2009年08月

2009年08月12日

古典にふれる

書道は面白いんですが、今のやり方をしていると
ストレスを「発散」したり「吐き出し」たりする方向にはいかない感じがしています。

練習という形で、かなりコントロールするわけですから。
「表現」の域には行っていないということです。

まぁ、最初の段階から1つの目的はプロの書家を間近に見たいということであって、
中国の春秋戦国時代から受け継がれてきた伝統を
自分の中に取り込んでいってみたいという思いもあったりします。

その意味では、できる限り真似をして書いてみるプロセスが大事だと思えます。
紙に書かれた文字という「結果」を頼りにモデリングしていくことになるわけです。

これは結果だけを求めていけば窮屈な作業になってしまいますが、
「どのように自分の体を操ると、どんな線が書けるのか」を工夫していけば
そこには発見の面白さだけは残っていく気がします。

もちろん、今はまだバランスを取る程度の技術を求めるので精一杯ですが…。


その中でも、たまには目的意識をハッキリさせて、
楽しむための表現として文字を書いてみる時間をとっても良いかもしれません。


以下は最近練習してみたもの。

書道1


















書道2


















書道3






















cozyharada at 23:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2009年08月10日

Fight or Flight

心理学で言われる言葉に「 Fight or Flight 」という表現があります。
日本語でいえば「戦うか、逃げるか」。

ストレスにさらされたとき、危機的状況に陥ったとき、敵対関係になったとき、
戦うことを選択するのか、逃げることを選択するのか、ということでしょう。

人によっては、そこにもう1つの選択肢「固まる」を加えたりもします。
戦う、逃げる、固まる。
動物が襲われている場面を思い描いてもらえれば納得しやすい気がします。

ただし、「窮鼠猫を噛む」という言葉があるように、
小動物や草食動物だからといって、自分より大型の肉食動物に対して
必ずしも逃げる選択をするわけではありません。

状況や個体差によって選択する行動が変わってくるように思えます。


人間の場合でも、こうした「 Fight or Flight 」の状態になることがあるものです。
そして、これは人間にとって動物的な身体状況になっていると言えるでしょう。
交感神経の働きが活発になって「必死で」頑張ろうとする状態のようです。

日常的にこのような状態を実感しやすいのは、
一般的に「緊張している」と呼ばれる場面でしょう。

全く緊張しないという人は少ないと思います。
どんな場面で緊張するかという違いのはずです。

例えば、人前で話をするときに緊張しやすい人は多いものですが、
それは人前で話をするケースが日常的でないという意味だと考えられます。

人前で話をすることも慣れてしまえば緊張しなくなるもの。
人前で話すことが日常的な状態になれば、交感神経の働きも抑えられるようです。

「慣れ」が生み出す日常感が緊張と関わっていることは
講師業の人が受講生として参加したセミナーで自己紹介のときにだけ緊張したり、
結婚式のスピーチだけは緊張したり、というような
場面の違いを考えると理解しやすいように思います。

で、そのような緊張状態に陥ったとき、そこで取る対処が
「戦う、逃げる、固まる」のいずれかになるというのが一般的に言われることです。


それは表面的にみると、確かにそのように分類できそうです。
ただ、その人の体の内側で起きていることは全く別物だということは
あまり知られていない気がします。

まぁ、科学的な計測では分からないような主観的な体験内容の部分ですから
実験的に説明するというのは少ないのかもしれません。

僕が実験的に緊張状態を計るのであれば、ストレス状況を実際に作りだして
そのときの全身の筋肉の筋電位と、血中のカテコールアミン系物質の濃度を
測定するようなことをやってみる気がします。

僕の調査してきた印象だと、緊張状態で起こる筋肉の収縮の仕方は
人によってバラバラなようなので、
部位を明確にするだけでも意味があると思うわけです。

そして、筋肉に力が入っているだけでなく、身体反応はより内面的な
内臓で感じられるような身体感覚としても自覚されます。

緊張すると「オエッ」と吐き気がするような感じを味わったり、
トイレに行きたい感じになってきたり、胸が苦しくなったり、
様々な内的感覚を経験するものです。

このように「緊張している」状態で感じられる身体感覚は、
人によってかなり違うんです。

同じような感覚がありながらも意識が向く部分が違うというケースもあるでしょうが、
実際に起きている身体反応のレベルでも違いがあるように思えます。


とすると、「 Fight or Flight 」は身体反応の影響も受けていると考えられそうです。

本人が「緊張している」と自覚するような身体反応が起きている状態で、
その人が「戦う」方向の行動を取りやすいのか、
「逃げる」方向の行動を取りやすいのか、という部分に
身体反応の違いが、どの程度影響しているのでしょうか?

