2008年01月

2008年01月29日

原因と結果

「原因と結果の法則」という本がありましたね。
自分に起こる全てのことは、全て自分が原因である。
そんな内容でしょうか。

カルマということを同じように因果として捉える方もいるようですが、
釈迦は直線的因果律に対して縁起という考え方を示してくれました。

十二縁起にあるように、円環的な関わりということです。
無明の状態から離れられたとき、苦しみから解放される、ということのようです。

悪循環を断ち切るという風に広く捉えると、これは素晴らしく現実的で
実際の世の中にマッチしたスタンスだと思えます。


悪い結果は、自分の行いという原因に対して起こる。
これは個人のレベルのように感じられます。

一方、カルマという言葉には何かもっと全体的な意味合いを感じます。
全ての人の行いが今のこの世の中を作っている、と。

もちろん、そういった現状は過去の行動という原因に対する結果としても存在します。
しかし、それは決して簡単な直線的因果関係で説明できるものではないはずです。
もっと複雑に絡み合っている。

100年前のある人が、イライラした気持ちを発散させるために
通りがかりの人を殴ったとします。

原因と結果という視点で言えば、殴ったその人は誰かから殴られたり、
何か嫌な目にあうことになるわけですね。

実際にそうなるか、その人が嫌な出来事を自分の行いの結果として受け止めるか、
それは分かりません。

ただ、世の中の繋がりを見ていくと、同じ『通りすがりの人を殴る』という行為が
別の影響を及ぼしていると考えられると思います。

誰かが殴ったその行為は様々な人間関係を通じて影響を広げていきます。
世の中全体に対して行ったことだと考えることもできるわけです。

それが巡り巡って自分のところへ帰ってくるか。
それは別問題。

ただ、自分はそうやって世の中に対して、嫌な感じを与える行為をした。
それは殴られた人を嫌な感じにさせただけでなく、
そこから始まって多くの人に嫌な感じを波及させていったのでしょう。

それは時間の経過とともに多くの人に影響を及ぼし続けていきます。

で、100年たって現在。
自分が道路でマナーの悪いタクシーの運転手に轢かれそうになったとします。
そこにも、100年前の『通りすがりの人を殴る』という行為が関係しているかもしれません。

単純な原因と結果としては言えないかもしれませんが、
色々な行為が世の中に対して影響を及ぼしているということは確実でしょう。


つまり『自分が人を不快にする行為をすると、自分の誰かから不快にさせられる』
という直線的な因果関係に対して、
『自分が不快にさせられたのは、長らく世の中に蓄積され続けてきた
人を不快にする行為が自分にも回ってきたためだ』と捉える
相互作用的で全体的な関係性もあるだろうということです。

そういった循環を不満に思うのなら、それを自分で断ち切り始めることをしませんか、
という視点もあると思うんです。

「自分が不快な目にあうのは、自分が誰かを不快にしているからだ」
と考えて、他人を不快にしないようにするのは素晴らしいことだと感じます。

一方で、「不快な行為の循環を減らしていくために、自分は人を不快にしない」
と考えて自分の行動を改めることもできます。
こちらは自分の利益を感じられない分、ハードルが高いのかもしれません。

しかし、そこには人としての責任があります。
世の中に対してどう関わっていくかという責任があります。

それは責任をもって、自らが選択をすることです。
嫌なことがあったとき、そのことに対する対応を選択していくわけです。
嫌な気持ちを誰かにぶつけるのか、自分でその循環を断ち切るのか。

そして、そこには同時に不思議な効果も現れるようです。
責任を持って選択し、嫌な行為の循環を断ち切ることにしたとき
自分の心の持ちようが変わってきます。

ゆったりと大きな気持ちになれるかもしれません。
「仕方ない。私がここで止めましょう」と大きく構えられる。

心を大きく構えたとき、些細なことでは不満を感じにくくもなると思います。
不幸を手放すキッカケになるのではないかと思います。


自分自身が不幸にならないために他人を不幸にしない。
因果で考えて、他人を不快にする行為をしない努力をしたとしても
結果として世の中全体に良い影響があるでしょう。

皆が、自分自身のために、他人を不快にしないように心がけたら
きっと素晴らしい世の中になっていくでしょう。

結果として目指すことは一緒なのかもしれません。

でも、もし人を不快にしないように頑張っていたのに、
それでも嫌な出来事が起きてしまったら、どうでしょうか?

まだまだ自分の行いが悪かったんだと反省するのでしょうか。
一体どれだけ完璧な人間になる必要があるのでしょうか。


それなら、世の中のために悪循環を止めるという発想のほうが
結果的に自分が楽になれると思うんです。

なぜなら、そこにあるのは選択だからです。
どうしても不満だったら、断ち切らない選択をしたっていい。
余裕のあるときに断ち切るだけでも、十分に良い影響を与えていると思いますから。


そして直線的因果関係で考えたとき、僕が不安なこともあるんです。

それは他人を幸せにしようとすることです。

自分が他人を幸せにすれば、自分に幸せが帰ってくる。
目的は自分が幸せになることです。

自分が幸せになるために、他人を幸せにしようとするのは怖いことです。
余計なお世話にもなりかねません。
助けを必要としない人を救出しようとすることかもしれません。

それは相手を見くびっています。
相手を信頼していません。

相手を幸せにしようと思うとき、それは本当に相手を幸せにしたいのでしょうか?
本当に相手のためなんでしょうか?


