2010年08月

2010年08月12日

理解の上下方向

人が物事を理解していく基本的なプロセスは
抽象度の低い具体的な実体験を重ねるうちに、それらを一般化(抽象化)して
パターンを抽出することです。

幼少期の学習は、ほとんど全て、この一般化によってなされるはずです。

そして、そのパターンに対して言語的なラベルが与えられ、
物事を言葉でも理解できるようになっていく。

こういうのが石で、こういうのが木で、こういうのが鳥で…
といった具合です。

このような学習プロセスは、人間以外の動物でも行われていると考えられます。
例えば、森の中で鹿がイノシシに襲われたとしたら、
全く同じ個体のイノシシでなくても、イノシシの仲間は
危険な存在として理解していくことになるでしょう。

ここで、どの程度の違いを同じものとして分類し、
どの程度の違いを別の物として区別するかが興味深いところで、
これは人間であっても個人差や発達段階の違いが出るところのようです。

一般的に想像すれば、生存にとって重要な要因ほど一般化して
細かな区別をせずにパターンを作ってしまったほうが安全性が高いと言えます。

イノシシのような形をしたヤツは、大きさが違っても、色や毛並みが違っても、
牙の長さが違っても、危険だと理解しておいたほうが生存に有利なわけです。

犬に噛まれた人が犬全般を怖がるのは、過度な一般化がなされているためです。
実際に噛まれた犬の特徴としては、良く見てみたら、
気が立っているような表情や唸り声があったかもしれませんが、
噛まれて恐怖を感じてしまった人は、同じような見た目の犬全般に対して
危険な存在だというパターン化をしてしまっていることになります。

一方、こうしたパターン化が十分に進んでいない幼少期の場合、
少しの違いを加えるだけで、同じものだと分類して理解できないようです。

たとえば、小さい子供は親が簡単な変装をするだけで、親だと理解できないようですし、
「いない、いない、ばぁ」をしたときにも、手で顔を隠したことで
顔に関する情報が一時的に途絶えて、顔の存在を認識できなくなります。

それが発達していくにつれて、髪型が変わっても、服装が変わっても、
横向きになっても、体型が変わっても、久しぶりに会っても、
同じ人物だと理解できるようになっていく。

こうした一般化をした理解の仕方に慣れていくと、
目の前にある現実の存在を細かく調査するよりも
過去のパターンにある情報を利用して対応するようになりますから、
実際に目の前にいる人の細かな変化には気づきにくくなる場合もあります。

年を重ねるにつれて物覚えが悪くなるということの1つの理由が
パターンでの対応に慣れ過ぎて、新しい体験をしなくなることだと僕は考えています。

ちなみに、こうしたパターンに当てはめて対応する傾向が強くなり過ぎると
目の前の存在の細かな変化に気づかなくなりますから、
「髪型を変えたのに気づいてもらえない」なんてことが起きてくるわけです。

細かな記憶力が優れているということは、裏を返せば
一般化してパターンを抽出するという作業には不向きとも言えるでしょう。

とにかく、人は基本的には、具体的な体験からパターンを抽出して一般化し、
そのパターンに分類することで物事の理解をしているということです。

分類の仕方の基準となるパターンを作ることが学習であって、
それは、まだパターンの出来ていない幼少期から始まり、
年を重ねて体験を増やしていくうちに進んでいくものです。

動物的な原則としては、具体的な(抽象度の低い)実体験の情報を一般化(抽象化)して、
抽象度の高いパターンや概念を作っていく流れと考えられます。

抽象度の低いものから高いもの抽出する、
『下から上』の理解の仕方です。


ところが人間は、そうした経験によって学習されたパターンに対して
言語で呼び名を与えることができます。

似たようなパターンに対して呼び名の決まりごとを作るのが言語活動の基本です。

こういうヤツは「石」と呼びましょう、こういうヤツは「岩」と呼びましょう、
といった決まりごとを作っていったと考えられます。

この言語活動の利点は、1つの物事を別の呼び方で説明できることです。

「石」の大きいヤツを「岩」と呼びましょう。
「大きさ」には、基準を作って、その基準のある範囲によって
「何cmから何cmを石、それより大きいのを岩としましょう」
という風に、共通の定義を言語情報で与えることができるわけです。

