2011年11月
2011年11月09日
日本人らしさを身につけたい
日本語以外のことを積極的に身につけようとすると、
自分が日本語でも出来ていなかったことに気づくことができます。
例えば、英語で「 fair 」という単語の意味は「公平な、公正な」という具合い。
「 equal 」という単語の意味は「等しい、平等な」という感じ。
この日本語訳の意味自体は知っていました。
「 fair 」といえば、むしろ「フェア」というカタカナの日本語で対応して
特にしっかりと日本語訳をするまでもなく分かっているつもりでした。
「 fair 」も「 equal 」も、なんとなく使い分けられるつもりでいました。
しかし、「 fair 」や「 equal 」を、「公平」・「平等」という価値と結びつけると
その中身に対してシッカリとした理解をしていなかったと気づいたんです。
僕にとって、「公平(フェア)」と「平等」は、大きな違いを意識していませんでした。
こうやって書いてみると、「公平」と「平等」は使いどころが違うのは分かります。
「平等な審査」とは言いませんが、「公平な審査」とは言います。
「公平な」としてしか言わない場面には自覚があっても
「平等」という言葉しか相応しくない場面には意識が低かったんです。
なんとなく、どっちも「対等」というか、「差が無い」感じのイメージ。
「平等な権利」という言い方は普通な気がしますし、
「公平な権利」といっても、なんとなく違和感がなかったんです。
ただ、「公平」ということの意味を考えてみると
その反対に「不公平」とか「ズルイ」というニュアンスを思い描きますから、
「特定の人や物事にとってだけ有利ということがない」のが「公平」なんでしょう。
「平等」は、逆に、「なんらかの要因だけで、不利益をもたらされることがない」
といった感じじゃないかと思います。
仮に「女性というだけで出世できない」としたら、それは「平等ではない」と。
そして、「平等」も「公平」も、「対等」とは意味が違うはずです。
いずれも辞書で調べたわけではありませんから正確かどうかは不明です。
また、辞書の定義が正しいとも言い切れない気もします。
コミュニケーションにおいて、より重要なのは
本人がその言葉の意味をどのように理解しているかでしょうから。
その意味でいうと、僕は「平等」も「公平」も「対等」も、あまり意識しておらず
適当にしか言葉の意味を理解していなかったわけです。
それは僕が、そのあたりの概念を、あまり重視していない
ということが関係していそうです。
アメリカであれば、差別や格差が重要な問題として取り上げられる国柄ですから、
誰かが不当な不利益を被ることや、誰かが不当に有利にしていることを
「悪いこと」として捉える背景があるような気がします。
少し角度を変えて捉えると、「他者との比較を詳細に見ている」
ということにもなるかもしれません。
日本人は、他人と自分を比較して「うらやましい」と思ったり、
「卑屈」になったりしやすいイメージがありますが、
その比較の仕方は、かなりいい加減だと思います。
自分と、他者の一局面だけを比べて、気持ちを動かしている。
一方、欧米文化では、その比較の条件をしっかりと吟味して
どこに、どのように、どんな差があるのかを理解しようとする傾向がありそうです。
だからこそ、「平等」や「公平」という比較に敏感なんじゃないか、ということです。
ちなみに、僕が良く理解できていなかった事例は、こんな感じ。
そのときに話していた内容は、
「ネット上で学校の授業を受けるのは良いか、悪いか」
といったテーマです。
で、アメリカ育ちの人が
「色々な人が勉強できるようになるので、良い」
と答えたんです。
「例えば、家が学校から遠くて通いきれない人も勉強できる。
それに、体に障害があって通学が困難な人も自宅で勉強できる。」
というような説明でした。
それを聞いたとき、僕は
「この人が説明している価値観は『公平さ』か」
と思ったんです。
で、確認をしてみました。
そしたら、「うーん…」と唸った後、「平等っていうことですか?」と。
確かに、良く考えてみると、その人が挙げた例というのは
「生まれながらの条件のために、教育が困難になることが無い」といった
「特定の要因だけで不利益を被らない」意味で、「平等」なんでしょう。
しかし、その時点まで、僕は「平等」と「公平」の違いを意識していませんでした。
それがアメリカ育ちの人にとっては、大きな違いに感じられたようなんです。
このあたりの差に欧米人のほうが敏感な理由として、
1つには上に挙げたように、そのことを意識しやすい文化背景がある
ということが考えられるはずです。
その価値そのものを重視している、と。
「平等さ」や「公平さ」が大事だという話です。
もう1つの大きな理由は、言語的な特徴の違いです。
日本語は、状況を説明することを中心とした言語、
英語(ラテン語系統)は、プロセスの説明を中心とした言語、
という違い。
ある人は、これを
「日本語は、大きな枠組みの中から意識し始め、中心に意識を向けていく」
「英語は、中心から外側の大きな枠組みに向かって意識を広げていく」
と説明していました。
だから住所の説明の順序が
「東京都中央区銀座1−1」と
「1−1Ginza、chuou−ku、Tokyo」
という具合に逆転するんだ、と。
まぁ、その意識の向け方の順番だけでは説明がつかない気もしますが、
少なくとも英語では「プロセスワード」の重要度が高いんです。
「プロセスワード」というのは、「動詞、形容詞、副詞」からなっていて
「述語と修飾語」からなる、とも言えます。
プロセスワードを、別名で「叙述語」と言います。
プロセスワードこそが、「どのように」作用しているかを説明するんです。
ここが英語で「 How 」を重視する理由でしょう。
日本は「 5W1H 」と言いながら、実際には「 How 」の比率が極端に弱いはずです。
「いつ、どこで、誰が、何を、なぜ」は意識できても、「どのように」が弱い。
「いつ、どこで、誰が、何を」は、完全に状況を説明しています。
静止画に近いんです。
一方、英語では動詞や形容詞、副詞(つまりプロセスワード)を使って
「どのような作用が働いていたか」を中心に説明する傾向があります。
こちらのほうが動画に近いんです。
じゃあ、日本語に「どのように」に対応する言葉が無いかというと、
決してそんなことはなく、あっても滅多に使われないというのが実態でしょう。
その代わりとして多用されるのが『擬態語』と『擬音語』です。
「どのように」を説明するときに、擬態語が使われることが多い印象があります。
「簡単に」ということが「サッサと」になったり、
「効率的に」ということが「テキパキと」になったり、
「秘密で」ということが「コッソリ」になったり。
英語のほうが、このあたりの「どのように」を説明する言葉が使われやすく、
動詞の単語そのものに「どのように」の違いが含まれているケースも多いようです。
もう1つの違いが、「物事を評価するときの基準」でしょう。
日本人のほうが個人的な好みに繋げて判断をしやすい。
掘り下げていくと、最終的には「好き・嫌い」のレベルになってしまう。
一方、欧米人では(特に論理的な説明を求められた場合)
社会的な意義やメリットに繋げて判断をするようです。
掘り下げていくと、最終的には「善・悪」や「正・誤」のレベルに繋がる。
例えば、家事用のお助けグッズの同じものを使ったときの感想でも
「楽ちん!」というのは、自分の気持ちに意識が向いていますし、
「便利!(多くの主婦の助けになるだろう)」というのは一般論に意識が向いています。
倫理や道徳、正義というのは、個人の好みとは無関係に
社会にとって、それが良いことかどうかを判断するときの発想のようです。
その視点は、日本人にとって馴染みの薄いもののような気がします。
少なくとも、教育上は中心になっていないと思うんです。
相手の身になって考えてみましょう、という二人称の視点は教育されても、
社会にとって良いか悪いかを考えてみましょう、という三人称の視点は
あまり日本では教育されていないと思います。
そのため、価値判断の基準は、個人の好みに拠りやすいんでしょう。
「公平」や「平等」といった価値判断は、個人というよりも
一般論として判断するための視点だと言えますから、
その意味でも、日本人は意識しにくいところじゃないかと感じます。
文化的、歴史的に意識されにくい発想であっても
他の文化の人たちにとって重要な概念であるものが沢山あると思います。
言語的にも、日本人にとって注目しにくい概念があるようですが、
それでも訓練によって意識できるようになっていくことも可能でしょう。
個人を超えた第三者的な、社会一般の視点に目を向けることも
日々を生きていくうえで求められる場面があるかもしれません。
欧米人と比べて、日本人には注目しにくい部分があるんだと実感します。
逆に言えば、欧米人にも、日本人なら当然のように注目する部分で
意識が向きにくいところがあるはずです。
この違いが、生活やコミュニケーションのスタイルに表れている気がします。
