2011年04月
2011年04月08日
焦点化の原則
焦点化の話の続きです。
次回の勉強会の概要に一部だけ触れる形になります。
まず「焦点化」という言葉が非常に曖昧なので、
そこを整理したほうが良さそうな気がします。
広い意味での「焦点化」は、
会話の流れを絞り込む
ことにあたります。
クライアントの話したい内容に沿って話を進める、ということです。
身近な話に喩えると、友人が「映画を見て楽しかった」という話をしてきたとします。
それに対して、友人の見た映画の話題に沿って会話を進めるのが
「焦点」を絞っていることに当たります。
相手が「映画を見てきた」話をしてきたのに、それを無視して
都知事選の話題を始めたとしたら、完全に話が逸れているわけです。
通常、ここまで話の焦点がズレることは少ないでしょうが、
日常会話であれば、「自分もその映画を見た」とか、
「あの俳優、カッコイイよね」とか、
「私も最近、○○っていう映画を見たよ」とか、
それなりに関係のある話題に話を逸らしていくことは良くあります。
しかし、これも「焦点化」の意味では、話が逸れていると言えます。
あくまで「焦点化」というのは、相手の話したい中心の話題に沿って
会話を進め続けることを意味するわけです。
それが「問題の焦点化」という流れになると、相談事の形になりますから
問題や困りごとの話を聞いていくことになります。
その中には複雑な事態が絡み合っているものです。
複雑に関係した問題状況の中で、何を中心にして会話を進めていくか。
これが広い意味での「焦点化」の基本です。
例えば、転職先で迷っている人がいたとします。
現状の会社への不満が溜まって、転職を決めた。
だから候補の3社の中で、どこが良いかを考え中だ、と。
本人の中では、もう会社を辞める意志は固まっているわけです。
ただ、会話の流れとして現状の会社での不満が話に出てきた。
そういう場面で、「何が不満なのか」とか「どんな人間関係なのか」とか
現状の会社の話をするのは焦点がズレていることになります。
まして、人間関係の問題に注目して、
その問題と関係する本人の物の見方や信念を変える方向で
問題を解決しようとする流れは、焦点があっていません。
本人が問題として扱いたいところに焦点を合わせて、会話を進めていく。
「問題の焦点化」の原則は、そういう部分になります。
そして、もう少し狭い意味で「焦点化」という言葉を使うときには
「相手のニーズを把握する」意味合いが含まれるようです。
ただ、相手が話したい流れに沿って話を進めるだけではなく、
その会話を通じて相手のニーズを把握する。
その先に、「問題の焦点化」をする目的があります。
その最大の目的は
その後の時間を何に使うか、を決める
ことにあります。
つまり、焦点化をして終わりではなく、
その後に何をするかが前提になって会話が進むわけです。
セラピーやNLPであれば、問題解決のための介入やワークをする。
コーチングであれば、課題をクリアするための方法を考える時間にする。
体のケアをする人であれば、施術や治療、薬の処方をする。
技術指導をする人であれば、相応しいトレーニングをする。
ビジネスでは、商品やサービスを提供してニーズに応える。
ニーズを把握できた後に何をするかは、関わる側の専門性によります。
問題の焦点化をすることで、相手のニーズを確認して、
それに合わせた対応をしていくのが前提です。
ですから、自分が何を提供することによって
相手のニーズを満たすのかを考えたうえで
問題を焦点化するのが重要になります。
この目的地が見えていると、焦点化のための会話を進めやすくなるはずです。
全体的にいえば、
相手が対処していきたい問題を絞り込み、
その問題に取り組む意志を確認し、
自分にできる問題解決の対処を提案する
という流れになります。
・相手自身の意志に沿っているか
・どれだけ本質的な問題か
の両方が確保できると、望ましいと言えるでしょう。
ここで、
クライアント自身が自分の気持ちと問題状況を整理しきれていない
ことがあるものですから、
具体的な対応の仕方に工夫が必要になってくることになります。
そこをケース分けして練習してみると役立つだろうと思うんです。
次回の勉強会の概要に一部だけ触れる形になります。
まず「焦点化」という言葉が非常に曖昧なので、
そこを整理したほうが良さそうな気がします。
広い意味での「焦点化」は、
会話の流れを絞り込む
ことにあたります。
クライアントの話したい内容に沿って話を進める、ということです。
身近な話に喩えると、友人が「映画を見て楽しかった」という話をしてきたとします。
それに対して、友人の見た映画の話題に沿って会話を進めるのが
「焦点」を絞っていることに当たります。
相手が「映画を見てきた」話をしてきたのに、それを無視して
都知事選の話題を始めたとしたら、完全に話が逸れているわけです。
