2009年06月

2009年06月29日

決定的瞬間!

この間、決定的瞬間を目撃しました。

整骨院に向かっている途中、細い路地を歩いているときのこと。
目線は既に、整骨院の看板のほうへ向いていました。

そのとき、右のほうから一匹のトンボが飛んできたんです。
目の前1mぐらいをサッと右から左へ通り抜けていきそうな瞬間。

すると、パッと足もとから1つの塊が飛び上がりました。
それが何か分かったとき、トンボが通り抜けていくはずの飛行線が中断されます。

 猫でした。

白と黒の模様をした小柄な猫が、ジャンプしてトンボに飛びかかっていたんです。

僕がそれをハッキリ意識できたときは、猫がトンボを捕まえたぐらいのタイミング。
僕の脳裏には、猫が両方の前足でトンボを挟み込む瞬間が焼き付いています。

まさに僕の視野の中心、目の前の1mぐらいのところで
跳び上がった猫が、飛んでいるトンボを捕まえるシーンが映ったんです。

器用に両の前足で捕まえたトンボを、空中でそのまま口にくわえ直し、
見事に四本の足で着地する猫。
捕まえる直前から着地するまでがスローモーションのように記憶に残っています。

目の前で急に起きたハプニング性と、狩りの見事さに対する感動、
そして猫の可愛らしい姿が印象的な出来事でした。


猫は着地するなり僕のほうを振り返り、こちらを警戒しました。
僕が歩きを続けると、猫は後ずさりします。
獲物を取られないようにでもしていたのでしょうか。

その口にはトンボの羽が飛び出ていました。

投稿ビデオで見るような場面を、まさに間近で見ることができたわけですが、
その光景が心を揺さぶる度合いは、画面を通じた印象とは別物です。

その理由の1つには画面の大きさというのがあると思われます。
僕の心の中には、実際よりも遥かに大きな映像として場面が残っているんです。
インパクトが強かったことが推測されます。

テレビ画面では想像できないほどに大アップの感じがしました。

モニターに映った映像であれば、背景を含めた全体像の中に
注目すべきシーンが映し出されますから、
いかに衝撃的な光景も背景を含んだ1つの絵として認識されるように感じます。

それと比較すると、実際に体験する衝撃的なシーンは
背景に比べてメインの出来事の映像だけにピントが合って
景色の中から飛び出てきているように捉えられるようです。

僕の場合、極端に猫の映像だけが実際よりもアップになっていた印象。

もう1つ理由を挙げるとすれば、実際に自分の目に映る視野は
モニターのような画面と比べると、特定の部分に集中しやすいことでしょうか。

テレビ画面であれば、映像全体が視野の中心に近いところで捉えられます。
映画館のような大画面であっても、メインの情景はスクリーンの中心になるでしょう。

それに比べると、自分が実際に目にする光景は、特定の場所に焦点が当たり
その他のものは周辺視野で捉えることが多いと考えられます。
自分にとってメインの関心事が視野の中心になるということです。

すると、何かの衝撃的な出来事を目撃する際には、
自分が注意を向けていなかった予測していない部分で
大きな変化が起きることになります。

一気に注意が、その部分に集中していくわけです。
その過程には驚きを伴います。
「なんだ!?」と感じて、無意識的な反応として警戒をするわけです。

それが急に視野の中心にやってきます。
一気にその場面に注意を向けるようになる。
釘付けになる感じと言えば良いでしょうか。

この印象は強烈です。

おそらく視覚からPTSDになる場合には、
これをもっと酷くしたような注意集中の動きがあると思われます。

「ハッ」と注意を向けるような変化が視野の中に起こり、
一気に注意を集中してズームインしたような印象になる。
その瞬間に恐ろしい映像が飛び込んでくれば、その恐怖感は増大されるのも当然でしょう。


こうしたことを考えると、『目に焼き付けておきたい情報は
視野の中でグイっとアップになるようにズームインして見るようにする』
というような記憶法が想像できます。

実際に、対象物や自分の眼を近づけるようにして
物理的にズームインしていくのも1つの方法かもしれません。

そういえば、映画でも衝撃的なシーンが急にアップになるということがあります。
あれも強烈なインパクトを与えるための方法として
無意識にデザインされていたものだったと考えても良さそうな気がします。

体験の強烈さの生み出し方として考えていくと、
こうしたインパクトの上げ方が、無意識のプログラムを変えるのに役立つはずです。
NLPの「スウィッシュ」の技法の中に含まれるアクションが
こうした作用と関係していると考えると納得感が高まります。

もっと他にも応用できないものか、考えてみたくなりました。

cozyharada at 19:45|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2009年06月28日

