2012年07月
2012年07月09日
イメージとニュアンス
先日、『瞑想』ってなんだ?という話題が出ました。
学校の話なので、大半は若い大学生です。
まぁ、瞑想なんて珍しい部類でしょう。
僕が大学生の頃を思い出せば、自分の興味は限られていましたから。
思えば随分と変わったものです。
ここ10年の自分の変化は、おそらく
小学校高学年から大学生までの10年よりも激しいと思います。
20前後の若者を大勢見ていると、そのことを自覚する時間が多いんでしょう。
話を戻しますが、その若者のうちの1人が、瞑想を
「 to think about nothing 」
と言ったんです。
僕は日本人なので、ネイティブの英語感覚が分かりません。
この言い回しに、今、すごく興味があります。
頭の中には、どんなイメージが沸いているんでしょうか?
最も直訳をして解釈すると
「何もないことについて考えること」
となると思います。
一方、中学英語で
「 no 〜 = not any 〜」
と習いました。
すると
「 do nothing = don't do anything 」
となるはず。
確かに
「 Say nothing. 」と「 Don't say anything. 」
のニュアンスは近い気がします。
「 Don't say anything. 」のほうが音節が多いので
一回多くアクセントをつけられます。
それによって、「ヤ・メ・テ!!」という感じが強まるそうです。
ただし、それは一単語ずつハッキリと発音するときに限られるようですが。
そう考えると、あくまで同じ意味のことを
強調しやすい形に言い換えているだけなのかもしれません。
ところが、僕の頭の中に浮かんだ印象は
「 to think about nothing 」と「 not to think about anything 」
では別物でした。
1つの可能性として、ネイティブが日常会話で
否定形の不定詞「 not to 〜」を使っているのは耳にした記憶が薄いですから
言いやすさの面から「 to think about nothing 」と言ったとも想像できます。
ですが、僕の中には明らかに
「 to think about nothing 」だと「考える」作業をやっているイメージが浮かぶんです。
考えてはいる。
でも、考えている中身が無い。
もしくは、「nothing (何もない)とは何だろうか?」と考えている感じ。
「 nothing (何もない)について考える」という雰囲気です。
多分、「 think nothing 」だったら気にしなかったと思います。
こっちは何も考えていない感じがします。
一方、「 not to think about anything 」となると
「 think about anything 」を否定していますから、
「どんなことについて考えることもしない」というニュアンスを想像しました。
「何かについて考えてしまうプロセスをやめること」
…という感じでしょうか。
なんとなく、このほうが瞑想のイメージに近い気がしてしまうんです。
もし、「 no = not any 」だとしたら
「 to think about nothing」も「 not to think about anything 」も同じになるはずです。
それが本当に同じイメージとして、ネイティブは捉えるんでしょうか?
そこが気になっているんです。
どうやら、僕の中では「 about 」が曲者ですね。
これが入った「 think about 」は吹き出しつきで、”ホワン、ホワン、ホワーン…”と
考えている内容が空中に浮かぶ感じのイメージがするんです。
ですから、「 not to think about anything 」の場合は、
吹き出しの中に色々と浮かんでいるイメージに、×印をつける感じになります。
一方、「 think about nothing 」の場合は、
吹き出しが見えて、考えている作業がある印象のイメージなんです。
ただ、吹き出しの中が空っぽ。
僕にとって、どちらのイメージが瞑想に近いかはさておき、
ネイティブスピーカーの中で、イメージに違いがあるかに興味があります。
どうなんでしょうか?
誰かに聞いてみたいと思います。
学校の話なので、大半は若い大学生です。
まぁ、瞑想なんて珍しい部類でしょう。
僕が大学生の頃を思い出せば、自分の興味は限られていましたから。
思えば随分と変わったものです。
ここ10年の自分の変化は、おそらく
小学校高学年から大学生までの10年よりも激しいと思います。
20前後の若者を大勢見ていると、そのことを自覚する時間が多いんでしょう。
話を戻しますが、その若者のうちの1人が、瞑想を
「 to think about nothing 」
と言ったんです。
僕は日本人なので、ネイティブの英語感覚が分かりません。
この言い回しに、今、すごく興味があります。
頭の中には、どんなイメージが沸いているんでしょうか?
