2011年08月
2011年08月10日
家の話
一カ月ぐらい前に、実家が建て直しをしました。
築年数も長い上に、元々が欠陥住宅だったので
当初はリフォームで対応しようとしていたそうです。
僕が小学校の頃、家に遊びに来た友達が部屋の中で
「あ、なんか、めまいがする…」
と言っていましたが、実際に床が傾いていただけ…
ということが良くありました。
置いたボールが加速するぐらいの傾斜でしたから。
棚を作ろうとして柱に釘を打った時も、
太い柱に見えていたものの中が空洞だったこともありました。
柱じゃなくて箱だったんです。
木の板を張り合わせて柱の太さに見せていただけ。
土台の工事もしっかりしていなかったようなので
年月が経つにつれて家の歪みは大きくなるばかり。
ベランダのコンクリートも割れて危険だったので、
補修をしようという話になったようです。
詳細は知りませんが、元が元なので、
補修で対応できることも限度があったでしょうから
「だったら、新しく建て直してしまったほうが…」
ということになったんじゃないかと思います。
営業も上手かったのかもしれませんし。
ところが、その元の家は欠陥住宅どころか、違法建築だったようで、
建て直しに関して書類を整えるのが大変だったと言っていました。
隣家との境界線もメチャクチャ、
本来の敷地をはみ出している、
建蔽率に収まっていない…
と、色々な問題が山積みで、
近所の人に印鑑をもらうのも大変だったという話。
元が違法で建っていますから、リフォームしても違法のまま。
すると、その先もずっと扱いようがないみたいで、
きちんと法律に沿った形で建て替えをすることになったそうです。
で、その実家のある場所は区の中でも特殊な地域らしく、
建蔽率にせよ、日照権にせよ、私道との関係にせよ、
とにかく制約が沢山あって、業者との話し合いが進むにつれて
どんどん建てられる家が小さくなっていってしまいました。
その過程の話は両親から聞いていましたが、
不満とガッカリ感と、やり場のない怒りで苦しそうに見えました。
とはいえ、元の家を建てたのは僕の祖父。
二世帯で同居という形式で、祖父母が亡くなり、
姉と僕が外に出ていって、両親だけが住んでいた状態でした。
父にとっては「祖父の建てた家」という意識も少しはあったかもしれません。
自分で仕事をして、家族を養い、少しずつ貯蓄をして
なんとか「自分の家」を建てる。
それは父にとって人生の形を整えるために
とても大切なプロセスだろうと感じています。
特に父は自営業でしたから、若いときに何十年ものローンを組んで
家を持つということはしずらかったんじゃないかと想像できます。
その自分の家が、法律や悪徳業者のせいで
思うように建築できないのは、悔しさも一層だったでしょう。
それでも契約は済んでしまっているし、
家を建てたい気持ちもあったんじゃないかと思います。
だからこそ、今、新しい家にいるときの父の姿は
明るく、どこか誇らしげに見えます。
ちなみに、父は若いころから手先が器用で、
日曜大工の範囲を超えたような作業がで得意でした。
前の家のときには、姉が自分の部屋を必要とした時期に
父が自分で一部屋を丸ごと改装して綺麗に仕上げていたぐらいです。
今も強力な電動ドライバーや、電動ノコギリを駆使して
新居の色々な部分を改造しています。
「自分の家」を自分の意見を入れながら打ち合わせをして、
建った後にも、自分の手を入れて「自分の家」を作っている。
文字通り「自分の家」を作っているのですから、
口では「大変だ」「体が痛い」と文句を言いながらも、
コダワリを持って楽しそうに作業をしています。
母は広く綺麗になったキッチンがご満悦の様子。
近年になって料理を趣味にした父と一緒に
生活しやすくなった新しい家を動き回っています。
設計段階から、いたる所に便利なものを組み込んだらしく、
その便利な設備を使いこなすのも楽しいのでしょう。
まさに、両親二人が自分たちの好きなように
新しい家を建てたという印象。
先日、新しくなった実家を訪ねたときに、つくづくそう感じました。
そして僕はといえば、
実家から今の住まいに戻ってきて、寝る前に
ふと元の家が頭に浮かびました。
非常に鮮明な映像です。
それも当然でしょう。
僕は会社に就職するまでの24年間、生まれてからずっと
その家で育ってきましたから。
会社に入った後も、会社を辞めて今の仕事に移ってからも、
少なくとも年末年始だけは実家に帰っていました。
今でも頭の中には、前の家のイメージが鮮明に残っています。
どこに何があって、いつ何をしたか。
建物としての記憶と、生活の記憶の両方があるんです。
でも、今はもう無い。
僕にとって「家」というのは、元のあの家だったんだなぁと感じます。
新しい家は色々な制約の関係で非常に小さくなってしまって、
本当に両親二人が生活するので一杯といった感じ。
ゲストのための空間はありませんから、
当然、僕や姉がいるための場所はありません。
本当に、両親二人の家なんだと実感します。
子供のころから引っ越しを経験していたら
感じ方も違ったんじゃないかと想像できますが、
どうも僕にとって、あの古くて汚い欠陥住宅は
大事な場所だったようです。
