2012年08月

2012年08月30日

ブームのような取り扱い

最寄駅の近くに、二階建ての本屋があります。

ここで本を買うことは滅多にありませんが、
2階の1/3ぐらいが文房具コーナーなので、そちらを利用します。
そのスペースでも、他よりも品揃えが良いんです。

それで最近、ファイルを買いに、その書店に行きました。

するとエスカレーターを上がって近く、目立つところに
「うつ病」コーナーがあったんです。

かなり大々的に取り上げられていました。
ズラッと、うつ病に関する本が並んでいる状態。

問題意識が高まっているのか、実際に増えてきているのか。
ウツに対する論点も色々ありそうでした。

興味があったのは、
NHKスペシャル ここまで来た! うつ病治療
NHKスペシャル ここまで来た! うつ病治療
クチコミを見る


と、

精神科は今日も、やりたい放題
精神科は今日も、やりたい放題
クチコミを見る


です。

近々、読んでみようかと思います。

『NHKスペシャル』のほうをパラパラッと見たところ、最近の発見で
「前頭前野からの制御が低下している」といったような内容が見受けられたので
その辺に納得できそうだったんです。

僕の最近の考えは…、
 ほとんどの脳活動は本人の意志とは無関係に活動していて、
 (大部分は外部刺激からのインプットに対する反応と、ランダムな”ゆらぎ”だと想像)
 前頭前野が、自然に起こっている脳活動にストップをかけている
というものなので、
そのあたりをサポートできそうだ、と。

心理寄りの用語で説明すれば、
 意識の役割は、ストップをかけるところにある
という表現です。

筋肉は常に動こうとしているし、感情的な反応も色々と動いているし…、
とにかく人には自然な振る舞いが無尽蔵に起こっていて、
覚醒している間は、それを止める方向で制御している。

例えば、
 頭がかゆくなって、頭をかきたい気持ちが沸いてきたときには
 既に頭をかくための指令は発生していて、それを止めるように制御しているときは
 「頭をかかない」ままで動作に表れない
けれども、
 止めるための制御を解除して、止めるのをやめたときに
 動作として「頭をかく」という行動が起こる
という感じです。

つまり、人は”無意識”に色々な行動をしていますが
(例えば姿勢を変えたり、首を動かしたり、”なんとなく”足を動かしたり…)
そうした大部分の行動は、自然に発生した動作のための指令に
制御をかけて止めることをしていないから起きている、という考え方です。

催眠で言われる『観念運動』なんていうのは
筋肉を動かす指令を止めるための制御が低下することで
勝手に起こっているものだろう、と考えています。

そうすると子供に落ち着きがないのは、
そうした「止めるための制御」が十分ではないからだと想像できますし、
何かの動作が癖になるのも納得ができます。

このような止める方向の制御を前頭前野がやっていると考えられるので
そこら辺と関係しそうな話に興味を持ったわけです。


一方、『精神科は今日も、やりたい放題』のほうは
結構、過激な内容が書いてありました。

それでも可能性として知っておきたい気がしたので
読んでみようかと考えているわけなんですが。


それで興味深かったのは、その「うつ病コーナー」に並んでいる本の大部分が
うつ病の人のための内容になっていることなんです。

もちろん、うつ病の人の家族のための内容もありますし、
偏見を打破したいような主張もありますし、支援者のための内容もあります。
でも多いのは、直接、うつ病の人に対して書かれたような内容。

うつ状態の人が、はたして、書店の「うつ病コーナー」に足を止めるんでしょうか?

そして、その「うつ病コーナー」の壁には、大きな貼り紙で警告が書かれていました。
『万引きは犯罪です!私服警官見回り中』

僕の偏見では、うつ病と診断された人は、あまり万引きをしなそうな気がします。

まぁ、たまたまそこに貼り紙があったのかもしれませんが。

2012年08月28日

言葉の違いを理解してから勉強する

ドイツ人に聞いたんですが、ドイツ語では
「 bad 」と「 bed 」と「 bet 」は全部同じ音に聞こえるそうです。

他にも音節の最後に「 b 」が来ると「 p 」の音になって
「g 」が「 k 」の音になるらしいので、
後ろに母音が続かないときの子音の発音を聞き取りにくいようです。

「 dog 」と「 doc 」なんかも聞き分けにくいのでしょう。


日本人は「 L 」と「 R 」の発音が苦手、というのは
日本に限らず世界中で有名なようですが、
同じような発音と聞き取りの問題は色々な国であるんですね。

韓国語だと「 Z 」の発音が無いという話も聞いたことがあります。
それで「ざじずぜぞ」が言いにくい、と。

まぁ、それでも日本語の音は英語から一番離れているという説もあるようですが、
日本人にとっての英語習得を発音のせいにするのは
あまり本質的ではない気がします。

個人的には、物凄くロシア語っぽい英語や、イタリア語っぽい英語、
インド人独特の英語、どういう発音だか分からない英語など、
色々な英語を聞いたことがあっても、皆、流暢に会話をしていました。

