2010年03月

2010年03月18日

写真のような水彩画

普段の名古屋でのセミナー会場に、興味深いカレンダーが貼ってあります。
画家の絵を使ったカレンダー。

普通の壁に掛けるサイズのカレンダーです。
2月分で一枚。
合計6ページあります。

それぞれのページの上半分が、画家の絵になっている。

で、その会場に貼られていた3月のカレンダーは
池のある公園の風景でした。
池を挟んで対岸にある木々や柵などが描かれています。

一見すると普通の風景画のカレンダー。
ともすれば誰が描いたものかなんて気にしなかったかもしれません。


ところが、そのカレンダーの絵、
少し離れた所から見ると写真みたいに見えるんです。

より正確にいうと、写真だと思って見ていたカレンダーの絵柄を
近くに寄って見てみたら絵だったことに気づいた、ということになります。

それぐらいパッと見た感じは写真に近い印象を受けるわけです。

とはいえ、物凄く緻密に正確に描いているのではありません。
どちらかというと絵筆の跡が分かるぐらい、大雑把な塗り方。

ルネッサンス期の西洋絵画のように綺麗なグラデーションで描かれているのではなく、
近くで見たら色の濃淡も比較的ハッキリしています。

印象として喩えると、解像度の低いデジタル写真みたいな感じでしょうか。
近くによって見ると画質が粗いことが分かる。
色の境目が分かってしまうような低画質の写真のようです。

ですから、近くで見ると普通の絵に思えてしまいます。
少し離れてみると、写真のように感じられる。

多分、それは解像度の低い写真を見るときと同じように
見る人の視力によって綺麗に見える距離があると考えられます。

僕の視力だと数メートルの距離になると、急に写真っぽく見えだすんです。
これは面白いです。

自分で離れていくと、さっきまで絵に感じていたものが
突然、あるタイミングで写真のように感じ始めるわけですから。

それは頭で絵だと分かっていることとは関係ありませんから、
認知レベルの作用として起きていると言えそうです。


ちなみに、その画家は日本人の「水野以文」という人。
ウィキペディアでは調べられません。
google検索しても一万件にいかないくらい。

1800年代の末に生まれ、1900年代後半まで生きた方だそうです。
浜松生まれ。
紫綬褒章を受章しているそうです。

詳しい情報は分かりませんが、水彩画で有名になった人物だとか。
カレンダーとして見ることはできるかと思います。

たとえば、こちらを見ていただくと、(http://www.e-reki.com/?pid=16498665)
僕の言いたいことが実感してもらえるかもしれません。

明らかな絵が写真のように感じられるということは、
我々が写真を見たときに「写真だ」と判断するような視覚情報の特徴が
この絵の中に含まれているということです。

それは光の表現の仕方でしょうが、
ピントの合い方が1つのポイントではないかと分析します。

写真はレンズからの距離でピントの合う位置が決まり、
その前後はボヤけた感じになります。
奥にあるほど不鮮明になる。

空気遠近法のように、奥にあるものほど色が白っぽく、かすんでいくのも特徴でしょう。
そして、陰影や色味のコントラストが強い。

なので、光沢感というかツヤの感じというか、
パキッとした印象が出てくるのではないかと思います。

そして、水野以文という画家の特徴として
緑色の使い方が非常に巧みだというところがあるように感じます。

緑が多い絵のほうが写真的に感じる度合いが強い。
葉っぱが光を反射する度合いを上手く捉えているんでしょう。


以前にも書きましたが、フォトリアリズムとか
スーパーリアリズムと呼ばれる絵があります。

これはもう、そのまま写真を見て描いてしまう手法だそうですが、
こちらは徹底的に緻密に描いていくんです。

寄って見ても写真のように感じられる。
ここが水野以文の絵との違いでしょう。

フォトリアリズムでは写真らしさを表現する特徴を捉えて
絵に反映させているわけではありません。

水野以文という画家は、狙ってかどうかは分かりませんが、
写真のように感じられる特徴の表現方法を使って水彩画を描いたんです。

しかも、近くに寄って見たら絵だと分かるような塗り分け方で。

これは写真らしさを感じさせるリアリティの中に
緻密さという情報は要らないということを示していると考えられます。

画質が粗くても写真は写真だと分かる。
それと同じようなことが水彩画の中で起きているわけです。

NLPからしても興味深い絵だと思います。

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2010年03月16日

MISIAの聞き方

音楽はジャンルによって楽しみ方が違うと思います。
体への響かせ方が違うといっても良いかもしれません。

音の要素によって響き方に違いを感じる人は多いようです。
楽曲によって聞き方を変えられる人は全てのジャンルを楽しめるでしょうし、
その聞き方が一定になっている場合には、好みのジャンルが生まれてくるでしょう。