両親の新しい家が別の土地にあれば、
「無くなった」という感じも少なかったんじゃないでしょうか。
周りの景色は同じなのに、あるはずの場所に
あの家はもうない。
そのギャップが余計に、それを感じさせるのかもしれません。
こんなに家の建て替えが、僕の心に寂しさをもたらすとは
予想もしていませんでした。
こうやって人は世代を繋いでいくんでしょうね。
築年数も長い上に、元々が欠陥住宅だったので
当初はリフォームで対応しようとしていたそうです。
僕が小学校の頃、家に遊びに来た友達が部屋の中で
「あ、なんか、めまいがする…」
と言っていましたが、実際に床が傾いていただけ…
ということが良くありました。
置いたボールが加速するぐらいの傾斜でしたから。
棚を作ろうとして柱に釘を打った時も、
太い柱に見えていたものの中が空洞だったこともありました。
柱じゃなくて箱だったんです。
木の板を張り合わせて柱の太さに見せていただけ。
土台の工事もしっかりしていなかったようなので
年月が経つにつれて家の歪みは大きくなるばかり。
ベランダのコンクリートも割れて危険だったので、
補修をしようという話になったようです。
詳細は知りませんが、元が元なので、
補修で対応できることも限度があったでしょうから
「だったら、新しく建て直してしまったほうが…」
ということになったんじゃないかと思います。
営業も上手かったのかもしれませんし。
ところが、その元の家は欠陥住宅どころか、違法建築だったようで、
建て直しに関して書類を整えるのが大変だったと言っていました。
隣家との境界線もメチャクチャ、
本来の敷地をはみ出している、
建蔽率に収まっていない…
と、色々な問題が山積みで、
近所の人に印鑑をもらうのも大変だったという話。
元が違法で建っていますから、リフォームしても違法のまま。
すると、その先もずっと扱いようがないみたいで、
きちんと法律に沿った形で建て替えをすることになったそうです。
で、その実家のある場所は区の中でも特殊な地域らしく、
建蔽率にせよ、日照権にせよ、私道との関係にせよ、
とにかく制約が沢山あって、業者との話し合いが進むにつれて
どんどん建てられる家が小さくなっていってしまいました。
その過程の話は両親から聞いていましたが、
不満とガッカリ感と、やり場のない怒りで苦しそうに見えました。
とはいえ、元の家を建てたのは僕の祖父。
二世帯で同居という形式で、祖父母が亡くなり、
姉と僕が外に出ていって、両親だけが住んでいた状態でした。
父にとっては「祖父の建てた家」という意識も少しはあったかもしれません。
自分で仕事をして、家族を養い、少しずつ貯蓄をして
なんとか「自分の家」を建てる。
それは父にとって人生の形を整えるために
とても大切なプロセスだろうと感じています。
特に父は自営業でしたから、若いときに何十年ものローンを組んで
家を持つということはしずらかったんじゃないかと想像できます。
その自分の家が、法律や悪徳業者のせいで
思うように建築できないのは、悔しさも一層だったでしょう。
それでも契約は済んでしまっているし、
家を建てたい気持ちもあったんじゃないかと思います。
だからこそ、今、新しい家にいるときの父の姿は
明るく、どこか誇らしげに見えます。
ちなみに、父は若いころから手先が器用で、
日曜大工の範囲を超えたような作業がで得意でした。
前の家のときには、姉が自分の部屋を必要とした時期に
父が自分で一部屋を丸ごと改装して綺麗に仕上げていたぐらいです。
今も強力な電動ドライバーや、電動ノコギリを駆使して
新居の色々な部分を改造しています。
「自分の家」を自分の意見を入れながら打ち合わせをして、
建った後にも、自分の手を入れて「自分の家」を作っている。
文字通り「自分の家」を作っているのですから、
口では「大変だ」「体が痛い」と文句を言いながらも、
コダワリを持って楽しそうに作業をしています。
母は広く綺麗になったキッチンがご満悦の様子。
近年になって料理を趣味にした父と一緒に
生活しやすくなった新しい家を動き回っています。
設計段階から、いたる所に便利なものを組み込んだらしく、
その便利な設備を使いこなすのも楽しいのでしょう。
まさに、両親二人が自分たちの好きなように
新しい家を建てたという印象。
先日、新しくなった実家を訪ねたときに、つくづくそう感じました。
そして僕はといえば、
実家から今の住まいに戻ってきて、寝る前に
ふと元の家が頭に浮かびました。
非常に鮮明な映像です。
それも当然でしょう。
僕は会社に就職するまでの24年間、生まれてからずっと
その家で育ってきましたから。
会社に入った後も、会社を辞めて今の仕事に移ってからも、
少なくとも年末年始だけは実家に帰っていました。
今でも頭の中には、前の家のイメージが鮮明に残っています。
どこに何があって、いつ何をしたか。
建物としての記憶と、生活の記憶の両方があるんです。
でも、今はもう無い。
僕にとって「家」というのは、元のあの家だったんだなぁと感じます。
新しい家は色々な制約の関係で非常に小さくなってしまって、
本当に両親二人が生活するので一杯といった感じ。
ゲストのための空間はありませんから、
当然、僕や姉がいるための場所はありません。
