2013年05月
2013年05月10日
新大久保
久しぶりに母校を訪れる用事があったので、
新大久保の街を歩きました。
高田馬場から行っても、新大久保から行っても
多分、距離は同じぐらいだったんですが、
2年前に学校に行ったときには高田馬場からだったこともあり
「ちょっと懐かしい街並みでも見てみようかな」と新大久保で降りたんです。
実を言うと、新大久保の駅を利用するのは
さほど久しぶりではありませんでした。
大きな書道用品店が新大久保と大久保の間にあるので
新大久保駅の改札を出て、西側には行っていたんです。
そして、西側の風景は、まぁ一般的な変化の範囲だといえるでしょう。
ちょっと店が変わっていく程度のもの。
ところが。
数年ぶり(10年は経たないと思いますが)に歩いた
新大久保駅の東側は、物凄い激変ぶりでした。
テレビなどで新大久保の「韓流」ブームの様子は聞いていましたが
まさかあんなことになっているとは。
薄暗かった街並みは、すっかりと”きらびやか”になっていて、
原色と白が多いデザインに、照明でキラキラになった店舗が沢山。
僕の感じ方からすると、目を引くサブモダリティが満載で情報過多、
何に注目したらいいのか分からず、
”きらびやかさ”から引き出される「ゥワァーッ…!」と心が浮かれる印象。
その強烈な印象に圧倒されて、思考がストップするようでした。
これは、好きな人には堪えられない魅力として受け取られるはずです。
なんというか、遊園地というかテーマパークというか、
そういう非日常の演出感がスゴイんです。
万博みたいな感じ、といったほうが僕のイメージには合いますが。
また、街を歩く人たちのウキウキ感も並はずれています。
原宿に通じるものがあるような気もしますが
もっとテンションのトーンが高く、白飛びした印象を受けました。
おそらく、良く来る人たちの内的表象は、新大久保を歩いている間中、
白くて映像がハッキリしなくなるぐらいの明るさになっていて、
音が遠くなって聞こえづらくなるような状態だろうと想像されます。
「夢心地」を味わわせてくれる街なのかもしれません。
強いていうなら、原宿が「常識的な日常とかけ離れた非日常がある現実」で
新大久保は「日常では味わえない非日常が演出された非現実(夢の世界)」
といったところでしょうか。
(あくまで、僕の感想ですが)
まるで、駅の改札を出て、ガード下をくぐったら
そこから先に夢の世界が広がっているような感じなんでしょう。
もう、街全体がテーマパークといった雰囲気でした。
まぁ、細い路地へ一本入っていくと、すぐに古い住宅地に戻りましたから
そこから先は、「良く知った大学近郊の景色」だったんですが。
ちなみに、僕が新大久保の街を通ったのは平日でした。
多分、これが土日になったりすると、もっとスゴイことになるんでしょう。
かなり興味深い状況になっているんじゃないかと思います。
あの新大久保の雰囲気が、韓国の繁華街に近いものなのか、
それとも日本人向けのサービスとして特別に作られたものなのか、
そっちに興味が沸いてきました。
短期間に、こんなにも街が変わるものかと驚いた体験でした。
よくあるような
「いやー、この辺りも随分変わったねぇ。
前はここ、こんなビルじゃなかったのに。
あれから結構な時間が経つもんねぇ…」
なんていうレベルじゃありません。
むしろ
「え?ここ、どこ?
あ、この本屋は覚えてる。
…でも、辛うじて痕跡が見えるぐらい。」
といった印象。
喩えるなら、仰天ダイエットで別人のように変わった知人と再開して
「あぁ、そういえば、その目元は確かに…」
みたいな感じでしょう。
本当にビックリしました。
以前の新大久保を知っている方は、一度見てみる価値がある気がします。
なお、google マップでは、今のところ楽しめないと思います。
使われている写真が古いので。
新大久保の街を歩きました。
高田馬場から行っても、新大久保から行っても
多分、距離は同じぐらいだったんですが、
2年前に学校に行ったときには高田馬場からだったこともあり
「ちょっと懐かしい街並みでも見てみようかな」と新大久保で降りたんです。
実を言うと、新大久保の駅を利用するのは
さほど久しぶりではありませんでした。
大きな書道用品店が新大久保と大久保の間にあるので
新大久保駅の改札を出て、西側には行っていたんです。
そして、西側の風景は、まぁ一般的な変化の範囲だといえるでしょう。
ちょっと店が変わっていく程度のもの。
ところが。
数年ぶり(10年は経たないと思いますが)に歩いた
新大久保駅の東側は、物凄い激変ぶりでした。
テレビなどで新大久保の「韓流」ブームの様子は聞いていましたが
まさかあんなことになっているとは。
薄暗かった街並みは、すっかりと”きらびやか”になっていて、
原色と白が多いデザインに、照明でキラキラになった店舗が沢山。
僕の感じ方からすると、目を引くサブモダリティが満載で情報過多、
何に注目したらいいのか分からず、
”きらびやかさ”から引き出される「ゥワァーッ…!」と心が浮かれる印象。
その強烈な印象に圧倒されて、思考がストップするようでした。
これは、好きな人には堪えられない魅力として受け取られるはずです。
なんというか、遊園地というかテーマパークというか、
そういう非日常の演出感がスゴイんです。
万博みたいな感じ、といったほうが僕のイメージには合いますが。
また、街を歩く人たちのウキウキ感も並はずれています。
原宿に通じるものがあるような気もしますが
もっとテンションのトーンが高く、白飛びした印象を受けました。
おそらく、良く来る人たちの内的表象は、新大久保を歩いている間中、
白くて映像がハッキリしなくなるぐらいの明るさになっていて、
音が遠くなって聞こえづらくなるような状態だろうと想像されます。
「夢心地」を味わわせてくれる街なのかもしれません。
強いていうなら、原宿が「常識的な日常とかけ離れた非日常がある現実」で
新大久保は「日常では味わえない非日常が演出された非現実(夢の世界)」
といったところでしょうか。
(あくまで、僕の感想ですが)
まるで、駅の改札を出て、ガード下をくぐったら
そこから先に夢の世界が広がっているような感じなんでしょう。
もう、街全体がテーマパークといった雰囲気でした。
まぁ、細い路地へ一本入っていくと、すぐに古い住宅地に戻りましたから
そこから先は、「良く知った大学近郊の景色」だったんですが。
ちなみに、僕が新大久保の街を通ったのは平日でした。
多分、これが土日になったりすると、もっとスゴイことになるんでしょう。
かなり興味深い状況になっているんじゃないかと思います。
あの新大久保の雰囲気が、韓国の繁華街に近いものなのか、
それとも日本人向けのサービスとして特別に作られたものなのか、
そっちに興味が沸いてきました。
短期間に、こんなにも街が変わるものかと驚いた体験でした。
よくあるような
「いやー、この辺りも随分変わったねぇ。
前はここ、こんなビルじゃなかったのに。
あれから結構な時間が経つもんねぇ…」
なんていうレベルじゃありません。
むしろ
「え?ここ、どこ?
