2012年03月

2012年03月11日

感情と行動の関係

心理学のある一派は、人の反応を
感情・行動・生理反応に分けて考えるようです。

ある出来事がありました。
それに対して、特定の認知の仕方をするから
その結果、感情・行動・生理反応に変化が起きるんです、と。

例えば、ストレスがかかるときは、その出来事をストレス要因として認知して
その結果として、感情・行動・生理反応にストレスの反応が出る、というわけです。

この考え方は認知科学や、いわゆる脳科学とは違っているように思えます。
心理学では「”感情”とは、こういうもの」という『定義』があっても
それは外から観察者が見て取れるものか、本人が自覚できるものかに限られます。

一方、脳や認知のレベルで”感情”を考える人は、
”感情”の中身に注目することになります。
”感情”と呼んでいるものは、具体的に、どのような身体的な変化なのか、と。

つまり、”感情”を「心」の問題として、「心」のレベルだけで考えるのが心理学の傾向。
”感情”を脳や神経系統といった「体」のレベルで考えるのが認知科学の傾向、
といったところでしょう。

感情とは、脳を含めた人間の「体」で起きている、何らかの変化で作られている、と。
もっと言えば、
「”心”というものが”体”の機能として、どうやって生み出されているか?」
を調べたいわけです。

ですから必然的に、”感情”と”生理反応”を分けて考えるということはなくなります。

心理学であれば、例えばストレスがかかると、
「こういう感情が生まれて、こういう生理反応が起きます」
となりますが、認知科学では
「こういう生理反応が生まれて、このときに本人が主観的に認知する”感情”は、これです」
という風に説明することになるんです。


体験的に理解していることを言語化していけば、
”感情”というのは、明らかに体の中に起きた変化に名前をつけたものに過ぎませんから、
僕にとっては認知科学的な解釈のほうがシックリきます。

で、重要になるのは、「主観的に本人が身体的な変化を自覚する」というところ。

ここで、「どれぐらい自覚しやすいか?」という程度に、個人差が出てくるようなんです。

ほとんど感じないようにしているか、体の変化があることに気づいても
それを自覚しながら、通常通りに近い対応ができる人もいます。

すごく敏感に体の中に起きた変化に気づいて、
その感情があることに対して、さらに気持ちを複雑に変化させる人もいます。

体の中の変化に対する自覚は低く、むしろそれが
すぐに行動の原動力となって、行動を変化させやすい人もいます。

例えば、「あー、イライラする!」とか「ムカつく!」などというのは
身体的な変化を実際に、その時点で自覚しているから生まれるものです。

僕の見た感じでは、日本人は、わりとこの自覚する傾向が高いように思います。

一方、「感情が高まると、すぐに行動に移す」傾向のある人は、
生理的な変化を解消させるための行動を無自覚にとりやすいと言えます。

程度問題として、
「感情に自覚しながら”行動したい”気持ちが抑えられない」ぐらいの人もいれば
「ほとんど感情として自覚することもなく”衝動”が沸き起こって行動する」ぐらいの人も
「何も自覚せずに、とにかく自然に行動してしまう」ぐらいの人もいるでしょう。

生理的な反応が解消しやすいタイプの行動があるんです。

おそらく、幼少期から、解消させることを自然にやってきた人ほど
体の変化を意識的に自覚するよりも先に、行動で解消しやすくなるんじゃないでしょうか。

ですから、生理的な変化を”行動の欲求”として捉え、
その”欲求”を自覚するか、程度の高い場合には自覚すらしないで、
実際の行動に繋げる、という反応の仕方があるということです。

言い換えれば、生理的に起きた反応を
”感情”として「イライラする」と捉える人もいれば
”行動の欲求”として「殴ってやりたい」と捉える人もいる、と説明できます。

ここは体験的な学習の結果でしょう。


そして、この「すぐに行動に移す」、「生理的な反応を意識に上げずに、行動に繋げる」傾向が
どうも欧米人に多いような印象があるんです。

といっても、僕のイメージする欧米人は典型的にテレビで見ているコミュニケーションの方法や
実際に見てきたアメリカ人、アメリカ文化の場所でのものですから、
「アメリカ人に多い」という印象である可能性も高いと思います。

