2008年04月

2008年04月29日

そっくりさん

「あの人って○○さんに似てるよね?」
「えぇ?そうかなぁ…。まぁ、なんとなく似てるかもなぁ」
というような会話をした経験がありませんか?

人が「誰かと誰かが似ている」と判断するとき、本人にとって重要な基準があるようです。
その基準は人によって違う。
だから他人が「似ている」と言ったときに、イマイチ納得できないことがあるわけです。

例えば顔だけに特化してみても、人によって顔をどのように見るかが違うことが実感できます。

人間が人の顔を判断するときには、自分の無意識の中にある基準顔に対して
どの程度違っているかという情報を元にすると言われています。

基準顔はその人が人生の経験で見てきた全ての人の顔から抜き出された
平均のような顔と言えます。
環境が違い、出会う人が違えば基準顔が違うわけです。

僕が小さい頃、家庭で両親と「この芸能人は○○さんに似てる」などと
話をした記憶を思い出しましたが、ここでも基準顔の違いが感じられました。

僕と母は、この「似ている」の基準が近かったんです。
お互いに納得できました。
でも、父はいつも納得できませんでした。

これは着眼点の違いもあるかもしれませんが、同時に基準顔の違いもある気がします。

子供の頃ですから、僕が出会う人は母の出会う人と重なることも多かったですし、
母は主婦として家にいる時間が長かったので、顔を合わせることが多いわけです。
すると僕は母の顔を頻繁に目にする。
母が人生で一番見てきた顔は、鏡に写った自分の顔です。

僕と母が一番接する顔は、母の顔であって、基準顔にはそこが影響しやすいと考えられます。

一方、父は仕事で家にいないことが多いので、基準顔には
長年見てきた自分の顔と仕事を通じて出会う人の顔が影響すると推測されます。

僕と母の基準顔は近く、父の基準顔は違う。
だから、父は「似ている」という判断が僕と違っていたと考察できる気がします。


ちなみに、人が好意を抱く対象や美しいと判断する対象は
自分の基準顔に近いと言われます。

それぞれの時代の美男・美女の顔は、そのときの最も平均的な顔という説もあります。
最も基準に近い顔が「バランスがいい」と判断されるということでしょう。

個人の好みには、平均顔に自分の基準が交じり合った形で現れるはずですから
自然と、一番高い頻度で目にする『鏡に映った自分の顔』に似ている人へ
好意を抱きやすいということが言えるわけです。

遺伝的に考えれば、親子の顔も似ているはずですから
『親の顔』というのも影響を及ぼしているでしょう。

このあたりは「ひとめぼれの法則」という本に詳しく書かれています。

ひとめぼれの法則―「顔」からはじまる運命の恋 (Sho‐pro books)

(まぁ、この本はその後の解釈が多少強引ですが…)

フロイトではありませんが、異性の親に似た顔に好意を抱きやすいこともあるかしれません。

実際、街中を歩くカップルを見ていると、なんとなく似た顔であることが多いように感じます。
むしろ僕には、そう見えることばかりです。

「似たもの夫婦」という言い方があるように、
やはり似た顔を相手に選びたくなることは多いのかもしれませんね。

「ドラえもん」に出てくる「スネ夫」の家族は、全員同じ顔をしていますが、
父親と母親が自分に似た顔を選んだと考えれば、納得できる範囲ではあります。
(あの顔で似ている人と出会う可能性はマンガの世界ですから…)

実在の人物に目を向けても、プロ野球「楽天イーグルス」の野村監督と夫人のサッチーは
相当な似たもの夫婦だと思いますので、説得力はある気がします。

「ペットは飼い主に似る」ということにも、同じ理由が関係していると思います。
自分の顔と似ている印象のペットを選ぶということです。

ただ、僕は自分自身の実感として、ペットが飼い主に似てくるという事実も感じています。
夫婦も年月を重ね、ラポールを深めるほどに、似てきても不思議ではないと思うんです。

そこには同じような生活パターンを過ごしていることが関係します。
外見は内面を反映するものだからです。
同じ場所で、同じような生活を送り、そこに深い心の交流があれば
相互作用の結果として、内面を通じて外見が似てくるのも説得力があると考えます。


