2012年05月

2012年05月10日

音色の好み

以前住んでいた場所は、目の前に居酒屋があったり、
下にコインランドリーがあったり、
近所を廃品回収業者の車が通ったり…、
かなりの騒音が聞こえていました。

今の住まいは、たまに隣の話し声が聞こえるぐらいで
前よりはずっと静かになった印象があります。

ですが、目の前に小学校があるんです。
校庭側ではないですから、小学生の話し声が聞こえる心配は少ないんですが…。

春になって、ちょっと気になる音が聞こえ出しました。

トランペットです。
多分、トロンボーンとか、ホルンも混ざっているでしょう。
金管楽器の音が聞こえるんです。

吹奏楽部が朝練をしているんでしょうね。
朝7時過ぎから8時半ぐらいまで聞こえます。

寒かった頃は、きっと音楽室の窓を閉め切っていたんでしょう。
廊下の窓も閉まっていたでしょうし。

それが暖かくなってきたから、窓を開けるようになった。
そのせいで、僕の住まいまで音が届くようになったんだと思います。


そんなに大音量ではありませんが、
どうも金管楽器の音色そのものが好みではないんです。

吹奏楽の音が、あまり好きじゃないのかもしれません。

どんなに小さな音量でも、音が拡散することなく
直接、鼓膜にまで圧力がかかってくる感じが嫌なんです。

ちゃんと聞きたいときは良いんです。
音楽として聞こうとするとき、音楽の一部になっているときは
普通に楽しめていると思います。

ですが、小学校の吹奏楽の練習ですから…。

基本的に、あまり上手くないですし、
ただ無作為に、楽器の音を出しているだけの感じで。

音楽ではなくて、金管楽器の音としてだけ聞こえるのが、どうにも苦手です。

いわゆる雑音や騒音は、音量がどんなに大きくなっても
空間全体に音が広がっている感じがあります。
その場合は、大音量でも気にせずにいられるんです。

電車の通る音とか、車が走る音とか、豪雨や風の音のほうが
僕にとっては違和感なく、背景音として無視できます

金管楽器の音色は、単音としてハッキリしていて
空間的に拡散していかずに届いてくるので、
どうしても耳に入って意識に上がってしまうんでしょう。

他の音を大きくかけても、小さな音として混ざっているのが分かってしまう。

どうも、この感じが避けられないので厄介です。

まぁ、朝の一時間だけの話ですけど…。
週5で一時間ずつだと、一年で丸10日分ぐらいですから。


不満の話は置いておいて、音色の部分に注目すると
どうやら僕は、広がりがあって、隙間の多い音色が好きみたいです。

サラサラしていて、細かい粒子がフワッと集まったような音色。
音の粒子自体は不透明でありながら、粒子に隙間があるから
うっすら向こう側が透けて見える感じですね。

逆に、金管楽器は不透明でペタッと薄い面の形に見えます。
少しビロビロと波打ってはいますが、基本的には板状の感じ。
輪郭もハッキリしていて、どこまでも薄まっていかない色と形。

上手い人の金管楽器を近くで聞くと、
その薄い面の細かい波打ち方が、輪郭部分から外側の空気を揺らして
空間に薄い色をつけてくれる感じがあるので、
ちゃんとした演奏を聴くときは嫌いじゃないんです。

ですが、小学生の吹奏楽で、しかも音出しの練習ですから…。
固い歪んだ板がピューッと飛んでくるだけ。

木管楽器でも、リードのあるヤツが、実は結構、苦手なんです。
水分というか、湿度というか、ウェットな感じというか
水面が不規則に波立つような形がどうも好みに合わないみたいです。

特に、輪郭の凹凸と、全体の波立ち方が合っていないと
背中がザワザワする感じさえしてしまいます。

上手い人の演奏だと、全ての凹凸が規則正しく調和している感じで
その場合は聞いていても心地良いことがあります。


自分がワガママな好みを持っているのが自覚できますね。

同じ木管楽器でも、リードのない「笛」のタイプの音色は好きなんです。

フルートやピッコロなど金属で作られた楽器は音の透明感が減ってくるので
できれば竹とか木で作られたタイプが好みです。

音の粒子が細かくて、隙間を開けて集まっている感じ。

さすがに高音部は粒子の密度が高まってきますが、
それでも輪郭から拡散して薄れていく姿に美しさを覚えます。

空間的に広がっていて、粒子が細かくて、隙間から奥行きが見てとれて
サラサラと静かに動きながら、薄まって消えていく。
…そういう音で構成された音楽に、心が清々しくなるのを感じるんです。

