2012年02月

2012年02月29日

3月の勉強会

3月の勉強会のお知らせ

3月の勉強会は祝日開催です。


2012年に入って勉強会のスタイルを変え始め、
今回で3回目となります。

それぞれの方に個別の課題を設定しながらトレーニングをする形。

個々のご要望に応えやすい上に
ご自身で設定したテーマに取り組むと意欲も違うように感じます。

何人かの方からご好評も頂けていますし、
何より、学びがその場で吸収されていく様子というのは
こちらで見ていても楽しいものなので、
しばらくこのスタイルを続けてみるつもりでいます。


何かフレッシュなテーマが出てきたときには
特定のテーマを設定して行う可能性もあります。

しかし、それでも全体的な流れは自由にしておきながら、
一部分として何かの技術を紹介するような形になるかもしれません。

なので、できる限り個別の学習効果が高まるように
トレーニング内容をカスタマイズする形式が基本になると思います。


理想を言えば、コミュニケーションのトレーニングも
カルチャーセンターや”お稽古ごと”のように、毎週続けられると良いんでしょう。

毎週少しずつ練習していければ、ある程度のトレーニング内容が用意されているか
講師や先生の見本が素晴らしい限り、全員に効果が表れてくると想像されます。

週に一度のレッスンで、それぞれの状態をチェックして、指導が入る。
そのルーチンを全員に対して行っていく。
一人が指導されている時間は、他の人は見学の時間になる。
…こんな感じのお稽古は多いようです。

実際に自分でも、あるワークショップでは個別のスーパーバイズをするために
他の人は、その模様を見学するというスタイルがありました。

見学は見学で学びになりますし、客観的に見た内容に対して質疑応答をすると
学習内容の整理には非常に効率的だったのを覚えています。

ですから、1つのやり取りを全員で観察して、そこからディスカッションするのも
学びの形態の1つとして利用していく可能性も考えてはいます。

一方で、やはり直接的にトレーニングをして得られるものの質は
見学で得られるものとは違うという実感もありますから、
できる限りトレーニングの時間を増やしたいと思っているんです。

毎週開催される勉強会に来られる方ばかりでもないと思いますから。
月に一度の時間を、最大限に有効活用したいわけです。

その意味で、
 一人ひとりが違った課題を持ちながら
 同時にトレーニングを行う
という形をやっていこう、という趣旨になります。


実際に開催してみると、やはり自分の中に
「最大対応可能人数」がありそうな実感はあります。

トレーニングの密度だけでいえば3人ぐらいが良いでしょうが、
視点の多様さを考えると人数は多いほうが学びが広がります。

その間でバランスを取れるところが、最大人数になるかと思います。

ですから、定員は会場の都合以上に少なめになってしまいますが、
その点はご了承ください。


さて、そんな自由な形の勉強会ですが、
枠組みを設定したほうが効果的なことも見えてきています。

ある程度の大枠でテーマを設定しておくと、
ご参加の方同士で接点が生まれたり、
他の方の課題がご自身にとって役立つものになったり、
相互の学びが活発になりやすいようです。

例えば、前回はコミュニケーションに対する誤解に対して
お二人の方が同じ部分に注目していました。
しかも、その誤解に対するコミュニケーション上の立場が逆だったんです。

ですから、そのお二人に同時に実習をしてもらうことで
一人では得られない学びが可能になったものと思っています。

こういう偶然の一致をトレーニングに取り入れられるのも面白さだと感じていますから
接点が生まれやすいように、大枠でテーマを設定していくことにします。


今回のテーマは
 『良い聞き役になる
です。

「良い聞き役」とは、どういうことなのか?
そのために、どんな技術が求められるのか?
どういうときに上手くいって、どういうときに上手くいかないのか?

そのようなことを考えながら、技術のトレーニングを進めていきます。

「聞く」という行為は、必ずしも一対一でするものではありません。
自分が大勢の相手から「聞く」こともあれば、
自分が大勢の「聞き役」の一人になることもあります。

さらにいえば、『良い聞き役になる』かどうかは
自分の意思で選択できるものでもあります。

様々な範囲のコミュニケーションに関係しますから
事実上はコミュニケーションに関係すれば何でも含まれるようですが、
ご自身なりの課題を考えて頂く上での枠組みとして設定するのには良いでしょう。

ご参加の際には、ご自身なりに『良い聞き役になる』上で重視したい部分や
苦手意識のある部分、積極的に練習したい部分などをお考えいただけると
中身の濃いトレーニングが可能になると思います。
 (ご要望は『ご意見など』の欄にお願いします。)

年度末でお忙しい方もいらっしゃるでしょうが
ご都合が合いましたら、是非、ご参加ください。

コミュニケーションの練習は、知らず知らずのうちに役立っていくものですし、
何より、その練習自体が面白いものだと思いますから。



<ご参加に際しての注意事項>

※NLPの専門用語の説明などは省略するつもりですので、
 NLPなどに対する知識と経験のある方、もしくは
 過去に勉強会でトレーニングを積まれた方
のご参加をお薦めします。

 ☆気がかりがありましたら、お問い合わせください。

※内容が広範囲にわたりますので、資料での補足が難しい可能性があります。
 ご希望の内容がある場合には、お申込みの際に「ご意見など」の欄にご記入ください。




  定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。

  ※勉強会全般の趣旨に関しましては、こちら(勉強会070725)をご覧下さい。


詳細は以下のとおりです。




【勉強会の詳細】

≪定期勉強会≫
【日時】 3月20日(火・祝) 10:00〜16:30
         ★今回は終日(日中)の開催となります。

【場所】 北とぴあ 806会議室
    (JR京浜東北線・王子駅 北口より徒歩2分)
    (東京メトロ南北線・王子駅5番出口直結)

【参加費】 ・・・7,000円
       当日、会場にてお支払いください。

【テーマ】 『良い聞き役』になる


 *多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
  学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
  ご了承ください。




コミュニケーションのトレーニングというと
「話し方」か「聞き方」のどちらかが中心だと思われますが、
「聞き方」の中でも主流は2通りのような気がします。

1つはコーチング的な質問の技術。
もう1つは傾聴を中心としたスタイル。

いずれもアメリカから輸入されたものです。
そして、日米の文化や言語構造の違いは
あまり意識されていないように感じます。

アメリカで効果のあるコミュニケーションの方法が
日本でも全く同じように使って上手くいくとは限りません。

むしろ、比較をしてやれば区別すべき点も色々と見えてきます。

そういった観点からすると、今回扱っていくトレーニングは
「直輸入版」ではなくて「日本版」だと言えるでしょう。

”マクドナルド”の味は、世界中で均一に保証されているそうですが、
それでも各国限定の「〜バーガー」があるらしいです。

”サブウェイ”のサンドイッチは、日本に入ってきた当初
その味付けやパンの固さなどで日本人には受け入れられなかったとか。
そこで日本人向けにアレンジされて、今の地位が確立されているんだそうです。