あ、この本屋は覚えてる。
…でも、辛うじて痕跡が見えるぐらい。」
といった印象。
喩えるなら、仰天ダイエットで別人のように変わった知人と再開して
「あぁ、そういえば、その目元は確かに…」
みたいな感じでしょう。
本当にビックリしました。
以前の新大久保を知っている方は、一度見てみる価値がある気がします。
なお、google マップでは、今のところ楽しめないと思います。
使われている写真が古いので。
2013年05月08日
【セミナー】カウンセリング講座(5月・実践編)
ご案内: 『ホンネを引き出すカウンセリング』講座
【5月の追加日程】 実践練習&基礎トレーニング:5月19日(日・夜間)
カウンセリング講座では、これまでに一通りの技術を紹介しました。
このカウンセリングの手法のポイントは
「闇雲にやらない」
ということです。
無駄に話を聞くわけではありません。
重要なポイントに絞って話を聞く。
特に、クライアントにとって重要な話を、です。
カウンセラーの興味で話を広げるわけではありません。
クライアントのニーズを把握するために大事な部分を聞くんです。
そのためには、クライアントが言葉にしていないメッセージに対しても
カウンセラーは言葉でコミュニケーションしていくことになります。
これらのことを見よう見真似で学んでいくと、
参考にした元のカウンセラーと学習者との間で
注目する部分や解釈の違いが生じますから、
学習者には独自の要素が加わってしまうことが多いんです。
当然、参考元のカウンセラーが気をつけてやっていたことが伝わらず
全く別のものとして解釈されることもありますし、
気づかずに捨て去られてしまうこともあります。
・本当は重要ではないのに追加されてしまったもの
・本当は重要な意図があったのに表面的に別の解釈をされてしまったもの
・本当は重要なことなのに気づかれずに取り入れられなかったもの
…こういう要素が、
見よう見真似の学習には起きやすいようです。
そうなると伝言ゲームのように、世代を経るにつれて
元のカウンセラーが意図していた技術は失われていくでしょう。
これは『必要十分』な技術の要素が明確に伝えられていないために起こります。
「必要最低限、これだけはやっておけば大丈夫」
という骨格を身につけることが大切なんです。
同時に、「やる必要のないこと」や「やるべきではないこと」も
併せて知っておくのが重要でしょう。
まずは骨格を身につける。
それから筋肉をつけていく。
そして、ぜい肉がつかないように注意する。
この講座では、その『必要十分』の要素を整理して紹介してきました。
骨格になる部分は『ペーシング』と『焦点化』。
筋肉としての『力づけ』(ねぎらい)。
そして、クライアントに応じて求められる『明確化』。
『明確化』は、時に”ぜい肉”になりかねません。
ですから、意図をもって技術を選択することが必須なわけです。
これはトレーニングが求められる部分です。
丁寧に振り返りながら、最適な選択を常に追求し続ける。
そのための実践練習です。
そして、もう1つ。
実践練習をしていると、「なんとなく形になってしまう」ことがあります。
骨格を明確にしてカウンセリングを行っていますから
ある程度の結果までは出てくるんです。
すると、理想的にはもっと積極的に取り入れたい技術も
あまり自分にとって馴染みがないという理由で使わないまま
カウンセリングの結果が出てきてしまうかもしれません。
「結果が出ていれば良いじゃないか」という考えもあるでしょうが、
それはクライアントに依存する部分です。
どんなクライアントにも的確に対応するには、
やはり必要な技術を妥協なく使えるようにしておきたいんです。
それには、個別の技術を練習するのが効果的でしょう。
もちろん、個別技術だけだったら心がけて使えるのに
実践形式になると使わなくなってしまうケースも見受けられますから、
個別技術の練習と実践形式とを両方やるのが望ましいといえます。
ということで、
・個別技術のトレーニング
・実践形式のカウンセリングの練習
の両方に取り組みます。
そういう講座です。
今回は特に
『ペーシングと同調』
を重視します。
個々の技術を丁寧に扱いますから、
初めてのご参加でも役に立つ内容になるはずです。
ペーシングだけ切り出して日常のコミュニケーションに使っても
役立つはずですから、そういう観点でお越し下さっても良いと思います。
ご都合が合えば、是非、繰り返しトレーニングにご参加ください。
◆今回の講座で得られるもの
●非言語メッセージに対する観察力
●感情に対する言葉がけのバリエーション
●クライアントのメッセージを受け取る精度の向上
●場の空気を捉えてコントロールする技術
●クライアントに巻き込まれないための視点
◆お持ちいただくと役立つもの
●ICレコーダー
必須ではありませんが、ICレコーダーのような録音機材をご持参いただくと
振り返りの作業が効果的になります。
ご自身の実習の模様を録音して、振り返るのが目的です。
ビデオをお持ちいただいても構いません。
現時点では、全体の中で収録した内容を使うことを目的としていませんが、
自分自身が何を言ったか、どのような展開だったかを思い出すためにも
利用価値の高いツールだと言えます。
もちろん、復習としても役立ちます。
講座の詳細は以下の通りです。
【セミナーの詳細】
≪『ホンネを引き出すカウンセリング』講座≫【実践練習−2】
【日時】 5月19日(日)
《夜間:実践練習》 18:30〜21:30
※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。
【場所】 北とぴあ 803会議室
(JR京浜東北線・王子駅北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅5番出口直結)
【参加費】
《夜間:基礎+実践練習》 ・・・5,000円
当日、会場にてお支払いください。
★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
ご了承ください。
終了しました
このカウンセリング講座では『ラポール』という言葉を使っていません。
ラポールは技術として扱うには複雑すぎるんです。
沢山の要素が関わり過ぎています。
確かに、クライアントが取り扱う問題を選ぶ際に
どこまで踏み込んで話をするか、というのは
カウンセラーとクライアントとの関係性によるところがあります。
同時に、クライアントの個性によっても異なります。
カウンセラーの個性も影響します。
クライアント側のカウンセラーに対する好みも関わります。
「ラポールを深めておけば…」という発想でカウンセリングを考えると
カウンセリングそのものの目的がブレやすいんです。
良い関係性を作ることが目的になってしまう。
ここで扱いたいのは、あくまでニーズ把握の手法です。
クライアントのメッセージに対して選ばれる技術の組み合わせを元に
「どこまでのニーズを言語化してもらえたか?」を考察したいんです。
以前からの知り合いだから、とか
なんとなく相性が良いから、とか
出身地が同じだから、とか
そういった要因は、クライアントのメッセージに対する応答と関係しません。
あくまで『ペーシング』をベースに進めたいんです。
『ラポール』は状態ですが、『ペーシング』は方法です。
『ラポール』という状態がどの程度生まれるかは1つの結果であって
『ペーシング』はクライアントのメッセージへの対応の1種。
『ペーシング』なら意図を持って選択できる範囲だということです。
なので、ペーシングを技術として使えるように練習するわけです。
仮に、「クライアントがどの程度の問題を言語化するか」
を例にとると、