つまり、アメリカの映画やドラマで見る様子も、実際に身の回りで見る様子も、
アメリカン・スタイルでは、
 「生理的な変化を”行動の欲求”として捉え、行動につなげる」
という傾向が高いんじゃないか、と。

その意味では、”欲求”に対して素直に、ストレートに行動を起こすようですし、
その表現の仕方も大きなものとなります。

日本人のほうが、「感情を自覚する」という1ステップが多い傾向があるとも言えます。

もちろん日本人にも、”感情”としてよりも”欲求”として自覚する結果、
衝動的に行動に繋げる傾向の人も見受けられます。

しかし、その程度としも、頻度としても、アメリカ人のほうが高く見えるんです。

ハリウッド映画なんかで見かける
 ついカーッとなって、感情を爆発させて物を投げたり、罵声を浴びせたりして
 すぐに我に返ったかのように「ごめんね」と言いながら抱きしめたりする
…そんなシーンは、日本人には少ないと思います。

日本人のほうが感情として自覚をしている分、
それを完全に発散させるための行動には移りにくく、
結果として感情が”わだかまり”として持続的に残っている印象があります。


特に、僕が最近で印象に残ったのは
大学での授業中のこと。

授業の残り時間は、あと10分。

そこで、唐突にカバンからサラダを取りだして食べ始めた人がいたんです。
いたって普通に、授業を聞きながら。

まぁ、それが良いとも悪いとも思っていない、普通のことだからするんでしょうが、
「お腹がすいたから食べる」というシンプルな行動の起こし方が、僕には驚きでした。

あと10分なんだから、終わってからでも良いだろうに、と。

授業中に、ただ食事をするだけの人は結構見受けられます。
アシスタントが教授の横でパンを食べていたりもします。
隣の席で、えらく匂いの強いパスタを食べている人もいます。

食べる行為自体が、特別なものではないのでしょう。

ですが、別にそれが失礼じゃないと知っていても、
「今やっている内容を考えれば、10分後に食べることにして
その場では今の作業をやっておいたら?」と思ってしまいます。

「お腹がすいた」という意識が、どれぐらいあるのか聞いてみたいものです。
見ていると、「食べたい。だから食べる。」ぐらいシンプルに見えます。

かなり直接的に、生理状態と行動が繋がっているんだろうと思いました。

”空腹感”という認識をしていれば、その感覚の強さを識別できるでしょう。
「すごくお腹がすいている」とか「小腹がすいている」とか。
すると、お腹のすき具合いに合わせて、食べる量を調整したり、
食べる時期を考えたり、どれぐらい我慢できるか予測したりすると思います。

一方、空腹時に起きる身体反応を「食べたい欲求」と結びつけて解釈していたとしたら
空腹度合いを意識するというよりも、欲求に従うかどうかで考えやすいと思われます。

そこで、「食べたい欲求」に従うことを選択し続けていれば
「食べたい。だから食べる」を繰り返して、
必要以上のカロリーを摂取しやすくもなるはずです。

アメリカ文化の食べ物が、そもそも高カロリーのものが多いからだけでなく
空腹時の生理反応に対する自覚の仕方にも、肥満率の高さが関係しそうです。

そのように生理反応を”行動の欲求”として解釈するような対応の仕方が
習慣として定着しているということは、そうした内的なプロセスであっても
幼少期から「見て学ぶ」スタイルの学習が起きている可能性を推測させてくれます。

そんなことを思うと、色々と違う世界で起きていることを見られたら
理解の幅も広がるような気がしてきます。

2012年03月09日

久しぶりなのに

最近、久しぶりの人に再会することが多い印象があります。

面白いもので、そうやって再会すると、なぜか
あまり”久しぶり”の感じがしないんです。

「最後にいつ会いましたっけ?」なんて話していくと、
どの場合も「あれ、そんなに前でしたか」といった反応になります。

なんだか数ヶ月ぐらいの気持ちでいたのに
年単位で会っていなかったというのは良くあることでした。

特に、会う約束をしてからの場合には、懐かしさが無いのが不思議です。

3年以上も会っていない人であれば、昔話に花が咲きそうな気もしますが
むしろそんなこともなく、さらには近況報告も大してしないで、
普通に今後のことを話したりしていました。

