2010年04月

2010年04月29日

勉強と学習

言葉に対する意味は人それぞれ違います。
同じ人であっても、体験が変わってくれば、同じ言葉に対する印象が変わることも多い。

例えば、僕の場合「勉強会」というのをやりながらも
「勉強」という言葉にあまり良いイメージを持っていません。

小学校の頃は勉強らしい勉強をした記憶がありませんから
僕にとっての「勉強」は中学、高校ぐらいの勉強の仕方が印象深いのでしょう。

良く分からないまま、テスト前に固めて「勉強」の時間を取る。

毎日、英語の予習はしていましたが、それは授業についていけなくなってしまうから。
僕の通っていた高校は、英語の教科書が洋書のペーパーバックだったので
もう、ただ長文読解をひたすら繰り返すばかりでした。

1日に進む量を予測して、分からない単語を辞書で調べ、それを単語ノートに書きだし、
本文のコピーを左ページに貼りつけて、日本語訳を右側に書く。

授業中には、その訳し方を修正する感じでした。

こういったものは、授業についていくための作業になってしまっていて
「勉強」をしているという実感はなかったものです。
…テレビ見ながらやってましたし。


高校受験のときは塾に通っていたので、塾で出される問題を解くだけでした。
それも「勉強している」というよりも、「塾に通っている」という感じが正確です。

中学校のときにしていた勉強は、理科や社会の問題に合わせて
テスト前の一週間ぐらいで、授業内容を覚えるというもの。

ほとんどは、その暗記のために使っていた覚えがあります。

ただ、高校に入ってからは塾に行っていないので
普段の机に向かう作業は、例の英語の予習ばかり。
あとは授業中の話を聞く…といっても、
授業を聞いて理解していたかどうかは定かではありません。

今、セミナーを聞いて内容を理解していく感じと
当時の授業中の感じでは随分違いがあったように思います。

ですから、高校の範囲の内容をどうやって「勉強」し、理解したかといえば、
それはテスト前の2週間ぐらいに、問題集を解くことに頼っていたようです。

化学と物理、それに数学の一部ぐらいは、問題を解いている最中に
授業中の内容が思い出されていた気もしますから、授業も役立っていたんでしょう。

そうはいっても、高校のときの僕にとって「勉強」とは
問題集を解くこととイコールに近かった気がします。


ですから、暗記科目として捉えていたものは
中学の理科・社会から続けていた丸暗記の方法で覚えること(高校英語もこれ)で、
計算の必要な科目として分類していたものは
高校から始めた問題集を解く方法で取り組んでいたわけです。

冷静に振り返れば、中学の時は計算練習や読解問題の練習を塾でやっていたわけで、
高校に入ってからは、その計算練習をする時期をまとめて
テスト前に取るようになっただけだったのでしょう。

英語の読解の練習は、「作業」として続けていた英語の予習によって
毎日続けていたようなんですが、当時はそんな意識はありませんでした。

このスタイルは、大学に入ってからも続きました。
授業中は一応話を聞いてノートを取る。

ただ、計算が必要な科目に関しては授業時間だけでは不十分だったので
テスト前の時期に練習問題をまとめて解くことをしました。

物理や物理化学の授業などでは、たまに課題が出されて、
練習問題を解いた結果をレポートとして提出していた記憶もあります。

これだって、教える側の立場からすれば、
定期的に問題を解く時間を取らせるための工夫として
課題を与えていたんだろうと、今は考えられます。

しかし、当時は「レポート」という分類で捉えてしまっていたので
課題を仕上げることが目的になっていて「勉強」の意識ではありませんでした。

とにかく実験が多く、実験をすればレポートを書くのが当然の流れ。
なので、レポートをまとめるという行為も「作業」になっていて
「勉強」として捉えていたことはありません。

実際には、こうしたレポートの作業によって文章を書く力や
モノの考え方が鍛えられていたんだろうとは思います。

こうやってブログを書くのにも、当時のレポートが役立っているかもしれません。

大学のときに助かったのは、僕が化学を好きだったことでしょう。
専門に当たる化学系の科目に対しては嫌なイメージが無かった。
なので、基本的にポジティブな気持ちで取り組めました。

ちょっと難しいと感じても、化学のカテゴリーに入れていましたから
数学に対して持っていたような苦手意識で取り組むことにはなりません。
…実際には数学や物理と区別できないような科目もあったはずなんですが。

何より、授業を聞くスタイルが高校時代と変わりました。
講義を聞いている最中に理解していくようになったんです。

それを強く自覚したのは、一般教養のときの「精神分析学」だった気がします。
話を聞いて「なるほど」という感じがある。
テスト前に覚えなおすことをしていましたが、
聞くことで理解する感覚を意識したのは、このあたりだったようです。

話を聞きながら理解し、情報を整理していく。
それをやっていたせいか、大学3年ぐらいの専門科目のテストは
意外と楽に取り組めたと感じています。

授業中に理解して、情報を整理し終わっていますから、
あとはそれを正確に覚えるために復習する感じ。

このあたりまでで、僕の「勉強」のスタイルが出来上がってきたのでしょう。

今、何かを新しく「勉強」しようとすると、
まず本を読んだり、講義を聞いたりして、情報を整理・理解していきます。

テスト勉強がないので、復習をして覚える作業はしていませんが、
同じような内容の本を読んだり、同じような内容のセミナーを聞いたりすると
それによって復習される感じで内容が組み立てられていきます。