元々、日本文化は、そういった作業が得意なものじゃないでしょうか。
海外からやってきたものをアレンジして日本文化にしていく。

ラーメンだって洋食だって、海外のものとは別物になっています。

ところが、コミュニケーションをやろうという人々は
素直で真面目で誠実な人が多いのかもしれません。

紹介されたものを忠実に使おうとしてきたように思われます。

残念ながら、この勉強会は、あまり素直で真面目ではないんです。
なので、アレンジすべきところはアレンジを考えます。

オリジナルで作ったほうがいいものは、オリジナルで作ります。

その技術が有効かどうかの1つの基準は
「相手に確認して望ましいかどうか」です。

何をされたら嫌なのか、何をしてもらうと嬉しいのか。
そうした素直な感想のフィードバックの積み重ねが
有効なものと、そうでないものとを区別してくれるはずです。

「お客様の声」を聞きながら、商品開発をするのと同じようなものです。

場合によっては、人それぞれの得意・不得意もあるかもしれません。

自分の気づいていなかった得意分野を知ることができるのも
こうしたトレーニングの場のメリットだろうと思います。

つまりは、「日本人向け」どころか
「自分向き」の技術を編み出していくことも可能になるわけです。

そのように技術を意識し、自分の強みを自覚しておくことが
日々の生活で拠り所になってくれることも少なくないと思うんです。

個人的な経験から言えば、こういう吟味の作業がとても役立ちました。

全員に当てはまる保証はありませんが、
人を傷つけたくない人にはオススメです。

終了しました

トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。


是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。

今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。


また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。


【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。


勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。

その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。

また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。

調査して勉強会にあたります。



それでは当日お会いできることを楽しみにしています。

2012年02月27日

2種類のフレームとリフレーミング

「物事の考え方・受け取り方を変えましょう」という発想が
『リフレーミング』と呼ばれます。

物事の受け取り方を『フレーム』と呼んで、
そのフレームを変えるという意味で『リフレーミング』と。

こういう言い方をすると、何でもリフレーミングできると思う人もいるかもしれません。

実際には、技術を向上させれば何でもリフレーミングできますが、
どうしたらリフレーミングが上手くいくかという話は解説されにくいようです。

慣れればパッと思いつくようになるとか、相手のことを思っていれば降ってくるとか、
上手いリフレーミングのストックを集めておけばいいとか、色々言われますが
結局のところ、リフレーミングのメカニズムに触れていないので
何を狙えばいいかまでが説明されにくいわけです。

ちなみに、ストックを集めておくのだけはオススメです。
技術的に上手くできるということと、すぐに思いつけるというのは
依然として大きな隔たりがありますから。

『なぞかけ』でお馴染みの”ねづっち”も、上手過ぎるヤツは
過去に考えてストックされていたものだと思いますし、
練習を重ねていれば、ランダムなお題でも過去にやっていた可能性が上がります。
ストックがあるのは、そういう意味でも役立つわけです。


では、そのフレームをどう変えていくか、という話ですが
これはフレームを2種類に分類すると整理しやすいと思います。

リフレーミングを
 「内容のリフレーミング」と「状況のリフレーミング」
に分けるのとは違います。

フレームそのものが2回あると仮定すると、狙いやすくなります。

1つは今この瞬間、何かを体験するときに自動的に使われるフレーム。
パソコンを見れば「パソコン」と認識する。
「”パソコン”と書かれた文字」を見れば、「パ・ソ・コ・ン」の文字を認識し
同時に「パソコン」という単語を塊で認識し、その意味を呼び起こす。

猫を見れば「猫」として認識し、犬を見れば「犬」として認識する。

これは、ほぼ自動化されたプロセスになっているでしょう。

そして、その自動化は経験の頻度、つまり慣れによって決まります。
何度も経験して良く知っているものは、瞬間的・自動的に認識されるわけです。

それが慣れていないと、
「あれ、これは何だっけ?見たことあるけどなぁ…。何に使うんだっけか?」
といった感じになります。

それで思い出せれば「ああ、あれだ」と認識されますが
全く知らないものであれば見過ごされる場合すらあります。

例えば、僕は学生時代の分析化学の実験のときや、
研究職としてアミノ酸の濃度を正確に把握するときに
”メスフラスコ”を使っていました。
(メスフラスコが気になる方は検索してみてください。)

良く知っているものですから、見た瞬間に「あ、メスフラスコだ」と認識できます。
しかも、今どこかの机の上にメスフラスコがあるのを見たら
「あ、メスフラスコだ。なんでこんな場所にあるんだ?でも懐かしいなぁ」
なんて、当時の記憶を色々と思いだすことでしょう。

そんな風に、特定の認識には、それに関する記憶が沢山結びついているわけです。

ですから、その目的や仕組み、性質なども当然のこととして認識されます。

メスフラスコは、液体の体積を正確に合わせるためのガラス器具で
100mlだったら、100mlしか測れないように作られています。
その代わり、線まで液体を入れると、もっとも正確に100mlになるとされています。

そこに正確に10mlの液体を入れて、100mlの線まで水を足せば
正確に10倍希釈ができるわけです。

そういうガラス器具。

なので、絶対にブラシでゴシゴシと中を洗ってはいけないんです。
ガラスが削れて中の体積が変わってしまうから。
かといって洗浄が不十分だと、ガラスの内壁に水滴が残ってしまって
これも正確に使うことができなくなる。

メスフラスコを見れば、そんな知識も当然のこととして認識されます。

ですから、仮に誰かがメスフラスコをブラシでゴシゴシ洗っていたら
「いやいや!ちょっと待って!ダメだって、ブラシで洗っちゃ。」
という気持ちが沸いてくるでしょう。

自動的に、です。

そして、メスフラスコが置かれているべき場所も
化学の実験室のようなところを想像しますから、
仮にキッチンにでも置いてあったら「なんで、こんな場所にメスフラスコが?」
という気持ちも沸いてくるでしょう。

ところが、化学にあまり詳しくない人の場合は、違った反応になるはずです。

仮に、専門は物理だったけど学校では基礎実験として化学も少しやった、ぐらいなら
どこかの実験室にメスフラスコが置いてあるのを見ると
「あ、あれ学生時代に見たことあるなぁ。化学で使うんだっけ。名前は…何だっけか?
 なんか水を入れてシャカシャカ振ったのを覚えているけど…。」
みたいな反応になるかもしれません。

それで詳しい人に、
「あれはメスフラスコですよ。正確に希釈するときに使うヤツです」
なんて説明されると
「ああ、そうだった、そうだった。なんか神経質に水を入れたよ。メス…なんとかね。」
ぐらいには認識されるでしょう。

一方、これが化学とは馴染みのない人で、使ったこともない人であれば
メスフラスコを見ても、単なる「変わった形のガラス瓶」ぐらいにしか見えないでしょう。

正確に測れることも分かりませんし、その高額な値段も想像できないと思います。

メスフラスコがキッチンに置いてあったりしたら、
お酢やオリーブオイルを入れるオシャレな瓶か何かかと思うかもしれません。

つまり、
・経験によって馴染みがある物事は、体験した瞬間に自動的に認識され、
・経験したことはあっても馴染みが薄い場合には、認識に意識的な作業が求められ、
・経験したこともない場合には、そのものとして認識することもできない、
というわけです。


こうした認識に使われているものが『フレーム』です。

体験の典型的な内容が整理されていて、それに当てはまるかどうかで分類するんです。

馴染みがある場合には、目や耳に少しでも入った瞬間に
そのフレームが引っ張り出されて使われ、”そのもの”として認識される、と。
だから自動的なんです。

また、それには状況も依存します。
同じメスフラスコでも、実験室にあるのとキッチンにあるのでは
認識のされ方が変わる場合がある、ということです。

馴染みの薄い人でも、実験室でメスフラスコを見かければ
「ああ、化学の実験で使ったヤツだ」と思いやすいでしょうが、
キッチンで見れば「オシャレな瓶だなぁ」と思うかもしれません。

