2009年02月

2009年02月28日

名前の覚え方

セミナーをしていると新しい出会いが頻繁にあります。
大勢の人と知り合いになるわけです。

何百人も相手にする一方通行のセミナーであれば
受講している方の顔も名前も意識することが難しいでしょうが、
僕の場合は最大でも数十人なので、一人一人の個性が見えるんです。

2日間ぐらいのものであれば、20人ぐらいの名前は覚えるようにしています。
NLPの資格取得コースも長期間にわたりますので、名前を覚えるように努力をします。

もちろん、時間が経過して会わない期間が長くなれば
自然と思いだせなくなっていってしまいますが、一度は必ず覚えるんです。

いわゆる忘却曲線というのにマッチするように、
思い出さない期間が長くなると記憶が薄れていきやすいですし、
短期間に集中して会うと忘れにくくなるのも感じます。

偶然どこかで出会うかもしれないので覚えていたいと思っていますが、
なかなか難しいものです。


僕が人の顔と名前を覚えるときは、英単語を覚えるときのような感じに近いようです。
流石に紙に書いたり、単語帳のような名簿を作ったりはしませんが
意識的に覚えるプロセスを踏んでいるんです。

セミナー会場を歩きまわりながら、名札を見つつ名前を覚えていく。
「この人は、えーっと…」なんて思いながら、顔を見て名前がすぐに出るように
繰り返しチェックをしています。

単語帳の日本語を見て、英単語を書くという覚え方とソックリです。

よくテレビドラマやマンガなどで、学校の先生が生徒の名前を覚えるために
顔写真と名前と席順とを見比べているシーンがありますが、
僕の場合、そこまで苦労しなくても覚えられる気がします。

やっている作業は同じような印象ですが、内面で起きていることが違うんでしょう。

覚えにくい人の中には映像的な記憶の度合の強い人がいるようです。
名札の文字の形と文字の内容、顔や髪型、座っていた場所など、
見た目に関する情報の組み合わせで覚える意識が強い方法。

こういう人は、テレビで芸能人が違う役柄を演じたりすると混乱しやすいみたいです。
セミナーの場で言えば、座席が変わると途端に分からなくなってしまう。

一方、僕の知り合いで名前を覚えるのが得意な人は
音の印象を捉えている様子があります。

名前の響きやリズム、強弱、イントネーション…。
そうした音の印象を利用している。
名前を思いだせないときも音の雰囲気だけは思い出せるというケースです。

例えば、お笑い芸人で「エレキコミック」が思い出せないでいるときに
「えーっと、誰だっけ?…『あばれヌンチャク』じゃないしなぁ」
という感じで似たような音の名前が浮かぶわけです。
 (ちなみに『あばれヌンチャク』は『桜塚やっくん』がやっていたコンビですね)

音程とかアクセントの変化を捉えていることが自分でも分かります。

僕の発音の癖として、アクセントの置かれていない母音は弱く音を出す、
というのがあるようですので、母音がア段かエ段かの重要度は低いみたいです。

全ての母音をハッキリ発音するタイプは関西語圏の人に多いそうで、
「ネクタイ」の「ク」の音に「ウ」の母音が強く表れるような傾向のことです。
僕の場合は「ク」の部分で音を詰まらせるようにするだけで母音が弱いんです。

というわけで、文字数や音程、アクセントの位置が重要なんだと思います。

その観点から言うと、「すがわら、みやざわ、ふじわら、やまざわ…」といった名前は
「タラララ」という音が単調気味で似ているので、
僕にとっては割りと覚えにくい部類に入る印象があります。

「やまだ、たなか、すずき…」なども「タララ」というイントネーションが共通しますが
メジャーな名前なので比較的覚えやすい感じがします。

珍しい名前は一度覚えてしまえば忘れにくい特徴がある一方、
最初は覚えにくいというのも、音をベースにしているからだと考えられます。
響きは分かるけど、正確な発音が出てくるようになるまで時間がかかる。

お笑い芸人のコンビ名なども同様ですね。
音の特徴は覚えていても、変わった名前が多いので記憶までには少し時間がかかります。


イントネーションや音程の次ぐらいにくるのは母音の特徴よりも、子音の特徴です。

多くの人が間違えやすい名前に「岡本」と「岡村」があるみたいですが、
これも「タラララ」というイントネーションとリズム、音程が似ています。

「モト」と「ムラ」は結構違う母音なのに間違えやすいのは
1つにアクセントが「オカ」の「カ」にアクセントがあって尻つぼみになるからでしょう。

もう1つは「M」の子音としての発音だと思います。
「マ行」の唇を閉じて、音を飲み込み気味に発声する体の感覚の特徴。

それがアクセントの置かれている「カ」の後にくる。
「カ」自体も「K」の発音に一度息を止めてから強く吐き出す発声法がありますから
「oKAM」までに相当な特色が出ていると考えられます。

それをクリアすると、残りの部分に特徴を感じずらくなって
「オカモト」と「オカムラ」が一緒になってしまうんじゃないでしょうか。

「エレキコミック」と「あばれヌンチャク」の場合も、
僕の体の感じとしては「ッ」と「ン」の詰まる感じに似たものがあるようです。

子音で違いを感じやすいのは有声音か無声音か、という部分もある気がします。
「ザ行」や「ダ行」は有声音、「カ行」や「タ行」は無声音。

日本語は基本的に全ての50音に母音が含まれますから
有声音だとノドの奥のあたりで音を出す感じが長く継続されます。
「やまざわ」なんていう名前は発音中にずっと喉の響きの感覚が残るものです。

そういう喉の感覚が続きやすいのが日本語の特徴ですから
途中で「カ行」や「タ行」の無声音が入ると違いが生まれます。
なので「ナカダ」と「ナカタ」、「タマガワ」と「タマカワ」は全くの別物になります。

むしろ、他と差別化する意味でも、無声音の入っている名前のほうが覚えやすい。


それから、アクセントが置かれた母音の違いも影響があるように思えます。

「さとう、きよた、うつみ、えじり、こやま…」という名前は
一文字目にアクセントが置かれています。
こうした場合には母音の違いも気にしている印象があります。

(ちなみに「オ段」で一文字目にアクセントがある名前は少ないようで
 僕の中では度忘れしてしまいやすい部類に入ります)

一文字目の母音が「ア」と「オ」の場合と比べると
「イ」と「エ」は強く発声しながら、声が顔の上のほうで響く感じが出ます。
「ア」や「オ」は口の上あたりまでしか上がってきませんから違いが大きいんです。

「ウ」はまた、少し毛色が違います。
響きとしては飲み込む感じがありながら、強く押し出すような感じが必要です。

この辺の発音の仕方もポイントでしょう。


どうも僕の中では、まず
 ●音の響き、イントネーションやリズム、音程、アクセントなど
 ●子音や、アクセントの置かれた母音の発音に伴う体の感覚
の両方が名前を覚えるのに利用されているようです。

イントネーションや音程、アクセントのあたりは聞いている印象ですが、
発音したときの口や喉、声帯の使い方と、音の響く位置などの体の感覚も
同時に意識しているような気がします。

文字で書かれた名前があると覚えやすいですが、
それは文字の形を映像的にイメージするという意味合いよりも
文字を読み上げながら心の中で音を聞き、
発音したときの体の感覚を想像する意味が大きいように思えます。

