2013年01月

2013年01月10日

時代の流れ

僕の父はカメラマンで、もう一般的には定年を迎えた年齢です。

晩年はデジタルカメラの普及の影響で
デジカメとフォトショップを使った仕事にも移行していましたが、
それでも、いわゆる”働き盛り”の年代にはフィルムのカメラばかりで
今のように誰でも綺麗な写真が取れるわけではなかったそうです。

もちろん、デジカメのように後から加工するなんてことはありませんし、
撮ったその場で写真を確認することもないので、仕上がりを予測しながら
一発勝負のシャッターの瞬間に、持てる技術を集約して向かっていたはずです。

カメラマンとしての技術の差が表れやすい時代だったんです。

丁寧にした準備をして、綿密な予測の元にシャッターを切る主義だったようで
素人から見ると、実際の写真撮影の時間が短いように思えるスタイルだったと。

他のカメラマンが何枚も写真を撮っているところで
父は沢山の枚数をかけずに終えていたと言っていました。

分からない人からはカンタンにやっているように見えてしまう一方、
腕を分かってくれる人からは評価してもらえる。

そんな仕事の進め方をしていたようなんです。

また、カメラの歴史そのものは古くからあるとはいえ、
カメラがポータブルになり、高画質になっていったのは、ごく近代の話。

カラー写真にいたっては、日本の場合、1940年頃かららしいです。

つまり、今の世の中で当たり前に「写真」だと思われているものは
結構最近になってから生まれた技術だということです。

それがフィルムや印画紙、カメラそのものやレンズなど
様々な技術開発に伴って機能を向上させるように進んでいった。

父がカメラマンとしての修行を始めてから”働き盛り”までの時代は
フィルム写真の最高潮だったと言えると思います。

フィルム写真の技術が発展途中の時代でもなく
デジタル写真に移り変わってしまった時代でもなく、
フィルム写真の技術が最も充実していた時代のカメラマンだったわけです。

その時代だったからこそ、父の技術が差を生むことができていたのでしょう。


それから、僕の大学時代の恩師は、企業でアミノ酸の生産を研究していた人です。

微生物を使ってアミノ酸を生産する技術そのものができたのは1956年。
最初はグルタミン酸の生産から始まりました。

そこから工業化の技術が発展して、他の種類のアミノ酸にも手が広がり始める。

僕の恩師が会社で研究をしていた頃は、
そうしたアミノ酸生産のプロセスが大幅に進展する時期でした。

これまでに作れなかった種類のアミノ酸を生産する微生物を作り、
さらに生産能力を向上させるように微生物を育種する。

天然に使われる20種類のアミノ酸の大部分を
微生物を使って大量生産できるようにしていった時代です。

その時代に現役の研究者をやり、研究部門の管理職につく頃には
さらに新しい技術を取り入れながら、医薬品や健康食品の材料になりそうな物を
色々と開発していたそうです。

ですが、それから約20年後、教授と入れ替わるように
僕が同じ会社に入った頃は、様子が違っていました。

ほとんどの主力製品となるアミノ酸は、かなり高い効率で作られていて
そこから更に生産コストを下げるための方法となると限られてきます。

これまでの延長線上で技術開発していける状況ではなかったようです。
新たな科学技術を応用しながら、できることを広げていく感じ。

そうすると、僕が会社にいたころに求められていた能力というのは
新たな科学技術を取り入れ、目に見える形に変えることだった気がします。

つまり、恩師が活躍していた時代と、その20年後では
求められる能力としての素養も違っていたと言えますし、
「何を楽しめるか」という素養も違っていたわけです。

その教授はオールマイティーに色々とこなす人ではありますが、
可能性としては、もし20年ズレて生まれていたら
同じような活躍をしなかったということもあるかもしれないんです。

ちなみに、今にして研究職時代のことを振り返ると
僕の素養が合っていた研究内容と、そうでないものとがあったように思えます。
当時は全然分かっていませんでしたが。


「その時代だからこそ」というものがあるのでしょう。

そこにマッチした素養があって、
その時代だから使えるものを利用できるかどうかが問われる。

そういう視点から考えたとき
自分の持ち味を活かす形が見えてくるかもしれません。

この時代だからこそ僕ができることは何なのでしょうか?

