2010年03月

2010年03月31日

パコ

映画「パコと魔法の絵本」がテレビで放送されていました。

笑いタップリの一方で感動的な映画なので、何度見ても涙が出てきます。
とくに頑固で横暴な主人公「大貫」が心を開いていくプロセスは感動を誘います。

ストーリーや場面描写への感情移入で涙が出てくるのは良くあるものですし、
「パコと魔法の絵本」に関してもストーリー展開が心を動かすのは大きいです。

ただ、そうした感動の生み出し方は、感情移入の程度によるところがあって
何度も見ているうちに先の展開が予測されてきて感動が薄まることもあります。

瞬間に入り込めるタイプは何度見ても同じ場面で感動できるでしょうが、
僕は同時に多くのことを処理しながら映画を見てしまうタイプなので
感動的な場面を見ていれば、「前に、この場面で泣いたなぁ」とか
「最初にこの映画を見たのは10年前だなぁ」とか思い出しながら
ストーリーへの感情移入も同時にしている状態になります。

なので、何度も見るほど好きな映画だと、
余計に最初の感動は薄れていくという残念な部分もあるわけです。

ところが、この「パコの魔法の絵本」に関しては、事情が少し違います。
回数を重ねて見ても、同じように感動できる。
むしろストーリーを先取りするように気持ちが高ぶってきたり、
ストーリーとしては感動を演出するシーンではなくても感動が沸いてきたりするんです。

これには、映像の色合いの豊富さとそのパターンの特殊性
そして音楽の使い方といった、ストーリーを彩るための背景の情報が
独特なことが関係していると考えられます。

いわゆるアンカーが沢山作られやすいんでしょう。

画面に映し出される色合いという視覚情報が刺激になって
そのような場面を見たときに感じていた感動の体感覚が引き出される。

そのせいで、感動を先取りするように感情が引き出されていると思います。


もう、2年近く前の映画になるようです。
映画の中で中心的な役だった「パコ」を演じていた女の子は
今、花王の「エッセンシャル」などのCMに出ていますが、
随分と大きくなっているのが分かります。

他の出演者を、別の場面で見ても変化を意識することは少ないですから
「パコ」役の「アヤカ・ウィルソン」の年齢だから、時間の流れを意識させるのでしょう。

時間の流れは主観的なものだというのを改めて思ったりしました。

この映画の登場人物や配役の中で個人的に好きなのは、医者役の「上川隆也」氏。
表現力の豊かな役者っぷりを見せてくれるように感じました。

普段はオチャラケている医者が、時折見せる真剣な様子。
こういうところに深みを感じるのが僕の特徴のようです。
「キン肉マン」に通じる部分ですね。

舞台は病院。
風変わりな入院患者ばかりが集まり、医者も看護師も一風変わった病院です。

横暴な主人公「大貫」が「パコ」の症状のことを初めて知って
医者に尋ねにいくシーンがカッコイイ。

「大貫」は、一人で裸一貫から会社を立ち上げて、
全て自分の力で会社を大きくした人物。
頑固でワガママで、誰にも負けないようにと必死で頑張ってきた人です。

その彼が、「パコ」の症状や置かれている環境のことを知り、
他人のために心を痛めることを感じた場面。

強くなければ、やってこれなかった。
そんな「大貫」が、医者に「パコ」のことを質問するんです。
そして「自分は弱くなってしまったんだろうか…?」と、つぶやく。

そこへ、その上川隆也演じる医者が一言いうんです。
「弱くちゃいけませんか?」

これをサラッと言うのがカッコイイ。

NLPで言えば、メタモデルの中の
「価値判断者の削除」に対する質問に当てはまるでしょう。

この質問の裏側には、教育的なリフレーミングの意図が感じられます。

相手は大企業の会長を務める大富豪。
そして頑固で横暴でワガママで、人を痛めつけることばかりする人物です。
病院にいる人たちの中には、彼を徹底的に嫌う人や、逆に媚びを売る人がほとんど。

その中で、その医者だけは「大貫」を一人の患者として扱います。
他と変わらない。

銃で撃たれて入院してきたヤクザに対しても
消防車にひかれて入院してきた消防士に対しても
誰に対しても一人の患者として接していく姿勢が崩れません。

医者としての立場になったとき、安定感が表れるんです。

そして、患者を個人として尊重しながら関わり、
医者という立場から患者に対して積極的な介入さえしていきます。

「大貫」に対しては、その介入が
「強くなければいけない」という信念に対する質問だった。

本人の自主性という意味で言えば、積極的に入り過ぎているようにも見えます。
が、医者として教育的な立場を選択した上では、
それも覚悟の上での関わりなのかもしれません。

他人の人生に積極的に関わることを選んだ人物の想いが垣間見れるシーンだと感じます。

実際、映画の中では、そのあとに「大貫」が心を開いていく様子が展開していきます。
ストーリー上の華やかさはないものの、重要な転換点にあたる名シーンだと思います。


そんなことを思い出しても気持ちが蘇ってくるほど
僕にとっては、心を打たれる映画です。
かなりオススメ。

そして、こうして振り返ってみると、
なぜ自分が心惹かれるのかも納得できた気がしました。

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2010年03月29日

人材のポイント

今年の新卒大学生の就職率は非常に低いそうです。

一方で、企業の採用者数そのものは減っていないという見方もあるので
多くの大学生が、起業や自営ではなく安定を求めて
企業に「就職する」傾向が上がってきているのかもしれません。

企業側として見たときに、何を求めて採用を行っているのかを
明確に自覚しているところは、どれくらいあるのでしょうか?

