2009年05月

2009年05月08日

ズーム

僕が研究職をしていたときからずっとやってきたことで、
今の仕事でも相変わらず続けていることは、
 『細かく分けてみる』
ということです。

もう少し正確に言うと、ただ細かくするだけではなく
全体と部分とを相互に関連付けて理解していくというプロセス。

googleマップをイメージしてもらえばいいかもしれませんが、
ストリートビューから世界地図までを、自在にズームイン・ズームアウトできる感じ。

そして瞬間を切り取りながらも、その中にダイナミックな要素というか
動きが予測できるような感じを体の中にイメージしているようです。

なので、たとえばゴルフの連続写真を見ても途中のコマのイメージができますし、
動画をスローモーションで見るときと変わらないくらいの印象を受けています。

また、ある1コマを見ても、実際の動きを静止画にしたものであれば
その前後の動きや躍動感というのを身体感覚的に感じたりもします。

動画を見ても、静止画を見ても、そのなかで動いている様子を
動きの細部から、全体としての相互作用までを同時に、
自分の体の感覚と画像でイメージしながら感じ取っているんです。

これ特定の部位に集中することもできるし、
ある範囲をまとめて意識することもできるし、
全体的な印象を感じることもできる。
そうなるように、部分と全体の関係を常に意識しているというわけです。

もちろん、そうしたイメージは直観的なものですから、
推測と言えばそれまでです。
正しいかどうかの保証はありません。

とはいえ、そうやって理解してきたものが1つのモデルとして役立っているわけですから、
あながち間違っていないんじゃないかと思っていたりします。


僕のそうした特徴は、思い返すと色々なところで発揮されていたようです。

たとえば、高校時代。

僕は大概の授業中を退屈に感じる傾向がありました。
簡単だったわけでなく、多くの人が高校生ぐらいの頃に体験したことのあるだろう
集中力を切らしてしまったときの感じです。

大学くらいからは退屈になると眠気が襲ってくるようになってきましたが
高校生くらいの頃は元気があったんでしょうね、
暇になっても眠くなることはなく、時間の進むのだけを待っていた記憶があります。

そんなときに僕が暇つぶしにしていたのが、机の上の落書き。
僕の机の上はキャンバスでした。
高校の机は水色に塗装されていたので、鉛筆画がよく映えました。

で、キャンバスに絵が描かれる被写体は、その授業の担当教員。
似顔絵を描いていたんです。

単純に特徴をつかんだだけのマンガっぽい絵で描くと
あっという間に書き終わってしまいますから、かなり詳細に描いていました。
鉛筆でデッサンをしていたわけです。

ただ、美術の時間にするデッサンと違うのは、被写体が動き回っていることでした。
表情も、向きも、場所も、絶えず動き回っている状態。
そこから特定のカットを切り出して、似顔絵にしていたんです。

評判は上々。
文字通りの「自画自賛」ですが、上野公園で似顔絵を描いているオジサンたちの絵よりも
似ているヤツが結構あったと思います。

うちの高校は、時々、選択科目というのをやる時間があって、
そのときには教室を移動して普段と違うクラスのメンバーで授業を受けていたんです。

当然、僕のいつもの教室も、何かの選択科目の授業で使われます。
すると、選択科目が終わって、いつもの机に戻ってきたとき
僕の机の上には「次は宮田先生で」というようなリクエストが。

どこの誰だか分らない人たちを相手に似顔絵描きをしていたわけです。


また、大学で研究室に配属になったころ、
研究室対抗で草野球大会をすることがありました。

僕は以外と野球選手のモノマネが得意なようで、
ここでも僕が打席に立つと相手チームのメンバーから
モノマネのリクエストがかかっていたのを思い出します。

記憶にないものはマネのしようがありませんが、
目の前にいる人のマネをするのであれば、割りと短時間で
かなりの精度のところまでは模倣できたのを覚えています。

その人の動きを見ているときに、イメージを体の中で作り上げ、
自分の体を通してシミュレーションをしているのでしょう。
実際にやるときは、それを再現してみて、微調整を加えていくわけです。

見たものの細部から全体の動きの組み合わせまでを捉えるようにして
それを記憶の中で形作っているんだと思います。


しかしながら、僕の中には苦手な分野の運動というのもあって、
それは、こうして振り返ってみると、具体的な運動のイメージが作れていないままに
漫然と体を動かしていたものだったような気がします。