ロックの音の構成とジャズでも違いがありますし、
クラシックになれば違いはさらに大きくなるように感じられます。

クラシックの場合には体に響かせるというよりも体の外に描くというか、
顔の前あたりで全ての音の組み合わせを「見る」ようなつもりになると
その移り変わりや調和の美しさが感じられると思います。

一部のクラシックの作曲家は、曲のイメージを絵で描くようですし。


僕は元々、音楽を体の中に入れずに目の前で見るような傾向が強かったので、
ノリノリの曲よりも、サラッと美しい響きの曲が好みでした。
音質としては白みがかった透明感のある感じ。

最近は、色々と工夫をしてきた関係もあって
様々なジャンルの音楽に合わせて聞き方を変えられるようになってきましたから
音楽の楽しみが増えてきた気がします。

一言でいうならば音楽にペーシングする、という感じでしょうか。

人気のある歌手は特徴が際立っていることも少なくないようです。

多くの人に訴えかける特徴の強さがあれば、曲に巻き込んでいって
聞く側を引き込んでくれるでしょうし、
特徴はあっても訴えかける強さが小さい場合には、
その特徴を好む特定のファンに愛されることになるでしょう。


そんな人気歌手の中にMISIAという人がいます。
歌声に定評のある人です。

もちろん、その歌い方にも訴えかける部分を感じますし、
声そのものも人を引きつけるのでしょうが、
彼女の曲には良く見られる特徴があるような気がします。

それは音楽全体を「見る」ようにして聞いたときに際立ちます。

僕は音楽を聞くと、全ての音の要素が、質感を持った形として映像的に浮かんでくるので、
曲が動画のように展開していくイメージが沸いてきます。

その見え方にはパターンもあります。

曲が動画のような映像へ変換される感じになりますから、
どこか特定の音を聞くというよりも、全部の音を同時に捉えるみたいです。

そういう具合にMISIAの曲を聴いていると、
視野の上部のあたりに映し出される音が多いことに気づきます。

それもキラキラと小さく輝く光のようなイメージが多い。
それが視野の上側1/3ぐらいまでに降り注いでくる感じ。

また、低音部が反映されやすい視野の下側は、下から上に向けての動きが多いようです。
動きのスピードは、ゆっくり目でしょうか。

MISIAの歌声は、視野の中頃から上方向に向かって伸びていくイメージ。
視野の中央部に絵を描くように歌っているように感じられます。

それらが組み合わさって作られる全体的な映像を見ていると
なんとなく意識が上方向に行くというか、
少し見上げるような目線になりやすい印象を受けます。

下から上に向けての流れに乗るように前方の上側に気持ちを向け、
視野の上部に降り注いでくる光のようなイメージを見上げる。

曲に含まれている音の組み合わせが、
意識を自然と上方向に持っていくような雰囲気を持っているということです。


MISIA自身が上を向きながら歌うことが多いのも
もしかすると関係しているかもしれません。

少なくとも、MSISAを聞くときには、
スピーカーを頭よりも少し上のところに置いて
正面から見上げるようにして聞くと、その世界観に入り込みやすい気がします。

壮大に音が広がっていくようなサビの部分で胸を開くようにすると、
曲の中に舞い込んでいけるような雰囲気さえ感じられるようです。

曲の魅力を高めるための工夫も、1つの楽しみ方のように思います。

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2010年03月15日