通常、ここまで話の焦点がズレることは少ないでしょうが、
日常会話であれば、「自分もその映画を見た」とか、
「あの俳優、カッコイイよね」とか、
「私も最近、○○っていう映画を見たよ」とか、
それなりに関係のある話題に話を逸らしていくことは良くあります。
しかし、これも「焦点化」の意味では、話が逸れていると言えます。
あくまで「焦点化」というのは、相手の話したい中心の話題に沿って
会話を進め続けることを意味するわけです。
それが「問題の焦点化」という流れになると、相談事の形になりますから
問題や困りごとの話を聞いていくことになります。
その中には複雑な事態が絡み合っているものです。
複雑に関係した問題状況の中で、何を中心にして会話を進めていくか。
これが広い意味での「焦点化」の基本です。
例えば、転職先で迷っている人がいたとします。
現状の会社への不満が溜まって、転職を決めた。
だから候補の3社の中で、どこが良いかを考え中だ、と。
本人の中では、もう会社を辞める意志は固まっているわけです。
ただ、会話の流れとして現状の会社での不満が話に出てきた。
そういう場面で、「何が不満なのか」とか「どんな人間関係なのか」とか
現状の会社の話をするのは焦点がズレていることになります。
まして、人間関係の問題に注目して、
その問題と関係する本人の物の見方や信念を変える方向で
問題を解決しようとする流れは、焦点があっていません。
本人が問題として扱いたいところに焦点を合わせて、会話を進めていく。
「問題の焦点化」の原則は、そういう部分になります。
そして、もう少し狭い意味で「焦点化」という言葉を使うときには
「相手のニーズを把握する」意味合いが含まれるようです。
ただ、相手が話したい流れに沿って話を進めるだけではなく、
その会話を通じて相手のニーズを把握する。
その先に、「問題の焦点化」をする目的があります。
その最大の目的は
その後の時間を何に使うか、を決める
ことにあります。
つまり、焦点化をして終わりではなく、
その後に何をするかが前提になって会話が進むわけです。
セラピーやNLPであれば、問題解決のための介入やワークをする。
コーチングであれば、課題をクリアするための方法を考える時間にする。
体のケアをする人であれば、施術や治療、薬の処方をする。
技術指導をする人であれば、相応しいトレーニングをする。
ビジネスでは、商品やサービスを提供してニーズに応える。
ニーズを把握できた後に何をするかは、関わる側の専門性によります。
問題の焦点化をすることで、相手のニーズを確認して、
それに合わせた対応をしていくのが前提です。
ですから、自分が何を提供することによって
相手のニーズを満たすのかを考えたうえで
問題を焦点化するのが重要になります。
この目的地が見えていると、焦点化のための会話を進めやすくなるはずです。
全体的にいえば、
相手が対処していきたい問題を絞り込み、
その問題に取り組む意志を確認し、
自分にできる問題解決の対処を提案する
という流れになります。
・相手自身の意志に沿っているか
・どれだけ本質的な問題か
の両方が確保できると、望ましいと言えるでしょう。
ここで、
クライアント自身が自分の気持ちと問題状況を整理しきれていない
ことがあるものですから、
具体的な対応の仕方に工夫が必要になってくることになります。
そこをケース分けして練習してみると役立つだろうと思うんです。
2011年04月06日
焦点化の質問
コミュニケーションに関する分野では、「質問」が大事なものとされます。
コーチングがビジネス分野で取り上げられるときには
コーチング全体の役割よりも、効果的な質問法として
捉えられる場面も目にします。
カウンセリングでは傾聴に徹することで質問を控える流派もありますが、
カウンセラーの中には質問で問題解決を目指す場合もあります。
セラピーとして分類されるものでも、ブリーフセラピーを始めとして
質問の組み合わせで問題解決の援助をするものがあります。
NLPにおいては、そうしたセラピストたちの質問を分析したことから
効果的な質問パターンとしてメタモデルがまとめられました。
これらの質問の技術は、
・型に沿って質問をすることで解決に向けて進める
・相手の発言に対して有効とされる質問をパターン化する
のいずれかに思えます。
前者は、1つの明確なゴールに向けて質問で導いていくスタンスであり、
後者は、とにかく効果的と言われる質問集を使ってみよう、というスタンス。
コーチングの場合は、両方を組み合わせて目標達成のサポートをするようですが、
どのタイミングで、どんな質問をするかは、
やはりコーチ自身の判断で選ばれることになります。
効果的な質問が、どんな状況で効果的なのかが明確になっておらず、
使っていくうちに経験的に効果的な場面が分かってくるようになる、
という学び方がスタンダードと言えるでしょう。
