2010年11月

2010年11月10日

ゲーム感覚のワーク

研修をする人たちの中には、楽しめるように色々と工夫をする方がいます。
単純に実務的な内容をやるのではなく、ゲーム感覚で学べるようにしたり。

その類の方法は取っつきやすく、やっている間も楽しいでしょうし、
座学の勉強などと比べると退屈をしないなどのメリットが想像できます。

中でも、気づきを促すというのが大きな狙いじゃないでしょうか。

ただ僕自身は、そのタイプの実習を使うときに相当な気を配ります。
単純に「楽しかった」では得られるものが少ないからです。

例えば、スピーチの練習をするのであれば
一回でも実際の本番のスピーチをしてしまったほうが
どんな工夫をも上回ることがあります。

スピーチの範囲で工夫をした実習なら狙いがハッキリしますが、
僕が疑問を抱くのは、全くスピーチと関係ない状況を作り出して
それをメタファーのように解釈してもらうことで
スピーチに対する気づきを促そうとする種類のものです。

仮に、「スピーチの最中にはアイコンタクトが重要」
ということが主題だとしたら、その重要性を伝えるために
「言葉を使わずに、グループの前に立ってボールを投げる」ような
ワークをするケースです。

ボールを投げる相手に対して、目を合わさずに投げたとしたら取れないけれど
目を合わせて合図をしてから投げれば受け取ってもらえる。
…そんな感じの体験をすると、アイコンタクトの重要性に気づく、と。

そのような体験はメタファーとして解釈されて
本人の中でスピーチの状況と関連付けられます。
スピーチでもアイコンタクトは重要だな、と。

ですが、それだけではない情報も沢山含まれているわけです。
スピーチに置き換えられる部分と、全く無関係な部分と、両方があります。

ボールを受け取ってもらえるのは、もしかすると
「事前にボールを投げる」という前提が共有できているからかもしれません。
ワークだという前提が、ボールを受ける側にも準備を促している可能性があります。

全く何も知らされていない人たちを前に、ボールを持っていることも見せずに、
ただ目だけを合わせていればボールが取れるかと言えば
そこにはまだ難しさが残るでしょう。

目を合わせることで「何かあるのか?」と思ってもらうことは可能かもしれません。
多少の準備があって、ボールが飛んでくるまでの間に反射神経を活用して
上手く対応できる人もいるでしょう。

しかし、ボールを見せて「今からボールを投げますよ。取ってください」
と言ってから投げたほうが受け止めやすくはなるはずです。

だとしたら、「受け取ってもらうためには、事前に何をするか言葉で伝えるほうが良い」
という結論が出てくる可能性もあります。
それが気づきだったら、それで十分なんでしょうか?


「気づき」というのは大事なことだと思います。
今まで意識していなかったことを意識できるようになるわけです。

ただ、1つの気づきが全てではない。
同時に起きていることや、沢山の可能性のうちの1つに気づいたに過ぎません。

何かに気づいたことを良しと捉え過ぎると
もっと大切なことに気づけなくなるリスクさえ含んでいると思うんです。

抽象化したワークを使って、全く違う脈絡のやり取りのゲームの中から
メタファーとして大切なことに気づいてもらう、というスタンスでは
メタファーの持つ性質を十分に考えたうえで工夫する必要がある気がします。

受け取り手によって受け取り方が違う、という部分です。

簡略化すると、何が大事だと捉えるかが不明瞭になるリスクがあります。

グループの前に立って、ボールを投げて、受け取ってもらう。
そのプロセスはチョット考えると、スピーチに似ているようにも思えます。

しかし、実際のスピーチではボールを取るか取らないかは
聞き手側の判断によるところも大きいものです。

とりあえず投げられたボールは手に取るけれど
取ってすぐに足元に捨ててしまう可能性もあります。

いくら目を見てもらっても、ボールが飛んできたとしても
ボールを目で追うだけで手を伸ばさない人だっています。

ボールだって一種類じゃありません。
球速も違えば、投げるものの種類だって違います。
イガ栗を投げられたら、手に触れるのだって抵抗がありますし、
テニスボールと野球の硬式球とボーリングの球では意味が違います。