表面的にその違いを埋めようとしても、意識の向け方の違いまでは
簡単に変わるものではないと予想します。
その意識の向け方を、どっちつかずに変えてしまうと
日本人でも欧米人でもない中間的な人になってしまうんじゃないでしょうか。
どちらもシッカリと意識できるようになれて、
使い分けができるのが望ましいんでしょう。
少なくとも、違いを理解したうえで、それを理解しようとして関わっていければ
お互いに歩み寄ることは可能だと思います。
まずは、日本人ということへの理解を深め、
日本人が得意な分野を強められるようにすることが大事な気がしました。
自分が日本語でも出来ていなかったことに気づくことができます。
例えば、英語で「 fair 」という単語の意味は「公平な、公正な」という具合い。
「 equal 」という単語の意味は「等しい、平等な」という感じ。
この日本語訳の意味自体は知っていました。
「 fair 」といえば、むしろ「フェア」というカタカナの日本語で対応して
特にしっかりと日本語訳をするまでもなく分かっているつもりでした。
「 fair 」も「 equal 」も、なんとなく使い分けられるつもりでいました。
しかし、「 fair 」や「 equal 」を、「公平」・「平等」という価値と結びつけると
その中身に対してシッカリとした理解をしていなかったと気づいたんです。
僕にとって、「公平(フェア)」と「平等」は、大きな違いを意識していませんでした。
こうやって書いてみると、「公平」と「平等」は使いどころが違うのは分かります。
「平等な審査」とは言いませんが、「公平な審査」とは言います。
「公平な」としてしか言わない場面には自覚があっても
「平等」という言葉しか相応しくない場面には意識が低かったんです。
なんとなく、どっちも「対等」というか、「差が無い」感じのイメージ。
「平等な権利」という言い方は普通な気がしますし、
「公平な権利」といっても、なんとなく違和感がなかったんです。
ただ、「公平」ということの意味を考えてみると
その反対に「不公平」とか「ズルイ」というニュアンスを思い描きますから、
「特定の人や物事にとってだけ有利ということがない」のが「公平」なんでしょう。
「平等」は、逆に、「なんらかの要因だけで、不利益をもたらされることがない」
といった感じじゃないかと思います。
仮に「女性というだけで出世できない」としたら、それは「平等ではない」と。
そして、「平等」も「公平」も、「対等」とは意味が違うはずです。
いずれも辞書で調べたわけではありませんから正確かどうかは不明です。
また、辞書の定義が正しいとも言い切れない気もします。
コミュニケーションにおいて、より重要なのは
本人がその言葉の意味をどのように理解しているかでしょうから。
その意味でいうと、僕は「平等」も「公平」も「対等」も、あまり意識しておらず
適当にしか言葉の意味を理解していなかったわけです。
それは僕が、そのあたりの概念を、あまり重視していない
ということが関係していそうです。
アメリカであれば、差別や格差が重要な問題として取り上げられる国柄ですから、
誰かが不当な不利益を被ることや、誰かが不当に有利にしていることを
「悪いこと」として捉える背景があるような気がします。
少し角度を変えて捉えると、「他者との比較を詳細に見ている」
ということにもなるかもしれません。
日本人は、他人と自分を比較して「うらやましい」と思ったり、
「卑屈」になったりしやすいイメージがありますが、
その比較の仕方は、かなりいい加減だと思います。
自分と、他者の一局面だけを比べて、気持ちを動かしている。
一方、欧米文化では、その比較の条件をしっかりと吟味して
どこに、どのように、どんな差があるのかを理解しようとする傾向がありそうです。
だからこそ、「平等」や「公平」という比較に敏感なんじゃないか、ということです。
ちなみに、僕が良く理解できていなかった事例は、こんな感じ。
そのときに話していた内容は、
「ネット上で学校の授業を受けるのは良いか、悪いか」
といったテーマです。
で、アメリカ育ちの人が
「色々な人が勉強できるようになるので、良い」
と答えたんです。
「例えば、家が学校から遠くて通いきれない人も勉強できる。
それに、体に障害があって通学が困難な人も自宅で勉強できる。」
というような説明でした。
それを聞いたとき、僕は
「この人が説明している価値観は『公平さ』か」
と思ったんです。
で、確認をしてみました。
そしたら、「うーん…」と唸った後、「平等っていうことですか?」と。
確かに、良く考えてみると、その人が挙げた例というのは
「生まれながらの条件のために、教育が困難になることが無い」といった
「特定の要因だけで不利益を被らない」意味で、「平等」なんでしょう。
しかし、その時点まで、僕は「平等」と「公平」の違いを意識していませんでした。
それがアメリカ育ちの人にとっては、大きな違いに感じられたようなんです。
このあたりの差に欧米人のほうが敏感な理由として、
1つには上に挙げたように、そのことを意識しやすい文化背景がある
ということが考えられるはずです。
その価値そのものを重視している、と。
「平等さ」や「公平さ」が大事だという話です。
もう1つの大きな理由は、言語的な特徴の違いです。
日本語は、状況を説明することを中心とした言語、
英語(ラテン語系統)は、プロセスの説明を中心とした言語、
という違い。
ある人は、これを
「日本語は、大きな枠組みの中から意識し始め、中心に意識を向けていく」
「英語は、中心から外側の大きな枠組みに向かって意識を広げていく」
と説明していました。
だから住所の説明の順序が
「東京都中央区銀座1−1」と
「1−1Ginza、chuou−ku、Tokyo」
という具合に逆転するんだ、と。
まぁ、その意識の向け方の順番だけでは説明がつかない気もしますが、
少なくとも英語では「プロセスワード」の重要度が高いんです。
「プロセスワード」というのは、「動詞、形容詞、副詞」からなっていて
「述語と修飾語」からなる、とも言えます。
プロセスワードを、別名で「叙述語」と言います。
プロセスワードこそが、「どのように」作用しているかを説明するんです。
ここが英語で「 How 」を重視する理由でしょう。
日本は「 5W1H 」と言いながら、実際には「 How 」の比率が極端に弱いはずです。
「いつ、どこで、誰が、何を、なぜ」は意識できても、「どのように」が弱い。
「いつ、どこで、誰が、何を」は、完全に状況を説明しています。
静止画に近いんです。
一方、英語では動詞や形容詞、副詞(つまりプロセスワード)を使って
「どのような作用が働いていたか」を中心に説明する傾向があります。
こちらのほうが動画に近いんです。
じゃあ、日本語に「どのように」に対応する言葉が無いかというと、
決してそんなことはなく、あっても滅多に使われないというのが実態でしょう。
その代わりとして多用されるのが『擬態語』と『擬音語』です。
「どのように」を説明するときに、擬態語が使われることが多い印象があります。
「簡単に」ということが「サッサと」になったり、
「効率的に」ということが「テキパキと」になったり、
「秘密で」ということが「コッソリ」になったり。
英語のほうが、このあたりの「どのように」を説明する言葉が使われやすく、
動詞の単語そのものに「どのように」の違いが含まれているケースも多いようです。
もう1つの違いが、「物事を評価するときの基準」でしょう。
日本人のほうが個人的な好みに繋げて判断をしやすい。
掘り下げていくと、最終的には「好き・嫌い」のレベルになってしまう。
一方、欧米人では(特に論理的な説明を求められた場合)
社会的な意義やメリットに繋げて判断をするようです。
掘り下げていくと、最終的には「善・悪」や「正・誤」のレベルに繋がる。
例えば、家事用のお助けグッズの同じものを使ったときの感想でも
「楽ちん!」というのは、自分の気持ちに意識が向いていますし、
「便利!(多くの主婦の助けになるだろう)」というのは一般論に意識が向いています。
倫理や道徳、正義というのは、個人の好みとは無関係に
社会にとって、それが良いことかどうかを判断するときの発想のようです。
その視点は、日本人にとって馴染みの薄いもののような気がします。
少なくとも、教育上は中心になっていないと思うんです。
相手の身になって考えてみましょう、という二人称の視点は教育されても、
社会にとって良いか悪いかを考えてみましょう、という三人称の視点は
あまり日本では教育されていないと思います。
そのため、価値判断の基準は、個人の好みに拠りやすいんでしょう。
「公平」や「平等」といった価値判断は、個人というよりも
一般論として判断するための視点だと言えますから、
その意味でも、日本人は意識しにくいところじゃないかと感じます。
文化的、歴史的に意識されにくい発想であっても
他の文化の人たちにとって重要な概念であるものが沢山あると思います。
言語的にも、日本人にとって注目しにくい概念があるようですが、
それでも訓練によって意識できるようになっていくことも可能でしょう。