「ラポールが不十分だったから、クライアントはこの問題を言語化しなかった」
という分析ではなくて、
「この場面でのこの対応と、あのときに発したメッセージとがあったから
クライアントはこの問題を言語化するのをやめた。
あのとき、こういう言い方をしていれば、言語化するほうを選んだかもしれない」
というような分析をしたいんです。
それであれば、クライアントのメッセージに対する応答の技術として
トレーニングすることが可能ですから。
技としてのペーシングに焦点を絞って取り扱うのが狙いです。
技術の練習をしましょう。
意図を持って使い分けられる方法のトレーニングです。
誠実に技術を磨くための場になれば幸いです。
お待ちしています。
【5月の追加日程】 実践練習&基礎トレーニング:5月19日(日・夜間)
カウンセリング講座では、これまでに一通りの技術を紹介しました。
このカウンセリングの手法のポイントは
「闇雲にやらない」
ということです。
無駄に話を聞くわけではありません。
重要なポイントに絞って話を聞く。
特に、クライアントにとって重要な話を、です。
カウンセラーの興味で話を広げるわけではありません。
クライアントのニーズを把握するために大事な部分を聞くんです。
そのためには、クライアントが言葉にしていないメッセージに対しても
カウンセラーは言葉でコミュニケーションしていくことになります。
これらのことを見よう見真似で学んでいくと、
参考にした元のカウンセラーと学習者との間で
注目する部分や解釈の違いが生じますから、
学習者には独自の要素が加わってしまうことが多いんです。
当然、参考元のカウンセラーが気をつけてやっていたことが伝わらず
全く別のものとして解釈されることもありますし、
気づかずに捨て去られてしまうこともあります。
・本当は重要ではないのに追加されてしまったもの
・本当は重要な意図があったのに表面的に別の解釈をされてしまったもの
・本当は重要なことなのに気づかれずに取り入れられなかったもの
…こういう要素が、
見よう見真似の学習には起きやすいようです。
そうなると伝言ゲームのように、世代を経るにつれて
元のカウンセラーが意図していた技術は失われていくでしょう。
これは『必要十分』な技術の要素が明確に伝えられていないために起こります。
「必要最低限、これだけはやっておけば大丈夫」
という骨格を身につけることが大切なんです。
同時に、「やる必要のないこと」や「やるべきではないこと」も
併せて知っておくのが重要でしょう。
まずは骨格を身につける。
それから筋肉をつけていく。
そして、ぜい肉がつかないように注意する。
この講座では、その『必要十分』の要素を整理して紹介してきました。
骨格になる部分は『ペーシング』と『焦点化』。
筋肉としての『力づけ』(ねぎらい)。
そして、クライアントに応じて求められる『明確化』。
『明確化』は、時に”ぜい肉”になりかねません。
ですから、意図をもって技術を選択することが必須なわけです。
これはトレーニングが求められる部分です。
丁寧に振り返りながら、最適な選択を常に追求し続ける。
そのための実践練習です。
そして、もう1つ。
実践練習をしていると、「なんとなく形になってしまう」ことがあります。
骨格を明確にしてカウンセリングを行っていますから
ある程度の結果までは出てくるんです。
すると、理想的にはもっと積極的に取り入れたい技術も
あまり自分にとって馴染みがないという理由で使わないまま
カウンセリングの結果が出てきてしまうかもしれません。
「結果が出ていれば良いじゃないか」という考えもあるでしょうが、
それはクライアントに依存する部分です。
どんなクライアントにも的確に対応するには、
やはり必要な技術を妥協なく使えるようにしておきたいんです。
それには、個別の技術を練習するのが効果的でしょう。
もちろん、個別技術だけだったら心がけて使えるのに
実践形式になると使わなくなってしまうケースも見受けられますから、
個別技術の練習と実践形式とを両方やるのが望ましいといえます。
ということで、
・個別技術のトレーニング
・実践形式のカウンセリングの練習
の両方に取り組みます。
そういう講座です。
今回は特に
『ペーシングと同調』
を重視します。
個々の技術を丁寧に扱いますから、
初めてのご参加でも役に立つ内容になるはずです。
ペーシングだけ切り出して日常のコミュニケーションに使っても
役立つはずですから、そういう観点でお越し下さっても良いと思います。
ご都合が合えば、是非、繰り返しトレーニングにご参加ください。
◆今回の講座で得られるもの
●非言語メッセージに対する観察力
●感情に対する言葉がけのバリエーション
●クライアントのメッセージを受け取る精度の向上
●場の空気を捉えてコントロールする技術
●クライアントに巻き込まれないための視点
◆お持ちいただくと役立つもの
●ICレコーダー
必須ではありませんが、ICレコーダーのような録音機材をご持参いただくと
振り返りの作業が効果的になります。
ご自身の実習の模様を録音して、振り返るのが目的です。
ビデオをお持ちいただいても構いません。
現時点では、全体の中で収録した内容を使うことを目的としていませんが、
自分自身が何を言ったか、どのような展開だったかを思い出すためにも
利用価値の高いツールだと言えます。
もちろん、復習としても役立ちます。
講座の詳細は以下の通りです。
【セミナーの詳細】
≪『ホンネを引き出すカウンセリング』講座≫【実践練習−2】
【日時】 5月19日(日)
《夜間:実践練習》 18:30〜21:30
※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。
【場所】 北とぴあ 803会議室
(JR京浜東北線・王子駅北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅5番出口直結)
【参加費】
《夜間:基礎+実践練習》 ・・・5,000円
当日、会場にてお支払いください。
★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
ご了承ください。
終了しました
このカウンセリング講座では『ラポール』という言葉を使っていません。
ラポールは技術として扱うには複雑すぎるんです。
沢山の要素が関わり過ぎています。
確かに、クライアントが取り扱う問題を選ぶ際に
どこまで踏み込んで話をするか、というのは
カウンセラーとクライアントとの関係性によるところがあります。
同時に、クライアントの個性によっても異なります。
カウンセラーの個性も影響します。
クライアント側のカウンセラーに対する好みも関わります。
「ラポールを深めておけば…」という発想でカウンセリングを考えると
カウンセリングそのものの目的がブレやすいんです。
良い関係性を作ることが目的になってしまう。
ここで扱いたいのは、あくまでニーズ把握の手法です。
クライアントのメッセージに対して選ばれる技術の組み合わせを元に
「どこまでのニーズを言語化してもらえたか?」を考察したいんです。
以前からの知り合いだから、とか
なんとなく相性が良いから、とか
出身地が同じだから、とか
そういった要因は、クライアントのメッセージに対する応答と関係しません。
あくまで『ペーシング』をベースに進めたいんです。
『ラポール』は状態ですが、『ペーシング』は方法です。
『ラポール』という状態がどの程度生まれるかは1つの結果であって
『ペーシング』はクライアントのメッセージへの対応の1種。
『ペーシング』なら意図を持って選択できる範囲だということです。