本当に即戦力で活躍してくれる人材が欲しければ
中途採用やヘッドハンティングを活用するという選択もあるはずです。

それでも大手企業は、毎年、大人数の新入社員を採用する。
そこには、即戦力として活躍できる能力以上のものに期待があるように思えます。

なにより、日本の企業の多くは、配置転換を行うようですから
特定の仕事でのみ活躍できるような能力を求めているわけではなさそうです。

最終的には本人の特性に合わせた道に絞り込む計画はあるのでしょうが、
色々な視点を持つため、能力開発のために、人事異動というのがあるのかもしれません。


そんな中、2004年に設立されたばかりの秋田県にある「国際教養大学」は
企業への就職率が非常に高く、大手企業からも人気が高いという内容が
テレビで放送されていました。

国際教養大学は、大学構内での日本語が禁止、英語を共通語にする仕組みで
「英語を学ぶ」のではなく「英語で学ぶ」スタイルを取っているそうです。
一年間の海外留学も必修になっているという話。

早稲田大学にも国際教養学部というのがありますが、
こちらも、ほとんど全ての講義が英語で行われ、海外留学のあるようです。

いずれにせよ、英語を使って考え、英語でディスカッションするという仕組みは
語学力としての英語力をつけるには確実なやり方でしょう。
実際に英語で会話をしている人たちは、そうしているのですから。

また、専門的な学問の内容は、英語の論文として発表されていきますし、
国際学会が英語で行われるというのも事実です。
その意味では、英語で学ぶのは最先端を学ぶためにも有効なことでしょう。

もちろん、高校まで英語を全く話せなかった人が
急に大学からの内容を全て英語で学ぶということになれば
専門的な知識を身につけていく段階では不利になる可能性もあります。
一般教養の段階で、英会話の能力を十分に上げておく必要がありそうです。

実際のところ、「国際教養」という名称をつけているところでは
専門性よりもグローバルな教養に力を入れているようですから、
英語を武器に国際的な活躍ができる人を育てようとしているのかもしれません。

番組中で紹介されていた学生や、卒業生たちは
世界を飛び回る仕事や、国際交流に憧れを抱いている人が多いようでした。


ただ、自分の過去を振り返ってみたとき
はたして大学生の時点で何を考えていただろうか
という疑問が沸き起こります。

いくら自己分析をさせてみても、いくら学生時代のアピールをさせてみても、
いくら大学での研究業績を話させてみても、
社会に出てから経験することと比較すれば、未熟なのは当然でしょう。

良く考えている学生なんて、ほんの一握り。
考えているようでも、誰かの影響を受けていることを自覚できていない。

学生時代に「本当のやりたいこと」を探すのは、難しいことだと思います。
むしろ、そこの段階で見つかるほうが例外。

夢や、目標、憧れが生まれるためには、きっと何かのキッカケがあったはずです。
同じような体験をしても、キッカケにならない人もいるわけですから、
そのことに魅力を感じた時点で、本人の個性にマッチした部分はあるのでしょう。

興味を持った方向に進もうとすることは、とても重要なことだと思います。

ただ、それが全てではない。
それが自分の道だと決めるには、学生の時期では早過ぎることが多い気がします。

もっと試練が訪れるはず。
その試練が大切なものになっていくもののようです。


興味を持った方向に進んでみるのは、個性を活かす1つの方向でしょうから
国際的な活躍に興味を持った人が、国際教養の場に進学するのは
理にかなっていると考えられます。

ただ、日本の学校教育や、大学教育の全てをその方向に変えていくかというと
それは別問題のように思えます。

まして、就職率が良いからという理由で、
「国際教養大学では企業にとって理想的な人材が育てられている」
という結論に結び付けるのは違うような気がします。

商社に入って海外と取引をしたいとか、
世界中の人たちと交流をしていきたいとか、
政府と関わる仕事について、世界の国々を相手に仕事をしたいとか、
そういったことに夢を持てる人たちにとっては望ましい教育だと考えられます。

そうした仕事をしている採用側からみても、
その教育方針は理想的な人材を育ててくれているのかもしれません。

でも、その教育は国際交流という視点で役に立つものであったとしても
国内での仕事に役立つものかどうかは分かりません。

むしろ、国際交流のために身につけたコミュニケーションスタイルで
国内の営業の仕事をしようとしたら、
逆効果になる可能性だってあるかもしれないわけです。

興味を持てる人が教育を受け、
その教育で見につく能力を必要とする企業が、その人を採用する。
このバランスは大切なように感じます。

学生までの段階であれば、「興味を持てるかどうか」の部分こそ
重要な才能として判断できるところじゃないでしょうか。

あとの細かい能力は、仕事の内容に合わせて活かし方を変えられるものです。
スケジュール管理が苦手なら、思いつきの行動力を活かせばいい。
同じ仕事内容でも、両方の活かし方があるほうが多いでしょう。

どうしても素養として能力を上げにくい部分が出てきたら
そのときは別の仕事内容に変わる方法もあります。

「やりがい」や「ヤル気」には他者からの評価も関わってきますから、
それらを基準に仕事の向き不向きを判断するのは難しいところがあります。

「興味を持てるかどうか」は、個人の好みの問題です。
やってみたら興味が持てたというケースもあるでしょうから、
色々やってみながら興味を持てるものを探していくのが大切かもしれません。

その中で、興味が持てる対象から共通点を探す。
そうして見えてきたものが、自分の大切な部分じゃないでしょうか。

一番興味を持てるものを探すのは絞り込み方を間違えるリスクがあるようです。

例えば、野球が好きでプロ野球選手になったとします。
引退によって、道を決めるタイミングがやってきたとき、
「野球が好き」を基準に道を決めるのは乱暴だという話です。

野球をやってきて、野球のどの部分に関わっているのが好きだったのか。
後輩に指導するときか、野球の理論を考えるときか、人に説明するときか。
そこに合わせて道を考えることができるでしょう。

興味をもてるかどうかには、その人の個性が関わっているようです。


そうして考えると、興味を持てたところに就職の希望をするのは
どういった理由からであれ、1つの選択だと言えそうです。

採用する側の企業としても、即戦力を期待しないのであれば
その人の個性に合わせて、仕事に能力を活かしてもらえればいい。
仕事で結果を出すための方法は、どんなに高度な教育を受けても
実際の仕事の現実とのギャップを埋めるために、トレーニングが必要なものでしょう。