個人を超えた第三者的な、社会一般の視点に目を向けることも
日々を生きていくうえで求められる場面があるかもしれません。
欧米人と比べて、日本人には注目しにくい部分があるんだと実感します。
逆に言えば、欧米人にも、日本人なら当然のように注目する部分で
意識が向きにくいところがあるはずです。
この違いが、生活やコミュニケーションのスタイルに表れている気がします。
表面的にその違いを埋めようとしても、意識の向け方の違いまでは
簡単に変わるものではないと予想します。
その意識の向け方を、どっちつかずに変えてしまうと
日本人でも欧米人でもない中間的な人になってしまうんじゃないでしょうか。
どちらもシッカリと意識できるようになれて、
使い分けができるのが望ましいんでしょう。
少なくとも、違いを理解したうえで、それを理解しようとして関わっていければ
お互いに歩み寄ることは可能だと思います。
まずは、日本人ということへの理解を深め、
日本人が得意な分野を強められるようにすることが大事な気がしました。
2011年11月07日
名前の意味
人にとって名前というのは自己認識の象徴になります。
「私は…」という自覚の後には、通常、名前が最初に来るからです。
年齢も、性別も、職業も、住んでいる場所も、身長も、
色々な要素が、その自己認識の下に付随します。
「私」という概念が、主語に使われないことの多い日本文化では
特に、自分の名前が自己認識のラベルとして使われやすいと考えられます。
実際、日本文化では、状況によって呼び名が変わることが多いはずです。
それは明らかに、欧米文化よりも多様でしょう。
例えば、家族の中で呼ばれる名前と、職場での呼び名は違うでしょう。
職場では役職名がセットになって呼ばれることも多いようです。
「〜部長」と姓と役職をセットにしたり、「課長」と役職だけで呼んだりもします。
一方、欧米では職場でも名前(ファーストネーム)で呼ぶのが普通らしいです。
また、初対面の相手からの呼び名と、親しい間柄での呼び名も違うことがあります。
最初は「〜さん」だったのが、「〜ちゃん」になったり、苗字だけの呼び捨てになったり、
変わったニックネームがつくこともある。
親しい友人の間でも、小学校時代の同級生なのか、高校の同級生なのか、などと
出会った時期によっても呼ばれ方が違うかもしれません。
重要なのは、これらの呼び名が、
その関係性における自己認識と密接にリンクしていることです。
小学校時代の友達から、当時の呼び名で呼ばれれば
懐かしい関係性を思い出して、以前のような口調で話すかもしれません。
少なくとも、「〜部長」と呼ばれているときと
「〜ちゃん」と呼ばれているときでは、大きな違いがあるはずです。
自己認識が変わる結果、外から見て分かるような非言語的、言語的な
コミュニケーションスタイルにも変化が起きるものです。
家族といるときと、趣味つながりの友人といるときと、会社にいるときでは
態度や行動パターンが大きく変わったとしても不思議ではないんです。
そして、それぞれに「〜のときの自分」という自己認識がついている。
その自己認識にセットになったラベルが、そこでの呼び名になるわけです。
映画で人気のある「釣りバカ日誌」の主人公「ハマちゃん」は
家族に対しても、友人に対しても、釣り仲間の社長に対しても、いつも同じ態度。
会社にいても同じ振る舞いですし、会社で社長に会っても態度は大きく変わらない。
これは極めて珍しい例外だと思います。
(奥さんからも、社長(スーさん)からも、友達からも「ハマちゃん」と呼ばれますが)
そう考えると、新たな環境で、今までにない呼び名で呼ばれるということは
その関係性特有の自己認識を作りやすいことになります。
例えば、普段は内気な人でも、英会話スクールで
下の名前で呼び合うような仲間を作ると、別の自分で過ごしやすくなるわけです。
いわば「英語人格」のような自己認識に、いつもと違う呼び名をつける、と。
これは「英語脳」的なアイデアとしても役立つ方法だと思います。
また、テレビなどで、いわゆる「多重人格」(解離性同一性障害)の人が出てくると
一人の中に20ぐらいの人格が存在しても、本人が別の名前を名乗るようです。
これも、自己認識と名前の密接な繋がりを示していると言えそうです。
なので、呼び名というのは良く考えたほうが良いんじゃないかと思うんです。
セミナーのときにも同様です。
むしろ、セミナーのように何かの学習や変化を求めて参加する場面においては
そこでの呼び名によって、得られる効果にも違いが生まれると思います。
仮に、社会的な立場が確立されているような有名人や責任の重い立場の人だと
セミナーの場では、普段の自分から離れて気軽に過ごしたいかもしれません。
そうであれば、普段では呼ばれないような呼び名を設定して、
いつもと違う自己認識で過ごすのも意味のあることです。
普段だったら得られないような友人ができるかもしれません。
普段だったらできないようなリラックスした対応ができるかもしれません。
ただし、この場合、普段の自分と切り離した自分を設定しているため
「そのセミナーでの自分」と「会社での自分」が別物になりやすい可能性はあります。
セミナーでは気さくで穏やかな人として過ごし、人との触れ合いを楽しめたとしても、
それが会社での自分にどれだけの影響を及ぼすかというと疑問があります。
セミナーで出会った友人には予想できないほど、気難しい上司かもしれません。
海外の自己啓発セミナーにいって、そこでの「新たな自分」を作ったとしても
日常に帰ったら、会社での「〜部長」という自己認識に戻ってしまう場合もあるはずです。
逆に、コミュニケーションスキルなど職場で使いたいような『技術』を学習するために
セミナーに参加しているのだとしたら、そこでは普段の自分に近い自己認識を出して
その自分に技術を組み込んでいけるように努力したほうが望ましい気もします。
大げさにそれをやるなら、例えば仕事と同じ服装で、同じ名刺を持って
あくまでビジネスパーソンとしてセミナーに参加する、とか。
必ず敬語を使い、仕事上の振る舞いを意識しながら、仕事上の自己認識をキープする。
その上でトレーニングした技術のほうが実際に使いやすい場合もあるかもしれません。
また、自分の変化や問題解決、成長などを意識しているセミナーだとしたら
その自己認識は、状況に依存しない、全てを統合した『自分』に近いほうが
全体的な影響を出すことができて有意義だとも考えられます。
「このセミナー用の自分」というのを切り分けて参加しているのだとしても
全体の自己認識に、全く影響が出ないわけではありません。
しかし、全体に役立てられるように変えていきたいのであれば
それ相応の自己認識を自覚して、
そのための呼び名で振る舞ったほうが良いのではないでしょうか。
僕がやっている勉強会では、コミュニケーション技術を扱っています。
コミュニケーションを技術として使う場面が圧倒的に多いのは
ある程度パブリックな人間関係であるものでしょう。
家族のような身近な関係に技術を使おうとするのは困難なことが多いのが実情です。
プライベートの場面で使いたい人もいるかもしれませんが、
その場合でも「良い関係性を築いていく」という
身近な関係の前段階でこそ使われることが多いと思います。
その意味で、社会での広い関係性に使えるコミュニケーションスキルとして
「パブリックな自分」という自己認識の下で技術をトレーニングするよう意図しています。
なので、基本的にご参加の皆さんには「苗字+さん」で呼び名を統一しているんです。
年齢や立場を気にせずに対等に関われて、
かつ社会性としてパブリックな関係でもあるように、という趣旨です。
もちろん、実名を伏せたい方は、それでも構いませんが、
重要なのは、『自己認識を自覚して呼び名を設定する』という部分です。
ニックネームで呼び合うのにも、上に述べたようなメリットはありますから
望ましいのは、参加者自身で呼び名を設定できるという形でしょうか。
たかが呼び名ということで、最初に気楽に設定するのは
少し気をつけたほうが良いような気がします。
そこで後々の効果が変わってくる可能性があるわけですから。
「私は…」という自覚の後には、通常、名前が最初に来るからです。
年齢も、性別も、職業も、住んでいる場所も、身長も、
色々な要素が、その自己認識の下に付随します。
「私」という概念が、主語に使われないことの多い日本文化では
特に、自分の名前が自己認識のラベルとして使われやすいと考えられます。
実際、日本文化では、状況によって呼び名が変わることが多いはずです。
それは明らかに、欧米文化よりも多様でしょう。
例えば、家族の中で呼ばれる名前と、職場での呼び名は違うでしょう。
職場では役職名がセットになって呼ばれることも多いようです。
「〜部長」と姓と役職をセットにしたり、「課長」と役職だけで呼んだりもします。
一方、欧米では職場でも名前(ファーストネーム)で呼ぶのが普通らしいです。
また、初対面の相手からの呼び名と、親しい間柄での呼び名も違うことがあります。