分野を絞っていないだけに見つけるのは大変そうです。

cozyharada at 23:59|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2013年01月08日

今を大切にするということ

今の自分の姿勢に注意を向けてみる。

「どのようにして、その姿勢に至ったのだろう?」

それに自覚がないのは、
自分の動作に関心を向けていないのが1つの理由。
全く気づかずに、その姿勢になるまでの動作をしていた、ということです。

もう1つの可能性は、
 気づいていたけど、もう忘れている
というもの。

自分のしていた動作を5分前まで遡って思いだそうとしてみても
正確になんて思い出せるものではないはずです。

もし、「動作は自覚していないからだ」と思うのであれば
「自分が何を考えていたか」を5分間前まで遡ってみると
これまた、とても大変なことが分かるんじゃないかと思います。

一日の行動をビデオを再生するように思い出すなんて不可能に近いでしょう。
あの駅で、どの改札を通って、どの電車の車両に乗って、近くにどんな人がいたか。
駅から家までの道のりで、どこを通って、どの信号で止まっていたか…。

部分的に、出来事の名前として「〜をした」とは言えたとしても、
その間を全て思い出すなんて、一般的には無理なものでしょう。

数分、数時間、数日単位の記憶だって次々に忘れていくんです。


もっと古いこととなれば、さらに記憶は曖昧になって、減っていきます。
何かの思い出の場面を呼び起こせても、それは全体として過ごした時間からすれば
ホンのわずかな間に過ぎないはずです。

過去のエピソードなんて、忘れているもののほうが遥かに多いわけです。

そして、こうした記憶は変わっていくことも知られています。
特に、思い出した記憶を再保存するときに改変されやすい。

誰かの話を聞くとき、頭の中にはイメージが作られます。
何かの昔話を繰り返し聞いていれば、そのイメージも記憶されていくんです。
結果として、ありもしなかった出来事が記憶の中に残ってしまう。

過去は比較的簡単に作り替えられてしまうということです。

トランスが深まれば、イメージのリアリティが上がりますから
記憶の書き換えは、さらに起きやすくなるといえます。

もっと進めて考えると、記憶の正しさを検証する方法さえ無いに等しいことになる。

「以前に、こんなことがあった」というのを確かめるには
同じ出来事を体験した他の人に聞いてみるのが一般的です。

ところが、その聞いた相手が忘れていることもあり得ますし、
その人の記憶が変わってしまっている可能性もあります。

主観的な立場の違いで、覚えている内容に違いが出ることもザラでしょう。

文章で記録されたものも、文字に残すときに随分と情報が減ってしまいます。
後から自分で読み返したときに解釈し直したイメージが加わって
この記憶も書き換わっていく場合もあると考えられます。

ビデオでも残っていれば、その部分のエピソードは確かめられそうですが、
一生をビデオに残している人は、まず存在しないと思います。

また、逆に考えれば、ビデオが残ってさえいれば
「自分の印象に残っている記憶よりも、そちらのほうが正しかった」
と過去の記憶を変えてしまう可能性さえあり得ます。

ということは、自分以外の誰かがビデオのほうを編集していたり、
第三者が最近のデジタル処理を使って作り替えたりしてしまえば、
自分が気づかないうちに過去を作り替えられてしまうことになるわけです。

こうしたことを踏まえると、
 「過去は変えられる」
とも言えるでしょうし、
 「過去なんてものは実在しない」
とも言えるでしょう。

自分が「過去に、こういうことがあった」と覚えているとき、
その確かさなんて極めて曖昧なものなんです。

ただ自分が「そうだった」と思っているだけなんです。

自分の頭の中に思い浮かぶイメージだけが、その頼りなんです。

映画『トータル・リコール』のようなことは、意外と
現代でも出来てしまうかもしれません。

『自分』という捉え方は、様々な種類の記憶の産物です。

「こういうことがあった」という出来事の記憶に限らず、
学習の結果として一般化された「意味」や「反応パターン」だって記憶ですし、
それは心理療法などの技法を使えば自在に変えられるものです。

