2013年07月

2013年07月30日

体内時計

気づいたら、更新の間隔があいてしまっていました。

作業に追われていて、1日のつもりが2日過ぎていたような気分。
切れ目がないと時間間隔は随分と簡単に狂うもののようです。

よく言われる「体内時計」は「一日25時間サイクル」という話も、
(実際は個人差や変動もあるらしく「24時間よりも長い」が正確)
太陽と時計を遮断された場所にいながら
『規則正しい生活』をしようとする場合が前提になっています。

決して、「眠くなったら好きに寝る」わけではなく
生活リズムを意識しながら「そろそろ寝る頃かな?」という基準で
電気を消して眠りにつく実験をした結果です。

外の基準なしで、毎日を規則正しく過ごそうとすると
寝る時間と起きる時間が少しずつ遅れていって
いつの間にか昼夜逆転、
しばらくしたら一周して戻る
といった内容。

リセットしない限り、リズムは保とうとしても少しずつ遅れていく
というのが体内時計のお話です。

最初から規則正しい行動をしないような状況になれば
「体内時計」うんぬんではなく、
主観的な時間の認識が歪曲してきて
何が何だか良く分からなくなってしまうんでしょう。

人は必ずしも生理的な反応の周期変化をベースに
時間を意識しているわけではないんだと思います。

むしろ、「自分が何をしているか」を基準に
毎日のリズムや、時間の流れを捉えているんじゃないでしょうか。

生理状態の周期変化が行動パターンに影響をもたらし
その行動によって時間を意識していることはあっても、
時間感覚そのものは行動を自覚することで生まれる気がします。

ひたすら同じことを続けていたら時間認識も困難かもしれません。

そんなことを感じる数日でした。

cozyharada at 23:58|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!心理学 | NLP

2013年07月26日

化学の人

NLPの分野で初期から活躍していた人物に
スティーヴ・アンドレアスという人がいます。

NLP comprehensive という団体の創始者の一人。

「こころを変えるNLP 
 −神経言語プログラミング基本テクニックの実践」(春秋社)」

「心の扉をひらく
 −神経言語プログラミング実践事例集」(東京図書)
の著者として有名です。

特に「こころを変えるNLP」のほうでは
ほぼ一冊全部を費やして
心の内側(頭の中)に作られる世界、つまり内的表象に関して
サブモダリティを詳細に取り扱う内容が紹介されています。

サブモダリティとは、五感で識別できる細かい要素のこと。
色や大きさ、形を組み合わせて見た目を理解するときに、
どんな色で、どれぐらいの大きさで、どんな形か…
といった情報をサブモダリティと呼ぶわけです。

サブモダリティの組み合わせによって「何か」を識別しますから
体験をするときの元素のようなものだといえます。

実際、NLP comprehensive のサブモダリティの説明でも
「体験の元素」といった表現を耳にしたことがあります。

スティーブ・アンドレアスは、このサブモダリティを活用した
NLPのテクニックを数多く開発した人でもあるんです。


で、最近、ちょっと調べものをしていた関係で
ちょうどスティーヴ・アンドレアスに関する Wikipedia を見ました。

すると「1958年まで化学者」と書かれていました。

彼の最終学歴は心理学の修士らしいですから
博士の学位は取っていないはずです。

なので、アメリカ文化の表現では
「化学者」と表記してはいけないと思うんですが、
ウィキペディアでは「化学者」となっていました。
(通常、〜学者というときにはPh.D.をさすようです。)

スティーブ・アンドレアスが元々エンジニアだった
という話は聞いたことがありました。

おそらく、化学専攻で大学を卒業しているか、
もしかすると修士まで取っているか、といったところでしょう。

それで化学系のエンジニアとして働いていた時期もあったようですから
今はもう結構な高齢なんじゃないかと驚いています。
(1958年で少なくとも大学を出ているので、80歳前後と推測)