なので、ペーシングを技術として使えるように練習するわけです。
仮に、「クライアントがどの程度の問題を言語化するか」
を例にとると、
「ラポールが不十分だったから、クライアントはこの問題を言語化しなかった」
という分析ではなくて、
「この場面でのこの対応と、あのときに発したメッセージとがあったから
クライアントはこの問題を言語化するのをやめた。
あのとき、こういう言い方をしていれば、言語化するほうを選んだかもしれない」
というような分析をしたいんです。
それであれば、クライアントのメッセージに対する応答の技術として
トレーニングすることが可能ですから。
技としてのペーシングに焦点を絞って取り扱うのが狙いです。
技術の練習をしましょう。
意図を持って使い分けられる方法のトレーニングです。
誠実に技術を磨くための場になれば幸いです。
お待ちしています。
2013年05月07日
別々だから
やっぱりこれは大事なことなので文字にしておくことにしました。
「一体感」や「ワンネス」、「コア・ステート」など色々と呼び方がありますが、
人には自分を超えた何か”大いなるもの”と繋がりを求めようとする
根源的な欲求のようなものがある、という発想があります。
現実的に考えても、個人の意志ではどうにもできないような体験は
生きている間に起き得るわけですから、
そうした”自分を超えたもの”との関係性を視野に入れておくことは
苦しみを受け入れていくプロセスとして役に立つものです。
広げて考えれば、マズローのいう「所属と愛の欲求」や「承認(尊重)の欲求」も
奥底には同様の「繋がり」を求めているとも言えるかもしれません。
そして、そうした純粋な「一体感」や「繋がり」の感じそのものを体験することが
とても大切なことであるような見方もあるようです。
繰り返しになりますが、経験として「一体感」を味わっておくことは
現実的に役に立つものです。
安定感が生まれて、日々の苦しみに対処しやすくなります。
ただ、その「一体感」こそが目的であるかのようなスタンスは
ちょっと偏っているんじゃないかという気もします。
むしろ、人は実社会の中で別々の個体であって、繋がっていないからこそ
「別の存在」としての相手を認識することができる
…というところに意味があると思うんです。
仮に、一体だったとしたら、自他の区別がないはずです。
もし、とりあえずの”機能単位”として存在を別物と分類したとしても
依然として「全体の一部」という認識になるでしょう。
喩えていうと、会社組織のようなものです。
会社という全体に対して、色々な部署がある。
そして各部署に、また小さなグループが複数ある。
そういう階層構造。
この場合、「別の存在」としての他部署は、あくまで同じ存在の一部ですから、
関係性が上手くいっていない場合があったとしても、目標は共通します。
組織全体のために、それぞれの部署が機能していることになります。
品質保証と研究開発、営業などは表面上の対立をすることがあっても
会社という全体にために働いているわけです。
なお、実社会の会社組織には、このような理想的なモデルには含まれない
従業員個人のパーソナルな事情が関わってきますから、
全ての部分が全体のために機能しているとは限りませんが。
とにかく、一体や繋がりを強く感じられる状態の中で想定される
便宜的な”機能単位”ぐらいの「個」であれば、
その「個」の関心の方向は全体になるだろう、という話です。
部分としての「個」は、全体のほうへ関心が向いているため
他の部分の「個」には関心が向かないだろう、と。
「個」を意識しないぐらいの一体感であったとしたら
さらに他者を意識することはあり得なくなるでしょう。
ですが、人はそうではありません。
人は、もっと切り離されています。
別々の個人としての意識をもって、他人を強く認識しています。
だから、他人に気持ちを向けられるわけです。
自分以外の他人という存在に関心が持てるんです。
自分と他人との間には、絶対に埋められない距離がある。
その距離が、揉め事や苦しみを生み出すこともあるし
距離があるからこそ感じられる喜びもあるはずです。
距離を埋めることはできません。
他者を100%理解することはできないのかもしれません。
自分だって大して理解していない人が大半ですから
他者を理解できる人なんて滅多にいないのが自然なことかもしれません。
でも、そこを出発点にすると
「少しでも他人を理解したい」
という想いに繋がります。
人のことを理解したいと思うかどうかは人それぞれです。
実際に、興味のない人も沢山いるようですし、
手早く分かったつもりになって済ませている人も沢山いるようです。
それは好みの問題。
理解したいかどうかは、どっちでも構いません。
ですから、
他者を理解することが人生の意味や目的
ということではないんです。
むしろ、
他者を理解したい人にとっては、
一体ではない別々の存在を実感できる社会こそが
かけがえのない貴重なチャンス
という視点が重要じゃないか、と感じます。
他者を理解することを人生の意味や目的とすることができる。
他者を理解する喜びを味わえるのは、一体ではなく
個別の他者を意識することができるから。
他人を理解したいという想いがある人にとっては、
理解に近づくための日々の人間関係そのものに
とても価値があるということです。
それは一体だったら感じられない喜びなんです。
「一体感」や「ワンネス」、「コア・ステート」など色々と呼び方がありますが、
人には自分を超えた何か”大いなるもの”と繋がりを求めようとする
根源的な欲求のようなものがある、という発想があります。
現実的に考えても、個人の意志ではどうにもできないような体験は
生きている間に起き得るわけですから、
そうした”自分を超えたもの”との関係性を視野に入れておくことは
苦しみを受け入れていくプロセスとして役に立つものです。
広げて考えれば、マズローのいう「所属と愛の欲求」や「承認(尊重)の欲求」も
奥底には同様の「繋がり」を求めているとも言えるかもしれません。
そして、そうした純粋な「一体感」や「繋がり」の感じそのものを体験することが
とても大切なことであるような見方もあるようです。
繰り返しになりますが、経験として「一体感」を味わっておくことは
現実的に役に立つものです。
安定感が生まれて、日々の苦しみに対処しやすくなります。
ただ、その「一体感」こそが目的であるかのようなスタンスは
ちょっと偏っているんじゃないかという気もします。
むしろ、人は実社会の中で別々の個体であって、繋がっていないからこそ
「別の存在」としての相手を認識することができる
…というところに意味があると思うんです。
仮に、一体だったとしたら、自他の区別がないはずです。
もし、とりあえずの”機能単位”として存在を別物と分類したとしても
依然として「全体の一部」という認識になるでしょう。
喩えていうと、会社組織のようなものです。
会社という全体に対して、色々な部署がある。
そして各部署に、また小さなグループが複数ある。
そういう階層構造。
この場合、「別の存在」としての他部署は、あくまで同じ存在の一部ですから、
関係性が上手くいっていない場合があったとしても、目標は共通します。
組織全体のために、それぞれの部署が機能していることになります。
品質保証と研究開発、営業などは表面上の対立をすることがあっても
会社という全体にために働いているわけです。
なお、実社会の会社組織には、このような理想的なモデルには含まれない
従業員個人のパーソナルな事情が関わってきますから、
全ての部分が全体のために機能しているとは限りませんが。
とにかく、一体や繋がりを強く感じられる状態の中で想定される
便宜的な”機能単位”ぐらいの「個」であれば、