そのトレーニングを教育担当者がするのか、
上司が育てていくのか、本人が自分で身につけていくのか、
仕事の仕方を身につけていくプロセスには様々な方法があります。

仕事をするために本人の能力を活かす方法が見つかれば
その仕事が上手くいく可能性は高くなるでしょう。

1つの仕事に絶対必要な能力というのは滅多にない気がします。
ある程度のラインがないと困ることはありますが、
そのレベルはトレーニングで対応できる可能性も高い。

仕事の結果として求めるものを得るために、
どのように取り組むかは、個人の能力の使い方によるところが大きいと思います。

であれば、採用側は何を基準に人を選ぶのでしょうか。

いわゆる頭の良さの1つとして扱われることの多い
「多角的な視点」というのを取り上げたとしても、
場合によっては、「まっしぐら」に突き進む人のほうが役に立つこともあります。

個性を基準に人を採用するのは、逆に組織に偏りを生む可能性もあるので、
どちらかというと色々な個性の人物を集めたほうが
チーム作りとしては面白いところもあるかもしれません。

僕の考えとしては、採用の重要な基準として
「自信と客観性が高いレベルでバランスを維持できているか」
というのがあるように思います。

自信とは、自分の存在に対しての価値の感じ方と
自分の能力に対しての価値の感じ方を合わせたもの。

自分の存在に価値を感じられる人は、
仕事を通じて他者と関わることに意味が見出しやすくなります。
他者からの評価を求めて仕事をするのではなく、
「自分がしている仕事なのだから役に立てているはずだ」
と根拠もなく信じることができる。

仕事で上手くいかなかったときも、過度に落ち込むことがありません。
「仕事は仕事。やり方が良くなかっただけ。次に上手くいく方法を考えよう」
という風に、自然と前に進む力を引き出してきます。

失敗したり、非難されたりするのは、ストレスを受ける場面です。
前に進むエネルギーが一時的に低下します。

どんなに元々のエネルギーが大きい人でも、
ストレスを受け続ければ前に進めなくなってしまう。

ただ、ストレスのかからない社会生活もないわけです。
なので、そのストレスに対して一時的にエネルギーが低下したとしても
自分でエネルギーを回復して前に進み始められる力が重要です。

その土台になるのが、自分の存在に対して感じている価値の度合い。
自分は大丈夫だと思えるだけの愛情豊かな触れ合いをしてきているかが支えになります。

もう一方の、自分の能力に対する価値とは、「自分はできる」という感じ方。
初めてのケース、難しそうなケースに対して、取り組む意欲に関わります。
あきらめの悪さにも近いかもしれません。

繰り返しチャレンジしたり、やり方を工夫したり、
困難に立ち向かっていく姿勢に反映されます。

これが低いと「私には無理です…」になる。

何かを成し遂げてきた実感や、苦しさを乗り越えた経験が
自分の能力に対する価値を高く評価させてくれます。

このような自信が高くても、客観性が低いとワガママ過ぎてしまいます。
「自分はスゴイ」と本人は思っているが、周りからの評価は低く、
自分が高く評価されないことに不満を撒き散らすようになります。

逆に、客観性の高さに対して、自信が低いと弱々しい雰囲気になるでしょう。

能力として自信が低いと、他者と比べて「私にはできません」の方向に
価値として自信が低いと、他者と比べて「私はダメだ」や「嫌われている」の方向に。

自信と客観性の両方が高いことが大切ということです。
両方が高く維持できていれば、ほとんどの困難に立ち向かい、
自分の力でそれを乗り越える方法を見つけていくでしょう。
他人との折り合いのつけ方も自然と身につけていくはずです。

ちなみに、どちらかというと、一般的な採用の場面では
自信の高さが評価される傾向があるような気がします。
客観性を判断する目を持っていないことが多い。

「デキそう」な雰囲気で、自信満々なのに
仕事をさせてみたら「あらっ?」ということがあったりします。

この自信と客観性のレベルに関していうと
組織の中で育てていくことも可能ですが、
それを意識的にできる人は多くない気がします。

だから人材育成の情報があふれているのでしょう。

そして、この偏りが大きい場合には、かなり教育は難しい。

教育レベルや技能として採用する以外にも
人間的素養として「自信と客観性」の視点で人を見ていくのは役立つと思います。

国際教養という場は、今までに関わってきていない環境に
身を置く決断をしていますから、ある程度の自信が必要になるでしょう。
そして、そこでの4年間の生活は、さらに自信を育んでくれる。

その意味で、企業が就職のときに注目するのは自然な流れとも考えられます。

あとは、客観性の部分。
欧米的なコミュニケーションのスタイルと
日本的なコミュニケーションのスタイルのギャップを
どのように扱っているかで見えるかもしれません。


そうやって考えると、
内面を育むような取り組みのほうが
重要度が高いような気がしてきます。

それを仕組みにしていくためには工夫が必要そうです。

2010年03月28日

どこをアピールするか

週末の大阪でのセミナーでは、2日間ともコレを飲んでました。

スポーツ紅茶

























レモンティーとスポーツドリンクの中間のような飲み物。
薄めのレモンティーにスポーツドリンク特有の塩分や香料が入っている感じ。
逆にレモンフレーバーのスポーツドリンクに紅茶風味が加わったとも言えます。

後味のほのかな紅茶の感じがお気に入りです。
普段は、それほどスポーツドリンクを飲みませんが、
この商品は結構お気に入りになりそう。

ただ、デザインが少し目を引きにくいというか、
あまり売れなそうというか…。

飲み物としては、それなりに好きな人は多いと思うんですが、
これがヒットするかと聞かれると微妙な予測をしてしまいます。
まぁ、飲料系のヒット商品は出にくいですから。

