2011年05月

2011年05月31日

求められる人

僕の大学時代の恩師は、スゴイ人だと思います。

研究の業績としてノーベル賞を取るようなタイプではないでしょうが、
大学の総長とかにはなりそうな雰囲気があります。

組織を運営したり、人をマネジメントしたりするのに
飛び抜けた才能があるんでしょう。

何より、人から頼られる。
アピールをして売り込むというよりは、
勝手に話が舞い込んでくる形のようです。

僕の持っていた大学教授のイメージといえば、
授業をやって、自分の研究をやって…という感じでしたが、
その先生は様子が違うみたいです。

組織の運営や外部とのやり取りが多いそうです。

そして、その手腕が多くの人の目にとまり
自然と同じような種類の依頼が増えていく…と。

僕が学生のときから睡眠時間を削って仕事をする人でしたが
仕事の内容や質が変わっても忙しさは相変わらずなんでしょう。

力の発揮される分野では、そうやって
周りから求められることが増えていく。
そういうタイプの人がいるんだろうと思います。

忙しさの中に身を置くうちに、
周りが自然と役割を変えていくのかもしれません。


目標を設定して努力をすることで道を切り拓く人もいれば、
目の前のことを一生懸命やっていくことで
自然と道が切り開かれていく人もいる気がします。

ただ、どちらにも言えるのは、
 今やるべきことをやり、一歩ずつ進んでいる
ということのように感じます。

そして、後から振り返ったときに
全てのことが意味のある出来事だったように思える。
なんだか導かれていたように感じられる。
…そんなところも共通していそうです。

ときには、予期せぬことが起こり、必死に対処をする。
順調ではない中でも、もがき続ける。

進んでいないように見えるときでも、何かは動いているはずです。

流れに乗って進んで行ける時期もあれば
流れに乗るために、もがく時期もあったりして。

自分にできる、自分がすべきだと思えることをしているうちに
色々なことが進んでいくものなのかもしれません。

全ての行動や振る舞いが、心の底から「やりたい!」と
思えることではないでしょうが、
「やろう」と思えることをやるのは大事な気がします。

「やろう」と思えるかどうかが重要な指標だろうと思うんです。

この気持ちに敏感になっておくと、色々な場面で役に立つと思います。

僕の大学のときの教授は、この「やろう」と感じる基準が
平均よりも低いのかもしれません。
だから、他の人がやれないことをやれる。

そういう人がいることを思い浮かべると
不思議なことに自分の中にもヤル気が沸いてくるようです。

cozyharada at 23:46|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | NLP

2011年05月28日

学生時代から

探し物をしていて荷物を引っぱり出していたら
大学時代の成績表が出てきました。

理工学部ですから、一般教養とはいっても専門に近いものが多く
「一般」と呼ばれるものでさえ、物理とか微分積分とか
物理化学とかになっていたようです。

それらは必修科目で、選択の余地がないものだったんですが、
1,2年の一般教養の範囲で、選択科目もあったんです。

何を取っていたか、どんな科目があったかは忘れました。

ただ、数多くの選択肢の中から僕が選んでいた科目は
どれも今に繋がるようなものばかり。

「科学と芸術」
「環境と文化」
「心と機械」
「精神分析論」
「流通システム論」
「心理療法」

当時の僕は、こうした講義の面白さを分かっていなかった。
真面目に聞いていたとは言えません。

それでも、自然と選ぶものには、その中に
引かれる何かがあったんでしょう。
僕の心の一部に響く何がが。

その頃は、学科の中でも、何を専門にするかさえ決めていない時期。
どこの研究室に行くかだって決まっていませんし、
どんな仕事につくかなんてことは、全く頭にありませんでした。

高校を卒業して、なんとなく大学生活に移ったというだけ。
今にして思えば、のんきな時期だったものです。

おぼろげには、理系として進んでいくイメージはあったかもしれません。
しかし、コミュニケーションや心理というのは
自分が進んでいく方向とは無縁だと感じていた気がします。