本当に、両親二人の家なんだと実感します。
子供のころから引っ越しを経験していたら
感じ方も違ったんじゃないかと想像できますが、
どうも僕にとって、あの古くて汚い欠陥住宅は
大事な場所だったようです。
両親の新しい家が別の土地にあれば、
「無くなった」という感じも少なかったんじゃないでしょうか。
周りの景色は同じなのに、あるはずの場所に
あの家はもうない。
そのギャップが余計に、それを感じさせるのかもしれません。
こんなに家の建て替えが、僕の心に寂しさをもたらすとは
予想もしていませんでした。
こうやって人は世代を繋いでいくんでしょうね。
2011年08月08日
芸能人の気になる振る舞い
以前からテレビを見るといっても、いわゆる「バラエティ番組」中心でしたが
最近は多くの番組がバラエティになっているように感じます。
1つの番組に出演する芸能人も大勢ですから、
文字通り、毎日顔を見ているような人もいるんじゃないでしょうか。
台本があるとはいえ、ドラマや映画のように撮り直しもないでしょうから、
出演者たちには、ある程度、自然な反応もあるように見えます。
もちろん、分かりやすいリアクションを取ったり、
決められた進行に沿って「やらされている」ような印象を感じるような
作られた雰囲気が出ているときも多々あります。
その一方で、ある種の番組では、かなり自然な振る舞いも見える気がするんです。
最近、僕がテレビを見ていて気になってしまうのは、
そうしたバラエティ番組に出ている芸能人の状態です。
以前は、こんなに気にならなかったんですが、
最近は妙に、番組の内容よりも芸能人の様子が気になってしまいます。
それには僕自身の観察の癖も関係しているとは思いますが、他にも、
テレビで見かける芸能人の特色が変わっているのも関わっていると思います。
前はバラエティ番組といっても、もっと俳優や女優が出演していた気がします。
演技をするのが仕事の芸能人はトーク番組でもスキがないというか、
非言語的な反応に自然な部分が表れにくい印象を受けます。
作られてコントロールされているために、素が見えない感じ。
それに対して、最近のテレビに出演している人たちの多くは
バラエティ番組に出るのがメインの仕事という芸能人でしょう。
お笑い芸人に限らず、バラエティがメインという人は多いようです。
歌手として、あるいはモデルとしても活動しながら
バラエティ番組の画面の中で、大勢の一人として写っている。
そんなケースも増えてきているみたいです。
そういうバラエティをメインとする芸能人は、テレビという特殊な場面でも
ある程度、その人自身の個人的な特徴を出しながら振る舞っています。
なので、演技が仕事の人たちとは違う、自然な反応が画面に写るんです。
僕には、その様子が気になって仕方ありません。
明らかに疲れが溜まっていたり睡眠不足だったり。
体調不良を我慢していたり。
台本通りの番組の流れのためか、気を抜いていたり。
無理して盛り上げようとしていたり。
本音とは思えないような声のトーンでコメントしていたり。
先日、特に気になったのは、トーク番組で司会をしていた SHELLY です。
番組のレギュラーが司会の2人だけで、サポート寄りの役割をしていました。
最近はバラエティ番組の出演数が急上昇だそうですから
色々と重なって疲れがあったのかもしれません。
必死でゲストの話に食いついてリアクションをしていますが、
痛々しいほどに苦しそうな様子でした。
なんとかして眼を見開こうとする表情、
重い体を示唆するような猫背気味の姿勢、
気持ちが乗らないことを物語るような低く後ろに残った重心、
大声を出しても、低めで前に出て行ききらない声…。
ゲストのトーク内容なんて頭に入らないほど気になっていました。
そんな芸能人の様子を気にしながらテレビを見ると、
出演者自身が楽しみながら番組を進行している様子が楽しいんです。
やっている人たちの楽しそうな様子に、こっちまで楽しくなる感じ。
もしかすると、楽しんでいる人たちの様子が
見ている人を元気にしてくれるものなのかもしれません。
最近は多くの番組がバラエティになっているように感じます。
1つの番組に出演する芸能人も大勢ですから、
文字通り、毎日顔を見ているような人もいるんじゃないでしょうか。
台本があるとはいえ、ドラマや映画のように撮り直しもないでしょうから、
出演者たちには、ある程度、自然な反応もあるように見えます。
もちろん、分かりやすいリアクションを取ったり、
決められた進行に沿って「やらされている」ような印象を感じるような
作られた雰囲気が出ているときも多々あります。
その一方で、ある種の番組では、かなり自然な振る舞いも見える気がするんです。
最近、僕がテレビを見ていて気になってしまうのは、
そうしたバラエティ番組に出ている芸能人の状態です。
以前は、こんなに気にならなかったんですが、
最近は妙に、番組の内容よりも芸能人の様子が気になってしまいます。
それには僕自身の観察の癖も関係しているとは思いますが、他にも、
テレビで見かける芸能人の特色が変わっているのも関わっていると思います。
前はバラエティ番組といっても、もっと俳優や女優が出演していた気がします。