長く売ってもらいたいなぁと期待しています。


で、この商品に含まれているという「GABA」ですが、
健康食品関連ではリラックス物質として使われることがあるようです。

GABA(γ−アミノ酪酸)は、うま味物質としてお馴染みのグルタミン酸が
少し変化した物質で、グルタミン酸と同じく脳内の神経伝達物質として使われます。

グルタミン酸は興奮性、GABAは抑制性ということで
「神経の働きを抑制する」つまり「リラックス」といったイメージなんでしょうか。

実際には、グルタミン酸の持つ「興奮性」という意味合いは
シナプス間で伝達が起こったときにプラスイオンの働きで
プラスの電気が信号として使われることを言います。

逆に、GABAの「抑制性」という意味合いは、
シナプスでマイナスの電気を信号として生み出すことを言います。

このことからリラックスまで話を進めてしまうとしたら乱暴な気がします。

それに、GABAは血液脳関門を通らないことが知られているので
飲食物から取り入れたとしても、直接それが脳へ入ることはありません。

とはいえ、GABAはアミノ酸に近い物質なので
生体内で代謝されていく過程で有効に働く可能性はあります。

それがリラックスかどうかは不明ですが、
単なる栄養素の1つとして捉えれば、何かの意味はあると思われます。


成分をアピールすることで商品の機能的な側面を強調する方法もあるでしょうが、
商品の味わいや視覚的なイメージを工夫するという方法もあるでしょう。

そのものの持つ特徴は1つではない。
様々な観点から見ていけば、ウリにできる魅力は複数あるわけです。

何を表現していくかというのは、
人の心に訴えかけるときに重要だと改めて感じました。

飲んでみたら意外と美味しいと感じる人がいたとしても
それを手に取らなければ知ってすらもらえないわけですから。

2010年03月26日

信頼の土台

人との触れ合いにおいて愛情を感じることは、心の拠り所を作り出し
その人の内面的安定感や基本的信頼感の土台となっていくようです。

とても重要な部分であって、生育過程でこれを育んでもらえただけでも
大変な感謝に値すると思います。


生育過程の早期に「つながり」の感じを得られていないと
成長してから他人を信頼することができなくなる。

ある程度、成長してから、「つながり」が切れることを体験しても
そのインパクトは信頼が失われる形で強く影響する。

他者全般に対して信頼を十分に持っていたとしても、
運悪く犯罪などの犠牲者になると、
「裏切り」ということが大きな問題になってくる。


一般的なレベルで、安全に他者との「つながり」を体験してくることは
日々の喜びやストレスを健康に味わっていけるだけの
豊かさの基盤を作ってくれるようです。

そうした基本的信頼の土台となる「つながり」の体験は
どの時期に得たものであっても、きっと意味深いものになると思います。

それを得られるような場を作っていくことが
集団での人間関係を運営する立場の重要な役割の1つじゃないでしょうか。

とはいえビジネス場面での組織に、それを求めるのは難しい状況もあるかしれません。

その意味でも、ワークショップやセミナーにおいては
信頼しあえるような人間関係の場を作っていくことが大切になるような気がします。

2010年03月25日

分かりやすさの話

分かりやすい説明と、分かりにくい説明の違いを感じたことは誰にでもあると思います。

ただ、ここでいう「分かりやすさ」が、
人によって違う捉え方になっている場合もあるはずなんです。

大雑把に分けると、少ない言葉で要点だけを「分かりやすく」まとめた説明と、
難しい言葉を使わずに「分かりやすい」言葉でなされた説明、
具体的に詳しい情報があって「分かりやすい」説明、
などでしょうか。


そもそも「分かる」とは、どういう状態なのかを共有しないと話にならないと思いますが、
おそらく多くの場合において
 「具体的な体験内容と説明の言葉の内容が繋がる」
ときに「分かった」という感じになるのではないかと考えられます。

ですから、「分かりやすい」説明にも2種類あって、
最初から体験的に実感している内容を少ない言葉で整理するケースと、
体験的な実感がない新しい考え方としての内容を
体験の実例とともに結びつけながら理解していくケースとに分けられるでしょう。

前者は新しいことを学んでいるプロセスではなく、
本人の中で体験的には納得できているが言葉になっていない内容を
上手く他の人から言葉で説明してもらった状態で起きるでしょう。

実際には分かっていたはずのことを的確な言葉で説明してもらう。
そのときに、その説明に対して「分かりやすい」と感じるわけです。

後者は、体験的に納得できていない、触れたことのない考え方を取り入れるときで、
新しいことを学んでいるプロセスと言って良いでしょう。

そのときには、整理されていないけれど体験そのものはしたことのある内容を事例に、
そのことへの新しい意味づけがなされていきます。
これによって、新しく学ぶことの意味が分かるようになる。

もし、全く体験もしたことがないような場合には、
たとえ話を使って、同じような意味合いを伝えることもあるでしょう。
この「たとえ話」の選び方も「分かりやすさ」の1つの要因になると思います。


ここで、「前者」や「後者」という言葉を使いましたが、
このような言葉遣いは小学生に「分かりやすい」言葉ではありません。

言葉の選び方として馴染みがあるものを使ってくれるかどうかも
説明を受ける側からすると「分かりやすさ」の要素になるはずです。

初めての内容を学んでいくときには、体験と結びつけながら
新しく自分の体験を意味づけしていく方法を知る必要があります。
新しく学ぶというのは、物事を分類するときの視点を増やすということでもあるんです。

新しく学ぶための説明の「分かりやすさ」には、
体験の内容が典型的でシンプルなものになっているか
という部分も重要になるでしょう。

実際には複雑な場面があって、一口に説明するのは難しいことがあっても、
それには触れずに一般的な例だけで説明する。

中学校ぐらいの参考書でいうと、難しい練習問題がないようなものです。

本当は詳しく分けていくと色々と分類して理解すべき情報があるけれど、
その部分まで説明してしまうと最初から情報量が多すぎるので
一般的で典型的な情報だけに割り切ってしまって説明をする。