最初は「〜さん」だったのが、「〜ちゃん」になったり、苗字だけの呼び捨てになったり、
変わったニックネームがつくこともある。
親しい友人の間でも、小学校時代の同級生なのか、高校の同級生なのか、などと
出会った時期によっても呼ばれ方が違うかもしれません。
重要なのは、これらの呼び名が、
その関係性における自己認識と密接にリンクしていることです。
小学校時代の友達から、当時の呼び名で呼ばれれば
懐かしい関係性を思い出して、以前のような口調で話すかもしれません。
少なくとも、「〜部長」と呼ばれているときと
「〜ちゃん」と呼ばれているときでは、大きな違いがあるはずです。
自己認識が変わる結果、外から見て分かるような非言語的、言語的な
コミュニケーションスタイルにも変化が起きるものです。
家族といるときと、趣味つながりの友人といるときと、会社にいるときでは
態度や行動パターンが大きく変わったとしても不思議ではないんです。
そして、それぞれに「〜のときの自分」という自己認識がついている。
その自己認識にセットになったラベルが、そこでの呼び名になるわけです。
映画で人気のある「釣りバカ日誌」の主人公「ハマちゃん」は
家族に対しても、友人に対しても、釣り仲間の社長に対しても、いつも同じ態度。
会社にいても同じ振る舞いですし、会社で社長に会っても態度は大きく変わらない。
これは極めて珍しい例外だと思います。
(奥さんからも、社長(スーさん)からも、友達からも「ハマちゃん」と呼ばれますが)
そう考えると、新たな環境で、今までにない呼び名で呼ばれるということは
その関係性特有の自己認識を作りやすいことになります。
例えば、普段は内気な人でも、英会話スクールで
下の名前で呼び合うような仲間を作ると、別の自分で過ごしやすくなるわけです。
いわば「英語人格」のような自己認識に、いつもと違う呼び名をつける、と。
これは「英語脳」的なアイデアとしても役立つ方法だと思います。
また、テレビなどで、いわゆる「多重人格」(解離性同一性障害)の人が出てくると
一人の中に20ぐらいの人格が存在しても、本人が別の名前を名乗るようです。
これも、自己認識と名前の密接な繋がりを示していると言えそうです。
なので、呼び名というのは良く考えたほうが良いんじゃないかと思うんです。
セミナーのときにも同様です。
むしろ、セミナーのように何かの学習や変化を求めて参加する場面においては
そこでの呼び名によって、得られる効果にも違いが生まれると思います。
仮に、社会的な立場が確立されているような有名人や責任の重い立場の人だと
セミナーの場では、普段の自分から離れて気軽に過ごしたいかもしれません。
そうであれば、普段では呼ばれないような呼び名を設定して、
いつもと違う自己認識で過ごすのも意味のあることです。
普段だったら得られないような友人ができるかもしれません。
普段だったらできないようなリラックスした対応ができるかもしれません。
ただし、この場合、普段の自分と切り離した自分を設定しているため
「そのセミナーでの自分」と「会社での自分」が別物になりやすい可能性はあります。
セミナーでは気さくで穏やかな人として過ごし、人との触れ合いを楽しめたとしても、
それが会社での自分にどれだけの影響を及ぼすかというと疑問があります。
セミナーで出会った友人には予想できないほど、気難しい上司かもしれません。
海外の自己啓発セミナーにいって、そこでの「新たな自分」を作ったとしても
日常に帰ったら、会社での「〜部長」という自己認識に戻ってしまう場合もあるはずです。
逆に、コミュニケーションスキルなど職場で使いたいような『技術』を学習するために
セミナーに参加しているのだとしたら、そこでは普段の自分に近い自己認識を出して
その自分に技術を組み込んでいけるように努力したほうが望ましい気もします。
大げさにそれをやるなら、例えば仕事と同じ服装で、同じ名刺を持って
あくまでビジネスパーソンとしてセミナーに参加する、とか。
必ず敬語を使い、仕事上の振る舞いを意識しながら、仕事上の自己認識をキープする。
その上でトレーニングした技術のほうが実際に使いやすい場合もあるかもしれません。
また、自分の変化や問題解決、成長などを意識しているセミナーだとしたら
その自己認識は、状況に依存しない、全てを統合した『自分』に近いほうが
全体的な影響を出すことができて有意義だとも考えられます。
「このセミナー用の自分」というのを切り分けて参加しているのだとしても
全体の自己認識に、全く影響が出ないわけではありません。
しかし、全体に役立てられるように変えていきたいのであれば
それ相応の自己認識を自覚して、
そのための呼び名で振る舞ったほうが良いのではないでしょうか。
僕がやっている勉強会では、コミュニケーション技術を扱っています。
コミュニケーションを技術として使う場面が圧倒的に多いのは
ある程度パブリックな人間関係であるものでしょう。
家族のような身近な関係に技術を使おうとするのは困難なことが多いのが実情です。
プライベートの場面で使いたい人もいるかもしれませんが、
その場合でも「良い関係性を築いていく」という
身近な関係の前段階でこそ使われることが多いと思います。
その意味で、社会での広い関係性に使えるコミュニケーションスキルとして
「パブリックな自分」という自己認識の下で技術をトレーニングするよう意図しています。
なので、基本的にご参加の皆さんには「苗字+さん」で呼び名を統一しているんです。
年齢や立場を気にせずに対等に関われて、
かつ社会性としてパブリックな関係でもあるように、という趣旨です。
もちろん、実名を伏せたい方は、それでも構いませんが、
重要なのは、『自己認識を自覚して呼び名を設定する』という部分です。
ニックネームで呼び合うのにも、上に述べたようなメリットはありますから
望ましいのは、参加者自身で呼び名を設定できるという形でしょうか。
たかが呼び名ということで、最初に気楽に設定するのは
少し気をつけたほうが良いような気がします。
そこで後々の効果が変わってくる可能性があるわけですから。
2011年11月05日
オススメCD
書店に行くと英語に関する本が沢山並んでいます。
ターゲットにする内容も、目的も、対象者も色々。
何を選んだものかと思いますが、特徴的な本ほどメリットが大きい気がします。
リスニング系統のものでは、日常会話をベースにしたものが多いようで、
数多くのフレーズがCDに収録されて添付されています。
ただ、多くのCD音源は、『英語→日本語』の順番なんです。
まぁ、聞いて意味がわかるようになるという目的では良いかもしれません。
個人的には、もし本当にリスニング力を上げたいのであれば
日本語の音声はいらないと思います。
むしろ、聞いてみて、その内容を書きとる練習をしたほうが良い。
それは音に対する判別力を上げるのに効果的だからです。
英語の音声を聞いて、一気に意味まで理解するというのは飛躍し過ぎだと思います。
ステップを飛ばしている。
まずは英語として、どんな文章を言っているかを聞きとれるようにする必要があるでしょう。
それから、そのフレーズの意味がとれるようになっていくという流れ。
そうでないと、全く同じ表現を聞いたときでないと意味が取れなくなってしまいます。
しかも、何と言っているかを文字に起こせたほうが
同じことを言えるようになるのも早いと考えられます。
そう考えると、リスニング教材は、英語だけのほうが望ましいように思うんです。
一方、話せるようになることを目的にするのであれば、
ただ英語だけの音声を聞いていても難しいと思われます。
なぜなら、その音声の内容を、そのまま話せるようになる必要があるかというと
それには個人差があるからです。
CDの内容全てを、暗唱できるようなレベルにまでもっていけば意味もあるでしょう。
その場合も、特定の状況設定がなされている必要があります。
なんの脈絡もない一般的な文章や、いつ使うか分からない表現、
あるいは状況が設定されていても、やりとりが短すぎる場合などでは
全く同じことを言う必要のある場面に、自分自身が出会うかどうかが不明です。
自分にも関係がありそうな場面設定で、
しかも自分が言いそうな内容のフレーズが沢山含まれている内容を覚えるようにして、
教材を繰り返し聞くのは有効だとは思います。
いつか言うときがくるかもしれませんから。
理想をいえば、自分が言いたいことを全て英語にできれば良いわけです。
極端なやり方としては、一か月分の自分の会話を全て録音して、
それを日本語に起こし、バイリンガルに英語へ翻訳してもらう。
膨大な量になりそうですが、中には繰り返し使っている表現も含まれているはずですし
実際に発話として自分が言葉に出している内容は、それほど多くないような気もします。
この自分の自然な発想から生まれたフレーズを、英語で言えるようになれば
かなり多くのことが英語で言えるようになりそうです。
とはいえ、それには大変な労力がかかります。
特に、内容の起こしと翻訳は、相当なコストが必要でしょう。
なので、次善策として、自分が「言わなければならない」状況を
作ってしまう方法があります。