演技をするのが仕事の芸能人はトーク番組でもスキがないというか、
非言語的な反応に自然な部分が表れにくい印象を受けます。
作られてコントロールされているために、素が見えない感じ。
それに対して、最近のテレビに出演している人たちの多くは
バラエティ番組に出るのがメインの仕事という芸能人でしょう。
お笑い芸人に限らず、バラエティがメインという人は多いようです。
歌手として、あるいはモデルとしても活動しながら
バラエティ番組の画面の中で、大勢の一人として写っている。
そんなケースも増えてきているみたいです。
そういうバラエティをメインとする芸能人は、テレビという特殊な場面でも
ある程度、その人自身の個人的な特徴を出しながら振る舞っています。
なので、演技が仕事の人たちとは違う、自然な反応が画面に写るんです。
僕には、その様子が気になって仕方ありません。
明らかに疲れが溜まっていたり睡眠不足だったり。
体調不良を我慢していたり。
台本通りの番組の流れのためか、気を抜いていたり。
無理して盛り上げようとしていたり。
本音とは思えないような声のトーンでコメントしていたり。
先日、特に気になったのは、トーク番組で司会をしていた SHELLY です。
番組のレギュラーが司会の2人だけで、サポート寄りの役割をしていました。
最近はバラエティ番組の出演数が急上昇だそうですから
色々と重なって疲れがあったのかもしれません。
必死でゲストの話に食いついてリアクションをしていますが、
痛々しいほどに苦しそうな様子でした。
なんとかして眼を見開こうとする表情、
重い体を示唆するような猫背気味の姿勢、
気持ちが乗らないことを物語るような低く後ろに残った重心、
大声を出しても、低めで前に出て行ききらない声…。
ゲストのトーク内容なんて頭に入らないほど気になっていました。
そんな芸能人の様子を気にしながらテレビを見ると、
出演者自身が楽しみながら番組を進行している様子が楽しいんです。
やっている人たちの楽しそうな様子に、こっちまで楽しくなる感じ。
もしかすると、楽しんでいる人たちの様子が
見ている人を元気にしてくれるものなのかもしれません。
2011年08月06日
正義の味方の正義の見方
マイケル・サンデルの「 Justice 」が流行った影響でしょうか、
最近、書店に行くと哲学の入門書が多くなったように見受けられます。
その中でも、明らかに流行に乗って出版されたと思われるのが
『ウルトラマンと「正義」の話をしよう』でしょう。
ウルトラマンと「正義」の話をしよう
クチコミを見る
日本語版になった「 Justice 」が、『これからの「正義」の話をしよう』ですから
まぁ、タイトルは売れた本を元にして売上げ向上を狙ったと想像できます。
とはいえ、著者は中学校の先生らしく、普段から学生に対して
倫理や道徳について考えるキッカケとして「ウルトラマン」を
授業で使っているそうなので、タイトルの重要性は低い印象を受けます。
単純に「正義の味方」である(はず)のウルトラマンを題材にして
「正義とは何か?」といったことについて論じるスタイル。
タイトルは、ご時勢として使えそうだったから…という程度かと推測しています。
なので、内容は読んでみると面白く、分かりやすく書かれているので
哲学云々でも、特撮マニア向けでもなく、世の中の価値観に対して
自分なりに考えることの大切さを感じられる本だと思います。
マイケル・サンデルの講義スタイルを見ていると、
アメリカ人学生がハッキリと論理的な正しさから『善・悪』を主張するのに対して
例外的な事例を挙げながら考えを広げていく様子が伺えます。
宗教観などの文化的背景や、言語に求められる論理の構造から、
アメリカ人の議論の進め方には、「まずYES/NOで結論を出す」という
傾向があるようです。
だからこそ、その主張に対する例外を数多く出していくことで、
意見を主張していた学生に、自らの主張の根拠を改めて
考え直させることが、哲学の授業として役立つのでしょう。
言い換えると、「まず最初に、白か黒かの立場を決める」発想のスタイルに、
例外を突き付けながら考えを広げさせ、「状況によっては違う」などの
柔軟性を導いて「グレー」な考え方も加えている、
…そんなところがあるんじゃないかと考えます。
以前、何かのテレビ番組にマイケル・サンデルがゲストに出て
日本の芸能人を相手に有名な授業と同じようなことをしていましたが、
多くの日本人にとっては、当たり前のことを言っているように
思えたんじゃないかと想像しています。
日本の芸能人に意見を聞いても、そもそもがハッキリと決まらないんです。
日本人の考え方は、グレーな答えに行きやすい傾向があります。
「なんとなく」とか、「どちらかというと…」で意見が述べられる。
全体的に受けた印象や、直観的な意見の出し方は、全体を総括して
「白っぽいグレー」なのか「黒っぽい」グレーなのかと、
グレーの度合いを答えていると考えても良いでしょう。
ところが、世の中には、社会的な風潮や文化・歴史的慣習によって
ハッキリ白か黒かに、強く導かれるような考え方もあります。
そこは各自が自分の頭でシッカリと考えてみたほうが良いんじゃないか?
