2008年11月

2008年11月29日

セミナーの「場」

NLPのOB勉強会がありました。
直前の通知にも関わらず、大勢の方にご参加頂きました。

頂き物のお花













色々な時期に学ばれた方が集まっていても、すぐに打ち解けた雰囲気になれるのは
さすがにコミュニケーションに関心のある方々だと感じます。
もちろん、NLPの効果もあるとは思いますが。

今回はインタラクティブな時間を重視しましたが、
その中で自分なりに「面白い」と感じたことがありました。

それは質問やコメントのタイミングに関してです。

全体的なラポールの効果も上乗せしてか、
皆さんの様子を見ていると発言のタイミングに予想がつくんです。

見ている中で話したそうな人が目につき、
意識を向けて、アイコンタクトをしたぐらいに発言される。

視野に入っていない方向でも、ふと目をやった瞬間に目が合い、
それと同時にコメントが始まるなんてこともありました。

100%ではありませんが、その辺りが一致してくるのは面白いものですね。

確かに、ベースとして観察はあります。
ただ、それ以上にラポールによる一体感というものが
なんとなく、そんな状態を後押ししてくれていたように感じます。


そんな風に場の流れの中に身を置いて、状況を受け取りながら進行していると
人それぞれが特に違った受け取り方をしている場面にも出くわします。

その場をコントロールしようとする立場もあるでしょうが、
僕のスタンスは割りと放任的です。
時間の都合があっても、自由を重んじているように思います。

技術としては、時間を制限することでプレッシャーをかける方法もあります。
それでも、そうしないことが多いような気がします。

それは僕が人と関わる時の立場とも関係しているのかもしれません。
基本的には、その人の人生への影響を考えるようにしているということです。

そのスタンスは喩えてみると、まるで映画をスクリーンの中で見ているような印象です。
主人公の隣にいながら、映画の流れは妨げない感じでしょうか。

映画はきっと素晴らしくドラマチックで、感動的な方向へ展開していく。
きっと心に響く素敵なエンディングが待っている。
…そんな気がするわけです。

僕は映画監督ではありません。
脇役の1人です。
映画のストーリーは決まっているんです。

僕のアドリブで流れが変わることはありますが、
素晴らしいエンディングに向かっているのは間違いないだろうと思っているわけです。

一体、どんな展開があるんだろう?
ラストシーンはどんなだろう?

そんなことを想像しながら映画を見るんです。
そして、感動的な場面に心を打たれるんです。

素晴らしい映画を見たときのような喜び。

それこそが、僕が人と関わるときに感じている大切な動機付けなんです。

2008年11月27日

その問題は誰のせいで起きていますか?

目標にせよ、悩みにせよ、
自分が責任を取れるものであるか、というのは重要なポイントだと思います。

人間は一人で生きているのではない以上、自分が何かをしようとすると
必ず自分以外の周りに対して影響が出るものです。

自分が何かを達成したとすると、他の人にも影響が出ていることになる。

仮に、年収1億円という目標を達成するとしたら
誰かから1億円を集めてこないといけないわけです。

当然のことですが、自分が変われば他人も変わるということです。

他人の都合を考えて目標を設定しようということではなく、
自分のしたいことがあれば、それをするのは素晴らしいと思いますが、
問題は上手くいかなかったときです。

例えば、営業の人が売上ノルマを達成できなかったとすると
それは多くの場合、自分のやり方に問題があったと考えるでしょう。

インターネットでビジネスをやるときに、売り上げ目標が達成できなければ
自分の手法が良くなかったと考えて、売り方を工夫するはずです。

高校や大学の受験の時、不合格になってしまったら
自分の実力に目を向ける人が多いと思います。

買ってくれなかった取り引き先が悪い、とか
この素晴らしい商品の価値が分からないなんて愚かな消費者だ、とか
今回は自分よりも点数を取ったヤツがいたからいけないんだ、とか
そういう風に自分以外の誰かに責任を向けることは少ないだろうということなんです。


ところが、そこに他人が直接的に関わってくると事情が変わります。

あの人がムカつく。
あいつさえ、こうなってくれれば…。
あの人に振り向いてもらいたい。

自分の気持ちが強く向いている相手がいる場合、
目標や悩みの内容が、その相手の人物に向きやすくなるようです。

他人を変えたい気持ちが沸いてくるわけです。

だからコーチングなどの目標設定では、「誰かにこうなってもらいたい」という形の
目標を立てることは良くないとされているんです。
他人を変えようとする目標は良くない、と言われます。

本質的に見れば、営業成績を上げたいというのも
「お客さんにもっと買ってもらいたい」という意味では相手に依存しています。
他人を変えようとしていると言えば、そうなんです。

両者の違いは自分がどのように責任をとろうとしているか、です。

求める結果は相手を変える行為ではあるけれども、
それが上手くいくか、いかないかは、全て自分の責任だと思えるか。

この部分が違います。

上手くいかなかったのは、自分のやり方が悪かったんだ。
次はこうしてみよう。
…という具合に、自分に気持ちが向く分には責任が取れています。
目標に向けて進んでいけるでしょう。