自分が何を好きなのか、何をしたいのか…などとは
一切考えることもなく、適当に選んだだけの選択科目でした。

なんとなくの好みというのは、知らず知らずのうちに
心の奥底を流れているものなのかもしれません。

cozyharada at 23:57|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | NLP

2011年05月26日

未来を予測する

未来を予測できる人がいるとか、
過去を元に未来を予測する方法があるとか、
そんな表現を耳にすることがあります。

ドラッカーが流行っているようですから
「すでに起こった未来」なんていう本も思い浮かびます。


ですが、どんなに未来を予測できたとしても
それは「未来の社会の様子を予測する」ことでしかありません。

世の中がどうなっていくか。
それに対して、自分が関わっていく方法を考えるわけです。

逆に言えば、自分が未来に向けて手に入れたい成果があって
そのために、未来に起こるであろうことを知っていると有利になる、と。

世の中の方向性として未来が予測できたとしても
自分自身の個人的な未来は決まっていない、という考え方でしょう。

自分の未来は、自分の意志で変えられる。

だから、世の中の未来を知っておくことで
自分の未来を望ましいものに変えようと考えられる。


もし、自分自身の未来に予想がついてしまったとしたら
それは決して幸せなことではないかもしれません。

自分の未来が決まっているんだとしたら…。

しかも、ピンポイントで「何月何日に何が起きる」とかではなく、
大まかな流れとして重要なことが決まっていて
それが分かってしまっているとしたら…。

それでも、未来を予測する方法を知りたいと思うんでしょうか?

未来が分かると声高に言える人は、
少なくとも自分の未来が分かっていないんじゃないでしょうか。

自分の未来がどうなるか予想できてしまっていたら
世の中の未来を予測して何かの対応をしようなどとは
考えないような気がします。

未来は分からないほうが良いのかもしれません。

知らないほうが良いこともあるものですね。

cozyharada at 23:12|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2011年05月25日

尊敬する人

僕は、レオナルド・ダ・ヴィンチが好きですし、
シンパシーを感じる部分もあります。

スゴイ!と思うのは間違いありませんが、
尊敬するかと聞かれると、尊敬や憧れとは少し違うようです。

ああなりたい…わけではないんです。
一生のうちに満たせなかった部分が見えるようで。

なので、「尊敬する人は誰ですか?」と聞かれたら
答えるのが少し難しくなる感じがあります。

「好きな偉人や有名人は誰ですか?」
だったら答えやすいんですが。


今、僕が尊敬する人物として挙げるのは
シアトル・マリナーズの「イチロー」でしょうか。

イチロー選手の凄さは沢山あるはずですが、
僕が尊敬するときの対象と見るのは
「自分もそうなりたい」と感じられる部分があるからだと思います。

それは、『努力の継続』です。

スポーツ評論家やスポーツ心理学、成功法則などの解説では
イチロー選手が、いかに地道に努力をしているかが
強調されることが多いようです。

継続は力なり、と。

目標が遥か高いところに設定されていて、
本人にとっての「当たり前」のレベルが高くなっているために
常人ではできないような努力を自然にすることができる、
…というような見方もあります。

ですが、僕にはイチロー選手が
孤独な戦いをしているように見えるんです。

「○○年連続200本安打」や「通産○○安打」など
歴史に残る記録に向かって進み続ける毎日。

誰に頼まれたわけでもありません。
ファンの誰かのためにやっているわけでも
親や家族を喜ばせるためにやっているわけでもないでしょう。

試合に勝つために、チームのために
一本でも多くヒットを打つ、という側面はあるかもしれません。

ですが、記録を意識している発言も多く見受けられます。
記録を目指すのは、きっと本人のためだと思います。

いつ引退したって本人の自由。
いつ記録が途切れたって、誰も責めることはない。

これまでにやってきたことだって偉大ですし、
記録が定まってしまう瞬間を惜しむ人がいたとしても
同時に大きな祝福と賛辞が向けられるでしょう。

そんなことは、イチロー自身だって分かっていると思います。
でも、努力をやめない。
記録に向かって進み続ける。

周りがプレッシャーになるのではなく、
自分で自分にプレッシャーをかけるような状態。

自分が「もういいじゃないか、十分にやってきた」と
認めてしまえば、大きなプレッシャーからは解放されるはずなのに、
自分のために、自分からの重圧に向かい続けている。