心理やコミュニケーションに関していえば、自分で体験できる度合いが大きいので
経験的に学んだことや発想として理解を深めたことを、
セミナーで伝える立場に立った時に復習するかのように
記憶しなおしているところもあると思います。

実践にせよ、トレーニングにせよ、理論として学んだことを
体験的に結びつける作業は日々の中で行われもいます。

なので、今の僕にとって「何かを学ぶ」という作業は
本を読んだり、セミナーで話を聞いたり、といった割り合いが大きいわけです。
情報をインプットする段階です。

そのあとで、体験的にトレーニングして経験量を増やしていく段階は
日々の実践に頼っているので、ここで「学んでいる」意識は当然ありません。

ノートにまとめて整理をすることもなければ、テスト勉強することもないので
復習したり、暗記したりということもない。

その意味では、僕にとって高校まででやっていた「勉強」のスタイルは
最近では全然使われている自覚がないわけです。

だからこそ、僕の中で「勉強」という言葉の意味づけが
高校当時のままになっていて、あまりポジティブな印象を持っていないんでしょう。

しかし、こうして考え直してみると、近いことをやっていると気づけます。

)椶筌札潺福爾罵論を理解するプロセスは、話を聞く段階。
 最近は、ここの効率が上がっているようです。

⇒論を理解するためには、具体的な体験と結びつける必要がありますから
 自分の経験を思い出す作業や、トレーニングが役立ちます。
 本を読むときもセミナーのときも、この作業をしながら理解を進めています。

それだけでは理論に対応する経験の量が少ないので、
 日々のトレーニングや実践が求められる。
 これは仕事として時間が取れているのがメリットでしょう。

い如∩えてきた情報を整理しなおして、記憶を定着させる。
 復習の作業になるわけですが、これはセミナーで「伝える」作業が
 そのプロセスを促進してくれます。

実際には、,鉢△同時進むと効率が良いはずで、
僕の高校ぐらいまでは、ここが分かれていた部分があった気がします。

テスト前にトレーニングをするとき、同時に理解の作業もしていた感じ。

これを、いわゆる勉強に当てはめれば
,麓業や参考書で理論を「理解」する段階。

△麓業中に行う練習問題。
先生が黒板に問題の解法を説明するところも、ここに近い。

一般的に,鉢△脇瓜に進めることになります。
△砲茲辰毒柴世任ると言っても良いでしょう。

は問題集を解くところ。
英語でいえば、英文を読んだり、英語を聞いたり、発音練習したり。
とにかく練習のプロセスです。

い蓮△修譴鮴依して復習するところ。
テスト勉強としてノートをまとめたり、暗記の作業をしたり。

数学などではが多く求められていたのに対して
理科・社会などではい多く求められていたのでしょう。

しかし、今にして振り返れば、どのような学習であっても
,らい料瓦討僕にとって大切です。

とくに、,らまでの時間は短いほうが良い実感があります。
一度、理解したことを、その場である程度トレーニングまでして、
それから時間をかけてトレーニングを積み重ねていく。

で、ある程度、トレーニングによって体験の量を増やしたところで
い寮依(まとめ・復習)の作業をすると、
自分の体験が増えていますから理解が深まるというわけです。


高校や大学でも、こうやって授業を教えてくれていれば
今自分が何をすべきなのかが分かって取り組めたように思うので
もっと効率的に勉強できた気がします。

特に、どんな学習であっても、実体験と結びつけることが重要ですから、
そのプロセスの意味を自覚すると役立ちそうに思います。

暗記科目であれば、その覚える項目をできるだけ具体的な体験情報と繋げる。
体験が問題を解く作業によって作られるなら、練習問題を解く。

これはスポーツでいうところの「練習」と同じです。

あとは、机に向かう時間や、作業を続けられる時間、考え続ける時間など
スポーツでいえば基礎体力にあたるトレーニングも必要でしょうか。

今、僕の中で「勉強」という言葉の意味は、細かく分けられる感じがしています。

理解と練習と整理。
いわゆる机の上の勉強に限らず、全ての学習には練習が必要なようです。

練習をすると上達するんです。
学習が進むと、効率的にできるようになるんです。
自然にできるようになっていく。

それは、文字を書いたり、お箸を使えたりするのと同レベル。

「勉強」という便利な言葉に集約して、苦手意識を呼び起こすぐらいなら
今自分がしている作業が、「練習」なのか「理解」なのか「整理」なのか、
そうした意識を持つだけでも取り組むスタンスが決まると思うんです。

数学の問題集をやるときは、「今は練習の時間だ」と考えれば
分かる、分からないが問題でないことが自覚できるはずです。

自然にできるようになるために、練習している段階ですから。
続けていれば、きっと上達していく。

そんなイメージを持てれば、いわゆる「勉強」も
効果的な「学習」の一部として取り組めるんじゃないでしょうか。


…ということを、数学の先生と話していて思いました。

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2010年04月28日

言葉と心

NLPのことを「心理学と言語学が融合したもの」のように説明するのを目にしますが、
分かりやすさと信頼性を伝える目的であったとしても
かなり言い過ぎのように思います。