なぞときのこころ

今、売れ始めているお笑い芸人で「Wコロン」(ダブルコロン)の
「ねづっち」という人がいます。

チェック柄のジャケットが定番の彼は、「なぞかけ」が異常に上手い。
並大抵ではありません。

「なぞかけ」というのは「笑点」などの演芸番組で有名な
「〜とかけて…ととく」「そのこころは?」というヤツです。

笑点に関しては多分、台本があるので、
出演者はお題を事前に分かっている可能性が高いと思います。
そうでなかったとしても、答えを考えるまでに時間がある。

ねづっちは違います。
誰かに適当なお題を出されたら、即答で「整いました!」と言って
すぐに「なぞかけ」を完成させてみせるんです。

僕は、最近、ここに関心が高いんです。
どうやったらすぐに「なぞかけ」を作れるのか?
そのストラテジーを調べたい。


NLPでストラテジーと呼ばれるのは、本人が何に意識を向けながら
その行動をしているかという手順のことです。

表面的に見て取れる動作や言葉の内容ではなく、
その裏側で本人が、何を、どういう順番で意識しているのか、ということ。

「なぞかけ」の話でいえば、何を考えて、どういう情報の探り方をしていると
すぐに上手い「なぞかけ」ができるのか、という話になります。

近頃は、いくつかのテレビ番組でクイズ形式をとって
「なぞかけ」を考えさせる場面が見られますが、
このクイズ形式の考え方と「ねづっち」形式では作業が違うはずです。

実際、ねづっちがクイズに答えるときには
多少苦戦する場面が見られたりします。
まぁ、それでもかなり優秀な成績を残してはいますが。

クイズ形式で出される場合には、
「〜とかけて、…ととく。そのこころは○○○○です」
という具合に、最初から作られた「なぞかけ」の
「そのこころは」の部分を当てる形式になっています。

先日の番組で見たものを例に挙げれば
「弱い野球チームの監督とかけて、ドキュメンタリー番組ととく」
「そのこころは、どちらも”さいかい”に泣きます」
というもの。

”さいかい”は、野球チームの最下位と、家族の再会をかけているわけです。

この「どちらも」以降を考えさせるのがクイズでした。

一般的に「なぞかけ」では、単なる両者の共通点を考えるのではなく
語呂合わせなどを伴って、少しヒネッた「かかり方」を狙うことが多いようです。
「最下位」と「再会」に共通点を見出す、と。

このクイズを考える側は、それほど難しくないはずです。
少なくともクイズに答える側よりは。

なぜなら、このような「なぞかけ」を作るときには
先に語呂合わせの単語を探してしまえば良いからです。

”さいかい”という音で「最下位」と「再会」を見つけてから、
それに関係する場面を探していく。
「最下位」でも「再会」でも共通して起きるのは、「泣く」という行為。
そこで、「最下位で泣く」のと「再会で泣く」のと、それぞれに関係する場面として
「弱い野球チーム」と「ドキュメンタリー番組」を出してくる。
これで完成です。

同様に、”さいかい”さえ決めてしまえれば、僕にもすぐに思いつきます。

まず「再会」と「最下位」の2つを使うと決める。
「再会」と「最下位」に関係して、共通して起こることを探す。
そこで「待ちわびる」というのを見つけます。
で、あとは「再会を待ちわびる」場面と「最下位を待ちわびる」場面を考えれば、
簡単に「遠距離恋愛のカップルの姿」と
「アンチ巨人の巨人に対する気持ち」というのが浮かぶ。