状況から使われやすいフレームを予測しつつ、
当てはまりそうな”もの”が出てきたら、自動的に、そのフレームを引っ張り出して
その”もの”として認識するわけです。

ですから、犬が恐い人であれば、道を歩いているときには常に
「犬と出会う」可能性を予測しつつ、犬が目に入った瞬間に「犬のフレーム」を使い
「犬だ」と認識して恐怖感を呼び起こすことになります。

あるいは、「道にはお金が落ちている」と思っている人は
街中を歩いているときには、「地面にお金がある」可能性を予測しています。
その結果、お金と似たものに対しても「お金のフレーム」を使って
「お金だ」と認識することになり、結果的に
ビール瓶のフタを100円玉と勘違いするかもしれません。

使われやすいフレームがあって、そのフレームが立ち上がる瞬間は
本人の意思とは無関係に、自動的に起こるんです。

ですから、犬が恐い人の「犬のフレーム」は
本人の意思とは関係なく、常に出てきやすい状態になっていると言えます。

しかも、その犬のフレームが使われた瞬間に、それが実際には犬でなかったとしても
犬にまつわる恐怖の体験の記憶が呼び起こされ、恐怖感を味わってしまうわけです。

ここには本人の意識的な努力が介入できる余地は少ないんです。


さらに、フレームによる意味づけは、過去の体験によって歪められています。

ニュートラルな印象の体験しかしていないものは歪みが少ないですが、
ポジティブな体験を重ねてきた対象のフレームはポジティブに強調され
ネガティブな体験を重ねてきた対象のフレームはネガティブに歪むんです。

例えば、ネズミが嫌いな人は
汚らしくて暗闇で目が光っているようなイメージを典型的なネズミとして捉え
実際のネズミを見たときにも、そのフレームに当てはめて「ネズミ」を認識するでしょう。

その結果、ネズミに対してネガティブな印象を、自動的に体験してしまいます。

逆に、ハムスターを飼っていたとかで、ネズミにも可愛らしい印象を持つ人は
チョロチョロと動いて、フサフサした毛並みの明るいイメージを典型的なネズミと捉え、
庭先でネズミを見かけたときでも、そのフレームに当てはめて「ネズミ」と認識する。

ポジティブな印象を同時に感じるために準備されたフレームがある、というわけです。

このように歪んだフレームを既に持ってしまっていて、
しかも、それが自動的に使われるようになっている。
…これが「受け取り方」の違いそのものだと言えます。

人それぞれの歪んだフレームが自動的に使われる癖がついているのですから、
このフレームを変える作業は、本人が意識的にやるのは簡単ではありません。

つまり発想を変えるだけでは、こうした物事の捉え方は
リフレーミングするのが難しい、ということです。


これが1つ目のフレーム。
物事を認識するときに自動的に使われるフレームです。

これをリフレーミングするのには、技術が求められます。
その技術を上達させられれば、地道にチョットずつ馴らしていくようなことをしなくても
苦手なものを違った受け取り方にできるようになります。

ですが、そこには技術が求められるので、単純に
「物の考え方のせいで問題になっているから、考えを変えれば良いんだ」
なんて言える話ではありません。

ですから、
「犬が嫌いなの?あんなにカワイイのに?怖いと思うから犬も警戒するんだよ。
 考え方次第だって。犬が寄ってくるのは、襲おうとしているんじゃないんだよ。
 可愛がってもらいたいから、近寄ってくるんだってば。
 そう考えれば怖くないでしょ?考え方を変えてごらんよ」
なんてリフレーミングを試みても、まず上手くいかないでしょう。

ネガティブな印象に歪んだイメージのフレームに当てはめるのが
自動的になってしまっているわけですから。

一方で、もう1つのフレームとして
「体験の仕方に対する受け取り方」があります。

こちらはメタレベルの認識といっても良いでしょう。

リアルタイムに起きている体験の内容ではなくて、
その体験をしている(もしくは、その体験をした)自分を客観的に捉えて
それに意味づけをするときに使われるフレームです。

例えば、「私は犬を見ると、逃げ出したくなる」というのは
自分が繰り返している体験のパターンです。
この時点では、その体験パターンに特定の意味づけはしていません。

これを
「犬が苦手なんて、そんなことでは社会人失格だ」
と捉えたら、その人にとって問題になります。

逆に
「犬が苦手なんて、自分にも人間らしい欠点があるもんだ。
 イメージのギャップがあるのも、また魅力かもしれない」
と捉えたら、もはや問題ではなく、

また特定の1つの出来事に対しても、意味づけがなされます。

「今朝、犬にオシッコをかけられた」という出来事があったときに
「うわぁ、最悪だよ。ついてないなぁ。クリーニングに出さなきゃ…」
と解釈すれば、嫌な体験として認識されます。

ですが、同じ「犬にオシッコをかけられた」体験も
「えー!ホントに、こんなことってあるんだ!マンガの話じゃないんだ。
 今度、これ、飲み会で皆に話そう!ネタが1つ出来たぞ。」
と解釈すれば、笑い話として認識されます。

いずれにせよ、その体験をしている最中のリアルタイムな体験そのものではなく、
その体験を自分自身で客観的に評価するときの視点ということです。

このように、自分の体験を自分自身で眺めて、それに意味を与えていく作業は
客観的な度合いが高いのと同時に、「自分が考えている」度合いが高い分、
考え方や気分の持ちようで、意識的に変えていくことがしやすいと言えます。

言い換えれば、意図的にリフレーミングしやすいんです。

もちろん、こうした体験への意味づけのフレームも、
自動的に使いやすくなっていることがありますが、
こちらのほうが「受け取り方を変えよう」と意識することでコントロールしやすいはずです。

なので、一般に良く使われるリフレーミングは
こちらのパターンになっていると思われます。


1つ目のフレームにアプローチするリフレーミングは、
問題となる行動や反応のパターンを生み出す「物事の歪んだ受け取り方」を
別の歪みに変えたり、歪みを減らしたりする方法となります。

その結果、問題となっていた行動や反応のパターンが無くなります。
解決されるわけです。

2つ目のフレーム、つまり「体験に対する解釈としての受け取り方」を
リフレーミングしていく場合には、1つ目のフレームは変わらず残りますから
問題となる行動や反応のパターンには(あまり)変化がありません。

ですが、結果としては「問題が気にならなくなる」ことが起きます。

起きる結果が違うんですから、狙いも違う必要があります。

アプローチしているフレームが2種類あることを分かっていれば
どちらに対してアプローチするかが区別できます。

それぞれのフレームに対するアプローチは方法も違いますから、
工夫の仕方も違ってくるわけです。

すると、1つ目のフレームに対してリフレーミングしようとして
2つ目のフレームに効果的な方法を使ってしまうようなことは起こりません。

やってみたけど効果が無かった、ということが減らせるんです。

これは単純に、自分の能力だけの問題ではありません。

効果的でないリフレーミングをされた側の気持ちにも影響します。

十分に共感してもらったと感じていれば
リフレーミングに効果が無かったとしても
「この人は自分のためを思って色々と考えてくれた」と感じられるでしょうが、
共感も不十分なままで、納得できないリフレーミングでもされようものなら
「この人は自分の気持ちなんて分かってくれない」と思ってしまうでしょう。