そんな姿が思い浮かびます。


年間200本安打というのは大変な記録のようです。
その記録を達成した人は、日本国内にも何人かいますし、
メジャーにも大勢いるんでしょう。

ですが、一度や二度、その大変な記録を達成するのと
それを何年も続けるのでは意味が全く違うと考えられます。

センスがあって、自分に見合ったトレーニングの方法を見つけられて
努力を積み重ねることで、最初の200安打が達成できる。

その一回目は、本人にも予想ができていなかったはずなんです。
最善を尽くした結果が、年間200安打という大記録になるんです。

そして、自分にとっての最善を目指し、試行錯誤を続けながら
とにかくベストな成績を残そうと頑張る。

すると、次の年か、数年後かに、
二度目の年間200安打が達成できたりする。

多くの人は、そうやって何度かの大記録を達成すると思います。

別に200本安打ほどの記録でなくても同様です。
打率3割だって良いんです。

重要な違いは、
 ガムシャラに最善を尽くしていたら大きな成果が出せた
のか
 その成果を狙って出し続けられている
のかです。

何年にもわたって連続して、打率3割や200安打を続けると
その記録に必要な要素が見えてくるようになるでしょう。

「今のこの感じのままいくと記録がヤバいぞ」とか
「少なくとも、この努力の量よりは減らせない」とか
「今は少しバランスが崩れかけているから、さらにこれをしよう」
などと、どういう対応が求められるかが見え始めてくる。

もちろん、「これで上手くいくだろう」と予測したことが機能せず
さらなる努力が必要になって焦る場合もあるでしょう。
予想以上に調子が落ちてしまって苦しむ時期もあるでしょう。

それでも、なんとか最終的に帳尻を合わせて
記録という成果を残し続けるわけです。

どれだけのプレッシャーを感じ続けていることでしょうか。


しかも、「○○年連続」には終わりがありません。
「通産○○安打」の記録も、現役を続ける限り、つきまといます。

イチロー選手が成果を出し続けようと思うなら、
尋常ではないプレッシャーと、妥協のない努力を
記録の可能性がある間ずっと、続けなければならないわけです。

成功法則やコーチングなどでは
「〜しなければならない」ではなく
「〜したい」で行動をすることが教えられます。

義務にしてしまってはいけない、と。

それは本当にそうなんでしょうか?
必ずそうなんでしょうか?

世界の一流として活躍しているスポーツ選手や芸術家は
成果を出すために、産みの苦しみを味わっていると思います。

それは「〜したい」というほど、気楽ではないんじゃないでしょうか。

誰かに頼まれたから「〜しなければならない」のとは違います。
「〜せずにはいられない」とか「やらないでどうするんだ!」とか
そんな強く突き動かされるような「しなければならない」
ではないかと思うんです。

僕は、イチロー選手の中にも、そんな気持ちがあるような気がします。


今この瞬間だけを考えてガムシャラに努力を続ける。
それを毎日やっていたら素晴らしい結果に繋がった。
…こうやって歴史に名を残した人もいたはずです。

イチロー選手は違うんじゃないかと想像します。

もっともっと、沢山のことが分かっている。

ガムシャラにやるのは、よく分かっていないから
という側面もあると考えられます。

分かっていたらガムシャラにはならないでしょう。
計画的になりやすくなるし、
重要なことと、そうでないこととの区別もつくようになる。

自分に対しても冷静に分析できるようになる。

イチロー選手が記録を残し続けるには
年齢をふまえた体力面の心配もあるはずです。

肉体的な変化を意識しながら、それを予測したうえで
必要なトレーニングを組み込んでいく。

「今年は、このやり方で努力をして…」と予測がつくのなら
同時に「3年後だったら、これぐらいはやらなければ…」などと
先のことまで見越せる可能性もあります。

見越せるといえば聞こえは良いですが、
それが見えてしまう感じは辛いはずです。

先の見えない自分との戦い。
ずっと続けていかなければいけない努力。

喜びも苦しみも全て自分からしか生まれない。
自分の人生の成果を、自分の選択で決めていく。

いつまで、この努力を続けるのだろう?と
疑問が頭をよぎることは、イチロー選手にはないのでしょうか?