しかし、「私に振り向いてくれないあの人が悪い」と
相手を責めるような気持ちが沸いてきてしまったら、
それは自分で責任を取れていないということになります。

そうではなくて、「だったら、どういう自分になりたいのか」の視点で
目標を設定しましょう、というのがコーチング的な目標設定です。


そんな前提を元に考えると、問題や悩み事に対しても自分の責任と捉えて
どのように自分が変わっていくかという視点に立つのは重要だと言えます。

問題状況は自分次第で変えられる。
そういうスタンスで関わるということです。


ただ、この発想には危険なところもあります。

確かに、どんな状況であっても、それに対する自分の関わり方を変えていければ
あらゆる問題を自分で解決できるはずです。

しかし、人はそれほど常に強くはいられないものでしょう。

頑張りたい人は頑張ればいい。
一方で、頑張りすぎて心身ともに潰れてしまう人もいるわけです。

他人のせいにしていては問題は解決しない。
全てを自分のせいだと考えていてはストレスに押し潰されてしまう。

どちらもバランスなんです。

その意味では、「この問題は、誰が悩むべき問題か」という視点が役に立ちます。

問題は3種類に分けて考えられます。
 自分の問題。
 相手の問題。
 自分と相手の両方が関わる問題。

良い人ほど、相手の問題で悩んでいます。
本来、悩むべきは相手である、そんなケースでも自分が悩んでしまいます。

世の中には困った人というのが、ある割り合いでいるものです。
誰の周りにも困った人がいて、そんな人と関わってしまうことがあるんです。

勝手な気持ちを満たすために周りの人を困らせてしまう人がいたら、
その人との関わりで感じる不満は、困らせる側の責任です。
困ってしまう自分の問題ではありません。

本当に困るべきは誰か、ということを考えて
その人のことで悩まないようにするのも賢明な対処でしょう。

仕方ないんです。
相手の問題で苦しんでも仕方ないんです。

相手の問題で心を痛めるのをやめるのも、大切なスキルだと思います。

cozyharada at 23:19|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2008年11月24日

タネ明かし

11月の勉強会は『ラポール』をテーマに扱いました。

ラポールについて詳しく説明されているものは多くないので
それを僕なりに現象と理論に整合性のある形でまとめてみたわけですが、
相当に理解の難しい内容になったようです。

自分で読み返してみても難解な印象でしたから。

それだけラポールというものが曖昧で、不思議で、説明しにくいものだということです。
安易に説明すれば、「信頼関係」とか「安心感」とか言い換えることもできるでしょうが、
その角度で説明をしてしまうとラポールを実感するのが難しくなると判断しました。

単なる仲の良さや打ち解けた間柄をラポールだと思ってしまうと、
ラポールができているのに気づけない事態になりかねないんです。

ラポールを自らの体験で実感しておくことによって、
ラポールが深く成立している関係を理解出来るようになる。
違いに気づけるようになっておくのが重要だということです。


個人的な印象としては、ラポールと「一体感」は、割りと近いと思いますが、
皆で盛り上がってワイワイやっているような一体感とも違うことがあるので
一概に、ラポールと一体感を同じものとして捉えるわけにはいきません。

どちらかというと静かな状態のほうが、違いに気づきやすいと思います。
黙っているのに、一緒にいることに一体感を感じる。
周りから切り離された、そこだけの空間という感じでしょうか。

それは身体感覚として感じる、何とも言えない居心地の良さなんです。

その状態をしっかりと体験しておき、その状態にある人間関係を見ておくと、
ラポールが成立しているかどうかを見てとったり、感じ取れたりするようになるわけです。

僕は、その感覚的違いをもって、セミナー中の受講生同士のやり取りや、
セミナー会場全体の関係性、話し手と聴衆の関係性などに対して
ラポールが上手くできているかどうかを捉えています。

それは僕の中で1つの指標として利用できている実感があります。
勉強会でも、NLPのトレーナーをしているときでも、面談をしているときでも、
ラポールという状態を身体感覚として感じ取っているようです。
その場にいながら客観的に見ているときでもラポールの度合いを受け取っています。

なので、その指標を持っていない人と比べて
評価の結果が異なってくることもあるわけです。

僕からすると上手くいっているように判断されることが
他の人からすると「イマイチ盛り上がりに欠ける」と思われていたり、
他の人が「楽しくて、良い雰囲気」と捉えている状態が
僕には表面的に打ち解けた関係として判断されたりする。
そんな経験がよくあります。

ラポールというのは曖昧で、言葉にしにくいものですから
それを実感できるレベルで理解するためには工夫も必要だと考えます。

特に体感するという部分がカギになるはずです。
日常的に感じる「話しやすさ」とか「仲の良い関係」とか「楽しい関係」とか、
そういったものとは違う角度で理解する必要があると思うからです。


そのための1つの工夫が概念的な説明です。

今までとは違う知識体系の上に、新たな概念として「ラポール」という理解を作る。
そして、頭で理解しようとしたその概念に実体験を結び付ける。

こうすることで、今までの人間関係で理解してきたものとは別個に
「ラポール」という状態を理解するベースが出来上がるわけです。

ラポールを理解するためのパートを作る、と言ってもいいでしょう。

実体験として、深いラポールを主観的にも客観的にも感じてもらう。
それ以降は、その感じを評価基準としてラポールの度合いを意識しながら
深いラポールを目指したコミュニケーションを目指せばいい、という考え方です。

凄く美味しいものを食べたことがないと、
美味しいかどうかの判断がしにくいのと同じようなものです。

プロの料理人は有名店で修業をしたり、食べ歩いたりして、
最高峰の基準を自分の中に体験として蓄積しておくものです。
その基準に照らし合わせて自分の料理を作り上げていく。

ラポールに関しても、深いラポールというものを実感しておくのが大切だということです。

目指すべき地点が見えることで、方向性という軸が見えてきます。
軸の上に乗っているものと、乗っていないものも分かるようになるんです。
その意味で、「楽しい」「話しやすい」などは、軸の上からはズレているわけです。


ということで、11月の勉強会ではラポールの実感を最優先に組み立てました。

しかしながら、ラポールを実感するのは難しいものなんです。
技術的に深いラポールを作り出すのもそうですし、
それを体感的に実感するのも簡単なことではありません。

そこで工夫として、理論的な理解のために負荷をかけました。
難しい説明、概念的な話、難解な図。
「理解しよう」という姿勢になってもらうための工夫でもあり、
疲れてもらうための工夫でもあり、混乱してもらうための工夫でもありました。

