2008年10月

2008年10月30日

推論の立て方

読書が趣味という方でも色々なケースがありますね。
古典的な文学作品が好きな人もいれば、哲学書が好きな人もいる。
ビジネス書を読みあさる人も、推理小説を読む人もいます。
エッセイが好きな人も、詩が好きな人もいるでしょう。

僕も本は買いますが、多くの本は勉強のためのような印象があります。
もちろん、読んでいて楽しいわけですから、娯楽の意味もありますが。

ですから、小説を読むことは多くないんです。
誰かから勧められたとか、流行っているとか、
そういう理由がないと自分から小説を読もうとはしません。

数年前に速読をやっていたときは自然と小説を読む機会も多かったですが、
最近では、めっきり読まなくなってしまいました。

それでも読んでいて面白いと思う種類もあります。
知的な活動が繰り広げられる内容のものです。
それは小説だけでなく、マンガにも共通するところですね。

要するに「謎解き」の類が好きだということです。

推理小説が好きな人の中には、自分でも犯人を予想しながら読む人がいるようですが、
僕はあまりそういうことはしません。

たぶん、一生懸命読んで、作者特有のカギになる情報の漏らし方を掴めば
ある程度の推理はできるようになるんでしょうが、
僕にとって文字情報から鍵を探すのは困難なようです。

それはマンガやドラマ、映画などでも同じことで、
最終的な結論をバラす場面で「そりゃ、分かるわけない」と感じてしまいます。

予測をしないで読んでいれば、大どんでん返しを素直に楽しめるわけですから、
自分からストレスをかけるように推理をするのは僕の好みではないんです。

もし、その物語の中の情報を自分の好きなように探しにいくことができれば
自分なりの情報整理をできると思うので、楽しさは出てくると思います。
自分の論理展開とストーリー展開がゴッチャになる感じも嫌なのかもしれません。

まぁ、僕が日常生活からインプットした情報を整理することを続けているから
わざわざ物語の中でまで推理をする気にならない、というところも大きいでしょうけど。
研究職のときも、今の仕事も、関連性を見出すという点では本質的に変わりませんから。


そんな僕にとっては、「そりゃ分からんわ」という感じのオチに繋がる推理モノは
面白いには面白いんですが、ちょっとストレスもかかるわけです。
無意識に考えていて、ガッカリしてしまうのかもしれません。

その点では、「古畑任三郎」のように犯人の姿が分かっていながら
物語が展開していくパターンのほうが楽しいようです。
どうやって犯人に辿り着くか、というプロセスのみを楽しめます。

同様に面白いのが、シャーロック・ホームズなんです。

シャーロック・ホームズも事件の真相が明確になるのは最終場面が多いですから
推理小説的な犯人探しをしながら読むと僕にはストレスになる部分があります。

僕が好きなのは、観察した情報をホームズが結びつけるシーン。

依頼人や登場人物を初対面で見抜くシーンが好きなんです。

もちろん、そこにも当時の情勢を知らなければ理解しようのないものも多々ありますが、
それにも増して、圧倒的な観察力を元に論理的な推理を展開するところが面白いわけです。

心地良いんでしょうね。
サイエンスの研究スタイルと似ているんです。

観察によって得られた情報は単なるデータに過ぎません。
そのデータを推理というプロセスで結論に導きます。
そのプロセスに無理がないんです。
論理的飛躍がない。

ここが重要です。

テレビの情報番組の多くで流される情報は、データがあっても論理展開がないんです。
「○○をすると脳のこの部分が活性化された。だから○○は頭を良くする効果がある」。
どうしてそういう結論になるのかが僕には理解できません。
短絡的にも程がある。

○○をしたことと、脳が活性化されたことの関連性も評価されていない。
活性化という言葉も便利ではあるものの、その内訳が分からない。
活性化されたとして、頭がよくなるという結論に導かれる根拠がない。

それっぽいデータを見せて、導きたい結論だけを主張しても
多くの場合では納得させられてしまいます。
その根拠を考える習慣が少ないのかもしれません。

データはデータに過ぎないんです。
それを主張に結びつけるまでの論理展開こそが重要なんです。
それが無ければサイエンスとして認められないものなんです。

そうした考え方に慣れているせいか、論理的飛躍がある時に僕は違和感を覚えます。
それはどんなセミナーや書籍であってもです。
自分が仕事で伝えている内容に対しても。


ホームズは徹底的に論理展開の矛盾を排除します。
観察から得られるデータを並べ、そこから考えられる可能性を全て視野にいれ、
最も辻褄が合う結論を推理の結果として言葉にするようです。

そして小説中でも、観察から結論に至るまでの推理のプロセスを話してくれます。
服装や歩き方、仕草や持ち物…。
そうした細かい情報を組み合わせて人物像を描ききる。

これは心理臨床でクライアントを理解するプロセスそのものです。

相談援助面接で言うならば、臨床像を描くというプロセスに通じ、
サイエンスの研究活動で言うならば、仮説や理論を作り上げるプロセスに通じます。

また、ホームズは、少ないデータだけから推理はしない、とも言います。
少なすぎるデータで作り上げた推理は新たな情報を曇らせるものです。
仮説に当てはめようとしながらデータを解釈してしまいやすいんです。

これも本質的な部分です。
情報を解釈して結論に導く全ての分野に共通する注意点です。

多くの人は自分の仮説に固執しやすいものです。
ホームズはその危険性を知っているからこそ、少ない情報での推理はしないのでしょう。

仮説を立てることはあるかもしれませんが、口には出しません。
可能性の1つとして視野に入れていても、いつでも自分の中で否定できるようにしてある。

仮説をいつでも否定し、新たな仮説に作り変えられる柔軟性も重要な要素なんでしょう。

2008年10月27日

好みの味わい

趣味とか、好きな事とか、最近の関心事とか、
初対面の時に聞かれることがありますね。

好みが合うと、人としても気が合いそうな印象があるのかもしれません。

僕はその人の何気ない行動を見ているほうが、相手を理解するのには役立つと思いますが、
人の行動から内面を知ろうとする習慣を持っている人は多くないのでしょう。

趣味や関心事についても、表面的な共通点探しとしてではなく、
無意識的な意味合いを考えるようにすると非常に面白いテーマになります。

無意識というものの性質を前提にしておくと、
人を見ていて飽きることは無さそうです。

そういう点で言えば、僕の趣味は人を見ることなのかもしれませんが、
僕の仕事の本質も同じく、人を見ることだと思っているので
明確に趣味とか関心事とかとは言えない気がします。