効果的な質問を学ぶときには、型として使えるような
適切な場面の設定が無いので、本人任せのところが感じられます。
一方、型があるときには、
どんな情報を引きだして、どんな方向性に進めていくか
が明確になっています。
質問の意図が型の中に含まれていますから
型の持つ意味を把握できていれば、かなり楽に質問を選べるでしょう。
ただ、重要なのは
どの型においても、1つの明確なゴールに向かって進む
という性質があることです。
コーチングは目標に向かって、
セラピーであれば問題解決に向かって。
決まった方向に進みやすいように情報が引き出され、
その方向に会話の内容が進んでいくように質問がなされます。
型に沿って質問を進めていくと、
ある程度の効果がある会話ができるわけです。
これは大切なメリットでしょう。
しかし、逆にいえば、この型は
進む方向が定まっているときにしか使えない
という性質を含んでいます。
目標に対して取り組むのであれば、クライアント自身が設定した目標は
まぁ、どういうものであっても意味のある方向性と言えますから、
そのままクライアントの言葉に合わせて対応しても困ることは少ないでしょう。
セラピーでも問題が明確な場合には、その方向に進んで構わないはずです。
例えば「高所恐怖症を治したい」という場合には、
高所恐怖症が良くなることを目標にできます。
ところが、カウンセリングとして良く起きるような
困ったことを解決したいという場合には、
困ったことの中から何を解決していくかを決めなくては
問題への取り組みようもありません。
セラピー的な質問の型を使って対応していく前に
進む方向を決めるための会話が必要になるわけです。
これが『問題を焦点化する』ということです。
言い換えれば、クライアントのニーズを把握するということです。
困っていることを解決する方法は沢山あります。
「やせたい」という人がいたとして
痩せるための手段は沢山あるわけです。
食事制限、運動、生活習慣…。
痩せて見える服装だって良いのかもしれません。
同じ痩せるのだって、ボクサーの減量であれば水分を出すことで
規定体重以下にできれば問題がありませんが、
そうした一時的な体重制限を意図していない場合には
水分で体重を減らしても意味がないでしょう。
「どの方向に進んでいきたいか」を明確にしてからでないと
目標に向けた話し合いも、解決手段の話し合いも空回りになってしまいます。
そして、ニーズ把握という観点からすれば
大半の職種で役に立つ技術だとも言えます。
にもかかわらず、これが重視されなかったり、
1つの技術として扱われなかったりするのが現状のようです。
そんなことを言いながら、僕自身も、最初は良く分かっていませんでした。
なんとなくでやっていた部分が多かったものです。
何が効果的で、何が無駄なのかが不明瞭でした。
整理できたのは数年前だった気がします。
そもそも僕が「焦点化」について意識的に取り組んでいなかったのは、
それまでに学んでいた技術の中には、その発想が無かったからでした。
質問をして問題を明確にする、などはあっても
ニーズを把握して確認を取る、ということは教えてもらっていなかった。
「焦点化」に意識を向けることさえなかったんです。
初めて「焦点化」の説明を受けながら(説明は少しでしたが)
ニーズを整理して、取り組む内容を確認するまでの練習をしたとき、
何ができていて、何ができていないのかも分かりませんでした。
なんとなく形にはなっている気がするけど、
何を目標にして練習したらいいかが分からなかったんです。
銀座で受けていたときのことです。
ワークショップの名称には「コーチング」の文字がありましたが
トレーニングしていたのは、問題を焦点化するところからでした。
ビデオで録画する新鮮さや、学べる内容のレベルを楽しんでいて
学んでいることを整理する余裕はなかったのを覚えています。
当時の僕にとって精一杯の理解は、
「焦点化」=「話を逸らさないこと」
ぐらいのものでした。
会話が本質的なところから逸れないようにする。
話の本筋を続ける。
これだけでも初めての頃は難しいものでしょう。
枝葉の部分に質問をしてしまっても、クライアントからは答えが返ってきます。
重要じゃない部分で会話が続いてしまうことも簡単に起き得ます。
そうしたことから始め、トレーニングをしながら自分なりに整理していきました。
結局、分かったことは非常にシンプルな原則だったんです。
にもかかわらず、そのシンプルなことは説明された記憶がありません。
泊りがけのワークショップで朝から晩まで同じようなカウンセリングの練習。
ビデオに録って、逐語録に起こして、自分なりに分析する。
先生からフィードバックを受けながら、
どういうタイミングで、何を質問するのが効果的かを
経験的に積み上げていきました。
結果として分かったのは、焦点化が思っていた以上にシンプルだということ。
