2009年02月
2009年02月07日
生産と販売
自分が素晴らしいと思ったものを他の人に紹介する。
良いものは、そうやって広がっていくのでしょう。
自分にとって良かったと、実感を持てるからこそ
人に伝えるときにも気持ちを込めて伝えられるんだと思います。
それは商売でも同じことかもしれません。
寿司屋は自分で市場に行って、自分が良いと思ったネタを仕入れてくる。
そして自信を持って美味しいものをお客様に提供するわけです。
最近はやりの雑貨屋などもそうでしょう。
店に並べる商品は、店主の好みを反映することが多い。
良いと思ったものを販売します。
小売店というのは基本的に、そういうところがある気がします。
店が商品を仕入れに行き、それを多くの消費者に販売する。
場合によっては売れる商品だから、という理由で仕入れることもあるでしょうが、
売れる商品には売れる理由があるのでしょうから、
世間に求められている良いものを販売しているという意味では同じです。
良いものを仕入れ、それを世の中に拡げる役割というのが
小売業の中には含まれると思うんです。
セミナーで扱う内容も、サービス内容として捉えれば1つの商品です。
良いものを仕入れて、それを多くの人に拡げることは頻繁に見受けられます。
良い商品を仕入れるために遠くまで出かける場合もあるでしょう。
そういう意味では、僕は小売業ではないのだと感じます。
やはり僕は製造業であって、研究開発の人間です。
僕が勉強をするのは、研究職の時に
論文を読んだり、学会に行ったりしていたのと似ています。
幅広く情報を求めているんです。
そして、得られた情報は自分の中で1つの体系として整理され、
自分の理論やモデルというものを作り上げていきます。
そして、その理論やモデルをベースにして開発を行うわけです。
当然、他人から得た情報も鵜呑みにしません。
自分の経験も含め、全ての情報は客観的に照らし合わされ、
1つの理論にまとめ上げるために使われます。
場合によっては、その道の有名な人が言っていることでも
筋が通っていないと感じれば否定的な意見を持ちます。
きちんと疑うことなしには、進歩は生まれないと思いますから。
僕の仕事はセミナーに関係していても、やはり研究開発のようです。
小売業は向いていないのかもしれません。
良いものは、そうやって広がっていくのでしょう。
自分にとって良かったと、実感を持てるからこそ
人に伝えるときにも気持ちを込めて伝えられるんだと思います。
それは商売でも同じことかもしれません。
寿司屋は自分で市場に行って、自分が良いと思ったネタを仕入れてくる。
そして自信を持って美味しいものをお客様に提供するわけです。
最近はやりの雑貨屋などもそうでしょう。
店に並べる商品は、店主の好みを反映することが多い。
良いと思ったものを販売します。
小売店というのは基本的に、そういうところがある気がします。
店が商品を仕入れに行き、それを多くの消費者に販売する。
場合によっては売れる商品だから、という理由で仕入れることもあるでしょうが、
売れる商品には売れる理由があるのでしょうから、
世間に求められている良いものを販売しているという意味では同じです。
良いものを仕入れ、それを世の中に拡げる役割というのが
小売業の中には含まれると思うんです。
セミナーで扱う内容も、サービス内容として捉えれば1つの商品です。
良いものを仕入れて、それを多くの人に拡げることは頻繁に見受けられます。
良い商品を仕入れるために遠くまで出かける場合もあるでしょう。
そういう意味では、僕は小売業ではないのだと感じます。
やはり僕は製造業であって、研究開発の人間です。
僕が勉強をするのは、研究職の時に
論文を読んだり、学会に行ったりしていたのと似ています。
幅広く情報を求めているんです。
そして、得られた情報は自分の中で1つの体系として整理され、
自分の理論やモデルというものを作り上げていきます。
そして、その理論やモデルをベースにして開発を行うわけです。
当然、他人から得た情報も鵜呑みにしません。
