2009年03月
2009年03月10日
英語の言い回し
最近、youtubeで英語の動画を見たりしています。
催眠関連とかNLP関連とか。
そうしていると思うのが、英語特有の発声方法の特徴が
NLPや催眠に向いているような気がするということです。
英語は元々、上下関係のない言葉だと思いますが、
NLPや催眠を実演している人たちは特有の声のトーンを出しています。
それは、かなり命令的な雰囲気。
言語的にも、意外と直接的な言い回しが多いようにも感じます。
その上で、声のトーンが結構な強さになっているんです。
誰もが「催眠的な声の使い方」ということを模倣から学んでいくときに
言葉以外のメッセージとして、強制を含めるような方法を身につけるんでしょう。
小学生ぐらいの男の子であっても、ティーンネイジャーの女の子であっても
特有の強制的なメッセージを含めた声の使い方は共通しています。
高圧的な感じが含まれているわけです。
英語の発声は日本語よりも遥かに周波数が小さい(低音)ですから
声が胸から腹にかけて響きやすいのも特徴のはずです。
日本語の印象からすると、英語で話す人は、子供から大人まで
自信があって落ち着いた、大人びた印象を受けやすいと思われます。
日本人がそういう強制的な声で話すと相手に恐怖感を与える可能性がありますが、
どうやら英語だとネガティブなメッセージとしては伝わらない模様です。
むしろ、軽くトランスを誘発する方向に作用しているようです。
もしかすると日本人のほうが細かい非言語メッセージに敏感なのかもしれません。
実際、欧米人のほうが身振り手振りもイントネーションも大げさですから
微妙な非言語メッセージの差異が目立たないような気もします。
意識化されるほどまで大きな影響が出ずらい、と言ったほうがいいでしょうか。
わずかな表情の変化や声の変化から感情を読み取ることは
日本人の子供が自然と学んでくる部分だと考えられます。
親の気分を読み取るのは、子供にとって死活問題ですから。
そういう意味で、日本人は少しでも威圧的な声の使い方をされると
自然と恐怖に近い反応が出てしまうパターンを持っている傾向があると思うんです。
そのため、日本語で催眠的なコミュニケーションを行うときには
強制的な声のトーンが使いにくいところがあるだろう、ということです。
ちなみに、いわゆる催眠術は、ワザと「催眠術!」という雰囲気を出していますから
そのときの声のトーンが独特で、まくしたてる感じなのは、その限りではありません。
日常的で自然な感じの中で催眠的な手法を使うには、
日本語は不利な気がするということです。
また英語は、日本語と比べると、ずっとリズム感のある言葉です。
発音としても、音節の間に音素の数が多いのも特徴でしょう。
催眠で頻繁に使われる「Sleep!」という言葉も、
日本語で「眠れ!」という風に訳してしまうとニュアンスも変わりますし、
普段は使われない言い回しの言葉になってしまいます。
何よりも、「Sleep」よりも「ねむれ」は音の量が多いので、発音に時間がかかります。
要するに、英語のほうが早口で発音しやすい言葉なわけです。
早口でも意味としての情報量が多くなり過ぎない。
日本語で早口過ぎると、多くの人は内容が理解できなくなります。
正確な比較はできませんが、英語で催眠に使われるぐらいの早口の印象は、
僕の受ける感じだと「夏木ゆたか」とか「古舘伊知郎」の実況ぐらいの速さに相当します。
内容も膨大ですし、聞きとりにくさが先立ってしまう感じです。
でも、英語の早口は意外と聞きやすく、情報量もパンクするほどではありません。
英語で早口に語りかけると、そのリズムとスピード感が
聞いている人に、沢山の音のリズミカルな羅列の印象を与えやすいと考えられます。
それがトランス状態を引き起こしやすい。
でも内容としては大したことを言っていないんです。
同じことを日本語でやろうとすると内容を考えるのが大変です。
日本語でスピードを上げてトランスを引き出すのは
決まったセリフを覚えて話す以外では、かなり難しい作業でしょう。
英語は早口で強制的という非言語メッセージを自然な形で使いながら
相手を自然とトランスに誘導しやすい言葉に思えるんです。
日本語はむしろ逆の特性を持っている気がします。
ゆっくりで単調にしたほうがトランスに導きやすい。
お経を思い出してもらえれば良いでしょう。
少しでも強制的なトーンを含めると感情レベルの反応が生まれやすいようですから、
単調で無機質で、低く響く声のほうがトランス誘導向きだと思えます。
反発されにくいわけです。
一方、アメリカの映画などを見ていると顕著ですが、
欧米のコミュニケーションはダイレクトで、表現が大きく、マイペースな印象を受けます。
自分の気持ちを、自分の感じるままに表現するという感じ。
カウンセリングの場面や就職の面接の場面なども映画で描かれたりしますが、
その場合でも相手に合わせるような雰囲気は感じられません。
カウンセラーが足を組みながら横柄な態度で座っています。
声のトーンにも気配りや心配そうな雰囲気はありません。
ズバズバと質問をしていくように見えてしまいます。
その点、日本語のコミュニケーションは配慮や敬意が大きいようです。
丁寧と言えばそうですし、それが回りくどく見える場合もあるでしょう。
相手に応じて態度が変わる傾向が日本人には強いように思えます。
良いイメージはないですが、腹の探り合いをしているということです。
ところが、ミルトン・エリクソンのビデオを見ると
彼の話し方は受容的で温和な雰囲気を出しています。
催眠的ですが、強制的なニュアンスは感じられません。
日本人にも受け入れやすい雰囲気に見えます。
ということは、アメリカ文化にあっては相当に異質な方法だったのではないでしょうか。
エリクソンの言語・非言語メッセージの使い方が研究されたのも分かる気がします。
欧米のコミュニケーションでは普段が主張的な分、ペーシングやミラーリングなど
相手に合わせるコミュニケーションスタイルも効果が大きかったかもしれません。
逆に日本でペーシングをするには、アメリカから伝わってきたままよりも
もっと細かく行う必要があるように思います。
アメリカから伝わってきたものを良いものとして受け入れるのは
日本人の素晴らしい特性でしょうが、日本向けにアレンジするのは
もっと大切なことだったはずです。
中国から伝わってきた漢字が、日本で仮名文字に発展したように
英語の方法を日本向けに作り直すのが重要だと思うんです。
催眠関連とかNLP関連とか。
そうしていると思うのが、英語特有の発声方法の特徴が
NLPや催眠に向いているような気がするということです。
英語は元々、上下関係のない言葉だと思いますが、
NLPや催眠を実演している人たちは特有の声のトーンを出しています。
それは、かなり命令的な雰囲気。
言語的にも、意外と直接的な言い回しが多いようにも感じます。
その上で、声のトーンが結構な強さになっているんです。
誰もが「催眠的な声の使い方」ということを模倣から学んでいくときに
言葉以外のメッセージとして、強制を含めるような方法を身につけるんでしょう。
小学生ぐらいの男の子であっても、ティーンネイジャーの女の子であっても
特有の強制的なメッセージを含めた声の使い方は共通しています。
高圧的な感じが含まれているわけです。
英語の発声は日本語よりも遥かに周波数が小さい(低音)ですから
声が胸から腹にかけて響きやすいのも特徴のはずです。
日本語の印象からすると、英語で話す人は、子供から大人まで
自信があって落ち着いた、大人びた印象を受けやすいと思われます。
日本人がそういう強制的な声で話すと相手に恐怖感を与える可能性がありますが、
どうやら英語だとネガティブなメッセージとしては伝わらない模様です。
むしろ、軽くトランスを誘発する方向に作用しているようです。
もしかすると日本人のほうが細かい非言語メッセージに敏感なのかもしれません。
実際、欧米人のほうが身振り手振りもイントネーションも大げさですから
微妙な非言語メッセージの差異が目立たないような気もします。
