2010年10月

2010年10月10日

ご案内

先日、ブログで案内しました講座が申し込み可能になったようです。

基礎を鍛錬するというコンセプト。
人によっては、一部体験したことのある内容かもしれませんが、
そういうものを繰り返しやることで、自分自身の上達したポイントにも気づけます。

同時に、以前にはなかった気づきが得られることも良くあります。
プロスポーツ選手が素振りをしたり、フォームチェックをしたりする。
いつまでも続けて役立つトレーニングがあるということです。

直近のものは期間が一週間もないですが、
ご都合がつく方は是非、ご検討ください。

こちらからIDとパスワードを入力して入って頂き、右側に申し込みページがあります。
http://www.nlpjapan.jp/vip.html

IDとパスワードをご存じない方は直接お問い合わせいただくか、
事務局へご連絡下さい。



cozyharada at 22:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!セミナー情報 | NLP

2010年10月08日

どこまで身につけるか

「パソコンを勉強する」といったとき、あるいは「英会話」を勉強するといったとき、
『どのレベルまで』ということがスタート時点で明確になっていることは少ないようです。

どれぐらいできるようになれば満足なのか。
どれぐらいを目標にしているのか。
そこまで考えて始めるのは難しいと思います。

それは、始めてみないと実態が分からないからです。

全くパソコンが分からない人からすれば、
街角でノートパソコンを使ってメールをしている人は
パソコンを使いこなしているように見えるでしょう。

英語に苦手意識のある人からすれば、「英語が話せる」というのは
なんだか「ペラペラ」と知らない音を出している感じでしょうか。
少なくとも、外国人とコミュニケーションが進んでいると
「英語が話せる人だ」という認識にはなるかもしれません。


ですが、使い始めてみれば分かりますが
パソコンでメールを使えるようになるのは、決して難しくはないでしょう。
このブログを読める時点でメールは当然のように使いこなしていると思いますし、
インターネットだって使えているんです。

パソコン教室で習い始めるいくつかのことは
多くの人が身につけられるわけです。

そこで、もし『ワード』の機能を全て使いこなそうとしたり
『エクセル』で独自の計算方法を組み込みながら
便利な表計算システムを作ろうとしたりすると、それはやっぱり高度になる。

パソコン教室で習った表計算の技術があれば
書類作成などは綺麗にこなせるようになることと思われます。

英語の場合は、ネイティブの会話を全て聞きとること自体が大変ですが、
カタコトの英語しか話せない前提でネイティブスピーカーが会話を合わせてくれれば
聞いたり要求を伝えたりできる、という人は少なくないでしょう。
海外旅行はこなせる感じでしょうか。

それが日常会話全般になると、会話の内容は変わってきますし
専門用語でディスカッションするような学会などの場面でも会話の内容は違います。
ビジネスで礼儀を踏まえながら、となれば更に難度は上がるようです。

『英語が話せる』を「ネイティブと同等」に設定したら、
それは大変なことかもしれません。
日本人的な発想を変え、イディオムを使いこなし、ボキャブラリーも膨大。

ですが、そのことの大変さを理解できるようになるには
そもそも英語の勉強を始めている必要があると考えられます。
基準が分からないと予想のつけようもないわけです。

全く英語ゼロの状態からだと、「英語ペラペラ」のレベルの中に
「ネイティブと同等」から「日常会話は困らない」の人まで
色々な層が混同されてしまうことがある。

パソコンの場合でも同様です。
パソコンを知らない人からすると、「使いこなしている」ように見えるレベルが
「メールでやりとりができる」から「自分でプログラムを書ける」まで
幅広い範囲が同じように見えてしまいます。

僕自身も、コンピューターのプログラムは全く分かりませんから
PerlだとかJavaだとかC+だとか、違いが分かりませんし、
プログラムを作れる人の中にも、スゴイ人と一般的な人では大きな違いがあるらしい
という話を聞いたことがある程度です。

たとえば、SEと呼ばれる人たちは、
英語でいう「日常会話レベル」ぐらいのパソコンユーザーからでは
全く理解できないような技術でコンピューターを使っているわけですし、
政府のコンピューターにハッキングできるような人は
英語でいえば「英語のディベートで優勝する」ぐらいなのかもしれません。

いずれにせよ、高いレベルで使いこなしている人を見たときには
その凄さが分かるためのレベルも求められるということです。


何かを学び始める前から、高いレベルのことは分かりにくいのですから、
仮にNLPやコミュニケーションを学ぶことにしたとしても
自分が期待している技術や、どうなりたいかなどは
不明瞭なままスタートするのが普通だと考えられます。