「もういいや」と思ったら、そこでオシマイ…
そんな状況を進み続けいるのは、スゴイことだと思います。

そこを僕は尊敬しているんです。


弓子夫人は、イチロー選手のシーズン最終試合が終わると
「やっと今年も終わったぁー」と解放感からの言葉を発するそうです。

イチロー選手が言うんじゃないんです。
弓子夫人が言う。

それぐらい張り詰めた雰囲気の中で
毎日を過ごしていることを示しているように思います。

終わりが見えていれば、まだ楽なんでしょうが。

cozyharada at 23:32|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2011年05月23日

ここにあらず

独り言をつぶやくように書きながら、
自分に気づけたら良いなぁ、なんて期待しつつ…。


なんだか、「心ここにあらず」な感じがあります。

今この瞬間にいないような気分というか。
「今、ここ」へのリアリティが下がっているというか。

もうちょっと丁寧に言うと、
今この瞬間にいない自分の割合が大きいために
今に生きている自分が小さいような、ポッカリしたような
妙な気分です。

そして、今この瞬間にいないほうの自分は
えらく落ち着きはらっていて、大らかに受容的でさえある。

自分の中に、随分と先まで進んでしまっている自分がいる…
というような感じでしょうか。
まさに「心ここにあらず」ですね。


その「今、ここ」ではないほうの、「先に進んでいる」ような状態は、
別に今までに全くなかったわけでもない気がします。

その感じそのものは記憶の中にある。
多分、セミナーをしているときやカウンセリングをしているときに
近い感じもしますが、それとは違いがあるようです。

セミナーでもカウンセリングでも、目の前の人に意識が向きますし、
その場に合わせていくような気分を伴います。
そのときは相手のことを考えている度合いが高い。
「その人のために、今、最善を」という気持ちが大部分を占めます。

このセミナーやカウンセリングのときの状態の根底に、
「先に進んでしまっている」ような状態があったようです。
この気持ちを土台に、目の前の人に意識を向けていた気がします。

で、この「先に進んでしまっている」ような状態がメインに出ていたのは
長期間のセミナーの最終日、最後の時間、
卒業のイベントとして挨拶をする場面だったことを思い出しました。

一人ひとりの受講していた方々からのご挨拶を聞くとき、
そして自分が皆さんの前で挨拶をするとき。
自分が、この位置にいたみたいです。

チョットだけ違うのは、その状態の上に感動を味わっていること。
今は、卒業の場面で挨拶をしている自分から
祝福や感動と喜びが抜けた感じを体験しています。

卒業の場面なら「あぁ、良かったですねぇ…」と暖かい光景があるのに、
ここ数日は、その「良かったですねぇ…」だけを引き算したように、
ただただ安定していて、静かで、大らかな状態の感じです。

なんとなく、ありがたい説法でもしたら相応しいような。
だから、僕のセミナー最終日、最後の時間の挨拶には
どこか法話っぽい雰囲気が混ざっていたんだでしょう。


このような「先に進んでしまっている」自分が大きく心を占めていて、
同時に存在している「今、ここ」で妙な気分を味わっている自分よりも
前面に表れていることに、先日、気づきました。