そうすれば
「アンチ巨人とかけて、遠距離恋愛ととく」
「その心は、どちらも”さいかい”を待ちわびるでしょう」
という具合に「なぞかけ」が出来るわけです。


しかしながら、ねづっちは違います。
お題として、唐突に1つの単語を与えられる。
例えば、「花束」とか。

そこから、すぐに「整いました!」となるんです。
これはスゴイ。

僕が見たところ、シンプルな手順で進んでいるようには見えます。
多分、いくつかのパターンを持っているんでしょう。

ただ、決まって最初に起こるのは少し目線を上に上げるところ。
視覚情報を使っている可能性が伺えます。

そのあとで、目線は上に上げたまま、横にスライドしていく。
多分、つながりを探している作業でしょう。

あの発想のスピードからすると、
アクセス速度の速い視覚を駆使しているのは妥当だと考えられます。

推測ですが、「花束」のようなお題を出されたときに
すぐに「花束」が表れる典型的な一場面を浮かべるんじゃないでしょうか。

そして、そこからキーワードを探す。
「なぞかけ」になりますから語呂合わせしやすい単語が望ましいでしょう。

花束の映像を浮かべながら、語呂合わせ出来そうな単語、
例えば同音異義語などを探していくと、「開店」と「回転」が見つかります。

多分、彼が時間をかけているのは、このプロセスだと推測されます。
しかも、狙いは1つに絞っているように見える。
かなり決め打ちじゃないかと思います。

「開店」と「回転」が決まれば、少し言葉を補って”整える”段階に移る。

「花束とかけて、浅田真央の銀メダルととく」
「そのこころは、”かいてん”のお祝いにはかかせません」
という具合でしょうか。

即興ですから、ここの整え方にも腕が要求されますが、
綺麗にできるかどうかは、むしろ整える部分によるのかもしれません。

また、別の可能性としては、お題から連想される単語を次々に思い浮かべ、
語呂合わせができる別の単語を探していくというプロセスもあり得ると思います。

この辺は、今後よく観察してみたいところ。
多分、姿勢や目線の動きなどで推測できるでしょう。

ねづっちのなぞかけ。
今後も注意して観察してみたいところです。

2010年03月13日

書道マンガ

世の中には色々な内容のマンガがありますが、
先日、書道のマンガを買いました。

とめはねっ! 鈴里高校書道部 1 (1) (ヤングサンデーコミックス)
とめはねっ! 鈴里高校書道部 1 (1) (ヤングサンデーコミックス)
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高校の書道部を描いた内容。

高校生のスポーツ分野を描いたものが多い中、
文化部系統を題材にしているのは興味深いところ。

書道そのものの内容だけでは心が動かされる部分が少ないせいか、
様々な登場人物の人間模様を描くことで作品が彩られています。

マンガの中には、絵やコマ割り、文字表現などを通じて
ストーリーの内容とは別の部分で直接的に内面へ訴えかけるものもありますが、
この作者は、その手法を使うタイプの人ではないようです。

シンプルで見やすい絵柄で、ストーリー展開をサポートする感じ。

作品中に登場する書道の文字を、色々な人に書いてもらっているのが興味深いです。
場合によっては読者投稿作品を利用することも。

なんだか「キン肉マン」の「超人募集」のコーナーを思い出します。

このマンガを原作に、NHKでドラマとしても放送されたそうです。

書道が若者の間で流行ることも…、なんて考えなくもないですが、
精神的な落ち着きなどを考慮すると、
大人になってからのほうが楽しみが分かるという部分は
ある程度仕方ないところのような気もします。

cozyharada at 23:05|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | NLP

2010年03月12日

ちょっと哲学的に

スピノザの「エチカ」に書かれている定理42。

至福は徳の報酬ではなくて徳それ自身である。

 そして我々は感情を抑制するがゆえに至福を享受するのではなく、
 反対に、至福を享受するがゆえに感情を抑制しうるのだ。 



なんとなくですが、NLPだとか心理療法だとかを学んでいくと
こうした言葉にも少しですが実感を伴って納得できる部分を感じます。

感情に振り回されないように意識をするということ自体が
その感情に自分がコントロールされている状態、つまり
感情に振り回されている状態と言えるでしょう。

人をコントロールしたい、人にコントロールされたくない、
そんな思いを抑えようと意識をしてしまうこと自体が
コントロールの欲求に自分がコントロールされているということ。

「手放す」というのは簡単な言い方ですが、
手放そうと意識している状態は手放せてはいないはずです。

逆なんでしょう。

反対の方向に努力をしていったとき、
スピノザのいう「至福」の状態に近づいていったとき、
自然と「手放す」ことができ始めている。


感情自体は悪いことではないと思います。
自分が何に対して感情を動かすのか。
その対象を選択できれば、自分にとって大事な感情と、そうでない感情とを
区別できるようになっていくでしょう。

思い通りにコントロールしたい欲求も悪いことではないと思います。
それがあるから努力をできる部分もあるはずです。
何をコントロールしたくて、何ならコントロールしなくても気にならないのか。
それを明確にできれば、コントロールにコントロールされることはなくなる気がします。

自分の中に基準を持つということでしょうか。

それが自分にとっての「徳」に関係するものだとすると、
徳に気づけていることそのものが、人生を至福にしてくれるのかもしれません。



 そして、いうまでもなく、
 僕がこのように文章を引用して、その意味について考えているのは
 スピノザ本人の意図と同じではない可能性が高いはずです。

 僕が考えていることに関係しそうだったから心に残った、
 あるいは、その言葉がヒントになって発想が繋がった、
 というところまでが現実的でしょう。

 本を読んだり、先人の教えを学んだりするときには、よく起こるものだと思います。

 でも、それが読んだ者にとって意味のあることであれば十分な気もします。


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2010年03月11日

苦味の味わい

新製品の清涼飲料水『アクエリアス・プロ』。
飲んでみました。

プロ用


























なんといっても『プロ』です。
プロフェッショナル向けのアクエリアス。

一般的にはプロスポーツ選手が飲むというイメージでしょうか。
高級感と飲用後の効果の高さを想像させます。

アミノバイタルのシリーズも『プロ』という名称のものがありますから、
1つのランクとして使われるものなのかもしれません。

スポーツ用品売り場の健康食品の棚に置いてあれば
なにか運動や健康への効果を想像させることでしょうが、
僕の場合、普通にコンビニで見かけて購入したので
周りに置かれているのはコーラやフルーツジュース、お茶の類。