そういうことを、『ウルトラマン』のストーリーをベースにして
思い巡らせてくれるのが、この本だと感じました。
最近は「価値観が多様化している」というような言い方が、よくなされます。
その上、「価値を一元化するのは良くない」という考え方も聞きます。
ただ、その実態は
「個々が自分の価値観だけを正しいと考え、
他の価値観を受け入れようとしない」
ということになっていないでしょうか。
「価値観が違うから分かりあえない」のではなく、
「価値観が違うから分かろうとする」努力が大切なんじゃないでしょうか。
この本では、ウルトラマン・シリーズに登場する様々なエピソードから
様々な立場の異なった価値観に対して眼を向けさせてくれるような意見が
色々と登場します。
「異なる立場や価値観に立つことが大切だ」と言葉で伝えるのは簡単です。
が、この本では、異なる価値観からの見え方を色々と提示してくれる。
読んでいて、自然と複数の立場に視点を変えているのが感じられました。
唯一、僕にとって残念なのは…
僕がウルトラマン・シリーズに詳しくない、ということでした。
紹介されるダイジェストのエピソードだけでなく、実際のビデオを見られたら
もっと楽しみながら読めたんじゃないかと思います。
最近、書店に行くと哲学の入門書が多くなったように見受けられます。
その中でも、明らかに流行に乗って出版されたと思われるのが
『ウルトラマンと「正義」の話をしよう』でしょう。
ウルトラマンと「正義」の話をしよう
クチコミを見る
日本語版になった「 Justice 」が、『これからの「正義」の話をしよう』ですから
まぁ、タイトルは売れた本を元にして売上げ向上を狙ったと想像できます。
とはいえ、著者は中学校の先生らしく、普段から学生に対して
倫理や道徳について考えるキッカケとして「ウルトラマン」を
授業で使っているそうなので、タイトルの重要性は低い印象を受けます。
単純に「正義の味方」である(はず)のウルトラマンを題材にして
「正義とは何か?」といったことについて論じるスタイル。
タイトルは、ご時勢として使えそうだったから…という程度かと推測しています。
なので、内容は読んでみると面白く、分かりやすく書かれているので
哲学云々でも、特撮マニア向けでもなく、世の中の価値観に対して
自分なりに考えることの大切さを感じられる本だと思います。
マイケル・サンデルの講義スタイルを見ていると、
アメリカ人学生がハッキリと論理的な正しさから『善・悪』を主張するのに対して
例外的な事例を挙げながら考えを広げていく様子が伺えます。
宗教観などの文化的背景や、言語に求められる論理の構造から、
アメリカ人の議論の進め方には、「まずYES/NOで結論を出す」という
傾向があるようです。
だからこそ、その主張に対する例外を数多く出していくことで、
意見を主張していた学生に、自らの主張の根拠を改めて
考え直させることが、哲学の授業として役立つのでしょう。
言い換えると、「まず最初に、白か黒かの立場を決める」発想のスタイルに、
例外を突き付けながら考えを広げさせ、「状況によっては違う」などの
柔軟性を導いて「グレー」な考え方も加えている、
…そんなところがあるんじゃないかと考えます。
以前、何かのテレビ番組にマイケル・サンデルがゲストに出て
日本の芸能人を相手に有名な授業と同じようなことをしていましたが、
多くの日本人にとっては、当たり前のことを言っているように
思えたんじゃないかと想像しています。
日本の芸能人に意見を聞いても、そもそもがハッキリと決まらないんです。
日本人の考え方は、グレーな答えに行きやすい傾向があります。
「なんとなく」とか、「どちらかというと…」で意見が述べられる。
全体的に受けた印象や、直観的な意見の出し方は、全体を総括して
「白っぽいグレー」なのか「黒っぽい」グレーなのかと、
グレーの度合いを答えていると考えても良いでしょう。
ところが、世の中には、社会的な風潮や文化・歴史的慣習によって
ハッキリ白か黒かに、強く導かれるような考え方もあります。
そこは各自が自分の頭でシッカリと考えてみたほうが良いんじゃないか?
