2013年05月

2013年05月31日

【セミナー】コミュニケーション講座&カウンセリング講座(実践編)

ご案内: 6月16日(日)開催

 〜日常生活とカウンセリングに活かす〜
   対人コミュニケーション講座



この講座で扱うのは、いわば
『エッセンシャル・コミュニケーション・スキル』
のようなものです。

「コミュニケーションの本質」と解釈して頂いても良いでしょうし、
「コミュニケーションのエッセンス」と捉えていただいても構いません。

コミュニケーションの中で大事な部分に絞り込んだ内容となります。

全てのコミュニケーションの技術、例えば
ペーシングやリフレーミング、ねぎらいや明確化の質問など、
技術を利用する目的は、ここにあるはずです。

つまり、
『意図を理解する』
ということです。

コミュニケーションにおいては、
自分の意図したことが伝わったかどうかが重要でしょう。

というよりも、お互いの意図を伝え合うのが
コミュニケーションの中核的な目的だと考えられます。

もちろん、中には「会話を通じて交流を楽しむだけ」
という意図のコミュニケーションもあるでしょうが、
その場合でさえ、お互いが「楽しむ」という意図を共有しているからこそ
その場の関係性が”上手くいっている”ことになるわけです。

片方が「楽しむ」ことを目的にしていて、
もう一方が「自分の考えを理解してもらう」ことを目的としていたら、
お互いの意図は伝わっていないことになります。
空回りするコミュニケーションだといえるでしょう。

ですから、本質的に、全てのコミュニケーションには
お互いに『意図していること』があるんです。
「期待していること」があるとも言い換えられます。

それが明確に伝わっていれば、
コミュニケーションの目的は果たされることになる。

極めて当たり前のことです。

そのためにコミュニケーションをしているし、
多くの人が、そうやってコミュニケーションをしているつもりなものです。


ですが、実態は違います。
意図が明確に伝わっていない場合が多い。

そして、上手くいかないコミュニケーションとは、まさに
意図が伝わりあっていない場面であるはずです。

なぜでしょうか?

理由は単純です。
「誰もコミュニケーションのやり方をトレーニングしていないから」。

「自分がそのメッセージに込めた意図を自覚しながら、
 相手に最も伝わりやすい形で表現する」…
なんてことは、誰も工夫していないんです。

むしろ、ほぼ全てのコミュニケーションは
無自覚なままで学習されてきた経験の産物です。
自分が経験したやり方、自分が見てきたやり方。
ただそれを、そのまま踏襲しているだけ。

例えば、僕は子供の頃、母から注意されるときに
「そういうことしていると皆に嫌われるわよ!」と言われていました。

母が、その叱り方をしていたのは、確か僕に対してだけです。
姉に対しては、そういう言い方ではありませんでした。

にもかかわらず。
姉は今、自分の息子に対して、同じ注意の仕方をしています。
「そういうことしていると、皆に嫌われるんだからね!」と。

姉は子供のころに、「母親が子供を注意するときのやり方」を
自分の母を見て学んでいたんでしょう、無自覚なままに。

そして、30年後。
すっかり忘れていたはずのそのやり方が、自然と出てきているんです。

姉の責任でも、母の責任でもないと思います。
母でさえ、おそらく祖母から学んだのでしょう。

もしかすると、従兄は全員、同じ叱られ方をしたかもしれませんし、
従兄の子供たちも、同じように叱られて育ち、
将来は同じ叱り方をするようになるのかもしれません。

誰もがコミュニケーションのやり方を無自覚に学んでいるんです。
歩き方だって、姿勢だって、うなずき方や相槌の仕方、
さらにはご飯の食べ方だって、気づかないうちに模倣しているんです。

それが普通。

ただ、その普通同士が、上手く絡まない場合
お互いに残念な思いをする結果となる。

ですから、
 コミュニケーションを良好にするポイントは、
 お互いが無自覚に発しているメッセージの奥にある意図を
 明確に伝えあえるようにすること
という話なんです。


確かに世の中には、カウンセリングやコーチングなど
コミュニケーションの手法とされるものがあります。
営業や接客の上手い人も、コミュニケーションの方法に特徴はあるでしょう。

しかし、そういう方法は、特殊な目的のために工夫されているんです。
場面設定そのものが、そのコミュニケーションの大枠の意図を決めています。
お互いにコミュニケーションの目的が暗黙で共有されているんです。

ですが、日常の”やっかいな”コミュニケーションでは
お互いの目的が共有されていないことが多い。

だから意図を把握する必要があるのに、
そのための工夫は、なされていないのが現状です。

1つの対策は、『相手の意図をくみ取る』ということ。

相手は、意図を自覚しないままで、
意図を伝えるための最適な方法ではないメッセージを発します。
意図を奥に隠した、ただ模倣してきただけのやり方をする。

その奥にある意図を汲み取って、
その意図に対して対応していくわけです。

この対応は、カウンセリングでも役立ちます。
クライアントが言葉にできていない意図を汲み取って、
そこにメッセージを伝えていくという形になります。

技術としては、ねぎらい、リフレーミングなどが相当します。

また、意図を汲み取るためには、
相手の感情や価値観を捉える必要がありますから、
ペーシングや観察、明確化の質問なども求められることになるでしょう。

このように、『相手の意図を汲み取る』という目的に対して
コミュニケーションの技術が適用されるんです。

ここが、これまでに開催していた『カウンセリング講座』と繋がる部分です。
カウンセリングがスムーズになり、言葉がけの質も向上するはずです。

もちろん、あらゆる”厄介なコミュニケーション”に役立ちますから
初めての方にも活用して頂けると思います。


そして、もう1つの対策は『自分の意図を明確に伝える』です。

ほとんどの人は、自分のメッセージに無自覚です。
どういう意図でそのメッセージを発したのか
振り返って吟味することさえ少ないのではないでしょうか。

「どうして分かってくれないの!」
…ではなくて
「分かってくれないのは辛い。
 分かって欲しい。
 でも、伝え方が分からない。
 だから協力して。」
…という意図を、自分から伝える。

つい自分がやってしまう、意図を明確にしない伝え方を吟味して
自分のメッセージの裏にある意図を自覚するようトレーニングするわけです。

そして、自分の意図を、相手に分かりやすい言葉で伝えていく。

これが上手くなってくると、相手のメッセージの意図にも気づきやすくなります。
そもそも「意図を汲み取ろう」とする観点が身についてきますし、
自分と同じような表現をしている相手にも気づけるようになりますから。


この2つの方向性で講座を進めます。

・相手の意図を汲み取る
・自分の意図を明確に伝える
です。

できるだけ講座の時間内に、コツを体験していただくつもりです。

一度コンセプトが把握できると、トレーニングの場は日常に溢れています。
職場や街中で目にするやり取り、聞こえてくる会話の全てが
意図を汲み取るための教材になるはずです。

推理の元となる情報の量は、非言語メッセージへの観察力や
ペーシングの技術によって異なりますから、別途
ベースとなるコミュニケーションの技術は磨く価値があると思います。

一方、『意図を汲み取る』、『意図を自覚する』ということを踏まえながら
日常のコミュニケーションに工夫を加えていく作業は、
着眼点さえ心がけておけば常に取り組めるものです。

是非、日常の多くの場面を活用してトレーニングしてみてください。
世界が違って見えるような感じさえしてくるかもしれません。

意外と、皆、良かれと思ってやっているみたいです。
不器用なケースも見かけますけど。



◆今回の講座で得られるもの

●感情を読みとる観察力

●意図を推理する着眼点

●自分の意図に気づくための方法

●相手の意図に対する効果的な言葉がけ

●自分の意図の伝え方



◆お持ちいただくと役立つもの

●ICレコーダー

必須ではありませんが、ICレコーダーのような録音機材をご持参いただくと
振り返りの作業が効果的になります。

ご自身の実習の模様を録音して、振り返るのが目的です。

ビデオをお持ちいただいても構いません。

もちろん、復習のために全体を録音してくださっても構いません。

★ご希望の方には、ご自身にとって”厄介な”コミュニケーションを
 全体で振り返りながら、吟味して頂くことも可能です。

 全てのご期待に応えられるわけではありませんが、
 ご要望はお気軽にお伝えください。




コツを掴むためのトレーニングは様々な角度から扱う予定ですので
少し違った設定で同様のコミュニケーション講座を開催する見込みです。

どのトレーニングが役に立つかは人それぞれかもしれません。
練習にお越しいただけるのをお待ちしています。

特定の関係性、特定の設定で使う”手法”ではありません。
全てのコミュニケーションで活用できる「意図を伝え合う”能力”」を
高めるためのトレーニングと位置づけています。