誤解を恐れずに言えば、せっかく久しぶりに会ったのに
「なんか、別に会わなくても大丈夫だったかな」
という気さえしてくるんです。

もちろん、その時間は楽しく過ごしているわけですが、
”久しぶり”の感じがない分、特別な気持ちにもなりにくいのかもしれません。

毎日会っている職場の同僚であれば
わざわざ約束をして外で会わなくても大丈夫な感じと近い印象があります。

離れていても繋がっているような奇妙な感じです。


一時期、ともに学び、一緒の時間を過ごしていた人は
しばらく会わなくても、それぞれの道を歩んでいるのが想像しやすいのでしょうか。

あるときは同じ場所で同じ時間を過ごしても、結局は自分の道に帰っていく。
そうして出会いと別れを繰り返すのは、寂しくて侘しいものだと感じます。

ですが、それぞれの道で頑張っていることを信じられるほど、
別々の道に戻った後も”別れ”という印象が小さいようです。

むしろ”分かれ”と書いたほうがシックリきます。

また会えると心のどこかで思っているのかもしれないし、
会えないとしても後悔しないほどの関わりを持てたのかもしれません。

比喩的なイメージでいうと、
「横を見れば、遠くのほうを歩いている姿が目に入る」
ような感じ。

それは単純に、それぞれの人の道が見えているだけでなく、
山の尾根をお互いに歩いているイメージです。

頑張って歩きにくい山の稜線を歩いているからこそ、
途中に遮るものがないような。

時には雲の中に入って、深い霧で見えなくなることもありますが、
霧が晴れれば
 「あ、あそこにいた。オーイ!」
なんてことができるのでしょう。

お互いが歩いている尾根が、この先、近づいていくのか離れていくのか
先のことは分からないし、先ばかりを見て歩けるほど平らな道ではない。

ただ、「あっちのほうを歩いている人がいる」というそのことが
なにかしらお互いに安心感を与えてくれるようです。


「平坦な道と、イバラの道があったら
 なぜか知らないうちにイバラの道を選んでいる。」

あるときに話したメンバーは、全員そんな思いを抱いていました。

「別に、そんなビリーフがあるわけじゃないのにね」と。

気づくと、険しいほうの道に進んでいる。

ただ、山の稜線を歩いているイメージと結びつけて言えば、
そうやって、お互いが険しい場所を歩いているからこそ
遠く離れた山の尾根を歩いている姿を見つけられるのかもしれません。

特に力を貸すわけでもない。
応援するような声もかけていない。

わざわざ険しい道を歩いている姿が目に入るだけ。

そういう関係にも、信頼というのが生まれるような気がしています。

2012年03月07日

感情移入の対象

僕は「キン肉マン」と「北斗の拳」が好きでした。

どちらもマンガで全巻揃えていました。
何度も読み返したものです。

ただ、その魅力を深く実感していったのは
ある程度、分別のつく年齢になってからかもしれません。

特に、「北斗の拳」は読む年齢によって理解度が違った気がします。


僕が最初、もっとも共感的に感情移入しながら読んでいたのは「トキ」です。

病に冒された天才で、「病気さえなければ…」と言われていた人物。
”暗殺拳”として開発された「北斗神拳」を、人の治療に使っていました。

穏やかで優しく、自分を犠牲にして人を助ける人物像として描かれ、
実際、主人公でもある弟の「ケンシロウ」を”死の灰”から助けるために自分を
犠牲にするシーンも描かれていました。

皆で核シェルターに入ろうとしていたとき、ドアが壊れて内側からは閉まらなくて
トキが外に出てシェルターのドアを閉め、自分は”死の灰”を直撃した…
とか、そんな話だった気がします。

