2011年08月

2011年08月31日

「ものまね」の才能

最近、日本テレビ系列で「荒牧陽子」という
ものまねタレントが売り出されているようです。

幅広いレパートリーで、どれも良く似ている。
本人そっくりに聞こえるというのがウリなんでしょう。

たぶん検索すると、youtube とか、色々な動画が見られると思います。

僕は、この人に対して、他の「ものまねタレント」にはない特徴を感じます。
いや、厳密に言うと、他の「ものまねタレント」にあるものが無いんです。

他の人にはあるはずのものが無い、という特徴。

これが、この「荒牧陽子」という人を決定づけていると分析します。


テレビ番組で放送されるスタイルは、大体10人ぐらいのモノマネを
一気に連続して見せるというもの。

1つ1つ聞いていくと、どれも本人に良く似ていると感じられます。
しかし、続けて聞くと、全部がモノマネなんだと分かる。

多分、CDで本人の歌を10曲続けたのと並べると
モノマネとの違いは誰にでも分かると想像できます。

なのに、1つ1つは似ていると感じる。

逆にいえば、ここに特殊な才能が反映されいてるわけです。


通常、モノマネであれば、どんなに頑張って似せようとしても
100%同じになるということはないはずです。

そして、初めにやりやすいモノマネがあって、
それは元々少し似ている、というパターンです。

で、似ているかどうかを判別するのは、その個性ともなる特徴の部分。

本人の際立った声の特徴を捉え、そこを再現すると
聞いている人は「似ている」と判断するようになります。

ゲシュタルトとして同じ分類に入れられるためには
固有の特徴が抽出されている必要があります。

分かりやすい例でいえば、「目が2つ」あれば「顔」に分類される、と。
なので小さい丸が2つ並べば目があるように見えてくるけれど、
3つ並んでしまうと顔には見えなくなってくる。

最も際立った、典型的な特徴が同じであれば、同じ分類になるわけです。

ですから、「似ている」という場合には、本人の際立った特徴と
同じような特徴が含まれている必要があることになります。

しかし、最も際立った特徴だけだと、同じ分類にはなりますが
その中で違った部分もまた見えてきてしまいます。

例えば、犬を見れば「犬だ」と分かりますが、そのためには
犬に必要な典型的な特徴が全て含まれる必要があります。

そして「犬」の特徴がありながら、種類によって違う部分もある。
鼻が長かったり、耳が垂れていたりしても、「犬」には入るんです。

同様に、「アントニオ猪木」のモノマネをした場合、
「アントニオ猪木」の典型的な特徴が含まれていれば
少なくとも「アントニオ猪木」のマネをしているというのは分かる。

あとは、目立つ特徴を順番にチェックしていって
多くの項目において同じ分類とみなされるほど「似ている」となっていきます。

そして、「同じ」と分類されない要素が「似ていない」部分として
「違い」の形で認識され、それが「アントニオ猪木」本人と
「アントキノ猪木」や「春一番」を分ける要素になってくる。

つまり、大まかに共通するポイントをクリアできれば、
あとは細かい要素に、どれだけ共通点を出せるかが
モノマネのクオリティに関わってくる、と。


そして重要なのは、モノマネが似ているかどうかを判別する要素に
見ている/聞いている側によって個人差があるということです。

典型的な部分は、大体共通するでしょう。
しかし、より細かな特徴となってくると、
「重要な特徴」として分類に利用する基準が、人によって違ってくるんです。

見た目でいえば、目を重視する人と、鼻を重視する人、輪郭を重視する人…
などと注目する部分が違います。
それは声のマネでも同様です。

なので、モノマネをする本人が細かく似せようとした部分を
聞いている人が同様に重視するかというと、そうではない。

本当に高いレベルでモノマネを似せていこうとするためには、
徹底的に違う所を、ものまねタレント自身が「重要じゃない」と判断する
細かな要素まで徹底的に同じにしていかなければならないわけです。

そうじゃないと、人によって「似てる!でも、ここが違う」と感じてしまう。

素人からすると、特徴的な人ほどモノマネはしやすそうに思いますが、
こうして考えると、プロの人たちは、
「特徴的な有名人の特徴ではない部分」を丁寧にマネしなくてはいけない
という苦労も抱えているんだろうと想像できます。


そして、ここからが「荒牧陽子」さんの特徴の話になります。

似てるモノマネのためには、「典型的な特徴を似せる」という段階をクリアして、
あとは徹底的に細かい要素を近づける必要があるわけですが、
この段階でどうしても出てきてしまうのが、『自分の声』だと考えられます。

別の「ものまねタレント」コージー冨田さんが言っていたのは
「自分の声を消す」という表現でした。

人は原則的に際立った特徴を捉えていきます。
そこから分類をしていくわけです。

仮に、有名人の際立った声の特徴が10個あったとしたら、
その10個を上位から近づけていく。
それで上位10個の特徴が全て「同じ」分類として認識されるようになります。

すると、次に意識が向くのは、
あまり際立ってはいない11番目の特徴ではなく、
ものまねタレント側の声の特徴のほうです。

正確には、別に「同じ」分類になるかどうかの特徴が優先されるのではなく
大きく異なるところを中心に捉えることで区別しようとしていきますから、
「違い」を決定づけるような特徴が目立ってくるのが自然なんです。

ただし、ものまねタレントの場合、比較の対象となるのが有名人本人ですから
そちらの特徴が優先されてチェックされていくと考えられます。

なので、本人の特徴と「同じ」かどうかが、まず重要になる。

本人が「持っている」はずの特徴があるかどうかが先にチェックされ、
そこが多くクリアされてくると、本人に「無い」はずの特徴が気になり始める。

本人にとって特徴的ではないはずの細かい要素ですから
マネする側としては意識的にマネしにくい部分のはずです。

にもかかわらず、聞いている側からすると
本人には無いはずの特徴が出てしまっていれば、
そこは「似ていない」部分として意識されてしまうことになります。

そこに表れやすい特徴こそが、ものまねタレント自身の「自分の声」なんです。

「自分の声」に特徴があるほど、クオリティの高いモノマネをする上では
大きなハンディキャップになっていく、ということです。

僕の見立てでは、「荒牧陽子」さんという新人のものまねタレントは
彼女自身の声に特徴が非常に少ないんだと思います。

個性がない声をしている。
全ての人に共通するような声の要素だけで、個人の声になっている。
そういう特徴があるんでしょう。

白身魚に喩えると、生のタコみたいなものです。
白身魚全てに共通する根底の味みたいなものが生タコにはあって、
他の白身の味は、その生タコの味に、他の要素が上乗せされるように
それぞれの特徴が表現されている。
(『美味しんぼ』に書いてありました)

多くの女性歌手に共通する成分だけで声が成り立っているから、
あとは、それぞれの有名人の特徴を似せていけばいい。

「自分の声」を消す努力が少なくて済む、という才能なんじゃないでしょうか。

良く聞くと、どのモノマネも本人と少し違うのは当然です。
ただ、その違いが良く分からないんです。
なんか「足りない」気はしますが、何が違うかが分からない。

それだけ、本人にとって重要度の低い特徴にだけ違いがある。
それだけ、重要な特徴は似せることができている。

ただ、ここまでの似せる作業を他の人がやった場合、
どうしても、ものまねタレントの「自分の声」の影響が目立ってきて、
そこが「似てない」ところとして気づかれてしまうことになるでしょう。

