2011年10月
2011年10月10日
個別指導
セミナーやワークショップで技術をトレーニングする機会は
世の中を見渡すとそれなりに多いように感じます。
そのスタイルも色々とあって、そこにはインストラクターやトレーナーの
個性が色濃く反映されているはずです。
中には、自分が教わった講師の影響を強く受け過ぎ
それを不自然に真似してしまっているケースも見受けられますが、
「セミナーを通じて何をしたいか」という目的意識が明確になると
そのスタイルも目的に応じたものに近づいていく気がします。
熱意のあるスピーチで聴衆からヤル気を引き出そうとしたり、
涙と笑いに溢れたスピーチで演劇を見るような感動を与えようとしたり、
とにかく自分の仕入れた最高の情報を提供しようとしたり、
「自分が考えた」という理論の素晴らしさをアピールしようとしたり、
表面的にはメチャクチャな内容を話しながら、その裏で大切なメッセージを伝えたり。
僕のスタイルは、いつの頃からか
・表向きは、理論的解説とセットにした徹底した技術論
・裏側では、言葉以外で重要だと思うことをインストールする
という感じになりました。
理論的解説に対して、体験学習をセットにすることで
新たなコンセプトを作っていくスタイルは、
僕が一時期参加していた高額なセミナーの講師の影響が多少ありそうです。
というのも、それ以前に僕が出たことのあったセミナーは全て
「こういう手法がありますから、やってみましょう」
「こういうやり方をすると、こんな効果が出ます。練習してみましょう」
といった形式だったんです。
個別のテクニックを紹介して、それを練習する形でした。
それに比べて、一時期参加していたそのセミナーの講師は前置きが非常に長い。
4時間ぐらいずっと話しっぱなしです。
それも、かなり専門分野の情報を含んでいましたし、
決して飽きさせないような工夫があったわけではないですから
大半の人は理解するどころか寝てしまっている状態でした。
で、長時間の講義が終わると、ところどころで実習が入る。
その実習は、理論をそのまま体験するような形だったので
「どうすればできるようになるか」は一切解説がありませんでした。
「理論的には、これができれば、目を見ただけで相手を眠らせられます。
じゃあ、やってみて。」
…そんな感じ。
コツのようなことは一応話してはいますが、
それができるようになっているかというケアはないので、
ほぼ全員が、どうしたらいいのか迷いながら実習していました。
で、30分ぐらいすると次の講義が始まります。
まぁ、当時の僕としては、その講義内容が非常に面白かったので
それだけで満足して参加をしていたんです。
実習は、真面目に練習をしていましたが、今なら、もっと上手くできると思います。
今にして、「あぁ、あれはこういうことだったのかなぁ」と思えるようになりましたから。
今の自分が、同じ技術を指導しようとすれば
もっと違う表現で、段階を踏んだトレーニングによって
参加者全員の習熟度を上げられる自信はありますが。
ということで、講義を通じて新たな概念を理論的に説明し、
その理論に体験を結びつけるように実習をする、という形式自体は
その特殊なスタイルの中で初めて体感したと思います。
ただ、そのセミナーでは身に付く実感が極端に低かったのと
多くの人が退屈している感じがあったので、
自分でセミナーをするときには大幅なアレンジが入ったようです。
勉強会で、理論的に整理をした後で、それを体験と結びつける形式にしているのは
このあたりの影響がありそうです。
…説明を体験のバランスは注意するようにしていますが。
理論的解説で分類・整理をする方法は、実践的に精度を上げるのに効果的だと思います。
すでに体験の量が十分にある人は、その体験を一般化して整理するだけですから
今まで区別できていなかったことが、適切な形で使えるようになります。
体験をしたことがない、あるいは体験の量が十分でないときは、
おぼろげに頭で理解しておいた状態で体験をすることで、
知識だけではない区別の仕方が身につきやすいと考えられます。
理論的に整理されたものがあって、一度それに体験を結びつけておくと、
その先の日常生活の中で、同様の体験があったときに理論と結びつけて整理できます。
これによって最初から整理された状態で経験値を上げていくことができる。
ガムシャラに色々と経験をしてみて、そこから
自分なりのコツや法則を見出していくのも有効ですが
(実際、僕はそうやって技術を身につけた部分が大きいです)、
これは時間と経験の量を必要とします。
僕の中には「こうやって教えてくれれば、すぐに分かったのに…」
という思いが沢山あるので、その
誰も教えてくれなかったけど、これが知りたかった
と自分で感じる内容が、セミナーの大部分を占めるように工夫しているつもりです。
ですから、
理論的に整理をして、体験と結びつける
というスタイルは、
できるだけ技術の習得を早められるようにする意図を持っているわけです。
そのように表向きでは技術的トレーニングを中心にしている一方で、
裏側では別の重要なメッセージも伝えようとしています。
勉強会まで行くと、その必要性が下がってくるので意図は減りますが、
初対面に近いようなセミナーほど、その意図の比率が上がります。
僕は、ここをリチャード・バンドラーから教わったと信じていますから
言葉以外で重要なことを伝えようとしてきました。
「一番大事なことは言葉で伝えない」というのが僕の主義に近い気がします。
大事なことを言葉で伝えると、それに表面的に囚われてしまうことがあるので。
ここの方法を書いてしまうと、大事なことを言葉で伝えるのと同じですから
あえて詳しくは書きません。
で、このあたりが自分がセミナーをやるときの中心的なスタイルになりますが、
実は、最近気づいたのが、
『誰にも教わっていないスタイルがある』
ということなんです。
僕には尊敬する先生が何人かいますし、その方々から教わった内容は
技術的にも自分自身のスタンスとしても、大きな影響を受けています。
しかし、その尊敬する先生たちとは、違う指導法をセミナーで使っています。
これが誰に教わったんだか分からないんです。
小学校、中学校、塾、高校、部活、習い事、大学、研究室、会社、セミナー…
色々と「教わった」経験を思い返しましたが、見当たりません。
それは、実習中に、『個別の技術的フィードバックとして
やり方のコツをお伝えする』という部分。
まず、形式として、
「セミナー中に講師から個別にコツを教わった」
という経験はありません。
個別にスーパーバイズを受けたことはありますが、
それとは少し意味が違います。
振り返ってみると、セミナーの仕事を始めたばかりの頃、
当時の僕はアシスタント・トレーナーのような形で講座にいたのを思い出します。
その頃は、20人ぐらいの受講生に対して必ず数人のトレーナーがいました。
多い時は、5人ぐらいいたかもしれません。
なので、実習中に細かく目を配らせて質問に答えるのが僕の仕事だったんです。
しかしながら、実習中には、分からない時や困ったときに質問する人もいれば、
困っていても質問をしない人、とにかく気軽に呼ぶ人など
色々な取り組み方があります。
その中で、自分から声をかけて、やり方を伝えたり
困っている部分を解消したりすることを経験しました。
この関わり方の名残りがあるような気がします。
その後、20人ぐらいの規模の、コミュニケーションの基本を扱うセミナーでも
全員の顔と名前を覚えて、遠くから目を配り
効果的なタイミングを見計らって声をかけることを続けていました。
この辺りの経験から、個別にコツをフィードバックすると
効果が高いことを実感して、自分のやり方として定着したのでしょう。
個別にコツを伝えるという「形式」面には
自分がやってきたセミナーの経験が影響してそうだとは思いますが、
もう一方で「どうやってコツを伝えるか」の部分は
これまた直接的に教わった記憶がないんです。
口で言うと普通のことですが、僕はできるだけ
そのコツの伝え方を、相手に合わせて変えるように工夫しています。
僕は経験上、「自分に合わせて教えてくれた」という気分を
味わったことが一度もありません。
その指導者自身が持っている伝え方を聞くばかり。
分かりそうなときは、自分が経験から学んだことを踏まえて
質問をすることで分かる形に整理をしてきました。
ただ、分からないときは大変でした。
「その説明のされ方では理解できない」という思いがあり、
いくら聞いても分かりませんでしたから。
結局、時間をかけて自分なりに経験から学べたときに
一緒に「こうやって説明すれば分かるんだ」と感じたものです。
一方、その指導者自身は同じ説明の仕方をしているだけでも
その内容が僕にとって新鮮で、しかも伝わる説明の仕方だったとき
「なるほど!」と強く実感したのも覚えています。
今まで見えなかったものが見えるようになるというか、
一瞬で目の前が明るくなるというか、
自分には思いもよらなかったことで何かが掴めた感じ。
そういう経験をしたものは、強く記憶に残っていますから、なかなか忘れません。
それどころか、今までには見えていなかったものが分かるようになるので、
学習がその一瞬だけで終わらないんです。
新しい着眼点が生まれ、それまでに気づいていなかったことが
何も意識しなくても自然に気づけるようになる。
そのため、日常生活の中でも経験の量を増やすことができて、学習が継続します。
こういう学びが望ましいと感じたんでしょう。
決して多くない頻度でしたが、このレベルでコツが伝えようと基準を作ったみたいです。
目の前の人の理解していること、意識を向けていることを踏まえ、
今までになかった着眼点を追加して、日常に戻った後も持続的に学習が続くようにする。
一人ひとりに合わせて、そういうコツの伝え方をしようとしているようです。
そして、それをセミナーの実習中に遠くから眺めてタイミングを伺い、
個別にコツとして伝える。
どうやら僕の中には、この「一人ずつに合わせた個別のコツの伝授」を
セミナーの実習作業中に行う、という特徴があるみたいです。
あまり今まで意識していませんでしたし、
「役に立つと良いなぁ」ぐらいの気軽なものでしたが、
分析してみると、意外なほど特殊な方法に思えてきました。
それが一番の強みだとは思っていませんが、
他にやっている人と出会ったことがないという意味では
大きな差別化の要因だと感じました。
ただ、あまりこれを前面に押し出すと
均等に実行できない点で差を作ってしまう気がして
不公平感が気がかりになります。
そこが困りものです。
世の中を見渡すとそれなりに多いように感じます。
そのスタイルも色々とあって、そこにはインストラクターやトレーナーの
個性が色濃く反映されているはずです。
中には、自分が教わった講師の影響を強く受け過ぎ
それを不自然に真似してしまっているケースも見受けられますが、
「セミナーを通じて何をしたいか」という目的意識が明確になると
そのスタイルも目的に応じたものに近づいていく気がします。
熱意のあるスピーチで聴衆からヤル気を引き出そうとしたり、