なので、フォルクローレとか、アンデスの民族音楽とかが好きです。

駅前で、ペルーからやってきた人たちがコーヒールンバなんかを
演奏していたりすると、しばらく聞いていたい気持ちになります。

名古屋駅前で、そういう人たちの自主製作CDを買ったこともありました。
CDにしてしまうと、空気の振動の広がりが減ってしまって魅力が激減でしたが。


こうして意識してみると、僕の音の好みに表れている
 空間的に広がりがあって、粒子が細かくて、隙間から奥行きが見てとれて
 粒子自体にはツヤとか水分が少ない不透明でサラッとした感じで
 静かで安定した小さな動きが続いていて、徐々に薄まって消えていく
という特徴は、他の状況でも好みに反映されているようです。

味としても、そういうのが好きですから、
あまり脂っこいのとか、単調なのは好みではありません。
寿司でいうと、白身を色々な種類食べたいほうです。

「繊細で奥行きのある味わい」なんて言われると、食べたくなりますし。

特に、後味がサラッと消えていく感じは、僕にとって重要みたいです。

必ずセミナーのときには、味のある飲み物と、ミネラルウォーターと
両方を用意しているのは、その後味のコントロールのためですから。

話をする前には、必ず、サラッと消しておきたいんです。
なので、水で後味を消しておく必要があるんでしょう。

身の回りを見ても、「ツヤ消し」の持ち物が多いことに気づきます。

手触りとしても、サラサラ感が大事だったりします。

「ザラザラ」になると好みの範囲を超えます。

粒子の細かい感じ。
粒子が乾いていて、サラサラと細かく動きそうな感じ。

見た目にも、音にも、手触りにも、味覚にも、おそらく匂いにおいても
その質感を好んでいる気がします。

南国よりも高原が好きですし、
アジアのコントラストが強い感じよりも、
ヨーロッパの淡いグラデーションの感じが好きです。

そこから関連する価値観としては、
 爽やかさ、深み、奥行き、広がり、涼しげ、余韻、ゆとり
とかが思い浮かびます。

実際、僕にとって、多くの状況で関わってくる価値観の要素だと感じます。

僕のことを知る人は、細かいところに注目するところから想像して
「几帳面」だろうと勘違いすることが多いようですが、
こうした要素から判断すれば、
 「キッチリし過ぎていない」
ほうを、むしろ好むことが分かると思います。

細かく繊細に、かつ広い範囲で物事を捉えていきながらも、
輪郭をハッキリさせなかったり、余白を持たせておいたり
動きが取れる余裕を残しておくのが好きなわけです。

「ま、いいんじゃない」ぐらいの”ゆるさ”を入れておきたいのも
僕のセミナーに反映されている要素のような気がします。

譲れないほど大事なところになると、
密度が高まってきて、隙間が減っている感じなのかもしれません。


こういう五感レベルの好みは、様々な特性に使われていますから、
そういう着眼点での観察も、相手の理解する1つのポイントになりそうです。

2012年05月08日

変わった飲み物を試してみました

このブログを書いていて、直接会った方から感想を頂くことが多い話題が、
実は、僕が飲んだり食べたりした新製品についての内容なんです。

「名古屋で、こんな味のお菓子を食べました」とか
「最近、発売された〜味のドリンクが面白かった」とか、
そういう内容でブログを書くと、後からその内容が会話に上がることが多いんです。

まぁ、その理由はあまり考えないようにしていますが、
僕の密かな楽しみの1つでもあるんです。

チョット変わり種で、興味深い新製品を”テイスティング”するのが。

別に、他の類の商品では新製品に飛びつくほうではないんです。
携帯も未だにスマートフォンではありませんし、
パソコンも比較的長く使い続けるほうです。

iPodも、セミナーで使う目的で買ったので、
皆がiPhoneを使っている頃に初めて購入したようなタイミングです。

「新しい」という要素に対して興味が惹かれて、
実際に購入するというアクションに繋がるのは
コンビニで買えるような飲食品ぐらいな気がします。

それもスナック菓子やガム、チョコレートなども滅多に手を出さないですし、
流行りのコンビニスイーツも買わないので、
本当に飲み物ばっかりかもしれません。

その理由を”無意識”のところまで探りに行く意欲も無いので、
お酒好きの人が色々な種類を楽しみたいのと同程度ぐらいの気分でいます。


で、最近、興味を惹かれたのがコレ。

アサヒの缶コーヒー、”ワンダ”のシリーズのようです。
商品名は”ホワイトワンダ”と。

ペットボトルに入っていて、カテゴリーは「清涼飲料水」。
しかし、いわゆる”清涼感”は皆無で、普通にコーヒー飲料の感じです。

多分、「コーヒー」とか「コーヒー飲料」と表記するには
製造工程で「コーヒー豆」から抽出した「コーヒー」そのものを
決まった量以上、製品に入れないといけないんでしょう。

