けている。
毎日少しずつ伸びていく木。
地面を見下ろしたときの高さは、ある時期から変わらなく感じられる。
5mの高さの木が1cm伸びたとして、あまり高さの違いは感じられないだろう。
10cmの高さの苗が1cm伸びたときとは全くの別物。
それでも木は少しずつ伸びている。
10mになっても、20mになっても。
木が高くなるほど、周りの景色は開けてくる。
同じ高さに見えるものは少なくなっていく。
空が見えるようになってくる。
広い世界が見えてくる。
その頃には、周りにあった高い木の頂上が見え始めるかもしれない。
苗木の頃には、ただ高いものとしてしか見えなかった頂上が見え始めるかもしれない。
そこで初めて、高さの違いが見えてくる。
遥かに高い木だったと、初めて先が見えてくる。
それでも木は伸びている。
少しずつ伸びている。
木が高くなるうちに、風にあおられて折れてしまうものもあるだろう。
高くなったがゆえに、雷に打たれてしまうものもあるだろう。
それでも木は伸びている。
自分を支えるために、根を深く大きく張りながら。
雨の日には、枝の下で雨宿りをするものがいるかもしれない。
夏の強い日差しの下では、木陰で涼むものがいるかもしれない。
秋には落ちた葉っぱが、土壌を豊かにするかもしれない。
ただ、木は伸びているだけ。
木は空に向かって伸びている。
大きな木も実をつけ、種を落とす。
種から芽が出る。
芽は日に日に伸びていく。
その成長は早いものに見えるかもしれない。
それでも近くで種を落とした木とは随分と高さに違いがある。
芽の高さから見上げたら、木の頂上は高過ぎて見えないこともあるだろう。
芽はグングンと伸びていく。
芽の高さから見下ろせば、地面は日に日に遠くなっていく。
毎日、毎日、大きくなっていく。
そして芽は、やがて苗木と呼ばれるような大きさになり、
他の木よりは低いけれども、木として成長を続けていく。
地面は随分と遠くなっている。
その頃に顔を出した芽は、かなり低いものに見えるかもしれない。
周りにある木を見上げれば、まだまだ頂上が見えないかもしれない。
木は毎日、伸び続けている。
毎日少しずつ伸びていく木。
地面を見下ろしたときの高さは、ある時期から変わらなく感じられる。
5mの高さの木が1cm伸びたとして、あまり高さの違いは感じられないだろう。
10cmの高さの苗が1cm伸びたときとは全くの別物。
それでも木は少しずつ伸びている。
10mになっても、20mになっても。
木が高くなるほど、周りの景色は開けてくる。
同じ高さに見えるものは少なくなっていく。
空が見えるようになってくる。
広い世界が見えてくる。
その頃には、周りにあった高い木の頂上が見え始めるかもしれない。
苗木の頃には、ただ高いものとしてしか見えなかった頂上が見え始めるかもしれない。
そこで初めて、高さの違いが見えてくる。
遥かに高い木だったと、初めて先が見えてくる。
それでも木は伸びている。
少しずつ伸びている。
木が高くなるうちに、風にあおられて折れてしまうものもあるだろう。
高くなったがゆえに、雷に打たれてしまうものもあるだろう。
それでも木は伸びている。
自分を支えるために、根を深く大きく張りながら。
雨の日には、枝の下で雨宿りをするものがいるかもしれない。
夏の強い日差しの下では、木陰で涼むものがいるかもしれない。
秋には落ちた葉っぱが、土壌を豊かにするかもしれない。
ただ、木は伸びているだけ。
木は空に向かって伸びている。
2009年06月26日
疑ってみるということ
朝、駅に向かって歩いていたとき、反対側から親子が歩いてきました。
雨が降りそうな朝、小さい女の子は傘を持っています。
体にしては随分と大きな傘に見えました。
普通に柄の部分を持ったら、長さからして地面に当たってしまうぐらい。
女の子は傘を引きずりながら歩いていました。
すると、お母さんが「傘を引きずらない!先がダメになるでしょ!」と、お叱りの一言。
女の子はビクッと驚いたような様子を見せた後、
何も言わずに傘を後ろ側を持ち上げるように力を入れ直したようでした。
体格や筋力のことを考えると、引きずるほうが楽だったように思えます。
ガリガリと引きずる音が楽しかったのかもしれません。
何があったかは分かりませんが、女の子には
「傘を引きずってはいけない」という発想が無かったのではないでしょうか。
そのお母さんの叱り方は、自分のルールから来るものだと思われます。
叱った理由を聞けば、「傘がもったいない」とか「迷惑になる」とか
もっともらしい説明をするでしょうが、感情的なメッセージを考慮すれば
あまり考えることなく自分のして欲しくないことを注意したと判断するのが妥当でしょう。
当たり前といわれること。
常識と呼ばれること。
暗黙のルールとされていること。
しつけ・道徳として教育されてきたこと。
人の中には自分が当然だと思ってやっていることが沢山あるものです。
ただ、それを自分で疑ってみることをする人は少ないようです。
思い込みを疑ってみることは大切なことだと思います。
まぁ、思い込みに気づける人も少ないのでしょうが。
例えば、「赤信号では横断歩道を渡ってはいけない」ということに関しても
それはルールとして大切なことである一方で、
自分自身の状況判断を奪う行為でもあるわけです。
赤信号では原則的に道を渡らない。
横断歩道が赤信号のときには、車道側が青信号になっていて