僕は、そういう「自分を犠牲にしてでも他人のために」という『優しさ』のイメージに
共感するところがあったのだと思います。


それから社会に出て、人の心と向き合う仕事をするようになって
自分についても色々と吟味をしていきました。

その結果、主人公「ケンシロウ」の姿にも、感情移入するところが生まれてきました。

誰かを助けるために自分の命を投げ出すトキの優しさとは違い、
ケンシロウは他人の想いを自分の中に悲しみとして背負うことを続けます。
犠牲になるのではなく、自分が生き残り、悲しみとともに生きていく。

自分を助けるために犠牲になったトキの分まで
その想いを背負って生き抜くことを覚悟しているんです。

そういう強さと優しさが対比されるように描かれていた気がします。

大切な人に危機が迫っているとき、
自分を犠牲にして、相手を助ける選択もあれば、
その結末を受け入れ、自分が悲しみを背負って生き抜いていく選択もある、と。

前者は確かに相手を助けることができるかもしれません。

しかし、相手も自分のことを大切に想っているとしたら
相手は「大切な人を失った悲しみ」と、
「自分のために大切な人を犠牲にしてしまったという重荷」を
ずっと背負っていくことになります。

それを相手に負わせるのが、はたして優しさなのか?

場合によっては、相手のためを思えばこそ
自分だけが生き残って悲しみと重荷を背負っていく
というのも優しさの形ではないだろうか?

後者の選択肢には、そういうところがあるように思います。

その意味で、前者のようなトキの姿と、後者のようなケンシロウの姿が
僕の中で強く際立っているんです。

特に、ケンシロウは友を失いながら、その悲しみを1つ1つ胸に刻みつけて
なお、彼らの分まで戦っていく姿勢を示していました。

さらに愛する人も病気で失い、その想いも背負っていく。

悲しみの深さは、大切な人への想いの証として、
奥に秘めた怒りの強さは、戦いながら生き抜いていくエネルギーとして。

…孤独に歩き続ける姿の意味が感じられた気がしたのは、
マンガを処分してから随分経ったころの話です。


そして、つい最近、「北斗の拳」もう一人の重要人物、「ラオウ」に対して
共感できる部分が僕の中に芽生えてきたようです。

ラオウは、力で世紀末の世の中を支配しようとした人。
トキやケンシロウの兄でもあります。

独裁者で、力こそ全て。
そんな悪役的な描かれ方をする一方で、その男らしく真っ直ぐな生き方は、
単なる悪役ではなく主人公のうちの一人として強烈な存在感を放ちました。

力で世の中を支配しようとするラオウは、
トキの自己犠牲的な優しさのスタンスとは対立します。

その命を奪いあう”兄弟ゲンカ”の奥にも、
お互いを思い合いながらも分かりあうことのできない悲しみがありました。

僕は元々、トキに感情移入するタイプでしたから、
その間逆として描かれるラオウは、あまり思い入れの強い人物ではなかったんです。

しかし、希望が絶望に変わる経験を繰り返し、
「それが世の中や仕組みのせいだ」と実感するところが強くなってくると、
「だったら強引にでも、全てを変えてやるしかない」と革命的な発想が生まれてくる
…そういう部分にも共感できるところが、僕の中で大きくなってきたみたいです。

諦め。
悲しみ。
残念さ。
それでも許せない怒りがある。

それは、何を差し置いても譲れない大切なものがあるから。

絶対に諦めてはいけない、絶対に手放してはいけない大事なもの。
それが踏みにじられるぐらいなら、自分が全てを破壊して、一から作り直してやる。

そんな憤りをエネルギーとした力と行動の象徴が、ラオウの中に感じられます。

僕も、そんな感じを味わうようになってきたのでしょう。

ただ残念なのは、「北斗の拳」の中では、ラオウが行動に至るまでの過程が
十分には描かれていなかったところ。

すでに”覇王”としての地位をある程度は確立していて
そこから覇業を遂行していくところしか印象にありません。

どうやって第一歩を踏み出し、どうやって力を拡大していったのか?
そこに至る裏側の想いには何があったのか?