縄文時代から

たいていの植物は種で増える。
大きな木も実をつけ、種を落とす。


種から芽が出る。
芽は日に日に伸びていく。

その成長は早いものに見えるかもしれない。

それでも近くで種を落とした木とは随分と高さに違いがある。
芽の高さから見上げたら、木の頂上は高過ぎて見えないこともあるだろう。


芽はグングンと伸びていく。
芽の高さから見下ろせば、地面は日に日に遠くなっていく。
毎日、毎日、大きくなっていく。

そして芽は、やがて苗木と呼ばれるような大きさになり、
他の木よりは低いけれども、木として成長を続けていく。

地面は随分と遠くなっている。
その頃に顔を出した芽は、かなり低いものに見えるかもしれない。
周りにある木を見上げれば、まだまだ頂上が見えないかもしれない。

木は毎日、伸び続けている。


毎日少しずつ伸びていく木。

地面を見下ろしたときの高さは、ある時期から変わらなく感じられる。
5mの高さの木が1cm伸びたとして、あまり高さの違いは感じられないだろう。

10cmの高さの苗が1cm伸びたときとは全くの別物。

それでも木は少しずつ伸びている。
10mになっても、20mになっても。


木が高くなるほど、周りの景色は開けてくる。
同じ高さに見えるものは少なくなっていく。

空が見えるようになってくる。
広い世界が見えてくる。

その頃には、周りにあった高い木の頂上が見え始めるかもしれない。
苗木の頃には、ただ高いものとしてしか見えなかった頂上が見え始めるかもしれない。

そこで初めて、高さの違いが見えてくる。
遥かに高い木だったと、初めて先が見えてくる。

それでも木は伸びている。
少しずつ伸びている。


木が高くなるうちに、風にあおられて折れてしまうものもあるだろう。
高くなったがゆえに、雷に打たれてしまうものもあるだろう。

それでも木は伸びている。
自分を支えるために、根を深く大きく張りながら。


雨の日には、枝の下で雨宿りをするものがいるかもしれない。
夏の強い日差しの下では、木陰で涼むものがいるかもしれない。
秋には落ちた葉っぱが、土壌を豊かにするかもしれない。

ただ、木は伸びているだけ。
木は空に向かって伸びている。

cozyharada at 23:16|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | NLP

2009年06月26日

疑ってみるということ

朝、駅に向かって歩いていたとき、反対側から親子が歩いてきました。
雨が降りそうな朝、小さい女の子は傘を持っています。

体にしては随分と大きな傘に見えました。
普通に柄の部分を持ったら、長さからして地面に当たってしまうぐらい。

女の子は傘を引きずりながら歩いていました。

すると、お母さんが「傘を引きずらない!先がダメになるでしょ!」と、お叱りの一言。

女の子はビクッと驚いたような様子を見せた後、
何も言わずに傘を後ろ側を持ち上げるように力を入れ直したようでした。

体格や筋力のことを考えると、引きずるほうが楽だったように思えます。
ガリガリと引きずる音が楽しかったのかもしれません。
何があったかは分かりませんが、女の子には
「傘を引きずってはいけない」という発想が無かったのではないでしょうか。

そのお母さんの叱り方は、自分のルールから来るものだと思われます。
叱った理由を聞けば、「傘がもったいない」とか「迷惑になる」とか
もっともらしい説明をするでしょうが、感情的なメッセージを考慮すれば
あまり考えることなく自分のして欲しくないことを注意したと判断するのが妥当でしょう。


当たり前といわれること。
常識と呼ばれること。
暗黙のルールとされていること。
しつけ・道徳として教育されてきたこと。

人の中には自分が当然だと思ってやっていることが沢山あるものです。

ただ、それを自分で疑ってみることをする人は少ないようです。
思い込みを疑ってみることは大切なことだと思います。
まぁ、思い込みに気づける人も少ないのでしょうが。

例えば、「赤信号では横断歩道を渡ってはいけない」ということに関しても
それはルールとして大切なことである一方で、
自分自身の状況判断を奪う行為でもあるわけです。

赤信号では原則的に道を渡らない。
横断歩道が赤信号のときには、車道側が青信号になっていて
車がどのくらいのスピードで、どこから来るか分からないから。

しかしながら、その道が見通しが良く、車が出てくるような横道もなく、
渡り切るのに時間のかからないような細い道幅であれば、
赤信号でも、車が全く見えないときに横断するのは悪くないかもしれません。

自分が自分の責任で赤信号の道を横断した時に、
他者に対して全く影響がない範囲の場合には、それは悪いことではないかもしれません。

その横断歩道で、小さい子供が信号待ちをしている前であれば、
自分が安全だと判断したという理由だけで
赤信号を横断するのは良くない可能性があります。

それを見た判断力の乏しい時期の小さい子供が
周囲を良く見ないままに信号無視をして事故に繋がるリスクが否定できないからです。

逆に、「青信号は渡る、赤信号は止まる」というルールを無条件に守っていたら、
青信号だからという理由だけで周囲に注意を向けずに道を横断して、
信号無視の車と接触事故を起こす危険性も出てきてしまいます。

ルールや常識の多くは、全員がそれを守ることで上手くいきやすくなる
過去から積み上げられてきた知恵だと考えられます。

原則的に、それらを守ることは大切だと思います。

ただし、その中には自己判断ができるかどうかの前提があると思うんです。
誰でも判断ミスを犯すことがあるから、ルールにしたほうが安全。
判断力や思考力の乏しい時期の子供を危険にさらさないためにも
全員が共通して守るルールを作っておいたほうが安全。

思考や判断が的確にできる範囲であれば、
本人の選択の余地もあるのかもしれません。


自分の振る舞いに対して注意を向け、それがもたらす影響を十分に考えられたとき、
自分がすることを自分の意思で選択できるようになるはずです。

「電車の中で騒ぐのは良くない」という考えを持っている人は多いでしょうが、
その理由を「周りの人の迷惑になるから」という程度までで
考察を止めてしまうのは不十分なように思います。

「他人に迷惑をかけてはいけない」という思考も、本人の思い込みです。
しつけで言われてきたのかもしれません。

迷惑をかけても良いと言っているわけではありません。
迷惑をかけてはいけない理由を自分で考えて、
「迷惑をかけたくない」という自分の意志に変える必要があるということです。

