2012年09月

2012年09月30日

イヤードラム

最近、仕事の関係で音源の加工をしていたりします。

当然、聞きながらになるのでパソコンにイヤホンを繋ぎます。
音を外に出すと、隣の部屋への迷惑とかが気になりますから
自動的に選択肢はヘッドホンかイヤホンになる、と。


僕は音楽を聞くとき(そんなに聞くほうではありませんが…)、
音質よりも快適さを優先します。

ヘッドホンは、どんなに上等なヤツでも圧迫された耳が痛くなるので
いくつか試した結果として、結局、却下されています。

なので、ヘッドホンとマイクが一緒になった「ヘッドセット」を使う
スカイプとか、英語のテストとかは、身体的な不満が強く表れます。

イヤホンに関しても、最終的には痛みの有り/無しの問題になりました。

それで、『カナルタイプ』を使っています。
これは長時間つけていても痛くない。

ウレタンの耳栓よりも痛くないですし、
密閉されて謝恩される度合いも高いので色々と重宝しています。


ということで、音源加工のときも
パソコンにカナル型のイヤホンをつけて作業をしていました。

で、先日、自宅で風呂上がりにも作業をやったのですが、
本当に入浴直後に作業を再開したんです。

体についた水は拭き取っていても、入浴後で体温も上がっていますし
体の表面の湿度も高いままになっていたようです。

そして、そのままの状態でイヤホンを装着。

若干、耳の中が湿っぽい感じは自覚していましたが
作業を急ぎたかったので、無視してイヤホンをつけました。

そして作業開始から1時間ぐらいしてきたころ
音量が小さくなったような感じがしてきました。

厳密には、もっと早い段階から徐々に変化があったんだと思います。

しかし人間は、ゆっくりした変化には気づきにくいもの。
ある程度、大きな違いに達するまで、無視してしまいやすいわけです。

しかも、音源加工の場合、元音源の録音レベルによって
再生の音量には違いが出てきます。

それで、若干の音量の小ささは、録音レベルの原因だろうと想像して
気にせずに作業を続けていきました。

ところが、1時間を過ぎたあたり。
ハッキリと音量の小ささが気になってきます。

そして、先に作業をして音量を把握しているファイルを再生して
聞こえ方をチェックしてみました。

そうしたら、さっきよりも音量が小さく感じられる。

その瞬間に自覚しました。
耳の調子が悪い、と。

自分の声も、いつもと違って聞こえるぐらい。


それでイヤホンを外すと、耳の中に水蒸気が溜まっているのが分かりました。
明らかに、ジットリと蒸れたようになっている。

おそらく、耳の中が「ふやけた」状態になったんでしょう。

鼓膜はピーンと張っていて、太鼓の皮のようになっているから
空気を伝わる音波によって振動することができます。

それが湿って「ふやけて」いたら、振動の仕方が悪くなるんだろうと考えました。
まさに、太鼓の皮を濡らしているような状態。

英語では鼓膜を『 ear drum (イヤー・ドラム)』と呼びますから
太鼓のようにピーンと膜が張っている必要があるのもイメージできます。

そこで、「こりゃ良くない」と判断して、そのまま作業を終了。
乾燥するのを待つことにしました。


翌朝は普通に聞こえるようになっていましたから問題ありませんが
ちょっとビックリした体験でした。

人体の構造はエレガントだと改めて実感しました。

cozyharada at 23:19|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!心理学 | NLP

2012年09月27日

クロード・モネ

芸術が味わえるようになったのは、NLPをやってからだと感じています。

音楽を楽しめるようになったのもそうですが、
その筆頭は絵画だと思います。

といってもNLPのセミナーを受けて変わってきたというのではなく
「人の主観的な体験の内容」を理解する手段の1つを知ったことで
それを元に芸術作品を体験できるようになったわけですが。

僕の中で芸術の定義は
人の心に訴えかける要素を含んでいること。

そのためには、多くの場合、価値観に通じるものが表現されている必要があります。

より正確には、
 「何を表しているか」よりも「どのように表しているか」が重要だ
ということになります。


そして人は、物を見たり、聞いたりするときに
自分なりの当たり前の体験の仕方がありますから、
芸術家が表現した部分に注意が向くかどうかは
個人差の大きなところになってくるんです。