そういうことを、『ウルトラマン』のストーリーをベースにして
思い巡らせてくれるのが、この本だと感じました。
最近は「価値観が多様化している」というような言い方が、よくなされます。
その上、「価値を一元化するのは良くない」という考え方も聞きます。
ただ、その実態は
「個々が自分の価値観だけを正しいと考え、
他の価値観を受け入れようとしない」
ということになっていないでしょうか。
「価値観が違うから分かりあえない」のではなく、
「価値観が違うから分かろうとする」努力が大切なんじゃないでしょうか。
この本では、ウルトラマン・シリーズに登場する様々なエピソードから
様々な立場の異なった価値観に対して眼を向けさせてくれるような意見が
色々と登場します。
「異なる立場や価値観に立つことが大切だ」と言葉で伝えるのは簡単です。
が、この本では、異なる価値観からの見え方を色々と提示してくれる。
読んでいて、自然と複数の立場に視点を変えているのが感じられました。
唯一、僕にとって残念なのは…
僕がウルトラマン・シリーズに詳しくない、ということでした。
紹介されるダイジェストのエピソードだけでなく、実際のビデオを見られたら
もっと楽しみながら読めたんじゃないかと思います。
2011年08月04日
知らなければ…
物事の片面だけを伝えるというのは、本来、危険を伴うものだと思います。
片側に素晴らしさがあるならば、その反対側には苦難もあるかもしれません。
そのことを分かった上で、それでもなお素晴らしさを信じて
良い面だけを強調して伝えるのなら好感が持てますが、一般的には、
危険性に気持ちを向けることもなく、盲信的になる場合が多い気がします。
人に何かを伝えるということは、相手がそれまでに考えてもいなかった
新たな発想を持ち始める可能性がある。
知らなかったことを知ってしまう可能性があるわけです。
知らないほうが幸せだった。
…その可能性を配慮せずに伝えることのリスクを考えておきたいものです。
知ってしまったら、知る前には戻れないのですから。
リスクを十分に分かった上で、相手が傷つくかもしれないと覚悟した上で、
その結果として自分が一生怨まれることになっても良いと思った上で、
あえて伝えるのであれば、それは自分の信念を貫いた大切な行動でしょう。
しかし、リスクについて考えることもなく、結果に責任を取るつもりもなく、
ただ自分が伝えたいというだけの理由で口にしてしまうのは、
信念に基づいた行動というよりも、自分勝手な行動と感じてしまいます。
自己啓発や教育、ビジネスの分野には、
使命や天職、夢や目標を持つことが大切だという考え方が多いものです。
それだって片側しか見ていない意見だということを
知っておくのが大切じゃないでしょうか。
未来や自分の生き方を思い描くからこそ生まれる苦しみもある。
世の中には日々を幸せに生きている人だって沢山います。
小学生の「将来なりたい職業」が公務員で、
その理由が「安定した楽な老後を送りたいから」だったとしても
そういう生き方を望むのなら、それも良いと思います。
子供のうちは、自分で考えることは通常できません。
そこには周囲の意見が強く関わっています。
親の影響で描いた将来だったとしても、それしか知らないのであれば
その生き方は幸せなものでしょう。
そこに「夢を持て」と教育すると、どういう影響が出るでしょうか。
そのリスクを分かった上での『熱いメッセージ』であって欲しいと思います。
ただ、現状の大部分は、一面的に夢や目標や使命が語られている気がします。
だからこそ、それに苦しむ人たちが安心できるような
反対の側面のメッセージもまた、世の中で語られるんじゃないでしょうか。
「ありのままでいい」、「悩まないようにする」、
「今だけを生きる」、「日々の中に幸せがある」…。
夢や使命を目指すのとは真反対の生き方を勧める人たちがいるのですから、
夢や使命が大事だという考え方も、一面的だろうと思うんです。
僕が英語を教わっていたニュージーランド出身の先生は
世界中を飛び回って、自分の生きたい人生を切り開くスタイルの人でした。
彼は、数学を勉強するためにロンドンに行くと言っていました。
良く考え、良く知っている人でした。
35歳、独身。
彼には、祖国に女性の親友がいるそうです。
一番の友達だと言っていました。
その女性は専業主婦で、子育てに忙しいそうです。
あるときまでは、その先生と同じく、自分の生きたい人生を進んでいた。
が、生き方を変えたのだとか。
今では、家庭を築き、幸せな生活を送っている。
彼は、その女性の友人と年に一度ぐらい会って、
お互いの人生について報告をしているらしいです。
お互い、相手の話を聞きながら、自分の人生に誇りを持ちつつも
もう一方の喜びに憧れを感じる、と。
自分の人生を自ら切り開き、描いた未来に向けて突き進むのか、
大きな刺激は少なくとも、幸せな日々を過ごすのか。
この二人の関係は、「お互いに相手の世界を知っていて
それぞれが、どちらか一方を生きている」という意味で、
真逆ながら対等でもあると言えます。
ですが、一般的に言えば、彼の生き方は少数派でしょう。
多数派が目に入るという点で、彼が