夜、空いている電車に乗ったときのことです。
座席に座り、向かい側の窓に写った自分は
驚くほど達観しているように見えました。

これが自分か?と。

その自分も、僕自身の中にあるとは思うんです。
なんだか個人の感じがしないんですね。

まぁ、そんな感じがあるからといって、
困っているというほどのこともないですし、
何かを解決しなければならないとも思わないんですが。

これで良いんだろうかという気持ちもないです。

ただ、「まだ、それは早いよ」と、”待った”をかけるほうの自分が
今この瞬間を体験していないことに
違和感を意識させているのかもしれません。


…書いてみたけれど、結局あまり整理されませんでした。

cozyharada at 23:56|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | NLP

2011年05月20日

スライト・オブ・マウス

スライト・オブ・マウスの使い方に関しての話です。

しばらく前に、例として14パターンを書いてみました。
個別の説明をする前に、スライト・オブ・マウスを使うときの
工夫について解説してみます。


スライト・オブ・マウスはパターン集なので、
適用するための型が重要です。

基本は「因果」の形。
相手の発言内容を、「因果」の形に整えることが
スライト・オブ・マウスのパターンを考える上で大切です。

「因果」とは、「〜すると…になる」という形。
「〜」が原因、「…」が結果になります。

言語パターン自体が型になっていて、
その型の使われる発言内容(ビリーフとされます)そのものも
型として設定されているんです。

大袈裟に言うと、
「相手が、こういう発言をしてきたら、14パターンで対応できる」
と説明されているようなものでしょうか。

なので、型に合わせるところからトレーニングをしていくのが
やりやすいんじゃないかと考えられます。


「型」つながりで喩えれば、空手の型の稽古に近い印象でしょうか。

…相手がこうきたら、こう受ける。
まず「相手がこうきたら」があるんです。

オーソドックスな「相手がこうきたら」の動きがあって
それに対して型を練習するわけです。

上手くなってきたり、実践レベルになってくると
似たような相手の動作に対しても、型で対応できるんでしょうが、
練習段階では基本となる相手の動作に対して型を学びます。


スライト・オブ・マウスも言葉で相手に介入していきますから
相手の出方に合わせて使える場面が決まります。

まず練習段階では、相手の発言内容を
スライト・オブ・マウスを使うための型に合わせると効果的です。

14パターンもあって複雑ですから、最初は混乱しやすいようです。
そこで型に合っていない発言に対してパターンを考えると
余計に混乱しやすいように見受けられます。

どのようにパターンを考えたら良いかが分からないとか、
14パターンあるはずなのに似通ってしまうとか、
スッキリ取り組めないときには、まず一番最初のステップとして
「スライト・オブ・マウスの対象となる相手の発言内容が
因果の型に当てはまっているかをチェックする」のが有効でしょう。


特に意識すると役立つのは、
因果の抽象度です。

レベルやチャンクと言っても良いでしょう。

「〜すると…になる」という因果の形の
因と果のレベルが離れ過ぎていると考えにくいんです。

例えば、
 「電車の中で話をしているのを聞くと、不満がわく」
というのは、因の部分が具体的に設定されているのに対して
果のほうは抽象的です。

以前に出した例は
 「好きなことをすると、お金にならない」
というものでしたが、これを
 「好きなことをすると、ダメになる」
にしてしまうと、果の部分が抽象的になっていると言えます。

因の部分まで抽象的になると
 「私がやると、上手くいかない」
などとなってしまいますが、こういう発言を鵜呑みにして、
すぐさまスライト・オブ・マウスで介入しようとするのは
いささか早計だと思います。

こういう抽象的な内容の言葉を言いながらも、
それが当てはまる状況を設定して話していることが多いでしょう。

言葉の内容が省略されているんです。

ですから、まず質問で明確に、具体的にすることが求められます。
「どんなときに、そう思うんですか?」と。

すると、例えば
 「私が新しい仕事を任されてやろうとすると、
  先輩のような成果が出せないんです」
なんて言うかもしれません。

ここまで具体的な「因果」が出ると、
スライト・オブ・マウスが使いやすくなるでしょう。

「電車の中で話をしているのを聞くと、不満がわく」というのも
具体的に聞いてみると
 「電車の中で話している人の声を聞くと、
  自分の時間を邪魔されているような気分になって、不満になる」
というような中間部分が出てくるかもしれません。