自分が良く言うフレーズでなかったとしても、日本語ですから、
全く言わない内容というほどでもないでしょう。
なので、「これを言って下さい」と与えられてしまえば良いわけです。
書籍でも、たしか『瞬間英作文トレーニング』といったタイトルのシリーズがあります。
これで練習をするのも1つの手だと思います。
ただ、本でやる場合には正解の文章の発音を知るのが難しい場合もあります。
それに繰り返しやろうと思ったら、本を開いて、自分の意志で行いますから
それなりのヤル気を必要とするでしょう。
その点、同様の内容が音声教材でできてしまうと気楽だと思うんです。
それを可能にしているのが、この本。
英会話フレーズブック―リアルな日常表現2900 (アスカカルチャー)
クチコミを見る
音源の収録されている順番が、『日本語→英語』なんです。
ただ、スピーキングの練習用に作られてはいませんから、
音声同士の間隔が短く、自分で考えるには適当ではありません。
それでも、強制的に言うべき内容が日本語で指示され
その後で英語を聞くことができるので、言うべき内容を英語に変える練習には好都合。
実際の場面、その音声教材に収録されている内容の「日本語」を思いついたら、
すぐに英語に変換して話せるようにもなりそうです。
音声なので、繰り返して聞くこともやりやすいでしょうし、
本を開いて、自分で意識的に練習をするというヤル気も少なくて済みそうです。
導入的なツールとしては結構有効なんじゃないかと思います。
本一冊分の値段でも済みますし。
お買い得な英語教材だと感じています。
ターゲットにする内容も、目的も、対象者も色々。
何を選んだものかと思いますが、特徴的な本ほどメリットが大きい気がします。
リスニング系統のものでは、日常会話をベースにしたものが多いようで、
数多くのフレーズがCDに収録されて添付されています。
ただ、多くのCD音源は、『英語→日本語』の順番なんです。
まぁ、聞いて意味がわかるようになるという目的では良いかもしれません。
個人的には、もし本当にリスニング力を上げたいのであれば
日本語の音声はいらないと思います。
むしろ、聞いてみて、その内容を書きとる練習をしたほうが良い。
それは音に対する判別力を上げるのに効果的だからです。
英語の音声を聞いて、一気に意味まで理解するというのは飛躍し過ぎだと思います。
ステップを飛ばしている。
まずは英語として、どんな文章を言っているかを聞きとれるようにする必要があるでしょう。
それから、そのフレーズの意味がとれるようになっていくという流れ。
そうでないと、全く同じ表現を聞いたときでないと意味が取れなくなってしまいます。
しかも、何と言っているかを文字に起こせたほうが
同じことを言えるようになるのも早いと考えられます。
そう考えると、リスニング教材は、英語だけのほうが望ましいように思うんです。
一方、話せるようになることを目的にするのであれば、
ただ英語だけの音声を聞いていても難しいと思われます。
なぜなら、その音声の内容を、そのまま話せるようになる必要があるかというと
それには個人差があるからです。
CDの内容全てを、暗唱できるようなレベルにまでもっていけば意味もあるでしょう。
その場合も、特定の状況設定がなされている必要があります。
なんの脈絡もない一般的な文章や、いつ使うか分からない表現、
あるいは状況が設定されていても、やりとりが短すぎる場合などでは
全く同じことを言う必要のある場面に、自分自身が出会うかどうかが不明です。
自分にも関係がありそうな場面設定で、
しかも自分が言いそうな内容のフレーズが沢山含まれている内容を覚えるようにして、
教材を繰り返し聞くのは有効だとは思います。
いつか言うときがくるかもしれませんから。
理想をいえば、自分が言いたいことを全て英語にできれば良いわけです。
極端なやり方としては、一か月分の自分の会話を全て録音して、
それを日本語に起こし、バイリンガルに英語へ翻訳してもらう。
膨大な量になりそうですが、中には繰り返し使っている表現も含まれているはずですし
実際に発話として自分が言葉に出している内容は、それほど多くないような気もします。
この自分の自然な発想から生まれたフレーズを、英語で言えるようになれば
かなり多くのことが英語で言えるようになりそうです。
とはいえ、それには大変な労力がかかります。
特に、内容の起こしと翻訳は、相当なコストが必要でしょう。
なので、次善策として、自分が「言わなければならない」状況を
作ってしまう方法があります。
自分が良く言うフレーズでなかったとしても、日本語ですから、
全く言わない内容というほどでもないでしょう。
なので、「これを言って下さい」と与えられてしまえば良いわけです。
書籍でも、たしか『瞬間英作文トレーニング』といったタイトルのシリーズがあります。
これで練習をするのも1つの手だと思います。
ただ、本でやる場合には正解の文章の発音を知るのが難しい場合もあります。
それに繰り返しやろうと思ったら、本を開いて、自分の意志で行いますから
それなりのヤル気を必要とするでしょう。
その点、同様の内容が音声教材でできてしまうと気楽だと思うんです。
それを可能にしているのが、この本。
英会話フレーズブック―リアルな日常表現2900 (アスカカルチャー)
クチコミを見る
音源の収録されている順番が、『日本語→英語』なんです。
ただ、スピーキングの練習用に作られてはいませんから、
音声同士の間隔が短く、自分で考えるには適当ではありません。
それでも、強制的に言うべき内容が日本語で指示され
その後で英語を聞くことができるので、言うべき内容を英語に変える練習には好都合。
実際の場面、その音声教材に収録されている内容の「日本語」を思いついたら、
すぐに英語に変換して話せるようにもなりそうです。
音声なので、繰り返して聞くこともやりやすいでしょうし、
本を開いて、自分で意識的に練習をするというヤル気も少なくて済みそうです。
導入的なツールとしては結構有効なんじゃないかと思います。
本一冊分の値段でも済みますし。
お買い得な英語教材だと感じています。
2011年11月03日
11月の勉強会
11月の勉強会のお知らせ
簡単な予告のご案内を出していましたが、今回が正式なご連絡です。
今回のテーマは『メタファーを対話に活かす』。
カウンセリングのようか形でトレーニングを進めますが、
日常会話にも役立つ方法を扱います。
特に、今回の技術の中心になるメタファーを使った質問方法は
自分自身でカウンセリングにおいても、日常会話においても使っていて
とても便利な方法だと感じている内容です。
それは、この方法を使うことで「分かってくれた」という感じを
相手に抱いてもらえやすいようだからです。
ラポールという観点から、カウンセリングでも日常会話でも役立つわけです。
また、これを一歩進めるだけでカウンセリングの問題把握や
コーチング的な目標設定にも使えますし、
そのままブリーフセラピーの型にも適用できます。
この部分では、手軽に使える型として
メタファーを使った問題解決のための質問法も紹介する予定です。
メタファーというと、長めのストーリーを話すことが思い出されやすいでしょうが、
もっとコンパクトに『喩える』作業のみを活用することも可能です。
この要素を組み入れることで、メタファーがシンプルで使いやすくなります。
手軽な発言としてメタファーを使える分、対話の中へ自然に組み込めるわけです。
カウンセリングであろうが、コーチングであろうが、日常会話であろうが、
突然、長々とメタファーのストーリーを話し始めるのは
相手に一風変わった印象を与える可能性も否定できません。
その点、コンパクトな質問形式やコメントの中でメタファーを使っていくと
対話が自然に展開していきながら、発想を広げられるメリットがあります。
しかも、こちらが一方的にメタファーを考えるのではなく
相手と自分とで共同的にメタファーを組み上げていくため、
相手の持ち味を活かしたメタファーになるという良さもあるんです。
「コンパクトな形式のメタファーで自然な対話を進める」タイプの使い方としては
・ラポールを深めるためのコメント
・問題把握と問題解決の援助のための質問法
という大まかな2通りの意図でトレーニングを進める予定です。
もちろん、長くストーリーを話すタイプのメタファーにも別の意図と効果がありますから
こちらも合わせてトレーニングを進めていきます。
基本的なメタファーの構造や作り方に関しても練習をします。
こちらは10月の内容の復習も少し兼ねますが、意識的に訓練をすることで
メタファーで外せないポイントが見えてくると思います。
簡潔に言ってしまえば「何を何に喩えるか」という部分です。
伝えたいメッセージと、喩えたメッセージとの間に明確な相関がないと
ポイントがズレやすくなってしまいます。
しっかりと、伝えたい元のメッセージと、メタファーのストーリーとの間に
対応をさせていく練習をすることで、メタファーの伝わりやすさを上げる目的です。
そして、本題となるのが、相手の話に合わせてメタファーを作るトレーニングです。