使い分けができるようになれば、技術を磨いて対処できることも増えます。

しかし、その前の段階として
技術の使い方を勘違いして、ゴッチャにしてしまって
相手を不快にさせることも減らせるんです。

思い悩み、苦しんでいる人を
わざわざ更に不快にする必要はないと思います。

整理して理解することのメリットには
相手を必要以上に傷つけないという部分も含まれているはずなんです。

2012年02月25日

「 Let him have it ! 」

言葉というのは非常に曖昧なものですから、
それだけに頼ってコミュニケーションをするのは危険なものだと思います。

ここまで極端な事例は、なかなか無いとは思われますが
言葉によるコミュニケーション・ギャップの例として、こんな話を聞きました。


アメリカの話だったと思います。

ある兄弟が二人で犯罪をしました。
強盗です。

そして警察官はそれを見つけ、
一方に銃を向けます。

すると兄弟のうちの1人が警察官に銃を向ける。

それで警察官は、銃を捨てるように警告しました。
「銃を渡せ」と。

そこで銃を持っていないほうの兄弟が叫びます。
「 Let him have it ! 」

直訳すると
「彼に、それを持たせろ」
ですが、
ここに曖昧なニュアンスが含まれていました。

1つは「 it 」を「銃」と解釈して
「銃を渡せ」
という意味。

もう1つのニュアンスは「 it 」を「銃の弾丸」と解釈して
「銃をくらわせてやれ」
という意味。

日本語にするなら
「警官に銃をくれてやるんだ!」
ぐらいでしょうか。

「くれてやる」が、「渡す」なのか「打つ」なのか。
そういった曖昧さがあったわけです。

結果として、銃を持ったほうの兄弟は発砲しました。
警察官を殺害することになったんです。

打ってしまったほうは、最初からそのつもりだったのか
言われたから打ったのかは分かりません。
…いずれにせよ、殺人罪が加わります。

では言ったほうは、どうたったのでしょうか?
どちらのニュアンスで言ったのかは確かめようもありません。
直接聞いてもウソをついているかもしれませんから。


言葉の解釈の仕方には、色々な点で曖昧さが含まれます。

「そんなつもりで言ったんじゃないのに…」
という経験は、少なからず誰しもあるような気がします。

だからこそ
『コミュニケーションの意味は受け取った反応にある』
と言われるのでしょう。

それを理解していることと、
だからこそ言葉の選び方に気をつけるということは
全く別次元の話だと思います。

日常のコミュニケーションは何気なく使った言葉でも自然に流れていきます。

自分の言い方が意図どおりに伝わったかどうか、
どういう言い方をしたら、より伝わりやすかったか、
…そんなことをチェックする人は滅多にいないでしょう。

日常でやったら嫌がられるでしょうし。

そういう意味でも、自分の言葉に責任を持って
トレーニングをしてみるというのも役立つことじゃないかと感じます。

2012年02月23日

学者の知らない世界

僕が学んできたコミュニケーション技術や人の心のメカニズムは
心理学以外の裏づけを重視しながら、かつ
自分自身と関わってきた人たちの実体験をベースにしているつもりです。

できるだけ
 「その人の中で今、何が起きているか」
を説明する努力をしてきましたし、
これからもその重要性は変わらないと思います。

しかし、そうすると実体験として
 「なぜか、こういうことが起こる」
 「なぜか、こういう風に体験される」
という主観的な実感の部分も重視されることになるので、
説明としては逆に、全く裏づけのないものになる場合もあります。

…まぁ、本当は説明できますし、それで全ての筋道が通るんですけど
その説明の仕方は他の分野では言われていないものなので、
だったら言わないほうが良いかも、ということになってきている状態です。

なぜ他の学問分野でも、心理学の分野でも、まして心理療法の分野でさえも
説明されない内容が含まれるのかというと、
それは多分、そこにいる多くの人たちが、その体験を実感したことが無いからでしょう。

現象そのものはスピリチュアルを好む人たちや
超常現象を好む人たちにとっては受け入れやすいのかもしれませんが、
その反面、学問的な立場を取りたがる人たちにとっては受け入れにくいと思われます。

そんなことが起こるなんて思ってもいないでしょうし、
技術的にも実感したことが無ければ、発想の中にさえ入らないはずです。

一方で、徹底的に心理臨床をやっている人、
特に「無意識の領域へのアプローチ」を重視している人の中には、
全く理論的な裏付けとは無関係に、体験として実感して利用している人もいます。

ちなみに、僕が知っている
「それ」を使っていて、「それ」を言葉にすることを躊躇わなかった人たちは
いずれもドップリとクライアントとの関係に身を置きながら
学問の世界とは距離を置いていた人たちです。

「なぜか、こういうことが起こるんですね。そういうものです。」
としか言いませんでした。


「それ」の典型が『ペーシング』です。

ペーシングというと、技術として相手のペースに合わせることを言うのが一般的ですが、
ここで言いたいのは、「ペースが物凄く合ってきたときに起こる現象」のほうです。

その意味では『ペーシング』というよりも『同調』という言葉のほうが正確でしょう。

人には、なぜか『同調』する性質があるという話です。

そして、この『同調』を利用すると、コミュニケーションの質が大きく変わります。
相手から受け取れる情報の量と質が大きく高まるんです。

ただ、その体験を実感したことがなければ
それを発想として持とうともしないでしょうし、
誰かがそのことを別の言い方で説明していたとしても
「学問的じゃない話だ」ということで一蹴してしまうかもしれません。

ですが、僕は幸いにも自分自身の体験を通じて、それを実感できました。
『同調』しているときと、していないときの区別がつくようになってきましたから
技術として利用できるようになったんだと思います。

多分、僕は元々、ある程度はその感性を持っていたんでしょう。
形態模写というかモノマネというか、相手の動作をコピーするのは
良く分からないけれど得意分野でしたから。

で、あるワークショップの最中に、『同調』している状態を
運よく実感することができたんです。

そのときのトレーナーから説明されていたのは
「ペースが合ってくると、内面的な気分や状態も同じになってくる」とか
「ペースが合ってくると、相手と同じ感覚が自分の中に起こってくる」
といったところまで。

そういうことがありますよ、と。
だから、自分の中の感覚的変化を吟味しましょう、と。

そのトレーナーは、
 どうすれば『同調』してくるレベルまでペースを合わせられるか
とか
 どの状態が『同調』しているレベルなのか
とかを教えてはくれませんでした。

ただ、僕は幸い、そのワークショップの中で
ある人との1つのワークを通じて『同調』をハッキリと実感できたんです。
それは驚くほどの違いでしたから、「こういうことか!」と思えたんです。

その違いが掴めれば、あとは精度を上げていくだけ。

それから一年ぐらいのセミナー講師経験で、かなり上達した気がします。

その後は、何が効果があったかは覚えていませんが
『同調』のコツみたいなことを言語化できるようにしてきました。

1つ重要だったと思うのは、あるクライアントとの催眠的なセッションの中で
「自分が強烈に、相手へと引き込まれていく」感覚を味わったことでしょう。

そのときに「この人は、他人を自分に同調させられる力が強い人なんだ」と感じました。

その状態は僕の目線から見ると、「相手に同調しにいく」ということですから
そのときの感覚的な体験の仕方を再現してやれば、
その方法が「同調のための技術」として使えるようになるわけです。