確かに音の違いで聞き取りが難しいところはあると思います。

ただ、それ以上に、多くの人は予測で言葉を聞いています。
正確な音が聞こえなくても、文脈から想像して音を補って聞いているわけです。

ですから、その意味では単語を聞きとれるようになるよりも
良く使われるフレーズの単位を一単語のように覚えるようが
実用的なようにも感じられます。


最近思うのは、日本人は英語を勉強するときに
自分の使わない日本語の言い回しに対応する英語を
一生懸命に覚えようとし過ぎるんじゃないか、ということです。

ドイツ人やイタリア人が英語を勉強するときは
文章の構造をあまり意識しなくても、同じ順番で言葉を対応させていけば
無理なく英語の文章が作れると考えられます。

文法の違いをアレンジするとしても、
「何を、どのような順番で」説明するかというのは共通するだろう、と。
論述の形式を同じにできるという話です。

日本語と英語では論述の仕方が大きく違います。
修飾節のかかる順番が違う(後ろから)とか
動詞が表れる位置の違いなどが強調されるみたいですが、
それだけではありません。

言語に対応する内的表象の作られ方自体が違います。

言葉をイメージに対応させたとき、
日本人が話す内容としてイメージしている映像と
英語圏の人が話す内容としてイメージしている映像は、
サブモダリティに結構な違いがあるわけです。

日本語が状況を説明する傾向が強いのに対して、
英語は動作や影響を説明する傾向が強い。

日本語は主語を省略する(特に一人称のとき)傾向がありますから、
イメージの中で特定の”物”や”人”にピントが合うことが少ないんです。
強くピントが合って注意の中心になっているところが、通常「主語」になりますから。

それに対してネイティブの英語は、動作の主体(主語)と、
その動作がクリアに説明されている傾向が見受けられます。
だから一文が短くなる。

短い文章を次々に続けて、情報を重ねていく感じ。

ですが、日本人はただでさえ状況を説明しやすいのに、
大人になってくると、さらに客観的な文章に慣れていきます。

日本語を話しているときから、ネイティブの英語のようなに
シンプルな文章の構造をしていないことが多い。
その傾向は、仕事の話など、複雑な内容になるほど高まるでしょう。

そのような状態で英語を1から勉強すると
短い文章で作れる「誰が何をした」を中心に覚えようとします。

そんな文章、日本語で普段から使っていないのに、です。

なるべく簡単なところから勉強したほうがいいだろうと考えたい気持ちは想像できます。
しかし、簡単過ぎて普段使わない文章は、言語活動として
普段の仕事の会話では、頭に上がってこないはずなんです。

大人は、自然と思いつく考えが高度になっています。
その考えをそのまま言語に変換すると、複雑な文章になる。
そういう形で思いついて、それを口に出して意見交換をしている。

その自然に思い浮かぶ考えを、そのまま言語に対応させるほうが
スムーズなんじゃないでしょうか。

つまり、できるだけ高度な英語を最初から使えるように頑張る、と。

自分が普段使っている日本語を、そのまま英語に変換する。
思考として浮かんでくるものを全て英語に変換できれば
英語を使いこなすのも楽になる気がします。

そもそも思考というのは受動的なものですから、
英語で考えるときにだけ発想の順番を変えるというのは大変でしょう。

むしろ自分にとって自然な思考の内容を
日本語にも、英語にも対応させられるほうが
スムーズではないだろうか、という話です。


幸い、英語でもアカデミックな説明や、書き言葉は
客観的な説明の仕方でも大丈夫なようです。

あくまで印象ですが、日本語よりも英語のほうが
話し言葉と書き言葉の差が大きいと感じます。

ですから、アカデミックな書き言葉で話している人は
ネイティブからは少し変わって見えるかもしれません。

それでも言いたいことを英語で言えるようになるには、
そっちのほうが近道だと僕は考えています。

スムーズに話せるようになれば、話しながら考える余裕が生まれます。
話しながら観察する余裕も生まることでしょう。

日本語の論述形式で浮かんでくる考えを全てそのまま英語にして、
それを伝えて相手が理解してくれなかったら、
話しながら言い方を変えても大丈夫でしょうから。

大人は思考の内容そのものが既に複雑になっています。
それをシンプルなものに戻しながら英語を勉強するのは
なかなかのストレスじゃないかと思うんです。

日常会話よりも先に、専門的なディスカッションができるようになる。
それから日常会話に近づけていく。

そういうタイプの英語学習法があっても良いんじゃないでしょうか。

2012年08月26日

裏にも目を向ける

色々な作業で共通していると思うんですが、
『裏をとる』というのは効果的なようです。

「根拠を集める」とか、「証拠を見つける」という意味ではありません。

「普通にしていると注意が向きやすい部分の逆側に注意を向ける」
という意味です。


音楽でいうと、リズムの裏拍をとるのに相当します。

今でも印象に残っていますが、何かの音楽番組かオーディション番組で
ダンスの指導をしている人が言っていたことです。

音楽自体は8ビートの曲で、それに合わせて踊るという状況。
振付としては「ワン、ツー、スリー、フォー、ファイブ、シックス、セブン、エイト」
に合わせて、動作が決められている。