それよりも、自分が幸せでいることのほうが大事じゃないかと思うんです。
自分の幸せが自然と世の中に対して影響するような状態。
それもまた、他人を幸せにしていることじゃないでしょうか。

2008年01月27日

落とした鍵

『ある夜遅く、家に帰る途中の男が、街灯の下で四つんばいになっている人を見つけた。
 どうやら地面に落とした何かを探しているらしい。
 
 「何を探しているのですか?」
 「家の鍵を探しているんです」
 「お手伝いしますよ」

 男は一緒になってかがみ込み、街灯の下で鍵を探し始めた。

 数分間探した後、見つからなかったので男は尋ねた。
 「鍵を落とした正確な場所は分かりますか?」

 するとその人は後ろの暗い道を指差して言った。
 「向こうです。私の家の中」

 「じゃあ、なぜこんな所で探しているんですか?」

 「だって家の中より、ここのほうが明るいじゃないですか」 』

・・・こんな話があります。
中東の逸話だそうです。

『家の中』というのは庭とか敷地内という意味でしょうね。


なかなか印象的な話です。
馬鹿げた笑い話なのかもしれませんが、メタファーとして使われることが多いようです。

コーチング的に言えば、探している目標が何なのか、
目標を探すべき範囲は正しいか、
いつまで同じ失敗を繰り返すのか、
といった意味合いになるのかもしれません。

自分の仕事において暗闇にあたるものが何なのかを振り返るキッカケにもなりそうです。


一方、同じメタファーの物語であっても別の見方もできますね。

我々は鍵を探していたこの人物を笑えるだろうか、ということです。

無意識ということを考慮した場合、人は自分の本当の気持ちには
なかなか気づけていないと言えるわけです。

自分の抱えている問題、自分が目指しているもの、
そういったものは本人が意識している以上に、
無意識的な欲求に突き動かされたものかもしれないんです。

鍵を探しているのは間違いない。
心の中の何かに従って動いているから、不満になったり目標を持ったりするわけですから。

ただ、その鍵がどういった鍵であるのかを知っている人は少ないようにも思えます。
そして、その鍵を意識が照らす明るい街灯の下で探してはいないでしょうか。

・・・というような捉え方です。


鍵は無意識という暗闇の中にあることが多いようです。
しかし暗闇で探すのには勇気も必要です。
何か恐ろしいものが出てくるかもしれません。

人が自分の無意識という暗闇で探し物を始めるとき
それを一人でやるのには不安がつきまとうことがあるんでしょうね。


心理療法やNLPは、そういった暗闇を照らす小さな灯りにもなるかもしれません。

誰かの心と関わる人達は、一緒に暗闇へと付き添う立場と言えるでしょう。
時には鍵を見つけてあげることもあるかもしれません。
時には灯りを照らしてあげることもあるかもしれません。

でも、何よりも大切なのは暗闇の中で安心していられるように
その人のそばにいることじゃないかと思います。

その暗闇の中は素晴らしいものに満ちていると信じながら。

2008年01月25日

大事なものが抜けている

この間、マクドナルドに行きました。

中途半端な時間だったので、手軽に食事をしようということだったんです。
結構、店は混雑していました。
思ったよりも待たされて、「手早く」という目的がズレ始めてたんです。

で、僕は持ち帰りで注文をしました。
チーズバーガーを頼んだんです。
ケチャップ抜きで。

僕はケチャップがあまり好きじゃないんです。
食べられないわけじゃないですし、トマトは好きです。

でもケチャップで味付けして食べるのが好きじゃないんですね。

だから僕は「チーズバーガーのケチャップを抜いてください」と言ったんです。
店員は「はい」と、それだけの受け答え。

支払いを終え、品物を受け取って店を出ました。
そして、落ち着いて食べようと袋を開けたんです。

袋の中からチーズバーガーの包み紙を確認して取り出しました。
そして包装紙をめくり、一口。

そしたらなんと・・・。
ケチャップたっぷりなんです。

ガッカリです。

しかもですよ。

チーズが入ってないんです。

「チーズバーガーのケチャップ抜き」のつもりが
「チーズバーガーのチーズ抜き」です。

チーズ抜きって・・・。
要するに普通のハンバーガーですよ。


店に引き返す時間もなく、何とも言えない微妙な残念さを味わいました。
大した被害じゃないんですし、さほど期待をしていたわけでもないんですが、
どうしても、その時の気分は良くないですね。


やっぱり確認というのは大事だと感じます。

以前にも何度か「ケチャップ抜き」は頼んだことがありましたので
そういった対応をしてくれることは知っていたんです。

マニュアルなんでしょうね。
店員は必ずと言っていいほど注文を繰り返します。
聞き返して確認をしてくれるわけです。

ところが、そのときは繰り返さなかったんです。
「はい」としか言わず、注文を通してしまいました。

憶測で対応したのか、調理担当までの伝達に問題があったのか
何が問題かは分かりません。
そんなこと以上に見えない問題もあるかもしれません。

しかし、コミュニケーションということに関して言えば
明らかに店員の対応は不十分だったはずです。

忙しかったのかもしれませんが、確認を怠ったのは問題があると思います。
それは日常のコミュニケーションでも同じでしょう。

相手の伝えた内容を自分がどう理解して受け取ったのかを確認する。
これは重要なポイントです。

毎回確認をしていたら大変です。
状況に応じて、誤解を防ぐ必要性を考えて、確認を取るということです。

カウンセリングであれば最初に相手の問題を共有することが大切になります。
どうなりたいのか、どうなれば満足なのか、ということです。
そこに契約が生まれます。

カウンセリングもお金のやり取りが発生するわけですから
何に対してお金を払うのかという契約を最初に確認する必要があるんです。
「コントラクトを取る」という言い方もします。


その店員は忙しかったから確認の手間を省いたのかもしれません。
マニュアルで注文を繰り返すようになっていたとしても
そのことの必要性をあまり感じてこなかったのでしょうか。

確かに客が「チーズバーガー」という言葉しか発しなかったら
マニュアルどおりの繰り返しは必要ないかもしれません。

でも「チーズバーガーのケチャップ抜き」は繰り返しの確認が必要な場面です。
その注文には明確な意図があるからです。


仮に初めて行った寿司屋で「中トロ」と頼んだとしましょう。

それは、どんな中トロであっても受け入れるという準備がある注文の仕方です。
「この店はどんな中トロを出すんだろう?
 美味しいかな?イマイチかな?どこのマグロかな?冷凍かな?生かな?」
など色々な思いがあるかもしれませんが、それを言葉にしなかったわけです。