意識化されるほどまで大きな影響が出ずらい、と言ったほうがいいでしょうか。
わずかな表情の変化や声の変化から感情を読み取ることは
日本人の子供が自然と学んでくる部分だと考えられます。
親の気分を読み取るのは、子供にとって死活問題ですから。
そういう意味で、日本人は少しでも威圧的な声の使い方をされると
自然と恐怖に近い反応が出てしまうパターンを持っている傾向があると思うんです。
そのため、日本語で催眠的なコミュニケーションを行うときには
強制的な声のトーンが使いにくいところがあるだろう、ということです。
ちなみに、いわゆる催眠術は、ワザと「催眠術!」という雰囲気を出していますから
そのときの声のトーンが独特で、まくしたてる感じなのは、その限りではありません。
日常的で自然な感じの中で催眠的な手法を使うには、
日本語は不利な気がするということです。
また英語は、日本語と比べると、ずっとリズム感のある言葉です。
発音としても、音節の間に音素の数が多いのも特徴でしょう。
催眠で頻繁に使われる「Sleep!」という言葉も、
日本語で「眠れ!」という風に訳してしまうとニュアンスも変わりますし、
普段は使われない言い回しの言葉になってしまいます。
何よりも、「Sleep」よりも「ねむれ」は音の量が多いので、発音に時間がかかります。
要するに、英語のほうが早口で発音しやすい言葉なわけです。
早口でも意味としての情報量が多くなり過ぎない。
日本語で早口過ぎると、多くの人は内容が理解できなくなります。
正確な比較はできませんが、英語で催眠に使われるぐらいの早口の印象は、
僕の受ける感じだと「夏木ゆたか」とか「古舘伊知郎」の実況ぐらいの速さに相当します。
内容も膨大ですし、聞きとりにくさが先立ってしまう感じです。
でも、英語の早口は意外と聞きやすく、情報量もパンクするほどではありません。
英語で早口に語りかけると、そのリズムとスピード感が
聞いている人に、沢山の音のリズミカルな羅列の印象を与えやすいと考えられます。
それがトランス状態を引き起こしやすい。
でも内容としては大したことを言っていないんです。
同じことを日本語でやろうとすると内容を考えるのが大変です。
日本語でスピードを上げてトランスを引き出すのは
決まったセリフを覚えて話す以外では、かなり難しい作業でしょう。
英語は早口で強制的という非言語メッセージを自然な形で使いながら
相手を自然とトランスに誘導しやすい言葉に思えるんです。
日本語はむしろ逆の特性を持っている気がします。
ゆっくりで単調にしたほうがトランスに導きやすい。
お経を思い出してもらえれば良いでしょう。
少しでも強制的なトーンを含めると感情レベルの反応が生まれやすいようですから、
単調で無機質で、低く響く声のほうがトランス誘導向きだと思えます。
反発されにくいわけです。
一方、アメリカの映画などを見ていると顕著ですが、
欧米のコミュニケーションはダイレクトで、表現が大きく、マイペースな印象を受けます。
自分の気持ちを、自分の感じるままに表現するという感じ。
カウンセリングの場面や就職の面接の場面なども映画で描かれたりしますが、
その場合でも相手に合わせるような雰囲気は感じられません。
カウンセラーが足を組みながら横柄な態度で座っています。
声のトーンにも気配りや心配そうな雰囲気はありません。
ズバズバと質問をしていくように見えてしまいます。
その点、日本語のコミュニケーションは配慮や敬意が大きいようです。
丁寧と言えばそうですし、それが回りくどく見える場合もあるでしょう。
相手に応じて態度が変わる傾向が日本人には強いように思えます。
良いイメージはないですが、腹の探り合いをしているということです。
ところが、ミルトン・エリクソンのビデオを見ると
彼の話し方は受容的で温和な雰囲気を出しています。
催眠的ですが、強制的なニュアンスは感じられません。
日本人にも受け入れやすい雰囲気に見えます。
ということは、アメリカ文化にあっては相当に異質な方法だったのではないでしょうか。
エリクソンの言語・非言語メッセージの使い方が研究されたのも分かる気がします。
欧米のコミュニケーションでは普段が主張的な分、ペーシングやミラーリングなど
相手に合わせるコミュニケーションスタイルも効果が大きかったかもしれません。
逆に日本でペーシングをするには、アメリカから伝わってきたままよりも
もっと細かく行う必要があるように思います。
アメリカから伝わってきたものを良いものとして受け入れるのは
日本人の素晴らしい特性でしょうが、日本向けにアレンジするのは
もっと大切なことだったはずです。
中国から伝わってきた漢字が、日本で仮名文字に発展したように
英語の方法を日本向けに作り直すのが重要だと思うんです。
2009年03月08日
新説!
僕は本を読むときに少し雑音があるほうが集中できます。
喫茶店でコーヒーを飲みながらというのが多いんです。
たまに図書館に行ったりもしますが、図書館のほうが落ち着かないところがあります。
まぁ、図書館は無料なので色々な人が入ってくるというのも1つの理由ですが。
嗅覚からの刺激も大切ですからね。
むしろ、コーヒーの匂いがあると集中できるような匂いのアンカーもあるんでしょう。
ただ、コーヒーさえあれば良いかというと、そうではなくて
全体的に静かな場所よりも雑音がある感じのほうが好みなんです。
ジュンク堂書店には喫茶店が入っていて、そこで本を読むこともありますが
あの場所は割りと静かな空間として設定されているようです。
その中で誰かの話し声が聞こえてくると、もうアウトです。
静かな場所で特定の話し声が聞こえてくる状況だと
僕の耳は完全に話の内容を捉えにいってしまいます。
これは、どうやら僕の無意識の癖のようです。
話の内容が日本語ではなければ、気になる度合いは下がりますが
やはり特定の会話というのは僕の集中力を妨げる要因です。
ところが、そうした話し声が様々に重なり合い、
大きめのBGMの中に溶け込んでくるような状態になると、
それは「雑音」という印象になります。
背景の雑多な音として気にならなくなるんです。
静かな中に特定の声があるよりも、雑音のほうが邪魔にならないというわけです。
先日、ある人と話をしていて、頭の中を駆け巡る音楽について考える機会がありました。
何かの音楽が気になって、しばらくの間、頭の中に曲がかかっていることは
きっと多くの人に共通することではないかと思いますが、
世の中には、常日頃から音楽が頭の中で鳴り響いている人もいるようなんです。
ユングは結構、白昼夢を見ていたそうなんですが、
目を開けていても視覚のイメージを鮮明に見られる人もいます。
トランスではイメージ力も上がってきますし、
催眠術によって幻覚として映像を見せることも可能なわけです。
オーラや背後霊が見える人も、そうした一種のイメージを鮮明に見ていると考えるのが
おそらく妥当な説明だと僕は思います。
イメージのリアリティが非常に高いと、実際に幽霊が見えるでしょうし、
頭の中の声のリアリティが非常に高いと、実際に幻聴として聞こえるでしょう。
要するに、夢を見ているときのリアリティを
目が覚めているときの日常生活の場面でも感じられれば、
一般的な体験とは違った不思議な体験ができるということです。
一般的に、日常生活では自分の体の外側にある世界に対して注意を払い、
ある程度の警戒度合いを保っていますから、自分の内側に沸き起こることに
高いリアリティを感じることは少ないわけです。
それが深いトランス状態や、薬物を使用したときには内的な体験の度合いが高まります。
実験によると、真っ暗な部屋で、音を遮断して、体をリラックスさせてしまうと
様々な幻覚の映像や幻聴が起きてくるそうですから、
内的な体験の度合いの高さがリアリティを決めていると言っていいと思います。
そして、人間の無意識は様々な処理を同時に行っていますが、
それを意識化できるのはホンの一部分だと言われています。
一説によると、一日当たり数万の考えやイメージが沸いているのに
通常、人はそれを意識していないと言われます。