こういう「分かりやすさ」が入門的な分かりやすさと言えるでしょう。
当然、このときには先で学んでいく専門用語は使いません。

なので、初めて学ぶときの「分かりやすさ」には
情報を大雑把にまとめてしまって、典型的な事例だけに集約して、
専門的な言葉を使わずに、少ない言葉で説明する、という方法が役立つようです。

多くの入門書は、こうやって書かれているはずです。


そこから理解を深めていくためには、事例としての情報量
つまり体験の量を増やしていく必要があります。
細かく状況を分けていったり、根拠になる情報を説明するようになります。

本来は、ここまでの情報が繋がって「分かった」ということになりますが、
このためには情報量が増え過ぎてしまって混乱が生まれやすくなるというリスクもある。

専門書は詳しい分、繋げていくべきシンプルな説明が見えなくなってきて、
「今読んでいる説明が何のための説明なのかが分からない」
というような状態にさえなってしまうことがあるようです。

このような状態になってしまった人は、少ない情報で言い表わされる
「要点」や「ポイント」だけをまとめた説明を好みます。

それによって、複雑になった情報を、もう一度整理できるからです。

一方で、専門書の中には、事例的な情報の詳しさではなく、
専門的な用語同士を関連づけるような詳しさで説明がなされるものもありますが、
こちらの場合には、用語の部分で引っかかってしまう場合があります。

一般的な話ばかりで具体例がないのに、説明だけが長い。
これも難しさを感じるケースでしょう。


説明が「分かる」ためには、その意味を
自分自身の体験という事例と結びつけるか、
文字で与えられた事例と結びつけるかしていく必要がある。

説明を受けている過程で、自然とそのプロセスが進行していくようになっていると、
その説明は「分かりやすい」ということになるはずです。


つまり、新しいことを学ぶときに「分かりやすい」のは、
まず、典型的かつ一般的な事例を具体的に示しながら
専門的でない言葉遣いで説明される場合、というケースが多いと思われます。

入門書的な「分かりやすさ」が最初に求められるわけです。

新しいことを取り入れていく段階で情報量が多すぎるのは
説明そのものの「分かりやすさ」とは無関係に
説明を受ける側が情報を整理しきれるかどうかという部分でリスクがあるわけです。

詳しくて、かつ「分かりやすい」というのは
新しく学んでいく初期の段階ではハードルが高いこともあるでしょう。
一度、大まかな内容を「分かった」人に対して提供されると
効果的な説明になると考えられます。

そうして情報を詳しくしていくと、記憶して整理をするところで混乱が起きてくるので
改めてポイントになるところだけを説明して整理しやすくする、
という方法が役立つことがあります。

この「少ない情報でポイントだけを整理する」というタイプの「分かりやすさ」は
体験学習や具体的な事例などで情報量が増えた場合おいて
初めて効果を発揮するものだと考えられます。

「なんとなく分かっていた」ことを言葉で
もう一度整理してもらうときの「分かった」の感じです。

流れとしては
  典型的な事例とともに、一般的な言葉で説明をする(概要説明・入門的)
 →複雑な具体的事例、体験学習、根拠になる周辺情報などの詳しい情報提供をする
  (詳しい説明・専門的) 
 →ポイントだけを絞って「まとめ」の説明をする(要約・情報整理)
という具合でしょう。


この辺りは、学校の勉強の流れと近いものがあるようです。

中学校の歴史で習うのは簡単な出来事の流れですが、(概要説明)
高校ぐらいからは、1つの歴史的イベントを詳しく学びます。(詳しい説明)

1つの物事に対して、結びつける情報量を増やしていくわけです。
これが「詳しく」ということだと言えます。

ただ、詳しくばかりで進んでいくと、
どの内容が、何時代の、何の出来事のものか
混乱してきてしまうことがあります。

そこで歴史年表みたいな要点だけを示したものを使って
増えた情報量を分類しなおして整理するのが役立ちます。(要約)


ということは、初めて何かを学ぼうという場合にとっての「分かりやすさ」と
詳しく学んでいきたい段階での「分かりやすさ」と
色々学んでみて整理をする段階での「分かりやすさ」では
求められるものが違うということです。

少ない言葉で要約して説明してもらえるのが分かりやすく感じるのは
それまでに色々と経験をして情報量を増やしている場合です。

「上手く言い表している」と感じられるのは
すでに情報量を蓄積して分かり始めている段階だということです。

色々と勉強してきて、実体験も積んできて、
その段階で聞いた誰かの「分かりやすい」説明というのは
要点をまとめた説明になっている可能性が高いでしょう。

そのタイプの説明が「分かりやすい」と思っていても
同じ説明が初めての人に伝わるかは分かりません。
むしろ伝わらない場合のほうが多いと考えられます。

NLPのワークショップなどは、日常的な生活とは離れた内容を扱うことが多いですから
かなりの場面において、新しい・初めての内容を説明されるわけです。

それを説明する側は、少なくとも一通り体験していたり、
色々なところで情報量を増やす努力をしてきたりしているでしょう。

その人にとって「分かりやすかった」説明と同じ説明の仕方をすれば、
それは要点だけを説明することになり、
説明を受ける側には内容を実感することさえ難しくなってしまいます。

すると「まぁ、とりあえず体験してみましょう」ということになる。

逆に、いきなり詳し過ぎる情報提供をすれば混乱してしまう。

となると、まずは入門的な「分かりやすさ」を重視するのが
効果的になりやすいだろうと考えられますが、
そればかりだと、底の浅い内容になってしまうかもしれません。

結局、相手に合わせて説明の仕方を工夫する必要があるということです。

そのためにも、相手に必要な情報の種類を見極められるように
自分の中で情報提供の仕方を区別しておくことが大事だと思います。

2010年03月24日

交感神経の働き

人には色々な心の癖があります。
行動の癖といっても良いでしょう。

初対面の人に話しかけるときに緊張してしまうとか
苦手な人と接すると意見を抑えてしまうとか
言いたい気持ちが沸いてきても飲み込んでしまうとか。

いわゆる問題や悩み、苦手な状況というとき。

こうした場面は心身にストレスがかかっていると考えられます。
ストレスがかかっているので、嫌な感じを受けるわけです。

身体的に見てみると、ストレスがかかっている状況では
交感神経が優位に働き、興奮状態になると推測されます。

この状態のままで、今までとは違う上手くいくための方法に挑戦しても
身体反応のレベルでは通常と違う状態になってしまっています。

それは元々、危機回避のための状態です。
人間的な思考よりも動物的な反応が上回ってしまう。

そこでは、頑張って意識的なトレーニングをしてみても
体がそれをさせてくれないというケースが起きやすくなります。

上手くいくためのコツを教わって、理想的な振る舞いのトレーニングをしても、
体が、ストレス状況下における危機回避のための状態になってしまっては
学んだことを活かすよりもストレスから生き延びるための反応が優先されてしまう。

