2011年03月

2011年03月11日

ご無事を祈っています

地震、大変なことになっているようです。

僕の近所でも、上から壁の一部やガラスが落ちてきたり、電柱が傾いたり、
警察が出歩いて対応していました。

その一方で、廃品回収業者の車は走りまわっている。
変な感じです。

余震や二次災害など予断を許さない状況だとは思いますが、
その一方で、テレビの報道のあおり方には少し疑問も…。

ニュース性として焦りが出てしまうのは仕方ないとしても、もうちょっと
気持ちをコントロールして話してもらえないものかと感じてしまいます。

事態が深刻だからこそ、落ち着いて対処することが大事なものもあると思います。
テレビの影響は大きいでしょう。
不安な気持ちを上乗せするような報道の形には心配してしまいます。


地震のとき、僕は地下の食事処で昼ご飯を食べていましたが
落ち着いた対応の大切さを実感した気がします。

人それぞれ反応の仕方には違いがありますから
人一倍早いタイミングでソワソワしだす人がいました。

そういう人たちは、同じようにソワソワした人を見つけると
さらに慌てだしていました。
誰か一人が店の外に出るのを見るとガバッと立ち上がります。

が、店員が落ち着いた対応をしているのを見ると
その人たちの動きも、ゆっくりになります。

最後まで食事を口に運んでいた人たちも、店員に促されて店外に出ましたが、
その数人の動きのゆっくりな感じも、焦りを煽らなかったんだと思います。

誰も声を上げなかったのもあって、僕の近辺では全員が落ち着いて
店外に出ていくことになりました。

さすがに、地震がおさまった後に店内に戻ってからは
のんびりとご飯を食べる雰囲気ではありませんでしたが。


一方、店の外に出てみると、雰囲気が違います。
キャーキャー言っている人もいます。

それぞれ出てきた店の前に留まっているわけですが、
その店ごとに集団の反応の仕方が違うんです。

調剤薬局から出てきていた薬剤師の集団は
なぜか最後まで店内に戻ろうとしていませんでした。

集団で感情が伝染し合うような場面を見た気がします。


そして、多くの人が自然と話しかけ合う。

レジで会計のときに店員に話しかける人。
隣の人に話しかける人。

普段だったら会話をしないだろう人たちが
自然と話をするようになっていました。

コンビニの店員も、色々と話しかけられていました。
情報を確認したかった人もいたんでしょうが、
レジに立っていたために何も情報は得られないようでした。

そうやって不安を軽くすることを、自然に知っているんでしょう。

「繋がり」が人を安心させてくれることを納得します。

僕の知り合いは、関東地方よりも北側に住んでいる人が結構いるので
その方々の安否が気になっています。

特に僕は友達が少ないですから、
熊谷に住む兄弟同然の人や、北関東から東北に住む勉強仲間や受講生、
大勢の顔が浮かんできます。

大変な状況にあっても大丈夫な人たちだと信じてはいますが。

仙台に住むライバルのような友人は出かけていて無事だったようです。


ちなみに、僕の「繋がり」は地球とも密接みたいです(?)。
体調を崩して喉が激しく痛い。
喉の痛みが広がって、地震の前にはアゴまで痛いほど。

熱も下がって、少しずつ楽にはなってきていますけど。

…たまたまですかね。

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2011年03月08日

スライト・オブ・マウス

NLPには、その開発当初から活躍しているロバート・ディルツ氏が考案した
言語パターンとして「スライト・オブ・マウス」というものがあります。

英語には「 sleight of hand 」という表現があり
「手品、早業、巧妙なゴマカシ」などの意味を持ちます。

手品師が行う素早い手の動きを表現したもののようです。

辞書では、それに引き続き「 linguistic sleight of hand 」として
「言葉の上での巧みなゴマカシ」も紹介されますが、
スライト・オブ・マウスはディルツの造語なので、ニュアンスが違います。

手品師が巧妙に素早く、サッとトランプを変えてしまうように
言葉を使って相手の考えを素早く変える手法として
「 sleight of mouth 」(スライト・オブ・マウス)と名付けた、と。

その名前に反映されたコンセプトにあるように
技術の内容としては「ビリーフを変える」ことを主眼にしているようです。

「ビリーフ」に関しては、その考え方自体に僕は注意が必要だと思っていますが
その僕が気をつけている発想を含めつつ、ビリーフへのアプローチの方法として
スライト・オブ・マウスについて紹介してみます。