1つだけ注意事項をお伝えしておくと、
相手は、このような着眼点から「意図を伝え」たり、
こちらの「意図を汲み取っ」たりは、してくれません。

相手の意図を汲み取るのも、
自分の意図を明確に伝えるのも、
どちらも、ご自分の役割ということです。

ともすると、自分だけ負担が大きいような印象を受けるかもしれません。

それでも、その関係性を良好なものにするために、
自分がその負担を請け負いたいと思えるかどうかがポイントになるでしょう。

相手は”普通”なんです。
自分だけ、”普通よりもチョット頑張る”。
その可能性を知っておいて下さい。

お互いが良い気分になれるように、自分から頑張ろうとする
…そういう優しさとも言えるかもしれません。

興味とご都合が合いましたら、お気軽にお越しください。

応援します。



講座の詳細は以下の通りです。



【セミナーの詳細】

〜日常生活とカウンセリングに活かす〜対人コミュニケーション講座
 (併設:『ホンネを引き出すカウンセリング』講座・実践練習)

【日時】  6月16日(日)
     《日中:対人コミュニケーション講座》   10:00〜17:00

     《夜間:カウンセリング講座:実践練習》  18:30〜21:30
 

       ※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。
       ★申し込みフォームに、ご希望の時間帯(日中/夜間)をご記入ください。


【場所】 滝野川会館 304集会室
    (JR京浜東北線・上中里駅より徒歩7分)
    (JR山手線・駒込駅より徒歩10分)
    (東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)

【参加費】 
      《日中:対人コミュニケーション講座》 ・・・15,000円 
      《夜間:カウンセリング講座:実践練習》 ・・・5,000円

       ★日中の講座にご参加の方は、無料で夜間の実践練習へご参加頂けます

       当日、会場にてお支払いください。


    ★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
     ご了承ください。




終了しました

家族療法で活躍した心理療法家に、ヴァージニア・サティアという人がいます。

NLPを開発する過程で研究対象となった人として有名です。

家族療法と一口に言っても、実際の手法や理論は様々ですが、
サティアのやり方もまた、特徴的なものだったそうです。

彼女の『合同家族療法』のビデオからするに、
かなり教育的な印象を受けます。

サティアには、「理想とする家族のコミュニケーションのやり方」というものがあって、
それが家族全員(特に夫婦)でできるようにトレーニングするのが
彼女のセラピーの中心になっていたと見受けられます。

そして、その「理想とするコミュニケーションのやり方」こそが、
この講座で扱うもの、つまり「意図を伝え合う」ことなんです。

サティアは、家族全員(夫婦両方)に対して関わって
お互いに意図を”自分から”明確に表現できるように
会話のやり方をトレーニングしたようです。
(一人ずつ個別に関わっても、全員を教育したとか)

その場合なら、「自分の意図を明確に伝える」側だけをやっても
最終的なコミュニケーションは分かりやすいものになっていくでしょう。

すれ違いや誤解は減っていくはずです。

おそらく実際には、家族成員の一人だけが
自分の意図を明確に伝えるように努力したとしても、
家族全体に対する効果は得られると考えられます。

意図を明確に聞くことができた側は、感情的な反応をやめたり
勘違いした表面的な対応を修正したり、
本当の気持ちの重要性に気づいて丁寧に話を聞こうとしたり…、
様々な形で関わり方を変える可能性があるからです。

ですから、「自分の意図を明確に伝える」トレーニングだけでも
大きな効果が期待できると思います。

しかし、この講座では「相手の意図を汲み取る」ほうもトレーニングします。

こちらは「言わなくても分かってもらえる」ような人になるのが
トレーニングの趣旨と言えそうです。

日本文化らしい”察する”コミュニケーションです。

「明確に伝えなかったのに分かってくれた」ということが
信頼感を生む場合もありますし、
「これだけは言わなくても分かってくれる人であって欲しい」
という期待を持っている人に関わる場合もあるでしょう。

そのためにも、「相手の気持ちを汲み取る」側も扱うことにしました。

これがサティアのスタンスのように、
望ましいコミュニケーションなのかは分かりません。

言葉にしなくても分かりあえる喜びを優先したいこともあるでしょうし、
そもそも良好な関係でありたいと思わない場合もあるでしょう。

意図を明確に伝え合うことを必要としないと判断したら
そのときには気にしなくても良いんじゃないかと思います。

ただ、意図が明確に伝わり合っていれば、
それだけで良好になっていく関係性も沢山あるようです。

シンプルな原則ですが、多くの人が気にしていないはずです。
コミュニケーション技法としても、扱われることは少ない気がします。

日々の生活に役立つコミュニケーションの方法。

もちろん、援助の技術としても応用可能です。
そのまま家族療法に応用できるわけですから。

興味が沸いた方なら、トレーニングしておく価値はあると思います。
人の一挙手一投足の奥にあるものが見えてくる感じがするかもしれません。

不器用な表現の奥にある大事な気持ちが感じられるのは
決して悪い気分ではないと思うんですが、いかがでしょうか?


積極的なご参加をお待ちしています。

2013年05月29日

これ、良くある体験でしょうか?

まずはチョット予告です。

6月16日にカウンセリング講座と勉強会をミックスしたようなものを
やろうと考えていますが、形式に迷っています。

これまでのカウンセリング講座とは少し流れを変えて
ちょっと違った観点を取り入れる予定です。
でもカウンセリングに役立つものにはしたい。

その辺で形を決めかねている状態なんです。

近日中にご案内できるとは思いますが。

日常のコミュニケーションには非常に役立つと考えています。
…というよりも、「皆、これをやらないから人間関係で困る」
 ぐらいの内容でしょう。

方法論としては”当たり前”なんですが
やっている人は非常に少ないものですから、
是非、練習してお役にたてていただきたいと思っています。




さて、今日は最近、気になってきたことを1つ。

自分が体験していることは自分にとって当然のことですから
それについて疑うことは少ないものでしょう。

ですが、色々とコミュニケーションとか、
人の心のしくみなんかを調べていくと、
人それぞれの体験がバラバラだということを実感してきます。

僕が当たり前のように体験していることだからといって
他の人が同じような体験をしているかどうかは定かではありません。

そういう意味で気になってきたのが、
『寝起きの瞬間』について、です。

以前はさほど多くなかったと思うんですが、
たまに、パニックになって目覚めることがあるんです。

多分、睡眠時無呼吸とは違うと思います。
息が止まって、という感じではないんです。

そのパニック的な目覚めが起きるのは、決まって
目ざまし時計の音がキッカケです。

携帯のタイマーだったり、目覚まし時計だったり、
その音の種類は色々ですが、
おそらく中途半端な睡眠のレベルのときなんじゃないでしょうか。

熟睡していれば目覚ましに気づかずに過ぎてしまうときもありますし、
夢を見ているような眠りの浅いときなら、パッと目覚ましを止めます。

ところが、たまに妙な目覚めになるんです。

多分、目覚ましの音を聞いて、意識が戻り始めるんでしょうが、
その音が何のことかサッパリ分からない感じなんです。

物凄く焦ります。
もう、訳が分からないぐらい。

この世が終わるんじゃないか?ってほどの混乱を経験して
「うわ、うわ、うわ…」ってしていると目覚ましを止めて
数秒と経たないうちに、我に返る…という流れ。

その瞬間は、自分が何をしているのか、どこにいるのかも分からず、
とにかく周りでなっている大きな音に驚き、
その意味づけすらも理解できていないんです。

ジタバタしているうちに音が止まって安心するのか、
落ち着いてくるのは目覚ましの音が止まってからと決まっています。

非常に強い恐怖を感じます。
一瞬ですけど。

以前に一度だけ、おにぎりを喉に詰まらせて息ができなくなって
死ぬんじゃないかと恐怖を感じたことがありましたが、
そのときの恐怖に近いものを体験するんです。

何なんでしょうか?
多くの人が体験するものなんですかね?