その意味では、ストレス状況下でも安定していられる、
という体の状態を生み出していくことのほうが役に立つことが多いと考えられます。

よく言われるリラックスの重要性は、この部分にもあるわけです。
まずは、交感神経の過剰な働きを抑えて、落ち着いた状態にしていく。
その上で、学んだことを利用できるようにするほうが効果が出やすいでしょう。


すると、理想的な方法ばかりを学ぶというのは
あまり賢いものとは言えない気がしてきます。

理想的な方法を学ぶばかりだと、自分が上手く出来ていない場面になったとき
上手くやりたい気持ち、やらなければならない気持ちが高まります。

その一方で、身体のレベルではストレス的な危機回避反応が起きて
自分の意識でコントロールできないような不自由さを感じる。
やるべきことが頭では分かっているのに、上手くできない。

理想的な方法を心がけるほどにジレンマが強まる可能性があります。

そこで役立つのが、ワザと最悪の方法を体験するというもの。

最悪のケースを実感しておくと、
「あれよりはマシだ」
という気持ちが、ストレスのかかる状況でも
体がリラックスする方向に行きやすくなります。

理想的な方法を学ぶだけでなく、最悪の方法も学ぶ。
これが意外と重要だということです。


上手くいかない状態が続いているというのは
何も進んでいないように感じるかもしれませんが、
実際には「それよりも悪くなっていない」という部分で
後退もしていないわけです。

もっと悪くなる可能性だって残っているはずなのに
悪くなっていないのは、そこに何らかの努力が働いているからではないでしょうか。

その努力をやめたら、もっと悪くなる可能性だってある。
その最悪の可能性を自覚しておくと、
現時点の上手くいっていない自分が「もっと悪くさせない」ことに
成功していることにも気づけるかもしれません。

ストレスのかかる場面では、まず、
ストレスから少しずつ開放される方向に進むと役立つことが多いという話です。

2010年03月23日

パッと見で

脳科学関連の本を読んでいると、色々な実験結果が出てきます。
理論で有名な人物もいれば、実験内容で有名な人もいる。

有名人は、多数の本に引用されてくるわけです。

そんな中で目を引くのが「マイケル・ガザニガ」という人物。

この文字面が、どうしても
 「アメリカ・ザリガニ」
に見えてしまうんです。

もう、仕方ないレベルです。

何度も目にしているにも関わらず、パッと視野に入った瞬間に
頭の中で響く声は「ザリガニ」。

日本語の文章を読むときには、慣れた文字は正確に一文字ずつ追いかけずに、
見た目の印象から、最も近い形の単語を探し出して当てはめ、
その単語とセットになっている映像や読みの音を引きだす
というプロセスが進行していることが伺えます。

カタカナの文字、特に人名になると見慣れていないことが多いですから
その部分だけ識字スピードが落ちるのも実感できます。

サラッと読んでしまうと、単語の名前を勘違いして読み進めてしまったりします。
「スコトーマ」なのか「ストコーマ」なのか、みたいに。

見慣れていないと丁寧に読もうとしてスピードが遅くなるか、
あるいは適当に読んでしまって間違えやすくなるか、
そんなことが起きるようです。

一方で、見た事のない文字の配列のはずなのに、
字の形、文字数などの見た目の印象が近い場合には
知っている単語の中から似たものを探してしまう。

読むスピード上げるための工夫は、誤解も招きやすいところがあるのかもしれません。


こうしたことは改行のタイミングなどでも起きます。

あるセキュリティ会社の看板に、メニューの内容として
「 ミニコント
  ローラー  」
という表記があったんです。

横並びで「ミニコントローラー」まで、スペースに入らなかったんでしょう。

せいぜい「ミニ・コントローラー」と表記するようにしたら
改行が途中に入っても違和感は少なかったかもしれません。
もしかすると商品名として「ミニコントローラー」の表記になっていて
途中に「・」を入れるわけにはいかなかったのかもしれませんが。

単純に文字数のバランスを取るためにした改行。
 ミニコント
 ローラー
の書き方では、「ミニコント」の塊が先に認識されてしまいます。

後から「ローラー」が続いていることが分かったときには、もう遅いです。
一度、「ミニコント」の文字の塊で、意味が想起されてしまいます。

僕の頭の中には、コンビの芸人が出てきてしまいました。

 「ミニコント! 『ローラー』」

 「クソーッ。なかなかサーブが思うように決まらない。
  うーん、もう少し…」
 「よーし、じゃあ、今日の練習はここまで!
  お前ら、ちゃんとコートにローラーかけとけよー」
 「はーい、コーチ。
  もう練習終りの時間かぁ。
  さて、じゃあ、かけますか。
  『♪ローラ、君は、何故に…♪』」
 「うーん、秀樹、カンゲキ!
  って、言うてる場合か!!」