相手の思い込みを変える言葉がけの技術ということです。


「ビリーフ」とは一般に、ある人が思いこんでいる信念や固定観念のことを指し、
「〜とは…なものだ」とか「〜が…にさせる」とか
そういった思考パターンだと言っても良いかもしれません。

僕の説明では、「ある人が経験を通じて学んだ『人生の法則』を
言葉で表現しようとしたもの」という言い方になります。
経験を一般化して生まれているものです。

中には、「誰かからいわれた言葉を、そのままビリーフとして受け取る」形で
ビリーフが出来上がるケースを説明する人もいますが、
頭の中で起きていることは同じです。

言葉を聞いただけでは何も変わりません。
音の学習ぐらいのものです。

言葉の内容を理解しようとしたときに、頭の中で映像と音声を組み合わせて
言われている中身が思い浮かぶわけです。(自覚の程度には差があります)

そして頭の中に作られた仮想的な体験内容に対して身体反応も伴います。

この組み合わせが記憶され、一般化の材料となります。

その意味では、頭の中に作られた体験が仮想的なものか、
体と五感を通して感じたものかの差があるだけで、
実体験から作られる「人生の法則」と、言われた言葉から学ぶ「人生の法則」は
ほとんど差がありません。

「繰り返しかけられた言葉がビリーフになる」というのさえ思い込みでしょう。
そうなることもありますが、そうでないこともある。

むしろ親子関係などにおいては、親からかけられた言葉の内容よりも
非言語のメッセージや状況を含めて、どんな意味として
子供に解釈されたかのほうが重要でしょう。

繰り返し「良い子ね」と褒められたとして、それが
普段は無関心なのにお手伝いをしたときだけ褒められるのだとしたら
承認してもらうためにお手伝いを良くするようになるかもしれません。

そこで学んできたものを強いて言葉にすると
「人の役に立つことをすると、認めてもらえる」
というビリーフの形になる可能性があります。

「良い子ね」と繰り返し言葉をかけたことがビリーフになるとしたら
「私は良い子だ」になるはずですが、
かけた言葉以外の状況と非言語メッセージが
違った意味の内容を相手の届けることになるわけです。

そうして本人が主観的に体験し、実感した内容を
自分の人生の法則として一般化して学んでいく。

そうやって学習が進みます。

ビリーフとは言葉そのものの言い回しではなく、経験を通じて学習した
思考のパターン、行動のパターン、感情的反応のパターンなど、
パターン化された自動的な振る舞いが、その中身だと言えます。

ところが、

「私には、そうやって学習してきたパターンが沢山ある。
 今の振る舞いも、問題状況で繰り返してしまう振る舞いも
 悩んでいる自分の考え方の癖も、そうやって学習してきたものだ。

 私の中には、問題を生み出しやすいタイプのパターンも
 苦労して考えることなく物事に対処できるタイプのパターンも
 沢山のものが学習されて蓄積されている。

 私はそれを自覚できていないが、あらゆる場面で私は
 その学習されたパターンを使って自動的に振る舞っている。」

…そんな風には、普通あまり考えないでしょう。

誰かの悩み事を聞く側の人も、悩み事を話す側の人も
何かしら理由をつけようとしたがるようです。
「なぜ?」と。

問題が生み出されている理由、
問題が解決できない理由、
解決策の候補なのに、それはできないと考える理由…。

実際は、ただ、学習したパターンに沿っているだけかもしれません。

例えば、犬に噛まれたことで犬嫌いになった人は、「犬が恐い」と言います。
「なぜ?」
「だって、犬は噛むじゃないですか」

ここで「犬は噛むものである」というビリーフが表現されます。

犬が恐くない人だって「犬は噛むものである」ことは知っています。

ロープに繋がれていて、尻尾を振っていて、
おとなしく寄り添ってこようとする犬を見たとします。

犬が好きな人は、頭のどこかに
 「もしかすると噛まれるかもしれないけど」
と分かっていながらも
 「可愛いなぁ」
の気持ちが勝り、噛まれることを予想する度合いは非常に小さいでしょう。

犬嫌いの人が同じ犬を見たときも
 「もしかすると噛まれるかもしれない」
という考えは浮かぶでしょう。
噛まれるかもしれない確率として想定するのは、
犬好きの人より高い可能性は考えられます。

ですが、ロープに繋がれているのだから、
 「近づかなければ噛まれることはない」
と頭では理解できているはずです。

でも、犬が恐いことに変わりはありません。
犬に対する恐怖の反応が体に起きることは
 「犬は噛むものである」
というビリーフと、どれだけ関係しているのでしょうか?

