2012年06月

2012年06月07日

味覚の話

味覚が、遺伝子によって強く影響を受けているという説があります。

化学物質と味蕾にあるレセプターとの結合が検出され
神経を通じて伝わっていくわけですから、
そのレセプター分子の遺伝子の差が結合の仕方に影響しても自然です。

実際、匂いのレセプター分子でも、遺伝暗号の一文字の違いが
「甘い匂い」、「無臭」、「臭い」を分けるという報告があります。

同様に、味覚でもフェニルチオカルバミドに対する味の評価に個人差がある
ということで、遺伝的な違いがあるのではないかと推測されているようです。


で、そこから発展して、遺伝的に
・味覚が鋭い
・普通
・鈍い
のグループに分かれる、
という説があります。

鋭い人たちが「 supertaster (スーパーテイスター)」で
鈍い人たちが「 nontaster (ノンテイスター)」と。

まぁ、「スーパーテイスター」と呼ぶのは許容範囲として
「ノンテイスター」っていうのはスゴイ気がします。
「味がしない」ような印象を受けますから。

研究によると、スーパーテイスターはノンテイスターの4倍ぐらい味に敏感で
特に、糖分の甘みや脂肪分の甘みに敏感なため、
あまり甘すぎるものを好まない傾向がある、というんです。

またスーパーテイスターはタバコやアルコールの味を嫌がる傾向があって
健康面でも有利に働いているなどと言われています。

まぁ、アメリカの研究の話ですから、あの強烈に甘いお菓子類を想像すると
言いたいことは分からなくもありません。


しかし、味覚のレセプター分子が遺伝子に直接影響を受けて
感じ方に差が生まれるのは妥当な発想だとしても、
完全に3つのグループに分かれるかというと微妙な気がします。

むしろ、味覚の繊細さには「食べ方」のストラテジーも大きく関与しているはずですから。

例えば、中国人は一般的に、口の奥側を閉じて、鼻に空気が抜けにくい状態を作って
口の前のほうで食べ物を噛む傾向が見受けられます。

おそらく文化的に習得されたものでしょうが、僕の推測では、
中国の水が、黄河を中心として泥臭いからじゃないかと思います。

だから泥臭さを鼻に抜かないようにして食べる。
味付けも臭みを消すものや、濃いめの味付けが好まれるようですし。
干物の多さからしても、直接的に味覚を刺激する方向が多用される印象を受けます。

一方、日本人は白身魚の刺身を食べたりするわけで、
香り成分と一緒に味覚でも味わう傾向が強いでしょう。

もちろん、その中でも食べ方には個人差があります。

常に空気が口の奥から鼻に抜けるような話し方をしている人は
食べ物の匂いにも敏感な傾向があるようですから、
その人たちは「生臭さ」を嫌うように思えます。(僕の見た限りですが)

ウニとか貝類を噛んだ瞬間に広がる磯臭さが嫌い、
なんていう人は、口の奥を広げて食べている傾向があると推測されます。

また、僕の知り合いには食べるときに胃の暖かさに注意を向けて
味覚に意識を持っていかない人もいました。
味には無頓着だそうです。


ですから、味に関しては「遺伝子レベルの影響」と、
食べ方のストラテジーとして、「口の動かし方」と「注意の向け方」、
そういったことが複合的に関与していると思います。