車がどのくらいのスピードで、どこから来るか分からないから。
しかしながら、その道が見通しが良く、車が出てくるような横道もなく、
渡り切るのに時間のかからないような細い道幅であれば、
赤信号でも、車が全く見えないときに横断するのは悪くないかもしれません。
自分が自分の責任で赤信号の道を横断した時に、
他者に対して全く影響がない範囲の場合には、それは悪いことではないかもしれません。
その横断歩道で、小さい子供が信号待ちをしている前であれば、
自分が安全だと判断したという理由だけで
赤信号を横断するのは良くない可能性があります。
それを見た判断力の乏しい時期の小さい子供が
周囲を良く見ないままに信号無視をして事故に繋がるリスクが否定できないからです。
逆に、「青信号は渡る、赤信号は止まる」というルールを無条件に守っていたら、
青信号だからという理由だけで周囲に注意を向けずに道を横断して、
信号無視の車と接触事故を起こす危険性も出てきてしまいます。
ルールや常識の多くは、全員がそれを守ることで上手くいきやすくなる
過去から積み上げられてきた知恵だと考えられます。
原則的に、それらを守ることは大切だと思います。
ただし、その中には自己判断ができるかどうかの前提があると思うんです。
誰でも判断ミスを犯すことがあるから、ルールにしたほうが安全。
判断力や思考力の乏しい時期の子供を危険にさらさないためにも
全員が共通して守るルールを作っておいたほうが安全。
思考や判断が的確にできる範囲であれば、
本人の選択の余地もあるのかもしれません。
自分の振る舞いに対して注意を向け、それがもたらす影響を十分に考えられたとき、
自分がすることを自分の意思で選択できるようになるはずです。
「電車の中で騒ぐのは良くない」という考えを持っている人は多いでしょうが、
その理由を「周りの人の迷惑になるから」という程度までで
考察を止めてしまうのは不十分なように思います。
「他人に迷惑をかけてはいけない」という思考も、本人の思い込みです。
しつけで言われてきたのかもしれません。
迷惑をかけても良いと言っているわけではありません。
迷惑をかけてはいけない理由を自分で考えて、
「迷惑をかけたくない」という自分の意志に変える必要があるということです。
誰かに言われたから、それを守るのではなく、
自分が考えた結果として自分で選択して、ルールとされている行動を取る。
自分の中の思い込みに従って生きることは
必要以上に状況判断へ労力を使ったり、考えることに時間を使ったりしなくなるため
効率的に生きる上では非常に有効な方法です。
だから誰もが自然とそれをするわけです。
でも、僕はそれを自由だとは思いません。
ルールに従わないのが自由なのではない。
ルールを守る自由が与えられている。
自分の中で当たり前になっている決まりごとを疑い、
その当たり前で守っている自分の気持ちに気づくのが大切だと思うんです。
そう思い込むことで守っている自分の気持ちがあるんです。
ルールで他人を裁き、自分を縛りつける。
それよりは、ワガママなくらいの自分の気持ちに気づくほうが
よほど自由なことでしょう。
その気持ちを感じた上で、自分が何をするかを選択すれば良い気がします。
雨が降りそうな朝、小さい女の子は傘を持っています。
体にしては随分と大きな傘に見えました。
普通に柄の部分を持ったら、長さからして地面に当たってしまうぐらい。
女の子は傘を引きずりながら歩いていました。
すると、お母さんが「傘を引きずらない!先がダメになるでしょ!」と、お叱りの一言。
女の子はビクッと驚いたような様子を見せた後、
何も言わずに傘を後ろ側を持ち上げるように力を入れ直したようでした。
体格や筋力のことを考えると、引きずるほうが楽だったように思えます。
ガリガリと引きずる音が楽しかったのかもしれません。
何があったかは分かりませんが、女の子には
「傘を引きずってはいけない」という発想が無かったのではないでしょうか。
そのお母さんの叱り方は、自分のルールから来るものだと思われます。
叱った理由を聞けば、「傘がもったいない」とか「迷惑になる」とか
もっともらしい説明をするでしょうが、感情的なメッセージを考慮すれば
あまり考えることなく自分のして欲しくないことを注意したと判断するのが妥当でしょう。
当たり前といわれること。
常識と呼ばれること。
暗黙のルールとされていること。
しつけ・道徳として教育されてきたこと。
人の中には自分が当然だと思ってやっていることが沢山あるものです。
ただ、それを自分で疑ってみることをする人は少ないようです。
思い込みを疑ってみることは大切なことだと思います。
まぁ、思い込みに気づける人も少ないのでしょうが。
例えば、「赤信号では横断歩道を渡ってはいけない」ということに関しても
それはルールとして大切なことである一方で、
自分自身の状況判断を奪う行為でもあるわけです。
赤信号では原則的に道を渡らない。
横断歩道が赤信号のときには、車道側が青信号になっていて
車がどのくらいのスピードで、どこから来るか分からないから。
しかしながら、その道が見通しが良く、車が出てくるような横道もなく、
渡り切るのに時間のかからないような細い道幅であれば、
赤信号でも、車が全く見えないときに横断するのは悪くないかもしれません。
自分が自分の責任で赤信号の道を横断した時に、
他者に対して全く影響がない範囲の場合には、それは悪いことではないかもしれません。