抽象度の高い説明を提示されると、具体的な事象と結びつけるために
意識的な努力をする必要が出てくるわけです。

図というのは、それ自体が抽象化された表現ですが、
その絵柄の中に意味合いを持たせることをすると抽象度は更に上がります。
受け取り手によって解釈の幅が生まれる。

そして抽象度の高い概念同士を組み合わせた説明に対しても
具体的な内容と照らし合わせて納得をしたくなるはずなんです。

特に、自分の体験を思い起こしながら理解する方向で考え始めておくと、
いわゆる「ツァイガルニック効果」と同様に無意識は答えを求め続けます。

自然と実体験に対するモチベーションが上がるだろう、という見立てです。
体験的に納得したい方向に無意識を向ける工夫だということです。

また、内容の理解に混乱し、頭がボーっとなるような状態も好都合と言えます。
意識的な学習が放棄され始めているからです。

普段と違う感覚を研ぎ澄まし、自分の体験している状態を
今までの分類とは違うものとして感じ取るために、
無意識的な体験学習に方向づけをしておきたかったんです。

そうして「ラポール」という状態を皆さんがボンヤリ感じる。

高度な実習だったにも関わらず、全員が真剣に取り組んで下さり、
深いレベルのラポールを作り出すことができていた。
同時に、その状態を感じ取れていたように見えました。

それ以降は、多くの方が勝手に色々なことに気づかれていたようです。

以前に別の方々を対象に同様のワークをやったときは
ラポールとしての実感が薄かったようでしたので、一安心でした。


まぁ、1日の勉強会で扱う内容としては厳しかったかもしれませんが…。
もっと時間をかけてトレーニングを繰り返せると良いかもしれません。

ちなみに個人的な印象としては、
質問の仕方を磨くよりも、ラポールのためのペーシングの技術を磨くほうが、
はるかに中心的で効果的な部分にコミュニケーションが取れるように感じます。

ラポールのない状態での質問は、相手を不快にさせるものだと僕は思いますから。

2008年11月22日

私は私、あなたはあなた

伝えたいものがあるわけではない。

大事にしたいものはあるけれど、それを伝えたいのではない。


人それぞれ、形は違えど真剣に向き合っている。
想いを真剣に表している。

全ての形を受け入れられるわけはなく、
そこには技量と度量と事情が関わってくる。

ただ、その真剣な想いそのものを受け止めるには
自分自身に真剣さがあればいいと思う。

受け止められるだけの真剣さを常に持っていたい。


  あんなに一生懸命じゃないか。


自分と真剣に向き合おうとする想いを踏みにじるぐらいなら


 多分、もう、 仕方ない。




中島みゆきにでも応援してもらうか。

2008年11月20日

細かい議論

NLPのマスタープラクティショナー開催スーパーバイズというのに行ってきました。

全国(といっても東京近辺と大阪近辺がほどんどですが)から20人のトレーナーが集合。
スキルのブラッシュアップとトレーナーとしての心構えのようなことを習いました。

色々な方がいるものだと思いましたし、スキルに対する理解や
細かい部分での見解の違いなど、色々とギャップがあるようです。
だからこそ、そうしたブラッシュアップの場が有効なのでしょう。

ただ、僕の場合は誰が「こういうやり方が正しい」と言ったところで
それを受け入れられるような度量はありません。

それを否定することもしません。
「あぁ、そうですか。それを大切にして下さい」と思います。

と同時に、自分の中では「本質的であるかどうか」が優先されています。
各論として意味と、総論的・統合的な意味付けの両方を同時に大切にしているからです。

NLPの資格取得コースは構成上、多くのNLPのスキルを個別に学ぶ印象が強いものです。
「バラバラで、どう繋がるかが分からない」とか
「点と点が繋がっていない」とかいう感想も耳にします。

一通り学び終え、それを関連付けたスキルを別の機会に体験したりすると
「点と点が繋がって線になった気がする」という感想が出てくるようになります。

僕が言う「統合的な視点」というのは、立体的なものです。
点と点とか線とかではなく、階層構造を高密度に結び付けた三次元のものです。
(視覚的イメージとしては三次元ですが、実際にはもっと複雑な気がしますが)

そんな僕からすると、「このスキルはこうやるものだ」という細かい方法論には
あまり意味を感じないわけです。

手順だけでなく、個別の作業内容や質問内容にこそ意味があるからです。
その意味同士を順序立てたものがスキルです。

ですから、「こういう手順でやると、こういう結果が期待できる」と考えるんです。
正しいか、間違っているかは関係ありません。

誰かが決めた手順に、名前がついているだけなんです。
違う手順にしたら違う効果が生まれるだけなんです。

何かをしている以上、何も起きないということはありません。
何も起きなかったように感じたら、それは自分の中が静かな状態になったということです。

起きる結果に意味があると僕は考えます。
もちろんNLPにも「コミュニケーションの意味は、その反応にある」という前提があります。
何が起きたかが重要だということです。

であれば、「どういう順序でやるのが正しいのか」という発想自体が
その意図とズレているのではないでしょうか。

求めている結果を出せるような方法を行うのが大事だと思うんです。


NLPを学ぶ時には、まず個別のスキルが先にあるんです。
だから「このスキルは、どういう時に使えば良いんですか?」
という質問が出てきやすいわけです。

本当は逆です。
人生を考えたら、目的や問題が先にあるはずです。
それに対して「どういう方法があるだろうか」と考えるものです。

「こういう時には、どんなスキルを使えばいいんでしょうか?」
という質問が出てくるようなほうが自然だと思うんです。

ただ、状況別にスキルを伝えていくと、それでは応用が利きにくくなります。
優れたセラピストやカウンセラー、コーチの元に行って対処してもらうのと同じです。

実際、心理臨床家は師匠と仰ぐ人物のところで教育セラピーを受けるものです。
そうやって状況に応じた対処法を学んでいきます。

それでは優れた人物は素晴らしい結果を出すけれども、
そうでない人は上手くいかない、という事態を避けられません。

そこで、NLPは誰でも出来るように工夫した。
だから状況に関係なく、名前のついたスキルを組み立てたわけです。
型を作ったんです。

型を身につけることで、様々な場面に実践できるようになる。
そして型を繰り返し体験することで、心構えに変化をもたらす。

そういう意図として言えば、それは日本の伝統的な「〜道」というものに近い気がします。
空手道、柔道、剣道、茶道、華道、書道…。
型稽古があるんです。

そのなかで大切なのは、型が洗練されていること。
型は型に過ぎないわけです。
型は無駄を省いたものでなければ意味がありません。
本質だけを抽出したものである必要があります。