最も直訳をして解釈すると
「何もないことについて考えること」
となると思います。
一方、中学英語で
「 no 〜 = not any 〜」
と習いました。
すると
「 do nothing = don't do anything 」
となるはず。
確かに
「 Say nothing. 」と「 Don't say anything. 」
のニュアンスは近い気がします。
「 Don't say anything. 」のほうが音節が多いので
一回多くアクセントをつけられます。
それによって、「ヤ・メ・テ!!」という感じが強まるそうです。
ただし、それは一単語ずつハッキリと発音するときに限られるようですが。
そう考えると、あくまで同じ意味のことを
強調しやすい形に言い換えているだけなのかもしれません。
ところが、僕の頭の中に浮かんだ印象は
「 to think about nothing 」と「 not to think about anything 」
では別物でした。
1つの可能性として、ネイティブが日常会話で
否定形の不定詞「 not to 〜」を使っているのは耳にした記憶が薄いですから
言いやすさの面から「 to think about nothing 」と言ったとも想像できます。
ですが、僕の中には明らかに
「 to think about nothing 」だと「考える」作業をやっているイメージが浮かぶんです。
考えてはいる。
でも、考えている中身が無い。
もしくは、「nothing (何もない)とは何だろうか?」と考えている感じ。
「 nothing (何もない)について考える」という雰囲気です。
多分、「 think nothing 」だったら気にしなかったと思います。
こっちは何も考えていない感じがします。
一方、「 not to think about anything 」となると
「 think about anything 」を否定していますから、
「どんなことについて考えることもしない」というニュアンスを想像しました。
「何かについて考えてしまうプロセスをやめること」
…という感じでしょうか。
なんとなく、このほうが瞑想のイメージに近い気がしてしまうんです。
もし、「 no = not any 」だとしたら
「 to think about nothing」も「 not to think about anything 」も同じになるはずです。
それが本当に同じイメージとして、ネイティブは捉えるんでしょうか?
そこが気になっているんです。
どうやら、僕の中では「 about 」が曲者ですね。
これが入った「 think about 」は吹き出しつきで、”ホワン、ホワン、ホワーン…”と
考えている内容が空中に浮かぶ感じのイメージがするんです。
ですから、「 not to think about anything 」の場合は、
吹き出しの中に色々と浮かんでいるイメージに、×印をつける感じになります。
一方、「 think about nothing 」の場合は、
吹き出しが見えて、考えている作業がある印象のイメージなんです。
ただ、吹き出しの中が空っぽ。
僕にとって、どちらのイメージが瞑想に近いかはさておき、
ネイティブスピーカーの中で、イメージに違いがあるかに興味があります。
どうなんでしょうか?
誰かに聞いてみたいと思います。
2012年07月07日
なぞなぞ
こんなクイズをやらされました。
「砂漠を歩いていると、うつぶせに倒れている男性を発見しました。
背中にバッグを背負ったまま、死んでいました。
どういう状況でしょうか?」
僕は、この手のクイズが嫌いです。
苦手なのではなくて、嫌いなんです。
「一見すると不可能に思えるけど、盲点に気づけば不可能でなくなる」
そんなタイプのクイズなら「あぁ!」という感じがあります。
でも、このタイプのクイズは「あー…ーぁん?」ぐらいなものです。
納得しません。
単なる情報不足で答えられないだけの話。
思い込みが邪魔をする、とかでもありません。
ですから正解とされるものを聞いても、別にそれがベストアンサーとは思えないんです。
背中にバッグを背負ったまま、うつぶせに倒れて死ぬという状況を
一番上手く説明できそうなものが答えということなんでしょう。
別に後ろから誰かに殴られていたって良いでしょう。
前に倒れると思います。
でも、そうじゃないんですと。
であれば「殴られた痕跡や銃で撃たれた様子はない」などを追加してもらいところ。
で、砂漠を歩いている人が、疲労や脱水、あるいは何かで突然意識を失ったのなら
バッグを背負っているから後ろに倒れるはずだ、という説明もありました。
疲労で砂地を歩いていれば、足がもつれて前に転ぶこともあるでしょう。
意識を失うタイミングと足がもつれるタイミングが近ければ
うつぶせのまま倒れていることもありえると思います。
でも、そうではないんだ、と。
もっと説得力のある状況があるというんです。
答えは、
「スカイダイビングをしていて、パラシュートが開かなかった」
だそうです。
背中のバッグはパラシュートだったわけですね。
それであれば、うつぶせに倒れているのも説明できるとのことでした。
物凄く違和感があります。
平べったい板状のものを上から落としたら
空気抵抗で回転しようとすると思います。
ちょっとしたバランスの崩れから水平の姿勢ではなくなるでしょう。
スカイダイバーが水平を保っているのは