犬にかまれたことのある人は、その経験を学習しているわけです。
犬を見ると、恐ろしい経験が戻ってくるのかもしれません。
その学習されたパターンは、本人が自覚できる理由なしに存在しています。

そうやって学習されてしまったんだから、そう感じるのは当然なんです。

ところが、そこで理由を考える。
「なぜ自分は犬が恐いんだろう?」
「なんで、あなたは犬が恐いと思うの?こんなにカワイイのに」

そうやって疑問を投げかけたときに
ビリーフが言葉として表現されます。

ビリーフとは、その人が学習したパターンとしての人生の法則を
本人の言葉で言い表したものと考えると良いと思います。


その意味でいうと、「ビリーフを変える」というのは
スパッと一瞬にして違うものに変わるのではないと考えるほうが妥当でしょう。

犬嫌いの人が、犬好きの人と仲良くなったとします。
犬好きの人は繰り返し言うでしょう、「犬ってカワイイよ」などと。

犬嫌いの人のビリーフが変わるとしたら、
それは「犬ってカワイイよ」という言葉を繰り返して聞いたからではなく
その関係性の中で気持ちが動き始めるからじゃないでしょうか。

細かくいえば、犬がいる状況で生まれる恐怖の身体反応が
大切な人と一緒にいるときの安心感と同時に生じるわけです。

大切な人を見たときに生まれる体感覚、
犬を見たときに生まれる体感覚、
その両者が同時に反応として体の中に起きます。

そこで、「安心感を少し伴いながら犬を見られた」という経験が学習される。
これを繰り返すうちに、その犬を見たときの恐怖の反応は
少しずつ弱まっていくと想像できます。

これには、大切な人と一緒にいるときの安心感の強さが大切です。
それが犬への恐怖を上回れるから変化が起きていくんです。

そしてあるとき、犬への恐怖の感じが減ってきて、
大切な人との関係性への意識が高まると
ついに犬への恐怖から逃げたい意識を上回ります。

犬は怖い。
けど、この人との時間を大切にしたいから
この人の好きな犬と接してみよう。

そんな風に、恐怖の反応を避けるモチベーションよりも
犬を取り巻く関係性を向上させたいモチベーションが上回る。

そして触ってみようと一歩を踏み出すわけです。

最初は、おそるおそるチョンと触るだけでしょう。
そこで「おー、触れたじゃん!カワイイでしょう?」「…うん、まぁ」
みたいなことを繰り返しながら、少しずつ犬と接することができるようになる。

こうした過程で、どんな風にビリーフが変わったのかは想像が難しいですが、
一瞬で切り替わったものではないとは思います。

「犬は噛むものである」というビリーフ自体は
そのまま残っている可能性も高いはずです。

重要なのは、「犬は噛むものである」というビリーフを変えることではなく
日常生活をおくる上で、犬に伴う不便な場面が減ることです。

その第一歩になったのは、「犬は噛むものである」というビリーフを持って
「犬に触ってみよう」という気持ちになれなかった人が
実際に犬に触ってみようと気持ちを変えたことです。

この小さな変化、気持ちの変化が、重要な一歩だと思います。

「犬は噛むものである」というビリーフが変わるかどうかではなく
犬嫌いだった人が「犬に触ってみよう」と気持ちを変えたこと。
ここが大切なんです。

ビリーフが変わることが目的ではなく
それに伴う振る舞いや行動が変わることが目的です。

今までの制限から少しだけ踏み出してみる気持ちになれないだろうか。

そういう関わり方をするための言葉がけの技術。
スライト・オブ・マウスを、そうやって捉えると使いやすいと思うんです。

凝り固まった状態から、フッと気持ちが楽になる。
そして、今まではしたくもなかったことを、
「チョットやってみても良いかな」ぐらいに思えるようになる。

そうやって今までよりも少し可能性を開く技術として
捉えてみてはどうでしょうか?