ちなみに、怖い夢で目が覚めるのとは違います。
それはそれで体験したことがあるので、違いは自覚できています。

目覚ましの音が、「目覚まし」だと認識できていない
っていうのがポイントだと思います。

ただただ、その音に恐怖を感じてパニックになる。
状況が理解できないんです。

そういえば、目覚ましを認識できないまま音の恐怖に対処しようとして
布団の下に目覚まし時計を押し込んで誤魔化そうとしたときもありました。

我に返ると、「なんでこんなところに目覚ましが?」と感じるんですが、
その瞬間はパニックなんでしょうね。

いわゆる”寝ぼけ”っていうのよりは、動きが格段に速いはずです。
「うーん、ムニャムニャ…。うるさいなぁ…。」なんて感じで
目覚ましを布団の下に押し込むのとは違うんです。

ガバッ!と目は覚めている。
でも、意識が混乱している。
そんな体験。

あまり気分のいいものではありません。

cozyharada at 23:28|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!心理学 | 全般

2013年05月28日

リズム

つい最近、僕は「リズム」ということを少し理解できた気がします。

というよりも、それまではリズムを誤解していました。
拍子とリズムを一緒のように捉えていたんです。

「テンポ」は拍子のスピードの違いのようですから、
同じ”4分の4拍子”でも、「速いテンポも遅いテンポもある」
ということになるみたいです。

拍子は、決まった時間でアクセントが繰り返される状態らしく、
音が四つ続いたときにアクセントがつくと
、2、3、4、、2、3、4、…」
という「拍子」になる、と。

ですから、同じテンポ、同じ拍子でも、
「リズム」にはバリエーションが生まれるということです。

この場合、リズムは「速い」とか「遅い」ではなく
「〜なリズム」とか「〜のリズム」といった表現になるんでしょう。

例えば、同じ4分の3拍子でも、
「メヌエット」とか「ワルツ」といった違いがあって、
そこには「メヌエット」や「ワルツ」特有のリズムが捉えられるから
「ああ、これはメヌエットね」と判断できることになる。

ジャズなんかには、色々なリズムが存在するようです。


おそらく、ドラムとか太鼓とか、メロディーを奏でない楽器を使って、
カッコイイ演奏をしたら、そこには「リズム」があるはずなんです。

その中には、当然、
 どれぐらいの速さで音を出し続けているか
 (休符も含めた拍子の間隔の長さの違いとして)
というテンポも含まれます。

また、
 どの程度の音が続くとアクセントがつけられるか
という拍子も含まれます。
周期的にアクセントがつけられているのが感じられるわけです。

だからといって、例えば
「タ・カ・タ・ダン!…」というパターン”だけ”が繰り返されるのでもない。

拍子は常に維持されて、テンポも一定で続いているから
全体としての規則性は感じられるけれど、
その中には大きな変化や流れのようなものがあるはずです。

まるでストーリー展開のような序破急を感じられると思います。

そのストーリー展開のような雰囲気が、たぶん「リズム」じゃないでしょうか。
僕はそんな風に理解しました。

ですから、
・同じテンポ(BPM)、
・同じ拍子、
・同じようなリズムでも、
ドラムの楽譜としては違ったものが作れるんでしょう。


東京スカパラダイスオーケストラが演奏したら
どんな曲でも「スカ」のリズムになっているんだと思います。

同じ曲でも、「ボサノバ・バージョン」みたいのが作れるのは
メロディーやテンポを変えなくても、
リズムによって曲の雰囲気を変えられるからだと考えられます。

ちなみに、「曲調」っていうのは、もっと抽象度の高い言葉のようで
「曲の雰囲気」に近い意味みたいですが、
それにはリズム以外にも楽器の種類やテンポ、メロディーなども関係します。

リズムだけでも雰囲気が生まれる、っていうところが重要な印象を受けます。
メロディー以外の要素によっても印象が変わることになるからです。


そして、
リズム感の良い人は、聞いているもの(音楽など)に対して
別の楽器を使って自然な形で参加していくことができると想像されますが、
これは多分、元々あるリズムを捉えて、そのリズムに則った演奏を
追加していくことができるからだと思うんです。

同様に、相手の話し方からリズムを捉えられて、
そのリズムと同じリズムで自分も話すことができれば、
そこでペースを合わせていくことができることになります。

僕はそういう捉え方をしていないので難しく感じますが、
コミュニケーションにおけるペーシング(ペース合わせ)において
「相手のリズムに合わせましょう」なんていうのは
こういうことなんだろうと思った次第です。

ただ、現実的に技術として考えた場合には
会話を構成する要素に音楽用語を適用するのはいかがかと思います。

なぜなら、人は「話を聞いている」のと、「歌を聞いている」のは
かなりの場合、感じ分けられるからです。

歌を聞いていると感じずに、話を聞いていると感じているからには、
そこに「音楽」として認識するための要素を捉えていないはずです。

もし、明確なリズムや音程、テンポや拍子を捉えられれば、
それはかなり歌っぽく聞こえるでしょう。

でも、多くの人の話し方は、そんなに歌っぽくはない。

その中で、歌のようなリズムや拍子、テンポを探して
それと合わせるようにするという作業は大変でしょう。
そもそも、それを認識していないから「歌っぽくない」と感じているのですから。

もし歌っぽく聞こえる人がいたら、そこからリズムやテンポを捉えて
それにペーシングするのも良いと思います。

逆に、何を聞いても音楽的な要素を感じ取れるほどの
音楽的センスを持っている人もいるでしょう。

歌ではなくて会話だと認識していても、なお
リズムぐらいは感じていますよ、という人。
そういう人なら、リズムを意識してペーシングすることが可能だと思います。

ところが、NLPの本なんかを読むと
音楽用語をそのまま使って聴覚的なペーシングが説明されている。

これは技術として説明するには汎用性がない気がするんです。

そもそも、リズムや音程、テンポ、拍子は、
音楽において認識されるパターンです。

相手特有のパターンに合わせることをペーシングというのであれば、
聴覚的に捉えられるパターンが必要なだけ。

そのパターンは、必ずしも音楽と同じである必要はありません。
音楽用語を適用しなくても、分かりやすい言葉で説明すれば良い。

特に、音楽用語で説明された捉え方を感じられない会話では、
もっと明確に認識できるパターンを整理したほうが有益でしょう。

例えば、「テンポ」と言わずに、
「一定時間に発話される音節の数=”話速”」などと定義するとか。

「フレーズの初めの音量が大きくて、徐々に小さくなっていく」パターンとか
「音程変化の上下幅」の傾向とか、
「フレーズとフレーズの間隔の長さ」とか、
とにかくパターンとして認識できるかどうかが重要でしょう。


まぁ、元々はペーシングという概念を提唱するときに
可能性として合わせられそうなものを列挙しただけで、
実際に技術としてのトレーニング法や、
それぞれの要素の重要性までは考慮しなかったんだろうと思いますが。

ペースが合ってくると、まばたきや呼吸も合ってくるものです。
だからとって、まばたきを合わせようとするのが有効かというと
必ずしもそうではないという実感があります。

技術として考えた場合には、
何を心がけてペーシングすると上手くいくか
のほうが大切じゃないかと思うんです。

それはトレーニングと実践との組み合わせで決まるのかもしれません。

cozyharada at 23:04|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 心理学

2013年05月26日

理論と仮説

「理論」っていうと、何か確立されていて、
論理的に間違いなく説明されている印象を受けるかもしれません。

物理や数学で提唱される「理論」は、多分、かなりそうなんだと思います。

「相対性理論」も、数学的に説明された形で発表されたはずです。
ですから「”理論的に”そういう可能性が高い」という説明をしていて、
それが観測結果と一致してくるかどうかは後回しだった、と。

大きく覆される可能性が残っていても
数学で記述できる範囲では論理的に正しそう。
…そういう内容が「理論」として発表されるのでしょう。


ところが、”心”が絡んでくる範囲になると、
「理論」は、はるかに曖昧なものとして使われています。

検証のしようがないものになってしまうんです。

心理学で「〜理論」と呼ばれているのは、
その心理学者が自分で考察した
 「これって、こうなっているんじゃない?」
という内容を、言葉で説明したもの。

数学を使って論理的に、ではないんです。

ですから、他の分野で示されてきていることを考慮に入れると
論理的に辻褄が合わなくなってくるものだって沢山でてくるんです。
言葉でしか説明していないから。

しかも、心理学で理論として提唱されたものは、
”その理論の正しさ”を実験的に検証されることは少ない。
というよりも、検証が無理なことが多い。

かなり広い範囲にわたる心の現象を
ものすごくシンプルな”理論”で説明してしまっていて、
どの要素に、どういう因果関係があるのかを追うような実験は
あまり心理学の範囲ではないようです。

アタッチメントだとか、感情だとか、モチベーションだとか
色々な理論がありますが、理論の正しさを説明する実験は
被験者の人生に関わってくる可能性があったりして
倫理的に行えないケースも多々あります。

その許される範囲内で、
「その理論の元で予測される『仮説』が立てられて、
それが実験で示される。

だからといって、その実験結果が予想されるものだったとしても
必ずしも理論を裏づけるものにはなりません。

同じ結果を別の理論で説明することだってできてしまいます。

これが仮に相対性理論なら、
ニュートン力学ではありえない観測結果を示すことで
その正しさを裏付けることになるところでしょう。

素粒子物理の理論なら、その存在を裏付けるデータを観測できれば
かなりの説得力で、理論の正しさを示すことができる。

それは、
「この理論が正しいとすると、こういう結果になるはずだ。
 その結果は、他の理論では説明することができない。」
というところから仮説を立てるからです。

でも、心理学では1つの理論”だけ”を裏付ける結果を
実験的に示すのが大変なようです。

なぜなら、心理学の実験は
 「〜の条件では、…になる」
という2つの変数の関係を、統計的に調べるのが普通だからです。

その関係の内側に起きているプロセスを
メカニズムとして説明することは、あまりなされません。

それは周辺分野の役割のようです。

ですから、心理学で提唱される「理論」というのは
ある心理学者が「こうじゃない?」って考えた内容であって、
その正しさが十分に検証されることは困難だ、ということです。


