2012年11月

2012年11月30日

テストの受け方

期末試験を受けました。
2教科。

現役で学生をやっていた頃にはストレスでしかなかったテストですが
これは実際のところ、なかなかエキサイティングで楽しいものです。

インストラクターの個性や能力も見て取れますし、
自分の記憶の定着度を測れるのも実用的。

特に、分からなかったところ、もう少しで思いだせなかったところなどは
テスト終了後にチェックして「ああ、そうだった!」という感じが味わえるので
その後の記憶への残り方も良好でしょう。

大学の講師は必ずしも、その分野の専門家ではありませんが
それでも道端で100人にアンケートして得られる知識量と比べると
その分野の情報のポイントは掴んでいるはずです。

なので、自分の興味のポイントと、
その分野の人が一般的に重視する知識のポイントと、
両方を比較することもできます。

「この業界の人は、この情報を重視するのね」
という客観的な知識も体得できるわけです。

学生の頃はテストの意味すら考えず、
やらされるから受けていただけでしたし、
点数が後に響く場面が多かったので高得点を取るように工夫していました。

おそらく、大学教授であってもテストの実用的な意味合いを深く考えて
学生に対して役に立つものを作ろうと努力する人は少ないんじゃないでしょうか。

でも実際には、その効果と意味合いを自覚したうえで利用すると
テストは非常に価値のあるものだと思います。


そして学習効果を高めるには、その人が
80点以上95点未満程度のテストを繰り返して、
できる範囲を少しずつ広げていくのが良い気がします。

学生の能力を判定する(テストする)目的であれば
平均が70点ぐらいで、正規分布になるようなものが良いのでしょう。

ですが、本人の理解度と記憶の定着度を調べる(テストする)のなら
もっとできる状態のテストを繰り返すのが良いと思います。

そうすると、「テストをやれば高得点が普通」という状態に慣れて
”できなかったところ”が際立って印象に残ります。

そこをテスト後に復習すると、学習の効果が高まる。

それで「ほぼ完璧」という状態を積み上げていくという作戦。

逆に70点ぐらいだと、できなかったところが複数あるので
一度に復習しても印象に残りにくいんじゃないか、と。

復習して分かるようになっても、次にテストをしたときには
「以前はどこが分からなくて、今回はどこができるようになったのか」
を把握するのも難しくなってしまうでしょう。

テストをそんな風に利用してみるのも良いかもしれません。


ちなみに、テスト中の様子に注意を払っていると
どうもアメリカ人の学生には『見直し』という習慣が少ないようです。

一人だけ丁寧にチェックしている人を見かけましたが
あとは大体、一通り最後まで終わったら、その場で提出といった感じ。
終わったら教室を抜けられますから。

一般的に考えて、しばらく考えて分からなかったもの、思いだせなかったものは
いくら時間をかけても答えが出てくることは少ないように思えます。

その意味では、できるところが全部終わったときを
自分のテスト終了時間としても、それほど大差ないでしょう。

注目すべきは、ここ。
『大差ない』です。

ここが日本とアメリカのテストに対する意味づけの違いを反映しているんじゃないか、と。

つまり、
日本人はテストで1点、2点を競うような取り組み方を身につけるように
受験と学校教育のシステムが作られているのに対して、
アメリカでは、それほど1,2点の違いを気にしないで進んでくるのではないか?
という推測です。

アメリカの大学入試では、日本のセンター試験に対応する
SATというのを受けることになっているそうですが、
それとて入学判定の一部に過ぎません。

最終的に合格するかどうかは、書類やエッセイ、推薦状など
全てが総合的に判断されて決められるそうです。

また、このSATというのもハードな仕組みになっているようなので
じっくりと時間をかけて見直したりする形にもなっていないみたいです。
一発勝負の雰囲気が強いわけです。

一方、日本のテストには、もっと時間に余裕のあるタイプのものが見受けられます。

そして、テスト中も、終わったからといって早く退室できない場合もある。

僕が通っていた大学は、テスト開始から何十分かは
どんなに早く終わっても教室から出られないルールになっていました。

となれば、早く終わったテストの残りの時間は
見直しのために使うことになるのが自然でしょう。

それでウッカリした間違いに気づいたりすれば
見直しの重要性を体験して、染みついていくこともあると思われます。

もし、アメリカの教育の流れにおいて、テスト時間の使い方が
早い段階から自由なスタイルだとしたら、見直しの習慣も
あまり身につきにくいかもしれません。

良く言えば、日本人のほうが「一点の重み」を知っていることになりますが、
裏を返せば、「一点に左右される」ような仕組みの中で
教育を受け続けているということになりそうです。

一概にどちらが良いとは良いずらいところでしょうが、
個人的には、見直しをして、ミスのチェックをするスタンスのほうが好きです。

何かを仕上げるときに、最後まで気を抜かないということに繋がる気がしますから。

2012年11月28日

【補足】カウンセリング講座について



 カウンセリング講座『ペーシング』実践練習
 12月22日夜間 18:30〜21:30

 《申し込みは後日》




カウンセリング講座に関して2つの追加情報です。


1つは補講について。

「この回に出たいけど、参加できない」
「この回のトレーニングをもう一度復習したい」

そんなときは、お誘い合わせの上、『補講』をお申し込み下さい。

お一人では実習がやりずらいところがありますので、
2,3人程度から濃密なトレーニングを承ります。

ご興味がありましたら、直接メールでお問い合わせください。


もう1つは、『教育セラピー』について。

あまり好みの呼び名ではありませんが、
カウンセリングや心理療法のトレーニングで使われる用語なので
呼び名として、そのまま使わせてもらいました。

カウンセラー自身が、カウンセリングを受ける体験をするものです。
その後で技術的な解説が加えられます。

カウンセリングの流れを把握したり、実践的な技術を知るのに効果的です。

特に、本講座ではセラピー技術よりも、ニーズ把握を重視しています。
ニーズ把握の後に、どういった技術を使って変化を引き起こすか。
その部分を、実際の体験を通じて知って頂くことができます。