ボールの種類が違えば、受け取ってもらうための届け方が違う。

メタファーの意味を持つゲームとして設定するときにも
どこまでを目的として考えるかが重要だと考えられます。

スピーチをする上での目的があって、
その目的とゲームの目的を一致させている必要があります。

つまり、
『グループの前に立って、
 これから誰かにボールを投げて受け取ってもらう。
 ボールは柔らかいゴムボール。
 その設定の中で、どうしたら、より確実にボールをキャッチしてもらえるか』
というのを工夫するとしたら、
それはコミュニケーション一般でも、スピーチの設定でも、大きなズレがあります。

その設定が、どういうコミュニケーションを反映しているか、
どういうメタファーとして機能しやすいかを考えます。

話す人がいて、聴衆の前にいて、これから特定の一人に何かを投げかける。
そして、その相手に対応をしてもらう。
ボールを取ってもらうまでですから、返答は関係ありません。
取れるかどうか。

そう考えると、聴衆の中から無作為に一人を選んで
質問を投げかけたり、名前を呼びかけたりする作業に近そうです。

ゲームを通じて、ボールを投げる前にできる工夫、たとえば
「これから一人の人にボールを投げます」と言葉にしてから投げる、とか
目を見て、ボールを見せて、手の動きでボールのスピードを予測してもらう、とか、
そういう作業が想像できます。

それはスピーチの最中に置きかえると
「これから一人の人に、簡単な質問をさせてもらいます」と予告をするとか
質問を急に振らずに、目があった人に目配せをして予告してから声をかけるとか、
質問の内容を先に伝えてから準備のできていそうな人に話しかけるとか、
そういったレベルの工夫となるでしょう。

スピーチ一般でのアイコンタクトの重要性とは言い切れません。

実際のスピーチで、全く知らない人たちの前に出て話をすることになったとき、
アイコンタクトを大切にすれば話を聞いてもらえるかと言えば、
そんなに甘いものではないでしょう。

全くの初対面の相手に対してであれば、
どうしたらボールを拒絶されなくなるかも工夫の範囲になりますが、
「ボールを投げるゲーム」では、それは体験できません。

アイコンタクトはあったほうが良いとは思いますが、
それが全てではない以上、もっと大事なことを学ぶ必要があると思うんです。

僕が大事にしたいのは、学びとれる量と質です。
「アイコンタクトが重要」ぐらいなら、そう伝えればいいはずです。
わざわざゲームにして時間をかけて、たったそれだけ?と。

同じゲームをするにしても、設定の工夫の仕方や
体験内容に対する振り返りの仕方、意見交換の仕方によって
学びとれる量と質が変わってくるんです。

そこを工夫するのがワークのポイントじゃないか、と考えます。


こういうゲーム感覚のワークを考える際には
それが誰を対象にしているのかも大切になります。

明らかに課題意識を持っている人は、自分の問題解決のヒントが
些細なワークから見つかるときがあります。

仮に、
「話は上手い、緊張もしない、聴衆との関係性づくりも適切、
 なのに、今ひとつ説得力が足りない…、納得はしてもらっても響かない…」
そんなテーマを持っている人がいたとします。

そして、カウンセリングをしていくうちに
どうやらアイコンタクトが少ない人だというのが見えてきた、と。

その場合には、ワークの工夫は簡単で良いんです。
黙ってボールを投げて受け取ってもらう、というゲームでも十分でしょう。

本人が普段してない作業をルールとして設定して
その中で工夫をしてもらうと、大事なことに自分で気づける可能性があります。
「あぁ、アイコンタクトをとっていなかった…」という具合に。