「一緒にいるから似てくる」という側面は置いておくとして、
人が他人を見るときに自分なりの基準を持っているというこは重要なポイントになります。

人間は「顔」に対する反応が非常に敏感だという特徴がありますから
基準顔は人それぞれの違いが色濃く出る部分ではあると思いますが、
顔以外にも人は無意識に基準を作って判断することが重要なんです。

人それぞれが自分の体験によって基準を作ってしまう。
「そんなの常識でしょ」という内容が人によって違うわけです。

基準なしでは判断に時間がかかるんです。
だから基準を作ることは人生経験の証でもあります。

ところが、それが時として自分の思い込みで人を判断する原因になるわけです。

「あの人って○○に似てるよね?」
「えぇ、そうかなぁ…」
ぐらいであれば大した問題ではありません。

それが
「あの人って、いつも冷たいし、嫌な感じだよね?」
「えぇっ!?そうなの?あの人ってそんな人だったんだ」
に、なってしまってはいかがかと思います。

自分がどういう基準を持っているのかを知ることは大切だと思うんです。


最近、僕は誰かから「あの人、○○さんに似てるよね?」と言われたとき、
『なるほど、そこを見ているんだなぁ』と、心の中で相手の基準を探すようにしています。

こうした基準の違いを知るのも面白いものだと感じています。

2008年04月26日

相手のために

出張で出かけると、お土産を買って帰ることがあります。

最近でこそ新幹線に乗る機会が増えてきたので
お土産を買う頻度は逆に下がってしまいましたが、
会社にいた頃はお土産選びを一生懸命やっていました。

特に山口県に職場があったとき、休みで実家に戻ってきたり、東京出張があったりすると
必ず羽田空港で東京土産を買って帰っていたんです。

自慢じゃありませんが、僕のお土産はいつも大好評でした。
お菓子の類は見た目で味が想像できるので、選びやすいんですね。

羽田空港には美味しいお菓子やスイーツが沢山売っていますし。
銀座に立ち寄ってキハチのタルトを買って帰ったこともありました。

そうやってお土産を選ぶとき、僕はその時間を楽しんでいたんです。
「どれが美味しいかなぁ?」とか
「前回は確かこの辺を買って帰ったから、今日はこれにしようか…」とか
「季節限定のこれがいいかなぁ」とか、
とにかく選ぶ行為自体が楽しかったわけです。

ちなみに僕は買って帰ってもほとんど食べません。
3〜4箇所ぐらいの職場に別々のものを選んで、自分はほとんど食べない。
なぜなら食べるよりも、お土産を選ぶプロセスが好きだったからです。


で、そのときの自分の気持ちを振り返ってみたんです。

誰かから「ありがとう」と言われることは全く期待していませんでした。
「ありがとう」よりも受け取るときの表情を見ていたのかもしれません。

中には「いつも気を遣ってくれて悪いわねぇ」と謝ってくれる方もいましたが、
謝られるよりも「ありがとう」のほうが嬉しかったのを覚えていますから、
喜んでもらうことは期待していたのではないかと思います。

幸い、誰も喜ばないということは無かったですので
お土産を買っていってガッカリするこはありませんでしたが、
何も反応の無い人を見ても、僕自身が何かの気持ちを抱くことはありませんでした。

でも、同じく地元でお土産を買ってくる人の中には、
お土産を買ってきたことに対して感謝がないとか、当たり前のように食べ過ぎるとか、
そんな風な不満の声がもれることもあったんです。

それは、贈り物を買う時の気持ちが当時の僕とは違ったんだろうと思います。


贈り物をして相手に喜んでもらいたい。
受け取った時の相手の喜ぶ姿が見たい。
皆のためを思って、お土産を買ってきてあげた。
…そういう思いがあると、相手の反応が期待外れだったときに不満が沸いてくるでしょう。

贈り物を貰うほうが内容に不満を抱くというのも、どうかと思いますが
贈り物をする側も相手の反応に期待してしまうことがあるような気がします。

「喜んでくれたら良いなぁ」と思いながら贈り物を選ぶのは素晴らしいと思います。
贈り物を受け取った相手が喜んでくれたら、それは贈った側も嬉しいでしょう。

ただ、相手の反応に期待を持ちながら贈り物をするのは本末転倒に感じるんです。
贈り物を受け取った相手が喜んでくれることを期待しているのなら、
それは相手の反応で自分が嬉しい気持ちになることにこそ
贈り物をする目的があるように思えてしまいます。

