2008年02月

2008年02月28日

読み直すと

たった1枚の資料を元に、何時間も議論する。
そういったことが出来るのは、その資料に本質的な情報が集約されているからでしょう。

僕がワークショップや勉強会でお配りする資料も
A4用紙1枚の中に情報を詰め込もうとしています。

正確には情報量を減らし、抽象的・本質的な内容を心がけていますが。

それは、解釈の仕方に柔軟性を持たせ、
理解のための取り組みに学びの幅を出すことを意図していたりします。

ところが、同じ資料であっても誰が読むかによって
その使われ方、解釈のされ方は全くと言って良いほど異なってきます。
だから面白いわけでもあるんですが。

そうなると、意欲的な方が集まるほどにディスカッションの時間が増え、
少ない情報に集約された資料から貪欲に学ぼうとされるわけです。
とりわけその受講生の方にとって現実に即したテーマだったりすると、
自然とディスカッションは盛り上がります。

自主的に学ぶというときには、本当に有意義な時間になりますね。


これは資料が情報を集約して表現されているからこそ可能なことです。

抽象的で本質的な内容だから、具体的な事例と結び付けようとしたときに
自分自身の実体験を整理しながら納得することができるわけです。

本は少し違うかもしれません。
多くのビジネス書などは特に、1つの内容を伝えるために具体例を多く示してあります。
口の悪い人に言わせると、1冊の本で必要な部分は数ページ分だ、ということでしょう。

僕自身としては本はもっと大切に読みたいと心がけていますが、
本質的な情報を入手するというように考えたときには、確かに一部に集約されると思います。

まぁ、本は人によって、その時によって、心に留まる部分も違いますから
全ての部分に大切な意味があると思うのが僕の本音です。
そもそも書いた人の気持ちになったら、一生懸命書いた一冊のうち
数ページ以外は無駄だ、とは言えないような気がしますしね。


そうやって1冊の本の中から、心に残る部分を見つけるように読んでいくと、
しばらく時間をあけてから読み直したときに別の気づきを得ることができます。

以前に読んだときには全く何も感じなかった部分に心を動かされる。
再び読むまでの間で自分の人生に蓄積したものがあったということでしょう。
久しぶりに本を読み返すと自分の成長に気づくこともできますね。


最近、僕は1,2年前に参加したセミナーの資料を見直したんです。

すると学びが大きかったのは、本のように分厚いテキストではなく
1枚に情報が凝縮されたプリントのほうでした。

本は情報量が多いんです。
分厚いテキストもそうです。
情報量が多い、つまり詳しい書き方がしてあると、
それはどことなくメタファーのように受け取ることができたり、
流れの中での意味合いを感じられたりします。

すると「勉強になった」という印象よりも
「心に響いた」とか「気づきがあった」とかいう印象のほうが残りやすい気がするんです。

それに対して、情報が凝縮されたプリントには感動はありません。
(「よく出来た資料だなぁ」という感じは受けますが)

ただ、深い学びがあるんです。
それは自分自身の理解度が上がるほどに、学びを深めてくれる気がしました。

僕の場合、1,2年前のノートは、何を学んだかを思い出すのに効果的でした。
そして、ノートに書いたことを今も意識して実施していたり、
「だいぶ身についてきているな」と感じたり、振り返るのにもってこいなんです。

一方、学びの深い資料は、読むたびに理解を広げ、深めてくれるようです。
当時は意識できなかったことも、今なら分かったりします。

以前は一方的な情報提供を受ける印象だった資料が、
今では納得しながら受け入れられるようになっていたりするわけです。
これは意外と嬉しいものですね。

自分の変化を知ることができる。
理解していなかった部分を、もう一度理解することができる。

同じ資料なのに、改めて学んでいるような感じさえ覚えるんです。

引越しのときに、ついつい読んでしまうマンガや本、新聞とは意味が違います。
大袈裟に言えば、もう一度セミナーを学んでいるような気持ち。

やはり、それだけ学びの詰まった資料だということでしょうね。


僕が作る資料も、数年後に見直してもらったときに
前とは違う学びを得られるようなものにしたいものです。

2008年02月26日

アンパンマンに見る『深イイ話』

初回放送の時にも書きましたが、
『人生が変わる1分間の深イイ話』のレギュラー放送が始まったようです。

色々と興味深い話もありましたが、
僕のお気に入りは「アンパンマンにまつわる話」でした。


アンパンマンのイイ話の前に、全体的な印象として
どうも僕の好みからするとアッサリした感じを受けてしまうんですね。

僕が心理療法やカウンセリングをしている過程で
クライアントの方の人生と心の動きに触れるため、
感動的なシーンと出会うことも多いせいかもしれません。

1分で、っていうのは短い感じが否めないんです。

例えば、映画とかドラマとかアニメとか、感動的なシーンというのがあります。
「名作シーン」などといって特集されることも多いかと思います。

これは「多くの人が見ている」ということが前提になっているはずです。
一度全部を見て、その物語に感動して、その上での感動の名場面なんです。

いかに感動的な場面であっても、脈絡が分からないと良さが減ってしまいます。

そこに至るまでの色々な背景を知っているから、
感動的なシーンというのが成立するわけです。

僕の好きな『ビューティフル・マインド』という映画には
後半に感動的なシーンが目白押しですが、これも前半を見るからこそなんです。

1つの場面を挙げると、
「年老いた主人公が大学の図書館で1人の学生と話をする」
ということが非常に感動的で、涙を誘います。

ところが、その映画を知らない人からすると、
単に主人公が学生と話をするだけで、なぜ感動的なんだ?ということになるはずです。

決して話の内容が感動的なんではありません。
話の内容は当たり前のことです。
数学者同士の学問的な議論にすぎません。

それが前半部分を見ていると感動の意味が分かるわけです。

主人公は人との交流がトコトン苦手な人物でした。
精神病を患って苦しい時期を長く生きてきたんです。
努力を重ねてきた。

その後での学生との会話だから感動的なのでしょう。
「あんなに人との関わりが苦手で、多くの人から変人扱いされてきた主人公が
 初対面の学生と普通に会話をしている!」
そういう感動があるわけです。

つまり、前提となる情報があってこそ、人は思い入れが強くなるんです。

番組中で紹介される深くてイイ話は、確かに共通性の高いものです。
もしくは雑学的な要素を含んでいます。
「なるほど」と感じたり、「良いことを言うもんだな」と関心したりできます。

でも、おそらくその話の前提を十分に説明してもらえたら
それ以上の感動を得られるはずです。


これは人の話を聞くときでも同じです。

話している人は自分の経験を全て関連付けながら話せるわけです。
情報を省略しても自分の経験と結びついています。

話している本人は、そのときのことを思い出したり、
自分のそれまでの人生と照らし合わせたりしながら、気持ちが乗ってきます。

しかし、聞いている人は前提の情報がないんです。
相手の気持ちを理解するなんて到底できるわけがありません。

相手がどういう人で、どういう経験をしたのか。
具体的に聞かなかったら共感できるはずがないんです。

逆に、大して相手の話を聞いていないのに共感して、自分の感情を揺さぶられる人がいたら、
それは相手の話から勝手に自分の過去と照らし合わせて
その時の自分に体験に浸っている可能性が高いでしょう。