その意味で、僕が芸術を楽しめるようになったのは
それぞれの芸術家が強調して表現している要素を捉えやすくなって、
自分の見方や聞き方を芸術家の表現に合わせやすくなったからだと思います。

例えば絵画に関して言えば、
僕は元々、物を見るときに対象物にピントを合わせて
途中の空間を注意から外すようにして見る癖がありました。

ギュッとズームインして見る感じです。
眺めるというよりも、見つめる感じ。
いかにも顕微鏡で観察するようなイメージでしょう。

ところが、世の中には、そういう見方をしない人も沢山います。
全体を眺める感じで広く捉える人もいますし、
対象物を視野の中心に置きながらも、対象物と目の間の空間を一緒に見る人もいます。

印象派の画家の中には、そういう感じで、
目と物との間の空間に焦点を当てた絵を描いている人がいるように思えます。

モネは、多分、その代表でしょう。

モネは空気を描きたかったんじゃないでしょうか。

モネの風景画には、空気の透明感に色々なバリエーションがあります。
時間帯によって、季節によって、空気の様子が変わることが見えていた。
それで、ああいう描き分けをしたんじゃないか、と。

そして、その空気の質感は
四季のある地域で生活をしている人にとっては
様々な気持ちを思い出させるアンカーになり得ます。
情感が沸き上がりやすいんです。

絵の中にある対象物を中心に見やすいものでしょうが、
手前の空間に表現されている空気にも、意味のある情報があるようです。

そういう見方をするのも面白いものだと思います。

2012年09月25日

大事なこと

悲しみに打ちひしがれるのはツライ。

だからといって、
悲しみがあることに気づかないのは残念なことかもしれない。

悲しみの奥にある大切な気持ちに気づくと
ありがたみが感じられ、受け入れやすくなるから。

そのとき、悲しみへ存分に浸ることが意味を持つようになる。


しかし。

悲しみの奥にある大事な意味を分かっていながらも
その悲しみを感じていることが許されない状況は、
もっと苦しい。

それだったら、
悲しみの底にある意味に気づかないでいるほうが
まだマシかもしれない。

悲しみに耐えようとしたり、忘れようとしたりできるから。

さらに悲しみそのものに気づかなくできれば
もっと気が楽でいられるんじゃないか。


ただ、知ってしまったからには
悲しみの意味を忘れることも
悲しみそのものを無視することもできない。

残された方向性は
悲しみを心ゆくまで味わう機会を
作れるように取り組むこと。


…そんなことを感じる今日この頃。

悲しみを味わうことが許されない状況にならないよう
自分でコントロールできるようにしておこうと思います。

2012年09月23日

有効スペース

ヨーグルトとか、カップのアイスクリームとか
外ブタを開けると、内側にペロッとめくるタイプの内ブタがあります。

食べるときには必ずめくって、そこが目に入る。

最近は、そこに豆知識や
メーカー独自のお役立ち情報が書かれていることもあるようです。


あのスペースって、広告用に使えないんでしょうか?

食品会社がライバル企業の宣伝をするとは思えませんが、
タイアップに近いようなイメージで、何かの宣伝ぐらいできそうな気がします。

実際、商品そのものを映画やゲームと関連させたりはしているわけですから。

その食べ物が好きなものだった場合、ペロッと内ブタをめくる瞬間は
かなり楽しみな気持ちと結びついているはずです。

内ブタをはがす行為と、楽しみな気持ちがアンカーされているんです。

そこに広告の内容を結びつけると、その商品やブランドに対して
好意的な気分のアンカーを追加することができると考えられます。

場合によっては、商品やメーカーのロゴだけでも良いぐらいかもしれません。

これぐらいだったら、心理学的な実験を組み立てるのも簡単ですから
そこそこのデータを伴って、効果を訴えられそうな気がします。

カップの底だと盛り上がった気持ちも収束し始めているでしょうから、
やっぱり楽しみにしている度合いの高い内ブタの裏側が効果的だと思います。
動機づけと結びつくんじゃないか、と。