1つの違いが及ぼせる影響の範囲を
明確に意識しながら理解していくのも重要じゃないでしょうか。


ちなみに僕はVAKでいうと、味覚タイプです。

cozyharada at 23:50|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 心理学

2012年06月05日

観察力を強化したい

最近、自分の観察の仕方の中で、ペーシングの度合いが高まっている気がします。

見ているのか、感じているのかの差が微妙なところがあって
どこを見ているのか言語化できないことがあるんです。


最近も食事をしているときに、聴覚障害の方々が店に入ってきました。

正確には、それが判明するのは少し後です。
店に入ってきた段階では、4人組みが入ってきたようにしか見えなかったですから。

それで4人が席について、メニューを見始めた瞬間に
「おや?」という感じがしました。

なんだか静かだ、と。

それは会話があるかどうかとは関係ありません。
メニューを見るときに会話をしない方々はザラにいます。

そのときに気づいたのは、内部対話が起きていない感じ。
ボーっと意識が広がって声がないのとは違います。
もっと集中していながら、声にはなっていない雰囲気。

無理やり文字に起こすと
「ーーーーッ…」
というイメージです。

それで「もしかしたら聴覚に障害があるのかな?」という推測が浮かびます。

で、しばらく見ていたら、数分後に手話での会話が始まりました。

独特の空気感があると言えば、そうなんですが
それを何で見ているのかが自覚できません。


おそらくペーシングの結果として感じ取られるものがあるんですが、
それに片寄り過ぎると、『観察』の要素が減ってしまう気がしているんです。

もっと客観的に、外部情報を判断材料にして判断ができれば
根拠を伴って解説ができるようになると思うんです。

1つの方法は、その場を空間的に共有していない相手を
観察するようにトレーニングしていくということでしょう。

ビデオやテレビの画面を通して見てみる、と。

ただ、それでも最近は、感覚が混ざっている印象がありまして…。
五感のオーバーラップ部分が増えてしまっているのかもしれません。

理想は意識的に区別できることだと思っているので
細分化できるように注意を向けていくことになるんでしょうか。

単純にサブモダリティを分割して細分化するだけだと
全部の感度が上がってしまうようで、求めているものとは違うようです。

全部を細かく見ると、世界が物凄く立体的に見えてきます。
三次元空間の意味を今まで誤解していたぐらいの気分になります。

でも、そういう全体感を見たいわけではないので。
むしろ逆に絞る感じかもしれません。

今、書いていたら、ズームインして断片化するイメージのような気がしてきました。

確かにそうすると、内部対話が起きていないときには
口の中から鼻にかけての緊張感が高く、ノドの声帯付近が閉まっている感じがします。
発声するときのノドの弾力感や、緩みと振動のメリハリが無い感じ。

そんな印象があります。


そうはいっても、これも後づけで感覚を探っての話ですから、
直接的には見ていないように思えてきました。

やっぱりトレーニング方法を考える必要がありそうです。

2012年06月03日

「知覚は投影」の話

NLPの本を読んでいて
 「 Perception is projection. 」
という文章を見つけました。

これを日本語訳したのが、NLPの説明の中で使われる
 『知覚は投影だ』
というものなんでしょう。

Perception is projection. …これ、
英語の時点でも、かなり曖昧な表現です。

まず、「投影」にあたる「 projection 」が、ややこしい。

日本語でも「投影」というと、映像を映し出すような意味でも使われます。
「プロジェクター」の”プロジェクション”ですね。

ですから、人間関係一般では「自分の中にある何かを外に写し出すこと」
といった意味合いが「投影」になります。
こちらが広い意味。

一方、精神分析で「投影( projection )」というと、
防衛機制( difence mechanism )の1つになります。

この場合は、定義がもっと限定されます。

「自分の内側に認めたくない部分があると、
 その部分を他人の中に見つけるようになる」
という説明になります。

”無意識”の働きとして、自分を守るために「投影」する、と。
見たくないものを外に見る、という話。

ですから、「知覚は投影( Perception is projection. )」のときの「投影」が
広い意味での投影なのか、防衛機制としての投影なのかが不明瞭なんです。

つまり、広い意味で解釈すれば
「”知覚”というプロセスは、自分の内側にあるものに照らし合わせて
 外側の世界にあるものを判断することです」
といった感じですし、
防衛機制として解釈すれば
「”知覚”というプロセスは、自分の内側にある見たくないものを
 他人の中に見出そうとすることです」
といった意味になります。