もちろん、「石」を体験的に理解していなければ「岩」は理解できませんし、
「岩」を理解していなければ「石」も理解できません。

辞書で「石」と「岩」を調べると
「岩…石の大きいもの」、「石…岩の小さいもの」なんて
定義が循環してしまったりします。

「石」も「岩」も体験的に理解されていることが前提で、
その前提となる情報を利用すれば、言語だけで説明もできる、ということです。

これを発展させていくと、辞書一冊分のように
ある言葉の概念を、別の言葉で説明ができるようになる。

このとき、自分の体験したことのないもの、つまり知らない概念であっても、
別の言葉による説明で理解することもできます。

例えば、「コウモリ」を知らない人でも、
「鳥」によって「羽」や「飛ぶ」ということが理解できていて
「ネズミ」や「哺乳類」ということも理解できていれば、
「ネズミに似た哺乳類で、前腕についた皮膚のような羽で空を飛ぶもの」
といった表現で「コウモリ」が説明できるわけです。

人間の言語活動の優れているところは、言語によって概念を理解できれば、
そのパターンに当てはめて分類することで、初めて見たコウモリでも
「あ、あれがコウモリじゃない?聞いていた話と合っているから」
という具合に理解の幅を広げていける部分にもあると考えられます。

このときに重要なのが、
 言語によって作ったパターンに実体験の情報を当てはめて理解する
プロセスが起きていることです。

誰かから言語で与えられた概念を取り入れて、
それに沿って現実を理解していくことも可能なんです。

もちろん、前提としては体験的に理解している言語情報が必要になりますが、
ある程度の言語活動が可能になっていれば、
言語情報だけで理解を進めることもできます。

このプロセスは、言語による理解、つまり本を読んだり、話を聞いたり…という
いわゆる学校の勉強に近い作業を重ねるほどに促進されると考えられます。

ここで進んでいく理解は、共通理解として言語で定義されているものがベースなので
理解される内容は個人的な体験(主観)よりも、はるかに一般的で客観的になります。
辞書のような理解の仕方になりますから、常識的とも言えるでしょう。

実体験の一般化によって学習が起こる前に、
言語によって物事を理解して、それに当てはめて体験するようになる。

これは、抽象度の高い情報を先に取り込んでから
抽象度の低い(具体的な)情報を分類する流れなので、
他の動物も行うような学習の流れとは正反対だと言えます。

抽象度の高いほうから、抽象度の低いほうへ理解する。
『上から下』の理解です。


『上から下』の理解は、本や話など、客観的な言語情報によって進みますから
生育過程で学校教育を丁寧に受けてきた人や、哲学的な本を読むのが好きな人は
自然と、こうした理解の仕方を得意としていくようです。

言葉の組み合わせで情報を説明できるため
客観的で論理的な人に感じられることが多いでしょう。

一方、『下から上』の理解は、本人の経験をベースに作られますから
全ての人が必ず持ち合わせている部分とも言えます。

ただ、この『下から上』が強調されてくると
言葉の使い方が他の人と違っていたり、
体験から「なんとなく」できるようになる「飲み込みの早さ」があっても
言葉だけで理解するという作業を難しく感じたりするようです。

初めて体験することは、最初に細かく説明を受けてから取り組むよりも、
まず一度やってみて、そのあとで説明してもらったほうがスッキリする。
そんな傾向とも言えるでしょう。

どちらの理解の仕方も大事ですが、
どちらを好むか、どちらを得意とするかには個人差があるようです。

傾向として言うと、『下から上』が動物全般に共通する学習プロセスであるせいか、
『下から上』に理解していくことに馴染みのある人のほうが多いように感じられます。

正確な言い回しとしては、
 『上から下』に言語情報だけで理解を進めるほうを、より好む人は少ない
と表現したほうが適切でしょうか。


なお、この傾向の違いは、僕が人を観察してきた中で
パターン化して見出したものですから、
僕の傾向は、大部分として『下から上』に偏っているんです。

そもそも、化学や生物という学問が、抽象度の低い具体的な現象を
どうやって効果的に説明するかというものなので、
観察をベースにパターン化するタイプだと考えられます。