本を読むのも好きですが、小説とかではないので、文学ではなく勉強なんです。
それもやっぱり仕事と関連します。

僕の中で全ての情報は関連付けられて統合的なネットワークを形成していたいので、
趣味とか仕事とか切り分けるのが難しいのかもしれません。

体を動かすようなことも最近では少なくなってしまって
趣味らしいものから離れてしまったように感じていましたが、
関心事という部分ではありました。

飲食物です。

普段は意識しないので当たり前のままに過ぎてしまっていますが、
ふと最近気づいたんです。

気軽な食べ物、飲み物の好みが移り変わっている。
ブームというほどではないものの、変わるものなんですね。

僕は以前、コンビニのおにぎりは海苔がパリパリのほうが好きだったんです。
パンには見向きもせず、サンドウィッチなんて論外でした。
大学くらいまでだったでしょうか。

それがいつからか、おにぎり離れが始まってパンに移っていきました。
で、パンの中でも移り変わりがあって、サンドウィッチを好んだ時期もありました。

サンドウィッチの時期は短く、その後再び、パンを選ぶ時期が長く続きました。
たまに、おにぎりの時もありましたが、かなりパン寄りだったんです。

いつ頃からか、おにぎりでも手巻きタイプの
海苔がしっとりしたヤツを食べるようになりました。

この変化は意外と大きかったですね。
以前の僕の中では海苔がパリパリでないのは受け入れられませんでしたから。

しっとりした海苔にも慣れてくると、むしろ海苔以外の部分で
おにぎりの好みのバリエーションが出てきました。

ご飯の感じがポイントのようです。

海苔がパリパリじゃなくて丸い形のヤツとか、
海苔で巻いていない炊き込みご飯・混ぜご飯タイプのヤツとかのほうが、
ご飯がギュウギュウに詰まった感じがありますね。

あの歯ごたえが気に入っているみたいです。

最近はパンから離れつつあって、おにぎりを好み始めていることに気づいたんです。
海苔しっとりタイプの歯ごたえを求めているようです。
会社にいた頃は全然食べなかったのに不思議です。

飲み物でも、缶コーヒーを飲む機会が減ってきたのにも気づきました。

きっと無意識のレベルでは何か意味があるんだろうと思います。

おにぎりの無意識的意味は何となく気づきました。
「飲み込む」感じと「塩味」の感じが重要みたいです。
「満足感」とか「切り替え」とかに繋がります。
…不満に対する発散のアクションなんでしょう。


ちなみに、最近の食べ物の好みとして「干し梅」があります。

色々な種類の梅干しタイプのお菓子がありますが、
僕はセブンイレブンの「干し梅」の甘くないほうが好みですね。

もちろん、これも無意識のさせることだろうという予感はありますが…。
意識化させるのは止めておこうと思います。

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2008年10月25日

11月の勉強会

11月の勉強会のお知らせ

10月の勉強会は、まさに「勉強」という感じが強かったと思います。
理論的な学習を中心に進めたのも1つの理由かもしれません。

そのテーマでもあった学習というプロセスを踏まえながら
今回の勉強会では体験的な学びを優先していくつもりです。

学習をして「分かった」と実感するためには、抽象的な理論を
学習する個人の中で自分自身の体験と結びつける必要があります。

「なるほど」と思える説明の中には、抽象的な理論や主張を
何か1つの具体的事例と結びつけてなされるものが多くありますが、
その事例自体を同じような体験として知っていないと
実用的なレベルにはなりにくいわけです。

だからこそ体験学習には大きな意味があります。

その場で体験した内容が、そのまま理論的学習と結びつけられると
1つの確実な具体的事例が蓄積されるからです。

その際には、体験した内容を意識的に理論と結びつけることが有効だと考えられます。
そうすることが、学習した内容を定着させるのに役立つんです。

体験から得られる情報は膨大で整理されていない状態で記憶されます。
それを言語と抽象的なモデルを使って整理することで、
意味のある情報として再構成することができるわけです。

体験学習を振り返ってみるとか、感想を述べてみるということには
そういう効果があるということです。


11月の勉強会では、そのような体験学習のプロセスを意識しながら
実践的なコミュニケーション技術を学びます。

もちろん、これまでも様々な場面で応用可能な技術に取り組んできたわけですが、
今回のテーマは幅広い内容になってくるはずです。
幅広いということは応用範囲も広く、実践的だということです。

そのテーマは『ラポール』です。

過去にもラポールだけで何度か勉強会を行ったことがありますが、
何度も行えるということは、それだけ幅広い内容を含んでいるということです。

ラポールを目的にしたアプローチは色々と考えられるんです。

ラポールというのは状態です。
コミュニケーションにおける状態。

ラポールそのものがコミュニケーションのゴールになることもあるでしょうが、
コミュニケーションに興味を持つ方々にとってラポールは出発点でもあるはずです。
基盤と言っても良いでしょう。

基盤がしっかりしているほど、上に積み上げていくものも確実になっていく。
その意味でもラポールについて学ぶことは大変意味のあることです。

にも関わらず、ラポールに時間をかけて学ぶところは決して多くないようです。

様々なことを学習する中で基本練習の重要性を知っていても、時間的な制約もあって
ラポールだけを深めるのは難しくもあるのが実情なのかもしれません。

ラポールというのは不思議な状態です。
ラポールそのものへの理解を深めることが、実用に結びつくはずです。
人間関係において深いラポールが成立しているときに何が起きているのか。
それを体験的に理解しておくとコントロールがしやすくなっていきます。

ラポールの深みに迫る。
それが表向きのテーマです。


そのラポール形成のための技術は多岐にわたります。
ラポールという状態に辿り着くまでにルートが色々あるわけです。

様々な技術を組み合わせるという言い方もありますが、
より正確には、ラポールという状態を作り出すために
同時に様々な取り組みをする必要がある
、と表現したほうがいいでしょう。

地道なトレーニングを繰り返してきたり、人並み以上にセンスがあったりする場合には、
「ラポールを心がけよう」とか「相手に合わせよう」とか、
抽象的な大枠の意識をするだけで、様々なプロセスを無意識的にできるようにもなります。

それは、学習におけるパートの機能と結びつけて解釈すると、
「ラポールのパート」を持っているということです。

しかしながら、その状態になるのも一筋縄ではいきません。
だからトレーニングをするわけです。
言ってみれば、今回の勉強会で「ラポールのパート」を作り上げるためのプロセスを
体験学習を通じて理解していただくことが裏のテーマだということです。

なお、ここでのポイントは、コミュニケーションにおける学習という部分です。

ラポール形成のための技術を身につけようとしたとき、
普段の自分がしているコミュニケーションの方法が関わってきます。
自分のいつものやり方が癖になっている状態です。

その癖を修正したり、今までにしたことのない方法を実施することになります。
ここでパートの学習を意識できると効果的なわけです。

効果的なトレーニングには、パートという部分的要素から全体に統合していくような
デザインがなされていることが重要だと考えます。


具体的な内容に関して説明すると、今回の勉強会では
技術的なトレーニングを高度に意識化して行うことになります。

前回の勉強会の形式を料理に例え、とっておきのレシピを公開するようなものと表現すれば、
今回の形式は実際に調理実習をした上で、僕の料理も試食してもらう形と例えられます。