この”ホワイトワンダ”の特徴は、
コーヒーから抽出した「コーヒーエキス」を使っているところ。

つまりコーヒーの成分として、コーヒーの風味や苦みを凝縮したもの。
それを原料に入れているから、コーヒー関係の飲み物ではないことになるんでしょう。

もちろん、乳製品の成分も入っているはずですが、
それもカルピスウォーターのような形で加工したものを使うと
「乳飲料」でもなくなるんじゃないかと想像します。
…詳しくは分かりませんが。

で、特筆すべきポイントは、『色』です。

あきらかに白いんです。
”ホワイトワンダ”ですから当然と言えば、当然なんでしょうけれど。

ですから、パッと見は少しだけ褐色がかった牛乳のような感じです。

ヤクルトみたいな色がついているのではなく、
カルピスのように少し透明感のある白でもありません。

どちらかというと練乳に近い色合いです。
それを若干薄めた感じ。

そんな乳飲料のような見た目でありながら
飲んでみると、その味は「コーヒー」なんです。

と言っても、缶コーヒーほどコーヒーではありません。
だからといってコーヒー牛乳ほどコーヒー感が弱くもない。

飲めばコーヒー飲料だと思うぐらいですが、見た目は白いんです。

そこがビックリのところ。

多分、グラスに入って、朝食のときにトーストと一緒に出てきたら、
知らずに飲んでビックリすると思います。

まぁ、目をつぶって飲めば、ただのコーヒー飲料ですが…。

20年以上前かもしれませんが、一時期、
透明なコーラが売り出されていたことがありました。
あれと近い感じじゃないでしょうか。

そういえば、チョコレート炭酸もありました。
コンビニで売られていたチョコレート炭酸よりは
ずっと本物らしさ(コーヒー感として)があるので、自然だと思います。

なかなか楽しい商品でした。
誰でも、少なくとも、最初の何口かは楽しめるんじゃないかと感じます。

ホワイトワンダ
























ちなみに、最近の僕のお気に入りは、
「ヘルシア・スパークリング」の「ブラッドオレンジ・フレーバー」です。

これはヘルシア特有の苦みと渋みが、上手いこと
ブラッドオレンジの苦みでマスクされていて、
違和感が非常に小さく仕上がっています。

苦みと渋みのタイプが、元々よく似ている味わいの果物を選んで
そのフレーバーで整えたところが秀逸な感じです。

売れ行きが悪いと早く商品棚から消えていってしまうのが
ペットボトル飲料の業界の定めだそうですが、
個人的に存続を願っています。

cozyharada at 23:36|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | NLP

2012年05月06日

言葉のない世界

以前にNHKの番組でも紹介されていましたが
脳科学者、ジル・ボルト・テイラーのプレゼンが興味深いです。

彼女は、脳卒中の影響で脳の左半球の機能に障害が起こります。
このプレゼンは、その障害が進行していく過程を覚えていて
後からその体験がどのようなものであったかを教えてくれる内容となっています。

実際には左側頭葉あたりで、血管が破裂したそうです。

なので、右半身の運動機能がなくなり、言語活動も停止した、と。

「言語活動」と言っていますが、その中心となるのは
認識に使われる記憶そのものとも言えます。

ただ話せなくなるだけではなく、あらゆる意味記憶(概念を把握する記憶)がなくなります。

つまり、何を見ても、ただ光があることしか分からなくなり、まぶしさだけを感じる。
何を聞いても、ただ音があることしかわからなくなり、音の洪水を感じる。
温度も、触覚も、体性感覚も、全ての感覚も、感じていることが分かるだけ。

彼女いわく、「ただエネルギーだけを感じる」体験になったそうです。

頭の中に沸いてくる思考としての言葉もなくなりますから
その意味では内的に静かな状態だったようですが、
代わりに、五感から入ってくる刺激だけを、そのまま感じることになったんだとか。


赤色を見て「赤」だと認識できるのも、「赤」がどのような範囲かを知っているからです。
「形」を認識できるのも、光の濃淡から「輪郭」を認識する基準を作り上げて、
その「輪郭」が生み出す全体像を「形」と捉える仕組みを学習したからです。