ですから、「ワン」から「ツー」にかけてで、動作が変わるわけです。

そのときに、「ワン」の時間全部をかけて動作を変えるのではなくて、
「ワ・ン」に分けて動くようにするんだ、という話でした。

カッコイイ人は、「ワ」では止まっていて、「ン」で素早く次の動作に移る。

半分の時間は止まっていて、残り半分の時間で動く。
…そんな指導でした。

つまり、8ビートを実質は16ビートとして扱っているということです。
1つの”まとまり”を8分割で捉えるのと、16分割で捉えるのであれば
処理できる量が倍になるといえます。

解像度が倍になったというか、ハイスピードカメラにしたというか、
とにかく処理量を増やしているんです。

もちろん、それには半分の時間で動作を完了するだけの
筋力とスピード、キレが必要です。

ただ、それが満たされれば、できることが増えるだろう、と。


絵画であれば、前景となる対象だけを描くのではなく、
背景となる余白を描くようにする。

書道であれば、文字の黒の部分だけを意識して書くのではなく
白として残る部分も見るようにする。

文学であれば、行間を読むという感じでしょうか。

コミュニケーションにおいては、むしろ”裏”となっている部分のほうが多いでしょう。

人それぞれ自分の注意が向きやすい部分は違います。
そして、その情報に頼ってコミュニケーションをします。

感情を捉えるときを例にとれば
全面的に分かりやすく表れている感情の奥に、
同時に別の感情が共存していることがあります。

何か上手いことを言ったり、カッコいいリフレーミングの言葉をかけたり、
魔法の言葉や質問で気づかせたり…。
そういうことの裏にも、「あえて何も言わない」というメッセージが持つ
大切な意味だってあるはずなんです。

何かをしてあげる優しさもあれば、
傷つけることをしない優しさもあるんです。


意識が向きやすいことの裏にも注意を向ける。
そこから見つかることが沢山あると思います。

僕の場合は、体の使い方ですね。
今まで使っていなかったところが色々とあります。

情報量が増えるのは負荷がかかる面もありますが、
僕は処理量を上げる方向でやっていくつもりです。

全て、生きているうちにしか体験できないことですから。

2012年08月24日

何を信じるか

例えば、目隠しをして、10枚の中から、丸の描かれた紙を当てるとします。

10枚の白紙を用意して、1枚にだけマジックで丸印を描く。
それで目隠しをして、他の人が紙をシャッフルして、
一枚ずつ、目隠しをした人の手元に紙を差し出す。

目隠しをしながら、紙の上に手をかざして、
その”感じ”から、どの紙に丸が書いてあったかを当てる、と。

そんなゲームがあったとします。

そのときに75%の確率で当てられる人がいたしたら、
それをどう説明するかという話です。


ある人は統計的に回数を測って、
これぐらいは偶然にあり得る範囲だと示そうとするかもしれません。
そのために、何度も回数をこなすように依頼するケースです。

その人は回数を重ねて、数学的に有意なことが示せたら
「この人物は75%の確率で、丸の描かれた紙を当てられる人です。
 ちゃんとエビデンスをとってあります。」
みたいな結論に至ることになるでしょう。


またある人は、「これはトリックだ」といって
どんなトリックを使っているかを調べようとするでしょう。
実は目隠しが透けて見えているとか、誰かが合図を送っているとか、
小型のセンサーが仕組まれていて分かるようになっているとか。

それで色々調べたけれど見つからなかったら、
「まだ見つかっていないけれど、巧妙な仕掛けがあるはずだ。
 もっと時間をかけて調べさせてくれれば見つけてみせます。」
なんていうかもしれません。


他の人の中には、「これは超能力だ」といって
その人の特殊能力に感動する人もいると思います。
「やっぱり科学では分かっていない人間の神秘が存在するんだ。」
と言うかもしれません。

そして、「もっと他にも超能力を見せて下さい。」
と頼んで、”念力”で物を動かしたり、”霊”の声を聞いたり…。


色々な反応の仕方があると思いますが、
『何かを信じているかどうか』というのは重要だと感じます。

超能力を信じているなら、不思議な現象は「超能力」として説明したほうが
納得のいくものに思えることでしょう。

「超能力なんてない」と、逆に言いうと
「自分が日常的に体験していること以外はありえない」と信じていれば、
自分にとってあり得そうな「トリック」として説明すると納得できるようになるでしょう。