それがないから
「チョット違う気もするけど、本人ソックリ」
「誰をやっても似ているけど、ものまねだというのは分かってしまう」
「ソックリなんだけど、少し足りない気がする」
という印象になるんだと考えられます。

これは、ものまねタレントとしては凄い才能だと思います。
歌手としてやっていくには、個性が無くて不利なのかもしれませんが、
モノマネをするには「特徴が無い」という特徴は最高でしょう。


もう1つ挙げるとすると、
「まだ有名ではない」
というのが重要です。

有名になると、タレント「荒牧陽子」としての露出が増えます。
モノマネをしていない状態の情報が提供され始めます。

すると「荒牧陽子」自身の声というものに対して
視聴者が特徴を掴み始めていってしまいます。

これが出来てくると、どのモノマネを聞いても
「自分の声」を見つけやすくなってしまうリスクが高まるわけです。

おそらく、このプロセスは、ものまねタレントであれば
ほぼ全ての人が経験しているものじゃないでしょうか。

デビュー当時は「似ている」ように誰もが受け取ってくれるんです。
「自分の声」が入っていることに意識が向きにくいからです。

それが、売れてテレビへの露出が増えてくると
モノマネじゃない状態の声を沢山聞けるようになってしまい、
結果的にモノマネが「似ていない」ような評価を増やしてしまう。

質は下がっていないんだと思います。
ただ、視聴者の見る目が上がってしまい、
「似ていない」部分を見つけやすくなってしまうんです。

ジレンマでしょうね。
売れるほど、強みであったモノマネにとっては不利になる。

多くの人気のある「ものまねタレント」は、
もはや「ものまねタレント」としてはテレビに出ていない気がします。

あくまで一芸人として出演し、そこでモノマネを披露する。
モノマネ以外の要素でもテレビに出られるだけの何かが必要なようです。

大変な世界ですね。

2011年08月29日

世界の言語

ある言語学者が講演をしている動画を見ました。

なんでも、独立した言語は全世界で7000〜8000ぐらいあるそうです。

ところが、その大部分は狭い範囲に固まっている。

その分布図を見ると、地域的には、アフリカ、南米、東南アジアに多く、
赤道近くと山脈沿いなどの高地に集中しているようでした。

特に集中しているのがパプアニューギニアの島。
そこでは1つの島に1000もの言語が存在しているそうです。

4,500メートルも歩けば別の言語になるほどだとか。


その言語学者によると、そもそも言語の発生には
人類の祖先が持っていた「見て盗む」という模倣能力が関係していて、
これがあったから人類は他の動物と異なった発展をしたといいます。

チンパンジーは頭が良いと言いながら、使う道具に進歩がないのは
1頭の発案した技術を盗むスピードが遅いから、という考え方です。

人類の祖先は、その模倣の力が高かった、と。
だから加速度的に高度な技術を身につけていくことができた反面、
ある個体が見出した技術も、簡単に盗まれてしまうデメリットもあった。

自分の子孫を残していくためには、効果的な技術は
子孫や共同生活をする集落の中で限定しておいたほうが
都合が良かっただろう、というのが人類学的な考えだそうです。

そのためには、効率的に生存していける規模の集団の中で、
その中でだけ通用する特殊な情報伝達の手段を用意して、
偶然遭遇した別の集団には技術を盗まれないようにした、と。

まぁ、どれだけ目的をもって言語を生み出したかは別にして、
他の集団には理解できない方法で情報伝達を行い
有効な技術や情報を共有していた集落が生存競争を生き残った、
と考えるのは妥当だとは思います。

その名残があって、今でも個別の集落同士の交流が少ないような
限定された環境で暮らす集落では、特殊な言語が使われている
…というのが、言語分布が局在する根拠だという話でした。


この前提では、情報を共有するのは相互のメリットによるもので、
個別の集団だけの利益を考えるのであれば、むしろ
言語の壁は独自の知恵を守るためには有利に働くことになります。

しかし現代社会は、その言葉の壁を越えて、世界各国での交流が進んでいる。
つまり、情報を共有して世界全体としての利益を追求しようとしている、と。

その方向性においては、言語の壁はデメリットになり始めている、
というのが講演者の説明でした。

実際、EUにおいては、27ヶ国で23の言語が使われています。
そして会議のために、年間で10億ユーロの通訳費がかかっているそうです。

だからこそ、言語を1つにして、1つの世界にする。
それがこれからの方向性だ。
…そんな講演内容だったんです。


たしかに、言語の壁は大きいと思います。
そして、各言語には、背景となる文化もある。

その言語が重要に扱っている情報は、その文化において重要なわけです。

僕個人としては、そこで全ての言語を1つに統一するのは
もったいない気がします。

それぞれの地域で、それぞれの文化と歴史があって、
独自の思想と価値観を育んでくる。

そこには、地域ごと、言語ごとに、対極的なものさえあるでしょう。

例えば、欧米的な幸福の求め方として
目標を設定して、それを「手に入れる」達成感を重視する方向性があります。

その一方で、東洋的(日本的かもしれませんが)な方向性として
今ここにある幸せを味わう、というものもある。

優劣をつける必要もないでしょう。
むしろ、両方があるからこそ、それを統合した立場に進めるはずです。

それぞれの背景を生み出してきた過程には、
言語との関係もあるかもしれません。

様々な背景をもった人たちが関われるからこそ生まれる
新たな考えだってあるような気がします。

自分の言語、自分の文化をもった上で、
別の言語、別の文化を学ぶ。

それで比較できることもあると思います。

「真ん中」と「両方とも」は違うんです。

統合は「真ん中」を目指すことではありません。
相反するものも、「両方とも」なんです。

「両方とも」を成し遂げるには、
最初から「真ん中」にいたのでは難しいのではないでしょうか。

まずは最初に偏ったものを身につける。
それから、反対のものを受け入れる。

そのためには、言語においても全てが統一される必要はないかもしれません。
母語で培ったものを背景に、共通語を身につけていく。

その意味では、英語圏に生まれるというのは便利な反面、
 共通語を学ぶプロセスで得られる財産を期待できない
というデメリットも含んでいると言えそうです。

僕は、日本人として別言語に取り組みたいと思います。

2011年08月27日

コミュニケーション能力の中核

最近は、「コミュニケーション能力が大切だ」という話を良く目にします。

コミュニケーションの手法にも色々な流派がありますし、
コミュニケーションをテーマにしたセミナーも沢山あるようです。

「コミュニケーション能力」というものが曖昧なので
具体的に何が求められているのかを語るのは難しいですから、
コミュニケーションのセミナーをやれば、受講生が期待してくることと
実際に扱われる内容との間にギャップがあるのも仕方ない気がします。

とはいえ、曖昧な「コミュニケーション能力」というものの中でも
「正しい」とされる方法を表面的に使えるようにするのではなく、
あらゆるコミュニケーションの場面で効果を発揮する能力もあるはずです。

それを能力として訓練しようとしているセミナーは
僕自身もしたことがありませんし、わざわざ扱う人もいないんじゃないでしょうか。

僕は、「その能力」の重要性を、より一般化した形でトレーニングの題材として
扱うことは良くありますし、実際に自分でも中核となるぐらい重要だと感じています。


それは話の聞き方や、メタモデルやリフレーミングといった技術ではありません。
共感能力とか気づく力といった抽象的なものでもありません。

「コミュニケーション能力」として非常に重要な能力。
自然とコミュニケーションが上手い人が身につけてきた能力。

それは
 『他人の不快感を読み取る力』
です。

人は、本当に些細な筋肉の変化に、不快感を表現します。
わかりやすく露骨な不快感に気づけるのは必須として、
いかに微妙な表情や姿勢、仕草などの変化に表れた不快感を
敏感にキャッチしていくことができるかが、能力だということです。