言葉に表現しなかった以上、
「そちらの中トロを試させてもらいますよ」
というスタンスだと言えます。

で、その結果、ワサビが効きすぎていたとしましょう。
でも客の側はそのことを確認していないわけです。
その責任は客の側にあります。

そうしたら次から言葉にして伝えれば良いわけですね。
「ワサビ控え目にして下さい」って。

一方、「中トロ、サビ抜きで」と頼んだとしたら状況は違います。
それは「ワサビを入れられては困る」という明確な意思表示を言語したものです。

出てきた中トロにワサビが入っていたら注文に応えていないということです。

店員としては「『サビ抜き』の部分がよく聞こえなかった」という言い訳は出来ません。
よく聞こえなかったら確認をすべきところだと言えます。


隠れたニーズを引き出すのも重要なことですが、
明らかに要望を出されたニーズを確認するのも重要なことです。

その結果として要望に応えるわけにいかなければ断ればいいわけです。
出されたニーズは確認する。
それは言葉に出された相手の意思を受け取るということです。

要望が出されたときには確認して誤解を防ぐのが大切じゃないでしょうか。



「ちょっとそれ取って」
「はい」
「違うって。ラー油じゃないよ。お酢だってば、まったく・・・。
 考えれば分かるだろう。普通、餃子には酢だろうに・・・」

「それ」では分からないんです。
言葉にして明確に伝えなかったところに責任があります。
相手を信頼した責任は、期待通りのものを得られなかったときに降りかかります。
文句を言える立場ではありませんね。

そして確認せずにラー油を渡したほうも同様かもしれません。
自分の推測を行動に移したわけです。
外れていても仕方ありません。
「ラー油?」と聞き返してもいいですし、「それって?」と聞いてもいい。


確認を取るというのは誤解を減らす重要なポイントかもしれません。

空気を読もうとして読めないくらいなら、確認を取るほうがマシじゃないでしょうか。

2008年01月23日

自分が先に

名コーチ、名監督は名プレーヤーとは限らない、
なんていうことが言われますね。

僕はスポーツにそれほど詳しいわけではありませんが
プロ野球を見ていると、プレーヤーとして一流だった人が
監督としてはそうでもなさそうな場面を目にしたことはある気がします。

もちろん、名プレーヤーで名監督という人もいるようです。


一方、プロゴルフではプロのコーチという人達が活躍しています。
彼らは選手として活躍をしていないようですが、コーチとしては一流です。

スポーツ界で名を残す方法の1つとしてプロコーチという存在を
世間一般に知らしめたような印象さえあります。


ゴルフには監督がいませんのでコーチの存在が目立ちますが、
もしかするとプロ野球にも選手としてよりもコーチとして有名な人がいるかもしれませんね。

そういったことを考えると、コーチという役割にある特徴が見えてきます。

それは「コーチは自分ができる必要がない」ということです。

頑張るのは選手本人であって、コーチは援助する立場なのかと思います。
これはビジネス界のコーチングでも共通しそうです。

コーチは客観的に判断しながら、支えになれる存在なんでしょうかね。


コンサルタントでも人によっては答えをクライアントに出させるようですが、
基本的にはコンサルタントは専門分野があって答えを持っていることが多いようです。

ところが、ビジネスのコーチは答えを自分で持っている必要がない。
スポーツのコーチとはここが違いそうですね。

まぁ、いわゆる「コーチング」でも、
絶対にアドバイスをしてはいけないわけではないそうですが。


で、プロ野球の話に戻ると、テレビ番組の解説者という立場もありますね。
これは専門技術を一般向けに解説したりする話術も重要なようですが、
それ以上に自分の技術を言語化する能力も必要なはずです。

自分が身につけてきた技術や知識としてもっている情報を使って
他の選手の技術を解説していくわけです。

解説者の目線から見て、選手の素晴らしいところを見つけていく。
ここは違和感がありません。
 自分もそうやってきた。
 自分にはできなかったことを、この選手はやっている。
そういう解説は受け入れやすいんです。

また技術を専門的に分析・研究している人からのコメントは
多くの一流選手に共通するモデルだったりするので、説得力があります。

でも、解説者のなかには批判的なコメントをする場合もありますね。
 今のは肩の開きが早かった。
 これは体が泳いでしまった。
そういう解説になると、「言ってる自分はどうなんだ?」と言われかねません。


客観的な立場からフィードバックをもらうというのは有意義なことです。
うまく取り入れれば役立てられます。

そこで大事なのは、フィードバックとなるコメントの受け入れやすさでしょう。

何を言うかよりも、どういう風に言うか。
そして、誰が言うか。

「今のは肩の開きが早かったですね」では余計なお世話だったりするわけです。
本人だって分かっているかもしれません。

「この選手はステップするときに踏み込む足の落下と一緒に重心が下がる癖があって
 それと同時に上半身も前に出て来やすい傾向があるようですね。
 踏み込む前から重心を低めにして一定の高さを保ったまま
 ステップを踵側からスリ足のように踏み出していくと、
 体の開きが抑えられて引っ掛けた打球も減ると思うんですが・・・」
とかならマシかもしれません。

そして、同じ「肩の開きが早い」でも、
超一流選手だった人から言われれば違うと思うんです。

野球少年が、チームの監督から「素振りしろ」と言われて納得できなくても
尊敬するイチローから言われたら、毎日素振りをするようになるかもしれません。

伝える人のあり方なんでしょうかね。
同じ内容でも、その人のあり方が反映されるということです。


いわゆるコーチングでは、コーチ本人が知らないことでもコーチングできます。
コーチはコーチングの技術に秀でていれば良いのでしょう。

でも講師は違うかもしれないと思うんです。
自分が伝える内容をどれだけ実行できているか。
これも厳しく評価される部分だと思います。

ただ、その厳しさは技術的な部分に留まらないようにも思うんです。

コーチだから知らなくていい、というよりも
このコーチだったら知らなくてもいいと感じさせる何かがあるんじゃないか、と。


ユングは言っているそうです。

「たしかに医者は、病室を連想させるような不健康なものを心に抱いていることが多い。
 だが医者はこれらの内部葛藤に打ち克たねばならない。
 自分で克服しないで、どうして患者に克服せよと言えるだろうか。
 自分がまだ暗闇の中にいて、どうやって仲間を啓蒙できるだろうか。
 己が汚れていて、どうして他人を清められるか・・・。
 医者は他人の傷の手当てをすることによって
 自分自身の傷から逃れることは、もはやできない。
 膿の出る傷を持つ物は外科手術を行えないことを肝に銘ずるべきだ。」