涙と笑いに溢れたスピーチで演劇を見るような感動を与えようとしたり、
とにかく自分の仕入れた最高の情報を提供しようとしたり、
「自分が考えた」という理論の素晴らしさをアピールしようとしたり、
表面的にはメチャクチャな内容を話しながら、その裏で大切なメッセージを伝えたり。
僕のスタイルは、いつの頃からか
・表向きは、理論的解説とセットにした徹底した技術論
・裏側では、言葉以外で重要だと思うことをインストールする
という感じになりました。
理論的解説に対して、体験学習をセットにすることで
新たなコンセプトを作っていくスタイルは、
僕が一時期参加していた高額なセミナーの講師の影響が多少ありそうです。
というのも、それ以前に僕が出たことのあったセミナーは全て
「こういう手法がありますから、やってみましょう」
「こういうやり方をすると、こんな効果が出ます。練習してみましょう」
といった形式だったんです。
個別のテクニックを紹介して、それを練習する形でした。
それに比べて、一時期参加していたそのセミナーの講師は前置きが非常に長い。
4時間ぐらいずっと話しっぱなしです。
それも、かなり専門分野の情報を含んでいましたし、
決して飽きさせないような工夫があったわけではないですから
大半の人は理解するどころか寝てしまっている状態でした。
で、長時間の講義が終わると、ところどころで実習が入る。
その実習は、理論をそのまま体験するような形だったので
「どうすればできるようになるか」は一切解説がありませんでした。
「理論的には、これができれば、目を見ただけで相手を眠らせられます。
じゃあ、やってみて。」
…そんな感じ。
コツのようなことは一応話してはいますが、
それができるようになっているかというケアはないので、
ほぼ全員が、どうしたらいいのか迷いながら実習していました。
で、30分ぐらいすると次の講義が始まります。
まぁ、当時の僕としては、その講義内容が非常に面白かったので
それだけで満足して参加をしていたんです。
実習は、真面目に練習をしていましたが、今なら、もっと上手くできると思います。
今にして、「あぁ、あれはこういうことだったのかなぁ」と思えるようになりましたから。
今の自分が、同じ技術を指導しようとすれば
もっと違う表現で、段階を踏んだトレーニングによって
参加者全員の習熟度を上げられる自信はありますが。
ということで、講義を通じて新たな概念を理論的に説明し、
その理論に体験を結びつけるように実習をする、という形式自体は
その特殊なスタイルの中で初めて体感したと思います。
ただ、そのセミナーでは身に付く実感が極端に低かったのと
多くの人が退屈している感じがあったので、
自分でセミナーをするときには大幅なアレンジが入ったようです。
勉強会で、理論的に整理をした後で、それを体験と結びつける形式にしているのは
このあたりの影響がありそうです。
…説明を体験のバランスは注意するようにしていますが。
理論的解説で分類・整理をする方法は、実践的に精度を上げるのに効果的だと思います。
すでに体験の量が十分にある人は、その体験を一般化して整理するだけですから
今まで区別できていなかったことが、適切な形で使えるようになります。
体験をしたことがない、あるいは体験の量が十分でないときは、
おぼろげに頭で理解しておいた状態で体験をすることで、
知識だけではない区別の仕方が身につきやすいと考えられます。
理論的に整理されたものがあって、一度それに体験を結びつけておくと、
その先の日常生活の中で、同様の体験があったときに理論と結びつけて整理できます。
これによって最初から整理された状態で経験値を上げていくことができる。
ガムシャラに色々と経験をしてみて、そこから
自分なりのコツや法則を見出していくのも有効ですが
(実際、僕はそうやって技術を身につけた部分が大きいです)、
これは時間と経験の量を必要とします。
僕の中には「こうやって教えてくれれば、すぐに分かったのに…」
という思いが沢山あるので、その
誰も教えてくれなかったけど、これが知りたかった
と自分で感じる内容が、セミナーの大部分を占めるように工夫しているつもりです。
ですから、
理論的に整理をして、体験と結びつける
というスタイルは、
できるだけ技術の習得を早められるようにする意図を持っているわけです。
そのように表向きでは技術的トレーニングを中心にしている一方で、
裏側では別の重要なメッセージも伝えようとしています。
勉強会まで行くと、その必要性が下がってくるので意図は減りますが、
初対面に近いようなセミナーほど、その意図の比率が上がります。
僕は、ここをリチャード・バンドラーから教わったと信じていますから
言葉以外で重要なことを伝えようとしてきました。
「一番大事なことは言葉で伝えない」というのが僕の主義に近い気がします。
大事なことを言葉で伝えると、それに表面的に囚われてしまうことがあるので。
ここの方法を書いてしまうと、大事なことを言葉で伝えるのと同じですから
あえて詳しくは書きません。
で、このあたりが自分がセミナーをやるときの中心的なスタイルになりますが、
実は、最近気づいたのが、
『誰にも教わっていないスタイルがある』
ということなんです。
僕には尊敬する先生が何人かいますし、その方々から教わった内容は
技術的にも自分自身のスタンスとしても、大きな影響を受けています。
しかし、その尊敬する先生たちとは、違う指導法をセミナーで使っています。
これが誰に教わったんだか分からないんです。
小学校、中学校、塾、高校、部活、習い事、大学、研究室、会社、セミナー…
色々と「教わった」経験を思い返しましたが、見当たりません。
それは、実習中に、『個別の技術的フィードバックとして
やり方のコツをお伝えする』という部分。
まず、形式として、
「セミナー中に講師から個別にコツを教わった」
という経験はありません。
個別にスーパーバイズを受けたことはありますが、
それとは少し意味が違います。
振り返ってみると、セミナーの仕事を始めたばかりの頃、
当時の僕はアシスタント・トレーナーのような形で講座にいたのを思い出します。
その頃は、20人ぐらいの受講生に対して必ず数人のトレーナーがいました。
多い時は、5人ぐらいいたかもしれません。
なので、実習中に細かく目を配らせて質問に答えるのが僕の仕事だったんです。
しかしながら、実習中には、分からない時や困ったときに質問する人もいれば、
困っていても質問をしない人、とにかく気軽に呼ぶ人など
色々な取り組み方があります。
その中で、自分から声をかけて、やり方を伝えたり
困っている部分を解消したりすることを経験しました。
この関わり方の名残りがあるような気がします。
その後、20人ぐらいの規模の、コミュニケーションの基本を扱うセミナーでも
全員の顔と名前を覚えて、遠くから目を配り
効果的なタイミングを見計らって声をかけることを続けていました。
この辺りの経験から、個別にコツをフィードバックすると
効果が高いことを実感して、自分のやり方として定着したのでしょう。
個別にコツを伝えるという「形式」面には
自分がやってきたセミナーの経験が影響してそうだとは思いますが、
もう一方で「どうやってコツを伝えるか」の部分は
これまた直接的に教わった記憶がないんです。
口で言うと普通のことですが、僕はできるだけ
そのコツの伝え方を、相手に合わせて変えるように工夫しています。
僕は経験上、「自分に合わせて教えてくれた」という気分を
味わったことが一度もありません。
その指導者自身が持っている伝え方を聞くばかり。
分かりそうなときは、自分が経験から学んだことを踏まえて
質問をすることで分かる形に整理をしてきました。
ただ、分からないときは大変でした。
「その説明のされ方では理解できない」という思いがあり、
いくら聞いても分かりませんでしたから。
結局、時間をかけて自分なりに経験から学べたときに
一緒に「こうやって説明すれば分かるんだ」と感じたものです。
一方、その指導者自身は同じ説明の仕方をしているだけでも
その内容が僕にとって新鮮で、しかも伝わる説明の仕方だったとき
「なるほど!」と強く実感したのも覚えています。
今まで見えなかったものが見えるようになるというか、
一瞬で目の前が明るくなるというか、
自分には思いもよらなかったことで何かが掴めた感じ。
そういう経験をしたものは、強く記憶に残っていますから、なかなか忘れません。
それどころか、今までには見えていなかったものが分かるようになるので、
学習がその一瞬だけで終わらないんです。
新しい着眼点が生まれ、それまでに気づいていなかったことが
何も意識しなくても自然に気づけるようになる。
そのため、日常生活の中でも経験の量を増やすことができて、学習が継続します。
こういう学びが望ましいと感じたんでしょう。
決して多くない頻度でしたが、このレベルでコツが伝えようと基準を作ったみたいです。
目の前の人の理解していること、意識を向けていることを踏まえ、
今までになかった着眼点を追加して、日常に戻った後も持続的に学習が続くようにする。
一人ひとりに合わせて、そういうコツの伝え方をしようとしているようです。
そして、それをセミナーの実習中に遠くから眺めてタイミングを伺い、
個別にコツとして伝える。
どうやら僕の中には、この「一人ずつに合わせた個別のコツの伝授」を
セミナーの実習作業中に行う、という特徴があるみたいです。
あまり今まで意識していませんでしたし、
「役に立つと良いなぁ」ぐらいの気軽なものでしたが、
分析してみると、意外なほど特殊な方法に思えてきました。
それが一番の強みだとは思っていませんが、
他にやっている人と出会ったことがないという意味では
大きな差別化の要因だと感じました。
ただ、あまりこれを前面に押し出すと
均等に実行できない点で差を作ってしまう気がして
不公平感が気がかりになります。
そこが困りものです。
2011年10月08日
優しさと技術
小さいころから「優しさ」というのは僕にとって大事な単語でした。
同居していた祖母から常に言われていたことも影響しているでしょうが、
それとは別のレベルでも「優しい」ということに対して意識が向いていたようです。
「キン肉マン」はマンガもアニメが好きで、良く見ていた中でも、
その挿入歌だか主題歌だかが非常に印象に残っているんです。
「優しさを知ってなきゃ、ヒーローになれないぜ
奇跡の逆転ファイター、キン肉マン」
という一節。
思い浮かべるだけで涙ぐむような感じさえあります。
響く何かがあるんでしょう。
今にして思い返せば、以前の僕は優しさを無自覚なままで追求し、
きわめて頻繁に「優しさ」ではなく「おせっかい」をしていたものです。
それから「優しく」あることの難しさを痛感し
色々と学び、技術を求めて、自分の内面的課題とも向き合ってきました。
「それだけ『優しさ』について正面から向き合えることが『優しい』証拠だ」と
気の利いた言葉を思いつくことぐらいはできますが、
僕には、それすら甘いと感じられてしまうほどの真剣さもあるようです。
つきつめて考えると、僕には