そうしたらスライト・オブ・マウスを考える対象は
 「電車の中で話している人の声を聞くと、
  自分の時間を邪魔されていると感じる」
の部分になります。

このように因果の度合いを合わせて、
ある程度は具体的な内容に設定するのがポイントだと言えます。

そうすると、色々なアイデアを出しやすくなるはずです。


言語パターンを学び、それを実用しようと工夫する。
その前に、言葉をかける内容を吟味するのが重要だという話です。

相手の発する言葉は、その真意を上手く反映できているとは限りません。

相手の中にある、凝り固まった思い込みを緩めるために
スライト・オブ・マウスを使おうというのであれば、
まずは、どんな考えがあるのかを探るほうが先決でしょう。

そしてその考えを、相手自身がシックリくる言い回しで
因果の型に当てはめるように整える。

言語パターンを考え始めるのは、それからでも良いと思います。

きちんと「因果」の形になっているか。
その因果は、因と果のレベルが合っているか。
因と果の間には、大きな飛躍がないか。

…この辺に意識を向けるだけで、複雑な言語パターンであっても
効果的に練習していくことができるはずです。

2011年05月18日

そう言ってもらえると…

英語で良く使われる言い回しに
「 You took the words out of my mouth. 」
というのがあります。

「私の口から言葉を取った」ということですから、
「ちょうどそれが言いたかったんです!」
というニュアンスになります。

この感じが、「分かってもらえた」という実感に近いんです。

自分が口にできていない、正確に言葉に言い表わせていない、
そんな気持ちが自分の中にあって、うっすら気づいているけど…
というような状態で、相手が気持ちを代弁してくれた。

そのときに
「 You took the words out of my mouth. 」。


人の心の中には、様々な気持ちが複雑に混ざり合っています。
感情は単独で分かりやすく存在するものではないですし、
本人が自覚できていないレベルの気持ちも含まれているものです。