意識的にバランスを取っているからじゃないでしょうか。
一般的に想像すれば、パラシュートが開かないことが分かったら
どこかの段階で気を失うと思います。
仮に意識が残っていても、地面に激突するギリギリまで
バランスを保つようには意識しないでしょう。
うつぶせに地面と激突するかと思うと、疑わしいです。
むしろ頭から落ちそうな気もします。
最終的に、うつぶせになるかどうかは、一概に言えないと思いますし、
何より砂地ですから、一部が埋まる可能性もあるんじゃないでしょうか。
(インパクトの衝撃で、周りの砂を巻き上げるかもしれませんが)
少なくとも、「うつぶせ」という形とスカイダイビングを結びつけるのは
一見するとそれっぽいかもしれませんが、無理がありそうに思うんです。
他の可能性は、色々と難癖をつけて否定するのに
スカイダイビングという答えにはストレートな解釈をする。
そのあたりも違和感があります。
なんというか「ひっかけられた」感じがないんです。
他と同程度の可能性を1つ聞いたぐらいの気持ちでした。
問題作成者が、どこで不正解を導こうとしているかが見えるのも
あまり良い気分ではありません。
多分、僕はこの手の「言葉遊び」っぽいクイズが好きでないのでしょう。
もしかすると、コミュニケーションの誤解を減らすために
言葉の中身を知ろうとするトレーニングを続けてきたことも
こういったタイプのクイズが嫌いな理由になっているかもしれません。
状況を把握するために、聞き出しておきたい必要十分な情報を
最初に考えてしまう傾向があるようです。
この状況を説明するためには、この情報が足りない、と。
結論を出すのが遅いのかもしれません。
クイズ向きな発想ではないんでしょうかね。
「砂漠を歩いていると、うつぶせに倒れている男性を発見しました。
背中にバッグを背負ったまま、死んでいました。
どういう状況でしょうか?」
僕は、この手のクイズが嫌いです。
苦手なのではなくて、嫌いなんです。
「一見すると不可能に思えるけど、盲点に気づけば不可能でなくなる」
そんなタイプのクイズなら「あぁ!」という感じがあります。
でも、このタイプのクイズは「あー…ーぁん?」ぐらいなものです。
納得しません。
単なる情報不足で答えられないだけの話。
思い込みが邪魔をする、とかでもありません。
ですから正解とされるものを聞いても、別にそれがベストアンサーとは思えないんです。
背中にバッグを背負ったまま、うつぶせに倒れて死ぬという状況を
一番上手く説明できそうなものが答えということなんでしょう。
別に後ろから誰かに殴られていたって良いでしょう。
前に倒れると思います。
でも、そうじゃないんですと。
であれば「殴られた痕跡や銃で撃たれた様子はない」などを追加してもらいところ。
で、砂漠を歩いている人が、疲労や脱水、あるいは何かで突然意識を失ったのなら
バッグを背負っているから後ろに倒れるはずだ、という説明もありました。
疲労で砂地を歩いていれば、足がもつれて前に転ぶこともあるでしょう。
意識を失うタイミングと足がもつれるタイミングが近ければ
うつぶせのまま倒れていることもありえると思います。
でも、そうではないんだ、と。
もっと説得力のある状況があるというんです。
答えは、
「スカイダイビングをしていて、パラシュートが開かなかった」
だそうです。
背中のバッグはパラシュートだったわけですね。
それであれば、うつぶせに倒れているのも説明できるとのことでした。
物凄く違和感があります。
平べったい板状のものを上から落としたら
空気抵抗で回転しようとすると思います。
ちょっとしたバランスの崩れから水平の姿勢ではなくなるでしょう。
スカイダイバーが水平を保っているのは
意識的にバランスを取っているからじゃないでしょうか。
一般的に想像すれば、パラシュートが開かないことが分かったら
どこかの段階で気を失うと思います。
仮に意識が残っていても、地面に激突するギリギリまで
バランスを保つようには意識しないでしょう。
うつぶせに地面と激突するかと思うと、疑わしいです。
むしろ頭から落ちそうな気もします。
最終的に、うつぶせになるかどうかは、一概に言えないと思いますし、
何より砂地ですから、一部が埋まる可能性もあるんじゃないでしょうか。
(インパクトの衝撃で、周りの砂を巻き上げるかもしれませんが)
少なくとも、「うつぶせ」という形とスカイダイビングを結びつけるのは
一見するとそれっぽいかもしれませんが、無理がありそうに思うんです。
他の可能性は、色々と難癖をつけて否定するのに
スカイダイビングという答えにはストレートな解釈をする。
そのあたりも違和感があります。
なんというか「ひっかけられた」感じがないんです。
他と同程度の可能性を1つ聞いたぐらいの気持ちでした。
問題作成者が、どこで不正解を導こうとしているかが見えるのも
あまり良い気分ではありません。
多分、僕はこの手の「言葉遊び」っぽいクイズが好きでないのでしょう。
もしかすると、コミュニケーションの誤解を減らすために
言葉の中身を知ろうとするトレーニングを続けてきたことも
こういったタイプのクイズが嫌いな理由になっているかもしれません。
状況を把握するために、聞き出しておきたい必要十分な情報を
最初に考えてしまう傾向があるようです。
この状況を説明するためには、この情報が足りない、と。
結論を出すのが遅いのかもしれません。
クイズ向きな発想ではないんでしょうかね。
2012年07月04日
バイリンガルの脳の話