一方、心理学で「仮説」と呼ばれるものは、
必ず「実験的に検証可能である」形で立てられる約束になっています。

実験結果が、統計的にどれぐらいの「それっぽさ」を示すかは抜きにして
一応、実験することができるんです。

実験結果として、仮説を裏付けるデータが得られれば、
 「〜の条件では、…になる」
という関係性だけは、少なくとも”よく起こる”んです。

その関係性の間に何が起きているかは分かりませんが、
そういうことが起きる傾向は示されます。

仮説は検証可能なんです。

心理学では、「仮説」のほうが「理論」よりも
はるかに検証可能なものなということです。

1つの実験結果だけを知っておくと、
「人には、こういう傾向がある」
ということは想像できるようになります。

ですが、「○○理論」みたいなものを知っていても
それが本当かどうかは分かりません。

言葉の響きからすると、「理論」のほうが、
「仮説」よりもシッカリしていそうな印象を受けるかもしれませんが、
  実験的に裏づけが取れるかどうか
という観点では、「理論」のほうが曖昧だという話です。

cozyharada at 23:10|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!心理学 | NLP

2013年05月23日

思考のプログラム

思考とは何を指すのでしょう?

NLPでは『内部対話』が思考だと説明されることがあります。
そうすると、自分の内側、頭の中、”心”の中で聞こえてくる声が
思考の内容だということになる。

ところが、僕が今こうやってブログを書いているとき、
僕の中には最初から決まった文章はありません。

積極的に「思考」して、文章を考えて、
それを手の動きに対応させてタイプする…
といったことはしていなんです。

むしろ、聞いているタイミングと文字が打ちあがってくるタイミングは
ほとんど一致しています。
どっちが先かは分からない感じ。

ともすると、出来上がった文章を読んでいるような感じすらあります。

自然と出来上がってくる文章を書き起こしているだけ。
聴いているだけ、読んでいるだけといった感じなんです。


自覚として「考える」という行為をしているとき、僕の中には
内側で聞こえる声のサブモダリティとして、いくつか種類があります。

一番、悶々と悩んでいるときは、内側で話している感じ。
自分が発声しながら会話するときと同様に、
喉の奥や口のあたりの筋肉に緊張感があって
大きめの音量の声が、口のあたりから前10cmぐらいまでで聞こえる。

声の向きは、体の内側から外側に向かっています。
これは、独り言を言っているときに近いパターン。

一方で、もっと受動的な感じで声を聞いているときもあります。
額の前20cmぐらいから、自分のほうに向かって声が聞こえてくる。

これは早口で、淡々とした小さめの声。
考えがまとまっていくときは、この声が活躍します。

ちなみに、文章を書くときに聞いている声や、
読みやすい文体で書かれた興味深い本を、集中して読んでいるときの声も
これに似ています。

この声には、喉や口のあたりの緊張感が伴っていないので
かなり受動的にメッセージを聞きとっている印象が強いです。

おそらく、セミナーで説明している時や質問に答えるときなんかも、
この声を受動的に聞いているときと近い雰囲気がありますから、
額の前から聞こえてきた内容がそのまま声になって出ていく感じなんでしょう。

逆に、独り言に近い内側の声は、能動的な雰囲気があって、
クライアントとして自分のことを話すときや、街で店員に話しかけるときなどに
発話している状態と似ているように感じられます。

その意味では、僕の内側には、能動的な声と受動的な声と両方があって、
それぞれコミュニケーションが能動的か受動的かと対応しているようです。

また、受動的な声の中には他にも種類がいくつかあって、
その1つは、「気づき」の声です。
これは頭の上、少し後ろ側から小さめの声で聞こえてきます。

胸の高さ辺りには、50cmぐらい離れた距離の色々な方向から
その場に関係の薄い「雑念」のような声が聞こえてきます。
これは、そのときの内容によって方向が違いますが、質感は共通するみたいです。

音楽についても、内側で聞こえるのは一種類ではありません。
正確に原曲が再現されて聞こえてくるものもあれば、
自分が歌っている感じで遠くから自分のほうへ向かって聞こえてくるものも、
独り言モードに近い感じで、内側で鼻歌を歌っているような印象の声もあります。

内側の音楽にも能動的なものと受動的なものがあるということです。

さらに、変わったところとして、受動的とも能動的とも取れない声もあります。
「反論」の声です。
何かの話を聞いたときに対する反応としてしか作動しない点では受動的ですが、
声の方向性としては、鼻の高さの喉の奥のほうから顔の前に向かっていて、
喉や口の筋肉に緊張感が出るという点で、能動的な雰囲気があるんです。


全部、内部で聞こえる声で、言語的な特徴を持っていますから、
一応、「内部対話」に分類されるはずです。

じゃあ、全部これらが思考なのか?

もっとNLPの言葉で説明すると、
「全ての声のバリエーションは、違ったパートが担当するプログラム」
だといえるはずです。

つまり、「犬を見て、『えへへ…』と暖かい気持ちになる」プログラムや
「誰かが大きな声で怒鳴っているのを聞くと、『ビクッ』と怖くなる」プログラムが
別のものとして色々と存在しているのと同様に、
内部対話にも色々な種類がある、ということになります。

思考もプログラムの一部なんでしょう。

だとすると、思考は「意識」ではないと考えられます。

数ある思考のうちのどれを「意識する」かどうかの話です。

ですから、意識していようが、いなかろうが、
それとは無関係に思考は複数同時に進んでいる可能性があるんです。
というよりも、進んでいるはずです。

意識していなくても進んでいるんです。

急に閃いたりするわけではなく、意識していない範囲で
思考の流れが続いているから、あるとき答えが出るんでしょう。

実際、僕は3つ、4つの思考(内部対話)を聞いていますが、
それは意図的にパラレルな思考を使っているわけではありません。
ただ聞いているだけ。

複数のことを同時に「考えよう」としているのではなく、
勝手に進んでいる思考のプログラムを同時に自覚しているだけのことです。

音楽を聞きながらランニングをしている最中に、
ペットボトルのドリンクを飲む
…というのだって3つの作業を同時にやっているんです。
プログラムが自動的にやってくれるという意味では同じようなものです。

人によって自覚のしやすさには違いがあるでしょうが、
思考が意識していない状態で自動的に進んでいること自体は
おそらく全ての人に共通しているだろうと考えられます。

ただ時々、特定の声ばかりを聞き過ぎてしまうことがあるようです。
ある声だけを意識に上げ続けてしまう。
それが困ったことに繋がる場合がある。

よく聞いてみると、その声だけじゃない声もあるはずです。
感情だって複数のものが同時に表れているはずです。

一瞬に対して、色々なプログラムが同時に作動しているわけです。

それが意識できると、問題の程度は軽くなるんじゃないでしょうか。
全てのプログラムが問題を作っているわけじゃありませんから。

2013年05月21日

「心が晴れる!一日一つのチョイいい話」

youtube で始まった動画シリーズ。

こちらは、シリーズのコンセプトを紹介している動画です。

 

一日1つぐらいのペースで更新されていく予定。
気持ちが楽になる考え方(言葉の使い方)や、
影響力のある”しぐさ”が紹介されています。

いずれも2分から4分ぐらいで見られるものなので
気軽に見られると思います。

僕も裏方で関わっていますが、
内容としても、動画自体の仕上がりとしても
高いクオリティだと感じています。


「心に響く言い回し」のシリーズは、詳しい人から見ると
技術的に参考になる所が多々あるんじゃないでしょうか。

リフレーミングや、考え方のコツなどとして役に立つ内容。

どんな技法を使っているのか?という視点で分析して頂いても
得られるものが多いと思いますし、
何より、リフレーミングの発想としてストックを増やせるはずです。

もちろん、悩みのフレーズをお題として
自分でリフレーミングを考えてみるのもトレーニングになります。


一方、NLPとかコミュニケーションとかに詳しくなくても
「悩み相談コーナー」として見ていただければ参考になるでしょう。

相談内容に対して、役に立つ言い回しが提案されますから
人によっては、ズバリ自分の悩みがスッキリすることもあるかもしれません。

是非、お知り合いに紹介して広めてください。

幅広い人に有意義な動画だと思いますので。


第一回は、こちら。

取り上げられているお悩みは
「振られるのが嫌なので、自分から振ってしまうんです…」
という恋愛相談でした。

こんな悩みに、どんな言葉をかけたいでしょうか?