世の中には、そんな小さなことでは物足りない人もいるようです。
制限になっている思い込みは一気に変えて、
自信とヤル気に満ちた新しいビリーフを持ってもらったほうが良い、と。

そういう人は、この小さな変化の持つ大きな意味を
実感していないのではないかと思います。

止まっているものを動かし始めるのが大変なんです。

最初に「変わってみよう」という気持ちになってもらうこと。
これができる人こそ、コミュニケーションの達人じゃないでしょうか。


可能性を開くための言葉の使い方として、何回かに分けて
スライト・オブ・マウスの解説をしていこうと思います。

勉強会でやりたい内容ではないので、ブログで書いてしまいます。

ちなみに、この文章の中にも、何パターンか出ているはずです。

2011年03月06日

今年も花粉症の話

今年の花粉は多いらしいと、もっぱらの評判ですが
僕は例年の花粉症の症状を覚えているわけではないので比較ができません。

ただ、去年は楽だった記憶があります。
去年は少なかったという情報もありますが
自分の意識の向け方で症状を緩和できるようになったのも大きいと考えています。

花粉症に関してアレルギー反応が起こる理由は説明がついても
症状の強弱の説明には不明な点が多いそうです。

病院でアレルギー反応の検査をしてもらうと明らかにスギ花粉に反応するのに
本人の自覚として全く花粉症と感じていない人もいるわけです。
僕の知り合いにもいます。

この点に関しては、経験的にいうと、注意の向け方が大きく関わると思います。

また、それは症状の出方にも関係しているだろう、と。


僕の場合、常日頃から「見る」という行為の比率が高い傾向にあります。
外界への注意の向け方の多くは「見る」ことでしている。

キョロキョロしたり、気になるものをジッと見つめたり、
他人から指摘されることが多いぐらい常日頃から色々と見ているんです。

それも頭の中に描いたイメージを見るというよりも
実際に体の外にあるものを見ることが多い。

目に入ったものが気になりやすいとも言えます。

さらに、体の内的な感覚に対しては味覚・嗅覚の比率が高い傾向にあります。
体の中に向ける意識の中心が高い部位にあるんです。

お腹や胸に注意が向くというよりも、口の中から鼻にかけて注意が向いている。

喉ではありません。
口と鼻の中間あたり。
食べ物でも「喉越し」というのは、ほとんど気にしません。

逆に口の中の感覚には敏感なので、納豆を単品で食べるのは苦手です。
味や匂いの問題ではなく、ネバネバが嫌なんです。
納豆がネバネバしていなければ、もっと好きだと思います。

外界への視覚と味覚・嗅覚(正確には、口から鼻の奥にかけての感覚)が
両方とも重視されている僕にとっては、自動的に
「見た目」と「味・匂い」が混ざり合って感じ取られやすくなります。

ホコリの塊などは見ているだけで味と匂いがしてきます。
小学生のころは、図工の時間の粘土とクレヨンが大嫌いでした。
味と匂いが気持ち悪かったんです。

僕の場合、感覚器官への意識が顔の中央当たりにありますから
重心も自動的に高くなりやすいですし、
考え事をするときも、口の中から鼻の奥あたりで鳴る小さな声の感じと
目の前に思い描くイメージを見る癖があります。

特に、考え事をするときは、喉から下の感覚は
切り離されたように静かになっているようです。

まぁ、頭に血が集まりやすく、偏頭痛があるのとも関係しそうな部分です。


で、僕の花粉症の症状は、この常日頃から意識が向いている場所とリンクします。

目がかゆくなり、鼻水が出て、口の奥がかゆくなる。
口の奥のかゆいところというのは、鼻と口の境目、上顎の奥です。

まぁ、典型的な花粉症の部位とも言えますが、
不快感として一番意識されるのは目なんです。

鼻水はやっかいですが、こまめに鼻をかめば大丈夫。

口の奥は、気にしだすと不快です。

一方、世の中には、僕と違った花粉症の症状のパターンの人もいて、
皮膚のかゆみに繋がったり、喉がイガイガしたりすることもあるんだとか。

よく街中で見かける辛そうな人は、見るからに注意が鼻に集まっています。
目がうつろで、外を見る量が減っている様子。
そんな注意の配分をしていれば、苦しさしか感じないでしょう。


僕は近年、花粉症が楽になってきていると思い込んでいますが
(比べられるほど以前の感覚を思い出せないのもあって)、
その1つの要因は、注意の向け方をコントロールできるようになったことでしょう。

多くの場合、以前の僕も含めて、花粉症の症状を感じるときに
過去の経験の記憶も引っぱり出して感じていた印象があります。

少し痒さを感じる→以前の痒さを思い出す
…という記憶の連携を辿って、不快感を強調するわけです。

しかしながら、よくよく今ここで感じている症状の感覚に注意を向けると
そんなにどうしようもないほど不快ということはないものです。

この「特別だと思わない」感じが、花粉症の症状レベルの自覚を変える気がします。
僕の知人で花粉症を自覚していない人は、他のアレルギーを持っていて
痒みや鼻水を特別なことと捉えていないので不快感も低いのでしょう。