そして、自分が過去にやってきたことを振り返って分析してみるときのプロセスも
同様に、細かい部分に分割しながら全体と関連付ける傾向に基づいている。

僕の中では物事を理解するときの基本的な戦略なのかもしれません。

ただし、ズームインしていくときには途中経過の段階、
つまり特定の範囲に意識を集中しているような中間段階を通っていかないと
物凄く細かい部分まではズームインしてアップに見ることが難しいようなんです。

ですから、いきなり細かい部分だけを箇条書きで列挙していくような、
まったく無関係なところから思いつくままに断片を拾っていくような方法は、
僕にとって非常に苦痛です。

ズームインの方向が示されれば楽になるんですが…。

googleマップのイメージで説明すると、
地図を調べたい地域を画面の中心にしてズームインする雰囲気と似ていて、
日本にズームインしていく途中で、関東地方に中心を合わせて、
それから再びズームインして、東京に中心を合わせて…
という具合に細かい部分に入り込んでいく感じでしょうか。

たとえば、地球の夜の様子を宇宙からの写真に撮って、
それでgoogleマップのようなものを作ると、夜に明るい地域が
スポットライトに照らされたような地図が出来ると思います。

明るい地域は人口が多いとか繁華街があるとか、
そうした文化的な指標を持っているはずです。

で、この夜の明るさを見ることのできるマップを使って、
「半径50km以上にわたって明るい場所を見つかるだけ探してください」
という指示を出されたとしたら、どうやって探すだろうかということです。

全体を広く見ていただけでは、なんとなく明るい場所は分かるけれども、
その範囲が半径50km以上にわたっているかどうかを確認するのは困難です。

だからといってズームインして詳細な地図を見てばかりいたら
近くにある他の明るい場所を探すことさえ困難になります。
やみくもに地図をスクロールして明るいところに当たるまで動かしてみるだけ。

そうすると効率的にできるのは、全体が見える地図の状態で明るいところを探し、
その場所を中心にズームインしていって条件を満たしているかを確認する方法でしょう。

1つの地域が見つかったら再びズームアウトして全体を眺め
また特定の候補の地域を見つけて、その場所にズームインしていく。

東京の中で条件を満たす地域が見つかったら、
世界地図の大きさにまではズームアウトせずに、
関東地方ぐらいのサイズまでズームアウトして他の場所を探す。

そして横浜にズームインして調べて、再び関東地方サイズにズームアウト、
次は千葉にズームインして調べ、再び関東地方にズームアウト、次は埼玉…。

という具合に網羅していく。
関東地方が一通り調べられたら次は東海に移って調べ…。

そんな感じが効率的でしょう。

東京を調べた後、東京地図のサイズのままで地図をスクロールして
名古屋が見つかるというやり方もあるかもしれませんが、僕には少し難しいんです。


自分の中の記憶をたどっていくときにも、僕はやっぱり
ズームインとズームアウトを繰り返しながら進めていくのが合う気がします。

人に個性があるのは当然ですが、物事を考えたり理解したり探ったりするプロセスにも
その人なりの個性があるわけです。

効果的にできる方法があれば、それを続けるのが妥当だとは思いますが、
普段と違うことをやってみるのもトレーニングとしては無駄じゃないんでしょうか。

セミナーで記入式のワークによって自分の記憶を探索するようなときには
記入用シートを作成した人の探索のパターンに引っ張られることになります。

その方法を利用するのも1つのやり方だとは思います。
それにストレスを感じる人もいます。

その方法自体を身につけることが役立つのであれば
ストレスをかけてでも努力して取り組むことが重要でしょうが、
目的が方法の習得よりも結果にあるのであれば、
個人に合ったやり方で取り組んでもらうに越したことはないように思います。