そのあたりを垣間見れたら、今の僕には意味がありそうな気がしています。

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2012年03月05日

観察の内容を言語化してみると

場所は良く行く食事処。

いつものように本を読んでいると、店員が隣のテーブルを動かし始め
10人がけサイズのテーブルの島が出来上がりました。

そこにやってきたのは大学生らしき9人組。
内訳は男性一人、女性9人。

会話の親しみ感、座席を選ぶときの無造作な雰囲気、
全体としての一体感から察するに、すでに十分な顔見知りという感じです。

一際目立つのは、その男子学生一人。
イマドキのオシャレな若者という感じではなく、どちらかといえば
少し内気で自分から積極的に女の子と仲良くなろうとはしなそうなタイプとして
多くの人が第一印象を持つだろうなぁ…と思われました。

実際、男性一人だからといって主役になる感じでもなければ、
特別に隔てられた雰囲気があるわけでもありません。
むしろ、普通に女友達9人として接しているようにさえ見えます。

とはいえ、女性的な側面が仕草に出ていることもないので
おそらく、大学のサークルか何かだろうと想像できました。
圧倒的に女子比率が高いサークル、ということ。

特別な持ち物はありませんでした。
テニスやラクロスなどのスポーツなら道具があるでしょうし、
楽器を持っている様子でもありません。

もっとも、スポーツ系統であれば、全体にもう少し活動的な雰囲気というか、
普段の姿勢や会話中の身振りなどに、筋肉の機敏な収縮があったり、
声が体全体に響くような力強さがあったりしそうです。

目線も、もっと外を強く見つめるような力感が出そうなものですし、
全員がもっと、体に対して意識が向いて、重心が下がった姿勢になりそうなところ。

表面的にも、髪型や服装に違いも出てきそうでした。

一方、実際のそのグループは、全員が割りと大人しそうな印象の服の好みで、
”きらびやか”に見せるアピールは含まれていない感じ。
女性は全員、黒髪で染めている様子は無く、長さに差はあっても
いわゆる”遊びがある”のとは対極で、”スポッと収まりの良い”髪型でした。

一般的には”お嬢様っぽい”印象を持たれると想像できます。

動きのゆっくりしたところ、自分の世界から出ないで会話を続けるあたり
マイペースな人として他人から評価されるでしょう。

同時に、姿勢が良くて、1つ1つの関節の動きに緩みが少ないので
物事を皮肉っぽく捉えたり、会話を笑いにズラそうとする傾向も少なそう。

かといって、声が細くまとまって上方向に発せられていましたし、
目が外を見つめる強さがなくてキョロキョロと視線を動かすこともないところからすると、
「自分がどう見られるか」を意識するための客観的な視点も少ないと思われます。

その意味では、マイペースで真面目で正直。
皮肉っぽく自分を少し蔑むような自己評価の低さもないだろうと考えられる。
自分が「どう思われるか」への不安が小さいのは自己評価の高さでしょうし、
その安心を培っているのは、育ちの良さと関係しているかもしれません。

全員がマイペースで自己主張は強くない。
育ちが良さそうで、客観性も小さい。
運動部のような活発な雰囲気ではないが、
内気で人と関わることに抵抗があるわけでもない。

まぁ、インドア系のサークルだろうと想像するのが自然でしょう。

声が高い位置に細く集まっているところからすると演劇でもないだろうと思いました。
演劇やアート色が高まると、もっと服装に色味が出たり、
個性を髪型や持ち物、服装に反映させようとしだすでしょうし。

可能性として残りそうだったのは、音楽系とマンガ系。

ただ、マンガを好む人たちだとすると、もう少し声の高さと音量が不安定に上下したり
姿勢が悪くなって、”お嬢様っぽさ”が減ってくるだろうと思われます。

そこまで考慮すると、やはり音楽系だろう、と。

たまたま楽器を持っていないだけの管弦楽サークルか、
合唱サークルだろうというのが僕の有力な選択肢でした。

ブラスバンドと呼ばれる吹奏楽サークルになると
男性は特に姿勢に強さが表れるだろうと思われますし、
リズムへの意識の高さから、もっとキビキビした動作が増える気がします。
あの”マイペース”感は、ブラスバンドではなさそうな印象。