どちらも目の前の現象を見ていない気がします。

目の前で起きていたのは、
 「かなりの高確率で、丸が描かれた紙を目隠しした状態で当てられた」
という出来事なんです。

そういうことは起きたんです。
一応、そう言える。

その上で、それを解釈するときに
超能力だと思うか、トリックだと思うか、の話だとしたら
どちらも限られた可能性でしか物事を見ていないといえます。

信じているんです。
疑っていないんです。
どの立場であっても、自分の立場を疑っていないんです。


もしかしたら、物凄く感覚体験を鋭敏にしていくと
かすかな光の反射の仕方の違いが生み出す熱の違いを
感じ分けられる人が出てくるかもしれません。

トリックだと信じていたら、トリック以外の可能性には気づけないでしょう。

分からないことが起きたときに、
「説明のつかないことは、あり得ない」と
説明できる方向に持っていくのは、
新たに何かを発見しようとはしていないように思えます。

今までの知識で説明がつかないことは「分からない」のであって、
「あり得ない」わけではないと思うんです。

「まだ分からないけど、そういうのもあるかもしれない。
 あるとしたら、どういうメカニズムが考えられるだろうか?」
という発想が新たな発見を生み出すんだと思います。


また、もし超能力だと信じていたら、他の超能力らしきものも
まとめて信じてしまいやすくなる危険性があります。

仮に、本当に手をかざすことで丸の描いた紙が識別できたとしましょう。
そういうことができる人だ、と。

それが意味するのは、あくまで
「その人には、手をかざして丸の描いた紙を当てることができる」
という範囲までなんです。

他に何ができるかは定かではありません。

しかし、「だから、この人は超能力者だ」と信じてしまうと
それに付随する周辺の内容も、一緒に信じてしまいやすいんです。

その人が手を触れずにペンを動かしたとしたら
「今度の超能力は”念力”だ!」と思い込みやすいわけです。

丸の描いた紙を当てるのはできたとしても、
手を触れずにペンを動かすのにはマジックの技術を使っているかもしれません。

超能力のある人が「あなたの後ろに先祖の霊が見えます」といったら
それも一緒に信じてしまう場合もあるんじゃないでしょうか。

同じように、目の前の人を見ているだけで、
その人の部屋の中が見える人がいたとします。
それでも、その人が芸能人の家の中が分かるとは限りません。
目の前にいる人と、離れたところにいる有名人とは、別の条件ですから。

つまり、出来事を見るようにすれば違いを区別できることが、
「超能力」という1つの説明の仕方に当てはめてしまうと、
それによって関係のないものまで一緒に信じてしまうリスクがある、ということです。

1つの説明の仕方を信じる場合には、そういう危険性もあるはずです。


今まで知っていた説明の仕方に当てはまらない体験があったとき、
それを「あり得ない」として切り捨てるようにしていたら
何か大事なものを見過ごしてしまうかもしれません。

その一方で、「ある」ことを前提に、新しい1つの説明の方法で理解すると
その説明の方法に関連する色々な内容も一緒に信じてしまうかもしれません。

超能力でもスピリチュアルな力でも呼び方は何でもいいですが、
その説明の仕組みが含んでいる1つの現象(例えば、透視)がありそうだとしても、
他の全ての説明まであり得るとは限らないわけです。

むしろ、「分からないけれど、こういうのもあるんだ」とだけ思っておいて
特別な名前や理論で理解しないようにするほうが安全で実用的な気がします。


1つの説明のモデルを信じると、
それに含まれる全ての部分を受け入れることになります。

同時に、別種の説明のモデルは
丸ごと受け入れないことになる場合もあります。

現状の科学を信じていて、超能力は受け入れない。
超能力を信じていて、科学に批判的になり、超能力全般を信じる。
どちらも何かを信じている点では共通しているようです。

こういうのは色々なところで見受けられる気がします。

「お金が大事だ」、「いや、心が大事だ」。
真逆に転じる人もいるみたいです。

マーケティングのテクニックを駆使してお客さんを集めるスタンスも、
お客さんを”引き寄せる”ように心構えを変えていくスタンスもあります。

一見すると、折衷案というか、「良いとこどり」が良さそうに思えるかもしれません。

しかし、「良いとこどり」は、本質的に1つを信じているのと大差ないと考えられます。
「良い」と判断する基準は自分の中にあって、その基準を信じているからです。
折衷案として、自分の経験から「良い」と感じられたものが既に存在していて
それを信じているから「良いとこどり」が可能になるということです。

ですから、僕が個人的に大事にしたいスタンスは
『全てを疑う』こと。

徹底的に批判する。
全てを批判して、残った中にこそ
辻褄が合って、これ以上批判しようのないものが得られる気がします。

何かを拒絶するのは、疑っていないし、批判していないはずです。
拒絶することで守ろうとしているほうを、信じているからです。

反対側を批判して、自分の好きなほうを批判していないときには
偏った信じ方になっているかもしれません。

自分が好きな説明にも疑いと批判の目を向ける。

もちろん、批判の結果として残ったものにも常に批判を続け、
自分の批判の仕方そのものも批判的に見ていく。

そうすれば、信じて盲目になる危険性は回避しやすいんじゃないでしょうか。


理論や技術なんて、いくら疑って批判したって、大したことはないと思います。

むしろ、そういう批判を続けて最後に残るのは
「人との触れ合いは良いものだ」とか
「信じたい人に出会えることが財産だ」とか
そういった主観的な体験談としての思い込みのようです。

