2008年10月

2008年10月07日

憧れの人

プロ野球・ソフトバンクの王監督が退任されました。

現役選手を引退後、途中に解説業を挟みながら監督として活躍され、
実に50年間もプロ野球と関わってきたのだそうです。

記録が語る素晴らしさもさることながら、僕の印象に残ったのは
王監督の人柄に裏打ちされたものと思われるその言葉でした。

退任する王監督に向けられる数多くの選手からのコメントにも
その人望が見て取れますが、中でもシアトル・マリナーズの城島選手は
王監督との関わりについて、心に残る話をしていました。

「憧れの人と出会ってから、憧れがさらに強くなったのは王監督だけだ」
というようなことを言っていたんです。

普通は憧れの人がいても、本人に出会ってしまうと、
それ以降は憧れの度合いが下がっていくものだろう、と。
最初に直接会えた瞬間が憧れのピークで、一番嬉しい時ではないか。
でも、王監督は違う。
関わっていくほどに憧れが強まっていった、というんです。

有名人、偉大な人への憧れというのは、半ば偶像崇拝的に
ファンが自分の中で勝手に凄さを過剰に作り上げてしまうことが多いようです。
良く知らないからこそ作り上げられるイメージがあるわけです。

そうして、実際に本人と出会い、その人のことを知っていくにつれ、
遠くからでは見ることのできなかった部分も見えてきてしまう。

慣れや親しみが憧れという遠い存在としての距離感を近づけることも要因でしょうが、
時には、自分が勝手に作り上げていたイメージとのギャップに
残念な気持ちになる人もいるかもしれません。
城島選手の言葉には、そういうニュアンスがあったように思います。

ところが王監督は違った、と。

知るほどに、その凄さを実感していく。
これは本当に素晴らしいことだと感じます。


そして、最終戦を終えた後のコメントにも、僕は素直な驚きを覚えました。

監督としての最終戦は、延長12回の末に逆転負けになってしまいました。
そのことに対して、野球好きの自分には満足だったというような内容を語ったんです。

言葉は正確ではありませんが、最後の試合を12回まで長くできたことを喜びと思える
ということを語っていたわけです。

もちろん、勝利で飾りたい思いもあったようですが、
12回まで野球をできたことを喜べるというのは本当に凄いことだと思いました。

小さい頃から野球を始め、50年間ずっとプロで野球をやってきて、
68歳になった最終戦でなお、試合を長く楽しめたことを喜べるというのは、
一体どれだけ野球が好きなんだ、という話です。

「野球好き」という言葉を王監督自身も使っていましたが、
野球が好きだということを言える野球選手はいても、
50年間プロ野球に関わってきた最後の試合の長時間にわたる戦いそのものを
楽しんでいたことを言葉にできる人は、決して多くないだろうと思いました。


好きなことを「好き」と言えるほど、素直に好きになれる対象があること。
結果に対して喜びを感じる以上に、関われること自体に喜びを感じられるほど、
そのことを好きでいられること。

それは幸せなことだろうと思います。

なんだか、美味しいものを食べていて、口の中から無くなってしまうことが
残念に思えるような、そんな名残り惜しさに近いような気がしました。

そういうレベルで、自分の人生そのものを味わえたら
それに越したことはないかもしれません。


王監督のように年を重ねていくことは僕の1つの目標のように思います。

僕が憧れる年の重ね方というのは、その人の人生の過程そのものではなく、
その人の人生が築き上げてきたものが内側から発するメッセージに対して感じるものです。

その人の醸し出す雰囲気が語るもの。
それがカッコイイんです。

渡哲也、谷村新司と並び、王監督もカッコイイ年の重ね方として憧れます。

cozyharada at 23:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | NLP

2008年10月05日

小骨を食べる人

焼き魚を食べるとき、小骨をどうしますか?