自分なりに原則も掴めました。
原則がハッキリできていると、関わりが楽になります。
安心して会話が進められる。
そして、自分がしてきたことと、達人のやり方の見てきたことを振り返ると
焦点化の進め方は、数パターンの型に分類できました。
僕自身がカウンセリングをするときには意識的に型を使い分けはしませんが、
この型を知っていると対応しやすくなると思います。
この型については、後日ちょこっと触れるつもりです。
この技術には練習が重要だった気がします。
僕は経験から自分なりのコツを言語化できるようにしていきました。
それによって、コツをつかみやすいトレーニング法が思い浮かびます。
このトレーニングを集中してやれていたら
もっと早くポイントがつかめただろうなぁ…
なんて想いも少し混ざります。
自分が重要さに気づくためにも、意味が分かるようになるまでにも
コツが分かってくるまでにも、整理ができるようになるまでにも、
かなりの労力を費やした部分だと思い返しています。
だからこそ、効果的なトレーニングで扱いたいんでしょうね。
コーチングがビジネス分野で取り上げられるときには
コーチング全体の役割よりも、効果的な質問法として
捉えられる場面も目にします。
カウンセリングでは傾聴に徹することで質問を控える流派もありますが、
カウンセラーの中には質問で問題解決を目指す場合もあります。
セラピーとして分類されるものでも、ブリーフセラピーを始めとして
質問の組み合わせで問題解決の援助をするものがあります。
NLPにおいては、そうしたセラピストたちの質問を分析したことから
効果的な質問パターンとしてメタモデルがまとめられました。
これらの質問の技術は、
・型に沿って質問をすることで解決に向けて進める
・相手の発言に対して有効とされる質問をパターン化する
のいずれかに思えます。
前者は、1つの明確なゴールに向けて質問で導いていくスタンスであり、
後者は、とにかく効果的と言われる質問集を使ってみよう、というスタンス。
コーチングの場合は、両方を組み合わせて目標達成のサポートをするようですが、
どのタイミングで、どんな質問をするかは、
やはりコーチ自身の判断で選ばれることになります。
効果的な質問が、どんな状況で効果的なのかが明確になっておらず、
使っていくうちに経験的に効果的な場面が分かってくるようになる、
という学び方がスタンダードと言えるでしょう。
効果的な質問を学ぶときには、型として使えるような
適切な場面の設定が無いので、本人任せのところが感じられます。
一方、型があるときには、
どんな情報を引きだして、どんな方向性に進めていくか
が明確になっています。
質問の意図が型の中に含まれていますから
型の持つ意味を把握できていれば、かなり楽に質問を選べるでしょう。
ただ、重要なのは
どの型においても、1つの明確なゴールに向かって進む
という性質があることです。
コーチングは目標に向かって、
セラピーであれば問題解決に向かって。
決まった方向に進みやすいように情報が引き出され、
その方向に会話の内容が進んでいくように質問がなされます。
型に沿って質問を進めていくと、
ある程度の効果がある会話ができるわけです。
これは大切なメリットでしょう。
しかし、逆にいえば、この型は
進む方向が定まっているときにしか使えない
という性質を含んでいます。
目標に対して取り組むのであれば、クライアント自身が設定した目標は
まぁ、どういうものであっても意味のある方向性と言えますから、
そのままクライアントの言葉に合わせて対応しても困ることは少ないでしょう。
セラピーでも問題が明確な場合には、その方向に進んで構わないはずです。
例えば「高所恐怖症を治したい」という場合には、
高所恐怖症が良くなることを目標にできます。
ところが、カウンセリングとして良く起きるような
困ったことを解決したいという場合には、
困ったことの中から何を解決していくかを決めなくては
問題への取り組みようもありません。
セラピー的な質問の型を使って対応していく前に
進む方向を決めるための会話が必要になるわけです。
これが『問題を焦点化する』ということです。
言い換えれば、クライアントのニーズを把握するということです。
困っていることを解決する方法は沢山あります。
「やせたい」という人がいたとして
痩せるための手段は沢山あるわけです。
食事制限、運動、生活習慣…。
痩せて見える服装だって良いのかもしれません。
同じ痩せるのだって、ボクサーの減量であれば水分を出すことで
規定体重以下にできれば問題がありませんが、
そうした一時的な体重制限を意図していない場合には
水分で体重を減らしても意味がないでしょう。
「どの方向に進んでいきたいか」を明確にしてからでないと
目標に向けた話し合いも、解決手段の話し合いも空回りになってしまいます。
そして、ニーズ把握という観点からすれば