それを敏感に感じとり、適切な言葉にして伝える。
ときには、フィードバックの形で、
ときには、ねぎらいの形で。

それが心に響くんです。


カウンセリングのある流派やコーチングなどでは
直接的に感情を聞き出そうとする方法が使われます。

「そのとき、どんな気持ちだったんですか?」

―「悲しかったんです…」

「そうですか、悲しかったんですね」

こういうやりとりにも意味はあります。
自分の気持ちを言葉にするときに、
「自分で自分の気持ちを認められた」
と感じる場合があります。

ただ僕には、それが野暮に思えるんです。

言いにくい気持ちだってあるんです。
言わずにおいている気持ちを言語化させるのは
負荷をかけることになる場合もあります。

気持ちが弱っているときには負荷をかけないようにする。
そんな気遣いも求められるはずです。

言わないようにしている気持ちを感じ取り、
心がゆるむような暖かい言葉をかけてもらったとしたら、
どれだけ気持ちが楽になることでしょうか。

「そのとき、どんな気持ちだったんですか?」という質問は、
かなり第三者的な視点から生まれるものに感じます。

興味を持ってくれているのは伝わるでしょう。
でも第三者目線です。

その気持ちを言葉にしていないのに伝わっていた、と感じるから
「共感」してもらった、と捉えられるわけです。


楽しいとき、嬉しいとき、幸せなときだって同様です。

すごく嬉しかったことがあって、ノリノリで話をしてたときに
「そのとき、どういう気持ちだったんですか?」
と言われたら、少し気持ちが冷めると思います。

少なくとも、それで冷める人がいます。
「え?それは、まぁ、もちろん、嬉しかったですよ…」と。


技術として、気持ちを聞き出す質問はあります。
それを聞かずに察するようにして、言葉をかける方法もあります。

重要なのは、その技術が持つ意味や効果を知っておくことでしょう。

誰かから習ったから、というだけの理由で技術を使うのは
間違った場面で使ってしまうリスクも含んでいると思います。

気持ちを聞き出すことのメリットとデメリットを予測したうえで
それを聞くのは構わないでしょうが。

それでも、僕は好みとして、
「 You took the words out of my mouth. 」
を目指したいと思います。

もちろん、言わない気配りも。

2011年05月16日

献血

献血に行ってきました。
渋谷の日赤献血センター。

ドーナツやらお菓子やらが置いてあるし
飲み物の自動販売機は無料だし、
マンガは沢山置いてあるし…。
至れり尽くせりです。

若い会社員風の男女3人組が楽しそうに過ごしていました。
無料マンガ喫茶として利用しているんじゃないか?
と疑ってしまうほどのハシャギぶり。

全体的に、来てくれた人を大歓迎する雰囲気があるので
色々な人がやってきそうだと感じました。


空腹や水分不足だと気分が悪くなりやすいとかで
積極的な水分補給を勧められました。

取る分と同じ分量以上の水分を取って下さい、と。

食事から時間も経っているので、少し食べてからにして下さい
と若い医師に言われましたが、
消化吸収にかかる時間は気にしていないご様子。

問題が起きないように慎重に情報提供をしているようでしたが
こちらの心配をしているというよりも、
問題が起こって大事になるのを心配しているような印象でした。


問診やら検査用の採血やらをして
実際に400mlの全血を取りました。

献血用は針が太いですね。

そして、かなりのスピードで血が抜かれました。
10分もかかっていないと思います。
5分?もっと短かったかもしれません。

個人差もあるようですが、看護師さんに言わせると
かなり早く取れたそうです。

ポンプで引っ張りながら抜いていますから
みるみるうちに採血用のバッグが膨らんでいきました。

興味津津で眺めていたのが良くなかったのかもしれません。

規定量を取った後、血圧測定をしている最中に
意識が遠のいていくのが分かりました。

「あぁ、これはヤバいなぁ」と思ったのは覚えていますが、
次の意識は夢の中。
複数の夢を同時に見ながら変な場面展開だった
ということぐらいが記憶にあります。

そして、体の違和感に気づき始めた辺りで
外から呼ばれる声に目を覚ましました。

「あぁ、献血していたんだった」と。

不自然に体に力が入っていたのは覚えています。
冷や汗もかいていました。

自律神経のバランスが急変したんでしょう。

頭に血が足りないのが分かります。
首を動かすとクラクラする感じ。


思い返すと、僕は今までに何度か意識を失って
周囲に心配をかけたことがありました。

見ていた人に聞くと、顔が真っ白になって
呼吸が異常に早くなっていたそうです。

今回もそんな感じだったみたいです。

とはいえ、朝礼のときに貧血で倒れるようなことではなく
偏頭痛が過剰になって気が遠くなるパターンが多く、
肩コリが酷いときにマッサージをしてもらったら
すぐに意識を失ったりすることがありました。