ご参加の方々同士でトレーニングをするだけでなく、
こちらからも積極的に介入する形になるということです。

ですから、自分のやり方に自信があって、変えるつもりは全くないという方には
今回の勉強会へのご参加はご遠慮いただきます。


もちろんそこには、他者からの介入を学習に取り入れることが、
パートを関係づけた学習プロセスに有効な方法だという前提があるわけです。

ご要望に応じてビデオを用いたトレーニングも実施します。
ご自分の技術を磨きたい方は積極的に取り組んで頂けると、得るものも大きいはずです。


10月の勉強会にご参加下さった方であれば、「パートと学習プロセス」に関して
より実感的な理解に繋げていただくための機会にもなるでしょうが、
「ラポール」について深める機会としても有意義な時間になると思います。

10月の勉強会にご参加されていない方でも、
「ラポール」というテーマに関して深める機会として
役にたてていただけるものと信じています。

繰り返しになりますが、ラポールというのは本当に不思議な現象です。
「人間にはこういう機能があるのか」と驚きを感じるほどの現象です。
それを実感できるだけでも価値がある。
そう考えたからこそのテーマです。

積極的なご参加をお待ちしています。


※最近は多くの方からお申し込みを頂いています。
 定員を設けていますので、ご注意ください。
 定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。




詳細は以下のとおりです。



※勉強会の趣旨に関しましては
勉強会070725 ( http://rikei.livedoor.biz/archives/50205495.html )をご覧下さい。


【勉強会の詳細】


【日時】 11月24日(月・祝)
    午前・午後 10:00〜16:30
  ※午前と午後両方でご参加下さい。


【場所】 滝野川会館 304集会室
    (JR京浜東北線・上中里駅東口より徒歩7分)
    (JR山手線・駒込駅北口より徒歩10分)
    (東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)


【参加費】当日、会場にてお支払いください。
     
     ◆午前〜午後 ・・・7,000円 
    
    
テーマ: 『ラポールの技術』

   ※徹底したスキルトレーニングです。
    スーパーバイズを希望される方は「ご意見など」の欄に、その旨をご記入下さい。
    当日のご希望も可能ですが、時間配分に関してはご了承下さい。


*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
 学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
 ご了承ください。



世の中には誰しもが納得できる精神論があふれています。
「相手を大切にしましょう」
「人を幸せにしましょう」
「相手の立場になって考えましょう」

しかし、自分の関わり方が相手に対してどのような影響を及ぼすかは分かりません。
大切にしたつもりが不愉快に受け取られることもあるのが現実です。

他人を100%理解するというのは不可能なことだと思います。
分かることはできない。
でも、それで良いのではないでしょうか。

その現実を受け止めた上だからこそ、自分に出来ることに意識が向くはずです。

相手を分かることは不可能ですが、
相手に「分かってくれた」と思ってもらうことは可能です。

それが現実にできる精一杯だということです。

確かに、人を大切にする思いがあれば、それは伝わるのかもしれません。
技術よりも想いのほうが大切だという意見もあるでしょう。

ただ、「人を大切にするための技術」を徹底的に磨こうとする姿勢にこそ
その想いが反映されていると考えることもできないでしょうか?

技術を磨き続ける仲間がいるのは、本当に素晴らしいことだと思います。


参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)


終了しました

トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。


是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。

今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。

いずれの回からのご参加でも、初めて起こしになるときはお試し価格を適用いたします。
その旨をお伝えください。


また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。


【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。


勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。

その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。

また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。

調査して勉強会にあたります。



それでは当日お会いできることを楽しみにしています

cozyharada at 23:58|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!セミナー情報 | NLP

2008年10月23日

自己認識を絞り込む

色々な人と会って話をするようになると、自分のスタンスが明確になりますね。
今の自分がどのような立場なのか、どういうことを大切にしているのか。
そういったことを客観的に感じられます。

人は他人との関わりの中でしか生きられない、というようなことが言われますが、
とても意味深い言葉なので、捉え方も様々でしょう。

自分一人の力では生きていけない。
つまり生活が成り立たないというニュアンスもある。
生物的な観点です。

自分一人だけでは寂しくて生きていけない。
人は仲間や大切な人の存在という暖かさを求めるというニュアンスもある。
これは自己愛という観点と言えます。

そして、「人と話をして自分のスタンスが明確になる」というのは、
自分に対する認識やアイデンティティと呼ばれるものが
自分以外の他者との関係性の中でしか意味づけられないというニュアンス。

他者との違いを認識することで、自分が分かるということです。

これは人間の自己認識やアイデンティティの確立を考えたときに
非常に本質的な部分だろうと思います。


子供は生まれながらに万能感を持っています。
世の中すべてが自分の思い通りにいくという勘違いから始まります。

ちなみに、釈迦が生まれたときに「天上天下唯我独尊」と言ったという伝説には
様々な解釈がありますが、一般的な解釈とは違う見方として
「全ての人は生まれた瞬間は、自分の中に世の中全てが存在するように捉えるものだ」
というようにも言える気がします。

一般的に「天上天下唯我独尊」には、釈迦という偉大な存在が「尊い」とか
世の中に対する役割として「尊い」とかいう前提から、
「全世界で私が一番尊い」という意味を与えるようです。

釈迦が生まれた瞬間に言った言葉として尊いものと扱われますが、
釈迦に限らず全ての人は、生まれて間もない頃には万能感を持っていて
「全世界で自分が一番尊い」と思うのが普通だということです。

生まれたときは誰もが「天上天下唯我独尊」じゃないかと思うわけです。

その状態はある意味で、世の中すべてと自分が一体となっている状態ですが、
逆の言い方をすると「自分が存在しない」状態でもあるんです。
自分というものが理解できていない。

それは自分と自分以外の存在が区別できていないからです。

自分の体の外にあるものも全て自分の内側として捉えるような感じ。

車を運転する人であれば、車体感覚というのが理解できると思いますが、
人間の脳には自分の身体を認識するように「自分」の範囲を感じる能力があります。
車体に対する感覚というのは自分の範囲を拡大した状態といえます。
だから大きな車に乗ると、チョットいばった感じが出やすいわけですね。

人は自分と自分以外のものの境界を身体を使って作り出していくわけです。
自分が思い通りに操作できるものの確実な範囲が「自分」として認識される。
あくまでも身体のレベルからですが。

脳の機能として言えば、身体感覚を拡げることは容易なんです。
たまたま人間の体がこのような形をしているから
我々は「自分」の範囲をこういった感じで認識しているに過ぎないんです。
もし腕が6本あったとしても、普通に使いこなせていたと考えるのが脳科学的な立場です。