感動したいなら自分の思い込みで感動しても十分です。
ただ、それは相手を理解することとは全く別物だということです。


1分間の話で大きく感動しようと思ったら、
自分の思い入れの強いことと関係した内容を聞く必要があります。

そして、そこから連想して自分の体験と照らし合わせて感動するわけです。

要するにメタファーとして話を捉えて、
自分のことに置き換えたときに、自分の心を打つということです。

このプロセスは映画を2時間見て感動する時とは少し違うと考えられます。
映画は、映画の中の世界に入り込むから、その場の実体験に近い形で感動できます。
だから映画を見終わって出てくる人が、映画に影響を受けた行動を取ったりするわけですね。

1分の話で感動するときは、省略された話を想像力で補うことをするはずです。
想像力を働かせた部分には、自分の経験が強く反映されます。
その分、自分の過去の体験を感じながら、話を聞くわけです。

これは歌を聴いて感動する時に似ています。
感動的な歌詞は、聞いている人の体験を呼び起こします。

歌そのものに、紙に書かれた詩を超えた力があると僕は思っていますが、
それを度外視しても感動的な歌詞というのは想像力をかきたてますね。


ということで、僕が『人生が変わる1分間の深イイ話』で印象に残ったのも
案の定というか、歌に関するものだったわけです。

それがアンパンマンのテーマ曲『アンパンマンのマーチ』。

作者の、やなせたかし氏が自分で作詞したそうです。
ちなみに、やなせたかし氏は『手のひらを太陽に』や
『僕らはみんな生きている』も作詞したんだとか。

イイ話というのは
「卒業式のときに学校の先生がアンパンマンの歌詞を聞くように言った」
という内容で、やなせ氏は子供向けにしないように深い詩を書いたんだそうです。

テレビで放送される『それいけ!アンパンマン』では
2番が使われていますが、内容としては『深イイ話』で紹介された1番のほうが深いです。

(「アンパンマンのマーチ」:003-2549-0 作詞:やなせたかし)

  そうだ うれしいんだ  生きる よろこび
  たとえ 胸の傷がいたんでも

  なんのために 生まれて  なにをして 生きるのか
  こたえられないなんて  そんなのは いやだ!
  今を生きる ことで  熱い こころ 燃える
  だから 君は いくんだ ほほえんで
  そうだ うれしいんだ  生きるよろこび
  たとえ 胸の傷がいたんでも
  ああ アンパンマン やさしい 君は
  いけ! みんなの夢 まもるため

  なにが君の しあわせ  なにをして よろこぶ
  わからないまま おわる  そんなのは いやだ!
  忘れないで 夢を  こぼさないで 涙
  だから 君は とぶんだ どこまでも
  そうだ おそれないで  みんなのために
  愛と 勇気だけが ともだちさ
  ああ アンパンマン やさしい 君は
  いけ! みんなの夢 まもるため

  時は はやく すぎる  光る星は 消える
  だから 君は いくんだ ほほえんで
  そうだ うれしいんだ  生きるよろこび
  たとえ どんな敵が あいてでも
  ああ アンパンマン やさしい 君は
  いけ! みんなの夢 まもるため


対人援助者の使命感を感じますね。
「愛と勇気だけが友達さ」にもインパクトがあります。
見返りを求めない自己犠牲の精神とでも言いましょうか。

生まれてきた意味。
執着や依存ではない愛。
そして何よりも、「生きる」ということ。

間違いなく『深イイ話』ですね。

cozyharada at 04:24|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | NLP

2008年02月24日

型に頼り過ぎない

先週だったでしょうか、「R-1ぐらんぷり」というのがありましたね。
ピン芸人のNo.1を決める大会。
色々なパターンで楽しませてもらいました。

僕は結構、いわゆる「お笑い」というヤツが好きだと思います。
趣味とまではいきませんし、マニアでもありませんが、まぁ好きなほうです。
子供の頃から日曜日の昼間にやっている演芸番組なんかを見ていました。

そういえば、「R-1ぐらんぷり」で準優勝した「芋洗坂係長」は
元「テンション」というコンビだったそうですね。

テンションは僕もハッキリ覚えています。
懐かしいですね。
バカルディとかホンジャマカとかと一緒に出ていたのを思い出します。


とは言いながら、別に懐かしいテレビの話をしたいわけではありませんし、
ましてや、ここで「お笑い」の批評をしようというわけではありません。

最近のテレビによく出る芸人さんたちに関して、思うところがあったんです。


お笑いブームというのは長く続いていますが、
どうも日本テレビ系列でやっている「エンタの神様」という番組が
大きな影響力を持っているように見受けられます。

で、どうやらその番組に出るためには、何か『型』を持っている必要がありそうなんです。

芸人というぐらいですから、芸の型を持っているとも言えるかもしれませんが、
ネタを行っていく上での形式という印象でしょうか。

それがあると分かりやすいんです。
ハッキリしている。

NLPの目線で見てみれば、アンカーを活用しているとも言えるでしょう。
 ある芸人が出てくる。
 いつものパターンが始まる。
 すると積み重ねられてきたアンカーが発火。

笑うという状態と結びついたアンカーを、お決まりのパターンで引き出すわけです。

余談ですが、そういったアンカーを活用する意味では
宴会芸で有名な芸人のお決まりのパターンを真似するのは大正解です。
ネタの内容と関わらず、笑いのアンカーを活用してウケを取れる確率が高いです。


話が逸れましたが、ポイントは『型』ということです。

落語とか漫才なども型の1つでしょうし、
同じ漫才であってもボケとツッコミのスタイルで個性が出てきます。
漫才という『型』の中に、個別の『型』も出来ているわけですね。

ただ、実力というのは型の中にあるように思うんです。
活躍している芸人さんは、型を使わずに話術やキャラクターで
テレビ番組を盛り上げる、ということです。

要するに、型を外しても面白いから、多くのテレビで重宝されるのでしょう。

一方、ある強烈な型を作り上げ、その型の斬新な面白さで一世を風靡したのに
数年もしないうちにテレビ出演数が激減するケースは多いように感じます。

型を外したときに中身が伴わなかったのでしょうか。


こういったことを考えると、コミュニケーションの技法にも
同じようなケースがあるのではないかという思いが湧き上がってきます。

NLP、コーチング、コールドリーディング、カウンセリング、…
色々な技術があります。

どれも1つの型と言えると思います。


カウンセリングやコールドリーディングは、型の中でも特に
その人の個性や技術が反映される印象が強い気がします。
落語や漫才くらいに。

カウンセリングやコールドリーディングを本気で使いこなす人というのは
本当に達人的に人の心を捉えていけるはずだ、ということです。
つまり誰がやるか、というのが非常に重要なんです。

なぜなら、「何をして、どうなるか」という結果の部分が明確な割りに
そのために「何をしていくか」というプロセスの部分が柔軟だからです。

カウンセリングという型のイメージは、漫才と同じくらい印象深いでしょうが、
その都度変わっていく内容においても、漫才に近いものを感じます。
人が変わり、ネタが変われば、起きる心の動きも変わってくるんです。

クライアントの本質に迫るカウンセラーの力量は
漫才師の腕と同じくらい結果に影響を与えるはずです。
人の心と関わる力量が大きな割合を占めるということです。


コーチングやNLPになると、もっと『型』としての効果が大きい感じがあります。
喩えると、「M-1グランプリ」よりも「エンタの神様」寄りだということです。

コーチングでも成果を出すことに関して、コーチの力量が影響するはずですが、
それは目的に沿ったコミュニケーションだということは無視できません。

コーチングは素晴らしい。
大活躍されているコーチもいらっしゃいますし、
コーチングを受けて多きな成果を上げる方も大勢いるはずです。
僕は、理系の仕事にはコーチングが非常に効果的だと考えています。