僕の印象では、NLPの中に心理学は、ほとんど含まれていません。
むしろNLPは心理学の対極をやろうとしている様子さえある。

なぜなら心理学の大半は、多くの人に共通する振る舞いの傾向を
一般論として調査していくことに労力を注ぐからです。

「人は一般的に、こういう状況では
 こんな感じ方をしやすいために、こうした行動を取るものだ」
という結果が示されたり。

有名どころでは、
「一度頼みごとをされて断った人は、後ろめたさを感じているため
 次に簡単な頼みごとをされると引き受けやすくなる」
といったものでしょうか。

人の行動や気持ちを、「心理」と呼ばれる心の動きで理解していくスタンス。

中には、学習をベースにしている理論もありますから、
振る舞いの個人差を説明する方法を持ち合わせているものもあります。
それらは一般論であっても、個人差を理解する上で役立ちます。

心理学が人間一般の心の動きを対象にするのに対して
NLPは徹底的に人それぞれの違いに目を向けます。

人は全員違う。
その前提で人の行動や気持ちの動きを見ていくわけですから
人の全体的な傾向を扱うことは滅多にありません。

かなり独自の着眼点で人を理解しようとしている理論だろうと思います。

心理学の中にも、臨床心理学のように心理療法を含んだ分野もありますから
NLPが心理臨床の観点から捉えられることはあります。

NLPは心理療法家の分析をスタート地点にして発展していますし、
その中の技術には心理療法として活かせるものも含まれています。

ですが、それは「NLPが臨床心理学の一部だ」ということではなく
「NLPの一部が心理臨床に応用できる」という説明のほうが正確でしょう。

広く「人の心を扱うもの」を心理学と呼んでしまうのであれば
NLPも心理学に含めても良いのかもしれませんが、
NLPは、あまり心理学とは言えないと僕は考えているんです。


また、NLPは最初に発表されたとき、
言語学の助教授だったジョン・グリンダーの手によって、
心理療法家のフリッツ・パールズとヴァージニア・サティアの
言語パターンが分析され、生成文法の観点で説明した形が取られました。

その意味では、NLPの中に言語学の内容が含まれているのは事実ですし、
NLPの用語の中にも言語学用語がいくらか表れてきます。

が、それは本当に一部分に過ぎません。
言葉のパターンを調べるということと、言語学的に説明することとは
直接的に関係するものではないでしょう。

言語学者が言語学として発表すれば言語学の分野に含まれはするでしょうが、
そうしたものがNLPの中にどれだけあるかと言えば、定かではありません。

むしろ、NLPが当初、心理療法の一派として捉えられていたことを考えると
言葉のパターンといっても、心理療法で扱われる効果的な質問の仕方というのと
同じようなものと捉えたほうが自然ではないかと思います。

実際、NLPの中で言語学的な知見が役立つ部分は限定されます。
本質的には、NLPは言語に対しても独特の捉え方を発展させた印象さえあります。

生成文法で説明するのではなく、言語さえも五感の情報として説明する。
それがNLPの前提になっているはずなんですが、
このことを意識している人は多くないのかもしれません。

確かに、NLPのスタートは言語学的なアプローチだったようです。
しかし、その後のNLPの開発には言語学の気配は薄れている印象を受けます。

NLPのベースと言えるようなコンセプトが固まってきたのは
最初の発表からすると少し後になるでしょうから、
新たな発想や技術を追加する形でNLPは進んできたのだろうと推測されます。

一通りの基本的な発想がまとまった辺りで、中身を一度整理したほうが
より分かりやすく、立ち位置も明確なものが作られたのではないでしょうか。

特に、NLPは言語の部分に対して、まだまだ大きな可能性を持っているはずです。
五感の情報で言語を説明するアプローチは面白いとも思いますし。


NLPを「心理学と言語学の融合」と呼ぶのは
「心理」療法家の言葉のパターンを「言語学」者が分析して発表した
という経緯から生まれた説明なのかもしれません。

それは誤解を与えるもののように思います。

むしろ、NLPは心理学や言語学、さらに認知科学などの分野に対して
事象をNLPの理論で解明する形で関わっていくほうが
その可能性を広げられるように思うんです。

どうやってNLPが作られたかよりも、
NLPという理論が、どんな分野で使えるのか、ということです。

人の心や認知、言語といった様々な活動を
NLPという1つの理論で説明してしまえる。

そのことを示していく方向性は、NLPを後世に残していくのであれば、
大事な活動のように感じます。

2010年04月26日

続けられる人、飽きっぽい人

僕が通っている書道の先生は、小学校の頃から書道を続けているそうです。
今、40代半ば。
今後も書道を生業として続けていかれることでしょう。

書道の場合には、80歳になっても先生として活躍することができます。
むしろ、経験が長いほど評価が上がっていくようなところもあるようです。

既に完成されたように見える技術も、きっと更なる上を目指して進まれるのでしょう。


書道といえば、僕の母も小学校の頃から休むことなく続けているようです。
高校や社会人で書道部に入り、主婦になった後も師匠について学び続けてきたとか。

最近は、今までの流派から離れ、幅を広げるべく新たに通い始めた先生もいるそうです。
一時的に今までのバランスを崩してスランプになっているらしいですが、
そんな経験をしながらも書道をずっと続けています。