正確な発音を思い出すためのキッカケとして利用するわけです。

ただし、文字の形や字面が強く印象に残るケースもあります。
その場合は特色を強める目的かもしれません。


これまでの部分は名前そのものを覚えるための内容ですが、
実際には名前を顔と一致させる必要があるわけです。

人数が多くなると覚えにくくなるのは、顔を覚えるのにも時間がかかるためでしょう。
実際、初対面で似た印象の人が複数いると混乱しやすいところがあります。

僕の中では、音の響きと発音の感じがセットになったものとして
「名前」という機能があるようですから、あとは
それと顔を一致させるように努力をする段階が必要になります。

ここが英単語を覚えるときの、日本語と英語の変換のような結びつけに近い。
顔を中心とする人間的特徴を「名前」という名称でラベルするプロセス。
ここが肝であって、意識的な関連付けを必要とする部分です。

これは勉強をしていて、新しい概念や考えを取り込んでいくときも同様です。
NLPでは英語がそのままのような言葉が沢山ありますが、
そうしたものを覚える時も体験に基づく意味に、名称でラベルをつける意識があります。

概念の内容と、名称というラベルは、同じ次元ではない印象があるんです。

「サブモダリティとは、五感に基づく〜」という具合に
文字情報同士で組み合わせて定義を理解することはしません。

体験的に意味を捉えた情報に対して、
音の響きと発音の体感覚で作られる名前のラベルを貼り付ける。
そんな感じです。

人の名前も同じなんでしょう。

人も僕にとっては体験です。
その人と関わった体験の量です。

顔の特徴。
声の特徴。
雰囲気。
人柄。
行動内容。
イベント。

その人に関連して僕が持っている体験情報量が多いほど特徴がハッキリしやすい。
そして、その特徴に対して「○○さん」というラベルを結びつけるわけです。

「顔と名前が一致しない」という言い方がありますが、
それは正確な言い回しではないように思います。

「相手に関連した体験と、その相手の名前が一致しない」が正確でしょう。

相手に関連した体験が顔しかなければ、それを覚えるのは大変だと思います。
写真にしてしまったら、なおさら情報量は減ります。
顔は動きのあるものですが、写真では特定の表情しか見れません。

僕は顔を見る場合でも、その人の表情を始めとして筋肉の動きを見ています。
そこには内面が反映されるからです。

初対面でも写真だけでも、よく使っている筋肉は表情に定着します。
その人らしさは顔の一面的な情報からも得られるわけです。

服装も歩き方も座り方も些細な振る舞いも全てはその人の特徴を表しています。
内面的特徴までも表しているものです。

そうした全ての特徴に対して、名前を当てはめて覚える。
どうやら僕の名前の覚え方は、そんな感じのようです。

共有する時間が長くなれば体験の量が増えますから、名前も覚えやすくなります。
人数が少ないほうが、同じ時間でも一人当たりの体験量が増えます。
多人数で短時間となると名前が覚えにくいのも当然でしょう。

名前を文字で見たときには誰のことか思い出せなかったのに、
逆に、顔を見た途端に名前が浮かんでくることもあります。
顔から、その人のまつわる体験が思い出され、
その体験の中で呼んでいた名前を思い出すというわけです。

名前が体験に対してラベル化されていることが実感できる場面です。


相手に対する情報が少ないと名前も覚えにくいんじゃないかと思います。
具体的な記憶をしておくのが苦手な人は、名前も覚えにくいかもしれません。

逆に詳細な情報ばかりを記憶し過ぎていて、
その人に関係する体験という分類をしないでいると
名前を覚えるのも大変かもしれません。

いずれにしろ、相手にまつわる体験を整理して記憶しておくから、
その人に対して名前というラベルを貼ることがしやすいんじゃないでしょうか。

時間が長くなれば名前は自然と覚えるものです。
体験の量が増えていきますから。

「なぜ、そんなに覚える必要があるんですか?」と聞かれたときに
自分の中では明確な答えがありませんでした。

「覚えたほうが良い」とも「覚えるのが普通だ」とも考えていません。

そういう意味では、特定の信念に基づいて
「名前を覚える」という行動をしているのではないわけです。
(こういうことがあるから『信念が行動を生み出す』という考えが嫌いなんですが…)

ただ、こうやって色々と整理をしてみていたら、1つの発想が浮かんできました。

僕は、出会った人を特定の個人として、一人だけの人間として、
一人一人見ていきたい気持ちがあるようです。

目の前のその人に対する興味・関心が、名前を覚えさせようとしているのかもしれません。

頑張って名前を覚えようと努力をするのは、
その人を大勢の普通の人から、特定の個人へと、
自分の認識を早く変えたいからのような気がします。

2009年02月26日

mixi はじめました

お誘いを受けまして、「mixi」というのを始めてみました。

良く分かりませんが、とりあえずブログを連動できるようだったので
そんな形に設定してあります。

何かに利用しようという意欲は特にありませんが、
今まで通りにブログを書くだけで良さそうなのでハードルが低かったんでしょう。

特に何かを期待するでもなく、気が向いたときにでも見てみるつもりです。

色々なコミュニティがあるんですね。
NLP関連だけでも沢山ありますし、さらにそこに関係するようなものも見てみると
随分と活動があるものだと感じます。

色々なセミナーや会合が行われているようでした。
SNSを通じて活動の場を広げている方もいるんでしょうね。


どれだけの人々が利用をしているのかは分かりませんが、
SNSも1つのメディアとして価値を高めているのだろうと思います。

情報化社会という言葉を聞かなくなるぐらいにインターネットが普及している現在。
こうした現状は、社会を情報化させようとして活動をした結果と考えるよりも
技術の発展が多くの一般的な人々に利用されることになった結果と考えるほうが
的確なような気がします。

大局から変えようとすると、個別の要素が反発することがあるものです。
身近な環境の変化が自然な流れの中で個々に影響を与えていくと
個々の集合体としての全体にまで自然な影響が起きる。

世の中の動きは、意外と自然な流れによって生み出されるものかもしれません。
その意味では、我々の身の回りの環境に大きな影響をもたらす技術が重要と言えそうです。

全体から変えようとすると無理が出やすいというのは
人間に関しても同じようなことが言えると思います。

「自分」という存在に大きく影響を及ぼすようなやり方は
それまで培ってきた自分自身を崩す可能性があります。
自分で自分を否定するような怖さを伴うものです。

自分の人生で役立ってきた個別の部分が、無意識のレベルで反発するわけです。
セルフイメージを変えるのが難しいのは、そういう理由でもあります。

エリクソンは、クライアントそのものを変えようとはしていなかったように思えます。
クライアントの環境を変え、小さな変化を起こすことで
クライアント全体に生じる影響を想定したのではないでしょうか。

「自分には生きている価値がない」と思っているクライアントに
催眠で「私は素晴らしい」と思いこませたとしても不協和が生じるだけです。

生きている価値がないと思ってしまうほどの人生を生きてきたわけです。
であれば、身近なところから変えていくように指示を与えて
生きている意味を感じられる経験をしてもらうほうが効果的だということです。