そして、色々な「形」に対して、それぞれの意味を結びつけ
”丸”だとか、”四角”だとか、”A”だ”B”だと形の種類を分類しています。

さらに、こうやって形が組み合わさったものは”机”だと、「物」を認識します。
”A”やら”B”やらが合わされば「単語」が認識され、そこから「言語」に発展する。

そうやって、色々な区別の基準が学習によって作られ、
その基準が左側頭葉に意味記憶として保存されているからこそ、
人間は一瞬のうちに、物事を識別できるわけです。

そこに障害が起これば、そうした識別のための基準が働かなくなる。
結果として、「見えているけれど、なんだかよく分からない」
「どこから、どこまでが何なのかの境目すら分からない」といった状態になったんでしょう。

この基準は、視覚や聴覚など、体の外側の情報を識別するためだけのものではありません。
体の内側、体の表面なども感じ分けるために基準が使われます。

ですから、彼女は
「どこから、どこまでが自分なのかの境目も分からない」
ようになったと言います。

感じられるのは、ただ全体にエネルギーが溢れていること。
そして、自分の身体の範囲も分からず、ただエネルギーだけを感じている。
世の中に溢れるエネルギーと一体となったような感じだったようです。

そして、その体験は「桃源郷」のようだった、と。


もちろん、完全に左半球の機能が損失してしまっては
その体験だって覚えていないはずです。

症状の進行状況によって、一時的に機能が停止したり、一時的に戻ったり…
というのを繰り返していたからこそ、その奇跡的な体験を覚えていられたのでしょう。

そうして考えてみると、人間が生まれた瞬間(もっと言えば、生まれる直前)というのは
限りなくその体験に近いんじゃないかと想像できます。

音だけは胎内にいるときから聞いていると言われますから、
音の区別は生まれた瞬間から既にできている可能性はあります。

しかし光は違うでしょう。
急に明るい世界に飛び出してきたのですから、
ただ光のエネルギーだけを視神経で捉えている状態だと考えられます。

皮膚感覚や温度も違うと思います。
自分と同じ程度の体温の羊水の中に浸っているのが”当たり前”だった。
そこが一定ですから、”違い”として識別されるものが無かったはずです。
外に出て初めて、低い温度を知り、空気の流れを知り、体表面を感じるかもしれません。

それでも、その体験が何なのかを識別するための基準が学習されていないので
ただひたすら、色々な刺激を感じているだけの状態じゃないでしょうか。

どこまでが自分なのかも分からない、と。

 安心感や一体感の程度でいえば、お腹の中にいる状態のほうが
 温度の面でも区別できなくなっているので、高いだろうとは思いますが。

このような状態を表現したものは複数あるようですが、
NLPでいえば、それが「コア・ステート」と考えて良いでしょう。

ゆらめいているエネルギーの潮流の中に自分自身が浸りながら、
そのエネルギーを感じつつも、どこまでが自分かという境目が分からないことで
一体感や繋がりも感じられる。

左半球の脳卒中を通じて、そうした特殊な体験を100%感じられたケースのようです。


彼女は、その「桃源郷」のような、左半球が停止した状態(意味記憶がゼロの状態)こそ
人が全て繋がっていて、一体であることを実感できる素晴らしいものだったとして、
我々が現代社会で求めていく方向じゃないかとプレゼンで語っていました。

左半球の言語を中心とした思考の活動の中に、『自我』も存在すると言えます。
ですから、人間が私利私欲で紛争を起こしたりするのも、
こうした一体感そのものの中にいられれば、無くなるんじゃないかという発想のようです。

彼女のプレゼンは実感がこもっていて感動的ですし、
人間を理解する上で重要な情報を語ってくれているとも思います。

しかし、「一体感や繋がりそのもののような方向を求めていけば世界が素晴らしくなる」
という考え方に対しては、僕は個人的に反対です。

なぜなら、彼女自身も症状を体験している場面で語っているように、
脳の左半球が停止した(意味記憶ゼロの)状態では、
この世の中で自分自身を生かしておくことすらできないからです。

彼女が脳卒中から復活できたのは、左半球の機能が戻っている瞬間に
「これはヤバイ!」と”考えて”、色々と”工夫をして”、助けを呼んだからです。

仮に、病気ではなくて、そういう脳の状態になったとしたら、
その人は、その瞬間の体験そのものを「桃源郷」のように素晴らしく感じますし、
食べ物を求めて行動することさえしないで、生命活動を衰えさせると考えられます。