それ以上に僕にとって驚きだったのは
「エンジニア」というのが「化学系」だったこと。

少なくとも化学専攻だったようですから
化学のベースがあるということです。

僕も応用化学専攻でしたが、どうも
化学系の人はサブモダリティに興味を持つのかもしれません。

なんといっても、体験の”元素”ですから。

要素が組み合わされて物が形作られる、という発想が
化学系の考え方と共通する部分なんでしょう。


ちなみに、心理学の出発点も「構成主義」と呼ばれる
心を構成している要素を調べようとするものでした。
その意味では化学に近い発想だったんです。

それで技法として内観をしていたわけですが、
NLPでサブモダリティを調べるほどの精度ではなかったようです。

…まぁ、実際はNLPでも大まかにしか調べないケースが大半ですけど。
内観派は、スティーヴ・アンドレアスほど細かく調べていなかった、と。

歴史気的には、「構成要素だけでは心の”動き”は説明できない」として
機能主義という学派が生まれる。
構造ではダメだ、プロセス(流れ)なんだ、という論点です。

ところが、NLPにはサブモダリティだけではなく
アンカーという発想もあるんです。

これは機能主義の後に主流になった行動主義と通じるもので
「刺激−反応」を扱っている部分です。

サブモダリティが元素だとしたら、アンカーを組み合わせることで
1つの化学反応式が組み立てられるような感じ。

さらにストラテジーという一連の流れまで想定すれば
機能主義が求めた”流れ”の部分もNLPはカバーできているといえる。

行動主義の論点は「観察できなければ科学ではない」とのものでしたが、
NLPはアンカーの点では行動主義と通じる部分がありますし、
行動主義以降の認知心理学の研究は
「認知のプロセスも実験的に観察可能」だと示してきました。

認知心理学における知覚や知識の研究は
サブモダリティと対応させられるものです。

認知心理学でプロトタイプやスキーマなどの「典型的な受け取り方」は
NLPでフレームと呼ぶものに対応させられます。

NLPは心理学とは別の流れとして発展してきましたから
確実に心理学ではありません。

にもかかわらず、数十年の時を経て
結局、似たようなことを違う角度でやっていたとも言えそうなんです。

ただ、化学が元素に注目し続けたように
サブモダリティという体験の要素に注目し続けてくれた
スティーヴ・アンドレアスがNLPの開発に携わっていたからこそ、
見えてきた接点も多かったんじゃないかと思います。

少なくとも、人の心を理解するという観点からすれば
心の要素に注目するのは欠かせないことだったと思うんです。

「要素に分解する」のは、
物事を説明するときに有効な1つの方法ですから。

2013年07月24日

ご案内です

日程だけはブログの片隅にヒッソリと出ていますが
8月に予定している講座内容をとりあえず先にお知らせしておきます。


8月18日(日)は久しぶりに
 日中の時間帯で
 カスタム・トレーニング
をやる予定です。

その場でご要望に応じたトレーニングを組み立てます。
ご参加の方全員が同時進行でトレーニングできるように工夫します。

内容はコミュニケーションや心理に関わる範囲であれば何でも。

ご要望があれば、個別の技法をお伝えすることもできます。

まぁ、お盆休みの時期ですから
自由気ままにクリエイティブな時間を過ごしましょう、
というお話です。


それから、翌週の8月25日(日)は
 ・日中の時間帯で
  サブモダリティ・レベルでのリフレーミング
 ・夜間の時間帯で
  カウンセリング講座の実践トレーニング
を予定しています。

サブモダリティに注目したリフレーミングは
本に載せた内容でもありますが、
そのあたりを実践的に練習するものです。

使いこなせたら言葉だけで変化のお手伝いが可能になるはずです。
ただ、チョット作業に慣れが必要なようです。

その点で頭の中で行う工夫を丁寧に解説しようと考えています。


いずれも近いうちにご案内を載せます。
ご興味があれば、どうぞ。

2013年07月22日

変化と安定

「コンフォート・ゾーン」という考え方があります。

その人にとって「心地良い( comfortabale )」領域がある、と。

コンフォート・ゾーンの中にいると”現状維持”になっていて
そこから出ることで成長する
…といったような説明も聞いたことがあります。

また、
コンフォート・ゾーンから外れたときには、”心地良くない”ので
”心地良い”状態に戻ろうとして、自然にアクションを起こすことになります。

なので、コンフォート・ゾーンに留まろうとして
”現状維持”しようとする力が働く、とも言えるでしょうし、
「自分なら、これぐらいできる」と想定している”心地良さ”のゾーンより
下回った結果を体験すれば、なんとかしてコンフォート・ゾーンまで戻ろうと
いつのまにか必死で頑張ることになる、ともいえるでしょう。

テストで70点を取るのが”当たり前”のコンフォート・ゾーンになっていれば、
たまたま90点を取れたとしても、手を抜いたりケアレスミスをしたりして
自然と70点ぐらいを取るようになり、
うっかり50点を取ってしまえば、次の時には頑張って挽回する。

そんな感じの動きをするのが一般的だという話です。

セルフイメージのホメオスタシスとも言い換えられそうですし、
身体レベルよりも抽象度の高いホメオスタシスとも言えそうです。

そういうことは実際にあると思います。
システムの中でバランスを取ることを考慮しても、
状態を安定させようとする機能は重要でしょう。
(長期的には、少しずつ移ろいでいくものだと考えられますが)