僕がmixiを始めることで、もしかすると少し環境が変わるかもしれません。
それによって僕自身という全体にも影響が出ないとも言えません。

実を言うと、以前にも別の関係で誘われたことがあったんです。
でも、そのときはやらなかった。

影響を考えていたつもりもありませんが、
なんとなく今回はやってみる気になったというのは
自分にとって意味のあることだろうと思います。

1つの行動を選択するにも意志があるわけです。
気乗りしなければ別の選択をするものです。

自分が何かをする気になった。
ちょっとだけでもやってみた。
それは、ヤル気さえ起きないという時とは全くの別物です。

以前とは何かが変わったから、なんとなく、やってみる気になったのでしょう。

mixiをやることで起きる影響を自然と求めているのか、
起きる影響が非常に小さいものになったから始める気になったのか、
何が起きたのかは分かりません。

ただ、何かが変わったから始める気になったのだろうと思うと
些細な気持ちにも自分自身という全体の変化を感じるんです。

2009年02月24日

3月の勉強会

3月の勉強会のお知らせ

以前から、人を見るときに基準として使っていたポイントがあります。
それは自分の中では根本的な性質ではないかと感じていた部分です。

詳しい内容は当日にお伝えしますが、
これは「性格」と呼ばれるものとは別です。

一般的に「性格」と呼ばれるのは、人の行動パターンの総称です。
その人が良く取る行動の傾向から「優しい」とか「積極的だ」とか言うわけです。

そのため、コミュニケーションという観点に立ったときには
相手の性格を把握できていても役に立たないことがあるんです。

「優しい人だと思っていたのに…。こんなヒドイ仕打ちをするなんて!」
「積極的なヤツだと評価していたのに!肝心なところで怖じ気つきやがって…」
そういうことが起きるのは、人を「性格」という全体像で理解したつもりになるからです。

相手は、その状況で本人にとって自然で当然な行動をしたに過ぎません。
人は状況ごとに決まったパターンを取るものです。
その状況での相手のパターンが、自分にとって気に入らないものだっただけ。

それを「あの人はこういう性格の人」と思い込んでしまっている。
そして、自分の中で「こういう性格の人は、こんな行動をするはず」と決めている。
だから相手の自然な行動が、自分の想像と違ってきてしまうのです。

「性格」という行動傾向に名称をつけたものを過大評価すると
相手そのものを見なくなってしまう側面が避けられないわけです。

よく耳にする「アイツとは性格が合わない」とか「性格の良い人が好き」とか、
そういった言葉は、相手の一部の行動パターンを見るところから生まれる気がします。

「性格が合わない」のではありません。
同じ状況で、自分と違った行動パターンを取る頻度が多いんです。
同じことに対して、自分と違った選択をすることが多い人なんです。

「性格が良い」というのは、
多くの人が期待する行動パターンを頻繁にとる人のことでしょう。
多くの人が嫌いな行動を滅多に取らない人なんでしょう。
一般論との照らし合わせなんです。

結果的に相手への印象を決定づけていくのは
自分と相手の間に感じる行動や選択のギャップだということです。


「性格」というのは、その人の行動パターンを見て、
その結果としての傾向に名称をつけたものです。
順番として、行動が先で、性格が後に決まるというのが重要です。

「優しい」から「お年寄りに席を譲る」のではありません。
「お年寄りに席を譲る」のを「優しい」行動だと呼ぶんです。

「積極的」だから「会議で自分の意見を一番に言う」のではありません。
「会議で自分の意見を一番に言う」人のことを「積極的」な人だと呼ぶんです。

であれば、その行動を生み出しやすくする元の特徴がないだろうか?
そういう発想が浮かんでくるんです。

これは相手を理解するための行為だと思います。

たまに「相手を理解するよりも、相手を大切にするほうが大事だ」なんて
一見すると良い話に思える言葉があったりしますが、現実は逆でしょう。
相手を大切にしようとした行為が裏目に出るからトラブルが起きるんです。
相手を理解していないから、大切にしたくても相手に伝わらないんです。

「その状況で相手が何をするか」という行動パターンを理解する。
もちろん、相手のために自分の行動を変えることが全てではありませんが、
相手を理解することで、人間関係において出来ることが増えるのは間違いないでしょう。

人の行動を生み出す元となっている受け取り方の特徴。
「状況に対して、このように反応する度合いが強いから、こんな行動をする」
という方向性で特徴づけをしたいわけです。


おそらく、その特徴は、普通に生きている限り滅多に変わらない部分でしょう。
意識的に行動パターンを変えるようにすることはあっても
根本的な反応の特徴には意識することさえないはずです。

自分自身の中で起きていることは、それが当たり前だと思うものです。
他人が自分と違う反応をしていることを想像することさえしないのが通常です。

それぐらい無意識的な反応の特徴を意識しようという試みなんです。


今回の勉強会では、そうしたタイプ分けのようなものを扱ってみます。
既存のタイプ分けとは違うつもりです。

結果として似てくるタイプもあるかもしれませんが、
根本の発想が違うということは理解して頂けると思っています。

分類の仕方にも名前がついていませんし、個別の特徴も呼び名が決まっていません。
ある部分では試行錯誤の途中とも言えるでしょう。

ご参加の方々のご意見を元に、議論が進む場面もあるかもしれません。
多くの方の感じ方を聞かせて頂きたいと考えています。

まずは、根本的な発想を説明します。
それから常日頃、自分が何を意識して人を見ているかというポイントと関連づけて
分類の仕方をこちらから解説します。

その後、皆さんで議論をしながら分類ごとの詳細な特徴を深める時間を取る予定です。
午前・午後いずれかのご参加も可能ですが、両方のご参加をお勧めします。

現時点では未完成の分類法を、ご参加の皆さんと共に発展させようという企画になります。
大げさな言い方をすれば、
 新しいものが生まれる場面に立ち会いませんか?
ということです。

興味のある方は是非、お越し下さい。


※最近は多くの方からお申し込みを頂いています。
 定員を設けていますので、ご注意ください。
 定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。




詳細は以下のとおりです。



※勉強会の趣旨に関しましては
勉強会070725 ( http://rikei.livedoor.biz/archives/50205495.html )をご覧下さい。


【勉強会の詳細】


【日時】 3月20日(金・祝)

     ◆午前の部 10:00〜13:00  ※普段と時間が違います。ご注意下さい。
     ◆午後の部 14:00〜16:30


     ★午前、午後いずれかのご参加も可能です。


【場所】 北とぴあ 802会議室
    (JR京浜東北線・王子駅 北口より徒歩2分)
    (東京メトロ南北線・王子駅 5番出口直結)


【参加費】当日、会場にてお支払いください。
     
     ◆午前の部 ・・・5,000円
     ◆午後の部 ・・・3,000円  ※意見交換の時間も予定しています

     ★午前・午後両方ご参加の場合 ・・・7,000円

    
    
テーマ: 『反応特性分類(仮称)』
      ★意見交換・質疑応答の時間が多いと予想されます。
       普段の勉強会とは違った形式になる可能性をご了承ください。


*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
 学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
 ご了承ください。



世の中には沢山のタイプ分けの理論が存在しています。

古くはユングのタイプ分けから、現在のアメリカでは
100以上の項目で性格をプロファイリングする方法もあるようです。

手相やカードリーディングなどの対面式の占いの類には
タイプ分けとは違った意味があると個人的に考えていますが、
世間一般で人気のある「〜占い」というものの多くはタイプ分けの一種でしょう。

血液型や誕生日などと性格を結び付けるものもあります。

NLPでも「メタプログラム」という呼び方で人のタイプ分けをする場合がありますが、
今回の勉強会で扱うのは、そうしたタイプ分けとは違うつもりです。

むしろ、能力や素質に近い部分があります。

性格と呼ばれるものだと、自分の性格に合わない行動は「したくない」ものです。
「優しい」性格の人は、人に冷たく接することを心苦しく感じるわけです。
そうすることも頑張ればできるけど、したくないものなんです。