その横断歩道で、小さい子供が信号待ちをしている前であれば、
自分が安全だと判断したという理由だけで
赤信号を横断するのは良くない可能性があります。
それを見た判断力の乏しい時期の小さい子供が
周囲を良く見ないままに信号無視をして事故に繋がるリスクが否定できないからです。
逆に、「青信号は渡る、赤信号は止まる」というルールを無条件に守っていたら、
青信号だからという理由だけで周囲に注意を向けずに道を横断して、
信号無視の車と接触事故を起こす危険性も出てきてしまいます。
ルールや常識の多くは、全員がそれを守ることで上手くいきやすくなる
過去から積み上げられてきた知恵だと考えられます。
原則的に、それらを守ることは大切だと思います。
ただし、その中には自己判断ができるかどうかの前提があると思うんです。
誰でも判断ミスを犯すことがあるから、ルールにしたほうが安全。
判断力や思考力の乏しい時期の子供を危険にさらさないためにも
全員が共通して守るルールを作っておいたほうが安全。
思考や判断が的確にできる範囲であれば、
本人の選択の余地もあるのかもしれません。
自分の振る舞いに対して注意を向け、それがもたらす影響を十分に考えられたとき、
自分がすることを自分の意思で選択できるようになるはずです。
「電車の中で騒ぐのは良くない」という考えを持っている人は多いでしょうが、
その理由を「周りの人の迷惑になるから」という程度までで
考察を止めてしまうのは不十分なように思います。
「他人に迷惑をかけてはいけない」という思考も、本人の思い込みです。
しつけで言われてきたのかもしれません。
迷惑をかけても良いと言っているわけではありません。
迷惑をかけてはいけない理由を自分で考えて、
「迷惑をかけたくない」という自分の意志に変える必要があるということです。
誰かに言われたから、それを守るのではなく、
自分が考えた結果として自分で選択して、ルールとされている行動を取る。
自分の中の思い込みに従って生きることは
必要以上に状況判断へ労力を使ったり、考えることに時間を使ったりしなくなるため
効率的に生きる上では非常に有効な方法です。
だから誰もが自然とそれをするわけです。
でも、僕はそれを自由だとは思いません。
ルールに従わないのが自由なのではない。
ルールを守る自由が与えられている。
自分の中で当たり前になっている決まりごとを疑い、
その当たり前で守っている自分の気持ちに気づくのが大切だと思うんです。
そう思い込むことで守っている自分の気持ちがあるんです。
ルールで他人を裁き、自分を縛りつける。
それよりは、ワガママなくらいの自分の気持ちに気づくほうが
よほど自由なことでしょう。
その気持ちを感じた上で、自分が何をするかを選択すれば良い気がします。
2009年06月25日
以前のものを見つけました
「Art 」うんぬんという話をしていて思い出したので、
以前に版画で作った年賀状を載せてみます。
これは戌年のもの。
実家にいた犬がモデルです。

こちらは午年に作成したもの。

上下をひっくり返すと、こうなります。

こんなのを作ったりもしていましたが、集中してやると肩コリが酷かったんです。
版画を彫る作業自体は、一日に集中して4,5時間でやっていましたから
目も、肩も、腕も、全部に緊張感が強まってきます。
当然、終わってからは痛みが強く出てきていました。
会社にいたとき、年に一度だけ大きく体調を崩す時期があったのは、
だいたいこの版画の作業が終わって数日後だったものです。
最近は少し離れていますが、やると間違いなく楽しいだろうと思います。
その時間は、没頭して作業することになりますから。
仕事でリアルタイムに変化するコミュニケーションを対象にしていることを踏まえると、
もっと静的に集中して行う作業が、良い気分転換になるかもしれません。
あとは逆に、解放して身を委ねるような時間も良さそうに感じます。
自然や温泉を思うと、7月の箱根が楽しみです。
以前に版画で作った年賀状を載せてみます。
これは戌年のもの。
実家にいた犬がモデルです。

こちらは午年に作成したもの。

上下をひっくり返すと、こうなります。

こんなのを作ったりもしていましたが、集中してやると肩コリが酷かったんです。
版画を彫る作業自体は、一日に集中して4,5時間でやっていましたから
目も、肩も、腕も、全部に緊張感が強まってきます。
当然、終わってからは痛みが強く出てきていました。
会社にいたとき、年に一度だけ大きく体調を崩す時期があったのは、
だいたいこの版画の作業が終わって数日後だったものです。
最近は少し離れていますが、やると間違いなく楽しいだろうと思います。
その時間は、没頭して作業することになりますから。
仕事でリアルタイムに変化するコミュニケーションを対象にしていることを踏まえると、
もっと静的に集中して行う作業が、良い気分転換になるかもしれません。
あとは逆に、解放して身を委ねるような時間も良さそうに感じます。
自然や温泉を思うと、7月の箱根が楽しみです。
2009年06月24日
アートの素養
僕の中には、かなりのArtist 性が流れているように思います。
芸術分野は全般的に好きですし、自分が生み出すものへのコダワリの強さも
アーティストとしてのスタンスに近いものを感じます。
職人の世界でも超一流の腕を持った人は、その出来の良し悪しが