NLP的にいうと、「同調のためのストラテジー」を探し出した、と。

それは、いわゆる「ペーシング」として扱っているような方法とは別物でしたが、
スピリチュアルの好きな人は「○○体を見ているのね」と言っていました。
(ナントカ体って言っていましたが、覚えていません。)

ここでも裏を返すと、スピリチュアルな人たちが相手を直感的に理解したり
相手から色々な情報を得ていくプロセスとして使っている手法というのも、
コミュニケーションとして言えば「同調するのが上手い」という説明に変わることになります。

こうしたプロセスを経て、僕の中で「ペースを合わせて、相手と『同調』する」という現象は
学問的な分野での説明は無いものの、明確に実体験できて
技術として伝達できるレベルのものに変わっていった、ということです。


こんな風に、人に起こる現象を実体験と、心理学以外の裏付けで説明していくと、
逆に心理学で言われていた通説や、成功法則の中身なども
別の説明の仕方ができるようになっていきます。

集合無意識とか潜在意識とかいった曖昧な言葉で片付けていたものも
「人間の中で何が起きているか」という観点で説明することもできるんです。

すると、中身の違うプロセスを複数ひっくるめて説明してしまっていることにも気づけ、
結果として「この説明はあり得る」、「こっちの説明は拡大解釈になっている」といった
違いの部分にも目がいくようになってきます。

なので僕の中には、曖昧な心理学や成功法則、自己啓発の手法などに関して
「この部分はあり得るけど、こっちは人によって違う」とか
「その説明の仕方は原因と結果の順序が逆になっている」とか
色々な反論の種が揃っているんです。

そうした反論は、「できる限り学問的にしよう」という立場の説明に対しても
同じように生まれてきます。

例えば心理学では、色々な個性や傾向を
「遺伝的な要因が強いのか」、「環境的な要因が強いのか」
といった観点で見ようとするケースが良くあります。

そこで使われる手法が、双子の調査。

双子に対しても、一卵性と二卵性で調べ分けるんです。
さらには、同じ家で育ったか、片方が別の家庭で育ったか、なども範疇に入る。

つまり、ある傾向を一卵性双生児が二人とも持っている頻度と
二卵性双生児が二人とも持っている頻度を比較して、
一卵性のほうが高かったら「遺伝の影響が大きい」と結論づけるわけです。

また別の家で育った一卵性双生児が、その性質を二人とも持っている頻度が高くて
同じ家で育った二卵性双生児が持っている頻度が低かったら、
もっと「環境の影響よりも遺伝の影響が強い」と結論づけることになります。

ただ、僕の印象からすると「遺伝の影響も強い」という結論が非常に多い。

言い換えると、
「同じ家庭で育った二卵性双生児が二人とも、この性質を持っている頻度のほうが
 別の家庭で育った一卵性双生児の場合の頻度よりも高い」というケースは少なそうだ
ということです。

「遺伝よりも環境要因が強い」というデータが少なそうなんです。

で、この結論が出ている理由に「双子を使っている」という部分が関係すると思うんです。

確かに、一卵性双生児は遺伝子が100%一緒です。
二卵性双生児は、普通の兄弟程度の一致度です。
その意味で、遺伝の影響を評価するのに、一卵性と二卵性の双子で
違いを見ていくというのは”一見すると”理にかなっているように思えます。

でも、それは『同調』ということを知らないから。

心理学をやっている人たちは、まさか『同調』するなんて思ってもいないでしょう。

一卵性双生児で一致しやすいのは「遺伝子の影響だ」って
結論づけたくなるもの無理はありません。
『同調』が関係しているなんて考慮にさえ入らないでしょうから。

しかし『同調』という現象を実感してきた立場から
『テレパシー』のような体験とか、「同じことを同時にしてしまう」とかいった
双子に知られる奇妙な体験を説明しようとすると、
それは『同調』の結果だと考えるのが圧倒的に説得力があります。

一卵性双生児は遺伝子レベルで100%マッチしているために
生理的な機能も一致する度合いが高く、自然にペースが合いやすいわけです。

近くにいれば尚更でしょう。
離れていてもペースが合っていることさえあると考えられます。

その結果として起こる『同調』の度合いの高さが
心理的な影響にも共通点を生み出しやすくなる可能性があるはずです。

もちろん、遺伝的な理由で起きている傾向もあるでしょうから、
その場合は遺伝子の一致が理由で共通すると考えるのが妥当でしょう。

一方で、一人に起きた環境要因からくる生理的な変化も
『同調』の結果として影響している可能性もあると考えられるんです。

つまり、一卵性双生児で調べた結果そのものが
最初から色々な点で一致しやすくなるかもしれない、ということです。

遺伝の影響なんて見ていない場合もあるかもしれないわけです。

ですから、僕からすると
「その結果は遺伝の影響よりも同調の影響が強いんじゃないの?」
と疑問が沸いてきたとしても、
心理学の人たちには、きっと沸いてくることのない疑問だと思われます。

知識として知られていないことで、実体験もしたことのないものだと
どうやったって発想の中に組み込まれることは無いでしょう。

まして僕が「それって同調してるんじゃないの?」なんて言おうものなら
「コイツは何を言っているんだ?」みたいに思われることでしょうし。


僕の中にある、体験を通じて実感してきた現象は
技術として利用するだけであれば、ただ便利なだけのこととして重宝します。

ところが、それを説明に取り入れようとすると、途端にハードルが高くなるんです。

実際には、その現象を理解して説明することで
辻褄の合うことが世の中には沢山あるにもかかわらず。

となると、その現象を”学問的”、”科学的”に説明することが必要なんでしょう。

それは非常に大変なことだと思いますが。

2012年02月21日

均一な固さ

精神科で使われる診断マニュアルとして「DSM−検廚箸いΔ里あります。

「 Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorder 」、
日本語では「精神障害の診断と統計の手引き」だそうです。

これの第4版なので「DSM−検廚函

アメリカ精神医学会のまとめたもので、
「精神病」とは呼ばずに「精神障害」と呼ぶようです。

「病気」というと移りそうだとか、悪い先入観を持たれやすいからでしょうか。
場合によっては、「病気」だと、薬で治療しようとするものだとか、
生理的な機能によるものだとかいった方向に視点が向きやすいのかもしれません。

いずれにせよ、「障害」という言い方をしているわけです。


ただ、この「障害」という用語。

日本語に訳されたときに「障害」になっていますが、
英語の「 disorder 」そのものは「混乱、騒動」の意味合いなので
「心に混乱をきたして不調になっていますよ」ぐらいのニュアンスがあると思います。

一方、日本語で「障害」というと、もう少し違った印象になる気がします。
「障害」は避けるものか、取り除くものか、乗り越えるものか…
人それぞれ捉え方は違うでしょうが、少なくとも「混乱」とはイメージが違います。

「障害」のほうが、「固い」感じがあるんじゃないでしょうか?