コーチングという型は強烈なインパクトもあります。
だからこそ型に頼り過ぎないように気をつけるべきじゃないかと思うんです。

日常のコミュニケーションはコーチングの型から外れています。

持ちネタを披露する番組ではなく、トーク番組なんです。
いつもの型のネタが、そのまま通用する場面じゃないかもしれないんです。

コーチングを学べば、日常のコミュニケーションに活かすことはできるはずです。
でも、日常のコミュニケーションを向上させる目的で
コーチングという型を身につけようとすることに関しては、疑問があります。

いつもの持ちネタを使わずに、トーク番組で笑いを取る実力が必要じゃないでしょうか。

NLPでも同じようなことがあると思います。
持ちネタで笑いを取れるところから、トーク番組で活躍するまでには、
実力の差というのがあるはずです。

一発屋にならないためにも、腕は磨く必要がありそうですね。

2008年02月22日

役に立つということ

Xファイルという海外ドラマがやっていましたね。

数年前だったと思います。
たぶん、それも再放送だったはずです。
深夜に見ていましたから。

で、僕はある回が非常に印象に残っているんです。
それは怪物に襲われる村の話でした。
あらすじはこんな感じ。

 ある村には言い伝えがあって
 重病人が出ると決まった儀式をするんです。

 教会や小屋を締め切り、祭壇を作り、内装も変えます。
 動物の血か何かで怪しげな模様を描いたり。
 そして、建物のドアのところに、お決まりのマークを描くんです。

 病人だけが、その建物に残り、祭壇の上で寝ます。
 家族はとても心配をするんです。
 病人もとてつもない恐怖と戦っている様子。
 それでも儀式は続いていきます。

 すると深夜、何者かが建物に侵入したかと思うと、
 建物の中から悲鳴が聞こえてくるんです。

 翌朝、建物の中は血だらけです。
 あきらかに殺人現場のようになるわけです。

 Xファイルとして奇妙な出来事を研究している主人公達は
 その村の習慣を調査に向かいます。
 そこでその殺人現場とも思えるような場面に出くわす、と。

 当然、主人公達は深夜の調査を行います。
 儀式を張り込みするんです。

 そしてついに、儀式の内容に出くわします。
 何者かが建物の中へ入ってきます。
 そして遭遇。

 侵入者は、おぞましい風貌の怪物でした。
 その化け物が病人を食べてしまうんです。
 そりゃ、病人も悲鳴をあげるわけです。

 で、そんな流れの中、主人公が何者かに襲われます。
  (主人公を襲ったのが誰だったか、
   重病を負っていたのかは忘れてしまいました。
   とにかく主人公が倒れるんです。)
 
 主人公はそのまま姿を消します。

 場面は変わって、洞窟の中。
 そこには先ほどの怪物がいます。
 主人公も倒れて死にかかっています。

 すると怪物は主人公を食べ始めるんです。
 バリバリと音をたてて。
 
 そして、すぐ脇の地面に掘ってあった人型の穴の中へ
 口から大量の液体を吐き出すんです。

 不思議なことに、その液体は人型の中で固まり
 徐々に主人公の姿になっていきます。
 ついには主人公に戻るんです。
 
 そして。

 主人公は生き返ります。
 瀕死の状態が嘘のように、元通り以上に元気になるんです。

 でも、その横で、その怪物は死んでしまうんです。

 怪物は元々、特殊能力を持った村人だったそうです。
 その特殊能力で村人の病気を治していたんだとか。
 (食べて吐き出すと、病気が治って生まれ変わる仕組み)

 ただ、彼は病気を治すとき、自分の体に異変が起きるんです。
 病人を食べて、元気な状態で吐き出す。
 要するに悪いところを食べてくれていたんです。
 だから彼の体は蝕まれていきました。

 直接、その病気になるわけではなく、
 痛みや苦しみと、容姿の変化として、悪いところが現れていたようです。
 彼が怪物のような容姿だったのは、村人の悪いところを一身に貰い受けた結果でした。

 でも、彼はその怪物のような風貌と、人間離れした能力で
 村からは追い出されていたんです。
 洞窟で暮らしていたんです。

 そして、彼は最後に主人公の命を救って、自分の命を落としたというわけです。
 儀式で食べられた村人は、みんな元気になって戻ってきていたそうです。


こんな物語でした。
もちろん違っているところもあると思いますが。


怪物は悪者じゃなかったんですね。
村人の病気を治してあげていた。
なのに村人からは迫害されていた。

村人は彼を都合のいいように利用していただけだったわけです。
なのに彼は病気を治し続けた。
自分が苦しみながら。

何が彼をそうさせたんでしょうか?
病気を治すほどに自分が苦しみ、
感謝されるどころか、村人からは怖れられている。

文字通り「献身的」だったわけです。
報酬は一切ないように思えます。


彼にとっては、病気が治った後の元気な姿を見ることが喜びだったのでしょうか。
自分の運命として、自分の使命を全うしていただけだったんでしょうか。
迫害されてもなお、村のことが好きだったんでしょうか。

それはドラマでは語られていません。


人には誰かの役に立ちたいという欲求があるようです。

ただ、「役に立ちたい」と言ったとき、
感謝されることを期待していないだろうか、とも思うんです。

病気を治して感謝されるためだったとしたら、
彼は病気を治すのをやめていたでしょう。
自分が苦しんでまで病人を救わなかったでしょう。

誰かからの報酬や見返りを求めずに、
純粋に人の役に立つ行為をするのは大変なことだと思います。

人を救い続けた怪物の心の中は、どんなものだったのでしょうか。

2008年02月20日

孤高の存在

先にもDVDを紹介しましたが、
奥川幸子先生の本の中にとても印象的な部分がありました。

全体的な内容とは関係なく、ある部分に反映されたものが
僕の中に大きく響いたわけです。

以下に引用させていただきます。(「身体知と言語」P565〜)

「ケアに関わる対人援助職者は、仕事として他者の人生の一過程で
 彼らが見舞われている悩みや苦痛、陥っている困難な状況などを、
 期間や関わり上の制約はあっても一挙に身に浴び、
 いったんは表現された全身の表情やことば・こころの叫びまでも身体に入れます。

 援助者の熟練度が上がるほど身体に入れる量も大きくなります。(中略)
 …
 ですが、人間の容量はどう考えても無限に拡大するとは思えません。
 そこは芸まで達した実践家であれば統御できると考えられます。
 加えて、職業生活と個人的な人生の切り替え上手な達人になっているはずです。」

人の心、特に問題や悩みを抱えた人を相手に関わっていく上で
自分自身の人間的成長が必要だという話の流れです。

ただし、それは職業的にプロフェッショナルとしての対人援助である以上、
私生活との切り替えができるようになるべきだ、ということでしょう。

援助者として関わるときには、援助者としての自分が関わっていく。
決して人格を分離するということではありませんが、
自分の状態をコントロールするということだと思います。

別の箇所ではクライアントの問題を「抱え込みすぎない」ことにも触れられています。
職業的援助者としての自分を切り替えることは
自分自身の身を守ることにもなるでしょうし、
同時に援助者がプライベートでも聖人君主である必要はないことを語っているようです。


この話はもう少しだけ続きます。(強調は元の本の中にはありません)