合唱サークルといっても、コーラスやゴスペルになると
あの声質にはならないだろうとも思われます。

もっと体で声を響かせる方向に意識が向くでしょうから、
声が集まる位置が低めになって、喉の開きも日常的に大きくなるでしょう。

少人数でお互いの声を聞きながら合わせていく、というスタイルからしても
もう少し客観性の高い目線の配り方や、見られることへの意識も高まるでしょうから
マイペースで、自分の世界から出ない雰囲気にはならないと思います。

なので、大人数で男女のパートに分かれてやる”混声合唱”か、
弦楽器を中心にした”オーケストラ”のサークルじゃないか、と。

その上で、状況から推測して、
サークル終わりで集まっていると考えるのが妥当だとすると
楽器を持っていないのは、”混声合唱”サークルの可能性を高めるところ。

ただ「サークルの仲間と集まった」とか「会場の下見に行ってきた」とかの可能性は
「そこに男性が一人だけいる」という状況から、考えにくいと判断しました。

あとは、管弦楽だと、さらにもう少し”育ちの良さ”の雰囲気が
経済的な側面も含めて前面に出てくるような気もします。
生育環境の面で、ある程度のバラつきがありそうに思えたわけです。
オーケストラのサークルだと、もっと雰囲気が似通ってくるか、と。

それと視覚的に印象に残ったのは、数人がかけていたメガネでしょうか。
アンジェラ・アキみたなセルフレームのメガネが数人。
そこへの僕の意識の”引っかかり”が、オーケストラの可能性を
「無し」と判断させたような気がします。


…という一連の考察が、全部、事後考察なんです。

先に沸いてくるのは、むしろ直観のほう。

心の中で起きる声は
 「ん?変わった集団が入ってきたな。
  男一人に女8人。
  マイペースなインドア集団。
  合唱サークルかな?」
ぐらいなもの。

注目して、少しすると結論らしきものが浮かんできます。

意識的に可能性を削除したのは、
マンガ好きのパターンと、ゴスペル・サークルのパターンぐらいなもの。

あとは自動的に処理が進んで「混声合唱」だろうという結論が出ます。

結果的には、実際、9人の食事が終わった時点で皆が楽譜を取りだし
”アルト”だ”ソプラノ”だと言い始め、
自分のパートを「フンフン〜」と鼻歌にし始めましたから、
「混声合唱サークル」で間違いは無かったと思います。

ただ、上に書いた色々な考察は、「合唱」という言葉が浮かんできてから
それが正しいことを説明するために意識的に考えていった作業であって、
結論は「なんとなく」のレベルで出てしまっていたんです。

まぁ、そのほうが正確なことが多いような気もしますが、
1つ1つ可能性と根拠のポイントを言語化しながら説明できると
「メンタリスト」みたいで楽しいと思うんです。

そのための訓練としては、こうやって言語化する作業を続けるぐらいしか
今のところは思いついていませんが。


意識的に観察と考察をする。
そのうちに直観的に答えが浮かぶようになる。
それを再度、言語化して説明するように努力する。

…この繰り返しが、直観と観察力の精度を上げてくれるんだろうと考えています。

2012年03月03日

心理学とサイエンス

なんとも、ますます心理学が嫌いになっていきます。
「受け入れがたい」なんていう言葉では相応しくない感じです。

不快感をマネジメントしながら心理学を勉強しているんですから
自分は一体、何をしているんだろう?という気もしなくはありません。

まぁ、逆にいえば、
 心理学の中でも嫌いな分野と、そうでない分野があるのが見えてきた
ということかもしれませんが。

やっぱり僕の中にはサイエンスに対する思い入れがあって
数字を使うことでサイエンスっぽさを出している感じが嫌なんだと思います。

もちろん、全てが嫌なわけではなくて、
実験や統計的調査をしているようにしながら
それが成り立っていないものを見るとガッカリするようです。

個人的には、統計的なデータで何かを理解しようとするより
人間の直観のほうが正確なことが沢山あると思っていますし。
特に、人を理解するときには、その傾向が高いと感じます。


特に、僕が”嫌い”なタイプの実験は
「人間とは、こういう性質のものだ」と仮説を立てて
それを実験と称した作業で当てはまる人数を数え、
「ほら、やっぱり!」みたいなことをするヤツです。