「混乱」であれば整えれば、「混乱」自体が落ち着いていきそうな印象がありますが、
「障害」だと、そのものは変わりにくく、より厄介なものに感じやすい気がします。

例えば、「人格障害」と言ってしまったら、
それは能力や振る舞い方や方法論のことではなく、
人格の中に何か動かしがたいものがあるように捉えやすいと思われます。

「〜という考え方をしやすい人」とか
「〜のように振る舞いやすい人」ぐらいなら
その考え方や振る舞い方にアプローチをすれば良さそうな印象が出ますが、
「人格の障害」と言ってしまったら、そもそも
「どうすれば変わるか」という発想が出にくくなると思うんです。

言葉に込められた意味合いが、それを使う人に前提となったイメージを与え、
結果的に対処の仕方に制約を与える場合があるはずです。


まして、このマニュアルは診断までのためのもので、
それに対して何をしていくかは別の話だそうです。

つまり、マニュアルに照らし合わせて診断が終了してから
対処方法を考えるステップに進んでいくということ。

「○○障害には、以下のような複数の要因が絡み合っていると考えられます」
なんて言っておきながら、診断をし終わった段階では
全ての個人差を一般化して、1種類の障害に分類してしまうわけです。

そして、ある特定の障害だと判断してから、
「その障害だったら、これか、これか、それとも、あの方法でやってみよう」
などと考え始めることになりやすい。

その人に何が起きているかではなく、一般論で考えやすくなると思うんです。

障害として分類した診断をするために情報を集め、
診断が終了した時点で個別の情報からは離れて
その障害に適するとされた方法を試していく。

せっかく教えてもらった、その人ならではの情報を無視するのは勿体ないし、
対処を考え始めるのも遅いような気がします。

たしかに、一般的に有効だとされている方法を順次試していって
効果が出るものを探していけば、いつかは楽になっていくかもしれません。

安全でもあるでしょう。
間違ったことをしにくいというか、マニュアル通りであれば
結果に対して責められる理由がなくなります。

そこそこ確実に、そこそこの成果が出る。
そういう方法をマニュアル通りにやっていけば、
誰がやっても問題になるようなことは少ないし
全体の平均として見れば望ましい方向に進んでいくのかもしれません。

この辺りも、アメリカ文化なんでしょうか。
マクドナルド的な価値が重視されるのかもしれませんし、
訴訟社会に置いてリスクマネジメントの観点からも重要なのかもしれません。

でも、そのやり方は、目の前の人を見ていない気がして
僕は好きになれません。

日本人だからかどうか分かりませんが、僕は
「おまかせ」でやってくれる寿司屋や天ぷら屋に評価が向きやすいみたいです。


必要なのは「分類をして名前をつける」ことではなくて、
「その人の中で何が起こっているか」を知ることじゃないでしょうか。

「中で何が起こっているか」に関する情報と
「外から見て何が起きているか」に関する情報は別物です。
そこも混在しているように感じます。

「中で何が起きているか」を知り、
そこで起こっているものを変えるのに効果のある方法を使う。

この発想だと、余計な分類のステップが入りません。
より直接的だと思います。


何より、「診断」という発想自体が、人を見るための手段ではなく
症状だとか障害だとかいった問題を見るための手段だと思うんです。

問題を見て、人を見ない。

そのほうが上手くいく可能性が高かったとしても、
僕がクライアントだったら、その人とは話したくもありません。

マニュアルに沿って診断することが役に立っている現実も大切でしょう。
ですが、それが全てではないはずです。

マニュアルはルールではないわけですから、
使いたい人が使って、使いたくない人は使わなければ良いのかもしれません。

その専門家を選ぶ側としては、
その人がマニュアルに沿って均一なクオリティでやっているのか、
一人ひとりに合わせてやっているのかは
あらかじめ分かっていたいところでしょうが。

2012年02月19日

無駄の中にあるもの

最寄駅は変えずに、引っ越し。
前の住居から、徒歩10分ちょっと。

利用する店などは変わらないので、町としては勝手知ったまま。

駅からの帰り道は、途中まで同じ道を通ることもできます。
ともすると、ウッカリ前の住居のほうに行ってしまうんじゃないか…
と思うぐらいの印象さえあります。

新しいほうが駅から少し離れていて、かつ
住宅の密集した地域にあるので、環境的にはずっと静かです。

外の声が聞こえることも少ないし、
廃品回収業者の車は滅多に見かけません。

たまに灯油の移動販売車が通っていますが、
それも以前ほど高頻度ではない。

その点では、仕事に集中しやすくなったかもしれません。

建材か何かの匂いが多少気になりますが、
部屋の中にいて慣れてしまえば気にならなくなります。
いざとなれば、好きな匂いの芳香剤でも置いたら良いんでしょう。


そんな風に頭では良い面も理解していますし、
以前よりも不便になった部分は妥協すべきだとも分かっているつもりです。

しかし、どこかに「意味があったのかなぁ?」という思いがあります。

無駄だったんじゃないか、と。


世の中には引っ越しの好きな人がいるようですから、
その人たちにとっては気分が変わることも楽しみの1つかもしれません。

ですが僕の場合は、特にそういうこともないんです。

利便性だけを考えて、同じ最寄駅の範囲で引っ越し先を決めたぐらいですから。

別に部屋の模様替えをするのも好きではないですし、
「自分の部屋」という感じになるように工夫をしていくほうでもありません。

それまでの引っ越しは、全て仕事の都合での移動でした。
なので自分の気持ちウンヌンではなく、受け入れるのが当然としてしたこと。

特に会社のときは、寮だったり、借り上げのアパートだったりしましたから
物件を選んだりできるほどの選択肢もなければ、
住まいに対する不満を感じることさえできませんでした。

そういう意味でいうと、今回の引っ越しは
どこか自発的で、外的要因で「仕方なく」というものではないわけです。

だったら、もっと大胆に違うところへ…という考えもあっても
なぜか、そこまでするつもりにもなりませんでした。
結局、利便性を考慮したら、近場で考えることになってしまった、と。

すると、ますます思うんです。
「意味があったのか?」と。


別の町に引っ越しでもしていれば「心機一転、新生活の始まり!」みたいな
新たなスタートを切る意気込みみたいたものも出ていた気もします。

同じ町だったとしても、物凄く広くてゴージャスな部屋を借りていれば
「これが自分の新しい城だ!」みたいな気分になったかもしれません。
(ちなみに、僕は部屋が広くても使う場所は限られてしまうので無駄みたいです)

でも、そういう「新しい出発」の高ぶりもないわけです。

すると自分の中に起こってくるのは、むしろ
慣れない環境に対する違和感やストレス、落ち着かなさ…といった不快感になります。

それから以前と比べて良くなった部分よりも
不便になった部分に目がいきやすかったりもします。

なので、全体で見ると、やはり残念な気持ちを感じやすいわけです。

余計に、「だったら、別に引っ越さなくても良かったんじゃ…」
という気持ちが沸きやすい。


それなら、なぜ引っ越しをしたのか?