誰かから習った理論の一部として同じ内容を信じているときと、
全てを疑った結果として残ったものとして感じているときとでは、
印象も違いそうです。

かなり際立って見えて、余計に感慨深いものに感じられますから。

2012年08月22日

フランス語に興味が沸いてきました

立て続けに同じ内容に関して刺激を受けると
なんだか急激に駆り立てられるようにヤル気が上がってきます。

最近はフランス語。

たまたまテレビをつけてチャンネルを回していたら
NHK教育のフランス語講座がやっていて、
それで、なんとなく見てみたんです。

ドイツ語やアラビア語だったら見なかったと思います。
僕がフランス語を少しだけ勉強したことがあったから見る気になったんです。


高校3年間の第二外国語がフランス語でしたし、
大学でも二年ぐらいはフランス語をとっていました。

最初は楽しかったんです。
中学英語の最初のほうのような感じでしたから。

もしかすると、中学英語をフランス語で復習しているような感じが
意外と楽しく思えていたのかもしれません。
多分、中学英語ぐらいの範囲はやった気がしますし。

高校の後半は、ガイドブックのような、パリについて書かれた本を
読解する授業なんかもありましたから、辞書を使ってフランス語を読んでいた
…という風に言っても間違いではないかもしれません。
(まぁ、辞書を使えばフランス語を翻訳できた、ということです)

会話に関しても、当時の中学英語よりはずっと
コミュニケーションを意識したような内容の授業から始まりましたから、
面白いもので、僕が高校生の時には、英語よりもフランス語の会話のほうが
マシじゃないかと感じていたぐらいです。

こういうフレーズを言われたら、こうやって返す。
そういう会話の応答をベースに勉強していたので
シンプルなコミュニケーションについては、瞬発力があったわけです。

もちろん、バリエーションは少なかったものですが。

結構、真面目にやっていましたし、それなりに楽しんでやっていたんでしょう。
成績も悪くはなかった記憶があります。


それから大学に入って、第二外国語が必修だったので
そのままフランス語で登録しました。

そうしたらクラス分けテストがあって、
高校時代にフランス語をやっていた学生が20〜30人だけ集まることになりました。

で、めでたくテストで必要な点をとって、
「フランス語中級に登録する権利」を獲得しました。
欲しくもなかったのに。

当然、中級のほうが難しいわけですし、色々大変だろうと思ったんです。

当時の僕は今ほど勉強に積極的ではなかったですし、
そもそも勉強ということの意味も良く分かっていなかったものでした。

しかも、他の皆が一年生のフランス語初級をとっているときに、
上の学年のフランス語中級を一人だけ取らなければいけないのも
精神的に負担が大きくて嫌だったんです。

それで頼み込んで、初級を登録させてもらいました。
おかげで、基礎を復習して、楽に良い成績が取れたんです。

今思えば、大学の1,2年なんて大して忙しくなかったんだから
真面目にフランス語を進めていればよかったはずですが…。

「知らない」というのは、そういうことですね。


そんな感じで、僕は年数でいえば、5年ぐらいフランス語を勉強していたんです。

ただ、そこからプッツリと途切れています。

そんな中で英語へ集中的に取り組むようになってきていました。

そして、フランス語講座をチラッと見た。
そうしたら、全然聞きとれないんです。

はるかに英語のほうが分かります。

英語をやってきた成果を少し感じたのとともに、
フランス語とのギャップに愕然ともしました。

大学の頃は英語ができなかったこともあって
フランス語との差をほとんど感じていなかったからです。

それが今や、大きな隔たりが…。

単純に言えば、忘れていることが沢山あるんでしょう。
もちろん、未熟な部分だらけだったとは思いますが、
「これぐらい知っていたはずなのに」という内容が分からなかったんです。