何より、カウンセリングをしていると、カウンセラー側の問題が
クライアントとの関わりに影響を及ぼすことが多々あります。

相談援助の事例検討会などで持ち込まれるテーマは、ほぼ全てにおいて
カウンセリングを担当した方の個人的な課題がカギになっているものです。

援助しているつもりが、個人的な想いによって事態が複雑化してしまう。
ニュートラルに関われなくなってしまうようなケースだということです。

そして、上手く対処できなかったことに加えて、
本人の問題から生まれる感情的な”わだかまり”が印象を強めますから、
どうしても「あのケースを振り返って、どうすべきだったかを整理したい」
といった気持ちが生まれやすいわけです。

こうした事態を防ぐ方法は大きく分けると2通りです。
・自分の問題が引き出されやすいパターンを自覚しておいて、注意する。
 (場合によっては、自分が関わることを避け、他者を紹介する)
・自分の問題と向き合って解決の取り組みを行い、問題が起きなくする。

カウンセリングのトレーニングを受けている側が
自らの課題を解決するセラピーを受けるメリットは、ここです。

自分が適切に対応できるケースを広げておくわけです。

実践的な技術のトレーニングのため。
セラピー技術の習得のため。
自らの課題解決のため。
…そうした目的にご利用ください。

講座にお申し込み下さった方には、こちらからご案内のメールを差し上げていますから
ご関心がありましたら、そのメールアドレスに
 『教育セラピーへの問い合わせ』
と題して、直接メールをお送りください。

折り返し、詳細をお知らせします。

2012年11月26日

どんな性格になりたいですか?

少し前、学校の生涯学習プログラムで行われている
「一般英語」の授業でのことです。

僕が初めて受けた、英語のグループレッスン。
グループで勉強しますから、生徒同士でお互いにディスカッションして
会話の練習をするようなエクササイズが多かったんです。

その日の話題は、『人物について描写する』というもの。

そのため、『性格』を表現するような形容詞を勉強していました。

リストの中に、
”正直な”、”気楽な”、”親切な”、”正義感のある”、”フレンドリーな”…
といった単語が数多く並ぶ。

生徒同士で、そのリストから自分の性格を表現するものを選び、
その理由について説明してみよう、というコーナーでした。

引き続き、自分が嫌いな性格についても説明するエクササイズ。
もう、この辺から僕には答えにくい議題となってきます。

あらゆる『性格』がその人の個性ですし
裏を返せば魅力にもなっているのを実感してくると、
一概に、「こういう性格が嫌い」とは言いにくくなるんです。

まぁ、それでも単なる英語の練習が目的ですから、
10年前ぐらいに嫌いだった人を思い出して答えたりしていました。


そして3つ目のエクササイズ。

「自分の中で、変えたい性格はどれか?」
「もっとどのようになりたいか?」

これを議論するのは大変でした。

仕事としても、自分と向き合ってきたプロセスとしても、
行動・思考・感情の反応パターンを自分なりに吟味して
それを変える取り組みを沢山してきています。

自分の幅を広げつつも、
全ての『性格』と呼ばれるような特性が自分の人生を形作っていて、
それが自分にとって大切であることを自覚してきたところがあります。

全ての『性格』の要素が自分にとって、いかに大事かを感じている。
それでは、特に「変えたい性格」というのは浮かばないんです。

もちろん、将来的に、”もっとこうなっていく必要のある”課題は感じます。
しかし、リストに載っているような気軽なものではない。

それで困っていたらインストラクターから突っ込まれました。
「もっと身につける必要のある特徴ならある」と僕が言うと、
「じゃあ、それで良いから説明して」と言われました。

僕の答えは
「 merciful (慈悲深い)」。

するとインストラクターは、「 merciful 」は強過ぎる表現じゃないか?と。
「 compassionate (思いやりのある)」ぐらいじゃないの?と聞かれました。

「 merciful (慈悲深い)」というのは、生殺与奪に関するような単語だから
そこまでじゃないだろう、っていうことだったんです。

ですが、僕にとってシックリくるのは、どうしても「 merciful 」でした。
それぐらい重みのある「慈悲深さ」のことに気持ちを向けていました。


それで思いついた「例えば…」の話が、こういうものです。
「仮に」なので、喩え話でもあります。


仮に、僕が痴漢の冤罪で捕まったとします。

電車の中で、ある人に痴漢だと誤解されて、まくしたてられる。
その人は周りを巻き込んで、逃げ場をなくすようにして
逃げることさえできない状況になってしまった。

当然、こちらが誤解だと訴えても、誰も信じてくれない。

5人ぐらいに取り押さえられ、駅長室に連れていかれ、警察を呼ばれる。

聞いた話ですから正確さは分かりませんが、
このように捉えられて警察を呼ばれたら、まず有罪なんだとか。
裁判で冤罪と認められることは、あり得ないという話。

仮に、その相手は何度も痴漢にあっていて、もう怒り狂ったような状態で
絶対に自分の誤解を認めるようなことはないとしましょう。

それで警察がやってきて、警察もこちらの説明は聞き入れず
痴漢として捕まってしまった、と。

裁判に向けて最善は尽くしたものの、案の定の有罪判決。

残りの人生が全て台無しになった状況です。

仕方なく服役を終えたとして、残りをどうやって生きるでしょうか?

今の仕事を続けるのは難しいかもしれません。
逆に冤罪を強調しながら、その苦しみをアピールして仕事をするとしても、
その相手は依然として攻撃をしかけてくる。

痴漢冤罪被害者の会のような形で活動を続けるのも1つかもしれませんが
そんなことをするために生まれてきたつもりは僕にはありません。

となれば、服役の前から激しい怒りが沸いてくるはずです。
こちらも逆上して、仕返しをしてやろうという気持ちにもなると想像します。

自分の人生が冤罪でメチャクチャにされた。
後悔させてやる。
そんな感じになるかもしれない。

同時に、仕返しをしたところで、何も得られるものが無いことも分かっています。

もう、ただただ絶望的になるだけ。

すると自暴自棄になって自殺なんかを考えるかもしれません。

遺書に痴漢の冤罪のことを書けばニュースになって
世の中に対するメッセージと、その相手に対する報復になる可能性もある。

しかし、それでは仕返しをして相手に制裁を加えるのと同じことでしょう。

さらに、家族は、その相手に対する怒りをさらに強めてしまうとも思われます。
それは本意ではありません。

多額の保険金をかけて、上手いこと命を絶つ…というのも
結局、保険会社や、そこで働く人たちを想像すると踏み切れない。

この絶望と怒りを生み出した痴漢冤罪という事件と、その相手に対して、
最終的に僕が求められることになるのが
「 merciful (慈悲深い)」かどうかじゃないか。