生物や化学をやったから、『下から上』が得意になったというよりも
僕の好みが『下から上』だったから、生物や化学が好きになったんでしょう。


で、世の中では、『上から下』の人が学問的な理論を作り、
その理論を『下から上』の人が学んで、実践に応用する
というような流れが多いように思います。

とくに心理の世界は、この傾向が強いようです。

先に理論を作り、それに当てはめて出来事を説明する。

実験で示しているように見えるものもありますが、
実態は、仮説を立てて、その仮説を証明するように実験を組むので
明らかに理論が先にあります。
『上から下』なんです。

『下から上』の理解をしている人は、経験的にパターンを抽出していて
「なんとなく」分かっていることを沢山持っているものです。

ただ、それに対して適切な言語で説明をする作業に馴染みがなかったりするので
「なぜ?」と聞かれると「なんとなく」という答えになりやすい。

職人的、プロフェッショナルな達人は、魔法使いのように結果を出すものの、
なぜ自分が結果を出せるのかが説明できないことが多いものです。

「どういう理由でそうしたんですか?」と質問しても
「なんとなく」とか「直観的にとか」とかの答えしか得られなかったり。

そこまで達人的になっているかどうかは別にしても
自分なりの体験から学んだパターンを持っていて、
それを言語で説明できるようにはなっていない状態のときに、
『上から下』の人が作った理論を聞くとスッキリすると考えられます。

自分が「なんとなく」理解していたことを、言語で説明してくれますから
「なるほど」になるわけです。

本当は、既に分かっていたことを上手く説明してもらう、と。


ただ、僕個人の意見としては、『上から下』の理解が偏り過ぎると
机上の空論になる場合が生じるリスクは考える必要があると思います。

とくに人間の心を扱うような場合には、です。
非常に曖昧で何とでも説明ができるような領域だからこそ、
色々な理論やモデルが作れてしまう。

しかし、『上から下』の説明の仕方は、矛盾に気づきにくいんです。

なぜなら、全てのパターン化された情報には、
パターンに当てはまらない例外的な要因の可能性があるからです。

その例外的な可能性は、どんな現象も確率論でしかないという部分に通じています。
量子力学まで進まなくても、化学反応の範囲でさえ、確率論でしか話せません。

どんなに理論的に正しいように見えることも例外を含みます。

分かりやすい例でいえば、だれしもが「鳥」を理解していると思いますが、
「鳥」を言語的に定義していくのが難しいことと近いでしょう。

「鳥」にとって「空を飛ぶ」という要素は重要な要因だと言えます。
骨格で定義するとしても、その骨格は飛ぶのに適した形をしている。
にも関わらず、ニワトリやペンギンみたいな例外もいるんです。

標準的な「鳥」の範囲からは外れている例外ではあるけれど、
一般的に「鳥」というものを想定することができる。

例外にまで注意して『上から下』の理解をして、理論を立てるのは至難の業でしょう。
下がるほどに例外の数も増えていくのですから。

一方、『下から上』の理解は、矛盾に気づきやすいと考えられます。
理論が間違いやすいとも言えますし、間違ったら修正すればいいとも言えます。

パターン化によって作った理論に例外(矛盾)が見つかったら、
そのときに理論を作り直して、矛盾のないように工夫する。

サイエンスの歴史は、そういうものだったはずと思います。


化学の世界で、原子や分子の考え方を採用していない人はいません。
原子や分子を含まない別のモデルで理論を作るような「学派」は無いんです。
それをやったら化学の世界で認めてもらえないでしょう。

ところが、心理学では「学派」がある。
人の心を説明するための理論には、色々な着眼点や理論があって
お互いに相容れない理論が存在してしまえる。

それは先に理論を作るという『上から下』の理解の仕方のためじゃないかと思うんです。

僕は、もう少し細かい観察をベースに、
『下から上』で理論が作れたら良いと考えます。

『下から上』の達人は、例外的な状況にも「なんとなく」対応できてしまう。
「できる」けれど「分からない」。

『上から下』の理論は、分かった感じにはなるけれど
実際の場面で、どうしたら良いかまでは対応しきれない。
状況別の例外的な対応は難しかったりする。
「分かっている」けど「できない」。