僕の印象では、結果的にとられる「戦う、逃げる、固まる」という行動は
その人の生育歴で習慣として定着してきた度合いが高いように感じられます。

つまり、身体反応のレベルでは相当に闘争的でアグレッシブな状態になっていながらも
表面的な行動としては、争いごとを避けて穏便に済まそうとする…、
そんな傾向も人によっては出ているだろうということです。

実際、喧嘩っ早い人の中にも、身体反応のレベルでは恐怖や不安に近いような
筋肉が硬直してくるタイプの緊張を味わっている人がいるようなんです。

表面的な行動とは違う、内面の身体反応レベルでも
「闘争的な激しい感じ」を体験している人、
「恐怖や不安に近いような硬直感や逃げ出したい気分」を体験している人、
という具合に分類ができそうな気がします。

この違いは、その人の生育過程で身につけてきたプログラムとは別物の、
おそらく遺伝子レベルで決まっている違いではないかと思います。

ストレス状況で生じる身体反応が、力を過剰に発揮させる方向に働くか、
特定の部位に硬直を生み出すように働くか。
そんな違いがありそうに考えているわけです。

表面的なプログラムの根っこにありそうな、こういう類の違いのことを
本当は「メタプログラム」と呼ぶべきなのではないかと思うんですが…。

その辺のことは遺伝子レベルでの性格・行動特性を調査することが
役に立つのかもしれません。

cozyharada at 23:25|Permalinkclip!NLP | コミュニケーション

2009年08月08日

アートの文字

先日、書道家・武田双雲氏の講演会に行ってきました。
気持ちを込めた話し方の人で、笑いに溢れた場になりました。

ストリートから始めたというだけあってか、
人の心に響く「書」をしたためるのは
ズバ抜けている気がします。

文字に気持ちを乗せるのが非常に上手いんでしょう。

そのことは彼の個展を見に来る人が涙を流すという話からも言えそうです。
障害で文字を読めない人も感動するといいますから、
字というよりは絵に近いのかもしれません。

実際、彼の筆運びは書道っぽくないところもあり
「書く」というより「描く」というほうがシックリくる気もします。

本人も語っていたように、書道の上手い人は他に沢山いるかもしれませんが、
感情に訴える文字に関しては、他に類を見ないと思います。
その原点と思われるエピソードが、小学校の話でしょうか。
同級生の「た」の文字を見てから、
「た」と識別される限界を考えるようになったそうです。

それは人間のゲシュタルト能力に対する興味といえるでしょう。
お手本通りに理想的な文字を書くよりも、
文字そのものの限界を理解するほうに興味がいった。

文字は比較的新しいものですし、
書体によって形が変わる場合もあります。
ときには左右が入れ替わったりもするほど。

その意味では、正しい形というのが難しく、
正しくない形、つまり文字の限界から取り組むのも
1つの発想として面白いと思います。

アーティストとして興味がある人の一人です。
詳細にモデリングする機会を作りたいものです。





2009年08月06日

一か月なのに

書道を習い始めて約一か月。
まだ3回ぐらいしか通っていませんが、
少しずつ自分の文字が変わってきているのが実感できます。

ホワイトボードに書く文字さえも違ってきているようです。
まぁ、自分にしか分からないかとは思いますけど。

一文字の中でのバランスのとり方に、まとまりが出ている気がするんです。
特に早く書いたときの形の崩れ方はマイルドになったように感じています。

ただ、読みやすくなっているかというと、そうではないかもしれません。
行書になる度合いも上がったようなので。

綺麗でなくても読みやすい文字というのはありますから
複数の人に見られる場合、本来は読みやすさを優先したいところではあるんですが、
ペンの運び方に起きている変化が、文字の形に影響しているのでしょう。
急いで書くと、どうしても読みにくい文字になってしまうようです。


筆を持つときの手の使い方と、ホワイトボードでペンを持つときの手の使い方では
かなり違う持ち方をしていますし、手の動かし方にも違いがあります。

それでもペンで紙の上に小さく文字を書く場合と比べると
ホワイトボード上に文字を書く場合のほうが、書道の動きに近いのかもしれません。
手首を使った動きになりますから。