「これまでに生きてきた自分の過去」という記憶が曖昧であって、
普段の自分の振る舞い方のパターンが変えられるとなれば、
『自分』という感じ方が、かなり不確かなものに思えるんじゃないでしょうか。

「これまでの自分の人生はこうだった」という『過去の自分』が不確かで、
性格や能力といった「自分らしさ」を変えることができるのですから、
『自分』として自信を持っていられるのは
 「今この瞬間に、自分はこれを経験している」
ということぐらいでしょう。

この記事を読み始める前の出来事は、すでに記憶から薄れ始め、
今、この文章を読んでいる確かさから比べると
もう曖昧な過去のものになってしまっていると言えます。

そんなことを考えたとき、
今この瞬間に体験していることが尊いものに感じられてくる気がします。

確かな自分の拠り所とえいるのが「今この瞬間の体験」だったとしたら
それをもっと大事なこととして味わいたくなるんじゃないか、と。


それは何も、「今の自分が五感を通じて感じられることが大事」という
「今ここ」だけへのフォーカスについて言っているのではありません。

五感を通して「今ここ」で感じている体験だって、
思考や記憶のような内側の体験だって、違いはありません。

全て「この瞬間に体験している」内容です。
体の内側か、体の外側か、の差だけです。
どちらも頭の中で処理されてから体験していますから、
実態は同じなんです。

今、体を通して感じていることも、
今、頭の中に思い浮かんだ考えやイメージも、
今、体の中に沸き上がった感情も…、
どんな体験だって、いずれ忘れられてしまうかもしれない
この一瞬だけの体験です。

確かなのは、
「今、自分が、この体験をしている」
ということ。

「今、自分は体で、これを感じている」でも
「今、自分は頭の中に、これを考えている」でも
「今、自分はイメージとして、これを思い出している」でも、
その体験をしていることは確かに思えることでしょう。

『自分』という存在を支えてくれる確かなものが
「今この瞬間に体験しているもの」だけであって、
それもやがて曖昧な記憶へと薄れていってしまうのを実感していれば、
今、自分が体験していることが尊く思えてくる。

過去のわだかまりを思い出して辛い気分になっている”今”も、
昔の思い出に浸って満足した気持ちになっている”今”も、
目から入ってくる光の色と周囲の音を感じている”今”も、
将来への不安に落ち着かなくなっている”今”も、
未来の目標や希望に心躍らせている”今”も、
全ては、やがて薄れていってしまう儚いものなんです。

そうした全ての”今”が大切なものに思えたとき、
できる限り、この瞬間の体験を味わい尽くしたくなるものなんじゃないか。

それは『一期一会』のようなものかもしれません。
今この瞬間の体験が全て『一期一会』。

だからこそ、精一杯、心をこめて。

cozyharada at 23:05|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!心理学 | NLP

2013年01月05日

色々な雑誌を見てみる


【お知らせ】

《カウンセリング講座に関して》
 
 現時点でカウンセリング講座は全4回+α として考えています。
 
 「+α 」というのは、「総集編や実践練習の回がある」などの意味です。
 
 基本的には、同講座を近いうちに再び開催するかどうかは未定です。
 (おそらく難しくなっていきそうな気配)