細かいレベルで見れば、いつも同じプログラム(学習されたパターン)で
対応を続けることで、”現状維持”が続いていくとも説明できます。


ここで「変化」ということを考えると、
「今までのコンフォート・ゾーンから離れていく」
あるいは
「コンフォート・ゾーンが変わる」
ことが「変化」に相当するはずです。

短期的に”変わる”場合も、もちろんありますが
それは「変動」と呼んだほうが良いんじゃないかと思います。
一時的なシフトであって、”通常”のラインに戻ってくるというのが
コンフォート・ゾーンの考え方ですから。

プログラムが1つ変われば、今までとは少し違った日常が
コンフォート・ゾーンに変わるといえますし、
セルフイメージが変わってコンフォート・ゾーンが大きく変われば、
色々な行動パターンのプログラムが変わるといえます。

いずれにせよ、「変化」とは
「だいたいいつも、こんな感じ」という状態が
違う設定に変わるようなものと考えられます。


そのように「変化」を想定したとき、
変化の方法は大きく2通りになります。

1つは、プログラム(いつものパターン)を変える。

1つの行動のプログラムを変えるだけでも
結果として引き起こされる日常は「変化」することになります。

セルフイメージが変われば、
そのまま大きくコンフォート・ゾーンがズレることになり、
それに合わせた行動を自然と取るようになって
日常で体験するものが大きく変わっていく。

ただ、セルフイメージを変えてコンフォート・ゾーンを直接的にズラすと
現状の日常との間に大きなギャップを体験することになります。
「こんなはずじゃない!」と。

70点がコンフォート・ゾーンだった子供が
一気に90点をコンフォート・ゾーンに設定すると、
(※そうした設定変更には特殊な技法を必要としますが)
前回の70点に対して「ヤバイ!こんなはずでは…」と感じて
急に勉強しだすようになるわけです。

別に何もしなくても90点のテストが”引き寄せられる”のではありません。

90点が”当たり前”として設定されるので、
「今のままではダメだ」と認識して、焦りながら頑張るんです。
自然と行動が変わるんです。
90点を取るための行動に変わるんです。

だから結果が変わる。

当然、この変化は”心地良く”ありません。

今までコンフォート・ゾーンだと思っていた現状が、
急にコンフォート・ゾーン外の不快な範囲になってしまうからです。

コンフォート・ゾーンを一気に変えれば
何もしなくても自然と結果がやってくるのではないんです。

”心地良い”気分のままで、楽に結果が得られる方法ではありません。

むしろ、その設定変更の幅が大きいほど
強烈な不快感と焦りが生じて、苦しさを感じるほうが自然です。

逆にいえば、コンフォート・ゾーンを変えた(つもり)なのに
現状への焦りや不快感を体験しないとしたら、
それは実際には変わっていないと判断しても良いでしょう。

コンフォート・ゾーンの発想からすれば、そういうことになります。

もう1つの「変化」の方法は、
コンフォート・ゾーン外の行動を意図的にする
というものです。

「いつもと違う」行動によって、コンフォート・ゾーンの外に出ますから
そのときに体験されるものは不快感です。
緊張であったり、恐怖であったり、楽な気分ではないでしょう。

一時的にやってみるわけですから、この時点では「変動」です。
やめれば元に戻る。

でも、その「いつもと違う行動」を頑張って、不快感に耐えながらやり続けると
徐々にその状態に慣れていきます。
そっちが「いつも通り」になっていく。

結果としてコンフォート・ゾーンがズレるわけです。

この場合、コンフォート・ゾーン外の行動を色々と増やしていくことで
少しずつコンフォート・ゾーンをズラして「変化」していく方法だといえます。


ところが、ここには1つ上の視点も関わってきます。
いわば、メタレベルのコンフォート・ゾーンです。

テストの点数の喩えは、その意味で誤解を招きやすいんです。

もし、そのテストが常に大体同じレベルの内容で行われるもの、
例えば、資格試験のテストのようなものだったら、
いつも70点前後というのは”現状維持”だといえるかもしれません。

ですが、このテストが中学校の期末テストだとしたら、
いつも70点を取るためには、新しい内容も勉強し続けて
それでも70点ぐらいになるような勉強量だということです。

ですから、新しいことを学んでいるんです。
成長しているんです。

ただ、その成長の程度が一定だから、いつも70点になる。

同様に、会社に入って新しく仕事を身につけるとか、
営業をやって少しずつ成績を伸ばしていくとか、
会社を経営して毎年売上を伸ばしていくとか、
”現状維持”では達成できない行動レベルの変化を続ける場合もあります。

常に工夫して、常に行動を変えて、今までの自分のやり方
つまりコンフォート・ゾーンの中にあった行動を変えて、自ら変化していく。

これは、資格試験のようなタイプのテストであれば
徐々に点数が上がっていっているともいえますし、
中学校の期末テストだったら、いつも同じ点数を取るとも表現できます。