他人に何かをする前に、自分に対してすることが沢山あると感じます。

2008年01月21日

当たり前のことほど

相手の気持ちになるというのは、口で言うのは簡単でも、実際にするのは難しいですね。

それはコミュニケーションということでも言えると思いますが、
単純に立場が変わるという話で考えると仕事でも重要なことだと思うんです。

カウンセラーやセラピストの多くは、自分自身が苦しんだ経験を持っているようですが、
だからクライアントの気持ちが分かるというわけでもないと思います。
ただ、クライアントの立場を知っているという部分はあるはずです。

とはいえ、自分自身の悩みを克服するという経験が一番大事かと聞かれると
それもまた、ある一部分のような気もします。


例えばラーメン屋になる人のことを考えると、こんな感じです。

最初はラーメンが好きだという状態でしょう。
それで食べ歩きをする。
色々な店で自分好みのラーメンを味わって、ああだこうだと評論する。

で、自分の満足するラーメンに出会って、そこに弟子入りしたり、
あるいは自分の満足するラーメンに出会えず独学で試行錯誤したりして、
自分の作りたいラーメンを作り始める。

もちろん、経営という意味では他にも考えるべきところがあるでしょうが、
単純にラーメンをどうやって作り上げていくかという視点では、そんな流れでしょう。

ここで重要なのが、ラーメン屋をいつ目指したかということです。

ラーメン好きの視点でラーメンの食べ歩きをしていたときと
ラーメン屋になろうと思ってラーメン屋に行くときでは
随分と違いがあるだろうということです。

もちろん、ラーメン屋になってから他の店に行くこともあるでしょう。
それを偵察と言えばそうかもしれませんが、大切な部分もあると思います。

それは「客の立場を知る」ということです。

完全に偵察目的で行ったのでは客になれないかもしれませんが
ラーメン屋として、お客様の立場を忘れないという目的の場合もあるでしょうね。


つまり、お客様であったり、クライアントであったり、
そういった職業上で関わっていく相手の立場を意識するのが大事だろうということです。

カウンセラーやセラピストであるならば、自分自身が苦しみを乗り越えた経験によって
共感性をもってクライアントに接するということも大事でしょうが、
一方でクライアントの気持ちを考えられることも大切だと思うんです。

まぁ、お医者さんが患者の立場を体験することは多くないのかもしれませんが・・・。


顧客満足と言ってしまえば、それまでです。
でも顧客の立場になってみないで顧客満足が考えられるだろうか、とも思うわけです。


ただ、僕が勘違いしないように心がけていることもあります。

それは自分が感じるクライアントや顧客の立場は自分だけのものだということです。

自分が何かの悩みを克服したとします。
でも、その悩みも、克服の仕方も、自分だけのものなんです。

自分がウツを克服したから、ウツの人の気持ちが分かるなんてことはないんです。
ウツの状態の感じは近いものとして分かるかもしれません。
でも自分以外のウツの気持ちは分かるはずがないんです。
周囲の状況も人生経験も全てが違うからです。

僕は理系でずっとやってきて、仕事として研究をやっていました。
だから理系の学生にありがちなことや、研究職にありがちなことは知っています。
でも、それはあくまでも理系一般や研究職一般の情報です。

理系とは言っても、学校によっても、分野によっても全然違うでしょう。
研究だって色々あります。

状況は全て違うんです。
その中で培ってきたものから活かせるものを考えるのと
自分の経験を当てはめるのは全く別物です。

そして自分が培ってきたものを活かすという視点で見れば、
過去の全ての経験は活用できる可能性があるという意味において同等なはずです。

ウツを経験したことがなくたって、ウツの人を力づけることはできるわけです。
離婚を経験したことがなくたって、夫婦面談はできるわけです。

離婚暦が20回の人がする夫婦面談と、
結婚生活30年、夫婦円満の人がする夫婦面談と、
どちらがいいでしょうか?

僕はどちらも大差ないと思います。
問題はそこではない。
いかに相手の立場に近づくことができるか、ではないかと思います。

自分にも同じような経験があるといって自分の経験を押し付けたところで
そんなことには意味がないと思うんです。


自分自身がクライアントや顧客の立場を体験しておく意味の中には
自分と相手が違うということを別の視点で感じることもあるんじゃないでしょうか。

自分自身が100%満足させてもらえることはないでしょう。
きっと少なからず不満はあるでしょう。

僕がセミナーに出ても、セラピーを受けてもそうです。
不満を探せば見つかります。
ラーメンだって100%満足できるものには出会えていません。

それは当然なんです。
自分と相手は違うんですから。

自分が満足できた部分と不満だった部分。
そこに自分自身の価値観があるはずです。

そこが仕事上で大切にしたいことなんでしょうね。


そしてクライアントや顧客の立場を体験するとき、難しいこともあります。

それは当たり前のことを新鮮に感じるということです。
初めての体験でなら当たり前に感じられることを、改めて感じる。
これは難しいと思います。

慣れるほど「そんなもんだ」と思ってしまうことは沢山あると思います。
それは多くの経験を積むほど起きやすいのかもしれません。

一人のクライアントやお客様は、大勢いる全体の中の一人なのでしょう。
でもクライアントなり、お客様なりの立場からしたら、
それは他の誰でも関係ない、たった一人の自分自身なんです。


ラーメンを食べに行く人は、美味しいラーメンを食べたいと思っているわけです。
だからラーメン屋は美味しいラーメンを作る努力をするのでしょう。
行列に並んででも美味しいラーメンを食べたいと思って店に来るわけです。