なんだかんだいって、結局全てを許す必要があるだろう、と。

喩えていうと、それぐらいのレベルです。

だから、生死に対しての”慈悲深さ”ぐらいで合っているんです。

…とはいえ、そこまでの話は授業中に話せませんから
 適当に、はぐらかしましたけど。


僕はなぜか、こういう悲惨な想像をして苦しい気持ちになることが結構あります。

多分、こんな冤罪のケースだったら、1つ視野に入れるのは
やっぱり自殺だろうと思えます。

仕返しとして、見せしめとしてはなく、
生きる意味への絶望に、何かの意味を追加するために。

臓器のドナー登録をして、可能であれば適合性のチェックまでして
救急車を呼んでから脳死を企てる。
難しそうなら海外に行ってやるかもしれません。

でも、もっと大変だけど選ぶことになりそうなのは、
 その相手を許して、できる限り、自分のやりたいことを続けていく
というものでしょう。

あくまで極端な話ですが、なぜか、そういうことを想像してしまうことがあるんです。

他にも「交通事故の加害者になってしまったら…」とか。

やはり共通するのは、自分と相手に対する「慈悲」だという気がします。
どう許すか、と。

自分を許し、相手を許し、苦しみを抱えてなお生き続ける。
これが最も勇気と誠実さのいる選択かもしれません。

「 merciful (慈悲深い)」といったのは、そういうことです。

cozyharada at 23:21|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!心理学 | NLP

2012年11月24日

グルグルと考えると

色々と本を読んでいると、人それぞれの考え方に触れられる感じがします。

すごく現実的でビジネス的な考えもあれば、
宇宙全体のことや50億年後のことを見据えた考えもあるようです。

中には、運命について書かれた内容も。


僕自身は哲学的なところもあるようですから
運命なんてものにも考えを馳せるときがありますが、
だからこそ一概に「それが運命だ」と言うような気分にはなりません。

自分なりに考えてくると、僕が読んだり聞いたりしてきた
「運命」というものの定義とはチョット違ったものになります。

なので、僕が「運命はある」と信じているか、
「運命なんてものはない」と考えているかと問われると、
定義が違ってしまっているので、その二択には乗らなくなってしまいます。

まぁ、否定的でも肯定的でもないという前提を表現したかったわけです。


で、運命があるというスタンスの中には
「その人生を選んで生まれてきている」という発想が見受けられることがあります。

人それぞれ、体験したいことを体験しているんだ、と。

一方で、あるときには、他の人の考え方や行動に対して不満を述べたりもする。
「こうしなければ、もっと世の中は良くなっていかない」と主張したりもする。
「皆、もっと素敵な人生を送ろう!」とメッセージを発信したりもする。

そうすると、僕は混乱します。

 あら?
 そのスタンスの発想からすると、
 「その人たちは、そういうことをしたくて生まれてきた」
 ってことにはならないの?


この矛盾を解決する発想の1つは―、

 「こうやって世の中を良くしよう!」、「もっと素敵な人生を送ろう」
 というメッセージや警告に反応して、生き方を変えることを
 運命として選んだ人たちがいて、
 自分はその人たちにメッセージを届ける運命を選んだ

…というものでしょう。

この場合、
 それらのメッセージを受け取らない運命を選んだ人たちがいることも
 十分に承知したうえで、受け取る運命の人たちのために発信している、
といったことになるはずです。

Aさんが発信者、Bさんが読者だとしたら、
Bさんがメッセージを読んだ結果
「Aさんのメッセージのおかげで自分の人生は変わりました!」
となることが、AさんとBさんの運命として決まっていた、という発想です。

その過程で、CさんやDさんも読者としてAさんのメッセージに触れますが
こちらは、Aさんのメッセージで生き方を変える運命にはなっていないので
特に何も変化は起こらない、と。

Bさんのように影響を受ける運命の人の数が
CさんやDさんのように影響を受けない人たちよりも少なかったとしても、
Bさんたちにメッセージを届ける運命だから発信をする。

そんなスタンスでしょうか。


そうすると今度は―、

 その運命が分かっているんだったら
 メッセージが届かない人たちに対して不満が沸くことはないのでは?

…という新たな疑問が生まれてきます。

こっちの疑問を解消するのは、
 Aさんが不満の形でメッセージを伝えたときに
 やっと 生き方を変える運命になっているEさんがいるから、
 その人のためにAさんは、あえて不満を感じて表現することにしている
といった発想です。

もし、そこまで本人の運命と関わる人たちの運命を信じていて
それに沿った行動を自覚しているのだとしたら、
凄いことだと感じます。

仮に僕だったら、
 「届かない人がいるのを知った上で、届く運命の人に届けば良い」
と思ってメッセージを発信した時点で、
不満を感じなくなってしまいそうです。

この違いは、伝えたいことの差にあるんでしょうか?



もう1つ別の発想として僕が混乱を整理するのは―

 この人は、「自分の想いが、なかなか人に分かってもらえない」
 という苦しさを味わう運命を選んで生まれたんだろう

…というもの。

こちらもまた、ある意味で、本人の信念に基づいている受け取り方かもしれません。



個人的には、
 過去の出来事を
 「こういう運命だったんだ」
 と後から受け入れられるように、
 未来に向かって、精一杯”今”に向き合っていく
という感じのスタンスが好みです。

喜びは苦しみの近くにある気がしますから。

cozyharada at 23:10|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!心理学 | 全般

2012年11月21日

【セミナー】カウンセリング講座(12月)

ご案内: 『ホンネを引き出すカウンセリング』講座


11月に開催している”概要説明”に引き続き、
12月9日(日)に第一回の講座を開催します。

本講座のコンセプトに関しては、こちらをご覧ください>>
(概要説明の回にも、補足説明をしてあります。補足説明はこちら>>


12月のテーマは『ペーシング』。

これがカウンセリングの土台です。
本当に大切です。

これまでにペーシングに関しては、様々な意見を聞いてきました。

「ペーシングなんていらない」とか
「ペーシングなんてしなくても関係は作れる」とか
「問題が解決すれば必要ない」とか
…そういった意見も耳にしたことがあります。

一方で、
「ペーシングが8割」、
「ペーシングこそセラピーそのもの」(この方は『チューニング』という言い方でしたが)、
…という教えも受けました。

同じトレーニングをシリーズで受けいたメンバーの大部分は、
受講料の総額が200万円ぐらいになったあたりのタイミングで
「これだけやってきて、結局はペーシング次第じゃないか!」
と言っていたものです。