自分で心の奥底を探っていくと、見えてくるものがありました。

それは残念な気持ちを感じる自分とは裏腹に
別の意図で、僕に引っ越しをさせた「自分の中の一部分」のようでした。

どうやら、この不快感そのものが重要みたいです。

現状に馴染み過ぎない。
楽な現状を維持し過ぎない。

次に進む準備段階として
「一度、楽な現状への甘えを破壊する」
という意味合いを感じました。

多分、この残念な気分は、不満のはずです。

コンフォート・ゾーンを大きく外れていると捉えているんでしょう。
つまり、僕の中で自覚できない範囲で、
コンフォート・ゾーンが別のところに設定されてしまっている、と。

それで、現状とのズレを強く感じ、不満が出てきやすいんだと思います。
「このままで良いはずがない、進まなければ」といった焦りが生まれます。

それが必要で、こんな引っ越しをしたんじゃないかと思えたら
妙な納得感がありました。


今までの延長ではないところに進むために、
一度、現状の流れから外れるところに自分を置く。

そこで今までの「当たり前」を破壊して、新しい「当たり前」を作り直す。

そして、新しい「当たり前」から外れている現状への不満をエネルギーに
前へ進んでいくための加速度をつける。

…そんな意図をもった自分の一部が、僕を引っ越しに導いた気がします。

チョロQでいうなら、いちどバックしてゼンマイを巻く感じ。

ドラクエでいうなら、転職すると最大HPや最大MPが半分になって
レベルが1に戻るっていう感じ。

僕の中には、随分、自分に厳しい自分がいるみたいです。

cozyharada at 23:55|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2012年02月17日

作業が「ギュウギュウ」でした

引っ越し作業に追われていました。
ようやく一区切りといった感じでしょうか。

普段しないような作業が多かったので肉体的に疲労が出ています。

何よりも、時間に追われての作業だったことが
睡眠時間を奪っていって、疲労感を倍増させる気分でした。

睡眠時間が少ないことを自覚しているので
布団に入ったら、すぐに眠りにつきたいわけだったんですが、
気持ちに焦りがあるので、それもままならず。


大体、眠くなるときというのは、頭の中で聞こえる声(内部対話)が
ゆっくりとしたテンポになっているもののようです。

他人の話を聞くと、その中身を頭の中で少し遅れて追いかけるように
内部対話としても音声を聞いている人がいると思います。

調べてはいませんが、結構、多いんじゃないかと推測します。

なので、ゆっくりとした話や単調なテンポの音声を聞いていると
そのリズムに頭の中の声が引っ張られていって眠くなってくる。

厳密には、「意識のレベルが低下してくる」と言ったほうがいいかもしれませんが。

それで葬式でお経を聞いていると眠くなってきたり、
退屈で眠たくなる授業とか、催眠誘導とかが起きたりするんでしょう。

それを踏まえると、逆に頭の中の声がスピーディーで速いテンポ、
さらに少し高めのトーンで流れていたとすると眠くなりにくいと考えられます。

実際、僕が寝付きの悪い時には、頭の中で多くの情報が駆け巡っています。


その上、僕はNLP的に言うと「スルータイム」の傾向が強く、
「忙しさ」というのは、文字通り「時間に追われる」というよりも、むしろ
隙間なく作業がギュウギュウに圧縮されて密度が高くなっている印象になります。

何かの作業をするときには、頭の中で予定が立ってから、
それを再現するように行動しているんです。

忙しい時は、その予定されている作業の量が多い分、
作業内容の動画イメージが沢山浮かんでくるようになります。

その動画が隙間なく、ずっと続いている感じが「ギュウギュウ」に思えるんでしょう。

どうやら、メンタルリハーサルをやる癖がついているみたいです。

ですから、忙しくなってくるほど、その後にする作業を常に予想しておくことになるんです。

就寝時間は時間で設定されているのではなく
作業の順番として設定されているだけですから、
「あれと、あれと、あれをやったら寝よう」という形で予定されていて、
作業に時間がかかって押してくると、睡眠の時間そのものが減っていきます。

作業をしながらも次の作業や、この後の流れなどを予測していて、
布団に入った後も、その続きのプロセスとして寝ようとしてしまうんでしょう。

なので慌ただしいときには、「布団に入る」とか「眠る」っていうのも
一連の流れの中の「一作業」として捉えているようなんです。

当然、「眠りにつく」という「作業」をしていても、「作業」中ですから、
その後にやる「作業」の流れが頭の中に浮かんできてしまいます。

そのときの内部対話のスピードは速く、いくつも入り乱れる感じ。

それは、もちろん、眠くなるときとは別物の状態です。

慌ただしいときほど頭の中が活性化したようになって
どんどん寝つきが悪くなっていく傾向があるわけです。

余計に寝られなくなるという悪循環。


内面的に「一区切りがついた」っていう状態になると
落ち着いて寝られるようになるみたいですから、
「一区切りがついた」感じに自分を調整すれば良いんだろうと思いました。

「一区切りがついた」っていうときと
「まだまだ、やることが沢山」っていうときとで
サブモダリティを比べれば良いんでしょう。

今度やってみようと思います。

cozyharada at 23:56|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2012年02月13日

蔵書チェック

引っ越しに向けて追い込み中です。

といっても本が片付かず、そればっかりをやる感じ。
段ボールの重さに腰が痛いです。

最近は買う量が減ったなぁと思っていたんですが
知らないうちに結構買っていたみたいです。


一年前の大震災の時は、積み上げていた本が崩れて
文字通り足の踏み場がなくなっていました。

それでも、散らばっていると多く見えないものですね。
段ボールに詰め始めると、途端に多く感じてきます。

どこから出てくるんだろう…?と不思議に思ったりもします。

多分、段ボール一箱に入る量が、意外と少ないんでしょう。
なのに、あんなに重い…。

まぁ、引っ越し業者は若者でしょうから、
頑張っていただくことになりそうです。


何より自分が一番ビックリしたのが
「苫米地英人」っていう段ボールが一箱できてしまったこと。

ちゃんと数えてはいませんが、同じ著者の本を
5,60冊持っていたみたいです。

ここ1,2年は、ほとんど買っていないような気がしますから、
その前だけでそれだけ買っていたみたいです。

僕が最初に本を買った頃は、まだ全著作が5冊ぐらいの時期だったはずです。

そこからフォレスト出版の『脳と心の洗い方』で人気が出たしたように思います。

あとは、もう、みるみる本が出版されていったようです。
今、アマゾンで検索したら135作品がヒットしました。

5,6年のうちに135作品。
一年で20冊以上出版しているということは、
月2冊近いわけですか。

とんでもない話ですね。


ちなみに、何十冊も読んでいると、重なる部分というのも少なからず出てきますが
これが僕にとっては、意外と勉強になりました。

僕は同じ本を何度も読み直すほうではないので
復習をするということは少ないんです。

その点、近い内容を別の角度から、あるいは同じように、説明してもらえると
理解や記憶の面でも良かったんじゃないかと思います。

逆に、「この人の本が好き」っていう著者がいても
意外と持っている数は多くなかったりして、
一冊への思い入れの強さがあるんだろうなぁと感じました。

2012年02月11日

体の奥から眺めてみる

NHK『コロンビア白熱教室』でおなじみの、
コロンビア大学ビジネススクール教授、シーナ・アイエンガーは
病気で視力を失った盲目の人気教授だそうです。

写真は何度も見たことがありましたが、先日
始めてテレビ番組として動画で見る機会がありました。

以前から「盲目の人気教授」ということで書店では本を見かけていましたし、
その写真を目にすることも多かったんですが、
詳しいことは調べていませんでした。

ただ、写真から見ても眼球が少し下を向いているような気はしていました。

それでテレビを見て、その眼球が動くこともあるのに気づき、
また「目を閉じている」ようにも見えたのも印象的でした。

しぐさからしても、「見る」経験をしていた時期があっただろうと推測していました。

で、ウィキペディアで調べてみると、
なんでも先天性の網膜の病気で、時間経過とともに視力が落ちていったそうです。

字が読めなくなって、最終的には光を認識できるだけになった、と。
現時点で光を感じているのかどうかは記述がありませんが、
あの「目を閉じている」印象からすると、もしかすると今も
少しは光を感じることはできるのかもしれません。