「全ての人は同じように優しい」
と思えてきます。
優しい人も、優しくない人もいない。
差があるのは、技術の部分だけじゃないだろうか、と。
これを、3つぐらいのレベルで考えてみます。
1つは、具体的な行動のレベル。
二段階目は、意識や気持ちの向け方のレベル。
三段階目は、本人全体のレベル、です。
まず具体的な行動として見ていくと、
「優しい行動」というのは人によって違うわけです。
同じことをしても、人によって受け取り方が違う。
優しいと感じる人もいれば、そう感じない人もいる。
誰かの行動に対して、それが「優しい」かどうかを判断する基準があって
それに合うかどうかで「優しい行動」だと捉えます。
ですから、相手のことを一生懸命考えたつもりでやったことでも
相手がそれを不快に受け取れば「優しさ」とは評価されないことになります。
逆に、なんの意図もなく、たまたましたことが感謝されることもある。
大げさに言えば、意地悪をしたつもりが、それによって良いアイデアが浮かべば
「あなたのおかげです。ありがとう!」ということにさえなりかねない。
悲しい時に、そっとしておいて欲しい人もいれば
声をかけて慰めてもらいたい人もいるわけです。
その人の期待していることを満たせるかが「優しい行動」の基準といえるでしょう。
そう考えると、部分的な行動だけを見て「優しさ」を判断するのは難しそうです。
となると、「どれくらいの想いがあるか」という基準も思い浮かびます。
二段階目の「意識や気持ちの向け方」のレベルです。
どれぐらい相手のためを思って行動しているか。
結果として、それが裏目に出ることはあっても、相手のためを考えたかどうか。
意図や動機が深く関係します。
ここに目を向ける人は、裏目に出てしまった行動や自分にとって嬉しくなかったことでも
その裏側にある気持ちに注目して「優しさ」を感じることができます。
有名なエピソードで、
男性が自分の大切な懐中時計を売って、女性へのプレゼントに櫛を買い、
女性は自分の大切な髪の毛を売って、男性へのプレゼントに時計の鎖を買う、
というのがあります。
男性の買った櫛は、髪の毛を売ってしまった女性には無駄になってしまい、
女性の買った時計の鎖は、時計そのものを売ってしまった男性には無駄になってしまった。
それでも、お互いの気持ちが「優しい」と。
人へ向ける気持ちの度合いが、「優しさ」だと考えることもできるということです。
その意味では、一流のホテルマンが目指すような
「お客様がサービスをされたことにさえ気づかいようなサービス」
というのも、気配りの点で「優しい」関わり方だと言えるでしょう。
相手にどれぐらいの気持ちを向けられるか、
つまり他人に対して、他人のために、注意を払うわけです。
ところが、人が注意を向けられる総量は決まっています。
100%のうち、70%の注意を他人に向けたら、自分のための注意は30%になる。
他人のことばかり考えて、自分のことなんて何も気にしていない…
というのは、他人には優しいのかもしれませんが、
あまり『自分には優しくない』とも言えるはずです。
他人へ注意を向け、他人のことを沢山考えられる気持ちが「優しい」のだとしたら
他人へ向ける注意が少ない人が「優しくない」ということになりますが、
逆にいえば、その人は「自分には優しい」かもしれません。
もっというと、他人のことばかりに注意を向けているうちに自分が苦しくなり、
その苦しむ様子を他人が知って悲しむようになってしまったとしたら
それまで他人を思ってやっていた行為は「優しさ」でなくなってしまう可能性もあります。
つまり、
「どれだけ他人に気持ちを向けるか」は必ずしも優しさの評価ではない
ように思えるという話です。
向けられる気持ちの量が優しさだとしたら、
その優しさが誰に向いているか、という配分に違いがあるだけで
個人として見たときの「優しさ」の総量には違いがないかもしれません。
そう考えると、どれくらい多くの注意を払えるかという能力が重要そうに思えてきます。
三段階目の「本人全体」のレベルです。
他人にも注意を払い、自分にも注意を払う。
とにかく沢山のことに気を配っている。
そういう配慮の高さが「優しさ」じゃないだろうか、と。
ところが、やってみると分かるでしょうが、意識的に注意する量を上げると
処理しなければいけない情報量が増えて、非常に疲れるものです。
単純にいえば「疲れる」。
「疲れた」という状態は自分からのメッセージですから、
それに対しても注意を向けて「優しく」していくと、
生きている間中ずっと、沢山のことに気を配るというのは「自分に優しくない」でしょう。
おそらく、大事な時にだけ沢山の注意を払い、
そうでないときには注意を払う総量そのものを減らして
自分の体にも「優しく」していくことが求められると考えられます。
1つの「優しい」やり方は、自分が持っている注意の全体量を、
注意を向ける相手を選び、注意を配る時間を調節することで上手く配分していく、
という方法じゃないでしょうか。
自分にも他人にも「優しく」するために、
「優しさ」を向ける相手と時間を限定し、
優しさを向けるつもりのないときには「自分に優しく」しておくわけです。
このレベルで考えると、もう1つの似ている方法の「優しさ」も思い浮かびます。
意識の総量を上げていく。
生きている間に注意を配れる総量を上げていくんです。
意識的に注意を向けられる量を上げることは可能なようです。
ですから、多くのことに気づける人はいるんです。
多くのことに気を配れる人はいますが、多くのことに気を配るほど
生きていくのは大変になるでしょう。
身体的にも疲れるでしょうし、精神的にも疲労があるかもしれません。
大変な思いを沢山するという意味では「自分に優しくない」とも言えます。
しかし、ここでは得られると期待するものの大きさも違ってきます。
「大変だけど、やってみよう」という想いがある場合です。
自分にも他人にも、大事なことのためには最大の気持ちを向ける。
「大変だけど、やる」ための覚悟と強さが求められます。
甘やかす必要のない強さがあれば、全力で注意を配ることだってできるわけです。
強さとセットの「優しさ」という感じでしょうか。
内面的成長を遂げていくことで可能になる優しさのような気がします。
この強さを伴いながら、気配り可能な総量としての「優しさ」を上げていくのは
非常に本質的だと思う反面、なかなか簡単なことではないでしょうし、
その基準で「優しさ」を考えたところで現実的でもないと思います。
だからこそ、より現実的に考えていけるのは先に述べたほうの
「気配りを向ける相手と時間を選択することで
自分にも、自分にとって大切な相手にも優しくする」
ということになるでしょう。
そうすると、限られた時間、限られた相手、限られた注意の総量を考慮するのですから、
それらと的確に関われる方法を持っているほうが望ましいと考えられます。
自分にとって大切なことをシッカリと感じ取る能力。
大切な相手の気持ちや期待を読みとる能力。
相手に合わせた対応を適切に成し遂げる能力。
自分の状態を感じ取って、自分が快適でいられるように調整する能力。
自分と相手にとって優しくするための能力があるんです。
そして、それは技術として磨くことが可能です。
いずれの能力も、技術のレベルが上がるほどに相互へ好影響が生まれます。
自分にとって大切なことを感じ取れる能力が高いほど、
自分を喜ばせることで「自分に優しく」できますし、
大切な対象に対して、より多くの注意を配分できるようになり
その特別な「他人に優しく」することもできます。
相手の気持ちや期待を読みとる能力が上がれば
同じ注意の量を向けても、理解できることが増えていきます。
相手の理解が正確に近づくほど、相手に合わせた対応もしやすくなります。
行動のレベルでも、相手が「優しい行動」をしてくれたと感じるようになるでしょう。
相手に合わせた行動をする能力が上がれば、自分への負担が減りますから
「自分に優しく」することもできます。
相手も「優しい行動」をしてくれた、と感じるでしょう。
自分の状態に合わせられる能力が高ければ、快適さで「自分に優しく」するだけでなく
その時にできる相手への最高の行動も調節できますから、
無理が裏目に出て「他人へ優しく」できない可能性を減らせます。
相手の気持ちと期待を読みとる技術、相手に合わせた対応をする技術…
という「相手への優しさ」の技術も、
自分の状態を感じ取る技術、自分の大事なことを理解する技術…
という「自分への優しさ」の技術も、
自分の優しい意図が伝わりやすくするためにも大切です。
「相手への優しさ」は、その意図が伝わりやすく、かつ
相手の期待にあった形であるほど望ましい。
同様に、「自分への優しさ」も、自分自身にその意図が明確に理解でき、かる
自分が期待している形であるほうが望ましいわけです。
理解するのも
伝えるのも
期待に沿う行動をするのも
技術が求められるところだと思うんです。
技術があるほうが、他人にも、自分にも
「優しく」できるとはずです。
気持ちや気配り、注意を向ける観点からでは「優しさ」に大差ないとしたら
違いが生まれるのは具体的な技術の部分でしょう。
自分にも、他人にも優しくする技術。
「優しさ」を向ける対象が大切なのであれば
それをより大切にするための何かに目がいく気がします。
もし、「『優しさ』に真剣に向き合えるのが優しさの1つの証だ」としたら
「『優しさ』の技術としての側面に目を向けて取り組んでいけるのも
優しさの1つの証だ」と言えるのではないでしょうか。
同居していた祖母から常に言われていたことも影響しているでしょうが、
それとは別のレベルでも「優しい」ということに対して意識が向いていたようです。
「キン肉マン」はマンガもアニメが好きで、良く見ていた中でも、
その挿入歌だか主題歌だかが非常に印象に残っているんです。
「優しさを知ってなきゃ、ヒーローになれないぜ
奇跡の逆転ファイター、キン肉マン」
という一節。
思い浮かべるだけで涙ぐむような感じさえあります。
響く何かがあるんでしょう。
今にして思い返せば、以前の僕は優しさを無自覚なままで追求し、
きわめて頻繁に「優しさ」ではなく「おせっかい」をしていたものです。
それから「優しく」あることの難しさを痛感し
色々と学び、技術を求めて、自分の内面的課題とも向き合ってきました。
「それだけ『優しさ』について正面から向き合えることが『優しい』証拠だ」と
気の利いた言葉を思いつくことぐらいはできますが、
僕には、それすら甘いと感じられてしまうほどの真剣さもあるようです。
つきつめて考えると、僕には
「全ての人は同じように優しい」
と思えてきます。
優しい人も、優しくない人もいない。
差があるのは、技術の部分だけじゃないだろうか、と。
これを、3つぐらいのレベルで考えてみます。
1つは、具体的な行動のレベル。
二段階目は、意識や気持ちの向け方のレベル。
三段階目は、本人全体のレベル、です。
まず具体的な行動として見ていくと、
「優しい行動」というのは人によって違うわけです。
同じことをしても、人によって受け取り方が違う。
優しいと感じる人もいれば、そう感じない人もいる。