誰かに言われたから、それを守るのではなく、
自分が考えた結果として自分で選択して、ルールとされている行動を取る。

自分の中の思い込みに従って生きることは
必要以上に状況判断へ労力を使ったり、考えることに時間を使ったりしなくなるため
効率的に生きる上では非常に有効な方法です。
だから誰もが自然とそれをするわけです。

でも、僕はそれを自由だとは思いません。

 ルールに従わないのが自由なのではない。
 ルールを守る自由が与えられている。

自分の中で当たり前になっている決まりごとを疑い、
その当たり前で守っている自分の気持ちに気づくのが大切だと思うんです。
そう思い込むことで守っている自分の気持ちがあるんです。

ルールで他人を裁き、自分を縛りつける。
それよりは、ワガママなくらいの自分の気持ちに気づくほうが
よほど自由なことでしょう。

その気持ちを感じた上で、自分が何をするかを選択すれば良い気がします。

2009年06月25日

以前のものを見つけました

「Art 」うんぬんという話をしていて思い出したので、
以前に版画で作った年賀状を載せてみます。


これは戌年のもの。
実家にいた犬がモデルです。

戌年1



















こちらは午年に作成したもの。

午年1



















上下をひっくり返すと、こうなります。

午年2



















こんなのを作ったりもしていましたが、集中してやると肩コリが酷かったんです。

版画を彫る作業自体は、一日に集中して4,5時間でやっていましたから
目も、肩も、腕も、全部に緊張感が強まってきます。
当然、終わってからは痛みが強く出てきていました。

会社にいたとき、年に一度だけ大きく体調を崩す時期があったのは、
だいたいこの版画の作業が終わって数日後だったものです。

最近は少し離れていますが、やると間違いなく楽しいだろうと思います。
その時間は、没頭して作業することになりますから。

仕事でリアルタイムに変化するコミュニケーションを対象にしていることを踏まえると、
もっと静的に集中して行う作業が、良い気分転換になるかもしれません。

あとは逆に、解放して身を委ねるような時間も良さそうに感じます。
自然や温泉を思うと、7月の箱根が楽しみです。

2009年06月24日

アートの素養

僕の中には、かなりのArtist 性が流れているように思います。
芸術分野は全般的に好きですし、自分が生み出すものへのコダワリの強さも
アーティストとしてのスタンスに近いものを感じます。

職人の世界でも超一流の腕を持った人は、その出来の良し悪しが
一般人のレベルでは判別できないところに行き着くわけですが、
周りが何と言おうと本人の判断基準で「出来が悪い」と捉えられれば
そこに妥協することができない、という状態が起きるようです。

自分が、自分の誇りとして、手を抜くわけにはいかない。
「恥を知る」ということです。

ましてや僕は、超一流の人を実際に何人か目の前で見てきているので
それを知っている以上、自分のパフォーマンスに手を抜きたくない気持ちが強いんです。

まぁ、コダワリの強さは色々な部分に出ていますから、
どのように他人が判断するかよりも、自分の基準を大切にしていると
考えることもできるかもしれません。

英語では「art 」という単語が「技術」も「芸術」も意味しますが、
高いレベルにおいては職人的な技術も、芸術の域に達することが多いようです。
圧倒的な技術というのは、その中に必ず「美しさ」があると思います。

僕も、職人気質というか、アーティスト性というか、
自分のすることに妥協をしたくない気持ちが非常に強いわけです。


思い返してみると、僕は小さい頃からも芸術系一般が好きでした。

僕の父は広告写真を中心にしたカメラマン、母は書道の先生。

父は吹奏楽をやっていた音楽好きで、家の中でも
トランペットやクラリネットの音が頻繁に聞こえていたのを覚えています。
僕も姉も、ピアノを習っていました。

母は一年中、家で習字をしていたので、僕には墨の匂いが馴染み深いものです。
僕も小学校の間は母の書道教室で習っていました。
子供の頃は落ち着きがないのが普通ですから、書道はなかなかの修行だったはずです。

また、母は華道の師範か何かの免状を取っていたらしく
我が家の玄関先には生け花が飾られていたのも懐かしいところ。
花を切って、剣山に刺す。
それだけの光景でしたが、微妙な配置の違いがもたらす印象を興味深く見ていました。

僕自身を振り返れば、どういうわけか小さい頃から絵が好きで
小学校の低学年ぐらいまでは、暇さえあれば広告の裏紙に絵を描いていたものです。
図工や美術の時間は、学校の中でも楽しみでした。

とはいえ、絵画を習ったことはなく、適当に自分の好きなように描いていたからか、
中学の美術の成績には多少、ムラがありました。
先生の好みの影響が強く出ていたんだと思います。

水彩画の描き方を習っていなかったのか、習ったのに無視していたのか、
僕の中学校時代の水彩画は、ほとんど油絵に近い風合いを出していました。
絵の具を水で薄めずに、チューブから出した絵具を直接紙に盛り付けていましたから。

こうして今に思い出していても、絵を描いている時間は楽しかったのを感じます。
高校の芸術科目も美術を選択していました。
教室の机の上には、教師の似顔絵がズラリと勢ぞろいでしたし。

で、これはチョット自慢になりますが、僕は音楽も意外と得意でした。
笛の類は匂いが嫌いだったので、音楽の授業の楽器演奏は好きではなかったですが、
ピアノを習っていた時期があったせいか、成績は良かったんです。

僕の習っていたピアノの先生は、確か音大を出た人だったと記憶しています。
僕は小学校低学年の頃から、ピアノを習いに行っているときに
お勉強として音楽理論をやっていました。