「なお、この命題については、宗教的な支柱を有していて、なお洗練された専門職として
 アートとしての技術を獲得されているかたであれば、
 かなり無限とも見紛うような厳しさを伴った究極の優しさを周囲に放ちます。
 ですが、そのためには人間界においては絶対的な孤独と孤高を引き受けられなければ
 究極の優しさのオーラは発生しません
ので、稀有な存在になります。」

職業的な援助職者としての自分を磨いていけば、
同時にプライベートな自分を切り離して専門家になることができる。
その一方で・・・、という話です。

宗教的な支柱というのは決して直接的に宗教のことを示しているとは思いませんが、
自分自身を超えた何かへの想いが精神的な柱となることは確かでしょう。
そうした自分を超えた柱を持つことが1つの条件。

そして、精神世界に没頭するだけではなく、
プロフェッショナルな援助職者として現実的な技術を身につけること。
これが2つ目。

この両者を持ち合わせたとき、職業的な自分としての関わりだけではなく
自分自身の全てをもって援助的なコミュニケーションが可能になる、
そういう内容だと受け取りました。

両者を持ち合わせると、無限に近い「厳しさを伴った究極の優しさ」が出てくる、と。

イエスやブッダの行いまでは到達しないまでも、
存在だけで人を癒せるような、そんな域なのでしょうか。

しかし、そうして自分自身のあり方全てでもって人と関わり、
なおその中に「厳しさを伴った究極の優しさ」を醸し出すには
「絶対的な孤独と孤高を引き受け」ることが必要だという話です。

僕には、この部分がとても印象的でした。

職業的な自分を、援助職者として相手のために行動し、
相手を受け入れる者として成長させていくことは、多くの場合で可能でしょう。

ただし、そういった人が私生活でも全て自分自身の要求をコントロールできるかと言えば
そうではないと思います。
私生活では不満もあるでしょうし、思うようにいかず悩むこともあるでしょう。

私生活で生じる不満の大半は自己愛の傷つきによるものと考えられます。
認められたい、愛されたい、思い通りにならない、自分はダメだ、・・・。
色々な形の不満は、他者との関わりの中で生まれるものです。

一見すると他人と関わらないような金銭面や個人的な目標に関することでも
誰かとの比較や誰かからの承認・賞賛を求めていたりするのです。

あらゆる不満は自分を愛することでしか満たせないのかもしれません。
自分を100%愛してくれるのは、他の誰でもない、自分なのかもしれません。

そして、本当に自分を自分で愛せるようになったとき、
自分を満たすために他人を必要としなくなると思うんです。

そうなったとき、人は本来の孤独な姿に戻るのかもしれません。
孤高な存在。
それは自分の気持ちを他人にコントロールされない人なのでしょうか。

誰に愛してもらわなくても、自分が自分を愛している。
だから大丈夫。
誰にも傷つけられることはない。
誰かに求めることもない。

自分のために誰も必要としないほど孤高な存在。

だからといって生活のために必要な社会的交流を絶つということではないと思います。
霞を食べて生きていける仙人である必要はないでしょう。

自分の心が自分で満たされ、他人を必要としないから
他人にコントロールされることもない。
そんな精神的な安定感は、同時に孤独でもあると思います。

孤独であることが不満でないわけです。

そのためには、多くの場合、自分を超えた存在に対する想いが支えとなるのでしょう。
それが宗教的支柱を必要とする理由ではないでしょうか。


そこまで自分で自分を愛せるか、と考えたとき
それは果てしない道のりのようにも感じます。

僕がそれを目指したいのかどうかは分かりません。

ただ、この内容が気になった理由があるんです。

あるとき、NLPのワークで理想の自分というのをイメージしたんです。
そのとき浮かんできたイメージが関係しています。

そのイメージでは、
僕は1人でした。
小高い丘の上から見下ろす景色。
周りには誰もいませんでした。

今の僕には、とても寂しい光景です。

理想のイメージなのにネガティブな印象すらあったわけですが、
孤独・孤高ということを考えたとき、
人間的成長の理想というのは、ある意味そんなものなのかもしれませんね。

cozyharada at 23:31|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2008年02月18日

話の聞き方のワークショップを開催します

カウンセリングや質問力に興味をお持ちの方へ
ワークショップのお知らせです。

対人コミュニケーションの枠組み


このワークショップで目指すものはシンプルです。

『相手の言いたいことを理解するために、何を聞こうとするか』
この枠組みを身につけることを目標に据えます。

もちろん、それは1度のワークショップで身につくものではありません。
シンプルですが、極めて奥の深いものです。

相談援助の場面においては、長い年月をかけてトレーニングを続けていき
少しずつ確実にプロフェッショナルとしてのスキルを身につけていくのです。

プロフェッショナルの域に到達するのは果てしない道のりですが、
その型をしっておくことは様々な分野で役に立ちます。

そして何よりも、人の本当の気持ちを理解してくれる存在が
多くの場面で求められていると思うのです。

人は誰しも、言葉にはできない本当の気持ちを持っています。
上手く言い表せないことが多いのです。
本人すらも気づいていない本当の気持ちであったりもするのです。

だからこそ相手に理解してもらえたとき、
なんとも言えない喜びのような、ある種の満足感を得られるのでしょう。

そして、
相手の本当の気持ちを理解するのに最も大切なこと、
それは心構えや精神論でもなければ、具体的な質問法でもありません。

相手という人を理解するために必要な情報の枠組みを知ることが鍵になります。


その枠組みの中で、相手の人生を形作りながら理解していくのです。
ここに至る情報統合のプロセスに、トレーニングが求められます。



昨今、『聞く』ことの大切さは様々な場面で取り上げられています。

リーダーのなすべき事としてビジネス分野では、「LEADER」の頭文字を取って
 ・Listen(聞く)
 ・Explain(説明する)
 ・Assist(援助する)
 ・Discuss(話し合う)
 ・Evaluate(評価する)
 ・Response(責任をとる)

などと説明されることがあります。
一番重要なのが『聞く』ことだとされているのです。

では、
人の話を聞くとは、どういうことでしょうか?
聞き上手とは、どんな聞き方なのでしょうか?


確かに世の中には、話しやすい相手といわれる人がいます。

その人が、どうして話しやすい相手なのか。
それは、その人の持っている雰囲気であったり、
その人が質問によって上手く話を引き出せることであったり、
様々な理由が考えられます。


話しやすい雰囲気というのは、言葉以外のメッセージによって作られる度合いが高いはずです。
それは技術的に身につけることも可能です。
受容や共感といった心構えから表現していくこともできます。

おそらく多くの場合、カウンセリングのトレーニングとして行われる内容は
このように話しやすい雰囲気を出すことが1つの目標になっているはずです。


一方、質問によって話を広げていけば、コミュニケーションの量は増えていきます。
日常会話では、自分の意見と相手への質問のバランスがよく、
会話の途切れない状態が続くことが心地よい状態として受け取られると思います。

自分の話もしながら、相手にも興味を持ち、相手から話を引き出す。
ここで重要なのは、多くの場合に質問が自分の興味によって生まれてくる点です。
日常会話であれば、自分が知りたいことを質問しても充分だということです。

当然、相手の話したい部分に質問できたほうが相手は喜ぶでしょうが、
自分の興味から出てきた質問であっても、相手にしたら
「関心を持ってもらえた」という喜びが得られるわけです。
日常の場面であれば、相手に関心を向けるだけでも充分に良好な人間関係が期待できます。