 もし、「参加は日程的に無理。でも、トレーニングをしたい。」
 という場合には、申し込みフォームやメール連絡などで御相談ください。

 実習の都合上、マンツーマンでは厳しいですが
 数人をお集まり下されば、別途対応します。

 また、お支払いのご相談も承ります。
 参加をご希望の方はご遠慮なさらずに、お知らせください。





最近、仕事の関係で多くの雑誌に目を通しています。

今まで読むことのなかった男性誌、女性誌なんかも見てみると
なかなか面白いものです。

情報そのものに興味があるわけではなく、
「世界が広がる」というか
「こういう話題に人気があるのか」といった傾向を知れるのが面白い。


問題提起の内容が多かったり、
「どうしたら問題が解決するか」といった記事が多かったりする雑誌には
全体に真剣な雰囲気があります。

そうした雑誌には「読者の悩み相談」のコーナーがあったり、
統計的に世情を分析した記事があったりします。

そういう情報を通じて、同じ悩みを持つ人を見つけると安心するのかもしれません。

内容として提供される問題解決の方法も
「自分に目を向けて自分を変えていく」方向性が中心のように感じられます。

デザインもスッキリと整理された形になっていますし、
色合いも落ち着いています。

男性誌であれば、黒系統や青系統が多く、直線で差し色が使われたりする。
女性誌のほうが暖色系の色合いではあっても、
彩度の低い落ち着いた色が多いように見受けられます。

ピントが合っていて鮮明な写真が多く、
写真には被写体以外にも背景部分が大きめに取られる傾向がありそうです。
レイアウト全般として余白が多めで、スッキリとした印象になる感じなわけです。


一方、「ラクに」、「簡単に」、「すぐに」、「上手くいく」などの言葉が多い雑誌には
手軽に実践できそうな行動レベルのコツが多く載っているようです。

それが女性誌の場合には、占いの記事や広告が多かったり。

言葉遣いも口語的というか、若者言葉に近いというか
「〜しちゃおう!」みたいな表現が多い印象です。
キャッチフレーズも駆使されているかもしれません。

デザインは、こちらのほうがゴチャゴチャと多くのものが配置されて
色合いもカラフルな傾向がありそうです。
あまり直線的に整理されていないというか、ランダムな感じが出てくる。

男性誌の場合には、ピントが合ってコントラストの強い配色で、
女性誌になると淡いパステルカラーで、ピントが甘めで明るい
フワッとした印象になっているようです。

また、写真の被写体はアップになっていて背景部分が少なく
ズームインしたような構図になることが多い気がします。

「憧れ」や「理想」を感じさせる映像が多い、ということです。


言い換えると、
 「不満解消型」か「欲求充足型」か、
といった感じでしょうか。

「避ける」か「上げる」か
と言ってもいいかもしれません。

個別の記事から得られる情報もあるのでしょうが、
全体に込められたメッセージを読みとろうとしてみると
読者層のイメージが浮かんでくるようで面白いんです。

普段読まない雑誌を読んでみるのも
他の人を理解する上では役に立つものかもしれません。

2013年01月03日

自分を愛すること

いわゆる「コンプレックス」を解消する最終的な方法は
両親を大好きになることかもしれません。

親のことが100%好きだったとしたら、
その親から受け継いだ体や才能も100%大切に思えるでしょう。

自分の中に両親が生きていることが実感できるはずです。
自分の中に両親を見つけられる。

自分のコンプレックスの部分こそが
何よりも深い両親との接点だ、と。

他人と比較して、社会の基準と比較して
自分のことを残念に感じてしまうのは自然なプロセスのような気がします。

「他人と比較するのはやめましょう」
「他人の物差しで自分を判断するのはやめましょう」
…そんな風に言葉でいうのは簡単ですが、
 現実的には難しいものです。

なぜなら、人間が何かを認識するという行為自体が
基準と照らし合わせるプロセスを含んでいるからです。

仮に「目」という部分を認識するとしたら、
そのときには、全ての「目」に共通する本質、つまり
全ての「目」に関する経験を一般化した典型例としての「目」と
参照させることで、「自分の目」を捉えるわけです。

基準となる典型的な「目」のイメージは世界の平均に近く、
平均に近いものほどバランスが取れていて「美しい」とされますから
「自分の目」を認識するときには、その基準と対比せざるを得ないんです。