もし最低限の生命活動をしながら、そうした「素晴らしい体験」を続けたら、
その人は社会の中で生きていかないことになります。
山奥で仙人のような生活をするんなら、それでも構わないでしょうが…。

左半球で学習をしていけるから、人は生活をして、体を生かすことができ、
”自分”を意識できるから、”他人”との間で社会生活をすることができるんです。
単なる道端の石コロではなく、社会の一員として機能するわけです。

左半球の活動は、人間らしさにとって物凄く重要なはずだと思います。


じゃあ、両方のバランスが大事なのか?
どちらに偏るのでもなく、両方の真ん中にいるのが良いのか?

僕は、「真ん中」を目指すよりも、両極を両方とも実感できるのが大事な気がします。

「”今ここ”を、あるがままに体験する」一体感だけの状態(左半球ストップ)と
「自他の区別をつけ、時間の流れと社会システムを意識する」状態と、
その両方を2つとも全力で大事にしていく感じ。

50%ずつで真ん中じゃなくて、両方を全力で実感する感じです。

「繋がりや一体感そのもの」という体験の素晴らしさを実感しているからこそ
社会の中で他社と関わりながら生きていこうと思える。

そんなところがあると、日々が良いものに感じられてくるんじゃないでしょうか。

2012年05月04日

利用的アプローチ

催眠療法家、ミルトン・エリクソンの業績は数多く知られていますが、
弟子たちによると、主要な業績として2つの技術があるそうです。

1つは『ちりばめ技法』。
もう1つは『ユーティライゼーション』。

『ユーティライゼーション』とは、”利用”という意味。
相手が出している反応は何でも”利用”しよう、ということだと説明されます。

『ちりばめ技法』のほうは、クライアントから引き出したい状態を
関連するキーワードとして言葉の中に”ちりばめ”ていく方法です。

『ちりばめ技法』は、まぁ、特定の状態を効果的に引き出して、
クライアントの通常の場面や、問題の状況に織り込んでいく意図でしょうから
特に誤解が生まれたりはしにくいところだろうと思います。

一方、『ユーティライゼーション』のほうは、
まず、そもそもエリクソン自身が、この呼び方をしていたかどうかさえ
僕には分かりません。

つまり、1つの可能性として、エリクソンは何かを『利用』しようなんて
考えていたわけではなく、ただクライアントに合わせていただけで、
それを周りから見ていた人たちが「見事に”利用”している」と解釈した…
そういうところもあるかもしれません。

というのは、僕が知っているエリクソンの有名な『ユーティライゼーション』の話は
僕から見ると「ただ、クライアントの色々な側面にペーシングしているだけ」
とも感じられるからです。

また、『ユーティライゼーション』という発想をエリクソン自身が語っていたとしても、
エリクソンが「何のために」それを”利用”していたかは
あまり明言されていないと思うんです。

そのあたりに混同されやすい部分があるんじゃないか、と。


懸念される『ユーティライゼーション』の捉え方は、
 ”自分”の期待する方向へ相手が進んでくれるように
 相手の反応を「利用」して方向づけをする、
というものです。

言い換えるなら、
 相手の進む方向を”自分”がコントロールしようとする前提があって、
 場合によっては相手がそれに”抵抗”を示すので、その”抵抗”の力を「利用」する、
とも説明できます。

つまり、相手の反応の仕方を上手く「利用」してやれば、
自分の期待するほうへ導いていくことができる、コントロールできる、
という発想です。

確かに、エリクソンは相手の反応を利用して
それをエリクソンの期待するほうへ導くための力にしていたと言えます。

ただし、エリクソンとクライアントとの関係性には重要な前提があります。
クライアントは、「良くなる」ためにエリクソンのところに来ているんです。
エリクソンもクライアントを「良くする」ことを期待してセラピーをする。

両者の最終的なゴールは一致しているんです。
最終的に向かっていく方向性は同じなんです。

しかしながら、セラピーの場面では、クライアントがそのままストレートに
良くなっていく方向に進んでいくということは少ないものです。
だから問題を抱えているとも言えます。

クライアントの気持ちの中には、良くなりたい部分もあるし、
同時に、今までの現状に留まっていた部分もある。
大雑把には、「進みたい」側と、「進みたくない」側があるわけです。

催眠療法を受けに来ているのですから、
「トランスに入ることを受け入れている」部分もある。
同時に、今までの症状の状態を続けて、「トランスに入ろうとしない」部分もある。