自分の経験も含め、全ての情報は客観的に照らし合わされ、
1つの理論にまとめ上げるために使われます。
場合によっては、その道の有名な人が言っていることでも
筋が通っていないと感じれば否定的な意見を持ちます。
きちんと疑うことなしには、進歩は生まれないと思いますから。
僕の仕事はセミナーに関係していても、やはり研究開発のようです。
小売業は向いていないのかもしれません。
2009年02月04日
語呂合わせ
コンビニで売られる本には独特なものを感じます。
よく売れた本を簡易な装丁に変え、低価格で販売するものが多いようですが、
一部には全く見たことも聞いたこともないようなものもあります。
特に低価格のマンガになると、その傾向が強い気がするんです。
少し古い感じのものや、歴史などの分野に特化したものとか。
そういう本の存在が面白く思えたりします。
最近で気になったのは低価格帯の総集編マンガ。
タイトルが気になります。
『修羅雪姫』
音の響きとしては確実に白雪姫を思い出します。
自然と白雪姫のファンタジーな雰囲気や、子供のころの記憶も蘇ります。
内面的にも童心に帰るような動きが起きやすい。
音を通じて記憶が呼び起こされるわけです。
アンカーと呼ばれるものです。
ところが、そこにノイズが混ざっている。
「修羅」という文字づら。
僕の場合は、文字情報のイメージから「修羅」に関する情報が引き出されるみたいです。
平仮名で「しゅらゆきひめ」と書いてあったら、そこまでの違和感はありません。
「しらゆきひめ」の言い方を少し変えたぐらいの印象です。
それが漢字で「修羅」と書かれると、途端に違ったイメージが沸いてきます。
おどろおどろしい印象。
戦闘シーンが想像されます。
「修羅」のイメージと「白雪姫」のイメージは対極的にさえ感じられますから、
『修羅雪姫』という単語には強烈なミスマッチ感を覚えるわけです。
どちらかというと「しらゆきひめ」の印象のほうが強いんでしょうね。
受ける印象は、白雪姫の世界が恐ろしくて暴力的になった雰囲気になります。
浮かんでくる白雪姫の映像がドス黒い感じになって、
元々のマンガっぽい登場人物がリアルなタッチになったような。
「白雪姫」と「修羅」という2つのイメージが
たった1つの単語『修羅雪姫』だけで無理矢理に合成されてしまいました。
言葉にアンカーされたイメージが、言葉の語呂合わせによって
無意識下で合成されることが起きているわけです。
音と文字づらという別の要素を組み合わせる効果と考えられます。
こういうのも人間の記憶の性質の面白さを反映しているように思います。
ちなみに、実際その『修羅雪姫』がどんな話かは知りません。
読んでしまったらタイトルのインパクトが薄れそうなので読むのはやめたんです。
表紙の絵を見る限り、「白雪姫」の面影もありませんでしたし。
むしろ勝手に『修羅雪姫』のストーリーを想像するほうが楽しいかもしれません。
僕が思いついたストーリーは…、
ちょっと悲しい話なので書くのはやめておきます。
よく売れた本を簡易な装丁に変え、低価格で販売するものが多いようですが、
一部には全く見たことも聞いたこともないようなものもあります。
特に低価格のマンガになると、その傾向が強い気がするんです。
少し古い感じのものや、歴史などの分野に特化したものとか。
そういう本の存在が面白く思えたりします。
最近で気になったのは低価格帯の総集編マンガ。
タイトルが気になります。
『修羅雪姫』
音の響きとしては確実に白雪姫を思い出します。
自然と白雪姫のファンタジーな雰囲気や、子供のころの記憶も蘇ります。
内面的にも童心に帰るような動きが起きやすい。
音を通じて記憶が呼び起こされるわけです。
アンカーと呼ばれるものです。
ところが、そこにノイズが混ざっている。
「修羅」という文字づら。
僕の場合は、文字情報のイメージから「修羅」に関する情報が引き出されるみたいです。
平仮名で「しゅらゆきひめ」と書いてあったら、そこまでの違和感はありません。