今回扱う分類が、能力や素質に近いと言ったのは
「そのように受け取ろう、反応しよう」としても難しいからです。
「やろうとしても、できない」という感じに近いんです。

自分と違う人は不思議にさえ感じられます。
それぐらい変えにくい特徴だということです。

この特徴も意識していくことで少しずつ変えていけるようです。
それこそがコミュニケーションのトレーニングで重要な部分に感じます。

とはいえ、具体的なことを聞かないままに全体像の説明だけしても
何を言いたいのかは分かりにくいものかもしれません。

今までとは違った人の見方に興味のある方とも議論が交わせれば幸いです。

けっこう面白い内容だと思いますよ。


参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)


終了しました

トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。


是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。

今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。

いずれの回からのご参加でも、初めて起こしになるときはお試し価格を適用いたします。
その旨をお伝えください。


また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。


【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。


勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。

その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。

また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。

調査して勉強会にあたります。



それでは当日お会いできることを楽しみにしています

cozyharada at 16:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!セミナー情報 | NLP

2009年02月22日

新しいこと

人は自分の知らないことを認識することさえできない。
このことは重要で本質的なことだと思います。
自分は何かを分かっているつもりでも、分かっていないことが多いはずです。

何かを勉強するにしても、誰かのことを理解しようとするにしても、
自分がそのことを分かれる部分は、自分が知っている部分だけなんです。

自分が知らないことには気づくことさえできません。

本の中に素晴らしいことが書いてあっても、
誰かが非常に大切なことを言っていても、
相手が心をこめた配慮をしてくれていても、
自分が知らないことには気づけないんです。

こういうことは久しぶりに本を読んだりすると意識できると思います。
「あぁ、この本にもこんなことが書いてあったんだ」
と、読みなおすたびに違う学びが得られたりする。

中には、自分が気づいた考えやアイデアを喜んでいるときに
数年前に読んだ本を読み返したら、同じことが書いてあったりすることもあります。

これが、本から学んでいたから意識に上がったのか、
時間をかけて同じ場所に行きついたのかは分かりませんが、
少なくとも数年前に読んだときには理解できていなかったというのは確実でしょう。

自分の知らないことを表している人ほど、自分にとって重要な存在だろうということです。


知らないことには気づけない。
とはいえ、新しく何かを学ぶというケースがあるわけです。
新しく何かを伝える仕事というのも世の中には沢山あります。

そこで考えられる方法は大きく2つ。

本人が知っている情報と関連付けて理解する、という方法。
新しい学びを体験した後に、それを意識的に整理する、という方法。

体験と意識的整理を組み合わせる場合でも、
本人の中の関連情報と結びつければ理解の幅が広がり、応用力もつくでしょう。

世の中の多くの勉強や授業は、聴き手が知っている情報と関連付けながら
学ぶべき内容を伝えていく形式を取っています。
前にならった内容に付け加えて進むような印象。

ところが、この形式は地味なんです。
学校の授業や塾を連想させます。
ですが、上手く本人の知っていることと関連付けられれば
理解は順調に進んでいくと考えられます。

一方、多くのセミナーや講演は、それと少し違った形をとるようです。

会社の研修などでやってくる実直な講演だったりすると
聞き手が知っている情報を関連付ける形の地味な内容もあったりしますが、
こういうのは聞いている側からすると面白味が少ないわけです。

なんとなく分かっているようなつもりの話が進んでいきますし、
「言われればそうだけど、整理の仕方を変えただけ」のような印象が出てきます。

しかし、人気のあるセミナーや講演は面白いんです。

その面白さにも色々あると思いますが、一般的に言えば
聞いていて面白い話というのは「心を揺さぶられる」話です。
具体的なエピソードの面白さに酔うんです。

内容は一般的で、聴き手の誰もが共感できる形であっても
話の熱の入れ方や余談の使い分けなどで面白さを出す人もいるでしょうが、
人気のある人は内容レベルで心を揺さぶるケースが多いように思います。

新しく学ぶべき話の内容を伝えるために、エピソードを使うんです。
具体的で、感情を伴ったエピソード。
聞き手の誰もが想像力をかき立てられ、その世界に入り込んでしまうような内容です。
ドラマチックなんです。

実例の範囲を超えないで話される内容ながら、インパクトが大きいエピソードを話す。
有名な物語や、偉人・有名人の逸話を使って結論を補足する。

伝えている内容に関連する具体的な話が興味深いわけです。

日常的ではなく、ドラマチックで、感動的な話。
予想外の展開などあれば、なお心が動かされます。

こういう話をすると人気が出るようです。

それも当然でしょう。
退屈しないし、名作映画を見たような感動さえ得られます。
「良い話を聞いたなぁ」と思えます。

こうした心の動きの大きさは、人に影響を及ぼします。
深く印象に残るんです。

ドラマチックなエピソードを語る場合、聴き手側はその内容を想像しながら
映画の世界に入り込むように仮想体験をすることになります。

自分が今まで経験したことがなかった体験を、
想像力を利用して仮想的に体験しているんです。
そこに感動のような心の動きがあれば、なおさら体験としての意味合いが強まります。

そして、その体験から得られる意味を、話し手が結論として伝える。
すると聞き手は新しい考えを自分の中に生み出せるわけです。

これは言ってみれば、新しい体験をしてもらってから
そこに意識で整理をしていく方法に近い部分がある、ということになります。


ただ、弱点もあるように思えます。

それは、仮想体験があまりにドラマチック過ぎて、
自分の実生活と関連づけるのが難しい、という問題です。

せっかく素晴らしいことを学んだのに、日常生活という場面に戻った途端に
そのことが使えなくなってしまう可能性があるんです。

学んだことを日常で実践しようと頑張る人には効果もあるでしょう。

日常の全ての場面で
「これは、前に教わった考え方をすると、こういうことだな」
と意識できれば、学んだ内容を自らの生活に落とし込めます。

もっとも、現実的には全ての時間で意識することはできないので、
自分が気づいたタイミングで学びの内容を活かそうとするわけです。

実は、ここにも落とし穴があります。

自然と気づいたタイミングで学びを活かせるのであれば、
それは学んでいた時点から関連付けられていた状況だったに過ぎないんです。

良い話を聞いたときに、頭の中で自分の置かれている状況と照らし合わせる。
「今の話は、会社のあの人との関係にも当てはまるなぁ」
というような発想を知らず知らずのうちにやっていたはずです。
だから、その場面で学んだことが頭に浮かぶ。

浮かんでこない状況でも、学びが活かせる可能性はあるのに
普通に生活をしていたら意識をしなくなってしまうんです。

どんなに良い話を聞いても、それを活かせる場面が限られてしまうということです。

場合によっては、そもそも学んだことを意識して生活しようとしない人もいます。
そういうときには、ただ「良い話を聞いた」ということしか残りません。
「あの映画は名作だね」と言っているのと同じです。

映画を見るのが好きな人がいるように、良い話を聞くのが好きな人もいるでしょう。
僕自身もそういうところがありますから、良い話を読むのも聞くのも楽しんでいます。
それは「好きだから」ということです。