例えば、強迫的な発想があって、一般的な催眠誘導のプロセスを
受けいれたがらないクライアントの話が出てきます。

そこで、「催眠とは、こうやってやるものだ」という発想のもと、
セラピスト側の都合で、決まったやり方を強制しようとすれば、
クライアントは当然、それに従わないことになります。

自分のコダワリのやり方を続けたい側の気持ちが強いからです。

で、これを分析する立場から見れば、「クライアントが”抵抗”している」と捉えられる、と。

それに対してエリクソンは、相手の強迫的な発想を”利用”します。
相手のやりたいことを続けさせるように指示をしながら、
それを続けていると徐々にトランスに入っていくように働きかけるわけです。

このプロセスが、「クライアントの”抵抗”を”利用”してトランスに入れた」と解釈されます。

ですが、本質的には、クライアントの中に
エリクソンのセッションを受けたい側の気持ちもあるはずです。

ただ、その気持ちが前面に表れて、その方向に安心して進めるようになるまでに、
まず先に「自分のコダワリを続けたい」側の気持ちが優先していた。

だから、そっちの気持ちにペースを合わせてやって、
それから「トランスに入って、良くなっていきたい」側に導いていった。

そういう風にも説明できると思うんです。

つまり、『ユーティライゼーション』がどうとかではなくて、
クライアントの中にある色々な気持ちに全てペーシングしていただけ、
という理解の仕方です。


もしかすると「結果的に同じになるなら、どういう説明でも構わない」
という考え方もあるかもしれません。

ですが、解釈が変わると、それを使おうとする人の行動には
違った結果が生まれることになります。

”結果的に同じ”じゃないんです。

そのポイントが、
 エリクソンは、クライアントの望む方向に導いていた
というところです。

エリクソンが”自分”で期待している方向と、
クライアントの気持ちの一部が期待している方向が
一致しているんです。

その方向に進みたがらないように見える部分があったとしても、
セラピーの文脈では、最終的に期待される方向は一致しているわけです。

クライアントは良くなりたいし、エリクソンも良くなるほうに導きたい、と。

特に、エリクソンの人間観には、「人として生きるなら、これが望ましい」といった
一般論としての望ましい方向もあったようですから、
明らかにクライアントに対して介入的に導くこともあったはずです。

それでも、人間として(生物として)の本能的な欲求のレベルでは
クライアントの一部が望んでいる方向だとは言えるでしょう。

ですから、エリクソンはクライアントの望む方向に導いていたと考えられるわけです。

言い換えるなら、エリクソンは何も自分の好き勝手に
クライアントをコントロールしていたのではない、ということです。


一方、そうしたエリクソンの対応を『ユーティライゼーション』という言葉で理解すると、
その言葉尻のイメージや、事例の解釈の仕方によっては、
「エリクソンがクライアントを見事に導いていた」という部分に光が当たってしまいます。

結果として、
 相手の反応を”利用”すれば、相手を導くことができる
という考え方だけが採用されることになりかねません。

そこには、「どの方向へ」導くか、という重要な要素が抜け落ちてしまっているわけです。

すると、相手をコントロールしようとする人にも
『ユーティライゼーション』の考え方は、格好の材料になるでしょう。

「クライアントの”抵抗”」という発想の裏にも、
相手を変えようとする『コントロール』の欲求が覗えます。

変えようとする。コントロールしようとする。
でも相手が、それに従わない。
「これは”抵抗”だ。相手が”抵抗”しているんだ。」と考える。
…そんな流れです。

そして、そこに『ユーティライゼーション』が繋がりかねないんです。

変えようとする。
相手が従わない。
「これは”抵抗”だ!」
「そうだ、これを”ユーティライゼーション”しよう」
 (そうすれば、こちらの望む方向にコントロールできる)
…という具合に。

クライアントが望んでいない変化を、セラピスト側の判断基準で強制する。
その傾向とも『ユーティライゼーション』の考え方そのものは
共存できてしまうかもしれません。

そこには危ないところが多々ある気がします。


まぁ、そうは言っても、セラピーをしようという人は
ベースとして「良かれと思って」やっているところがあるはずです。
結果的にクライアントを苦しめることになったとしても。

僕は、セラピストの思慮不足でクライアントが必要以上に苦しむのは大嫌いですから、
今もこうやって『ユーティライゼーション』という偉大な手法に対してさえ
用心深く理解しておこうとしています。