一般人のレベルでは判別できないところに行き着くわけですが、
周りが何と言おうと本人の判断基準で「出来が悪い」と捉えられれば
そこに妥協することができない、という状態が起きるようです。
自分が、自分の誇りとして、手を抜くわけにはいかない。
「恥を知る」ということです。
ましてや僕は、超一流の人を実際に何人か目の前で見てきているので
それを知っている以上、自分のパフォーマンスに手を抜きたくない気持ちが強いんです。
まぁ、コダワリの強さは色々な部分に出ていますから、
どのように他人が判断するかよりも、自分の基準を大切にしていると
考えることもできるかもしれません。
英語では「art 」という単語が「技術」も「芸術」も意味しますが、
高いレベルにおいては職人的な技術も、芸術の域に達することが多いようです。
圧倒的な技術というのは、その中に必ず「美しさ」があると思います。
僕も、職人気質というか、アーティスト性というか、
自分のすることに妥協をしたくない気持ちが非常に強いわけです。
思い返してみると、僕は小さい頃からも芸術系一般が好きでした。
僕の父は広告写真を中心にしたカメラマン、母は書道の先生。
父は吹奏楽をやっていた音楽好きで、家の中でも
トランペットやクラリネットの音が頻繁に聞こえていたのを覚えています。
僕も姉も、ピアノを習っていました。
母は一年中、家で習字をしていたので、僕には墨の匂いが馴染み深いものです。
僕も小学校の間は母の書道教室で習っていました。
子供の頃は落ち着きがないのが普通ですから、書道はなかなかの修行だったはずです。
また、母は華道の師範か何かの免状を取っていたらしく
我が家の玄関先には生け花が飾られていたのも懐かしいところ。
花を切って、剣山に刺す。
それだけの光景でしたが、微妙な配置の違いがもたらす印象を興味深く見ていました。
僕自身を振り返れば、どういうわけか小さい頃から絵が好きで
小学校の低学年ぐらいまでは、暇さえあれば広告の裏紙に絵を描いていたものです。
図工や美術の時間は、学校の中でも楽しみでした。
とはいえ、絵画を習ったことはなく、適当に自分の好きなように描いていたからか、
中学の美術の成績には多少、ムラがありました。
先生の好みの影響が強く出ていたんだと思います。
水彩画の描き方を習っていなかったのか、習ったのに無視していたのか、
僕の中学校時代の水彩画は、ほとんど油絵に近い風合いを出していました。
絵の具を水で薄めずに、チューブから出した絵具を直接紙に盛り付けていましたから。
こうして今に思い出していても、絵を描いている時間は楽しかったのを感じます。
高校の芸術科目も美術を選択していました。
教室の机の上には、教師の似顔絵がズラリと勢ぞろいでしたし。
で、これはチョット自慢になりますが、僕は音楽も意外と得意でした。
笛の類は匂いが嫌いだったので、音楽の授業の楽器演奏は好きではなかったですが、
ピアノを習っていた時期があったせいか、成績は良かったんです。
僕の習っていたピアノの先生は、確か音大を出た人だったと記憶しています。
僕は小学校低学年の頃から、ピアノを習いに行っているときに
お勉強として音楽理論をやっていました。
読めない漢字ばっかりの難しい本は、今にして思えば
音大の授業で使う教科書だったのでしょう。
「嬰ホ長調を平行調に転調する」とか
「この和音は長三度と完全五度からなっているから長三和音」とか
当時も今も、ほとんど役に立っていない勉強を続けていました。
意味の良く分からない英才教育です。
そして、小学校3,4年生のときの話。
実は、歌のレコーディングを何回か経験しているんです。
同級生の父親がCMソングを手掛けている仕事をしていたらしく、
クラスの皆で歌を収録したんです。
で、そこから徐々にメンバーが減っていき、レコーディングの回数を重ねるうちに
僕は一人でスタジオに入って歌うようになっていました。
黒い丸いヤツがついたマイクの前で、ヘッドホンをしながら
目の前のガラス越しのディレクターの指示に従って歌う。
テレビの音楽番組やオーディション番組で見かけるスタジオの雰囲気そのままです。
15秒とか30秒とかのCMソングでしたが、チョットした思い出になっています。
自慢はそれぐらいにしておくとして、自分の過去を振り返ってみたら
意外と芸術に触れていた時間があったことが自覚できました。
そうした経験は、僕にとって大切なリソースになっていると感じます。
今の僕にしてみれば、セミナーが自分のArt としての作品の1つかもしれません。
アーティストとして、作品を通じて、自分の芸術の創作活動だけで生活できる人は
決して多くないというのが現状のようです。
芸術性だけを追求した作品では、収入に結び付かないこともあると聞きます。
陶芸家の多くは、展覧会に出展するための作品作りとは別に
日用品に近い作品も作っている。
「用」と「美」のバランスがあれば、「美」だけを追求はできないわけです。
むしろ「用」の中に「美」を見出していくことも求められるのかもしれません。
僕も、自分のArt に対して「恥を知る」ことを心がけていきたいものです。
と同時に、改めて芸術分野への関心が自分の中で高まっているのも感じます。
芸術という観点から自分の作品を磨いていきたいみたいです。
少なくとも、良い作品に触れる機会は増やしていくことになりそうな気がしています。
芸術分野は全般的に好きですし、自分が生み出すものへのコダワリの強さも