子供のころから作られてきたアンカーは結構、根強い場合がありますから
そこそこ効果的なんじゃないかと思っているんです。

まぁ、一部の人にしか訴求しないというのは避けられませんが。

cozyharada at 23:17|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 心理学

2012年09月21日

見分けがつかない

最近始めた「一般英語」の講座。
なんだか意味がないような気がし始めています。

相当、自分で気をつけて取り組まないと無駄に終わりそう。


それはさておき、実は、そのクラスに数人の外国人がいます。

同じ曜日に他のレベルの講座もやっているようですが、
全体的に結構な数の外国人がいるみたいなんです。

日本に住んでいて、英語を勉強しようという
英語圏出身ではない人たちが集まってくる場でもあるのでしょう。

で、僕の出席しているところには、モンゴル人がいるんです。

これが全然、見た目では分からないんです。
全く気づきませんでした。

当然、英語のクラスですから質問なんかも英語でします。
離れた席にいると自己紹介をすることもないので名前さえ知らないわけです。

あるとき、講師がその人を指名しました。
それで名簿を見て、名前を呼ぼうとしたのに、読めなかった。
発音を聞くと、始めて聞くような音の組み合わせでした。

講師が出身を聞くと、「モンゴリアン」との答え。

モンゴル出身だったんです。


日本人の英語は義務教育から”解読”の作業として勉強が始まるせいか
あまり発音を意識していないケースが多いように感じます。

そのまま上達してきても、発音は無頓着なままだったり、
始めたころの癖が抜けなかったりすることが多い。

その点、帰国子女やインターナショナルスクールで育った場合には
日本人であっても、かなりネイティブっぽい発音に近づきます。
細かな癖があっても、雰囲気を日本語から離そうとするように感じられます。

その意味でいうと、そのモンゴル人の発音は日本語っぽくなく
帰国子女の日本人に多い雰囲気に聞こえました。

態度や振る舞い方、仕草や表情なども少し日本人らしくなくて、
それが逆に帰国子女っぽい感じか、あるいは
少なくともアメリカ在住経験のある感じに見えたんです。

ですから、そういう非言語メッセージのパターンからは
「アメリカでの経験が長い日本人」ぐらいにしか見えなかった、と。

何より、顔つきが日本人と区別できませんでした。

モンゴル人は、こんなにも日本人に近い顔立ちなんだと改めて実感。


実は、僕がモンゴル人を見たことがあるのは、これで2人目。
(もしかすると見ていても気づいていないだけかもしれませんが)

最初の一人は、店でアルバイトをしていた店員さんでしたが、
教えてもらうまで日本人だと疑っていませんでした。

「アジア人」と、ひとくくりにしてしまう言い方もありますが、
僕が日本人を見慣れていることもあって、
日本人は他のアジア人とは見た目からも区別できることが多いように思います。

実際は、遺伝子レベルで決まる外見の部分だけでなく
「育ち」によって決まる振る舞い方のパターンも重要な判断材料にしています。

その意味では、「日本育ち」の人かどうかは区別しやすい、といえます。

にもかかわらず、です。

モンゴル人は、日本育ちでなくても、区別ができませんでした。
二回とも。

今回は英語を使う環境だったから、余計にアメリカンな雰囲気が見えて
日本人っぽさに目を向けなかったのかもしれません。

それでも、そこを差し引いたとして、
あの顔立ちと非言語の雰囲気は、日本人の平均的な範囲に収まってしまいます。

その人が日本語を話さないことは判明していますから
モンゴルからやってきたらしいことは想像できます。

モンゴル育ちでも、モンゴル人は話すまで区別できなかったんです。


その可能性を自覚して、そういう目で観察を続けていけば
特徴が見つけられるかもしれませんが、少なくとも現状では無理でした。

想像ですが、ひょっとすると…
モンゴル文化における自然との関わり方や
集落の中でのコミュニケーションのスタイルなんかが
伝統的な日本文化と近い部分があるのかもしれません。