それでも、回り道をして余計な苦しみを負わせた場合にも
「良かれと思って」のところがあるのは見ているつもりです。

ところが、です。

『ユーティライゼーション』の発想自体は、セラピーの文脈から離れて
あらゆる状況で使える技術のように一人歩きしかねないんです。

例えば、セールスマンが自分の商品を買ってもらおうというときとか、
部下を思い通りに動かそうというときとか、
気になるあの人の気を引こうというときとか。

相手の期待している方向とは無関係に、
”自分”の期待している方向に相手を導くために
『ユーティライゼーション』を使おうとするケースもあり得るわけです。

相手が望んでいない方向に、自分の都合でコントロールして進めようとする。
当然、相手は進みたくないですから”抵抗”します。
そこで、その”抵抗”を『ユーティライゼーション』する、と。

「相手の反応を”利用して”、期待する方向へ進める」だけの理解だと、
このように相手を操作するような『ユーティライゼーション』も生まれてしまうでしょう。

これはエリクソンのやっていたことと違います。

エリクソンは、”自分も、相手も”期待している、同じ方向に進めていた。
『ユーティライゼーション』という言葉から理解されるものには、
この部分が抜け落ちてしまうリスクがあると思うんです。

『ユーティライゼーション』という理解の仕方で眺めている人たちの中には、
”抵抗”や”操作”、”コントロール”、”〜させる(使役動詞)”…などの発想を
『ユーティライゼーション』の周りに関連づける場合があるような気がします。

”利用”と言っても、”ユーティライゼーション”と言っても、
どこか「自分目線」の印象が含まれるように感じられます。

自分が主体で、相手の反応を見て、それを扱っていく。
中心には自分がいる感じがします。

それに対して、「ペーシング」と言った場合には、
相手が何を体験しているか、相手が何を感じているかが主体になる。

その辺りにも違いがあると思います。

その意味では、
『相手の全ての気持ちにペーシングする』
と呼んだほうが、安全なんじゃないでしょうか。

クライアントの気持ちの色々な部分に合わせていって、
最終的には、クライアントの本質的な動機、つまり「良くなりたい」という気持ちに
ペースを合わせながら進めていく。
…それが「クライアントの反応を”利用”している」ように見えたんじゃないかと思うんです。

2012年05月02日

擦り合わせる動き

個人的に、あまりドラマを見ないんですが
少し前に「鍵のかかった部屋」というのを見てみました。

…テレビをつけたら偶然やっていて、そのまま見ることにした
 という感じなんですが。

謎解きモノは、僕にとってドラマの中でも楽しんで見られる分野です。

どうやら、ストーリーとしては密室に関係した事件の類を扱うようで
主人公が密室トリックを解き明かしていく形みたいです。


で、その主人公が密室の謎を解き明かすのに長けている、という設定。

僕にとって興味深かったのは、その謎解きの展開だとか
密室トリックの巧妙さとかではありません。

主人公の癖です。

主人公がトリックを解明するために考え事をするときに、
特徴的な仕草をするんです。

その仕草が明らかにクローズアップされますから
番組としても意図的な演出なんでしょう。

それは、
「右手の親指と人差し指を擦り合わせる」
動きです。

右手を開いた状態から、親指と人差し指で輪を作るように近づけ、
そこで触れ合った親指と人差し指をスリスリ…と擦る。

その動作を、まぁ普通に素早くやろうと思ったぐらいのスピードで、
考え事をしている間中、ずっと続けるんです。

これが主人公の癖。

どこから来た演出なのか知りませんが、
知的な雰囲気とか、天才っぽさとかを表現しようとしているんでしょうか。

シャーロック・ホームズにも特有の癖がある設定でしたし、
アニメの『一休さん』も”とんち”を考えるときに独特のルーチンがありました。

多分、何かしらの雰囲気を醸し出そうということだろうと想像できます。


ところが、僕には、この動作が共感できません。

もし、実在の人物としてモデルになった人がいて、
その”密室トリック解明の達人”が本当に、この仕草をしていた…
というのであれば、それは申し訳ない限りですが。

なぜかというと、僕にも似たような仕草をするときがあって、
その動作は、僕の感覚的には、『親指と人差し指』ではイヤだからです。

僕は、何かを思い出そうとするときや、
色々な可能性の中から最適な1つを選びだそうとするときに、
『親指と”中指”を擦り合わせる』動きをする場合があります。

これを『親指と人差し指』でやっても、僕の思考のプロセスは促進されません。
むしろ、考えが限定されて、アイデアが出にくくなる感じがあります。

身体感覚的に表現すると、
『親指と”中指”』でスリスリ…と擦り合わせた場合には、自然と
腕の内側(肘の体幹に近い側寄り)に筋肉の動きが生まれて
前腕が外旋(親指を体幹から離すようにねじる動き)しやすくなるんです。

