2011年09月

2011年09月29日

間を取り持つ作業

最近、諸事情が重なってデスクワークが多いです。

これまでにも資料作りや、文章を書くことはありましたが
最近増えてきているのは、英文翻訳のチェック。

自分で資料を作る作業は、もちろん図の形やデザインを考えたり、
補足する文章を考えたりと、手を動かしていない時間もあります。

記事のような形でテーマを決めて文章を書くときも
ある程度は頭の中で思考を巡らせます。

まぁ、文章の場合には、言語化せずに情報を探って繋げて
中心的なところが決まった感じがしたら書き始める、という形ですから
ものすごく考えているという気分ではありません。

もっと「産みの苦しみ」みたいな印象が強いでしょうか。
「書くことが決まらん…」と悶々とした時間を過ごす傾向があります。

文章の場合には、書けそうな気がしてきたら手を動かし始め
あとは出てくるのに任せてキーボードを打つ感じになります。

とはいえ、やはりキーボードを打っている最中も
頭を使っている気分というのは続きます。

知らないうちに時間が流れていく…という気分ではなく
かなり意識を開いて、沢山の労力をパソコンに向けている実感があります。

なので、いつのまにか5時間も6時間も経っている、なんてことはなく
2、3時間もすれば随分と消耗してしまうのが感じられます。

その点、資料作りのほうが作業を進めている気分が強いですから
頭を回転させている印象は薄まります。

僕にとって、「作業」と感じられる時間と、
「頭を使う」と感じられる時間が両方あるんです。

そして、時間の経過が早く感じられ、かつ長時間パソコンに向かってられるのは
作業と頭を使うのと両方をやる資料作りのほうなんです。

始めるまでは、頭を使って工夫している時間があって少し苦しいんですが
一度、手を動かし始めれば後は苦しさを感じることは滅多にありません。

学生時代や研究職時代に、論文や報告書を書いていた時の状態は
今の資料作りの感じに近かった気がします。


それに対して、最近やっている英文翻訳のチェックは、
「作業」の度合いが非常に高い。
「頭を使ってる」という感じが少ないんです。

まぁ、元の内容を自分で考えていませんから、
著者の言いたいことを忠実に日本語へ変換しようと努めるぐらい。

もちろん、単調でつまらない作業というほどではありません。
頭は使っているはずです。

ただ、その度合いが小さいみたいです。

色々と気をつけることはありますから配慮はしています。
英語の文章を読んでいる時よりも、自然な日本語にしようということで
能動的な度合いは高まります。

その頭を使っている度合いは、研究の頃に照らし合わせると
実験で手を動かしているとに近い感じがします。

やることは決まっている。
それなりに注意することもある。
でも、基本的には「作業」。

同じことの繰り返しではないので飽きることはありませんが
自分で何かを生み出すときのような頭の使い方はないので
労力としての負担は小さいみたいです。

なので、長時間続けられます。

資料作りよりも長時間続けていられるんです。
刺激の量が適度なんでしょうね。

なかなか進まないもどかしさは感じますが
反面、気づくと時間が経っているという状態。

意外と悪くないと思っています。

難点は、物理的に時間を取られてしまうこと。

文章を書くときや資料を作るときは、ずっと手を動かすわけではなく
頭を働かせている時間もありますから、時間の調節もしやすいんです。

気分転換のように他のことをしながら、頭のどこかでアイデアを練る。
そんなこともしています。
ですから、ブログを書いたり、食事をしたり、本を読んだり…
と、ある程度の時間をまとめることができていました。

それが、作業の比率が高くなると難しくなります。
締め切りがあったりすれば、もう仕方なく時間を費やすしかない。

この感じはチョット新鮮というか、どこか懐かしいというか。

実験で手を動かしていたとき、スケジュールが立て込んでくると
流れ作業のように曜日や朝夜関係なく作業をしていたものです。

なんだか、そのときのような「そこそこ楽しい作業を続けている」
気分に近いものを味わっています。


ということで、基本的には嫌じゃないんですが…。

翻訳『チェック』のはずなのに、半ば『添削』になっているのが
心中複雑なところです。

プロの翻訳チームに出して帰ってきたものを、
専門用語をベースにチェックすることになっているんです。

確かに、そういう用語の問題で修正するところもあります。

が、文法的に滅茶苦茶だったり、
文章の構成として意味が通ってないのに平気で放置されていたり、
英語として読めていないとしか思えない日本語訳があったり…。

職業としてやっているはずなのに、いささか疑問が沸くことがあります。

多分、何人かで手分けしているんでしょう。
綺麗な日本語にしようとしている人もいます。

一方で、明らかに変な癖があって、毎回同じ『間違い』をしている人もいます。

ハッキリ言いますが、『間違い』なんです。
訳す時の問題か、英語力の問題か、日本語力の問題か、
英語のテストだったら、「バツ」がつきます。

英語圏の国語としての「 English 」のテストでも不正解でしょう。

なので、翻訳「チェック」なんて気軽な気分ではありません。

専門用語でも何でもないところでオカシイんです。
ある程度は、著者の意図に近い形になっていて欲しいものですが…。

想像していたのは、
 訳された日本語を読んでみて、用語として奇妙なところをチェック、
 元の意味が想像できなければ英文に戻って修正する
ぐらいのつもりでした。

が、実際の作業は、
 まず英語を読み、書かれている日本語と照らし合わせ
 元の意味と違うものになっていないかをチェック、
 その過程で気になる用語を修正する
という感じ。

元の英語を読まずに流せる状況ではなくなってきました。

きっと忙しい状況で細かく読まずに訳したんだと思います。
見直したりする時間もなかったんでしょう。

あとで考えるつもりだったところを残しておいたら、
忘れてしまって、文章になってないところもできてしまったんでしょう。

日本語になったものを読む人には、元の文章は分かりませんし、
著者の意図も、伝えられている情報の確かさも、知るすべはありません。

無視してしまったって誰にも知られることはないかもしれません。

でも、僕は、著者と日本人読者との間に偶然入ってしまったので
それを無視するわけにはいかない気持ちになっています。

これを書いた人がどんな気持ちで、どんな労力を注いだのか。
これを読む人が、どんな思いで手に取るのか。

その両方を思えば、間にいるからこそ丁寧にやりたいことがあります。

多分、僕は宅配便の配達の仕事をしても、
荷物を無駄に丁寧に運んでしまうんだろうと思いました。

2011年09月27日

10月の勉強会

10月の勉強会のお知らせ

もう10月も間近となり、開催まで約3週間ですが、
次回の勉強会のご案内です。

この勉強会では、どちらかというと「受け取る」側の
コミュニケーション技術を扱うことが多いと感じています。

ですが今回は、発信側を扱います。
情報を伝える側のコミュニケーション技術ということです。

テーマは『メタファー』。

喩えを使ってメッセージを届けるやり方です。


メタファーの良い点は、相手が勝手に解釈して気づいてくれる部分でしょう。

気づくタイミングにないときは、気づかないんです。
直接的に伝えてしまえば影響の大きいことも、メタファーで間接的に伝えると
気づきを促進するぐらいの程度に抑えることも可能です。

直接的に指摘したり、無理やり気づかせて傷つけるリスクが小さいわけです。

「時期が来たら、気づきのキッカケになるかもしれない…」ぐらいの
相手自身に委ねた介入かもしれません。

そうはいっても、相手に影響を与えることを前提としているメッセージです。
メタファーで介入した結果、相手に別の問題を生み出しては困ります。

配慮すべきポイントがあるということです。

ですから、メタファーの作り方を練習するだけでなく、
メタファーの効果的な使い方も練習しようというのがコンセプトです。


メタファーは間接的なメッセージだからこそ、使い方にはコツがあります。

ここに注意しないと、単なる「回りくどい」言い方として受け取られたり、
お説教や教訓を聞いたような気分にさせてしまったり、
逆に、全く記憶に残ることなく流されてしまったりすることになります。

間接的なメッセージを相手がどのように受け止めるか…
これを伝える側自身で、ある程度コントロールできることも望まれるでしょう。

もちろん、意図したことと違っても相手に役立てば良いわけですが、
役立たない形で解釈されてしまっては残念なのも当然だと思います。

相手に意図したメッセージが伝わりやすい方法をトレーニングします。

このメッセージの「伝わりやすさ」を決める内容は、
メタファーの場合のみで効果を発揮するものではありません。

間接的なメッセージの中で、重要なポイントを強調するわけですから、
より直接的なメッセージになれば、ポイントはさらに明確にできます。

より日常的なコミュニケーションにおいて、何かを説明する際にも役立ちます。
メッセージ全般において、効果的に伝える方法として役立つ内容のはずです。

「説得力のある、分かりやすい伝え方」に対するトレーニングにもなります。


分かりやすさや伝わりやすさ、あるいはメタファーに対する解釈の仕方は
話を聞く側である相手の個性によって大きく異なります。

メタファーや話し方の技術を、
伝える側だけの立場から解説するだけでは不十分
になる可能性があるということです。

ですから、発信側のコミュニケーション技術でありながら
メタファーを扱っていくうえでは、相手の情報を「受け取る」技術も欠かせません。

相手をより良く理解できるほど、相手に合わせたメッセージを届けることができ
結果として相手に望ましい影響が期待できるわけです。

メタファーという発信側の技術の訓練であっても
相手を理解するためのトレーニングも欠かせないんです。

メタファーの達人としてミルトン・エリクソンを思い浮かべる人は少なくないでしょうが
まさにエリクソンの強みも、相手に合わせたメタファーを選べたことにありそうです。
そのためにエリクソンは、並はずれた観察力を駆使していたと言われます。