かなり違う印象を受けます。


また、「知覚」という日本語訳が厄介です。

心理学や認知科学で使われる「 Sensation 」も「知覚」と訳されるからです。

「 Sensation 」は、五感レベルで情報をインプットするプロセスです。
何の解釈も無く、ただ感覚器官が感じ取る。

光が入ってきた、空気の振動を感じた、…そういうのを
意味づけとして解釈する前の段階が「 Sensation 」です。

で、これが日本語で「知覚」と訳されています。

この場合の「知覚」には、「投影」が入り込む余地は全くありません。
視覚であっても、「明るい」とか「赤い」とかさえ判断のない状態ですから。

その上に、「認知」とか「認識」とか、色々な言葉が近い話題で登場します。
この辺も実に曖昧です。

実際、法律的に使われる「認知」と、心理学の「認知」では意味が違いますし。

心理学の「認知」は、非常に幅の広い言葉です。
脳を使うプロセス全般が「認知」ぐらいでも良いかもしれません。
思考、記憶、イメージ、学習…、そういうのを全部まとめて「認知」のプロセス、と。

ところが、「認知療法」というときの「認知」は、「物の捉え方」の意味です。
考え方を変えて、問題で必要以上に苦しまないようにしようというわけですから。

「認知療法」の「認知」の場合は「 perception 」の「知覚」に近い気がします。

また、「認識」となると、
 何かの情報を意識に上げて、意味づけをして捉える
ぐらいのニュアンスでしょうか。

そう考えると、「認識」は「認知」に含まれてしまいそうな感じもします。

「 perception 」の「知覚」は、「○○さんを、どう捉えるか」とかにも使われるようですので
かなり主観的で、すでに頭の中にイメージとして出来上がっているものを指す感じ。

一方、「認識」は、その瞬間に進行中のプロセスの一部でしょう。
「 sensation 」の「知覚」で入ってきた情報を意味づけして、意識に上げて「認識」する、と。

それに対して、「認知」は、もっと幅広く、脳が行う作業全般。


そうなると
「 Perception is projection. 」とは、
「知覚は投影」とは
一体どういう意味なんでしょうか?

僕が読んでいる印象で文脈から推測されるのは、
「 perception 」が使われるときには
「受け取り方」ぐらいの訳が日本語に近いんじゃないか、ということ。

ですから、「知覚( sensation )」という「認知」のプロセスの一部ではなくて、
物事をどう捉えるか、物事をどう解釈するかという感じが
「 perception 」の「知覚」なんじゃないか、と。

ズバリ言ってしまえば、「知覚」と言わないほうが良いぐらいだと思います。

「物の捉え方」とか「受け取り方」とかが丁度いい印象を受けます。

「投影」も紛らわしいですから、僕の推測では
 「物事の受け取り方は、人それぞれの内側にあるものを反映しています」
といった訳がニュアンスとして近いんじゃないか、と。

ただ、それではカッコ悪い。

「知覚は投影」
こういう風に、言葉少なく言ったほうがカッコイイんです。


しかしながら、
”物事の受け取り方は、人それぞれの内側にあるものを反映しています”から
「知覚は投影」という言葉を聞いたときにも、その人が解釈する言葉の意味は
人それぞれ違っているわけです。

特に、言葉数を少なくして、含みのある言い方にするほど
解釈のされ方は広がってしまいます。

名言が名言として残っていくのは、聞いた人が自分の人生に照らし合わせて
勝手に解釈を加えて、自分に合った意味に翻訳して感動してくれるからでしょう。

名言を残した本人が、自分の人生で感じたことを
体験談を交えて長々と語ってしまったら、それは名言にはならないはずです。
聞いた人は、「ああ、そうだったんだ」と他人の話として聞きやすくなりますから。

あえて言葉数を少なくして、聞き手が自分の人生を”投影”させるからこそ
「ああ、良いこと言うなぁ。そうだよなぁ。」って思うんじゃないでしょうか。


ですから。
「 Perception is projection. 」と、誰が最初に言ったか知りませんが、
その意味は、皮肉なことに、本人の意図した通りには絶対に伝わらないわけです。