こうして、特別に不快感を強調しないという注意の向け方の他にも
「症状が気になっていない時の状態を引きだす」という方法が役立ちました。

痒みが一度気になりだしてしまったときに使うと急激に楽になります。

自律神経のバランスが変わるという説明もあるかもしれませんが、
注意の向け方の配分が変わるためということもあるでしょう。

1つの体の反応を気にし始めると、その反応が強くなるというのは良くあります。

例えば、手にかく汗を気にし始めると、手は余計に汗ばみます。
顔の火照りを気にすれば、余計に顔は赤くなります。
蚊に刺されて腫れたところを掻くと、余計に膨れて痒くなります。

ミルトン・エリクソンは、イボの原因を、その場所に注意を向けることで
血流が集まってしまう部分にあると考え、血流が別の部位に変わるように
処方をしていたというエピソードがあります。
確か、クライアントを怒らせることで注意が別に向くようにした、と。

僕の花粉症の場合、仕事に集中すると症状が気にならなくなり、
痒みへの注意が減ることで、さらに症状のレベルも下がる
…という好循環があったようです。

症状が苦しくなったら、その感じを引っぱり出せば楽になるわけです。


そんな中、今年発見したのは、わざわざ集中した状態を引っぱり出さなくても
感覚器官への注意の配分の仕方を変えれば、
それだけで劇的に症状が軽くなるという方法。

僕の場合、圧倒的に、目と鼻・口に注意が集まっている特徴があります。
目への注意が強い分、鼻の苦しさが小さいんだと分析しますが、
どちらも日常で良く使っている感覚なのが少し困るところ。

この感覚への注意の配分を、胸やお腹の中に移そうとすると
外界への注意量が減ってしまうので、今までとの違いが大き過ぎます。

外界への注意を向ける癖を利用しつつ、目と鼻・口から注意を減らしたい。

そこで考えたのが、音に注意をするという方法です。
耳に意識を傾け、遠くにある音を鋭敏に拾えるような状態を作り出す。

これだと体の中を感じようとするよりも楽に変化を生み出せます。

そして、その感じをやってみて気づいたのは、
これがまさにセミナーをやっているときの感覚の使い方に近いことでした。

僕は、セミナーをしているときには見る量も増えますが、
普段との比較でいうと「聞く」量が圧倒的に上がります。

そして身体感覚としても体の幅が広がるように注意が向き始めます。
大きな荷物を持って歩いたときに、荷物がどこにあるかが
身体感覚として感じ取れると思いますが、あの感じに近いんです。
車を運転するときの車幅感覚と言い換えても良いかもしれません。

実際の体の外側にあるものを身体感覚でも感じ取れるように広げる。

花粉症の症状が大きく下がるセミナーのときには、注意の方向が
耳と体を通じて捉えられる外の環境の変化に対して大きくなるようです。

それぐらいに注意を開くと、鼻や口の奥の症状や目の痒みなどは
もう気にならなくなってしまうんでしょう。

この注意の向け方をすれば、花粉症らしい症状は減らせそうです。


ただ、最近の研究によると、ガンが出来るのには
炎症作用が関わっている可能性が示唆され始めていて、
ガン化する前の細胞に免疫系が悪影響するとガンになる
という説も有力視されてきているんだとか。