アーティストとしてのスタンスに近いものを感じます。
職人の世界でも超一流の腕を持った人は、その出来の良し悪しが
一般人のレベルでは判別できないところに行き着くわけですが、
周りが何と言おうと本人の判断基準で「出来が悪い」と捉えられれば
そこに妥協することができない、という状態が起きるようです。
自分が、自分の誇りとして、手を抜くわけにはいかない。
「恥を知る」ということです。
ましてや僕は、超一流の人を実際に何人か目の前で見てきているので
それを知っている以上、自分のパフォーマンスに手を抜きたくない気持ちが強いんです。
まぁ、コダワリの強さは色々な部分に出ていますから、
どのように他人が判断するかよりも、自分の基準を大切にしていると
考えることもできるかもしれません。
英語では「art 」という単語が「技術」も「芸術」も意味しますが、
高いレベルにおいては職人的な技術も、芸術の域に達することが多いようです。
圧倒的な技術というのは、その中に必ず「美しさ」があると思います。
僕も、職人気質というか、アーティスト性というか、
自分のすることに妥協をしたくない気持ちが非常に強いわけです。
思い返してみると、僕は小さい頃からも芸術系一般が好きでした。
僕の父は広告写真を中心にしたカメラマン、母は書道の先生。
父は吹奏楽をやっていた音楽好きで、家の中でも
トランペットやクラリネットの音が頻繁に聞こえていたのを覚えています。
僕も姉も、ピアノを習っていました。
母は一年中、家で習字をしていたので、僕には墨の匂いが馴染み深いものです。
僕も小学校の間は母の書道教室で習っていました。
子供の頃は落ち着きがないのが普通ですから、書道はなかなかの修行だったはずです。
また、母は華道の師範か何かの免状を取っていたらしく
我が家の玄関先には生け花が飾られていたのも懐かしいところ。
花を切って、剣山に刺す。
それだけの光景でしたが、微妙な配置の違いがもたらす印象を興味深く見ていました。
僕自身を振り返れば、どういうわけか小さい頃から絵が好きで
小学校の低学年ぐらいまでは、暇さえあれば広告の裏紙に絵を描いていたものです。
図工や美術の時間は、学校の中でも楽しみでした。
とはいえ、絵画を習ったことはなく、適当に自分の好きなように描いていたからか、
中学の美術の成績には多少、ムラがありました。
先生の好みの影響が強く出ていたんだと思います。
水彩画の描き方を習っていなかったのか、習ったのに無視していたのか、
僕の中学校時代の水彩画は、ほとんど油絵に近い風合いを出していました。
絵の具を水で薄めずに、チューブから出した絵具を直接紙に盛り付けていましたから。
こうして今に思い出していても、絵を描いている時間は楽しかったのを感じます。
高校の芸術科目も美術を選択していました。
教室の机の上には、教師の似顔絵がズラリと勢ぞろいでしたし。
で、これはチョット自慢になりますが、僕は音楽も意外と得意でした。
笛の類は匂いが嫌いだったので、音楽の授業の楽器演奏は好きではなかったですが、
ピアノを習っていた時期があったせいか、成績は良かったんです。
僕の習っていたピアノの先生は、確か音大を出た人だったと記憶しています。
僕は小学校低学年の頃から、ピアノを習いに行っているときに
お勉強として音楽理論をやっていました。
読めない漢字ばっかりの難しい本は、今にして思えば
音大の授業で使う教科書だったのでしょう。
「嬰ホ長調を平行調に転調する」とか
「この和音は長三度と完全五度からなっているから長三和音」とか
当時も今も、ほとんど役に立っていない勉強を続けていました。
意味の良く分からない英才教育です。
そして、小学校3,4年生のときの話。
実は、歌のレコーディングを何回か経験しているんです。
同級生の父親がCMソングを手掛けている仕事をしていたらしく、
クラスの皆で歌を収録したんです。
で、そこから徐々にメンバーが減っていき、レコーディングの回数を重ねるうちに
僕は一人でスタジオに入って歌うようになっていました。
黒い丸いヤツがついたマイクの前で、ヘッドホンをしながら
目の前のガラス越しのディレクターの指示に従って歌う。
テレビの音楽番組やオーディション番組で見かけるスタジオの雰囲気そのままです。
15秒とか30秒とかのCMソングでしたが、チョットした思い出になっています。
自慢はそれぐらいにしておくとして、自分の過去を振り返ってみたら
意外と芸術に触れていた時間があったことが自覚できました。
そうした経験は、僕にとって大切なリソースになっていると感じます。
今の僕にしてみれば、セミナーが自分のArt としての作品の1つかもしれません。
アーティストとして、作品を通じて、自分の芸術の創作活動だけで生活できる人は
決して多くないというのが現状のようです。
芸術性だけを追求した作品では、収入に結び付かないこともあると聞きます。
陶芸家の多くは、展覧会に出展するための作品作りとは別に
日用品に近い作品も作っている。
「用」と「美」のバランスがあれば、「美」だけを追求はできないわけです。
むしろ「用」の中に「美」を見出していくことも求められるのかもしれません。
僕も、自分のArt に対して「恥を知る」ことを心がけていきたいものです。
と同時に、改めて芸術分野への関心が自分の中で高まっているのも感じます。
芸術という観点から自分の作品を磨いていきたいみたいです。