大半の職種で役に立つ技術だとも言えます。
にもかかわらず、これが重視されなかったり、
1つの技術として扱われなかったりするのが現状のようです。
そんなことを言いながら、僕自身も、最初は良く分かっていませんでした。
なんとなくでやっていた部分が多かったものです。
何が効果的で、何が無駄なのかが不明瞭でした。
整理できたのは数年前だった気がします。
そもそも僕が「焦点化」について意識的に取り組んでいなかったのは、
それまでに学んでいた技術の中には、その発想が無かったからでした。
質問をして問題を明確にする、などはあっても
ニーズを把握して確認を取る、ということは教えてもらっていなかった。
「焦点化」に意識を向けることさえなかったんです。
初めて「焦点化」の説明を受けながら(説明は少しでしたが)
ニーズを整理して、取り組む内容を確認するまでの練習をしたとき、
何ができていて、何ができていないのかも分かりませんでした。
なんとなく形にはなっている気がするけど、
何を目標にして練習したらいいかが分からなかったんです。
銀座で受けていたときのことです。
ワークショップの名称には「コーチング」の文字がありましたが
トレーニングしていたのは、問題を焦点化するところからでした。
ビデオで録画する新鮮さや、学べる内容のレベルを楽しんでいて
学んでいることを整理する余裕はなかったのを覚えています。
当時の僕にとって精一杯の理解は、
「焦点化」=「話を逸らさないこと」
ぐらいのものでした。
会話が本質的なところから逸れないようにする。
話の本筋を続ける。
これだけでも初めての頃は難しいものでしょう。
枝葉の部分に質問をしてしまっても、クライアントからは答えが返ってきます。
重要じゃない部分で会話が続いてしまうことも簡単に起き得ます。
そうしたことから始め、トレーニングをしながら自分なりに整理していきました。
結局、分かったことは非常にシンプルな原則だったんです。
にもかかわらず、そのシンプルなことは説明された記憶がありません。
泊りがけのワークショップで朝から晩まで同じようなカウンセリングの練習。
ビデオに録って、逐語録に起こして、自分なりに分析する。
先生からフィードバックを受けながら、
どういうタイミングで、何を質問するのが効果的かを
経験的に積み上げていきました。
結果として分かったのは、焦点化が思っていた以上にシンプルだということ。
自分なりに原則も掴めました。
原則がハッキリできていると、関わりが楽になります。
安心して会話が進められる。
そして、自分がしてきたことと、達人のやり方の見てきたことを振り返ると
焦点化の進め方は、数パターンの型に分類できました。
僕自身がカウンセリングをするときには意識的に型を使い分けはしませんが、
この型を知っていると対応しやすくなると思います。
この型については、後日ちょこっと触れるつもりです。
この技術には練習が重要だった気がします。
僕は経験から自分なりのコツを言語化できるようにしていきました。
それによって、コツをつかみやすいトレーニング法が思い浮かびます。
このトレーニングを集中してやれていたら
もっと早くポイントがつかめただろうなぁ…
なんて想いも少し混ざります。
自分が重要さに気づくためにも、意味が分かるようになるまでにも
コツが分かってくるまでにも、整理ができるようになるまでにも、
かなりの労力を費やした部分だと思い返しています。
だからこそ、効果的なトレーニングで扱いたいんでしょうね。
2011年04月04日
貢献したい気持ち
「役に立つかどうか」は、僕にとって重要な視点になっています。
ですが、僕にとって重要なのは「『その人にとって』役に立つかどうか」なので
多くの人に役立つとか、誰か他の人の役に立つとかは
あまり重要視していないところがあります。
個人の中で、全体として役に立つかどうか、が重要なんです。
『全体として見たときに』というのが大切です。
「貢献する」というのは、僕にとって、さほど重要じゃないようです。
他の人にとって無駄に思えることでも、本人にとって「役に立つ」のであれば
それは大切なことだと思います。
表現が難しいんですが、
『情けは人のためならず』
の感じが近いでしょうか。
先日、外で耳に入ってきた会話でチョット気になったことがあります。
若い男性と女性の二人組でした。
職場の先輩後輩といった印象。
女性のほうはトレーニングウェアを着ていましたし、
2人の背筋の伸び方、首筋の安定感から判断しても
スポーツ関係の仕事をしていそうなことが想像できました。
おそらく、どこかのジムのインストラクターだろうと思います。
で、女性のほうが、こんなことを言っていたんです。
「災害があってから、この仕事が全然役に立てないって分かって…。
被災地に行ったって、一番無駄な気がするし。
逆に無駄にお腹すかせちゃうじゃない?