「相手のために」と思って何かをする。
これは素晴らしい行為だと思います。

でも、それは非常に難しい。

相手の反応に期待したとすると、結局自分の喜びが目的に戻ってきてしまいます。
相手のために何かをする自分の行為自体を楽しめる状態も、
やっぱり自分の喜びのために行動していることになってしまいます。

自分の満足のためにやったことが、誰かに喜んでもらえたら
それは丁度良いことなんでしょうけど。

2008年04月24日

シトルリン

コンビニでシトルリンウォーターというのを見かけました。
雑誌R25でも特集されていましたし、栄養剤にもシトルリン入りのがありました。

何やら一気に売り出された感じですね。
随分と力を入れているのかもしれません。


シトルリンというのはアミノ酸の一種ですが、
タンパク質に使われる20種類には含まれないものです。
体内で代謝の中間体として存在しています。

アルギニン、オルニチンとともに尿素サイクルと呼ばれる代謝経路を構成していて
主に肝臓の解毒作用を担っています。

そして、尿素サイクルで作られる一酸化窒素(NO)は血管拡張作用があり
血流促進効果が期待されます。

ちなみに、この血管拡張作用は同じく尿素サイクルを構成するアルギニンにも期待され、
ED改善(バイアグラ的)効果もあるのではないかと言われるところです。

で、シトルリンの特徴として味の要素があるんですね。

近い効果の期待されるアルギニンやオルニチンは苦いんです。
清涼飲料水などには使いにくい。

ところがシトルリンは、その点で良いようです。

実際、シトルリンウォーターにはシトルリン以外にも
アルギニンとオルニチンが含まれていますが、苦味は控えめでした。
(ちょっと苦いんですが)


まぁ、別に僕がシトルリンを宣伝したところで全くメリットはありませんし、
僕自身が意識的にシトルリンを摂取しようとするかと言えば、そうでもありません。

ただ、チョット懐かしかったんですね。

数年前に研究していた分野と非常に近かったので、色々と思い出すキッカケになりました。

まだまだ代謝経路は覚えていましたし、遺伝子も覚えていました。
どうやったら効率的に作れるか、ぐらいは今でも考えられる範囲です。
パズルのような印象もありますから。

だからといって、またやりたいとは思いません。
なんというか、僕の中の感覚としては非常にズームインしている感じなんです。

生物の中で起きている目に見えない化学反応を詳細に見ていく。
それは顕微鏡の倍率を思いっきり上げて、近くに寄っていく感覚なんですね。
自分自身が小さくなって、化学反応を目の前で見ているような。

映画で「ミクロキッズ」というのがありましたが、あれをもっと小さくした感じ。

なので僕の中には、とても大きな世界として生体内の化学反応の場が感じられ、
そこには不思議な臨場感があるんです。
それは今も残っています。

そして、その本当は小さな範囲に自分が小さくなって入り込んだような世界には
とても多くの不明なところがあって、世界は分からないことだらけなんです。

そこを論文を読み、学会発表を聞き、他の研究者と話をすることで理解していく。
そうやって自分が入り込んでいる世界が少しずつ分かっていくのが楽しかったんです。

そして、自分自身のサイズを少し大きくしたり、視点を高くして広い範囲を見たりすると
より多くの繋がりが見えて、これもまた楽しかったわけです。

僕はそうやって自分が入り込む世界の範囲をズームインしたり、ズームアウトしたりして
色々と漂いながら理解していくのが好きだったんだと思います。


今、僕はそういう研究の分野を離れ、人と関わる仕事をしています。

でも、ある範囲にズームインしたり、ズームアウトしたりする感覚は
今も変わらず僕の中にあるんだと気づきました。

生物の中で起きている化学反応という分子の世界にズームインしていたところから、
人と人との交流という化学反応にも似た相互作用の世界に、
今はズームインするところを変えているんだと感じます。