なので、解説を聞いた後は急に「あぁ、そうだったなぁ」と思いだされ
単なるモゴモゴ言っている会話に、聞きとれる部分が出てきます。

ちょっと楽しそうに感じられてきたんです。


それから数日後、一緒に話をしていた人から
フランス語会話を習っていたという話を聞きました。

そこでまた興味が上がります。
さらに、どこの語学学校に行っていたかまでを聞いたら
余計に興味が増してきました。

ですから、今、僕の中でフランス語を勉強したい気持ちが高まっているんです。


ですが、まだ始めないと思います。
ホームページを調べていると、抵抗感が強く出てきますから。

フランス語を勉強し始めたら、英語に支障が出るような予感でもするんでしょうか。

一時的にはあり得ますが、実際に高校の時に両方をやっていたわけですから
そんなに心配がいらないような気もします。

何より、『語学習得』という、より広い学習の範囲に取り組めるので
英語だけを考えるよりも得られるものが大きいようにも思えます。

どうやって勉強したら効率的に外国語を習得できるかを
フランス語を通じて調べ直すことができるんじゃないか、と。

そう考えると、この抵抗感は、いちがいに英語への干渉に対するものではなさそうです。

時期が早いだけなのか、勇気が出ないのか。
やろうと思えば、自習でも取り戻せる範囲があると思っているのか。

まぁ、今は焦らずに熟成しておくことにします。
始めるときが来るような気はしていますから。

2012年08月20日

動かせる意味

まだ歯医者に通っています。

3か所を治療するのに6回かける形。
かなりルーチンワークなようです。

歯と歯の間の小さな虫歯を治すために、
古い詰め物の場所を一度全部取り外して
そこから隣の歯まで貫通させる。

その隙間から、隣の歯の側面にできた小さな虫歯を埋める、と。

奥歯ということもあるんでしょうが、基本的には
大きめの穴をあけて、型をとって、詰め物を作って、入れる
という流れ。

そのために結構深くまで削っているようです。

だから麻酔を使います、と。

その歯医者は新しくできたところで、院内もキレイですし設備もハイテクです。

麻酔は何やら自動化された機械じかけの注射になっていて、
針も凄く細く、麻酔液が少しずつ出るために痛みが少ないというもの。

その上で、表面にも塗り薬の弱い麻酔薬を塗ってから注射となりますから、
麻酔のときの痛みなんて、ほとんどありません。

ちゃんと呼吸に合わせて注射を打ってくれますし、むしろ
注射器を口の中に入れるために唇を指で引っ張られる痛みのほうが強く、
そっちを気にしていれば注射の痛みなんて感じないほどです。

非常によくできた仕組みだと思います。

歯を削っているときには、歯の神経からとは違うような
別系統の痛みが起きることはありますが、まぁ、不快感はほとんどない感じ。

なので、体を緊張させることもなく、ドリルの音にも慣れてきました。


唯一ともいえる難点は、結構な量の麻酔を使っているらしく、
治療後の2,3時間は口の周りに痺れが残っていること。

唇にまで麻酔が効いていて、筋肉が動かなくなっているので
ウガイをしようとすると、口を閉じているつもりが隙間ができてしまって
気づないうちにピューッと水が出てしまう…。

飲食をしたら、知らない間に口から漏れてしまいそうな状態になります。


それで気づいたことがあります。


感覚的には、麻酔が効いていて痺れているので
その場所はボヤーッと広がった感じのように思えます。

が、鏡で見てみると、実際には硬直していて、むしろ緊張感が見て取れる。
少し収縮しているんです。

麻酔のかかっていない側の唇のほうが力が抜けて垂れ下がっていて、
麻酔のかかった側は軽く収縮して、むしろキュッと締まった感じ。

面白いものだと思います。

神経が麻痺していたら、筋肉に収縮のシグナルが伝わらないわけですから
筋肉が緩んでも良さそうに想像しますが、実際はそうではない。
むしろ筋肉は固まるんです。

骨格筋の収縮メカニズムからすると、シグナルがないときには
筋繊維は一定の長さで留まろうとするような気もしますが、
なぜ麻酔で筋肉がリラックスした状態よりも収縮するのかは分かりません。

ただ…
この結果だけを考えると、リラックスして”力が抜けて”、筋肉が柔らかくなるというのは
むしろ積極的に筋肉を柔軟に”動かしている”のではないか、とも思えてきます。

その部分の全ての筋肉が一切動いていない場合には、
局所麻酔をしたときのように、そこの全ての筋肉が少し収縮して止まって
固まってしまうほうが普通だということです。

リラックスして筋肉がダラーンとなるのは、
ある意味では筋肉が自由に動けるように何らかの命令が伝わっていて、
随意的な運動とは違った形で、少しだけ力が加えられているんじゃないでしょうか。

リラックスしたときの筋肉の状態は、
本人の自覚として「力が入っていない」と感じるだけであって、
実際には自覚していない力が入っているから柔軟に動けるようになっている…
そういうことなんじゃないか、と。

そう考えると、睡眠や催眠のとき、あるいはリラックスしているときに、
ピクピクと体が動いたり、意図的には動かせないような動きが起きたりするのも
納得のいくことです。
自分で力を入れているつもりのない力が働いているということですから。


麻酔がかかったときの筋肉の収縮から思ったのは、大袈裟にいうと
人は、どんなにリラックスして、”意識”がなくなっていても、
筋肉は常に動かしているかもしれない、ということです。