つまり、同じ対応を常に続けているという意味で
コンフォート・ゾーンの中にいる場合もあれば、
同じ程度の成長(変化)を常に続けているという意味で
変化のスピードのコンフォート・ゾーンの中にいる場合もあるわけです。

言い換えると、
「常に変化を追い求める人」は、それはそれで
「速い変化の中にいること」がコンフォート・ゾーンになっている、
ということになります。

すると、
「新しいことに挑戦しましょう!
 自分のコンフォート・ゾーンから出て成長しましょう!」
などと駆り立てる人にとっては
「新しいことをやり続ける」のが”心地良い”状態になっていて、
同じことを続けるのが”心地良くない”だけかもしれない
…とも考えられます。

どれぐらい「変化」するか、という程度(変化の速度)にも
コンフォート・ゾーンがある、という話です。


こうして「変化速度」のコンフォート・ゾーンを考慮すると
そこには「変化の加速度(=変化加速度)」があって、
その加速度がゼロだからコンフォート・”ゾーン”になっているといえます。

「止まっているのが好き」というコンフォート・ゾーンもあれば、
「速い動きが好きか、遅い動きが好きか」というコンフォート・ゾーンもある。
その上には、「動きの速さが、どのぐらい激しく移り変わるのが好きか」
というコンフォート・ゾーンもある、と。

高いところから落ちた鉄球は
その高さが変わり、落下速度も加速していく。
そこには重力加速度があるから、加速されていくわけです。

そうすると、変化のスピード自体も、もっと速くなっていく可能性が出てきます。
「これぐらいだったら、この変化のスピードに対応できる努力の量」
っていう想定を上回るほど変化が起きる場合です。

「もっと頑張る、さらにもっと頑張る…」という具合に
努力の幅を上げ続けないといけない。
時間の制約を克服するために、努力の質を向上させていく必要があるでしょう。

それでも、変化加速度は一定なんです。
地球上の重力加速度が一定なのと同様。
その意味では、コンフォート・ゾーンとして慣れてしまえるのかもしれません。

その加速度まで一定じゃないとしたら…。

もう、しっちゃかめっちゃかでしょう。

そうなったとき、人にできるのは
 「全ては常に移ろいでいて、何1つ安定なものなどない」
 という徹底的な不安定やカオスこそ”当たり前”だ
と認識することぐらいではないでしょうか。

不安定で混乱していることがコンフォート・ゾーンになったとき
逆に、あらゆる結果から左右されない安定感が得られるような気がします。

cozyharada at 23:31|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 心理学

2013年07月19日

今さら「メラビアン」

自己啓発分野やコミュニケーションの本などで
メラビアンの法則が紹介される場合、
その解釈が過激な方向に行っていることが多いようです。

メラビアンの論文に載っている実験内容と考察からすると
元々は「好み」に対する評価をしているのであって、
コミュニケーションとしての伝わりやすさに関する話ではありません。

その辺は、最近では意外と知られるようになってきたようで
日本語版Wikipedia でも調べることができます。

言葉の内容が7%、
声のトーンが38%、
ボディランゲージが55%
…という割合が、なかなか印象的。

こんな割合で他者のメッセージを受け取っている人は
一般的に、まずいないでしょう。


ですが、今さらながら、僕は結構これぐらいの割合で
メッセージを受け取っている気もします。

言葉になるメッセージは、1つの意味のあるカタマリとしては1つですが、
その1フレーズの声のトーンとしても2つ、3つの感情が共存できます。

「どのような伝え方をするか」のレベルでも、その瞬間に表れる意図や
常日頃から心がけていることなど、数種類のメッセージは十分に読みとれます。

すると、言葉の内容1つ分に注目しても、
声のトーンや話し方から5種類ぐらいのメッセージは捉えられることになる。

しぐさや表情、目線や姿勢など”見た目”の情報からは
もっと多くのメッセージが読みとれます。


人が一瞬に発しているメッセージの比率でいえば
言葉の内容なんて7%どころか、もっと少ないと僕は考えています。

ただ、時間が経っても同じメッセージを発し続けることは多いですから
コミュニケーションにおける重要性を判断すると、現実的には
常に最多種類を目指してメッセージを取り続ける必要はないと思います。

なので、実際にどれぐらいのメッセージを気にかけるかというと
意外と「メラビアンの法則」として有名なあの比率ぐらいが
近いところなんじゃないかと感じられるんです。


都市伝説的に
「コミュニケーションでは言葉の内容は7%に過ぎません」
と表現される中には、
「9割以上は非言語メッセージを自然と受け取っている」
という”甘い”ニュアンスが含まれているようです。