その意味では、ちょっとぐらい花粉症があっても
そっちに免疫系の大部分が働いてくれていたら
ガン化しにくくなる、なんてこともあるかもしれません。

なんでもかんでも不快なものは無くしてしまうという発想は
場合によっては良くないものじゃないかと思います。

花粉症も適度に症状をコントロールするぐらいが無難な気もします。

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2011年03月04日

雪が溶けると…

たまたま同じような話題を続けざまに3回耳にしたのですが、
僕には納得できない部分がありまして。

一般的には、「物事の捉え方を広げること」や「柔軟な発想」、
「豊かな感性」などの例として話されるようです。

確かに発想の幅という意味では示唆に富んでいるとは思いますし、
決まり切ったテストの答えから離れて、素直な感性を示しているかもしれません。

でも、少し納得できない部分もあるんです。


「雪が溶けたら何になるか?」
の話です。


テレビで話題に出ていて、セミナーのときにも会話の中に出てきていて、
さらに電車の中で座っていたカップルの話にも出てきました。

学校の先生がした質問や、テストの問題としての設定のようでした。
「雪が溶けると水になる」という理科の内容の質問。

それに、ある子供が「雪が溶けると『春』になる」と答えた、と。

テレビやセミナーの中の話題では、
子供の素直な感受性と枠にとらわれない自由な発想の例として、
心温まる内容ということで話が広がりました。

確かに、受験のためやテストで正解をするための勉強をするうちに
正解として求められる答えばかりに意識が向いてしまう傾向はあると思います。

豊かで素直な感性を持ち続けたいものだ、と。
ほのぼのする話です。

一方、電車の中のカップルは、友人が言ったこととして話題にあげ、
笑い話にして楽しそうにしていました。

「雪が溶けると水になる」という教科書的な答えよりも、
「雪が溶けると春になる」という答えのほうが抒情的で
自然の景色が思い浮かぶような詩的な美しさが感じられるようです。

そうした答えが思い浮かぶ柔軟性もさることながら、
その答えに自然への気持ちを思い出し、魅力を感じられる側にも
十分な感性が宿っているような気がします。


同時に、僕には小さな疑問も沸いてきます。

これは質問に問題があるんじゃないか、と。
聞き方が誤解を招く。
場合によっては、日本語として適切ではないとも言えるでしょう。

「雪が溶けると何になるか?」という文章は、主語が抜けているんです。

「雪は溶けると何になるか?」なら大丈夫です。

「雪は溶けると何になるか?」という質問に対して
「春になる」という解答は日本語として不正解です。

なぜなら「雪は溶けると何になるか?」の文章では
主語が「雪」に固定されていて、前半部分の「雪は溶けると」においても
後半部分の「何になるか?」においても、共通しているはずだからです。

後半の「何になるか?」の主語は「雪は」であって、
それが省略されていると考えるのが妥当です。

つまり「雪は溶けると(雪は)何になるか?」と聞いていると考えるわけです。

なので、答えとしては「雪が溶けたもの」を答える必要があって
それは「水」になります。
抒情的な雰囲気を出したとしても「雪解け水」ぐらいまででしょう。

ところが、「雪が溶けると何になるか?」という文章では
前半部分の主語は「雪が」で明確ですが、後半部分が不明瞭だと考えられます。

後半部分の主語も「雪が」だと捉えて、
それが省略されている形だと考えることもできるでしょうが、
助詞に「が」を使うことで、前半の文節と後半の文節が
離れているような印象も出るようです。

結果として「雪が溶けた後には、どうなりますか?」
と聞かれていると受け取られるようになる、と。

「雪が溶けると何になるか?」という質問は後半の文節の主語がないと考えると、
『何が、何になる』と聞いているのかが示されていないとも言えるわけです。

なので、雪が溶けた状況で起こる変化であれば何でも答えられます。

「雪が溶けると(雪山が)雪崩になる」でも良いだろうし
「雪が溶けると(雪国の人が)笑顔になる」でも良いだろうし
「雪が溶けるとスタッドレスタイヤが要らなくなる」でも良いはずです。

都心に住む人のイメージなら
「雪が溶けると(道路が)グチャグチャになる」でも
「雪が溶けると(靴が)汚れる」でも
間違いではなくなってしまう。
…「春になる」と比べると、随分ガッカリな印象ですが。


英語なら多分、こうはなりません。

「 What snow changes into, after it melts? 」
「 After snow melts, what does it change? 」
などと、代名詞の「 it 」が登場して、
前の文節の主語を示していることが明確になるはずです。

より日本語の意味に近い表現にすると
「 What does snow change into, after melting? 」
と分詞構文と呼ばれる形になり、
この場合も前の文節の主語が、カンマ以降の部分の意味上の主語になる
…という具合になると考えられます。

「雪が溶けると何になるか?」という質問に
「春になる」と答えたのを聞いて
「あぁ、確かに。なるほど、そうとも言えるようなぁ」なんて
美しい景色を想像しながら暖かい気持ちになれるのは
この文法における主語の曖昧さが関わっているからだと思うんです。

英語で表現されていたとしたら主語の解釈が違うので
意志疎通に問題が出るかもしれませんが、
日本語の場合には主語が隠れているときに
それを受け取り手が補う形でコミュニケーションが進む傾向があります。