その周りの印象が僕に想起させたのは、スポーツのイメージからは程遠い、
喉の渇きをいやしたり気分転換に飲んだりする程度の飲み物の印象。

他の飲み物と同じカテゴリーに分類した状態で眺めていますから
コンビニで売られているペットボトル飲料一般の中で
1つにだけ『プロ』というラベルが貼られていた感じだったんです。

ともすると、『コカコーラ・プロ』とか『午後の紅茶・プロ』みたいなレベル。
プロスポーツ選手というイメージに結びつけるには少し時間がかかりました。

「スポーツドリンク」という呼ばれ方がする一方で、
僕の体験が作り上げた記憶ネットワークの中では
『アクエリアス』はスポーツのシーンとは結びついていなかったのでしょう。

粉の形態で売られていれば、少し印象は違ったように思います。


で、この『アクエリアス・プロ』には大豆ペプチドが配合されています。
ペプチドというのは、アミノ酸が2つ以上繋がったものを言います。
50以上繋がってくると「タンパク質」と呼ばれ始めるので
短くアミノ酸が繋がっているものがペプチドです。

大豆ペプチドということは、大豆のタンパク質を化学的に分解して
完全に単体のアミノ酸になる前で止めた状態だと想像されます。
分解し過ぎると、アミノ酸だけになってしまいますから。

タンパク質が小腸に運ばれると、そこで消化酵素の働きによって分解されます。
それによってアミノ酸やペプチドが作られ、小腸の内壁から吸収されていく。

使われるときはアミノ酸に分解されてから利用されていくので
タンパク質で取るよりも、アミノ酸やペプチドという形に最初から分解されていると
吸収の効率が良いわけです。

運動後にアミノ酸を取ると良いのは、タンパク質(プロテイン)で取るよりも
速やかに吸収されて必要な形で利用されやすいからと考えられます。

であれば、ペプチドではなく、アミノ酸でも良いのではないかという話になりますが、
実はこのペプチドという状態にも意味がありそうだというのが分かってきているんです。

まず、母乳の中にはペプチドが沢山含まれています。
乳児はアミノ酸の形で栄養をもらうだけではなく、ペプチドの形でももらっている。
これには諸説ありますが、1つは消化のトレーニングになっているのだろう、
という意見があります。

そして、こちらが興味深いところですが、
ペプチドは特定のアミノ酸同士が繋がったものだと
アミノ酸単体では起きないような生理的な効果が出てくるようなんです。

有名なのは『アミール』に含まれる『ラクトトリペプチド(LTP)』。
これに血圧を下げる効果がある、と。

どうやら人体の中で、ペプチドを一種の情報伝達物質として
利用している可能性もあるかもしれないんです。

なので、単体のアミノ酸だけではなく、
アミノ酸どうしが繋がったペプチドという形に
健康面で利用できそうな機能が求められるようになってきている、と。


食品業界でペプチドが注目されたのは数年前のこと。
当時、少しだけ流行ったことがあります。

矢沢永吉さんが「アミノ酸、まとめて、ドン!」とCMで言っていたのも
ペプチドが沢山含まれた清涼飲料水でした。

ただ、アミノ酸の中にも苦いものが多い上に、
ペプチドの形になると、さらに味としても苦いものが出てくるようです。

中には苦くない味のペプチドもありますが、
大豆ペプチドのように分解して作ったペプチドの混ざったものになると
これは圧倒的に苦みや渋みが強く感じられてしまう。

健康食品売り場に置くのであれば良いかもしれませんが
普通の清涼飲料水として扱うには味の評判が悪かったようです。

その点、『アクエリアス・プロ』は、多少の苦味と渋みがありますが、
数年前に売られていたペプチド系飲料ほどの苦味はありません。

含まれている量も少ないのでしょうが、
上手く苦味をマスキングするように工夫もしているのかもしれません。



そういえば、10年以上前のことになりますが、
テレビをみていたときにタレントの、神田うのさんが
ゴーヤの味について興味深い発言をしていたのを思い出しました。

「ゴーヤって苦いじゃない?
 シュビドゥビッって」

苦味の表現に「シュビドゥビ」という選び方が只者ではない雰囲気を感じさせます。

言葉は、本人の体験内容に貼られたラベルのようなものですから、
その言い回しがシックリきたのでしょうが、
味の体験に「シュビドゥビ」というラベルを貼る人は多くない気がします。