そしてズームインとズームアウトを繰り返し、色々な世界を楽しんでいるんでしょうね。

目一杯ズームインすると、おそらく量子力学の世界になるんでしょう。
逆に目一杯ズームアウトすると…。

それが「悟り」とかいうことなんでしょうか。

とにかく僕は、研究の頃と同じような感覚で心を見ようとしているようです。

2008年04月22日

待ち時間

紙コップで出てくる自動販売機ってありますよね。
コーヒーとかジュースが、紙コップと一緒に出てくるヤツです。

コーヒーに関して言うと、ちゃんとレギュラーコーヒーをドリップしていたりして
缶コーヒーよりもコーヒーらしいものが飲めたりします。

高速道路のサービスエリアによく置いてありますが、
中には非常にコダワリの強いコーヒー自動販売機もあるようです。
コーヒーが出てくるまでに時間がかかるんです。

そういった自動販売機の中には「残り時間」が表示されるものが結構ありますね。

最近は歩行者用の信号機にも残り待ち時間が表示されたりするものもありますし、
地下鉄のホームにも、電車がどの辺りを走っているかを表示する掲示板があります。

こうやって残りの時間を把握できるというのは人にとって重要なことのようです。
安心感があるわけです。
別に残り時間を気にする人が、せっかちだという訳ではありません。

登山ルートにも山頂までの距離が掲示されることはよくあります。
人は目的までの道のりが分からないと不安なものなのかもしれません。

もし人が全て、寿命を正確に把握していたとしたら、
生き方は全く別物になるのではないでしょうか。

どうなるか分からないから不安。
でも、分からないから面白い。

指標を少し知っていると安心感が得られるけれど、
全てを知り尽くしてしまったら面白くはないかもしれません。


コーヒーの自動販売機の残り時間が分かっているとか、
登山ルートの頂上までの時間が分かっているとか、
その程度の情報で得られる安心感。

それはなんだか、人が日々の生活の中に安定を求めることと似ているようにも感じます。

大学を卒業して大手企業に就職しようとする。
スキルアップのために資格を取得する。
老後に備えて年金を支払う。
将来のためにコツコツ貯金していく。
…。

そういったことは、先が全く分からない人生の不安を
少し安定させるための大切な要素なのだろうと思います。


だからといって、安定を求めずに冒険を続けるのがどうか、と言っているわけではありません。
チャレンジをする人は不安を感じていないのではないと思います。

誰しもが本質的には、先の見えない不安を抱えているのではないでしょうか。

そして、チャレンジには更に大きな不安も付きまといます。
チャレンジする人はゴールで得られるものを見ているか、
チャレンジしているプロセスを楽しんでいるように感じます。

待ち合わせに遅れそうで、非常に急いでいるとき。
信号待ちの残り時間が出ていようが関係ない場合があるじゃないですか。
とにかく急ぎたい。
車の流れを確認して、時には信号無視をすることすらあるかもしれません。