「分かる」のと「できる」のは違う。
そういうことだと思います。

僕は、「できる」を「分かる」ようにしていきたいんです。

cozyharada at 01:33|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2010年08月10日

書く作業の重要性

最近、英語を勉強していて感じるのは
インプットとアウトプットは相互に影響し合っているということです。

アウトプットできる表現は、インプットもできるし、
容易にインプットできる表現は、楽にアウトプットできたりする。

僕は多くの日本人英語学習者と同じように
インプットに偏った勉強をしてきていました。

まぁ、一番はリーディングの部分になるんですが。

研究分野に進めば、学術論文は基本的に英語ですから
英語を使って情報を仕入れる作業が求められていたわけです。

英文を読むという作業も、慣れてくれば日本語に訳さなくても
そのまま理解できるようになってきた気がします。

その次の比率はリスニングでしょうか。

学会発表や、海外の共同研究先とのミーティングなど
英語でプレゼンを聞く機会は、それなりにありましたから。

ライティングの作業は論文を書くときには使っていたはずなんですが、
僕の場合、論文はほとんど書かなかったので、ライティングは乏しい。
スピーキングは更に、です。

基本的にはリーディングを中心に、インプットの作業のほうが馴染みがあったんです。


ここで、重要なのは「理解のしやすさ」という部分。

厳しい言い方をする人は、『「聞けるけど話せない」というのはウソだ』
なんて表現をしますが、これは極端な表現だと思います。

確かに「 I have a pen. 」の文章であれば、聞けるし、話せます。
インプットもアウトプットも両方できる。

ただし、これは「簡単に」という注釈が付くはずです。

この文章が長くなって難しい内容になってくると
自分では「話せない」文章になることが多いものです。

そのときに、その文章を聞いて理解できないかというと、そうではない。
聞いて理解することはできても、同じ文章を話せないことは十分あり得ると思います。

重要なのは、効率です。
聞いて理解するときに、一生懸命に内容を捉えているものは
話そうとしたときにも同じように一生懸命に作業する必要が出てくるでしょう。

たまたま耳に入っただけで内容が分かってしまうような状態
(たとえば、日本語の雑談が隣の人たちから聞こえてきたときに
 ハッキリと内容が聞き取れて内容まで気になってしまう感じ、など)
になるのは、聞いて理解する作業が相当スムーズに進んでいるときだと考えられます。

そのレベルの聞き方ができるのであれば、その内容は話せるようと思うんです。
でも聞いて理解する場合には、一生懸命に内容を追いかけることで
その意味を把握していくことはできます。
聞いて理解するときの効率は悪くても、理解そのものは可能なはずです。

これは、他の勉強でも当てはまるんじゃないでしょうか。

本を読み、セミナーを聞き、実習をして、内容が分かってくる。
ただ、それを誰かに説明するとなると状況が違う。
インプットとアウトプットには差があるということです。

インプットが非常にスムーズにできるようになればアウトプットも出来るようになり、
アウトプットをしていけば、同じ内容のインプットはスムーズになる。

そんな関係がありそうです。


そういう意味では、アウトプットのトレーニングをすることが
インプットの効率も上げていける可能性が高いと思うんです。

実際、効率的な勉強法の考え方として、
「自分が理解したことを誰かに説明する」
という方法が使われます。

語学であれば、「話す・書く」の部分がアウトプットですから
この作業を進めることが全体的な向上につながるかもしれない、ということです。

日本人でもそうですが、書く作業を頻繁に行っているライターなどの職業の人は
話し方にも書き言葉のようなスムーズさが表れてくるものです。

ということは、語学でも文章を書く作業は、総合的なトレーニングとして
かなり有効なんじゃないかと考えられます。

なので、最近、英文を書く練習を始めたんですが、これが実に厳しい。
もどかしい。

僕が日本語の文章を書くときは、心の中に聞こえてくるように浮かんでくる文章を
半自動的な指の動きでタイピングしている感覚があります。

指が打ってくれた文字が作っていく文章を読んで、
それによって自分の考えが何であったかを理解しているような
「読んでいる」感覚も同時にあったりします。

いずれにせよ、考えて書いているというよりも、浮かぶままに文字になる感じ。
どうしてもそれと比べてしまうんです。

英文の場合には、まず聞こえてこないし、思い浮かぶまでに時間がかかるし、
タイピングに関しても指が動かない。

話せない感じのレベルと書けない感じのレベルは対応しているような気もします。

速度を遅くする要因が沢山あるんです。
まぁ、これまでにどれだけの日本語で考え、文章を書いてきたかと考えれば
その域に達するのは、かなり先の話だろうとは思うんですが…。