観察や会話を通して相手を理解し、それに応じたメタファーを作っていきます
これが今回の勉強会の主要な目的になると予測しています。


同時に、メタファーから派生して、あわせて
直接的で論理的かつクリアな説明の仕方も練習します

メタファーを作るために工夫した情報を、別の形で使い分けると
今度は分かりやすい説明の仕方の技術も向上させやすくなるはずです。

分かりやすいストーリーの強調の仕方は、そのまま流用でき、
加えて話の構成を、メタファー特有のものから論理的なものへ
効果的に変更することで、クリアな説明になっていくというわけです。

話の全体的な構成を変えるためには、自分が話している内容が
どのくらい抽象的/具体的なのかをコントロールできるのが効果的です。

それは、メタファーというものの性質が、話の抽象度(チャンク)を
コントロールすることと密接に関わっているからです。

話の具体性に注目しながら全体の構成を眺められるようになると
メタファーを考える際にも、ポイントを明確にするための工夫が分かってくるはずです。


ということで、今回のテーマは
 『メタファー 〜伝わりやすさと影響力の工夫〜』
とします。

今回トレーニングした内容は、日々の会話や文章などでも意識できるものです。
日常的に心がけることで、成果にも繋がりやすいと予想しています。

メタファーという技術そのものに興味のある方だけでなく
効果的にメッセージを伝えることに関心のある方にも役に立つ内容だと思います。

何より、今回のような形でトレーニングを行うと、
 話をする側に立った時にも相手に対して配慮する意識が高まる
と期待できます。

相手に過剰な期待をかけなくなります。
相手に合わせて、適切な対応を取りやすくなります。

プライベートであれば、好き勝手に話しても
それを分かってくれる相手がいると心地良いものだと思いますが、
目的意識をもったコミュニケーションの場においては
伝える側にも工夫できる余地が沢山あるはずです。

その工夫で、より相手の望んでいることに近づきやすくなるのではないでしょうか。

大切な関係性は、そのとき一瞬だけのものではありません。

その瞬間の誠実な対応が将来に繋がっている。
信頼感は、長い時間をかけて積み上がっていくものかもしれません。

少しでも自分にできることをしよう、という姿勢は
目に見えない範囲であっても誰かの心の中に残っていっていると期待しています。


今度の開催は、日曜日です。
ご都合がつきましたら、是非お越しください。



<ご参加に際しての注意事項>

※NLPの専門用語の説明などは省略するつもりですので、
 NLPなどに対する知識と経験のある方、もしくは
 過去に勉強会でトレーニングを積まれた方
のご参加をお薦めします。

 ☆気がかりがありましたら、お問い合わせください。

※諸事情により資料作成にかけられる時間が限られていますので
 ご用意できる資料が不十分になってしまう可能性があります。

 その点をご理解いただいた上で、ご参加ください。



  定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。

  ※勉強会の趣旨に関しましては、こちら(勉強会070725)をご覧下さい。


詳細は以下のとおりです。




【勉強会の詳細】

≪定期勉強会≫
【日時】 10月16日(日) 10:00〜16:30
         ★今回は終日でのご参加となります。

【場所】 滝野川会館 304集会室
    (JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
    (JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)
    (東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)


【参加費】 ・・・7,000円
       当日、会場にてお支払いください。

【テーマ】 『メタファー』〜伝わりやすさと影響力の工夫〜


 *多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
  学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
  ご了承ください。




メタファーというと、催眠とセットになって練習される機会が多いようです。

それは非常に有効です。
トランス状態で学んだことは、かなり自覚しないレベルで多くを取り入れられます。

多くの人が身につけてきた催眠のフレーズは、その大半が
教わった人が使っていたものを、そのまま取り入れていたりします。

これは日常で考えると難しい部分でもあると思います。
普通に話を聞いていて、相手のフレーズをそのまま覚えてしまう。

仲の良い関係だと、口癖ぐらいは移ったりしますが、
様々なフレーズを覚えるところまでいくと、多いことではないでしょう。

言語学習が始まるような幼少期では、意識さえ未発達な状態ですから、
もしかすると意識が低下したような状態で言葉を学ぶのは
とても効率的なのかもしれません。

「英語を催眠で学ぶ」なんていうのも面白いと考えているぐらいです。

ですから、メタファーを学ぶのにも催眠とセットにするというのは
効率的な方法の1つだろうと思います。

一方、ここでいう「効率的」というのは「効果的」ではありません。

効率的は「短時間で」というニュアンスを含みます。
トランスを介すと、短時間で学べる可能性がある、というわけです。

しかし、今回扱いたいのは、誰かが使っているメタファーを
「短時間で」取り入れて、気づかないうちに使えるようにする…
というものではありません。

一人ひとりが、自分で意識的に工夫をして
しっかりと内容を吟味して、より「効果的」なメッセージを作る作業です。

沢山のことを配慮しながら、相手にとって「効果的な」メッセージにするんです。


コミュニケーションには、伝える作業と受け取る作業があります。

どちらの能力もコミュニケーションに大切ですが、
どちらを優先するかは個人の生まれ持った特性に関係している気がします。

野球に例えるなら、「伝える」が攻撃、「受け取る」が守備…
ではないでしょう。

やはり多くの人が言うようにキャッチボールのほうがイメージは近い気がします。
「投げる」側と「捕る」側がいる。

投げるほうは、ある程度までは壁に向かって投げていても
コントロールを良くしていくことができます。

しかし、実際には相手の「捕る」能力に応じて
捕りやすいボールを投げたり、練習になるようなボールを投げたり、
といった相手への配慮が求められる。

ただ、コミュニケーションがキャッチボールと大きく違うのは
「一度にボールを沢山投げる」ところです。

誰もが全てのボールを捕れるわけではありません。

沢山投げられたボールの中に、捕ってほしいものがあるんです。
それを捕れるかどうかが、コミュニケーションのカギのように思えます。

投げるほうは、できるだけ相手が捕りやすくボールを投げる。
投げる数をなるべく減らす。
捕ってほしいボールがどれなのかを分かりやすくする。

メタファーとは、沢山投げたボールの中で
1つだけ足元をゆっくりと転がってくるボールのようなものでしょうか。

決して顔の前に捕りやすく投げられたボールではない。
けれども拾おうと思えば拾える。
それを「せっかくだから拾っておこうか」と思ってもらえる。

そんなボールの投げ方かもしれません。

どんなボールの投げ方があるのか。
頭を柔軟にして楽しみながら、
工夫の仕方を練習してみたいと考えています。

終了しました

トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。


是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。

今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。


また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。


【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。


勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。

その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。

また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。

調査して勉強会にあたります。



それでは当日お会いできることを楽しみにしています。

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2011年09月26日

自分の気持ちの意図を知る

自覚して何かをする、というのは難しいものですが、
こんなに大切なことはないと思います。

僕がセミナーやワークショップをするにあたって
トレーナーとしてのスーパーバイズを受けていたとき、
耳にタコができるぐらい言われ続けていたのが、このことでした。

自分が無自覚にやっていることが受講生に影響している。
それを自覚して直しなさい、と。

自分の口癖や、姿勢・動作の癖などが全てインストールされるから
責任を持って振る舞うようにと指導されていたんだと思います。

単純に「こうやりなさい」「ここに気をつけなさい」ではなく
「どういう影響が出ているかを考えなさい」だったと記憶しています。

「こうやってやるのが正しい」「プレゼンは、こうやるものだ」と
決めつけてやっている場合には、また無自覚になっていきます。

「正しいことをやっている」というスタンスが与える影響があるわけです。

「正しいことをするのが、正しい」と、言葉以外の部分でメッセージを伝えている。
そこに大きな影響があるということです。


逆にいえば、世間一般で「良くない」とされていることでも
それを自覚して行えば、何かのメッセージを持つこともあります。

僕がセミナーに参加したことのある外国人トレーナーの中には
かなりハチャメチャな人がいました。

リチャード・バンドラーや、その弟子であるオーウェン・フィッツパトリックなどは
典型的なハチャメチャぶりを見せることがあります。

オーウェンは、受講生に対しては効果的なプレゼンの方法を伝えるのに
それを自分ではやっていないときが多かったものです。

テーブルに座って話をしたり、アイコンタクトを取らないで下を向いていたり。

手に持っているホワイトボード用のマーカーをいじっていたり、
ペンを投げ上げながら話をしたりすることもありました。

プレゼンテーションの教室に行ったら怒られるようなものばかりでしょう。

それを無自覚にやっているとしたら問題があるかもしれません。

しかし、日本人の受講生の多くは真面目です。
講座中に話を聞くときも真面目です。

真剣なのは良いんです。

しかし、「こうしなければいけない」「こうすべきだ」という姿勢が
何かを学ぶ場合にさえ「勉強とは、こうやってするものだ」という
無自覚なままの決めつけを生み、柔軟性を奪っている可能性があります。