作業の結果に意味があるのなら、作業の進め方は相手に合わせる。
作業の進め方を学ぶことに意味があるなら、トレーニングとして行う。

とはいえ、色々な方法ができるようにトレーニングするのも
どこかで役に立つものかもしれません。

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2009年05月06日

お好きなように

経験によって学習されてきたパターンは、
多くの場合、幼少期の影響を強く受けていると考えられます。

生まれる環境が違えば、育ち方が違う。
その後の人生も当然のように違ってきます。

日本に生まれるのと、アメリカに生まれるのと、アフリカに生まれるのでは
どのような人生になるかは全く別物でしょう。

同じ日本に生まれていても、東京に生まれるのと、大阪に生まれるのと、
北海道に生まれるのと、沖縄に生まれるのとでも、影響は違うはずです。

国の影響は経済的、文化的なものもあれば、言語レベルのものもあります。
地域差もまた文化の違いを生み出すでしょうし、それが人に与える影響もあるでしょう。

同じ国、同じ地域の、となり同士の家に生まれた二人であっても
それぞれの家庭が違うというのも避けられません。

家族の習慣も、周囲の考え方も、置かれている状況は全て異なるわけです。

その意味では、自分がどこに生まれるかというのは非常に大きいと言えます。

精神分析では
「良い母親の元に生まれることは、
 銀のスプーンを持って生まれることよりも、はるかに大切だ」
というような言い方をすることがあるようですが、
これはまさに生まれ育つ環境が人に与える影響の大きさを述べた考えでしょう。

確かにこの側面は大きい。
僕も今の自分があるのは、確実に育ってきた環境に依存していると思います。

そのことについて、もう少し運命論的な考え方をする場合には、
「その家庭を選んで生まれてきている」と見ることもあるようです。

ただ個人的には、自分は今の環境に生きてきたことが当然だと思えるほど
他の何者かに人生を決定されているとは考えてはいません。

だからこそ、今の自分に生まれてきた偶然に感謝するような気持ちがあります。

「運が良かったなぁ…、でも、それが自分だし…」と複雑な想いだったりもします。
自分が自分に生まれてきていて、他の誰かに生まれてきていないことに
偶然というか、運命というか、不思議な感謝の気持ちがあるんです。


人は生まれてきた瞬間から、それぞれ違っている。
その後の人生もまた、当然のように違っている。
生きていく環境が違えば、人生が違うということです。

しかしながら、それが全てとも思いません。
ある程度、自分の意思というものもあるように感じます。

親から受ける影響が非常に大きいという考え方は、
ともすると自分の人生を親のせいにしてしまうことにも繋がりかねません。

親の育て方が与える影響が大きいのは事実でしょうが、
逆に完璧な育て方というのがあり得ないのも事実。

物凄く愛情を注いでもらって、信頼を得て、満たされて育ってきたとします。
素直で他人を信頼できる人に育つかもしれません。
でも、その人はきっと社会に出てから傷つきます。
世の中の厳しさに苦しむかもしれません。

社会に出れば様々な人と関わるものです。
社会には色々な特徴をもった人がいます。
その全ての特徴に対する効果的な関わり方を身につけながら成長することは不可能です。
親も1人の人間である以上、特徴に偏りが出るからです。
偏った親の特徴に対して、偏った対処の仕方しか学べないんです。

極端に過酷な生育過程を持っていると苦しみが蓄積してしまうかもしれませんが、
世間一般で出会う人の多くは、上手く偏った育てられ方をしているように思います。

その偏った特徴のために苦しんだとき、
本人がどうしていくかが重要なのではないでしょうか。
特に年齢を重ねるほど。

偏りがあるのは当然ですから、そのために苦しむときが訪れるのは当然です。
それは誰にもやってくる成長のためのチャンスのような気がします。

誰もが人生で苦しむときがある。
それが大切なことだと納得できてきているからでしょうか、
最近の僕は、悩み、苦しみ、挫折することを推奨さえする部分があります。

それを乗り越えることで、人生がより良いものになっていく。
そんな風に信じているのかもしれません。

その人にとって大事そうな問題ほど、もっと悩んだら良いと勧めたくもなります。

困っているから誰かに助けてもらうのもいいし、
困って考え続けているのもいいでしょう。
困っていることから目を背けるのもいいかもしれません。

一時的な対応をすれば、また同じような問題が起きるでしょう。
その時に、また悩むといいように思います。

困っていることを焦って、今すぐに、全てを解決しようとする必要はないと思うんです。
人生には、ある程度の長さがあります。
どの時期に、どのようになっていたいかを基準に考えてみれば、
ある程度の時間を悩み・苦しみに対して費やしてみるのも悪くない気がします。