『クライアントの特性に合わせて』メタファーを作る練習も含まれます。
実は、メタファーを作る目的でクライアントの印象を受け取るようにすると
相手の特性を把握するのも楽になるんです。
ある意味では、観察力のトレーニングにもなるわけですが、
緻密に相手を観察・分析するというよりも、印象を直観的に捉える訓練といえます。
これをベースに、相手の問題と、相手の個性に合わせたメタファーを作れるよう
丁寧なトレーニングをしようと考えています。
メタファーを効果的に使うには、ある程度のストックがあるほうが有利ではあります。
状況に合わせて使い分けられるほどメタファーを沢山覚えていられれば、です。
お気に入りのメタファーを話すという方法は、使えるときには非常に効果的ですから
パッと思い出せたとか、人前で話をするとかいった場合には積極的に使えるものです。
一方、相手がそのメタファーのストーリーに感情移入できない場合には
どんなに自分のお気に入りであっても効果が薄くなってしまう危険性もあります。
その意味では、相手に合わせたメタファーを作れるようになっておいたほうが
柔軟性を高くしたまま関わっていくことができると考えられます。
何よりも、このメタファーを考えるプロセス自体が
言葉の能力を上げるためのトレーニングとして非常に有効なんです。
発想を広げ、言葉でそれを的確に表現する。
メタファーのトレーニングをすることで、
高い視点から物事を眺め
それを言葉を使って考える
ことがしやすくなっていくはずです。
「自然とそうするようになる」と言っても良いかもしれません。
端的に言えば、気づく能力が上がるわけです。
これには長所と短所が両方あります。
色々な問題点にも「気づく」ようになります。
色々なアイデアにも「気づく」ようになります。
気づかなければ、そのまま流れていくことが
気づくようになると気になってくるはずです。
その状態をどう扱っていくかは、個人の好みによるところが大きい気がします。
不満が増えたと感じるかもしれません。
より良いものを生み出すためのチャンスが増えたと感じるかもしれません。
個人的には、大変な思いを自ら買って出る人を応援したいと思いますが。
今回は祝日の開催です。
ご都合と興味が合いましたら、是非お越しください。
柔軟に工夫をするという作業自体が、なかなか楽しいものだと思います。
<ご参加に際しての注意事項>
※NLPの専門用語の説明などは省略するつもりですので、
NLPなどに対する知識と経験のある方、もしくは
過去に勉強会でトレーニングを積まれた方のご参加をお薦めします。
☆気がかりがありましたら、お問い合わせください。
※諸事情により資料作成にかけられる時間が限られていますので
ご用意できる資料が不十分になってしまう可能性があります。
その点をご理解いただいた上で、ご参加ください。
※定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。
※勉強会の趣旨に関しましては、こちら(勉強会070725)をご覧下さい。
詳細は以下のとおりです。
【勉強会の詳細】
≪定期勉強会≫
【日時】 11月23日(水・祝) 10:00〜16:30
★今回は終日でのご参加となります。
【場所】 北とぴあ 803会議室
(JR京浜東北線・王子駅 北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅5番出口直結)
【参加費】 ・・・7,000円
当日、会場にてお支払いください。
【テーマ】 『メタファー』を対話に活かす
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
メタファーは「間接的」に伝える方法だと良く言われます。
しかし、それは曖昧にするための方法ではありません。
間接的なほうが分かりやすい場合もあるものです。
例えば、専門知識を理解してもらおうと思った場合には、
それを理解するための前提から全てを説明していては大変です。
仮に「突然変異」のことを説明することになったとき
遺伝子のこと、遺伝の性質、DNAの構造、変異を引き起こす化学変化…
などと全てを説明していては時間がかかり過ぎてしまいます。
もちろん、専門知識としてそれを知りたい場合には、前提となる知識から
全てを知っていくように時間をかけて説明することになるでしょう。
しかし、テレビのニュースなどで説明するのだとしたら
「分かりやすく」するために、細かい説明を省くほうが普通でしょう。
結論や一般的なイメージだけを伝えて終わってしまいます。
だから「誤解が多い」んです。
「直接的に」かつ「分かりやすく」しようとして難しい知識を省くから
間違った印象だけが結論として残ってしまうということが多いようです。
であれば、喩えを使って説明してみるというのはどうでしょうか。
説明の時間は短くなり、専門的な前提知識も必要としません。
ここで重要なのは、相手が分かるように説明の仕方を変える工夫です。
分かりやすくするために情報を削除するのではなく、
同じプロセスを親しみのある内容に喩える、ということです。
人が抱える問題というのは、常に意識にあがっていますから
一見すると慣れ親しんだもののように思えます。
しかし、実態は少し違うようです。
毎日ニュースから「ダウ平均株価」と聞いていて馴染みがあっても
その中身が良く分からない場合があるのと同様に、
問題となっているものほど、中身が良く分かっていないもののようです。
少なくとも、その状況に対して「上手く対処する方法」には馴染みがない。
だからこそ、本人が馴染みのある分かりやすい内容に喩えることで
問題を「分かりやすくして」、解決策も見つけやすくすることができるんです。
その意味では、メタファーとは「分かりやすくする」ためのものとも言えそうです。
相手への想いがあっても、それが相手に伝わるかどうかは別問題です。
相手が分かるように工夫をする。
それもまた重要なコミュニケーションの要素でしょう。
どのように相手が受け取るかは、自分にはコントロールできません。
しかし「伝わりやすくする」までのことはコントロールできます。
自分がコントロールできる範囲で最善を尽くすのが、
相手に対する誠意なのかもしれないと感じます。
終了しました
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています。
簡単な予告のご案内を出していましたが、今回が正式なご連絡です。
今回のテーマは『メタファーを対話に活かす』。
カウンセリングのようか形でトレーニングを進めますが、
日常会話にも役立つ方法を扱います。
特に、今回の技術の中心になるメタファーを使った質問方法は
自分自身でカウンセリングにおいても、日常会話においても使っていて
とても便利な方法だと感じている内容です。
それは、この方法を使うことで「分かってくれた」という感じを
相手に抱いてもらえやすいようだからです。
ラポールという観点から、カウンセリングでも日常会話でも役立つわけです。
また、これを一歩進めるだけでカウンセリングの問題把握や
コーチング的な目標設定にも使えますし、
そのままブリーフセラピーの型にも適用できます。
この部分では、手軽に使える型として
メタファーを使った問題解決のための質問法も紹介する予定です。
メタファーというと、長めのストーリーを話すことが思い出されやすいでしょうが、
もっとコンパクトに『喩える』作業のみを活用することも可能です。
この要素を組み入れることで、メタファーがシンプルで使いやすくなります。
手軽な発言としてメタファーを使える分、対話の中へ自然に組み込めるわけです。
カウンセリングであろうが、コーチングであろうが、日常会話であろうが、
突然、長々とメタファーのストーリーを話し始めるのは
相手に一風変わった印象を与える可能性も否定できません。
その点、コンパクトな質問形式やコメントの中でメタファーを使っていくと
対話が自然に展開していきながら、発想を広げられるメリットがあります。
しかも、こちらが一方的にメタファーを考えるのではなく
相手と自分とで共同的にメタファーを組み上げていくため、
相手の持ち味を活かしたメタファーになるという良さもあるんです。
「コンパクトな形式のメタファーで自然な対話を進める」タイプの使い方としては
・ラポールを深めるためのコメント
・問題把握と問題解決の援助のための質問法
という大まかな2通りの意図でトレーニングを進める予定です。
もちろん、長くストーリーを話すタイプのメタファーにも別の意図と効果がありますから
こちらも合わせてトレーニングを進めていきます。
基本的なメタファーの構造や作り方に関しても練習をします。
こちらは10月の内容の復習も少し兼ねますが、意識的に訓練をすることで
メタファーで外せないポイントが見えてくると思います。
簡潔に言ってしまえば「何を何に喩えるか」という部分です。
伝えたいメッセージと、喩えたメッセージとの間に明確な相関がないと
ポイントがズレやすくなってしまいます。
しっかりと、伝えたい元のメッセージと、メタファーのストーリーとの間に