それは不安以上に、ゴールが明確になっているということでしょう。

もしかすると、不安を感じないために挑戦を続ける人もいるかもしれません。

未来は分からないんです。
でも、今この瞬間は分かります。


高速道路のサービスエリアには、面白いコーヒーの自動販売機があります。
一杯で250円ぐらいするチョット高級感のあるコーヒー。

当然、出てくるまでに時間もかかるわけです。
ただ少し工夫がしてあります。

モニターがついているんです。
それで中の様子が見える仕組みなんです。

コーヒー豆を挽き、お湯が注がれ、カップが運ばれる…。

「コーヒールンバ」をBGMに、一連の動きがモニターを通じて見て取れます。
見ていて楽しいんですね。
「へぇ、こうやって作られているんだぁ」なんて思えるんです。

そして最後、コーヒーが取り出し口に運ばれる映像がモニターに映ると、
同時に自動販売機の取り出し口が開きます。
そこには少しの感動さえあります。

コーヒーが作られる待ち時間という不明瞭な要素。
それを残り時間としてカウントダウンしていれば、不明瞭さはなくなります。

でも、そのプロセスを見て楽しむことができれば、
待ち時間は「待つ」時間ではなくなるんです。
楽しい時間に変わるんです。

上手い工夫を考えるものですね。

2008年04月19日

引き寄せられました

今日はどうでもいい話。

先日、少し早く起きた朝があったんです。
セミナー前に、いつもより早く水道橋に着きました。

そこでラクーアの中で朝食を取りました。

パンとグレープフルーツジュースとコーヒー。
なかなか優雅で洒落た朝食です。

その店は『ムーミン』と関連があるらしく、
フィンランドのパンを色々と扱っているそうです。

で、パンを買って、店内で席につきました。
特に何も考えず、近いところへ。

店内は至るところに『ムーミン』に関連した絵やグッズが飾られています。

僕が何気なく座った席にはムーミンの大きなヌイグルミが置いてありました。
「置いてある」というよりも、ムーミンが「座って」いました。

4人がけのテーブルの1つの座席にムーミンが座っていたんです。

「なかなか面白いなぁ」なんて思いながら辺りを見まわすと、
別に全ての席にヌイグルミが置いてあるわけじゃなかったんです。

むしろ、そういった席は少ない。
他にはムーミンパパがいるぐらいです。

僕は数多い席の中から、ムーミンが座っているテーブルを選び、
しかも、ムーミンの真向かいに座っていたんです。

店内にお客さんは少なく、他の座席は沢山空いています。
でも僕はムーミンと一緒に朝食。

周りから見たら、「ムーミン大好きな人」としか思えないだろう、という構図でした。


…まぁ、別に恥ずかしくもなかったので、堂々と朝食を食べましたが。

ちなみに、僕が座ってしばらくすると、2人の欧米人男性が
ムーミンパパの座っている席に着席していました。

やっぱり気になるんでしょうね。

もしかすると全世界で愛される『ムーミン』の姿には
人の無意識をひきつける何かが秘められているのかもしれません。

考えすぎですかね。

ムーミン

2008年04月17日

ゆっくりと

久しぶりに再会するというのは良いものですね。

特に自分がワークショップや個人的なお手伝いを通じて関わった方との再会は
僕にとって大変意味深いものです。

継続的なワークショップであれば、日が経つにつれて変化を感じることもありますが、
自分が関わった方と久しぶりに会ったときに変化を感じると喜びも大きいんです。

何かを言われるとかではなく、単純に姿を見るだけ。

表情や姿勢に筋肉の変化が見て取れるんです。
それは無意識の変化を意味しています。

「あぁ、楽になっているようだなぁ」と、見ているとホッとしたような、
安心感に似た充足感を感じます。
なんだか、その方から後押しをしてもらっているような不思議な感覚なんです。


もちろん、その方が久しぶりに再会するまでの期間に
どのように過ごされてきたかは分かりません。

もしかすると他のワークショップで大きな気づきを得ていたり、
人生に深く影響を与えるような重要な出来事と出会っているかもしれません。

その期間に多くの経験が含まれていることは間違いないわけです。

それでも、自分がある時期に関わったという事実は変わりません。
そこでは必ず何らかの影響があるはずです。
特別な何かをしていなくても人間同士は影響しあうものですから、必ず影響はあったはず。

自分が何かのキッカケとなり、その方が楽になっているのであれば
それはとても嬉しいことだと思うんです。

別にその方が何も意識していなくてもいいんです。
役に立ちたいとも思いません。
「あぁ、よかったですねぇ」と僕自身が思えれば良いんだと思います。


大きな変化のキッカケというのは、とかく緩やかなものです。

NLPの手法の中には即効性の高いものも多くあります。
そして、それらこそがNLPの独自性を発揮している部分だと考えられます。

NLPは3人の心理療法家をモデルとして作られたということですから、
NLPで扱う多くの手法は、その心理療法家たちの方法が元になっているわけです。

そのなかでNLPの創始者リチャード・バンドラーが発見したオリジナルの部分。
その特徴は即効性が高いということ。

とりわけ、一回の強烈な体験によって作られたトラウマは
NLPの技法を使うことで一瞬のうちに改善することが可能です。

その多くは記憶の抽象化の作業と捉えることができますから
具体的な過去の一体験を対象にしたときに高い効果が予測されるわけです。
エピソード記憶を意味記憶にする作業とも言えます。

要するに体験の記憶を出来事に整理し、そのときの感情を切り離すということです。

一方、人生に大きな影響を及ぼすものは、繰り返し体験学習して身につけてきた
その人なりのコミュニケーション・パターンです。
これは癖になってしまっていると言ってもいい。

多くは親とのコミュニケーションを通じて身につけるものですが、
一度だけの強烈なトラウマが原因とは言えないように思います。
象徴的に思い出されるインパクトの強い過去の体験が記憶されていますが、
それはあくまで象徴的な出来事であって、同様のパターンを繰り返し体験しているはずです。