書くのがスムーズになった頃には、他の能力も
随分とスムーズになっているんじゃないかと期待して
トレーニングを積むのが今のスタンスでしょうか。


あと、個人的には、語学を効果的に進める方法として
一文を一瞬だけ眺めて、何と書かれていたかを思い出す、書く、口にする、
という作業が良いんじゃないかと考えています。

これは速読の方向にも効果があるはずです。
速読のトレーニングとして、一文を一瞬だけ目にして
それを思い出して言えるようにトレーニングするのは有効だと思います。

塊で文章を捉えるというのは、まさにこの内容ですから。

色々と試してみて、効果的な学習法を整理するのも
あとの楽しみにしておこうと思います。

2010年08月08日

否定文と無意識

「無意識」とか「潜在意識」といった言葉が強調されるとき
 「無意識(潜在意識)には否定形が理解できない」
などということが良く言われます。

有名な「ピンクの像は思い浮かべないで下さい」の文章が
例として使われることが多い部分です。

ちなみに、目標設定のときに「〜にならないようにする」という形が望ましくないのも
この無意識うんぬんの話とは無関係だと思われます。
「〜以外」という状態は無限にあるので、特定できないのが問題なんです。

とにかく、「無意識には否定形が通じない」と。


にもかかわらず、そういう「無意識」を強調する流れの中で
「制限となるビリーフ」とか「リミッティング・ビリーフ」とか
「コア・ビリーフ」とかいった話が強調される。

こうしたネガティブなビリーフは、見事に否定形で表現されます。

「私には価値がない」
「私であってはいけない」
「私は存在してはいけない」
「私は子供であってはいけない」
「私は感じてはいけない」

ビリーフは無意識にあるんだそうです。

無意識が否定形を理解できないのなら、
ビリーフがどうして無意識として機能できるんでしょうか。

逆に、ビリーフが意識だったとしたら、
どうして意識的にコントロールできないんでしょうか。


なんだか奇妙な話だと思うんですが。

2010年08月07日

「無意識」という用語

心理学とか自己啓発とか、NLPを扱っている人を含めて、
「無意識」や「潜在意識」といった言葉が使われます。

僕が催眠を習った先生はエリクソン催眠の大家ですから
ミルトン・エリクソンの考えに従いながら
「無意識を信頼する」ことを経験的に指導してくれましたが、
同時に『エリクソンは、無意識に偏り過ぎだ』とも話していました。

さらに印象的だったのは『無意識という言葉はメタファーだ』という話。
これは何度も強調されたものです。


当時の僕には、「無意識」がメタファーである理由が分かりませんでした。
「無意識」というのは区別の仕方として存在していると思っていましたから。

今にして思うのは、
 「無意識の心」や「無意識の自分」というのがメタファーである
ということ。

自分の意識していない部分を『無意識』と呼ぶのは用語として適切だと思いますが
無意識だった部分だって、注意を向けた途端に意識の領域になります。

その意味で、僕は無意識という言葉は意図的に使い分けています。

「無意識の自分」というような働きは、
「経験によって作られてきた反応の仕方の癖」に過ぎなくて
それを自覚できていないと「無意識の自分」のように感じられるというわけです。

何のことはありません。
「犬に噛まれてから犬が恐くなる」のと同じことです。
単なる学習された反応の癖なんです。
パターン化された反応の癖なんです。

ただ、犬が恐いのは理由が分かっているから、
「無意識の自分が怖がらせている」とは思わない。

理由を忘れてしまっている反応の癖に関しては、本人が良く分からないので
あたかも自分ではない存在がいるかのように「無意識の自分」を想定したくなる。
でも中身は一緒です。