だから今度、整体の勉強しに行くの」
僕は、したいようにすれば良いと思いますが、
気になったのは、その言葉を発するときの声の印象でした。
何か悲壮感があるというか、深刻さがあるというか、
自分の無力を嘆くような雰囲気を感じました。
無力感がキッカケになって、乗り越えるための何かに取り組み始める。
これは良くあることです。
そうやって人生が切り開かれるケースは少なくないでしょう。
このプロセスには後悔が含まれます。
何もできない自分の無力さを感じ、もう二度とこんな想いはしたくない、と
新たな決意をするわけです。
このモチベーションは非常に強いものです。
人を駆り立てます。
気になるのは、その女性インストラクターらしき人が
どういう経験から、その決意に至ったのかという部分です。
まぁ、スポーツインストラクターが整体を学ぶこと自体は、
結果的に多くの場面で新しい視点を取り入れることになって
インストラクターとしての技術を向上させるでしょうから、
そのことは動機とは無関係に僕もオススメしたいことではあります。
が、その気持ちの動きが何に起因するのかが気がかりです。
もし、目の前で苦しむ誰かを見たとか、知り合いが被災したとか、
そんな直接的な心への衝撃によって無力感を感じたとしたら、
それは駆り立てられるものがあっても当然だと思います。
一方、もしテレビで被災地を見てだとか、
「何か自分にできることはないか」と義務感を覚えてだとか、
『〜しなければならない』の気持ちから無力さを感じたのだとしたら
それは少し注意が必要な気がします。
そこには「役に立たなければならない」や
「被災者の助けになることをしなければならない」、
「日本のために自分のできることをしなければならない」などの
強制に近いメッセージを受け取っている可能性があるからです。
無力感を感じる理由が、社会的なプレッシャーにあるとしたら
それは自分を苦しめることになると思います。
しかも、スポーツのインストラクターに罪悪感を伴いながら仕事をしていたら
それを利用している人たちにも何らかの影響があるかもしれません。
現実的には、ストレスを抱える人が多くいる中で
体を動かす機会を提供しているのは役立っているはずですが、
「災害に対して直接的に役立っているかどうか」
という基準で見てしまうんじゃないでしょうか。
そういう判断基準を強要されていたのだとしたら、
そのインストラクターらしき人も二次的・三次的な災害を被っている、
と言って良いんじゃないかと思います。
災害の状況に対して役立つことが「良いこと」であるという
強烈な価値の強制が広がっているように感じられます。
「世界に1つだけの花」に見受けられるように
一人ひとり違った価値があって、皆それぞれ素晴らしい
と価値の多様性を謳っておきながら、
1つの価値に強制している風潮には注意が必要かもしれません。
ちなみに僕は、
自分の好きなことをするのが
最終的には世の中にとって最も意味のあることだ
と思っていますから、好きなことを続けるつもりです。
多分、僕が「貢献」という発想を好まないのは、
その「貢献」の判断基準が量的に決められがちな印象を受けるからです。
多くの人に「貢献」できるほうが意義深いとか、
どれだけ重要な役割として「貢献」できるかどうかとか、
「貢献」の判断基準が、程度に反映される気がするからです。
言ってみれば、
多額の募金のほうが、少ししか募金しないよりも価値がある
というのに近い印象を受けるんです。
社会的な、他者視点の価値基準が含まれていそうな気するんです。
社会で人と接しながら生活をしていれば
貢献していない人はいないと思います。
社会全体で見れば、違う形で役立っているんだと思います。
(個人的に、運動は、かなり直接的に役立つ部類だと思いますが…)
一見すると無駄に思えるものが、人の心の支えになっていたりするものです。
無駄なものに価値を見つけられる仕組みが、
その人全体のバランスを整えるのに役立っているんです。
色々なことに価値を見いだせるのは豊かなことじゃないでしょうか。
ですが、僕にとって重要なのは「『その人にとって』役に立つかどうか」なので
多くの人に役立つとか、誰か他の人の役に立つとかは
あまり重要視していないところがあります。
個人の中で、全体として役に立つかどうか、が重要なんです。
『全体として見たときに』というのが大切です。
「貢献する」というのは、僕にとって、さほど重要じゃないようです。
他の人にとって無駄に思えることでも、本人にとって「役に立つ」のであれば
それは大切なことだと思います。
表現が難しいんですが、
『情けは人のためならず』
の感じが近いでしょうか。
先日、外で耳に入ってきた会話でチョット気になったことがあります。
若い男性と女性の二人組でした。
職場の先輩後輩といった印象。
女性のほうはトレーニングウェアを着ていましたし、
2人の背筋の伸び方、首筋の安定感から判断しても
スポーツ関係の仕事をしていそうなことが想像できました。
おそらく、どこかのジムのインストラクターだろうと思います。
で、女性のほうが、こんなことを言っていたんです。
「災害があってから、この仕事が全然役に立てないって分かって…。
被災地に行ったって、一番無駄な気がするし。
逆に無駄にお腹すかせちゃうじゃない?