この能力は、観察力の一部には含まれると言えそうですから
観察力のトレーニングを積んでいけば自然と向上していくと考えられますが、
他の感情に気づく観察力以上に、不快感に対する感受性は重要です。

なぜなら、不快感だけは全てのコミュニケーションの最中に
表現される可能性があるからです。

そして、かすかに表現される不快感は、大きな不満の感情へ届くよりも
先行する形で出てくるものでもあります。


かすかな不快感が表現されていることに気づき、
その瞬間に自分の対応を変えていくことができれば、
あらゆるコミュニケーションでの致命的なミスを避けられます。

誰かが作った理論や有名な技術を忠実にこなせることよりも、
相手の不快感に気づいて、自分の対応を変えていけるほうが有効でしょう。

理論や技術が当てはまらない例外のような場面は存在しますが、
相手が不快に思うことを避けていれば、その例外にすら対処できます。

多くのミス・コミュニケーションは、ミスに気づくタイミングが遅いんです。
「上手くいかなかった」と判断するタイミングが遅いんです。

営業で契約を取れなかったときも、
思わぬ会話から関係性が崩れてしまったときも、
相談に乗っていたつもりが話を混乱させてしまったときも、
最終的にダメになったときに「ミス」の判断をすることが多い気がします。

その段階まで進んでしまう前に、一番最初の不快感の時点から
自分の対応を変えるように対処していったとしたら
そこまで大きなミスにはならなかったかもしれません。

少なくとも、小さな不快感に対処するように工夫を続けていれば
少しずつ相手を不快にさせない方法が身についてくるんじゃないでしょうか。


もちろん、世の中で「コミュニケーション能力が高い」と言われる人の中には
些細な不快感には目も向けず、相手に喜んでもらうことを優先する人もいます。

本当に相手に喜んでもらえれば、些細なミスは帳消しにできるかもしれません。

ただ、僕の見立てですが、、そういう「喜んでもらう」派の人には
多数の大ファンが集まってくるとしても、その割合は100%ではないはずです。

その人の「喜んでもらう」ための方法がピッタリと当てはまって
その人の大ファンになる人が、ある一定の割合で存在しているのでしょう。

そして、ファンにならない人のことは深く考えない。

ファンにならなった人たちは、その人のコミュニケーションに対して
不快感を表現していたかもしれません。

しかし、ビジネス的に考えれば、全員に嫌われないことよりも、
相性の良い人たちを対象にしてファンになってもらったほうが上手くいく。

このような「喜んでもらう能力」、「ファンを作る能力」は大切だと思いますが、
僕は、それを「コミュニケーション能力」とイコールだとは考えていません。

コミュニケーションが苦手でもファンになってもらうことはできるわけですし、
「喜んでもらう能力」の高い人が、『不快感を読み取る能力』を追加すれば
さらに多くの人に喜んでもらえる可能性だってあるのですから。

野球に喩えると、「喜んでもらう能力」は、ボールを遠くに飛ばす能力。
『不快感を読み取る能力』は、ボールをバットに当てる能力。

当たればホームランでも、空振りばかりでは話になりませんが、
とりあえず絶対に空振りをしないのであれば、
ヒットやフォアボールの確率はゼロではありません。


不快感を読み取るのは、マンツーマンの対話だけではありません。
大勢を相手にコミュニケーションを取る場面でも、
文章だけでコミュニケーションを取る場面でも、
注意深く読み取ることが大切ではないでしょうか。

「コミュニケーション能力が大切」だと言っていたとしても、
本当に高度なコミュニケーションの技術が求められる場面は限られます。

世間一般で「コミュニケーションが大切」と言っているのは、
それだけコミュニケーションが問題になることがあるとも捉えられるでしょう。

その意味でいうと、求められているのは、
 コミュニケーションで大失態をやらかさないこと
なのかもしれません。

2011年08月25日

図書館の進歩

久しぶりに国会図書館に行きました。
10年ぶりぐらいかもしれません。

10年前もパソコンは普及していて、本をネットで探せていたと思います。
当時の僕の国会図書館の利用は学術論文の入手でしたが、
それだってインターネットで検索するのは当然の時期でした。

ちょうど、いくつかの出版社が論文を電子ジャーナルとして
ネット上で閲覧できるようにし始めていた頃だった気がします。

しかし、古い論文になると、なかなかどこにも置いていない。
それで国会図書館を当たるというのが流れだったんです。


パソコンが普及してきているとはいえ、国会図書館の規模だと
膨大な本の量をコンピューター管理には移行しきれていなかったんでしょう。

検索するための情報をまとめた本が沢山並んでいて
それを使って探している論文のページ数を見つける。

それから決まった用紙に記入をして貸出カウンターや複写カウンターに出すと
しばらく時間をおいて渡してくれるような流れだった記憶があります。

ですから、国会図書館という名前の通り、本棚は沢山あったと思いますし、
図書館特有の古い紙の匂いが漂っていたのを覚えています。


ところが、久しぶりに行ってみた内部は随分と様変わりしていました。

置かれているのは広いスペースに沢山のテーブル。
閲覧用のテーブルと、検索用のパソコンが置かれたテーブルです。

入館の仕組みも変わっていて、入館証を発行するために
個人情報を入力するとSUICAみたいなカードが出てきます。

どうやら毎回発行とリセットを繰り返している模様。
新たに個人情報が記録されたカードをかざして自動改札をくぐる。

中には行った後も、基本的にそのカードを利用するんです。

検索用のパソコンを使うときに、そのカードを置く場所がありました。
そこに置くとパソコンが立ちあがり、自動的にIDが認証される仕組み。

そして検索をして、貸出やコピーなどの依頼をパソコン上ですると
そのカードのIDと一緒にデータ転送されるみたいです。

あとは、カウンターにカードを提出すると
事前に送ってあった情報が引き出されるようでした。

管理やサービスのほとんどを、そのカードで行う仕組みというわけです。


となると、図書館という名前にもかかわらず
本に直接触れるタイミングが非常に少ないことになります。

貸出の場合は本を受け取りますが、それとて一度に3冊まで。

それどころか、多くの書籍がPDFのデータとして保存されていて、
検索用のパソコンから本を借りずに見ることもできてしまいます。

当然、コピーはパソコンからデータ転送して印刷してもらうだけ。
読みたい本には一切手を触れることなく、
欲しい部分をコピーしてもらうことができるんです。

学術論文にしても、出版社が発行する段階から利用登録者には
ネット閲覧が可能になっているものが大半になっていますし、
そうでないものも国会図書館ではデータ取り込みしてPDF化しています。

ここでも本に触れることはありません。
コピーを用意する図書館職員の人も本に触れなくなってきているはずです。

なので、図書館にも関わらず、本を目にすることが少ないんです。
なんだか奇妙な感じがしました。

館内は高い天井で作られているのに本棚さえ目に入りません。
ごく一部の便覧や資料集が奥の部屋の棚にあるぐらい。

広いスペースにはテーブルとパソコンぐらいしか見えませんから
非常に遠くまで見渡せるわけです。

本棚が沢山並んだ、いわゆる図書館のイメージは皆無です。


利用者にとっても便利になっていると思いますし、
本を保存する上でもメリットが大きいんでしょう。
一度データを取り込めば、あとは本を保存しておけますから。

古い貴重な資料を直接借りることもできるとは思いますが、
それをする人は少数派に見えました。
多分、貴重なものはデータだけということもあると想像します。
欲しいところを調べて印刷する、と。