NLPの基本的なスキルというのは、型にあたるものでしょう。
ところがそれを組み合わせたり、そのスキルそのもので実践的な効果を上げようとしたら
スキルの手順や細かい注意点が増えてきてしまいます。

型ではなくなってしまうんです。
目的の結果を出すための術になってしまうんです。

意図とズレていると僕には思えます。

ゴルフに喩えると、グリーン周りからのアプローチショットを練習するようなものです。
アプローチショットの型も色々あるでしょうが、
そうした基本的な打ち方を体験的に学んでいくのが重要です。

そこで、スピンをかけて止める打ち方とか、
ボールを高く上げてフワッと落とす打ち方とか、
2バウンド目でピタッと止まる打ち方とか、
落ちてから右に曲がる打ち方とか、
そういう細かい術を練習するのは本質を理解した後で良いということです。

その中で、スタンスはオープンじゃなければいけないとか、
肩幅に足を開くとか、ボールは左足の前だとか、フェースは顔を向けるとか、
打った直後にクラブヘッドを戻す感じにるとか、打ったら肘を引くとか、
そういう細かい動きに正しいとか間違っているとかを議論する。

それよりは動きの意味を理解するほうが重要だということです。
その理解には、基本的な型の練習を通じて意味を知るほうが効率的なんです。

基本的な打ち方をベースにして、クラブヘッドの動かし方を変えるとどうなるか、
スピードを変えるとどうなるか、というような意味を知る。
そして、その動きを生み出す体の使い方はどういうものかを知る。
体の動きを変えると、クラブの動きがどう変わって、結果がどうなるか。

そういう学び方が本質的だということです。

なぜなら、最終目的はボールを旗竿に寄せることです。
そのためのボールの動きを思い通りにコントロールできるようになるのが
アプローチショットを練習する目的のはずです。

もちろん、中には個別の技術を練習したり、好き勝手に打ったり、
先生が正しいと言ったやり方を忠実に守って練習したりすることで、
無意識のうちに本質的な要素に辿り着いて
ボールを思い通りにコントロールできるようになる人もいます。

そういう人が一部の達人や天才と呼ばれる人たちなんです。

そうでない人達が達人のレベルに近づくには、
先に意味や本質を理解しやすいように型の練習をするほうが効果的だということです。

NLPとは、まさに型そのものだと僕は考えています。
その型をゴテゴテ飾り立てていくのは本質の逆を行っていると思います。

型をアレンジしたスキルや、型から派生したバリエーションなど、
そうしたものを知るのは意味があることではあります。
でも、既に型ではなくなった術のやり方に関して、
「この部分はこうするのが正しい」とか議論をするのは不毛だと考えます。

型の中には意味があるわけです。
その意味を理解してもらい、意味をもった行動同士を組み合わせて
目的の結果を出せるようになるのが重要じゃないでしょうか。

僕は正しいNLPを伝える自信は一切ありません。
そんなものがあるとも思っていません。
NLPの細かい知識も、僕より詳しい人は大勢いることでしょう。

僕の関心は、「他の誰かが何を言っているか」には向いていません。
NLPとは何であるか、何に役立つのか、そして
人の生き方とどのように関わっていくのか、
そういうことに向いているようです。

僕は誰から「間違っている」と言われようとも、
統合的で本質的な方向を目指すのは止めないだろうと思いました。


最近、ようやく「NLPは、なかなか良く出来ている」と思えるようになってきたところです。
もちろん、それも誰かに言われたこととは無関係ですが。

2008年11月18日

予告

12月の勉強会は23日(火・祝)を予定しています。

テーマは決めかねていますが、僕の中での方向性として
様々な情報を統合的に進めていこうとする感じが出ていますので、
何か関連付けた内容になるかもしれません。


そうした方向があるからですが、
2009年の1月12日(月・祝)に
「新春ワークショップ」を行います。

内容はNLPが関係します。
完全にNLPではありません。
NLPを客観的に眺めることで、統合的理解を促進したい。
そんな意図でしょうか。

勉強会との違いは時間ぐらいなものですから、気軽にお越しいただいて構いませんし、
NLPを知らなくても「一日入門セミナー」のように活用して頂けると思います。

僕にとって最も重要なポイントは、
今までNLPに対して黙ってきたことを扱う、ということです。

NLPというものの位置づけや、NLPとは何かという観点についても扱いますし、
その上で個別のスキルがどのように繋がってくるかも説明します。

技術的に体験をするよりも、NLPを総まとめするイメージでしょうか。
周辺の心理療法なども関連してくるはずです。

とりわけ変化の技法についてフォーカスするつもりですから
通常のNLPでは扱わないような手法にも触れるかもしれません。

普通はNLPとして受け入れられないだろう、という判断をしていた部分も
統合的な視点を持てると意味づけが変わってくるわけです。

…黙ってきたことをお伝えする上では、一部過激なところもあるかもしれませんが
 その辺はご了承下さった上でご参加頂けると幸いです。


ご関心がおありの方はスケジュールをご検討下さい。

cozyharada at 23:43|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!セミナー情報 | NLP