どうも、首周りの血流が重要な気がします。

今回、意識が戻ってしばらくしたら
ひどく溜まっていた感じだった肩コリが
とてもスッキリしていました。

明らかに全身の血流のバランスが変わったのを感じました。


肩コリで頭に集まっていた血液が、
急激な採血によって体のほうへ失われた分を補うように
首から下へと順調に流れていって、
結果として脳の血流が一気に変わった。

そして顔から血の気が引くように気を失う。

そんな感じだったんでしょうか。

周りに集まってきていた医師や看護師は
色々と説明をしたり気を遣ったりしてくれていましたが
何やら責められるのを恐れているような雰囲気でした。

クレームを恐れているような。

こちらの様子に合わせた対応とは言えません。
コミュニケーション能力の重要性を改めて感じます。

しきりにデータに異常がないことを強調していました。
「血圧も採血前と変わっていませんし…」などと。

しかしながら、数値的には正常範囲であっても
採血前より若干上昇しているとも言える値でした。

10%ぐらいの血液を取っているんですから
何も起きなければ少し血圧が下がる方向に進むはずです。

それが高い方向へ戻すように働いているのですから
生理的に血圧を高めるような制御が働いたということ。

あれだけ短時間であれば、自律神経系の応答でしょう。
ホルモンによる調整はもっと時間のスパンが長いでしょうから。

急激な調整が起こったんだと思います。


僕は何度かMRIを取ったことがあって、
そのたびに医師から色々な解釈を聞かされましたが
脳の血管に普通と違うところがあるようです。

脳幹へ行くはずのメインの血管が極端に細く、
別のバイパスを使っているだろう、と。

なので、意識障害を起こしやすいと注意をされたことがあります。

スッカリ忘れて「いたって健康です!」なんて献血をしましたが
この部分は意外と重要に関わっていたのかもしれません。

タバコで血管が収縮すると意識を失う可能性があるから、
他人の煙も含めてタバコは吸わないように、と指示されています。

その意味でも、下がった血圧を上げるためには
血管を収縮させることになりますから、
一緒に脳幹への血管が収縮したら意識障害になるのも
納得できる気がします。


いずれにせよ、僕の体の構造は、
急激な血流の変化に弱いところがありそうです。

整体で首を捻る動作も避けるように言われていましたし。

献血は向かないんでしょうかね。

かなり愛情タップリな血液だと思うんですけど。

2011年05月14日

財産の形

人は、一人だけでは生きていられないものですね。

普通に生活をしていれば、社会の関係性の中にいますし、
家族や親しい間柄となれば、お互いの影響は大きくなります。

相手に対して「何もしない」ということは不可能なんです。
一切の関わりを断つとしても、「関係性を失くす」ことをしてしまう。

逆に、何もしていないつもりで普通に関わっているだけでも
相手にとって大切なものが届いているかもしれません。

良い影響を与えることもあれば、
迷惑をかけることもあります。


価値観は人それぞれ違いますから、
自分にとって普通のことが、相手にとっては不快になることもある。

誰にも迷惑をかけないで生きるということは不可能でしょう。


であれば、
 大きく迷惑をかけられる人が、どれだけいるか
というのは、
最高の財産じゃないかと思うんです。

2011年05月13日

ベースが変わると見えるもの

英語においてもコミュニケーションのスタイルには
随分と個人差があるのを感じます。

それは好みだけでなく、能力というか
頭の使い方に関係するように思えます。

ですからネイティブでも、猛スピードで話し続ける人もいれば
ゆっくりと言葉を選ぶように(そう見える話し方で)話す人もいます。

ネイティブの英文を読んでも、単語の選び方を抜きにしたとして
文章の構造が分かりやすい人もいますし、難しい人もいる。

まぁ、僕の慣れの問題も大きいと思いますが。

ただ、発音や発話のスピードの問題でなく
すごく話が分かりやすい相手がいるんです。

この辺りの違いは面白いものだと思います。

日本語であれば、当たり前のように誰の話でも聞き取れますから
聞きやすい話し方というのを普段は意識しませんが、
言語能力が十分でない場合には、相手の話し方の違いが
自分の理解度に影響しているのをハッキリ自覚できます。


聞き取りのレベルでも、文章理解のレベルでも
僕にとってハードルの高い相手がいて、
そういう人との会話の練習は大きな意味がありそうです。

英語のトレーニングとして考えた場合、
自分が言いたいことを言えるように練習するのが
会話のトレーニングの主体になるものじゃないでしょうか。

なぜなら、聞き取りの部分は、会話じゃなくても練習できるので。
スピーキングが主体になるのは一般的だと思います。

僕にとって話を理解しやすい相手だと
僕のトレーニングへの意識は、自分のスピーキングに向きます。
自分が何を言うかを考えながら話を聞いたりする。

当然、理解度は落ちますが、トレーニングの主体が発話なので
それで構わないだろう、と判断してやっています。
英会話学校であれば、こちらが客なわけですし。

一方、それが良く話す相手であったり、
聞き取りや理解のハードルの高い相手であったりすると、
僕のトレーニングの主眼が変わっていきます。

といっても、リスニングが主体にはなりません。

質問と短いコメントがトレーニングの中心です。

一般的な日本語のコミュニケーションのトレーニングで
話の聞き方の練習をしますが、あれに近い感じです。

効果的な質問をして話の焦点を絞りながら会話を進める。
重要なポイントに絞って話を具体化する。
相手の価値観や考えを聞くために質問をする。

自分が勉強会やセミナーでトレーニングしている内容を
英会話を通じてやれる印象です。

これも役に立ちそうです。

英語でも効果的な「ねぎらい」やリフレーミングができたら…
と思いますが、それはまだ難しいですね。

非言語へのフィードバックは意識的にやっていますが。

まぁ、それだけで英会話学校の先生の
プロフェッショナル講師モードが変わっていって、
本音や個人的な想いが聞けるようになっていくのですから、
いかに技術として有効なのかが実感できます。


いずれは英語でもカウンセリングの練習をしたいと思います。

なかなか相手がいませんが…。

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《心を調える実践会》

【日時】 
  2017年12月23日(土)
  10:00〜16:30


【場所】 
  滝野川会館
  304集会室

   JR上中里駅より7分
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   南北線西ヶ原駅より7分

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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