そして、実際に始めてみて、どこの段階で満足して
「ここぐらいまででいい」と思えるかも、人それぞれで違いがあります。

『NLPを学ぶ』ということを「パソコンを学ぶ」に喩えてみると、
スタート地点はゼロからですから、「パソコンって何?」ぐらいから始まるはずです。

説明書を読んで、パソコンを買って、試しにいじってみたり、
パソコンの本を買ったり、ビデオの解説を見たりしながら覚えることもあるでしょう。
そこで、独学で使えるようになっていくこともあります。

でも、本では良く分からない。
やっぱり誰かに聞いたほうが早い。
そうなると知っている人に習うわけです。

NLPの場合、教えて良いことになっているのは「トレーナー」の資格がある人だけなので
自動的に「NLPを習ってしまおう」という人はNLPの講座に通うことになります。

ここでは当然、初心者として学び始めますから
初心者向けのパソコン教室で使い方を習っている段階に近い。

基本的なソフトとして、「ワード」や「インターネット」、「メール」など
良く使うものが利用できるようにしていくはずです。

使い勝手の良いツールから学んでいくんです。


これはNLPの資格取得コースに良く似ています。
良く使うスキルを学ぶんです。
スキルの数は、言ってみればパソコンでいうアプリケーションの数のようなもの。

「NLPを深く学んでいます」と言おうとすると
「使えるパソコンのソフトが沢山あります。
 ワープロも、表計算も、メールも、インターネットも、画像編集も、
 音楽の編集も、スケジュール管理も、会計計算も、プレゼンもできます。」
という状態に近くなっていくわけです。

まぁ、NLPの教え方や、NLPの本が、そういう構成になっているので当然でしょう。
そして、その「スキル」と呼ばれるパソコンで言うソフトのようなものが
色々と開発されていって、その数を増やしているのが現状と言えます。

沢山NLPを学び、経験して、実践してきた人たちが
「こういう方法もできるんじゃない?」とスキルを開発する。

そこでスキルを開発する人たちは、ただパソコンを使っているうちに
なんとなく「プログラムって、こうやって書くんだな」ということまで学び
自分なりに新しいコンピューター・プログラムを作ってみよう、とやっているんです。

中には『エクセル』上でしか動かないようなプログラムもありますし、
Windowsでは使えないようなプログラムだってあるように思えます。

ただ、なんとか新しいコンピューターのプログラムを作ろうとして
試行錯誤をしてきた人たちもいる、ということです。

コンピューターを学ぶときとの違いは「プログラムを書くための勉強がない」ことです。
「スキル」を作るための理論を学ぶことがないんです。

SEになるために学校に行ったら学ぶであろう内容は、
NLPでは伝えられていないのが現状だと思います。

パソコン教室に行って、パソコンのソフトを使いこなせるようにする。
あわよくば、それぞれのソフトで使い方を工夫して便利な方法にアレンジする。

それでも、パソコンのソフトを作れるようになるレベルで
NLPを学ぶということが無いような気がします。

パソコンを知らない人に、「パソコンって色々できるんですよ」
から始まるのは当然だとは思います。

使いこなせるように多くのソフトを使ってみていくのも役立つでしょう。

沢山のスキルが使えるようになりました。
…そういうレベルを自分なりの到達点にする選択肢もあります。

一方で、SEになりたい、プログラマーになりたい、と
コンピューターの学校に通う人もいるんです。

NLPでも、そのレベルの学び方ができるシステムがあっても良いように思います。
それを学んだ人たちは自分でスキルが作れるようになる。
そのような到達点も選べると良いんじゃないでしょうか。

パソコンが普通に使いこなせるだけで十分に役立つ仕事の種類もあります。
同時に、SEが独自のコンピューターシステムを作ってくれるからこそ
なりたっていくような仕事も沢山あるものです。

相手の要望に応えるために、何ができるようになりたいか。
本人のその意欲が、目指すべき到達点を決めるのかもしれません。

cozyharada at 23:15|PermalinkComments(2)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2010年10月06日

ゾーン

スポーツとかコーチングとかの分野では「ゾーン」や「フロー」という言葉が使われます。

ベストなパフォーマンスを発揮し続け、
集中力が高まっているような状態といえば良いでしょうか。
周りが気にならず、自分の最高の状態にドップリと入り込んでいる感じです。

この「ゾーン」に関しての研究やトレーニングもあるようですが、
これを実験的に証明していくのは難しいんじゃないかと僕は考えています。

なぜなら、多くの説明の中で「ゾーン」を個人として見ているフシが感じられ、
研究するときにも周りの状況が考慮されにくいからです。

特に、「ゾーン」の定義が曖昧な気がするんです。

僕の考えでは、「ゾーン」は複数の人間の相互作用で生まれるものです。


自分ひとりで集中力を高め、自分の世界に入り込んで
高いパフォーマンスが発揮できる時というのは確かにあります。

勉強や仕事に集中して、短時間に効率的に作業が進むような状態。
こういうパフォーマンスの高い状態と、
スポーツで「ゾーン」と呼ばれる状態には違いがあると思うんです。