なぜなら、「知覚は投影」なのですから。

cozyharada at 23:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 心理学

2012年06月01日

ゼミ形式の勉強会

ゼミ形式の『研究会』について、ご回答くださいました皆さま
ありがとうございました。

非常に参考になるご意見も頂きまして、勉強になりました。
集まりやすさを考えるというのは難しいものですね。

クリアな音源を確保するのは難しいと思いますが、
できるだけ学びにアクセスしやすいようにしたいと考えています。


開催日程に関しましては、
なかなか全員のご要望に沿うことはできませんが
 ・単発で土曜日/日曜日の夜
 ・通常の勉強会とセットのときは、午前中
という形を並行していきたいと考えています。

まず一回目は、6月30日の勉強会とセット。

つまり
 ・午前中に「ゼミ形式」
 ・午後は、テーマを設定して体験的に学習する「勉強会」
 ・夜間は、自由に練習を重ねる「実践トレーニング」
という形です。

どれか単独でもお越し頂けるようにする予定です。

この順番に並んでいるのは、集中力の持続度を考慮してのこと。
終日ご参加される方もいると想像していますので。

普段使わない意識を活性化してトレーニングを行うと
気を抜いた瞬間に、頭がボーっとし始めることがあるようです。

ですから、日常的な頭の使い方に近い、知的作業を早い段階で、
後半は、とにかく数稽古にシフトしていく、という流れが良いだろう、と。


一日単位のワークショップを重ねていくと、
講師側の都合でカリキュラムを設定する以上に
受講者側の状態に適した内容を合わせていくほうが
重要になるケースが多かったように感じています。

「まず、これを基本としてやって、次にそれを活かしたこれをやって…」
という風に、学校の授業カリキュラムのような順序が
必ずしも染み込んでいくわけではないみたいです。

かといって、セミナー全体としての満足度だけを考えて、
分かりやすくて充実感が大きいかどうかを基準に
盛り上がってもらう順序を作るのも、個人的には物足りなくて。

ですから、できる限り、持ち帰ってもらえるものが増えるように
工夫したいと思っています。


少なくとも、普段あまり意識していないことを
集中的に意識しながら取り組んでみるだけでも柔軟性が上がります。
無自覚にワンパターンで対応する癖から出られるからです。