バイリンガルは言語野が2つあるような話を聞いたことがあります。
まぁ、実際にはfMRIで計測したときに、左側頭葉のウェルニッケ野のあたりに
活性化している部分が二か所離れて観察されたということでしょう。
おそらく、日本語を聞いたときと、英語を聞いたときで
fMRI画像を比べたんだと思います。
それを言語野と呼ぶかどうかはさておき、別の場所が活性化したというのは
日本語と英語に対応した部位があるという意味では興味深いですが。
ただし、最近僕が見た教育ビデオでは、もう少し詳しい話がありました。
後天的に二ヶ国語を身につけた人、つまり
母国語があって、使える外国語があるという状態の人だと
別々の離れた二か所が活性化していた。
一方、生まれながらのバイリンガル、つまり母国語が2つある状態、
幼少期から両方の言語に触れて、何の苦労もなく二ヶ国語を身につけた人の場合、
それぞれの言語を聞いたときに、大部分が共通して活性化していた。
そういう話です。
つまり、多くの人が一般的に想像するバイリンガル、ネイティブのバイリンガルは
2つの言語を聞くときに同じの脳の部位を使っていると考えられる、と。
たまに僕が聞いていた話の印象とは、むしろ逆なわけです。
バイリンガルは違う言語を話すと人格まで変わったようになる、なんて言いますが
そのことと、違う言語を使うときに別の脳の部位が活性化することを関連付けるような話は
あまり関係が無さそうなんです。
むしろ逆になっている感じすらある。
ところが、このことはネイティブのバイリンガルが二ヶ国語をゴチャ混ぜで使うこととは
もしかすると関係しているかもしれないと思えます。
学校には英語と日本語を両方とも自然に使いこなせる人が何人もいます。
どちらかを後天的に身につけた人もいるはずですが、
ハーフだったり、親の仕事の都合で海外で育ったりして
英語も日本語も母国語として話せる人たちがいるんです。
うらやましい感じもしますが、まぁ、別の苦労もしているでしょう。
それで、そのネイティブ・バイリンガル同士で会話をしていると
英語と日本語が完全にグチャグチャなんです。
単語レベルで英語が混ざるとか、日本語が混ざるのではなく、
文章の単位でコロコロと入れ替わるんです。
何が起きているのか凄く気になります。
多分、浮かんできてしまうんでしょうね。
言いたいこととして思い描いた内的表象が、どちらの言語と早く対応したかによって
英語を使うか日本語を使うかが決まるのかもしれません。
何が起きているのかは分からないとしても、
もし両方の言語を同じ脳の部位で処理しているのだとしたら
両方が入り乱れるように使われるのも、直観的には納得のいくところでしょう。
実際には、調べられているのはウェルニッケのほうで
聞いて理解するときに働くと言われている脳の部位ですから、
発話の話になってくると、詳しい研究が必要なんだとは思いますが。
日本語と英語を聞いたときに別の部位が活性化する人の場合には
もしかすると両方をグチャグチャに使うことはないのかもしれません。
後天的に外国語を学ぶ人が、ネイティブなバイリンガルと同じ状態を目指すかというと
僕は個人的に、あまりそれが良いことだとは思えません。
日本人が英語で考える必要があるのかも、まだ結論は出せません。
英語能力が不十分なときに、無理やり英語を使って思考を進めたら
日本語で考えるときよりもパフォーマンスが落ちてしまう可能性もありますし。
…実際、落ちるんですけど。
それでトレーニングの結果、日本語並みに英語で考えられるようになったとして、
その論理展開の順番は日本語と違うでしょうから、どういう影響があるかが不明です。
色々と調べてみたいところです。
まぁ、実際にはfMRIで計測したときに、左側頭葉のウェルニッケ野のあたりに
活性化している部分が二か所離れて観察されたということでしょう。
おそらく、日本語を聞いたときと、英語を聞いたときで
fMRI画像を比べたんだと思います。
それを言語野と呼ぶかどうかはさておき、別の場所が活性化したというのは
日本語と英語に対応した部位があるという意味では興味深いですが。
ただし、最近僕が見た教育ビデオでは、もう少し詳しい話がありました。
後天的に二ヶ国語を身につけた人、つまり
母国語があって、使える外国語があるという状態の人だと
別々の離れた二か所が活性化していた。
一方、生まれながらのバイリンガル、つまり母国語が2つある状態、
幼少期から両方の言語に触れて、何の苦労もなく二ヶ国語を身につけた人の場合、
それぞれの言語を聞いたときに、大部分が共通して活性化していた。
そういう話です。
つまり、多くの人が一般的に想像するバイリンガル、ネイティブのバイリンガルは
2つの言語を聞くときに同じの脳の部位を使っていると考えられる、と。
たまに僕が聞いていた話の印象とは、むしろ逆なわけです。
バイリンガルは違う言語を話すと人格まで変わったようになる、なんて言いますが
そのことと、違う言語を使うときに別の脳の部位が活性化することを関連付けるような話は
あまり関係が無さそうなんです。
むしろ逆になっている感じすらある。
ところが、このことはネイティブのバイリンガルが二ヶ国語をゴチャ混ぜで使うこととは
もしかすると関係しているかもしれないと思えます。
学校には英語と日本語を両方とも自然に使いこなせる人が何人もいます。
どちらかを後天的に身につけた人もいるはずですが、
ハーフだったり、親の仕事の都合で海外で育ったりして