悩んでいても、対処を決断しなくてはいけません。
今は待機するという決断も含めて、対処を決めるときがあります。

その決断も、全て良いものだと思うんです。
決断の結果として上手くいけば、喜ばしいでしょう。
決断の結果として逆に苦しくなったら、別の対処を学ぶ必要があるのかもしれません。
今はその問題に向き合わずに待機して、数年後に再び悩むのも良いわけです。

問題に気づかない、悩みを持たない人は、それも幸せでしょうし、
大きな課題にぶつかり悩むときがやってきたら、それは「おめでとう」でしょう。

いつか悩むときがあり、それは長い人生の中で大切なことだ。
今の課題を乗り越えたら、また次の課題がやってくる。
いつ乗り越えるんでも構わないと思います。

迷っていることがあるんなら
 好きにすればいいんです。

迷い続けるのも、迷うのをやめて待機するのも、行動に移す決断をするのも、
どれを選んでも必ず、一生の中で大切なことに結びつくはずです。
後悔だって大切なことなんです。

その意味では「他人を何とかしてあげたい」とか
「誰かの役に立ちたい」とかいう思いは、
ときに相手のためにならないこともあるんじゃないでしょうか。

くれぐれも相手の大切な課題を、他人であるはずの自分が勝手に解決してしまうのは
随分と筋違いのことをしているような気もします。

…まぁ、そういう筋違いな行動をすれば、いずれそのことを後悔して
 大事なことに気づく時がやってくるとも思いますが。

今の自分が思うことを、好きなようにやってみれば
それがいつでも最善の方向へ導いてくれる。

仮に、苦しくて、激しく後悔するようなことになっても
人生という範囲で眺めてみたら、きっとそれは大切な時期だと思います。

本人の人生です。
好きにやればいい。

2009年05月04日

酔っ払い

つい最近、コールドリーディング系統の本を買いました。

タイトルにも本文中にも一切「コールドリーディング」という記載はなく、
「観察」とか「見抜く」とか、そういった表現で書かれていますが、
話術としてのコールドリーディングの度合いが高い本でした。

内容は観察だけでも、心を読んでいるかのような話術だけでもなく、
質問によって相手の特徴を読み取ろうという部分まで含まれているもの。

本のタイトルは、あえてここでは出さないでおきます。

僕は石井流のコールドリーディングを真剣に勉強したつもりですし、
トレーニングを積んだという自負も、
日々のコミュニケーションの中で活用している実践経験も、
技術としてまとめ上げたことへの敬意も持っているつもりです。

そんな自分が感じたのは、
『なるほど、そうですか…。そういうやり方をしますか…』
という複雑な心境でした。


それはともかく、本を読んでいると納得感のある部分もあれば、
違和感を覚える部分もあるものです。

その違和感は、論理的に納得できないことから出ている場合もありますし、
自分が理解している内容と相容れないところから出ている場合もあります。

僕が「意識と無意識」に関して理解している範囲の中で
世間一般で言われやすいことと違うものに、「酔っている」状態への解釈があります。

酒の席では本音を話せるとか、お酒の力で普段には言えないことを言うとか、
酔っ払っているときに本性が表れるとか…。

意識が低下する時こそ、その人の本当の性格が分かる、
などというのは違うんじゃないかと思います。

それらの考えは前提として
「人は本当の自分というものを持っていて、普段はそれを隠している」
という発想があるはずです。

僕の考え方は違います。
本当の自分などという都合の良いものはありません。

どんな状況で出てくる自分も、自分の中の一部に過ぎないと考えます。

例えば、お酒によってケンカをしたからといって、
その人の本性が乱暴者だというのではない、ということです。

何かでトラブルになったときに、その人の本当の能力が分かるだとかも
基本的には違うと思います。
それは単純に、トラブルになったときの対応力が分かるだけです。
その人が、トラブルに遭ったときに、どんな対応をする癖を持っているかだけなんです。

採用面接などの場面で、予想外の質問をして対応力を見ようとすることがありますが、
そこで読み取れるのは「予想外の事態にどう対応するか」というパターンであって、
その人の本当の能力が見えるわけではないわけです。

採用面接のときに、予測される質問を探り、十分に対策を練って、
教科書通りの受け答えができるように準備をしてきた人が、
取り繕った表面しか見せず、本当の自分を見せていないと考えるのは早とちりでしょう。