もし用語として違いが無いのなら、分けたほうが良いんじゃないかというのが僕の提案。

最も重要な発想は、人が相互作用を受けやすいものである、ということ。

これは僕自身がラポールやペーシングという観点から
コミュニケーションのトレーニングを積み、経験的に理解してきたことでもありますし、
世の中には他人の影響を受けやすい人というのがいることも見えてきました。

表情を見なくても、話さなくても「近くにいる人の感情が伝わってくる」
というレベルで他者との相互作用を実感する人が少ない割合でいるものですが、
そこまでいかなくても「なんとなく空気がピリピリしている」とか
「どんよりと眠たいような雰囲気」とかのレベルは感じたことのある方も多いでしょう。

特に、場所としての実際の環境が近い位置にいると
その相互作用は強く表れやすくなる傾向があるようです。

なので「ゾーン」と呼ばれる状態であっても
一人だけが「ゾーン」に入るわけではなくて
周りの人との相互作用を含めて「ゾーン」の状態が
空間の中に存在するだろうと考えられます。

ただし、「ゾーン」が空間にあるのか、
そもそも相互作用がどうやって伝わっているのか、
その辺のことは全く分かりません。

経験的にそういうことがある、としか言えません。


「ゾーン」を科学的に研究して証明していくのが難しいだろうというのは
このような人間同士の相互作用を計測する手段に工夫がいることと、
「どうやって伝わるか」を証明することが更に技術的に難しそうな理由からです。

何よりも「人間同士の目に見えない相互作用を計測しよう」
という発想を持った科学者が研究をしなければならないのが最難関でしょう。

科学者である時点で、そのような現象に気づきにくく、
そのようなことに否定的なスタンスになりやすいのが現状のように思えます。

なお、ペーシングを含めた人間同士の相互作用は
研究が進むと非常に面白い分野だと個人的には考えていますし、
その観点から大きな反響が他分野に表れてくると推測しています。

ただ、現状は相互作用を証明するどころか
その発想で人間の状態を見ていこうという発想も少ないようなので
「ゾーン」の研究にも、関係性の要素は反映されにくいのかもしれません。


ところがスポーツ選手自身は、身体への意識の高さから、
状態や空気の変化を感じとる感受性も高いことが多いようで、
スポーツでは「ムード」や「空気」「流れ」などの言葉が使われるのを耳にします。

「勝負の流れ」なんて典型的でしょう。

ここでいう「流れ」というのは単純な「勝負の展開」のことではなく
もっと試合会場全体に流れている内面的な雰囲気のことです。

団体競技だったりすると、流れや心情的な動きも全体的になって
個人が目立つということは多くないような気がします。
「これは勝ちゲームだな」とか「チャンスだ、たたみかけろ!」など。

その場の全員が同じような空気に包まれ、同じような心情になる。

そんな中で、流れの中心になる人がいることがあります。
その流れを支配していて、その人のペースで全体的な状況が進行していく状態。

それが「ゾーン」の感じだろうと僕は考えます。

野球でいうと、あるピッチャーが絶好調で誰一人としてヒットが打てない状況などです。
そのピッチャーが自分のリズム、ペースを自然に維持して
一人だけ好き勝手にやれているように見えるとき。

逆に他の選手は淡々としていて、なんだか力が発揮できないような感じになり、
「あれ?あれ?」という間に、進んでいってしまいます。
他の選手は自分のリズムを完全に崩されてしまっているんでしょう。

そういう流れができているのは、人間同士の相互作用の影響もあるだろうということです。

なので、個人が自分ひとりで最大のパフォーマンスを発揮できる状態と、
全体を巻き込んで、その場全てが一人の内面的状態に巻き込まれたような状態とでは、
その中身が全くの別物だろうと考えられるんです。

その意味で、用語を別物として整理したほうが良いんじゃないかと僕は考えていて、
「ゾーン」と呼ばれるのは、他者を巻き込んで、
場の空気を支配できているときに限定しておきたいんです。

独壇場の感じは、一人では生まれないというのが僕の考えるゾーンの理論。


ゴルフという競技は比較的ゾーンが生まれやすいと考えられます。
その理由は、数人単位でプレーをして、個人のリズムの違いが表面化しやすいからです。
しかも空間的に近づく時間も多い。