一方、僕の父はカメラマンです。
広告の写真を中心に、大学卒業以降ずっと写真を撮り続けてきています。

最近はデジタル化の波の仲、撮影の腕にゴマカシの利く状況で損をしているようですが、
同期の有名なカメラマンから腕を高く評価されるほどでもあります。

子供の頃から見てきた父の仕事姿は、毎回同じことを続けているようにも見えました。

その中でも、きっと工夫を凝らし、デジカメやフォトショップの勉強をしながら
新たな発見を楽しんできているのでしょう。


僕自身は、研究職をしていた時期がありましたが、
ある時期に心理やコミュニケーションの分野に移ることになりました。

ですが、会社にいた9割以上の人は、その仕事をずっと続けているようです。

研究の業務自体は30代の間に離れていくことが多いものの
会社の中で扱う対象自体は大きくは変わりません。

実験をする人が、商品開発に移ったり、特許関連に移ったり。

転職した同期や先輩も見てきましたが、ほとんどの場合、
同じ分野の別企業に移ったり、国立の研究所や大学に移ったりといったもの。

僕のような転職は珍しかったみたいです。


仕事の内容という視点で考えると、ほとんどの職業は専門家なんでしょう。
営業とか人事とか、一般的な職種のように言われるものでも、
その組織の中の仕事として捉えると、他の組織とは違った専門性がある。

現場にいるからこそ分かる事例が沢山あって、
その現場の仕事内容に関しては、専門性をもって取り組むことになるはずです。

職人や芸術家、スポーツ選手、研究職などは分かりやすい専門家だと思いますが、
その特徴は、自分の仕事内容をずっと続けられる、という部分のような気がします。

一方、組織のリーダーには専門性は求められないと考えられます。
リーダーは全体的な視点で物事を捉えていく抽象度の高さが求められます。

多くのことを同時に考えられる俯瞰的な目線を持ち、
専門家たちの力をまとめ上げて組織を運営する立場。

だからこそ、欧米の経営者は、別の企業にヘッドハンティングされても
その会社で経営を行えるのでしょう。

MBAが役立つのは、そうした抽象度の高い『経営』というものを
全体的な視点のままで、ひとまとめに学べるからかもしれません。

ただ、MBAの場合、専門家の力を活かして組織を運営するのには
効果的かもしれませんが、経営者自身が専門家としても実務を要求されるような
中小企業の規模では使い方が異なってくるような気もします。

言ってみれば、大規模の組織を『経営』するのは
「経営の専門家」の役割ということでしょうか。

経営は抽象的な専門作業であって、
技能をもって対処する大半の職業は具体的な専門作業だということです。

政治家は抽象度の高い専門職です。
社会という大きな範囲を一気に眺め、それを制度や法律で運営していく専門家。
しかし、社会における実際の場面からは離れたところにいますから、
具体的な実情と知識を持っている人物に情報提供してもらう必要がある。

つまり世の中は、抽象的な専門家が、多くの具体的な専門家たちをマネジメントし、
実態としては具体的な専門家の生み出したモノによって成り立っている。
そんな風に説明することもできそうです。


日本の場合、いきなり抽象的な分野の専門家になるケースは多くないのかもしれませんが、
一般的に仕事と呼ばれるものは専門性を持っているように思います。

一人の人が一生のうちでする仕事は、何かの専門性を持っているのが大半でしょう。

会社の中で出世をしていけばマネジメントの専門家になっていきます。
お笑いの専門家(芸人)や、法律の中で人の権利を守る専門家(弁護士)が
政治の専門家になっていくこともあるようです。

研究者のように具体的な分野の専門家の場合、
抽象的な分野に出世していくことを嫌うこともあります。

引退したスポーツ選手やサラリーマンを辞めた人が飲食店を開いたりもします。

扱う範囲が抽象的なものに移ったとしても、
具体的な範囲に留まったとしても、
別の具体的な専門分野に移っていったとしても、
何かの専門性を持っているわけです。

専門性というのは、その分野を細かく知っているということ。
狭い範囲を深く知っていると言っても良いかもしれません。

具体的な専門家は、自分の専門分野を詳しく知っていますが、
他のことは知らないほうが普通です。

抽象的な専門家は、経営や政治といった
組織や社会などの幅広い範囲を扱う方法に対して詳しい知識を持っていますが、
具体的なところになると詳しい情報は持っていないものでしょう。

抽象度の高い専門家は、全体的な視点を持っているようでありながら、
実際には、全体が見渡せる視点から広く見ていても
細かいところまでは見えていないわけです。

喩えていうと、東京タワーの展望台から東京の街を見下ろしている感じでしょうか。
東京の全体の様子は良く見えますが、
渋谷の街で女子高生が何を話しているかは聞こえない。
それはアパレルショップ店員のほうが詳しいんです。

自分の視点から見やすい範囲が、その人の専門分野になります。

この視点自体を自在に動かして、見たいときに見たい範囲が詳しく見られる場合、
それは専門家とは言わないのかもしれません。

なんでも全部詳しい人。
しかも、その詳しさのレベルが専門家と同程度だったとしたら
その人は、なかなか貴重な人だろうと思うんです。

レオナルド・ダ・ヴィンチは、それに近かったんじゃないかと感じます。
範囲は自然科学の分野に絞り込まれてはいますが、
自然科学の分野であれば、何にズームインしても詳しい情報を持っている。
絵画は、その情報の表現技法であって、専門家ではなかったという考え方です。