例えば、簡単な算数の問題を出して三択で答えを選ばせる。
それで一人だけで問題を解かせると、ほとんどの人が正解するのに、
サクラを大勢用意して、そのうちの8割ぐらいが不正解の答えを選ぶのを見ると
自分の答えを疑って、わざわざ集団と同じ不正解を選んでしまう。

…そういうのを実際に人を集めて、やらせてみて
どれぐらいの割合いの人が「周囲に影響されるか」を調べるようなヤツです。

で、7割ぐらいの人が不正解を選ぶようになったとしたら
「人間は、大多数の人が同じ選択をすると、
 自分の考えよりも、周りに合わせようとする」
みたいな結論を出すわけです。

知ってますよ、そんなの。
ほとんどの人が自分で経験していると思います。

ある人が「人間って、こういう傾向があるんじゃないか?」って思うことは
多くの人が、わざわざ言葉にしていないだけで、経験的には実感していることでしょう。

それを実際に調べて、数を数えて、心理学的データとして発表する。

それが好きな人は、ご自由にやったら良いと思いますが、
僕は好きではないし、意味がある気がしないので、やらないと思います。


そもそも、こういうタイプの調査というのは
何も説明していないんです。

「あるあるネタ」とまで言ったら失礼でしょうけど、
科学的に説明するということは、本来、別のレベルで記述して意味を持つものです。

物理は、運動や力などを数学で記述しています。
化学は、物質の性質や変化を化学式で記述しています。

そして、こうやって別のレベルで記述できるからこそ、
サイエンスの各分野には、お互いに重なり合う部分があって
サイエンス全体として矛盾を含まずに説明ができているわけです。

例えば、化学から原子をさらに細かく見ていくと、そこには量子力学が表れます。
量子力学は素粒子物理とも繋がりますし、何より
数学を使って力を説明している点で物理でもあるんです。
つまり、化学と物理の間は、粒子を細かく見たときに、量子力学で接点を持つんです。

また、細胞の中身を調べていけば、それは分子という化学の用語で記述できます。
分子生物学は、生物と化学の接点になっている、ということです。

金属やプラスチック、セラミックは素材として見れば化学の分野ですが
それを何かの材料として使うことを考えたときには力学で説明することになります。

サイエンスは、この世にある物を、どうやって説明するかの違いであって
1つの体系的な説明の仕方になっているわけです。

だからこそ、違うレベルで「そこにある仕組み」を説明することで
「何が起きているか」を説明したことになるんです。

「ダシの染み込んだ大根の”おでん”は美味しいですね」っていうことも
どうやって説明するかによって、化学にも物理にも生物にもなりえるんです。
それが説明のレベルの違い、ということです。


一方、先ほど例に挙げたような心理学の説明は
記述のレベルが変わっていません。
言い換えただけ。

仕組みに関しては、一切触れていません。
「 How 」が無いんです。

専門的にいうと、「定性的」な説明を、「定量的」な説明に言い換えただけ。

「定性的」というのは、性質を説明しているだけで、量には触れていないこと。
「定量的」というのは、きちんと量を測っていること。

「定性的」な説明を、「定量的」な説明にするというのは、
「ミカンが沢山あります」っていうのを「ミカンが100個あります」
って言い換えたのと大差ないんです。

「一人で考えれば簡単な問題なのに、
 周りの大勢が間違った答えを選ぶのを見ていると
 ほとんどの人は、間違った答えを選ぶようになる」
…ここには数字が無いですから、「定性的」。

これを実際に”実験”をして人数を数えると
「一人で考えれば98%が正解する問題なのに、
 30人の集団の中で、24人のサクラが間違った答えを選ぶのを見ていると
 70%の被験者が、サクラが選んだのと同じ間違った答えを選ぶ」
となります。
これが「定量的」に言ったということ。