だから今度、整体の勉強しに行くの」
僕は、したいようにすれば良いと思いますが、
気になったのは、その言葉を発するときの声の印象でした。
何か悲壮感があるというか、深刻さがあるというか、
自分の無力を嘆くような雰囲気を感じました。
無力感がキッカケになって、乗り越えるための何かに取り組み始める。
これは良くあることです。
そうやって人生が切り開かれるケースは少なくないでしょう。
このプロセスには後悔が含まれます。
何もできない自分の無力さを感じ、もう二度とこんな想いはしたくない、と
新たな決意をするわけです。
このモチベーションは非常に強いものです。
人を駆り立てます。
気になるのは、その女性インストラクターらしき人が
どういう経験から、その決意に至ったのかという部分です。
まぁ、スポーツインストラクターが整体を学ぶこと自体は、
結果的に多くの場面で新しい視点を取り入れることになって
インストラクターとしての技術を向上させるでしょうから、
そのことは動機とは無関係に僕もオススメしたいことではあります。
が、その気持ちの動きが何に起因するのかが気がかりです。
もし、目の前で苦しむ誰かを見たとか、知り合いが被災したとか、
そんな直接的な心への衝撃によって無力感を感じたとしたら、
それは駆り立てられるものがあっても当然だと思います。
一方、もしテレビで被災地を見てだとか、
「何か自分にできることはないか」と義務感を覚えてだとか、
『〜しなければならない』の気持ちから無力さを感じたのだとしたら
それは少し注意が必要な気がします。
そこには「役に立たなければならない」や
「被災者の助けになることをしなければならない」、
「日本のために自分のできることをしなければならない」などの
強制に近いメッセージを受け取っている可能性があるからです。
無力感を感じる理由が、社会的なプレッシャーにあるとしたら
それは自分を苦しめることになると思います。
しかも、スポーツのインストラクターに罪悪感を伴いながら仕事をしていたら
それを利用している人たちにも何らかの影響があるかもしれません。
現実的には、ストレスを抱える人が多くいる中で
体を動かす機会を提供しているのは役立っているはずですが、
「災害に対して直接的に役立っているかどうか」
という基準で見てしまうんじゃないでしょうか。
そういう判断基準を強要されていたのだとしたら、
そのインストラクターらしき人も二次的・三次的な災害を被っている、
と言って良いんじゃないかと思います。
災害の状況に対して役立つことが「良いこと」であるという
強烈な価値の強制が広がっているように感じられます。
「世界に1つだけの花」に見受けられるように
一人ひとり違った価値があって、皆それぞれ素晴らしい
と価値の多様性を謳っておきながら、
1つの価値に強制している風潮には注意が必要かもしれません。
ちなみに僕は、
自分の好きなことをするのが
最終的には世の中にとって最も意味のあることだ
と思っていますから、好きなことを続けるつもりです。
多分、僕が「貢献」という発想を好まないのは、
その「貢献」の判断基準が量的に決められがちな印象を受けるからです。
多くの人に「貢献」できるほうが意義深いとか、
どれだけ重要な役割として「貢献」できるかどうかとか、
「貢献」の判断基準が、程度に反映される気がするからです。
言ってみれば、
多額の募金のほうが、少ししか募金しないよりも価値がある
というのに近い印象を受けるんです。
社会的な、他者視点の価値基準が含まれていそうな気するんです。
社会で人と接しながら生活をしていれば
貢献していない人はいないと思います。
社会全体で見れば、違う形で役立っているんだと思います。
(個人的に、運動は、かなり直接的に役立つ部類だと思いますが…)
一見すると無駄に思えるものが、人の心の支えになっていたりするものです。
無駄なものに価値を見つけられる仕組みが、
その人全体のバランスを整えるのに役立っているんです。
色々なことに価値を見いだせるのは豊かなことじゃないでしょうか。
2011年04月02日
苦手分野
僕は、社会問題を考えるのが苦手です。
現実に、個人個人が取り組める問題なら取り組む気が起きますが、
制度とか法律とかが絡んでくるようになると厳しい。
特に、
問題の本質を突き詰め、
それが「倫理や正義に反する」
という理由で問題視する
やり方は苦手です。
苦手というか、やりたくない。
率直にいえば、嫌いなんでしょうね。
それは「社会問題の前に自分個人の力が無力だから」という
一見すると消極的な理由も含まれます。
ただ、無力だから「どうでもいい」というわけではありません。
その社会問題を解決するために必要なことを思い巡らせてしまって、
それを変えることの大変さを感じてしまうんです。
多くの社会問題は、現実的な利益と密接に関係しています。
そこには、関係する人たちの生活も関わっている。
現状で進んでいるものは、現代の社会の中でシステムとして機能して
そのシステムを維持しようとする力によって均衡が保たれようとしているわけです。
解決をしようとした場合には、複雑に絡み合ったシステム全体を調整して
問題部分を変えながら、新しくバランスのとれた機能を作り上げる必要がある。
僕は、「問題だ」と指摘するからには
それを「どうやって解決するか」まで
セットにして提案しないと気が済まないんです。