同じ都合の良い解釈をするなら、むしろ

「コミュニケーションでは言葉の内容は7%に過ぎません。
 だから、
 9割以上を占める非言語メッセージに
 もっと注意を向けましょう!」

といった方向で利用したほうが役に立つんじゃないでしょうか。

2013年07月17日

自由への道のり

人が『自由』という概念を理解するのは、
その前に『不自由』を体験的に学んでいるからでしょう。

制約とか制限とか、思い通りにならないということが先に立つ。

生まれる前は安定していて、取り立てて困ることもなかったのに、
生まれてきて、生きていく中で体験するのは不自由なことばかり。

物事を比較することで理解する性質上、
まずは困るところから始まる、と考えられます。

つまり、期待は常に「困らない」方向へ向いているということ。

そして期待通りにしてもらう経験と
期待しても思い通りにならない経験とを両方追加しながら、
誰もが「この世には、自分にコントロールできないことがある」と学ぶ。

世の中は、何でも思い通りになるわけじゃない。
我慢しないといけないことがある。
…そういうのを体験的に学習していくわけです。

そうやって、いつの間にか駄々をこねなくなって
少しずつ大人びていく、と。


それから、あるとき言語的に『自由』という概念を学ぶ。

自分の体験を参照して、「こういうのが『自由』か」と理解するには
思い通りにならない、好き勝手にやってはいけないという
『不自由』を体験していることがベースになっているはずです。