「大きな刺激は少なくとも幸せな日々」を知る機会は多いはずです。
そちらに憧れを抱く気持ちが生まれるのは自然だと考えられます。
一方、多くの「大きな刺激は少なくとも幸せな日々」を生きる人が
彼のような生き方に触れる機会は少ない。
話には聞いても、「自分もそうしたい」という人は多くないでしょう。
幸せや苦難は個人で感じるものだとは言っても、
「知ってしまった」からこそ生まれる苦しみや困難は
多くの人が知らない「自分で切り開く」生き方のほうが大きいと言えます。
自ら踏み出した新たな世界には、
そこを「知らない」人では想像もできないような苦難がある。
同時に、以前の世界も知っているからこそ、
そちらの世界への憧れという別の苦しみも味わう。
夢や使命に向かって自ら進んでいくというのは、
それを知ってしまうからこその苦しみも伴うんです。
それでも世の中には、どういうわけか、その苦しい道を選ぶ人がいる。
幸か不幸か、その道を知らされてしまった人なのか、
自ら選んできた人なのか。
いずれにせよ、「知ってしまった」人たちには報われてほしいと思います。
僕は、そんな人たちを応援しています。
片側に素晴らしさがあるならば、その反対側には苦難もあるかもしれません。
そのことを分かった上で、それでもなお素晴らしさを信じて
良い面だけを強調して伝えるのなら好感が持てますが、一般的には、
危険性に気持ちを向けることもなく、盲信的になる場合が多い気がします。
人に何かを伝えるということは、相手がそれまでに考えてもいなかった
新たな発想を持ち始める可能性がある。
知らなかったことを知ってしまう可能性があるわけです。
知らないほうが幸せだった。
…その可能性を配慮せずに伝えることのリスクを考えておきたいものです。
知ってしまったら、知る前には戻れないのですから。
リスクを十分に分かった上で、相手が傷つくかもしれないと覚悟した上で、
その結果として自分が一生怨まれることになっても良いと思った上で、
あえて伝えるのであれば、それは自分の信念を貫いた大切な行動でしょう。
しかし、リスクについて考えることもなく、結果に責任を取るつもりもなく、
ただ自分が伝えたいというだけの理由で口にしてしまうのは、
信念に基づいた行動というよりも、自分勝手な行動と感じてしまいます。
自己啓発や教育、ビジネスの分野には、
使命や天職、夢や目標を持つことが大切だという考え方が多いものです。
それだって片側しか見ていない意見だということを
知っておくのが大切じゃないでしょうか。
未来や自分の生き方を思い描くからこそ生まれる苦しみもある。
世の中には日々を幸せに生きている人だって沢山います。
小学生の「将来なりたい職業」が公務員で、
その理由が「安定した楽な老後を送りたいから」だったとしても
そういう生き方を望むのなら、それも良いと思います。
子供のうちは、自分で考えることは通常できません。
そこには周囲の意見が強く関わっています。
親の影響で描いた将来だったとしても、それしか知らないのであれば
その生き方は幸せなものでしょう。
そこに「夢を持て」と教育すると、どういう影響が出るでしょうか。
そのリスクを分かった上での『熱いメッセージ』であって欲しいと思います。
ただ、現状の大部分は、一面的に夢や目標や使命が語られている気がします。
だからこそ、それに苦しむ人たちが安心できるような
反対の側面のメッセージもまた、世の中で語られるんじゃないでしょうか。
「ありのままでいい」、「悩まないようにする」、
「今だけを生きる」、「日々の中に幸せがある」…。
夢や使命を目指すのとは真反対の生き方を勧める人たちがいるのですから、
夢や使命が大事だという考え方も、一面的だろうと思うんです。
僕が英語を教わっていたニュージーランド出身の先生は
世界中を飛び回って、自分の生きたい人生を切り開くスタイルの人でした。
彼は、数学を勉強するためにロンドンに行くと言っていました。
良く考え、良く知っている人でした。
35歳、独身。
彼には、祖国に女性の親友がいるそうです。
一番の友達だと言っていました。
その女性は専業主婦で、子育てに忙しいそうです。
あるときまでは、その先生と同じく、自分の生きたい人生を進んでいた。
が、生き方を変えたのだとか。
今では、家庭を築き、幸せな生活を送っている。
彼は、その女性の友人と年に一度ぐらい会って、
お互いの人生について報告をしているらしいです。
お互い、相手の話を聞きながら、自分の人生に誇りを持ちつつも
もう一方の喜びに憧れを感じる、と。
自分の人生を自ら切り開き、描いた未来に向けて突き進むのか、
大きな刺激は少なくとも、幸せな日々を過ごすのか。
この二人の関係は、「お互いに相手の世界を知っていて
それぞれが、どちらか一方を生きている」という意味で、
真逆ながら対等でもあると言えます。
ですが、一般的に言えば、彼の生き方は少数派でしょう。
多数派が目に入るという点で、彼が
「大きな刺激は少なくとも幸せな日々」を知る機会は多いはずです。
そちらに憧れを抱く気持ちが生まれるのは自然だと考えられます。
一方、多くの「大きな刺激は少なくとも幸せな日々」を生きる人が
彼のような生き方に触れる機会は少ない。