そこでようやく「ペーシングが8割」の意味が腑に落ちた、と。

個人的な印象は「ペーシングが7割」ぐらいですが(他にもコソコソやっているので)、
『ペーシング』を第一回にやるということは、この講座が
いかにペーシングを重視しているかを示していると思います。

考えてみれば当然かもしれません。

人は多くのメッセージを発しています。

その中から何にペースを合わせていくか。
それによって方向性が変わってくるんです。

この講座で扱うカウンセリングの中心コンセプトは
相手のニーズを把握するところにあります。

場合によっては、本人がまだ気づいていないニーズを捉え、
そこのサポートをしていくこともあるものです。

そのためには、言葉になっていないメッセージに対しても
ペースを合わせていく必要があります。

注意して頂きたいのは、
良く知られている「非言語メッセージに対するペーシング」、つまり
”うなずき”や”声のトーンを合わせる”、”話のスピードを合わせる”…
といった技術だけが全てではない、ということです。

大きく分ければ
・言葉のメッセージに対する言葉を使ったペーシング
・言葉のメッセージに対する非言語でのペーシング
・非言語メッセージに対する非言語でのペーシング
・非言語メッセージ対する言葉を使ったペーシング
が考えられます。

相手が言葉にせずに、非言語で表現したメッセージに対して
こちら側は言葉としてメッセージを返していく。
そういうペーシングの仕方も扱うんです。

これによって、より本音と結びついた話題に近づいていくことができます。

つまり、ペーシングは話の方向性を大きく左右する
『情報収集の技術』でもあるんです。

ペーシングを
・関係性の構築
・雰囲気作り
といった目的だけで捉えているわけではありません。

相手のニーズを的確に把握していくためには
『情報収集の技術』としてのペーシングが欠かせません。


もちろん、『関係性の構築』を目的としたペーシングの側面も重要です。
そちらのトレーニングも行います。

ただし、この講座で扱うのは、かなり細かいレベルです。
徹底的な技術向上を意図しています。

特に、これまでトレーニングを提供してきた経験上、
大部分の方が、声のトーンに対しては関心が低い傾向にあるようです。

相手の声のトーンから受け取るメッセージ、
自分の声のトーンが与えるメッセージ、
その両方に対してもトレーニングを行う予定です。

また、『情報収集』を目的としたペーシングに関しては、
コツを掴んでもらうための方法を色々とお伝えします。

時間とお金を大量に費やすことなく身につけられるように
こちらから緻密なフィードバックをして気づきのレベルを上げていきますから、
相手のメッセージを受け取れる量が増えるはずです。

それぞれの方の得意な情報収集法と、使い慣れていない方法とを踏まえ、
トレーニングの仕方を工夫していきます。
宿題として1週間も意識して過ごして頂ければ、
今までとは違ったインプットの量を実感して頂けると思います。

一応言っておきますと、
 技術が最短で向上するようにトレーニング法を工夫する
というのが、この講座のウリだと考えています。

ワークのやり方を説明して、ただやってもらうだけ…ではありません。
効果の高い実習になるように工夫して進めます。
しっかりと課題意識をもって取り組んでいきましょう。



◆今回の講座で得られるもの

●非言語メッセージに対する観察力

●共感力

●言葉がけの表現力

●情報収集の精度

●誤解の少ない理解

●自分のコミュニケーションの癖をコントロールする

●自分のコミュニケーションの強みを活用する



◆お持ちいただくと役立つもの

●ICレコーダー

必須ではありませんが、ICレコーダーのような録音機材をご持参いただくと
振り返りの作業が効果的になります。

ご自身の実習の模様を録音して、振り返るのが目的です。

ビデオをお持ちいただいても構いません。

現時点では、全体の中で収録した内容を使うことを目的としていませんが、
自分自身が何を言ったか、どのような展開だったかを思い出すためにも
利用価値の高いツールだと言えます。

もちろん、復習としても役立ちます。

★ご希望の方には、録音したファイルの内容に対して
 こちらからもフィードバックいたします。

 いくつか気づいた点を記録して、送付する程度ですから
 それほど詳細なものは期待しないで下さい。
 
 方法などは当日にご相談下さい。



日中の講座では個別の技術を磨くためのトレーニングと
それを実践に組み込むための練習を行います。

夜間では、一部トレーニングの復習と
実践練習を行います。

続けてご参加いただくと、きっと疲れますが、個人的な経験からすると
疲れて無駄な気負いが抜けてきた頃に得られるものもあるようです。

お時間が合いましたら是非、お越し下さい。

世間一般に知られている技術ではないかもしれませんし、
上達しても気づいてくれる相手は多くないかもしれません。
感謝してもらえないかもしれません。

ですが、結果は変わってくるはずです。

他者を支える底力となる技術です。

「誰かのためにばかり頑張っている気がする…。」
そんな思いを持つ方こそが、世の中を支えているのではないでしょうか。

世界は、あまり均等で公平なものではないのかもしれません。
誰かのために使って下さい。



講座の詳細は以下の通りです。



【セミナーの詳細】

≪『ホンネを引き出すカウンセリング』講座≫【第1回+実践練習 

【日時】  12月9日(日)
     《日中:第1回》   10:00〜17:00
 
     《夜間:実践練習》 18:30〜21:30 

       ※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。
       ★申し込みフォームに、ご希望の時間帯(日中/夜間)をご記入ください。


【場所】 滝野川会館 403集会室
    (JR京浜東北線・上中里駅より徒歩7分)
    (JR山手線・駒込駅より徒歩10分)
    (東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)