どうも無責任な気がしてしまいます。
僕の価値観によるものでしょう。
まして「倫理や正義に反する」という理由で問題とみなされたものは
「悪である」と公言しているように聞こえてしまいます。
僕には、そもそも善悪の区別をしようという発想すら少なく、
自分の価値観に合うかどうか、つまり「好き嫌い」で判断する傾向があるので
「悪だ!」と言われると、それが役に立っている側面を無視しているようで
気分がよろしくないんです。
そういうときには、デビルマンとか仮面ライダーとか
悪の力を世の中に役立てようとするタイプのヒーローが思い浮かびます。
そういえば、デビルマンが好きだったのも思い出しました。
社会問題の本質を突き詰めて、それを倫理や正義で議論するのは、
人の心の問題を「自分を愛していないからだ」と指摘するのと
似ている気がします。
じゃあ、どうやって自分を愛すればいいのか?と。
そこに手を出すことができないのに
「それが問題だ」と声に出すのは好きじゃありません。
もし、その人が、自分を愛していないことを知っていながらも
苦渋の選択として現状の問題を続けているとしたら、
本質の指摘ほど残酷なことはないと思います。
問題を指摘することと、問題を解決することは別物ですが、
僕の中では問題に目を向けた瞬間に、解決策まで考えることが
セットになってしまっているようです。
言い方を変えれば、問題を見ないで、解決策を見ているのでしょうね。
だからこそ、社会問題ということになると、
それを変えるのが大変そうなことを想像してしまう。
時間と労力を考えます。
それに取り組む人がいなければ、変わらないとは思いますが
僕はそこに力を注ぐのが好きではありません。
それが変わるまでの間、その社会問題の中で苦しむ人がいる。
僕にはそちらが気になります。
今の仕組みの中で許されるやり方で
苦しむ人たちが楽になることのほうが僕にとっては重要です。
「あと5年で社会が変わりますから我慢していて下さい」
と言えるような人が政治や法律を扱ってくれれば良いなぁ、と思います。
現実に、個人個人が取り組める問題なら取り組む気が起きますが、
制度とか法律とかが絡んでくるようになると厳しい。
特に、
問題の本質を突き詰め、
それが「倫理や正義に反する」
という理由で問題視する
やり方は苦手です。
苦手というか、やりたくない。
率直にいえば、嫌いなんでしょうね。
それは「社会問題の前に自分個人の力が無力だから」という
一見すると消極的な理由も含まれます。
ただ、無力だから「どうでもいい」というわけではありません。
その社会問題を解決するために必要なことを思い巡らせてしまって、
それを変えることの大変さを感じてしまうんです。
多くの社会問題は、現実的な利益と密接に関係しています。
そこには、関係する人たちの生活も関わっている。
現状で進んでいるものは、現代の社会の中でシステムとして機能して
そのシステムを維持しようとする力によって均衡が保たれようとしているわけです。
解決をしようとした場合には、複雑に絡み合ったシステム全体を調整して
問題部分を変えながら、新しくバランスのとれた機能を作り上げる必要がある。
僕は、「問題だ」と指摘するからには
それを「どうやって解決するか」まで
セットにして提案しないと気が済まないんです。
どうも無責任な気がしてしまいます。
僕の価値観によるものでしょう。
まして「倫理や正義に反する」という理由で問題とみなされたものは
「悪である」と公言しているように聞こえてしまいます。
僕には、そもそも善悪の区別をしようという発想すら少なく、
自分の価値観に合うかどうか、つまり「好き嫌い」で判断する傾向があるので
「悪だ!」と言われると、それが役に立っている側面を無視しているようで
気分がよろしくないんです。
そういうときには、デビルマンとか仮面ライダーとか
悪の力を世の中に役立てようとするタイプのヒーローが思い浮かびます。
そういえば、デビルマンが好きだったのも思い出しました。
社会問題の本質を突き詰めて、それを倫理や正義で議論するのは、
人の心の問題を「自分を愛していないからだ」と指摘するのと
似ている気がします。
じゃあ、どうやって自分を愛すればいいのか?と。
そこに手を出すことができないのに
「それが問題だ」と声に出すのは好きじゃありません。
もし、その人が、自分を愛していないことを知っていながらも
苦渋の選択として現状の問題を続けているとしたら、
本質の指摘ほど残酷なことはないと思います。
問題を指摘することと、問題を解決することは別物ですが、
僕の中では問題に目を向けた瞬間に、解決策まで考えることが
セットになってしまっているようです。
言い方を変えれば、問題を見ないで、解決策を見ているのでしょうね。
だからこそ、社会問題ということになると、
それを変えるのが大変そうなことを想像してしまう。
時間と労力を考えます。
それに取り組む人がいなければ、変わらないとは思いますが
僕はそこに力を注ぐのが好きではありません。
それが変わるまでの間、その社会問題の中で苦しむ人がいる。
僕にはそちらが気になります。
今の仕組みの中で許されるやり方で
苦しむ人たちが楽になることのほうが僕にとっては重要です。
「あと5年で社会が変わりますから我慢していて下さい」
と言えるような人が政治や法律を扱ってくれれば良いなぁ、と思います。