僕の場合、内部対話が階層的に3つぐらい同時に進行しているときがあります。
メインで意識的に考えようとしているときに雑念が沸いてきて、
その雑念よりも更に深い無意識的なところで全く無関係の言葉が進んでいる。
たまに、そういう状態になるんです。
ですから、自分の中で同時に様々なことが起きているというのは
割りと納得できるところなんです。
本を読みながら考え事をしていたり、
同時にコーヒーの香りを味わったり、
BGMのリズムを気にしていたり、
そういうのも無意識の同時進行を感じられる場面でしょう。
そういうことを踏まえて考えてみると、
「人間の無意識は、特定の時間の間に様々な処理をしていて
人間の意識は、その時に、いくつかのことを捉えている」
ということが言えそうです。
で、ここからが重要なんですが、
「その意識化される内容は、強く捉えられているものほど
リアリティが高く、『気になる』状態になる」
ような気がするんです。
これが僕の現在の仮説。
かなり自信があります。
関連して、
「人によって、意識に上がってきやすい情報に癖がある」
というのもあると思います。
人間は無意識のレベルで同調するものですから、
環境の影響で自分の状態が変わっていると考えられます。
また、特定の刺激が無意識レベルでトリガーとなって
連想される記憶が一時的に呼び起こされることは常日頃から起きているはずです。
そうしたことで起きる無意識のイメージや考えが、
いわゆる「一日に数万もの考えが浮かんでいる」ということでしょう。
(数の根拠は分かりませんが)
催眠療法を経験すると、深いトランス状態で
全く脈絡のないイメージが頭の中を駆け巡る体験をすることがありますが、
これがまさに、刺激に伴って無意識の連想が進んでいる状態だと考えられます。
意識では全く理解できない関連が、無意識レベルで起きているわけです。
記憶が断片の集合だというのも実感できる状態です。
おそらく、僕が複数の考えが同時に起きていることに気づく瞬間も
思考内容同士の連想や、外部刺激のトリガーによって
無意識で同時進行している処理を「強く捉えた」のでしょう。
僕にとっては、思考の内容や連想の内容が「意識に上がってきやすい情報」だ
という癖があるんだろうと思います。
白昼夢や、幽霊、オーラなどのイメージが視覚的にリアルに見えるのも
眼を通じてインプットされる外部情報以上に、
外部刺激や他者との同調から連想される視覚イメージが
「強く捉えられ」ることになって、『気になる』状態になるためだと考えます。
実際に光の反射を通じて視神経が捉える視覚情報以上に(もしくは同レベルで)
内的に連想される視覚イメージが「強く捉えられる」癖を持っているということです。
(その癖付けを後天的にしていくのがスピリチュアル系のトレーニングでしょう)
それに対してリアリティが高いわけですから、幻覚と呼ぶべきではないはずです。
人間の眼で知覚している情報さえ現実とは異なるわけですから
本人にとって見えている世界こそが、その人の本当の世界です。
誤解を恐れずに言えば、統合失調で幻覚が見えてしまうのも
トレーニングによってオーラが見えるようになるのも、
視神経が光によって知覚する外的な視覚情報以上に
無意識から沸き上がる内的な視覚情報にリアリティが高い
という意味では本質的な違いがないわけです。
誰もが無意識のレベルでは、そうした内的な視覚情報が生まれているのに、
それをリアリティを感じるほどに「強く捉えて」、
「気にする」ことができる癖を持っている人が少ないだけ。
そういう考え方です。
音楽が頭の中に鳴り響くのも同じです。
それがリアリティを伴いながら「強く捉えられ」過ぎれば、幻聴ということになります。
リアリティは低いけど、ある程度「強く捉えられる」と、
その音楽が『気になる』状態になる。
「さっきからずっと頭の中をあの曲が流れているんだよねぇ」という場合には、
どこかで聞いた音楽か連想された音楽が無意識に沸き起こり、
それが「強く捉えられる」と意識化されてしまって『気になる』わけです。
おそらく無意識のレベルでは、外部刺激や連想によって
音楽が呼び起こされることも頻繁に起きているのでしょう。
多くの人は、たまにその音楽が意識に上がってくるために
「さっきからあの曲が頭を離れない」という感想を持つのでしょうが、
しばらくすると別の情報が「強く捉えられる」ようになってきて
頭の中から音楽は消えてなくなるように感じられる、と考えられます。
まれに、無意識に音楽が呼び起こされたときに、
それを「強く捉える」癖を持っている人がいて、
その人は絶えず頭の中に音楽が流れているように感じられる、と。
結局、無意識では色々なことが沸き上がってきているけれども、
どの情報を、どれくらい強く捉えるか、という部分に人それぞれ癖があって、
そのことが体験に強く影響を与えていると僕は考えているわけです。
本を読むときに、心の中で音読している人は、もしかすると
心の中の音読の声を聞くために、外部の音が全て気になるかもしれません。
(僕はチョット違うプロセスなので分かりませんが)
僕は心の中、もしくは頭の中で、いくつかの考えを照らし合わせているようです。
メインの話の流れと関連することが、思考として「強く捉えられる」癖があるんでしょう。
ですから、静か過ぎる環境だと、思考としてのノイズが意識に上がってしまうんです。
外部環境としての雑音以上に、自分の無意識から沸き起こるノイズを拾ってしまって
結果的に集中力が落ちてしまう感じです。
ある程度のBGMや雑多な音の中に身を置くことで、本の内容の流れと
それに関連する内容に集中しながら理解が進むように思えます。
逆に、ハッキリと聞き取れる会話が近くにある場合の癖として
そちらの話の内容を「強く捉えて」意識化することになるので、
途端に本の内容に関連する心の中の声が聞こえなくなってしまうわけです。
どうやら僕は、無意識下で進行している複数の考えを
同時に捉える癖を持っているようです。
頭の中でディスカッションが進み、関連付けた理解と連想が起きている印象があります。
メインの流れと外れるような連想であっても重要そうな意見が出ることもありますから、
そうした考えは一度別の所に取り置きしておく場合もあります。
書き物をしている時には、その傾向が強く出てきます。
メインの流れは心の声を聞くのと同時にワープロでタイプされているか、
逆にワープロのほうが先に進行していますから、
連想されてきた考えも「強く捉えられる」のでしょう。
最近のブログでは少ないですが、連想されたことを別の場所に書きながら
ワープロ上の複数の箇所で同時に、少し違った内容が進行することもあります。
別々に書き進めて、あとで話を繋げるという感じ。
この記事でも同時進行で別の場所に書き留めておいて、後から繋げた部分もありますし、
最初は書く予定ではなかった内容が浮かんできて追加された部分も沢山あります。
そうした内容を聞きながら、別の場所では、全体的な構成を
視覚的に捉えているところもあるのに気づきます。
書き物は、こんな風に、いくつかの心の声を聞きながら進めたいので
些細な話し声やBGMも妨げになるようです。
書き物の作業は静かな環境が好きなのも、
無意識の処理が意識化されるプロセスを考えると納得できました。
人それぞれ集中できる環境は違うと思いますが、
そこには無意識の処理がどの程度、雑念として意識化されるかが
大きく関わっているように思います。
色々な意識化の癖があると考えていますので、
ご自分の癖に気づけた方は教えて頂けると嬉しいです。
喫茶店でコーヒーを飲みながらというのが多いんです。
たまに図書館に行ったりもしますが、図書館のほうが落ち着かないところがあります。
まぁ、図書館は無料なので色々な人が入ってくるというのも1つの理由ですが。
嗅覚からの刺激も大切ですからね。
むしろ、コーヒーの匂いがあると集中できるような匂いのアンカーもあるんでしょう。
ただ、コーヒーさえあれば良いかというと、そうではなくて
全体的に静かな場所よりも雑音がある感じのほうが好みなんです。