みたいなイメージです。

浮かんでくるものは止められませんね。

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2010年03月22日

心のスキマを埋めるもの

ニュース番組の情報によると、高齢者が増えるにしたがって
ゴミの問題が大きくなってきているのだとか。

一人暮らしであったりすると、ゴミ出しも大変になる。
何よりも、気力がわかなくなってくる、と。

どうやら、紹介されていた「ゴミ屋敷」と呼ばれるような住まいの主人の中には
強い喪失感を抱いたままのケースがあるようです。

もちろん一概には言えないと思いますが、
自分のところのゴミを捨てないだけでなく
外のゴミ捨て場から捨てられていたものを持ち帰ってくる場合では、
自分の心の中の喪失感を埋めようとする意図が読み取れるようです。


自分の持ち家ということになると、家の敷地の範囲が
自分の心の範囲のように感じられてくることは多いのでしょう。

自分の生まれ育った家に帰ったときを想像すれば
「自宅」の範囲をどこから設定しているか、というのが分かると思います。

人によっては「家」の前の道まで自宅の範囲に含めることもあるようですが、
まぁ、「自分の家」という範囲を心の中に設定しているのは一般的でしょう。

その範囲に他人を入れるときに、普段とは違う気持ちが沸いてくる。
パーソナルスペースのように、「自分」の範囲が拡大するわけです。

たまに自分の車に他人を乗せることを嫌がったり、
土足厳禁にしていたりする人がいるみたいですが、
これもパーソナルな「自分」の範囲を車に投影しているケースでしょう。

この「自分」を「家」に投影する度合いが高く、
そして喪失感や空虚感を強く持っている場合には、
まさに心の隙間を埋めるために、物で家の空間を埋めようとする。
そんなところがありそうです。


家族を失い、一人取り残されるようなことがあると
ガランとした家の中を何かで埋めようとして物を集めてきたり、
「二度と大切なものを失いたくない」と、使えそうなものを集めてきて
捨てられなくなってしまったりするのかもしれません。

自分の心の中にポッカリと失われてしまった部分が沢山ある。
それを埋めたい気持ちが起きるのは当然のことでしょう。

そのときに、心の空間を家の空間に投影するケースがあるようです。
それも「家」が家族という大切な存在との共有スペースだったことを考慮すれば、
大切な存在を失った心の隙間を家の空間と重ねるのも自然な流れの気もします。

きっと、ゴミを溜め始めた最初の頃は少し事情が違ったんじゃないでしょうか。
自分のものが捨てられないとか、家族の残したものが捨てられないとか。
普段の生活から出るゴミの中に、大切な存在を連想させるようなものがあると
それを捨てるのに抵抗が出てくるとか。

そうしたことを繰り返すうちに、捨てるという行動自体の意味づけが変わってきて
物があるということの意味づけも変わってきてしまった。
そんなことが想像されます。

本当に残しておきたい大事なものと、ただ隙間を埋めるための物と、
優先順位がつかなくなってきているのではないかと思います。


こういうケースは地域社会への迷惑という点で
個人の問題の範囲を超えてしまっているのが難しいところでしょう。

最悪なのは、強制的に全部捨てさせてしまうという対処だと考えられます。
その行為は、元々優先順位の高かったものまで捨ててしまいます。

後に残るのは、「完全に何もなくなった」という気持ち。
こうなると、もう「隙間を埋める」という以外の意図はなくなってしまいます。
放っておけば、またゴミを集めてくるでしょう。
今度は、本人にとって大切かは関係なく、物があれば良いということになりかねません。

行政や地域社会の立場から考えて、なんとかアプローチをしていきたいのであれば
先に本人の心の空虚感を満たしていくのが大切だと思います。

そのためには社会的なコミュニケーションでは不十分でしょう。
もっとパーソナルな関係性で、心の充足感を感じてもらうと良いと考えられます。

素直な子供たちと触れ合ってもらうのが良い気がします。
その過程で、ゴミの中からオモチャになりそうなものが見つけられれば
家の中にあるゴミの意味づけが変わっていくでしょう。

自分の心の中を、他人のゴミという本人にとってどうでも良いもので埋めているのは
本人にとっても決して望ましい状態ではないと思います。
そこを子供たちとの接点にするとか、上手く社会と関わっていくための場所にする。

自分の心の範囲に当てはめる「家」を、敷地全体ではなく
家の中の一室にまで狭めていって、残りの敷地は他者との接点に使う。
そんな工夫をしていければ事情は変わってくるかもしれません。

あとは、家の中から出てこないというのは状況を固定してしまうでしょうから、
なるべく家の外で他人、とくに子供や動物などと触れ合える場所を
用意していくのも役に立つと考えられます。

「家」の範囲が、自分の世界全体にならないように活動範囲を広げ
家の外で心の隙間を埋めていくように交流をしていく。

そんなサポートができると、家の中の物が、ゴミとして見られるように
少しずつ変わっていくのではないかと想像します。

高齢者が一人暮らしで家に籠ってしまうというのは苦しいことでしょうし、
社会として考えていくことが大切なテーマのような気がします。

2010年03月21日

今さらの37巻

書店に行ったら、「キン肉マン」の37巻が平積みになっていました。

「キン肉マン」は22年前に36巻が発売されて、それで完結しています。
なので22年ぶりの新刊として37巻。

内容は、シリーズ本編の完結後に数年たってから、
色々な所で読み切りの形として描かれていたものを集めて作られています。

相変わらずのキン肉マンらしさがタップリと堪能できて
大ファンだった僕としては非常に満足でした。

風邪を引いて学校を休むと、寝ていても寝つけずに
ボーッとしている時間帯がありましたから、
そんなときは大体の場合、キン肉マンを読んでいたものです。

今でも、何巻あたりに、どんな話の内容が載っていたかを思い出せそうなほど。

そんなファンにとって懐かしさと驚きを高めてくれたのは、
なんといっても、本の装丁の部分でしょう。

22年前のジャンプコミックスの体裁をそのまま残しています。
もう細かいフォントまで、当時のまま。

キン肉マン 37 (ジャンプコミックス)
キン肉マン 37 (ジャンプコミックス)
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カバーの内側には例によって著者近影がある。
作者の2人の写真は一巻の写真をイメージして撮られたんだとか。