PDFはカラーですから、昔の絵本や雑誌などもカラーで出力できます。

確かに綺麗だと思います。
持って帰れますし、パソコンの前に座っているだけで良い。
パソコン操作が終わったら、座って待っていれば呼んでもらえます。

便利だと思います。

昨今は、新聞も本も、電子媒体で読めるようになっていますから
まぁ、時代の流れに沿ったことなんでしょう。

ただ、少し寂しい感じもしました。

重たいハードカバーの本を抱えて、目当てのページを探してめくる。
あのときの紙の手触りや匂い、ページをめくる音。
探しているうちに、何かが偶然、目に留まって読みたくなる…
そんなことが全くないんです。

古い貴重な資料には、そのものが持つ歴史の風合いもあるでしょう。
それはパソコンの画面からは受け取れない。

永遠に増え続けていく本を紙媒体で保管していくのは
労力を増やし続ける行為だとは思います。
沢山の無駄が省ける。

しかし、それは同時にアナログの魅力も省いてしまうと感じました。

多分、僕は本が沢山ならなんでいる景色が好きなんです。
本は情報だけで出来ているわけじゃないんですね。


2011年08月22日

9月の実践トレーニング

 8月27日の勉強会も募集中です。


9月も実践トレーニングと勉強会の両方を開催します。
まずは実践トレーニングのほうのご案内です。

9月10日(土)の午後と夜間の二部に分けて行います。
同じ内容ではありませんが、8月の勉強会のテーマを踏まえたものにはなります。

『フィードバックの技術』と関係した内容です。

8月の実践トレーニングでは明確なテーマを設定していましたが、
通常の実践トレーニングは、テーマを広く設定して実習に時間を割きます。

ご参加の方に応じたトレーニングを行うことになりますので、
ご自身で意識的に取り組みたいことがあれば、それを扱うことも可能です。

その意味で、今回は『フィードバック』ということを前提に
それに結び付く技術的要素を訓練していくのが趣旨になります。


8月の勉強会の告知でも書きましたが、トレーニングで重視したいのは
「個性を理解し、感情を捉え、必要な言葉をかける」ということです。

〜蠎蠅どういう人柄で、どんな個性の持ち主かを把握した上で、
△修了点の感情の中から重要なものを感じ取り、
A蠎蠅求めている一言をかける。

コーチングでもセラピーでもカウンセリングでも教育指導でも日常会話でも
土台になるのは、この3つの流れでしょう。

質問をしたり、説明をしたり、専門的な援助をしたりするのは、その後です。

質問によってポイントを整理していったり、考えをまとめたりするのは
別の技術として分けて学んだほうが効率的ではありますが、
逆に、話題の焦点を絞っていく作業を効果的に進めるための秘訣も
この3つの流れの中にあるんです。

多くの人が、相手の話を理解しようとします。
相手の話を自分が整理しようとします。
相手の困っていることに対して手助けをしようとします。

上手く行くときもあります。
相手が明確な目標を設定しているときには有効でしょう。

しかし、「まだ整理できていない」というときには
「まだ整理したくない」気持ちが残っている可能性を考える必要があります。

早いんです。

聞く側が整理しようと頑張っても、
話す側が「まだ整理したくない」気持ちを内側に潜めていたら、
理解しよう・整理しようとする質問が空回りします。

話す側は意識的には頑張って整理しようとしているかもしれません。
ですが、内心ではまだその話には進みたくない。
質問されたことには答えるけれど、整理しようとして答えてはいないので
どんなに会話が進んでも話はまとまりません。

聞く側が話を整理したところで、話す側が整理できていなければ意味がない。
逆に、聞く側が何も理解できていなくても、
話している本人さえ納得できていればいいんです。

ほとんどの場合、話が上手く整理できた、とか
相手が大きな気づきを得てくれた、とかいったときには
相手自身がその作業の大半をやっているものです。
少なくとも共同作業にはなっています。

その相手自身の力を引き出すために、大切な感情を捉えて
適切なこ言葉で力づけをしていく必要があるわけです。
その力を引き出せれば、相手が自分で話を整理する準備ができるんです。

上に挙げた3つの要素を無視して質問したり整理しようとしたりするのは、
地面に座り込んでいる人の手を引っ張って前に進めようとするようなものです。

座っている人を引きずって前に移動させるのではなく、
まずは立ち上がってもらう。
前に進み始めるのは、歩ける姿勢になってからです。

歩き始めたら、あとは隣を一緒に歩いていけばいい。
そこに力はいりません。

立ち上がるまでが大変なんです。

困っている人にとって一番助けになるのは
立ち上がるための手助けをしてもらうことじゃないでしょうか。

「関わった以上、相手のために役に立ちたい」という気持ちがあるのは
素晴らしいことだと思います。

解決することや整理することが「役に立った」かどうかの基準にせず、
相手に力づけをすることができたかどうかを基準にするのも良い気がします。


そのために必要な技術の要素は
◆『観察』
◆『ペーシング』
◆『言葉選び』

です。

今回の実践トレーニングでは『フィードバック』の仕方を想定しながら
この3つの技術を訓練していこうというコンセプトになります。

客観的に意見を伝えるフィードバックであっても
3つが全て必要になるというのは、意外と興味深いものじゃないでしょうか。

今回は特に『フィードバック』を中心にしますから
相互の気づきを多く得られるものと期待しています。

人に何かを伝えるときの言葉選びにも意識が向くようになるはずです。


『フィードバック』をするには観察して、自らが気づける必要があります。
気づけなかったことは伝えられませんから。

つまり、『フィードバック』のトレーニングは、
気づきの力を上げるトレーニングでもあるわけです。

おそらく、細かい違いに目を向けていくことになります。
「違いをもたらす違い」どころではありません。
「『違いをもたらす違い』をもたらす違い」にも気づけるかと思います。

ご都合が合いましたら、練習にお越しください。

午後と夜間と2つに分割します。
いずれかでも、両方でもご参加いただけます。

実習の相手が変われば、得られるものも変わってきますから
両方ご参加いただくと学びは一層大きくなると思います。


 <ご参加に際しての注意事項>

 ※実習が中心となりますので資料の予定はありません。
  過去の資料をお持ちの方は、ご持参いただけると参考になるかもしれません。
 
 ※前月分に参加されていない方には、その資料をお渡しすることが可能です。
  ご希望される場合には「ご意見など」の欄に、その旨をご記入ください。
 


詳細は以下のとおりです。




【勉強会の詳細】


【日時】 延期とさせていただきます

       ※決定次第、再度ご案内いたします。
        ご予定を調整中の方にはご迷惑をおかけします。
        申し訳ございません。


       ※終了時間は多少前後する場合があります。
      
      ☆「午後」、「夜間」、「両方」をお選び下さい。


【場所】 滝野川会館 304集会室
    (JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
    (JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)
    (東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)


【参加費】 ◆どちらか一方のご参加の場合 …5,000 円
       ◆両方ご参加の場合 …7,000円

      (当日、会場にてお支払いください。)
        ※会場費によって変動しています。ご了承ください。


【テーマ】 『フィードバック力』を高めるトレーニング


 *実習を優先しますので、学びの密度を考えて、
  一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
  ご了承ください。