英語も日本語も母国語として話せる人たちがいるんです。
うらやましい感じもしますが、まぁ、別の苦労もしているでしょう。
それで、そのネイティブ・バイリンガル同士で会話をしていると
英語と日本語が完全にグチャグチャなんです。
単語レベルで英語が混ざるとか、日本語が混ざるのではなく、
文章の単位でコロコロと入れ替わるんです。
何が起きているのか凄く気になります。
多分、浮かんできてしまうんでしょうね。
言いたいこととして思い描いた内的表象が、どちらの言語と早く対応したかによって
英語を使うか日本語を使うかが決まるのかもしれません。
何が起きているのかは分からないとしても、
もし両方の言語を同じ脳の部位で処理しているのだとしたら
両方が入り乱れるように使われるのも、直観的には納得のいくところでしょう。
実際には、調べられているのはウェルニッケのほうで
聞いて理解するときに働くと言われている脳の部位ですから、
発話の話になってくると、詳しい研究が必要なんだとは思いますが。
日本語と英語を聞いたときに別の部位が活性化する人の場合には
もしかすると両方をグチャグチャに使うことはないのかもしれません。
後天的に外国語を学ぶ人が、ネイティブなバイリンガルと同じ状態を目指すかというと
僕は個人的に、あまりそれが良いことだとは思えません。
日本人が英語で考える必要があるのかも、まだ結論は出せません。
英語能力が不十分なときに、無理やり英語を使って思考を進めたら
日本語で考えるときよりもパフォーマンスが落ちてしまう可能性もありますし。
…実際、落ちるんですけど。
それでトレーニングの結果、日本語並みに英語で考えられるようになったとして、
その論理展開の順番は日本語と違うでしょうから、どういう影響があるかが不明です。
色々と調べてみたいところです。
2012年07月02日
折衷主義について
以前にテレビで、色々な名店と評されるラーメン屋から
麺やスープ、具材を寄せ集めたら、美味しいラーメンが作れるか?
という企画をやっていました。
監修したのは「石神秀幸」という、いわゆる”ラーメン王”。
ちなみに、僕が尊敬する数少ない人のうちの一人です。
他のラーメン王がどういう人かは知りませんが、
彼はラーメンに詳しいだけでなく、味覚が尋常ではないんです。
そこが尊敬ポイント。
何かのテレビの企画で、売れないラーメン屋を復活させるとかいって
監修予定のラーメン屋を訪れていました。
当然、ガラガラ。
しかし、彼はラーメン屋に入るなり、匂いだけでスープの素材を当てるわ、
使われている業務用スープの種類を当てるわで、
とんでもない感覚の鋭敏さを示していました。
何が使われているかが分かるというのは、単なるラーメン好きには
ちょっと難しい芸当ではないかと思います。
で、その”神の舌”を持つと言われるラーメン王が
「いいとこ取り」ラーメンの監修をしていました。
色々な有名店に協力を仰ぎ、麺やスープ、具材を選びます。
スープも、ブレンドして作るとかで、鶏ガラスープはどの店、
魚介ダシはどの店、トンコツはどの店…というように3軒ぐらいを選んだようでした。
そして、麺や具材も、それぞれの分野で最高だと思うところを選ぶ。
全てを取りそろえてから、番組中で寄せ集めのラーメンを調理していました。
その評価は…。
出演者一同、感動するぐらいの美味しさだったとか。
(まぁ、何を食べても美味しいとは言ったかもしれませんが。)
ここで言いたいのは、「最高の物を集めたら、最高のラーメンができる」
という話ではありません。
むしろ逆です。
どんなに単独では上等なスープや具材、麺であっても
組み合わせを間違えたら台無しになってしまうかもしれません。
トンコツスープの強い匂いと味を前面に押し出せば
繊細で複雑な味わいがウリのスープを混ぜても意味がないでしょう。
おそらく、ラーメンという食べ物自体が、そうした許容範囲の広いものだとは思います。
あとはカレーも、同様でしょう。
比較的、どんなことをしても、それなりに美味しく仕上がるタイプの料理はあります。
その中でも、寄せ集めがオリジナルよりも美味しく仕上がるためには
それを混ぜ合わせる監修者の技量が求められるはずです。
このテレビの企画は、”神の舌”を持つというラーメン王が監修したのがポイントです。
これを少しラーメンが好きぐらいの人が、自分の好きなラーメン店を5つぐらい選んで
「いいとこ取り」をしたところで、本当に美味しいラーメンになるかは定かではないでしょう。
むしろ台無しにしてしまうこともあると思います。
ラーメン王・石神秀幸は、自分で数多くの創作ラーメンを生みだし
自らラーメンの可能性を探求している人でもあるそうです。
評価をするだけでなく、自分でもラーメン屋をやっている。
彼が知っているのは、美味しい”ラーメン屋”ではないんです。
ラーメンという食べ物の本質を追究している人なんです、多分。
だから、ラーメンの根底に流れるものを知っていて、
それゆえに、寄せ集めをしようとしたときにも、組み合わせ方が分かるわけです。
もしかすると、別に寄せ集めである必要はなかったのかもしれません。
一からでも、同じものが作れるかもしれません。
おそらく、彼のもとに企画が届き、
有名店で組み合わせを考えなくてはいけない状況だったんでしょう。
企画に協力してくれる店を考慮しても、候補は限定されていたと思われます。
場合によっては、店の選定まではテレビ局側に決められていた可能性もあります。
それでも、考えられるパーツから全体の構成を組み立てたのは彼でしょう。