そういう事例紹介です。
優しい雰囲気ですね。



2013年05月18日

本を読んで「分かる」(注:7300字)

僕は結構、本が好きです。

本という媒体が好きな気持ちは非常に強いですが、
本を読む行為が好きな度合いも、そこそこじゃないかと思います。


ところが、翻訳本や文学作品の場合、文章のスタイルそのものによって
内容とは無関係に読むのがシンドイ感じになることが多々ありますから、
ただ「読んでいても入ってこない」だけの理由で避けるものもあるんです。

それとは違って、文章はスムーズに入るのに
内容として理解が大変、という本も沢山ありました。

僕が心理療法とかコミュニケーションとか勉強し始めたころは、
そういう内容的な「ハードルの高さ」を伴った本を沢山買ったものです。

もちろん、内容的にハードルの高い本は翻訳本であることも多く、
文章の読みにくさと内容の難解さのため
「読んだつもり」で済ませてきたものも色々とあった気がします。

そのあたりの本でも、数年たってから読み返してみると
内容としてスムーズに理解できたりしたものです。
(文章としての読みにくさから理解を断念したものもありますが…)


でも、実はそれって何も本から情報を得ていない気もするんです。

つまり、自分が体験レベルで実感して情報量を増やして、
その情報についても自分なりの吟味をして整理がある程度進んでいると、
難解な本の説明を通じて、自分の中の情報を言葉で整理してもらえる。

そこに納得感や、「確かにそうだ」という印象が生まれていたんでしょう。

あくまで、それらの本がしてくれたことは
 僕が経験的に分かり始めていたことを言語化するサポート
だったに過ぎないと考えられます。


一方、僕が勉強を始めたころに沢山読んでいた本は
どれも「分かりやすかった」覚えがあります。

当時は気にしていませんでしたが、振り返ると
「分かりやすさ」にも種類があったようです。

1つの「分かりやすさ」は『シンプル』さと繋がっています。

「本当はこうなんだけど、あんまり書くと情報量が多くて大変だから
 この辺までで簡潔に書くだけにしよう」
という感じの内容。

言い換えると、例外や状況分けをしていない。
NLPの用語でいうなら、「削除、一般化、歪曲」が多い。

詳しい事例の説明を「削除」して、”よくありそうな話”にする。

本当は当てはまらない状況もあるのに、「こういうことなんです」と断言して
あたかも全てのケースに当てはまるかのように「一般化」した説明をする。

場合によっては「〜だから…なんです」と飛躍した論理を展開して
詳しい論理構造を飛ばし、情報を「歪曲」する。
あるいは、偉人の言葉を引用して、
自分の伝えたいことと同じ主張であるかのように「歪曲」することもあります。

読んでいる側は、その文章の展開しか意識に上げませんから
「なるほど、そういうことなんだ」と納得した感じになる。

ところが、実際には、その説明が当てはまらないケースなんかが沢山あったり。

例えば「相手になりきって話すと、相手の気持ちが分かります」なんて言われると
「なるほど、そういうものか」と感じられたりするわけです。

しかも、そこに”典型的”な事例がついてきます。
 「Aさんは、苦手なBさんになりきって話をしてみました。
  そうしたら、Bさんは意外とAさんの心配をしてくれていたんだと気づきました。」
という具合に。

この説明だけに注目すれば、「なるほど」と感じられるかもしれません。

しかしながら、この説明では筋が通らない体験をする人もいるんです。

 Cさんは苦手なDさんになりきって話をしてみた。
 でも、特にDさんに対しての印象は変わらなかった。
 Dさんが色々と自分の(Cさんの)心配をしてくれているのは知っていたし、
 だからこそCさんは、いつも言いたいことが言えず苦しい思いをする。

…そんな場合、Cさんは常にDさんの気持ちも気にかけている、といえます。
一方、Aさんは、普段から自分の気持ちを重視して、
相手の気持ちに関心を向けていなかった。
こういう違いが想像できます。

すると条件が分けられることになります。
・Aさんのように、自分の気持ちを重視して、
 あまり相手の気持ちを気にしていない人。
・Cさんのように、相手の気持ちを気にしながら関わっていて
 自分の気持ちを優先しない傾向のある人。

このとき、Cさんのような人には、当てはまらない説明になっているわけです。
Cさんが「例外」とも言えますし、過剰に「一般化」しているともいえます。

Cさんのケースまで説明しようとすると情報量が増えますから、
そこを無視して「シンプル」にする。

こういう種類の説明は、読みやすいですし、「分かりやすい」印象になります。

全く周辺知識や、説明の内容に対して実体験がない人の場合、
こういうシンプルな説明のほうが分かった感じを味わいやすいようです。
想像しやすいですし、複雑さに混乱しないからでしょう。
  

一方、その分野について詳しく知っている人や
実体験が多い人の場合、こうした「シンプル」な説明は減ってきます。
説明する側も避けようとするし、読む側・聴く側も「物足りない」感じになる。

「いや、だって、こういうケースだってあるでしょう。」
「必ずしもそうとはいえないんじゃないですか?」
「大事なところをチョット省き過ぎじゃない?」
…そんな感じが出てくるときです。

こうなってくると、「シンプル」な説明の本は、「分かりやすい」ではなく
「もう分かっている」本になってくるはずです。

「知っていることしか書いていない」と感じられれば面白くない。

「そうだよね、それは大事。(うん、私と同じ考え)
 だから、これは分かりやすくて良い本。人に勧めよう。」
と感じられると、同じ意見の人がいることに安心と自信が得られます。

「たしかに、そういう言い方もできなくはないけど…。
 これは状況別に整理したほうが使いやすいだろう」
なんて反論が出てくる場合もあるでしょう。

これらのケースでは、「もう分かっている」内容だったといえます。
すると、もうちょっと詳しい本を求めるようになる。
専門的な内容に関心が向き始めるときです。


ちなみに、もちろん冒頭にも触れたように
自分が体験して分かってきていることをシンプルな言葉に置き換えて
情報を整理してくれる結果、「分かった」と思えるときもあるはずです。

ですから、まとめると
・全く関連知識がないから、シンプルに一般化された情報を入れて
 「なるほど、そういうものなんだ。へぇ。」と”知る”段階
・知識や体験が増えてきて自分なりの理解は進んでいるときに
 シンプルな言葉での説明を読んで、
 自分の中の情報が言語的に整理されて「そういうことか!」
 と”納得する”段階
・すでに知識と体験が多量にあって、状況別の分類整理が進んでいて
 幅広い体験と法則が結びつけられているとき、シンプルな説明に対して
 「あぁ、そういう風に説明するのか」と”判断できる”段階
ぐらいに分けられそうです。


で、ここで3番目に挙げた段階にまで学んでくると
情報をインプットしたい側の人は専門書に手を出すようになり、
専門書を書いてアウトプットする側の人は、
専門家向けの詳しい説明をし始めるようです。

専門的な内容ですから、用語は分かっているものとして話は進む。
体験も多いはずだという前提から、具体的な事例の詳しさは下がる。
過剰な一般化を避けて精度を上げようとするために分類が増える。
歪曲を避けるために、論理展開を重視するため文章が長くなる。

すると、具体的な話が少ないのに、文章の量が長い説明になるわけです。

状況別の違いが丁寧な論理展開で説明される、けど事例はない。

一般的には読みにくい本になってくるはずです。
いかにも専門書って感じ。

なんなら装丁の読みやすさまでワザと見にくくしているのか?と思えるほど
細くて小さなフォントでギュウギュウに詰め込まれていたり…。

こうした専門書の理解が大変に感じられるとしたら、それは
・文章表現の言語的な相性の問題
 (理解に使っている言語の並べ方の癖の違い)
もしくは
・抽象度の高い状況別の説明に対応する実体験が出てこない
の、
いずれかの可能性が高いでしょう。

実体験と対応させられないために理解が難しい、というのは
専門書を読むときには良くあることだと実感します。

つまり、体験があって、言語化までの整理はしていなくても分類済みの人は
専門書を読むと「良くまとまっている」とか
「そういう着眼点でも整理できるか」といった感じ方になりやすいんですが、
それには、かなり「分かっている」必要があるということです。

既に「分かっている」から、「良くまとまっている」とか
「そういう着眼点ね、面白い」とかの感じ方ができる、と。

抽象的な言葉で説明されていても、すぐに実体験を連想しながら
関連づけて内容を理解していけるかどうかが決め手なわけです。

文章の内容を、自分の体験に基づく知識のネットワークに
関連させていけるかどうかがポイント。

専門書の場合、この関連づけの作業は、読者の責任になっています。

関連づけがスムーズにできるほどの知識と体験がある人(分かっている人)は
苦もなくサラッと、自然に関連づけしつつ読み進める。
その抽象度の高い説明に対応した事例が自然と思い浮かぶんです。

一方、知識と体験が不十分な段階だと、自然には関連した情報が出てこない。
関連づけが終わっていないんです。
だから、抽象度の高い文章に対応した事例を「自ら」思い出してきて、
それを具体例として関連づけしながら読む必要がある。