それに対して、言葉で「真面目になり過ぎずに、楽しみながらリラックスして」
なんて言われると、今度はそれが「正しい」と思いこみ始める。

そうやって教育を受けてしまうと、自分がトレーナーをやるときには
「学びはリラックスして楽しんでやりましょう」などと強調するようになり、
過剰なまでにリラックスと楽しさを強要するようになったりします。

真剣に考えたい人や、なんとか自分の課題を解決したくて参加する人には
居心地の悪い空間を作ってしまいかねないわけです。

真面目なものだから、リラックスすることに真面目になるんです。
柔軟性を大事にしようとして、柔軟であることに固執してしまったり。

大事なことを言葉で伝えると、こういうリスクが生まれます。
一生懸命に意識的に心がけるあまり、ジレンマに陥ってしまう。

それよりも、トレーナー自身が態度で影響を与えていくと
なんとなく適当な感じを伝えていくことができるんじゃないでしょうか。

言葉にせずに、全体に緩い雰囲気を作る。
リラックスしてくださいと言わずに、リラックスしてしまう雰囲気を作る。

その場にいるだけで、凝り固まっていた考えが緩み
「こうすべきである」という思い込みが減っていくような効果。

そうしたものを狙うために、意図的に振る舞っているとしたら
一般的にはハチャメチャで良しとされない態度であっても
自覚しながらすることで意味のあるものになるはずです。

どんなに「良い」とされている振る舞いでも、正しいわけではないんです。

ある場面においては役に立つけれど、それが裏目に出る場合もある。
だからこそ、自分がしていることに自覚できるようになって
目的とするコミュニケーションのために自分で選択できると望ましいでしょう。


ルールやモラル、マナーのようなものでも同様だと思います。

そこには意図があるんです。
何かの場面で、有効に機能するように込められていた意図があったはずです。

それを「正しい」こととして取り入れてしまうと、
その意図が失われてしまいやすいんです。


僕が食事をしにいく店で、丁寧なサービスをしているところがあります。
いたって普通のチェーン店ですが、ホールマネージャーの教育で
接客のマニュアルにアレンジが加わっているんでしょう。

他店舗では行われていないことがマニュアルになっているようです。

そのうちの1つに、木製のスプーンを出すことが挙げられます。
お箸では食べにくい可能性がある食べ物に関しては
最初からスプーンとお箸を一緒につけて出す、というルール。

元々は別メニューのために用意されているスプーンだと思います。
でも、食べにくい人のために、と最初から出すことにしたんでしょう。
「スプーンがあると良いなぁ」と思っても、それを言う人が全員ではありませんから。

そのアイデアを出した人がいて、それがマニュアルとして採用された。
この段階でルールになったと言えます。

そして、意図が失われた。

ルールを守るだけのアルバイトは、作業の意図に自覚がありません。
決められたことだからしているだけなんでしょう。

そのスプーンは全店舗共通のマニュアルでは無いでしょうから
スプーンを出すときのための「物」レベルでの対策はなされていません。

お箸であれば、箸袋という「物」のレベルで、清潔感を維持できます。

スプーンには、そうした「物」レベルの対応がないために
「作業」レベルで同様の清潔感を出そうとしていたんだと思います。

少なくとも、サービスのアイデアを出し、マニュアル化した人は
その意図を持っていたはずだと推測できます。

スプーンは、紙ナプキンと一緒に出されます。
一応、紙ナプキンの上にスプーンが置かれる形がマニュアルのようです。

意図が分かっている数名の店員は、そのスプーンが確実に紙の上にあって
直接スプーンがテーブルに触れることのないように注意して置きます。

一方、ルールに従うだけで、意図を分かっていない店員は
紙ナプキンと一緒にスプーンを出すだけで、スプーンが紙から離れ
テーブルに触れていても気にする素振りさえ見せません。

個人的には、スプーンを使いませんから気にはしていませんが、
そのアイデアを出した人の心意気が伝わっていないのは残念に感じます。

どんな行動でも、発想でも、その背後にある意図を自覚できているかどうかで
意味が全く別物になっていくと思うんです。


特に人間関係では、自分の行動や気持ちの裏側にある意図は
かなり自覚しにくいものだろうと思います。

なんでこんな気持ちになるのか?
今、自分がこんな話をしているのは、どんな意図があるのか?
こういう態度を取っているのは何を期待しているからなのか?

そんなことさえ考えないほうが普通だと思います。
それを考えようとしても、なかなか自覚できるものではない。

ですが、自分にとって大事なもののときほど、
その背後にある意図を知っておくことが大切な気がします。

僕が「貢献」という言葉を好まない理由は、
その単語を使うと注意が他人に向くところにあります。

自分の本心に注意が向きづらくなるんです。

結果として、自分が貢献しようとすることの意図に無自覚になる。

自覚していれば、もっと素直に、好きなこととしてできるものが
決まり事になってしまったりもするでしょう。

「相手から感謝されるのが好き」「人の笑顔を見るのが好き」
「皆から注目されるのが好き」「他人から尊敬されるのが好き」
…どんな理由であっても、「〜が好きだから」という意図が明確ならば
堂々とそれをすれば良いと思うんです。

その気持ちを覆い隠すように「貢献」なんていう言葉で飾る必要はないでしょう。

貢献するとか役に立つというのは、手段です。
目的は、その先にあると思います。

2011年09月23日

気持ちが表れる

家電量販店に行きました。

メインの目的は、プリンターのインクと、A4用紙を買うこと。
紙は色々と種類があるので、僕には値段だけでは決めにくいんです。

なので、店員にサンプルがないかを聞きました。
そうしたら、その人はサンプルを見せてくれるだけでなく、
値段と、紙の白さ、厚さ、在庫の量などまで教えてくれました。

こちらのニーズを聞いてから、というのではありませんでしたが
本人が一番良いと信じている情報提供の仕方をしているような
清々しさが感じられました。

おかげで、とてもお買い得な紙を買えた気がしています。


途中、足を延ばしてパソコン売り場を見学。
買うつもりは全然ありませんが、相場を調べるようなつもりでした。

僕としては、パワーポイントが入っているほうが望ましいので
たまたま寄ってきた店員に、パワーポイントが入っているかを聞きました。

その店員は、どこか特定のメーカー担当でしたが、
そのメーカーの品物にはパワーポイントが入っていないのを教えてくれた上に
どのメーカーの、どのラインナップに入っているかも教えてくれました。

まぁ、アルバイトでしょうから、担当しているとはいえ
そのメーカーに特別な愛着があるわけでもないでしょうから、
他のメーカーを勧めたところで何の問題もないと思います。

しかし、それ以上に、その人の飾りのない対応に好印象を受けました。
笑顔が良いわけでもなければ、親切な感じでもない。
ただ、素直に「知っていることなら教えます」というような
一切の利害関係を気にしない自然な対応に思えたんです。


また、最近のパソコンには初期設定からUQWiMaxが入っているのが多く、
その設定について気になったので、話しかけてきた店員に質問しました。

すると購買に関する質問ではないことを察知した途端に
激しい怒りを隠しながらの対応に早変わり。

言葉だけを切り取れば、そこに問題のある対応は無かったでしょうが、
僕には、その表情と、アゴの角度の変化と、全身の強張りと、声のトーンから
不愉快なまでの怒りを向けられていることが感じられてしまいました。

表面上は不満を隠して対応しようとしているわけですから、
文句を言うこともできません。

ただただ、嫌な気分だけを味わいつつ、売り場を後にしました。


そして、1Fの出口から出ようとすると、
イーモバイルのキャンペーンが開催されていました。

僕は、イーモバイルのサービスが開始されたときに申し込んで
ずっと使い続けていたんですが、途中で契約形態を変更していませんでした。

その結果、随分と無駄な費用を払っていたようだったので
最近、新しい機種で安いプランに変えようと思っていたんです。

で、その件を担当者に話してみました。

いかにも電気屋の店員という振る舞い。
軽妙なトークのようでありながら、どこか「ひけらかし」感が否めない。

僕としては、最初から変えるつもりで話しかけたんですが、
どうやら、そのキャンペーン期間中に契約を取ることがノルマなようで、
物凄く営業の雰囲気をプンプンさせて話してきます。

新しいプランの契約の方向にコントロールしようとする態度が鼻につき、
最初から変えるつもりだったのに、嫌気がさしてきました。

まぁ、でも再び足を運ぶのは手間になるので、仕方なく契約変更することに。

その間中ずっと、なんとかして契約を取ってやろうという雰囲気と
逃げ場をなくすように話を進めようとする戦略的な態度、
にもかかわらず「でも無理にとは言いませんよ、まぁ、損するのは貴方ですけど」
とでも言わんばかりのダブルバインドな口調を駆使していました。

人を金儲けのターゲットとでも見ているかのようなスタンスや
他人を操作できる自分の能力に酔っているかのような振る舞いが
僕個人の好みに全く合わなかったので、なんとも気分の悪い時間でした。