世の中の全てに対して、具体的なところから抽象的なところまで
完全に詳しいということは、生きている間に達成できそうには思えませんが、
その範囲が少しでも広かったら楽しいだろうなぁと予想しています。

何より、そのような人は、その詳しい範囲において
専門家同士の橋渡しができるようになるはずです。

よく行われる専門家同士の関係性においては
両者の共通点だけが接点になってしまいます。

抽象的な専門家が具体的な専門家をマネジメントする場合にも
具体的な内容そのものは専門家任せになります。

専門家同士の交流を活かしていくためには
両者をつなぐHUBになるような「何でも詳しい人」が役立つと考えられます。

専門家をスペシャリストと呼ぶならば、
「幅広く何でも詳しい人」はジェネラリストに当たるでしょうか。

リーダーやマネジャー、政治家などはジェネラリストではないことが多いはずです。
それらは抽象度の高い範囲のスペシャリストです。

組織を例にとれば、会社経営から人材管理、教育、経理、営業、開発、品質保証…、
その会社がやっていること全てに詳しい人。

そんなジェネラリストが役立つようだと面白いと思います。

専門分野を続けていけるスペシャリストが世の中を支えている一方、
飽きっぽくて色々なことを詳しく知りたがる人もいます。

そんな人がジェネラリストとして活躍する時代が来る可能性もある気がします。

現に、お笑い芸人で売れている中堅どころは、
ネタもフリートークも司会も雛壇も、時には歌やドラマまで、
なんでもこなせる人たちですから。

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2010年04月24日

常識的な判断

常識で他人を判断しないことは重要だと言われます。

人は皆、違う。
「相手は、どんな人だろうか?」と意識して、
一般的な傾向に相手を当てはめることをしない。

そういう心がけは、コミュニケーションにおいて役立つことが多いようです。

全てにおいて一般論で対応するのではなくて
相手に合わせて個別の対応をしていくわけです。


その一方で、常識を持っていることも役立ちます。
常識は1つの基準になるからです。

「この人は常識と比べると、どこが、どのように違っているか?」
といった視点で相手を見られるようになります。

同時に、自分自身も常識と比較しながら見られるようになる。
客観的に自分を意識できるようになるはずです。

客観的に自分を意識するというのは、
「相手から、どのように見られるか」ではありません。
それは相手の主観で見た状態でしょう。

客観的に自分を見るということは、
「世間一般からは、どう見られるか」だと思います。
第三者の目で自分を見るということです。

そのためには、「世間一般」の目を自分の中に取り入れておく必要があります。
それが常識を持っていることの意味です。


それに対して、良く見受けられるのは
「常識」という単語を言いながら、自分の基準で判断しているケースです。

自分の生きてきた中で常識だと考えてきたこと。
それが常識だと教わってきたこと。
自分が守ってきたルール。
そうしたことをベースに他人を判断する。

これは自分の基準で相手を見ているのに近いと考えられます。

もちろん、その中には世間一般でも常識になっていることも沢山あるでしょう。
しかし、自分の育った環境で常識だっただけのこともあるはずです。

地域が変わり、年代が変わり、文化が変われば、常識も変わります。
自分の常識は他人の常識と違うかもしれない。
その可能性を意識して、自分の持っている常識そのものを
吟味しなおすことが役に立つのではないでしょうか。

改めて自分が意識的に常識を学んでいくプロセスです。
それを大人になってからやるんです。

誰かに言われたことではなく、自分で世間一般の基準を見つめなおしていく。

場合によっては、年代別の常識や、地域ごとの常識も見つけられるかもしれません。
それは細かい基準として役立つものだと考えられます。

自分の中に「世間一般」の標準的なレベルを作り上げていく。

そのレベルに自分が合わせるのではありません。
そのレベルが自分と、どう違うかを意識しながら世間一般の基準も持つんです。

つまり、「相手は自分と、どう違うか?」として両者を直接的に比べる見方と、
「相手は世間一般と、どう違うか?自分は世間一般とどう違うか?」
という具合に世間一般のレベルを基準にして自分も相手も
客観的に評価していく見方の両方ができるようになる。