読めない漢字ばっかりの難しい本は、今にして思えば
音大の授業で使う教科書だったのでしょう。
「嬰ホ長調を平行調に転調する」とか
「この和音は長三度と完全五度からなっているから長三和音」とか
当時も今も、ほとんど役に立っていない勉強を続けていました。

意味の良く分からない英才教育です。

そして、小学校3,4年生のときの話。
実は、歌のレコーディングを何回か経験しているんです。

同級生の父親がCMソングを手掛けている仕事をしていたらしく、
クラスの皆で歌を収録したんです。

で、そこから徐々にメンバーが減っていき、レコーディングの回数を重ねるうちに
僕は一人でスタジオに入って歌うようになっていました。

黒い丸いヤツがついたマイクの前で、ヘッドホンをしながら
目の前のガラス越しのディレクターの指示に従って歌う。
テレビの音楽番組やオーディション番組で見かけるスタジオの雰囲気そのままです。

15秒とか30秒とかのCMソングでしたが、チョットした思い出になっています。


自慢はそれぐらいにしておくとして、自分の過去を振り返ってみたら
意外と芸術に触れていた時間があったことが自覚できました。

そうした経験は、僕にとって大切なリソースになっていると感じます。

今の僕にしてみれば、セミナーが自分のArt としての作品の1つかもしれません。

アーティストとして、作品を通じて、自分の芸術の創作活動だけで生活できる人は
決して多くないというのが現状のようです。
芸術性だけを追求した作品では、収入に結び付かないこともあると聞きます。

陶芸家の多くは、展覧会に出展するための作品作りとは別に
日用品に近い作品も作っている。
「用」と「美」のバランスがあれば、「美」だけを追求はできないわけです。
むしろ「用」の中に「美」を見出していくことも求められるのかもしれません。

僕も、自分のArt に対して「恥を知る」ことを心がけていきたいものです。

と同時に、改めて芸術分野への関心が自分の中で高まっているのも感じます。
芸術という観点から自分の作品を磨いていきたいみたいです。

少なくとも、良い作品に触れる機会は増やしていくことになりそうな気がしています。

cozyharada at 04:35|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | NLP

2009年06月22日

隠れたところ

「ざっくりマンデー」というテレビ番組があります。
難しいことを分かりやすく大まかに勉強しようという内容。
たまに日常的な疑問などもテーマとして扱われます。

深夜にやっている番組ということもあって、
まさに「一夜漬け」を狙ったスタンスなんだそうです。


先日、たまたまその番組を見ていたら
「なぜ歯科衛生士にはカワイイ人が多いのか?」
というテーマに関して、ざっくりと説明がなされていました。

この辺りは意見が分かれるところかもしれませんが、
以前に歯科医の受講生の方も飲み会で同様の質問を受けていたので
意外と多くの人が感じていることなのかもしれません。

1つには、年齢的に若い人が採用され、あまり長続きしないで辞めていくので
回転が速くて平均年齢が低いということがあるそうです。

番組中では「人気があって倍率が高いから」と解説されていましたが
実際に歯科医の先生の話を聞いていたときには、大変な仕事だということでしたので
番組の説明が必ずしも説得力のあるものではなさそうな印象を受けます。

もう1つ、番組で説明されていた理由は
「マスクをしているから」ではないかということでした。
なんでも、歯科医の間で「マスク効果」と呼ばれるものがあるんだとか。

マスクで隠されると想像を膨らませてしまう。
そんな説明でしたが、隠された部分を補完して理解するときには
個人の記憶の中にあるスタンダードな情報を利用するのが効率的でしょうから、
無意識のうちにバランスのとれた形を想像してしまう可能性は考えられそうです。


と同時に、足りない情報を好意的に捉えながら補足していくような
期待を伴った状況判断をしたくなる癖が、人にはあるのかもしれません。

ポジティブな印象を感じた場合には、過去の記憶からポジティブな情報を引き出し、
ポジティブな評価をベースにして内的なイメージを作り上げていく。
そんな可能性も考えられるでしょう。

男性でもサングラスをかけているとカッコよく見えたり、
テレビに出てくる手術着の外科医がカッコよく見えたりするようです。

ミロのヴィーナスも、両腕がないことで
その美しさが際立つという説を聞いたことがあります。

もう少し話を広げれば、隠された秘密や神秘的なものにロマンを感じるのも
分からない部分に対して期待を拡げたくなる気持ちがあるからと思えます。


きっと、人に対してもそうなんでしょう。
相手のことを良く知らないままに期待を寄せる。

自分にとって望ましい部分を沢山見つけると、他のところを見なくなる。
そうして隠れてしまったところに自分の良いイメージを当てはめて
幻想を膨らませてしまうというのも少なくないようはずです。

それも悪いことではないと思います。
それだけ人に魅力を感じられる部分があったわけです。
わざわざ悪いところを探して幻滅する必要もないでしょう。

でも僕には、それをしたくない気持ちがあります。
それは相手に失礼な気がします。

相手を、その人として見ていない。
自分の勝手な思い込みで見てしまっている。

過度に厳しく評価することも、幻想で眺めてしまうことも
目の前のその人に対する興味を放棄することのように思えます。

人は単純ではないと思うんです。
色々な側面を持っています。
見せていない部分も沢山あるでしょう。

それでも人は充分過ぎるぐらい魅力的なものだと思います。

2009年06月21日

綺麗な本

セミナーをやっていると、参加される方が本を持っているのを頻繁に目にします。
人それぞれ、本の扱い方が違うのも面白いところです。

元々ついているカバーを外して本を持ち運ぶ人、
カバーも帯もつけた状態で綺麗に本を扱う人、
カバーの上に書店でもらったブックカバーをつけている人、
自分で新聞の折り込み広告の紙を加工してブックカバーを作っている人…。
本の外装の扱い方だけでも色々あります。