良く言われる「脳の機能の大半は使いこなせていない」という表現の中は、
「身体という入れ物に制限されていなければ可能性はもっとある」といった
ニュアンスとして捉えるのが僕には納得がいきます。

ですから、生まれたばかりの子供は自分の身体さえ、
自分以外のものと区別できていないところから始まるわけです。
個人の身体の外側にあるものも思い通りにできそうな勘違いがスタート地点なんです。

世界の全てが自分の中にある、と言ったのはそういうことです。

そこから成長していく中で、自分の思い通りにならないこと、
つまり自分が想定したことと違う現象を通じて、「自分」の範囲を決めていきます。

「自分」とは「違い」を認識することで生まれるものだと考えられます。
「自分」が体の中にあると意識できるのは、身体というのが外界と区別する上で
最も気づきやすい部分だからと言えるかもしれません。

違いを区別できないことは意識ができないわけです。
他の存在と同じ部分は「当たり前」のこととして意識できないんです。

他者との違いを意識しながら「自分」という存在を確認していく。
そういうプロセスで「自我」と呼ばれるものが発達していくのでしょう。


他者との関わりで自分を意識するというのは、いつまでも続くものだと思います。
そこに違いを感じるものがある限り。

当たり前だと思っている限り、自分に気づけないわけです。

実は凄い才能や発想を持っているかもしれないのに、他人との関わりが無いために
「当たり前」だと思い込んでしまっていることだってあるかもしれません。

いつもと同じ人と関わっていると、自己認識はその集団の中で意識できる
自分と他人との違いから生まれてきます。
それがいつも通りの自分になっていきます。

今まで関わったことのなかったような人と関わることで
新たな違いに気づくことができるようになります。

それは自分の新たな可能性に気づくことにも通じると思います。

そういう意味でも、人と会うのは面白いことですね。

共感できる人、同じような考えを持った人と話せたら楽しいとは思います。
分かってくれる人がいるという感じや同士と出会った喜びもあるでしょう。

それも大切な出会いですが、違いに気づける関係も重要だと思うんです。
そういう関係から、自分の譲れないものを見つけるのも1つの方法かもしれません。

2008年10月20日

犬の十戒

これ、見ました。

犬と私の10の約束[プレミアム・エディション](2枚組)
犬と私の10の約束[プレミアム・エディション](2枚組)


とても分かりやすく、心を動かされる映画でした。

若干やり過ぎな感じを受ける場面があったり、
多少ずるい感じがする泣かせ方を受け取ってしまったりもしますが、
こういう映画には抵抗できません。

生死に関わる場面というのは、モニターを通じた映像からでも
人の心に多大な影響を与えるようです。

ただ僕の場合、実家で犬を飼っていることもあって、
色々と自分の記憶と重ね合わせながら見てしまったので
涙なしには見られない感じになってしまいました。

映画に登場するのはゴールデン・レトリーバーですが、
僕が子供のころから一緒に生活していたのも同じゴールデン・レトリーバーだったんです。

物語中では主人公の女の子が中学生の時に犬を飼い始めますが、
僕も中学校に入るぐらいのタイミングでした。
成長の時期が合っているというのも重ね合わせやすい部分だったように思います。

狭い実家でしたが、いつも家の中に犬がいる生活。
40kg近い体重ですから存在感も相当なものでした。
まさに家族だったんです。

中学、高校、大学、社会人と、僕の成長の間ずっと犬と暮らしていました。
僕が12歳のときに我が家にやってきて、社会人1年目までの12年間。
人生の半分を一緒に生きてきた犬が死んだとき、僕は山口県にいました。

映画中でも主人公は就職して犬のいる実家を離れていました。
ただ、それでも犬が死ぬ場面には立ち会うことができています。
そのことが「犬と私の10の約束」の10番目。

僕は残念ながら、そのことができませんでした。
当時のことは鮮明に覚えています。

山口にいたころ、研究所は工場の敷地内にあって、社員寮も同じ敷地内にあったんです。
なので、昼ご飯は寮の食堂に食べに帰るのが習慣でした。
そして食べ終わると少しだけ自分の部屋に戻って15分の仮眠をとる。
毎日、日付が変わるまで研究所にいたので、昼休みの仮眠は重要だったんです。

その日も昼休みに寮へ戻りました。
不味い昼食を終えた頃、急に雷鳴が。
10月中ごろの嵐でした。

職場へ戻るのに大変だなぁ、と思いながら自分の部屋へ戻ったとき、
携帯電話が鳴りました。

母からでした。

「ちょうど今、息を引き取った」という電話でした。

その日の昼休み、研究所へ戻る人の流れの中、
僕だけが傘をささずに自転車に乗っていました。
午後は実験をしていても涙が流れていました。

そして次の日、会社を休んで朝一番の飛行機で東京へ戻りました。

体はドライアイスで冷やされていました。


映画を見ていて、その時の場面を克明に思い出したんです。
ずっと忘れていた感覚。
忘れたくなくて意識をしていても自然と手から消えていった、
思い出そうとしても思い出せなかった、温度と手触りの記憶が蘇ってきました。

人間の記憶というのは興味深いものですね。

色々な思い出も戻ってきました。


当たり前だと思っていたことが当たり前ではなかった。
それは大事な学びでした。

感謝ということについて、改めて意識する機会になりました。

cozyharada at 23:25|PermalinkComments(2)TrackBack(0)clip!全般 | NLP

2008年10月18日

有名な古典的理論に異を唱えてみる

マズローの「欲求段階説」とか「自己実現理論」とか呼ばれるものの中では
人間の欲求が段階的に上がっていくとされています。

下位の欲求が満たされると、その上の段階の欲求が生まれるというのが基本的な考え方。

この理論自体に対する僕の納得度は100%ではないですが、
マズローが上位に位置させたものに関しては納得できる感じがします。

下位から、
・生理的欲求
・安全の欲求
・親和の欲求(所属、社会的欲求)
・自我の欲求
・自己実現の欲求
という五段階だと言われます。

個人の範囲としての欲求は五段階とされますが、
あまり有名ではないところとして、その上の個人を超えた欲求として
自己超越欲求(コミュニティ発展欲求)というのもあります。

この個人を超えた自己超越欲求というのは、NLPにおける
「ニューロ・ロジカル・レベル」で言うところの「スピリチュアル」に相当するようです。

つまりマズローは、「スピリチュアル」レベルの自分を超えた欲求は
自分自身の欲求を全て満たしたときに生まれるものだ、と
考えていただろうと推測できるわけです。

自分以外の誰かのために、たとえば家族とか国とかのために、という発想が
心からの欲求として生まれるには自分が全て満たされる必要がある、
そういう考え方に聞こえます。

でも、本当にそうでしょうか?