その「個」の関心の方向は全体になるだろう、という話です。
部分としての「個」は、全体のほうへ関心が向いているため
他の部分の「個」には関心が向かないだろう、と。
「個」を意識しないぐらいの一体感であったとしたら
さらに他者を意識することはあり得なくなるでしょう。
ですが、人はそうではありません。
人は、もっと切り離されています。
別々の個人としての意識をもって、他人を強く認識しています。
だから、他人に気持ちを向けられるわけです。
自分以外の他人という存在に関心が持てるんです。
自分と他人との間には、絶対に埋められない距離がある。
その距離が、揉め事や苦しみを生み出すこともあるし
距離があるからこそ感じられる喜びもあるはずです。
距離を埋めることはできません。
他者を100%理解することはできないのかもしれません。
自分だって大して理解していない人が大半ですから
他者を理解できる人なんて滅多にいないのが自然なことかもしれません。
でも、そこを出発点にすると
「少しでも他人を理解したい」
という想いに繋がります。
人のことを理解したいと思うかどうかは人それぞれです。
実際に、興味のない人も沢山いるようですし、
手早く分かったつもりになって済ませている人も沢山いるようです。
それは好みの問題。
理解したいかどうかは、どっちでも構いません。
ですから、
他者を理解することが人生の意味や目的
ということではないんです。
むしろ、
他者を理解したい人にとっては、
一体ではない別々の存在を実感できる社会こそが
かけがえのない貴重なチャンス
という視点が重要じゃないか、と感じます。
他者を理解することを人生の意味や目的とすることができる。
他者を理解する喜びを味わえるのは、一体ではなく
個別の他者を意識することができるから。
他人を理解したいという想いがある人にとっては、
理解に近づくための日々の人間関係そのものに
とても価値があるということです。
それは一体だったら感じられない喜びなんです。
2013年05月05日
2013年05月03日
5月12日、ゼミ形式勉強会
5月・ゼミ形式の勉強会のお知らせ
ブログの片隅にひっそりと日時が出ていましたが
ゼミ形式勉強会のご案内です。
直近のお知らせになって恐縮です。
ご都合のつく方は、是非お気軽にお越しください。
このゼミ形式では、発表者が、あるテーマに沿って内容をまとめ
それを元に参加者全員でディスカッションを進めていきます。
自由な場で学びを促進していこうという趣旨となっています。
今回のテーマは
『認知症と人間の記憶』。
発表者はこれまでと同じ方です。
どの回の内容も非常に好評です。
今回のテーマは、僕も個人的に興味のある分野。
心理学者が「記憶」をどんなふうに研究しているのか、
どんな実験をしているのかなどを知るのは面白いと思います。
そのレベルまで把握すると、実験結果から類推される結論が一人歩きして
あたかも重要な事実であるかのように語られていることも
色々と分かってくるんじゃないでしょうか。
海外からやってくる様々なセミナー講師が、自分の考えに箔をつけるためか
科学的っぽい情報を付け加えることがあります。
心理学の実験結果は、そういうときにも便利なようです。
当然、記憶に関しても、便利に使われている情報が紛れています。
おそらく、この勉強会で記憶について詳しく知ると
どの情報は信じて大丈夫なのかも見えてくると思われます。
また、認知症は、今後の社会で重要なテーマになっていくと想像されます。
関わり方まで扱われるかは分かりませんが、
基本的なところから知っておきたい内容でしょう。
積極的な議論を楽しみにしています。
詳細は以下のとおりです。
【勉強会の詳細】
≪ゼミ形式≫
【日時】 5月12日(日) 18:30〜21:30
※終了時間は前後する場合があります。
【場所】 北とぴあ803会議室
(JR京浜東北線・王子駅 北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅5番出口直結)
【参加費】 ・・・2,000円程度(会場費+α)
当日、会場にてお支払いください。
参加費は後日あらためてお知らせします。
【テーマ】 『認知症と人間の記憶』
※もし発表者をお知りになりたい場合には、
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
終了しました
学生時代には、勉強は強いられるものだった気がします。
ゼミもありましたし、講義も実験もありました。
ですが、どれも決して楽しいものではなかった記憶があります。
3時間も勉強するなんて、ウンザリする長さでした。
でも、学校を出てからは変わりました。
自ら何かを学ぶのは楽しいものです。
特に、その場の雰囲気が良いと、学びも楽しさも促進されます。
そして、そういうほうが記憶にも残りやすいようです。
知識が増えることの楽しさを素直に感じられる場だと思いますので
とてもオススメです。
皆の頭を協働させるような体験を味わってください。
ブログの片隅にひっそりと日時が出ていましたが
ゼミ形式勉強会のご案内です。
直近のお知らせになって恐縮です。
ご都合のつく方は、是非お気軽にお越しください。
このゼミ形式では、発表者が、あるテーマに沿って内容をまとめ
それを元に参加者全員でディスカッションを進めていきます。
自由な場で学びを促進していこうという趣旨となっています。
今回のテーマは
『認知症と人間の記憶』。
発表者はこれまでと同じ方です。
どの回の内容も非常に好評です。
今回のテーマは、僕も個人的に興味のある分野。
心理学者が「記憶」をどんなふうに研究しているのか、
どんな実験をしているのかなどを知るのは面白いと思います。
そのレベルまで把握すると、実験結果から類推される結論が一人歩きして
あたかも重要な事実であるかのように語られていることも
色々と分かってくるんじゃないでしょうか。
海外からやってくる様々なセミナー講師が、自分の考えに箔をつけるためか
科学的っぽい情報を付け加えることがあります。
心理学の実験結果は、そういうときにも便利なようです。
当然、記憶に関しても、便利に使われている情報が紛れています。
おそらく、この勉強会で記憶について詳しく知ると
どの情報は信じて大丈夫なのかも見えてくると思われます。
また、認知症は、今後の社会で重要なテーマになっていくと想像されます。
関わり方まで扱われるかは分かりませんが、
基本的なところから知っておきたい内容でしょう。
積極的な議論を楽しみにしています。
詳細は以下のとおりです。
【勉強会の詳細】
≪ゼミ形式≫
【日時】 5月12日(日) 18:30〜21:30
※終了時間は前後する場合があります。
【場所】 北とぴあ803会議室
(JR京浜東北線・王子駅 北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅5番出口直結)
【参加費】 ・・・2,000円程度(会場費+α)
当日、会場にてお支払いください。
参加費は後日あらためてお知らせします。
【テーマ】 『認知症と人間の記憶』
※もし発表者をお知りになりたい場合には、
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
終了しました
学生時代には、勉強は強いられるものだった気がします。
ゼミもありましたし、講義も実験もありました。
ですが、どれも決して楽しいものではなかった記憶があります。
3時間も勉強するなんて、ウンザリする長さでした。
でも、学校を出てからは変わりました。
自ら何かを学ぶのは楽しいものです。
特に、その場の雰囲気が良いと、学びも楽しさも促進されます。