「しらゆきひめ」の言い方を少し変えたぐらいの印象です。
それが漢字で「修羅」と書かれると、途端に違ったイメージが沸いてきます。
おどろおどろしい印象。
戦闘シーンが想像されます。
「修羅」のイメージと「白雪姫」のイメージは対極的にさえ感じられますから、
『修羅雪姫』という単語には強烈なミスマッチ感を覚えるわけです。
どちらかというと「しらゆきひめ」の印象のほうが強いんでしょうね。
受ける印象は、白雪姫の世界が恐ろしくて暴力的になった雰囲気になります。
浮かんでくる白雪姫の映像がドス黒い感じになって、
元々のマンガっぽい登場人物がリアルなタッチになったような。
「白雪姫」と「修羅」という2つのイメージが
たった1つの単語『修羅雪姫』だけで無理矢理に合成されてしまいました。
言葉にアンカーされたイメージが、言葉の語呂合わせによって
無意識下で合成されることが起きているわけです。
音と文字づらという別の要素を組み合わせる効果と考えられます。
こういうのも人間の記憶の性質の面白さを反映しているように思います。
ちなみに、実際その『修羅雪姫』がどんな話かは知りません。
読んでしまったらタイトルのインパクトが薄れそうなので読むのはやめたんです。
表紙の絵を見る限り、「白雪姫」の面影もありませんでしたし。
むしろ勝手に『修羅雪姫』のストーリーを想像するほうが楽しいかもしれません。
僕が思いついたストーリーは…、
ちょっと悲しい話なので書くのはやめておきます。
2009年02月02日
決めつけない
心に関することが様々な形で語られるようになってきています。
そのことは多くの方が、最近の変化として感じられているのではないかと思います。
人の心は本当に面白く、不思議なものだと感じますが、
その神秘性を突き詰めていく方向性というのもあるようですし、
心を脳と関連させて理解しようとする方向性もあるようです。
科学的に説明しているようでも、データと結論との間に飛躍が大きいものが
あちこちで見られているのが現状といったところでしょうか。
ここで、データというのは観測された結果のつもりで言っていますが、
多くの場面で、データから結論が導かれるプロセスが省略されています。
客観的な情報から主観的な意味を見出すのは人間の本質的な特性のようですし、
それがあることで不要な判断に時間を取られることなく効率的に生きられるわけですから
短絡的に意味を判断することは大切なことではあります。
ただ、全てにおいて短絡的に意味を決めてしまうのは僕の好みではありません。
少なくとも自分が関心を持っている分野に関しては、
誰かが言ったことを鵜呑みにして信じるのではなく、
自分自身で考察して結論を導くことも大切ではないかと思うんです。
心の話やコミュニケーションを学ぼうとすると
「無意識」や「潜在意識」と呼ばれる言葉を必ず目にするはずです。
そして人間の無意識が繋がっているという話から
不思議な体験へと進んでいくことも少なくないようです。
僕自身は全てのことが現在の科学で説明できるとは思っていませんし、
体験的に不思議なほどに意味深いものを感じたこともあります。
それでも、説明の仕方には注意を払うようにしています。
なぜなら、短絡的に何でもかんでも、便利な説明で片付けてしまうと
本当に大切なことが起きていた時にさえ、見逃してしまうかもしれないからです。
安易に結論づけると、大きな発見を見過ごす可能性があるんです。
例えば、シンクロニシティとか共時性とか呼ばれる考え方があります。
同じことが同時に起きるということです。
それを拡げて解釈していくと、意味を感じる偶然は全て
シンクロニシティになってしまいます。
例えば、誰かにメールを送ろうとしたら相手からメールが来た、とか。
シンクロニシティでしょう。
ただ、それを
「シンクロニシティだね」
「人の心は無意識で繋がっているから当然だね」
と当たり前のように捉えてしまっては勿体ない気がするということです。
シンクロニシティの一言で片付けずに、実際に何が起きていたのかを理解しようとする。