それによって日常の様々な場面に役立つことは多いと思います。

フランスの教育者、カレブ・ガテニョは
「学習とは気づきを教育することだ」
といった言葉を残しています。

何かを習得するには、気づきながら・自覚しながら扱えることが不可欠だ、
というわけです。

その意味でも、気づきの幅を広げていく作業そのものは
人生を豊かに体験できるようにする方法の1つかもしれません。

例えば、僕が会社員だった頃、共同研究先のアメリカ人が
山口県の研究所にプレゼンをしにきたことがありました。
当然、接待があります。

山口県だと日常的にフグを食べていると誤解されますが
実際は接待の時ぐらい。

それで近くのフグ料理屋に行きました。

刺身があって、フグちりがあって、唐揚げがあって、味噌汁までフグの出汁でした。

ですが、お客様であるアメリカ人たちは、「ヅケ」にすんじゃないかというぐらい
刺身に醤油をドップリつけた食べます。
生魚の味を意識に上げないんでしょう。

当然、ダシの文化もないですから、フグ雑炊の味も
味噌汁にフグの贅沢なダシが出ていることも、
あまり実感していなかったと思います。

そこに関して言えば、その味覚を詳細に区別できるほど
フグの体験を豊かに味わえていることになりそうです。

また職業的に、僕は科学的に物事を考えるトレーニングを積んでいましたから
「何が相関で、何が因果なのか」という違いに敏感です。

「因果が短絡的になっているかどうか」にも意識が向きます。
同じ推測でも、「一面的な思い込みか、十分に吟味された考察か」
を読みとろうとします。

テレビ番組や新聞だったら見逃しがちなところに
注意を向けて区別する癖がついているんです。

ですから、「同じ」という発想が少ないと思います。
「違い」に目が行きやすいのかもしれません。

そして「違い」に気づき、区別できるようになるからこそ
認識できるものが増えるわけです。

僕は犬が好きですから、犬の違いには敏感です。
でも猫に対しては、随分と大雑把です。
「ああ、猫だ」ぐらい。

せいぜい、首輪をしているかどうか、
毛が長いか、毛が短いかぐらいなものになってしまいます。

僕は犬の体験は豊かに味わっていますが、
猫の体験は雑なんです。

多分、僕は猫の魅力が分かっていません。
猫好きの人が意識できる部分が、僕には意識できていないからでしょう。


そう考えると、普段あまり意識したことのなかったものを
意識するようなトレーニングを重ねていくことは、
それだけで色々な魅力に気づけるようになるプロセスでもありますし、
他人に共感しやすくなる学習でもあるわけです。

僕は、そっちのスタンスを大事にすることにしているので
勉強会でも、意識の幅を広げる方向を重視しています。

ですが。
それにはリスクもあります。

知ってしまったら、元には戻れません。

例えば、僕は、蕎麦が好きですが、
蕎麦が好きで、色々と美味しい蕎麦を求めていたからこそ、
滅多なことでは蕎麦を食べなくなりました。

仕事の昼休みに皆で蕎麦屋に行く、なんていうのは好きじゃないんです。

皆が行くなら、協調性として行きますけど、
蕎麦は頼みません。

好きだから、違いを気にし過ぎてしまうから、
「こんなのは蕎麦じゃない!!」という気持ちを抑えられないんです。
沸いてきてしまうんです。

店に入って、匂いだとか、他の人が食べているのを見るとかで
実際に食べるまでもなく判断を下されてしまいます。

なので、蕎麦屋に行っても、うどんを頼んだり、ご飯ものを頼んだりします。

そうなると、はたして僕は、十分に蕎麦を楽しめているんだろうか?と。

ここまで蕎麦の味を気にしていなかったら、
色々な店で昼ごはんに、蕎麦を美味しく食べられていたかもしれません。

そういう意味で、気づきの幅を広げたり、
色々なことに自覚できるようにしていくトレーニングには
避けて通れないリスクがあるわけです。


僕は個人的に、それでも区別できるものを増やして
情報を豊かにしていくほうを優先しています。

喜びも苦しみも、どちらも大きくなるのかもしれません。

しかし、それを感じられるのも生きているうちだけでしょうから。

苦しみや辛さも含めて、人生の味わいを豊かにする。
それには、意識の幅を広げる体験が欠かせないと思います。

ですから、深みのある味わいをお好みの方は
是非、勉強会や研究会、実践トレーニングに足を運んでみて下さい。


6月30日の詳細な情報は、近日中にご案内します。

おしらせ
 ◆ セミナー情報 

New!

《コミュニケーション講座》
 〜人を育てる指導力〜

【日時】 
  2019年6月16日(日)
   10:00〜16:30


【場所】 
  北とぴあ 601会議室

   JR王子駅より2分
   南北線王子駅直結

詳細はこちら>>


《瞑想講座》

【日時】 
  2019年6月22日(土)

  午後の部 13:30〜16:30
  夜間の部 18:00〜21:00

【場所】 
  北とぴあ 第2和室

   JR王子駅より2分
   南北線王子駅直結

詳細はこちら>>


《怒りの取り扱いマニュアル》
 〜期待の手放し方と
  ゆるしの技法〜


【日時】 
  2019年7月6日(土)
     7月7日(日)
   10:00〜18:30


【場所】 
  滝野川会館

   JR上中里駅より7分
   JR駒込駅より10分
   南北線西ヶ原駅より7分

詳細はこちら>>
次回未定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



 ◆ お問い合わせ 
  技術向上、
  コンサルティング、
  スーパーバイズ、
  執筆・講演…

  諸々のお問い合わせはこちらへ>>



ホームページ
バナー1


プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
Archives
最近のコメント
QRコード
QRコード