そして筋肉が動いていて柔らかくなっている。

固くて動かなくなっている場所があるとしたら、
そこは麻酔がかかっているのと同様に
筋肉が動けるような伝達がスムーズにいっていないのかもしれません。

過剰な一般化をして精神論をいえば、
「生きているというのは、柔らかく動けるということ」
といった感じの印象です。

僕の中では、その感じがシックリきました。

柔らかくありたいものだ、と。

そして反省しました。
僕の背中側は固い。

体の前面に比べると、背面への意識の程度も低いです。
意図的に背面側の筋肉を動かしているときが少ない。

もっと裏側も使えるようになりたいと思いました。

注意の範囲を広げてみるつもりです。

2012年08月17日

繋がりやすい時期

なんとなくの印象なんですが、夏には
負荷がかかっていたところに、歪みが出やすい気がします。

年末に一年を振り返り、
1月に新しい一年の目標を立てる。
あるいは4月に新年度や新たな旅立ちを経験する。
そんな感じの雰囲気があるのと似ているというか。

暑さで体調にも疲労が出やすかったり、
新鮮な気持ちで何かに取り組んできたものが落ち着いてきたり、
様々なものが表れやすい時期なのかもしれない…なんて感じます。

夏休みとか、お盆休みというのは、そんな意味でも
自然な時期にあるように思えたりも。

そう考えると、夏の時期に日常から一度離れて、
『心を広げる』のが大切に感じられてきます。

手段は色々あるでしょう。

旅行に行って、普段と違う景色や文化に触れる。
自然の中で一体感を味わう。
スポーツを通じて、筋肉の動きからストレスを解放する。
田舎に帰ったり、墓参りに行ったりして、過去からの繋がりに気持ちを広げる。

それと同じように、
 自分の内面と深く向き合い、心のメンテナンスと充電をする
というのも大切なんだろうと思います。

それは、他の季節にやるよりも夏が良さそうな気がするんです。

リフレッシュとかリニューアルとか、心機一転とか、
そういうのは新年や春先と結びついているでしょうし、
振り返って整理するには年末あたりが気が引き締まって良いかもしれません。

夏は心が広がりやすいというか、
パキッとした境界が薄れて曖昧になりやすいというか、
そんな傾向がありそうに感じます。

だからこそ、それを活かして、『繋がり』を感じておくと
自然とメンテナンスがなされるんじゃないだろうか、と。

その意味で、
 少し日常を離れて”旅に出る”のに良い時期かもしれない、
と思うわけです。

特に頑張っている人ほど、積極的に自分の奥底と繋がるような
”心の旅”も良いものじゃないでしょうか。

今年は参加していませんが、
夏に宿泊形式のワークショップに出ていたときは
そういう効果を強く実感していたように思います。

そんなのを求めている人も結構いるんじゃないでしょうか。

2012年08月15日

夏の風物詩

この季節になると、いつも思い出すことがあります。

セミです。

セミが地面にひっくり返って、腹側を上にしている。
死んでいるようです。

実際に死んでいるのもいますが、
一部は、まだ生きているんです。

横からつついたり、足を触れたり、ひっくり返したりすると
バタバタと羽ばたいて飛んでいきます。

もう死期を悟っているとも考えられますが、
まだ飛べるぐらいの元気はあるのも事実。

子供のように残酷な無邪気さで、たまに触ってみたりしますが
それがセミにとって、どういう意味を持つのかは分かりません。


良く言われるようにセミが地中で幼虫として6、7年を過ごし
地上に出て一週間だけ活動するとしたら、
あの横たわっている時間は、一生に対して、それなりの比率に思えます。