書道を通じて意識的に取り組んでいる作業が、
自然と無意識的な文字の書き方にも影響が出てくるというのは
なかなか興味深いところだと思います。

人間の学習と記憶の性質からいえば当然の結果ではありますが、
ここまで短期間で目立った変化が出てくるとは予想していませんでした。

これがもし書道を母に習っていたのでは、ここまで早い変化はなかったでしょう。
母の字体やバランス感覚は、僕の中にもある程度含まれているからです。

技術の差は天と地ほどあっても、なんとなく似たところがあるのも事実。
自然と影響を受けるものだということです。

これに関しては、同レベルで話せることではありませんが、
最近人気の武田双雲氏が、師であり母でもある武田双葉氏の書体と
かなり良く似た特徴を持っていることからも言えると思います。

弟の武田双龍氏にも受け継がれる特徴は、
どちらかというと女性的で華やかな風合いですから、
これが母親から受け継がれたものだと考えると納得のいく部分ではないでしょうか。

そのように、師の影響というのは自然と出てくることが多いようなんです。
それは、どんなにお手本を模倣して書こうとしても残ってしまう癖の部分。

多分、僕が最近になって書道を習い始めて、その影響が実感できているのは、
今までに母の文字を中心に作り上げてきた僕の中の文字のパターンが
新たに先生の影響を受けることで変化し始めているからだと考えられます。


パターンに対して影響を与えていくということで言えば、
今までと大きく違う刺激に身をさらしてみたり
意識的に今までと違うことをやってみたりすると良いわけですが、
僕にとっては、書道教室で出会う人もまた興味深かったりします。

セミナーで出会う人とは少し違うんです。
職種でいえばアナウンサーやら病院勤務やら経営者やら学生やらと、
セミナーで出会う方々と近い肩書のこともあるものの、
目指すところが違うと雰囲気もまた変わるものなんでしょう。

なかにはチョット有名なマンガ家もいたりして面白いものです。

僕自身は黙々と書くことに集中して取り組んでいますが、
たまには書くのを中断して、人を見てみても楽しいかもしれません。

静かな印象のある書道ですが、実際には刺激が溢れているんです。
色々な角度で僕に影響を与えてくれそうな感じがしています。

2009年08月04日

フレーム

世の中には「フレームワーク」と呼ばれる類の考え方があります。
物事を分かりやすく整理するために、特定の枠組みに当てはめて考える。

それは便利だ思いますし、僕自身、それによって色々なことを理解するのが
かなり楽になった印象もあります。

コンサルティングでは特に良く使われ、体験型のセミナーでも
記入形式の実習として利用されることがあります。
その枠組みに当てはめるように、自分の中の情報を整理していくと
自然に理解が深まったり、新たな気づきが得られたりするわけです。

自分の中の情報を再構成していると言えます。
概念同士の関連性を整理していると言ってもいいでしょう。


そうしたフレームワークは心理の分野でも結構見受けられますが、
実際に目に見ることのできない心の中の働きを整理しようとしたら
分かりやすいモデルに当てはめるというのは仕方のないことかもしれません。

その意味では、フレームワークというのは言葉の説明だけで納得できないことも、
自分自身の頭の中で情報の分類をすることによって
実感を伴いながら整理できるので有効な手法だと思います。

そして、フレームワークを考えた人は、多くの場合、自分の頭の中でやっている作業、
もしくは他の活躍している人の発想の仕方を元にして
情報をカテゴリーに分けて、それぞれの関係性を表現しようとしていると考えられます。

なので、一般的には一人の人物が考えた複数のフレームワークというのは
ある程度の形や、フレームの取り出し方にまでパターンが読み取れ、
全体としての統一感が感じられるんです。

言ってみれば「○○さんのフレームワークを生み出すときのフレームワーク」
というような発想の癖みたいなものが見え隠れするわけです。

ユングであればユングなりの、アサジョーリであればアサジョーリなりの
心や無意識に対する理解の仕方が、統一感のある説明でなされている印象があるんです。

ミルトン・エリクソンを研究した人たちは、まさに自分の理解したことを
自分なりのフレームで整理して、独自の理論を発展させています。
エリクソンという現実を、弟子たちが自分のフレームで整理しているということです。

その点、エリクソン最後の弟子と呼ばれるオハンロンは、
非常に明快なフレームを生み出していて、高度で難解なエリクソンの技法を
分かりやすく整理してくれている印象があります。
(オハンロンに関しては、僕と発想の仕方が似ているから
 僕にとって理解しやすく感じられているのかもしれません)

さらにオハンロンは、エリクソンの技法を整理して自分のものにしているだけでなく、
自信の臨床経験から得てきたものを体系化して、これもまた
フレームワークで整理をしていたりするんです。