【参加費】 
      《日中:第1回》 ・・・15,000円 (フィードバック料を含む)
      《夜間:実践練習》 ・・・5,000円

       ★日中の講座にご参加の方は、無料で夜間の実践練習へご参加頂けます

       当日、会場にてお支払いください。


    ★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
     ご了承ください。




終了しました


色々と設定を迷いました。

どれだけ価値を感じ取って頂けるかも人それぞれかもしれません。

ですが、自分の過去を振り返ったとき
今の自分のコミュニケーション技術の原点は、ここにあると確信しています。

ここから派生して観察力や共感力を磨くことができました。

おかげで、何かのセミナーに行っても満足しなくなってしまったわけですが…。


5年後か10年後ぐらいに、ご自身で特技や強みを振り返ったとき
ここでのトレーニングが多少は役に立っていたと感じていただければ、
こちらとしては何よりの喜びです。

2012年11月19日

時を超えて

来年の1月にある書道展に向けての作品制作を終えました。
今回は、空海の古典を臨書することに。

これで三回目の出品となりますが、今までで一番練習をして
最も原本を丁寧に眺め、オリジナルに触れようと試みた気がします。

多分、空海だと思ったから、余計なんでしょう。


狭い部屋いっぱいに下敷きを広げ、
「ああでもない、こうでもない」と書き直す日々。

書く場所は決めていましたし、道具も決まっていますから
邪魔にならない程度の置き場所が確定していきました。

2か月弱の間、部屋の中に「臨書スペース」があったわけです。
ちょっと準備をすれば、すぐに書けるような状態。

そして身近なところに、空海の書を載せた本がある。
それを時間を見つけては眺めている感じでした。

さらにはネットや本で空海について調べたりもして。


子供の頃にやっていた「習字」は義務感からやっている印象でしたし、
大人になって再開してからも「どうしたら上手く書けるか」を追求して
筆使いの修練のようなイメージだったので、楽しさは感じていなかったんです。

それが今回の臨書シーズンは楽しかった。

もちろん、思い通りに行かない”もどかしさ”は常につきまといますが
そんなこととは関係ない楽しさがあったんです。


そして、出品の期日ギリギリまで書いて、
ある程度のところでキリをつけ、道具一式を片付けたとき…。

部屋の中が少しスッキリと片付いて、スペースが増えましたが、
その空間の広がり以上に、僕の心の中にも空間が大きくなるのを感じました。

一言でいえば「寂しい」感じ。

終わってしまうのが寂しいとか、
楽しかったことが終わってポカーンとした虚しさを感じるとか、
そういう体感覚ではありませんでした。

卒業式の後には少し近いかもしれませんが、
単純に「別れの寂しさ」と近い。
というよりも、その感じそのものでした。

同じ部屋にいた人が帰っていってしまった感じ。

大それた表現をすれば、空海が僕の元を去っていったような気分でした。

おそらく、今までの二回は作品に対して練習をしていた感じだったのに対して
今回は空海を心のどこかに意識しながら臨書していたからでしょう。

だから”人”にまつわる体験のような感じ方になったんじゃないか、と。


別に
 「空海になりきろう」とか
 「空海の気持ちを感じながら」とか
 「空海と話しながら」とか
そういったつもりはありませんでした。

しかし一通り終えて片づけをしてみたとき
人との別れのような寂しさを感じたわけです。

それで思いました。

人間が主観的に心を通わせることのできる相手は
必ずしも、今現在、会うことのできる人に限らないのかもしれない。

過去に生きた人の足跡を辿ることで触れられるものがある。

空海ぐらいの天才になると、おそらく孤独感は相当だったことでしょう。
分かりあえる相手が一体どれだけいたことか。

もちろん、自分との対話もあったでしょうし、
自然を相手に関係性を感じていたところもあっただろうと想像します。

ただ、もしかすると、そうした”当時は生きていない人”とも
ある意味で交流を持っていたのかもしれません。

その一つが宗教の歴史であったり、書の歴史であったりしたのではないでしょうか。

空海の書には、中国の書聖と呼ばれた人たちの筆使いが散見されます。
「古典をよく勉強していた」というのが大方の見解のようです。

もちろん、勉強したかった可能性は高いですが、
同時に、何かしらの触れ合いを感じようとしていたのかもしれないと思いました。

ある意味で、話し相手だったんじゃないか、と。


そんなことを考えていたら、少し気持ちが広がったような感じがしました。

今の世の中の人だけが、必ずしも自分の関わる相手ではない。
過去の人ととも未来の人とも、関わろうとすれば関われる。

それが事実かどうかとは関係なく、
そういう風に感じておくだけで得られるものがあるようです。

本を読み、芸術に触れて先人と触れあうことも、
未来の誰かが触れてくれることを知りながら何かを残すことも、
なかなか良いものかもしれないと感じます。


『今ここ』を大切にする人たちには、受け入れてもらえない発想かもしれませんが。

2012年11月17日

顔に見えてくる


【ご案内】
 次回の『カウンセリング講座』は、
 12月9日(日)の午前・午後 です。



ここ最近、来年の書道の展覧会に向けて
作品を仕上げるべく書いています。

その中に、『閲』という文字が出てくるんですが
少し省略した書体で書かれているので、こんな感じになります。

閲


で、これを何度も何度も書いているうちに
なんだか段々と「文字」じゃないような感じがしてきてしまいます。

いわゆる『ゲシュタルト崩壊』という現象です。

もう顔にしか見えない感じ。

『閲』という文字のフレームではなくて
顔のフレームに当てはまってしまうんでしょうね。

アメリカのマンガ『原始家族フリントストーン』を思い出します。

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2012年11月15日

怒りをマネジメントする

アメリカから輸入されたものは沢山あるようです。

そこには人間関係の技術や人生に関する発想も含まれます。
中には、日本由来のものが逆輸入されて日本で流行ったりもすることも。

日本では誰かがオリジナルの技術を作って広めようとしても
なかなかそれを認めてもらいにくい状況があるように見受けられます。

輸入物として、開発者の名前がカタカナになっているだけで
なんだか凄そうな印象を受ける場合はあるだろうと思います。

少なくとも、同程度の内容であれば
海外で開発されたものの方が受け入れてもらうハードルは低いでしょう。

そこには言語や文化の違いがあるにも関わらず、です。


コーチング、自己啓発、カウンセリング、心理療法、健康法、コミュニケーション技術…
人に関わることの方法論は、数多く輸入されています。

こうした方法論は、やみくもに考えられているわけではありません。
「効果的」だから知名度を得て、日本にも広められることになったはずです。

では「効果的」とは何か?
何にとって効果があるのか?