ジュンク堂書店には喫茶店が入っていて、そこで本を読むこともありますが
あの場所は割りと静かな空間として設定されているようです。
その中で誰かの話し声が聞こえてくると、もうアウトです。
静かな場所で特定の話し声が聞こえてくる状況だと
僕の耳は完全に話の内容を捉えにいってしまいます。
これは、どうやら僕の無意識の癖のようです。
話の内容が日本語ではなければ、気になる度合いは下がりますが
やはり特定の会話というのは僕の集中力を妨げる要因です。
ところが、そうした話し声が様々に重なり合い、
大きめのBGMの中に溶け込んでくるような状態になると、
それは「雑音」という印象になります。
背景の雑多な音として気にならなくなるんです。
静かな中に特定の声があるよりも、雑音のほうが邪魔にならないというわけです。
先日、ある人と話をしていて、頭の中を駆け巡る音楽について考える機会がありました。
何かの音楽が気になって、しばらくの間、頭の中に曲がかかっていることは
きっと多くの人に共通することではないかと思いますが、
世の中には、常日頃から音楽が頭の中で鳴り響いている人もいるようなんです。
ユングは結構、白昼夢を見ていたそうなんですが、
目を開けていても視覚のイメージを鮮明に見られる人もいます。
トランスではイメージ力も上がってきますし、
催眠術によって幻覚として映像を見せることも可能なわけです。
オーラや背後霊が見える人も、そうした一種のイメージを鮮明に見ていると考えるのが
おそらく妥当な説明だと僕は思います。
イメージのリアリティが非常に高いと、実際に幽霊が見えるでしょうし、
頭の中の声のリアリティが非常に高いと、実際に幻聴として聞こえるでしょう。
要するに、夢を見ているときのリアリティを
目が覚めているときの日常生活の場面でも感じられれば、
一般的な体験とは違った不思議な体験ができるということです。
一般的に、日常生活では自分の体の外側にある世界に対して注意を払い、
ある程度の警戒度合いを保っていますから、自分の内側に沸き起こることに
高いリアリティを感じることは少ないわけです。
それが深いトランス状態や、薬物を使用したときには内的な体験の度合いが高まります。
実験によると、真っ暗な部屋で、音を遮断して、体をリラックスさせてしまうと
様々な幻覚の映像や幻聴が起きてくるそうですから、
内的な体験の度合いの高さがリアリティを決めていると言っていいと思います。
そして、人間の無意識は様々な処理を同時に行っていますが、
それを意識化できるのはホンの一部分だと言われています。
一説によると、一日当たり数万の考えやイメージが沸いているのに
通常、人はそれを意識していないと言われます。
僕の場合、内部対話が階層的に3つぐらい同時に進行しているときがあります。
メインで意識的に考えようとしているときに雑念が沸いてきて、
その雑念よりも更に深い無意識的なところで全く無関係の言葉が進んでいる。
たまに、そういう状態になるんです。
ですから、自分の中で同時に様々なことが起きているというのは
割りと納得できるところなんです。
本を読みながら考え事をしていたり、
同時にコーヒーの香りを味わったり、
BGMのリズムを気にしていたり、
そういうのも無意識の同時進行を感じられる場面でしょう。
そういうことを踏まえて考えてみると、
「人間の無意識は、特定の時間の間に様々な処理をしていて
人間の意識は、その時に、いくつかのことを捉えている」
ということが言えそうです。
で、ここからが重要なんですが、
「その意識化される内容は、強く捉えられているものほど
リアリティが高く、『気になる』状態になる」
ような気がするんです。
これが僕の現在の仮説。
かなり自信があります。
関連して、
「人によって、意識に上がってきやすい情報に癖がある」
というのもあると思います。
人間は無意識のレベルで同調するものですから、
環境の影響で自分の状態が変わっていると考えられます。
また、特定の刺激が無意識レベルでトリガーとなって
連想される記憶が一時的に呼び起こされることは常日頃から起きているはずです。
そうしたことで起きる無意識のイメージや考えが、
いわゆる「一日に数万もの考えが浮かんでいる」ということでしょう。
(数の根拠は分かりませんが)
催眠療法を経験すると、深いトランス状態で
全く脈絡のないイメージが頭の中を駆け巡る体験をすることがありますが、
これがまさに、刺激に伴って無意識の連想が進んでいる状態だと考えられます。
意識では全く理解できない関連が、無意識レベルで起きているわけです。
記憶が断片の集合だというのも実感できる状態です。
おそらく、僕が複数の考えが同時に起きていることに気づく瞬間も
思考内容同士の連想や、外部刺激のトリガーによって
無意識で同時進行している処理を「強く捉えた」のでしょう。
僕にとっては、思考の内容や連想の内容が「意識に上がってきやすい情報」だ
という癖があるんだろうと思います。
白昼夢や、幽霊、オーラなどのイメージが視覚的にリアルに見えるのも
眼を通じてインプットされる外部情報以上に、
外部刺激や他者との同調から連想される視覚イメージが
「強く捉えられ」ることになって、『気になる』状態になるためだと考えます。
実際に光の反射を通じて視神経が捉える視覚情報以上に(もしくは同レベルで)
内的に連想される視覚イメージが「強く捉えられる」癖を持っているということです。
(その癖付けを後天的にしていくのがスピリチュアル系のトレーニングでしょう)
それに対してリアリティが高いわけですから、幻覚と呼ぶべきではないはずです。
人間の眼で知覚している情報さえ現実とは異なるわけですから
本人にとって見えている世界こそが、その人の本当の世界です。
誤解を恐れずに言えば、統合失調で幻覚が見えてしまうのも
トレーニングによってオーラが見えるようになるのも、
視神経が光によって知覚する外的な視覚情報以上に
無意識から沸き上がる内的な視覚情報にリアリティが高い
という意味では本質的な違いがないわけです。
誰もが無意識のレベルでは、そうした内的な視覚情報が生まれているのに、
それをリアリティを感じるほどに「強く捉えて」、
「気にする」ことができる癖を持っている人が少ないだけ。
そういう考え方です。
音楽が頭の中に鳴り響くのも同じです。
それがリアリティを伴いながら「強く捉えられ」過ぎれば、幻聴ということになります。
リアリティは低いけど、ある程度「強く捉えられる」と、
その音楽が『気になる』状態になる。
「さっきからずっと頭の中をあの曲が流れているんだよねぇ」という場合には、
どこかで聞いた音楽か連想された音楽が無意識に沸き起こり、
それが「強く捉えられる」と意識化されてしまって『気になる』わけです。
おそらく無意識のレベルでは、外部刺激や連想によって
音楽が呼び起こされることも頻繁に起きているのでしょう。
多くの人は、たまにその音楽が意識に上がってくるために
「さっきからあの曲が頭を離れない」という感想を持つのでしょうが、
しばらくすると別の情報が「強く捉えられる」ようになってきて
頭の中から音楽は消えてなくなるように感じられる、と考えられます。
まれに、無意識に音楽が呼び起こされたときに、
それを「強く捉える」癖を持っている人がいて、
その人は絶えず頭の中に音楽が流れているように感じられる、と。
結局、無意識では色々なことが沸き上がってきているけれども、
どの情報を、どれくらい強く捉えるか、という部分に人それぞれ癖があって、
そのことが体験に強く影響を与えていると僕は考えているわけです。
本を読むときに、心の中で音読している人は、もしかすると
心の中の音読の声を聞くために、外部の音が全て気になるかもしれません。
(僕はチョット違うプロセスなので分かりませんが)
僕は心の中、もしくは頭の中で、いくつかの考えを照らし合わせているようです。
メインの話の流れと関連することが、思考として「強く捉えられる」癖があるんでしょう。
ですから、静か過ぎる環境だと、思考としてのノイズが意識に上がってしまうんです。