ゴーヤが「シュビドゥビ」だとすると
『アクエリアス・プロ』の苦味は「シィ…」ぐらいでしょうかね。

cozyharada at 23:11|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | NLP

2010年03月10日

選び放題

自分で選べる、
自分で変えられる、
自分で決められる、
そういうときに「自由」ということが多いようです。

誰かに決められたものに従っているとか、
自分のしたくないことをしなければならないとか、
そんな場合には不自由さを感じる。

実際のところは、人はお互いに影響を受けあっているので
本当に自分の意志だけで何かを決めるということは難しいものかもしれません。

自分が好きな食べ物のつもりだったものが
文化や家族の食生活の影響を受けていたり、
マスメディアの情報の影響を受けている部分もある。

もっと言えば、ラポールによって他者から受ける内面的な影響もあるはずです。

「運命」という言いかたをする場合には、
もっと「自由」に対する考えは変わってくるかもしれません。

が、ここでは、とりあえず「自分の意志で決めた」という主観的な体験を
「自由」と考えてみます。


自由には、自分で選んで決められるだけの選択肢が必要でしょう。
「これしかない」という状態は、自由に決めている実感はないはずです。

その一方で、全く選択肢が他に見えなければ、
選択肢があることにすら気づかない。
自分に自由がないことにさえ気づかないわけです。

それはそれで楽な状態だとも言えると思います。

選択肢があることに気づいているから、「選べない」不自由さを感じる。


さらにいえば、
選択肢があって、それを選べる自由があったとしても、
選んだ後で「あっちにしておけば良かった」という思いが沸くこともある。

選べなければ感じることのなかったはずの後悔の想いが生まれるんです。

選べるという自由があるからこそ生まれる不満。
選択肢がなければ生まれなかった不満もある。


難しいものだと思います。

選択肢に気づき、自分の意志で選択をして、それに後悔をしない。
このプロセスは、とても積極的な取り組みです。

「自分は最善の選択をした」と受け止めていくこと。
それを「ゆるし」と呼ぶ心理療法の考え方もあります。

NLPを作ったリチャード・バンドラーは
「自由が全て、愛が残りの全て」と言っていますが、
どちらも簡単なことではなさそうです。

簡単ではないことに気づいて、なお、
それに進んでくことを選択するかどうかも自由なのかもしれません。

cozyharada at 23:10|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2010年03月09日

感動にかかる時間

僕は意外と集中力が持続しないほうなんだろうと感じます。

「集中力」の定義は、ここでは触れずにおきますが、
よく言われるようなイメージで話を進めます。
単純に、他のことに気が散ってしまうということです。

映画を見に行ったり、DVDを借りてきて見たりすると
一本あたり大体2時間ぐらいのものでしょう。

これを見ている間に、他のことにも注意が向き始めることが多いんです。
どんなに面白くても、意外と飽きてしまったように他のことに意識が向く。

よほど展開が読めないようなものだったりすると集中が続きますが、
ハラハラドキドキのアクションものでも、ふと注意が途切れたり、
感動的なストーリーの名作だったとしても、「まだ1時間か…」などと思ったりします。

それが起きにくいのは連続海外ドラマシリーズの「LOST」でしょうか。
これは展開が早く、場面展開も多いですし、何より内容が分からないので
かなり食いついて見ていられる感じがします。


テレビ番組で言えば、おおよそ15分ぐらいでCMが入りますし、
バラエティ番組なんかだとテーマの移り変わりや、
ネタの進行が早いことが多い気がします。

「レッドカーペット」では1分のネタを次々に変えて見せる形。
「エンタの神様」も、それに触発されているのか、芸人を集めるのに苦心しているのか、
最近では、アッという間に次に流されてしまうケースも少なくありません。