「無意識」というモノが自分の中に存在していて
それが自分とは別に何かをしてくれている、というわけではないはずです。

だから、「無意識」や「潜在意識」、「無意識の自分」、「無意識の心」、
「もう一人の自分」などといった用語は
『メタファー』だということになります。

実態として機能しているのは「学習された反応パターン」であるけれども、
それに気づいていないのなら、そのことを「無意識の自分」という
メタファーを想定して考えてみましょう、と。

技術的に、自分が普段からは意識していない記憶にアクセスしていくには
その部分を「無意識」や「無意識の自分」という言い方で表現してやるほうが
効率が良いので、そういう言葉を使っていると考えられます。

僕の催眠の先生は、催眠という意識的には理解しにく領域において
催眠の用語や考え方にドップリとはまり込むのではなく、
効果を出すための技術として見ていたように思います。

だから、催眠であれば誰しもが気軽に使いたくなる「無意識」という言葉を
「実在しないけれども、仮定することで効果を生み出しやすくするためのメタファー」
として切り分けていたんでしょう。


僕のスタンスは、それよりも更にドライで、
「無意識」という言葉の使い方さえ避けるようにしているところがあります。
メタファーと割り切ってすら使わない。

なぜなら、「無意識」という言葉を使った途端に
多くの情報を混ぜ込んで誤解を生みやすくなるからです。

「無意識を信頼する」とか「無意識と仲良くする」とか、
そういう表現を使えば、
「無意識は自分とは別の存在だ」というメッセージを強調する可能性もあります。

僕は単純に、自分の中には自覚していない「学習された反応パターンがある」
ということを中心にして、「そういう仕組みのものだ」と
ニュートラルに受け止められれば十分だと考えているんです。

わざわざ自分を否定するところから始めなくても良いだろうと思います。

その違いが出るのは、催眠療法家として関わるクライアントの中には
極端にバランスを失っている状態の人が多いからだと考えられます。

そのバランスを取るための方法の1つとして有効なのが
「無意識」を意識させることなんでしょう。

上手くいかない状態に陥っている時、大体は何かのバランスが崩れているものです。
今まで意識していなかった部分、つまり偏っていた反対側を
今までよりも意識するようにする。

そのためには「無意識」というメタファーが役立つ。

偏りに気づき、柔軟性を取り戻す。
それが求められる時期には「無意識」というメタファーが有効だと思います。

そこまでの偏りに陥っていなければ、過剰な「無意識」の強調は
わざわざ自分を否定するリスクがあると思うんです。

催眠の先生が『エリクソンは無意識を強調し過ぎだ。意識も大切だ』と言っていたのは
今、僕の中で「偏りのバランスを取る」という部分と繋がって理解されています。


大事なのは、「無意識」とか何とかに振り回されることではなく、
自分の人生をどう生きるか、ということでしょう。

喩えると、こんな感じかと思います。


 川でボートに乗っているとき、川の流れに逆らってボートを漕ぐのは大変なものです。

 自分の目指すところは川の上流なのか、川の下流なのでしょうか。
 
 ときには川の流れが急になるところもあるでしょう。
 そんなときに大切なのは、進むためにボートを漕ぐことよりも
 転覆しないようにバランスを取ることかもしれません。