外部環境としての雑音以上に、自分の無意識から沸き起こるノイズを拾ってしまって
結果的に集中力が落ちてしまう感じです。
ある程度のBGMや雑多な音の中に身を置くことで、本の内容の流れと
それに関連する内容に集中しながら理解が進むように思えます。
逆に、ハッキリと聞き取れる会話が近くにある場合の癖として
そちらの話の内容を「強く捉えて」意識化することになるので、
途端に本の内容に関連する心の中の声が聞こえなくなってしまうわけです。
どうやら僕は、無意識下で進行している複数の考えを
同時に捉える癖を持っているようです。
頭の中でディスカッションが進み、関連付けた理解と連想が起きている印象があります。
メインの流れと外れるような連想であっても重要そうな意見が出ることもありますから、
そうした考えは一度別の所に取り置きしておく場合もあります。
書き物をしている時には、その傾向が強く出てきます。
メインの流れは心の声を聞くのと同時にワープロでタイプされているか、
逆にワープロのほうが先に進行していますから、
連想されてきた考えも「強く捉えられる」のでしょう。
最近のブログでは少ないですが、連想されたことを別の場所に書きながら
ワープロ上の複数の箇所で同時に、少し違った内容が進行することもあります。
別々に書き進めて、あとで話を繋げるという感じ。
この記事でも同時進行で別の場所に書き留めておいて、後から繋げた部分もありますし、
最初は書く予定ではなかった内容が浮かんできて追加された部分も沢山あります。
そうした内容を聞きながら、別の場所では、全体的な構成を
視覚的に捉えているところもあるのに気づきます。
書き物は、こんな風に、いくつかの心の声を聞きながら進めたいので
些細な話し声やBGMも妨げになるようです。
書き物の作業は静かな環境が好きなのも、
無意識の処理が意識化されるプロセスを考えると納得できました。
人それぞれ集中できる環境は違うと思いますが、
そこには無意識の処理がどの程度、雑念として意識化されるかが
大きく関わっているように思います。
色々な意識化の癖があると考えていますので、
ご自分の癖に気づけた方は教えて頂けると嬉しいです。
2009年03月06日
数字の魔力
数字には、どこか人を説得する力があるような気がします。
特にそれが細かい数字になったときには。
裏付けのようにさえ受け取られるわけです。
コミュニケーションや心理学で有名な数字として
「メラビアンの法則」がありますが、根拠はともかくとして
数字で示されると、なんとなく納得してしまう人は少なくないようです。
特にメラビアンの法則はデータだけが独り歩きをしているようで
実際の実験内容からは到底導けないような結論が語られたりします。
「コミュニケーションで言葉の占める割合は7%に過ぎない」なんて。
冷静に考えれば変なところがあるはずです。
言葉の内容を関係なく93%もコミュニケーションが成立するなら、
なぜ多くの人が英会話を頑張って勉強するのか、という疑問が沸いてきます。
それに対しても様々な考え方があって、インターネットを調べてみると
「初対面の場合において」とか、「相手に与える印象は」とか、
様々な条件が設定されて語られることもあるようです。
確かに「印象」という部分では言葉の内容以外も大きいでしょう。
ただ、元の実験内容と、得られたデータが何を示していたのか、
という点を無視して話を進めるのは乱暴なことだと思えます。
実際のメラビアンの実験は、一説によると
「言葉の内容・声のトーン・表情の3つの要素に矛盾があるとき
人はどの要素を重視するか」ということを調べたものなのだとか。
そういう意味では、「感情や気持ちを感じ取る場合には
多くの人が表情を大事だと考えているようだ」という考えぐらいなら
解釈として外れてはいないのかもしれません。
データは実験がなされた状況とセットにして初めて意味を持つものです。
数字だけが独り歩きするのは誤解を生みやすいはずです。
7%という数字のデータを示しながら
「メラビアンの法則」という名称を出されてしまうと、
その内容について考えることをしないで納得しやすくなる場合がある。
だからこそ、データの扱いは慎重にすべきだと思うんです。
同様にコミュニケーションで見た目が大事だということを主張するときに
割りと良く使われるデータとして、
「人間の五感が使われる割合は、視覚87%、聴覚7%、触覚3%、嗅覚2%、味覚1%」
というものがあります。
調べてみると見つかってくるものですが、根拠が分かりません。
何のデータなのか、何を調べようとしたものなのか、さっぱり分かりません。
にも関わらず、このデータを元に「だから見た目が大事」という主張がされてしまう。
そういうものには気をつける必要がありそうです。
ちなみに、マンフレート・ツィメルマンの実験によると
「人間の視覚系は毎秒1000万ビットの情報量を知覚し、
触覚系は100万ビット、聴覚と嗅覚は10万ビット、味覚は1000ビットを知覚している」
というデータが得られているそうです。
実験内容は僕自身で調べてはいませんが、どうやら生理学的なデータの様子。
無意識レベルでの感覚器が受け取る情報量は上記のようになるようです。
で、これを数字的に整理すると視覚情報は全体の89%になるので
意外と「視覚87%」というデータに近い感じになります。
ただ、このデータを元にすると、聴覚は1%で触覚が9%になりますから
聴覚と触覚の順番が逆になってしまいます。
単純な数字だけ見ても色々な結果が出てきてしまうわけです。
数字には慎重になる必要がありそうですし、逆に言えば、
数字を効果的に使うと影響力を高められるということにもなりそうです。
特にそれが細かい数字になったときには。
裏付けのようにさえ受け取られるわけです。
コミュニケーションや心理学で有名な数字として
「メラビアンの法則」がありますが、根拠はともかくとして
数字で示されると、なんとなく納得してしまう人は少なくないようです。
特にメラビアンの法則はデータだけが独り歩きをしているようで
実際の実験内容からは到底導けないような結論が語られたりします。
「コミュニケーションで言葉の占める割合は7%に過ぎない」なんて。
冷静に考えれば変なところがあるはずです。
言葉の内容を関係なく93%もコミュニケーションが成立するなら、
なぜ多くの人が英会話を頑張って勉強するのか、という疑問が沸いてきます。
それに対しても様々な考え方があって、インターネットを調べてみると
「初対面の場合において」とか、「相手に与える印象は」とか、
様々な条件が設定されて語られることもあるようです。
確かに「印象」という部分では言葉の内容以外も大きいでしょう。
ただ、元の実験内容と、得られたデータが何を示していたのか、
という点を無視して話を進めるのは乱暴なことだと思えます。
実際のメラビアンの実験は、一説によると
「言葉の内容・声のトーン・表情の3つの要素に矛盾があるとき
人はどの要素を重視するか」ということを調べたものなのだとか。
そういう意味では、「感情や気持ちを感じ取る場合には
多くの人が表情を大事だと考えているようだ」という考えぐらいなら
解釈として外れてはいないのかもしれません。
データは実験がなされた状況とセットにして初めて意味を持つものです。
数字だけが独り歩きするのは誤解を生みやすいはずです。
7%という数字のデータを示しながら
「メラビアンの法則」という名称を出されてしまうと、
その内容について考えることをしないで納得しやすくなる場合がある。
だからこそ、データの扱いは慎重にすべきだと思うんです。
同様にコミュニケーションで見た目が大事だということを主張するときに
割りと良く使われるデータとして、
「人間の五感が使われる割合は、視覚87%、聴覚7%、触覚3%、嗅覚2%、味覚1%」
というものがあります。
調べてみると見つかってくるものですが、根拠が分かりません。
何のデータなのか、何を調べようとしたものなのか、さっぱり分かりません。