今の時期はサンマが美味しいですが、小骨が多いのが気になるところです。
それをどうするかは、かなり人によって対応が違うようです。

育ってきた家庭の生活文化や、個人的な好みが反映されるところでしょう。
マナーに対する意識なども関わってくるはずです。

背骨にくっついて取れる大きな骨は取るけれど、小骨は気にしない。
口に運んで気になった骨を出す。
細かい骨まで丁寧にお箸で取り除いてから食べる。
小骨のない部分だけを食べる。
…。

色々な食べ方があるようです。

僕は結構、状況によって対応を変えるほうですね。
人前だと大きな骨をお箸で取り除き、小骨は食べてしまいます。
一人で食べるときは、気になる骨を全部取り除くこともあります。

人前だと、食べ終わった皿の上がどのようになっているかを気にするようです。
小骨を綺麗に取れれば良いんですが、どうしても身が残ってしまったり、
ボロボロになってしまったような雰囲気にしてしまうんですね。

器用にお箸を使えれば良いんですが、散らかってしまうわけです。
だから魚を綺麗に食べられる人を尊敬したりします。

で、仕方がないので見た目を綺麗にするために小骨を食べることを選びます。
これは結構ギャンブルなんですね。
そのときによって小骨とは呼びきれないような骨だらけの魚に当たることもありますから。

ということを考えると、僕は食べているときに小骨が口に入るのを
(もしかすると、のどに引っかかるのも)気にしているということで、
その上で、人前で食べる時には、食べ終わった皿の上の見た目を気にするために
小骨が口に入ることは我慢する、という選択をしていることになるわけです。

どちらも全く気にしない人もいれば、両方を気にする人もいるでしょう。

こういうのは人の行動の特性だと言えます。
そこには人の内面的特性が反映されます。


ところが、世の中で多く言われるのは、性格を大雑把に分類するやり方です。

サンマを食べるとき、皿の上に残る骨を綺麗にして食べる人を見ると
「几帳面な人」だと考えたりする。

骨に身が残った状態で食べ終える人を見れば、「雑な人」だと捉えたり。

それは表面に現れた行動の部分、言いかえれば、行動の結果だけを見ているわけです。
行動の裏にある意図や行動のプロセスを見ていないんです。

食べ終わったお皿の上の骨が綺麗になっていたら、
マナーを気にする人かもしれないし、
厳しく育てられた人かもしれないし、
小骨を取るのが面倒臭い人かもしれないわけです。

「小骨を取るのが面倒だから食べちゃえ、口に入っても気にならないし」
という思いから皿の上に残る骨が綺麗になる人もいるはずです。
それは几帳面どころか、むしろ細かいことを気にしない人と言えるでしょう。

「小骨は嫌だけど、お皿の上は綺麗にしなくては。口に小骨が入ったけど我慢」
という人は、嫌なことを我慢できる人と言えます。
その我慢の基準さえ、ルールを守るためなのか、他人を気遣うためなのかで
さらに意味が違ってくるはずです。

逆に、
「全ての小骨が気になるから、お箸で骨を取り除くと細かい身が残ってしまう」
という人も、
「全ての小骨が気になるから、小骨のない部分だけを食べる」
という人も、
どちらも小骨を徹底的に排除するという目的に対しては「几帳面」だと言えます。
ただ、身が残るという結果に対して「几帳面ではない」わけです。


つまり、行動のプロセスに込められた意味には
その人の内面的特性としての価値観や信条体系が強く反映されるということです。
同じような結果になったとしても、そのプロセスの違いによって意味が変わるんです。

そして、そうした特性を読み取る上では、一部分だけを見ていては正確性が失われます。

なぜなら、サンマの小骨を食べる行為だけを見ていては、
その人が何故、小骨を食べることを選択しているかが理解できないからです。

食べている表情に小骨が気になる様子が感じられたら、我慢しているのかもしれません。
素早い動きでお箸を使い、骨が付いているかを確認しないで身を取って口に運ぶようなら
小骨のことを最初から気にしない「おおらかな」人かもしれません。
とにかく急いでお箸を動かし、骨ごと食べて、食べ終わるとすぐに席を立つようなら
忙しい中で食べに来た人かもしれませんし、せっかちな人かもしれません。