本をカバンにしまうときにも丁寧にしまう人がいれば、
かなり無造作に本を扱って本の端のあたりがヨレてきている人もいます。
本が綺麗な状態を好む人、綺麗でなくても気にならない人、
むしろ汚くなっていくほうを好む人。
これも色々です。

本に書き込みをするかどうかも分かれるところでしょう。
よくある読書術なんかだと、結構、本に書き込みをしていくことが推奨されています。

また、本を買うか、借りるかというのも意見の分かれるところのようです。
買うにしても古本か、新品かという好みもあると思います。


おそらく、その辺りの好みには、その人の本に対する価値観が反映されている。
より正確な言い方をすれば、本に対して求めているものが違うということでしょう。

僕の場合、本は通常、新品を買います。
古本は絶版の場合以外には買いません。

図書館に行って借りるという選択肢も基本的にありません。
図書館に行くことはありますが、本棚を見ていても何も魅力を感じないんです。
手に取る意欲すら沸いてこない。

意外と図書館にも新刊に近いものや売れ筋のものが置かれていますから
買わなくても色々な本を読めるというところはあるはずです。
でも、僕は図書館の本に魅力を感じないんです。

そして、本を買った後は、必ず書店でカバーをかけてもらいます。
別に本の表紙を他人に見られるのが恥ずかしいわけではありませんが、
ほとんどの本にカバーがかかっています。

で、本棚にいれるときにはカバーを外す。
並んでいる本はすぐに分かるようになっているんです。

一度カバーを外した本も、外に持ち出して読むときには
再びカバーをかけて持ち運びます。

雨にぬれるのも嫌いますし、なるべく綺麗なままに残しておきたい。
かなり大切に扱っている気がします。

以前、齋藤孝さんの本を沢山読んでいた時期は、
三色ボールペン(正確には黒も入るので四色)で書き込みをしていたこともあります。

それも最近ではなくなりました。
本には基本的に書き込みません。
線も引きません。

参考書的にもう一度取り出したい情報があるときには
ポストイットをつけるか、しおり代りの紙を挟んでおくかで対応します。
気になったこと、気づいたことは、そっちの別紙に書いて挟み込むわけです。

とにかく本そのものは綺麗な状態でキープしようとしているようです。

だからといって、それを売ろうということもありません。
本は増える一方。
以前、オークションに本を出すという意見を聞いたときは驚いたぐらいに
僕の中で本を手放すという発想がないようです。


こういうことを総合して考えてみると、
僕はかなり「本」というもの自体に思い込みが強いように思えてきます。
大切なものという感じ。

ジュンク堂書店のカバーがかかった本が山積みになっていると
目的の本を探すのは手間がかかるんですけど、それも構わないくらい。
大事に取っておきたいんです。

1つには、本から学ぶ時に、新鮮な気持ちで向き合いたい気持ちがあるようです。
真新しく、綺麗な状態の本から、自分にとって新しい情報を学び取ろうとしている。

だから古本屋や図書館が好きではないんでしょう。
新しく学ぶという意欲が、本の綺麗さと繋がっているみたいです。

図書館のようにビニールのカバーをつけて、全体的にくすんだ印象になっていると
なんだか安っぽくて価値の低い情報に感じられてしまうんです。
古本屋のように汚れた印象になってくると古臭い感じがしてしまいます。

古典的な名著と呼ばれるものであれば、古書でも構わないんです。
そういう本の場合、本の装丁や文字の書体も古さを醸し出しているものです。
全体的な古色がマッチしているので、「古典」から学ぶという別の意欲に変わります。

絶版ものを入手するときは「新しい学び」よりも「古典」の意味合いが強いんでしょう。

読んでいる間にも本が汚れてくると、学びの新鮮さが損なわれるイメージがあるようです。
書き込みもしてしまうと、次に読んだときに新しく対話ができなくなります。
以前にポイントだと思ったところしか学べなくなってしまう。

だから、なるべく新鮮な状態をキープしたいんでしょう。

「新鮮」という言葉は自分の中でシックリします。
鮮度を保つためにラップをしているようなイメージかもしれません。

いつでも新鮮な気持ちで本と対話したい。
新鮮な美味しさを味わっていたい。
そんな気持ちがあるような気がします。

cozyharada at 23:14|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2009年06月19日

場所と顔ぶれ

本を買うとき、amazonなどのネット書店を利用する方も多いようですが、
僕の場合は基本的に大型書店へ実際に行って本を選ぶのが普通です。

ネット書店は、絶版になっている本の古本を買うときか、
洋書を取り寄せるときぐらいに利用する程度でしょうか。

amazonで著者別に検索して調べたものも、結局のところ書店で買うことになります。
本棚に大量に並んでいる中から実際に手に取るプロセスが大切なのかもしれません。

多くの場合、大型書店に行って、まとめ買いをするんですが、
ちょっとでも気になった本を全部買うというわけでもないんです。
気になった本をピックアップして、その中から選んで買う。