そういうのが気にならない人も沢山いるんだと思います。

コミュニケーション技術とか、マナーとかの問題ではなく
表面上は問題のない対応の奥にある心情が気になってしまっているみたいです。

気にしなければ良いと言っても、なかなか難しいようです。

むしろ、誰と話すかを徹底的に気にしたほうが良いのかもしれません。

2011年09月21日

直接の指導

書道を始めて2年以上が経ちました。

厳密にいえば、子供のころにやっていたので「再開」なわけですが、
まぁ、幼少期の経験は、あまり重要ではなかった気がします。

数年前(書道教室に通い始める前)の年賀状が出てきて、その中にあった
宛先不明で戻ってきた自分の書いた年賀状を見たときは
筆ペンで書かれたその文字にビックリしたものです。

…あまりにも無残だったので。


そう思うと、この2年と少しの間に、随分と技術がついてきたんだと実感します。

それは数年前のノートやメモ書きを見ても思います。
こっちは鉛筆やボールペンの字ですが、やはりバランスの取り方が違う。

サラサラッと殴り書きにしているので汚い文字であるのは同様なんですが、
その汚さの奥にある線の動きの流れや、全体の形には差があります。

書道は練習の積み重ねとしてやってきたものですから、
その成果は短期間の違いとして見にくいようですが
ある程度の時間をまとめて振り返ってみると変化に気づけるようです。


僕の習っている先生は、古典の臨書を徹底的にやらせます。

中には別の団体で師範を持っていたり、学校で書道を教える人もいるようですが、
どんな人でも練習の内容は同じです。

ある程度、「習字」をやってから、「書道」に移ります。

先生は、どうも「習字」と「書道」を使い分けている様子。
「習字」は、ただ形のバランスを整えるだけの綺麗な文字を書く練習。
「書道」は、線質にこだわり、紙の上で表現される白と黒の美しさを追求するもの。

そんな感じでしょうか。

「習字」の段階では、使う筆も紙も違います。
摩擦の量が少ない組み合わせを使うので、動作の主目的は
筆先の動きを安定させることになるように見えます。

なので、シンプルな動きが多い。
手首の高さを変えず、腕で平行移動させるようにして安定させる感じです。
まぁ、いわゆる「習字」の時間で習うようなイメージのままです。

全ての生徒は、最初の数カ月、この「習字」をやります。
「いろは」48文字を一通り練習するんですが、この時に書かれるお手本は
先生の中で「習字」モードになっているはずです。

とはいえ、当時の自分にとっては非常に難しく、しかも
小学校のときにやっていた方法と大きく違う書き方に戸惑っていたものですが。

そして、一通りの「習字」期間を終えると、徐々に「書道」モードに以降します。

先生のお手本は、古典的名作の臨書になると、完全に「書道」モードです。
色々と、生徒に合わせて細かい技術をお手本に込めてくれるようですが、
基本的には、先生の書き方の基準は「書道」レベルで統一されます。

(ちなみに、臨書の段階に入ると、生徒が苦手な筆運びを指導するために
 わざと、その部分を強調した形でお手本を書き、
 自然と苦手な筆使いを練習できるように工夫しているという話でした)

先生が臨書のお手本を「書道」で書いていたとしても、
それを練習する生徒が、いきなり「書道」になれるわけではありません。

筆運びに慣れてきた頃合いを見計らって、「習字」用の筆と紙の組み合わせから
徐々に「書道」用の道具へとオススメがなされます。

筆と紙のコミュニケーションが、より鋭敏に感じられる道具へとシフトするわけです。

そして、書き方のレベルで「書道」の筆使いを学んでいきます。
古典の臨書からは、この筆使いを学ぶことが重要だと言われます。

筆使いが上達してくると、表現できる線質にも幅が出てきます。
美しい線が書けるようになる。

といっても、どの線が美しいのかどうかを判別できるようになるためにも
ある程度の経験が必要になるわけですが。

で、色々なバリエーションで美しい線を追求し、筆使いを学ぶ段階に入っていくと
今度は更に、筆と紙、墨の組み合わせにも指示が出るようになる。

筆使いを学ぶために適切な道具から、「書道」の表現ができるようになるための
道具の組み合わせに移っていくわけです。

その後も、教室に通い続ける以上は、ずっと臨書を続けます。
練習は全て、先生のお手本を見て書くという形。
そこに込められた全てが学ぶ対象になります。


僕はといえば、職業的にも、個人的な特徴としても、
とにかく細かく注意を向ける性質がありますから
書道の学び方も詳細を追求してきました。

たぶん、他のどの生徒よりも細かい自信があります。

元々、僕が書道を始めた理由は『モデリング』を実践するためでしたから
始めたころから妥協なく模倣に励んできました。

書道は、紙の上に書かれた文字という結果を追求します。
お手本を元に学ぶとすると、その文字を模倣しようとするわけです。

ここで、どれぐらい細かく見られるかが差を生みます。

なんのことはありません、モノマネだと思ってもらえれば。
モノマネがどれぐらい似ているか、贋作が真作とどれだけ見分けがつかないか、
というのと同様に、模倣の作業においては細かさが重要です。

細かくないと、真似たつもりになっているだけで
自分が真似できていない部分に気づかなくなってしまう可能性があります。

それで自分だけが楽しめれば良いなら、細かい必要はありません。
しかし、世の中には違いに気づける人がいます。
その人たちの目は、ごまかせません。

見る目がある人たちからは、
「なんとなく違うんだよなぁ」と全体的な印象で違うことを指摘されるか
「ここが、元のものと、こんな風に違う」と詳細に指摘されることになるでしょう。

少なくとも、その道で活躍している人たちには、全体的な印象として
「名作」を見極められる眼力が養われているはずです。

上達するということは、その審美眼の中に結果を出していけるということ。

そのために、先生がいるんだと思います。

先生なしでも名品と自分のパフォーマンスとの違いに気づける人はいい。
そうでない場合には、違いを指導してもらい、修正していく必要があるわけです。

書道教室では、その添削が先生の腕として表れるんでしょう。
そして、自然と修正されていくような手本を書くのも、また腕の見せ所。

その意味でも、毎回の教室での先生のお手本書きは学びになります。


僕は、もちろん先生の動作を見ることに集中しています。

紙の上に書かれた文字を模倣するためには、
紙の上を進む筆の毛の動きを模倣する必要がある。

筆の毛の動きを模倣するためには、筆全体の動きを模倣する。
筆全体の動きを模倣するには、筆の動かし方を模倣する。
筆の動かし方を模倣するには、体の使い方を模倣する必要がある。

お手本を書いている姿を見られるのは、文字という結果だけでなく、
そこにいたる全てのプロセスを観察できる意味で、非常に勉強になるんです。

そして、コミュニケーションの専門家としての視点から先生の能力を見ると、
先生が書くときの状態には、周囲を巻き込む影響力があります。

影響力というのは、例えば、泣いている人がいると
その場の空気が全体的に悲しい感じになるようなものです。

その人が泣き始めると、全体が涙の渦に飲まれていくような
それだけの周囲への影響力を持った人というのがいるんです。

それは近くにいる側の感受性だけの問題ではありません。
感受性の高い人は、泣いている人が誰でも影響を受けて、涙を流します。

影響力が大きい人は、普段だったら泣いている人を見ても泣くことのないような
周りからの影響を受けにくい人でさえ、涙の渦に巻き込めるわけです。

なぜか、あの人がいるだけで、その場が明るくなるとか、
大観衆を引き付けるようなカリスマ性があるとか、
そういったものと近いと言えるでしょう。

で、先生の「書道」モードには、そういう影響力があるようです。

多分、他のどの生徒も気づいていないと思いますし、僕も指摘はしませんが、
先生の影響に生徒が巻き込まれていると解釈できるようなケースが多いんです。

先生はタバコを吸いますし、声が低い。
そのためかどうかは別にして、非常に多くの生徒が
先生にお手本を書いてもらっている間、隣に立っていると、咳きこみます。

不思議なぐらいです。
それまで一度も咳をしていなかった人が、先生の隣に来ると咳をし始める。
僕も、他の場所では咳をしていなかったのに、急に咳が止まらなくなったり。

もう1つは、腸の動き。
先生の近くに立つと、多くの生徒が空腹時の音を出します。
「ぐぅ〜、きゅるるるー」という音です。

離れて立ってる人からは聞こえません。
先生の近くに行くと、多くの人が空腹を感じるみたいです。

僕は、空腹であっても腸が動いて音をだすことは少ないほうですが、
なぜか先生の近くでお手本書きを見ていると、腸が動き始めるのが分かります。

不自然なぐらい誰もが、腸の活発な動きと、咳こむような喉の苦しさを感じる。
そんな空間があるんです。

それだけの影響力を持って書道をしている場に身を置くと、
筆の使い方や体の意識の向け方、動作の癖なども自然とうつるようです。

トランス状態だと学習が速やかになったり、癖が移りやすかったりするのと同様。

そこにもまた上達を促進させることのできる指導者としての才能があると思います。
直接習っているという経験そのものが学習を促進してくれるわけですから。


面白いと思ったのは、そうした中で、自分が自然に真似していた動作があったこと。

別の生徒のために、先生が筆の使い方を細かく解説していたことがありました。
それは僕が今まで聞いたことのない説明。

どうやら、その生徒が苦手な筆使いだったようで、
細かく解説する必要があったんでしょう。

僕にとっても、その説明は驚きでした。
「そうやってやるんだ!」と感心したのを覚えています。

「なんだ、教えてくれれば良いのに…」と少し損した気分とともに
次の練習のときに意識をしてみることにしました。

で、実際にその筆使いをやってみようと注意をむけたところ
全く意識することなく、筆は先生の解説通りに動いていました。

できるだけ先生の筆使いに関わる全ての動作を見ていたつもりでしたが、
その筆の動かし方の解説は、ちょうど見過ごしていた部分だったんです。
だから、言葉で説明されると新しい説明に思えた。