こういった体験こそが人の問題を作り出すものと考えられます。

これらは記憶の中で1つのパターンを作り上げているので
1つの具体的な体験を整理するだけではパターン全体への影響が小さいわけです。

そのため、即効性の高い手法で対応した場合には、
その瞬間には楽な感じになれるものの、持続的な効果は期待しにくいんです。
(もちろん、その1つの体験自体は嫌な記憶ではなくなります)

時折り感じることになる自分自身の決まった嫌なパターン。
それを解決するための取り組みは、象徴的なものであるほうが望ましいと考えられます。

パターン全体に影響を与えるには、パターン全体を強く象徴するようなものを
扱っていくほうが効率的だということです。

そういった取り組みは、無意識に深く影響を及ぼします。
しかし、それは決して即効性のある変化ではないようです。

硬直化していたパターンを緩めるところから始まり、
同様のパターンで対応しがちであった問題の場面
今までと違うやり方で対応するようになっていきます。

今までと違うその対応自体が新たな経験としてパターンに組み込まれ、
柔軟性のある新たな対処法が身についていくわけです。

つまり少しずつ、それまでのパターンと違った対処を体験していくことによって
パターンがゆっくりと変化を続けていくということです。

自己成長という枠組みにおいては、こういった持続性の高い緩やかな変化が望ましいようです。

だからこそ、久しぶりに再会したときに大きな変化として確認できるんでしょうね。


ダイエットのために、一週間リンゴしか食べないという食生活を続ければ
あっという間に体重は減るでしょう。
即効性はあると思います。

ただ、本当に痩せた体を維持したければ、
食生活そのものを改善したほうが早いのではないでしょうか。

即効性と持続性。
それぞれに長所があります。

状況に応じて使い分けるのも大切なことですね。

2008年04月15日

階段

今日はチョットだけ役に立つお話を。

…といって書き始めてみたら、随分前のことを思い出しました。

Windows95が出始めて、インターネットが普及し始めた頃、
友人とメールで遊んでいたんです。

たわいもない話がほとんどでした。
時には、一言ネタみたいなもので楽しんだり。

そんな中で、僕は結構「マメ知識」みたいなものを書いていた記憶があります。
ちょっとした話として書き始めると、大体長くなるんです。
当時から、現在のこのブログに通じるようなものがあったんだなぁと感じます。