誰かの行動に対して、それが「優しい」かどうかを判断する基準があって
それに合うかどうかで「優しい行動」だと捉えます。
ですから、相手のことを一生懸命考えたつもりでやったことでも
相手がそれを不快に受け取れば「優しさ」とは評価されないことになります。
逆に、なんの意図もなく、たまたましたことが感謝されることもある。
大げさに言えば、意地悪をしたつもりが、それによって良いアイデアが浮かべば
「あなたのおかげです。ありがとう!」ということにさえなりかねない。
悲しい時に、そっとしておいて欲しい人もいれば
声をかけて慰めてもらいたい人もいるわけです。
その人の期待していることを満たせるかが「優しい行動」の基準といえるでしょう。
そう考えると、部分的な行動だけを見て「優しさ」を判断するのは難しそうです。
となると、「どれくらいの想いがあるか」という基準も思い浮かびます。
二段階目の「意識や気持ちの向け方」のレベルです。
どれぐらい相手のためを思って行動しているか。
結果として、それが裏目に出ることはあっても、相手のためを考えたかどうか。
意図や動機が深く関係します。
ここに目を向ける人は、裏目に出てしまった行動や自分にとって嬉しくなかったことでも
その裏側にある気持ちに注目して「優しさ」を感じることができます。
有名なエピソードで、
男性が自分の大切な懐中時計を売って、女性へのプレゼントに櫛を買い、
女性は自分の大切な髪の毛を売って、男性へのプレゼントに時計の鎖を買う、
というのがあります。
男性の買った櫛は、髪の毛を売ってしまった女性には無駄になってしまい、
女性の買った時計の鎖は、時計そのものを売ってしまった男性には無駄になってしまった。
それでも、お互いの気持ちが「優しい」と。
人へ向ける気持ちの度合いが、「優しさ」だと考えることもできるということです。
その意味では、一流のホテルマンが目指すような
「お客様がサービスをされたことにさえ気づかいようなサービス」
というのも、気配りの点で「優しい」関わり方だと言えるでしょう。
相手にどれぐらいの気持ちを向けられるか、
つまり他人に対して、他人のために、注意を払うわけです。
ところが、人が注意を向けられる総量は決まっています。
100%のうち、70%の注意を他人に向けたら、自分のための注意は30%になる。
他人のことばかり考えて、自分のことなんて何も気にしていない…
というのは、他人には優しいのかもしれませんが、
あまり『自分には優しくない』とも言えるはずです。
他人へ注意を向け、他人のことを沢山考えられる気持ちが「優しい」のだとしたら
他人へ向ける注意が少ない人が「優しくない」ということになりますが、
逆にいえば、その人は「自分には優しい」かもしれません。
もっというと、他人のことばかりに注意を向けているうちに自分が苦しくなり、
その苦しむ様子を他人が知って悲しむようになってしまったとしたら
それまで他人を思ってやっていた行為は「優しさ」でなくなってしまう可能性もあります。
つまり、
「どれだけ他人に気持ちを向けるか」は必ずしも優しさの評価ではない
ように思えるという話です。
向けられる気持ちの量が優しさだとしたら、
その優しさが誰に向いているか、という配分に違いがあるだけで
個人として見たときの「優しさ」の総量には違いがないかもしれません。
そう考えると、どれくらい多くの注意を払えるかという能力が重要そうに思えてきます。
三段階目の「本人全体」のレベルです。
他人にも注意を払い、自分にも注意を払う。
とにかく沢山のことに気を配っている。
そういう配慮の高さが「優しさ」じゃないだろうか、と。
ところが、やってみると分かるでしょうが、意識的に注意する量を上げると
処理しなければいけない情報量が増えて、非常に疲れるものです。
単純にいえば「疲れる」。
「疲れた」という状態は自分からのメッセージですから、
それに対しても注意を向けて「優しく」していくと、
生きている間中ずっと、沢山のことに気を配るというのは「自分に優しくない」でしょう。
おそらく、大事な時にだけ沢山の注意を払い、
そうでないときには注意を払う総量そのものを減らして
自分の体にも「優しく」していくことが求められると考えられます。
1つの「優しい」やり方は、自分が持っている注意の全体量を、
注意を向ける相手を選び、注意を配る時間を調節することで上手く配分していく、
という方法じゃないでしょうか。
自分にも他人にも「優しく」するために、
「優しさ」を向ける相手と時間を限定し、
優しさを向けるつもりのないときには「自分に優しく」しておくわけです。
このレベルで考えると、もう1つの似ている方法の「優しさ」も思い浮かびます。
意識の総量を上げていく。
生きている間に注意を配れる総量を上げていくんです。
意識的に注意を向けられる量を上げることは可能なようです。
ですから、多くのことに気づける人はいるんです。
多くのことに気を配れる人はいますが、多くのことに気を配るほど
生きていくのは大変になるでしょう。
身体的にも疲れるでしょうし、精神的にも疲労があるかもしれません。
大変な思いを沢山するという意味では「自分に優しくない」とも言えます。
しかし、ここでは得られると期待するものの大きさも違ってきます。
「大変だけど、やってみよう」という想いがある場合です。
自分にも他人にも、大事なことのためには最大の気持ちを向ける。
「大変だけど、やる」ための覚悟と強さが求められます。
甘やかす必要のない強さがあれば、全力で注意を配ることだってできるわけです。
強さとセットの「優しさ」という感じでしょうか。
内面的成長を遂げていくことで可能になる優しさのような気がします。
この強さを伴いながら、気配り可能な総量としての「優しさ」を上げていくのは
非常に本質的だと思う反面、なかなか簡単なことではないでしょうし、
その基準で「優しさ」を考えたところで現実的でもないと思います。
だからこそ、より現実的に考えていけるのは先に述べたほうの
「気配りを向ける相手と時間を選択することで
自分にも、自分にとって大切な相手にも優しくする」
ということになるでしょう。
そうすると、限られた時間、限られた相手、限られた注意の総量を考慮するのですから、
それらと的確に関われる方法を持っているほうが望ましいと考えられます。
自分にとって大切なことをシッカリと感じ取る能力。
大切な相手の気持ちや期待を読みとる能力。
相手に合わせた対応を適切に成し遂げる能力。
自分の状態を感じ取って、自分が快適でいられるように調整する能力。
自分と相手にとって優しくするための能力があるんです。
そして、それは技術として磨くことが可能です。
いずれの能力も、技術のレベルが上がるほどに相互へ好影響が生まれます。
自分にとって大切なことを感じ取れる能力が高いほど、
自分を喜ばせることで「自分に優しく」できますし、
大切な対象に対して、より多くの注意を配分できるようになり
その特別な「他人に優しく」することもできます。
相手の気持ちや期待を読みとる能力が上がれば
同じ注意の量を向けても、理解できることが増えていきます。
相手の理解が正確に近づくほど、相手に合わせた対応もしやすくなります。
行動のレベルでも、相手が「優しい行動」をしてくれたと感じるようになるでしょう。
相手に合わせた行動をする能力が上がれば、自分への負担が減りますから
「自分に優しく」することもできます。
相手も「優しい行動」をしてくれた、と感じるでしょう。
自分の状態に合わせられる能力が高ければ、快適さで「自分に優しく」するだけでなく
その時にできる相手への最高の行動も調節できますから、
無理が裏目に出て「他人へ優しく」できない可能性を減らせます。
相手の気持ちと期待を読みとる技術、相手に合わせた対応をする技術…
という「相手への優しさ」の技術も、
自分の状態を感じ取る技術、自分の大事なことを理解する技術…
という「自分への優しさ」の技術も、
自分の優しい意図が伝わりやすくするためにも大切です。
「相手への優しさ」は、その意図が伝わりやすく、かつ
相手の期待にあった形であるほど望ましい。
同様に、「自分への優しさ」も、自分自身にその意図が明確に理解でき、かる
自分が期待している形であるほうが望ましいわけです。
理解するのも
伝えるのも
期待に沿う行動をするのも
技術が求められるところだと思うんです。
技術があるほうが、他人にも、自分にも
「優しく」できるとはずです。
気持ちや気配り、注意を向ける観点からでは「優しさ」に大差ないとしたら
違いが生まれるのは具体的な技術の部分でしょう。
自分にも、他人にも優しくする技術。
「優しさ」を向ける対象が大切なのであれば
それをより大切にするための何かに目がいく気がします。
もし、「『優しさ』に真剣に向き合えるのが優しさの1つの証だ」としたら
「『優しさ』の技術としての側面に目を向けて取り組んでいけるのも
優しさの1つの証だ」と言えるのではないでしょうか。
2011年10月06日
Hereafter
久しぶりにDVDを借りてきました。
とりたてて、「コレが見たい!」というのがあったわけではありませんが
なんとなく見てみる気になったんです。
その理由は、借りた映画のDVDが、僕の好みに合いそうだったからです。
『ヒアアフター(Hereafter)』。
通常は、副詞や名詞として「今後」の意味で使われますが、
頭文字が大文字から始まると「天国」とか「あの世」の意味になります。
ということで、映画の内容は「死後の世界」に関するストーリー。
といっても宗教色は、ほとんど感じられません。
死後の世界を描くのではなく、死と向き合っている3人の登場人物が
次第に交錯し合って、心を通わせる感じの話。
まず、一般的なストーリーとして、心とか命とかに関するものは
惹かれる傾向にあります。
それが「閉ざしていた心が開かれる」というストーリーを含むと
さらに僕の興味が高まります。
その上、主人公に特殊な能力などの「天才性」が加わると
ますます見てみたくなるんです。
というよりも、僕の好きな映画の特徴こそが
「心を閉ざした天才が、人に触れて心を開く」という
典型的なエピソードを含んでいる気がします。
そして、それにズバリ当てはまる「グッド・ウィル・ハンティング」で
主人公を演じていたからか、マット・デイモンの映画も好みに合うようです。
マット・デイモンには「心に傷を負った天才」の感じが良く似合う気がします。
まぁ実際、中退とはいえハーバード大学に進学していますし、
「グッド・ウィル・ハンティング」は出世作でありながら、自分で脚本を書いている。
しかも、大学の授業用に書いたものが原案だそうですから、
色々な能力が高い様子がうかがえます。
で、今回借りた『ヒアアフター』という映画も
マット・デイモンが主役の霊能力者を演じているんです。
その仕事に嫌気がさして、心を閉ざしている。
なんとも、僕の好みに合いそうな要素が詰まっているようだったんです。
見てみた感想としても、色々な観点で楽しめました。
感動的な部分もありましたし、共感する部分もあったり、ニヤリとするところも。