ところが、動作に注意がいかず見逃してしまっていた部分であっても、
その結果となる文字の線質を細かく模倣しようと努力していたことで
どうやら自然とその筆使いを身につけていたようなんです。

先生が解説をしなかったのは、僕の書いたものを見る限り
その筆使いができていると判断したからかもしれません。

最終結果として紙の上に書かれる文字。
その模倣を徹底的に追及していくことと、
達人の影響力が及ぶ空間で直接の指導を受けることを続けると、
意識的に模倣する以上に多くのことが学べるようです。


ビデオや動画には、何度でも繰り返して見られるメリットがあります。
スカイプを使えば、遠く離れた人から教わることもできます。

しかし、同じ空間の近い場所に身を置いて、直接指導を受けることには
一度きりの経験からでも多くの学びがなされていると実感します。

2011年09月19日

失敗から学ぶ

最近のオススメ本です。
一押し。

福祉の場面を想定した「やってはいけない」コミュニケーションを
特に『言葉がけ』を中心に解説してあります。

介護に関する場面が色々と状況別に設定されているので
専門家にとっても、実際に介護をしている家族の方でも
得られるものが多いだろうと思います。

介護の言葉かけタブー集
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まず、非常に読みやすいんです。
構図や文章も見やすく、解説も平易な表現になっています。

かわいらしいイラスト付き。

あくまで「提案をしている」という体裁も、現場で働く人たちの気持ちを考えた
気配りを含んでいるように感じられます。

形式としては、1つ1つ場面を見開きで区切って、ある程度の状況設定がなされたあと、
実際になされた『タブー』の言葉がけが紹介されます。

そして、反対のページには、効果的な対応が紹介されるというパターンです。

特定の専門家が自分の考えを押し付けるようなものではない印象で、
実際、不特定多数の事例をもとに編集したような構成になっています。

ですから上手くいかなかったパターンも、実際に「やってしまった」話とのことですし、
上手くいくパターンも「効果的に対処できた」ケースをもとに説明されています。


僕からすると不満が残るのは、人物像の設定がないことでしょうか。

編者からすると、特定の事例を想定して解説しているようですから、
その人の性格や生活歴、バックグラウンドなども視野に入れて説明がなされています。

しかし、設定される状況は、あくまで一般論の範囲です。
どんな人物かは分からない。

しかも、イラストに印象を引っ張られます。

その場面で主役となる要介護者たちは、ほとんどが
かわいらしく描かれたお年寄り。

およそ、不満を爆発させるような人には見えません。

クライアントとして見たときには、その絵が物語る人物像は
自分の人生に積極的で、面倒見が良く、感情表現にも気配りのありそうな印象なんです。

関わる専門家は、その人の個性にあった対応をする限り、
相手のほうが自ら、専門家の対応に合わせて関わってくれそう。

トラブルが起きても、年配者に甘えながら「ごめんなさい!」と言えば
大人の余裕で許してくれそうであったり、
ソーシャルワーカー側が、大人の対応をして冷静に振る舞っていれば
それに合わせて大人同士の礼節を踏まえた態度で接してくれそうであったり。

とにかく、設定された状況と、イラストの絵を参考にしてしまうと、
「まぁ、個性に合った対応さえしていれば問題にはならないだろう」
と気楽に思えてしまいました。

なので、その後の解説で詳細な人物像の補足情報が出てくると
かなり印象を覆さないといけないことがあったりします。

この辺りが、ケーススタディの難しいところだと思います。

ケースを明確にするためには、詳細な情報が必要になる。
かといって、そこまでするとプライバシーの問題も出てくるし、
一般論として学びにくくなる。

文字数も増えますから、書籍としての販売を考えたときには
少し取っつきにくいものになってしまって、読者を選んでしまいます。

おそらく、この本は読みやすさや体裁から判断しても、
分かりやすくて親近感のある内容を盛り込みながら、
「問題ある対応」と「効果的な対応」を比較して紹介することで
介護の関わり方に対して『関心を高めてもらう』のが意図なんじゃないでしょうか。

ですから僕は途中から、自分なりに答えを考えながら読む、というのを止めました。
単純に状況設定と、やりがちなミスを、「あるある」ネタとして読む感じでした。

それでも幅広い実態を知ることができるのも興味深いですし、
どんなミスをしてしまいがちなのかを整理できるのも有用でした。

もちろん、似たようなケースを経験している方にとっては
非常に実用的な内容にもなると思われます。


全般的に僕が大切だと感じたのは、僕が本を手に取った理由にも繋がりますが、
この本が「ダメ」な対応を説明しているところです。

多くの技術や方法論を述べている本は、「効果的な方法」を解説します。
それはそれで役立ちます。

しかし、効果的な方法を沢山学んでいったところで、
「やってはいけない」対応に目を向けることがなければ
無自覚なままで問題を引き起こし続けるかもしれません。

問題になる対応を知っておくことは、
効果的な対応を知っておくことと同じぐらい重要なはずです。

場合によっては、効果的な対応を知っている以上に有効なこともあるでしょう。

効果的な方法は、それを知っていても、上手くできなければ効果が下がってしまいます。
しかし、問題のあるやり方は、それを回避さえできれば

100点の方法を知って、100点を目指すのは大変です。
今までは70点だったものを、100点にするのは相当な努力が必要です。

それに対して、今まで10点にも満たなかったような大きな問題点を
50点とか60点に引き上げるのは、より少ない工夫でできる可能性がある。

コミュニケーションの場合、ほんの小さな部分が
大きく悪影響するというのは特別なことではありません。

だからこそ、問題のある事例を知ることが有効なんだと思います。


何より、自分の失敗を指摘されるのは気分の良いものではありません。
教えられても受け入れにくい心情もあるでしょう。

ところが、こうやって本を通じて、他の人の失敗談を
「あるある」ネタとして説明してもらえば、ずっと内容を受け入れやすいはずです。

心のどこかに留めておくだけで、自分に対する注意点にもなる。

形式として、とても実用的だと感じます。

色々な観点から学べる本だと思いますのでオススメです。

気軽に読めますから手に取って眺めてみるのも良いんじゃないでしょうか。
…ただ、大型書店じゃないと置いていないかもしれませんが。

2011年09月17日

母国語と外国語の差

自分の日本語が、いつから今のようなレベルだったかと
最近、ふと振り返ってみました。

多分、そこには色々な進展の段階があったと思います。

まぁ、誰しも小学校の頃の自分が話していた日本語と
今、自分が使っている日本語が同じレベルだとは思わないでしょう。

小学校の頃の作文なんて、懐かしさを感じるよりも
気恥かしさが上回ってしまって読めたもんではなかったり。


振り返ってみると、徐々に技能を身につけていたんだなぁと感じます。

何十年もかけて言語運用能力を上げてきたのだとすると
外国語の習得は大変なことも当然に思えました。

もちろん、言語を運用するにあたってのベースになるような部分は
第二言語を使う際にも応用可能でしょうから、
丸っきりイチから同じだけの時間をかけて外国語を学ぶわけではないはずです。

しかし、「英語をペラペラにしたい!」と言ったときに思い浮かべる
「ペラペラ」のレベルが、自分の日本語と同等だとすると、
そのハードルは非常に高いことになりそうです。

母国語でさえ、その能力は時間をかけた訓練の結果として磨かれています。
であれば、外国語でも近い訓練が必要になるのは自然なことかもしれません。

違うのは、母国語の場合、日常的に使う形で気づかないうちに訓練されるのに対し、
外国語の場合、意図的に訓練の状況を作らなければいけないことでしょう。

若いころに海外経験が長いと、その分、外国語の習得に必要な訓練が自然にできますが、
その一方で、その期間の日本語の訓練ができないというデメリットもある。

僕の大学の同級生で、スペインからの帰国子女がいましたが
怒るとスペイン語になるというので有名でした。

その言語を積極的に使った時間が、言語能力の向上に重要なんだろうと考えられます。


さて、自分の幼いころを思い返してみると、色々な違いが浮かんできますが
日本語の聞き取りに不自由はありませんでした。

「今、何て言ったか分からなかった」という気持ちで過ごしていたことはありません。

その理由の1つの特徴は、日本語だからだと考えられます。

日本語の音は、1文字に対応しています。
なので「ひらがな」が分かるようになれば、聞き取りは自然とできるようになります。

どういう意味か分からなくても、ひらがなで書くことはできる。
そういう状態なので、知らない言葉でも「聞く」ことはできるわけです。

それで、「今、何て言った?」という聞けなかった感じは受けなかったように思います。

とはいえ、音として聞きとれていても、中身が分かっていないということはありました。

テレビを見ていると、番組の最後に
「この番組は、ご覧のスポンサーの提供でお送りしました」
というフレーズが聞こえてきます。
(今も言っているかは定かではありませんが…)