マズローの原著をしっかりと読み込んだりすれば真意に迫れるのかもしれませんが、
「下位の欲求が満たされると上位の欲求が生まれる」という部分に
不自然さを感じてしまいます。

食事なんていうのは一番下位の「生理的欲求」に含まれるものです。
本人が生きていくために、生物としての生理活動を行うことへの欲求。
食べなければ死んでしまいます。

でも、災害時などで家族の生命の危機にさらされたとき、
親が自分の食べ物を子供に与えて生き延びさせようとする行為は
多くの人の共感されるものだと思うんです。

また、多くの感動的な映画では世界を救うために自分の命を犠牲にする、
なんていうシーンが見ている人の心を打ちます。
これなども「自分を超えた誰かのために」という行為です。
それを自ら進んでやっている。

生理的欲求や安全の欲求をすっぽかして、自己超越欲求に達しているわけです。

これは極限状態だから、という条件付きなのかもしれませんが、
極限状態になったときに生まれてくる欲求こそ、
むしろ人間の根源的な欲求に近いと言えるような気もします。


もちろん、こういった自己超越欲求に生きるというのは難しいことです。

マザー・テレサが尊敬されるのは個人を超えているからかもしれません。
常日頃から自分を超えた他の人々のために生きているように思えます。

多くの人が極限状態にならないと表面化しないような本質的欲求を
常日頃から前面に出せるというのは、確かに欲求段階説に言われるように、
それ以下の欲求を大部分満たしていられるからという前提があるようにも思えます。

そうして考えると、下位の欲求が満たされると上位の欲求が生まれる、
という部分には「『ある程度』満たされると」という表現が必要な気がしてきます。

 下位の欲求が『ある程度』満たされると、上位の欲求が『表面化』しやすくなる。

そんな感じでしょうか。
要するに、欲求は入り混じって存在していて、切り分けられないということです。


また、生理的欲求と安全欲求の順位も微妙です。

ここで言う「安全」は、生命の危機に対する安全ほどではないのかもしれませんが、
基本的に恐怖や不安は、根柢の部分で自分自身の存在への否定、
つまり「生きていく」ことへの危険性と繋がっていると考えられます。

例えば、誰かから怒られることへ恐怖を感じる(安全でない)人もいると思います。
そういう場合は、幼いころに親から怒られていた記憶と一緒に恐怖を感じているものです。

子供は親に従わなければ生きていくことができません。
小さい子供の選択は、生きるために必要なことなのです。
ただ怒られるだけでも、十分に生命の危険にさらされているんです。

なので、自分自身の存在を人との関わりの中で大切にしてもらえるというレベルの
「安全」として捉えれば、それはむしろ「所属」の欲求に近いはずなんです。

もし、「安全」がもっと生命の安全に近いとすると、
それは極めて動物的な、生理的欲求に近いものということになるでしょう。

生物的な生命の「安全」に対する欲求が、生理的欲求を超えることもザラにあります。
山で遭難していて空腹の限界で動けそうにない、そんな状況でも
熊に襲われそうになったら、おそらく必死で逃げのびようと考えるでしょう。

逆に、食べるものが全くなければ、多少の危険を冒してでも
食物を手に入れるように努力することだって当然なはずです。

生理的欲求と安全の欲求は、生物的に考えれば一体のものだと考えられます。
生き延びるための優先順位でしか判断し得ないんです。

…そう考えると、安全の欲求というのが曖昧な印象になってしまいます。


社会的欲求とも所属の欲求とも言われる「親和欲求」に関しては、
孤独を恐れることと関係しているように思えます。

家族を基本として、集団に受け入れられる、つまり仲間がいるということでしょう。
自分は一人ではないという安心感かもしれません。
そういうことへ欲求があるものだ、と。

帰属意識と言ってもいいかもしれません。

ところが、これこそまさに「自我」なんです。
自分とは何者であるか、という拠り所がなくなるのは不安なわけです。

人は関係性の中で生きています。
自分は他人との関係性の中でしか意識できないんです。

紀元前3000年ごろまで、一人称は無かったと言われています。
集団生活が基本で、集団での生存が基本だったころ、
自分に対して意識を向けるという習慣すら無かったのかもしれません。

誰しもが、自分を意識するために集団の中に帰属したいものであって、
それこそが「自我欲求」そのものだということです。

逆に、欲求段階説で言われる「自我欲求」というのは
他者からの承認を求めようとする欲求のことです。
尊敬されたい、認められたい、という思い。

他者からの評価は動機付けの重要な要因です。
褒められたら、誰もが嬉しいものでしょう。

でも、それは何故でしょうか?
褒められない、認められないと、自分はどうなってしまうんでしょうか?

それを突き詰めていっても、やはり自分の存在価値とか存在意義に突き当たる気がします。
しかし、ここで言う存在意義は「何のために生まれてきたか」とは違います。
「自分は生きていていいんだ」という安心感に近いはず。

愛されているという実感を求めていると思うんです。
つまり、愛に対する欲求です。

子供のころから人は親の愛を求めて生きてきます。
自分の思い通りに扱われたいというワガママさを持っています。
世界は自分のものであると感じているかのような万能感があるものです。

でも、それは絶対に100%は満たされない。
傷つきながら、失望しながら成長してくるわけです。
と同時に、その裏側でいつも満たされたいと願っている。

それが、ここの部分の欲求であって、愛への欲求だと考えられます。

親和欲求と自我欲求もまた、一体のものだというのが僕の考えです。


そして、自己実現欲求。
言ってみたら自己満足のレベルです。

誰の承認も、愛もいらない。
自分がそれで幸せだ、満足だという状態への欲求。

自分が本当にしたいことをしたい、という欲求と考えると、
それは自分の生きる意味を見つけ、それに向って邁進するような状態かもしれません。

ここで重要なのは、自己実現を超えた「誰かのために」という発想にも共通して、
他人の評価を求めていてる段階とは明確に違うということです。

他人から感謝されるとか、誰かから尊敬されて喜んでいるのは
「自我欲求」とか「親和欲求」とかに分類されるところです。

感謝されたくて何かをするというのはワガママな発想です。
満たされなかった愛を満たそうとする行為です。
それは自己実現や自己超越とは別物です。

「誰かのために」という発想をしようとすると、
この部分が混同されやすいんです。

ボランティアのつもりが、実は自己満足になっていたりはしないか。
誰かへの贈り物のつもりが、実は相手の喜ぶ姿を見たいという自己満足ではないか。

それを判別できるのは予想と違う状況になったときです。
プレゼントを贈ったのに喜んでくれなかった。
それで悲しくなったり、怒りが沸いてきたら、相手へ期待していた証拠。
相手を自己満足に利用しようとしていたんです。