対応をさせていく練習をすることで、メタファーの伝わりやすさを上げる目的です。
そして、本題となるのが、相手の話に合わせてメタファーを作るトレーニングです。
『クライアントの特性に合わせて』メタファーを作る練習も含まれます。
実は、メタファーを作る目的でクライアントの印象を受け取るようにすると
相手の特性を把握するのも楽になるんです。
ある意味では、観察力のトレーニングにもなるわけですが、
緻密に相手を観察・分析するというよりも、印象を直観的に捉える訓練といえます。
これをベースに、相手の問題と、相手の個性に合わせたメタファーを作れるよう
丁寧なトレーニングをしようと考えています。
メタファーを効果的に使うには、ある程度のストックがあるほうが有利ではあります。
状況に合わせて使い分けられるほどメタファーを沢山覚えていられれば、です。
お気に入りのメタファーを話すという方法は、使えるときには非常に効果的ですから
パッと思い出せたとか、人前で話をするとかいった場合には積極的に使えるものです。
一方、相手がそのメタファーのストーリーに感情移入できない場合には
どんなに自分のお気に入りであっても効果が薄くなってしまう危険性もあります。
その意味では、相手に合わせたメタファーを作れるようになっておいたほうが
柔軟性を高くしたまま関わっていくことができると考えられます。
何よりも、このメタファーを考えるプロセス自体が
言葉の能力を上げるためのトレーニングとして非常に有効なんです。
発想を広げ、言葉でそれを的確に表現する。
メタファーのトレーニングをすることで、
高い視点から物事を眺め
それを言葉を使って考える
ことがしやすくなっていくはずです。
「自然とそうするようになる」と言っても良いかもしれません。
端的に言えば、気づく能力が上がるわけです。
これには長所と短所が両方あります。
色々な問題点にも「気づく」ようになります。
色々なアイデアにも「気づく」ようになります。
気づかなければ、そのまま流れていくことが
気づくようになると気になってくるはずです。
その状態をどう扱っていくかは、個人の好みによるところが大きい気がします。
不満が増えたと感じるかもしれません。
より良いものを生み出すためのチャンスが増えたと感じるかもしれません。
個人的には、大変な思いを自ら買って出る人を応援したいと思いますが。
今回は祝日の開催です。
ご都合と興味が合いましたら、是非お越しください。
柔軟に工夫をするという作業自体が、なかなか楽しいものだと思います。
<ご参加に際しての注意事項>
※NLPの専門用語の説明などは省略するつもりですので、
NLPなどに対する知識と経験のある方、もしくは
過去に勉強会でトレーニングを積まれた方のご参加をお薦めします。
☆気がかりがありましたら、お問い合わせください。
※諸事情により資料作成にかけられる時間が限られていますので
ご用意できる資料が不十分になってしまう可能性があります。
その点をご理解いただいた上で、ご参加ください。
※定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。
※勉強会の趣旨に関しましては、こちら(勉強会070725)をご覧下さい。
詳細は以下のとおりです。
【勉強会の詳細】
≪定期勉強会≫
【日時】 11月23日(水・祝) 10:00〜16:30
★今回は終日でのご参加となります。
【場所】 北とぴあ 803会議室
(JR京浜東北線・王子駅 北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅5番出口直結)
【参加費】 ・・・7,000円
当日、会場にてお支払いください。
【テーマ】 『メタファー』を対話に活かす
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
メタファーは「間接的」に伝える方法だと良く言われます。
しかし、それは曖昧にするための方法ではありません。
間接的なほうが分かりやすい場合もあるものです。
例えば、専門知識を理解してもらおうと思った場合には、
それを理解するための前提から全てを説明していては大変です。
仮に「突然変異」のことを説明することになったとき
遺伝子のこと、遺伝の性質、DNAの構造、変異を引き起こす化学変化…
などと全てを説明していては時間がかかり過ぎてしまいます。
もちろん、専門知識としてそれを知りたい場合には、前提となる知識から
全てを知っていくように時間をかけて説明することになるでしょう。
しかし、テレビのニュースなどで説明するのだとしたら
「分かりやすく」するために、細かい説明を省くほうが普通でしょう。
結論や一般的なイメージだけを伝えて終わってしまいます。
だから「誤解が多い」んです。
「直接的に」かつ「分かりやすく」しようとして難しい知識を省くから
間違った印象だけが結論として残ってしまうということが多いようです。
であれば、喩えを使って説明してみるというのはどうでしょうか。
説明の時間は短くなり、専門的な前提知識も必要としません。
ここで重要なのは、相手が分かるように説明の仕方を変える工夫です。
分かりやすくするために情報を削除するのではなく、
同じプロセスを親しみのある内容に喩える、ということです。
人が抱える問題というのは、常に意識にあがっていますから
一見すると慣れ親しんだもののように思えます。
しかし、実態は少し違うようです。
毎日ニュースから「ダウ平均株価」と聞いていて馴染みがあっても
その中身が良く分からない場合があるのと同様に、
問題となっているものほど、中身が良く分かっていないもののようです。
少なくとも、その状況に対して「上手く対処する方法」には馴染みがない。
だからこそ、本人が馴染みのある分かりやすい内容に喩えることで
問題を「分かりやすくして」、解決策も見つけやすくすることができるんです。
その意味では、メタファーとは「分かりやすくする」ためのものとも言えそうです。
相手への想いがあっても、それが相手に伝わるかどうかは別問題です。
相手が分かるように工夫をする。
それもまた重要なコミュニケーションの要素でしょう。
どのように相手が受け取るかは、自分にはコントロールできません。
しかし「伝わりやすくする」までのことはコントロールできます。
自分がコントロールできる範囲で最善を尽くすのが、
相手に対する誠意なのかもしれないと感じます。
終了しました
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています。
2011年11月02日
輝きの点
絵画の世界に『印象派』という分類がありますが、
それまでの暗い感じの絵柄に比較して、白の絵の具を多用した
明るい風合いが特徴となるようです。
また輪郭がボヤっとしていて、
様々な色の絵具を重ねて置いているような描き方も特徴でしょうか。
「筆触分割」という技法が使われているそうです。
ソフトで淡くて明るい印象は、見るものをホッとさせるような雰囲気があります。
細かく緻密に描くのではなく、大雑把に描きながら
視野に入ってくる印象を絵画に表現しているかのようです。
ちょうど、僕のように視力の低い者からすると、
眼鏡をかけずに世の中を眺めると印象派の絵画のようにも見えるわけです。
逆に、細かく描くことを追求していくと、全てが詳細に描かれてしまって
実際に視野に入っている画像とは違ってきてしまいます。
視野の全てが均一に詳細ということはあり得ません。
その意味では、大雑把に描かれている印象派のほうが
世の中を正確にとらえているとも言えるのかもしれません。
印象派と呼ばれる画家たちの中でも、
何を描こうとしたかには個人差があるように感じます。
「何を」というのは具体的な景色やモチーフのことではなく、
それを絵にする作業を通して、自然界のどの部分を捉えるか、ということです。
例えば、エドガー・ドガなどは、動きを切り取ったような躍動感があります。
写真のように一瞬を写し取っている静止映像ではなく、
絵にも関わらず時間の流れがありそうな感じ。
僕の好きなミレーには、匂いが感じられます。
ゆったりとした空気の流れと、空気の温度などの体感覚が表れている気がします。
で、最近、僕が感じたのは光の「ちらつき」に関してです。
点描に近い手法を用いている画家の中には、屋外で光の乱反射が移り変わり
空気中の水滴によってチラチラと光が煌めく輝きを描いている人がいると感じました。
点描の代表といえばスーラですが、スーラの点描は趣旨が違うと思います。
スーラは科学的というか、色を「理解しよう」という雰囲気を感じるんです。
カミーユ・ピサロは点描というほど正確な点ではありませんが、
かなり細かい筆致で描かれていますから、それに近い印象があります。
で、その色の置かれ方には空気が描かれているように見えるんです。
空気に反射する光の「ちらつき」。
それは一瞬の景色ではありません。
そこにしばらく佇んでいると動いてくる光の変化が、絵の中に閉じ込められている感じ。