少なくとも、良い作品に触れる機会は増やしていくことになりそうな気がしています。
2009年06月22日
隠れたところ
「ざっくりマンデー」というテレビ番組があります。
難しいことを分かりやすく大まかに勉強しようという内容。
たまに日常的な疑問などもテーマとして扱われます。
深夜にやっている番組ということもあって、
まさに「一夜漬け」を狙ったスタンスなんだそうです。
先日、たまたまその番組を見ていたら
「なぜ歯科衛生士にはカワイイ人が多いのか?」
というテーマに関して、ざっくりと説明がなされていました。
この辺りは意見が分かれるところかもしれませんが、
以前に歯科医の受講生の方も飲み会で同様の質問を受けていたので
意外と多くの人が感じていることなのかもしれません。
1つには、年齢的に若い人が採用され、あまり長続きしないで辞めていくので
回転が速くて平均年齢が低いということがあるそうです。
番組中では「人気があって倍率が高いから」と解説されていましたが
実際に歯科医の先生の話を聞いていたときには、大変な仕事だということでしたので
番組の説明が必ずしも説得力のあるものではなさそうな印象を受けます。
もう1つ、番組で説明されていた理由は
「マスクをしているから」ではないかということでした。
なんでも、歯科医の間で「マスク効果」と呼ばれるものがあるんだとか。
マスクで隠されると想像を膨らませてしまう。
そんな説明でしたが、隠された部分を補完して理解するときには
個人の記憶の中にあるスタンダードな情報を利用するのが効率的でしょうから、
無意識のうちにバランスのとれた形を想像してしまう可能性は考えられそうです。
と同時に、足りない情報を好意的に捉えながら補足していくような
期待を伴った状況判断をしたくなる癖が、人にはあるのかもしれません。
ポジティブな印象を感じた場合には、過去の記憶からポジティブな情報を引き出し、
ポジティブな評価をベースにして内的なイメージを作り上げていく。
そんな可能性も考えられるでしょう。
男性でもサングラスをかけているとカッコよく見えたり、
テレビに出てくる手術着の外科医がカッコよく見えたりするようです。
ミロのヴィーナスも、両腕がないことで
その美しさが際立つという説を聞いたことがあります。
もう少し話を広げれば、隠された秘密や神秘的なものにロマンを感じるのも
分からない部分に対して期待を拡げたくなる気持ちがあるからと思えます。
きっと、人に対してもそうなんでしょう。
相手のことを良く知らないままに期待を寄せる。
自分にとって望ましい部分を沢山見つけると、他のところを見なくなる。
そうして隠れてしまったところに自分の良いイメージを当てはめて
幻想を膨らませてしまうというのも少なくないようはずです。
それも悪いことではないと思います。
それだけ人に魅力を感じられる部分があったわけです。
わざわざ悪いところを探して幻滅する必要もないでしょう。
でも僕には、それをしたくない気持ちがあります。
それは相手に失礼な気がします。
相手を、その人として見ていない。
自分の勝手な思い込みで見てしまっている。
過度に厳しく評価することも、幻想で眺めてしまうことも
目の前のその人に対する興味を放棄することのように思えます。
人は単純ではないと思うんです。
色々な側面を持っています。
見せていない部分も沢山あるでしょう。
それでも人は充分過ぎるぐらい魅力的なものだと思います。
難しいことを分かりやすく大まかに勉強しようという内容。
たまに日常的な疑問などもテーマとして扱われます。
深夜にやっている番組ということもあって、
まさに「一夜漬け」を狙ったスタンスなんだそうです。
先日、たまたまその番組を見ていたら
「なぜ歯科衛生士にはカワイイ人が多いのか?」
というテーマに関して、ざっくりと説明がなされていました。
この辺りは意見が分かれるところかもしれませんが、
以前に歯科医の受講生の方も飲み会で同様の質問を受けていたので
意外と多くの人が感じていることなのかもしれません。
1つには、年齢的に若い人が採用され、あまり長続きしないで辞めていくので
回転が速くて平均年齢が低いということがあるそうです。
番組中では「人気があって倍率が高いから」と解説されていましたが
実際に歯科医の先生の話を聞いていたときには、大変な仕事だということでしたので
番組の説明が必ずしも説得力のあるものではなさそうな印象を受けます。
もう1つ、番組で説明されていた理由は
「マスクをしているから」ではないかということでした。
なんでも、歯科医の間で「マスク効果」と呼ばれるものがあるんだとか。
マスクで隠されると想像を膨らませてしまう。
そんな説明でしたが、隠された部分を補完して理解するときには
個人の記憶の中にあるスタンダードな情報を利用するのが効率的でしょうから、
無意識のうちにバランスのとれた形を想像してしまう可能性は考えられそうです。
と同時に、足りない情報を好意的に捉えながら補足していくような
期待を伴った状況判断をしたくなる癖が、人にはあるのかもしれません。
ポジティブな印象を感じた場合には、過去の記憶からポジティブな情報を引き出し、
ポジティブな評価をベースにして内的なイメージを作り上げていく。
そんな可能性も考えられるでしょう。
男性でもサングラスをかけているとカッコよく見えたり、
テレビに出てくる手術着の外科医がカッコよく見えたりするようです。