例えば、同じ日本人でも海外育ちの人は違った雰囲気を放っています。
育った環境と文化の影響は、とても大きいはずなんです。

そのモンゴル人は、きっと英語を言語として一生懸命に身につけようとしてきたんでしょう。
だから非言語の部分まで英語のスタイルをまとっているんだと考えられます。

しかし、それを差し引いた残りの部分は、やっぱり日本人ぽかった。

何か、その根底にある雰囲気を生み出すものが
モンゴルの風土と文化にあるんじゃないだろうか?
そんな気がしてきているんです。

なんだか、実際にモンゴルを見てきてみたい気分です。

2012年09月19日

英語”を”勉強する

大学の生涯学習プログラムが提供している
「 General English (一般英語)」のコースを取ってみました。

主に社会人を対象としたコースです。
夏学期にカウンセリング講座を取っていたのと同じ枠組み。
週二回の平日夜に行われるコースです。

カウンセリング講座はネイティブスピーカーが多かったんですが、
こっちは英語を勉強する講座なので日本人が中心。
少し日本以外のアジア人が混ざっている感じです。


取ってみた理由は、もちろん英語力を上げようということですが、
今回のテーマは精度を上げるほうに置いています。

学校だと若者ばかりですし、ネイティブも多いので
会話のスピードが速いんです。

すると、こちらもペーシングしようとしてスピードが速くなります。
無理がかかっているわけです。

もちろん、負荷をかけることでトレーニングになっている部分はありますが
どうしても内容を伝え合うほうがメインになって、
言語活動としてのクオリティへの注意が下がってしまいます。

そうやって徐々に慣れていって、自然な英語を身につける、
…それは大人になってからでは少し遠回りじゃないかという気がしているんです。

むしろ、大人の言葉遣いを修正してくれる機会は多くないでしょう。
日本語でも、そうだと思います。

誰かが間違った言葉の使い方をしているのに気づいたとき、
それを伝えるかどうかは迷いどころです。

例えば、僕がカウンセリング講座を受けていたインストラクターは
大学からアメリカに行って、大学院を終了後、現地でカウンセリングをしていた人です。
ですから、とても流暢に、ともすればネイティブよりも早口で英語を話していました。

表現も多彩で、英語力としてはネイティブに近いと評価される気がします。
発音も日本人らしいアクセントなんかは大部分が除かれているようでした。

が、「 work 」という単語の発音だけが違うんです。
これだけ日本人っぽい。

カタカナにすると「ワーク」のほうが近いでしょうが、
その人は「ウォーク」と発音していました。

一瞬、「 walk 」が頭に浮かぶぐらいの発音です。

まぁ、別に日本人ですから少しぐらいおかしいところがあったって問題ないでしょうし、
日本在住の外国人タレントだって日本語には変なところがありますし、
それに日本人だって変な日本語を使う人がいますから
本来であれば大して気にならないはずのところだと思います。

実際、心理学の授業を受けている日本人講師の英語の発音は
かなり発音にオカシイところがあります(アクセントの位置が違ったりすると厄介)が、
逆にそっちが当然だと思っているので、大して気にならないわけです。

一方、そのカウンセリング講座のインストラクターの場合は
全体的な英語のレベルが非常に高いからこそ、「 work 」の発音が気になるんでしょう。

おそらく、「 work 」という単語は日本にいる間、中学ぐらいのときに覚えたはずです。
そのときに間違った発音で覚えてしまったと想像できます。

もしかすると、その頃は海外で働くなんて考えていなかったのかもしれません。
単純に学校の授業で必要だから、勉強のためだけに英語をやった。
会話なんて想定していなかったために、適当に単語を覚えてしまったんじゃないでしょうか。

そういう時期に間違って覚えてしまったものは、なかなか修正されません。

全体的に英語のレベルが高いほど、そうした細部のミスは
実際のコミュニケーションの最中には、誰も指摘してくれないんだと考えられます。

それでも伝わってしまいますから。

また、ソフトバンクの孫正義社長の英語は
三人称単数現在の「 s 」を飛ばすことで有名ですが、
あれぐらいの立場になったら、わざわざ誰も文法の間違いを修正してくれないと思います。