キッチリと3分から4分の構成で作られているものさえ減っているようです。

自分の集中力が2時間続かないことを自覚している僕からしても
最近のテレビにおける早過ぎる展開には違和感を覚えることがありますが、
世の中の刺激の量とスピードが増えてきているということなんでしょうか。


確かに、人それぞれ情報処理のスピードは違いますし、
同じ人でも状況によって求める情報処理の仕方も違うでしょう。

新しいことを学んで理解しようとするときや、
本の内容を読んで把握するときなどは、個人差が大きいようです。

僕は識字速度を上げるようにトレーニングした時期もあるせいか、
一目見た瞬間に黙読される文字の量が多めかもしれません。

先日、ある議員が原稿を読み上げるときに、原稿の紙の上に書かれた文字を
指でなぞりながら丁寧に読み上げていましたが、そういう読み方の人もいます。

僕は音読よりも黙読のスピードが速いほうなので
他人の読んだ文章を理解するというのは苦手です。

同じ文章を読んで理解する場合には、一人で黙読するのが効率的に感じます。
誰かが読み上げてくれるのだとしたら、文章を目に入れないほうがマシでしょうか。

自分が黙読している文章と同じものを、近くで音読でもされた場合には
むしろ理解の邪魔をされているような気さえしてきます。

なので、パワーポイントや配布資料を使ったプレゼンなどで
書かれた文字を読まれることには結構なストレスを感じるんです。

それは僕の個人的な、文字情報理解のための処理方法の問題であって
こうしたやり方には個人差があって当然のはずです。
頭の中で起きているプロセスが違うと考えられます。


僕は文字情報を一回で理解しようとする傾向が強いので
同じ本を何度か読み返すということは少ないんですが、
僕が本を読み返す場合には、読むスピードが格段に速くなります。

理解するというよりも、何が、どんな話の展開で書かれていたかを思い出すような感じ。

このときには思い出す印象なので、新しく何かをしている実感は少なくて
「そうそう、そうだった」と確認をしている気分に近いでしょうか。

テストの直前に、テスト勉強に使っていたノートを読み返す感じと似ています。

当然、この場合には情報処理のされ方が、最初に読むときとは違うはずです。

また、文章が物語的な内容になってくると、さらに違う処理の仕方になるようです。
小説やマンガを読むときの状態。

この場合は、ゆっくり目のスピードになることが多く、
自然と映像イメージが浮かんできたり、体の状態や気持ちにも変化が起きてきます。

マンガは頭の中に絵を描くプロセスが省略されるようですが、
その分、絵と文字の表わし方で内面に訴えかける部分が多いものです。

僕が名作だと感じるマンガは、この訴えかける表現が上手い傾向があります。
ストーリーの魅力もさることながら、マンガ独特の表現技法が生み出す
読み手の中の身体反応を、上手く導いてくれる作品には引き込まれます。

緊迫感や凛とした空気、穏やかさ、愛情にあふれた感動などを、
絵と文字の描き表わし方が僕の内面に引き出してくれる。

こうした身体反応や視覚や聴覚の変化を感じていると
俄然、そのマンガや小説の世界の中に入り込んでいけるようです。

僕が集中力を持って入り込むことができる内容は、
僕自身の主観的な体験の情報量を増やしてくれるものなのかもしれません。

いくら感動的なストーリー展開の映画であっても、
映画の場合には視覚情報と聴覚情報が受動的になりやすいものです。

その点、マンガや小説は自分で主体的に状況を感じ取りにいく必要があります。
ストーリー展開だけでなく、情景描写を自分の中に作っていく作業をします。

おそらく、この作業が必要になる分、自然とその内容に意識を向けやすくなるんでしょう。
受動的に理解できてしまう映画の場合には、気を抜いても支障がないこともあります。

逆にいうと、2時間の映画に集中して入り込める人は、
受動的に入り込んでくる映像と音声の情報を自分の体験として実感できるほどに、
そのストーリーの中に、のめり込むことができるのかもしれません。

いわゆる感情移入というものでしょうか。
自分と登場人物を重ねながら見られると感動しやすいことはあるようです。


感情移入するようにストーリー中の人物と自分を重ねながら見る場合であっても、
物語の世界を自分の内面に作りながら印象を感じて読む場合であっても、
自分自身の内面を感じ取っている部分には共通点があります。