限定された条件から、考えうるラーメンの味の中でベストなものを決める。
そして、その味になるように、寄せ集めをしていく。
その作業は、きっと普通に作りたいラーメンの味を決めて、
そのために必要なスープ作り、麺作り、具材作りをしていくプロセスと
大きな違いが無いのではないかという気がします。
それができるのは、ラーメンそのものを分かっているからだと思うんです。
表向きには「いいとこ取り」をした寄せ集めのラーメンですが、
重要なポイントは、必ずしも「いいとこ取り」ではないかもしれない部分です。
麺単独であれば、ここが一番。
トンコツスープは、ここが一番。
チャーシューは、ここが一番。
…そういう「いいとこ取り」ではないように見えました。
このスープを使うなら、あの店の魚介ダシと合わせると良い。
だとしたら、具材は、こっちのほうが合うはずだ。
それに合う麺は、あの店のもの。
そうした作業は、スープや麺、具材の意味を分かっていることはもちろん、
ラーメンという食べ物の理解ができていないと難しいでしょう。
一般人に好きなラーメン屋を5件選ばせて、「いいとこ取り」のラーメンを作ったら
どのオリジナルにも遠く及ばないシロモノができてしまうかもしれません。
「いいとこ取り」の難しいのは、選ぶ本人の好みが強く反映されるところです。
「いい」と判断しているのは、その人の基準なんです。
ラーメンのことを知りつくしていれば、選択肢の選び方は
「いい」かどうかではなくて、全体としてのラーメンの味にどう影響するか
になるんじゃないかと思います。
「いいとこ取り」をした結果が、
福袋のように無作為に好きなものを詰め込んだものになるか
しっかりと意味のあるセット商品になるか、
その違いは、組み合わせる人が、そのことを良く分かっているかどうかによるでしょう。
「NLPは心理療法の『いいとこ取り』だ」といった言い方を耳にすることがあります。
NLPを救急箱や、便利な道具箱のように捉える人もいます。
それは、ラーメン王・石神秀幸の作った寄せ集めラーメンを
「いいとこ取り」と捉えるのと同じだと思います。
また、カウンセリングやセラピーをやっている人の中にも
色々な流派の技術を「いいとこ取り」にしているという人たちがいます。
それが本人にとっての「いい」ものだとすると、
単純に好みで選んでいる可能性もあるでしょう。
別に1つの店で、トンコツラーメンと塩ラーメンを出しても構いませんし、
色々な具材をトッピングとして選べるのも良いでしょう。
どういう寄せ集めの仕方でも、集めたものがメニューに載っているだけなら良いと思います。
つまり、クライアントが「このセラピーを受けたい」と選べる状況なら良いんです。
ただ、トンコツスープに塩ラーメンのスープを混ぜたり、
闇雲におかしな具材を組み合わせたラーメンを作ってしまったり、
「俺はチャーシューは嫌い。あんなものは食べるもんじゃない。」といって
絶対にチャーシューを使おうとしなかったりするのは、いかがなものか、と。
それだって、ある意味では「いいとこ取り」ですが、
その「いいとこ」を選んだ根底には何があるのか?ということです。
カウンセリングやセラピーの話で言えば、
傾聴だけでは良くなるのが難しい問題もあるでしょう。
ですが、傾聴を求めているクライアントだっているわけです。
学校の先生にも、親にも言えないような悩みを抱えた中学生が
誰かに話を聞いてもらいたいとしたら、カウンセラーが重要な役割となります。
そこでは焦点化なんてされたら良い迷惑です。
聞いてもらいたいんですから。
また、ホスピスで余命3日の寝たきりの人と接するとき、
NLPの何のスキルが役立つでしょうか。
そのように傾聴こそが役立つ場面だってあることを無視して、「傾聴は無駄だ」と
自分の好きな技術ばかりを「いいとこ取り」して良いのだろうか、と。
もちろん、自分は絶対に、ただ話を聞くだけの関わりが必要な場面には行かない、
と固く決意をしているのであれば、それも1つの戦略です。
ただ、個人が「使わない」と決めていることと、
一般論として「役立たない」と主張することは全く別物だと思うんです。
色々な技術や流派があるのは事実です。
それぞれの流派だけで取り組む人もいます。
僕が大切だと思うのは、その技術が効果を発揮するメカニズムを理解すること。
全ての流派の全ての技術を、1つのメカニズムで説明できれば、
そのメカニズムに沿ってクライアントの問題が理解できる限り、
全ての技術を選択肢に入れることができます。
このクライアントは、こういう状態だから、このような援助が役立つ。
そのためには、この技術が一番直接的で効果があるだろう。
…そんな感じで選ぶわけです。
求められるのは、自分が「いい」と思う技術を集めてくることではなくて
それぞれの技術の意義を理解したうえで、
意図を持って選択できるようにしておくことじゃないでしょうか。
そうなると好き勝手に、いくつかだけを集めておくことはできなくなります。
「あれは好き、こっちは嫌い。あんなのやっても無駄。」
…本当に目の前のクライアントにとって「いい」ものを使おうとしたら
一部の「いいもの」ばかりを選んでなんていられないはずです。
いつ、誰に提供するか分からないものでも
最善を尽くすために在庫にはストックしておく。
こっちの好き嫌いや、自分基準の良し悪しで、何を選ぶかを決められるほど
僕には余裕がありません。
麺やスープ、具材を寄せ集めたら、美味しいラーメンが作れるか?