にも関わらず、このデータを元に「だから見た目が大事」という主張がされてしまう。
そういうものには気をつける必要がありそうです。
ちなみに、マンフレート・ツィメルマンの実験によると
「人間の視覚系は毎秒1000万ビットの情報量を知覚し、
触覚系は100万ビット、聴覚と嗅覚は10万ビット、味覚は1000ビットを知覚している」
というデータが得られているそうです。
実験内容は僕自身で調べてはいませんが、どうやら生理学的なデータの様子。
無意識レベルでの感覚器が受け取る情報量は上記のようになるようです。
で、これを数字的に整理すると視覚情報は全体の89%になるので
意外と「視覚87%」というデータに近い感じになります。
ただ、このデータを元にすると、聴覚は1%で触覚が9%になりますから
聴覚と触覚の順番が逆になってしまいます。
単純な数字だけ見ても色々な結果が出てきてしまうわけです。
数字には慎重になる必要がありそうですし、逆に言えば、
数字を効果的に使うと影響力を高められるということにもなりそうです。
2009年03月04日
議論の結果
いつの頃からか、僕は本を読むときに議論をするような傾向が強まってきているようです。
以前から本の内容を鵜呑みにすることは少なかったとは思いますが
最近は本と対話をするような感じが強まってきていることに気づきます。
場合によっては読んでいて腹が立ってくることも。
いや、「場合によって」ではなくて、結構頻繁にあるかもしれません。
新しいことが学べていないのではないかと反省することもあります。
素直に勉強になる本も沢山ありますが、それは新しく興味を持った分野であったり、
比較的高額で厚みがあって読むのに時間のかかる本であったりします。
もちろん手軽な本でも勉強になるものはありますし、
専門書でもイライラしてくるものもあります。
読みながら気をつけているつもりなのは、
「自分の考えと同じような内容が書いてあると納得できる」ということには
ならないように意識する点です。
僕の場合、情報は全て客観的なものとして捉えようとする傾向がありますから
本に書かれている内容も一冊分だけではなくて、
他からの情報と照らし合わせるようにしながら読み進むことになります。
これは研究職をしていた頃の論文の読み方と似ています。
他の情報から作られる理論的な体系を、新しい情報が入るたびにアレンジする。
その際に、どうアレンジしても辻褄が合わないところがあれば
それは変なところがあるのではないか、と考え始めるわけです。
論文の場合は、雑誌に掲載されるまでの間に専門家からチェックが入りますから
そうした他の情報と矛盾するような結果に関してはシビアに判断されていきます。
筋が通らない話は十分に議論し尽くされていないと発表できないものなんです。
ところが本の場合は違います。
本に書かれている情報は、他で知られている内容との関係に関わらず
著者自身の考えを述べてしまっているケースが多いように思います。
編集者は読みやすさや論理展開の構成や、売れるための工夫はしてくれるようですが、
本の内容に対する専門家ではありませんから著者の考えをチェックすることはできません。
その分野の専門家が見れば明らかに間違った情報であっても見逃される可能性があります。
実用書は専門家が書くわけですし、専門書の中には
別の専門家に内容をチェックしてもらってから出版に至るものもあるそうですから、
そうした本では矛盾点や明らかな間違いというのは少ないかと思います。
それがビジネス書や自己啓発書となると話は別です。
正解や根拠を明確にしずらい分野なのでしょう。
著者の体験談や個人的な考え、誰かが言っていた話の引用などが増えてきます。
そうすると、僕が読んでいて納得できないものが出てくるようなんです。
「納得できない」「おかしなことを言っている」と感じるのは
色々なケースであることですが、頻繁に不満を覚えるのは矛盾を感じるときです。
著者が語っていることが、一冊の本の中で辻褄の合わないことであったり、
論理的な飛躍が大き過ぎたりすると、納得できない気持ちが沸いてきます。
「どうして、そう言えるんだ?」と思うんです。
この気持ちの裏には何かを学び取りたいという想いがあるような気がします。
何かを得たいという気持ちがあるんです。
日常のコミュニケーションでは、相手の話を聞きながら
積極に勉強しようというモードにはなりません。
結果的に勉強になることはあっても、意識的に学び取りにいく時とは違う印象があります。
本を読むときやセミナーを受けるときは、自分から学び取りにいく姿勢があるようです。
納得したい気持ちがあるんです。
自分の世界の中に取り込みたいと思っているんでしょう。
一方、日常会話では相手の話を聞いてはいても、
自分の世界に取り入れようとはしていません。
相手の話は相手の世界のものだと分けているところがあります。
相手に何が起きて、どのように感じていたか。
その内容を納得できるまでに必要な情報が欲しくて質問させてもらうことはありますが、
それは相手の世界を知りたいと思うから出てくる行為だと思います。
相手の話を、相手の世界として理解しようとするという感じでしょうか。
相手の話の内容に肉付けをしていって、相手の世界を作り上げるイメージです。
相手の話を自分の世界に照らし合わせる作業は出てきません。
「自分だったら、こうするのに…」とか
「なんで、そんな風に思うんだろう?」とか、
「変なことを言うなぁ」とかは思わない癖があるようです。
むしろ、相手の話を聞いていて、相手が表現しているメッセージだけでは
どうしてそういう受け取り方になるのかが理解できないときに、
相手がそう感じるのも当然だと思えるように足りない情報を聞くんです。
どういう状況だったのかを明確にして、
どういう思いがあったのかを把握していく。
「なるほどね。そりゃ、そうだよね。」と思えるように質問をする感じです。
そこには客観的な一般論や、自分の世界観は関与しないようです。
相手の世界観では当然の内容が語られているんです。
それを理解するには、相手の世界観を理解する必要があると思います。
ちなみに、カウンセリングの時には少し事情が違います。
もっと積極的に相手を感じ取りにいきます。
クライアントの世界観、つまりクライアントが困る理由を把握するよりも先に、
クライアントが感じている気持ちを受け取るほうが先です。
クライアントの世界観を把握していなくても、
それはクライアントが分かっていれば、本人が方向性を決められます。
クライアントの世界観に入り込んでしまっては、一緒に困ってしまうだけです。
気持ちを感じ取りながら、必要なお手伝いを選択する立場だということです。
そこには、一般論からの視点が役立つ場合もあるんです。
カウンセリングやコーチングという特殊なコミュニケーション形態では
相手の現状から望ましい方向へ変化していくことが前提です。
ですから相手の世界観だけで話を聞くことはありません。
相手の世界を尊重しながら進行はしていきますが、
相手の世界そのものに入り込んでいるだけではないわけです。
むしろ、日常のコミュニケーションのほうが
相手の世界を尊重する度合いが高いと思います。
日常のコミュニケーションで相手の変化に関わる必要はないからです。
相手が、相手自身の世界観から発しているメッセージに対して、
世間一般の視点や自分自身の世界観からの視点を差し挟む必要はないと思うんです。
相手の話を聞きながら矛盾があるとか、辻褄が合わないとか、
納得ができないとか、そういう不満を持つことはありません。
当然、日常生活で不満を感じる場面はありますが、
話の内容に納得できないことで不満になるわけではないということです。
本を読むときは事情が違うんです。
本を読む作業は、自分の世界に相手の情報を取り込もうとする作業です。
日常のコミュニケーションで話を聞く時とは別の状態なんです。
主体は自分の世界。
本の情報を取り込んで、自分の一部にしていきたいわけです。
分かっていることを読むとき、知っていることを読むときは
自分の世界の中に別の言葉が追加されていく感じです。