外国語をコミュニケーションのツールとして使うようになって、
言語運用能力ではなくコミュニケーションの中身で評価されるような場面では、
外国語の文法や発音の間違いなんて無視されるのが普通だということです。

でも僕は、それでは嫌なんです。

言語は人類が脈々と受け継いできた財産だと思っていますし
言語運用の仕方にも、その人特有の内面が表れるはずですから
その意味でも繊細に相手の英語を理解できるようになりたいんです。

自分でも同じような体験ができるようになりたい。
日本語を使うときと、英語を使うときの差を明確にしたいんです。
そのためには両方のレベルが同じぐらいである必要があります。

それで、スムーズさに加えて、言語のルールとしての正確性も高めたいわけです。

自分の中にあるミスの癖を吟味しておく時期を定期的に作っておけば
そうした知らないうちに間違って覚えてしまうような事態を避けられるんじゃないか、と。

それが一般英語のコースを受けることにした理由です。


もう1つ、日本語力に近づけるという意味では
会話の内容を正確に保持しておけるようになる度合いも高めたいところ。

相手の話も、自分の発話の内容も、聞いたときに保持しておきたいんです。
頭の中に保持しながら、「何がどこを説明しているか」といった関係性を
キッチリ追えるようにしておきたいんです。

自分の話を耳から聞いて、一文単位で文法的な構造をシッカリさせる。
そういうトレーニングをやると良いんじゃないかという考えです。

そのためには、ある程度、落ち着いて取り組めることが求められます。
内容重視の速いコミュニケーションの場では難しいんです。

言語活動そのものに注意しながら練習する場所が欲しかった。

それには逆に日本人相手のほうが良いと考えたわけです。

ネイティブよりも理解してくれませんから。
自分が話しながら相手の表情を見て、
その場で話し方をアレンジすることも必要になると想像しました。

ゆっくり分かりやすく丁寧に、ハッキリと正確に。
そういう会話の練習には日本人相手が効果的じゃなかろうか、と。


ただ…。
授業の内容に関しては満足できるか定かではありません。

一般英語ですから文法やボキャブラリーも含まれます。
それも正確さを上げるには必要だとはいえ
トレーニングの時間が物足りなくなる可能性があります。

教科書に沿った進み方だとしたらトレーニング的な側面が弱そうに感じます。

ネイティブが考えた英語教育のスタイルは
あまり日本人向きじゃないような気がしているんです。

おそらく、ラテン語系統の言語から英語を学習するには
文法と単語から入っていくだけでも効果があったんでしょう。

日本人には別のトレーニングが有効かもしれません。

そうした英語教授法にも目を向けながら、
一般英語講座を受けてみようと思います。

2012年09月17日

お疲れさまの姿

9月16日。
実家で飼っていた犬が死にました。
家に来てから9年ぐらいです。

すごく気を遣う犬でした。
家族のために沢山のことをしてくれていた気がします。

最後の仕事は、小学生の甥っ子2人に
命の終わりを見せることだったのかもしれません。

まるで日曜日には小学校がないことを知っていたかのように
皆の集まる前で息を引き取ったそうです。

僕はセミナーだったので立ち会えませんでしたが。


疲れてグッスリと眠っているように穏やか顔をしていました。
悪性腫瘍が原因だと想像されるのに、苦しそうな顔ではありませんでした。

何かをやり遂げたかのように、力の抜けた静かな顔。
なんだか寝ているんじゃないかと思うようです。

体重40kgぐらいのゴールデンレトリーバーでしたから
全ての関節を伸ばして横になっている姿は、だいぶ大きく見えました。

人間の場合は棺桶に入った姿を目にすることが多いものの、
犬の場合はそのままの姿だからこそ逆に不思議な感じがします。

触って初めて、生きていないことを実感できるぐらいでした。


これまでにも一匹、10年前にゴールデンレトリーバーが旅立っていますが、
あのときに感じていたのとは違うものを、今回は受け取れた気がします。

父も前回ほどの落ち込みではない様子。
少しずつ受け入れる準備をしていたのでしょう。
「後悔はない」と言っていましたから、心ゆくまで接したんだと思います。

とはいえ、今後はやっぱり心配ではあります。

僕は違う場所に住んでいますが、両親は犬のいなくなった家に住み続けます。
犬を思い出すトリガーが、無尽蔵に埋まっている場所にいるわけです。
思い出して、いないことを自覚する機会も多いでしょう。