ただ、残念ながら
「専門書は事例が無いのが普通だから
 知識と経験が足りないうちは、自分で事例を思い浮かべて
 具体的な情報と関連づけしながら、ゆっくりと読み進めましょう」
と教えてくれることは少ないみたいです。

僕は、あるときからそうやって読むと専門書でも納得しやすいと気づき、
頑張って読もうと努力していた時期があります。
(まぁ、それでも時間はかかるし、
 対応する具体例が思い浮かばないこともあって苦労しましたが…)

それに気づく前の専門書は、字面を追っただけだったんです。
後から読み直して、やっと理解できた本もありました。

ですから、専門書を理解するのには、読者の努力が必要なんです。
周辺知識と経験を増やして
 自分の中の情報が言語的に整理されて「そういうことか!」
 と”納得する”段階
になるか、
 自分で周辺知識や実体験の実例と関連づけながら
 積極的に整理する
か。


多分、ほとんど全ての”専門家”は、そうやって勉強したんでしょう。
自然と専門書が理解できるまで経験を積んでから
専門書の手助けで言語的な「整理」をしたか、
積極的な関連づけをしながら専門書を読んで、頑張って「納得」したか。

そのため、自分が専門家になったときにも
同じような書き方の専門書として説明をするようになるんじゃないでしょうか。

だから、世の中に「中級書」って少ないんだと思います。
入門書か専門書かの両極端。

理系分野だと、「ニュートン」とか「日経サイエンス」とかは中級書かもしれません。

この辺の雑誌が中級の内容として説明しやすいのは
「雑誌」という媒体であることとも関係しているはずです。

1つのテーマに対して、説明できる量が多いんです。

専門書のほうが網羅しないといけない範囲が広かったりして
結果的に1つのトピックの説明へ使える文章量が少なくなる。

雑誌で1つのトピックを特集すると、それなりのボリュームをさける、と。

なので、精度の高い状況分けをした(一般化の少ない)分類を説明しつつ、
それぞれに対して具体例の説明まで踏み込んでいけるのでしょう。

状況分けをしながら、それぞれに具体的な事例との関連づけをすると
自然と文章の量は多くなってしまいますから、
雑誌の特集ぐらいのレベルが、丁寧に詳しく説明しやすいんだと思います。


先に挙げた例に戻って補足するとしたら…。

 【入門】
 「相手になりきって話すと、相手の気持ちが分かります」(主張)
 「Aさんは、苦手なBさんになりきって話をしてみました。 そうしたら、
  Bさんは意外とAさんの心配をしてくれていたんだと気づきました。」(事例)
 「相手になり切ると、気づきが生まれるのです。」(主張の言い換え)

専門書では、これだと「一般化し過ぎ」で、
対応できない場合もあることが問題になります。
反論の余地があるからです。

そこで…。

 【専門】
 「相手になりきって、相手の気持ちを理解するという発想がある」(前置き)
 「しかし、相手の気持ちを考えている度合いには個人差がある」(反論)
 「大きく2分するなら、
  ー分の気持ちを重視して、相手の気持ちを気にしないタイプ
  ∩蠎蠅竜せちを気にしながら人と関わるために、
   自分の気持ちを優先しなくなるタイプ
  となる」 (状況分け)
 「これを踏まえると、人間関係の悩みを整理するときには、
  自分の気持ちと他者の気持ちをそれぞれ考えるのが効果的といえる」(主張)
 「,両豺隋⊆分の気持ちしか考えていないので、
  相手の気持ちを考える時間をとるようにする。
  すると、今まで意識していなかったことに気づける。
  △両豺隋∩蠎蠅伴分、両方の気持ちを同時に意識しているので、
  それぞれを別々に考えるようにする。
  すると、今までと違った捉え方になって気づきが生まれる。」(状況別説明)

こういう説明のほうが正確さがあるわけです。
「自分と相手、それぞれの気持ちを考える」を2つの状況に分ける。
分類の作業です。

こっちのほうが例外が少なくなっていると考えられます。

でも、内容は複雑だし、文字量は多いし、かといって例は無いし…
で理解のハードルが上がるんです。

もちろん、この説明で「そうだな」と思った方もいるでしょう。
その場合、すでに経験と知識があって「分かっていた」んです。

問題は、これを中級の説明にするとき。
全部書くと、さらに長くなるので省略しますが…

 【中級】
 「相手になりきって、相手の気持ちを理解する。
  それが大事だと言われると納得する方も多いでしょう。
  私も小学校の道徳の時間に、そう教わりました。」      (ペーシング)

 「しかし、相手の気持ちを理解する、というのは、どういうことでしょうか?
  どれぐらい理解すれば良いのでしょう?
  どれぐらい考えればいいのでしょう?
  そこには程度の違いがありそうです。
  実際、普段から相手の気持ちを考えようとしている度合いには
  結構な個人差があるようです。」                  (前置き)

 「大きく2つのタイプに分けてみましょう。
  ー分の気持ちを重視して、相手の気持ちを気にしないタイプ
  ∩蠎蠅竜せちを気にしながら人と関わるために、
   自分の気持ちを優先しなくなるタイプ」              (状況分け)

 「それぞれのタイプの例を挙げるとしたら……」           (具体例)
   (※ここで具体例を挙げて、タイプ分けを実体験と関連づける)

 「このように、相手の気持ちを考える程度に違いがあるとしたら、
  相手の気持ちを理解しようと心がけたときの結果も
  タイプによって違いが出てくるかもしれません。
  もしかしたら、△離織ぅ廚凌佑覆蕁◆悗い弔發笋辰討泙垢茵』
  と言いたくなるところかもしれません。
  では、どう考えたら効果的なのでしょうか?」             (繋ぎ)

 「両方に共通して役に立ちそうな発想は
  『自分の気持ち、相手の気持ち、両方をそれぞれ別々に考える』
 ということです。
 例を挙げながら考えてみましょう」                     (主張)

 「,凌佑両豺隋⊆分の気持ちばかりを考えて、
  相手の気持ちを考えていないといえます。
  ですから、意図的に相手の気持ちを考える時間を取ることになります。
  
  例えば、Aさんは、事細かに注意される上司が苦手でした。
  忙しいのに時間を取られるのが面倒くさくて嫌だったんです。
  ですが、上司になりきって気持ちを考えてみたら、
  『忙しいからこそ失敗をして修正している暇がない、それで
   誤解の内容に正確な伝え方をしたかったんだろう』
  ということに気づいたんです。
  そして、
  『だったら積極的に自分から、分かっていることと
   分かっていないことを伝えて質問したら良いんじゃないか』
  と、上司への関わり方を変えたそうです。
  
  このように、今まで意識していなかった相手の気持ちを自覚することで
  お互いの立場を尊重しながら関わろうとする姿勢が生まれるようです。

  次に、△凌佑両豺隋

  この例としては、Bさんのケースが当てはまります。…
    (※ここで実際の事例を挙げる)
  このように…     」                    (状況別の具体例)

以上が、中級っぽい説明といった感じでしょうか。

正確さを求めるために、過剰な一般化はしない。
状況別に分類して整理するわけです。

読んだ人は、闇雲に何かをするのではなくて
「このケースは、どの状況に分類されるだろう?
 そう分類されるなら、こうやって対応すればいいんだ」
という形で応用できるようになると期待されます。

同時に、状況別の事例を追加しています
 (ここでは一部省略していますが…)。

読む側は、説明されている内容に対応する事例を
自分で探し出しながら読み進める必要がないんです。

「ああ、そういうことってあるよね。そういう場合の話か。なるほど。」
として、具体的な情報を追加しながら関連づけられるわけです。

これだと、知識や実体験が少ない段階でも
その情報を追加しながら説明を読めるので、
納得感が得られやすい、ということになります。

省略して書いた部分があっても、入門、専門と比べると
はるかに長い文章になります。

これが中級のデメリットでしょうか。


僕がブログを書くときには、中級を心がけていないので
それほど分かりやすさを重視していないと思います。

記事を書いたり、セミナーで説明したりするときは
中級っぽい感じを心がけることもありますが、
相手によって説明の仕方は変えているつもりです。

入門っぽいのは…
頼まれれば説明しますが、まぁ、多くはない気がします。

僕が中級っぽい説明をしたいと思うのは、
自分がそれを求めていたからかもしれません。

本当は、「丁度いい」段階の本と出会えるのが望ましいんでしょうが…。

そうした本を探すのも、また楽しみの一つですし、
難解な本を頑張って理解するのも重要なプロセスだとは思います。

そう考えると、本の読み方を知って、
頑張って本を読む経験をするのも重要なんでしょう。

本の読み方を説明した本とかがあれば、良いんですかね。

2013年05月16日

歴史を調べてみた

フロイトが自由連想法を考え出して、
『精神分析』ということをやり始めたのが1886年。

精神分析の基礎が固まってきたのが1889年だそうです。

そして1895年ごろに、心的外傷(いわゆるトラウマ)が
ヒステリーを引き起こすといった原因論が唱えられたんだとか。


日本に目を向けると、『廃刀令』が1876年の出来事ですから、
まだ武士がいたような時代に近いということです。

そして精神分析の基礎ができたとされる1889年は
『大日本帝国憲法』が発布された年。

催眠の元になったメスメルは1700年代の人ですし、
「120〜30年前の精神医学」なんていうと大して前に思えませんが、
その他の歴史的な出来事と比べると、途端に昔のことに感じられてきます。