 ただ、ゆったりとバランスを取りながら川の流れに乗っているだけで
 気づいたらボートは随分と進んでいる、なんてこともあるでしょう。

 あるときには、流れの遅い場所で、ボートが止まってしまうこともあるかもしれません。
 そのときには、自分の力でボートを漕ぐのも必要でしょう。

 あるいは、その場で周りの景色を眺めるのも味わい深いものに思えます。
 ふと、今までの景色を見ていなかったことに気づくかもしれません。

 自分の力でボートを漕いで、再び流れが速やかな場所に入れば、
 ボートは何もしなくても進んでいきます。

 その行き先が大きな岩にぶつかりそうなのであれば、
 進路を変えるためにボートを漕ぎたくなる時もあるでしょう。

 急な流れで転覆しないように気をつけたり、
 行き先の安全に注意したり、
 周りの景色を楽しんだり、
 自分の力でボートを進めたり。

 ボートの上ですることは、川の場所によって違うもののようです。

2010年08月05日

分けると分かる

色々なことを学んでいくと、共通したポイントに気づいてくることがあります。
大事な結論には、違う分野からでも辿り着ける。

山登りに喩えれば、違うルートで頂上を目指すようなものでしょうか。

ただ、気をつけないといけないのは
「同じことを言っている」
という受け取り方です。

もし、何かを学んでいるときに同じことを言っていると感じたとしたら、
そのときには、何も学べていない可能性も含まれます。

もちろん、個別の事例をセットにして学べれば
違う分野の詳しい情報を入手したことにはなるでしょうから、
全く何も学べていないわけではありません。

ただ、最も重要な結論の部分に関しては学んでいない可能性が残ります。

「同じだ」と捉えた瞬間に違う部分を捨てているかもしれないからです。


世の中の学習の仕方には、物事をシンプルに捉えて学ぶという方法があります。
そういう人を周りから見ると、飲み込みが早く、
上手く整理しているように感じられるかもしれません。

ところが実態としては、重要な部分を捨てて、大雑把に理解しているだけ
という可能性も否定できないわけです。

概要を知っているということと、実際の詳細を知っているのでは意味が違います。

詳細というのは、個別の状況に対して対応できるレベルです。
概要は、詳細を一般化したものです。

その一般化されたポイントが、分野を超えて似ていたとしても
どのように一般化されたかというプロセスには違いがあります。

この一般化のプロセスが重要なのは、全ての一般化された法則は
単なる傾向に過ぎないからです。
傾向ということは例外があるわけです。

この例外に対処できるかどうかは、具体的な詳細情報に依存します。

例えば、「世界共通のコミュニケーション・スキルは笑顔だ」
という考え方があったとします。

ある人が、「旅行先で誰とでも仲良くなる」という観点から
「笑顔の重要性」という結論に至ったとしましょう。
別のある人は、「ビジネス場面において商談を優位に進める」という観点から
「笑顔の重要性」に行きついたとします。

どちらの状況においても例外があるはずです。

旅行先なら、深刻な状況では笑顔よりも大切なメッセージがあるでしょうし、
相手によっては笑顔を好まないこともあるかもしれません。
ただ、そうした例外的なパターンを踏まえたうえでも
一般的に言えば「笑顔が重要だ」と言えそう、ということです。

ビジネスの場面でも、笑顔が効果を発揮する状況と、そうでないときがあるでしょう。
それでも一般的に「笑顔は強みになる」といえば、多くの人が納得すると思います。

ここで、旅行に親しんだ人であれば、笑顔が役立つ場面と役立たない場面を
分けて対応することができるはずです。
ビジネスで活躍する人も、状況に応じて笑顔を使い分けることでしょう。

どちらの人も笑顔の重要性は気づいていますから、
お互いに話し合えば、笑顔の重要性という共通点に気づくと思います。

だからといって、ビジネスで笑顔の重要性を知っている人が
旅行において笑顔のコミュニケーションを効果的に進められるかは分かりません。

一般的な傾向として笑顔が重要だということは知っていても
個別の状況で適切な対処をするための方法は知らないと考えられます。

意味としては「笑顔が重要」という同じメッセージに一般化されていますが
その元になる具体的な情報には違いがあるわけです。
それらは別の情報なんです。

個人によって言葉の持つ意味が違うのと同じことでしょう。
僕の知っている「犬」と、他の人の「犬」は違います。
僕の理解している「自由」と、他の人の言う「自由」も違います。