参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)


  ※調整中です。

『優しさ』というと「相手に何かをしてあげる」ことや
「相手に喜んでもらう」こととして捉えられがちなのかもしれません。

しかし、『優しさ』の中には、「何かをしない」優しさもあるはずです。

相手を傷つけない。
相手に負担をかけない。
相手を不快にしない…。

喜んでもらうための『優しさ』は、相手に気づいてもらうことが前提です。
しかし、不快にしないための『優しさ』は、相手に気づかれません。

喜んでもらえれば自分も嬉しい。
その意味では、不快にしない『優しさ』には見返りがないわけです。

ただ、相手がどう感じるかだけを考えた気配り。
相手を傷つけるようなミスを徹底的に避ける気配り。

野球でいえば、守備でエラーをしないということです。
ヒットやホームランを打つことほど目立ちません。

ゴルフでいえば、1mのパット。
サッカーでいえばPKでしょうか。

ビジネスでいえば、商品開発ではなくて品質管理のほうです。

ミスがないのが当然なんです。
ないときには気づかれないんです。

その重要さにさえ気づいてもらいにくいかもしれません。

コミュニケーションにも、そういう気配りがあるという話です。

「言葉を選ぶ」技術の中には、「何かをしない優しさ」が含まれます。
それには際限がありません。

いつもいつも相手のために気を遣う。
そのための技術を絶えず磨き続ける。

自分には優しくはないかもしれません。
プロとしてやるからできることかもしれません。

ですが、そこを目指そうとするかどうかも『優しさ』じゃないかと思うんです。

2011年08月20日

いつもの

これまで生きてきて、一度も「いつものやつ」という注文をしたことがありません。

今後もするつもりは無かったんですが、今、僕には
注文が「はい」と返事するだけで済む飲食店があります。

何も特別なサービスがウリの高級店とか、個人経営の小さな店とか
そういう客と店員が密な関係を作る店舗ではありません。
いたって普通のチェーン店です。

そこの店に行くとき、僕はいつも同じものを頼んでいました。
今でも行くときは決まって同じものを注文します。
目的があって行く感じなんです。

通い始めてどれぐらいだったかは覚えていません。

ある日、若い男性店員が席に着いた僕を見て、水のグラスと一緒に
「〜でよろしいですか?」と聞いてきたんです。
(一応、商品名は伏せておきます)

予想もしていなかったので、単純に何かの勘違いだろうと思いました。
他の誰かと間違えて注文を確認したつもりだったのかなぁ、と。

まぁ、勘違いであったとしても、偶然、僕の頼むつもりだったものでしたから
そのまま「はい、お願いします」と言って済ませてしまったんです。


その次に行ったときには別の店員が対応してくれましたが、
なんのことは無く、普通にメニューを渡されて、注文を聞くスタイル。

ところが、しばらくして再びその男性店員がいたときには、
やっぱり「〜ですか?」と尋ねてくる。

どうやら、その人だけが僕が同じものを頼むことを記憶しているようです。

どれぐらいの時点で覚えられたのかは定かではありませんが、
いつもいる店員ではないので、それほどの回数ではないと思います。

確かに、その店員は全体的に良く気を配って接客や調理をしていますし、
穏やかそうな雰囲気で丁寧な動作をしています。

そういう人柄だから覚えてくれたのかもしれません。


ただ、他の人には普通に尋ねるんです…。

その店にとっては、僕の来店頻度が平均よりもよほど高かったのか、
あまりにも同じものを頼むので印象に残ったのか。

多少、気になったり恥ずかしかったりするところはありますが
今では、ありがたく「いつものヤツを」の気分を味わっています。

2011年08月18日

原因と理由と理論

何か問題があったとき、「原因志向」と「解決志向」が
対極のように説明されることが多いようです。

原因志向というのは、問題が『起きた』原因を探って
その原因を取り除くことで問題を解決しよう、という方向性でしょうか。

それに対して解決志向では、どうして問題が起きているかは抜きにして、
解決するためにはどうしたらいいか、どうやったら楽になるか、
ということを探っていきます。


解決志向は実利的に非常に有効だと思います。
困ったことがあったときに、それがどうしたら楽になるかを考える。
原則としてシンプルな発想で取り組めます。

特に易しい考え方としては、「どういうときに上手くいっていたか」
「どういうときには、ひどくならないか」を探って、
それをやってみる、という流れです。

例えば、ついつい甘いものを食べてしまうのが悩みだったとします。
その場合、甘いものを食べないで済んだのは、どんなときだったかを
自分の経験から思い出してみるわけです。

仮に、友人と長電話をした日には、食べるのを忘れてしまったとしたら、
意識的にそれをやってみて、どうなるかを調べてみます。
それで、同じように甘いものを食べずに済んだのなら続ける、と。

この「解決志向」のやり方は、悩みや問題が明確で、
「それさえ解決できれば他のことは大丈夫」とか
「何よりも、この問題を解決しないことにはどうにもならない」など、
1つの問題に意識が強く向いているときに、特に有効です。

なぜなら、どんなやり方であっても、
その問題が解決するように進めていくからです。

しかし、逆に考えれば、その問題が解決したところで、
生きていれば他に困ったことが起きるのは当然。

甘いものを食べるのをやめるために長電話をして
電話代や友人関係が悩みの種になる可能性はあるわけです。

もしかすると、長電話以外の簡単な方法で、
甘いものを食べる習慣が変えられて、食べたくなくなるかもしれない。

その方法が上手く見つかる場合もありますが、
とにかく解決だけを目指していくと、ベストな手段を見つけるまでには
かなりの時間がかかることが想像できます。

まぁ、生きていれば時期によって、環境によって
色々なことが降りかかってきますし、生活そのものも変わってきますから、
「そのときに困っていることを解決する」というスタンスであっても
十分に有効だとは思います。


一方、原因志向の場合、「問題が起きた原因を追究する」ことから
最終的に原因を解消して、問題解決に繋げようとします。

ここで難しいのが、「原因」とは何かが曖昧なところです。

原因なんて1つに絞れるわけがない。
個人の問題だって、社会的な問題だって、地球規模の問題だって、
何が原因か?と答えを1つに決めるのは不可能でしょう。

問題には色々な要素が絡み合っているわけです。

ただ、原因志向といったときには
「問題が生まれるキッカケとなった一番最初の出来事」
を原因として捉える場合もあるようです。

過去にさかのぼって、一番の発端を原因とする。
因果の関係を直線的に考えるとしたら、原因は過去にあることになります。

個人の問題を考えるときには、人生をさかのぼっていくことで
問題が生まれるキッカケとなった時点が明確になりそうな印象があるんでしょう。

カウンセリングやセラピーの場合には、個人の問題を取り扱いますから、
「あのときに受けた心の傷が…」、「あのときに満たされなかった感情が…」
などと過去と結び付けて原因を解釈することがあります。

それは当たり前でもあるんです。

因果が直線的に繋がっている、つまり
「あれがあったから、こうなった。だから、その結果こうなった。それが原因で…」
と、「原因があって結果があり、その結果が原因となって次の結果が起きる」
という具合に考えていけば、原因はどこまでも戻っていけます。

個人の人生で原因を探って因果の連鎖を辿っていけば
過去の出来事に繋がっていくのは自然な解釈でしょう。

しかし、なんでもかんでも過去の体験に原因を見出すのが良いのかと
違和感を抱く人が出てきたり、
ある種のやり方で記憶から原因を探っていくと、記憶の曖昧さから
実際には無かったトラウマの記憶が原因となってしまったり、
原因に目を向ける発想そのものが疑われてきたようです。