「自我欲求」のためでない「誰かのために」の行為は、
行為そのものをしている自分が幸せなんです。
結果として相手がどうであるかには依存しないんです。

自分の幸せが他人に依存しない。
これこそが「自由」です。
自分で自分の生き方を貫くことで、自分なりに幸せを感じられる。

ここを考えると、マザー・テレサが見返りを期待していないのが実感できます。
マザー・テレサの行為は「自己実現」の行為なんだろうと思います。
それをすることが本人の生き方として当然なんでしょう。

もしかすると「誰かのために」という発想も持っていないかもしれません。
自分の生き様として「自己実現」をしているだけなのいかもしれません。


そうやって考えていくと、「自我欲求」や「親和欲求」の大部分が満たされない限り、
本当に「自己実現欲求」は生まれてこないように思えます。
とても難しい段階だろうと思います。

今までのところを僕なりにまとめると、個人の欲求は大きく2段階。
『生物的欲求(生存欲求)』と『人間的欲求』です。

で、『人間的欲求』が『自己愛の欲求』と『自由の欲求(自己実現欲求)』に分けられる。

下位から、
・生物的欲求(生存欲求)
・自己愛の欲求
・自由の欲求(自己実現欲求)
という具合。

そして、自己超越欲求に関しては、見返りを求めないという意味においては
大部分が『自由の欲求』のほうに含まれますので、ここは本当に自己超越になります。

つまり、自分の個人としての存在を捨てられる、ということです。
自分の命を投げ出してでも満たしたいものがある、ということです。

大切な人を救うために自分の命を投げ出せる。
そういう状態。

極限的な状態になったときに生まれる、誰しもが持っている欲求。
それが『自己超越欲求』ということになります。

これは自分個人の欲求の範囲を超えた人類的な欲求と言っても良いかもしれません。
それこそが本当の『愛』ではないかと思えてきました。

『自己超越欲求』とは『愛の欲求』、「愛したい」欲求であって、
『自己愛』の欲求は「愛されたい」欲求ということになりそうです。


なんとなく考えてみましたが、僕にはマズローよりも納得できます。

cozyharada at 23:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | NLP

2008年10月16日

学習そのものを学ぶ

先日に開催した10月の勉強会は難しかったというコメントを何人からか頂きました。
そうだっただろうと思います。

僕の中では実体験を伴って納得できている内容ですが、
具体的な体験と結びついた理解の量が得られるまでは
なかなか実感に結びつきにくいところがあるかもしれません。

多くの方に共通していたのは、"頭での理解は"できているという部分に感じます。
具体的な体験を通じて納得できるという要素が少なかったのでしょう。

ですが、それは形式の上で仕方ないところがあって、
具体的な内容と結びつけようとすると、個人の必要とする課題を実施している場面で
体験的学習をする必要が出てきてしまうからです。

テーマが『学習』という抽象的なものになると、
その理解自体に、さらに高い抽象思考が必要になってしまうところも
ある程度は避けられないわけです。

具体的な体験を利用できれば納得感は増すかもしれませんが、
そのためには体験の量も増やしていかないと充実した抽象的理解にも繋がりにくいんです。

それはちょうど、小学校1年生ぐらいだと「ミカン1個」とか「リンゴ2個」とか
具体的なものを数えるようなところから計算を理解し始め、
小学校の頃には計算を全て「1」とか「2」とかの数字でやり、
中学校ぐらいになると「a」とか「b」とか「x」とか
記号だけの式で理解するようになっていく、というプロセスに似ています。

段階を踏むことと、各段階での体験の量が必要なんです。

具体的な体験を積み上げると抽象的理解もしやすくなる。
同時に、抽象的理解だけで物事を関連付けられるようになると
少ない情報量で本質を理解しやすくなるということでもあります。

それは多くの場合、慣れによるところも関係していて、
例えば、数学の得意な人であれば難しそうな記号ばかりの式を見て
実感を伴った理解ができるものでしょうし、
料理の得意な人であればレシピや料理番組の作り方を見ただけで
出来上がりの料理の味が想像できるようになるだろうと思います。

お菓子の類は見た目と説明書きで味を想像しやすいような気がします。
僕はそれで会社にいた頃、お土産選びに定評があったわけです。
それも慣れによる部分もあったのかもしれません。

なので、僕の説明の仕方に慣れていない人、
つまり僕と思考や情報の関連付けの仕方が大きく違う人は
僕が抽象化した説明の仕方では難しく感じるのも仕方ないとも思えるわけです。


そうした中で、何か1つの課題、
例えば「逆上がりができるようになる」ということの学習だけに絞って
実際に公園に行って逆上がりをしながら学ぶことも可能ですが、
先日はそれを選択しなかったんです。

確かに、実際の場面でプロセスを目にすることは意味の大きいことです。
ただ、この前の『学習』というテーマは抽象的なものですから、
抽象的な思考によって理解したほうが汎用性があると考えました。

ある程度、具体的な例を体験しながらも汎用性を出すための取り組みが
テーマごとにグループで話し合い、それを共有するという方法だったわけです。

具体的経験としては皆で童心に還って逆上がりをするほうが良いかもしれませんが、
『学習』そのものは汎用的なものなので抽象的なトレーニングを中心にしたということです。

そこには、抽象的思考の中で具体的体験と結びつけるプロセスが含まれています。
これがメタレベルの学習として効果があると考えました。

抽象的理解のプロセスそのものをトレーニングする意図もあったんです。

説明のモデルや理論など、抽象的な話をしたり聞いたりして理解を深める過程で
具体的体験と結びつける癖がついていると、実感的な理解をしやすくなっていきます。
抽象的理解に身体感覚が伴ってくると言っても良いと思います。

一般的な話として言うと、抽象的で難しい話をしている人の中には
実体験を伴っていない人もいるわけです。
いわゆる「机上の空論」と言われるやつです。

そういう人は説明をしながら実体験に基づく身体的な記憶が呼び起こされないため、
どことなく納得感が小さいんです。
誰かが言っていた話を伝えているとか、本で読んだことそのままとか、
利いている側からすると、薄っぺらいというか、言葉に重みがない印象が出るものです。

自分自身の実体験と抽象的な説明が結びついていると、
言葉の量以上に説得力を感じるようなんです。

そのためには、自分の中にある無意識的な体験記憶を呼び起こし、
抽象思考の説明と関連付けるトレーニングが有効だと考えられます。

特にその際、無意識下にあった体験記憶の詳細な情報を呼び起こすことが
日常生活ではしない頭の使い方となるので効果的なトレーニングになるわけです。

これまで、なんとなく出来ていたことや、なぜか出来なかったことを
一つ一つ意識化しながら振り返っていくプロセスそのものが、
無意識の行動に気づきやすい状態を作り出してくれるはずです。