そうしたときに、自分の常識に他人を当てはめなくなると思うんです。

常識で判断するのと、常識に当てはめて評価するのは違います。
「相手は常識的でない」と感じるときには
「自分は常識的だ」という想いが前提になる気がします。

自分にとって常識だと思ってきたことで相手を判断しているとき
それは自分の個人的な基準で相手を判断しているのに近い状態だろうと考えられます。

自分にとっての常識が世間一般と違うことを意識しながら、
相手にとっての常識が世間一般とどう違うかを考えると、
客観的に相手を見られるようになると思います。

相手を個別に見るためには、常識となる世間一般の基準を知った上で、
相手を世間一般とは違った人として対応していく。
それが役立つんじゃないでしょうか。


これには自分自身の常識を客観的に見るというプロセスが含まれます。
自分も相手も、赤の他人も、全て同レベルで世間一般と比べられます。
まさに客観的なんです。

すると、自分も見ず知らずの他人も、同じような重要性で見つめることになります。

自分を大事にしたい人にとっては、やりにくいことかもしれません。

逆にいえば、自分も他人も全て同じように大切に思えたとき
自然にそうした見方ができるという可能性も考えられます。

本当に自分のことを大切に感じていれば
自分を赤の他人と同列に扱ったところで気にならないような気もします。
そんなことでは揺るがないくらいに大切だからです。

2010年04月22日

善意のしごと

テレビドラマは全くと言っていいほど見ないんですが、
最近は「チーム・バチスタ2 ジェネラル・ルージュの凱旋」を見ています。

救急救命のストーリーながら、中心人物として心療内科医が関わっているので
どうやら僕にとっては、その部分が気になるポイントのようです。

まぁ、あとは『孤高の天才』の雰囲気が出ている部分も心に響くんでしょう。
これは僕が好むストーリーに共通するポイントです。
映画「グッド・ウィル・ハンティング」とか。

ただし、「チーム・バチスタ2」の場合には、主人公(?)の
ジェネラル・ルージュ(血まみれ将軍)と、あだ名される人物が
孤独を通り越して孤立に近い状態なので、微妙なところではあります。


このドラマでは、どうやら毎回、救急で運ばれてくる患者の
原因不明の病気を解明していく流れのようです。

ですから、様々な可能性を考えて病気と向き合うシーンが多く見受けられる。

正確な診断ができて、それによって治療が完結するという展開は
海外連続ドラマ「Dr. HOUSE」に近いところがあるかもしれません。

どちらも「患者は嘘をつく」とか
「何を言ったかではなくて、何をしたか」とか
情報収集のプロセスが見ものになっている模様。

ジェネラル・ルージュにせよ、Dr. HOUSEにせよ、
コミュニケーションのスタイルとして優しさや温かさを表面に出さないような
冷徹もしくは風変わりな頑固者の様相ですから、
患者との会話の中で出てこない情報がカギになるケースが描かれるのでしょう。

本人にとっては他人に言いたくない内容もあるものです。
ところが、その言いたくなくて隠していた内容の中に
カギになる情報が含まれていることがある。

そこを観察や行動力で見つけていくからドラマチックである反面、
仮説をもとに効果的なコミュニケーションができれば
本人から大切な情報を聞くこともできる可能性を感じます。

チーム・バチスタ2の場合には、心療内科医が
その役割を担おうとしているのかもしれません。


そうした診断のための話の展開がドラマの見どころなのは間違いないところでしょうが、
僕にとっては診断を全て病名で進めていくスタイルが好みでなかったりします。

可能性を考える段階から病名を名付けながら議論を進めていく。

最初から病名で考えていくということは
特定のパターンに当てはめて理解しようというスタンスに思えます。

そうやって名付けてしまうと、他の可能性を見失うリスクもあるはずです。
もちろん、よくある症例に当てはめて可能性を探索するプロセスは
時間の短縮に効果的だという側面もあるでしょう。

ただ、あまりにも病名として名前が決めようとする場面と、
実際の病名が決定した場面がドラマとして強く描かれ過ぎに感じられるんです。

その部分に反感を持ちながらも、興味を持って見てしまうのは
それだけ僕にとって魅力を感じる部分が多いからなんでしょうか。

前回は、カッコいいセリフも出てきました。

「過剰っていうのは異常だということだ。
 過剰な善意は、もはや善意じゃない。」

長所と思えることでも、過剰になれば問題になることがある。
バランスの大切さを上手く言葉にしたものだと思います。

短い言葉で大切なことを表現する。
短さが心に残りやすくするときもあるわけです。

テレビ番組などでは特に重要な部分なのかもしれません。

2010年04月20日

決めつけて見ないこと

問題点について考えるとき、色々な可能性があるはずです。
最初に問題を分析し始めると、様々な角度から情報を集めようとする。

ところが、まずこの情報収集の段階で偏りがあるのが普通です。
自分の調べやすい情報しか集めようとしない。

今まで上手くいったやり方や、馴染みのある方法で情報を集め、
ある程度の情報が意識できるようになると調べている気分になってくるわけです。

そして、ある時点から1つの仮説を持ち始める。
この部分が問題の根本ではないか、なんて。

その仮説を立てていることに気づける場合は、まだマシです。
自分が仮説に基づいて調査をしていることが自覚できているので、
その仮説に当てはまらない情報があったとき、仮説の間違いに気づけますから。

ところが、仮説を立て始めていることに気づかずに情報を集め続けると、
自分の仮説に当てはまるような情報しか目に入らなくなってきます。

仮説の反論になるような情報は意識にさえ上がらないんです。

そして「分かった!きっと、これが原因だ!」というタイミングが来ると
そのあとは分析が正しいかどうかを吟味するよりも先に改善のアクションを取る。

行動力があって、解決のための一歩を早く進められるので
問題解決のスピードは速いものかもしれません。


ただ、様々な可能性を同時に考えながら情報を集めていくというプロセスには、
問題解決のため以外の部分でも大切なことがあると思うんです。

まずは、物事を少しでもよく理解できるということ。

因果関係が一対一の対応で成り立たないことは普通でしょう。
同時に様々なことが関係し合って、1つの結果が生まれる。

そうした複雑な関係性にも目を向けて、多くの可能性に触れていくことで
物事を深く考え続けることができるような気がします。

すぐに「分かった」つもりにならないで済むということです。

シンプルに考えるのは物事の理解を効率的にしてくれる一方で
大切な何かを見落とす可能性も含んでいると思いますから、
その意味でも多くの理由に目を向けていくことは大事でしょう。