その結果、解決志向と対比されるような形で、
「原因を探っても意味がない」とまで極論に進む人まで出てくるようになる。


ここには、「原因」という言葉の持つ意味が関係すると考えられます。
「原因」は「理由」と近い意味だと捉えられるはずです。

「ああなっているから、こうなる」という形は理由を説明しているときにも
原因を説明している時にも使われます。

「原因」というほうがネガティブな印象がある気がしますから、
「問題が起きてしまった理由」=「原因」といったところでしょうか。

「理由」には良し悪しは無いと思います。

例えば、最近流行りの太陽光発電を考えたとき、
ソーラーパネルが光を受けて発電できるのには理由があります。
しかし、それを原因とは言わない。

なので、「理由」を考えたり、「理由」を説明したりするのは
普通に行われている行為で悪いことではなく、むしろ
理由を知ることで更に改良していける可能性も秘めているはずです。

つまり、「理由」を説明するためには、「理論」が必要なわけです。

ところが個人の問題を考えるときに、
「原因を探っても意味がない」と主張する人の中には
「理由」を考えることさえ「原因志向」のように捉える人がいるようです。

確かに「解決志向」は一切の理由を考えません。
何が起きて問題が解決されたのかは関係ないんです。
問題を解決することだけを志向する。

この場合、先にも触れましたが、
ベストな解決策が得られるとは限りません。

しかし、ここで、ある「理論」に当てはめて問題を解釈し、
その理論において問題が起こる「理由」を説明することができれば、
理論にのっとってベストな解決策へ導ける可能性があります。

例えば、甘いものを食べてしまうという問題であれば、
その問題を1つの理論で説明する。

ここで「全ての行動には肯定的意図がある」という理論を使うと、
甘いものを食べることで得られているメリットがあると考えるわけです。
「心の奥底で求めていることがあり、
それを満たすために甘いものを食べている」と理由づけをする。

その求めているものが「自己承認」だったとしたら、
承認してもらえるような機会を増やすことで
甘いものを食べたい気持ちが減っていくだろう、と解決策へ導きます。

この理論では、「友人と長電話をした日には食べたくならなかった」
という結果に対しても、「電話で承認の気持ちが満たされたから」と
理由を説明できるようになります。

甘いものでも電話でも満たされる承認が必要なのであれば、
最も本人の生活にとって望ましい手段で、それを満たせばいい。

つまり、理論や理由があるほうが、解決だけを志向するよりも
望ましい結果が得られる場合もある、ということです。

理由を考えることには、大きな利点があるわけです。
これを「原因志向」と一緒にするのは危険じゃないでしょうか。


カウンセリングやセラピーの分野で「原因」と言った場合、
「過去の記憶の中にある心に傷を負った体験」を指すことが多いようです。

僕自身の好みとしていえば、なんでもかんでも過去に結び付けるのは
あまり好きではありません。
過去の大切な部分まで同時に問題視してしまう可能性がありますから。

それに、問題の因果を辿っていけば、究極的には
「自分が生まれてきたこと」が全ての問題に共通する原因になってしまう。
それは残念に感じます。

そして本来、意識しておいたほうがいいだろうと思うのは、
「過去の心の傷が原因」という発想は、「原因志向」と呼ばれるべきものでなく、
数多い問題の理由を説明するための「理論」の1つに過ぎない、

ということです。

1つの問題には様々な要素が関係していますから、
色々な角度で理由を説明することができるものです。

甘いものを食べ過ぎてしまうのだって、その理由を
・幼少期に好きなお菓子を我慢して抑圧していた欲求が出てくる
・仕事でストレスを受けると好きなことをして発散したくなる
・疲れて血糖値が下がり、甘いものが食べたくなる
・甘いものを食べることで満たされない価値観を満たしている(肯定的意図)
・甘いものを食べて得られた快の情動が、視覚情報と結び付いている
…などと、様々な理論で説明ができます。

過去の体験と結び付けるのは、数多い理由の解釈のうちの1つなんです。

別の例を挙げれば、肩コリだって、
ストレスで解釈することもできるし、姿勢で説明もできるし、
筋力や柔軟性でも、歯並びや噛みあわせでも説明できる。
運動不足による血行不良で説明もできれば、
食生活の影響で老廃物が滞っているという人もいます。
意識の向け方とも、緊張しやすい性格のためとも説明でき、
それぞれを過去の成育歴と関係づけることもできるでしょう。

1つの問題を、どのような理論で解釈して、どのような解決策を導くか。
これは、専門性によるところが一番大きいでしょう。
専門家が自分の専門分野の理論で解釈して、専門分野の解決策を提供する。

どの観点から問題を捉えても、解決に繋げることは可能でしょう。
ただ、どの解決策が最も効果的かという判断は難しいはずです。

様々な理論で説明ができるようになっている人が
あらゆる角度から問題を解釈して、最も効果的なポイントを見つける。
それには、膨大な知識量と判断力が必要です。

理想は、相手にとって最も効果的なポイントを見つけて対処することでしょう。

しかし、あらゆることを知っているというのは現実的ではないので
専門性の範囲でベストな方法を探すことになる。

複数の専門性があれば、その着眼点や対処の幅が広がるため
より効果的な援助が可能になると考えられます。

その意味でいうと、カウンセリングやセラピーにおける
「原因志向」と呼ばれる発想は、1つの理論に過ぎないということです。

カウンセリングやセラピーということ自体が狭い専門性の範囲です。
心の問題という観点でしか見ていない。

その狭い専門性の中で、更に専門性を絞って
「過去の心の傷を解消する」という理論だけで問題を理解していくのは
かなり限定的な手法じゃないかと思えてしまいます。


様々なレベルの理論で問題を説明できることが重要だと思います。

様々な流派の技術を身につけることが重要なのではありません。
技術は、解決のための手段です。

どうしてその手法を選ぶのか?
他の手段ではなく、それを選ぶ根拠は何なのか?

それを判断するためには、問題の理解に対する理由づけから
問題解決のための手段が効果を発揮する理論までを
土台として持っておく必要があるでしょう。

「恐怖症だから、この手法を使う」という技術の使い方でも
効果が得られることは十分にあると思います。

ただ、それは「解決志向」のやり方で
やってみながら上手くいくものを探すのに似ています。

どの方法が最も効果的かを判断できるということは
それだけ問題に苦しむ時間を短縮できる可能性がありますし、
余計なリスクを排除できるとも考えられます。

効果を最大限にするためには「原因志向」や「解決志向」以外にも
様々な理論を身につけておく必要があるんじゃないでしょうか。

2011年08月16日

経験の「量」を増やす方法

時間や頻度など、経験の量が同じであっても
生み出せる結果には違いがあるのは良くあることだと思いますが、
多くの場合、その違いをもたらすのは「才能」と結び付けられるようです。

たしかに、同じだけの練習しかしていないはずなのに
すぐに上手くなる人と、そうでない人がいるのは、
スポーツであれ、趣味であれ、仕事であれ、様々な場面において
誰かと一緒に学ぶことをした方であれば実感しているでしょう。