そこに観客が加わるプロ競技の場合は、
観客の状態も一緒にゾーンの一部に組み込まれますから
より一層ゾーンに入る状況は生まれやすくなります。

特に人気の高い選手はゾーンに入りやすいメリットがあるんです。
それは応援してもらえるということ。

ペースをつかみ始めると、観客のサポートが後押しになります。

一度、プレイヤーと観客の間での相互作用が強く作られて
そこにプレイヤーにとって望ましいペースが出来上がってくると、
少しぐらい自分でペースを崩しかけても観客からのフィードバックで状態が保たれます。

相互作用がその状態を維持しようとする。
ホメオスタシスのように好調がキープされやすいわけです。

それが続いてくると、同じ組で戦っているはずの他のプレイヤーまでも
自分の世界にいられなくなり、その場の関係性の中に巻き込まれていきます。

やりにくくなるんです。
自分らしさが発揮できなくなる。

一時期、日本国内のプロゴルフで最強の座をキープしていた
ジャンボ尾崎こと尾崎将司選手の強さの理由の1つは、
おそらくゾーン作りの巧みさにもあったでしょう。

観客や同伴競技者を含め、自分の空気・自分のペースに巻き込んでいく。
同じ組にいる他のプレイヤーは、自分のゴルフを失ってしまうことが多かったと言われます。

その国内最強のプレイヤーが海外で強さを発揮できなかったことからも
国内の観客を含めたゾーンへの巻き込みが重要だったことが推測されます。

タイガー・ウッズも「ゾーン」に入るのが上手い選手と言えるでしょう。
ウッズの勝つ試合は、ダントツの一位ということが多い。

技術面だけで圧倒的な差がつくのなら、勝率のほうに影響が出るはずですから、
一試合のダントツな成績というのは、ゾーンによるものが大きいと考えられます。

そのゾーン作りの1つのコツが、きっとあの大袈裟な感情表現です。
あれで観客を巻き込む。
他の選手のリズムを崩す。

スコアが伸びるほどに独壇場のような雰囲気が会場に充満し始め
その影響で自分自身のパフォーマンスも上がっていく。
スコアが良いので雄叫びも大きくなり、空気はますますタイガー色に染まる。
他の選手は普段の実力も発揮できなくなって、差が大きく広がっていく、と。

最近の日本で人気の石川遼選手は、タイガーとは違ったやり方で
会場の空気をコントロールしているようです。
彼は人気者の戦略を取っています。

タイガー・ウッズやジャンボ尾崎が圧倒的な力強さで人の心を引きつけて
場の空気を引っ張りながら巻き込んで行くのに対して、
石川遼スタイルは、全員に支えてもらう方法です。

どんな状況でも応援してもらえる。
年齢と人柄が役に立っているんでしょう。
一体感を中心に、自分にとって望ましい関係性を
ゴルフ場全体に作っているように見えます。

実際、石川選手のコメントで、「ゴルフ場と一体になれた」といった内容がありました。
その雰囲気を感じ取れるだけの感受性もあるのでしょうが、
それを利用できているときにパフォーマンスが向上することも知っているんだと思います。

自分ひとりだけで、自分のパフォーマンスはコントロールしきれないんです。
特に周りに人が沢山いるときは。

自分のペースを保ちながら、自分のペースに周りを巻き込んでいく。
そして、その周りによって自分の最適なペースをキープしてもらう。

それが「ゾーン」に入るために必要な手段じゃないかと考えられます。

周囲の人間との相互作用があって「ゾーン」が生まれている。
その観点からの研究が役立つと僕は思っています。

2010年10月04日

宣伝

新しいセミナーを企画しています。

コミュニケーションやNLP、カウンセリングの基礎となる部分を
地道にトレーニングしようという意図です。

「日本コミュニケーショントレーナー協会」が主催になります。

まずは、急ですが10月の17日、24日、31日の3日間の予定。
それぞれにテーマを変えて、一日ずつ選べるようになるはずです。


僕がNLPの資格取得コースを担当するときには
 NLPを理解してもらうことも
 NLPができるようになってもらうことも
重要視していません。

まして、NLPの考え方や心構えを教育しようなんて意図は微塵もない。

言語化して伝えたくない大切なものがあって
それを実感してもらうための場にすることが最優先です。

しかし、その最優先事項が前面に出ていると
それが意識されやすくなってしまって、
個人個人の解釈で意図した効果が出にくくなるリスクが考えられます。

なので、前面にはNLPの内容を置いておく必要があるんです。

「じゃあ、内容はなんでもいいのか?」というと、そうでもありません。
仮に同じ意図を持って生物化学の講義をしていたとしたら
効果は大幅に減ってしまうはずです。

NLPとセットにしておくのは現実的に都合が良いんです。
まずは技術や理論を考える前に、もっと重要なことを先にしておこうという発想です。
そして、それは心構えや考え方を教えることと非常に相性が悪い。