それはアメリカ文化で「良い・望ましい」とされる結果を得るのに「効果的」だといえます。

誰も表立って「どのように良いか、望ましいか」を言わないとき、
暗黙のうちに、誰もが共有する「良いこと・望ましいこと」を前提にしているものでしょう。

その「良い・望ましい」の基準は、『価値基準』ということになりますが、
当然、何に価値を置くかは個人差のあるところです。

なのに個人差を無視して「効果的だ」と言い切れるということは
普遍的なメリットか、あるいは、その文化では共有されている価値観に合うか、
どちらかである可能性が高いと考えられます。

もちろん、文化の違いとは無関係に
ほとんどの場合で効果的な方法論もあるかもしれません。

ただ、日本に入ってきたそうした方法論を良く見てみると、
どうもアメリカの文化的背景の影響を無視できないものがあるように思えます。

例えば、「何かの目標を立てて、それを達成する方法」の類では
そもそもの『目標志向』の度合いに文化的な差があるようです。

アメリカ人の大部分は、毎年の初めに「 New year's resolution (新年の誓い)」として
その年の目標を立てる習慣を持っているといいます。

アメリカン・ドリームとまではいかなくても、
『成功』ということに関するイメージも強そうに感じられます。

生活スタイルに差が大きいとも言われますから
全土に共通したことではないかもしれませんが、
目標思考と成功へのイメージが強く存在する場所もあるのでしょう。

そして、そこで流行ったものが日本にやってくる。

日本で「目標を達成する」という発想を持つようにするのは
アメリカほど自然なことではないかもしれないんです。

輸入してきた方法論に含まれる技術を個別に使っていく場合、
日本の文化や習慣に合うものを取り入れていくことはできますが、
根本にある理念のような部分は
存在するかもしれない大きな違いを考慮してからのほうが無難じゃないでしょうか。


中でも、文化的な価値観とコミュニケーションの習慣が関連し合ったものとして
『感情表出のコントロール』の度合いは重要だと思います。

アメリカ人の感情の表し方が日本人よりも激しくてストレートだというのは
誰もが感じたことのある違いでしょう。

それはアメリカ人から「日本人は何を考えているか分からない」、
「日本人は感情の起伏が小さい」などと指摘されることからも言えると思います。

海外ドラマや洋画で見られるようなケンカの仕方や、
「カッとなって殴って、反省して泣いて、抱きしめる」といったコミュニケーション、
海外の投稿動画のサプライズで見られるような
「 Oh, my God!!! 」を連発して泣き叫びながら喜んで飛びついたりする光景…。

そういうのはテレビの中だけの話ではないようです。
僕も実際に目にしたことがあります。
それが普通の習慣、一般的なコミュニケーション・スタイルなんでしょう。

言い換えると、感情として捉えられる生理反応の変化が
表面的に観察できる行動と、ダイレクトに結びついているんです。

カーッとなれば、そのまま怒鳴るとか手が出るとか。
驚いたら、そのままそれが声に出るとか。

自分の生理反応の変化を客観的にモニターして
「あぁ、今、自分はイライラしているんだな」といった認識をする前に、
その感情と結びついた行動が自動的に表れる感じ。

もちろん、日本人にもこういうタイプはいますし、
アメリカ人でも、このような反応をしない人はいます。

感情表出の傾向として、一気に生理反応を”発散”させやすい人の割合が
アメリカでは文化的に高いということです。

反対に、日本では、もっと感情を抑え込む傾向が見受けられます。
「抑える」といっても出ないわけではなく、それを制御しようとする動きです。
我慢する感じ。

涙を我慢したり、怒りをグッとこらえたり、動揺を人に見せないようにしたり…。
不満があっても相手にぶつけずに、後からビールを片手に愚痴に変えたり。

生理反応を自覚しながら、それを瞬間的な行動に結びつけないで
感情の放出を”遅延”させる傾向がある。
これは文化的に根づいた習慣だといえそうです。

おそらく、親や教師からの直接的な指導によって学習していくか、
周りの大人の振る舞いを見ながら間接的に学習していくか、
そのあたりを通じて身につけていくものなのでしょう。

それは自分の考えや意見をハッキリ述べることとは違います。

感情を駆り立てられるような刺激に対して、生理反応が起こるところまでは一緒です。
しかし、その後が違う。
生理反応が起こってから、どういう振る舞いをするかの違いなんです。
考えや意見を述べるかどうかとは別のレベルです。
もっと前段階の、刺激に対する生理反応を、どのように扱うか、と。

そこで、その生理反応を直接的に行動を通じて発散させれば
感情の表し方が直接的で激しい印象になりますし、
生理反応を自覚して、発散のタイミングを遅延させれば
感情が蓄積されて、抑え込まれた感じの印象になる。

この差は非常に大きいと思います。


これによって生まれやすいストレスの種類も違ってきますし、
望む結果を得るために努力する方向性も変わってきます。

例えば、アメリカでは、自分の意志で行動を制御できることが
1つの望ましい能力だと考えられているといいます。

生活習慣や行動パターンにおいて、流されることなく
自分の意志で制御していく。

喫煙、飲酒、食生活、運動…
そういった日常生活でも、コントロールできることが
1つの評価対象になるという話。

だからこそ、新年の誓いとして目標を立てることも多いのでしょうし、
自分で自分の行動や生活習慣を変えて、目標を達成しようとする。
そういう美徳が生まれるんじゃないでしょうか。

コーチングにもセラピーにも、そのように
自分の行動をコントロールできるようにしていく側面が含まれるのは
こうした背景が関係していると考えられます。

「怒りをマネジメントする」という発想がビジネス界で使われるのも、
そもそも、感情を発散しやすい傾向が強いからでしょう。
だから、怒りをコントロールできるほうが望ましいものと評価される。

直情的に行動と結びつけないようにするのが1つの中心手段となるのは
まさにこの発散傾向の強さを物語っているといえます。

生理反応が起こってきたら、数秒間、自分を落ちつけて感情をモニターして
その感情の度合いを測定するようなアプローチが取られるそうですが、
これまたアメリカで主流の心理療法「認知行動療法」と近い発想。

「自分で気づき、コントロールしていく」。
この発想が『望ましい』とされているわけです。


一方、日本文化では、それは既に多くの人が身につけている特徴です。

ただし、それを無自覚にやってしまっているので、
制御の仕方がワンパターンになってしまったり、
抑え込む度合いが過剰になってしまったり、
溜めこまれた感情がコミュニケーションに悪影響を及ぼしたりする。