なのに、もう死んでいるかのようにしています。

”死んだふり”というのは攻撃を避けるサバイバル戦略でしょうが、
セミの場合は、死を待っているように見えます。

不思議に感じるのは、人間の勝手な発想かもしれません。
それでも何かの意味を探したくなってしまいます。

自分の人生をセミになぞらえたら…。

ちょっと感慨深いところがありました。


ちなみに、イソップ童話『アリとキリギリス』は、原作では『アリとセミ』だそうです。

キリギリスの場合とは、随分と印象が違う気がします。

何年も土の中で生活をしていて、やっと地上に出てきた短い期間。
その間を”楽器を演奏して”過ごしていた…。

必ずしも頑張って働いていたアリには共感できなくなりそうです。

2012年08月13日

驚きの対応

英語でプレゼンをするのが役立ちそうだと思ったので
そういうレッスンをやっているスクールを探してみました。

そして、このお盆の期間に短期集中でプレゼン対策講座をやっているところを発見。
相談をして、体験レッスンを受けてみることに。

結局のところ、内容は始まってみないと分からないようだったので
とりあえず5日間集中のコースに申し込んでみました。

ところが、開催に必要な最低人数に達していないとの連絡。
そこで別の提案がありました。

 自由度の高いマンツーマンコースを使って
 カスタマイズした形でプレゼンの練習をしてはどうか?と。

僕の意図は、プレゼンが上手くなることではなくて
とにかく練習をすることだと伝え、対応してくれそうな雰囲気になりました。

コミュニケーションとして考えたときプレゼンの形式そのものが
アウトプットに専念できる点で有効だろうという考えのもとです。

担当のマネージャーは色々とアイデアを出してくれて
こちらの望む内容に近い形を提案してくれたので、やってみることに。


実際に始まってみたら、インストラクターには意図が伝わっていない様子。
形式も事前の打ち合わせとは全く別物でした。

契約書には「短期間のコースだからクーリングオフはできない」とありました。
なので、仕方なく”レッスン”と呼ばれるものに行っています。

こうなってくると、内容に満足できるかどうかは
単純にインストラクターそのものに依存します。

その人の態度に対して満足か不満かが分かれるんです。
どんなサービスを受けるときでも同じですが。


まあ、内容や形式は我慢せざるを得ないところがあるとしても、
時々(本当は高頻度で)ビックリするようなインストラクターに当たります。

中でも、一人のインストラクターには戸惑いました。

冒頭でこちらから「不要だ」と伝えた内容ばかりを声高に説明して
自分が良いと信じる方法だけを『怒りながら』話すんです。

すぐに熱くなって、物凄い剣幕で話す。
表情には怒りに加えて、不満も入っているようでしたし、
全く抑制が利かなくなって、100%の攻撃性に集中しているみたいでした。
いわゆる「キレた」感じというのは、こんなことを言うのかもしれないと思うほど。

自己紹介で名前すら聞きとれないほどの小さな声だった
”大人しい女性”という雰囲気は完全に消えています。

ただ、英語ネイティブではないようで発音も聞き取りにくく、
会話の文法的な構造も理解しにくい人でしたから、
こちらとしては理解するためにも聞き返さなくてはいけない場面もあったんです。

すると、その質問に対して更に攻撃性は激しさを増して
こちらの話なんて一切聞こうとしなくなる始末。

それで内容が納得のいくものであればマシなんですが、
言っていることにも矛盾があるし、質問は無視して話し続けるし…。

不満も高まりました。

もちろん、途中退室しようと思えばできたはずですし、
直接文句を言うこともできましたし、
言い返しても、マネージャーにクレームを言っても良かったはずです。

が、僕の判断は、それを止めました。
もっとヤバイことになりそうな予感があったんです。

凄く防衛的な攻撃性だと感じたので、さらに大変な状態になるか
ガタガタッと崩れてしまうか、そのあたりが心配になりました。

ですから、その予感を感じた後の僕の対応は、とても気づかいに溢れていたはずです。
色々な技術を動員して対処したわけです。

最終的には穏やかになって、インストラクターのほうも落ち着きを意識していたようでした。


おかげで多大なストレスを受ける羽目に…。

文化的なところで、何か不満を与える行動が僕の中にあった可能性も否定できません。
国名は出さなかったもののアフリカだとは言っていましたから、
僕が全然知らないようなルールやマナーが関わっていたのかもしれません。

プライドを守りたかった可能性が、僕の中では最有力ではありますが。

とはいえ、僕の観察が不十分だったのは反省点。
初対面の印象で、しっかりと判断をしていませんでした。

縮こまるように座って、声が聞こえないくらいの話し方だったので
物静かな印象を感じ取っていました。

自分の姿勢や動作に対する意識が低そうで
体表面の筋肉の緊張感も高くないように見えました。
ですから、警戒心があるという印象ではなかったんです。

静かに縮こまるようにしていながら警戒心がない、という組み合わせが
多分、日本人にはあまり多くないと思います。

そのあたりで予想を間違ったんでしょう。

今にして思えば、初対面の緊張感は顔の表情筋に強く表れていました。

ただ、僕はその緊張を縮こまった姿勢や小さな声と関連づけて解釈していました。
おそらく、そこが日本人と違ったんだと思われます。

他にも日本人には見られない注意の向け方や、五感の使い方があったようです。

見慣れていない、経験が少ない。
それによって捉えられなかった情報が沢山あった気がします。

まぁ、お客さんモードで行っていますから、
そんなにインストラクターを観察して対処しようという気持ちもなかったわけですが。

それを差し引いても、日本人では予想できない振る舞いが
他の文化圏には色々と見て取れるみたいです。

実際に関わらなければ見えてこないものが沢山ありますね。

2012年08月10日

お絵かき

久しぶりにイラストを描いてみたら、以前よりも上手くなった気がします。

まさに”自画自賛”というヤツですが、自分の心の中の情景を
直接的に紙の上に出した感じなので、他の誰の絵よりも自分に響くんです。

全く練習をしたわけではないので、知らないうちに変わっていたようです。
NLPをやって、五感の使い方に敏感になったり
頭の中のイメージに対するアクセスが上手くなったせいかもしれません。

一度も描いたことのなかった絵ですが、なんとなく頭の中のイメージを再現するように
紙の上にペンを動かしてみたら、まあまあそれっぽい動きになりました。

僕の中には犬のイメージが結構鮮明に記憶されているのでしょうか。

親犬仔犬2


















いつか本格的に油彩とかも描いてみたい気がしています。

cozyharada at 23:45|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 全般
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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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