2008年11月15日

大きな夢について

ここ数日はニュースレターが全く進まず、苦しんでいます。

NLPという制約もありますし、ブログよりも気を遣う部分が大きいですから。

「産みの苦しみ」などという言葉がありますが、
僕の内側に起きていることとしては、生み出すという感じではありません。

もうすでに存在していて、組み上がっているものを部分的に外に出す。
そのときに選別しながら引っ張り出すのが苦しいような雰囲気です。

適当なサイズを見つくろって取り出すのも難しいですし。

インタビューに答えるような形だったら楽なんですけどね…。


苦しい状態を引きずると、土日のワークショップに響きそうなので
進まないままで放置することにしました。

締切直前に睡眠時間を削れば、ちゃんと出てきてくれるのがパターンのようなので。

こういうのを振り返ると、自分がいかに目の前のことに意識が向きやすいかが分かります。

夢を語る。
世界に目を向ける。
世の中の皆が…。

そういうことは素晴らしいと思いますが、僕には実感できません。
セミナーの規模ですら人数が50人にもなったら、僕には実感がわきません。

顔と名前が一致する目の前の人。
それが僕の範囲なんだろうと思います。

研究をしていたころは、生化学ですから、
細胞とか、化学物質とか、分子の構造や相互作用とか、
そういったものに目を向けていたわけです。

それらも全て関係性の中で意味を持ちます。

その部分においては、人間関係も大腸菌1匹の中の話も似たようなものです。

僕の視点は随分とズームアウトして、人間サイズのものを見るようになりましたが、
人間を超えたサイズに目を向けて、そこに実感を持つには至っていません。

実感というのは臨場感とかリアリティと言っても良いものです。
単なる想像ではなく、身体性を持って感じられるということです。

僕は目の前の人の状態には臨場感を持って関わることができますが
不特定多数に対しては臨場感を持てないと気づいています。

社会とか経済とか政治とか、人間を個人として見ないタイプのものには
どうにも関心が持てないわけです。

そういう高い視点にたって、その周辺だけで考えるぐらいなら出来るかもしれません。
でも、それは一時的なものと思えてしまいます。

もしかすると、この先に少しずつ視点が高くなってきて
人を超えた範囲にも臨場感を感じられるようになっていくかもしれません。

それを意識して目指すつもりもありません。
その状態はきっと大変なことだと思います。


キング牧師は黒人全体が持っている苦しみに対して、
自分自身の体を通じて自分としての苦しみを感じていたのだろうと思います。

マザー・テレサは恵まれない人達全てに対して、
自分自身の体で苦しみを感じていたのではないでしょうか。

だから、あれだけのことができたのだと思うんです。

家族のために自分の命を差し出すことができる人は、ある程度いる気がします。
でも、日本から遠く離れた国の誰かのために自分の命を差し出せる人は少ないでしょう。

臨場感を感じられるというのは、そういう違いです。

自分の行動が結果的に世の中に影響を与えるということと、
世の中が自分のことのように感じられるから行動するのとでは全然違うということです。

僕には世の中の規模は実感できないんです。
僕には目の前の人が最大限です。

cozyharada at 02:44|PermalinkComments(2)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2008年11月13日

予想を上回る

先日、たまたま入ったスーパーマーケットにインパクトのあるものが売られていました。

大キャベツ













キャベツ。

左側にある小さいのが通常サイズですから、
それを参照してもらえると大きさが想像できると思います。

1玉で約1300円。
価値が良く分かりませんでしたが、目を引くのは確か。

日常的で、ありきたりのものでも、通常と違う要素を入れると
途端にインパクトが出てきますね。

ミニチュアサイズの食べ物なども興味をそそられます。


巨大な食べ物を作ってギネスに挑戦するような内容が
ニュースなどで扱われたりすることがありますが、
大きい方向に進めていくのは難しいように思うんです。

巨大のり巻きという場合には、太巻きとして大きくするケースと
何メートルにもなる長さで競うケースとあるようですが、
どちらにせよ、大きくしても大きくなりきらない部分があるわけです。

海苔の厚みは普通のままですし、ご飯粒の大きさも、具材の大きさもそうです。
量を増やすことで対応するわけです。
そして結果的に、全体としての大きさを大きくする。

こういうやり方で大きさに挑戦するのは、ホットドッグとか、煮物とかでしょうか。

これは多分、味が通常サイズのレベルをキープされると予想されます。


一方、中華街とかで売られている巨大な饅頭などは
皮も厚くなっていますので、具材になかなか辿り着かなかったりします。

巨大ハンバーガーなどを作って、暑さも比例して増やしていった場合
パンやら肉やらの厚みが厚すぎて食べても美味しくないような気もします。


自然界でサイズが大きくなる場合には、全体的な相似形を保ったまま
全てが大きくなっていくわけです。

犬で言えば、プードルという白い毛を丸く刈っている犬がいますが、
日本でよく見かけるのは「トイ・プードル」という犬種で
プードルの仲間のなかでは一番小さいやつなんです。

日本人からすると見慣れているプードルは「トイ・プードル」ですから
プードルと言えば小さい犬だという印象が強いように思います。

ところが、「スタンダード・プードル」という種類もあって
それは大型犬に分類されますから、30kg近くになるんです。
大人の腰ぐらいの大きさということです。

これはインパクトがありますね。

小さいプードルがあのまま巨大化したような印象です。
まさに冒頭のキャベツぐらいの差を感じます。


スタンダード・プードルにせよ、巨大キャベツにせよ、
相似形で大きくなっているところがインパクトを生むポイントだと考えられます。

一般的に言えば、大きくするというのは素材のサイズの制約をうけるために
人為的に行うのが難しいところがあります。

自然界で巨大なものは全体が相似形で大きくなりますが、
元々の大きさが決まっている材料を元にして大きなものを作るとなると
無理矢理に大きなものに作り上げたような雰囲気が隠せないわけです。

その辺りは巨大料理の類をイメージしてもらえれば納得できるように思います。

(ちなみに、テレビ番組の企画で巨大アジフライを作ると言って
 マグロフライを作っていたのを見たことがありますが、これは壮観でした。
 まぁ、「アジ」フライではありませんが、見た目はソックリで巨大だったんです。)