それはもうエリクソンの手法とは全くの別物ですが、
エリクソンに対して分析をするときと同じようなスタンスから
全てのフレームワークが明快に整理されている印象を強く受けます。

本人の中で全てが明快にまとまっていて、それを意識的に整理しやすいように
フレームワークという形で、複数の角度から切り出しているように見えるんです。

オハンロンの本を読み進めていく分に、フレームワーク同士が干渉したり
邪魔をし合ったりする感じは一切受けません。
「前に読んだ本との関係はどうなんだ?」という不明瞭な印象がないわけです。

一人の人物が、その人なりの方法で体験し、理解してきた内容を
分かりやすく整理するために図表を利用したフレームワークを作った場合、
それぞれに矛盾は出てこないはずなんです。

本人が納得して、分かっていることを、より分かりやすく整理するわけですから
フレームワークを通して混乱するなどということは基本的にあり得ません。

この点は、横浜国立大の堀之内先生も同様に思えます。
様々なフレームワークで、心理やコミュニケーションという複雑なプロセスを
分かりやすく整理して教えてくれます。

そこには原則のようなものまで見えてきますから、矛盾が感じられないのも当然でしょう。
堀之内先生だけから学んでいれば、その理論だけでスッキリと多くのことが理解でき、
他の人の話を取り入れないほうが現実的に役立つケースが多いようです。

シンプルなことを実践していると実生活で効果が実感でき、
それを別の複雑な情報と組み合わせたら効果が落ちる場合さえある以上、
いかに的確に整理されたフレームワークになっているかという話だと思います。


ところが、複数の領域や、複数の人の理論を集めてきて
それを1つの体系にまとめようとした場合には、
元になっているフレームワーク同士が邪魔をし合って、
理解のプロセスを混乱させたり、矛盾を感じさせたりすることがあるんです。

残念ながら、NLPの中にはその部分があると僕は考えます。

様々な用語、多くの概念、それを整理している図表が
作られた時期や引用元、まとめた人物によってバラバラな印象があります。
ハッキリ言ってしまえば、矛盾するところさえある。

ある程度、NLPをスッキリと理解するためには、
個別の内容を切り分けて、他との関係性を考えることなく、
その部分がどのように役に立つかだけに集中したほうが効率的かもしれません。

僕自身は、NLP以外の領域から学んできたことなどを含めて、
自分なりの1つの理論体系を作りながら理解を進めてきていますから、
自分の中では矛盾のない全体像を持てるように努力してきたつもりです。

その全体像を元に、NLPの内容をそれぞれ理解しようとすると、
1つ1つのフレームワークを解釈しながら一応説明することができますが、
それぞれが離れている度合いも見えてきたりします。

誰かが作ったフレームワークは、その人の理論体系の中では矛盾がなくても
他の人のフレームワークと一緒の舞台に乗せると、
矛盾が出てきてしまうのは仕方のないことでしょう。
フレームワークを生み出すためのフレーム自体が違うわけですから。

そうしたことはセミナーをする人にも起きる可能性があります。
色々と学んできたことをセミナーで伝える。
そのときに、別の人から教わった内容を、元々のフレームワークのままで伝えると、
1つのセミナーの内容の中に矛盾するところが出てくる恐れがあるはずです。


例えば、ここで何度も使ってきた「フレーム」という言葉も
まさに現実に存在するものではなく1つのモデルとして使われる概念ですが、
このフレームという発想はNLPのサブモダリティの理解を深めるほどに
両方を同じ理論の中で対等に扱うのが難しくなっていきます。

これに関して、僕の中では、サブモダリティの組み合わせ方のパターンを
便宜的に「フレーム」と呼んでいると理解しています。
注意の対象に特定の印象をつけるための情報整理の仕方ということです。
(この辺は、いずれ詳しく勉強会で説明しようと思います)

他にも「一次体験を言語で意味づけして二次体験にする」とか
「五感でインプットした情報をフィルターを通して体験にする」とか
「フィルターやプログラムの中身には、ビリーフや価値観、メタプログラムなどがある」
なんていうような説明は、それら単独では理解できるものですが、
サブモダリティやアンカーという概念と組み合わせると矛盾が出るところもあります。

認知療法や論理療法を中心に臨床心理で扱われてきた理論にも
昨今の自己啓発系プログラムの説明でも、そうしたビリーフシステム(信条体系)が
人の感情や行動、思考などの振る舞いを決めるという発想がありますが、
その考え方よりも根底にある部分としてNLP(直接的にはリチャード・バンドラー)は
サブモダリティというものに気づいてしまったのでしょう。