それもあってか、僕が大事にしようとしている部分は、滅多に分かってもらえませんし
同じような意図を持ってNLPをしているトレーナーが何人いるかも知りません。

ただ僕自身は、そここそが人生のすべての局面において
土台になりうるものだと考えていますから、
NLPの技術的側面やコミュニケーション・スキルがどうとか言う前に
最優先で取り組みたい部分だったりするんです。

ちなみに、僕が担当してきている「コミュニケーション・ベーシック」
というワークショップでは、まさにそこを最優先にしていたんです。

資格取得コースでは初日に積極的な働きかけをして
徐々に関わり方を変えていくスタイルで、ゆっくりと進めていくわけですが、
「ベーシック」では2日間でギュッとインストールしていくので
それは相当な疲労が残ったものでした。

この根本部分こそ、バンドラーがトレーナーコースでしていた事だと僕は理解していますし、
トレーナーのスーパービジョンを受けたときにも強調された部分だと感じていますから
意義のあることをしているつもりではいます。


とにかく、初期段階では内容がNLPのスキルであっても、コミュニケーションであっても
技術よりも優先される土台を中心に進めている、ということです。

逆に、僕が定期的に開催している勉強会では、むしろ技術的側面が中心です。
どうやったら効果的に使えるか。
技術を理論化していく作業をしてきています。

その内容は一回当たりで、かなりの範囲を網羅して
本質的な情報にまとめてしまっていますので、
コンセプトが中心で、トレーニングが十分とは言えない気はしています。

実際、僕自身も「トレーニング」のための場として捉えたときには
もっと「できるようになる」ことを意識して内容を組み立てます。

細かく練習を積み上げて、個人差を埋めながら進めていくスタイルを取るでしょう。

しかしながら、勉強会に参加して下さる方々はセンスが良く
元々「コミュニケーションが上手い」と言われるような方が多いので
エッセンスだけを伝えるだけでも、情報の整理と技術の向上の両方が見て取れてしまいます。

一方で、それらのコンセプトをしっかりと復習して
実践的なトレーニングを積みながら進めていければ
さらに効果的な技術の向上が期待できるとも考えていました。

なので、復習会というか、練習会というか
新しいコンセプトを理解するよりも、トレーニングそのものを中心とした時間が
役に立つだろうと思っているんです。

そういうスタイルでも今後は開催してみるかもしれません。


そこで、新しく始めようとしているセミナーは
その技術的側面をキッチリとトレーニングするための内容です。

勉強会の内容ほど高度であったり、何かの技術に特化していたりはしません。

資格取得コースでは優先順位として高く設定していなかった
「技術を身につける」「できるようになる」の部分において
基礎固めをするようなトレーニングを行います。

できる・できない、上手い・上手くない…、そういった評価が重要なわけではありませんが、
人と関わり、自分に活かすことを考えたときには
効果的なトレーニングを積んでいるかどうかの差は大きいでしょう。

現状のNLP業界では、新しいスキルや、高度なスキルを学ぶことが主流に見えます。
もちろん、トレーナーが丁寧に指導をすることができれば
スキルの知識を得ている最中に、基礎の部分を身につけていくこともできるでしょう。

中学校の数学の授業についていくために、小学校の算数が自然と練習される。
苦手だった分数の計算も、中学校の授業についていくために
自然とできるようになっていた。

そんな感じの学び方といえば良いでしょうか。

それはそれで有効な方法です。

しかし、同時に小学校の算数をシッカリと身につけるために
地道な計算ドリルや練習問題を解く方法もある。

個人的には、土台をシッカリさせておくことは
全体的に大きな影響を及ぼすものだと思います。

プロ野球選手だって素振りをします。
他にも練習内容自体では、小学生の野球少年と同じ作業が入っているはずです。
にもかかわらず、得られる技術的な意味には大きな違いがある。

どのレベルでも有効なトレーニング法というのは可能だと思います。
それが基礎という意味です。

日本食の料理人が「大根のかつらむき」をする。
中華の料理人が「豆をいれた中華鍋」を振ったり、「チャーハン」を作り続けたりする。
洋食の料理人は「オムレツ」で技術を磨き続ける。

書家は古典の「臨書」で筆使いを学び続け、画家は「デッサン」をし、
陶芸家は「菊練り」と「ろくろ」で指紋がなくなるまで土を触れる。
歌手は「発声練習」を続け、アナウンサーは「早口言葉」や「原稿読み」で滑舌を鍛え、
アスリートは「筋力トレーニング」や「心肺トレーニング」で土台を作る。