しかし、相談援助面接という場は求められるものが違います
介護や福祉などの場面です。
苦しみを抱えた人達を相手にするのです。

話しやすい雰囲気や、相手への関心だけで、どうにかなるものではありません。
時によっては、長々と話していられない状況もあるでしょう。

そこに求められる水準は極めて高いと言えます。

だからこそ、相談援助面接のスキルを身につけることは
多くの分野で役に立つはずです。

効果的に相手の本当のニーズを引き出すことができれば、
カウンセリング、コンサルティング、営業、接客・・・、
様々な人間関係において素晴らしい成果が得られることは想像に難くないと思います。

何よりも、相手に対して優しいのです。
この基本姿勢は揺るぎません。



質問集を覚えて、相手の発言に合わせて質問をしたり、
何かの方向性に向けて、質問で導いたり、・・・
そういったトレーニングは、このワークショップの趣旨ではありません。

質問によって、相手の思い込みを取り除こうとしたり、
相手の視点を変えようとしたりすることも一切ありません。

結果的にそうなることはあるかもしれません。
ですが、問題を解決するためのコミュニケーションではないのです。
目標達成を援助するためのコミュニケーションでもないのです。

コーチングにせよ、NLPにせよ、解決志向ブリーフセラピーにせよ、
質問によって相手が持っている答えを引き出すことが1つの目的になっています。

しかし、このワークショップの狙いは、その前の段階なのです。

『相手の本当の気持ちを理解する』

それは相手も意識できていないこともあります。
つまり、共同作業なのです。
聞き手である自分と、話し手である相手の、相互交流による共同作業なのです。

共同作業のためには、相手の情報も知らなくてはなりません。
だから質問するのです。

そして、相手の何を知る必要があるかという枠組みが、その基盤になります。

『どう聞くか』とか『どういう質問をするか』ではありません。
『何を知ろうとするか』が前提です。


もしかすると「人はそんなに枠組みに当てはめられるものでない」と思われたり、
「マニュアルに沿って質問をしようということか?」と思われたりしたかもしれません。

ここで提案する枠組みは、非常に本質的で抽象的なものです。
別の表現にすれば、
『ある人の人生を理解するための多次元の座標軸』
といった言い方でもいいかもしれません。

その枠組みに沿って情報を引き出そうと質問をしていれば
時間はいくらでもかけられるはずです。

枠組みの中で把握したい内容を聞き手が理解するために
様々な質問が必要になることでしょう。
ただ、その質問は自然と出てくるようになるはずです。

『何を知りたいか』が明確になっているわけですから。



最後に、ワークショップへご参加いただく際の注意事項をお伝えします。

・基本的にどのような方でもご参加可能です。(経験は問いません)
 しかし、この場でご自身の悩みを解消したいという方はご遠慮ください。

・個人的な内容をお話いただくことがありますので、
 他の参加者のプライバシーを守れない方はご遠慮ください。

・地味なトレーニングを積み重ねます。
 楽しいワークショップをご希望の方は、別の機会をお待ちください。


真面目で、時に単調でもあるスキル・トレーニングです。
自分と向き合った時のような満足感や、目標へ向かう意欲の高まりなどは期待できません。

場合によっては、自分自身のコミュニケーションのパターンや
今まで意識していなかった課題に気づくこともあるかもしれません。
それを糧として、ともに学んでいく意欲のある方のご参加をお待ちしています。



開催要項は以下の通りです。




【日時】 2008年 3月20日(木・祝)
     9:30〜16:30 (30分程度、前後する場合があります)

【場所】 都内会場(お申し込みの方に後日ご連絡いたします)

【参加費】 7,000円
      
【お支払い】お申し込み後にご連絡いたします



トレーニングの効果を考えて少人数制で行いますので
定員になり次第、受付を締め切らせていただきます。

お早目のお申し込みをお薦めいたします。


終了しました


2008年02月16日

OKな状態

人は他人との関わりの中で、とかく何かを求めがちですね。

自分が嫌な思いをしたり、不満を抱いたり、傷ついたりするとき、
それは相手に期待をしていたからです。
意識していなくても、期待を裏切られたから嫌な感じになるわけです。

そして相手という人に対して、不満をためていくわけです。
場合によっては、そうやって壊れていく人間関係もあるでしょう。
要するに「嫌いな人だ」と。


そういった「自分の思い通りになる」ことを期待するのは
生まれたときから始まっているように思います。
我々は、思い通りにいかないことを学んできているわけです。

自分の思い通りにならないとき、色々な工夫をします。

泣いたり、怒ったりして、相手を操作しようとする。
自分の感情を歪めて、上手くやり過ごすために自分に嘘をつく。
ごまかしている自分の中にある葛藤を見てみぬフリをする。

そんな風にして生き延びてくるんです。
これは社会で生きていく上で必要な「意識」というものの学習とも言えるでしょう。
世渡りの方法なんです。


ただ、それが時に自分を束縛し、相手との関係を厄介なものにしてしまいます。
思い通りにいかない感じがしたときに自分の取る行動パターンが
相手との関わりを歪んだものにしていくわけです。

自分が相手に向ける期待と、相手が自分に向ける期待。
それぞれがすれ違い、それぞれが満たされないとき、
嫌なパターンが始まっていきます。

互いに感情をむき出しにしてケンカをする。
片方が泣いたりスネたりして相手を動かそうとする。
 どちらも相手を自分の思い通りにしようと、
 小さい頃に身につけた処世術を使っているんです。

そして一方が相手を思い通りにしようと怒りをぶつけたり、悲しみを表したりしたとき、
その相手がとる行動パターンも、その人が身につけてきた方法です。

相手の怒りに対して、
 自分も怒りを表してケンカをする。
 怒られた相手に謝って許してもらおうとする。
 「勝手にしろ!」といって、その場を捨てる。

相手が泣いたり、スネたりしたとき、
 相手が自分をコントロールしようとする感じを察知して、あえて何もせずに自分を守る。
 相手の機嫌を直そうと、相手を甘やかす。
 相手の感情を無視して、合理的な解決策を提案する。

どれも歪んだ対応です。
全て、相手をOKだとして扱っていません。
そして、そのときは自分もOKな状態ではないはずです。

交流分析では「I'm OK, you're OK.」という心構えを大切にしています。
しかし、これは頭で分かっても実感するのは大変だと感じます。

この心構えは、なんというか、安定感を醸し出す気がするんです。

日本にNLPを最初に持ち込んだ、故・国谷誠朗先生は著書の中で、こう書いています。
 
 『私はOKであるという感じは、ある他者によって真実に信頼された時におこります。
  相手を心から信頼するには、「私はOK」という自己信頼が必要なのです。
  今のありのままの私をうけとめてくれる一人の他者、あなたの存在によって、
  私は自分の本当の姿に気づきます。
  そして、自分の姿に気づくと、あなたを信頼し、
  あなたの存在をありのままに受けとめやすくなっているのです。』

まずは自分から自分を信頼し、同時に相手も信頼する。
それによって相手も相手自身と自分を信頼しやすくなる、ということでしょう。

信頼と期待は大きく違います。
信頼は裏切られません。
期待が裏切られるんです。


自分を誰かから信頼してもらおうと思ったり、愛されたいと思っても
それは誰もしてくれることではありません。
100%満たされることは絶対にありません。

親ですら満たしてくれなかったから、処世術を身につけざるを得なかったんです。
他人が満たしてくれるわけがないんです。
まして、その他人だって満たされていないのですから。

であれば、自分で自分を信頼し、愛していく、ということになるのでしょう。


そして、こういうことを考えていると僕は分からなくなる部分があるんです。

「I' OK」のOKとはどいういう状態でしょうか?