また、1つの仮説に絞るタイミングが早いと
他の情報が見えなくなってしまうことは注意したい部分だと考えます。

僕は超常現象に対して否定的でも肯定的でもありませんが、
多くの超常現象の説明の仕方に対しては否定的です。

世の中には不思議なことが沢山あるものだと思います。
サイエンスで説明できることなんて限られている。

仮に「幽霊がいるかどうか」という点で考えてみたとします。

僕は「幽霊はいるかもしれない」と思っています。
見たことはありませんが、否定はしません。

ただ、心霊写真に写っているのが幽霊かどうかと言われると
途端に疑問が沸いてきます。

その心霊写真に写っているものが幽霊だということを示すためには、
「それが幽霊以外のものではない」ことも示してもらいたいんです。

モヤッとした影が写っていたとして、それはタバコの煙ではないのか、と。

写真が取れたときに、なんでもかんでも
それを心霊写真だと判断してしまうのは危険だと思うんです。

もしかすると、本当に幽霊が写っている写真だってあるかもしれません。
なのに不思議な写真だから「これは心霊写真だ」と思って見てしまうと、
幽霊以外の理由の不思議な現象が説明できなくなってしまう。

今までのサイエンスで証明されていなかった貴重な現象も、
心霊写真だと解釈した途端に新発見のチャンスを奪われるわけです。

同時に、本当に幽霊が写っている写真が
他の不思議な写真と混同される場合だってあるかもしれません。

それは幽霊にしてみたら、いい迷惑でしょう。
「そっちは幽霊じゃないって!」と思っている幽霊だっていたりして。


1つの仮説や思い込みを元に世の中を見ていくと、
その仮説に当てはまらない情報は見えなくなってしまうわけです。

世の中が関係性で成り立っていることを考えると
自分という存在は他者との関わりの中に意味が作られていると言えます。

様々な関係性の中に自分は存在しているんです。

つまり、関係性を意識しなくなるということは
その存在を無視しているわけです。

仮説に当てはまらずに意識しなくなってしまった対象は
自分の中に存在していないんです。

可能性を考えて、それを否定するというのは
意識に上がっていますから存在しているはずです。

アンチ巨人の阪神ファンには、心の中にいつも巨人が存在しているんです。
でも野球に興味がない人の心の中には巨人は存在していません。

無視しようとしている場合にも、一度気になったことを
意識から外そうとしているわけなので、少しは存在していると言えるでしょう。

でも、思い込みで物事を見てしまっては、
意識に上がらなくなってしまうものが増えてきてしまいます。
自分の中に存在しないことが多くなってしまうんです。

それは少し寂しい気がします。

感謝することの中には、その存在に気づくステップが
最初に含まれるのではないかでしょうか?

そう考えると、他人から叩かれるというのも
相手の心の中に存在させてもらえている意味で
ありがたいことなのかもしれません。

2010年04月18日

大人の味

こんなのを飲みました。

大人のキリンレモン


























『大人のキリンレモン』です。

どのあたりが「大人」なのかは、味からでは実感できませんでしたが
炭酸飲料としては普通の範囲に入る味かと思います。

まぁ、そもそも「大人の」ではない、普通の「キリンレモン」の味を
覚えていないので、どこが違うのかを意識するのも難しかった気がします。


ところで、今、「普通の範囲に入る味」という言い回しをしましたが、
僕のボキャブラリーでは「普通の美味しさ」と言い換えても
同じようなニュアンスになります。

とびきり美味しいわけでもなく、かといって「マズイ」わけでもない。
標準的な範囲だと思える味で、でも美味しく楽しめる程度ではある。
そんな位置づけです。

ところが、最近の若者の間では「普通に〜」という副詞の使い方が
随分違った意味になっているという話を聞きました。

「普通に美味しい」と言った場合、
「すごく美味しい」というニュアンスに近いのだとか。

インタビューに答えていた若者は
「世間一般の多くの人が誰でも美味しいと思うだろう、というほど美味しい」
ことを「普通に美味しい」と呼んでいました。

普通の基準が他人の評価にあるようです。
これだけ美味しければ、普通の人は皆、美味しいと言うだろう。
それぐらいに美味しい、ということらしいです。

僕が「普通に美味しい」という言い回しを聞けば、
美味しさの程度が高いものから低いものまであって、
「低い評価ではないが、かといって高い評価でもない」という程度の「普通」に
美味しさを感じられるという捉え方になります。

基準は、あくまでも味そのものの評価にあります。
色々なものの味の評価を思い出しながら主観的に並べて、
その中で評価の程度を比べていく。

その結果、美味しさの程度に対する副詞として
「凄く」でも「とても」でも「かなり」でも「なかなか」でも「まぁまぁ」でもなく
「普通に」という言い回しが選ばれます。

味の評価をしているのは自分の基準になっているわけです。
比較対象は美味しさの程度になるので、味を基準に評価の順位をつけることをして
その評価の程度に合わせて「普通に」というものが選ばれる。


ところが、最近の10代を中心に、その使われ方が違う、と。

どうも評価をする時に、自分だけの基準でしない傾向がありそうに感じます。
自分は「凄く」美味しいと思う、と自分だけの基準で評価をしたがらない。

この味を他の人たちが評価をしたらどうだろうか?
どれくらいの人が美味しいと言うだろうか?
この味を美味しいと言ったら、「それはないだろう」と否定されることはないか?