「できる」という意味においては、地道なトレーニングが重要だということです。

もちろん、実践から学ぶという方法もあります。
しかしトレーニングの内容が効果的な場合には、
実践からは学べないことも練習で見につけられるものです。


コミュニケーションにおいては、言葉の選び方などは重要な部分でしょう。

優しい言葉をかけることができる人がいたとして、
そのカギになるのは言葉の言い回しの上手さだけではないはずです。

いくら効果的な質問法を学んでも、視点を変える言語パターンを何種類勉強しても
相手に対して適切な言葉であるかどうかのほうが遥かに比重が大きい。

「相手にとって」が重要なんです。

適当な状況設定をして、その人の置かれている状況が不明確なままで
一般論として気が利いた「カッコイイ」言葉を勉強しても、
実際の場面で何が言えるかのほうが、ずっと重要じゃないでしょうか。

仮に「自分の欠点を素直に言えるなんて、正直な方ですね」と言葉にできるようになっても
相手が普段から自分の欠点ばかりを話すような人であれば、あまり意味がないわけです。

自分のことを卑下しやすい人にとって、この言葉が意味するものと、
勇気を持って自分の欠点を話してくれた人に対して意味するものでは
全く意味が違うでしょう。

どんな言葉を知っているかよりも重要な要素があるんです。
どうやって相手にとって効果的な言葉を選ぶか。

それがコミュニケーションの基礎となる部分だと思います。

それは心構えではありません。
技術です。
トレーニングで対応する部分です。

やればやっただけ身になる。
「こんな方法があるのか!」というような面白さは少ないかもしれません。
新しい技術を学んだ「お得感」も小さいかもしれません。

ですが、基礎のトレーニングは、やればやっただけ価値のあるものだと思います。

どなたに対してもオススメします。
ご都合が合えば、是非どうぞ。

cozyharada at 23:31|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!セミナー情報 | NLP

2010年10月03日

敬意の払い方

科学者には素直な人が多いような気がします。
多くの科学者は、自分の研究分野に敬意を払っている。

「大好きで楽しくって仕方ない」というような人が全てではないでしょうが
どうでも良かったり、面白さを全く感じていない人は少ないと思います。

数学者は難しい問題を考え続けるのが楽しいと聞いたことがあります。
どれだけ考えても分からない問題を一日中ずっと考える。
朝起きると「あぁ、今日もまた、あの難しい問題を考えられる…」と喜びを感じるとか。

何で読んだか忘れましたが、宇宙の研究者と生物の研究者では
「宇宙人は存在するか(地球外に生命は存在するか?)」という質問への
答え方の基本姿勢が大きく違うといいます。

天文学者や宇宙物理学者は、広大な宇宙を研究していますし、
計り知れないほどの、まさに「天文学的な」広さを実感していますから
「これだけ広い宇宙には、人間と近い生き物がいても不思議じゃない」と考えるそうです。

生物学者は、生物の仕組みの絶妙さを実感していますから
「これだけ精密で良くできたものが偶然に他の場所でも生まれるとは考えにくい」と
宇宙人の可能性に対して否定的になるんだそうです。

いずれにせよ、自分の専門分野に対して軽々しくは考えていないと感じられます。
その分野の可能性を信じ、重要性を十分に感じている。

分からないことがあっても、それに対して真摯な態度で関わり
分かろうと努力をするプロセス自体にも価値を感じられる。

そういう敬意があると思います。


同時に、その分野に対して盲信することもない。

ある程度の客観性を持っていて、自分のしていることの価値や
自分の考えている理論の正しさを証明しようとする熱意や意志の強さはあっても
なんの根拠もなく鵜呑みにするほどナイーブではないでしょう。

誰かから習ったからとか、有名な人が言っていたからとか、
そういう理由で、なにも考えずに信じ込むようなこともないものだと思います。

かのアインシュタインは量子力学が発展していく過程に対して
「神はサイコロを振らない」といって否定的なスタンスをとっていたそうですが、
アインシュタインの偉大さには関係なく、科学の研究は進んで行きました。

よく考えて、正しく理解しようという気持ちがあるんだろうと考えられます。
深く理解しようとするからこそ、疑うことができるんじゃないでしょうか。

考えたり疑ったりできるのも関心を持てるからです。
どうでも良いものであれば、考えようとさえしません。

分かったつもりにならずに考え続けられるだけの真剣さもあるような気がするんです。


一方、世の中には、本人にとって専門分野ではない内容であるからか
随分と気軽に考える場合があるようです。

敬意を払わず軽んじているか、よく考えようともせずに盲信しているか。

心理とか自己啓発とか、NLPにおいてもそうですが、
人に関する話になったときに、そのあたりの態度が出てくるように見えます。

脳の話をして説明に説得力を出そうとしているのかもしれませんが、
「脳は〜だ」と、無造作に言い放つような説明を聞くことがあります。

「脳には否定語は理解できない」とか
「脳は空白を嫌う」とか
「質問を投げかけると脳は勝手に答えを探し続ける」とか
「脳には現実と空想の区別がつかない」とか…。

そういう性質をサイエンスとして理論的に話してもらえれば
僕の姿勢も変わるかもしれませんが、
「脳は〜だ」というような言い回しからは、なんだか突き放したような印象を感じます。