聞いたことを自分に活かすには、自分の置かれている状況と関連づけて
学びを積極的に意識する必要があるはずです。


自分が知らなかったことを学んでいくためには
自分が積極的に体験を重ねるのが大切なように思います。

説明のためのエピソードや具体的な事例がドラマチックだと
話の内容に対して印象が残りやすいものです。

新しい考えを具体例と結びつけて理解しやすいんです。

だから多くの人は「分かりやすい説明だ」と感じます。

しかし、それは違うと思います。

「分かりやすかった」のは、その考えを、事例と結びつけるのが簡単だったに過ぎません。
聞き手自身の日常生活に結びつけることは簡単ではないんです。

役立つ形にしたければ、自分で日常の事例に結びつける必要があると思います。

2009年02月20日

ヤル気が出ないとき

ヤル気が出ないときは誰にでもあると思います。
そこでヤル気を出すための方法が求められるわけです。

上司として部下のヤル気を引き出す。
自分自身の目標に向けてヤル気を上げる。

組織の中で仕事をしていても、独立して一人で仕事をしていても、
仕事が仕事として成立するためには、仕事に対して対価を支払う相手がいるわけで、
その意味において100%自分の好きなようにするのは難しいものでしょう。

もちろん、中には一切の不満を感じることなく、やりたいことだけをやって
仕事として成立している人もいるかもしれません。
でも、多くの人の仕事には「しなければならない」ことがあるものです。

それは「やりたい」ことと違います。
それをするために「ヤル気」を起こさなければいけません。

好きで、充実していて、楽しくて仕方ないことであれば
それをするためにヤル気を引き出す必要はないでしょう。
努力している自覚すらないままに、自然と行動を起こしているはずです。


僕は中学、高校ぐらいまで、勉強は「しなければいけない」ものでした。
「やらないと困ることになる」という発想から試験勉強をしていました。

授業は一応聞いていたような記憶もありますが、今にして振り返ってみれば
内容を理解する時間は中間テスト、期末テスト前の勉強期間だったようです。
テスト勉強を通じて、初めて理解と記憶をしていた気がします。

当時の僕にとって、中間テストと期末テストは嫌なイベントでしたが、
あれが無かったら僕は先の内容が理解できなくなっていたと思います。

歴史や地理、古文や漢文などは一夜漬けでしたし、
自覚としても楽しくなかったので、「一応やっておかなくては」という勉強でした。

一方、物理や化学、生物などは「やってもいい」勉強で、
内容が分かることや、新しいことを理解するのが楽しくもありました。
それでも試験前の勉強は「しなくてはいけない」気持ちでしたが。

数学や英語は、本当に「やらなくてはいけない」勉強だったように思います。
何か強迫的な印象さえありました。
やらない状態が怖く感じられていて、できない不安から逃れるようにして
テスト前になると机に向かっていたものです。

それが大学に入るとスタンスが変わります。
数学を完全に諦めました。
出来ない、分からない。
でも仕方ない。

物理の一部もそうだったかもしれません。

英語は必要性を感じていたので、まだ「できなくてはいけない」科目でした。

僕は応用化学科だったので、化学に関する科目は沢山ありましたが、
どれも楽しんでやっていたと思います。
少なくとも嫌な気持ちはなかったはずです。

そして学年が進み、化学系の専門科目が増えるにつれて
僕の中で、テスト勉強をする時間が短くなっていった記憶があります。
ようやく日々が勉強になったんでしょう。
テスト前に勉強しなくても、少しずつ定着するようになっていたようです。

研究室に配属になって、大学院に進む頃にはテスト勉強もなくなりました。
日々の積み重ねが当然になってきた時期です。
お盆休みも、ゴールデンウィークも、正月休みも関係なく
研究室で作業をすることが当たり前になっていたんです。

ヤル気が必要だったのは、論文を書くときぐらいでした。


そうして振り返ってみると、僕がヤル気を出していたのは
高校時代がピークだったんじゃないかと思います。

高校受験の時も頑張っていた記憶はありますが、
こちらは親から刷り込まれてきたものに従っていたような気がします。

受験に備えて塾で勉強する。
夏期講習だ、正月特訓だ、と塾が企画してくれたから黙って参加していただけ。
「これをやりなさい」と言われたから、何も考えずに課題を解いていただけでした。

それが高校になると、少し自分の意志が出てきます。
塾に通わなくなったので、自分で勉強しなければいけなかった。
できないことに対する不安と恐怖。
進学のために必要な成績。
そうしたことのために、ヤル気を出して勉強していたつもりです。

その後は、徐々にヤル気という意識がなくなっていきました。
やるのが当然で、興味があるからやる。
努力をしているつもりなく、行動だけは重ねていたようです。


会社に入ってからヤル気を必要としていたのは論文を読むことぐらいでした。
これは好きな作業ではなかったので、頑張っている意識があったんです。

でも、そのころから心理や自己啓発に興味があったので
心理系の本やビジネス書を読むことは趣味のようになっていました。
それは努力ではなかったわけです。

そして週末にセミナーへ参加するようになり、読む本の量も増えました。
それもやはり、ヤル気が必要な作業ではありませんでした。
楽しいから勉強していた、ただそれだけです。

今も本を読み、勉強をし、人を観察して、頭の中で色々と考えることをしますが、
どれも頑張ってやっていることではありませんし、努力をしているつもりもありません。
ヤル気を出さないと出来ない内容ではないんです。

ただ、脳内で何が起きているかと言われれば、
それはドーパミンなどもヤル気に関わる生理活性物質が出ていると思います。
ヤル気がない状態とは違うでしょう。
でも、ヤル気に燃える感じとも全く別物なんです。


「やらなくてはいけない」ことがあるのに、ヤル気が出ない。
達成したい目標があるのに、ヤル気が出ない。

そういう状況に対してモチベーションを上げる方法が色々と紹介されています。

でもそれは、ある意味で「やりたくない」ことなのではないでしょうか。
「やりたい」ことだったら、ヤル気がどうとか考えないような気もします。

もちろん、世の中には「やらなくてはいけない」こともあります。
「やりたい」ことのために、「やらなくてはいけない」こともするわけです。

そのときに、ヤル気が必要なのは当然でしょう。
そのためにヤル気をコントロールする技術は役立ちます。

しかし、頑張ってヤル気を出してまで「達成しなくてはいけない」目標とは
一体何なのだろうかと思います。
それは達成したい目標なんだろうか、
誰のための目標なんだろうか、と思ってしまいます。

難しいのは、自分が本当にしたい目標を見つけることではないでしょうか。
それさえ見つかれば「ヤル気が出ない」と苦しむこともなくなるかもしれません。

僕には、どうしてもヤル気の出ないことがあります。
それは単純に「やりたくない」ことなんだろうと思います。

そういうものがあるのも悪くないでしょう。
世の中には、きっとそれが「やりたい」と思える人もいるでしょうから。

2009年02月18日

おの

喩え話(メタファー)は聞き手・読み手に気づきをもたらします。

そこには暗黙に語られるバックグラウンドがあり、
それを前提としたプロセスが読み取られる。
その結果、読みとったプロセスを自分の人生の一部と照らし合わせ、
1つの結論が生まれるわけです。

それは、あらゆるストーリーに対して起きることです。
そして同じストーリーに対しても受け取り方は人それぞれ違う。
ここも重要なところ。

メタファーを多用していたことでも有名なミルトン・エリクソンですが、
エリクソンの上手さは相手の個性に合わせて、
意図した通りのメッセージを相手が受け取るように話を選べたところにもあるでしょう。