逆に、ミニチュアにしていく分には、素材まで細かく作りこむことで
割りと対応できるケースが多いようです。

ミニチュア料理の多くは本当に見事な技術で、見た目と味の両立をしているようですね。
僕は個人的にそういう技能に対して感動を覚えます。
職人的な技能に憧れる部分があるんです。

つまり、ミニチュアでも、巨大なものでも、元々のものとソックリ同じでありながら
大きさだけが全然違うということろが大きなポイントだろう、ということです。

大きさという一要素だけが通常と異なっているからインパクトがあるわけです。

これがもし、大きさも違う、形も違う、色も違う…、となったら
それはもう同じものとして認識されないことでしょう。

巨大キャベツを「キャベツの大きいやつ」として認識できるのは、
大きさ以外の部分がキャベツの特性を保っているからと言えます。

相似形がインパクトを与える前提になるというのは、そういう意味です。
全体的に共通しているのに、大きさという一要素だけ違う。
それが違和感を与え、見る者に驚きをもたらすというわけです。

人間が対象物を認識する時には、様々な要素を組み合わせて
過去の記憶と照らし合わせた結果として「何であるか」を判断します。

全ての要素が一致する(本来は「同一カテゴリーと捉えられるほどに類似している」)
場合に、過去に知っているものとして整理されます。
そして、過去の情報から、そのものの性質が予測される。

 例えば、僕が会社員時代、山口県の寮にいたころ
 昼ご飯にフライの盛り合わせが出たことがあります。

 皆がそれを見て、見た目から「フライの盛り合わせ」として、
 ご飯のおかずとして認識するわけです。

 テーブルの上にはソースが用意されている。
 そこで、皆がフライにソースをかけます。
 そして食べる。

 その中に一品、バナナフライが入っていたんです。
 これにはビックリしました。

 おかずのつもりでソースをかけて口に入れたものが、甘いんです。
 驚くのが当然でしょう。

 でも、それ以降の昼食では、フライの盛り合わせが出ると
 誰しもが必ずバナナを確認し、それをデザート用に分けるようになりました。
 好みの差はあれ、分かっていて食べればバナナフライも不味くはないんです。

見た目から予測される当然の要素として味も含まれていて、
一度何かとして認識されたものは過去の経験と照らし合わされて
全ての性質に対しても予測がなされているようです。

そこで、その予測を裏切られると驚きが生まれる。
インパクトがあるわけです。


予測が立つ範囲でなくては、全くの別物となってしまうのですから
基本的には「同じもの」として認識できるだけの要素を保っている必要があります。

その結果として当然だと思って認識される情報、
つまり、当然だとして、99%そうに違いないと予測された内容が
大きく裏切られた時に、人は驚きを感じると考えられます。

ということは、予測を立ててもらうのに十分な情報を提供し、
誰もが当然そうなるだろうと予測をしたところで、
その予測をくつがえすような結果を提供できると、
大きなインパクトを与えられることになります。

これは多くのことに当てはまるような気がします。

お笑いでもそうでしょう。
ある程度の期待をしてもらう必要があって、
その上で期待を裏切るから面白いわけです。

安田大サーカスのクロちゃんも、一見すると怖い顔なのに、
高くて可愛らしい声を出すからウケるということです。

全く予想もつかないような展開が続いてしまうと、笑うどころか、
「何が何だか分からない」「ついていけない」という状態になってしまいます。

面白いだろうと考えたことを、一度に盛り込み過ぎると
見ている側には予測がつかなくなりやすいものです。
それは予測を上回っている状態ではなく、予測ができなくなっている状態です。

それでは面白さを感じることもできないんです。
芸人が「欲しがりすぎ」と呼ぶ状態ですね。

「展開」と呼ばれるものの大半は、受け取り手に予測を立ててもらうことをして、
その予測を上回る結論を提供することでインパクトを出していると分析できます。

優れたキャッチコピーや、人の興味を引きやすい名称も同様かもしれません。

「コーチング」という名前は、自然と「コーチ」を連想させます。
多くの人が知っている「コーチ」はスポーツで指導をする、あのコーチでしょう。

「テニスのコーチ、野球のコーチ…。
 それは知っているけど、ビジネスとか会社組織でコーチが関係するの?」
そういう関心の引き方が「コーチング」という名前にはあると思うんです。

そして実際に学んでみると、スポーツのコーチとは全く別物。
これもまた予測を裏切られるポイントでしょう。

ところが、「NLP」という名前は、日本人にとって全く馴染みがありません。
「NLP」と聞いても、ほとんど何も予測ができないでしょう。
なので、多くの人にとって「NLP」は完全に新しいものとして捉えられることになります。

「NLP」という名前にはインパクトが薄いと思えるわけです。


人にインパクトを与える工夫。
そういうのも考えてみると面白いものですね。

cozyharada at 23:36|PermalinkComments(2)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2008年11月11日

オウム返しの効果

いわゆるロジャース派と呼ばれる傾聴の手法として、
クライアントの話を繰り返す「オウム返し」が有名です。

カウンセリングが前提になっていますから、クライアントはある程度の長さの話をします。
それに対してオウム返しをしようとすると、普通は短い表現になると考えられます。

自然と要約された形になるわけです。


一方、日常的な会話の多くでは、発話される文章の長さは短くなりやすいものです。
一人の人が一方的に話し続けるということは少ないでしょう。

一般的に言って、一人が話し続けるのを黙って聞いていられる時間は2分が良いところ。
一言も発することなく長い話を聞くのはストレスを感じやすいもののようです。

日常的な会話であれば、聴き手が質問をしたり、話を促したりして
会話が進んでいくのが普通でしょう。
キャッチボールと喩えられる理由がここにあるはずです。

そんな中でオウム返しを多用すると、話し手にストレスがかかることもあります。
まだまだ話したい勢いのときに、不用意にオウム返しをされると話が途切れるわけです。
話の腰を折られたと感じる人もいると思われます。