さて。

ナンバという動きがありますね。

古武術で有名な、日本人古来の歩き方と言われるものです。
同じ側の手と足が同時に前に出る歩き方。

運動会の行進で、緊張した子供が陥ってしまうギクシャクしたアレです。

今でこそ不自然な動きに見えますが、意外と理にかなっているのだそうです。
体をネジらないので、疲れにくいのだとか。

飛脚はナンバで走っていたという話も聞きます。
竿をかついで走っているわけですから、手を振りにくいというのもあるでしょう。

また和服の場合には、現代人のような手と足を交互に大きく振って歩いてしまうと
着物がはだけやすいということもあるんだそうですね。

実際にやってみると分かりますが、ナンバの歩き方は重心の移動が特徴的で
力を入れずにスイスイと進むような不思議な感覚が味わえます。

通常の歩き方だと、上体を固定しておいて、足で前に進むような印象がありますが、
ナンバは肩を積極的に使っている感じがします。

上半身から下半身まで一枚の板としてネジらない感覚とでも言いましょうか。
竹馬を思い出してもらえると近い気がします。

で、このナンバ歩き。
「疲れにくい」ということを実感していただける場面があるんです。

それは、階段。

僕は頻繁に東京メトロ南北線を利用しますが、南北線は新しい部類の路線なので
線路が地中深いところにあって、ホームへは地下へ深く降りなくてはいけないんです。

そのため階段を長く登る必要があるわけです。

もちろんエスカレーターやエレベーターもありますが、
僕はエスカレーターを歩くことのほうが多いんです。

そういった登り階段のときこそ、ナンバの効果を実感できます。

疲労感が全く違います。

通常の歩き方ですと、階段を登るにはモモのあたりに力が入りますよね。
それが圧倒的に少なくなります。

足の力でグイグイと上に登るような印象は、ナンバには全くありません。
不思議なほど楽に進めます。

是非、一度お試しいただきたいと思います。

あまり大きく手を振りながらやるとチョット不自然に見えますが、
階段程度であれば目立ちにくいですから、なおさらオススメです。

人の体の構造も色々と探ってみると面白いですね。

2008年04月13日

社会科見学を思い出しました

先日、埼玉県熊谷市にある福祉施設を見学に行ってきました。
日本初のリタイアメント・ビレッジというものです。

いわゆる老人ホームとは全くイメージが違います。
入り口からもう日本の印象すらないんです。

欧米のホテルのような広いロータリー、平屋で天井の高いロビー。
迎えてくれる受付の方もホテルのようなスタイルでした。

そのロビーを中心に左右方向へ大きく広がった建物は
居住空間を7階建てぐらいの高級マンションのような形で作り上げています。

施設1(中庭から見た建物)













共有スペースには診察室、美容院、エステ、カラオケ、英会話教室、琴のできる和室、
コンビニ、フィットネスクラブ、ビリヤード台、バー、パーティースペース…、
とにかくリゾートホテル以上の設備が整っていました。

もちろん食事は3食用意されます。
お風呂も天然温泉。

各部屋でも食事、入浴は可能ですが、施設を利用することもできるわけです。

プライバシーを維持したければ自室にいればいいわけですし、
人々とのコミュニケーションを取りたければ共有空間に行けばいいんです。

これは凄いなぁと感じました。
いたれりつくせりとはこのことですね。

施設2(中庭)













まぁ、お金はかかるわけです。
有料老人ホームのような位置づけですから。
入居されている方は、気持ちに芯が感じられる洗練された雰囲気を持った方が多いようです。
誰でも入居できるわけではないんですが、その分、
老後というものへの概念を一変させるようなインパクトがありました。


当然、福祉施設ですから、バリアフリーや安全性への配慮も大変なものです。

見学しながらそういった気配りに目を向けると、これが勉強になるんですね。
些細なところに実に気を配っている。
一見すると贅沢さに目がいきますが、本質はこういった配慮なんだろうと思います。

施設3(広いロビー)













例えば、「こんなところにも!」という配慮で言えば、食事もそうでしょう。
福祉系では普通なのかもしれませんが、とても食べやすいんです。

食事は施設内で出されるものと同じのを用意していただきました。
僕はサバの煮付け。
ええ、サバ好きですから。

そのサバは腹の部分も含んだ切り身でした。
腹側には普通、骨が沢山ついてくるものです。
内臓と背骨を取り除いても、腹側には骨が沢山残るんです。

でも、その骨が一本も無い。
切り身にするときに骨を一緒に取っているのでしょうね。
視力が低下し、飲み込む力も弱くなってくるお年寄りには
こういう気配りも大切なんだろうなぁと思います。

ただ、味付けや食事の美味しさを考えると食べすぎ注意ではあるでしょうけど。

リッツ・カールトン・ホテルを参考にしているという話でした。
なるほど、従業員の方がホテルマンのように行動するわけです。

そういった気品あふれる対応は、お年寄りを1人の人間として大切に扱う姿勢でもあり、
「要介護」というレッテルを貼らない敬意でもあるのだと思います。

まさに「ホスピタリティ」ですね。

介護・福祉の施設というと、慌しく日常業務に追われ
大変な仕事をこなしているケア・ワーカーの方々へのストレスが懸念されます。

ところが、ここは少し違うようです。
プロ意識が高いように見えました。
高い金額を取って運営している施設です。
サービスという視点が根底にあります。

働く方も誇りを持っているのでしょう。

介護をする側にストレスが溜まっていては、そのストレスは利用者側への伝わります。
誇りを持ち、充実した気持ちで利用者の方々へ関わる姿勢。
それ自体が、非常に大切な対人援助行為なのだろうと感じます。