経験的に知っていることは「定性的」な知識です。
それを実際に測って、「定量的」にしている作業なんです。

だから、「ミカンが沢山ある」っていうのを、実際に何個あるか数えてみて
「ミカンが100個ある」って言っているのと同じだ、というわけです。

まして、この説明から、さらに一般化して
「だから、人は周囲に影響されやすい」と結論づけるのは
もっと無理があります。

「人は周囲に影響されやすい」は、誰しもが体験的に知っていることですが、
”実験”のケースで調べた内容は、「人は周囲に影響されやすい」の一例に過ぎません。

例外だってあるかもしれないので、その一般化が正しいかどうかについては
全く検証がなされていないとも言えます。


また、定量的に説明すること自体に意味がある場合も、もちろんあります。

例えば、目で見て数えられないようなものは
計測できるように何かしらの装置を使うことになりますから、
そうした計測技術は重要になります。

例えば、最近話題の放射能は、目で見ても分かりませんから
放射線を測定する装置が意味を持つわけです。

もう1つは、定量的に測った結果を、何かに使う場面です。
測った数字そのものが、比較のために使えるから役に立つんです。

放射能を測りました。
何シーベルトです。
…だけでは意味がありません。

危険なレベルの放射線量が数値として分かっているから、
それと比較して「安全かどうか」を判断するのに使えるんです。

ミカンが100個ある、というのも
それが八百屋の在庫なのか、残りの全食料なのかによって意味が違います。

一年間でミカンを100個食べるとしても、
それを地域ごとに比較するとか、時代や年代によって比較するとか、
そういう形で数字そのものを比較材料に使うから、定量化に意味が生まれるわけです。

つまり、数字になるように測るのは、
「その数字の違いに、何かしらの意味を考えるため」
と言えると思います。

ですから、
「8割のサクラが間違った答えを選ぶのを見ると
 70%の被験者が、同じ答えを選んで間違える」
というのも、
5歳児と、20代と、70代とかで比較をしている場合には
その違いを生むものを考えるための”材料”として意味が出てきます。

ここまでくると
「ミカンが100個ありました。次の日には95個になっていました。」
っていう状態です。

この数字の違いを、何かに利用して初めて意味が出てくるんです。

どういう理由で減ったのかを説明しても良いでしょうし、
いつも一日で5個減るのであれば、何個用意する必要があるかを考えても良い。

数値化するのは、あくまで、それを使う目的があるからだと思います。


ただ数字になるように数えただけでは意味がないと僕は思うんです。
少なくとも、サイエンスでは、それはしないと思います。

別のレベルで記述できるようにしていくか、
その数字そのものを実際の場面に応用していくか。
そういう用途が出てくるはずです。

何かを調べるなら、その数字が応用できるだけの意味を持つか、
そこで何が起きているかを別のレベルで説明するか、
どちらかをやるのがサイエンスのスタンスじゃないかと僕は考えます。

「それでも良いんだ、現実に心理学は文系だから」
という見方もあるのかもしれません。

ですが、そこを開き直ってしまったら
いつまでたっても人の心はサイエンスで説明できないままです。

もちろん、人の心は科学で説明していいほど単純じゃないかもしれません。

そういう思いで人の心と向き合っていきたいのなら、
サイエンスのスタンスを捨てるのも1つの選択でしょう。

ただ、そこまで人の心を理解したいのであれば、
心理学を勉強するよりも、沢山の人と真剣に関わったほうが良いと思います。

僕は個人的に、
 人の心がサイエンスで説明できるようになって、
 だからこそ一人ひとりと真剣に向き合いたくなる
…そういう方向に進んで欲しいと願っています。

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 ◆ セミナー情報 

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《コミュニケーション講座》
 〜人を育てる指導力〜

【日時】 
  2019年6月16日(日)
   10:00〜16:30


【場所】 
  北とぴあ 601会議室

   JR王子駅より2分
   南北線王子駅直結

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《瞑想講座》

【日時】 
  2019年6月22日(土)

  午後の部 13:30〜16:30
  夜間の部 18:00〜21:00

【場所】 
  北とぴあ 第2和室

   JR王子駅より2分
   南北線王子駅直結

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《怒りの取り扱いマニュアル》
 〜期待の手放し方と
  ゆるしの技法〜


【日時】 
  2019年7月6日(土)
     7月7日(日)
   10:00〜18:30


【場所】 
  滝野川会館

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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