僕の推測ですが、エリクソンは話好きだったんだと思います。
かなり教育者的な雰囲気を感じます。
エリクソンの積極的介入という姿勢は教育的スタンスとも言えると思うんです。

エリクソンの語るメタファーは、相手の無意識に対する教育だったんじゃないでしょうか。
無意識に分かりやすく話して教えていたということです。

夜尿症の子供に対するキャッチボールの話などが有名ですが、これもそうでしょう。

キャッチボールの話を「ボールが順番に渡され、受け取られていく」という
メッセージと捉え、「尿意が正しく伝達される」ことのメタファーと考える説もあります。

ですが、僕としてはもっとストレートに
「キャッチボールするときには微妙な筋肉のコントロールを上手にできる」
ということを無意識に教えているんだ、という説のほうに信頼性を感じます。

「飛んでくるボールという視覚の入力情報に合わせて
 絶妙に全身の筋肉をコントロールできる能力があれば、
 尿をコントロールする筋肉も上手に使えるはずですよ」
というメッセージを伝えているんだということです。

『あなたに必要な能力は、別の場面で、あなたの無意識が自然と使っているんです。
 その能力を問題の場面で使えば良いだけですよ』
そういうことを無意識に分かりやすく説明していたと考えるわけです。

その意味では、エリクソンは伝えたい主張に対する実例を
『無意識には』分かりやすい形で伝えていたのではないかと考えられます。

ただ、一般人の『意識には』何の説明か分かりにくかった。
だから意味深いメタファーだったと解釈されたケースもあったと思うんです。


世間一般にメタファーと呼ばれるものには、より気づきを重視するスタンスを感じます。
関係ないエピソードから聞き手が勝手に自分なりの意味を解釈して
意識的に気づきを得ることを期待している印象があります。

直接的に伝えると反発されることもあるから、
間接的に伝えて気づいてもらうのを期待するという形。

そこでは何に気づき、何を受け取るかが、完全に
聞き手に依存しているという特徴があります。

気づく人は気づくし、気づかない人は気づかない。
気づく内容も、気づける内容だけ。
気づきを得られるだけの経験がベースに無ければ、違う方向へ行ってしまう。

時には、聞き手にとって当たり前に分かり切ってしまっている主張しか
受け取りようのないメタファーとなってしまい、反感を買うことさえあります。
「そんなこと分かってるよ。回りくどく言うなよ」と。

個人的には、何かを「気づかせよう」としてメタファーを使うのは好きではありません。
何かのエピソードが勝手にメタファーとして機能して気づくのに役立った、
というケースのほうが好きなようです。

そういう意味で言うと、世の中はメタファーに溢れていると思います。
気づく人から見れば、道端に落ちているゴミさえメタファーになるわけです。


ただ、話をする側からすると日常的な話よりも、
日常を離れた昔話や有名人のエピソードなどのほうが面白そうな気がするものです。
興味を引かれやすい。

そんな昔話が沢山載っている本があります。
メタファーを気づかせる形で使っている逸話が沢山盛り込まれている本です。
寓話セラピー―目からウロコの51話
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少年が、あるセラピストのところに通うストーリー。
いつもセラピストはメタファーとして物語を話しますが、
大抵の場合、少年はそれに納得できないという展開が興味深い。

作者がどの程度まで意図して書いているのかは分かりませんが、
気づかせようとして反発する少年が、徐々に変わっていく様子が描かれます。

まぁ、正直なところ僕にはピンとこない物語が多いですが、
象徴的なエピソードを知りたい方には丁度いい本なのかもしれません。


その中に「頑張る木こり」という話が載っています。
少し要約すると、こんな話。

 昔々、一人の木こりが材木屋に就職した。

 初日、親方は斧を一本手渡して、森の一角を彼に担当させた。
 男はヤル気満々で出かけ、一日で18本の木を切り倒した。

 翌日はもっと頑張ろうと朝早くに出発した。
 しかし、その日は努力の甲斐もなく、15本しか切れなかった。

 次の日は夜明けとともに、18本の記録越えを目指して出発したが
 結局その半分の木も切れなかった。

 次の日は7本、その次の日は5本、最後には2本も切れなくなっていた。

 木こりは正直に親方へ報告した。
 すると親方は尋ねた。

 「最後に斧を研いだのはいつだ?」

 「斧を研ぐ?研いでいる時間はありませんでした。木を切るのに精一杯です。」

この話から受け取れるメッセージは、どのようなことでしょうか。
斧とは一体何を示すのでしょうか。

道具は常に使えるようにブラッシュアップする必要がある、という見方もあるでしょう。
道具をメンテナンスする必要がある、という見方もあるでしょう。

受け取り方は人それぞれだということです。

2009年02月16日

小さな情報

テレビや本には分かりやすい情報が多いように思います。
分かりやすい形にまとめられているのでしょう。

分かりやすく情報を得ることが出来るのは便利な反面、
時に過剰な期待を伴った解釈がなされてしまうこともあるようです。

特に、科学的な話になってくると分かりやすいものほど
信憑性が下がってしまうのは仕方のないところ。

実験結果や論文発表は1つの結果ですが、そこから導かれる結論は少ないものです。
にも関わらず、その結論を発展させた推論や可能性に過ぎない話が
あたかも事実であるかのように伝えられてしまう。

最近の脳に関する話題の多くは、かなり胡散臭い印象があります。
読みやすい本であっても、根拠の有り・無しを明確に記しているものもありますが、
圧倒的に少数派というのが現状のように思えます。

以前に習っていたネイティブの英会話の先生との話の中で、
「英語では『右脳』や『左脳』という言い方は聞いたことがない」
ということを聞いたことがあります。

インターネットで「right brain」と検索すると相当数のページが見つかりますが、
日本人が一般的に右脳・左脳という言葉で連想できる情報ほどには、
欧米では知られていないのかもしれません。

どうも日本人は対極的に語られたタイプ分けが好きな気がします。


大枠の理論の話になると、分かりやすく語られ過ぎているものに関しては
信憑性の点で不安を感じる部分がありますから僕は鵜呑みにしませんが、
細かい情報の中には面白いものも結構あります。

思わず「へぇ〜」というようなもの。
知ると少し得をした気分になりますね。

そういえば、僕はずっと豆知識が好きでした。
割りとクイズ番組なんかも好きでしたし。

「トリビアの泉」や「ウンチク王」に人気があった時期は
若干ながら寂しい気持ちもありました。

僕の中では以前から知っていた豆知識が、テレビで大々的に放送されてしまう。
「あぁ、それ、この間『トリビア』でやってたね」なんて…。
そんなことが残念だった時期もありました。


ちなみに、最近だと一番の驚きは
「『無意識』という日本語を作ったのは夏目漱石」
という話。

夏目漱石が相当な数の新しい日本語を訳語として作ったということは聞いていましたが
『無意識』という言葉もそうだったというのは、
結構な大きさの声で「へぇ〜」と口走ってしまう内容でした。