 一番の目的は美味しいラーメンを食べること。
 だから店側は美味しいラーメンを作るのが仕事。
 接客は美味しいラーメンをより美味しく感じてもらうための心遣い。

でも肝心なことが抜けています。

初めて店に来るお客様は、美味しいことを期待してやってきています。
美味しいかどうか確かめたい。
美味しいと評判のラーメンを自分も食べてみたい。

「食べてみたい」んです。
食べられなかったら意味がないんです。

もしかしたら遠くから食べに来ている人もいたかもしれません。
なのに材料切れで店を閉めるところがある。
食べられないんです。

美味しいかどうかの前の問題だと思います。


ある医者の話です。

自分の子供がヘルニアの治療で入院したときのこと。

息子を安心させようと病気のこと、治療法のこと、
色々と説明をしてあげたそうです。

ところが、その子は麻酔からさめると、お父さんに言いました。

「お父さんは、痛いってことを言い忘れていたじゃないか」


初めての立場なら当たり前のこと。
いつも意識していたいと思います。

2008年01月19日

創始者は何をしていたか

エリック・バーンという人がいます。

といっても、1970年にお亡くなりになった方です。
交流分析を作った人ですね。


世の中には沢山の本があり、沢山の情報があふれていますが
何かの創始者の心に触れるということは、あまりできないような気もします。

例えば、催眠療法に革命をもたらしたような存在であるミルトン・エリクソン。
有名ですし、彼について書かれた本も沢山あります。
多くの逸話が残っていて、エリクソンの凄さは感じられます。
エリクソンの技術も様々な形に変えられて、今に伝わっています。

でも、エリクソンが何を大切にして生きていたのか、
エリクソンという人がどういう人であったのか、
そういうことは、なかなか感じられませんね。

晩年のエリクソンのビデオなどを見ると、彼の優しさや人柄が伝わってくるようでした。
催眠の技術を学ぼうとしてビデオを見ても、それは知識として知っていることかもしれません。
でも、動画の中には彼の人間性の一部が感じられます。

それも貴重な情報ですね。

そして、エリクソンは数多くの論文を残しています。

僕はまだ読んでいません。
それを読んだ先生は、本に語られていないエリクソンの想いを感じていたようです。
その想いを僕らに伝えてくれました。

もしかすると、それはその先生特有の感じ方かもしれません。
僕がエリクソンの論文を読んだら、感じ方は違うのかもしれません。

ただ、少なくとも源流に触れたとき、エリクソン本人を感じることができるとは思うんです。


例えば、いわゆるカウンセリングの技術の祖となったカール・ロジャース。

来談者中心療法とかクライアント中心療法と呼ばれるような傾聴を広めた人ですが、
ビデオで見る彼自身は決して話の内容を聞き、オウム返しするような人ではありません。

もっとクライアントそのものを全て感じようとしている印象です。
声の感じとか、体の雰囲気とか、話の裏側にあるものを感じようとしているようでした。

確かに、その意味ではクライアント中心でしょうね。

クライアントの話した上っ面の内容ではなく、相手そのものを中心に進める。
そう考えると、名前に偽りは無い感じがします。

でも、それが技術として広まっていったとき、
そこにはロジャース自身がしていたことは抜けてしまっているように思えます。


NLPも同じようなものかもしれませんね。
スキルの寄せ集めのような印象を受けることが多いようです。

でもバンドラー本人から受ける印象は全くの別物です。
映像で見ても、実物を見ても、業績を見ても、経緯を見ても、彼はユニークです。

僕が受ける印象。
それは反骨心や好奇心です。

とにかく既存のものを打ち破っていきたい。
今までのやり方以上のものを探しているような、そんな感じです。
今も彼は模索中でしょう。

バンドラーのホームページには怪しげなワークショップ情報が盛り沢山ですから。

彼はハチャメチャで、ヤンチャな人ですが、人を信じているんだと思います。
これまでのやり方に彼自身が感じられなかったものを
自分自身で反映させて形にしてきているんだと思うんです。

NLPはスキルが型として一人歩きしているのかもしれません。
それはそれで利用されているのですから素晴らしいことですね。

ただ、バンドラーは徹底的に型破りな人です。
NLPも型破りなものとして作られてきたと思います。
英国紳士的なジョン・グリンダーと袂を分かつのも当然でしょう。

なのに、できあがったNLPは再び型として広まっているという現実。
バンドラー自身のセミナーも生き方も型破りなのは、何か象徴的に感じられます。


よく出来ていて役に立つことは、技術として情報として
創始者の気持ちを離れて一人歩きしてしまうのかもしれません。

僕は最近、交流分析のエリック・バーンの人柄に触れられる本を読みました。

交流分析を情報として伝えているものは数多くありますが、
バーンが交流分析を作り上げた経緯や動機を書いてある本はどれだけあるのでしょうか。

交流分析はエリック・バーンの徹底した人間観察の結果なのだそうです。
極めて実感的な観察結果だということです。

誰にでも実感として納得できるように分類した情報。
だからこそ、それが広まったのでしょうね。

自我状態という考え方から始まり、彼の研究成果・観察結果が広がっていきます。
交流分析というジャンルの中に、いくつかの概念が入っている理由が理解できました。
なぜ、統一感がないのか。

それはバーン自身の観察結果と考察を少しずつ整理して追加したからでしょう。
交流分析というのは、エリック・バーンの気づきの集大成なのかもしれませんね。

徹底した人間観察に基づいているからこそ、誰にでも実感できる交流分析。
そこには実際に活用してもらおうという意思が感じられます。

その意思はどれだけ反映されているのでしょうね。
僕には分かりません。

1つ思うのは、多くの人は楽に早く分かりたがるようだ、ということです。

バーンは徹底的に人間そのものを観察してきた。
一方、交流分析を学んだ人は、交流分析で人間を見るようになりやすい。
分かったつもりで人を見てしまうのではないか、ということです。