そこには解明されていない人間の可能性があるかもしれないんです。
その現象のカギになっている部分を見つけられれば、他にも応用できるかもしれません。
また、セミナーに集まる人にもシンクロニシティを感じることもあるようです。
実際に僕が見ていても、同じ回に集まった人達には特徴があるように思えます。
目的や取り組み方が似ていたり、雰囲気が似ていたり。
同じ内容のセミナーでも回が変わると随分と違いがあるものです。
それをシンクロニシティで解釈すれば、近い人たちが集まったということでしょう。
ですが、それをグループの相互作用として説明することもできます。
人が2人集まれば、お互いに丁度いいバランスで関係性が決まるものです。
会話の主導権や立ち位置も自然と決まっていきます。
それは人数が多いグループでも同様です。
特定の発言や考え方がグループ全体に影響することもあります。
最初に誰かが言った内容を踏まえて話題が展開していくのは当然でしょう。
集まる人が変わることで、その集団特有の個性が生まれてくるという考え方です。
その全体的な雰囲気や集団の特性を、最初から決まっていたかのように捉えれば
それはシンクロニシティということになるわけです。
場合によっては、自分に関心のあるものが集まってくるのを
シンクロニシティと呼ぶこともあるみたいです。
ベンツを買いたいと思っている人が、街中で何台もベンツを見かける。
たまたま会った人がベンツでやってきた。
飲み会で隣になった人の鍵の束の中に、ベンツの鍵があった。
それはベンツに対する関心が高まっているから
ベンツに関するものが意識に上がりやすくなっていると考えることもできます。
今までも同じようにあったのに、気にしていないから気づかなかっただけ。
そういう考え方もあるはずです。
同じ出来事を解釈する時に、便利な解釈で意味付けしてしまうと
別の可能性が見えなくなってしまうんです。
短絡的な結論は思考を放棄しているということです。
テレビを見ていると「幽霊がいるかどうか」ということがテーマになったりします。
幽霊がいるかどうかに関しての僕のスタンスは、
「いると言えばいるし、いないと言えばいない」という曖昧なものですが、
そうした討論に対する姿勢として評価するのは「いない派」のほうです。
「幽霊はいる」と主張する人は、先に幽霊の存在を話題に上げておきながら
「いる」ことの証明をしようとしません。
何かの事例を示しながら、短絡的に「幽霊がいる」と話すだけ。
立証責任を果たしていないんです。
「いない」と主張する人たちは、科学的であったり論理的であったりしながら
一応、「いない」という理由を説明しようとして努力をしています。
反証となるような裏付けを取る努力をしています。
本来の立証責任は「いる派」にあるはずなので、
「いない派」は「いるなら証拠を見せてみろ」だけで十分なはずなんですが、
そういうテレビで繰り広げられる展開はむしろ逆。
「いないっていうんなら証明してみろ。証明できないじゃないか。だから幽霊はいるんだ」
「いない派」の人も全く同じ反論ができてしまいます。
…まぁ、バラエティだから面白くて良いんですけど。
幽霊がいると信じようが、いないと信じようが、
どちらも個人の信じる内容ですから僕としては構わないんですが、
重要なのは、その信念を短絡的に使わないということです。
ある旅館の1部屋で、何人もの宿泊客が幽霊を見たと発言したとします。
「だから幽霊はいるんだ」…これは短絡的です。
「そんなの気のせいだ。偶然だ」…これも同じぐらい短絡的です。
どちらも思考を放棄している部分では変わりません。
そして、調査の結果、その部屋では過去に3人の自殺者がいたと判明したとします。
「ほら、自殺者の霊だ。だから幽霊を見たんだ」
これも短絡的です。
もしかすると、その部屋に何か人の心に影響するものがあって
その結果、自殺者が出たり、幽霊を見る人が出たのかもしれません。
「幽霊はいる」、「自殺者の霊はその場所に残る」という情報だけをもとに判断すると