という企画をやっていました。
監修したのは「石神秀幸」という、いわゆる”ラーメン王”。
ちなみに、僕が尊敬する数少ない人のうちの一人です。
他のラーメン王がどういう人かは知りませんが、
彼はラーメンに詳しいだけでなく、味覚が尋常ではないんです。
そこが尊敬ポイント。
何かのテレビの企画で、売れないラーメン屋を復活させるとかいって
監修予定のラーメン屋を訪れていました。
当然、ガラガラ。
しかし、彼はラーメン屋に入るなり、匂いだけでスープの素材を当てるわ、
使われている業務用スープの種類を当てるわで、
とんでもない感覚の鋭敏さを示していました。
何が使われているかが分かるというのは、単なるラーメン好きには
ちょっと難しい芸当ではないかと思います。
で、その”神の舌”を持つと言われるラーメン王が
「いいとこ取り」ラーメンの監修をしていました。
色々な有名店に協力を仰ぎ、麺やスープ、具材を選びます。
スープも、ブレンドして作るとかで、鶏ガラスープはどの店、
魚介ダシはどの店、トンコツはどの店…というように3軒ぐらいを選んだようでした。
そして、麺や具材も、それぞれの分野で最高だと思うところを選ぶ。
全てを取りそろえてから、番組中で寄せ集めのラーメンを調理していました。
その評価は…。
出演者一同、感動するぐらいの美味しさだったとか。
(まぁ、何を食べても美味しいとは言ったかもしれませんが。)
ここで言いたいのは、「最高の物を集めたら、最高のラーメンができる」
という話ではありません。
むしろ逆です。
どんなに単独では上等なスープや具材、麺であっても
組み合わせを間違えたら台無しになってしまうかもしれません。
トンコツスープの強い匂いと味を前面に押し出せば
繊細で複雑な味わいがウリのスープを混ぜても意味がないでしょう。
おそらく、ラーメンという食べ物自体が、そうした許容範囲の広いものだとは思います。
あとはカレーも、同様でしょう。
比較的、どんなことをしても、それなりに美味しく仕上がるタイプの料理はあります。
その中でも、寄せ集めがオリジナルよりも美味しく仕上がるためには
それを混ぜ合わせる監修者の技量が求められるはずです。
このテレビの企画は、”神の舌”を持つというラーメン王が監修したのがポイントです。
これを少しラーメンが好きぐらいの人が、自分の好きなラーメン店を5つぐらい選んで
「いいとこ取り」をしたところで、本当に美味しいラーメンになるかは定かではないでしょう。
むしろ台無しにしてしまうこともあると思います。
ラーメン王・石神秀幸は、自分で数多くの創作ラーメンを生みだし
自らラーメンの可能性を探求している人でもあるそうです。
評価をするだけでなく、自分でもラーメン屋をやっている。
彼が知っているのは、美味しい”ラーメン屋”ではないんです。
ラーメンという食べ物の本質を追究している人なんです、多分。
だから、ラーメンの根底に流れるものを知っていて、
それゆえに、寄せ集めをしようとしたときにも、組み合わせ方が分かるわけです。
もしかすると、別に寄せ集めである必要はなかったのかもしれません。
一からでも、同じものが作れるかもしれません。
おそらく、彼のもとに企画が届き、
有名店で組み合わせを考えなくてはいけない状況だったんでしょう。
企画に協力してくれる店を考慮しても、候補は限定されていたと思われます。
場合によっては、店の選定まではテレビ局側に決められていた可能性もあります。
それでも、考えられるパーツから全体の構成を組み立てたのは彼でしょう。
限定された条件から、考えうるラーメンの味の中でベストなものを決める。
そして、その味になるように、寄せ集めをしていく。
その作業は、きっと普通に作りたいラーメンの味を決めて、
そのために必要なスープ作り、麺作り、具材作りをしていくプロセスと
大きな違いが無いのではないかという気がします。
それができるのは、ラーメンそのものを分かっているからだと思うんです。
表向きには「いいとこ取り」をした寄せ集めのラーメンですが、
重要なポイントは、必ずしも「いいとこ取り」ではないかもしれない部分です。
麺単独であれば、ここが一番。
トンコツスープは、ここが一番。
チャーシューは、ここが一番。
…そういう「いいとこ取り」ではないように見えました。
このスープを使うなら、あの店の魚介ダシと合わせると良い。
だとしたら、具材は、こっちのほうが合うはずだ。
それに合う麺は、あの店のもの。