「春になる」という答えは、厳密にいうと、受け取り手が「何になるか?」の主語に
「季節は」が省略されていると捉えたことで可能になる答えだと言えます。

質問をする側が主語を曖昧にしているために
答える側に主語を補う自由度が生まれているとも解釈できるでしょう。

それが日本語のコミュニケーションの魅力の1つでもあり、
ミス・コミュニケーションを生み出しやすい理由の1つかもしれません。

もし、本当に学校のテストで
「雪が溶けると何になるか?」
という問題が出たとしたら、
それは出題者側の国語力にも注目する必要があると思うんです。

本当に理科の問題としての意図を持っているなら
「雪は溶けると何になるか?」
と聞く必要があるはずです。

「が」ではなく「は」です。

曖昧な答えを生む質問をしていることに自覚できるのも重要だと思うんです。

これを意図的に曖昧にして、答えの自由度を上げるなら構いません。
生徒の発想の豊かさをテストするというのも面白いでしょう。

まぁ、遊び心をもってテストをするなら、
もっと分かりやすくして欲しいとも思いますけど。

僕の中学校のときの理科の先生は、期末テストの問題を四択にして
選択肢の四番目は、必ず正解にならない「ボケ解答」にしていました。

 「水は液体。水蒸気は気体。では氷は?」
  ―「ア、固体。イ、液体。ウ、気体。エ、つめたい。」

 「では、煙は?」
  ―「ア、固体。イ、液体。ウ、気体。エ、けむたい。」

遊びを遊びとして分かりやすくしてくれる気配りも
その先生の魅力だったのを思い返します。


ちなみに、僕が、「が」と「は」のような細かい言葉の使い方に気を配るのは
受け取る側によってメッセージの意味が変わる可能性を注意したいからです。

自分が質問した結果、知りたかった情報と全く違う答えが返ってきたとします。
それは質問の仕方にも問題があったかもしれないんです。

自分が込めた意図が相手に伝わりやすいように言葉を選ぶ。
微妙な言い回しの違いがコミュニケーションに大きな影響を及ぼす場合もあります。

カウンセリングのような場では、その点に注意するのも大事だと思います。

cozyharada at 23:59|Permalinkclip!コミュニケーション | NLP

2011年03月02日

心の中の音声

セミナーの無い日は、人との関わりが激減するので
コンビニで一言、二言の会話を交わすだけということがあります。

その流れでいうと、英会話のトレーニング(勉強だとは思っていないので)
に行った日は、日本語よりも英語を話す量が多くなってしまいます。

それぐらいに会話をしなくても気にならないようなんですが、
だからといって決して言葉を使っていないわけではありません。

考え事であったり、文章を読んだりすることで
僕の頭の中には沢山の言葉が流れています。

いつも、その声を聞いている感覚があるみたいです。
自分の心の中の音といいますか、ニュートラルなレベルで内面にも音声がある気がします。

街中の雑踏やBGM、家の中のエアコンや冷蔵庫の音、
自然の中に行けば風が植物を揺らす音や鳥の鳴き声が聞こえる。
そういうレベルでバックグラウンドの音が日常には溢れています。

同じような感覚で、僕の心の中にも、あるレベルの音声が常にある。

多分、この音の量や質は人によって違うだろうと思います。

本当のことを言うと、ペーシングが上達してくると、この内的な音のレベルが
相手からの影響を受けて変化してくるのが実感できるようなんです。

色々な心のBGMを持った人がいるのを感じます。


英会話に行くと、何人ものインストラクターと知り合いますが
やはりペースの違いは大きいものです。

国籍が違うと文化的・習慣的に身につけた標準的なコミュニケーションスタイルが
ある程度の傾向として違いになって表れるように思います。

一般的に言われるステレオタイプと一致するかどうかは分かりませんが、印象として
アメリカ人のペースはハリと弾力があって、意識を胸より上にあげて
張り切る感じにしないとペースが合わない気がします。
逆にいえば、ペースを合わせることなく
自分のスタイルを維持することが大事なのかもしれません。

「英会話スクール」という気分で、しっかりと取り組んでいる気持ちになれるのは
イギリス人を相手にしたときでしょうか。
なんだかスマートな状態になれるというか、クールでキリッと意識を高めながら、
頭の中がスッキリして気持ちも落ち着いた状態で会話ができます。
1つ1つの作業を丁寧に取り組める印象があります。

オーストラリア人、ニュージーランド人は気楽です。
日本人と相性がいいような気がします。
ゆったりと落ち着いた安定感に近い広がりを感じ、居心地が良いんです。
お互いに向け合う気配りの感じが日本人と通じるのかもしれません。