パラパラと立ち読みをして判断基準にすることもありますから
その点でも実際に本屋へと足を運ぶのが好きなんだと思います。


そして、僕が本屋に行くときは一店舗だけではないんです。

気になった本を手に取ってみることをするわけなので、
目に入って気になるかどうかが意外と重要なプロセスとなります。

もともと目的を持って買う本もあれば、気になったから買うという本もある。
自分としては、気になる本が沢山あって欲しい気持ちもあるんです。

ですから、本は大型書店で買うことになります。
沢山の本が並んでいて、目につく本も沢山ありますから。

ジャンルごとに場所が決まっているのも助かります。
棚の近辺を歩き回るうちに、色々な刺激が得られます。

一方、一つの書店だけだと、その店特有の並べ方や配置で本を目にすることになるので、
目に留まるものが片寄ったものになりやすい傾向があります。
大体、決まった場所に足を運びたくなりますし。

そうすると、一店舗だけで本を買おうとすると、
目に留まるもの自体に傾向が出てきてしまうようなんです。

で、僕は書店をハシゴするわけです。

新宿には紀伊国屋とジュンク堂がありますし、
池袋にはリブロとジュンク堂があります。
ほとんどの場合、両方をまわって気になる本に目星をつけることをします。

特に、大型書店の場合、一階に新刊やキャンペーンのコーナーがありますから、
そこを見ることで気になる本が見つかってきて、非常に助かります。
特集の仕方や、特定の本をアピールするやり方は、書店によって個性があり
これもまた視点を変えるのに役立つんです。


僕個人としてのお気に入りはジュンク堂・池袋本店。

物凄く他の本屋と差があるわけではありませんが、
フロアごとの特色が感じ取りやすいのが好きなようです。
エスカレーターを降り立った瞬間に雰囲気が違うような印象さえ受けます。

レイアウトされる本の種類や、ジャンルによって決まってくる本の装丁の傾向が
視覚的にも違った印象を生み出している気がしますし、
本の配置の仕方にもフロアごとの違いがあるように感じられます。

ジュンク堂の特徴は、池袋店でも、新宿店でも、名古屋店、福岡店、鹿児島店でも、
上から下まで高さのある本棚に本を陳列しているところでしょう。

僕が知っている全ての店舗で、図書館のような本棚に並べていたところを見ると
それが1つの方針なのかもしれません。

多くの書店は、一番したに引き出し式の在庫を入れる場所があり、
その上のスペースを平積み用に使っているようです。
そして、平積みスペースの上に本棚が乗っている形になって、
棚に入っている本は背表紙を向けるように収まっている。

目に留まりやすいのは当然、平積みの本でしょうが、
平積みの本は地面と水平に置かれることになるので目線を下げる必要があります。

その点、ジュンク堂は平積みの場所が限られていて、
多くの本が高さのある本棚の中に陳列されている。
その中で、新刊や力を入れている本は、表紙を正面に向けるように
奥から手前に向かって重ねられています。

このように陳列されると、歩いているだけでも視野の中に本の表紙が入ってくるため
色々と気になる本が見つかりやすいような気もします。

また、大型書店の中でも、僕はフロア別にジャンルが分かれているのが好きみたいです。
広いフロアの中で、ジャンルをエリアごとに分けるよりも、
ジャンル別にフロアが決まっているほうが本を選びやすい気がします。

もう少し正確に言うと、本を選んでいるときに居心地が良い。
それには本のジャンル別の特色が醸し出す雰囲気が影響していると思います。

例えば、女性用の心理読み物などは、本棚を遠くから見ただけで
カバーの色やデザインの特徴が際立っていて分かるものです。
赤やらピンクやらの華々しいイメージでしょうか。

タレント本のコーナーは写真を使うせいか、光沢感があるようですし、
僕が足を運ぶことの多い心理系の棚には白っぽい落ち着いた印象があります。
ビジネス書は黄色、緑色っぽい印象を持っています。

なんとなく本棚に陳列されている本の種類によって
共通する印象というのがあるんじゃないでしょうか。
それには本の装丁の傾向が大きな影響を及ぼしていると考えられます。

ジュンク堂・池袋本店の場合は、ジャンルによってフロアが区別されている上に、
特有の平積みが少なく、表紙が正面を向いているタイプの陳列法によって
本のデザインが映像として飛び込んでくる量が多いと思うんです。

ジャンルごとの印象を違いを強調してくれているようです。

そういえば、僕は新書や文庫本は狙ったものしか買わないんですが、
それも本の装丁から受ける印象を捉えにくいせいもあるかもしれません。
文庫や新書の多くは、ブランド別に装丁が決まっているようですから。


そして、もう一つ。

僕がフロアごとにジャンルが分かれているのを好む理由。
それは、集まる人です。

そのジャンルを好む人は、当然、どことなく似通った雰囲気を発しているものです。
専門性というか、趣味の問題というか、共通したものを持っている。
そのジャンルに関わっているから、その棚の前に集まってくるわけです。

全体として見てみれば、ジャンルごとに客層も違ってくると言えるでしょう。

そうした客層特有の見た目の雰囲気もまた、
ジャンル別の棚に対して印象を与えていると考えられます。

経営や戦略関係の棚に集まる人の雰囲気と、
看護・福祉関係の棚に集まる人の雰囲気と、
IT・コンピューター関係の棚に集まる人の雰囲気では、
どれも別物に近いものがあると言っても過言ではないと思います。