この場合は、アイコンタクトが重要なポイントになる人物だったんです。
そして、それに気づけることで大幅な目的達成が可能になるケース。

そういう意図がハッキリしている時には
ワークの作業は曖昧でも構いません。
ボールを投げるじゃなくても、目を見ることのポイントが強調される作業なら
なんだって同じ効果が出ます。

しかしながら、集団の受講生に対して、学習の一環としてワークをしてもらう際には
大雑把過ぎるワークは「楽しかった」の感想だけで終わるか、
分かり切った一般論を「やっぱり重要だ」と再確認しただけになるか、
重要なポイントを見過ごしたまま誤解の大きな解釈をしてしまうか、
…そんな結論が出ることに気をつけるのが大切だと思うんです。


大きな荷物をグループで運ぶ課題を設定して
・誰も声を出さない場合
・リーダーが指示を出す場合
の2回を体験することで、『リーダーの重要性』を認識させる…。

その程度のリーダーの重要性は、わざわざやらなくても大半の人が分かっているでしょう。
むしろ、「リーダーとは指示を出すものだ」という理解に固まるリスクさえある。

僕がやるなら、リーダーを徐々にグループから離していきます。
・リーダーが外から指示をする
・リーダーは事前に指示を出しておいて、グループ内で対応できるようにしておく
・リーダーはグループの外にいて、グループリーダーを設定して対応してもらう
・リーダーは、グループリーダーとの報告の会話だけを通じて
 課題のパフォーマンスを向上させるように工夫する
…などでしょうか。

リーダーが学ぶべきことを、関連したプロセスで体験してもらうわけです。
そこで学びが生まれる。

それは大雑把な「気づき」だけでは得られないものだと思います。

2010年11月07日

演説を追いかけるだけで

英語の学習法の中にシャドーイングという方法があります。
ネイティブの話している少し後に遅れて、同じことを繰り返して発音するものです。

「聞きながら話す」という意味で2つの作業を同時にしますから
元々は同時通訳のトレーニングの一種だったという話。

まぁ、スピーキングに関していえば、補助輪をつけて自転車に乗るようなものなので
これだけで話せるようにはならないとは思いますが、
フレーズを覚えてしまうほどに繰り返せば、会話にも役立つと想像されます。

望ましいのは、意味のまとまりとしてフレーズの塊を捉え、
その部分をピックアップして応用できるようにすることかもしれません。


で、そのシャドーイングをやっていたときに、
ふと iPod の中に入っていた「 Marting Luther King 」のスピーチを
聞いてみようという気になったんです。

当然、シャドーイングもしてみた。

有名なスピーチですから、モデリングするのも面白いものだとは思っていましたが
僕自身はやったことがなかったんです。

で、シャドーイングをしてみると、後半の部分で涙が出そうになりました。

なんというか、悲しみと悔しさと怒りに突き動かされる感じに加え、
それに応えてくれる人たちが目の前にいる感動の気持ちがあるような、
そんな雰囲気を感じました。

特に、後半の部分の声の震え方を真似したときに、その感じが強まったんです。

間の開け方もそうです。
間を開けているというよりも、開いてしまうというほうが近い気がしました。


それで、youtube で動画も見てみたんですが、
その感じは後押しされるというか、僕の中で強まったようでした。

表情や首の動きが、それを印象づけました。

間が開くときの唾液を飲み込む感じや、口元に力の入る感じが映像からも分かります。
これは音声だけでシャドーイングをしているはずなのに、
自然と自分がやっていた口元の動作と同じタイプのものだったのも
チョットした驚きでした。