また、食事のときの座り方や姿勢、しぐさなど、サンマの食べ方以外の部分にも
様々な気遣いが感じられたら、マナーや他人への気配りがある人と推測できます。

急いでいる人と、普段からせっかちな人では、全体的な行動やしぐさが違うわけです。

あらゆる行動のプロセスは全体的な状況、つまり背景の中で意味を持ってきます。

ですから、相手に対して持つ印象というのを理由をつけて説明しようとすると
非常に沢山の情報を総合して話さないといけなくなってしまうと思います。

「〜する人は…な性格だ」というような短絡的な解説は説得力に欠けるはずです。
僕には納得できません。

むしろ、そういう話を聞くと僕は「この人は短絡的かもしれない」と推測を始めます。
次に、短絡的な理解をして、それを人に話すに至るまでの、プロセスを見始めます。


…というような考え方をする僕は、物事を分かったフリをして安心するよりも、
 色々か可能性と照らし合わせて全体の整合性を追い求める特性があるわけですね。

 そして自分自身を客観的に見ることもしているようです。

2008年10月03日

様々なメッセージ

人は誰しも、自分の中の何かを守りながら生きている。

言いかえれば、大切な何かを持っているということであって、
時にそれは意識できない範囲で自分を守るために大切なことだったりもすると思います。

例えば、人懐っこくて誰とでも打ち解けられるような傾向の人は、
そうした対応によって孤独感や寂しさから身を守ろうとしているのかもしれません。

人の輪に積極的には入っていかず、冷静に眺めているような人は、
不用意なコミュニケーションで傷つかないように身を守っているのかもしれません。

とにかく場を盛り上げながら他人にチョッカイを出し続ける人は、
自分自身の内面を探られる恐怖から身を守っているのかもしれません。

人の取っている様々な行動や振る舞いは、その人が生きてくる過程で
自分自身を安全にキープしておくために効果的だった方法だと考えられるということです。
生き抜くために必死で学習してきた方法なんです。

そうやって考えてみると、人を見ていれば様々なことが推測できます。
この人は一体、どういう人なんだろう?
何を大切にしてきた人なんだろう?
そのような視点で人の個性を見ることができるわけです。

注目するポイントは、いくらでもあります。
実際の行動内容もそうですが、そのときの振舞い方、
つまり身体反応として表面に現れる動きが大切なように思います。

そして、人によって相手の反応から気づきやすいポイントと、
逆に気づきにくくて、ついついスルーしてしまうポイントがあるようです。

例えば、僕の場合に自覚できているのは、相手の笑顔に関しては
かなり鈍感というか、気づかないフリをしてしまうというか、
笑って誤魔化すケースには、比較的簡単に誤魔化されてしまう傾向があるようです。

これは自分の課題だと考えています。

…まぁ、笑いのメッセージに関しては大半の人が本音に気づくのが難しいはずですが、
そこには「笑い」そのものが複雑なメッセージを含むことが関わっていると思います。


で、そんな風に様々なメッセージから意図を読み取るような癖をつけていくと、
自然と、占い師のように相手の特性を言い当てることが上手になっていくようなんです。

筆跡鑑定にせよ、様々な心理テストにせよ、結果と内面的特性を結び付けて
相手のことを理解するように読み取っていく作業だとも言えるわけです。

そういったテストの類は、テスト結果という行動パターンを内面的特性に
結びつけて解釈をしているのですから、それは行動から内面的特性を読み取る際に
テストという媒体を挟んでいるのに過ぎないとも考えられます。

つまり、人の行動と細かい非言語メッセージを読み取る能力が上がれば
何も媒体を挟まなくても人の個性を理解できる可能性が上がっていくということです。

僕はコールドリーディングも勉強し、自分なりにもトレーニングを積んだつもりです。
その過程で学んだ話術は今でも非常に役立っていますし、
観察のための視点も大いに役立っているように感じています。

あまり今では、MeタイプとWeタイプというのは意識しなくなってきましたし、
タイプ分けのポイントを意識するよりも全体的雰囲気や声の感じのほうが
僕の中では人を見るときに重要な要素になってきているようにも思います。