「自殺者がいた場所」だから「幽霊が出る」という結論になってしまいます。
「自殺者がいた場所」と「幽霊が出る(という発言)」の間には
因果関係があるとは限りません。
両方とも、何か別の原因から生まれる結果という可能性もあるんです。
自分が何かを信じると、信じた結果から
短絡的な結論が生まれる可能性が高いと思うんです。
「幽霊がいる」と信じても短絡的になります。
「幽霊はいない」と信じても短絡的になります。
両方を疑うことで、別の新しい可能性に気づけるチャンスが生まれます。
鵜呑みにする、思い込む、決めつける…。
当たり前だとか、そういうものだと思ってしまうと
そこから先に進まなくなるようが気がします。
可能性はいくつもある。
そんな考察の仕方も研究で身につけてきたものなのかもしれません。
そのことは多くの方が、最近の変化として感じられているのではないかと思います。
人の心は本当に面白く、不思議なものだと感じますが、
その神秘性を突き詰めていく方向性というのもあるようですし、
心を脳と関連させて理解しようとする方向性もあるようです。
科学的に説明しているようでも、データと結論との間に飛躍が大きいものが
あちこちで見られているのが現状といったところでしょうか。
ここで、データというのは観測された結果のつもりで言っていますが、
多くの場面で、データから結論が導かれるプロセスが省略されています。
客観的な情報から主観的な意味を見出すのは人間の本質的な特性のようですし、
それがあることで不要な判断に時間を取られることなく効率的に生きられるわけですから
短絡的に意味を判断することは大切なことではあります。
ただ、全てにおいて短絡的に意味を決めてしまうのは僕の好みではありません。
少なくとも自分が関心を持っている分野に関しては、
誰かが言ったことを鵜呑みにして信じるのではなく、
自分自身で考察して結論を導くことも大切ではないかと思うんです。
心の話やコミュニケーションを学ぼうとすると
「無意識」や「潜在意識」と呼ばれる言葉を必ず目にするはずです。
そして人間の無意識が繋がっているという話から
不思議な体験へと進んでいくことも少なくないようです。
僕自身は全てのことが現在の科学で説明できるとは思っていませんし、
体験的に不思議なほどに意味深いものを感じたこともあります。
それでも、説明の仕方には注意を払うようにしています。
なぜなら、短絡的に何でもかんでも、便利な説明で片付けてしまうと
本当に大切なことが起きていた時にさえ、見逃してしまうかもしれないからです。
安易に結論づけると、大きな発見を見過ごす可能性があるんです。
例えば、シンクロニシティとか共時性とか呼ばれる考え方があります。
同じことが同時に起きるということです。
それを拡げて解釈していくと、意味を感じる偶然は全て
シンクロニシティになってしまいます。
例えば、誰かにメールを送ろうとしたら相手からメールが来た、とか。
シンクロニシティでしょう。
ただ、それを
「シンクロニシティだね」
「人の心は無意識で繋がっているから当然だね」
と当たり前のように捉えてしまっては勿体ない気がするということです。
シンクロニシティの一言で片付けずに、実際に何が起きていたのかを理解しようとする。
そこには解明されていない人間の可能性があるかもしれないんです。
その現象のカギになっている部分を見つけられれば、他にも応用できるかもしれません。
また、セミナーに集まる人にもシンクロニシティを感じることもあるようです。
実際に僕が見ていても、同じ回に集まった人達には特徴があるように思えます。
目的や取り組み方が似ていたり、雰囲気が似ていたり。
同じ内容のセミナーでも回が変わると随分と違いがあるものです。
それをシンクロニシティで解釈すれば、近い人たちが集まったということでしょう。
ですが、それをグループの相互作用として説明することもできます。
人が2人集まれば、お互いに丁度いいバランスで関係性が決まるものです。
会話の主導権や立ち位置も自然と決まっていきます。