ライト兄弟が有人飛行したのは1903年。
精神分析は、まだ飛行機が作られる前に提唱されたものなんです。

ワトソンとクリックが「DNAの二重らせんモデル」を発表したのが1953年。
ヒトゲノムの解読終了が告知されたのが、その丁度50年後の2003年。
2013年現在、ある程度の遺伝病は遺伝子診断が可能になっています。

医療の分野では、ジェンナーによって
天然痘へのワクチン療法が開発されたのが1798年。
病原菌の微生物研究は19世紀後半から20世紀初頭にかけて盛んで、
1929年に抗生物質としてペニシリンが発見されたのが大きなイベントでしょう。

解剖的な研究は先行していたかもしれませんが、
分子レベルでの解析には化学の発展も必要だったはずです。

アスピリンの合成は1897年、
フリッツ・ハーバーによるアンモニア合成が1905年、
ボーアの原子モデルの提唱が1913年、
デュポン社によるナイロンの合成が1935年。

こうした発見に加えて、測定・観察技術の開発が進んで
化学は一気に進んだようです。
観測のための装置を作るにも、また
高精度なモノ作り技術も必要だったと考えられます。

おそらく、医療の外科的な治療技術の発展にも、
生命の基礎知識を広げるための観測技術と
効果的な治療を可能にする道具や機器の開発が関わっているでしょう。

近代では、道具や装置が作れるようになったことで新たな知見が得られる、
というテクノロジーに引っ張られたサイエンスの発展が大きいようです。


一方、僕の印象からすると、数学や物理は進みが速いように思えます。
コツコツと実験で示すというよりも、一人の頭の良い人が
理論を先行させて展開できるからかもしれません。

ニュートン力学は1687年。

微分積分学をまとめたのもニュートンだそうですから、
17世紀に数学はかなり発展したようです。
ケプラーとか、フェルマーとか、ライプニッツとか、デカルトとかも17世紀。

この先の数学の概念は僕には難し過ぎます。

物理のほうでは、マクスウェルが電磁気学を方程式にまとめたのが1864年。
アインシュタインの「一般相対性理論」が1916年。
量子力学でシュレディンガーの「波動方程式」が提唱されたのが1926年。

最近は、理論物理を証明するために装置が開発される流れみたいですが、
物理と数学が”予測”を計算できるようにしたのは大きいはずです。

身の回りのところでも、例えばGPSで位置を特定するには
相対性理論が使われているんだとか。


数学や物理の場合、扱われる内容の抽象度が高いせいか、
「ここに物理の○○が使われています」というのは見にくい気がします。
特に、21世紀の現代で研究されているような内容の場合には。

ですから、僕には発展の度合いがイメージできません。

一方、新しいテクノロジーとして目に見えるものであったり、
それを支えている化学になると、発展のめざましさが感じられます。

とりあえず数学や物理はおいておくとしても、
19世紀後半から現在までの百数十年で進んだものは凄まじいでしょう。

それと比べると、心の分野は…。

別に、「今も精神分析が使われる」というのは悪くないんです。
「今もニュートン力学は使われている」のと似ています。

ただ、あまり劇的なものを感じない。

数学や物理のように、理論を展開して証明することもできず、
テクノロジーの進歩に引っ張られたところも小さかったのかもしれません。

もしかすると、比較対象が間違っているんでしょうか?

ヴントによって心理学の研究室が作られたのが、フロイトよりも少し前
1879年のことですから、心理学の歴史は非常に浅いとはいえます。

だから仕方ないんでしょうか?

なんだか、もうちょっと違う取り組み方もあるような気がするんですが。

個人的には、「意識の活動」を研究しようとした出発点が
すでに間違っているんじゃないかと思えてしまっています。

「意識」が普通のものだという前提で、
意識じゃない部分を「無意識」なんて呼んでいる。

だから、「人間以外の動物にも意識はあるのか?」
「コンピューターが意識を持つことは可能なのか?」
なんていう問いを持つようになる。

ではなくて、
「意識」と呼んでいるものが単なる幻想じゃないか?と
疑ってみるところからやり直しても良いんじゃないでしょうか。

cozyharada at 23:50|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!心理学 | 全般

2013年05月14日

分かりあうために

本質的に、皆、孤独なんだろうと思います。

だから多くの人は人間関係で繋がりを求める。
でも他人は分かってくれません。
技術を身につけていないから。

100%他人を分かることはできないとしても
分かる程度を上げていくことは技術で可能です。

大部分の人はやろうともしませんし、
やろうと思っても身につけられるチャンスは多くないみたいです。

その意味で僕はラッキーでした。
多少は技術を学ぶことができましたから。


孤独から始まって、他人との繋がりに関心が向くケースは非常に多いようです。

それで友人だとか恋愛だとか家族だとかに目が向く。
「分かりあえる」関係のようなものを求めたくなるんでしょう。
沢山の空回りを通じて、誰もが自分なりの学びを続けていく。

それでも孤独が収まることは無く、喜びと苦しみを味わっていく流れ。
豊かなストーリーだと感じます。

同様に他人との繋がりに目が向いたとしても、不器用な人もいます。
ここでいう「不器用」は、「人間関係が苦手」という意味ではなく、
「感受性が高くて繊細」というイメージに近いものです。

この場合、大きく2通りの道に分かれるみたいです。

一方は、その不器用な自分に関心を向けて、「自己の探求」をする人たち。
もう一方は、不器用さゆえに人間関係で傷つき、
そこから「他者とのコミュニケーション」に興味を持つ人たち。

前者では、哲学、心理学、自己啓発、スピリチュアルなどが選ばれやすく、
後者では、カウンセリング、心理学、セラピー、催眠などに関心が向きやすい、
といった傾向がありそうです。

両方に心理学が出てきたのと同様に、芸術も両方の意味で選ばれます。

本来の意味で「芸術」と呼ばれるものは、創造のプロセス自体に価値があって
他者を必要としないものだろうと僕は感じていますが、
一般的に「芸術の分野」に含まれるものは、必ずしもそうではありません。

例えば、音楽を通じて自分の気持ちを表現したり、
誰かにメッセージを届けようとしたり、誰かを元気づけようとしたり…
そういう意図から行われる音楽は「他者とのコミュニケーション」だといえます。

会話で他者と関わるよりも、音楽を使ったほうが得意、という才能の違いです。

絵画でも同様に、絵を使って何かを伝えたいなら「コミュニケーション」でしょうし、
自分の内側にあるものを絵に変換していくこと自体が目的なら
そちらは「自己の探求」となっていくという分類です。

文学や陶芸、料理だって、他者との関わりを目的とする場合もあれば
自分の内側と繋がるための手段として使われる場合もあるわけです。
美容とかファッションとかもそうでしょう。

心理学に関していえば、大学で勉強しようという人の場合、
人間一般を客観的に見たがる傾向が強いようですから、
どちらかというと「他者とのコミュニケーション」寄りの印象もあります。

逆に、スピリチュアルにしても、
自分の人間関係の苦しさに対する拠り所として取り組む人もいますから、
「何に興味を持ったから、どっちの探求」とは言い切れないんです。

つまり、
 自分というものと向き合うためにするのか、
 他者との関係性のためにするのか、
大きくその区別ができそうだという話です。


そして、そうした2つの方向の探求をしているうちに
上手く人間関係が回り始めてくる人がいます。

不器用さが解消されてきたのか、相性の良い人たちと出会うのか、
「分かりあえる」関係をベースとした方向性にシフトする、と。

探求してきたことを仕事にしたり、趣味にしたりして
その分野で人との繋がりを感じられてくる場合もありますし、
学んだことを活かして”本業”に戻っていく場合もあります。

その一方で、稀に、ずっと探求を続ける人もいる。

「自己の探求」を続けていれば、自分の苦しみの中に
他者との関わりを前提としたものが含まれていることに気づくでしょうし、
「他者とのコミュニケーション」を追求していても、
そのためには自分の問題と向き合う必要があることに気づくでしょう。

その中には、人付き合いのない環境に移り住む人もいるようですが、
社会との接点を持ち続ける人のほうが多いはずです。

困ったことに、元々、孤独感と不器用さから始まった探求も
続けていくほどに孤独感を高める方向に進んでしまう。

それは、自分と同じようにずっと探究を続ける人が少ないのに気づくから。
さらに、他の人と生きる世界の違いを感じてしまうから。
考え方や感じ方が変わってきてしまうわけです。

頑張れば頑張るほど、周りに「分かりあえる」人が減っていくような孤独感。

その上、自分の問題を解消しながら他者と関わり、
自分が技術を駆使して他者を分かるようにコミュニケーションすれば、
「自分だけが頑張っている」ような孤独感も味わうことでしょう。

「分かりあいたい」気持ちだけは残りつつ探求を続けているのですから
「分かりあえない」孤独感が強まっていくのは自然なのかもしれませんが。


じゃあ、どうするか?