むしろ、そうやって大事な場面では準備をシッカリとする
という特性を持っていると考えるほうが妥当なはずです。

確かに仕事では臨機応変な対応も大切ですが、
まずは重要なことに対して準備を十分にできるというのも立派な能力です。
やるべきことは確実にこなすという特性を踏まえて、
確実性が求められる仕事に割り振ることだってできるわけです。


人は無数のパターンを持っています。
それは記憶が生み出しているパターンです。

その意味では、酔った時に出てくる対応も
その人の中に存在している部分だと言えます。

酔った時にだけ愚痴をこぼすのも、
酔った時にだけ泣き上戸になるのも、
酔った時にだけ大げさなことを言うのも、
その人に記憶されている本音であるには違いありません。

日常で感じたことのある気持ちだから記憶に残っているんです。

でも、普段はそれを表現しないようにしているなら、
その気持ちを表現しないようにするという特性も
その人にとって重要な個性なんです。

愚痴や不満があっても言わないでおく。
悲しいことがあっても人には見せないでおく。
色々と思っていることがあるけど、奥ゆかしく黙っている。
全て何かしらの配慮や気遣い、意図があってしている行為なのでしょう。

酔った時にだけ表現する気持ちも、実際に感じている本人の一部。
普段は表現しないようにする配慮も、本人の一部。
どちらかが本当のものだというわけではないはずです。


無意識というものの性質を考えると、全体でバランスを取ろうとする傾向がありますから
日常で表現しないようにしている部分が酔った時に強く表れる場合も確かにあります。
バランスを取るために適度に吐き出すというわけです。

抑え込んでいる気持ちの中には、本人にとって不満となっているものもありますから
酔った時にだけ表現する不満というのは頑張って我慢しているものかもしれません。

そうした不満は、その事態が続いたときには爆発する危険性も考えられます。
その気持ちをケアすることは大切なことでしょう。
そのために酒の力を借りるというのは悪い方法ではないと思います。

しかし、我慢しているほうが本当の気持ちだと判断するのは違う気がします。

むしろ問題なのは、酔った時にしか言えないほどに
我慢させてしまっている普段の状況でしょう。
普段から感じている色々な気持ちを伝えられる状況であれば
それに越したことはないように思えます。

ましてや、酔ったときに泣き上戸になる人を見ても
その人を本当は泣き虫な人だと判断していいわけはないはずです。

人には色々なパターンがあって、
酔った時にだけ出てきやすいパターンもあるということです。

人によっては酔った時にだけアクセスしやすい記憶のパターンがあるわけです。

酔ったときだけタバコを吸いたくなったり、
お酒を飲んだ帰りにだけコンビニでお菓子を食べたくなったりする人もいますが、
それも同様に、酔った時にだけアクセスされるパターンなんです。
酔った時にだけ泣き上戸になるのと、仕組みとしては大差無いと考えられます。

どんな時に表れる、どんなパターンの自分も
全て本人の一部だということです。

もし本当の自分というものを説明するとしたら、
それは「その人が生まれてきた使命」とでも言うような
個人の範囲を超えた領域になるかもしれません。

2009年05月02日

USBメモリ

最近、USBメモリを購入しました。
数年前に買ったときと比べると随分安いんですね。

4GBで2500円。
転送速度の速いヤツにしました。

目的はWindows ReadyBoostという機能です。

最近知ったのですが、Vistaの場合にはUSBなどのフラッシュメモリをつけると
その空き容量を利用してシステムを高速化できる仕組みがあるんだそうです。

というわけで、今、僕の普段使っているノートパソコンには
USBメモリが刺さりっぱなしの状態。

多少、邪魔な感じがありますが、速度の向上は実感できます。
2年前に購入したVistaだったのでメモリーが不足していたのでしょうか。
メモリーを増やすよりも安価に快適な操作ができるようになっています。

色々と技術が進歩しているんですね。
知っていると得をする情報が沢山あるんだろうと思いました。

関心の薄い分野に対しては知識が入ってこないものですから
興味の幅を拡げておくのも大切なことかもしれません。

cozyharada at 01:16|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 
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【日時】 2017年9月10日(日)
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【場所】 滝野川会館
    304集会室

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    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分


【日時】 2017年9月24日(日)
     10:00〜16:30


【場所】 北とぴあ
    801会議室

    JR王子駅より2分
    南北線王子駅直結

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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