まして、音楽・美術などの芸術関係のジャンルに集まる人は
服装も顔つきも、他のジャンルとは異質な印象を強く発しています。

ジャンルごとにフロアが分かれていると、
フロアごとに集まる人の雰囲気も変わってくる。
これも僕がフロアの多い書店を好む理由の1つでしょう。

おそらく無意識のうちに、周りの人の雰囲気を感じ取りながら
本を見ているんだろうと思うんです。

もっと言えば、本の特徴と、そのジャンルの本に集まる人たちの雰囲気が
フロアごとに特有の場を生み出し、その場にラポールが作られる。
だからそこに身を置くこと自体が心地よいのではないか、ということです。

実際、馴染みのないフロアに行くと、普段と違う違和感を感じたりもします。
場所の違いで、自分の内面の違いに気づけるわけです。

逆に、そのことは自分の中の情報を拡げるのに役立つかもしれません。

最近の僕は、芸術書のフロアに足を運ぶことにしています。
独特のクリエイティブな雰囲気は、相当な刺激になるものです。

2009年06月18日

キャベツのタレ

テレビで芸能人が薦めていた「塩キャベツのタレ」を買ってみました。

どうだったかというと…、
僕の好みには合いませんでした。

キャベツ自体は結構好きなんですが、味付けとして好みではなかったようです。
僕は山口県に住んでいた時期があったので、その時期に食べていた
福岡文化圏の食事が、僕の好みに多少なりとも影響をしているのかもしれません。

東京の居酒屋でも土地柄を強く打ち出した傾向の店があったりしますが、
その中でも九州地区の特徴を出している店では
つき出しにキャベツが運ばれてくることがあるようです。

山口に住んでいたときの居酒屋でも結構な割合で、
生のキャベツが最初のおつまみとして出てきていました。

味付けとして、皿の端っこに味噌が乗っています。
これが意外と好きだったんです。

一方、全国チェーンの居酒屋だったりすると
「塩キャベツ」というメニューが置かれていることもあるので、
どちらかというとメジャーなのは塩味ベースなのかもしれません。


僕が「塩キャベツのタレ」を買った店では
野菜売り場のキャベツの棚の横に、このタレが置かれていたんです。

キュウリの横にも、漬物の素や、何かしらのタレが置かれている。

最近は、特定の食材の近くに、本来は別の売り場で置かれるべき商品を並べ
料理として関連性のあるものを一緒に売ろうという手法が取られているようです。

単品よりも手に取りやすくなるのでしょう。

とはいえ、野菜と一緒にタレを買ってもらうとしても
タレの賞味期限は比較的長いはずです。
であれば、むしろ売り切りたいのは生鮮食品類ではないかと推測されます。

直近で大量に仕入れた生鮮食品は、早いうちに売り切りたいのではないか、と。

ここで、野菜の近くにタレが置かれている場合、それが視野に入ったとしたら
タレと一緒に買うか、野菜だけ買うか、両方買わないか、
というあたりで迷うことになるでしょう。

その選択をするときには、人それぞれ理由を探りにいくはずです。
昨日は何を食べたか、今日は何を食べたいか、どんな組み立てにするか…、
買うかどうかを判断しようとして色々と内的な探索が行われるわけです。

そのときに、食品と一緒に関連する食材が置かれていたら
メニューの方向性を探る上で影響が出る可能性が高いように思えます。

連想や内的な探索の方向性が、与えられた情報によって引っ張られる。

例えば、ジャガイモの横にタマネギとカレーのルーが置かれていたら
どんなメニューにするかを考えるときの基準に「カレーかどうか」が加わってしまう。

それによって献立を決めるプロセスが楽になって喜ばれることもあるでしょうが、
同時に「カレーにするか、しないか」という選択を無意識的に強いることになり、
「カレーにしないから買わない」方向の結論に進む人も出てきてしまうかもしれません。


そこでもし、売り込みたい生鮮食品の使い方を提案するような関連食材が
複数のグループで提案されていたとしたら、選択の方向性も変わってくるでしょう。

同じキャベツやジャガイモの食べ方でも一種類で提案しないということです。

キャベツの横にはタレだけでなく、ロールキャベツと関連する食材や
お好み焼き関連の食材、ギョーザ関連の食材、ホイコーロー関連の食材など、
いくつかのバリエーションを示しておく。

選択肢が多すぎると選びにくくなる可能性も否定できませんから、
3つぐらいの可能性を示唆しておくと想像力をかき立てられると考えられます。

キャベツと近くの食材を見たときに過去の記憶が連想されて
キャベツを使ったその料理の味が想起されるわけです。
そして、その料理にしたらどうかをイメージする。

その後、視野を別のところに移してみると、また別の記憶が想起されて
キャベツを使った別の料理を作ったり食べたりしているイメージがなされる。

そのようにキャベツを使っていることを具体的に想像してもらうことができれば
選択の方向性が「キャベツをどのように食べるか」というほうへ
進みやすくなるなることが予測されます。

「塩キャベツはイマイチだったから、キャベツは買わなくていいか」
のような発想に繋がるのは店側にとってリスクでもあると思うんです。

連想の可能性を広げておいて、キャベツを買うことを前提にできるように
色々な提案がなされていたらどうだろうか、という話です。

少なくとも、僕の中では、塩キャベツの評価が下がっていますから、
次にキャベツとタレが近くに置かれているのを目にしたとき
僕は塩キャベツを食べたくない気持ちと一緒にキャベツ自体の評価まで
少し下げてしまっている気がします。