最後のほうに、読者の感想が載っているのも懐かしい。
当然、「僕の考えた超人」の絵も掲載されています。

そして、カバーを外した時の表紙。
これも黄色・白黒3色刷りで、20年以上前の姿です。

特に、この黄色には心が動きました。
一気に色々な思い出がよみがえり、映像にはならないながらも
様々な気持ちが入り混じった懐かしい感情が出てきます。

滅多に目に入ってこない特徴的なデザインでしたから
アンカーとしての機能が強く残っていたんでしょうね。

思わず、YouTube でアニメ版「キン肉マン」のテーマ曲などを聞いて
さらに懐かしさに浸ってしまいました。


一度完結したマンガに、再び最新刊が発売される。
しかも、当時の状態を出来る限り再現しながら。

これは、22年経った今、集英社で編集をしている人たちの中に
熱烈な「キン肉マン」ファンがいたことを物語っているのでしょう。

「キン肉マン」を読んで育った人たちが、マンガ編集者の道に進み、
今、こうして再び自分の手で「キン肉マン」の最新刊を発行する。

彼らの感動は、読み手とは一味違ったものだったろうと思います。

デザインも、表紙も、カバーも、全てを昔ながらに揃えるというのは
単純に印刷のことだけを考えても、手間がかかっている気がします。

コンピューターで入稿するのが主流の現在において
あえて、当時のままの写植入稿にまでコダワリ抜いたそうです。

想いは人に根付いていくものだと改めて感じました。

20年後、今の小学生たちは何に懐かしさを感じるのでしょうか。
30年後、彼らが仕事の中に込める想いには、今の何が繋がるんでしょうか。

cozyharada at 04:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | NLP

2010年03月19日

一気に丸ごと

「未来ファクトリー」という番組のアドバイザーとして
慶應大学・先端生命科学研究所所長の冨田勝先生が出演していました。

冨田先生は日本の生命科学分野においては有名人。
メタボローム研究の第一人者でしょう。

メタボロームの「 ome 」の部分は、ゲノムの「 ome 」と同じ。
「全て」のような意味合いでしょうか。

ゲノムは遺伝子全部ということ。
僕がバイオ系に進み始めた頃が、
ちょうどDNAの配列を決めるための技術が発展し始めた頃でした。

色々な生物のゲノム、つまり全部の遺伝子を調べようという時期。

遺伝子の配列を調べるための技術を追いかけるように、
細胞内の遺伝子の働き方を調べる技術も進んでいきます。

遺伝子が働き始める段階を、転写(トランスクリプション)と呼ぶので
全ての遺伝子の働きかたを一気に調べようとすることを
「トランスクリプトーム」と言ったりします。

それからすぐに、タンパク質を細かく調べる技術が発展します。
細胞内のタンパク質は、その細胞の遺伝子から作られるもの。
細胞内の状態は、タンパク質の作用によって決められます。

このタンパク質(=プロテイン)を全て調べてしまおうという発想が
「プロテオーム」。

細胞の設計図である遺伝子を全て調べ(ゲノム)
その遺伝子が細胞内でどのように働いているかを調べ(トランスクリプトーム)、
遺伝子が作ったタンパク質が細胞内に
どのくらいの量で含まれているかを調べる(プロテオーム)。

そんな風に、細胞の中身の状態を網羅的に把握しようという試みが
注目され始めた時期だったんです。

そして、細胞の中では、タンパク質の働きによって
糖類やアミノ酸、脂質などの様々な物質の量が調節されます。
細胞の中には沢山の化学物質が入っているわけです。

そこで、細胞の中にある物質の種類と量を
一気に全部測定してしまおうという発想も出てきます。
細胞の中の物質を代謝産物(メタボライト)と呼ぶので、
その網羅的な把握のことを「メタボローム」と言います。

これにも測定装置が重要でした。
僕が会社にいた頃、その測定が可能になってきたんです。
色々と試して、膨大なデータとニラメッコをしたものです。


こうした網羅的な研究は、細胞の中身を丸ごと調べてしまおうという発想です。
冨田先生は、その走りともいえる人物。

元々、カーネギーメロン大学で計算機科学をしていたそうですから、
生物系に移った後も、コンピューターシミュレーションに力を入れたのでしょう。

細胞1つ丸ごとをコンピューターでシミュレーションする
「E-Cell 」はインパクトがありました。

僕自身は、実際に細胞を使ってモノづくりをする側にいましたから
そうした基礎研究には多少なりとも憧れがありましたし、
全部を丸ごと理解したいという欲求の強さが
網羅的研究に対する興味を高めていたように思います。

学会出張も、なるべくそんな興味が満たせるところを狙っていたものです。

冨田先生や、そこの学生の発表を見つけては、
発表後に先生のところへ行って、質問やら議論やらをしていたのが
懐かしく思い出されました。

久しぶりに論文などを調べてみましたが
数年間では劇的な進展というほどでもないようです。

生命活動を断片的に理解する方向は地道に進むのでしょうが、
全てを一気に知ろうとするには、まだ生物は複雑なのかもしれません。


一流のスポーツ選手や職人芸的な能力を発揮する人たちにおいて
自分で「できる」ことと、それを「説明できる」ことが違うように、
科学者が頭の中に「理解している」ことと、「説明できる」ことも違う気がします。

分かっていることを説明するためには、そのための言語が必要になります。

数学であれば数式で、コンピューターであればプログラム言語で、
素粒子物理であれば計測で、化学であれば実験で、
それぞれの理論を実証していくわけです。

本人の中では相当な確実性で理解しているつもりの内容も
それを示すための手段が見つかるまでは本人だけのものになってしまいます。

冨田先生は、どんな気持ちで研究を進めているのでしょうか。
少なくともサイエンティストとして研究活動を続けている以上、
自分自身の中にある考えを世の中に出そうという気持ちはありそうに思います。

今は、以前とは違った内容の議論をしてみたい気分です。

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《新カウンセリング講座》
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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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