ですが、そこには経験の仕方にも違いがあると思うんです。

同じ練習をしていても、得られる学びの量が違う。
それは1つの経験から沢山学びとれるように
工夫をしているからだという可能性もあるはずです。

随分前の話になりますが、ゴルフの練習場に行っていた頃、
本当に文字通り「毎日」練習に来ている人を見かけたものです。

毎日同じように練習して、毎日同じことを繰り返している。
決まった順番で、決まったことをしているようでしたから、
どれだけ経っても、客観的に見て違いは出ていないようでした。

確かに、何もしなければ衰えてしまう感覚もあるかもしれませんし、
筋力などは継続的に練習しているほうが安定しているでしょう。
その意味では、数年間のブランクがあれば技術が落ちるのに対して、
毎日同じ練習を繰り返すことで効果があると言えるかもしれません。

そうはいっても、毎日練習していたとしても、
上達していくかどうかとは関係が薄そうです。

それに比べると、しっかりと課題を決めて、目的意識のある練習をして、
なおかつ一球一球フィードバックを得ながら続けていたら、
同じ量の練習でも得られる成果が違うだろうと想像できます。

客観的に判断される時間や回数などの指標で
「同じ」と呼ばれる量の経験をしたとしても、
その経験の仕方によって学んでいる量は違うと考えられるわけです。


それを経験の「質」の違いと言ってもいいのかもしれませんが、
僕は、それだって「量」の違いだと思うんです。

時間や回数などの量が同じでも、処理している「情報量」が違う。

人が処理している情報量が「何バイト」なのかは計測できないでしょうが、
トータルの情報処理量を「経験」として考えれば、その経験値は
時間や回数よりも信頼度の高いデータになると思います。

処理している情報量というのは、必ずしも意識的なものではありません。
意識に上がらずとも脳内で処理されている情報はあるはずです。

日々、街中を歩いていて多くの人とすれ違うでしょうが、そのときに
すれ違う人全員に対して、「この人は男」、「この人は女」とは
わざわざ意識していないでしょう。
しかし、意識には上がっていなくても判断はついているはずです。

ヒヨコの雄・雌を判別する人は、毎回「オス」「メス」と意識しますが、
一般人は街中ですれ違う人の性別を意識はしないと思います。

一方、一般人はヒヨコを見たときに「オス」か「メス」かを意識しません。

ここで重要なのは、多くの人にとってヒヨコの雄・雌は
「意識していない範囲であっても区別されていない」ということです。

すれ違う人の性別は意識しなくても判別されている。
性別を判断するぐらいの情報処理はしているのが一般的でしょう。

ところが、ヒヨコの性別の場合は、
意識もしていないし、判別もされていません。
情報処理がなされていないんです。
無視されている。

当然です。
ヒヨコの雄・雌を区別するための方法を知らないのですから。

つまり、情報処理がなされるためには
意識的に違いを理解できるだけの前提情報が必要だ、ということです。

知らないことは処理されていないんです。

仮に、一般人がヒヨコを見ると、「ヒヨコだ」と認識するとしましょう。
そして、ヒヨコの雄・雌を判別できる人が、ヒヨコを見たときには
「オスのヒヨコだ」とか「メスのヒヨコだ」と認識できる、とします。

すると処理されている情報量は、少なくとも
「オス」or「メス」の違いとして、1つ増えているわけです。

しかしながら実際には、ヒヨコの性別を判断するために
何らかのチェックポイントもあるはずです。

もし、そのチェックポイントが3つあるとしたら、
ヒヨコの雄・雌を判断するときには、意識していなくても
その3つの情報も同時に処理されていることになります。

ですから、ヒヨコの雄・雌が区別できる人は
ヒヨコを見たときに一般人よりも、ずっと多くの情報処理をしている
ということが言えます。


こういうことは日常でも良くあるはずです。

例えば、一日生活をしていれば、自動車が目に入ると思います。

その時に全く車に興味のない人は、何も意識に上がらないでしょう。
一日を振り返っても車を見たかどうかさえ覚えていないかもしれません。
それでも、「車」というものを知っている以上、
意識されない範囲では「車」という単位までの情報は処理されています。

一方、車の好きな人になると、車種や年式、どれだけ改造しているか、
なんていうことも分かるようになるでしょう。

当然、その違いを判別するためには様々なチェックポイントが
意識してか意識されずにか、情報処理されていますから、
「〜年式の…という車」とまで意識されたときには
車に詳しくない人よりも圧倒的に大量の情報が処理されているわけです。

その情報量は詳しくなればなるほど一気に増えていきます。
1つの違いを判別するために、多数のチェックポイントが使われるからです。

それは仮に、年式を判別するためのチェックポイントが
「バンパー」、「ヘッドライト」、「フロントウインドウ」だったとしたら、
「バンパー」の違いを区別するためのチェックポイントが、さらに
「バンパーの色」、「形」、「光沢」などと増えていく、ということです。

違いを判別するためには、さらに詳細な情報に目を向ける必要がある。
だから、細かく理解しようとするほどに、より詳細な違いにを注目していって、
処理する必要のある情報量が指数関数的に増えていくんです。

言い換えれば、細かな違いを判別できるようになるほど、
判別できる項目の数が増えるほど、情報処理量という「経験」が増える、
ということになります。


同じ時間、同じ頻度の経験を積んだとしても、
その経験の中で判別できる違いの種類が多く、
それぞれが細かく判別できるほうが、経験の量は多い。

その意味では、僕は、コミュニケーションや人の観察に対する
経験の量に自信があります。

かなりの情報量を処理してきていると思います。

セミナーのときの情報処理量は、普段よりも格段に増えます。
それは疲れるわけだと思いました。

当然、人を見るときに判別するポイントが増えるほど、
それは癖にもなっていきますから、日常生活にも影響します。
街中で人が近くにいれば、やっぱり多量の情報を受け取っているんです。

これまでにも人と一緒に歩いていると、何度も言われたことがあります。
「見過ぎだ」って。

最近は、完全に見るのが癖になってしまっていますから、
人が多い場所に行くと、それだけで疲れるようです。
立ち止まっているときには目を閉じていることもありますが、
声の印象からも判断していることがあるので効果は薄いです。

自分の過去数年間を振り返ると、情報処理量が増えてきているのが
ありありと実感できるのが興味深いところです。

5年前ぐらいは、意識的に観察をして、意識的に音を聞いて、
意識的に色々なことを理解しようとしていたものです。

しかし今は、何も意識していなくても、あの頃よりも
はるかに多くの情報を処理しているようです。

その増え方は、一定ではなかった気がします。

細かくなるほどに情報処理量が増え、
細かく判別できるようになることで、さらに判別可能なことが増える。
そうやって加算されていったのかもしれません。

細かく経験しようとするほどに、経験の量を加速度的に増やすことができる。

かなり有効な方法だと思いますが、きっと面倒臭いんでしょうね。

2011年08月14日

細か過ぎて伝わらない

経験や実績を、時間の長さや頻度などの量で語るケースが多いものです。

実績であれば客観的に評価できるような受賞歴や成績など、
スポーツ選手のような形で伝えることもできます。

これは当たり前の話だと思います。

例えば、世の中にはゴルフをやっている人は沢山いますが、
そのゴルフのレベルを伝えるときに、「ゴルフ歴30年」という年数や
「総プレー数500ラウンド」などという頻度では、腕前は分かりません。