自分にとって馴染みのある重要な言葉だからこそかもしれません。

あとは、
「食後に眠くなるのは、『消化のため胃に血流が集まって
 脳の血流が悪くなるから』という話は迷信」
だということ。

それっぽく聞こえる話ですが、実際にそんなことはないようです。

眠くなる実態は、
「食事の結果として急激に血糖値が上がって、高血糖により昏睡状態になるため」
なんだそうです。

言われてみれば納得の話。

糖尿病の人が高血糖になり過ぎると昏睡状態に陥ってしまうことを考えれば、
食後に血糖値が上がって昏睡に近くなるという話は理にかなっています。

ということは、血糖値が上がりにくい食事をすれば、
食後も眠くなりにくいという可能性が考えられます。

血糖値は急激に上げたり下げたりしないように、
ある程度の状態を維持するのが健康面でも作業面でも良いのかもしれません。

すると、糖の吸収を抑える特定保健用食品が、食後の眠気に効果があったりして。
「グルコケア」「蕃爽麗茶」「健茶王」「食事と一緒に十六茶」あたりでしょうか。

ちょっと試してみようと思います。

2009年02月14日

自分勝手に

人それぞれ、配慮の形というものがある。

相手に対する気遣いや、自分のスタイルに対する思い入れ。
対象も、その方法も、色々と違います。

それは生きてきた背景が違うのだから当然でしょう。
一番うまく乗り切れる方法を身につけてきただけのことです。

自分にとって最も適切な方法を自然に選びながら、
日々のコミュニケーションを行っているわけです。

ただ、相手の自然な方法と、自分の自然な方法が違うだけ。


それでも自分の中には、自分にとって自然な形に対しての期待があるものです。
相手はこういう対応をするだろう、と自分の形を期待するものです。

自分にとって自然な形で100%対応してくれる他人はいないのです。

相手の対応を勝手に自分なりに受け止めて、自分勝手に反応する。
相手の想いなど無視してしまって、自分勝手に不愉快になるわけです。

相手がどういう気持ちであったかとは無関係に、
相手の対応に対して自分がどのように感じたかが中心になります。

自分の今までの人生では、ネガティブなメッセージとして受け取ってきたもの。
相手の対応が、たまたまそのネガティブな癖に当てはまってしまっただけ。
自分の受け止め方の癖に、偶然にも当てはまってしまったんです。

出会い頭の接触事故のようなものです。
急に飛び出してきておいて、「ぶつけられた」と言って不愉快になる。

もちろん事故と同じように、ぶつけた側に悪意があることもあります。
多くの人にとって不快と受け取られるような対応もあるでしょう。

しかし、コミュニケーションの大半で起きているのは
自分の受け止め方の癖のせいで不満になるケースだと思います。


相手の気持ちはお構いなし。
自分勝手に受け止めて、自分勝手に傷ついて。
そして、復讐に転じる。

復習のメッセージにはネガティブな感情が込められていますから
大半の人に対して共通するネガティブなメッセージが伝えられます。

それを相手が受け取って、不快な感じになる。
そして逆襲。

そんなことを繰り返していたら、なかなか物事は良い方向に進まないでしょう。

キッカケは傷ついたところにあります。
相手の意図は別にして、自分が不愉快になったところがキッカケです。

他人は自分の思い通りの対応はしてくれません。
たまたま自分の期待した通りの対応をしてくれることがあっても、
それは自分にとって当たり前のことなので意識さえしない。

本当は相手が自分を理解しようと頑張って
自分に合わせた対応をしてくれているのかもしれないのに、
思い通りの対応の時には意識にさえ上がらないことが多いんです。
当たり前に感じているわけですから。

ところが、自分の癖の中で望んでいない対応方法を相手がしたときには
不満という形で意識に上がってきます。
傷つくんです。

そんなことは日常、ザラにあるはずです。
いちいち不満を表現していたらキリがないはずです。

重要なのは「その関係性に何を望むか」ということ。

新幹線の中でウルサイ人たちがいると、僕は不満になります。
その人たちと良い関係を作るつもりもなければ、
二度と出会いたいとも思わないので、僕の選択は不満を解消する方向へ進みます。

直接相手に伝えることもあります。
ですが、相手が勝手に「傷ついた」と復讐に転じてくることも
可能性として考えられますから、多くの場合、直接は言いません。

かと言って、ウルサイ状態で不満を抱えたまま長時間を過ごすのも嫌です。
なので、席の移動を選択するわけです。

一方、何度も顔を合わせる関係性であれば、今後の関係を考えて
相手の対応に対する不満を表現しないように我慢することもあります。

自分勝手に傷つく必要はないということです。

代わりに、相手が自分の望むものと近い対応になってくれるように
自分の意志の伝え方を工夫します。

勝手な推測で傷つくぐらいなら、言葉にして確認すればいいんです。
質問するなり、言い方を変えるなりすればいいんです。

その選択権があるのは、最初に傷つく自分のほう。
相手の対応に対して自分勝手に傷ついた時こそ、自分に選択権があるんです。

傷つけられたと復讐するか。
自分の受け取り方の癖に気づき、その場で対応を変えるか。

二度と相手が自分を傷つけないように、相手に注意を与えたり
対応を改善を期待しても、それは普通なかなか上手くいきません。

相手は相手で、無意識のうちに培ってきた方法を出しているに過ぎないんです。
自分が無意識に培ってきた方法で傷ついているのと同じように。

自分が不満に感じるパターンを相手に伝えておいて、
そうしないように気をつけてくれと頼むのも有効な手段ではありますが、
相手がそれを意識して対応できるかどうかは分かりません。

頑張っても失敗することだってあるでしょうし、
自分の期待していることを理解できない場合だってあるでしょう。
聞いたことを忘れる場合だってあります。

であれば、自分が傷ついたときにこそ、自分の受け取り方の癖に目を向け、
その場で自分の対応を変えるほうが賢明だと思います。

自分を傷つけた相手の対応。
それを相手がすることになった元の自分の発言を
別の形で表現できるように工夫するということです。

傷ついていない側は、ミス・コミュニケーションが起きたことに気づけていません。
傷ついた側しか気づけないんです。

傷ついた時こそ、自分が対応を工夫する権利を持っているんです。

2009年02月12日

かたより

あらゆることに良い面と悪い面がある。

言葉で書かれると、それは当たり前のことに思えるかもしれません。
でも、そのことを具体的な実際の場面で意識するかというと、
それは別になってしまうことが多いような気がします。


心理療法の世界では「教育セラピー」というような言い方で
先生から実際に心理療法を受けながら実地訓練をする方法があります。
フロイドの精神分析のころから続く伝統的なやり方です。

僕もそういう教育セラピーに当たるものを受けたり、
心理療法やカウンセリングの体験をしてきていますが、
その経験においても苦々しい思いをしたことが何度もあります。

まぁ、僕の好みに合わなかっただけとも言えますが。

僕が苦い思いをしたのは、先生からリフレーミングに関してです。
実際に自分の抱えている課題にアプローチするわけですから本心を話します。
悩み事を言うわけです。

すると、それに対して肯定的な見方で言い換えられてしまう。
リフレーミングされるわけです。

リフレーミングは重要な技法ですし、それによって楽になれることが沢山あります。
僕自身もリフレーミングの言葉を言うことは頻繁にあります。
しかし、状況というものがある。

その先生は僕が何かを言うと、すぐにその場でリフレーミングするんです。
何かを言えばリフレーミング、そんな印象すら残っています。

「えーっと、最近××なんです」
 ―「それは○○ということでもありますよね」
「ええ、まぁ、そうなんですけど…、でも××かなぁ、と」
 ―「それは、こういうこともありますよね、○○○○〜」

そんな繰り返し。
体験談や、メタファーを使いながらリフレーミングが繰り返されます。

その先生は常日頃から辛い悩みを持ったクライアントを相手にしていますし、
教育という観点からも、そうしたクライアントに対する接し方を
僕に対しても同様に示すことで教えてくれていたのかもしれません。