自分が苦しい思いをするとき、それはOKな状態ではないのでしょうか。
「苦しい思いをしていても、それでもいいんだ」と思えば「OK」なんでしょうか。
「こんな苦しい思いはしたくない」と努力を続けるのは「OKではない」のでしょうか。

「幸せになりたい」と言う人は、今の幸せに気づいていない、
なんて言われることがあります。
今の幸せに気づくことが大切だ、と。
不満ばかりに目を向けてはいけないんだ、と。
「足るを知る」などという言葉もあります。

今の自分を愛する、ダメな自分を愛する、ということも大切でしょう。
言葉で表したら、僕もそういう表現になるかもしれません。
今が幸せだから未来も幸せになれる、そんな話も納得できる気はします。

ただ、僕には片寄りが感じられるんです。

確かに今が幸せで、もうそれで充分なら、その人は幸せでしょう。
でも、口ではそう言いながらも、まだ何かを求めている人がいるわけです。

不満に目を向けて嫌な思いを感じ続けるなら、
満たされている部分に目を向けて満足感を味わうのは大切です。
でも、不満があるから努力できるという側面もあるわけです。

「苦しい思いをしている自分もOKだ」と心から思えたとき、
そのときは必ず苦しさが減って楽になるはずなんです。
「苦しいけれど、そんな自分もOK」と言いながら苦しんでいるなら、
それは「OK」な状態ではないように感じます。
OKなら苦しまないんです。

苦しい状態から抜け出すために努力をするのも素晴らしいと思います。

1つの結論として僕が思うのは、この「I'm OK, you're OK.」の心構えは
人間関係における心構えだ、ということです。
人との交流において、自分の心構えとして大切なことだと言われれば納得です。

そして、自分の人生という範囲に拡大して「I'm OK」を考えてみると
僕は「OK」という状態を安定した状態ではないかと感じます。
楽な状態だと思うんです。

「苦しい状態も仕方ない」と思って楽になれるならOKでしょうし、
「苦しいからこそ努力する」と考えて努力をしていると楽になれるなら、それもOKでしょう。

不満から満たされた部分に目を向けて楽になれるならOKでしょうし、
不満をパワーにして上を目指す自分が楽なら、それもOKでしょう。

口先で「今の自分はOKだ」と言うことよりも
実感として「今の自分が楽だ」と思えることが大切だと思うんです。

なぜなら「今の自分が楽」なとき、人には余裕が出てくるからです。
余裕があれば、他人へも余裕をもって接することができる。

「I'm OK」が「You're OK」の始まりであるならば
他人へ余裕を持って接することができる状態、
つまり自分自身が楽な状態こそ「I'm OK」なのではないかと思います。

人それぞれ考え方も好みも違うわけです。
教えの受け取り方だって違うわけです。
そして、世の中の教えは片寄りながら、両面の話があると思います。

両面に対して、それぞれ片寄った教えがある。
どちらを好むかは人それぞれです。

自分が好んだほうを誰かに伝えようとする人もいるようですが、
相手がそれを好む人かどうかは分かりません。

大切なのは楽でいられるかどうか。
自分自身が楽でいられるかどうか。
その実感が大切なのではないかと思うんです。

そういったOKの実感こそ、心の関わるものが目指すところかもしれません。

2008年02月14日

使える心理テクニック

学生の頃から本は結構好きでした。
本を多く読むようになったのは就職してからです。

会社の研究所が山口県にあったのですが、
その頃から本を読む量が増えたんです。
週末は必ず本屋に行っていましたし、
お盆休みや正月休みなどで東京に帰ってくると本を買いだめしていました。

最近では専門的な本を読むほうが多くなってきたかもしれませんが
ビジネス書や実用書も楽しみながら読んでいます。

ただ、最近は心理系の読み物から随分と離れたように感じます。
以前は本当によく読んでいたんですが、たまに読むと楽しいですね。


で、僕が学生の頃、心理系の読み物の中で頻繁に目にして
印象に残っているものがあります。
いわゆる心理テクニックですね。

それは、
フット・イン・ザ・ドア・テクニック、
ドア・イン・ザ・フェイス・テクニック、
ローボール・テクニック
の3つです。

多くの本でセットになって出てきていたんでしょうね。
インパクトもあったんでしょう。
分かりやすいですし、納得できる部分も多かったんだと思います。

これらの3つは頼みごとをするときのテクニックとして知られていますが、
どれも本当の要望を最初から頼まずに、段階的に頼んでいくという特徴があります。
有名ですよね。

こういったテクニックを書いてある本には、その根拠として
心理学の実験に関しても記載してあったんです。

この心理学の実験というのは判断が難しいですね。


そもそも日本では心理学は科学として扱われないわけです。

色々な理由があるのでしょうが、僕にとって気になるのは
実験結果の解釈に対する論理的妥当性と、実験そのもののやり方です。

科学の実験というのは再現性が重要視されます。
あらゆる論文に載っている実験結果は、同じ内容を別の研究者が実験しても
同様の結果が得られなければならないわけです。

そして、結論を導くために、実験のやり方と結果が論理的に正しくなければなりません。

結果だけを見て、自分に都合の良い結論を導くことはできないわけです。
実験の組み立て方が重要なんです。

実験では通常、条件の違いと結果の違いから結論を導きます。
1つの条件の違いが結果の違いと結びついたとき、
条件と結果の因果関係を考察することが可能なわけです。

複数の条件が違っている実験結果を比較して、結論は導けません。
どの条件が結果に結びついているかが分からないからです。

例えば、砂糖と塩を水に溶かす場合。

 水100mlに3gの氷砂糖1粒が溶けるのにかかる時間と
 同じ水100mlに同じ3gの顆粒状の食塩が溶けるのにかかる時間を比べる。

 撹拌や水の温度が一緒だとすると、氷砂糖のほうが溶けにくかったとしましょう。

 ここから「砂糖のほうが食塩よりも溶けにくい」という結論は出せないわけです。
 砂糖と食塩で表面積が違っているということがあるからです。

溶解度で言えば、砂糖のほうがずっと高いです。
砂糖のほうが量は溶けやすいわけです。

ただ、溶けるスピードとなると表面積や結晶構造の影響も出てくる。
せめて両方をすり潰して、ふるいにかけて、大きさを揃えるぐらいはして欲しいんです。

実験をする上では、比較したい部分以外の条件を揃えるのが必須なんです。


では心理学の実験ではどうか。

先ほど書いた『フット・イン・ザ・ドア』の場合。

「軽い頼みごとをして、一度受け入れた相手は、
 次の機会に大きな頼みごとをしても受け入れてもらいやすくなる」
というテクニックですね。

500円貸りた相手からは、1万円も借りやすくなる、というわけです。

本で読んだ話によると「フット・イン・ザ・ドア」の実験はこんな感じだったはずです。
(同様のがいくつかあるようですが、スティンプソンらの実験)