ミロのヴィーナスも、両腕がないことで
その美しさが際立つという説を聞いたことがあります。
もう少し話を広げれば、隠された秘密や神秘的なものにロマンを感じるのも
分からない部分に対して期待を拡げたくなる気持ちがあるからと思えます。
きっと、人に対してもそうなんでしょう。
相手のことを良く知らないままに期待を寄せる。
自分にとって望ましい部分を沢山見つけると、他のところを見なくなる。
そうして隠れてしまったところに自分の良いイメージを当てはめて
幻想を膨らませてしまうというのも少なくないようはずです。
それも悪いことではないと思います。
それだけ人に魅力を感じられる部分があったわけです。
わざわざ悪いところを探して幻滅する必要もないでしょう。
でも僕には、それをしたくない気持ちがあります。
それは相手に失礼な気がします。
相手を、その人として見ていない。
自分の勝手な思い込みで見てしまっている。
過度に厳しく評価することも、幻想で眺めてしまうことも
目の前のその人に対する興味を放棄することのように思えます。
人は単純ではないと思うんです。
色々な側面を持っています。
見せていない部分も沢山あるでしょう。
それでも人は充分過ぎるぐらい魅力的なものだと思います。
2009年06月21日
綺麗な本
セミナーをやっていると、参加される方が本を持っているのを頻繁に目にします。
人それぞれ、本の扱い方が違うのも面白いところです。
元々ついているカバーを外して本を持ち運ぶ人、
カバーも帯もつけた状態で綺麗に本を扱う人、
カバーの上に書店でもらったブックカバーをつけている人、
自分で新聞の折り込み広告の紙を加工してブックカバーを作っている人…。
本の外装の扱い方だけでも色々あります。
本をカバンにしまうときにも丁寧にしまう人がいれば、
かなり無造作に本を扱って本の端のあたりがヨレてきている人もいます。
本が綺麗な状態を好む人、綺麗でなくても気にならない人、
むしろ汚くなっていくほうを好む人。
これも色々です。
本に書き込みをするかどうかも分かれるところでしょう。
よくある読書術なんかだと、結構、本に書き込みをしていくことが推奨されています。
また、本を買うか、借りるかというのも意見の分かれるところのようです。
買うにしても古本か、新品かという好みもあると思います。
おそらく、その辺りの好みには、その人の本に対する価値観が反映されている。
より正確な言い方をすれば、本に対して求めているものが違うということでしょう。
僕の場合、本は通常、新品を買います。
古本は絶版の場合以外には買いません。
図書館に行って借りるという選択肢も基本的にありません。
図書館に行くことはありますが、本棚を見ていても何も魅力を感じないんです。
手に取る意欲すら沸いてこない。
意外と図書館にも新刊に近いものや売れ筋のものが置かれていますから
買わなくても色々な本を読めるというところはあるはずです。
でも、僕は図書館の本に魅力を感じないんです。
そして、本を買った後は、必ず書店でカバーをかけてもらいます。
別に本の表紙を他人に見られるのが恥ずかしいわけではありませんが、
ほとんどの本にカバーがかかっています。
で、本棚にいれるときにはカバーを外す。
並んでいる本はすぐに分かるようになっているんです。
一度カバーを外した本も、外に持ち出して読むときには
再びカバーをかけて持ち運びます。
雨にぬれるのも嫌いますし、なるべく綺麗なままに残しておきたい。
かなり大切に扱っている気がします。
以前、齋藤孝さんの本を沢山読んでいた時期は、
三色ボールペン(正確には黒も入るので四色)で書き込みをしていたこともあります。
それも最近ではなくなりました。
本には基本的に書き込みません。
線も引きません。
参考書的にもう一度取り出したい情報があるときには
ポストイットをつけるか、しおり代りの紙を挟んでおくかで対応します。
気になったこと、気づいたことは、そっちの別紙に書いて挟み込むわけです。
とにかく本そのものは綺麗な状態でキープしようとしているようです。
だからといって、それを売ろうということもありません。
本は増える一方。
以前、オークションに本を出すという意見を聞いたときは驚いたぐらいに
僕の中で本を手放すという発想がないようです。
こういうことを総合して考えてみると、
僕はかなり「本」というもの自体に思い込みが強いように思えてきます。
大切なものという感じ。
ジュンク堂書店のカバーがかかった本が山積みになっていると
目的の本を探すのは手間がかかるんですけど、それも構わないくらい。
大事に取っておきたいんです。
1つには、本から学ぶ時に、新鮮な気持ちで向き合いたい気持ちがあるようです。
真新しく、綺麗な状態の本から、自分にとって新しい情報を学び取ろうとしている。
だから古本屋や図書館が好きではないんでしょう。
新しく学ぶという意欲が、本の綺麗さと繋がっているみたいです。
図書館のようにビニールのカバーをつけて、全体的にくすんだ印象になっていると
なんだか安っぽくて価値の低い情報に感じられてしまうんです。
古本屋のように汚れた印象になってくると古臭い感じがしてしまいます。
古典的な名著と呼ばれるものであれば、古書でも構わないんです。
そういう本の場合、本の装丁や文字の書体も古さを醸し出しているものです。
全体的な古色がマッチしているので、「古典」から学ぶという別の意欲に変わります。