むしろ、そっちが問題となります。

当然、日本でも飲酒や喫煙、食生活など、
習慣がコントロールできないことは問題として自覚されますが
程度や衝動性の違いも想像できます。

特に重要なのは、「制御するほうが当然」という前提があるからこそ
「部分的に制御しきれていない自分の振る舞いが、余計に問題と思える」
といった事情が生まれてくる部分です。

日本人の問題意識のほうが、一般的な傾向としては
 ・過剰に制御し過ぎて窮屈になっている
 ・制御の仕方に柔軟性がなくなって行き詰ってしまう
 ・制御できない自分に対して自責感や恥を覚える
といった方向に行きやすいと考えられます。

「制御していないこと」そのものが問題ではないということです。


そういった文化的・習慣的な背景があるところへ
アメリカで”効果的”な「制御する」方法論を丸ごと持ち込むのは
場合によっては危険性すら含んでいると思うんです。

輸入した何かを広めようというのですから、
相手にしようとするのは日本人全体のはずです。

であれば、日本人全体としての特徴を、輸入元と比較してみるのは
その効果を検証する上で大切なことでしょう。

そのためには、「何が、どのような仕組みで効果を生み出すのか?」を
しっかりと理解している必要もあるわけですが。

まぁ、そこまで考えるのは面倒臭いのかもしれません。

2012年11月13日

11月23日、ゼミ形式の勉強会

11月・ゼミ形式の勉強会のお知らせ

先月、実際に一人の発表者を中心として
ゼミ形式で勉強会を開催しました。

栄えある第一回の内容は
『カウンセリング技法の歴史と統合の視点』。

かなり多岐にわたる内容を比較しながら
実に分かりやすく本質の部分を整理していただきました。

他の参加者の方々からは絶賛の嵐。

「すごく役に立った」
「こういうのは他では学べない」
「一体、どれだけ勉強したんですか!?」
などの声が、帰りの駅のホームまで続いていました。

僕自身も新たな学びがあって、
 やはり、こういった形式は得られるものが大きい
と改めて実感しました。

何よりも、久しぶりの感じで楽しかったんです。
こうやって皆で勉強するというのが。

日本の教育では、議論することは多くない気がします。
複数の視点から情報を整理する効果を実感したのは
僕が研究職になってからでした。

大学のときにも確かに「ゼミ」と呼ばれるものはありましたが
やはり学生のレベルで、しかも複数の学年をセットにしたりすると
下級生に知識を身につけさせるための場面になりかねません。

それが、こちらでやっているような勉強会の場合、
テーマはコミュニケーションや心理に関することですが
そのテーマには誰もが人生の経験を通じて考えを持っているわけです。

さらに、それぞれの方が学んできたことや、
ご自身の専門性と関係した知識を持っています。

それらの情報が絡み合うんです。


ともすると、心理学は一般論に終わりやすいように思います。
それは仕方ないものでもあります。

心理学で論文を発表しようとしたら、実験を元にする必要があります。
すると、あまりにも込み入った状況設定は難しい。
統計的に有意なデータをまとめるにも、シンプルでデータの取りやすい
”上手い”実験計画を立てることが望まれるんです。

すると、現実の人の振る舞いを細かく分析するよりも
適度に一般化して、ザックリとした議論をしたほうが都合が良い。

あるいは、非常にシンプルな仮説(理論)を立てて、
それを元にした心理療法が効果的かどうかを統計的に調べたり。

この場合、色々な流派や理論が生まれてきます。
これもまた、心理学の内容が多岐にわたりやすい理由の1つでしょう。

つまり、大雑把な一般論になっているか、
シンプルにまとめ過ぎた理論が乱立しているか、と。

こうしたことに対して、心理学を自然な流れで勉強していくと
そうした一般論や対立する理論を「そういうもの」として覚えることになります。

ところが、このゼミ形式の勉強会の場合、
これらの一般論やシンプル過ぎる理論を
それぞれの参加者の経験やバックグラウンド、専門知識と関連させて
実社会・実生活により近づけて理解していくことができるんです。

ここで得られるものが大きい。

刺激的ですし、役に立つと思います。


ということで、第二回目も同様に、心理学関連の内容。

発表者は前回と同じ方です。
(お知りになりたい方は、申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入いただくか
 直接、メールでお尋ね下さい。)

テーマは
『精神医学の診断と精神障害・発達障害』
です。

「名前は聞きかじったことはあるけど、詳しくは知らない」
といった内容が整理されるだろうと思います。

個人的には、非常に議論しがいのある内容だと思います。

ご都合が合えば、是非、お越し下さい。



詳細は以下のとおりです。




【勉強会の詳細】

≪ゼミ形式≫
【日時】 11月23日(金・祝) 18:30〜21:30
       ※終了時間は前後する場合があります。

【場所】 北とぴあ 808会議室
    (JR京浜東北線・王子駅 北口より徒歩2分)
    (東京メトロ南北線・王子駅5番出口直結)

【参加費】 ・・・2,000円程度(会場費+α)
       当日、会場にてお支払いください。
       参加費は後日あらためてお知らせします。

【テーマ】 『精神医学の診断と精神障害・発達障害』




 ※もし発表者をお知りになりたい場合には、
  申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。


終了しました

今後も何回かは、今の形式で継続する予定です。

いずれは、多くの発表者で持ち回りできるようにしたいと考えています。
理想は、興味のある方々が自主的に学び合う場です。

ホンネを言えば、内容も自由で構わないと思っています。

「あのセミナーに行ってみたら、面白かった」とか
「最近、こんな本を読みました」とか。

1テーマに費やす時間も、変えられるようでありたいんです。
気楽に10分だけ発表するものがあっても良いでしょうし、
3時間フルに議論したいというのでも良いでしょう。