今まで見過ごしていたものを見られるようになるためには、
自分の記憶の中で見過ごされていたものを見てみるところから始めるのも
1つの方法だと思うんです。


イチロー選手は自分のやっていることを全て説明できると言います。
技術的に自分の理論で説明できるということのようです。
だから自分は天才ではない、と。

メジャーの選手はメチャクチャに見えるのにホームランを打つから、あれは天才だ、
というのがイチロー選手の発想にあると聞きました。

無意識に任せながら、それを自分で意識できている。
まるで、社長が仕事を全て社員に任せながら、組織や人のことを全て知っているような、
そんな状態なのかもしれません。

また、以前に読んだマンガの話も思い出しました。

主人公が仙人から受ける修行として、全ての無意識的なプロセスを
遮断してしまうという荒行をやっていたんです。
なんだか気の脈を切るんだか、そんな話だったと思います。

それによって主人公は、呼吸も心臓を動かすことも、内臓全般を動かすことも、
手足や体全体の筋肉を動かすことも何もできない状態になります。
意識だけがある状態です。

そこから自分の意志で、すべての組織の活動を意識化していくというトレーニング。

それをやった結果、主人公は全ての活動をそれまでとは全然違うレベルで
意識的にコントロールできるようになって凄く強くなる、というような話でした。

そのマンガは大袈裟ですが、無意識にやっていることを意識化もできるようになる
ということには大きな意味があるという話です。


先日の勉強会では、抽象的な内容でしたが非常の重要なことをお伝えしたつもりです。
料理で言えば、かなり秘伝のレシピのつもりだったわけです。

シミュレーションだけで実際に料理をしなかったように感じた方もいるかもしれませんが、
調理実習の時間もあったはずなんです。

取らなかったのは試食の時間です。

作っていくプロセスだけで、食べなくても味が想像できるようになるような
トレーニングが行われていたという感じなんです。

あとは、このレシピで作って食べてみて下さい、というスタイル。

なので、次回は試食を中心にしてみようと考えています。
体験学習を増やそうということですね。

先日の勉強会にご参加下さった方であれば、
次回の内容をどのように「学習」していくのかということも
同時に学びの対象に変えて頂けるのではないかと思います。


2008年10月14日

急降下

先日、食中毒になりました。

汚い話でスミマセン。

土曜日に名古屋に出張に行った時のことです。
いつも通りに昼休みに入って、昼食のために店に足を運んだあたりから
予兆が表れ始めていました。

食事中は普通だったんですが、食べ終えて、コンビニで飲み物を買っている間から
腹痛が強まっていくのを感じていました。

で、急いでセミナー会場のあるビルに戻り、そのままトイレへ。
下してしまいました。

それからは徐々にお腹の具合が悪くなっていき、
トイレへ足を運ぶ回数も増えていく一方。

どうにもならない感じだったので、下痢止めを買いに行きました。
最近テレビでCMをしている、水なしで飲めるというヤツ。

薬局を出るなり水なしで飲みました。

それでも良くなる感じがなかったので、使用法を守らずにもう一錠。

おかげでセミナーも乗り切れ、帰りの新幹線の中も耐えられました。


この時までは、お腹の具合が悪くなってしまった程度に捉えていたんです。
そんなに酷いものではないだろうと。
帰りがけにも普通に夕飯などを食べていきました。

ところが。

帰宅して、時間が経つにつれて具合がドンドン悪くなっていくんです。
トイレの回数が増し、吐き気も出てきました。

寝ていてもトイレのために目を覚まし、戻したり下したり。
トイレの中で気を失いそうになる場面も。

結局、日曜日はお休みを頂いて、病院に行きました。
同じ日に同じ病院に3回行ったのも初めてでした。

何かに当たったんでしょう、と。

あまり心当たりがないんです。
おそらく、土曜日の午前中に食べたものということでしょうが、
思い返してもコンビニで買ったパン一個とゆで卵だけ。

卵に付着しがちなサルモネラ菌も、加熱してあれば死ぬはずなので
どこかで手についたウイルスとかだったんでしょうか…。

まぁ、あんなに大変な症状だとは思ってもみませんでした。

何かを飲んだり食べたりすることが困難になるんですね。

下痢の時は体液がそのまま出ていくそうなので、
水分と一緒に塩分などのミネラルが同時に失われるようです。

体液と同じ濃度の生理食塩水が0.85%ですから、
仮に1リットル出てしまうと、8.5グラムの塩が失われることになるわけです。

日本人の標準的な一日当たりの塩分摂取量が10グラム強だそうですから、
食事もできないような食中毒の状態だと塩分が足りなくなってしまうことになります。
いわゆる脱水症状に加えて、ナトリウム不足も起きた状態。

医師からも塩分量の多い飲物で補って下さいと言われました。
市販のスポーツドリンクではポカリスエットが一番ナトリウム含有量が多いそうです。
医者が風邪のときにポカリスエットを勧める理由は一応ここだということです。

ただ、僕はポカリスエットを飲んでも戻してしまっていたので、
体がカラカラに干からびているような感じでした。

苦しいのに水分が取れないため、二度目の救急外来へ。

そこで初めての点滴を体験しました。
体に沁みわたるような感じは無かったですが、
点滴が終わるころには唇の渇きが治まっているのにも気づきました。

血液に直接というのは効果があるんですね。
三度目に行った時に打ってもらうことになった痛み止めの点滴は
みるみる体中の苦しさを減らしてくれるのが分かりました。


ちなみに、点滴中に僕はずっと、ポタポタと落ちる雫を見ながら
研究をしていた頃に微生物を培養していた状況を思い出していました。

流加培養と言って、一定の速度で栄養源を培養液に加えながら
微生物や細胞を培養する方法があるんですが、そのときに使う器具に似ていたんです。
ポタポタたれる液体。細いチューブ。

そこから色々な映像が思い出されました。
実験室や実験器具、実験内容…。

化学式や遺伝子の細かい名前は忘れつつあるのを自覚していましたが、
体で覚えた実験方法は克明に刻まれているようです。

これもアンカーというものですね。


食中毒のピークは点滴で乗り切ったようですが、
月曜日の勉強会のときも影響はありました。
全く、お恥ずかしい限りです。

火曜日も症状は続いていましたが、夜ぐらいには随分と良くなる兆しが見え始めました。
今はかなり安定してきています。


振り返ってみて、僕はかなり病気とは無縁の生活をしてきたんだなぁ、と思いました。

怪我はありましたし、細かい病気や、検査のために病院に行くことはあっても、
大きな病気というのはしたことがないんです。

運の良いことだと思います。

病気は心との関係もあるとは思います。
ですが、全てが「病は気から」では無いようにも思うんです。

あくまでもバランスの崩れの表れというのが僕の考え方。

生活全般における様々な要素の関わりの中で、
負担のかかった部分がどこかに歪みとなって表れる。
どこに出るかは表面的な問題だということです。

どこかで崩れたバランスを整えるのが治す行為なんじゃないかと思います。
そのバランスを取る部分は色々あるわけです。

バランスを調整するための方法が医療であったり、漢方だったり、
食事だったり、運動だったり、整体だったり、催眠だったりするんだと考えます。


今回、僕のお腹はどんなバランスの崩れから生まれた歪みだったんでしょうか。

面白いもので、こうした症状が表れる部分は日本語の表現と関係していたりします。
肩の荷が重いとか、首が回らないとか。

生物学的な原因はウイルスか、細菌か、毒素の類いでしょう。
ただ、同じものを取りこんでも症状に出ない人がいるものです。
そこには他とのバランスが関わっているはずです。

僕自身の話でも、同じものを口にして何ともなかったこともあったと思います。
今回はそういう状態だったんでしょうね。

お腹が下る、ということを思い浮かべると、直感的に
「腹に据えかねる」なんていう表現が浮かびます。
腹に据えかねるものを追い出す、というようなイメージ。

何かそんなことがありましたかねぇ…?