それは人数が多いグループでも同様です。
特定の発言や考え方がグループ全体に影響することもあります。
最初に誰かが言った内容を踏まえて話題が展開していくのは当然でしょう。
集まる人が変わることで、その集団特有の個性が生まれてくるという考え方です。
その全体的な雰囲気や集団の特性を、最初から決まっていたかのように捉えれば
それはシンクロニシティということになるわけです。
場合によっては、自分に関心のあるものが集まってくるのを
シンクロニシティと呼ぶこともあるみたいです。
ベンツを買いたいと思っている人が、街中で何台もベンツを見かける。
たまたま会った人がベンツでやってきた。
飲み会で隣になった人の鍵の束の中に、ベンツの鍵があった。
それはベンツに対する関心が高まっているから
ベンツに関するものが意識に上がりやすくなっていると考えることもできます。
今までも同じようにあったのに、気にしていないから気づかなかっただけ。
そういう考え方もあるはずです。
同じ出来事を解釈する時に、便利な解釈で意味付けしてしまうと
別の可能性が見えなくなってしまうんです。
短絡的な結論は思考を放棄しているということです。
テレビを見ていると「幽霊がいるかどうか」ということがテーマになったりします。
幽霊がいるかどうかに関しての僕のスタンスは、
「いると言えばいるし、いないと言えばいない」という曖昧なものですが、
そうした討論に対する姿勢として評価するのは「いない派」のほうです。
「幽霊はいる」と主張する人は、先に幽霊の存在を話題に上げておきながら
「いる」ことの証明をしようとしません。
何かの事例を示しながら、短絡的に「幽霊がいる」と話すだけ。
立証責任を果たしていないんです。
「いない」と主張する人たちは、科学的であったり論理的であったりしながら
一応、「いない」という理由を説明しようとして努力をしています。
反証となるような裏付けを取る努力をしています。
本来の立証責任は「いる派」にあるはずなので、
「いない派」は「いるなら証拠を見せてみろ」だけで十分なはずなんですが、
そういうテレビで繰り広げられる展開はむしろ逆。
「いないっていうんなら証明してみろ。証明できないじゃないか。だから幽霊はいるんだ」
「いない派」の人も全く同じ反論ができてしまいます。
…まぁ、バラエティだから面白くて良いんですけど。
幽霊がいると信じようが、いないと信じようが、
どちらも個人の信じる内容ですから僕としては構わないんですが、
重要なのは、その信念を短絡的に使わないということです。
ある旅館の1部屋で、何人もの宿泊客が幽霊を見たと発言したとします。
「だから幽霊はいるんだ」…これは短絡的です。
「そんなの気のせいだ。偶然だ」…これも同じぐらい短絡的です。
どちらも思考を放棄している部分では変わりません。
そして、調査の結果、その部屋では過去に3人の自殺者がいたと判明したとします。
「ほら、自殺者の霊だ。だから幽霊を見たんだ」
これも短絡的です。
もしかすると、その部屋に何か人の心に影響するものがあって
その結果、自殺者が出たり、幽霊を見る人が出たのかもしれません。
「幽霊はいる」、「自殺者の霊はその場所に残る」という情報だけをもとに判断すると
「自殺者がいた場所」だから「幽霊が出る」という結論になってしまいます。
「自殺者がいた場所」と「幽霊が出る(という発言)」の間には
因果関係があるとは限りません。
両方とも、何か別の原因から生まれる結果という可能性もあるんです。
自分が何かを信じると、信じた結果から
短絡的な結論が生まれる可能性が高いと思うんです。
「幽霊がいる」と信じても短絡的になります。
「幽霊はいない」と信じても短絡的になります。
両方を疑うことで、別の新しい可能性に気づけるチャンスが生まれます。
鵜呑みにする、思い込む、決めつける…。
当たり前だとか、そういうものだと思ってしまうと
そこから先に進まなくなるようが気がします。
可能性はいくつもある。
そんな考察の仕方も研究で身につけてきたものなのかもしれません。