一般的な基準と比較することなしに
何かを認識することは原理的にいって”不可能に近い”ということです。

とすると、ただ単に、その部分を好きになってしまうほうが楽なんじゃないでしょうか。

基準と比べてどうかではなく、そんなこととは無関係に
「これが好きだ」と思えてしまえば良い。

両親を100%好きになってしまえれば
無条件に自分の体を「好き」だと思えるだろう、と。

そうなったとき、他人から何を言われても、
それは自分を傷つける言葉にはなりません。

「親のことを悪く言うな!」という反応になるかもしれません。


これは、逆も成り立つと考えられます。

つまり、親に対する”わだかまり”を解消したいのであれば
自分を100%好きになってしまえば良い、ということです。

自分のことが100%好きでいられれば、
その自分を存在させてくれた親に対しても、同等の気持ちが向くことでしょう。


『自分を愛せるようになる』
『親との”わだかまり”を解消する』
いずれの場合においても、間接的な取り組み方があるわけです。

自分を愛するのが難しいなら、両親に対する気持ちに向き合ってみる。
親に対する”わだかまり”の解消が難しいなら、
自分を好きになれるように向き合ってみる。

どちらから進んでも、辿り着くところは同じだと思います。

2013年01月01日

新年のご挨拶

新年明けましておめでとうございます。

本年も宜しくお願いします。


新年に目標や誓いを立てる人は結構いるようです。
アメリカでは「 New Year's resolution (新年の誓い)」が一般的だそうですし。

ビジネス書や自己啓発書なんかを読んでいても
目標設定の重要性が強調されていますし、
目標を持っていることが良いことのように言われている印象を受けます。

あるならそれでいいでしょう。
それに向かっていくことが楽しいなら、言うことはありません。

でも、目標がないことが悪いわけではないとも思います。
1つに目標が絞れないことも、自分の生き方を絞れないことも
楽しみ方の1つじゃないでしょうか。

色々なことを楽しんだって構わないでしょう。

正月をダラダラ寝て過ごすのだって、
楽しみの1つに数えて良いと思うんです。

何が楽しいかなんて、人それぞれです。

僕の祖父は、害虫駆除の研究をしていて、
趣味で切手を集めていて、
毎朝、新聞の切り抜きと乾布摩擦をする習慣がありました。

幼少期のことですから、それ以外の印象は少ないんです。

ただ、仮にそればっかりをやっていたとしても
多分、祖父はそれが好きだったんでしょう。
他の人が何を言おうが、本人が楽しんでいるのであれば
「良かったね、おじいちゃん」という感じに思えます。

目標を立てて、それを達成できると嬉しいでしょう。
自分で立てた誓いを守り、自分の成長を感じられるのも満足感があります。

一方で、そうではない喜びもある。

どんなことでも、どんな形でも、
楽しめたら何よりじゃないかという気がします。

なかなか上手くいかない”もどかしさ”を楽しむもよし。
誓いを立てて、「あぁ、結局またダメだった…」と
意志の弱さに対しての”ガッカリ”を楽しむもよし。
不幸だって楽しめるのかもしれません。

なんだかんだいって、この一言に集約される気がします。
 「 Enjoy your life ! 」

2013年賀



















おしらせ
 ◆ セミナー情報 

New!

《コミュニケーション講座》
 〜人を育てる指導力〜

【日時】 
  2019年6月16日(日)
   10:00〜16:30


【場所】 
  北とぴあ 601会議室

   JR王子駅より2分
   南北線王子駅直結

詳細はこちら>>


《瞑想講座》

【日時】 
  2019年6月22日(土)

  午後の部 13:30〜16:30
  夜間の部 18:00〜21:00

【場所】 
  北とぴあ 第2和室

   JR王子駅より2分
   南北線王子駅直結

詳細はこちら>>


《怒りの取り扱いマニュアル》
 〜期待の手放し方と
  ゆるしの技法〜


【日時】 
  2019年7月6日(土)
     7月7日(日)
   10:00〜18:30


【場所】 
  滝野川会館

   JR上中里駅より7分
   JR駒込駅より10分
   南北線西ヶ原駅より7分

詳細はこちら>>
次回未定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


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《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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