たぶん、小学校のある時期までだったと思いますが、
僕には「ご覧の」も「スポンサー」も、ボキャブラリーとして無かったんでしょう。

「ごらんのすぽんさーのていきょうでおおくりしました」
という音は分かっているんですが、何を意味しているのかは分かっていませんでした。

「スポンサー」という存在を知り、「ご覧の」が「見ている」の敬語だと知り、
やっと「ご覧のスポンサー」が頭の中で漢字とカタカナに変換できました。
そして、どういう単語の羅列かが掴めたとき、意味も分かったんです。

平均的な日本人の小学生は、日本語が話せると言っていいと思います。
しかし母国語であっても、分かっていないことは沢山あったはずなんです。

多分、文章の並び方とか、構造とか、発話の癖なんかで
音として日本語が聞けてはいるけれど、意味が分からない経験は沢山あったでしょう。

僕などは、今でも政治家の話が良く分かりません。
頭に入ってこない。

その意味では、外国語を習得していく過程でも
同様に「知らない単語」が様々な壁を作っていくはずです。

ボキャブラリーの重要性を感じます。


中学校、高校ぐらいになると随分と日本語が上達していた気がします。
作文なども、ある程度は偉そうな感じで書けるようになっていた。

しかし、作文の授業は大変だった記憶があります。
「原稿用紙5枚」なんて言われると悲鳴を上げそうな気分でしたから。

ところが今は、原稿用紙5枚分(2000字)なんて
一回のブログの記事で超えてしまうぐらい。

長くかけることの善し悪しではなく、自然と言葉が繋がるようになっているのは
当時よりも日本語力が上がっているからだろうと思います。

では、なぜ、そうなったのか?

大きかったのは、沢山書いたからじゃないでしょうか。

中学校の時なんて、夏休みの宿題の読書感想文や、歴史のまとめ、
修学旅行や社会科見学のあとの報告の作文ぐらいしか書いた記憶がありません。

原稿用紙数枚を、年に数回。
文章を書く行為自体が、その程度だったわけです。

まぁ、近頃の小中学生は、携帯やパソコンの進歩もあって
メールやブログ、SNSなどで文章を書く頻度が増えているかもしれませんが。

だいたい、中学校ぐらいの頃は、作文の種類も分かっていませんでした。
何を書いても感想文。
事実と気持ちを書くぐらい。

読書感想文と、歴史上の人物に関するレポートだったら内容は別物になるものでしょう。
しかし、当時は「歴史上の人物に関する本」を読んだ読書感想文でした。

社会科見学であれば、調べたことや新たに知った情報をまとめることが
その文章に求められる課題だったはずです。
にもかかわらず、「どこに行った」「何を見た」「楽しかった」という程度。

それでも成績はもらえていましたから、いい加減な授業だったんですね。

何を書いたら良いか、
どういうのが目的に沿っていて、どういうのが目的から外れているのか、
…そんなことは教わった記憶がありません。

もちろん、教わったところで書き分けられたかも分かりませんが。

とにかく、中学校ぐらいまでの日本語は、書くことに関してその程度。
聞いて理解できるボキャブラリーや、話の構造は増えていたかもしれませんが、
特に本を読んでいたわけでもないので、読む量も少なかったと記憶しています。

マンガが好きで、中学校ぐらいから「美味しんぼ」を読んでいたので
その文字量が一番多かったんじゃないかと思います。
「美味しんぼ」は1ページ当たりの文字量が多かった気がします。

あとは、塾で受験対策として勉強していた国語でしょうか。
テスト問題形式で、短い文章を読んで、時間内に問題に答える。
これは非常に役立ったと思います。

僕の読解力の訓練の基礎は、塾でやった受験勉強だと思っています。

申し訳ないですけど、学校の国語の授業は印象にさえ残っていません。
中学、高校ともに国語のテストは漢字だけ覚えて、
あとはテスト問題として初めて文章を読むような感じでした。

それで困らなかったのですから、
いかに塾でやった国語の受験勉強が重要だったかを実感します。


高校になると、古文とか漢文とかも顔を出しましたが、
これには個人的に興味がなかったので、今の日本語力への影響は小さいと判断します。

高校に入っても、国語の授業で文章を書く機会は少なかった記憶があります。
「国語表現」とかいうので作文がありましたが、毎週ですらなかった気がします。

むしろ、高校から理科のスタイルが変わりました。
物理、化学で実験をして、レポートを書く。

このレポート書きの作業が、それなりの頻度であったのを覚えています。
これはシッカリと書き方を教わって、書式に沿って書かねばならず、
かつ考察を加えたり、理論を調べたりと、ハードルが高かったものです。

ですが、これが役に立った。
「書く」という作業を強制されたおかげで、アウトプットに慣れた気がします。

おそらく、僕にとって日本語でアウトプットのトレーニングが本格化したのは
高校に入ってからじゃないでしょうか。

感想文ではない文章を練習したのは、この頃からです。

一方、相変わらず読む量は増えません。
僕は文学好きではありませんでしたから。
小説は一切読みませんでした。

その代わり、マンガです。

高校に入ると、マンガの種類が格段に広がりました。
青年誌に手を出すようになります。

なぜか僕は、「ヤング〜」の類には一切手を出さず、
その代わりに「ビッグコミック」シリーズや「モーニング」を好みました。
あとは「スーパージャンプ」。

ここでボキャブラリーと雑学が広がったと思います。

僕の好きだったマンガは文字数の多い物がほとんどで
詳しい専門知識を扱いながらも人間ドラマを描くようなものがお気に入りでした。

文学を好まなかった分、僕のイマジネーションの世界や、心情描写などは
マンガから学んだところが大きいはずです。

確か、この頃、初めて人前でプレゼンテーションをするのも経験したんです。
生物か何かの授業で、調べたことを模造紙にまとめて授業で発表。
緊張もさることながら、話がボロボロだったのを覚えています。


そして大学。
多分、僕の日本語を大きく発展させたのが大学の時期です。

最大の理由は、高頻度のレポートでした。

僕の通っていた学科は、全学科でも最もレポートが多いことで知られていて
3年生には毎週3回実験があって、毎週3本のレポートが義務付けられていました。

それに加えて、他の科目でも追加されたり。

データをまとめて、結果を考察する。
参考書から理論を調べて、結果と関連付けて考察する。
それらを全て文章化する。

こんな作業を徹底的に繰り返しましたから、それなりに慌ただしい期間でした。
それでもバイトもできていたので、今思えば大したことはなかったかもしれません。

当時は今と違って、レポートも手書きばかりでした。
黒のボールペンで書くのがルールだったので、
空になった芯が、みるみる溜まっていったものです。

指が痛かったのも懐かしいです。

そこでの訓練は、「考察する」という癖に結びついていますが、
日本語力と関連付けると、
 アウトプットしながら考えを整理する
ことが身に付いたのは、このプロセスでしょう。

ここで書く訓練をした量は、僕の日本語の技術において欠かせなかったと思います。

また、読む量が増え始めたのも大学の頃。
この頃から心理学の本を読み始めました。
いわゆる心理読み物です。

精神分析の講義や心理療法の講義を取っていたので(なぜか興味があった)
そこから派生して、マンガ以外の本を読むようになりました。

しかし、まだまだ読むのは遅かったはずです。


不思議だったのは、大学で研究室に配属になったとき。
そこで再び、プレゼンテーションを経験することになります。

研究方針発表みたいなことだったと記憶しています。
3年ぶりに人前で話をする、そんな感じでした。

僕の頭の中には、高校の時の悪いイメージが残っていました。

が、やってみたら思いのほかスムーズ。

文章を読む量が増え、自分で文章を書くことを繰り返してきたからでしょうか。
数年ぶりのプレゼンは、予想よりもずっと上達していたんです。

そこから、研究室生活の中で、さらに日本語の用途が変わっていきました。

ディスカッション、質問、説明、発表。
目的をもったアウトプットの量が増えていったんです。

ディスカッションするためには、話を聞きながら考えることが必要です。
丸々受け入れるのではなく、関連付けながら話を整理して聞いていきます。

質問をするには、それまでの流れの把握と、展開の予想が必要でした。
何を、どうやって聞いたら、どんな答えが得られるか?
それを意識しながら質問をするようになりました。
意図をもった質問を心がけ始めたのは、この時期です。

説明もそうです。
仲間内の勉強とか、家庭教師とかで説明するのとは違って、
質問に答えながら説明する作業は、流れを整理しながら話す訓練になりました。

発表には、もちろん慣れが必要でしたが
この頃から、どうやって楽しんでもらうか、どうやって興味を引くか、
というのを工夫していました。

それでも大学の頃は、まだ発表の原稿を用意していた記憶があります。
後半では、用意する過程で流れを覚えて、実際には読まないで発表していましたが。


というように大学あたりで、僕のアウトプットの量が激増しました。
そして目的をもったアウトプットの習慣もつきました。

ただ、まだ読むのは今ほどではありません。

そして会社に入って研究職を始めます。

ここでも実験、報告、ディスカッション、発表を繰り返しました。
学生よりも遥かに高頻度で。

毎週の報告書提出が義務で、毎週ミーティングがありました。
グループ内で発表する機会が毎週あったわけです。
そしてディスカッションで質疑応答をする。

色々と慣れた部分は多かったですが、原稿なしで人前で話す、という作業が
当たり前になったのは会社に入ってからでした。

慣れてくると、色々な遊びもできるようになりました。
落語のマクラのように、関係なさそうな話から本題につなげる、
なんていう発表スタイルも試したり。

その会社は宴会好きだったので、人前で笑いを取るために工夫していたのも
この時期がピークだったと思います。

言葉を手段として使って、色々な成果を引き出すような訓練をしていたわけです。

また、会社にいる頃から本を多量に読み始めました。
毎週末に本を買い込み、それを読んでばかりいました。
お盆や正月に山口県から帰ってくると、東京で本を大量に買い込む。
そして、それを読む。