体験が違うのだから、違って当然なんです。
体験の違いが、一般化された意味の違いになっているんです。
それがミスコミュニケーションの理由になることさえある。

であれば、何かの分野で学び、得られた教訓や教えも、また
その形にまで一般化される元の情報が違うのですから
「同じことを言っている」とは考えにくいはずです。

同じような言い回しを聞いても、それが同じかどうかは分からないということです。

むしろ、似たような教えを聞いたのなら、
それが同じなのかどうかを確認するために、
教えの元となる具体的な知識や経験を共有する必要があります。

そして、自分の知っている教えや教訓、法則と比べて
何と何が対応していて、どこに違いがあるのかを
明確にする作業が求められると思います。

自分の知っていることと、相手の知っていることの違いを埋める作業こそが
新しく学んでいる部分じゃないでしょうか。


一般化された法則を分けて考えられることが
「分かっている」ということじゃないかと思うんです。

「同じような感じ」を意識したときほど、
相手から得られる情報を「分けて」いく。
そして、同じじゃない部分を学ぶ。

「分かっている」ことは学べないわけですから、
学びたいのであれば、「分かっている」ことと「分かっていない」ことに「分ける」。
それが他人の教えを「分かる」ための1つの方法じゃないかと思います。

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2010年08月03日

字幕と吹き替え

理由は分からないんですが、日本で放送される韓国のドラマには
日本語字幕がついていることがあるみたいです。

外国語なんだから字幕がつくのは当たり前と思うかもしれませんが、
面白いのは、日本語吹き替えなのに日本語字幕がついているところ。

もしかすると、雰囲気を感じやすくするために副音声で韓国語を聞き、
字幕を見て内容を理解したい人がいるからかもしれません。

そのテレビ番組を、日本語吹き替えで日本語字幕と一緒に見ると
ちょっと不思議な感じがします。

吹き替えで言っていることと、字幕に出ていることが少し違うからです。


一般的に、字幕の標準は1秒4文字ぐらいだったように記憶していますが、
これは人によって識字速度に違いがあるのを踏まえたうえでしょう。

僕は日本語字幕の場合、目に入った瞬間に画面上の文字を音に変えている感じがあって
文字を追いかける感覚はありませんから、字幕を読むのは速い部類かもしれません。

ただ、セリフとして会話中に話される速さよりも、
一般的に無難な文字を追いかけられる速さは遅いらしく、
そのため字幕の情報のほうが制限されてしまうようです。

とくに英語を日本語字幕に置き換えるときには、ニュアンスを維持しながら
語順を入れ替えて、長さを短く調節して…、と色々大変だそうです。

韓国語の場合は想像もできませんが、
日本語吹き替えの言葉の量のほうが字幕の文字数よりも多いことを見ると
やはり会話の言葉のほうが字幕よりも速いだろうと推測できます。

外国語の本を日本語に訳すだけだったら、それほど制約は多くないでしょう。
その言葉の運用感覚に忠実なまま訳を書くことができると思います。
(…だから訳本は日本語として理解するのが難しいんだと思いますが)

それが吹き替えになれば、口の動きに合わせて文量を調節しないといけませんから
ちょうどいい長さに内容を訳す必要が出てきます。
字幕なら1秒何文字という制約が出てくる。

その辺りの兼ね合いで、元の言語の意味と、吹き替えの言葉と、字幕の文字は
全部少しずつ違っているようなんです。


で、この日本語吹き替えと日本語字幕を両方意識しながらテレビ画面を見ていると
1つの内容を伝えるための方法として2種類のメッセージを受け取れますから
普段では味わえない奇妙な感じを体験できます。

改めて、内容を伝える言葉の表現は、表面的なものだというのが実感できます。

そして、伝え方のバリエーションを同時に意識できますから
コミュニケーションの選択肢が広がるような気分も感じられます。

日本語を学習している最中の人には、なかなか効果的なんじゃないでしょうか。
もちろん、聞き取りも読解も、両方ともある程度のレベルで出来る必要はありますが。

同じ意味を表現するための方法としてバリエーションを広げられそうな気がします。

2010年08月01日

事務連絡

勉強会の申し込みに関して事務的なお知らせです。

どうやら「申し込みフォーム」の機能がスムーズではない可能性があります。


お申込みを頂いた方に対しては、1日後までに確認のメールを送信しております。

「申し込みをしたのに連絡がない」という場合には
申し込みフォームの不具合という可能性が考えられます。

その場合には、お手数ですが、再度お申込みの作業をして頂くか
直接のメールにてご確認頂くか、いずれかのご対応をお願いいたします。


よろしくお願いいたします。

cozyharada at 01:50|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!セミナー情報 | NLP
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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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