『他の繋がりで補う』というのが有効なようです。

英語っぽくいうなら、
・マインド (知的な側面)
・ハート (仮に説明すると「情」みたいな感じ)
・ボディ
・スピリット
で分類する感じでしょうか。
「心」は沢山の意味を含み過ぎているので。

上に述べた状態は、
ハートでの繋がりが不十分だと感じるために孤独であって、
マインドを通じた「自己の探求」と「他者とのコミュニケーション」手段は
十分に磨いてきたということだと想定されますから、
ボディやスピリットと繋がるのが有効そうです。

スピリットと繋がる方法の1つは、まさにスピリチュアルな修行だとか
宇宙や世の中との一体感を求めることでしょう。

もう1つは、先にも挙げた芸術。

他者との関わりを意図していないほうの芸術は、
自己と向き合うだけでなく、自分を超えた大きな存在…
たとえば自然や世の中、真理など…と向き合う手段にもなりえます。

この場合、その芸術活動をやっている時間が
孤独感から癒される取り組みになるはずです。

そして、ボディと繋がる方法は、スポーツとかヨガとか。
競技の結果よりも、自分の身体に意識を向けるほうが重要かもしれません。

実際、スポーツ界の偉人とか武道の達人になったりすると
内面的にも磨かれてくる人がいるようです。

身体から自己を探求し、
身体を上手く扱うことで他者とのコミュニケーションも制御する、
といったことがあるんでしょう。

「分かりあえる」関係を求めるところから出発せずに、
スポーツの楽しさから出発する人もいますが、
そちらのルートでも探求を続けて孤独感と向き合う人たちがいる
ということだと考えられます。

ただ、今のところの僕の考えとしては
(運動を通じて)ボディと繋がるのは、かなり効果的だろう
と仮説を立てています。

ロマンチックな表現ですが、
 「分かりあいたい」という気持ちの根源には
 「自分を分かりたい」と「自分に分かってもらいたい」が
 混ざり合っているのかもしれない
と感じます。

マインドで知的に理解するのも大切。

でも、マインドで理解するのが客観的なスタンスだとしたら、
「体を感じる」というボディとの繋がりは
ただ側にいて、ずっと気持ちを向けてくれるような
そんな状態じゃないかと思えるんです。

芸術は好き嫌い、得意・不得意があるかもしれません。
身体を感じるのは、意図すれば誰でもできる。
そういう汎用的な有効性があるんじゃないか、と。

僕は芸術全般が好きですから、
いずれは芸術活動の時間を必要とするときが来る気がします。

それは誰かに見てもらったり、聞いてもらったりするためのものではない。
自分が形に置き換えるだけのためのものです。

完成することもありません。
完成したら、芸術活動が終わってしまいますから。

常に続けるんでしょう。
それで孤独感のバランスを取るんだとしたら。

レオナルド・ダ・ヴィンチが
『モナ・リザ』、『聖アンナと聖母子』、『洗礼者ヨハネ』の3枚を
生涯手元に置いて加筆を続けていたのは、
きっとその芸術活動を続けていたい理由があったからじゃないでしょうか。

2013年05月12日

体を大切に

僕の住まいの近所は、比較的、高齢者が多いんです。

その中にも色々な方がいます。
すごく元気そうな人もいれば、
上品で穏やかな人も、せっかちで口の悪い人も。


全般に見ていて思うのは
 「大部分の人は姿勢が悪い」
ということ。

歩き方もそうですし、止まっていてもそうです。

姿勢が悪いから骨に負担がかかってきて痛みが出る。
痛みが出るから、かばって変な姿勢になる。

痛みがあるから運動量が下がってくる。
運動をしないから筋肉が減って、運動が苦痛になる。

このあたりは悪循環として「どれが原因」とは言えないのでしょう。

ただ、大抵の人に”苦しそうな感じ”が見受けらるのは特徴的。

その苦しさを外への不満として表現している人もいれば
痛みばっかりに注意を向けている人もいますし、
痛みを避けるためか、何も感じなくしているような人もいます。

視覚や聴覚は、組織として加齢の影響を受けるところでしょうし
筋力の低下や関節の歪みなども自然なものなのかもしれません。

にもかかわらず、痛そうな感じや不満を表していない人もいるんです。

そういう人には、上品な感じが漂っている気がします。
…いや、そういう人を「上品」と僕が捉えるだけかもしれません。

いずれにせよ、かなりの高齢なのに優雅な雰囲気を携えた人がいる。

筋力の低下はあるのでしょう。
決してキビキビとはしていません。

違いは、『気配りの量』のように見えます。
どれぐらい多くのことに注意を向けていられるか。

おそらく、上品な雰囲気の人というのは
常日頃から自分の振る舞いを意図的にコントロールしてきたのでしょう。

しぐさや声のトーン、姿勢や歩き方、表情、言葉遣い…。

様々な自分の振る舞いに注意が向いていたから
負担を減らすように、ストレスの少ないように動作を調節して
歪みや痛みを上手く対処してきた結果なんじゃないだろうかと感じます。

歩くときに足を着地させる瞬間1つをピックアップしても、
衝撃を自覚しながら丁寧に歩いてきた人なら
関節や筋肉の痛みの程度も、歩行に必要な筋力の程度も、
日常生活の積み重ねとして健康度の高い状態を維持してきたと想像されます。

幸か不幸か、人は慣れるものです。

変化がゆっくりな場合は、違いに気づきにくくもなります。

多分、僕の体力は20代の頃と全然違うんでしょう。
でも、あまり自覚していない。

たまに駅の階段を走ったりすると、急激に自覚しますが…。


変化が起きていくのは仕方のないことです。
当然でしょう。

それに抗う人たちもいますが、程度の問題だといえます。

むしろ、スターウォーズの「ヨーダ」のように
超高齢なのにメチャクチャ強い人もいるんです、達人になると。

それは体力的な強さではなく、技としての強さといった感じでしょうか。

一方、一般的な人たち…近所の高齢者の大半とか…は、
ヨーダみたいな状況にはなっていないようです。

違いを生むのは、「どれだけ自覚できているか」のような気がします。

歪みがある、痛みがある、感じられていない部分がある…、
そういったことを無視し続けていると
『知覚の閾値』が全体的に下がっていくのかもしれません。

部分的な痛みを感じるのを避けるために
痛みそのものへの感受性を下げる、といったイメージ。
体への注意のレベルを下げるわけです。

体の痛みや不自由さが無視できない範囲に大きくなってしまったら
そこから色々なストレスも生まれてきます。

頭を使う作業だってパフォーマンスが落ちるでしょう。
熱が40度近くあるときに考え事をするのが大変なのと近い。

継続的な苦しさへの不満や不自由さへの憤りなど
感情的な”わだかまり”も生まれてくる。

その場合、痛みを感じなくしようと体の内側への注意を減らせば、
自分の中に起こる感情の身体反応にも自覚しにくくなるはずです。
「イライラしているな」という感じ方をしなくなってくる。

すると、外からの刺激に対して、感情の反応が行動に直結しやすくなります。
怒ると「つい手が出てしまう」、「つい怒鳴ってしまう」のような感じ。

「制御が利かなくなってきた」とかではなく、
「感情への自覚の程度が落ちたために制御するタイミングが失われてきた」
という解釈のほうが適切な場合もあると思います。

体への自覚の仕方によって、思考・感情・行動、
様々な面に影響が出てくると考えられるわけです。

もし全体的な自覚のレベルが下がって、意識に上がる情報の総量が下がれば
今度は、ボーっとしたような元気のない雰囲気になっていく可能性もありそうです。


そういうことを考えると、
「体力を鍛えるために運動する」という発想だけでなく
「体に対する自覚を上げるために運動を利用する」
という発想も重要になってくるんじゃないでしょうか。

丁寧に、大切に体を使う。
その心構えも大事な気がします。

太極拳なんて、その意味では理にかなっている運動だと思います。

自分の身体に注意を向けることの重要さは
表面的な成人病対策の啓蒙活動よりも、遥かに上だろうという気がするんです。

アラートネス( alertness )ではなく、アウェアネス( awareness )を測定できれば
データをもってアピールできるところだと思うんですが。

誰かやってくれないものでしょうかね。

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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