やはり、あの声の震えはずっと気になっていたんです。
ただ、古い音声なので、そんなものかと思っていました。

緊張もあったかもしれない。
それ以上に、何か打ち震えるような気持ちの動きを感じます。

気軽な英語の勉強のつもりだったんですが
予想外に得られるものが多い経験でした。

それは聞いている人も感動するだろうなぁ、と。

2010年11月05日

感謝についての難しい話

他人や、世の中の巡り合わせに感謝できるのは素晴らしいことでしょう。

でも、自分に感謝するというのも大事じゃないかと思います。

「自分なら当然だ」と自信を肥大させるのでもなく、
かといって謙虚になり過ぎて、自分以外の何者かに気持ちを向け過ぎるのでもない。

自分の努力を認めて自分を褒めるというのとも違います。

自分に感謝するんです。

自分の体にだけ感謝するというのでもありません。
自分の中の一部に感謝するのでもありません。

自分に感謝する。

そういう感じがあると、安定していながらも主体性をもっていられる気がします。

他人や世の中に感謝するという感覚は、僕の中では
「自分が世の中の一部である」という印象を受けます。

自分が小さいというか、大きな世の中の力に助けられているというか、
自分というものが世の中に生かされているというか…。
そういう視点も大事だとは思いますが、
それ以外にも大事なことがあるようが気がするんです。

「自分が世の中の一部」というのは、世の中と自分を切り離しているのに近い。
「一部」だから離れてはいないんですが、別物として考えているとは言えるでしょう。
少なくとも自分と世の中を区別している。

「自分に感謝する」といっている感覚は、もっと
自分と世の中の区別がないというか、
自分は自分に生かされているというか。

世の中があるから自分があり、自分が存在するから世の中が存在する。
そんな一体な感じのイメージです。

映像的には…、
自分が世の中の中心にいて、でも自分という体の範囲はない。
自分の範囲が世の中(宇宙)全体で、全てが自分の感じ。

日常生活で自分の体を意識すると、自分の眼は体の上のほうについています。
そこから自分の体の範囲を見渡すと、自分の体の範囲が意識できる。
この眼の位置が自分を見渡す中心だと仮にすると、
それが世の中や宇宙の中心になっている感じです。

自分の眼の位置から、内側を通して体全部を見たときに
体の範囲は自分の領域として捉えられると思います。
普段は、その範囲が境目になって、
そこまでが自分、残りの世界が他の部分でしょう。

その境目を無くして、どこまでいっても自分の範囲になるようなイメージ。
その状態では自分が世の中そのものと感じられるように思います。

そこで、その範囲の全てに感謝する感じ。
中心から外に向かって感謝する。

そうなると他者の存在がどうこうではなく
自分に感謝できるんじゃないかという気がします。

他人に感謝することで、自分の存在への意識が減ってしまうのは
なんだか残念なことでもあると思うんです。

cozyharada at 23:57|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | NLP

2010年11月04日

論理的な説明の仕方

とてもスッキリと理解できた感じがありました。
少し遠ざかっていた感覚。

やっと英語の論理の構造がシックリきたんです。

主張をサポートする詳細な情報や具体例の「論理的な」示し方が
図として関係性を描けるようになった。

重要だと気づいたのは、主張に2つの意味のある情報を含めること。
いや、正確に言うと、含まれていることを自覚すること。

例えば、「インターネットは現代社会にとって良いものか」ということを考える場合、
賛同するにせよ、否定するにせよ、主張が含まれるわけです。
「良い」か「悪い」か、と。

この「良い」「悪い」という短い形容詞の持つ意味が
主張の中に含まれていることを忘れてはいけない、ということです。

仮に「良い」という方向で話を進めていったときには
主張の中に「インターネット」=「良い」という関係性があります。

これは『等価』の関係になっていますが、
『等価』は『因果』を強調したものと言えるので
「インターネットがあると」→「良くなる」という因果に置き換えられます。

つまり『因』の部分と『果』の部分の2つの意味のある情報が含まれる、と。

これを裏付ける説明をするためには、
『因』の部分だけを説明したんでは不十分だというのが
英語の論理の考え方のようです。


もう少し具体的に考えて「インターネットがあると、生活が便利になる」
という主張を設定してみます。

これを説明するためには、普通、抽象度を下げて
根拠となる事例を説明することになります。

このとき、「インターネットは便利」という1つの意味情報として捉えて
それの具体例を挙げようとすると、
「インターネット」が使われる場面が思い浮かびやすくなります。