そういう意味でも、オウム返しをするタイミングは、
ある程度の話が進んで提供された情報量が蓄積してきた段階と言えます。

「ここまでの話を私はこのように理解しました。いいですか?」
そういうニュアンスが出てくるということです。


こうした言葉がけには、カウンセリングという関係性の中でも
相手の話した内容を誤解を減らしながら進めていくための確認の意味があります。

同時に、話し手にとっては自分の話が理解してもらえているかを
確認するための機会にもなるわけです。

話し手が「聴いてもらっている」と感じるための要員は
オウム返しで確認してもらえるかだけではなく、
非言語のメッセージとして発している雰囲気による部分も大きいものです。

「聴いてもらっている」という印象を感じられないままだと、
「分かってほしい」という気持ちが話し手の中に沸いてきてしまいます。

クライアントが力を入れるべきは問題解決の方向であって、
話を理解してもらうための方向ではありません。

クライアントは「理解してもらっている」という安心感の上で
自分の問題について向き合うことができる。

そのためにも、オウム返しで話の内容を伝え返すことは、
理解してもらえている印象を与える方法として有効だということです。


ところが、オウム返しの性質を考えると、そこには別の効果が見えてきます。

それは要約のプロセスで入り込んでくる聴き手の内的世界です。

聴き手はクライアントの話を聴き、それを自分なりに解釈しています。
その内容を自分なりの言葉で表現しなおしたものが要約された情報です。

一連の要約のプロセスは、聴き手によって変わってくることになります。
聴き手が変われば、要約の仕方が違う。

当然、クライアントの話していた流れとも若干違ってくるわけです。
時には、オウム返しをしたつもりなのに、クライアントに否定されることもあるほどに。

ここでの聴き手の解釈には、聴き手が人生で培ってきた体験記憶と
物事の受け取り方が影響しています。

クライアントと全く違った受け取り方をしてしまったら否定されることもあるでしょうが、
そうでない場合にはクライアントにとって少し異なった視点が入ることになります。

これが重要なポイントです。

同じような内容を繰り返してもらったものをクライアントが聴くと
それによって話し手自身がしていたのとは違う整理の仕方をされるわけです。
情報の再構成が起きるんです。

そうしたことの積み重ねが気づきを生んだり、
結果的にリフレーミングを引き起こしたりします。

言ってみれば、ノイズを入れているということです。
クライアントが自分だけで整理しようとしている問題の情報に、
聴き手が少しずつノイズを入れて違う見方が可能になってくる。

現象面としては、そういうこともあるはずです。

具体的な例で考えてみると、こういうことです。

 クライアントが
「私、緊張しやすくて…。人前で上手く話せなくって…、それが悩みなんです。」
 と言ったとします。

 それに対するオウム返しとして
「緊張するから上手く話せないのが悩みなんですね」
 と受け答える。

 これは、あまり良い応答ではありません。
 「緊張しやすい」というのは、部分化した表現です。
 絶対ではなく、緊張する場面が多いということをクライアント自身が認識しています。
 それを「緊張する」と断定してしまうと、クライアントが
 「自分は緊張する人」という認識を強めてしまうことになります。

 また「緊張するから」という理由づけも問題です。
 緊張することと、上手く話せないことの関係が不明瞭なわけです。
 緊張しても上手く話せれば困らないかもしれない。
 緊張するのが悩みなのか、上手く話せないのが悩みなのかも曖昧にしてしまっています。

 一方、
「自分のことを緊張しやすいと思っていて、
 人前では思うように話せていないように感じているんですね。
 それで困っているということですか?」
 というオウム返しも考えられます。

 こちらの例だと、「緊張しやすい」という事実があるのではなく、
 「自分のことを緊張しやすいと認識している」という風に捉えています。
 そして、「上手く話せない」という基準が不明瞭な表現を
 「満足できる話ができていない」という認識に捉えなおしています。

 また、「人前では」という言い方にも、他の場面なら大丈夫という前提がありますが、
 限定的な言い回しに抵抗を感じる人もいるかもしれません。
 もしかすると誰かから「話がヘタだ」と言われたのかもしれません。

様々な可能性があるので、クライアントの事実に沿ったオウム返しは難しいのですが、
言い方一つで随分と影響が違うということです。
 

オウム返しのときに生まれる言葉の内容には、
聴き手の受け取り方を反映した表現が言葉の端々に表れます。
それがクライアントに提示されていくわけです。

つまり、聴き手の受け取り方が重要だということです。

聴き手がクライアントの問題を、同じか、それ以上に大変だと受け止めてしまったら
大変さを強調するような表現がオウム返しに表れてしまいます。

逆にクライアントの問題を、聴き手が「大丈夫だ」と受け止めていたら
自然とクライアントが問題をリフレーミングできるような素地ができていくでしょう。

クライアントを信頼する。
問題を無意識のリソースとしてリフレーミングする。
そうした姿勢が、オウム返しにも影響を及ぼして、有効性を上げてくれるわけです。

もっと戦略的に利用すれば、微妙な言い回しを工夫したオウム返しは、
単なる確認に見せながら、暗示やリフレーミングによる力づけを
クライアントにもたらしていくことも可能になります。

ロジャースがどういう意図でオウム返しをしていたかは正確には分かりませんが、
ロジャースの持っていた問題解決へのリソースが、オウム返しの表現を通じて
クライアントへ伝わっていたことは間違いないと思います。