2008年10月11日

名古屋での出会い

名古屋のNLPで知り合った方に千田利幸さんという方がいます。
凄いのに謙虚な方です。

千田さんCD














積極的に活動をされていて、セミナーや講演を多数されています。
http://www.toshiyuki-senda.jp/

対談のCDも面白かったです。
正確に言うと、面白さよりも千田さんの生き様に心を打たれるという感じです。

何度か夢を聞かせて頂いたことがありますが、
ご自身の夢の内容が「人の夢を応援する」ということのようです。

ユーモアにあふれた方ですが、それ以上に印象的なのは
一見するとクールな雰囲気の内側に非常に熱いものを感じるところです。

話の内容に気持ちが込もっている。
そのこと以上に、他人の心を打つことは少ないように思います。

動画で話の模様も聴けるようになっています。
  千田さんのブログ

人との出会いというのは本当に面白いものですね。

cozyharada at 03:42|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2008年10月09日

緑の光がもたらしたもの

今回もまた時事ネタになりますが、ノーベル化学賞はとても印象的でした。

日本人が選ばれたということに加えて、その内容です。

僕はバイオ系の研究をしていましたので、今回の受賞内容となった
オワンクラゲの蛍光タンパク質(GFP)には馴染みが深かったんです。

受賞者の下村脩氏もチャルフィー氏も、
当初は役に立つものだとは思っていなかったのだとか。

光るクラゲがいて、その光る理由を調べていて見つかったタンパク質が
GFP(Green Fluorescent Protein)だった、
そして、それを詳しく調べていった。
そういう流れから始まっているんだそうです。

確かに「生物が光る」というのは人の心を掴みます。
ホタルにせよ、コケにせよ、暗闇で光を放つ生き物を美しく感じるのは
人間の持つ自然な感性に共通するところなのかもしれません。


多少、専門的な話になりますが、光というのはエネルギーなわけです。
多くの生物発光は、エネルギー源を介したプロセスを経て行われるのに対して、
オワンクラゲのGFPは特定の光を受けると自然に発光するという特徴があります。

そして、複数の物質の相互作用ではなく、GFPというタンパク質そのもので
光を放つことができるというのが非常に面白い特徴なんです。

その特徴が同時に、幅広い用途へ使われる結果に結びつきます。

1つの遺伝子から作られる1つのタンパク質が発光するということは、
その遺伝子1つを組み込んだ細胞を光らせることができるわけです。

さらに特徴として、調べたいタンパク質の融合させても発光可能な性質があるため、
1つの細胞の中を顕微鏡で見たときに、どの場所に調べたいタンパク質があるかまで
視覚的に理解することもできるんです。

遺伝子組換えの技術を使うと、色々な細胞を光らせることができる。
そのことは分子生物学的な手法に応用され、生物化学分野の発展に大きく関わりました。

実際、学会発表や論文などを見ると、GFPの蛍光緑色の写真があちこちに出てきます。

そうした幅広い分野への貢献が評価され、
今回のノーベル化学賞の受賞になったようです。
(発見が下村氏、チャルフィー氏とチェン氏は応用の足がかりを作った)


最近のノーベル化学賞では、そのようにサイエンスの発展を可能にした技術と、
そのキッカケになった発見に対して評価が集まるようですが、
キッカケそのものは意外なほど偶然的であったりするようにも感じます。

今回のGFPに関しても、幅広く応用されてサイエンスの発展に貢献した理由の大半は
GFPというタンパク質が元々持っていた性質によるところなわけです。

単独のタンパク質で光を放つため、1つの遺伝子だけで利用できる。
融合タンパク質の形にしても発光という性質が維持される。
異種細胞の中でも性質が維持されやすい。
…こういう性質は科学者達が生み出したものではなく、オワンクラゲのものなんです。

GFPというタンパク質を発見し、それを調べていったら
偶然にも、それが役に立つ性質を沢山持っていた、という部分が大きいわけです。

もちろん、その性質を見つけるところまで研究を継続したから
応用が可能になったということはありますが、それが応用されていったのは
他の研究者たちがその便利な性質を利用し続けたからだと言えるはずです。

同じように発光する生物を研究していても、その生物の持っていた性質によって
GFPのような応用には結び付かなかったケースだってあったと推測されます。

ノーベル賞に至ったのは、かなり運の部分もあったと思うんです。

サイエンスの発展に貢献することの多くは、こうした偶然の要素を含みます。
偶然の発見が幅広く利用されていくんです。

特にそれは、技術的なところであれ、性質的なところであれ、
そうした発見・発明があることで「今まで見えなかったものが見えるようになる」
という部分が大きいと考えられます。

知識や技術がなければ意識することもできないし、
調べようという気持ちさえ生まれてこないんです。

知識があって、調べる方法があるから
「じゃあ、これはどうなんだろう?」という発想に結びつく。

つまり、今までは見えていなかったものを見られるようにする方法を発表することが
世の中に大きな影響を与えていけるということです。


拡げて考えてみると、これはサイエンスの分野だけに限ったことではありません。

誰かから教えてもらった知識で、世界の見え方が変わることはザラにあるはずです。
誰かとの関わりで人生が大きく変わるということがあるんです。

不思議なほど、人の見ているものは違います。
人それぞれ、体験していることが違うんです。
その人の体験を聞くことで、他の人の世界が広がります。

自分では当たり前だと思っていたことが、大きな影響を及ぼすこともあるわけです。

オワンクラゲの緑色の光のように、
予想外の影響をもたらすこともあるかもしれないんです。

自分のしてきたことが周りにどのように影響するのか。
それは周りの人の受け止め方によるところが大きいのかもしれません。

伝えてみる。
見せてみる。
試してみる。

どうなるかは、やってみなければ分かりません。
それがまた面白いじゃないですか。

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【場所】 
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   JR王子駅より2分
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 〜期待の手放し方と
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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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