それはそれで構わないんですが、それだけでは不十分だ、と。

インターネットが使われる場面、例えば「家にいながら買い物ができる」
ということを例に挙げたとします。
もっと抽象度を下げれば、アマゾンとか楽天とか、音楽のダウンロードとか
そういう例が挙げられるでしょう。

そうやって抽象度を下げてサポートとなる事例を挙げていくわけです。

で、日本人の感覚の場合「自明」というか「当然」というか、
「家に居ながら買い物ができる」という説明だけを挙げれば
「インターネットは便利」の根拠になると思ってしまいやすい。

少なくとも僕はそうです。

「なぜインターネットがあると、生活が便利になるのですか?」
「インターネットを使えば、家にいながらでも買い物ができるからです」
「なるほど、それは便利ですね」
と。
そんな会話は日本語では一般的じゃないかと思います。

しかし、ここにはある前提がある。
つまり「家にいながら買い物ができる」のは「便利」だ、と
自然に判断してしまっているんです。

ところが、英語で論理的に説明するときには
家にいながら買い物ができるのは「どのようにして」便利なのか?
ということを言う必要があるようなんです。

NLPでいうところのメタモデルの質問で
「どのようにして、それが分かりますか?」
というのがありますが、まさにその説明が求められる。

「家にいながら買い物ができると、外に買い物に行く必要がなくなって
 時間の短縮になるから、便利だ」と。


ここで僕が理解してスッキリした部分は、
必要な説明の中に「便利」の意味に対して
抽象度を下げて補足する情報が必要になるということ。

「便利」という要素を具体的に説明する必要があるわけです。

便利の抽象度を下げると、「時間の短縮」とか「選択肢が多い」とか
「安く買える」とか「疲れない」とか、色々な要素が出てきます。

これらが説明に入らないといけないんです。

「インターネットがあると」→「便利になる」の『因果』関係を
『因』と『果』の両方で抽象度を下げて説明をするということです。

「インターネットで買い物ができると」→「外に買い物に行くよりも早い」
となります。

正確に言うと
「インターネットがある」の抽象度を下げて
 「インターネットで買い物ができる」にして、
「便利になる」の抽象度を下げて
 「早い」にする
の形です。

ただ、「早い」の場合には比較対象が必要です。

英語では2つの条件を比べる場合、比較級を使わないと間違いになります。
なので「インターネットで買い物をする」の場合
「インターネットではない形で買い物をする」と比較をするのが前提になります。

そして、比較級を使っている以上、
『比較対象の省略』を取り戻すのもメタモデルの質問法ですから
そこに比較対象を入れながら説明をすると「より分かりやすい」と言われるわけです。

ということで、
 主張に対して理由を説明するときには
 主張の中の『因果』の構造を意識して、
 『因』と『果』両方の情報の抽象度を下げて根拠にしていく
ようにするのが「論理的」と言われる説明の仕方になります。

最初からそうやって説明してくれれば僕には分かりやすかったんですが、
これを理解するまでに時間がかかりました。

おかげで理解できたときは結構スッキリしたわけなんですが。

この部分は、言語の特徴というよりは
文化としてのコミュニケーションスタイルの違いに根付いているのかもしれません。

2010年11月02日

我流の限界

前に英語の発音の向上について書きましたが、勉強している中で
自分がいかにできていないかに気づかされるときがあります。


僕自身は学習やトレーニングの過程において
できるだけ細かく意識をしていくようにしていますし、
そこから得られるフィードバックを活かすように心がけています。

体育に関していえば、走ったり飛んだりというシンプルな運動が苦手で
逆立ちとか道具を使った競技とかのほうが上達が早い傾向がありました。
野球とかゴルフとかは集中的に取り組んだ時期も少しだけあります。