人を見るために判断基準を持つのは素晴らしいことだと思います。
でも基準に当てはめて人を見ていてたら、
その人のことは見ていないのではないかとも思うんです。


創始者が何をしていたかを考えると学びの幅が広がりそうな気がします。

2008年01月17日

思いもかけず

本屋に行きました。


僕は実際に本を手にとって選ぶのが好きなので、
大きな本屋に行って本を探すのが好きなんです。

amazonは特定の本が書店で手に入らないときぐらいしか利用していない気がします。

本屋で見ていると、思わぬところで良い本に巡り合ったりできるのも嬉しいですね。

新宿の紀伊國屋かジュンク堂、池袋のジュンク堂のどれかに行くことが多いです。
ジュンク堂は椅子なども置いてあって、ジックリと選べるのが快適です。


自分の興味によって、各フロアの滞在時間が違ってくるのも面白いですね。
以前は理工書のところに長くいたのに、今はほとんど行きません。
ビジネス書のフロアにいる時間も短くなってきている気がします。

そして最近、足を運ぶことが出てきたのが、福祉・介護関連のコーナーです。

手に取る本で自分を知ることもできそうですね。


で、今日は素晴らしいものに出会えたんです。
これは偶然でしたが、嬉しい誤算になりました。

最初から、ある程度の量の本を買うつもりで行ったんです。
買うつもりだった本が2冊あったので、それ以外に買うかどうか、という感じ。

やっぱり見ていると欲しくなってしまうんですね、これが。
ただ、読む時間なども考えると、一気に大量購入というのも気が引けたので
目ぼしいものを厳選して買うことにしました。

僕は自然と心理療法系のコーナーにいることが多いですが、
最近は本屋でも心理系のDVD教材を売っていたりするんですね。
そんなのを気にしながら色々と探していました。

それで結局、2冊ほど追加して、最後に目的の本のところへ行ったんです。
福祉・介護関連のコーナー。

知人から薦めてくれた、奥川幸子先生の本を探しに行きました。
その知り合いは奥川先生からトレーニングを受けている人ですが
奥川先生の対人援助職トレーナーとしての実力の凄さを教えてくれていたんです。

そして目当ての本を見つけ、横に目をやったとき・・・。

1つのDVD教材が目にとまりました。

『核心をはずさない相談援助面接の技法・面接への招待』(中央法規出版)。

監修―― 奥川幸子、と。


どうも今日は色々とDVD教材が気になっていました。
そこに来て奥川先生監修のDVDを発見した。
これは・・・、と思ったわけです。

値段は3,500円。
ほかのDVD教材と同じような値段だし、手軽でいいなと思いました。

で、書棚にあった見本を店員さんに渡し、現物を手にレジへと向かったんです。


領収書をもらうことを考えると店員は「研修中」の札をつけてないほうがいいか、
なんてことを考えながら本とDVDの入ったカゴをレジの店員さんに渡しました。

で、店員さんが一言。
「合計で46,995円になります」


え?
と思いました。
慌ててレジの表示金額を見て、カウンターに置かれたDVDの金額を見直しました。

「0」を1つ見間違えていたんですね・・・。
DVDは35,000円でした。

瞬間的に色々と考えました。
色々な抵抗がありました。
間違えた恥ずかしさ。
それを取り下げることに対しても感じる恥ずかしさ。
見栄もあったかもしれません。


そして結局、僕は47,000円を支払いました。
多少の後悔を含みながら。

言ってみたら衝動買いです。
本と違って内容を立ち読みすることもできないわけです。
評判だって聞いたことがないものです。

「これで面白くなかったら・・・」
そんな不安があったのは事実ですね。


でも、僕はどこかに自分の無意識を信じている部分がありました。

今日、ふと本屋に行ってみようと思い立ったこと。
奥川先生の本を探していたこと。
なぜか本屋にいながら、DVDが気になっていたこと。
なぜか値段を1桁、見間違えていたこと。
出発前に現金を財布に追加してから出かけたこと。
レジで、ためらいながらも、すぐに支払いを決断していたこと。

もし僕が最初から35,000円だと気づいていたら購入を考えたかもしれません。
知人にメールで聞いてみてから考えようと思ったかもしれません。

ただ今日は、なんとなく買う流れになっていた。
そんな気もしていたんです。

期待と不安は5分5分。
そんな中でDVDを見ました。
せめて奥川先生自身が解説でもしていてくれたらなぁ・・・なんて思いながら。


その結果は・・・。


大当たりでした。

奥川先生は出てきませんでしたが、非常に深い内容です。
メチャクチャ勉強になります。
120分に重要なことがギッシリと詰まっています。

多くの優れた対人援助者がしているコミュニケーションを
明確に言語化して伝えている素晴らしい内容でした。

達人は多くの場合、無意識に様々なことをやっているものです。
それは言葉で説明するのが難しいことが多いわけです。

でも奥川先生は違うようです。

このDVDはスゴイです。

内容は福祉系に絞られていますが、面接の技法として見れば
様々な方にとって役立つ内容のはずです。

日常的なコミュニケーションとは違いますが、
ここで行われているコミュニケーションは非常に高度です。
求められるコミュニケーションが高度なんです。

福祉や介護で関わる相手は多くの苦しみを抱えながら頑張っている方々です。
そういった方とのコミュニケーションには多くの配慮が必要なようです。
高度なスキルに裏打ちされた深い優しさが求められるのかもしれません。

僕は衝撃を受けました。
あらためて自分が学ぶべきところ、意識すべきところを感じました。
自分の未熟さを痛感するDVDでした。

万人向けにオススメするDVDではありませんが一見の価値アリです。


コミュニケーションでは、うわべの言葉以外にも沢山の重要なことがあります。
相手の真意を汲み取るには、非常に多くの情報を読み取ることが必要です。

だからといって、言葉がどうでもいいわけではありません。
多くの方は言葉以外のコミュニケーションに意識を向けていないわけですから。

自分の話した内容をないがしろにされたら不愉快に思うこともあるでしょうし、
何よりも、こちらの意図を非言語から汲み取ってくれることも難しいでしょう。

相手のために、自分としては言葉を上手く使っていく必要があるわけです。
言葉と態度で、相手への思い遣りを表現する必要があるのだと思います。

介護や福祉に携わる方は優しい人達でしょう。
自分自身の対人援助者としての役割に誇りを持っている人達でしょう。
人を助けたいという気持ちが強い人達でしょう。

でも、どんな素晴らしい気持ちも伝わらなければ意味が無いんです。
相手を大切に思う気持ちを、どうやって表現していくか。
どうやって相手に「この人は大切にしてくれている」と受け取ってもらうか。