2008年04月10日

お勉強

自分と向き合う時間を作るというのは大事ですね。

自分が何にこだわっているのか、
自分が何を大切にしているのか、
自分の中の優先順位はどうなっているのか。
そういったことを整理するとブレなくなるように感じます。

僕の場合は、『勉強する』ということが非常に重要です。
勉強が楽しいなぁ、と思うわけです。

もしかすると、それは『成長』ということに結びつくのかもしれませんが、
とにかく「色々なことを理解したい、納得したい」という思いがあるんです。

そして全ての内容は自分の中で統合され、
1つにまとまって関連付けられていたい、という気持ちがあります。

振り返れば、これは小さい頃からずっと続けてきたことでした。

研究をしていたときも同様です。
自分が関わる研究分野を全て理解したかったんです。

就職活動の面接では、志望動機として
「ものづくりのプロセスで起こっている全てのことを説明したい。
 それには1人では無理だし、世の中で何が進んでいるかを把握している必要もある。
 生きているうちには無理かもしれないけど、そこに近づきたいから
 関連した研究をしたい」
というようなことを言った記憶があります。

僕はバイオ系の研究でしたから、分野的にもブラックボックスが非常に多かったんです。

ただ、そこには「生き物」の不思議に対する純粋な関心があったことに気づけます。
今、自分の関心が「人の心」に向いていることと無関係ではないんですね。

そして、僕の関心は「人の心」というよりも、
「人そのもの」と言ったほうがシックリくる感じがあるんです。

その意味では、専門性も大切ですが、一般性も大切だと思うわけです。

高く積み上げていくその頂点の位置には、その人の個性や専門性が影響されますが、
決して、専門性だけを高く積み上げた塔のようなイメージではなく、
広い裾野をもった山のようなイメージで高みを目指すということです。

そう考えると、勉強する対象というのは非常に広くなるわけですね。

僕は科学から入り、人の心という、ある意味で真逆の方向へ進みました。
今の世の中、その両者は統合されつつあるようです。
僕の中で起こる統合のプロセスも非常に面白いです。

そしてまた1つの側面として、介護・福祉という方向性に関心があります。
これは技術的に言えば、全ての人との関わりの土台になる部分があると考えられますが、
「老死」という人として避けられないものへ真正面から向きあうことにも
とても重要な意味合いがあると思います。

福祉は、福祉ビジネスの経営者という視点を除けば、
基本的に援助的で受容的な性質のものだろうと考えられます。
その対極には、競争的なビジネスの世界があります。

何やら、僕の中で、少しずつビジネス方面への関心が沸き始めているようです。
多分そうやって僕は裾野を広げる勉強を続けるんだろうなぁ、なんて思いました。

学ぶのは楽しいですから。

2008年04月08日

3対7

国語辞典の中から、気持ちに関する言葉を1000個抜き出すと
ポジティブな気持ちの言葉が約3割、
ネガティブな気持ちの言葉が約7割だそうです。

それだけ人はネガティブな気持ちに敏感だということでしょうか。

ニュースになるのも悪い知らせが多いように思います。

もし、ニュース番組で、良いニュースばかりが放送されるようになったら
それは悪いことが当たり前の世の中になってしまったということかもしれません。

悪くない状態が当たり前だと受け止められているのでしょうね。


失ってみて、初めて分かる価値ということが言われますが、
今の状態に満足しないという欲求があるのも事実です。

「仮に今の状態が失われてしまったら」という視点で全てを受け止め、
現状に全て満足して生きるのだったら、それはそれで幸せでしょう。

でも、それでは今の世の中は存在していないはずです。

欲求は決して悪いものではないと思うんです。
欲求があるから幸福感も強く感じられると思うんです。
欲求があるから、人は成長できるんじゃないでしょうか。

もちろん、今この瞬間に満たされている自分を感じることは重要です。
ただ、そのことと、現状で十分だから努力しないということとは別物だと思います。

「今が幸せ、だけど更に幸せになりたい」
そういう欲求が、辞書にも気持ちを表す言葉として反映されているような気がします。

ポジティブな気持ちとネガティブな気持ちは、バランスの上に成り立つものです。
ニュートラルな当たり前の状態があって、それに対しての判断だと思うわけです。

すると、人はネガティブな気持ちを感じやすいと考えられます。
当たり前の状態から少しでも嫌になると、ネガティブな気持ちを感じる。
ネガティブな気持ちには繊細だということでしょう。

ポジティブな気持ちは、人の欲求の強さから
本当に満足したときに感じるようになっているとも考えられます。

もしかすると、ネガティブな気持ちに繊細なのも
それだけいつもポジティブな状態でいることを強く求めているためかもしれませんね。

cozyharada at 23:42|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | NLP
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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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