野球に関していえば、モノマネが好評で、大学時代には
相手チームからモノマネのリクエストが出ることもありました。

面白いもので、モノマネをするというのは打ち方を変えるということですし、
体の使い方やバットの運動のさせ方を変えることになりますから、
結果として得られる打球の質というのも変わってくるんです。

運動とは離れますが、最近では書道をやっていますので
これもまぁ、筋肉を最適にコントロールするという意味では
フィードバックを活かしながらトレーニングを進めるタイプの作業と言えます。

楽器は本格的に取り組んだものがないので何とも言いにくいものの、
芸術の類は、自分では結構な得意分野だと思っています。

…どれも器用貧乏というヤツで高いレベルではありませんが。


どのような作業においても、単純な筋力アップを狙うものではなく
作業の質を向上させていくような場合には、
「自分のしている作業と、それで得られる結果」との関係を
フィードバックさせていくことが求められます。

どうすれば上手くいくか?を自分なりに学んでいくわけです。

このときに、どれくらい細かい要素でフィードバックしようとするかは
個人の好みによっても変わるところがあるようですが、
僕自身は、できるだけ詳細にフィードバックできることが
パフォーマンスを安定して向上させることに役立つと思います。

例えば「どうすれば野球でヒットが打てるか」を考えたときに、
ある人は「赤いパンツをはいているとヒットが良く打てる」という関係性から
「試合の日には赤いパンツをはく」というゲン担ぎに進むかもしれません。

イチロー選手は、そこを常人では考えられないほどに細かくフィードバックをして
細かい体の使い方だけでなく、野手の位置とピッチャーの投げるボールに合わせて
「ヒットになる」ための要素を意識しているんじゃないかと予想します。

僕の書道の先生は、他の書家が意識しないでやっているだろうことを
自分は意識しながらコントロールしているという話をしていました。
だからこそ、僕のようなタイプは、その先生から得られるものが多いんですが。

一方、僕が心理やカウンセリングを習っている先生は
まさにセラピー的な技法において達人的なパフォーマンスを発揮しますが、
その解説では「なんとなく」、「浮かんできたから」、「分からない」ということも
頻繁にあります。

「どうすれば的確なリフレーミングができるか?」という質問にも
「『本当にクライアントにとって、どういうことが役立つだろうか?』と
心をこめて考えていると浮かんでくる」と答えていました。

こちらの先生は、意識的に心がける要因が少ないけれども
圧倒的な経験と努力の裏付け(才能というのもあるでしょうが)によって、
自然にできてしまうというレベルにいるんだろうと思われます。


どれくらい意識しながらトレーニングを進めるかというのは
結果さえ良ければ問題にならないとも考えられます。

ただ、注意すべきは「結果さえ良ければ」という部分です。

自分がやっていることの中に、望ましくない結果に結び付く可能性の高いものがあれば、
それを改善することのメリットはあると思うんです。

特にパフォーマンスを向上させるという意味においては
望ましくない結果を導きやすい要素は改善したいところでしょう。

もちろん、心がけの仕方として
「どうすればもっと上手くいくか」という視点と
「何が問題で、どこを修正すべきか」という視点があるとは思います。

ですが、この2つは本質的に同じところを見ています。
注目する人の気持ちの問題が大きい。

「どうすればもっと上手くいくか」と考えたほうが
自信を損なわずに改善に向かうことをしやすいメリットがあります。

ただ、そもそも向上心のある人は、ベースとしての自信が高い人の場合は
問題点に意識を向けて、「意地でも改善してやろう」という気持ちになることが
大きなモチベーションに繋がることもあります。

本人の気持ちのコントロールの問題なわけです。
重要なのは
・良い結果に結び付いた要因は意識的に続ける
・悪い結果に結び付いた要因は改善できるように変えていく
というシンプルな2つの方針に集約されます。