そうした作業は、スープや麺、具材の意味を分かっていることはもちろん、
ラーメンという食べ物の理解ができていないと難しいでしょう。
一般人に好きなラーメン屋を5件選ばせて、「いいとこ取り」のラーメンを作ったら
どのオリジナルにも遠く及ばないシロモノができてしまうかもしれません。
「いいとこ取り」の難しいのは、選ぶ本人の好みが強く反映されるところです。
「いい」と判断しているのは、その人の基準なんです。
ラーメンのことを知りつくしていれば、選択肢の選び方は
「いい」かどうかではなくて、全体としてのラーメンの味にどう影響するか
になるんじゃないかと思います。
「いいとこ取り」をした結果が、
福袋のように無作為に好きなものを詰め込んだものになるか
しっかりと意味のあるセット商品になるか、
その違いは、組み合わせる人が、そのことを良く分かっているかどうかによるでしょう。
「NLPは心理療法の『いいとこ取り』だ」といった言い方を耳にすることがあります。
NLPを救急箱や、便利な道具箱のように捉える人もいます。
それは、ラーメン王・石神秀幸の作った寄せ集めラーメンを
「いいとこ取り」と捉えるのと同じだと思います。
また、カウンセリングやセラピーをやっている人の中にも
色々な流派の技術を「いいとこ取り」にしているという人たちがいます。
それが本人にとっての「いい」ものだとすると、
単純に好みで選んでいる可能性もあるでしょう。
別に1つの店で、トンコツラーメンと塩ラーメンを出しても構いませんし、
色々な具材をトッピングとして選べるのも良いでしょう。
どういう寄せ集めの仕方でも、集めたものがメニューに載っているだけなら良いと思います。
つまり、クライアントが「このセラピーを受けたい」と選べる状況なら良いんです。
ただ、トンコツスープに塩ラーメンのスープを混ぜたり、
闇雲におかしな具材を組み合わせたラーメンを作ってしまったり、
「俺はチャーシューは嫌い。あんなものは食べるもんじゃない。」といって
絶対にチャーシューを使おうとしなかったりするのは、いかがなものか、と。
それだって、ある意味では「いいとこ取り」ですが、
その「いいとこ」を選んだ根底には何があるのか?ということです。
カウンセリングやセラピーの話で言えば、
傾聴だけでは良くなるのが難しい問題もあるでしょう。
ですが、傾聴を求めているクライアントだっているわけです。
学校の先生にも、親にも言えないような悩みを抱えた中学生が
誰かに話を聞いてもらいたいとしたら、カウンセラーが重要な役割となります。
そこでは焦点化なんてされたら良い迷惑です。
聞いてもらいたいんですから。
また、ホスピスで余命3日の寝たきりの人と接するとき、
NLPの何のスキルが役立つでしょうか。
そのように傾聴こそが役立つ場面だってあることを無視して、「傾聴は無駄だ」と
自分の好きな技術ばかりを「いいとこ取り」して良いのだろうか、と。
もちろん、自分は絶対に、ただ話を聞くだけの関わりが必要な場面には行かない、
と固く決意をしているのであれば、それも1つの戦略です。
ただ、個人が「使わない」と決めていることと、
一般論として「役立たない」と主張することは全く別物だと思うんです。
色々な技術や流派があるのは事実です。
それぞれの流派だけで取り組む人もいます。
僕が大切だと思うのは、その技術が効果を発揮するメカニズムを理解すること。
全ての流派の全ての技術を、1つのメカニズムで説明できれば、
そのメカニズムに沿ってクライアントの問題が理解できる限り、
全ての技術を選択肢に入れることができます。
このクライアントは、こういう状態だから、このような援助が役立つ。
そのためには、この技術が一番直接的で効果があるだろう。
…そんな感じで選ぶわけです。
求められるのは、自分が「いい」と思う技術を集めてくることではなくて
それぞれの技術の意義を理解したうえで、
意図を持って選択できるようにしておくことじゃないでしょうか。
そうなると好き勝手に、いくつかだけを集めておくことはできなくなります。
「あれは好き、こっちは嫌い。あんなのやっても無駄。」
…本当に目の前のクライアントにとって「いい」ものを使おうとしたら
一部の「いいもの」ばかりを選んでなんていられないはずです。
いつ、誰に提供するか分からないものでも
最善を尽くすために在庫にはストックしておく。
こっちの好き嫌いや、自分基準の良し悪しで、何を選ぶかを決められるほど
僕には余裕がありません。