自分なりに最大限の努力で両親と関わってきました。
小手先の技術が役立つ場面ではありませんが、
これまでに真剣に取り組んできて良かったと感じています。


反面、僕の内側に自覚しながらコントロールする時間も多かったので
素直に別れの悲しみを味わいきれなかったかもしれません。

しかし、それはもう無理な注文なんでしょう。
以前のように悲しみに100%身を任せることはできない気がします。

前の自分には理解できなかったメッセージを感じ取れるかわりに
無頓着に反応するのは難しくなったようです。

挙句、今の自分の身体には
悲しみの奥に怒りが潜んでいることにも気づいているし…。

何も分からないまま、自分勝手な気楽さで嘆いていた
10年前の別れが懐かしいような感じもします。

難しいものです。



1つ違いを思い出せるのは、10年前の葬儀のときには
「もっとああしてあげていれば…」という後悔も沢山あったのに対して、
今回は家族全員が「ありがとう」と言いながら見送れたことです。

皆から「ありがとう」と言われながら旅立っていくのは幸せなことでしょう。

そして同時に、送る側が後悔を感じながらではなく、
「ありがとう」という気持ちになれたことが大きな意味を持っている気がします。

それは何となく、
 旅立つ側が、見送る側を「ありがとう」という気持ちにさせてくれた
ような感じがします。

それが最後の贈り物だったんじゃないだろうか、と。

2012年09月14日

介護人材マネジメント

雑誌に記事が載っています。
こちら。

介護人材9月号




















『介護人材マネジメント』という定期購読の専門誌なので、
普通に書店からは買えないようですが、
福祉系のお仕事をしていて施設で購入していたりしたら読んでみてください。

「ホンネを見抜く」技術というテーマ。

何回かの連載になる予定です。

ちょっとお知らせでした。

2012年09月12日

マウスパーティー

このサイトが面白いです。
>> 「 Mouse Party」

ユタ大学の学習用ホームページで
麻薬のメカニズムを説明したもの。

色々な種類のドラッグや、アルコールが脳内でどう機能しているかを教えてくれますが、
その内容に興味がなくても、遊びとしてチョット楽しいんです。

それぞれのドラッグを使っている状態のマウスがアニメーションで描かれていて
マウスは全部、典型的な症状を示しています。

それが可愛らしい。


マウスポインター(パソコンのほう)を動かすと実験者の手が動くので
それぞれのマウスの上に移動させて、掴み上げることができます。

そして、それを近くにある椅子の上にドラッグ(パソコンの操作のほう)すると
そのマウスが分析装置に運ばれていきます。

そこから先は各ドラッグのメカニズムの解説です(英語)。

脳内の神経伝達物質の話ですから、僕は興味がありますが
そうでない人にはどうでもいい話かもしれません。

ただ、それぞれのマウスの様子がコミカルで
しかも非言語メッセージとして上手く表現されているので
それだけでも一見の価値ありじゃないかと思います。


ちなみにマウスを椅子の上に乗せて、分析装置に入れた後は
「 eject mouse 」のボタンをクリックすると、元の画面に戻ります。

そのときのマウスの扱われる様が厳しい。

色々な表現があって面白いでしょうから、ちょっとオススメです。

個人的には、メタンフェタミン中毒マウスが痛々しく感じます。

2012年09月10日

「気づき」と「アウェアネス」

アンナ・スウィルというNLPのマスタートレーナーがいます。
ハートウォーミングな雰囲気の奥に、芯の強さを秘めたような人です。

見た目は『ムーミン』に出てくる『ミー』みたいな感じ。

その人が提唱している考えに
『 model of consious communicator (意識的なコミュニケーターのモデル)』
というのがあります。

三角形の頂点に、
”重要な3つの要素”を書いたもの。

この”重要な3つの要素”という言い方も曲者ですが、それは後ほど。

で、その3つとは
・ awareness (気づき)
・ non-judgement (無批判)
・ compassion (慈愛)
だと言います。

簡単な説明の仕方として良くなされているのが
「コミュニケーションをするときに3つの大切な要素があります。」
「この3つをバランスよく持って、ニュートラルにいるようにしましょう。」
なんていうもの。