そして、そういうほうが記憶にも残りやすいようです。
知識が増えることの楽しさを素直に感じられる場だと思いますので
とてもオススメです。
皆の頭を協働させるような体験を味わってください。
2013年05月02日
NLPの前提
NLPには『前提』と呼ばれるものがあります。
これは「原理」や「原則」、「戒律」や「おきて」、「心構え」
などのようなものではありません。
あくまで『前提』なんです。
NLPをやる上での前提。
NLPは、この前提の上に成り立っている
ということです。
NLP共同創始者、リチャード・バンドラーのホームページを引用すると
「 The Presuppositions for NLP™ are "operational assumptions" 」
と書かれています。
訳すとしたら
NLPの『前提』は、「作業仮説」です、
といった感じでしょうか。
扱っていくうえでの仮定だという意味でしょう。
あくまで仮定なんです。
別に「世の中の真理はこうだ!」と言っているのではありません。
「こういう考えを仮定しています。
だとすると、その先には、こういう内容が展開されます。」
…という感じの論理展開なんです。
ですから、この前提を受け入れないと
NLPは成立しないことになります。
前提として挙げられている考えの中に受け入れられないところがある人は、
NLPをやるのは無理だということになります。
仮にNLPのセミナーで前提の部分の話を聞いていた受講生の一人が
「この考えには納得できません。それはあり得ないです。」
と発言したとしたら、
「そうですか。そういうお考えをお持ちなんですね。
ご自身で確固たる世界観をお持ちなのは素晴らしいことだと思います。
残念ですが、この『NLPの前提』というのは
NLPを進める上で仮定されていることなんです。
真実かどうかは分かりませんが、NLPはこの前提の上に成り立っています。
この前提を受け入れられない場合にはNLPをやるのは不可能なんです。
そういうものだと思って仮定として先の展開を聞いていただくか、
”NLPは受け入れられない”としてお帰りいただくか、どちらかしかありません。」
などと答える必要があるぐらいの前置きなんです。
極端な喩えをすると、桃太郎で
「おばあさんが川で洗濯をしていると、川上から大きな桃がドンブラコ…」
っていうときに
「そない大きな桃は川を流れてけえへんやろ。往生しまっせ。」
と言ってしまっては、話が進まないようなものです。
あくまで「〜だとすると」の内容が『前提』だということです。
NLPの前提は、別に「役に立つ考え方」だとは言われていないわけです。
もし、その考え方が自分の人生に役に立つものだとしたら
それを心に留めておくことは構わないでしょう。
個人の好みの範疇だと思います。
ですが、それを「役に立つ考え方なんです」と説明するのは
『前提』という意味からするとズレてしまっている可能性があります。
むしろ『前提』である以上、知的に理解する必要は重視される必要は少なくて、
実際にNLPの全体像を掴んでから体験的に納得するほうが
役に立つ場合が多いような気がします。
NLPの視点で自分自身や人間関係、人への理解などを進めていくと
『NLPの前提』で説明されている内容が実感されることが多いようです。
前置きなのですから、本題を扱ったときに
「確かにそうだ」と納得するのは当然のことなんですが。
個人的には、「あくまで前置き」ぐらいのつもりで
NLPを通じた体験を進めるほうが役に立つような気がしています。
前提の先にある体験をしてしまえば、前置き部分は自動的に組み込まれて
自然と納得していくようになるでしょうから。
これは「原理」や「原則」、「戒律」や「おきて」、「心構え」
などのようなものではありません。
あくまで『前提』なんです。
NLPをやる上での前提。
NLPは、この前提の上に成り立っている
ということです。
NLP共同創始者、リチャード・バンドラーのホームページを引用すると
「 The Presuppositions for NLP™ are "operational assumptions" 」
と書かれています。
訳すとしたら
NLPの『前提』は、「作業仮説」です、
といった感じでしょうか。
扱っていくうえでの仮定だという意味でしょう。
あくまで仮定なんです。
別に「世の中の真理はこうだ!」と言っているのではありません。
「こういう考えを仮定しています。
だとすると、その先には、こういう内容が展開されます。」
…という感じの論理展開なんです。
ですから、この前提を受け入れないと
NLPは成立しないことになります。
前提として挙げられている考えの中に受け入れられないところがある人は、
NLPをやるのは無理だということになります。
仮にNLPのセミナーで前提の部分の話を聞いていた受講生の一人が
「この考えには納得できません。それはあり得ないです。」
と発言したとしたら、
「そうですか。そういうお考えをお持ちなんですね。
ご自身で確固たる世界観をお持ちなのは素晴らしいことだと思います。
残念ですが、この『NLPの前提』というのは
NLPを進める上で仮定されていることなんです。
真実かどうかは分かりませんが、NLPはこの前提の上に成り立っています。
この前提を受け入れられない場合にはNLPをやるのは不可能なんです。
そういうものだと思って仮定として先の展開を聞いていただくか、
”NLPは受け入れられない”としてお帰りいただくか、どちらかしかありません。」
などと答える必要があるぐらいの前置きなんです。
極端な喩えをすると、桃太郎で
「おばあさんが川で洗濯をしていると、川上から大きな桃がドンブラコ…」
っていうときに
「そない大きな桃は川を流れてけえへんやろ。往生しまっせ。」
と言ってしまっては、話が進まないようなものです。
あくまで「〜だとすると」の内容が『前提』だということです。
NLPの前提は、別に「役に立つ考え方」だとは言われていないわけです。
もし、その考え方が自分の人生に役に立つものだとしたら
それを心に留めておくことは構わないでしょう。
個人の好みの範疇だと思います。
ですが、それを「役に立つ考え方なんです」と説明するのは
『前提』という意味からするとズレてしまっている可能性があります。
むしろ『前提』である以上、知的に理解する必要は重視される必要は少なくて、
実際にNLPの全体像を掴んでから体験的に納得するほうが
役に立つ場合が多いような気がします。
NLPの視点で自分自身や人間関係、人への理解などを進めていくと
『NLPの前提』で説明されている内容が実感されることが多いようです。
前置きなのですから、本題を扱ったときに
「確かにそうだ」と納得するのは当然のことなんですが。
個人的には、「あくまで前置き」ぐらいのつもりで
NLPを通じた体験を進めるほうが役に立つような気がしています。
前提の先にある体験をしてしまえば、前置き部分は自動的に組み込まれて
自然と納得していくようになるでしょうから。
2013年05月01日
NLPの定義
たまにはマジメなNLPの話。
NLPの共同創始者リチャード・バンドラーのホームページによると
NLPとは…
Neuro-Linguistic Programming™ (NLP™) is
defined as the study of the structure of subjective experience
and what can be calculated from that
and is predicated upon the belief that all behavior has structure.