気をつけるところは、いくらでもありそうです。

それをどれだけ気をつけられるか、という部分に
相手へ気持ちを向ける度合いが反映されるのかもしれませんね。


見るたびに新たな自分の課題に気づけそうな、そんなDVDです。

2008年01月15日

何が起きているかを見てみる

おかげ様で新春ワークショップは好評をいただきました。

参加してくださった方の中には、お知り合いからこのブログのことを紹介され、
そこからワークショップへの申し込みを決められたという方もいらっしゃいました。

そういうことがあると嬉しいですね。
こちらからは知らない方も、このブログを読んで下さっていると実感できますので。


ワークショップでは参加してくださった皆さんに気づきがあったようですが、
僕にも色々と気づくことがありました。

できれば2日間ぐらいかけてジックリとやると
もっと効果的で、まとまりの良いワークショップになるかもしれません。

とりわけグループでの取り組みというのは個人にはない効果がありますので
その部分を工夫していくと面白いのではないかと感じています。

多くのセミナーは大人数で行われながら、講師と1受講生という関係が中心でしょうし、
少人数のセミナーやワークショップであっても、
ペアや3人一組になっての取り組みなどが中心のようです。

一方、心理系のワークショップの中にはエンカウンター・グループと言って
参加者全員で場の流れに任せ、感じたことを率直に言い合うというものもあります。

これはクライアント中心療法を作ったカール・ロジャースが
グループ向けに発展させたものということですが、
その率直さゆえに逆に傷ついてしまう参加者が出ることもあるようです。

何を発言するかというのは個人の裁量によりますし、
そういったグループでの取り組みをどのように受け取れるかというのも人それぞれです。
グループの中にいながら全体の流れを感じ取れる人は決して多くありません。

グループのメリットというのは相互作用です。
グループの成員によって異なってくる相互作用です。

同じ取り組みをやるとしても、グループの成員が変わってくれば
得られる結果も感じ取られる内容も変わってくるということです。


僕が扱うワークショップは無意識ということを大切にしていますので
意識化されなくても無意識のうちに起こっている交流を重要視しています。

だからこそ参加者全員をグループとして見たときに
場の中で何が起きるかというのを大切にしているんです。

そして、そのようなワークショップ中での無意識的交流は
自然と受講生に変容をもたらしていく効果があります。
これは実感として断言できることです。

考えてみれば当たり前ですよね。
幼稚園、小学校、中学校、・・・。
そういった集団の中での交流を通して人は成長し、その人が形成されていくわけですから。

ワークショップは、そういった成長を短期間に促進できるものであって欲しいと思います。

そうするとワークショップでの目的は、参加者というグループのなかで
いかに効果的な交流を生み出していくかにあるのかもしれません。


ただ、そういった無意識の交流を実感できる人というのもまた少ないわけです。

だからこそ意識的な学びもワークショップでは大切にする必要があります。
そうじゃないと「なんだかよく分からない時間だったなぁ」となってしまいますから。

一般的には意識的学びのほうを重要視して構成されるタイプの
セミナーやワークショップが多いですが、僕はそこを分けているつもりです。
もちろん、意識的学びと無意識的交流のバランスの問題ですが。

で、意識的学びを効果的にする方法もあると思うんです。

講師が説明して頭で理解するというのは意識的学びですが、
無意識的交流はあまり期待できません。

無意識的交流を引き出しながら、意識的にも学ぶ。
それは気づくというプロセスです。

気づきを促す方法。
それは「観る」ということです。

自分の内面に起きている無意識的プロセスを観る。
グループの中に起きている交流を観る。

ワークショップにせよ、心理的援助にせよ、
観るということを上手く引き出すのが重要じゃないかと思います。

実際に先日のワークショップでも「観る」ということを活用していたつもりです。
参加された皆さんは、お気づきのことがあるかもしれませんね。


人と人との交流があれば、そこに起きていることを色々と観ることができるはずです。
表面的なことから深いところまで。

表面だけではない見方ができるようになると
世の中には気づきのチャンスが溢れていると思えるのではないかと感じます。

2008年01月12日

無理なく自然なアプローチで

今度の新春ワークショップ、実に楽しみです。
なかなか面白い内容になりそうなので。

セミナーとかワークショップにも色々なスタイルがありますね。

講師の話を聞くのがメインになるもの。
色々なワークを数多く体験するもの。
講師が主役になって場をマネジメントして、全体をコントロールするもの。
受講生が自由に作り上げていって、全体の相互作用が重要な意味を持つもの。
練りに練った内容を1つ1つ積み重ねる中に講師の意図を込めていくもの。
受講生の雰囲気や持ち味に合わせて内容が変化していくもの・・・。

僕の好みは自由なスタイルです。
その場の雰囲気で内容も変わっていくことが多いです。

それは「自分が伝える」という能動性よりも
「相手に受け応える」という受動性を活かしたほうが好きだからです。
あくまでも僕自身のやりやすさとして、自分のスタイルとして、
僕が受動的なほうが自分の中にあるものを引き出しやすいということです。


定期的に行っている勉強会では、
テーマを決め、それに対して考えをまとめることをしていきますので、
自然とこちら側の意見を伝える場面が多くなってきます。
こちらが提案するという意味合いが大きいわけです。

一方、自己成長ワークショップは対極的です。
参加者の方の個人的な課題に合わせて、その場で内容が決まってきます。
役に立ちそうなものは持っていきますが、何をやるかは当日まで分からないんです。
これは柔軟性とグループの相互作用を最大限に活かすのが狙いです。