絶版ものを入手するときは「新しい学び」よりも「古典」の意味合いが強いんでしょう。
読んでいる間にも本が汚れてくると、学びの新鮮さが損なわれるイメージがあるようです。
書き込みもしてしまうと、次に読んだときに新しく対話ができなくなります。
以前にポイントだと思ったところしか学べなくなってしまう。
だから、なるべく新鮮な状態をキープしたいんでしょう。
「新鮮」という言葉は自分の中でシックリします。
鮮度を保つためにラップをしているようなイメージかもしれません。
いつでも新鮮な気持ちで本と対話したい。
新鮮な美味しさを味わっていたい。
そんな気持ちがあるような気がします。
人それぞれ、本の扱い方が違うのも面白いところです。
元々ついているカバーを外して本を持ち運ぶ人、
カバーも帯もつけた状態で綺麗に本を扱う人、
カバーの上に書店でもらったブックカバーをつけている人、
自分で新聞の折り込み広告の紙を加工してブックカバーを作っている人…。
本の外装の扱い方だけでも色々あります。
本をカバンにしまうときにも丁寧にしまう人がいれば、
かなり無造作に本を扱って本の端のあたりがヨレてきている人もいます。
本が綺麗な状態を好む人、綺麗でなくても気にならない人、
むしろ汚くなっていくほうを好む人。
これも色々です。
本に書き込みをするかどうかも分かれるところでしょう。
よくある読書術なんかだと、結構、本に書き込みをしていくことが推奨されています。
また、本を買うか、借りるかというのも意見の分かれるところのようです。
買うにしても古本か、新品かという好みもあると思います。
おそらく、その辺りの好みには、その人の本に対する価値観が反映されている。
より正確な言い方をすれば、本に対して求めているものが違うということでしょう。
僕の場合、本は通常、新品を買います。
古本は絶版の場合以外には買いません。
図書館に行って借りるという選択肢も基本的にありません。
図書館に行くことはありますが、本棚を見ていても何も魅力を感じないんです。
手に取る意欲すら沸いてこない。
意外と図書館にも新刊に近いものや売れ筋のものが置かれていますから
買わなくても色々な本を読めるというところはあるはずです。
でも、僕は図書館の本に魅力を感じないんです。
そして、本を買った後は、必ず書店でカバーをかけてもらいます。
別に本の表紙を他人に見られるのが恥ずかしいわけではありませんが、
ほとんどの本にカバーがかかっています。
で、本棚にいれるときにはカバーを外す。
並んでいる本はすぐに分かるようになっているんです。
一度カバーを外した本も、外に持ち出して読むときには
再びカバーをかけて持ち運びます。
雨にぬれるのも嫌いますし、なるべく綺麗なままに残しておきたい。
かなり大切に扱っている気がします。
以前、齋藤孝さんの本を沢山読んでいた時期は、
三色ボールペン(正確には黒も入るので四色)で書き込みをしていたこともあります。
それも最近ではなくなりました。
本には基本的に書き込みません。
線も引きません。
参考書的にもう一度取り出したい情報があるときには
ポストイットをつけるか、しおり代りの紙を挟んでおくかで対応します。
気になったこと、気づいたことは、そっちの別紙に書いて挟み込むわけです。
とにかく本そのものは綺麗な状態でキープしようとしているようです。
だからといって、それを売ろうということもありません。
本は増える一方。
以前、オークションに本を出すという意見を聞いたときは驚いたぐらいに
僕の中で本を手放すという発想がないようです。
こういうことを総合して考えてみると、
僕はかなり「本」というもの自体に思い込みが強いように思えてきます。
大切なものという感じ。
ジュンク堂書店のカバーがかかった本が山積みになっていると
目的の本を探すのは手間がかかるんですけど、それも構わないくらい。
大事に取っておきたいんです。
1つには、本から学ぶ時に、新鮮な気持ちで向き合いたい気持ちがあるようです。
真新しく、綺麗な状態の本から、自分にとって新しい情報を学び取ろうとしている。
だから古本屋や図書館が好きではないんでしょう。
新しく学ぶという意欲が、本の綺麗さと繋がっているみたいです。
図書館のようにビニールのカバーをつけて、全体的にくすんだ印象になっていると
なんだか安っぽくて価値の低い情報に感じられてしまうんです。
古本屋のように汚れた印象になってくると古臭い感じがしてしまいます。
古典的な名著と呼ばれるものであれば、古書でも構わないんです。
そういう本の場合、本の装丁や文字の書体も古さを醸し出しているものです。
全体的な古色がマッチしているので、「古典」から学ぶという別の意欲に変わります。
絶版ものを入手するときは「新しい学び」よりも「古典」の意味合いが強いんでしょう。
読んでいる間にも本が汚れてくると、学びの新鮮さが損なわれるイメージがあるようです。
書き込みもしてしまうと、次に読んだときに新しく対話ができなくなります。
以前にポイントだと思ったところしか学べなくなってしまう。
だから、なるべく新鮮な状態をキープしたいんでしょう。
「新鮮」という言葉は自分の中でシックリします。
鮮度を保つためにラップをしているようなイメージかもしれません。
いつでも新鮮な気持ちで本と対話したい。
新鮮な美味しさを味わっていたい。
そんな気持ちがあるような気がします。