カナダ人はアメリカ人に近い印象を受けることが多いですが、
アメリカ人の中の地域差と同程度にしか僕には区別できません。

まぁ、全て日本に住んでいる外国出身の人で、
しかも英会話の教師を仕事としている人ですから
現地に行ったらもっと印象は違うとは思いますが。

また、アメリカ人であっても気楽にペースが合いやすい人もいます。
ただ、彼女は日本に住んで二十年以上で、旦那さんも日本人らしいので、
ちゃぶ台で正座をしながら湯飲みで緑茶を飲む姿が似合う雰囲気。
その染みついた日本的なリズムが合いやすさを感じる要因かもしれません。


そうしたペーシングを通じた状態変化というか、リズムの変化というか、
心と体の中に起きる変化は、相手によって違いが大きいものです。

そして、その変化した結果の質が、僕にとって馴染みのあるものだと
僕は居心地が良いというか、違和感なくコミュニケーションに取り組めるみたいです。

オーストラリア人、ニュージーランド人を相手にしたときの
広がりがあって柔らかで穏やかな感じ、
イギリス人を相手にしたときの知的に物事をソツなくこなせる感じ、
いずれも自分にとって心地よい状態として意識しているものです。

そして、その状態変化では、身体反応として感じられる生理的変化だけでなく
心(頭)の中で流れ続けるバックグラウンドの音声にも違いが感じられるんです。

どうやら僕は普段では当たり前のこととして気にしていなかった
この心の中に流れているバックグラウンドの音の感覚を
結構聞いているようなんです。

それを自覚したのは、ある方々と接したときでした。
正確には、「接した」というよりも「同じ場所にいた」だけですが。

食事をしようとして店に入ったとき、少し奥の席に案内されたんです。

その角の席に向かう途中で、ある集団の前を通りがかったとき
今までに感じたことのない『無音』の感覚を自覚したんです。
一瞬、ドキッとしました。

全ての音の振動が止まっているような、
時間がないような奇妙な感じでした。

実際に音が無かったわけではありません。
店の中には音楽が流れていましたし、店員が動く音や厨房の音、
他の席の話し声や食器が当たる音など、沢山の音が溢れていたはずです。

でも、その空間だけは音の感じ方が違ったんです。
多分、僕が心の中で聞いているバックグラウンドの音に変化が出たんでしょう。

驚いて集団のほうを見ると、10人ぐらいの人が食事をしていました。
カチャカチャと食器の音はします。
が、誰一人として話をしていません。

会話はしていましたが、空気を伝わる声はありませんでした。
手話だったんです。

その10人ぐらいのグループは、全員が聴覚に障害のある方々だったようです。

店の中には音があふれていたのに、その場所を通ったときに
息が止まるような音の無さを感じました。

それが本当に、その集団の方々が内面で体験している音の世界かは分かりません。
ただ、あの音のない感じは初めての経験でした。

空気の動きが止まっているというか、「ない」んです。
それしか言いようがありません。

普段、どんなに静かな場所にいても、僕の心の中には音があるんでしょう。

一般的に静かな雰囲気といえば、図書館やテスト会場、病院の待合室、
これから人前でスピーチをする人たちの待機所、お葬式…などなど
色々とあると思いますが、どれも雰囲気に違いがあるはずです。

そして僕は、それぞれの場面によって静かな感じの違いを意識しています。
「シーン…」なのか「ピーン…」なのか「ーーッ…」なのか
「ぉぉーん……」なのか「んんーーー…」なのか。
色々な音の雰囲気があるんです。

ポイントは「進んでいる感じ」です。
動いていて、流れている雰囲気は、どんな静けさにもあります。

ところが、そのグループの前には、それがありませんでした。
止まっていたんです。

この「音が無い」という感じに驚きを覚え、
それから周りを見て、手話の姿に納得したという体験です。

「無い」感じを自覚してから、比較対象ができたのかもしれません。
自分が知らないうちに音の感じを自覚していたことに気づきました。

言葉になっていないけれども、自分の中には沢山の音声が常にあるみたいです。

心拍のリズムや血流の変化、重心の移動、筋肉の動き…
場合によっては視覚に入ってくる映像や光さえも、擬音語・擬態語にしている感じ。

その擬音語や擬態語は、普段では意識に上げるレベルになっていませんが、
とても小さな音の集団を作り上げているようなんです。

その意味では、僕はいつも自分の声を聞いていたと言えそうです。

だから誰とも話さない日があっても気にならないのかもしれません。

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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