 女子大生たちに環境に関するアンケートを実施。
 それが終わると、関連の依頼として大学から数マイルのところへ
 木を植えるボランティアを頼む。
 
 すると、アンケートに回答したものは、そうでない場合よりも承諾率が高かった、と。
 
アンケートをせずに植樹のボランティアを依頼する場合と、
アンケートへ答えた後にボランティアを依頼する場合とで比較したのでしょう。

その結果は納得できます。
僕が同じことをされても、アンケートに答えた後のほうが
ボランティア依頼にも応じたい気持ちになると思います。

ポイントはその理由を考察する段階。

この実験から心理学では
「頼みごとをする際には、まず小さな頼みごとをしてから本題を依頼しましょう」
という結論が導かれるわけです。

そこが疑問。
理系からすると実験が不十分なわけです。
条件が揃っていない印象があります。

もちろん、人の心ですから、そもそも心理学の実験は様々な不確定要素を含みます。
だから統計だということなんでしょうが、
統計を取るにせよ条件は可能な限り合わせてもらいたいんです。

このフット・イン・ザ・ドアの実験では条件が合っていない部分があります。

例えば、調査員と被験者が実際にコミュニケーションをした時間。
つまり、アンケートに答えてもらうまでの会話や、
アンケート回答中に傍にいる時間があるわけです。
また、ともに1つの課題に取り組んでいるという一体感もあるでしょう。

アンケートに答えた人は、本当の頼みごとをされるまでの間に
調査員とコミュニケーションを取っているわけです。
その間に親近感や顔馴染みの印象が沸いたり、ラポールができたりしていると思われます。

一方、アンケート無しで本当の頼みごとをされる場合、
初対面でいきなりボランティア依頼をされます。

「頼みごとをしたか、していないか」という違いだけじゃないんです。
頼みごとをしたときには、自動的にコミュニケーションの量が増えているんです。

ということは「一度頼みごとを引き受けると」という理由ではなく
「ある程度コミュニケーションを取ると」という理由かもしれないわけです。

本当に頼みごとの影響を調査したいのであれば、
頼みごとを引き受けて、次の本当の依頼をするまでの時間と同じだけ
「普通に雑談をする」というような条件などと比較をすべきだと考えられます。

要するに、コミュニケーションの量という条件を揃え、
コミュニケーションの質の違いを実験対象に据えるべきだということです。

「ただ雑談する」と「小さな依頼をする」の違いなら多少はマシな実験だと思います。


とは言え、心理学の実験というのは人の心を扱うわけなので
非常に複雑な影響を受けることは避けられません。
影響因子を明確にできないんですね。

有名なフット・イン・ザ・ドアも実験的な説明としては
科学の目線からすると不十分な感じが残ってしまう気がします。

しかし、僕はこのテクニックは有効だと思います。
実験うんぬんの問題ではありません。

自分がフット・イン・ザ・ドア・テクニックで頼みごとをされたら
断りにくいと感じるだろう、と納得できるからです。

もし、これで営業が上手くいくなら素晴らしいわけです。
営業マンが実践してみて、自分の実感として使えると思えたらOKなんです。

色々な心理テクニックが本に載っています。
僕はそういうのも好きです。
面白いし、役立ちそうなものも沢山ありますし。

データで示されるよりも実感できるかどうかが、僕にとっては大事なんですね。


ちなみに、僕が本で読んで一番使えると思った心理テクニックはと言うと・・・。

フット・イン・ザ・ドアでもドア・イン・ザ・フェイスでもないんです。
むしろ、そういうテクニックで依頼をされたり、
弱みにつけ込まれたときに対応する効果的な方法。

 「アンケートに答えて頂いた方にお願いなんですが、
  ボランティアで木を植えるのを手伝ってもらえませんか?」

 「それとこれとは別です


『それとこれとは別』。
オススメです。

2008年02月12日

科学と心理学

この間、心理学について書きました。
「ニセ心理学」なんていうのと関連して。

僕は心理学の中に、信頼していない部分があります。
同時に、心を扱うコミュニケーションの中で実際に役立てている心理学の知識もあります。

マズローの欲求段階説なんかは、とても大切にしていますし、
発達心理学は人の抱える課題として知っておくと役立つものでしょう。
絶対的信頼は置きませんし、洗練されていない部分もあるようですが、
視点として持っておくと非常に参考になります。

心理学の知識は人と関わる上でのベースとして持っていて損はないと思います。


今にして思えば、僕は大学に在学中から、研究室で実験をする一方で
心理学の本を読むのが好きでした。
なんとなくではあっても、ずっと興味は持っていたんでしょうね。

テレビ番組でも心理系のを見ていた記憶があります。
だいぶ前ですが、「それいけ!!ココロジー」なんて番組も記憶にあります。

大学の一般教養では加藤諦三先生の精神分析論に衝撃を受けたものでした。

で、心理学の読み物を娯楽として楽しんでいたんです。
「なるほど、そういうことがあるのか」と感心したり、知識を得るのを楽しむ一方で、
「そういう視点で人を見るんだな」と感じていたのを思い出します。

僕にとって、心理学というのは人を知ろうとする行為だったのでしょうね。
その意味においては心理学というのは実に素晴らしいと思います。


僕は理系で、ずっと研究をやってきていましたから
科学的であるということに関してはウルサイです。
妥協したくない自分がいます。

科学的だというと、なんでもかんでも理屈で説明する印象を持たれるかもしれませんんが、
むしろ僕は逆だと思っています。

科学的でない人ほど、色々なことを自分の理屈に当てはめて解釈しようとします。
法則をやたらと作ろうとしたり、
どこかから引用してきた情報を曲げて利用したり。

科学はもっと潔いんです。

これまでの科学の歴史に対して論理的に正しいかどうかで評価されます。
科学の歴史が覆されることもあるわけですが、
そうなったら「今までのは間違っていた」と認めます。

それは仮説だからです。
科学はほとんどが仮説だと知っているから潔くいられるんです。

科学は真理を目指しているのかもしれませんが、
科学が真理だとは考えない姿勢を持っていると思います。

いつでも自らを疑える客観性こそ科学の素晴らしさの1つだと思うんです。
分からなければ分からないだけなんです。

心霊写真を見せられたとき、科学者は「霊ではない」と批判する立場ではありません。
「どうしてこの写真が霊だと言えるんですか?」という視点です。
「他の可能性だって考えられませんか?」ということです。

心霊写真を見て、霊だと言うのは簡単です。
でも霊じゃない可能性だってあるんです。
分からないんです、本当は。

だから科学的には「分からない」という結論でしょう。

幽霊がいるか?と聞かれたら、分からないと答えるということです。
色々な可能性があって、分からないんです。
分からないものは分からない。
それを認めて、受け入れ、なお、分からない状態を楽しめる。
だから分かろうとすることができるんです。

人の心だって同じだと思います。

相手の心は分からない。
だから分かろうとできるんじゃないでしょうか。

人の心を分かるために心理学を勉強する。
そのはずだったのに、心理学の知識で人を決めつけて見てしまったら
それは人を分かろうとしているとは言えないと思うんです。

心理学が人の心を理解しようとするものであるならば、
心理学では人の心を完全には理解できないんです。
心理学は人の心の理解に近づくためのものだということです。

心理学も仮説だと受け入れた上で、人の心を分からないものとして
心理学を使おうとしたとき、目の前の人を理解するのには有効でしょう。

でも、「心理学ではこうだから」と人の心を決めつけたとき
心理学は目の前の人の心を理解しようとするものではなくなります。
人の心を理解しようとしないものを「心理学」と呼べるかどうか、
それは少し考えものですね。