『自由』よりも『不自由』が先にあるだろう、ということです。


すると、自分にはコントロールできない事だらけの世の中で
思い通りにしようとするための努力をする人が出てきます。

大抵は、状況を思い通りにしようとするところから始まる。
周りの人を思い通りにコントロールしようとするんです。

もちろん、思い通りにならない世の中へ不満を抱き続けて
状況を変えようとしない方向性もあります。

もっと進めば、徹底的に諦めてしまうこともあるでしょう。

ただ、大部分の人は、多かれ少なかれ「なんとかしようとする」。
少しでも”思い通り”に近づくように頑張る。
不満を解消できるように努力する。

それが努力の源泉になるのですから、重要なことなんです。


でも、その中から、あるときに
「こうやって周りを思い通りにしようと頑張っても
 必ず自分にはコントロールできない範囲がある」
と学ぶ人が出てきます。

そして、諦めるでも、そのままコントロールしようと努力するでもなく、
「自分を思い通りにしよう」とし始める場合があります。

他人が関係する周りの状況は思い通りにならないことがあっても、
その状況に対する自分の反応の仕方なら、思い通りにできる。

そうやって自分の心と向き合い始める。

学ぶのは、究極的にいえば、「選択する」こと。

対応の柔軟性を上げるために選択肢を増やし、
自らの意志で対応を選ぶようにする。

ここに、
「ワンパターンの反応で思い通りにならないことを我慢するのではなく、
 自らの意志で結果を選びとる」
という自由が生まれるわけです。


ところが、よくよく考えてみると
これは元の『不自由』を原点とした『自由』とは
少し発想が異なっているといえます。

確かに、選択肢は好きなだけ増やせる。
その中から、好きなものを選ぶこともできます。

自由です。

選んだ結果、「あぁ、あっちにしておけば…」と後悔しなければ、
選択の結果に自らの責任を取れれば、自由かもしれません。

でも、そもそも選択肢を増やしていく中に
ある程度の制約がかかっているんです。
現実的な制約はあるんです。

つまり、ここでいう『自由』は、
「いかに制約の中で自由に選びとるか」という話でしょう。

喩えるなら、どれほど自由にサッカーをやろうとしても
手を使ってボールを投げようとするような自由はない、という感じ。

となると、ここで1つ役に立つのは
”制約”に対する受け取り方になります。

「制約とは、楽しむための決まりごと」と。

ルールのないスポーツやゲームは楽しくない。
決まった範囲で工夫するから面白い、という捉え方。

「選択」と「結果に対する責任」と「”制約があるから楽しい”という発想」。
この組み合わせがあれば、『不自由』を感じることは減ると思われます。

『自由』に近づいていく。


その一方で、この『選択と意志に基づく自由』が崩れる可能性を
実感してしまう場合もあるようです。

こうなると『自由』の追及は、再び原点に戻るのかもしれません。
『不自由』からの解放、という方向へ。

その場合の『自由』とは、
「『不自由』なんて、そもそも無かったんだ」
という理解のような気がします。

『不自由』という錯覚から離れられれば、
そこには元の「『不自由』でない」状態がありそうです。

気楽なことだとは思いますが、
そうなったときに果たして『自由』と呼ぶかどうかは
疑問が残るところです。

cozyharada at 23:51|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | 心理学

2013年07月14日

実験されるのに向かない

先日、学生から心理学の実験の被験者を頼まれました。

よほど大きな大学のシッカリした研究でなければ、
一般に応募をかけて被験者を募ることは多くないようです。

まして、授業の一環で実験をしてみよう、といった場面であれば
学内で出会う人に依頼をするのが手軽なわけです。

ということで、僕も被験者をやってもらえないかと声をかけられました。


実験内容は、推測ですが
 自意識を高めると人前で話す緊張は上がるのか?
といった検証じゃなかったかと思います。

普通は実験後にデブリーフィング(種明かしのようなこと)をするはずですが
教えてくれなかったので、手順を元に僕が仮説を想像して
「まぁ、こんなところだろう」と捉えているところです。

で、「あの教授の好きそうなテーマだな」なんてニヤリとしながら
質問票に答えつつ、メインの実験作業を迎えました。

人前で話す、です。

ところが、学生の実験ですから、聴衆を集めるなんて無理に近い。
なので、依頼してきた学生本人と、グループメンバーらしき学生の2人だけ。
しかも、その2人は教室の端っこに座っていました。

「人前」という状況を作るために彼らが考えたのは
”ビデオ撮影”だったんです。

撮影されていれば、少人数でも「人前」で話すような雰囲気を作れるだろう、と。

残念ながら、そのカメラっていうのがデジカメだったんです。
小さなデジカメをテーブルの上に置いただけ。
三脚のついた大きめのビデオカメラだったら、
もうちょっと「撮られている」感じも気にしたかもしれませんが…。


そして、「人前で話す」内容も、実験として揃えたかったんでしょう。
原稿を渡してくれました。

ですから、僕はただ読むだけ。

ただし、その原稿が Martin Luther King Jr. の「I have a dream」。
ちょっと有名過ぎです。

原稿を見た瞬間に、「アッ!」と気持ちがそっちに集まってしまいました。

本当は「人前で話す」前に、自意識を高める作業をやっていたんです(おそらく)。
自分の服装とか、人から見られることへの関心とか、
体型への自信とか、理想とする体型のイメージとか…、
ボディイメージへの自意識を高めるようなアンケートに答えていました。

なのに、原稿を見た瞬間、アンケートのことを一気に忘れてしまったんです。

申し訳ないことをしました。

当然、原稿を読むと言っても、僕の関心の大部分は
「人前で話す」ではなく、「いかに真似するか?」に向いています。

有名な演説ですから、頭の中に音声の雰囲気が残っている。
それを思い出しながら原稿を読めば、自然と影響されるものでしょう。

しかも、「人前で話す」想定ですから、
本物の名演説のような感じを真似したくなってしまいました。

救いは、原稿が演説の冒頭部分だったこと。
クライマックスだったら、かなり気持ちを込めて
やり過ぎちゃっていただろうと思います。
少なくとも、そうはならずに済んだはずです。


振り返ってみると、気の毒なぐらい
実験の趣旨に合わない被験者だったんじゃないでしょうか。

NLPっぽく表現すると、心理学の実験とは
 大部分の人に共通するプログラムの反応パターンを調べる作業
といえると考えられます。

僕は、もう、あまり大部分の人と同じプログラムを使っていないのかもしれません。

自分の見た目に関する自己評価とか、
人から見られることへの関心とか、
その辺りも、かなり以前と違います。

どのように人から見られているかは意識に上げていますが、
それは相手にどのような印象が伝わるかを考慮した意図的なものであって、
人から評価されることへの恐れとは、あまり関係がない。

他人の評価が低くても、自分自身への自らの評価は変わらない気がします。

なので、自意識を高めて人前で話すとしても
それが元で、人前で話すことへの不快感は起きないでしょう。

まして僕は仕事がら、人前で話すことへの慣れが大きい。
小さなビデオカメラぐらいでも慣れているかもしれません。

そもそも「人前で話すことへの不快感の度合い」を調べる被験者としては
あまり適切じゃなかったと思うんです。

その上で、「 I have a dream 」の演説の原稿を読むとなると、
僕の中では「人前で話す」プログラムではなく、むしろ
「名演説を上手く真似しようとする」プログラムが動いてしまいます。

調べているプログラムが違ってしまっていたわけです。

そういうところで、実験の目的だったと思われる
 『自意識を高めると、人前で話す緊張感は上がるのか?』
という疑問点は、
僕とはスッカリ無関係な話になってしまったようです。