ストーリーとしては、主要な3人の登場人物が最終的に絡み合うのですが、
それまでは別の場所で話が展開していきます。
3人それぞれのストーリーをこま切れにして見ていく感じ。
ループを開いているんです。
メインとなる3つのネストループの中に、さらにネストされている。
これが最後に閉じられていく所も、NLPをやっている人には楽しめそうです。
僕が受けた印象は、「希望」といったところでしょうか。
死に直面した3人の場面を描きながら、生きる希望を表現している。
そんな印象を受けました。
主人公の霊能力者が抱える悩みとして
相手のことが全て分かってしまう苦しみが描かれていたのも印象的です。
思わずニヤリとしてしまうのは、主要人物の一人、イギリス人の少年が
死者の声を聞きたくて霊能者を探し回るシーンでした。
色々な「自称」霊能者のところに行き、声を聞こうとするんです。
しかし、行けども行けども、全員がインチキ。
もちろん、ストーリー中でハッキリと「インチキ」だったとは言いませんが、
そのように解釈できる形で描かれているわけです。
それぞれの霊能者がやっている「いかにも…」な感じの光景が
なんとも皮肉っぽくて僕には面白かったです。
ただし、注意する必要があるのが、冒頭の津波のシーン。
登場人物のうちの一人は、津波に巻き込まれて臨死体験をするんです。
この映画の公開は2010年だったそうですから、
最近のDVD化の時間からすると、期間が随分と長めです。
おそらく、震災に対する配慮でしょう。
テレビ画面を通して見た津波の映像にショックを受けた人もいるはずです。
視覚的に恐怖感がアンカーされている可能性もあります。
なので、その点だけは見るときに注意が必要だと思います。
少なくとも、DVDには、それを書いておくべきでしょう。
「上手くいきすぎ」な部分も多いストーリーですが
映画だと割り切って見れば全体的に楽しめるものだと感じました。
とりたてて、「コレが見たい!」というのがあったわけではありませんが
なんとなく見てみる気になったんです。
その理由は、借りた映画のDVDが、僕の好みに合いそうだったからです。
『ヒアアフター(Hereafter)』。
通常は、副詞や名詞として「今後」の意味で使われますが、
頭文字が大文字から始まると「天国」とか「あの世」の意味になります。
ということで、映画の内容は「死後の世界」に関するストーリー。
といっても宗教色は、ほとんど感じられません。
死後の世界を描くのではなく、死と向き合っている3人の登場人物が
次第に交錯し合って、心を通わせる感じの話。
まず、一般的なストーリーとして、心とか命とかに関するものは
惹かれる傾向にあります。
それが「閉ざしていた心が開かれる」というストーリーを含むと
さらに僕の興味が高まります。
その上、主人公に特殊な能力などの「天才性」が加わると
ますます見てみたくなるんです。
というよりも、僕の好きな映画の特徴こそが
「心を閉ざした天才が、人に触れて心を開く」という
典型的なエピソードを含んでいる気がします。
そして、それにズバリ当てはまる「グッド・ウィル・ハンティング」で
主人公を演じていたからか、マット・デイモンの映画も好みに合うようです。
マット・デイモンには「心に傷を負った天才」の感じが良く似合う気がします。
まぁ実際、中退とはいえハーバード大学に進学していますし、
「グッド・ウィル・ハンティング」は出世作でありながら、自分で脚本を書いている。
しかも、大学の授業用に書いたものが原案だそうですから、
色々な能力が高い様子がうかがえます。
で、今回借りた『ヒアアフター』という映画も
マット・デイモンが主役の霊能力者を演じているんです。
その仕事に嫌気がさして、心を閉ざしている。
なんとも、僕の好みに合いそうな要素が詰まっているようだったんです。
見てみた感想としても、色々な観点で楽しめました。
感動的な部分もありましたし、共感する部分もあったり、ニヤリとするところも。
ストーリーとしては、主要な3人の登場人物が最終的に絡み合うのですが、
それまでは別の場所で話が展開していきます。
3人それぞれのストーリーをこま切れにして見ていく感じ。
ループを開いているんです。
メインとなる3つのネストループの中に、さらにネストされている。
これが最後に閉じられていく所も、NLPをやっている人には楽しめそうです。
僕が受けた印象は、「希望」といったところでしょうか。
死に直面した3人の場面を描きながら、生きる希望を表現している。
そんな印象を受けました。
主人公の霊能力者が抱える悩みとして
相手のことが全て分かってしまう苦しみが描かれていたのも印象的です。
思わずニヤリとしてしまうのは、主要人物の一人、イギリス人の少年が
死者の声を聞きたくて霊能者を探し回るシーンでした。
色々な「自称」霊能者のところに行き、声を聞こうとするんです。
しかし、行けども行けども、全員がインチキ。
もちろん、ストーリー中でハッキリと「インチキ」だったとは言いませんが、
そのように解釈できる形で描かれているわけです。
それぞれの霊能者がやっている「いかにも…」な感じの光景が
なんとも皮肉っぽくて僕には面白かったです。
ただし、注意する必要があるのが、冒頭の津波のシーン。
登場人物のうちの一人は、津波に巻き込まれて臨死体験をするんです。
この映画の公開は2010年だったそうですから、
最近のDVD化の時間からすると、期間が随分と長めです。
おそらく、震災に対する配慮でしょう。
テレビ画面を通して見た津波の映像にショックを受けた人もいるはずです。
視覚的に恐怖感がアンカーされている可能性もあります。
なので、その点だけは見るときに注意が必要だと思います。
少なくとも、DVDには、それを書いておくべきでしょう。
「上手くいきすぎ」な部分も多いストーリーですが
映画だと割り切って見れば全体的に楽しめるものだと感じました。
2011年10月05日
ベラ
「妖怪人間ベム」がドラマになるそうです。
僕が子供のころに見ていたのは再放送だったと思いますが、
ストーリーは何一つ覚えていないのに、キャラクターだけが目に浮かびます。
ドラマのキャストは、僕の記憶の中のイメージよりも、ずっと若い。
当時見ていたアニメの雰囲気から察していた年齢(?)は
もっと大人の感じで想像していました。
まぁ、多分、妖怪ですから子供の姿でも年齢は高いとかいう設定でしょうが。
あの映像の人物描写や景色は、なぜか海外っぽくて
その当たりの非日常的な感じも楽しかったのかもしれません。
なぜ誰も怪しまずに、普通の人間を相手にするように接するのか
当時の僕には疑問で仕方がなかったです。
その一方で、僕には「ベラ」が、妙に親しみのある対象に思えていました。
「ベラ」は女性(という区別かどうか知りませんが)のキャラクターです。
多分、その理由は、あんな感じの人が実際に知り合いにいたからでしょう。
音楽の先生が、「ベラ」の変身前(妖怪じゃない状態)に似ていたんです。
もちろん、そんなにソックリなわけではなく、あんな雰囲気の装いで、
言動も豪快な感じが印象的でした。
表向きは厳しく、粗雑な感じなのに、思いやりがある。
そんな特徴も「ベラ」と重ねていたのかもしれません。
そして、もう一人、「ベラ」に似ている人がいました。
実は、僕にとってこっちが強烈で、もうそれは、会うたびに「ベラ」を思い出しました。
友達のお母さんでした。
ただし、「ベラ」の変身後に似ていたんです。
妖怪モードのほう。
とはいえ、もちろん、そのお母さんが妖怪みたいだったという話しではなく、
妖怪っぽい部分は全然似ていないんですが、
髪型とか輪郭とか、顔のパーツのバランスとか、
そういうところが似ているように感じていたんだと思います。
ちなみに、「ベム」と「ベロ」の妖怪の姿がETっぽい雰囲気があるのに対して
「ベラ」の妖怪モードだけ、二人と大きく違っていました。
それでも「似ている」というのは失礼な表現ですが。
まぁ、小学生の頃の僕は、そう感じていたんです。
一応、常識はあったつもりですから、本人には言っていませんし、
友達にも「お母さん、ベラに似ているね」とは言っていません。
僕の両親にも、友達にも言えなかったと思います。
ずっと心の中で、「あ、ベラに似ているお母さんだ」と思っていた気がします。
実際は、とても華やかで目立つお母さんでした。
言動や性格も、「ベラ」とは似ていませんでしたが、
なぜか僕には、それが印象に残っていたんです。
そして、今回のドラマ化の話を聞いて、友達のことを思い出しました。
テレビの予告編やネットの公式サイトを見ましたが、
随分とアニメとは違う感じがします。
妖怪の姿に変身した後も、特殊メイクでスゴイことになっていました。
アニメのほうが可愛げがありました。
どこか僕の中に、愛着があったのかもしれません。
「デビルマン」も好きだったんですが、少し絵柄に共通点を感じます。
サブモダリティとして強調されるところに毒々しさと
怒りと悲しみのエネルギーを感じていたのかもしれません。
不遇ながら戦う姿。
堂々と正義の味方じゃないところ。
…こういう特徴は、今の自分でも好意を抱く対象です。
だから、『「ベラ」に似ている』というのは、当時の僕にとって
結構ポジティブな印象であって、褒め言葉に近かったんだと思います。
言われたら怒られたかもしれませんが。
僕が子供のころに見ていたのは再放送だったと思いますが、
ストーリーは何一つ覚えていないのに、キャラクターだけが目に浮かびます。
ドラマのキャストは、僕の記憶の中のイメージよりも、ずっと若い。
当時見ていたアニメの雰囲気から察していた年齢(?)は
もっと大人の感じで想像していました。
まぁ、多分、妖怪ですから子供の姿でも年齢は高いとかいう設定でしょうが。
あの映像の人物描写や景色は、なぜか海外っぽくて
その当たりの非日常的な感じも楽しかったのかもしれません。
なぜ誰も怪しまずに、普通の人間を相手にするように接するのか
当時の僕には疑問で仕方がなかったです。
その一方で、僕には「ベラ」が、妙に親しみのある対象に思えていました。
「ベラ」は女性(という区別かどうか知りませんが)のキャラクターです。
多分、その理由は、あんな感じの人が実際に知り合いにいたからでしょう。
音楽の先生が、「ベラ」の変身前(妖怪じゃない状態)に似ていたんです。
もちろん、そんなにソックリなわけではなく、あんな雰囲気の装いで、
言動も豪快な感じが印象的でした。
表向きは厳しく、粗雑な感じなのに、思いやりがある。
そんな特徴も「ベラ」と重ねていたのかもしれません。
そして、もう一人、「ベラ」に似ている人がいました。
実は、僕にとってこっちが強烈で、もうそれは、会うたびに「ベラ」を思い出しました。
友達のお母さんでした。
ただし、「ベラ」の変身後に似ていたんです。
妖怪モードのほう。
とはいえ、もちろん、そのお母さんが妖怪みたいだったという話しではなく、
妖怪っぽい部分は全然似ていないんですが、
髪型とか輪郭とか、顔のパーツのバランスとか、
そういうところが似ているように感じていたんだと思います。
ちなみに、「ベム」と「ベロ」の妖怪の姿がETっぽい雰囲気があるのに対して