その意味で大切になってくるのは
・何が良い結果であるかを判別できて
・その結果を生むためのポイントを意識できて
・何が効果的か/どのときが上手くいっているのかを知ることができる
ということでしょう。

つまり、自分のしていることが上手くいっているのか
上手くいっていないのかが分からないと上達には限界が来る可能性がある
という話になります。

だからこそ、客観的な視点というのが役立つんです。
そこに専門的で、高度な判別能力が加わると、その意味は更に大きくなる。


僕は自分のパフォーマンスをできるだけ細かく判別しながら
素晴らしい結果を出している人と要因を比較することを良くします。

英語の発音の場合においては、どうしたら同じように発音できるかを
色々と自分なりに工夫してやってはいるつもりです。

それでも盲点が出てくる。

自分では気づかない「できていない」部分が沢山ある。
それを指摘してもらえるというのは非常に重要だと感じています。

日本語で学んだことが癖として反映されているところもあるんだと思いますが、
例えば、1つの単語の中に複数の音節があるとき、僕は
全ての音節をそれなりの音の強さで発生してしまう癖がありました。
(多分まだあると思いますが…)

「 conduct 」「 contribute 」「 conputer 」などの「 con 」は
いずれもアクセントがない音節ですから、実際の発音としては
非常に母音が弱く、子音だけしか聞こえない感じになるそうです。

確かにネイティブは「クンピューラ」のように発音します。

アクセントの無い部分の母音は、ほとんど省略されるもの。
そういう発想がなかった僕は、日本語感覚で全ての音節を一応の音にしますから
アクセントのある位置は強調したとしても最初の「 con 」を
「コン」に近い音ととして発音する癖を持っていたんです。

これに関しては、自分の中に判断基準さえ無かったですから
ネイティブのを聞いていて、自分で練習しているつもりでも
自分の発音がネイティブと違っていることには全く気づいていませんでした。

もしかすると、ビデオに録画したり、録音した自分のスピーチを聞いたら
気づけた可能性もあるかもしれません。

ですが、自分のだけを聞いていたら気づけなかったと思います。
同じ文章をネイティブが発音しているのと、自分が発音しているのを
録音された音声として客観的に比べて、やっと気づけたかどうかでしょう。

自分の中に「上手くいっているか」どうかの判断基準さえ無い場合には
それを改善することさえ難しいということです。

だからこそ、そこはスパッと指摘できるレベルの人に教わったほうが早い。


ちなみに、言語習得に関していえば、英語を自然に使えている人であっても
たとえばフィリピン人の英語の発音とインド人の英語の発音、
中国系シンガポール人の英語の発音でも、アメリカ人とは違いがあります。

イギリス、アメリカ、オーストラリアでも違いがありますが、
その中で使われないものは、正確ではない発音として捉えられるのが現状のようです。

なので、フィリピン訛り、インド訛り、ということになるのでしょう。
イタリア人の英語は極端にアクセントが強いですし、
ロシア人の英語は、やっぱりロシア語っぽい訛りの雰囲気があります。

そういう意味では、日本人っぽい英語の発音の訛りがあっても
コミュニケーションには支障がないという考え方もあるはずです。

国際的に活躍する日本人でも、決してアメリカ人のような発音ではないけれども
英語を使ってコミュニケーションをしている人たちは大勢います。

どこを目標におくかという視点が欠かせないわけです。

草野球で楽しく試合ができれば良いのであれば問題のない癖も
プロ野球で活躍していくためには改善すべき重要なポイントになり得るかもしれません。

目指すレベルによって改善していくものは変わります。
目指すレベルが高いほど、的確な指導が役に立つわけです。

そして超一流になると、他人の指導では判別できないところにいく。

超一流になるからには、上手くいくための判断をする能力さえも超一流なんでしょう。

超一流になる前には、我流では気づけないところを改善させてくれる
効果的で客観的な判別基準が効果的だと思います。

cozyharada at 23:09|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 全般
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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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