当然、実験後の質問紙への回答も期待に添えるものではなかったでしょう。

彼らの期待通りの答えを書くこともできたとは思いますが、
それでも一応、心理学の実験ですから。
正直に答えておきました。

多分、ノイズになってしまうでしょうけど…。


ちなみに、『緊張』を調べるのは難しいと僕は考えます。

緊張には複数の要素が混ざっていますから。

他人からの評価への恐怖や、
集団から切り離される心細さ、
上手くやりたいという期待感…
などが混ざるはずです。

恐怖や心細さは克服できますが、
上手くやりたい気持ちから生まれる生理的変化は
一般的に残り続けるようです。

こっちはスポーツ選手でも、アーティストでも、大事なテストの前でも
目標とする結果を期待するほど強まるものです。

色々な認知によって生じる生理状態がミックスされて
一言で”緊張”と呼ばれているのが文化的・言語的理解なんです。

調べようと思ったら、その混ざったものを一度分解する必要があるでしょう。

「上手くやりたい期待感」にフォーカスすれば
もうちょっと統一感のある実験ができたと思うんですけど。

そっちだったら僕も「良い被験者」として協力できたんじゃないかと思います。

cozyharada at 23:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!心理学 | NLP

2013年07月12日

擬人化し過ぎに注意

NLPには『パート』という考え方があります。

元々は、おそらく、「あなたの中のある部分(= part )」
というニュアンスだったのではないでしょうか。

「あなたには、〜な部分がありますね」
という感じ。

「あなたの中には、そういうことをされたときに腹を立てる部分も、
 また同時に、”そんなことで腹を立てているのは大人じゃない”
 と考える部分もあるようですね。
 そして、相手の立場を察しようとする部分もありますよね。」
といった形で会話に登場する。

それをNLPでは少し発展させて、
『自動的に、そういう反応を生み出すもの』
として『部分(パート)』を扱います。

「そういうことをされたときに、腹を立てる”ことをしている”部分」
「相手の立場を察しようとする”働きを担当する”部分」
のように。

車を運転するときに、
前に注意を向けながら、
ハンドル操作をして、
アクセルでスピードを調節して、
ステレオで音楽を聞きながら、
同乗者と話をする…
などと複数のことを自動的にこなせるのも、
それぞれをやってくれる『パート』がいるから
と考えるわけです。

そうなってくると、
「あなたの中には、車を運転しているときに
 アクセルの踏み方を調整している”部分”がありますよね」
というのはチョット不自然な気もします。

その意味では、『パート』というものを、
「自分の中にある心の一部分」と解釈するのとは別に、
「パートっていう考え方をするんだ」と思ってしまったほうが楽でしょう。

ですから、無理やり訳して「部分」と呼ぶよりは
「パート」って呼んでしまったほうが使いやすいと思います。

元々の英語のニュアンスでは、もっと自然に、かつ曖昧に
「心の一部分」としても、「NLP的な考えとしての一機能」としても、
両方を示唆することができるとは考えられますが、
それでも文脈によって聞き手が解釈し分けるかもしれません。

それぞれに長短があると思われますので、
まぁ、日本語では「〜な部分がある」と言うときと、
「〜する”パート”」と呼ぶときとを
分けておくのが使いやすいのではないでしょうか。


で、この『パート』。

NLPの中でも、この『パート』の扱いを
擬人化し過ぎだと考える意見があるそうです。

そして、僕も同意見。
パートの擬人化は、明確な目的意識をもってすべきだと考えます。

そうでないと暗黙のうちにリスクを含んでしまう可能性があります。
相手と状況によって、擬人化の程度を使い分けるほうが賢明でしょう。

個人的には、どこまで擬人化したとしても
「さん」づけして呼ぶのは、チョットやり過ぎな印象を受けます。

「パートさん」って呼ぶ人がいるんですが、
それは、いかがなものか、と。

まず、瞬間的に「パートタイム勤務の人」が連想される可能性があります。

少なくとも僕の頭の中には、貧困なイメージで恐縮なんですが、
”スーパーのレジの女性”が思い浮かんでしまいます。

「パートさん」という単語で理解してきていた本人の経験によって、
別のニュアンスだと分かっていたとしても
強い連想は働いてしまうものなんです。

その連想によって引き出されるイメージや実体験が
その場のコミュニケーションにどれだけ影響するかは、
本人の連想の強さと集中の程度によって異なりますが、
ノイズになることは確実です。