と書かれています。
訳すとしたら
「神経言語プログラミング(NLP)は、
主観的体験の構造についての研究と
そこから導き出される(計算される)ことのできるものとして定義され、
全ての振る舞いは構造を持っているという信念を基礎としている」
という感じ。
ですから、NLPの定義は2つの要素からなっていて
ー膣囘体験の構造についての研究
△修海ら導き出され得るもの
となります。
calculated と表現されているのは、
「主観的体験の構造」という部分を考慮すると、
モデル化された構造を1つの計算処理(=プログラム)のように捉えて
そこに具体的な場面を適用して演算し、結果が導き出される
といったニュアンスがありそうな気がします。
すると重要なのは「構造」という単語でしょう。
主観的な体験を研究するだけではNLPじゃない、と。
体験を「構造」として記述する必要がありますよ、という話です。
となると、ただ
「私は今、怒っています」
というのは主観的な体験を述べているだけなので
これではNLPになっていないことになります。
構造と呼ぶからには、少なくとも
「〜すると…になる」という程度の形が必要になる。
でも、これだけだったら「構造の研究」にならないので
これはあくまで基本フォーマットぐらいなもの。
むしろ「構造を研究する」となった場合には、
その構成要素を調べて、そこを記述する必要が出てきます。
だから、サブモダリティなんです。
主観的体験を構成している要素がサブモダリティです。
この要素の組み合わせとして構造を記述してこそ、
NLPの定義に沿った内容になるといえます。
ここまでが前半部分( 法
で、こうやって構造を記述できるようになったら
その構造の中に色々なパターンが見つかってくる。
良く知られた例でいうと、
・恐怖症を克服する人には決まった主観的体験の構造のパターンがある
・人が衝動的なほど魅力を感じてしまうものに突然飽きるときには
決まって体験するパターンがある
・人が繰り返し体験する不快な行動を強烈な意志で断ち切るときには
決まって主観的に体験するパターンがある
などです。
人の行動パターンを一般化した形で説明して、
特定の内容に限定されないように「構造」として記述する。
当然、注目するレベルはサブモダリティです。
その構造が一定のパターンとして記述できれば、
それは「モデル」として応用できるものになります。
「〜するプログラム」とか「〜するためのスキル」といった形になるんです。
技術として応用可能なものになるんです。
こっちがNLPの定義の後半部分(◆法
「”そこ( that )”から導き出されるもの」という表現は、
「”そこ( that )”」の指し示すものが少し曖昧ですが
まぁ、「 it 」じゃないので全体を指しているような印象を受けます。
文脈から考えても
「主観的体験の構造」もしくは
「主観的体験の構造についての研究」
のどちらかでしょう。
どちらを「そこ」と捉えても、「”そこ”から導かれるもの」は
同じような内容を指し示すはずですから、大差ない気がします。
最後の部分
「 and is predicated upon the belief that all behavior has structure 」
は、定義の説明ではありません。
「 and 」の後に「 is 」がついていますから、この「 and 」以下は
前に出てきた「 is 」と対等の並びということになります。
なので
NLP is defined as...
and (NLP) is predicated upon...
という並列な形。
ということで、ここから先は「NLPの定義」ではありません。
※断定していますが、そうやって書いてあるという話です。
こちらは、むしろ「どういうことを基礎としているか」です。
何に注目するか、
どういう発想を前提としているか、
といった感じ。
心理学であれば
「サイエンスは観察可能なものを扱う」
という考え方を基礎としています。
ここでは、肉眼で観察するか、顕微鏡で観察するか、望遠鏡で観察するか
計測機器を使って測定するか…という違いは色々あっても、
全て「観察」という表現に含まれます。
なので、客観的なデータとして扱えるかがポイントという話になります。
同様に、
「NLPは全ての振る舞いは構造を持っているという信念を基礎としている」
と言っていますから、
NLPでは
「全ての振る舞いは構造を持っている」
という考え方が前提になっているわけです。
「え?もしかしたら、構造のない振る舞いもあるかもしれないじゃん?」
っていう発想は無いんです。
そういう疑いを持ったらNLPはできません。
そう断言されているんです。
ですから、ある特定の瞬間に、
ある人の行動が構造を持った主観的体験によって生み出されておらず
実際には、電磁波の影響でコントロールされていることがあるとしたら、
その場合の振る舞いはNLPでは扱えないことになります。
つまり、「人の行動は”全て”プログラムされている」という考え方。
ここには「プログラム」という単語は出てきていませんが、
一般的なNLP用語を使えば、それは「プログラムされている」と言えますし、
もっと一般的な学術用語を使えば、「学習によって形作られている」と言えます。
…なお、こういうことを明記してしまうと
ラポールはプログラムと関係ないレベルでも起きていると僕は考えているので
NLPの範囲からラポールやペーシングの話は
削除される必要が出てしまうような気がするんですが。
ということで、平たく言うと…。
NLPでは
「人の行動・思考・感情は全てプログラムされている」
という発想を前提にしている。
NLPは
「人の主観的な体験をプログラムという構造で記述するもの」で、
「そのプログラムを変えたり、新しく取り入れたりするもの」でもある(=定義)。
という感じになります。
なので、定義には
「プログラムを調べよう」という基礎研究の部分と
「そのプログラムを応用したり、プログラムを変える方法を調べたりしよう」
という応用研究の部分と、
両方が含まれているといえます。
学問の分野を定義するときには良くある形式です。
基礎と応用の両方がありますよ、と。
ほとんどのNLPに関わる人たちは
過去の人たちが「研究して作った方法」を知って
それを日常生活に使うという活動をしています。
定義上、「NLPの応用研究が生み出したもの」も”NLP”に含まれますから
言い回しとして「NLPを使っている」ということになります。
それも1つのスタンスでしょう。
ですが、そのスタンスで関わると
「主観的体験の構造についての研究」は
やっていないような気がします。
そっちをやるのはNLPの研究者(=開発者)だけのようです。
「主観的体験の構造についての研究」のやり方を知れば
自分で研究ができるようになるはずなんですが。
僕にはこっちのほうが面白い。
なので、もし「(応用手法としての)NLPを使う人」を「 NLPer 」と呼ぶとしたら
僕は「NLPする人(=主観的体験の構造を研究する人)」なので、
さしずめ「 NLPist 」といった感じかもしれません。
あまりこういう発言をすると偉い人から怒られそうですが。
NLPの共同創始者リチャード・バンドラーのホームページによると
NLPとは…
Neuro-Linguistic Programming™ (NLP™) is
defined as the study of the structure of subjective experience
and what can be calculated from that
and is predicated upon the belief that all behavior has structure.