そんな繰り返しで、心理系の本を沢山読み、ビジネス書も読み始めました。

東京に転勤になってからは速読教室に通ったりもして
とにかく読むことを沢山していました。

読むことへの抵抗がなくなり、スピードが上がってきたのも
この時期から本を読む数を増やしたからだと思います。


で、現職。

セミナーをすることで、人前で話す量が増えました。
多かった時は、年間200日を超えていたはずです。

とはいえ、ここで意識的に取り組んできたことは
言語運用能力以上に繊細な内容です。

研究職としてやっていたプレゼンとは、できることが大きく変わったと実感します。

そして、質問の仕方も随分と変わりました。
繊細な言葉がけもトレーニングしました。

意図的にアウトプットする作業において、発することのできる言葉のバリエーションは
この数年間で劇的に広がったと自負しています。

話を聞く技術も、研究活動のときとは質が変わりました。
あの頃と比べると、遥かに多くのことを同時にしながら話を聞いています。

それから、書く量も増えました。
そうです、ブログです。

自分の考えを整理するためのブログが、アウトプットの訓練として有効だったと思います。

ブログを書くときの、頭の中に思考が小さな声として聞こえてくるような感覚が
話をするときにも役立っている実感がありますから。

考えが自然と繋がって出てくる感じとか、
話しながら自分の言ったことを頭の中に残しておける感じとか、
聞いた話を頭の中に保持しておける感じとか、
そういった能力が上がったのは、ブログを書き続けたからかもしれません。


僕が自慢できるのは、振り返ってみたときに
 ある時期に集中的な訓練をしていた
ということです。

結構、日本語を上達させるための努力をしていたみたいです。
かなり無自覚なままで。

仮に僕が、今からオーストラリアに移住して、
会話の頻度が少ない仕事をしながら生活をしたとします。

日常生活で交わす会話以外に、集中的に英語を使わずに
英語圏で数年間から数十年の生活をしたと仮定するわけです。

すると多分、相手が何を言っているのかは分かるようになってくるでしょう。
正確な聞き取りができなくても、意味は分かるという感じにはなると思います。

そして挨拶とか、道案内とか、買い物とか、
「昨日はどこに行って、何を食べて、どうだった」とか
そういう話もできるようにはなっていくと思います。

しかし、何年その生活を続けたとして、いつまで経っても
僕は日本語と同じレベルで英語を使えるようにはならないんじゃないかと思うんです。

僕が日本語と同じレベルで外国語を使いこなそうと思ったら、
日本語と同じまでの訓練ではなくても、ある程度の質と量を
外国語でやる必要があるように思えました。

少なくとも、外国語で本を読み、外国語でディスカッションをし、
外国語でプレゼンをし、外国語で文章を書き、外国語でカウンセリングをする、
という訓練をしないことには、追いつかないだろうと感じます。

なかなか大変な道筋です。

2011年09月15日

貢献したいかどうか

コペルニクスが唱えた地動説は科学の歴史に大きく貢献したと言えるでしょう。
「コペルニクス的転回」という言葉が現代でも使われるほど
これまでの常識を覆す大きな進展をもたらしたわけです。

それを様々な観測結果から支持したガリレオ・ガリレイもまた
科学史には欠かせないほどの貢献をしてきたと誰もが認めると思います。

当時のローマ教皇は地動説を禁じていたために、
ガリレオ・ガリレイは裁判にかけられることになります。
裁判というよりも異端を取り締まる場だったのでしょうが。

そこで発したとされる「それでも地球は回っている」との言葉は非常に有名です。

コペルニクスもガリレオ・ガリレイも、科学に対して、人類の歴史に対して
大きな貢献をした人のはずです。

しかし、彼ら自身の中に、一体どれほどの「貢献欲求」があったのでしょうか?


心理学の類や、自己啓発、マネジメントやリーダーシップ論などの中には
「貢献」の重要性を説くものが多いように思えます。
場合によっては「人には貢献欲求というものがある」と主張するのも目にします。

僕は、この「貢献欲求」というのに疑問があります。
僕には全く実感がありません。

「貢献したい」なんて一瞬たりとも思ったことがない。

自分の本心を探っていくと、他人のためにしているに見える行動も
自分にメリットがあるからやっていると感じられます。

承認欲求があるというのは、誰もが納得できるんじゃないでしょうか。
すると貢献欲求の実態は、承認欲求であることが大半でしょう。

「大半」といったのは、あくまでも世の中には本当に純粋な
貢献欲求を感じたことのある人がいるかもしれないという配慮からで、
「貢献」という言葉を使う背景のほとんど全ては承認欲求から来るだろう、
という話です。

もちろん、承認を求めるのが悪いと言っているのではありません。
それはいたって自然なことだと思います。

むしろ、「全ての人に承認欲求がある」ということを前提にするのは
「全ての人が、食事をしなければ生きていけない」というのと同じぐらい自然で、
生きていくのに欠かせないものと捉えているということです。

そして、その自然な承認欲求は他者に対して強く向けられやすいですから、
「貢献しよう」という場合には、貢献のための行動をした結果として得られる
他者からの承認を期待しているんじゃないかと考えられます。

逆にいえば、他者からの承認が全くないとしても
その行動をしたいと思えるかどうか、ということです。

他人がどうあれ、自分がしたいと思えるか。

自分がしたことなのに、誰にも感謝されることはない。
それどころか、自分がしたとさえ気づいてもらっていない。

場合によっては、それが他人からは当たり前だと捉えられて
自分が何かをしたことにすら気づかれない。
当然、自分が何をしたところで、誰も喜んでいない。

それでも、そのことをしたいと思えるかどうか、です。

そこまでいくと、一切の承認を求めていないと言えるでしょう。

このレベルでも、人には「何かをしたい」という欲求はあると思います。
それは、自分が好きなことをするとか、世の中に何かの作用をもたらすとか、
自分が生きている意味を自分で見出すような行為かもしれません。

ともすると、ワガママで独りよがり。
迷惑にさえなることがあっても、それでもしたいんだから仕方ない。
それぐらいの欲求もあるような気がします。
(※迷惑をかけていることを自覚しないで好き勝手にするのとは違います)


で、歴史上、偉大な「貢献」をしたとされる人たちは、どちらかというと
この「ワガママ」に近い、承認を求めない欲求から行動したように思えるんです。

コペルニクスは科学の歴史に大きな貢献をしましたが、
貢献しようとしてやっていたのかどうかは分かりません。
むしろ科学者の大半は、自分が好きだからやっているような人たちでしょう。

ガリレオ・ガリレイにいたっては、世の中から迫害されて、非難されている中でも
自分の考えを貫こうとしたわけです。
賛同者は欲しかったかもしれませんが、それがいないことを知っていても
最後の最後まで自分の主張を曲げなかったんです。

結果的に大きな「貢献」となりましたが、貢献しようとしていたとは僕には思えません。

別に貢献しようとしなくたって良いと思うんです。
むしろ好きなようにすればいい。

その結果、誰かが喜んでくれるかもしれません。
後世で、大きな貢献をしたと評価してもらえるかもしれません。

「誰かのために」とか「世のため人のため」とかいうのは危険でさえある気がします。

もし、「世の中のために」と思ってやったことが
少しでも自分のしたいことからズレていたとしたら、苦しみが大きくなります。

さらに、「世の中のため」のはずなのに、評価も承認も得られなかったとしたら
大きく力を浪費して、自分だけが疲れていってしまいます。

「誰から否定されようが、やりたい」というほどワガママを貫けるだけの
大切なことであれば、たとえ疲れてでも頑張るでしょう。

しかし、後からそうでなかったことに気づいたとき、ズレていたと分かったとき、
他の誰にも、どうすることもできない苦しみが残ることになります。

そこには自分の内側から湧き出る喜びもなく、他人から認められることもなかった。
きっと「何のためにやっていたのだろう…」という気持ちが残るんじゃないでしょうか。

これをケアするのは大変です。

「貢献」という言葉には、自分の本心からの願いを曇らせる危険性があると思います。
「誰かのために」と「自分の喜び」とを混同させてしまうリスクがあるはずです。


別に、わざわざ「世のため、人のため」と貢献しようとする必要はない気がします。

自分の好きなことをすればいい。
広い世の中には、そのことを喜ぶ人がいるでしょう。

その価値は十分すぎるほど大きいと思います。

cozyharada at 23:33|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2011年09月13日