そうしたことを意識してはいないでしょうが、
意味の前提としてはありそうな気がします。

評価を決めるのが自分一人ではなく、世間一般の評価として判断する傾向があって、
その世間一般と一致して、誰もが「普通に」納得できる評価だろうということで
「普通に」という副詞がつくのではないでしょうか。

「美味しい」という高評価の範囲があって、
その高評価に入れてしまっても変ではない、
つまり「普通に」美味しいと言ってしまっても大丈夫。
…そんな意味があるのかもしれません。


言葉を選ぶときの基準に、他人の意見を参考にしたがる傾向が強まっているとしたら、
単なる言葉の使い方や言い回しの違いの話では片付かない気がします。

集団の中で特殊になることへの不安があるのでしょうか。
「普通に」重要な意味を含んでいると思います。

2010年04月17日

せっけん

石鹸は汚れを落としてくれる

泡で人を包みながら


石鹸は使うほどに小さくなっていく

身を削るように


小さくなった石鹸はカラカラになる

泡が立ちにくくなってくる


…アンパンマンを思い出しました。



cozyharada at 23:55|PermalinkComments(1)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2010年04月14日

「ヴィア」

スターバックスの新商品「ヴィア(VIA)」を買いました。

新製品のキャンペーンということで、通常の店で売られているコーヒーと
「ヴィア」の飲み比べながらの試飲ができます。

「VIA」は一言でいえばインスタントコーヒーです。
粉末タイプ。

スティック状に小分けになっていて、一包分をカップに入れたら
あとはお湯を入れて混ぜるだけ。
至って普通のインスタントコーヒーの作り方です。
溶けやすい顆粒状なので、すぐに飲める感じ。

ただ、単なるインスタントコーヒーとは違い、
あまりインスタントっぽい匂いがありません。

もちろん、飲み比べをすれば違いは分かります。
たまに間違える人がいるという店員の話でしたが、
香りと味の平べったい感じは分かってしまうところでしょう。


一杯分が100円程度。
インスタントコーヒーにしては高額な部類でしょうが、
味を考えれば、なかなかリーズナブルではないかと思います。

100円の自動販売機のレギュラーコーヒーよりは美味しいかもしれません。
(好みの問題もあるでしょうが)

飲み終わった後にカップの底に残る粉末の様子も
レギュラーコーヒーを再現しているようです。

外出先や会議の席などで、「ヴィア」を出されたら
普通にコーヒーだと思って飲んでしまうことは多いかもしれない。
そう思えるほど、良くできている印象です。


少なくとも、コダワリを持って製品開発を行ってきた背景が伺えるんです。
これは僕にとって評価の高いところです。

フリーズドライの技法とかも工夫していることが推測されます。

ちなみに僕の場合、好みとしては、スターバックスのドリップコーヒーは
かなり強い印象があって沢山飲むのには向かないところがあるんです。

その意味でも、この「ヴィア」のほうが飲みやすく
日常的に楽しんでいけそうな予感がしています。

カフェラテの系統ばかりに片寄っていた僕のスターバックスの利用法が
少し広がりそうです。

cozyharada at 23:17|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | NLP

2010年04月13日

伝えたいこと

本当に大事なことは言葉にしたら伝わらない。

相手に伝わるはずの言葉で説明をしたら、
相手が知っている言葉の内容でしか理解できないから。

本当に伝えたい大事なものは、
まだ相手が持っていないものではないのか。
まだ相手が気づいていないことではないのか。


相手に分かる言葉で説明したら、
相手は分かっているつもりになってしまう。

納得するということは、すでに知っていたということ。
本当に知っていたのなら共感してもらって済む話だが、
相手が本当に知っていることを、自分がわざわざ伝えたいと思うだろうか?

相手が沢山持っているのと同じものを、さらに渡したいと思うだろうか?

自分が相手に渡したいと感じるのは、
相手があまり持っていないものだからじゃないだろうか。

それを渡したときに
「あぁ、それ、私も持っています。良いですよね。」
と感じられたら、
受け取ってもらえないことだってあるはずだ。


知識として大事なことは言葉で説明すればいい。

体験として大切なことは、言葉で説明するとデメリットのほうが大きい。
分かったつもりになってしまうから。

こっそりと、じっくりと、知らない間に十分体験してもらって
しばらく経って、後から本人がその意味に気づけばいい。

気づかなかったとしても、その体験が後々の役に立つのなら大成功だろう。


それは感謝されることではないが、
いつか思い出してくれれば最高だ。

思い出さずとも、本人の気づきに繋がれば満足だ。

気づかなかったとしても、記憶の片隅に残ってさえいれば十分だ。


…ということを思うからこそ、僕は技術や理論ばかりを説明するんです。

おしらせ
 ◆ セミナー情報 

日程確定

《心を調える実践会》

【日時】 2017年12月23日(土)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    304集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分

詳細は後日>>
次回は2018年の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



 ◆ お問い合わせ 
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  執筆・講演…

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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