”スウィルの三角形”なんて呼ぶ人もいますし、
「3つの中心にいる」から”センタリング”なんて呼ぶ人もいます。

スウィル自身がどういうつもりで作ったモデルで
どういう説明をしていたのかを僕は聞いたことがありませんから
何が元々の解釈かは分かりません。

ただ、僕が気になるのは、このモデルのタイトルです。

『 model of consious communicator (意識的なコミュニケーターのモデル)』

このタイトルについて考えると
安易に「3つをバランスよく保っているのが大事ですよ」
なんて言いにくくなる気がします。

そもそも「バランス良く」という表現は、
偏ったときに望ましくない結果に結びつくとき、
適度なところで調和を保つようにしよう
という意味で使われる表現だと思います。

『気づき』と『無批判』と『慈愛』が偏ったとき
どんな悪影響が出るのかはチョット想像が難しいです。

例えば、『気づき』と『無批判』が高過ぎて『慈愛』が足りないと
どんな状態になってしまうのか?という話です。

まぁ、その意味では
「3つが大事ですよ」
ぐらいでちょうど良いのかもしれません。

しかし、それでも
『 model of consious communicator (意識的なコミュニケーターのモデル)』
というタイトルとの関連が浮かびません。


僕が最初に、このモデルのタイトルを聞いたとき、少し意外な感じがしたものです。

「あれ?無意識ではなくて?」という感じ。

当時はNLPで重視しているコミュニケーションは
無意識とのコミュニケーションだ、といった考えを教わっていましたから。

意識的なコミュニケーションよりも、無意識的なコミュニケーションのほうが
なんだか大事なような印象を持っていたわけです。

「意識的な」という言葉を、「意識との」というニュアンスに捉えたかったようです。
少し角度を変えたとしても、意識的にコミュニケーションをしている段階は
”ワザとらしい”と思っていましたから、
自然に(=無意識に)できたほうが良さそうだとも思っていたんです。


それから色々と勉強をして、トレーニングを積んでいく中で
段々と「意識的なコミュニケーション」のニュアンスが変わっていきました。

むしろ「全てを意識して(=自覚して)コミュニケーションする」ほうが
無意識的に(自覚せずに)反応してしまうよりも重要だと考えるようになったんです。

その過程では、スウィルにスーパーバイズを受けたこともあり、
彼女が「意識的なコミュニケーション」を重視していることも実感できました。

「トレーナーとして人前に立つときには、自分の全ての振る舞いが
 受講生に影響を及ぼしていることを自覚して、
 全ての振る舞いをコントロールできるように気づいていなければならない」
というのが教えだったんです。

自分にどんな口癖があるのか、どんな姿勢をしているか、
どんな仕草をしているか、どんな目線の配り方をしているか…、
そうした全ての振る舞いを自覚している必要がある。

そのあたりを細かくチェックされました。

「あなたが、こうやって言ったとき、全員がテキストのページをめくっているでしょう。
 ほら。ここでペラッて鳴っている。このときに、皆がテキストに集中したのよ。」
そんな感じです。

もちろん、それが良いか悪いかの話は次の段階です。
そういう影響が出ていることを予測して、そういう風に振る舞ったのか。
それが、どういう意味を持つのかを考えているのか。
そちらが重要だ、と。

これは今にして思えば、
「意識的な振る舞い」か「意図的な振る舞い」か、の違いです。

全てを理想的にコントロールする必要があるかどうかではなく(意図的に)、
自分の全ての振る舞いと、その影響を自覚して、修正できるようにする(意識的に)
ようにするということでしょう。

全てをコントロールしたり、理想的な振る舞いだけを示すのが
必ずしも良い影響を及ぼすとは限りません。

特に真面目で誠実な受講生ほど、”正しい”ことを学ぼうとしますから
「これが理想的だ」という振る舞いだけをしていたら、
「〜でなければならない」という制限を追加していることになってしまいます。