自分が考えたり、話したり、まさにそのセリフを言うことができているのも
他でもない自分の脳が働いているおかげだというのに、
そのことを微塵も気にする様子もなく、脳を1つのモノとして
粗末に扱っているような雰囲気を感じてしまうんです。

「脳なんて簡単だ、こうやってやれば人生に役立つように勝手に働いてくれる」
そんな感じの、良いように利用してやろうとでもいうような姿勢が気になるんです。

自分が生きていられているのが脳の活動のおかげであって、
それが生物の長い歴史の中で積み上げられてきた成果である。
置籍な仕組みと巧妙な仕組みがお互いに働きあって、
人間の振る舞いを生み出してくれている。

そのことへの驚きや感謝、敬意といったものが感じられないんです。

それは科学者が研究対象に対して客観的になれることとは違います。

心臓外科医であれば、心臓の仕組みに対して詳しいでしょうし、
客観的な情報として、臓器として、理解しているはずです。
しかし、それを軽んじているようなことはないと思います。

理解しているからこそ、重要性を実感しているからこそ、その巧妙さを知っているからこそ、
いい加減に考えるようなことはなくなる。

その結果、冷静に、真剣に、最大限の努力で
向き合おうとするんじゃないでしょうか。


もちろん、そこにある敬意は憧れや崇拝とも違います。
のめり込んでしまうわけではありません。

偉人や尊敬する人物が残した言葉を座右の銘にするのは効果的でしょう。

ですが、その言葉の意味は正確には理解できません。
人生が違うからです。

好きなことばは、自分が経験してきたものとマッチしたから気にいったと考えられます。

例えば、有名な言葉として、催眠療法家のミルトン・エリクソンが
「無意識を信頼する」と言っていたらしいことを、色々な書籍から知ることができます。

しかし、エリクソンが、どんな意図で、誰に向かって、
どんな状況で言っていたかまでは分からないんです。

もしかすると、その言葉だけを理解しようとすると
エリクソンの言いたかったこととは違う内容を理解してしまうかもしれません。

実際、エリクソンの最後の弟子であったビル・オハンロンは
「無意識を信頼する」とか「無意識は賢い」ということに対して
部分的に否定する結論に至ったそうです。

僕が催眠療法を習った先生も、日本のエリクソン催眠の大家ですが、
「エリクソンは無意識に片寄りすぎだ」と否定的な側面を話していました。

もちろん、二人ともエリクソンを尊敬していることは間違いないでしょう。
エリクソンのやり方を誠実に学んだ方々だと思います。

だからこそ、良く考えて、言葉として残っている内容とは違った結論に辿り着いた。
やみくもに教えに従うのではなく、自ら向き合うからこそ違う意見も出るわけです。


分かったつもりで気軽に扱うのでもなく、
のめり込んで鵜呑みにするのでもなく、
少しでも良く分かろうとして考え続ける姿勢。

見下すことも、崇めたてまつることもなく、
冷静に、客観的に、感謝と尊敬を抱き続ける。

そういう敬意の払い方も大事だと思うんです。

2010年10月01日

個人差を分解する

僕は化学(特に生物化学)をやっていたせいもあってか、
あるいは、そもそもそういう発想が好きだったから生物化学に進んだのか、
いずれにせよ自分の中には最小構成要素を探っていく発想が根付いています。

物事を説明するときに、細かい要素同士の関係性や相互作用から見ていく。
傾向や統計的な見方をするよりも、全てに共通する最小要素を見ようとするのでしょう。

例えば、心理学で有名な「フット・イン・ザ・ドア」と呼ばれる
「一度簡単な頼みごとを引きうけると、次の頼みごとも引き受けやすくなる」
というのは、明らかに人間全般の傾向を法則として見出そうとする方向性です。

一般に心理学は、こちらの方向に進みやすい。
人間とは、こういうもの、と。
法則を見出し、その法則が統計的に正しいと言えそうかどうかを調べるために実験する。

この場合、人間関係で作られる状況があります。
頼みごとをする人がいて、頼みごとの内容があって、
どんな場所、時間に頼みごとをしているかという設定がある。

そういう場面設定の中で、人がどのように振る舞うかを見るわけです。
つまり場面設定という関係性の中で、構成要素としての人間の振る舞いを考えるんです。

もちろん、人間の構成要素として「心」というものを想像してはいるでしょうが、
心という構成要素が他の要素(たとえば体とか理性とか)と
どのように作用しているかは考慮に入れていないので、その意味では
「心」を要素として捉えているとは言い難いところがあります。