「長く続けているんだな」とか
「随分好きなんだな」
といったことしか本来は判断できないわけです。

プロであれば、優勝経験や試合の成績で説明もできますし、
アマチュアでも競技に参加する場合には同様です。

ところが、多くのアマチュアゴルファーは試合に出るほどではない。
すると、ベストスコアとか平均スコアなどで説明することが多くなります。

これはスポーツやゲームなど、スコアで評価できるときには有効です。
ボーリングでもダーツでも平均スコアで腕前は分かりそうです。

スポーツやゲームは評価の基準が成績でハッキリ決まりますから
経験年数や頻度は重要ではないことも暗黙の了解と言えるでしょう。
小学生でも上手いものは上手いわけです。


一方、そうした実績や経験が成績として評価できないものもあります。
むしろ、仕事に関するようなことの多くは数値的に評価しにくいと思います。

よほど、「レジ打ち競技大会日本一」とか「年間セールス額トップ」とか
すでに専門家同士で評価し合った結果があれば別です。

素人からすると、レジ打ち日本一と20位の区別はつかないでしょう。
専門家同士の評価が一般にも分かるためには、
客観的に評価をした後の結果を示す必要があるわけです。

そのような客観的評価もなく、スコアで語られるものでもない場合には、
仕方なく経験年数や頻度が、指標として使われ始めます。

教師歴30年のベテランと教師歴3年の若手では、
一般的にはベテランのほうがシッカリしていそうな印象を持つようです。

本当は、最初にあった教育への熱意も冷め、30年をヤル気なく過ごし、
とりたてて工夫をすることもなかったベテランと、
情熱にあふれ、子供の心を掴むのが上手い若手かもしれない。

ベテランだからこその安心感がある反面、
中には例外的な人もいたり、ベテランだからこその古臭さが
デメリットになるケースがあるのも、多くの人は知っています。

若手ゆえの未熟さがあったとしても、それを上回る魅力があったり、
若いにもかかわらず確かな能力を持った人がいることも知っている。

でも、多くの人は、そういう例外的な部分には期待しないようです。
むしろ確率的に、ベテランのほうが安心できるだろう、
と予想される側に気持ちが傾くのでしょう。


カウンセラーやコーチ、講師業、整体師や税理士など
個人が看板になる場合、このあたりのアピールが難しいんだと思います。

だからこそ、マーケティングの上手さが結果を分けることになる。

圧倒的にクオリティが高い場合には、
「一度見てもらえれば、分かっていただけるはずです!」
と、無料サンプルでお試ししてもらう方法も有効なようです。

もちろん、それも一般的な人が見て、分かりやすいことが求められます。
見る人が見れば、唸り声をあげるようなマニアックなものは
そうしたマニアを対象にしていく必要があるのかもしれません。

マジックのようなものであれば、一般の人が見ても驚きがありますから
分かりやすく面白いものをやっていると人気が出るのでしょう。

しかし、マジシャン同士が見たときには、一般の人では分からない
高度な技術の工夫に尊敬が集まったりする。

どちらに価値があるのかは一概には言えないと思います。

マジックのように、人に楽しさを提供するものであれば、
一般の人に分かりやすいことは、とても大切な気がします。

ただ、それが人の痛みや苦しみ、人生の重要な局面を扱う分野では、
一般の人がパッと見て分かりやすい方法が良いとは言いにくいでしょう。

マニアックなまでの、リスクを避ける心配りの技術は
危険なことが起こらない限り、一般の人には気づかれるはずもない。

良い結果が得られるかどうかに対しても
あまり大きな影響は及ぼさない。

細心の注意が無くても上手くいくことは多いけれども、
クライアントの痛みや苦しみ、その後の人生への影響に
少しでも多く配慮しようとする姿勢は、なかなか伝わりにくいと思います。

それでも僕は、そこが大事だと思うんです。
繊細なことを扱うからこそ、分かってくれるかどうかは別にして
大事にしておきたい部分があるんです。

「細か過ぎて伝わらないモノマネ」というのがテレビで人気になりましたが、
細か過ぎて伝わらない専門技術も人気になったりしませんかね。

そうであったとしても、コダワリをもって取り組みたい僕としては
『細か過ぎて伝わらないコミュニケーション技術』をキャッチフレーズに
技術を磨いていきたいと思いました。

2011年08月12日

便利な品揃え

コンビニの本棚には雑誌コーナーとマンガ単行本のコーナーがあります。
そして、たまに文庫本サイズの本も置いてあります。

この文庫サイズの本、いわゆる「〜文庫」と呼ばれるのとは少し違い、
売れた本を廉価版として編集したようなものが多いようです。

それに加え、著者が不特定で、何かしらのチームが編集したような
簡単な読み物っぽい本も見かけます。

先日、コンビニの雑誌コーナーの前にぶら下がった棚に
そういう不特定著者の興味深い本がありました。

タイトルは正確に覚えてはいませんが、
 『もうダメだと思ったときに読む本』
とかいう感じのものでした。

似たようなタイトルの本が他にもありますが、
これはコンビニ限定のような体裁で、中身は名言集になっているもの。

生きていて「もうダメだ!」と思ったときにも
コンビニでなんとかなるんだとしたら、便利な世の中ですね。
さすが「コンビニエンス」ストアだと思います。


で、パラパラと中身を見ていたら、
アンドレ・ジイドというフランス人作家の言葉が目に留まりました。

『幸福になる必要なんかありはしないと、
 自分を説き伏せることに成功したあの日から、
 幸福がぼくのなかに棲みはじめた。』(出展:『新しき糧』)

文脈が不明なので、本人がどういう意図で残したかは分かりません。

大きく分けると2通りの解釈ができるんじゃないかと思います。

1つは、
「幸福を追い求めるのをやめて、目の前の日常にある幸せに気づこう」
「足りないものに目を向けるのではなく、足りている部分に目を向けよう」
というようなニュアンス。

もう1つは、
「幸福に対する執着がなくなったときに、幸福はやってくる」
「幸福や幸運を引きよせるには、深刻になってはいけない」
というようなニュアンス。

前者が、「今ある幸せこそが幸せ」であって、
「幸せになるためには何も新しい結果はいらない」という解釈であって、
後者は、「新しい幸せを手に入れるためには」という方向の解釈。
今で十分と考えるか、新しくやってくると考えるかの違いです。


この作家の残した言葉には、他にも
『幸福になる秘訣は、快楽を得ようとひたすら努力することではなく、
 努力そのもののうちに快楽を見出すことである。』
とか
『目の見える人間は、見えるという幸福を知らずにいる。』
というのが有名だそうですから、
この名言も同様に、「今ある幸せを知ることが幸福の鍵」といった
解釈が近いのかもしれません。

ただ、幸福を求めて動き出した人は、
得られるはずの幸福を知ってしまっている以上、
知る前の状態には戻れないわけです。

その意味では、
『幸福になる必要なんかありはしないと、自分を説き伏せる』
のは、非常に難しいことだろうとも想像できます。

一方、「新しい幸福がやってくる」という方向の解釈も不可能ではない。

例えば、「自分にとってはコレが幸せなんだ!」と執着していると
目の前にやってきた素晴らしいチャンスや成果が目に入らない、
という可能性もあるからです。

気を楽にして、幸福の種類に執着するのをやめると、
新たな幸福の機会に気づけるようになる、とも考えられます。


どちらの方向で解釈をするにしても、
本人の生き方の好みが反映されるのでしょう。

ただ、やはり
『幸福になる必要なんかありはしないと、自分を説き伏せる』
ことが簡単ではなさそうです。

おしらせ
 ◆ セミナー情報 

日程確定

《心を調える実践会》

【日時】 2017年12月23日(土)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    304集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分

詳細は後日>>
次回は2018年の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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