知らなかったこと、新しい情報を取り入れていくときは
自分の世界の中の余白が埋められていく感じなんです。
反発が生まれるのは、自分の中に取り込むと矛盾が生まれる内容です。
新しいことに反発があるわけではなく、自分の中の全体として
整合性が取れなくなってしまう部分に反発があるんです。
本で学んでいる情報のほうが整合性が取れて
全体をより良いものにしてくれそうであれば、
今まで自分の中にあったものの中から矛盾の生まれる部分を捨てることになります。
その作業には抵抗がありません。
自分の世界を崩されるのに反発があるのではなく、
取り入れようとしている情報自体が崩れてしまう印象なんです。
「他の理論や別の事例だと説明がつかなくなってしまいますよ」
「それだけでは十分な理由になっていませんよ」
という具合に反論が出てきてしまいます。
本の内容と議論をしているわけです。
議論をした結果、「やっぱりそうだよね」と同意することもあります。
これは自分と同じ考えを別の言葉で書かれた本を読んだ場合でしょう。
議論の結果、「なるほど、そういう考えか」と納得することもあります。
自分の世界に新しい視点が加わって、世界が修正されます。
良い本に出会ったと感じる場合です。
議論にならず、「はぁ、そういうものか」と知識を得ることもあります。
自分の知らない分野、新しい知識を得られる本を読んだ場合は、こうなります。
議論の結果、「それは、おかしいんじゃないの?」と不満になることもあります。
他の情報との関連が説明できないような内容に対しては納得できません。
反論の結果、僕の中で本の内容が否決されてしまいます。
残念な気持ちになる場合です。
鵜呑みにする危険が少なくなってきたとも言えるし、
謙虚さがなくなってきたとも言えるかもしれません。
ただ、こうした不満が増えてくると、
読む本の傾向が変わってくるような予感もあったりします。
以前から本の内容を鵜呑みにすることは少なかったとは思いますが
最近は本と対話をするような感じが強まってきていることに気づきます。
場合によっては読んでいて腹が立ってくることも。
いや、「場合によって」ではなくて、結構頻繁にあるかもしれません。
新しいことが学べていないのではないかと反省することもあります。
素直に勉強になる本も沢山ありますが、それは新しく興味を持った分野であったり、
比較的高額で厚みがあって読むのに時間のかかる本であったりします。
もちろん手軽な本でも勉強になるものはありますし、
専門書でもイライラしてくるものもあります。
読みながら気をつけているつもりなのは、
「自分の考えと同じような内容が書いてあると納得できる」ということには
ならないように意識する点です。
僕の場合、情報は全て客観的なものとして捉えようとする傾向がありますから
本に書かれている内容も一冊分だけではなくて、
他からの情報と照らし合わせるようにしながら読み進むことになります。
これは研究職をしていた頃の論文の読み方と似ています。
他の情報から作られる理論的な体系を、新しい情報が入るたびにアレンジする。
その際に、どうアレンジしても辻褄が合わないところがあれば
それは変なところがあるのではないか、と考え始めるわけです。
論文の場合は、雑誌に掲載されるまでの間に専門家からチェックが入りますから
そうした他の情報と矛盾するような結果に関してはシビアに判断されていきます。
筋が通らない話は十分に議論し尽くされていないと発表できないものなんです。
ところが本の場合は違います。
本に書かれている情報は、他で知られている内容との関係に関わらず
著者自身の考えを述べてしまっているケースが多いように思います。
編集者は読みやすさや論理展開の構成や、売れるための工夫はしてくれるようですが、
本の内容に対する専門家ではありませんから著者の考えをチェックすることはできません。
その分野の専門家が見れば明らかに間違った情報であっても見逃される可能性があります。
実用書は専門家が書くわけですし、専門書の中には
別の専門家に内容をチェックしてもらってから出版に至るものもあるそうですから、
そうした本では矛盾点や明らかな間違いというのは少ないかと思います。
それがビジネス書や自己啓発書となると話は別です。
正解や根拠を明確にしずらい分野なのでしょう。
著者の体験談や個人的な考え、誰かが言っていた話の引用などが増えてきます。
そうすると、僕が読んでいて納得できないものが出てくるようなんです。
「納得できない」「おかしなことを言っている」と感じるのは
色々なケースであることですが、頻繁に不満を覚えるのは矛盾を感じるときです。
著者が語っていることが、一冊の本の中で辻褄の合わないことであったり、
論理的な飛躍が大き過ぎたりすると、納得できない気持ちが沸いてきます。
「どうして、そう言えるんだ?」と思うんです。
この気持ちの裏には何かを学び取りたいという想いがあるような気がします。
何かを得たいという気持ちがあるんです。
日常のコミュニケーションでは、相手の話を聞きながら
積極に勉強しようというモードにはなりません。
結果的に勉強になることはあっても、意識的に学び取りにいく時とは違う印象があります。
本を読むときやセミナーを受けるときは、自分から学び取りにいく姿勢があるようです。
納得したい気持ちがあるんです。
自分の世界の中に取り込みたいと思っているんでしょう。
一方、日常会話では相手の話を聞いてはいても、
自分の世界に取り入れようとはしていません。
相手の話は相手の世界のものだと分けているところがあります。
相手に何が起きて、どのように感じていたか。
その内容を納得できるまでに必要な情報が欲しくて質問させてもらうことはありますが、
それは相手の世界を知りたいと思うから出てくる行為だと思います。
相手の話を、相手の世界として理解しようとするという感じでしょうか。
相手の話の内容に肉付けをしていって、相手の世界を作り上げるイメージです。
相手の話を自分の世界に照らし合わせる作業は出てきません。
「自分だったら、こうするのに…」とか
「なんで、そんな風に思うんだろう?」とか、
「変なことを言うなぁ」とかは思わない癖があるようです。
むしろ、相手の話を聞いていて、相手が表現しているメッセージだけでは
どうしてそういう受け取り方になるのかが理解できないときに、
相手がそう感じるのも当然だと思えるように足りない情報を聞くんです。
どういう状況だったのかを明確にして、
どういう思いがあったのかを把握していく。
「なるほどね。そりゃ、そうだよね。」と思えるように質問をする感じです。
そこには客観的な一般論や、自分の世界観は関与しないようです。
相手の世界観では当然の内容が語られているんです。
それを理解するには、相手の世界観を理解する必要があると思います。
ちなみに、カウンセリングの時には少し事情が違います。
もっと積極的に相手を感じ取りにいきます。
クライアントの世界観、つまりクライアントが困る理由を把握するよりも先に、
クライアントが感じている気持ちを受け取るほうが先です。
クライアントの世界観を把握していなくても、
それはクライアントが分かっていれば、本人が方向性を決められます。
クライアントの世界観に入り込んでしまっては、一緒に困ってしまうだけです。
気持ちを感じ取りながら、必要なお手伝いを選択する立場だということです。
そこには、一般論からの視点が役立つ場合もあるんです。
カウンセリングやコーチングという特殊なコミュニケーション形態では
相手の現状から望ましい方向へ変化していくことが前提です。
ですから相手の世界観だけで話を聞くことはありません。
相手の世界を尊重しながら進行はしていきますが、
相手の世界そのものに入り込んでいるだけではないわけです。
むしろ、日常のコミュニケーションのほうが
相手の世界を尊重する度合いが高いと思います。
日常のコミュニケーションで相手の変化に関わる必要はないからです。
相手が、相手自身の世界観から発しているメッセージに対して、
世間一般の視点や自分自身の世界観からの視点を差し挟む必要はないと思うんです。