要素としての単位を見たときには、「心」でも「人間」でも
説明内容には差が出てこないだろうということです。

ここで、「社会」という全体状況と、構成要素としての「人間」を見たとしたら
それは社会心理学になるのでしょうし、
「犯罪」という状況と、構成要素としての「人間」を考えたら
「犯罪心理学」ということになるのでしょう。


一方、心理療法家の中には、一人ひとりの相手を別の存在として捉え、
「人間」という単位で法則を見出そうとしたがらない人たちもいたようです。

目の前の相手を他の人間とは別の個人として見ていく。
そうすると、一人ひとりの違いを説明するための
「違いを生み出している要素」が気になり始めます。

それをある人は無意識で説明しようとし、ある人は親との関係で説明しようとし、
またある人はビリーフで説明しようとした。

自分が目の前の個人を理解するときの発想として使っている要素を、
個人の違いを生み出す要素として見るようになっていく、ということです。

もちろん、そのレベルで個人の中身を調べようとしても
やはり全体的な傾向が見えてくるものです。

「こういう親に育てられると、こういう振る舞いをする人間に育つ」とか
「こういう考え方を持っていると、こういう悩みを持つようになる」とか。

要素に分解して個人を見ようとしても、
そのレベルでの法則を見出したくなる人がいるのでしょう。

ミルトン・エリクソンの本を読んでいると、エリクソンが
そうした法則へ当てはめて人を理解するスタンスを
かなり嫌っていた様子が色々な逸話を通して感じられます。
実際に弟子に対して注意しているものもあります。


そして、化学の目線にまで要素を細かくしていけば
人間もまた原子の組み合わせで出来ているわけですし、
素粒子物理の視点に立てば、もっともっと細かくみることもできます。

ただ、そこまで細かく見ていくと、
人間の振る舞いを理解するにはチョット遠すぎるんです。

もっと言うと、多くの人の細胞を構成する単位は共通していますし
(濃度や量の違いはあるでしょうが、物質の種類としては同じものが使われている)、
生物活動の基本的な仕組みもまた共通しています。

であれば、個人差を理解するときには
細胞を構成する原子の話から始めなくても大丈夫だということになります。

差が生まれ始める段階から話を始めれば良い。

そのレベルで、最近は脳科学に注目が集まっていますが、
違いが生まれ始める段階から理解を始めようとしても
現状のサイエンスでは人間の振る舞いを理解するには、
まだまだ分からないことが多いようです。

とすると、逆の発想として、人間の振る舞いを決めている要素を細かく分解して
振る舞いに影響を与える最小要素を探す、という流れも考えられます。

錬金術の時代に、火とか水とか土とか言っていたものが
実際には更に細かい要素に分解できて、そこに元素という発想が生まれた。

物質の変化、いわゆる化学反応を説明するには
それから発達したイオンや電子で話をすると大部分がスッキリします。
素粒子のレベルまで細かく話さなくても大半の化学反応の話は出来るんです。

細かく分解して要素を調べていきながら、
 ここまで細かい要素が見つかれば説明には十分だ
というレベルを見つけるということです。

人間の振る舞いを決める要因を分解して整理していく。
その結果として見つかる要因は、極めてシンプルになります。

元素の話と化学反応の仕組みを理解すれば
中学生でも基本的な化学の実験ができたように、
人間の心とか振る舞いとかも、基本的な構成要素のレベルで見られると
多くの状況に対応しやすくなるはずです。

そして、人間を理解する上で、ここまで細かくすれば十分というレベルの要素が
NLPでいうところのサブモダリティやアンカーなんです。

視覚でとらえるサブモダリティとしては「大きさ」や「形」なんていうのがありますが、
それを構成する要素は、更に細かく見れば「色」と「明るさ」の相対的な「位置関係」です。
「色」や「明るさ」は「光の波長」と「エネルギーの強さ」に対応します。

ただ、人の振る舞いを理解するのには、そこまでの細かさはなくても大丈夫なことが多い。

なので、いわゆるサブモダリティという単位まで細かくしておけば
十分だろうと考えられるわけです。

個人差を生み出すのに必要十分な最小単位で発想をしていくわけですから
当然、一人ひとりを別の個人として見ていくことがしやすいはずです。

わざわざ「人は皆違う」ことを強調する必要すらなくなると思います。

理論に当てはめて考えるよりも、
要素に分解して理解しようとする姿勢のほうが、
目の前の人に意識を向ける量は、はるかに多くなる気がします。

それは個人を、より正確に理解するための視点になると思うんです。

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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