動画として見て、特に僕が印象に残ったのは
シーナ・アイエンガーの声です。

かなり特徴的で、鼻にかかった高い声をしています。

ずっとその声だったのか、視力の低下とともに声が変わったかは分かりません。

ですが、彼女の声と顔の角度、眼球の向きを考慮すると
彼女の物事の考え方や、人生観、知的な理解の度合いが
「視力を失った」ということと密接にかかわっていることが伺えます。

もちろん、出来事として人生観に影響を与えるのは自然なことでしょう。
大きな喪失感があるはずです。

 個人的な話として、僕は視力を失うことへの恐怖が物凄く”強かった”ものです。
 (今は変わりましたけど)

 …そういえば、箱根のワークショップで、
 「急に視力を失った人を演じてください」
 とトレーナーから指示をされたこともありましたね。

それで、シーナ・アイエンガーの人生観や考え方との関係というのは、
もっと生理的というか、その感覚器官の使い方の話なんです。


なんというか、意識の中心というか、意識の主体というか、
「どこから世界を認識しているか」という場所が鼻の奥ぐらい、
つまり頭部の内側に小さな点を中心に存在している感じに見えます。

一般的に目を開けて、外の世界を見ている人の場合、
世界との境界は体の表面に意識されやすいものです。

目の付いている場所から外を見ている。
当たり前に思うかもしれませんが、
見ている主体が存在する場所は、目の前後にあるわけです。

人によっては目よりも外側、つまり顔の前の数cmの空間ぐらいから
その奥の空間を認識しているようなこともあれば、
眼球の後ろ側・だいたい網膜の辺りから、
眼球の厚み分も感じ取りつつ、目から先の空間も感じ取る人もいると思います。

ロボットの操縦席に載っているようなイメージで言うと、
操縦席のフロントガラスがどこにあるかの違いです。

顔の前の空間から、という人は、喩えると
自分の体のまま操縦席に座っていて、
目の前の1mもいかないところに操縦席のフロントガラスがある感じ。

一方、眼球の後ろ側あたりから、という人は、
ロボットっていうよりは、ヘルメットをかぶっている感じか
ぬいぐるみを着ている感じに近いかもしれません。
等身大の人形を着こんで、その目の位置から外を見ている感じ。

ところが、シーナ・アイエンガーは、もっと奥にいるように感じられたんです。

小さな乗組員が自分の体の中にいて、
その人が、鼻から喉に繋がる辺りの場所にいるイメージです。
目を閉じていますし、視力を使っていませんから
真っ暗な体の中から、暗い壁を眺めているような。

なので、意識の中心が平均よりもずっと奥にあるように思えたんです。
少し後ろのほうから全てを認知している感じ。

「小さい」と言ったのは、感じ取っている情報の奥が
鼻と口の間ぐらいの高さの面に集中している雰囲気からです。

少し顎を上げて、眼球を下げ気味に目を閉じていますから
注意は鼻の先端ぐらいに向かっていると思われます。

そして声も鼻の辺りで強く響いていて、音が出ていく角度も
ちょうど、その鼻先の高さから水平方向の感じ。

とにかく鼻の高さ辺りに多くの注意が集まっているように感じました。

その高さで輪切りにした頭部の奥のほうに意識の主体がいて、
そこから世の中を見ているイメージです。


これをすることによって、世の中へ積極的に働きかけようというのではなく、
出来事を少し引いた位置から眺めるように受け取ることができるんでしょう。

そして生理的な落ち着きをキープしつつ、
物事と真っ直ぐに向き合い続け、真摯に考えることができる。

そういうことが起きている印象を受けました。

まぁ、そういう育ち方をしたから、その姿勢、その状態になった可能性もありますし、
視力を失ったことで、姿勢が変わり、そのような状態が強まった可能性もあるでしょう。

いずれにせよ、彼女の現状の注意の向け方、感覚器官の使い方は、おそらく
世の中の真理に目を向け、悟ったような状態を維持しやすくしていると思います。

逆にいえば、
彼女は視力を失ったことで、その境地に行ったかもしれないし、
その素養があったから視力を失っても、その境地に辿り着くことで
安定して生きていられるのかもしれないません。

すごく大切で本質的な話をしているだろうと推測されますが、
同じことを平均的な人が日常生活レベルで実感できるかというと
それは難しいところもあるんじゃないでしょうか。

彼女の状態に近いものを生理的に実感してみたら、
考え方も納得しやすくなるかもしれないですが。

2012年02月09日

心理テスト

「人格」とか「パーソナリティ」ということに関してですが、
こんな動画があります。

世界最速のパーソナリティ・テスト。

英語ですが、得意な方は動画の指示に従いながらやってみてください。
音声はオンでお願いします。

ある人物が出てきて、催眠の被暗示性テストに似たチェックが始まります。


手順を解説しますと…。

インストラクターが、両手を体の前に伸ばすように指示します。
手のひらを下に向けて、「前へならえ」の感じですね。
動画のインストラクターの動作を真似して頂ければ結構です。

そうしたら目を閉じます。

その後はイメージの世界です。

ですから、インストラクターが色々とイメージ誘導の指示をしている間は
目を閉じて、その内容をイメージしていくことになります。

そうしたら、右手にヘリウムガスの入った風船が結ばれているイメージをします。
軽い風船によって、自分の右手が上へと、ゆっくり引っ張られていく…。

同時に、左手の上には、本の束が乗っているのをイメージします。
その重さによって、手が地面のほうへと押し下げられていく…。

右手は風船に引っ張れて上がっていき…、
左手は本によって下げられていく…。

それで、そのイメージの世界を楽しみます。


するとインストラクターが
「エクセレント!」
「 Now, open your eyes 」と言いますから、
それまではイメージの世界を楽しんで頂ければ良いようです。

そして、目を開けたとき、両手の高さが離れていれば
「想像力が豊かな人」という結論になる。

そういうテストです。

もし、全く両手の高さが変わらず、水平のままだったら
「ロジカルで分析的」だと言える、と。


…ということで、その動画がこちら。

両手を前に出して、イメージの世界を楽しんでみてください。



さて、いかがだったでしょうか?

両手が離れているほど、想像力が豊か。
両方とも水平のままなら、論理的。

そして、犬の絵が見えていたら、疑い深い人。

そういうテストです。


…、犬です。

見えました?
子犬の絵。

見えなかった方は、もう一度、通して動画を見てみてください。
テスト結果は分かっていますから、今度は普通に見て頂いて構いません。

 ・
 ・
 ・
 ・
 ・
 ・
 ・
 ・
 ・
いかがだったでしょうか?

犬は見えましたか?

まぁ、チョットした引っかけになっているみたいです。

えーと、僕は最初、犬は見えませんでした。
素直に指示に従ったわけです。

被暗示性のテストと思いきや…。

指示に従うかどうかっていう話だった、と。

そんなイタズラ。

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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