相手の話を聞きながら矛盾があるとか、辻褄が合わないとか、
納得ができないとか、そういう不満を持つことはありません。
当然、日常生活で不満を感じる場面はありますが、
話の内容に納得できないことで不満になるわけではないということです。
本を読むときは事情が違うんです。
本を読む作業は、自分の世界に相手の情報を取り込もうとする作業です。
日常のコミュニケーションで話を聞く時とは別の状態なんです。
主体は自分の世界。
本の情報を取り込んで、自分の一部にしていきたいわけです。
分かっていることを読むとき、知っていることを読むときは
自分の世界の中に別の言葉が追加されていく感じです。
知らなかったこと、新しい情報を取り入れていくときは
自分の世界の中の余白が埋められていく感じなんです。
反発が生まれるのは、自分の中に取り込むと矛盾が生まれる内容です。
新しいことに反発があるわけではなく、自分の中の全体として
整合性が取れなくなってしまう部分に反発があるんです。
本で学んでいる情報のほうが整合性が取れて
全体をより良いものにしてくれそうであれば、
今まで自分の中にあったものの中から矛盾の生まれる部分を捨てることになります。
その作業には抵抗がありません。
自分の世界を崩されるのに反発があるのではなく、
取り入れようとしている情報自体が崩れてしまう印象なんです。
「他の理論や別の事例だと説明がつかなくなってしまいますよ」
「それだけでは十分な理由になっていませんよ」
という具合に反論が出てきてしまいます。
本の内容と議論をしているわけです。
議論をした結果、「やっぱりそうだよね」と同意することもあります。
これは自分と同じ考えを別の言葉で書かれた本を読んだ場合でしょう。
議論の結果、「なるほど、そういう考えか」と納得することもあります。
自分の世界に新しい視点が加わって、世界が修正されます。
良い本に出会ったと感じる場合です。
議論にならず、「はぁ、そういうものか」と知識を得ることもあります。
自分の知らない分野、新しい知識を得られる本を読んだ場合は、こうなります。
議論の結果、「それは、おかしいんじゃないの?」と不満になることもあります。
他の情報との関連が説明できないような内容に対しては納得できません。
反論の結果、僕の中で本の内容が否決されてしまいます。
残念な気持ちになる場合です。
鵜呑みにする危険が少なくなってきたとも言えるし、
謙虚さがなくなってきたとも言えるかもしれません。
ただ、こうした不満が増えてくると、
読む本の傾向が変わってくるような予感もあったりします。
2009年03月02日
石焼イモ
寒い日、薪の焦げる匂いと芋の甘い香りが漂ってくる。
焼き芋。
2つに割ると立ち上がる湯気。
皮の茶色と実の黄色のコントラスト。
ホクホクとした甘さ。
たまに焼き芋が食べたくなります。
時折、近所を石焼きイモの車が通ると「いいなぁ」と思いますが、
寒い中を外に出ていってまで買うとなると少しハードルが高いですね。
外を歩いているときに通りがかる焼きイモ屋だからこそ
寒さの中で惹かれるところが大きいのかもしれません。
昨日、駅の近くを歩いていたら、石焼きイモの屋台の車が
あの「やーきいもー、やきいも、石焼ーきイモー…」という声を響かせていました。
ただし、猛スピードで。
軽トラックですから60kmぐらい出るのは当然ですが、
焼きイモの声をスピーカーから流しながら、その速さで走るのは
ちょっと異様な光景でした。
あの焼きイモの声で、ドップラー効果を感じるほどでしたから。
目の前を通り過ぎると声が低くなる。
あっという間に通り過ぎていく焼きイモ屋を誰が止めるんだろうと思います。
…まぁ、移動中だっただけだとは思いますが、
それならスピーカーを止めておけば良さそうな気もします。
さて、僕はこの石焼きイモの声を聞くと、ある歌を思い出します。
ブリーフ&トランクスの『石焼イモ』。
2000年に有線などで少しヒットした曲です。
石焼イモ
石焼きイモのフレーズをそのままメロディーに変え、
曲に発展させていったという話ですが、これが意外と良い歌なんです。
青春です。
歌詞はここに載っています。
youtubeで検索しても出てきますが、PVの画像がチョットふざけているので
曲だけを聴いてもらう形をオススメします。
画面を最小化するとか、目をつぶるとか、別画面にするとか、してみて下さい。
歌詞の内容は、高校生カップルの場面から始まります。
二人の関係の大切な場面で、必ず邪魔をしてくれる「石焼きイモ」の声。
苦々しい思いを感じながら彼らは成長していきます。
そして結婚。
しかし家庭を持った二人の間には徐々にすれ違いが…。
そんな時に窓の外から聞こえてくる「石焼きイモ」の声。
その声で、当時の記憶が蘇ってくる。
あの時には邪魔で仕方なかった「石焼きイモ」の声が、今では懐かしくさえある。
その頃の思いを思い出した二人は、再び…。
なんていうストーリー展開なわけです。
「石焼きイモ」の声にアンカリングされていた思い出。
その感じが、ふざけ半分な感じの曲の中で1つのドラマを作っています。
世の中の歌は抽象的で、なんとでも取れる歌詞が多いものですが、
この曲は抒情的なエピソードとして映画のような味わいを見せてくれる気がします。
ふざけた名曲です。
日テレの「誰も知らない泣ける歌」に出てきても良いくらいじゃないでしょうか。
焼き芋。
2つに割ると立ち上がる湯気。
皮の茶色と実の黄色のコントラスト。
ホクホクとした甘さ。
たまに焼き芋が食べたくなります。
時折、近所を石焼きイモの車が通ると「いいなぁ」と思いますが、
寒い中を外に出ていってまで買うとなると少しハードルが高いですね。
外を歩いているときに通りがかる焼きイモ屋だからこそ
寒さの中で惹かれるところが大きいのかもしれません。
昨日、駅の近くを歩いていたら、石焼きイモの屋台の車が
あの「やーきいもー、やきいも、石焼ーきイモー…」という声を響かせていました。
ただし、猛スピードで。
軽トラックですから60kmぐらい出るのは当然ですが、
焼きイモの声をスピーカーから流しながら、その速さで走るのは
ちょっと異様な光景でした。
あの焼きイモの声で、ドップラー効果を感じるほどでしたから。
目の前を通り過ぎると声が低くなる。
あっという間に通り過ぎていく焼きイモ屋を誰が止めるんだろうと思います。
…まぁ、移動中だっただけだとは思いますが、
それならスピーカーを止めておけば良さそうな気もします。
さて、僕はこの石焼きイモの声を聞くと、ある歌を思い出します。
ブリーフ&トランクスの『石焼イモ』。
2000年に有線などで少しヒットした曲です。
石焼イモ
石焼きイモのフレーズをそのままメロディーに変え、
曲に発展させていったという話ですが、これが意外と良い歌なんです。
青春です。
歌詞はここに載っています。
youtubeで検索しても出てきますが、PVの画像がチョットふざけているので
曲だけを聴いてもらう形をオススメします。
画面を最小化するとか、目をつぶるとか、別画面にするとか、してみて下さい。
歌詞の内容は、高校生カップルの場面から始まります。
二人の関係の大切な場面で、必ず邪魔をしてくれる「石焼きイモ」の声。
苦々しい思いを感じながら彼らは成長していきます。
そして結婚。
しかし家庭を持った二人の間には徐々にすれ違いが…。
そんな時に窓の外から聞こえてくる「石焼きイモ」の声。
その声で、当時の記憶が蘇ってくる。
あの時には邪魔で仕方なかった「石焼きイモ」の声が、今では懐かしくさえある。
その頃の思いを思い出した二人は、再び…。
なんていうストーリー展開なわけです。
「石焼きイモ」の声にアンカリングされていた思い出。
その感じが、ふざけ半分な感じの曲の中で1つのドラマを作っています。
世の中の歌は抽象的で、なんとでも取れる歌詞が多いものですが、
この曲は抒情的なエピソードとして映画のような味わいを見せてくれる気がします。
ふざけた名曲です。
日テレの「誰も知らない泣ける歌」に出てきても良いくらいじゃないでしょうか。