「ベラ」の妖怪モードだけ、二人と大きく違っていました。
それでも「似ている」というのは失礼な表現ですが。
まぁ、小学生の頃の僕は、そう感じていたんです。
一応、常識はあったつもりですから、本人には言っていませんし、
友達にも「お母さん、ベラに似ているね」とは言っていません。
僕の両親にも、友達にも言えなかったと思います。
ずっと心の中で、「あ、ベラに似ているお母さんだ」と思っていた気がします。
実際は、とても華やかで目立つお母さんでした。
言動や性格も、「ベラ」とは似ていませんでしたが、
なぜか僕には、それが印象に残っていたんです。
そして、今回のドラマ化の話を聞いて、友達のことを思い出しました。
テレビの予告編やネットの公式サイトを見ましたが、
随分とアニメとは違う感じがします。
妖怪の姿に変身した後も、特殊メイクでスゴイことになっていました。
アニメのほうが可愛げがありました。
どこか僕の中に、愛着があったのかもしれません。
「デビルマン」も好きだったんですが、少し絵柄に共通点を感じます。
サブモダリティとして強調されるところに毒々しさと
怒りと悲しみのエネルギーを感じていたのかもしれません。
不遇ながら戦う姿。
堂々と正義の味方じゃないところ。
…こういう特徴は、今の自分でも好意を抱く対象です。
だから、『「ベラ」に似ている』というのは、当時の僕にとって
結構ポジティブな印象であって、褒め言葉に近かったんだと思います。
言われたら怒られたかもしれませんが。
2011年10月03日
アレンジを利かせる
今年も書道の作品制作のシーズンになりました。
普段の練習が古典の臨書なので、作品も臨書でやる人が大半。
僕が書く予定のも、この1年臨書をしてきたものです。
臨書は、古典の名作を模倣してバランスの取り方や
筆使いなどを学ぶのが大きな目的だと言われますが、
臨書の仕方というのも結構バリエーションがあるようです。
本当に、古典の通りに正確に模倣しようとするタイプ。
大まかなバランスの取り方だけを参考にしているタイプ。
筆使いを強調して、特徴を誇張していくタイプ。
どの人が、どんな意識でやっているのかは分かりません。
ただ、僕が習っている先生の臨書の仕方は
正確に模倣しようとするタイプではないようなんです。
明らかに先生の癖が入るように見えます。
そういうと悪い印象があるかもしれませんが、
むしろ、その先生の特徴とも言える部分は、
多くの古典の筆使いを取り入れてきて定着した線質にあります。
なので、おそらく全ての古典の底に通じる部分のはずなんです。
名作と呼ばれるものを書いた人たちは、古典に学んでいると言われますから。
その中で、人それぞれの個性が出ていたり、道具の特徴が出ていたり、
様々な条件が重なって、古典は名作として存在している。
食べ物に喩えるなら、全ての名品を作ってきた人たちは
全員、ダシの取り方を丁寧に学んでいる、という感じでしょうか。
ダシにも色々な種類があり、それぞれ違いがある。
料理のタイプに合わせて、どのダシを利かせるかも変わってくる。
なので、出来上がりの料理には、それぞれの個性があって
全く違う料理に見えるけれども、全てにおいてダシは重要である、と。
料理の喩えでいうと、僕の印象はこんな感じです。
文字の形でバランスを取るのが調味料の量で味付けを整えるところ。
配置や白と黒の配分などでバランスを取るのが、
素材の組み合わせや味付けの仕方で、全体としての料理の味を組み立てる部分。
筆使いによって生み出される線の質が、ダシや素材の味。
「お習字」として、無難な線で、綺麗な形の字を書くというのは、
調味料の使い方と、レシピ通りの材料の組み合わせで
多くの人が満足するような料理を作る感じかもしれません。
一方、僕が習っているのは、「書道」を目指す方向性なので
最終的には芸術性を高めていくことが目標となります。
先生の好みは、ダシの味が強いものみたいです。
普段の臨書は、そのダシや素材の味を良いものにするところに焦点があたり、
先生がお手本として書いてくれる臨書は、古典をそのまま模倣するのではなく、
料理としては同じように作りながらも、ダシを強く利かせている雰囲気です。
全ての料理に使われているダシ。
それを、どの料理を作っても、かなり強めに使うわけです。
なので、似ているようで、チョット違うんです。
そして、もう1つの特徴が、半紙に臨書をして練習をするということ。
芸術としての作品志向が強い先生は、半紙に書くお手本ですら
紙一枚の中に表現される作品としてのバランスを重視します。
臨書の元となる古典の名作は、全体が長いものなんです。
単純にいえば、文字数が多い。
書かれているスペースも、大きさも、文字数も違う。
そのスケールでバランスが取られている、ということです。
そこから数文字を抜き取って、そのまま半紙に書き写す…
というのは、一文字ずつは模倣していても
全体のバランスの取り方などは模倣できていないことになります。
先生は、半紙一枚の中に、その古典の名品の雰囲気全体が
しっかりと収まって表現されるように工夫をしているそうです。
だから一文字ずつが似ているかというと、
アレンジが入っているところが多々あるんです。
しかし、そのアレンジも原則としては、半紙一枚で全体のバランスを取るため。
まぁ、練習ですから、他の意図も色々と入りますし、
先生の好みである「ダシの強さ」も反映されているので、原本との差は出てきます。
普段の練習は、そのように先生が書いてくれたお手本を元に
筆使いや、形のバランス、などを練習します。
色々と学べるところは大きいものの、全体のバランスをどうとるか、という部分は
先生が書いてくれたお手本のとおりに書くだけなので、学べないんです。
まぁ、先生のを参考にできるとはいえ、自分で練習はしていないということです。
ところが、展覧会に出品するための作品を書くと段階になると
半紙ではなくなり、大きな紙に書くようになります。
半紙一枚にバランスを取るのとは全く異なった配置の工夫が出てきます。
同じ部分の、同じ臨書のはずなのに、半紙で臨書をするときと
大きな紙で作品にするときとでは、文字の形やバランスが大きく違うんです。
それは紙全体で作品としてのバランスを考えるから。
ここの指導で、ようやく普段とは違う学びが増えていくんです。
去年は、初めて一年ぐらいでしたから、
文字をお手本に似せて書くだけで精一杯でした。
全体を考える余裕も、バランスの取り方を意識する余裕もなかった。
そこは学べていなかった気がします。
ですが、今年は少し慣れてきたので、バランスの取り方においても
色々と工夫をして学べることが多そうです。
筆使いもトレーニングしてきた成果が出ていると思いますから
色々な工夫をして表現を変えられるようになったと自負しています。
ようやく、全体を考えて工夫できる段階に入ったと感じています。
ダシの取り方を覚え、それを強く利かせることを練習してきた。
素材の取り扱い方も学んできた。
インパクトのある味を作り出す調味料のバランスも工夫してきた。
ようやく料理全体の味を考える、という感じです。
創意工夫を取り入れられる時期は楽しいと思います。
どれぐらい時間をかけるかは分かりませんが
遊び心を持ってやってみるつもりです。
普段の練習が古典の臨書なので、作品も臨書でやる人が大半。
僕が書く予定のも、この1年臨書をしてきたものです。
臨書は、古典の名作を模倣してバランスの取り方や
筆使いなどを学ぶのが大きな目的だと言われますが、
臨書の仕方というのも結構バリエーションがあるようです。
本当に、古典の通りに正確に模倣しようとするタイプ。
大まかなバランスの取り方だけを参考にしているタイプ。
筆使いを強調して、特徴を誇張していくタイプ。
どの人が、どんな意識でやっているのかは分かりません。
ただ、僕が習っている先生の臨書の仕方は
正確に模倣しようとするタイプではないようなんです。
明らかに先生の癖が入るように見えます。
そういうと悪い印象があるかもしれませんが、
むしろ、その先生の特徴とも言える部分は、
多くの古典の筆使いを取り入れてきて定着した線質にあります。
なので、おそらく全ての古典の底に通じる部分のはずなんです。
名作と呼ばれるものを書いた人たちは、古典に学んでいると言われますから。
その中で、人それぞれの個性が出ていたり、道具の特徴が出ていたり、
様々な条件が重なって、古典は名作として存在している。
食べ物に喩えるなら、全ての名品を作ってきた人たちは
全員、ダシの取り方を丁寧に学んでいる、という感じでしょうか。
ダシにも色々な種類があり、それぞれ違いがある。
料理のタイプに合わせて、どのダシを利かせるかも変わってくる。
なので、出来上がりの料理には、それぞれの個性があって
全く違う料理に見えるけれども、全てにおいてダシは重要である、と。
料理の喩えでいうと、僕の印象はこんな感じです。
文字の形でバランスを取るのが調味料の量で味付けを整えるところ。
配置や白と黒の配分などでバランスを取るのが、
素材の組み合わせや味付けの仕方で、全体としての料理の味を組み立てる部分。
筆使いによって生み出される線の質が、ダシや素材の味。
「お習字」として、無難な線で、綺麗な形の字を書くというのは、
調味料の使い方と、レシピ通りの材料の組み合わせで
多くの人が満足するような料理を作る感じかもしれません。
一方、僕が習っているのは、「書道」を目指す方向性なので
最終的には芸術性を高めていくことが目標となります。
先生の好みは、ダシの味が強いものみたいです。
普段の臨書は、そのダシや素材の味を良いものにするところに焦点があたり、
先生がお手本として書いてくれる臨書は、古典をそのまま模倣するのではなく、
料理としては同じように作りながらも、ダシを強く利かせている雰囲気です。
全ての料理に使われているダシ。
それを、どの料理を作っても、かなり強めに使うわけです。
なので、似ているようで、チョット違うんです。
そして、もう1つの特徴が、半紙に臨書をして練習をするということ。
芸術としての作品志向が強い先生は、半紙に書くお手本ですら
紙一枚の中に表現される作品としてのバランスを重視します。
臨書の元となる古典の名作は、全体が長いものなんです。
単純にいえば、文字数が多い。
書かれているスペースも、大きさも、文字数も違う。
そのスケールでバランスが取られている、ということです。
そこから数文字を抜き取って、そのまま半紙に書き写す…
というのは、一文字ずつは模倣していても
全体のバランスの取り方などは模倣できていないことになります。
先生は、半紙一枚の中に、その古典の名品の雰囲気全体が
しっかりと収まって表現されるように工夫をしているそうです。
だから一文字ずつが似ているかというと、
アレンジが入っているところが多々あるんです。
しかし、そのアレンジも原則としては、半紙一枚で全体のバランスを取るため。
まぁ、練習ですから、他の意図も色々と入りますし、
先生の好みである「ダシの強さ」も反映されているので、原本との差は出てきます。
普段の練習は、そのように先生が書いてくれたお手本を元に