そうした移ろいが起きてきた前提にあるのも、やはりコールドリーディングで学んだ
「とにかく必死で読み取ろうとする」という姿勢にあるような気がします。

人は必ず様々なメッセージを発している。
そこから読み取ろうとする意欲があれば、観察で得られる情報は沢山あるわけです。

あとはそれを言語化して相手に確認するだけ。
そうして言葉で伝えたときに、相手にハズれたと感じさせないため
話術としてのコールドリーディングが役立ちます。

また、催眠的な文脈でいうYesセットのように、
相手から「Yes」の返事を得られるようにコミュニケーションを進めていくためにも、
コールドリーディングの話術は非常に効果的だと実感しています。


そうやって振り返ってみると、僕は自然とコールドリーディングをしているときがあって、
それはセミナー中であったり、個人的な相談に乗っているときであったり、
かなり無意識的に近い形で、人の個性を見るようなことをしているようなんです。

そのときに僕が気づいたのは、そのように個性を見ることを
僕自身が無意識的にやり始めているという部分でした。

人から「どうして、そう思ったんですか?」「なんで分かったんですか?」
ということを聞かれたときに、言葉で答えるのが難しかったんです。

自分の中を振り返る作業で楽をすれば、「なんとなく」と答えたくなります。
実際、「なんとなく」レベルのものだって、あるような気がします。

確かに、「なんとなく」のままで進めていっても
僕自身の判断基準の精度は磨かれていくでしょうし、
コミュニケーションに活かす上では問題は無いとも思います。

ただ、それでは他人に伝えられません。

言語化して、意識できるようにする。
それによってスキルとして人に伝えられるようになると思うんです。

慣れが出始めてきた時期こそ、改めて意識化して
説明できるようにしていくことも、重要なテーマじゃないかということです。

イチロー選手は自分のやっていることを全て説明できると言います。
だから自分は天才ではない、と。

メジャーリーグで活躍する選手達は、あり得ないやり方でヒットやホームランを打つ。
だから、彼らこそ天才なんだ、とイチロー選手は言います。

結果から見れば、世間ではどちらも天才でしょう。

ただ、僕の好みはイチロー的なスタンスです。
自分のやり方を吟味していくのが好きなんです。

「出来ている」という傲慢さには浸りたくありません。
100%はあり得ないのだからこそ、少しでも分かるようになりたいんです。

人は皆違うわけですから。

2008年10月01日

食べてみないと

先日、面接技術のワークショップに行ってきました。
継続的に参加しているトレーニングです。

場所は随分と行き慣れてきた感じのある箱根。
ホテルの食事もすっかりパターンに馴染んでしまいました。

今回の内容も大変充実したものでしたが、継続していくコースの2回目だったため
理論的な部分の内容に真新しさというのは感じませんでした。

「そうか!」という新たな発見があるというよりも、
「なるほど、そう説明するのね」という納得感が強かったんです。

それは理論的内容が面白くないということではなく、
本質的な部分をモデル化して説明しているために
ある意味で当然のことのように思えるところがあった、ということです。

初回からの流れを踏んでいますから幾分かオーバーラップしながら
新しい情報を伝えてはもらっているわけです。

ただ、その個別の情報に関しては非常に本質的であるため
NLPやブリーフセラピーを含めて各種の理論体系に共通するところが見られるんです。

そのため、膨大な情報を1つの角度から整理した印象を受け、
真新しさというよりも納得感が大きくなったのではないかと思います。


…ということを考えながら、初回の時のことを振り返ってみると
そのときも決して理論的な部分においては驚くほどの新しさは無かったようなんです。

でも初回の時には、思わずハッとさせられる部分が多かった。

1つの可能性は、面接というものに対して
全体的な枠組みを理解できたこと大きかった、ということです。

カウンセリングであれ、面談や面接と呼ばれるものであれ、
非常に曖昧な要素が大きいわけです。

整体や病院、歯医者、エステや美容院などで初回に「カウンセリング」と呼ばれる
情報収集がありますが、多くは定型の質問事項に沿って答えるだけだったりします。
心の悩みを解消するカウンセリングもあれば、キャリアカウンセリングもある。
スピリチュアル・カウンセリングなんていうのもあります。