2008年02月10日

質問力について

聞き上手は好かれると言われますね。
聴く技術も本で沢山見かけます。
質問の重要性もビジネス関連では頻繁に取り上げられるテーマのようです。

相手の話を聞いていく中には、ただ相づちを打つだけではなく
話を広げたり、引き出したりしていく過程で質問する状況も出てくるわけです。

ですから「傾聴が大事ですよ」と言っても、相づちを打ってオウム返しをしているだけでは
話す側も負担が大きくなってくることさえあります。
 「・・・という感じなんです。」
 「なるほど、・・・という感じなんですね。」
 「はい。・・・あの、それで困っていて・・・」
 「そうですね。それで困っているんですね。」
 「はぁ、えっと・・・何を話せばいいんでしょうか?」
 「あぁ、今、何を話したらいいか、分からないんですね。」
これじゃあ、ラチがあきません。

一生懸命、丁寧に言葉を受け止めるように聴いていくのも大事ですが、
まぁ、自然に考えれば、質問によって話を展開していくことで流れが生まれるわけですね。

そうなってくると『何を質問するのか』というのが重要になってきます。
だから質問力なんていうことが取り上げられるんでしょう。

で、質問という観点から見ると、
質問を活用してクライアントの目標達成をサポートする
というのがコーチングとも言えると思います。

コーチングを勉強されている方は様々な質問のパターンを持っていますね。
それを使って相手から色々なことを引き出そうとするようです。
コーチの方が書いた質問の技術に関する本も沢山あります。


コーチング以外でも、ビジネスの場で質問力が求められることは多いと思います。
面談であれ、会議であれ、営業であれ・・・、様々な状況で質問が必要です。
そんな時、5W1Hを使って質問しましょう、なんていう手法もあるはずです。

NLPでは質問の技術として『メタモデル』というパターンを学びます。
これはヴァージニア・サティアとフリッツ・パールズという
2人の心理療法家の言語パターンを分析して作られたものだということです。

有効な質問の仕方というのは沢山あると思います。
ただ、そういった質問技法を学んだ方が体験する難しさというのがあるんです。

それは、その質問をどういう時に使うか、ということです。

実際にどうやって使ったらいいかが分からないわけです。

当たり前です。
それは教えていないんですから。

こういう発言には、こういう質問をしましょう、とか、
こういうことを意識させるためには、こういう質問をしましょう、とか
そういうのは習うんです。
 「私には出来ません。」 −「もし出来たとしたら、どうなりますか?」
  と、可能性を拡げましょう。
 「・・・と、なりたいんです。」 −「そのためには何をする必要がありますか?」
  と、選択肢を考えさせましょう。
などですね。


どういう時に使うか、という重要な視点が抜けているんです。
何のために質問をするか、という視点とも言えます。

個別の質問そのものの目的という意味ではありません。
質問単体の目的は分かりやすいんです。
可能性を拡げるとか、選択肢を考えさせるとか、思い込みを取り除くとか。

どういう流れの中で、いつ、どのような目的で、どんな質問をするか。
これが難しいわけです。
質問は習った。でも何を聞けばいいんだろう・・・?となってしまいやすいんです。

要するに、何を質問すればいいかは、質問する本人に任せているということです。

それは難しいでしょう。
知らないことを学びに来ているのに、やり方は本人のスタイルで、ってことですから。

となれば、必然的に自己流になります。
質問のパターンは似ているのに、コミュニケーションの結果は
関わる相手によって全く違うものになってくるわけです。

カウンセラーが変わったら、クライアントの悩みが変わってしまうっていうことです。

これは大変です。
喩えるなら、
料理教室に行って、包丁の持ち方、材料の切り方、フライパンの扱い方などを習い、
材料を渡されて「これで料理を作ってください」と言われるようなもんです。

材料の扱い方も、火の通し方も、味付けも、組み合わせも、何も習わずに
基本的な技術だけを活用して自分のセンスで料理を作れ、と。

自己流でやってみたものを味見して、美味しいものができるように試行錯誤する、と。

自分で味見しながら料理を続けていたり、
どこか美味しいレストランに食べに行って味を盗もうとしたり、
そういう人は自己流でも料理の腕は上がっていくでしょうね。

でも、中には自分で味見すらせずに他人に食べさせて、
相手が不味そうな顔をしていることにすら気づかないで料理を続ける人もいるようです。
それで自分の店を持ったりしたら、お客さんが可哀想ですね。
お客さんは食べてみるまで味は分からないですし、
その料理を初めて食べるお客さんなら不味いかどうかも判別できないかもしれません。

でも、料理教室では料理の心を教えてくれるんですね。
「料理は愛情!」
「食べる人の気持ちを考えて作りましょう」
「素材を大切に扱うのが大切です」

そればっかりやっていると作れる料理がないままの時期が長くなるので
お手軽な料理を何品か教えてくれるところもありますね。


コーチングとか解決志向ブリーフセラピーなどは型にしやすいんです。
団体によるでしょうが、コーチングでは一連のセッションの目的も明確にされるようですし、
GROWモデルなどの型も学びます。

それを知っている上で、実際に熟練したコーチから自分もコーチングを受けたりすると
色々な工夫の仕方を学んでいけるんでしょう。
そういう意味では職人芸の伝達に近い要素も含んでいると僕は考えます。

コーチングをやっている人は言葉遣いで分かることが多いほど
その質問のパターンというのが工夫されているんだと思いますが、
コーチによって、それらの質問の選び方が違ってくることは起きているはずです。


質問をしている状況には、コミュニケーションとして何らかの明確な目的があります。
その目的のために集めていくべき情報があるわけです。

本来はそのために質問がなされるはずなんです。
コーチでもカウンセラーでも介護職でも、
一流の人達は体験的に、目的のために集めていくべき情報を知っているんでしょう。

その時によって不要と判断する要素などが違っているために
必要最少限の情報の内容は変わってくるはずですが、
十分な情報として得ようとすれば、ある決まった内容を質問していると推測されます。

質問によって集めていくべき情報のセットがあるんです。
ある種の枠組みとして、自覚されないままに持っているはずなんです。

質問の順番が変わっても、言い回しが変わっても、影響は出ないでしょう。
把握すべき情報が先に決まっているわけですから。

情報を集めて、整理して、把握できたと判断する状態が
質問する側の中に決まった枠組みとして出来上がっていると
自分のセンスに任せて聞きたいことを聞いていけば済むわけです。

その時に使っていた質問のパターンを誰かが分析して体系立てても
把握すべき枠組みを持っていなければ、使い方が分からなくなってしまうんです。


質問で大切なのは質問のパターンではありません。
何を把握すべきかを明確にしておくことです。

把握すべき詳細は仕事内容や状況によって変わってきます。
コーチと心理療法家では把握すべき情報は違います。

それでも、全体的な枠組みは共通していると思うんです。
全体の枠組みの中から、状況によって求められる内側の枠が出来てくるということです。

僕はこの把握すべき全体の枠組みを多次元のイメージで持っています。
2次元の紙の上に現すのは多少困難ですが、これも表現してみたいですね。

近いうちにワークショップとして扱ってみようと思います。
・・・固まってきた感じがしたら、すぐに秘密にしちゃうかもしれませんが。

それぐらい重要なポイントだということなんです。

おしらせ
 ◆ セミナー情報 

日程更新

《コミュニケーション講座》
〜内容は後日〜


【日時】 2017年8月20日(日)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    304集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分


概要はこちら>>
次回開催は9月の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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