東京の中に

初めて東大に行ってきました。

地下鉄・南北線の東大前駅から出て、歩くとすぐに東大が見えます。
というよりも歩いている道沿いは、壁の奥が全て東大の敷地。

農学部の敷地を過ぎると道を挟んでメインのキャンパスがありました。
「正門」とか「赤門」があるほうです。

敷地が広いので、公道が敷地内を通っているようなイメージでした。
実際は、「公道を挟んで敷地がある」といったほうが正しいのでしょうが。

修学旅行のときに行った京都では、京大の敷地の広さに驚いた記憶がありますが
当時は中学生ですから、今のイメージとは比較できません。

それでも、僕が通っていた私大よりも、ずっと広いように感じました。
学会などで訪れたことのある大学も多くが都市部にある私大でしたが
僕にとって大学の大きさのイメージは、それぐらいだったんです。

キャンパスが散らばった場所にあったりするのも
1つの敷地が狭く思える理由かもしれません。

ただ、それにも増して東大は広かったです。

古くからある国立大学というのは大きいものなんでしょうか。
ちょっとビックリしました。

地図で確認してみると、東大と通りをはさんで反対側にある上野公園と
同じぐらいの広さのようでした。
上野公園には、動物園も博物館も美術館も不忍池も一通り含んでいて
それと近い広さの敷地が、東大にはありそうです。


その広さと関わるのは、学部数の多さに関わる建物の数も当然ですが、
何よりも、広々としているというのが驚きでした。

キャンパス内の道幅が広い。
木が生えていたり、芝生だったりというスペースも沢山で
門をくぐって大学内に入ると、あたりとは別世界でした。

およそ東京都内にあるとは思えないぐらいの異空間。
奥に入っていくと都心部らしい車の音などは聞こえません。

むしろ風にそよぐ葉の音や、木々が生み出す静かな空気など
外とは隔離されたような印象すらありました。

僕はミーハーなので、あえて赤門から入講しましたが、
構内を端から端まで歩いた形になってしまったので
目的地までに予想以上の時間がかかりました。

違う駅から行けば良かったほどです。

赤門前から出会う人たちは、いかにも東大生という雰囲気。
独特です。

そこには東大に入るまでの過程も関係しているでしょうが、
この東大のキャンパスが持つ独特の環境もまた影響している気がしました。

なんとなく「特別」な感じを受けるのは、先入観以上のものがあると思います。

やはり現地に行って感じてみないと分からないことばかりだと感じました。
逆にいえば、その場に身を置いてみると妙に納得できることもあったりする。

環境のもたらす影響というのも、なかなか興味深いものです。
気づかないうちに影響を与える要因が、そこには存在するわけですから。

2011年09月11日

日本語禁止デー

週末、丸一日の英語セミナーに参加してきました。
朝10時から、夜8時半まで。

最後の2時間ぐらいは、英語勉強法としてのセミナーになるため
日本語で講義を聞き、質疑応答も日本語でしたが、
それまでの8時間ぐらいは「日本語禁止」。

僕の一番の目的は、その英語オンリーの環境に身を置くことだったんです。


講師は一人ではなく、そのスクールの講師が交代で進めるスタイル。
ほとんどは日本人でした。

1時間だけネイティブスピーカーのレッスンがあっただけで、
あとは全て日本人の先生による指導という構成です。

当然、受講生は皆、日本人。
英語を勉強しようという人ですから、生まれも育ちも日本という日本人です。

なので、大半の時間のコミュニケーション手段として使っている言語が
英語ではあるものの、その相手は日本人だったということです。

そこで感じるのは、英語力だけの問題や発音の問題だけではなく
やはり日本人同士の会話だということでした。

表層で使われているものが、いくら英語の形をとっていても
深層部で伝えあっているものは日本人の概念だと感じられました。

同じ英語オンリーの環境に、同じ時間だけ身を置いたとしても、
それがネイティブスピーカーの場合とは大きく意味が違うでしょう。

また、日本人同士だからこそ、間違いがあっても同じような形で間違いやすく
その間違いは指摘されることもなく流れていってしまいます。

もしかすると、その環境の中でだけ通じるような奇妙な表現があったり、
他の人の間違い方が移ってしまったりするようなケースも想像できます。

可能な限り、自分がネイティブスピーカーのペースに入っていくほうが
得られるものは大きいだろうと感じました。

そもそも、英語を使う場面、英語を話す相手というのは
ネイティブスピーカーになると想像されるわけですから。

「英語だけの環境に身を置くことで、英語感覚を植え付ける」とするなら
その目的のためには、日本に来ている外国人と友達になって
家に遊びに行かせてもらうようなほうが効果は高いように思います。

日本にいながら、日本人同士で英語だけしか使わない…という方法は
英語を口から出すこと自体に抵抗がある場合に馴染む手段としてか、
他の訓練プログラムと組み合わせる形では有効でしょうが、
単純に「英語だけを使っていれば留学のような効果がある」
という程ではないのだろうと感じたわけです。

英語だけの環境で日本語を使わないかどうかが重要なのではなく、
英語を身につけるための訓練方法のほうが重要度が高いだろう、という話です。

そのスクールで得られる効果は、おそらく
・英語に対する抵抗を減らす
・トレーニングプログラムの効果で英語力を上げていく
というところが中心だろうとの印象を受けました。

どのような質の経験が、どういった効果を生むのか。
これを吟味しながら取り組んでいくのが、成果を早めるポイントだと思います。


ちなみに僕にとって最も有益だったのは、
「日本人英語とネイティブの英語の壁を乗り越えることは可能」
だということを目の前で見られた部分です。

代表を務める人は日本人ながら、英語学習の経歴と
海外留学の経験の長さから、日本人とは思えない英語でした。

このことが僕にとって非常に重要だったんです。
いかにして、日本人がネイティブ並みの英語感覚になるか。

英語を使って、日本語並みのコミュニケーションが取れるようになることと、
英語を英語として使いこなせるようになることは別物だと思うんです。

それは、逆のパターンの例で考えると、
デーブ・スペクター氏が見事な日本語を話し
日本語でのコミュニケーションを完璧にこなせるとしても、
やはり日本人の日本語と違う所があるのを感じさせるようなものです。

発音の問題ではないけれども、何か不自然。
その不自然さを超える手段があるということです。

英語であれ、日本語であれ、母国語として言語を身につけるときは
経験から一般化された「無自覚なパターン学習」が中核をなします。

なんとなく「こういう文脈だと、こういう言い回しをするなぁ」というのが
本を読んだ経験や、話を聞いた経験などから、インプットされていく。
そして使われるパターンが染みついていくわけです。

流行語が生まれて、それが浸透していくプロセスなどでは
辞書を使って意味を調べることはできません。
でも、その言葉が使われる文脈から意味を推測して、
同じような会話の流れの中で、その新しい言葉を使うことができます。

それが母国語の学び方でしょう。

しかし、それは外国語学習の中では大変です。
パターン学習ができるようになるためには、
パターンに気づけるだけの経験の量が必要です。

そして、新たなパターンを学ぶためには
どれが新しく経験しているパターンなのかを区別できなくてはいけません。

全部知らない状態では、パターンに気づきにくいわけです。

自分の中に、良く使われる言語の法則が染みついていると、
知らないフレーズや、知らない言い回しが出てきたときに
「これは新しいパターンだ」と識別できます。

だからこそ、まずは最も良く使われるパターンを染みつかせるために
複雑ではない表現に対して経験の量を増やしていくのが効果的なんでしょう。

そのためには、自分もそのパターンを使えるようにしておくのが早いはずです。
パターンが掴めてきた辺りで、自分で応用してみるんです。
それが使えれば、パターンに気づくのも早くなります。

そうして使いこなせる表現や文構造のパターンが増えてくると
知らない・分からない表現や文構造が気になるようになる。
そして、その新しいものも使えるようにしていく。

この一連の作業は、「普通に使われる」ものであることが重要です。
そうすれば「文法的には正しいけど不自然」という表現は含まれなくなります。

あくまでネイティブが使う自然な表現だけをパターンとして取り入れていく。

そのために、ネイティブの会話やスピーチを学ぶのでしょう。
そのスクールの基本的なスタンスは、名スピーチから学ぶという方法でした。


理屈で考えれば、それをしていけば母国語に近い形で
言語を習得していくことが可能だと思います。

しかも、受動的に入ってくる経験の量でカバーできない異国の環境でも
名スピーチだけなら繰り返して聞くことができます。

ただ、地道です。

地道なことをしていれば、壁は超えられる。
それを実証して見せてもらえたのは実りあることでした。

しかし、僕には、もっと効率的な方法もあるように思えます。
地道な方法が確実だとしても、それが全てではないでしょう。

スピーチから学ぶ地道な方法は、
ネイティブスピーカーが自然な生育過程で学ぶ方法と同様に、
人間が持っている自然な能力を活かしています。

経験を一般化して、法則を見出すという能力です。

そこに共通点があるのなら、それを積極的に活かした方法が
きっと使えると思うんです。

さらに効率的に学習する方法があるんじゃないだろうか、と。

しかし、それは誰も教えてくれないので
自分で試行錯誤するしかないのでしょうけれど。

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《コミュニケーション講座》
 〜人を育てる指導力〜

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  2019年6月16日(日)
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【場所】 
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【日時】 
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【場所】 
  北とぴあ 第2和室

   JR王子駅より2分
   南北線王子駅直結

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《怒りの取り扱いマニュアル》
 〜期待の手放し方と
  ゆるしの技法〜


【日時】 
  2019年7月6日(土)
     7月7日(日)
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【場所】 
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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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