そうした曖昧なものに対して、自分が身につけていきたいスタンスを明確に感じたり、
スタンスの違いから生まれる形式にも理解が深まったのが初回だったように思うんです。

何を目指し、何を心がけるか。
そして、その裏側で何を大切にしているか。

そういったことが見えてきたことで1つの枠組みが生まれたような気がしました。

2回目以降は、その枠組みの中に情報を追加していく印象だったので、
全体的な整合性を感じながら、スムーズに納得してきやすかったのかもしれません。


そして、もう1つの可能性は、具体的体験そのもののへの衝撃です。

理論はどんなに素晴らしくても理論なんです。
それを実感するのは理論を理解する本人の経験に基づいた部分です。

例えば、相手をよく観察して反応に合わせた対応をしましょう、と言われたとして、
具体的に相手の反応のどの部分を見るのかというのは、
実際にそこで起きている反応を見てみることでしか本当の実感が沸かないわけです。

しぐさや表情に何かの反応が表れていて、そこを観察するということを
どんなに詳しい図解で説明してもらっても、
実際に自分が取っているコミュニケーションで見逃してしまっていたら
そのことを気づけるようになっていくのは難しいということです。

実際に自分が見逃した反応を、その場で第三者から気づかせてもらうと、
どんな場面で何が起きるかという体験を1つ蓄積できる。
そうしたことの積み重ねが、「違い」に気づくベースを作っていくと思うんです。

特に重要なのは言葉でしょう。

普段から自分が使っている言葉のパターンから抜け出すのは至難の業です。
自分には決して思いつかない言葉というのが沢山あります。

なぜなら言葉は体験を通じて身につけたものだからです。
「ある状況では、こういう言葉を使う」というのを他者の発言と
自分自身の発言とを通じて理解してくることで、使えるようになるものです。

コーチングを勉強している人というのは、実際のコーチングセッションを
数多く経験していることが多いため、コーチング的な質問を発話しやすいわけです。

そういう意味では、質問を中心とした言葉のスキルを上げていくには
効果的な言葉がけのコミュニケーションを実際に経験する必要があるということになります。

僕がそのワークショップの初回に体験した衝撃はまさにそれでした。
「そこで、そんな言葉が出てくるんだ!」という驚き。
こうした言葉のパターンを広げることが自分の大きなテーマなんだと思います。

先日の2回目では、その衝撃はかなり小さくなりました。
驚きよりも、そのことを理解して、身につけようという姿勢に変わったのかもしれません。

それは多少、残念なことでもあります。
なぜなら衝撃的な経験ほど、記憶に残りやすいからです。
そして、驚きを感じられるほどの充実した経験というのも滅多にできません。

だからこそ、ゼロから学べるような姿勢をいつまでも維持して、
新鮮な驚きを体験していきたいものだと感じます。


これは喩えると、料理に似ているようです。

どれだけ「美味しんぼ」を読んでも、料理の本を眺めても、
素晴らしい料理を実際に食べてみるという経験なしには得られないものがあります。

その素晴らしい料理だって、それを味わえる感性が育っていなければ
その素晴らしさに気づくこともできません。

初回に受けた衝撃は、「世の中に、こんなに美味しいものがあるんだ!」
という驚きに似ていたのでしょう。

もしかるすと、今の僕は、その料理の素晴らしさを
ジックリと味わおうとしている最中なのかもしれません。

ただ、僕の感性では気づけていない素晴らしさも沢山あるはずです。
数年後に今回の経験を振り返ったとき、見えていなかった価値に気づけるかもしれません。


…そうやって考えてみると、僕の勉強会は高級料理のレシピを試食つきで
 惜しげもなく公開してしまっているような気がしてきました。

 今後は料理を食べられる場を作っていきたいですね。

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【場所】 
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【場所】 
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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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