筆使いや、形のバランス、などを練習します。
色々と学べるところは大きいものの、全体のバランスをどうとるか、という部分は
先生が書いてくれたお手本のとおりに書くだけなので、学べないんです。
まぁ、先生のを参考にできるとはいえ、自分で練習はしていないということです。
ところが、展覧会に出品するための作品を書くと段階になると
半紙ではなくなり、大きな紙に書くようになります。
半紙一枚にバランスを取るのとは全く異なった配置の工夫が出てきます。
同じ部分の、同じ臨書のはずなのに、半紙で臨書をするときと
大きな紙で作品にするときとでは、文字の形やバランスが大きく違うんです。
それは紙全体で作品としてのバランスを考えるから。
ここの指導で、ようやく普段とは違う学びが増えていくんです。
去年は、初めて一年ぐらいでしたから、
文字をお手本に似せて書くだけで精一杯でした。
全体を考える余裕も、バランスの取り方を意識する余裕もなかった。
そこは学べていなかった気がします。
ですが、今年は少し慣れてきたので、バランスの取り方においても
色々と工夫をして学べることが多そうです。
筆使いもトレーニングしてきた成果が出ていると思いますから
色々な工夫をして表現を変えられるようになったと自負しています。
ようやく、全体を考えて工夫できる段階に入ったと感じています。
ダシの取り方を覚え、それを強く利かせることを練習してきた。
素材の取り扱い方も学んできた。
インパクトのある味を作り出す調味料のバランスも工夫してきた。
ようやく料理全体の味を考える、という感じです。
創意工夫を取り入れられる時期は楽しいと思います。
どれぐらい時間をかけるかは分かりませんが
遊び心を持ってやってみるつもりです。
2011年10月01日
リスニングを上げたければ、CDを聞いてはいけません。
どこぞの広告にありそうなタイトルにしてみました。
英語教材のコピーに出てきそうです。
英語関係の本を読んでいると、発音の聞き分けを扱う教材に出会います。
CDに録音された発音を聞いて、LとRを聞き分ける、というような。
ネイティブの子供からするとLとRは全く別の音らしく、
この2つの音を間違えることはないと言われます。
一方で、Rの音はWとは間違われやすい。
幼少期は、自然と目の前に示されたものを模倣する傾向が見受けられます。
何かの能力と結びつける説明も見かけますが、
僕はペーシングによる同調の結果だろうと考えています。
トランスが深いほうが同調は起きやすいものですから、
意識の機能が未発達な幼少期では、常にトランスにいるようなものと
喩えることもできるでしょう。
その意味では、放っておいても身近な人に同調するわけです。
この身体的な同調による全身を使ったインプットの結果、
言葉を介さずに、他人の気持ちを感じ取るようなことをしていると想像します。
つまり、目の前にいる他人の身体的な状態や感覚を
同じように感じることをしているだろう、ということです。
なので、見たものを模倣するようにして行動を学習していくことがしやすい。
見た目で分かるような単純な動作から、
外から見たのでは分からないような、複雑な口の中の筋肉の使い方まで
筋肉の使い方のレベルで模倣をしやすいんだと思います。
幼少期が学習に適しているのは、脳の神経ネットワークが未発達で
特定の処理に特化していないから、というのもあるはずですが、
同時に他人と同じことをしやすい状態にあるから、という理由もあると思うんです。
言葉を真似しようとするときも、音を再現しようとする試みに加えて
のどや口の筋肉の使い方を感覚レベルで真似していると考えられます。
むしろ、幼少期は客観的に耳から聞こえてくる音を捉える能力が低いですから
(だから小さい子供は基本的に声の大きさが調節できず、歌も上手くない)
体の感覚として、音の出し方を学ぶ度合いが高いかもしれません。
そして、体の感覚で言えば、確かにLとRは全く別の感じになるでしょう。
WとRは、発音するときの感覚が近いと思います。
ですから、発音のレベルでの区別、つまり自分の筋肉の感じを使った区別だと
LとRは別物として識別されやすいんだと思われます。
しかし、日本人は「ら」行の音を聞き分けるように、
脳内の処理の仕方を適用させています。
当然、体感覚のレベルでLとRの発音の仕方は知りませんし、
それらが「ら」行の音を出すときと、どう違うのかも分かっていない。
さらに厄介なことに、カタカナ語として「ら」行に変換されてしまった
単語の音さえも耳慣れしてしまっているわけです。
こうなると、音だけから区別するのは難しいだろうと想像できます。
実は、僕もLとRの聞き分けが得意ではなく、
知っている単語の場合には、スペルがLを使っているかRを使っているかで
頭の中で想像して補っていますから混乱しないこともあります。
文脈で出てこないはずの単語なのかどうかという情報も
実際の音としてLとRを区別できていなくても問題が起きにくい理由でしょう。
日本語でいえば、雲と蜘蛛は同じ発音ですが、
会話の中で聞こえてきたときには話の文脈から、どちらなのかが判別できる。
そういう感じで、LとRが音で区別できなくても単語が分かるときがあるわけです。
一方、実際に僕が区別できなかったのは「 flute 」と「 fruit 」です。
Lが使われているほうが「 flute (フルート)」で、
Rが使われているほうが「 fruit (果物、フルーツ)」です。
フルートもフルーツも、日本語として耳にする上に、
文脈として、どちらなのかを判断することもできませんでした。
純粋に、音としてLとRが聞き分けられるようになっていない証拠です。
違うものだと思って良く聞けば、その違いは感じられます。
その音を出すときの感覚を意識すると、LとRの違いはクリアになっていく。
けれども、受動的に聞こえてくる音だけから判別することが
どうやらできていないようなんです。
つまり、僕の頭の中には、思い浮かんでくる音として
「 flute 」と「 fruit 」が区別されていないようだ、ということです。
このようなLとRの区別がつかない人が
リスニングの教材を使って、LとRを聞き分ける練習をしても
実際にはあまり効果がないのではないかと、僕は個人的に考えます。
なぜなら、音の区別を、外側から聞こえてくる音のレベルでしているからです。
それはちょうど、ピアノの音で「ミ」と「ソ」を鳴らして
どちらかを区別するような練習に近いでしょう。
連続して比べて聞けば、「どちらが高いか」で区別ができる。
しかし、単独で、急に音を鳴らされて判別するように言われると、
とたんに難しくなるはずです。
ましてや、曲の中で使われている「ミ」や「ソ」の音を見つけるのは
さらに難しい作業だろうと想像できます。
こうなる理由は、頭の中に『モデル』としての音が存在していないからでしょう。
物事を認識するときには、基準と照らし合わせることが必須です。
だから「ミ」と「ソ」でも、LとRでも、連続して比べれば判断できるんです。
相対的に比べることで、それぞれが基準になるからです。
それに対して、単独で音を聞いた時には、相対的には聞けません。
比較対象になる基準の音が、「外側」にないんです。
だから、頭の内側に記憶として基準を持っている必要があります。
頭の中で『モデル』として、『基準』として存在している音と
比べることで違いを判別するわけです。
「ミ」の音を、比べるものが何もないところから判別できるのは
「絶対音感」と呼ばれますが、絶対音感を可能にするのは
記憶の中に音階の基準があることです。
おそらく、絶対音感のある人は、「ミ」の高さの音を発声もできるでしょう。
そう考えると、LとRが聞き分けられる人は、本質的には
自分でもLとRの音を区別して発音できるはずなんです。
Lのモデルとなる音も、Rのモデルとなる音も、
記憶の中にハッキリと区別されて存在しているのに、
筋肉の使い方として発音の違いが出せない…
というケースもゼロではないかもしれません。
が、音の区別が絶対的についているならば、少なくとも
何度も繰り返して試しているうちに「今のはRの音です!」とは言えます。
ですから、Lの音、Rの音の基準となる音が
頭の中に記憶されていれば、発音もしやすいものでしょう。
もし発音し分けることができないのであれば、
頭の中にLとRの音の基準がない可能性が高い。
だったら、発音し分けられるように訓練していくのは
聞き分けの能力を上げる1つの効果的な方法だと考えられます。
実際、経験的に自分で分けて発音できる音は
リスニングにおいても楽に聞き分けられる印象があります。
なので、その意味でもLとRの音をただ聞き分けようとして
音声教材を聞き続けるというのだけでは効果が低いと思うんです。
まして、連続的にLとRの入った単語が繰り返されるのを聞いていると
自分の記憶の中に基準音を作る必要がありません。
どっちがLで、どっちがRかと、相対的に調べるだけになってしまいます。
その意識でトレーニングをしていたら、
頭の中に音のモデルが作られる可能性は低いでしょう。
単語の聞き分けを続けても効果は薄そうで、
それよりは発音の練習をして、自分で区別して発音できるようにするほうが
最終的には聞き分ける力も上がっていくだろう、という話です。
そして、もっと重要だと思うことがあります。
なぜなら、僕は意識的に発音を仕分けようとすれば
それなりにできる感じがするものの、
何気なく聞いているときには聞き分けられていないようだからです。
おそらく、頭の中にLとRの基準になる音のモデルが無いんでしょう。
発音の時の体感覚的なモデルは、あるのかもしれません。
それに耳から聞こえるだけで区別できるような
音の区別のモデルを統合していく必要がありそうです。
そう感じたのは、英語の文章を読んでいるときに
頭の中で浮かんでくる音声が、LとRの区別を
ハッキリさせていなかったことに気づいたからでした。
声に出さずに、心の内側でLとRの音の区別をつける。
この練習が効果的だろうと思っています。
そして、黙読をしているときに自然と、L・Rの区別をつけながら
音が浮かんでくるようになれば、実際にリスニングする場面でも
聞き分けが容易になるだろうと予測しています。
心の内側で「発音」するのではありません。
心の内側で「聞く」んです。
喉に電極をつけて筋肉の活動電位を測定したとしたら、
LやRの音を想像したときに筋肉に力が入る量が小さいほうが良い。
黙読をするときに、声に出さずに自分が読み上げている感覚では
効果が下がるんじゃないかと考えています。
黙読をするときに自然と聞こえてくるというか、浮かんでくる声が
LとRを区別するように練習するんです。
頭の中でLとRの音を「聞き分ける」練習をするわけです。
これができるようになったときには、
頭の中にLとRの音のモデルができているでしょう。
外から単独で音を聞いたときにも、心の中の基準と比較できるんです。
こうなると音の区別はスムーズになると考えられます。
しばらく、そんなことに意識しながら英語の文章を読んでみます。
リスニング力を上げるためには、読む訓練が有効!