受容と共感のスタンスで、クライアントの問題を大変なことだと同情してしまっては、
オウム返しによって問題を悪化させることもあるでしょう。

それなのに、オウム返しという技術を単純な「繰り返し」として
広く伝えてしまうのは危険ですらあると思います。

ロジャースのオウム返しは、ロジャースにしか出来ないものです。
他の人がオウム返しをしたら、違う効果になってしまうんです。

確かに、オウム返しのニュアンスで起きる影響は小さなものでしょう。
しかし、その小さな積み重ねが土台になっていく部分もあるはずです。

オウム返しを技術として磨くなら、言葉の使い方を意識する必要がありそうです。

そんな細かいところまで気にしていられない、というのなら
聴き手自身が自分の内面的課題を解消するための自己成長の取り組みが必要です。

圧倒的な問題解消力を持つ人のオウム返しには、それだけの力があるでしょうから。

2008年11月09日

絵を描く楽しさ

この間、久しぶりに絵を描きました。

と言っても色鉛筆だけの簡単なヤツ。
イメージを決めて、描き終えるまでに1時間もしない程度です。

ワークショップの中でも絵を描いてもらうことは結構あるんですが、
いつもその様子を見ながら、自分も描きたいなぁと思っていたので
久々の体験は夢中になれました。

絵というのは1つの表現技法だと言えると思います。
画家は絵を通して自らの内面を表現している。

風景や人物、物を見たままに描くような絵もありますし、
写真が発展する前の時代においての絵画は記録的な意味合いもあったかもしれませんが、
それでも絵の中には「誰が描くか」によって明確な違いが出てくるわけです。
そこには確実に、その人の内面が表れています。

我々は小学校ぐらいから授業という形で絵を描く「必要性」を経験しています。
そこには評価も下されます。
一般的に言う「上手い」かどうかが意識されるわけです。

そこでの「上手さ」は現実に見たままに近いものを描けるか、という部分。
絵の持つ可能性に意識を向けたとき、
現実に近いかどうかだけに意味を置くのは勿体ない気がします。


抽象画で有名なピカソですが、幼少期から画力は圧倒的で、
若いころに描いていた作品は実物をリアルに描いていました。

ところが、ある頃からのピカソ作品は、素人から見ると理解できないような
不思議な絵になっているわけです。

これは他人から見ると、何が何だか分からない感じになるのが素直なところでしょう。

それは特別なことではありません。
本来、他人が表現したものを理解するのは不可能なんです。

ピカソの絵が理解できないと言っている状態は、
レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」を見ている状態と変わらないはずなんです。
ピカソが分からないのなら、他の絵は分かるのか、という話です。

「モナ・リザ」が美しいのは多くの人に共感できる部分かもしれません。
そして、「一人の女性が描かれている」という部分は理解できるところでしょう。

でも、それ以上は何も分からないほうが普通なわけです。
絵の裏側に込められた様々な作者の内面は、慣れていない人にとっては
どちらも感じ取れない状態だということです。

「ピカソの絵が理解できない」という言葉の前提には
「何が描かれているかが理解できるか」という部分に意識が向いている状態があります。

それは絵のホンの一部分です。
表面の部分です。

自分が眼を通して現実世界として認知している情景を「リアル」だと考え、
そのリアリティに対する近さを判断材料として絵を見る。
そして「リアル」な情景の記憶と照らし合わせて何が描いてあるかを判断する。

…「モナ・リザ」には女性が描かれている。
 ピカソの「ゲルニカ」のこれは「牛」だろうか?
 という具合に。

そういう理解の仕方は中学校の英語の教科書にある
「This is a pen.」という文章と大差無い気がします。

現実に近い状態を描いていれば絵が上手いわけではないと思うんです。
何が描いてあるかが誰にでも理解できると上手いわけではないと思うんです。

ピカソはおそらく、自分の眼を通して認知している外の世界を描いたのではなく、
自分の内側に浮かんでいる内部世界を描いたんじゃないでしょうか。

その世界に対して自分自身の中でリアリティを感じていた。
だからそれを絵に表現した。
その部自分の内部世界を見たり、感じたりしているままに
「リアル」に描けるかどうかには「絵の上手さ」が関係するとは思います。


現実に自分が目にしているような形に合わせて自分の内的世界のイメージを描くのは、
本来は難しい作業のような気もします。

内側にある世界はもっと様々な可能性を秘めているような気がするんです。

それを表現する時には「現実に近いようにする」という思い込みを捨てて、
なんとなく自分の内側にあるものを感じ取るように描いてみると、
抽象的ながらも自分の内部世界に近いものがアウトプットできるんじゃないでしょうか。

現実に近く描くことを意識すると制約がかかってきます。
現実に近いものとして「何が描いてあるか」が第三者に理解できるかどうかよりも
自分の内側にあるものを表現しようとする努力のほうが楽しいと思うんです。

その作業は言葉では表せないものです。
無意識を無意識のままアウトプットするような印象があります。

最初から人の内部の世界は他人には分からないんです。
それを「現実世界で目にする何が描いてあるか」という基準だけに照らし合わせて
表現しようとすると苦しい部分もあると思います。

自分の今の気持ちを抽象的に色の集まりとして表現してみるとか、
そういう絵の描き方をトレーニングすると楽しいと思うんですが…。
なかなか学校では教えてくれませんね。

もちろん、見たものを見たものに近く絵にする練習には意味があります。
自分の内側にある世界を、それに近い形で絵に表現する能力に通じますから。

どのような形であれ、自分の中のリアリティに近づくように
修正を加えながら絵を描いてみるというのが大事なのかもしれません。

そして、その練習は楽しさと苦しさの両方を味わえる充実した時間だと思います。

言葉で言い表せる内面というのは本来限られているわけです。
それを言葉以外の形で表現できたら幅が広がるじゃないですか。

また絵を描いてみたい気分です。

cozyharada at 23:16|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 全般
おしらせ
 ◆ セミナー情報 

日程確定

《心を調える実践会》

【日時】 2017年12月23日(土)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    304集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分

詳細は後日>>
次回は2018年の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



 ◆ お問い合わせ 
  技術向上、
  コンサルティング、
  スーパーバイズ、
  執筆・講演…

  諸々のお問い合わせはこちらへ>>



ホームページ
バナー1


プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
Archives
最近のコメント
QRコード
QRコード