であれば、一般的には「良くない」とされることを、あえて示すほうが
「このぐらい適当だって良いんですよ」という見本になるかもしれません。

「間違い」だって、良く使うフレーズだって、当然あるものです。
ただ、それに気づいていれば、修正したり、調整したりできます。

例えば、言い間違いをしたとして、それに『意識的』であれば
何食わぬ顔で修正することも、それをネタに笑いをとることもできます。

その振る舞いが、受講者側にメッセージとなるわけです。
「間違えてはいけない」という考えが強い人には、気楽さを伝えるかもしれませんし、
「失敗すると落ち込む」人には、失敗が問題にならない見本になるかもしれません。

ですから、自分の振る舞いに『意識的』であるようにしていることが大切で、
それは必ずしも「全てを意図的にコントロールする」こととは違う、ということです。


僕の中には、スウィルの教えもそうですが、
主には、これまで続けてきたコミュニケーションのトレーニングを通じて
「自分の振る舞いを自覚していること(意識的であること)」の意味が
とても重要なものとして染みついている気がします。

その観点からすると
『 model of consious communicator (意識的なコミュニケーターのモデル)』
というのは、「意識的」なコミュニケーションの重要性を説明していると感じるんです。
 
 トレーナーであれ、NLPの実践者としてであれ、そういう立場から人と接するときには
 「コミュニケーションに対して意識的な人」として振る舞いましょう。
 そのためには、3つの要素が大切です。
…そういう話なんじゃないか、と。

すると日本人が大きく誤解しやすいのが
『 awareness (気づき)』
でしょう。

日本語で『気づき』というと、
”発見”とか”ひらめき”とか”洞察”とかに近いニュアンスだと思います。
一瞬に起こる出来事です。

ですから、「こんな気づきがありました!」なんて言うわけです。

それは言い換えると
「こんなことを発見しました」
「ずっと答えが見つからなかったんですが、ひらめきました」
「色々と考えを巡らせたら、こういう洞察に辿り着きました」
といった感じ。

英語にするなら
「 finding 」とか「 realization 」とか「 insight 」とか「 inspiration 」とかでしょうか。

日本語の『気づき』は、「気づく」という動詞から派生しています。
ですから、一瞬の出来事に対応するんです。

一方、『 awareness 』は、「 aware 」という形容詞から派生しています。
「気づいている」という状態を表す形容詞がベースなんです。

なので直訳すれば「気づいていること」となります。

ただ、それではあまりにカッコ悪いので、
近い単語として「気づき」を当てたのでしょう。

残念ながら、この違いは大きい。

日本語の「気づく」は、英語にすると
「 find 」か「 notice 」か「 realize 」などに近いはずです。

『 awareness 』は、日本語にすると
「気づいていること」とか「自覚(していること)」といったニュアンスだと思われます。
「 consciousness (意識していること)」に近い単語なんです。

すると、
『 model of consious communicator (意識的なコミュニケーターのモデル)』
の3要素の1つ、
『 awareness (気づき)』
は、本来
『 awareness (自覚していること)』
というほうが良いと考えられます。

『気づき』じゃ遅いんです。
最初から、ずっと『気づいている』状態を続けているのが『 awareness 』ですから。

コミュニケーションの最中には、「(色々なことに)自覚していること」が大切だ、と。
そういう説明だったんじゃないかと思えます。

相手の反応や振る舞いであれ、
自分の中に沸き起こる反応や、自分の何気ない振る舞いであれ、
色々なことに「気づいている」状態を保ちながら
コミュニケーションをしていく。

それが『意識的なコミュニケーター』、つまり
「コミュニケーションに対して意識的でいる人」だ。

そういう説明なら、タイトルと内容に一貫性が感じられます。

自覚しながらコミュニケーションすることの大切さを説いたモデルだとすると
僕がスウィルからスーパーバイズを受けた内容とも合致する気がします。

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《カウンセリング講座》
〜セルフイメージの整え方〜


【日時】 2017年4月23日(日)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    303集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分


詳細はこちら>>
次回開催は6月の予定


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《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


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《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

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次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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