そうすると、胸が開くような感覚が生まれて
体の前面の空間が広く意識できるような感じになります。

一方、ドラマの主人公と同じように『親指と人差し指』でスリスリ…と擦り合わせると
腕の外側(肘の体幹から遠い側/親指側)の筋肉に緊張感が生まれて
前腕が内旋(親指を体幹に向けるようにねじる動き)しやすくなります。

とはいえ、”何かを思いつく”という感覚は、多くの場合、
下から上がってくるようなイメージがあるものですから
(英語でも”思いつく”ことを「 come up with 〜」と言います)、
手の平は少しぐらい空を向く形になるでしょう。

しかしながら、その角度は少し垂直寄りに近くなるはずです。
「前へならえ」をしたときのように手の平が横を向いた形に近く、
あまり手の平が空を向くようにはならないのが自然な気がします。

『親指と”中指”』で擦り合わせた場合のほうが
手の平が上を向く度合いが大きくなるでしょう。


全体の形としては、手をダラーンと下げて指をスリスリやるのではなく、
前腕が地面と水平になるように腕を前に出した状態。

適当に腕を前に上げて、胸の前ぐらいの高さに自然と持っていった後で
・親指と”人差し指”でスリスリと擦り合わせる
・親指と”中指”でスリスリと擦り合わせる
の二種類をやり比べてみると、感覚的な違いがあると思います。

この動作を考え事をしながらやるわけです。

すると、ドラマと同じ『親指と人差し指』のほうが
胸の前の空間が狭くなって、体の幅で真っ直ぐになった感覚が生まれやすい。

視野も狭めになって、ストレートに奥行きを見ているような感じ。

『親指と”中指”』だと、もっと広がってオープンな感じがしますが、
『親指と人差し指』だと、シャープでストレートで奥行きがある感じになる。

僕が『親指と”中指”』でスリスリやっているのは、
そのように空間をオープンに感じる身体感覚を作り上げることで
思考空間としての作業場も広げて、
同時並行的に沢山のことを眺めることをしたいからだと思います。

一方、それをドラマと同じように『親指と人差し指』で擦り合わせた場合、
思考空間が狭まって、直線的な発想が生まれやすくなる。
反面、クリアな発想と奥行きが生まれるメリットはある感じはしますが。


あくまで感覚的な使い分けとして、思考パターンの有利不利があるという話ですから
どちらが優れているとかではありません。

人差し指のほうがシリアル処理で、先の展開を遠くまで見通せる代わりに、
複数の可能性を同時並行で比べたり
一見すると無関係なもの同士を関連付けてヒラメキを得たり
…という作業には不向きな印象があります。

逆に”中指”で擦り合わせると、パラレルな処理が可能になって
同時並行な作業や、関連付けはしやすくなる代わりに、
先の展開を遠くまで正確に、順を追うように見通していくのは不向きになるでしょう。

そういう感覚的な違いが生まれやすいと感じられます。

僕自身は、常日頃からパラレルに物事を整理するのが好みですし、
手広く色々な物をやっていく傾向が強いので、
『親指と”中指”』でスリスリ…やったほうが心地良いんだと思います。

そして、いわゆる探偵や刑事のような『推理』の作業は
複数の要因を様々な角度から関連付けていきますから、
パラレルな処理のほうが求められる可能性があります。

その意味では、『親指と”中指”』のほうが自然だと思うんです。

ただ、このドラマの主人公は密室トリック解明の達人であって
防犯オタクというか鍵マニアというか、
そういう興味の対象の偏りを持つ人物として描かれています。

ですからその意味では、視野を狭くしていたとしてもマッチするかもしれません。

シリアルに1つ1つの可能性を先まで予測していくスタイル。
1つの可能性で先の展開を見通して、それが正しいかどうかを検証する。
そしてダメなら次のパターンを考えて、最後まで検証する。

鍵の専門家として知識が豊富であれば、過去のパターンを参考にしながら
1つ1つ可能性を潰していくスタイルも可能な気もします。

そう考えると、中指ではなく人差し指を使って
スリスリスリスリ…っていうのが妥当とも言えそうです。

ですが、僕の発想の好みには全く合わない仕草です。

よほど1つの可能性の先を見通す必要がある場合には
やってみても良いのかもしれませんが。

僕は『親指と”中指”』でスリスリ…派です。

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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