とは言え、実際に僕が良い気持ちがしなかったことに変わりはありません。

僕が言っていた悩みも当然リフレーミングできるものです。
良い面があって、それによって良かったことがあったのも分かっていました。
でも、リフレーミングが気持ちの上で受け入れられない。

 かつては役に立っていたものが、今は受け入れられない。
 今現在も役に立っている側面があるが、それを変えていきたい。

そういう気持ちがあるときには、リフレーミングは受け入れられにくいものです。
少なくとも、第一声を聞いて、それに対してすぐにリフレーミングするような方法では
なかなか受け入れられるものではないと思います。

良い面と悪い面が両方あるのは分かっている。
それでも、その先の目指すもののために変わっていきたい。
そういう意志がある場合には、リフレーミングの方向性が変わるはずです。

「そのことは必要な要素であることも分かっているけれども
 それでも変わっていきたいという気持ちがあるんですね」
と、変化への意思を明確にする方向です。


逆に、目標思考が過度になっている人にも出会います。
とにかく目標のことばかり考えている。
場合によっては「問題について考えるようなネガティブなことはしたくない」と。

問題が気にならないくらい充実しているならともかく
問題を考えるとネガティブな気持ちになるから意識したくないというのは
偏っているような気がします。

目標に向かう気持ちがあるのは素晴らしいことですが、
目標に対する現状分析をしないのは賢明ではないでしょう。
現状を冷静に捉えれば、目標に辿り着くのに問題となることもあると気づけるはずです。

「目標と問題は視点が違うだけで同じもの」
その考えは正確ではないと思います。
視点が違うことで、双方に対する理解の量が違っています。

目標思考の人は現状分析の量が少ないんです。
問題思考の人は目標に対するイメージ量や意欲の量が少ないんです。

リフレーミングという観点で言えば、目標さえリフレーミングできます。
その目標は達成しないほうが良いですよ、という方向に考えを持っていけるわけです。

悩みのある人に対して
「その悩みには良い面もありますよ。今のままでも大丈夫ですよ」
とリフレーミングするのに、
目標のある人に対して
「その目標を達成してしまったら悪い面もありますよ。今のままでも大丈夫ですよ」
とリフレーミングする人は少ない。

前提に「目標は良いこと、悩み・問題は悪いこと」という考えがあるんです。
そこをまずリフレーミングする必要がある。

「自分の人生において何をするか」と向き合うのは素晴らしいことだ、と。


つまり、バランスが重要だということです。

問題志向が強過ぎれば、悩みに入り込み、苦しみから抜けられなくなります。
目標志向が強過ぎれば、必死さが出てきて、窮屈になります。
窮屈さが感じられていれば良いですが、それすら感じられずに
エネルギーを出し続け、燃え尽きてしまう可能性もあるわけです。

リフレーミングとはバランスを取るための作業と言っても良いかもしれません。

偏りが苦しさを生むんです。
偏っているから不安定なんです。
偏りを調整するのがリフレーミングということです。

悩みも目標も単独で存在しているわけではありません。
本人の気持ちの中で様々なことと関連して意味を持っているわけです。

何のために、それが悩みになっているのか。
なぜ、それが目標になっているのか。
その人の目指す抽象度の高い方向性があります。

それを踏まえた上で、その人の偏りを整える。

そこには少なからず教育的な配慮が含まれます。
人間一般というバランスを元にした視点からの教育的メッセージです。

心理療法家が使っていたリフレーミングの技術には
専門家の視点から見た教育的配慮が含まれていたはずなんです。

そこから「見方を変える」という表面的な部分が技術として抜き出されてしまった。

なんでもかんでもポジティブに考えるのがリフレーミングではありません。
ポジティブ過ぎるのも偏っているんです。

偏りに気づくのがリフレーミングのコツと言えるかもしれません。

そのためには自分自身の偏りを知り、整えておくことが重要なわけですが。

2009年02月09日

自分の範囲

人間にとって体というのは非常に意味の大きいものだと思います。

体そのものが自分ではない。
そういう思いは多くの人にあるでしょうが、
自分という存在を意識する上で、自分の体を抜きにしては考えにくいでしょう。

自分の体という範囲が、自分以外のものとの境界線になっているということです。

その意味で、体の内と外を区別することが無意識のうちに行われやすいわけです。

自分の範囲を知ることは、安全な範囲を知るということでもあります。
社会という人間関係の中で生きていく上では、
自分の体の内側に自分を脅かす危険は存在しないと考えやすいでしょう。

考え方によっては、病気や体調の変化といったものが
自分の体の内側にある脅威なのかもしれませんが、
警戒心の強さから言えば、他人よりは自分の内側のほうが安心しやすい対象だと思います。

街中を歩いていれば、自分の体の外側に対して注意を向けるほうが
自分の身の危険を避ける上で一般的だろうということです。


僕は特に、自分の体の外側に対して意識が向きやすいようです。
自分の体の内側に起きている変化、つまり体調の微妙な違いなどは
なかなか気づかないみたいなんです。

しかし、天才催眠療法家ミルトン・エリクソンは違ったように思えます。

彼はポリオを始めとする数多くの身体的症状を通じて
自分自身の体の内側と外側の両方に対して意識を向ける術を
努力の末に身につけていったのではないかと思うんです。

病気で自分の体が思うように動かない。
自分の体というものと上手にコミュニケーションをとらないと
一般人のように生活をすることさえ困難だったわけです。

その上で、彼は努力の結果として多くの障害を乗り越えている。
自分の体をどのようにしてコントロールすればいいかを知り、
それを自ら常に実践していたように思えます。

同時に、他人に対する興味も非常に高かったようです。
小さい頃から人のコミュニケーションの中に込められた
言葉以外の複数のメッセージに気づいていたと言われています。

病気で体が動かなかったときも、唯一できることとして
他人を観察していたそうです。

病室へ近づく足音で誰かが分かったり、
頸動脈を見ることで心拍数を把握したりもできたということです。
そうした観察力は晩年に向けて更に磨きをかけられていく。


もしかするとエリクソンにとっては、自分の体の内側も、自分の体の外側も、
どちらも区別して意識されるものではない観察の対象だったのではないか。

そんなことを思いました。

観察者である「私」という存在は、
体の内側も外側も、どちらに対しても同じように意識を向けられる。

そう考えたとき、僕に見えている世界は随分と違ったものになるような気がします。


自分の思考は自分そのものではない。
自分の思考は自分の一部のように感じられるが、
それは容易に他人の影響を受けるものでもある。

自分の体も自分そのものではない。
自分の体は自分の自由になるもののように感じられるが、
思いのほか、他人の影響は身体に表れるものである。

自分とは何かと考えると、その答えは難しいかもしません。

でも自分は、自分の考えや自分の体を大切なものだと思っている。
それは間違いのないところでしょう。

「私」という存在は、自分の考えや体を大切にしているわけです。
場合によっては、「私」にとって、自分の体以上に大切に思えることもある。

だからこそ、人は自分の命を投げ出して、
他の誰かを救うことがあるんじゃないでしょうか。

自分ということについて、もっと向き合ってみる必要がありそうです。

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 ◆ セミナー情報 

日程更新

《コミュニケーション講座》
〜内容は後日〜


【日時】 2017年8月20日(日)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    304集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分


概要はこちら>>
次回開催は9月の予定


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《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


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《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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