と書かれています。
訳すとしたら
「神経言語プログラミング(NLP)は、
主観的体験の構造についての研究と
そこから導き出される(計算される)ことのできるものとして定義され、
全ての振る舞いは構造を持っているという信念を基礎としている」
という感じ。
ですから、NLPの定義は2つの要素からなっていて
ー膣囘体験の構造についての研究
△修海ら導き出され得るもの
となります。
calculated と表現されているのは、
「主観的体験の構造」という部分を考慮すると、
モデル化された構造を1つの計算処理(=プログラム)のように捉えて
そこに具体的な場面を適用して演算し、結果が導き出される
といったニュアンスがありそうな気がします。
すると重要なのは「構造」という単語でしょう。
主観的な体験を研究するだけではNLPじゃない、と。
体験を「構造」として記述する必要がありますよ、という話です。
となると、ただ
「私は今、怒っています」
というのは主観的な体験を述べているだけなので
これではNLPになっていないことになります。
構造と呼ぶからには、少なくとも
「〜すると…になる」という程度の形が必要になる。
でも、これだけだったら「構造の研究」にならないので
これはあくまで基本フォーマットぐらいなもの。
むしろ「構造を研究する」となった場合には、
その構成要素を調べて、そこを記述する必要が出てきます。
だから、サブモダリティなんです。
主観的体験を構成している要素がサブモダリティです。
この要素の組み合わせとして構造を記述してこそ、
NLPの定義に沿った内容になるといえます。
ここまでが前半部分( 法
で、こうやって構造を記述できるようになったら
その構造の中に色々なパターンが見つかってくる。
良く知られた例でいうと、
・恐怖症を克服する人には決まった主観的体験の構造のパターンがある
・人が衝動的なほど魅力を感じてしまうものに突然飽きるときには
決まって体験するパターンがある
・人が繰り返し体験する不快な行動を強烈な意志で断ち切るときには
決まって主観的に体験するパターンがある
などです。
人の行動パターンを一般化した形で説明して、
特定の内容に限定されないように「構造」として記述する。
当然、注目するレベルはサブモダリティです。
その構造が一定のパターンとして記述できれば、
それは「モデル」として応用できるものになります。
「〜するプログラム」とか「〜するためのスキル」といった形になるんです。
技術として応用可能なものになるんです。
こっちがNLPの定義の後半部分(◆法
「”そこ( that )”から導き出されるもの」という表現は、
「”そこ( that )”」の指し示すものが少し曖昧ですが
まぁ、「 it 」じゃないので全体を指しているような印象を受けます。
文脈から考えても
「主観的体験の構造」もしくは
「主観的体験の構造についての研究」
のどちらかでしょう。
どちらを「そこ」と捉えても、「”そこ”から導かれるもの」は
同じような内容を指し示すはずですから、大差ない気がします。
最後の部分
「 and is predicated upon the belief that all behavior has structure 」
は、定義の説明ではありません。
「 and 」の後に「 is 」がついていますから、この「 and 」以下は
前に出てきた「 is 」と対等の並びということになります。
なので
NLP is defined as...
and (NLP) is predicated upon...
という並列な形。
ということで、ここから先は「NLPの定義」ではありません。
※断定していますが、そうやって書いてあるという話です。
こちらは、むしろ「どういうことを基礎としているか」です。
何に注目するか、
どういう発想を前提としているか、
といった感じ。
心理学であれば
「サイエンスは観察可能なものを扱う」
という考え方を基礎としています。
ここでは、肉眼で観察するか、顕微鏡で観察するか、望遠鏡で観察するか
計測機器を使って測定するか…という違いは色々あっても、
全て「観察」という表現に含まれます。
なので、客観的なデータとして扱えるかがポイントという話になります。
同様に、
「NLPは全ての振る舞いは構造を持っているという信念を基礎としている」
と言っていますから、
NLPでは
「全ての振る舞いは構造を持っている」
という考え方が前提になっているわけです。
「え?もしかしたら、構造のない振る舞いもあるかもしれないじゃん?」
っていう発想は無いんです。
そういう疑いを持ったらNLPはできません。
そう断言されているんです。
ですから、ある特定の瞬間に、
ある人の行動が構造を持った主観的体験によって生み出されておらず
実際には、電磁波の影響でコントロールされていることがあるとしたら、
その場合の振る舞いはNLPでは扱えないことになります。
つまり、「人の行動は”全て”プログラムされている」という考え方。
ここには「プログラム」という単語は出てきていませんが、
一般的なNLP用語を使えば、それは「プログラムされている」と言えますし、
もっと一般的な学術用語を使えば、「学習によって形作られている」と言えます。
…なお、こういうことを明記してしまうと
ラポールはプログラムと関係ないレベルでも起きていると僕は考えているので
NLPの範囲からラポールやペーシングの話は
削除される必要が出てしまうような気がするんですが。
ということで、平たく言うと…。
NLPでは
「人の行動・思考・感情は全てプログラムされている」
という発想を前提にしている。
NLPは
「人の主観的な体験をプログラムという構造で記述するもの」で、
「そのプログラムを変えたり、新しく取り入れたりするもの」でもある(=定義)。
という感じになります。
なので、定義には
「プログラムを調べよう」という基礎研究の部分と
「そのプログラムを応用したり、プログラムを変える方法を調べたりしよう」
という応用研究の部分と、
両方が含まれているといえます。
学問の分野を定義するときには良くある形式です。
基礎と応用の両方がありますよ、と。
ほとんどのNLPに関わる人たちは
過去の人たちが「研究して作った方法」を知って
それを日常生活に使うという活動をしています。
定義上、「NLPの応用研究が生み出したもの」も”NLP”に含まれますから
言い回しとして「NLPを使っている」ということになります。
それも1つのスタンスでしょう。
ですが、そのスタンスで関わると
「主観的体験の構造についての研究」は
やっていないような気がします。
そっちをやるのはNLPの研究者(=開発者)だけのようです。
「主観的体験の構造についての研究」のやり方を知れば
自分で研究ができるようになるはずなんですが。
僕にはこっちのほうが面白い。
なので、もし「(応用手法としての)NLPを使う人」を「 NLPer 」と呼ぶとしたら
僕は「NLPする人(=主観的体験の構造を研究する人)」なので、
さしずめ「 NLPist 」といった感じかもしれません。
あまりこういう発言をすると偉い人から怒られそうですが。