このキラキラした感じに心を惹かれます。
絵画ができることは、正確に目に入ったものを写し取ることだけではないと思うんです。
心の中に写った景色を描くことができる。
気持ちや感情を描こうとする人もいるんでしょうが、
名画と呼ばれるものは、その前のステップを描いている気がします。
目に入る前の外にある世界と
それを見たときに感じる気持ちとの
両方の間に存在するもの。
目から入った情報が「心の中に映し出されると」それに対して気持ちが動く。
気持ちの変化を引き起こす「世の中の受け取り方」が絵に反映されているように思います。
だから見る者の心に訴えるんでしょう。
印象派は、この「受け取り方」を忠実に絵に表している感じを受けます。
見るときにも、その「受け取り方」を想像して
それに合わせるようにしてやると、自分の心が動かされるのが感じられます。
この作業は、やってみると楽しいものです。
それが感じられてから、美術館が余計に楽しくなりました。
色々と見てみたい絵が沢山あります。
それまでの暗い感じの絵柄に比較して、白の絵の具を多用した
明るい風合いが特徴となるようです。
また輪郭がボヤっとしていて、
様々な色の絵具を重ねて置いているような描き方も特徴でしょうか。
「筆触分割」という技法が使われているそうです。
ソフトで淡くて明るい印象は、見るものをホッとさせるような雰囲気があります。
細かく緻密に描くのではなく、大雑把に描きながら
視野に入ってくる印象を絵画に表現しているかのようです。
ちょうど、僕のように視力の低い者からすると、
眼鏡をかけずに世の中を眺めると印象派の絵画のようにも見えるわけです。
逆に、細かく描くことを追求していくと、全てが詳細に描かれてしまって
実際に視野に入っている画像とは違ってきてしまいます。
視野の全てが均一に詳細ということはあり得ません。
その意味では、大雑把に描かれている印象派のほうが
世の中を正確にとらえているとも言えるのかもしれません。
印象派と呼ばれる画家たちの中でも、
何を描こうとしたかには個人差があるように感じます。
「何を」というのは具体的な景色やモチーフのことではなく、
それを絵にする作業を通して、自然界のどの部分を捉えるか、ということです。
例えば、エドガー・ドガなどは、動きを切り取ったような躍動感があります。
写真のように一瞬を写し取っている静止映像ではなく、
絵にも関わらず時間の流れがありそうな感じ。
僕の好きなミレーには、匂いが感じられます。
ゆったりとした空気の流れと、空気の温度などの体感覚が表れている気がします。
で、最近、僕が感じたのは光の「ちらつき」に関してです。
点描に近い手法を用いている画家の中には、屋外で光の乱反射が移り変わり
空気中の水滴によってチラチラと光が煌めく輝きを描いている人がいると感じました。
点描の代表といえばスーラですが、スーラの点描は趣旨が違うと思います。
スーラは科学的というか、色を「理解しよう」という雰囲気を感じるんです。
カミーユ・ピサロは点描というほど正確な点ではありませんが、
かなり細かい筆致で描かれていますから、それに近い印象があります。
で、その色の置かれ方には空気が描かれているように見えるんです。
空気に反射する光の「ちらつき」。
それは一瞬の景色ではありません。
そこにしばらく佇んでいると動いてくる光の変化が、絵の中に閉じ込められている感じ。
このキラキラした感じに心を惹かれます。
絵画ができることは、正確に目に入ったものを写し取ることだけではないと思うんです。
心の中に写った景色を描くことができる。
気持ちや感情を描こうとする人もいるんでしょうが、
名画と呼ばれるものは、その前のステップを描いている気がします。
目に入る前の外にある世界と
それを見たときに感じる気持ちとの
両方の間に存在するもの。
目から入った情報が「心の中に映し出されると」それに対して気持ちが動く。
気持ちの変化を引き起こす「世の中の受け取り方」が絵に反映されているように思います。
だから見る者の心に訴えるんでしょう。
印象派は、この「受け取り方」を忠実に絵に表している感じを受けます。
見るときにも、その「受け取り方」を想像して
それに合わせるようにしてやると、自分の心が動かされるのが感じられます。
この作業は、やってみると楽しいものです。
それが感じられてから、美術館が余計に楽しくなりました。
色々と見てみたい絵が沢山あります。
2011年11月01日
ハードルを越える
消費者金融『アコム』のCMで、走り高跳びをしているものがあります。
「返済能力とのバランスを考えて、確実に返せる額を選びましょう」
というようなメッセージを象徴的に、走り高跳びに表しているようです。
飛んでいるバーが非常に低いんです。
ジャンプせずに倒れ込んでも越えられそうな高さ。
いかにも簡単・確実に達成できる課題、というイメージを見せてくれます。
文字に表されているメッセージは「収入と支出のバランスを大切に」ですから
映像的なメッセージと合わさって印象に残りやすいように思えます。
その一方で、あの映像には「安心感」と「気楽さ」も同居します。
「それなら絶対大丈夫だろう」という楽な高さのバー。
『超えなければいけない高さが非常に低い』
というメッセージも同時に伝えていると考えられます。
意図しているかどうかは知りませんが、その効果はあるはずです。
「気をつけて欲しい」ということを表面的に訴えているようですが、
本当に注意を促すのであれば、印象が強烈でネガティブなほうが良いでしょう。
ちょうど、小学校の保健室にあったタバコのパンフレットみたいなものです。
真っ黒な肺の写真で脅すようなタイプ。
それに対してCMでは、非常に明るいイメージで
映像になっているストーリーから得られる結論のイメージは
「それなら大丈夫か」という安心感になっている気がします。
つまり、別の示唆を読み解くと
「越えなければいけない高さが非常に低い」
というメッセージは、
「利用に対する心のハードルの高さも楽に越えられる」
といった、もう1つのメッセージに繋がると考えられる、ということです。
あのCMには、気軽に利用できそうなイメージを与える効果もあるんじゃないでしょうか。
それを狙っているのだとすると、
利用上の注意を促しながら、
同時に「上手く使えば大丈夫」として利用を勧めているのですから、
CMとしての意味は、とても有効だと考えられます。
跳び箱のバージョンもあるようですが、
走り高跳びバージョンのほうが映像的な明るさや出演者の表情などでも
好意的な印象があるでしょう。
メタファーとして考えたときにも、跳び箱は前方向への動きが強い分
「越える」というメッセージは出にくいと思います。
その意味でも、走り高跳びバージョンは良くできているんじゃないでしょうか。
効果の測定は難しいでしょうけど、結果は気になるところです。
「返済能力とのバランスを考えて、確実に返せる額を選びましょう」
というようなメッセージを象徴的に、走り高跳びに表しているようです。
飛んでいるバーが非常に低いんです。
ジャンプせずに倒れ込んでも越えられそうな高さ。
いかにも簡単・確実に達成できる課題、というイメージを見せてくれます。
文字に表されているメッセージは「収入と支出のバランスを大切に」ですから
映像的なメッセージと合わさって印象に残りやすいように思えます。
その一方で、あの映像には「安心感」と「気楽さ」も同居します。
「それなら絶対大丈夫だろう」という楽な高さのバー。
『超えなければいけない高さが非常に低い』
というメッセージも同時に伝えていると考えられます。
意図しているかどうかは知りませんが、その効果はあるはずです。
「気をつけて欲しい」ということを表面的に訴えているようですが、
本当に注意を促すのであれば、印象が強烈でネガティブなほうが良いでしょう。
ちょうど、小学校の保健室にあったタバコのパンフレットみたいなものです。
真っ黒な肺の写真で脅すようなタイプ。
それに対してCMでは、非常に明るいイメージで
映像になっているストーリーから得られる結論のイメージは
「それなら大丈夫か」という安心感になっている気がします。
つまり、別の示唆を読み解くと
「越えなければいけない高さが非常に低い」
というメッセージは、
「利用に対する心のハードルの高さも楽に越えられる」
といった、もう1つのメッセージに繋がると考えられる、ということです。
あのCMには、気軽に利用できそうなイメージを与える効果もあるんじゃないでしょうか。
それを狙っているのだとすると、
利用上の注意を促しながら、
同時に「上手く使えば大丈夫」として利用を勧めているのですから、
CMとしての意味は、とても有効だと考えられます。
跳び箱のバージョンもあるようですが、
走り高跳びバージョンのほうが映像的な明るさや出演者の表情などでも
好意的な印象があるでしょう。
メタファーとして考えたときにも、跳び箱は前方向への動きが強い分
「越える」というメッセージは出にくいと思います。
その意味でも、走り高跳びバージョンは良くできているんじゃないでしょうか。
効果の測定は難しいでしょうけど、結果は気になるところです。