喩えるなら、これまで錬金術の知識を元にモノづくりをしていた中で、
原子や分子、イオンという概念に辿り着いたぐらいのインパクトでしょうか。

根本的な構成要素を見出したフシがあるわけです。

錬金術で起きていたことは、原子やイオンという化学の知識で説明できるはずですが、
それを錬金術の理論と一緒に組み合わせながらは説明ができません。
どちらでも説明できたとしても、同時に組み合わせることはできないでしょう。

NLPの多くの説明は錬金術の流れを尊重しているように思えます。
その中に、化学の知識である原子やイオンの話も混ぜてしまっている。
どちらを知っていても、それぞれの実験はできるでしょう。
ただ、統一的に理解しようとすると難しい。

原子やイオンの話で、錬金術がしていたことを全て説明したとき、
錬金術で説明する必要はなくなっていくわけですが、
もともと別流派の錬金術をやっていた人は、
原子やイオンの話を深めていく方向には進もうとしないのかもしれません。

僕は個人的に、サブモダリティとアンカーと記憶の性質を組み合わせると
NLPや心理療法、自己啓発プログラムのほとんど全てを説明できると考えています。

そうした方向性は、原子やイオンといった化学の視点で理解を拡げる行為であって、
今の流れの中では、かなりの異端の部類に入ってしまいそうな気がします。

2009年08月02日

忘れない

英語の「remember」は、中学校の時、日本語訳として
「覚えている」と「思い出す」の両方の意味として習った記憶があります。
改めて英語の辞書で調べてみても、「覚えている」と「思い出す」と両方出てきます。

一方、「覚える」という言葉に対応する英語を調べてみると
「pick up」とか「learn」とか「memorize」とかが見つかります。
どうやら、正確に日本語の「覚える」に対応する概念はないようです。

また、「忘れる」という言葉に対応するのは、おそらく「forget」になると思いますが、
これも正確なニュアンスまでは分かりません。

残念ながら、僕の英語力では「memorize」と「remember」と「forget」が
どのような関係性の言葉なのかまでは、理解することができません。

それでも、「remember」という言葉は、日本人と欧米人の
一般的な「記憶に対する捉え方」の違いを示している印象は受けます。

日本人は「覚えた」ことを「忘れた」としても、
それを再び「思い出す」ことができて、いつでも簡単に意識に上げられる情報は
「覚えている」と表現するように思います。

それに対して英語圏の人々は、一度意識から離れた所に行ってしまった情報でも
それを再び意識に上げて「思い出す(=remember する)」ことができれば、
ずっと簡単に意識に上げられるような「覚えている(=remember の)」情報と
同じ単語(remember)で表現すると考えられます。

つまり、日本人にとっては、
一度記憶から離れてしまった情報(忘れた情報)は「思い出す」という言葉で表現され、
いつでも簡単に意識化できる情報(忘れていない情報)は
「覚えている」という言葉で表現される。

そして、欧米人にとっては、
一度記憶から離れてしまった情報も、いつでも簡単に意識化できる情報も、
どちらも意識に上げることができれば、それは「remember」していると
捉えられているのではないだろうか、ということです。


もしかすると、同じ「remember」の中にも度合いの違いを感じているかもしれませんが、
少なくとも「一度記憶した特定の情報を、再び意識に上げる」という
記憶に関する行為として、日本人と欧米人では捉え方に違いがあるとは思います。

この辺りに関しては、記憶の研究をしている人たちの中でも
「何をもって記憶とするか」とか「記憶のレベル」という内容で
色々と議論されているところのようです。

僕自身としては、記憶されているものは全て、再び意識に上げる方法があると思っていて
「思い出しやすさ」の程度の違いがあるのだろうと考えています。

そこで大切なのは、いつでも同じ情報が意識の中心になっていないということです。
色々と記憶されていることに対して、意識を向けることができて、
その意識を変えていくことができるという部分。

だからこそ人は、目の前の新しいことに集中することができるわけです。

「忘れる」というのは、意識の中心から離れて、
「思い出しにくくなる」ことだと思います。

記憶の中から失われてしまうことではないと思います。


大切な思い出は、決して失われることはない。
移り変わっていく日常の中で、思い出すことが減っているだけです。

また思い出せるんです。

そして、一時的に忘れることができるから
目の前の大切なことを覚えられるんです。

大切な思い出は、積み重なっていくんです。
それを増やしていくためには、一時的に忘れることもまた大切なことだと思います。

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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