味噌キャベツ好きとしては、チョットもったいない気分です。

2009年06月16日

振動を感じる人

何度か書いていますが、僕が本を読むときは多少の雑音があるほうが集中できるんです。
なので、コーヒーを飲みながらとか、外食した後などに本を読むことが多いです。

図書館は静かすぎて、逆に意識が拡散しやすかったりします。

で、先日、食後にコーヒーを飲みながら本を読んでいたときのこと。
2つ離れた席に座った一人の女性が不思議な行動を始めました。

席につき、注文をするなり、足を組みます。
そして、上に組んだほうの足をテーブルの支柱に当てて、
小刻みに動かし始めたんです。

その女性が履いていた靴はスニーカーのようなタイプで、
側面にゴムというか、ビニールというか、
ある程度すべりの悪い材質で模様がついていました。

ちょうど、その部分をテーブルの脚の部分に当てているわけです。
そして足首を小刻みに、一定のリズムで動かす。

貧乏ゆすりとは違います。
もっとゆっくりと、靴の模様部分をテーブルの脚に擦りつけるように動かすんです。

キュッ、キュッ…。

小さな音が鳴ります。
足首を動かすたびに、往復でキュッ、キュッと。

それが注文後から、ずっと続きました。
食事が運ばれてきて、食べている間もずっと。

決して大きな音量ではありません。
だが、うるさい。
周りが静かなのと、僕の席に近いことで、耳に入ってきます。

聴かないようにするのが難しいのは想像できなくもないと思います。

本を読もうとすると、キュッ、キュッ、という音が鳴り続けている状況。
とてもじゃないですが、本に集中はできませんでした。

「よくもまぁ、食事をしながら常に一定のリズムで音を鳴らせているなぁ」と
感心するほどに器用な足首の動き。


僕も本を読みたい気持ちが強かったですから
なんとかならないものかと工夫を始めました。

まずは真似をしてみました。
ミラーリングです。

その女性と同じように、僕も自分の靴をテーブルの脚に擦りつけてみました。
キュッ、キュッと音を鳴らしながら。

なるべくその人と同じリズムになるように、同調させながら足首を動かす。

面白いもので、自分から音を鳴らすように意識すると、
その音が聞こえてくるのは意識的に予測がついているとでもいうか、
音がすることを当然のように捉えている雰囲気が出てくるんです。

その人と同じように靴を擦りつけ、自分の出す音を聞き、
そのまま本を読んでみると、これが意外と読めるわけです。

他人の出す音を聞かされていると気が散ってしまいますが、
自分が出している音を聞く分には、比較的気にならないのでしょうか。

喩えて言うと、車の運転をしているときには自分が揺れを予測できているから
車酔いをしにくいけれど、他人の運転する車に乗っていると
予測していない揺れに体をコントロールされるために気分が悪くなってくる、
そんな感じに似ているかもしれません。

もちろん、音が鳴っていないほうが良いのは言うまでもありませんが、
その人と同じように自分も靴で音を出してみると、
さほど悪い気持ちはしないものでした。


結局その人は、食事を食べ終わり、食器を下げてもらうまでの間ずっと
足でキュッ、キュッと音を出し続けていました。

そして食器が下げられると、組んでいた足を戻し、
椅子のせもたれに寄りかかって姿勢を変えたんです。

そこからキュッ、キュッという音はしなくなりました。

でも、その女性は別の行動を始めたんです。
左手の人差し指の爪で、ポリポリと右手の肘の外側を掻いています。

これは音がしませんから、僕にしてみれば気にならないことのはずですが、
そもそも音を鳴らす人として気になってしまっていたので、
靴でキュッ、キュッを止めて、指でポリポリに変えた理由を知りたくなりました。

そこで再びミラーリング。

自分でも姿勢を真似て、ポリポリとやってみたんです。
すると、意識に上がってくるのは振動の感じ。

これで靴をテーブルの脚に擦りつけていた理由も繋がりました。

振動がカギだったんでしょう。

キュッ、キュッと靴を擦りつけたときも、音の振動が足に伝わります。
肘をポリポリやるときも、ザラついた肘の外側の皮膚表面を擦れる振動が感じられます。

そして、音よりも振動に強く意識を向けながら足首をリズムよく動かし、
テーブルの支柱に擦りつけてみると、自分の中に1つの印象が得られました。

殻の内側に籠っている感じ。
周りの世界と関係を断ち、自分だけの世界に入り込んでいる感じです。

それは、音が迷惑かどうかなんて考えないだろうと、妙に納得できました。


後日、同じように本を読んでいたとき、近くのテーブルで
大きな声で会話をしている集団と遭遇したときのこと。

やっぱりこれも、うるさいんです。
僕の場合、ハッキリと内容が聞き取れる話し声が耳に入ってしまうと、
その内容を意識して理解しようとし始めてしまう傾向が強いようなんです。

ですから、隣のテーブルの話し声がうるさいと本に集中できません。

そこで、アレをやってみたわけです。
足首を動かして靴をテーブルの支柱にキュッ、キュッ。

そうしたら大分マシになりました。
本の内容に意識を集中しやすくなったんです。

特に、足首の動きがスムーズになって、自然かつリズミカルに
キュッ、キュッと鳴らせるようになると、本への集中力が随分と増えた気がします。

音を出す作業を無意識的にできるようになるほどに、
意識を本だけに集中できるようになっていく感じだったんです。

外の話し声に気が散ってしまうときには、
別の音や体感覚に注意を向ける要素を混ぜ込むと
話し声に意識を引っ張られてしまう度合いが減るのかもしれません。

以前には不快だった他人の癖も、意図的に自分が取り入れていくと
そのメリットを利用することができる。
そんなことを実感できた体験でした。

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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