話には聞いても、「自分もそうしたい」という人は多くないでしょう。
幸せや苦難は個人で感じるものだとは言っても、
「知ってしまった」からこそ生まれる苦しみや困難は
多くの人が知らない「自分で切り開く」生き方のほうが大きいと言えます。
自ら踏み出した新たな世界には、
そこを「知らない」人では想像もできないような苦難がある。
同時に、以前の世界も知っているからこそ、
そちらの世界への憧れという別の苦しみも味わう。
夢や使命に向かって自ら進んでいくというのは、
それを知ってしまうからこその苦しみも伴うんです。
それでも世の中には、どういうわけか、その苦しい道を選ぶ人がいる。
幸か不幸か、その道を知らされてしまった人なのか、
自ら選んできた人なのか。
いずれにせよ、「知ってしまった」人たちには報われてほしいと思います。
僕は、そんな人たちを応援しています。
2011年08月01日
相手の身になって
夜、コンビニからの帰り道、後ろを歩く2人組の会話が聞こえてきました。
男性の話し声は聞こえず、どんな人かは分かりませんでしたが、
女性のほうは50歳から60歳といった印象でした。
会話は途中からですから、脈絡は分かりません。
しかし、女性のほうが、こういっているのが聞こえました。
「私が言えるのは、『相手の身になって考えてみなさい』ってことだけね」
おそらく、男性の側が、なんらかの人間関係の悩みを持っていたのでしょう。
揉め事でもあったのかもしれません。
それに対して、男性は何も言いませんでした。
言えなかったのか、言いたくもなかったのか。
いたって正論です。
その答えは、あらゆる人間関係の問題を解決するヒントになるはずです。
ただ、それができれば苦労しないんです。
そうしたくない気持ちがあるかもしれません。
その前に自分の感情をどうにかしたいのかもしれません。
相手の言い分の前に、自分の側の意見を聞いてもらいたかったのかも…。
いずれにせよ、『相手の身になって考える』と
良いことぐらいは、その男性も分かっていたでしょう。
分かっていても、できない。
分かっていても、したくない。
相手の良い分や立場だって少しは考えているけれど、納得できない。
そういう複雑な気持ちを抱えている相手に向かって
正論を言ったところで、何の助けにもなりません。
それどころか、
『相手の身になって考えてみなさい』
ということを平気で言えてしまう発想のほうが、ずっと
その言葉を言われる『相手の身になって考えて』いないと思います。
悩んでいる時点で、その男性の頭の中には
少しぐらい相手の立場を考えるところがあったかもしれません。
しかし、そういう悩みを抱えている人に対して
『相手の身になって考えてみなさい』
と何の疑いもなしに正論を言える人は、
その言葉を言われる側の気持ちを全く視野に入れていないんです。
どちらが『相手の身になって考えて』いない、かといえば
明らかに、正論を振りかざしていたほうでしょう。
相手の身になって考えられる人は、
『相手の身になって』と言われる人の気持ちを考えられるので、
そのセリフは使わないんじゃないでしょうか。
男性の話し声は聞こえず、どんな人かは分かりませんでしたが、
女性のほうは50歳から60歳といった印象でした。
会話は途中からですから、脈絡は分かりません。
しかし、女性のほうが、こういっているのが聞こえました。
「私が言えるのは、『相手の身になって考えてみなさい』ってことだけね」
おそらく、男性の側が、なんらかの人間関係の悩みを持っていたのでしょう。
揉め事でもあったのかもしれません。
それに対して、男性は何も言いませんでした。
言えなかったのか、言いたくもなかったのか。
いたって正論です。
その答えは、あらゆる人間関係の問題を解決するヒントになるはずです。
ただ、それができれば苦労しないんです。
そうしたくない気持ちがあるかもしれません。
その前に自分の感情をどうにかしたいのかもしれません。
相手の言い分の前に、自分の側の意見を聞いてもらいたかったのかも…。
いずれにせよ、『相手の身になって考える』と
良いことぐらいは、その男性も分かっていたでしょう。
分かっていても、できない。
分かっていても、したくない。
相手の良い分や立場だって少しは考えているけれど、納得できない。
そういう複雑な気持ちを抱えている相手に向かって
正論を言ったところで、何の助けにもなりません。
それどころか、
『相手の身になって考えてみなさい』
ということを平気で言えてしまう発想のほうが、ずっと
その言葉を言われる『相手の身になって考えて』いないと思います。
悩んでいる時点で、その男性の頭の中には
少しぐらい相手の立場を考えるところがあったかもしれません。
しかし、そういう悩みを抱えている人に対して
『相手の身になって考えてみなさい』
と何の疑いもなしに正論を言える人は、
その言葉を言われる側の気持ちを全く視野に入れていないんです。
どちらが『相手の身になって考えて』いない、かといえば
明らかに、正論を振りかざしていたほうでしょう。
相手の身になって考えられる人は、
『相手の身になって』と言われる人の気持ちを考えられるので、
そのセリフは使わないんじゃないでしょうか。