…というのは、あまり多くない理論だと思うので、面白い気がします。
英語教材のコピーに出てきそうです。
英語関係の本を読んでいると、発音の聞き分けを扱う教材に出会います。
CDに録音された発音を聞いて、LとRを聞き分ける、というような。
ネイティブの子供からするとLとRは全く別の音らしく、
この2つの音を間違えることはないと言われます。
一方で、Rの音はWとは間違われやすい。
幼少期は、自然と目の前に示されたものを模倣する傾向が見受けられます。
何かの能力と結びつける説明も見かけますが、
僕はペーシングによる同調の結果だろうと考えています。
トランスが深いほうが同調は起きやすいものですから、
意識の機能が未発達な幼少期では、常にトランスにいるようなものと
喩えることもできるでしょう。
その意味では、放っておいても身近な人に同調するわけです。
この身体的な同調による全身を使ったインプットの結果、
言葉を介さずに、他人の気持ちを感じ取るようなことをしていると想像します。
つまり、目の前にいる他人の身体的な状態や感覚を
同じように感じることをしているだろう、ということです。
なので、見たものを模倣するようにして行動を学習していくことがしやすい。
見た目で分かるような単純な動作から、
外から見たのでは分からないような、複雑な口の中の筋肉の使い方まで
筋肉の使い方のレベルで模倣をしやすいんだと思います。
幼少期が学習に適しているのは、脳の神経ネットワークが未発達で
特定の処理に特化していないから、というのもあるはずですが、
同時に他人と同じことをしやすい状態にあるから、という理由もあると思うんです。
言葉を真似しようとするときも、音を再現しようとする試みに加えて
のどや口の筋肉の使い方を感覚レベルで真似していると考えられます。
むしろ、幼少期は客観的に耳から聞こえてくる音を捉える能力が低いですから
(だから小さい子供は基本的に声の大きさが調節できず、歌も上手くない)
体の感覚として、音の出し方を学ぶ度合いが高いかもしれません。
そして、体の感覚で言えば、確かにLとRは全く別の感じになるでしょう。
WとRは、発音するときの感覚が近いと思います。
ですから、発音のレベルでの区別、つまり自分の筋肉の感じを使った区別だと
LとRは別物として識別されやすいんだと思われます。
しかし、日本人は「ら」行の音を聞き分けるように、
脳内の処理の仕方を適用させています。
当然、体感覚のレベルでLとRの発音の仕方は知りませんし、
それらが「ら」行の音を出すときと、どう違うのかも分かっていない。
さらに厄介なことに、カタカナ語として「ら」行に変換されてしまった
単語の音さえも耳慣れしてしまっているわけです。
こうなると、音だけから区別するのは難しいだろうと想像できます。
実は、僕もLとRの聞き分けが得意ではなく、
知っている単語の場合には、スペルがLを使っているかRを使っているかで
頭の中で想像して補っていますから混乱しないこともあります。
文脈で出てこないはずの単語なのかどうかという情報も
実際の音としてLとRを区別できていなくても問題が起きにくい理由でしょう。
日本語でいえば、雲と蜘蛛は同じ発音ですが、
会話の中で聞こえてきたときには話の文脈から、どちらなのかが判別できる。
そういう感じで、LとRが音で区別できなくても単語が分かるときがあるわけです。
一方、実際に僕が区別できなかったのは「 flute 」と「 fruit 」です。
Lが使われているほうが「 flute (フルート)」で、
Rが使われているほうが「 fruit (果物、フルーツ)」です。
フルートもフルーツも、日本語として耳にする上に、
文脈として、どちらなのかを判断することもできませんでした。
純粋に、音としてLとRが聞き分けられるようになっていない証拠です。
違うものだと思って良く聞けば、その違いは感じられます。
その音を出すときの感覚を意識すると、LとRの違いはクリアになっていく。
けれども、受動的に聞こえてくる音だけから判別することが
どうやらできていないようなんです。
つまり、僕の頭の中には、思い浮かんでくる音として
「 flute 」と「 fruit 」が区別されていないようだ、ということです。
このようなLとRの区別がつかない人が
リスニングの教材を使って、LとRを聞き分ける練習をしても
実際にはあまり効果がないのではないかと、僕は個人的に考えます。
なぜなら、音の区別を、外側から聞こえてくる音のレベルでしているからです。
それはちょうど、ピアノの音で「ミ」と「ソ」を鳴らして
どちらかを区別するような練習に近いでしょう。
連続して比べて聞けば、「どちらが高いか」で区別ができる。
しかし、単独で、急に音を鳴らされて判別するように言われると、
とたんに難しくなるはずです。
ましてや、曲の中で使われている「ミ」や「ソ」の音を見つけるのは
さらに難しい作業だろうと想像できます。
こうなる理由は、頭の中に『モデル』としての音が存在していないからでしょう。
物事を認識するときには、基準と照らし合わせることが必須です。
だから「ミ」と「ソ」でも、LとRでも、連続して比べれば判断できるんです。
相対的に比べることで、それぞれが基準になるからです。
それに対して、単独で音を聞いた時には、相対的には聞けません。
比較対象になる基準の音が、「外側」にないんです。
だから、頭の内側に記憶として基準を持っている必要があります。
頭の中で『モデル』として、『基準』として存在している音と
比べることで違いを判別するわけです。
「ミ」の音を、比べるものが何もないところから判別できるのは
「絶対音感」と呼ばれますが、絶対音感を可能にするのは
記憶の中に音階の基準があることです。
おそらく、絶対音感のある人は、「ミ」の高さの音を発声もできるでしょう。
そう考えると、LとRが聞き分けられる人は、本質的には
自分でもLとRの音を区別して発音できるはずなんです。
Lのモデルとなる音も、Rのモデルとなる音も、
記憶の中にハッキリと区別されて存在しているのに、
筋肉の使い方として発音の違いが出せない…
というケースもゼロではないかもしれません。
が、音の区別が絶対的についているならば、少なくとも
何度も繰り返して試しているうちに「今のはRの音です!」とは言えます。
ですから、Lの音、Rの音の基準となる音が
頭の中に記憶されていれば、発音もしやすいものでしょう。
もし発音し分けることができないのであれば、
頭の中にLとRの音の基準がない可能性が高い。
だったら、発音し分けられるように訓練していくのは
聞き分けの能力を上げる1つの効果的な方法だと考えられます。
実際、経験的に自分で分けて発音できる音は
リスニングにおいても楽に聞き分けられる印象があります。
なので、その意味でもLとRの音をただ聞き分けようとして
音声教材を聞き続けるというのだけでは効果が低いと思うんです。
まして、連続的にLとRの入った単語が繰り返されるのを聞いていると
自分の記憶の中に基準音を作る必要がありません。
どっちがLで、どっちがRかと、相対的に調べるだけになってしまいます。
その意識でトレーニングをしていたら、
頭の中に音のモデルが作られる可能性は低いでしょう。
単語の聞き分けを続けても効果は薄そうで、
それよりは発音の練習をして、自分で区別して発音できるようにするほうが
最終的には聞き分ける力も上がっていくだろう、という話です。
そして、もっと重要だと思うことがあります。
なぜなら、僕は意識的に発音を仕分けようとすれば
それなりにできる感じがするものの、
何気なく聞いているときには聞き分けられていないようだからです。
おそらく、頭の中にLとRの基準になる音のモデルが無いんでしょう。
発音の時の体感覚的なモデルは、あるのかもしれません。
それに耳から聞こえるだけで区別できるような
音の区別のモデルを統合していく必要がありそうです。
そう感じたのは、英語の文章を読んでいるときに
頭の中で浮かんでくる音声が、LとRの区別を
ハッキリさせていなかったことに気づいたからでした。
声に出さずに、心の内側でLとRの音の区別をつける。
この練習が効果的だろうと思っています。
そして、黙読をしているときに自然と、L・Rの区別をつけながら
音が浮かんでくるようになれば、実際にリスニングする場面でも
聞き分けが容易になるだろうと予測しています。
心の内側で「発音」するのではありません。
心の内側で「聞く」んです。
喉に電極をつけて筋肉の活動電位を測定したとしたら、
LやRの音を想像したときに筋肉に力が入る量が小さいほうが良い。
黙読をするときに、声に出さずに自分が読み上げている感覚では
効果が下がるんじゃないかと考えています。
黙読をするときに自然と聞こえてくるというか、浮かんでくる声が
LとRを区別するように練習するんです。
頭の中でLとRの音を「聞き分ける」練習をするわけです。
これができるようになったときには、
頭の中にLとRの音のモデルができているでしょう。
外から単独で音を聞いたときにも、心の中の基準と比較できるんです。
こうなると音の区別はスムーズになると考えられます。
しばらく、そんなことに意識しながら英語の文章を読んでみます。
リスニング力を上げるためには、読む訓練が有効!
…というのは、あまり多くない理論だと思うので、面白い気がします。