とにかく皆で自主的に学ぶ。
それだけが意図です。

まずは序盤の時期に多くの方に顔を出していただいて
雰囲気を味わってもらいたいと考えているところです。

お知り合いの方を誘って、遊びに来て下さい。

会議室内は、飲食・飲酒が可能です。
節度のある範囲であれば、自由にお過ごしいただいても構いません。

飲み会なのに、えらく真面目に議論する場面を何度も見てきました。

ただセミナーで受講生として椅子に座っているだけでは
満足しない人たちが大勢いる証拠じゃないでしょうか。

それぐらい気楽にやってもらったって良いと思っているんです。
楽しく、自ら学びとる。

そういう場になっていったら望ましいんです。


気楽にお越しください。

当日お会いできることを楽しみにしています。

2012年11月11日

チルチルミチル

ちょっと思いたつところがあって、本屋で
メーテルリンクの『青い鳥』を買いました。

子供用の絵本でも良かったんですが、
新潮文庫から原作の日本語訳があったので
そちらを購入することに。

元々は舞台の脚本のような体裁で書かれているんですね。
そこがまた独特の味わいと表現力を高めてくれます。

チルチルとミチル以外の大部分の登場キャラクターは
動物や自然、人間の頭の中にある概念や感情でしたから、
それを視覚的に表現すること自体が難しいはずです。

「光」とか「幸福」とか「正義」とか、
どんなに比喩的に表現しようとしたとしても
形にするのが難しい。

一方で、登場キャラクターとしてセリフを持っていますから
ある程度の姿かたちが求められるんだと思います。

その意味では、舞台上の劇ようにして
全てのキャラクターを人間が演じているように描くと、
作者の持つ本質的なイメージを保ったまま、適度に擬人化することができる。

そんな印象を受けました。


僕が記憶していた範囲の『青い鳥』は、童話として
絵本か何かで読んだのか、非常におぼろげな内容だったんです。

タイトルの記憶すら曖昧で、「しあわせの青い鳥」か何かかと思っていたほど。
原作は「 l'oiseau de bleu (フランス語で”青色の鳥”)」ですから、
新潮文庫のタイトルは『青い鳥』です。

ストーリーも
「チルチルとミチルが何故か”幸せの青い鳥”を探しに出かけていって
 見つからずに帰ってきて、『なんだ、家にいたんじゃん!』」
ぐらいにしか覚えていませんでした。

ただポイントとして、「探しに出かけていって、家に答えが見つかる」
という部分が、僕の中で印象的だったので本を買う動機になってはいました。

ところが実際に原作の翻訳版を読んでみると、
子供向けにアレンジされたものにはない細かな描写が沢山。
とても多くの設定が、示唆に富み、世の中を見事に表現しているようです。

例えば…
 ”物を考える喜び”の弟が”物を知らない幸福”で
 姉である”物を考える喜び”に弟の場所を教えると 
 ”物を知らない幸福”を探しに出かけていって、なかなか帰ってこなくなる
とか。

チルチルとミチルが旅をしている途中の場面で出会うキャラクターたち、
それぞれの場面の描かれ方、そこに込められた比喩的な表現、
…様々な内容が、とても深淵な意味を描いています。

これは単なる教訓的な童話ではないと感じました。

メーテルリンクが気づいたのか、感じていたのか分かりませんが、
作者自身が知っている世の中の真理を
適度に分かりやすい教訓と交えながら
こっそりと隠すように書き記したもののように思えます。

一度は読んでおきたい本の1つかもしれません。

少なくとも、これは子供向けの本ではないでしょう。


そして、どこから入ってきた情報か定かではないものの、
僕の中には「しあわせの青い鳥は、実は家にいた」という部分だけが
際立って記憶に残っていました。

絵本がそうやって書かれていたんでしょうか?

改めて読んでみた感想は、全く別物です。

あの原作を読んで
「実は(しあわせの)青い鳥は、家にいた」
という「あらすじ」は、ちょっと解釈がズレていると感じました。

そもそも探していた青い鳥は
「”幸せ”の青い鳥」ですらないはずです。

実際、ストーリーの途中で、沢山の「幸福」たちが登場する場面があります。

彼らは、人間が「幸福」だと思っている愚かさの象徴のようにも描かれますし、
確か、「まだ人間が気づいていない幸福」といった表現もあった気がします。

少なくとも、物語の中で「幸福」は、「青い鳥」とは別のものとして登場するんです。
ですから、「”しあわせの”青い鳥」ではないと捉えるほうが自然でしょう。

タイトルだって、そのまま『青い鳥』ですし。

むしろ、この物語においては『青』という色そのものがメッセージを持っています。

良く使われる言葉で表現するなら、「魂」のような感じでしょうか。

少なくとも、「森羅万象の奥にある真理」が『青』と関係しているように読みとれます。

「青い鳥を捕まえる」ということは
「全ての真理を見通せるようになる」ことを示していて、
それは全ての人間が闇雲に手に入れて良いものではないかのようにも
多くの登場人物たちが語っているのも印象的です。

物語では、主人公のチルチルとミチルが、旅を通じて多くのことを体験します。

そのときにチルチルの帽子の額についたダイヤモンドを回すと
世界が変わって見えたり、自然の物が擬人化されて言葉を話しだしたり、
日常では体験できない視点から世の中を体験できるようになっているんです。

二人は、旅を通じて多くの視点を手に入れ、
世の中について沢山のことを学んで帰ってきます。

帽子のダイヤモンドを使わなくても、
物事をその視点で見られるようになっている。

だから家に帰って来たとき、自分の家に飼っていた鳥の中に
『青』を見ることができたんでしょう。

そう考えると、「なんだ、家にいたんじゃん!」という感じではないと感じられます。
良く言われている解釈のように
 「幸せは身近なところにあるものです」
という教訓ではないと思えるんです。


全体としてのメッセージ性に加え、断片的に内包された示唆が
人生ということについて多くを物語っているようです。

部分と全体が相互に意味を与えあっている感じの表現も、
「なるほど」と思わされるところがあります。

個人的には、主人公が兄妹でペアになっているのも
『陰と陽』を思わせるようで示唆に富んでいる気がしました。

多くのことが描かれている話みたいです。

思い立ったときに読んでみると良い本じゃないでしょうか。

青い鳥 (新潮文庫 メ-3-1)
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cozyharada at 11:11|PermalinkComments(2)TrackBack(0)clip!全般 | NLP
おしらせ
 ◆ セミナー情報 

New!

《カウンセリング講座》
〜セルフイメージの整え方〜


【日時】 2017年4月23日(日)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    303集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分


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次回開催は6月の予定


《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜

終了しました

【日時】 9月15日(月・祝)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    304集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分


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《勉強会》 
終了しました
    
【日時】 3月16日(日)
  夜間 18:30〜21:30


【場所】 滝野川会館
     304集会室

     JR上中里駅より7分
     JR駒込駅より10分
     南北線西ヶ原駅より7分

【テーマ】 変化の流れを考える

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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