で、今回の新春ワークショップは、その中間ぐらいのイメージ。

あらかたの内容は決めていきます。
ただ、実際に何が行われるかは流れによって変わります。

その中でも、僕自身が考える目標実現というテーマに対しての
効果的なアプローチをまとめ上げていますので、
こちら側からの提案も大いに含まれてくるということです。

そして、その目標実現に対する提案内容がなかなか面白いものになりそうなんです。

「なりそう」というのは全部を伝えることになるか分からないので
あくまでも「なりそう」と表現しただけですが、
キッチリしたプログラムとして練っていくのも悪くないかと思っています。


目標達成・願望実現系のセミナーやワークショップは沢山ありますので
正直なところ、他と同じようなものだと思われるのに少し抵抗があったのですが、
これはきっと他とは大きく異なる内容だと自負しています。

モチベーションを上げていくタイプではありません。
もっと無意識的なアプローチです。
自然で速やかな目標達成を意図しています。

仮に、この内容のワークショップを一年前の自分が受けるとしたら
5万円ぐらい払っても安いと感じていただろうなぁ、なんて
思いが沸いてきたというのが正直なところ。

少人数のグループを前提にしているので、汎用性が低いという難点はありますがね。

どうなるか今から楽しみです。

新春ワークショップ

cozyharada at 23:14|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!セミナー情報 | NLP

2008年01月10日

『深イイ話』

つい先日から始まったテレビ番組で気になるものがありました。

日本テレビ系列の『人生が変わる1分間の深イイ話』。

なんだか、こうやってテレビの話題が多くなると、
自分が年末年始には普段と違う生活をしていることを自覚しますね。

まぁ、それはさておき、テレビ番組でもこういう形態が出てきたかと感じます。
本では流行している様子でしたが、いかに受け入れられているかということでしょうね。

「いい話を聞いたなぁ」と思うのは自分が共感できるかどうかだと思いますので
そこには明らかに聞き手の価値観が影響してきます。

誰かが『いい話』として話していた内容から
その人の価値観を読み取ることもできるわけですね。


僕は個人的に、時代の流れとか世界情勢とかを考えたいほうではありませんが、
テレビでも『いい話』が取り上げられるようになってくるのを見ると
何かしら日本社会の状態を感じてしまいます。

数年前からでしょうか、お笑いブームが言われるようになったのは。
人からは意外に思われることが多いのですが、僕は結構、笑うのが好きです。
ラジオを聴いていたり、お笑いのライブも見に行ったりしてました。

そんな僕から見て昨今のお笑いブームがどうだとか批評するわけではありませんが、
世の中がお笑いを求めているということには興味があります。

社会的に見ると、笑いを多くの人が求めるということは
それがけ日常生活への満足度をテレビの娯楽に求めている、
そんな意見もあるかもしれませんね。

テレビに『いい話』を求めるのも、その流れと言えるかもしれません。

と同時に、最近はクイズ番組も多いと思うんです。
比較の仕方は分かりませんが、以前に見られたマニアックなクイズよりも
雑学や一般常識に近い日常的な問題のクイズ番組が多いと感じます。

視聴者側からすると親近感や実用性などで興味が沸きやすいのかもしれませんし、
番組制作サイドからすると製作コストを抑えてレギュラー番組を組めるのかもしれません。

しかし、ゲームなどでも勉強に近いようなものが増えていることを考えたら
多くの人が学びたいという意欲を持ち始めているとも言えるように思うんです。


ゲームでもクイズ番組でも楽しく勉強しようとしてみたり、
本やテレビで『いい話』を聞こうとしたり、笑いを求めてみたり。

少なくとも物質的に満たされない何かを求める傾向が強まっているようには感じます。


そのような全体的な見方もあると思うんですが、
同時に『僕が1分間の深イイ話』と聞いて感じたのは、
実はもっと細かい部分なんです。

それはお笑い番組の流れとも関連しています。

「時間が短い」ということです。

ある程度長い時間をかける寸劇や落語のような笑いではなく、
5分以内に終わるネタが好まれているようだということです。

その事が『いい話』も1分間でまとめようとする番組と関係しているように思ったんです。

『いい話』が今まで無かったわけではないはずなんです。
ドラマにしろ映画にしろ、『いい話』は沢山あった。

それが1分でまとめられようとしている。

感動できるものは1分でも感動できます。
しかし感情移入するには時間も重要な要素です。

1分で感動させるには前提の知識と、
その話によってもたらされるメタファー的な効果が求められると思います。

コンパクトにまとめながらも人の心を打つ。
そこには共感性が高いプロセスが必要でしょう。
これはなかなか難しい作業です。

実際に僕がその番組の初回を見て感じた印象は
「1分では短すぎる」ということでした。

情報量の問題。
情報量が少ないと足りない情報を補う想像力が求められます。

本なら短い話でもいい。
時間は読み手に与えられているから。
読みながら行間を想像することができます。

でもテレビは違います。
1分は1分です。

今、世の中はそんなにも忙しいのでしょうか。
感動するような『いい話』を聞きたいという気持ちがありながら
それを1分で、ということに多少のギャップを感じます。

技術的には難しい挑戦だと思いました。
逆に言えば、見ている我々は大いに勉強をするチャンスだとも考えられますね。

おしらせ
 ◆ セミナー情報 

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《コミュニケーション講座》
 〜人を育てる指導力〜

【日時】 
  2019年6月16日(日)
   10:00〜16:30


【場所】 
  北とぴあ 601会議室

   JR王子駅より2分
   南北線王子駅直結

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《瞑想講座》

【日時】 
  2019年6月22日(土)

  午後の部 13:30〜16:30
  夜間の部 18:00〜21:00

【場所】 
  北とぴあ 第2和室

   JR王子駅より2分
   南北線王子駅直結

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《怒りの取り扱いマニュアル》
 〜期待の手放し方と
  ゆるしの技法〜


【日時】 
  2019年7月6日(土)
     7月7日(日)
   10:00〜18:30


【場所】 
  滝野川会館

   JR上中里駅より7分
   JR駒込駅より10分
   南北線西ヶ原駅より7分

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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