身体反応(生理状態)に変化が起きているのを感じているはずなんです。

特定の障害で、体の中に起きている生理状態を脳にフィードバックできなくなると
恐怖や不安すらも感じないような非常に落ち着いた気持ちになるそうです。

体の中に起きている反応が、気持ちを自覚するのに重要だということです。
自分の感情が体の中で上映されているようなものです。

なので、自分の体の内側に起きている状態を感じ取る作業が
体験をジックリと味わうために大切だと言えるでしょう。

生理状態の変化はホルモン類を介した化学反応の結果なので
一般的に身体反応の変化が起こるには少し時間がかかる。

ということは、小説やマンガ、映画などの物語に対して
その内容を十分に味わおうとした場合には、身体反応に意識も向けながら、
その変化を堪能していくだけの時間が必要になると考えられます。

作り手の側からすれば、そうした味わうための時間すらも考えながら
1つの作品を作っているところもあるかもしれません。

それを速読で読んでしまうとか、DVDを2倍速で見てしまうとか、
情報処理のスピードを上げ過ぎてしまうと、
自分自身の体の中に情感を描きながら堪能することは難しくなるように思います。

社会情勢をチェックしたり、勉強として情報整理したりする場合には
情報処理のスピードを上げていくこともできるでしょうが、
自分自身の経験として感動を味わうには適切な時間が求められると思うんです。

日常でインプットされる情報量が増えてきて、
スピードも速まっていく時代なのかもしれませんが、
ゆっくりと時間をかけられることにも大切なことはあるような気がします。

2010年03月07日

テレビから

今日は印象的な出来事がありました。

夜のテレビの情報番組に、知人が2人、出演していたんです。
別の番組でそれぞれ取り上げられる形。

今までも知り合いをテレビ画面を通して見ることはありましたが、
一日に2つの番組で知人を見たというのは初めての気がします。

それも、以前の受講生だった方という関係性なので、
その活躍ぶりを目にするのは何とも不思議なようで光栄なようで、
言い表すのが難しい喜びを感じていました。

これが、もっと関わりの深い方の活躍ぶりをマスメディアで知るようになっていったら
その喜びも更に大きくなっていくだろうと思います。

この先、少しずつ、こういうことが増えていきそうな予感を感じさせる出来事でした。

活躍ぶりを見ていきたい。
本人から直接聞くのではなく、自然と目や耳に触れる形で
間接的に活躍の様子を知りたい。

それが僕の目標の1つです。

10年後、20年後には、どんな知らせを見られることでしょうか。
そんなことを考えると静かにモチベーションが上がってくるようです。

2010年03月06日

驚くほどの類似点

最近、深夜のテレビ番組でマツコ・デラックスという人を見かけます。
たしか「マツコの部屋」とかいう番組。

これを見ていて思うのは、マツコ・デラックスと
伊集院光は似ているなぁ、ということ。

僕の中では、顔の系統は別だと判断します。
体型が似ているとか、全体が似ているとかでもありません。

声の出し方、イントネーション、語尾を中心とした言葉遣いが
深夜ラジオのときの伊集院光に似ているんです。

テレビをつけていても画面を見ていない時はありますから、
そんなときに音声が聞こえてくると「アレッ?」と耳を疑うほど。

特に、声を張ったツッコミのときが似ています。


力士の声質が似てくるように、ある程度は体型が声に与える影響もあるとは思いますが、
そんなレベルではなく、かなり同じように聞こえてしまいます。
(ちなみに、力士の声質が似る要因の1つは同じような姿勢で立つ部分でしょう)

声が似ている場合には、声を響かせる顔の形が似ていることも重要なようですが、
音をどこで、どのように響かせるかという工夫で真似ができるわけなので、
発声の仕方や、体への意識の向け方が似ていると考えられそうです。

もちろん、声帯やノド、口の中の骨格あたりも似ているはずです。

僕は普段、人の顔の骨格を中心に見ているようなので
声質が似ている場合には顔の共通点も見ていることが多い気がしますが、
マツコ・デラックスと伊集院光の場合は例外的なケースに思えます。

ということは逆に考えると、二人とも顔に声を響かせない発声をしていて
声質に顔の作りに影響しにくい声の出し方なんだろうと推測できます。

口を大きく開けずにノドの奥のほうを開いて響かせているように聞こえますから、
その辺も関わっているかもしれません。


是非、一度聴き比べて頂きたいぐらい似ていると思います。

cozyharada at 23:43|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | NLP
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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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