もし僕がセラピストやカウンセラーから
「じゃあ、その”パートさん”の声を聞いてみて下さい」
なんて言われたら、
心の奥底で笑いを我慢するのに労力を使うはずです。

もちろん、大人としての対応をしますから、
そのことについて文句は言わないかもしれません。
笑いを堪えているのも、表情に出さないように頑張るかもしれません。

結果として、何事もなかったかのようにワークは終わるでしょうが、
僕がそのセラピストなりカウンセラーなりに対して
「気を遣っていた」ということは事実でしょう。

僕はただ、「クライアントが気を遣う」というのは
あまり望ましくないという考え方なので、
「パートさん」という呼び方には反対なんです。


そして、「さん」づけするほどの擬人化に反対する何よりの理由は、
「擬人化によって、客観的な立場になる」ことです。

つまり、自分以外の存在として認識している、ということです。

「パートさん」なんて呼ぶからには、
それはもう自分とは別の存在だと示唆しています。

どんなに「愛しい自分の一部」と表現したとしても
特定の存在として認識する以上、
そこには「自分とは別なもの」という分類が働きます。

まして、それを掌の上に出したり、
その「パート」に姿かたちなどのイメージを与えたりすれば、
ますます「自分以外の存在」としての性質が強まります。

そこに「さん」づけしたり、名前をつけたりしたら、
もう目の前に何かのキャラクターがいるようなものでしょう。

こうした擬人化は、自分の心の機能の一部を外在化して
客観的に捉えることで「区別しやすくする」効果を発揮します。

例えば、「アイツを殴ってやりたい!」という気持ちは
実際に殴ることとは別物です。

「殴ってやりたい」気持ちが沸いたとしても、
それを抑える機能があれば、社会的には問題ないわけです。
むしろ、自然なことです。

ところが、中には
「殴ってやりたい気持ち」と「殴ること」とを
上手く区別していない人がいるんです。

そうすると、殴ってやりたい気持ちが沸いてきただけで、
実際に殴ってしまったかのような気分を体験します。

殴ることが良くないと考えていれば、
「殴ってやりたい気持ちが沸いてくるなんて…」と
まるで殴ってしまったかのような罪悪感を覚えるようになる。

その必要はないのは、多くの人が共感するところでしょう。

殴りたいほど嫌な気分になっただけのことです。
そういう気持ちになる”部分”も、大切な自分の一部なんです。

また、場合によっては「殴りたい気持ち」が沸いてきたときに、
それを制御する方法を知らない人もいます。

ここでは、「殴りたい気持ちになる」パートを擬人化することで、
その「パート」に対して客観的な状態を生み出せます。

「殴りたい」パートを制御する別のパートに頑張ってもらっても良いし、
「殴りたい」パートが出てきたら、「なだめる」パートを使っても良い。

客観的になることで、自分の内側を眺める余裕が生まれ、
対処しやすくなるというのがメリットです。

擬人化には、客観視して区別する効果があるんです。


さらに、客観的に眺めるからこそ、
その背後にあるものを読みとりやすくなる場合もあります。

客観的に見るから「あぁ、結構、頑張ってるじゃないか」と思えたり、
「ずっと寂しい思いをしていたんだなぁ」と感じられたり。

これで心が緩む。
自分を認められる感じになる場合があります。

こういうプロセスは大事です。

ですが、これは諸刃の剣でもあるはずです。

『客観的”だから”、自分を認められる』
というパターンに陥りかねません。

擬人化の度合いを強く求めるほど、
「他人だから認められる」、「他人だから許せる」、「他人だから愛せる」
という事態を繰り返すリスクがあると考えられます。

「インナーチャイルドを癒す」なんていう表現にも
同様の前提が含まれる可能性があります。

子供の頃の自分を抱きしめる…なんていうのは素敵な景色ですし、
それによって癒される部分もあるとは思います。
そういうのが必要なときもあるでしょう。

僕もセラピーの状況によっては、
擬人化したパートを受け入れるようなワークをする場合もあります。

ただ、ずっと「擬人化した自分の一部を受け入れる」だけだと
偏りが生まれてしまうこともあり得ます。

「あり得ます」というか、「確実に偏りが生まれます」ぐらいのものでしょう。

ポイントは、偏っていても日常生活に支障はない、ということ。

日々のストレスを抱え、目下の問題に苦しんでいるような時には、
その苦しみから解放されることが最優先だと思います。

苦しみからの解放のプロセスとして、
「自分の一部を擬人化して承認し、癒される感じを体験する」
というのは効果的です。

それで日常が楽になれば、セラピーの目的は果たされます。
もう充分。
セラピーは終了して、日常生活を楽しんだら良いと思うんです。

一方で、そこで終わりたくない人もいる。
 もっと自分を磨きたい。
 もっと自分を成長させたい。
 もっと自分の好きな自分になりたい。
…そんな願いを持つ人たちがいます。

その場合に限っては、「偏り」が問題になるケースもあると考えられます。

反対もやる必要が生まれる。

『自分を自分として、内側から丸ごと受け入れる』
という方向性もあるんです。

擬人化したパートやインナーチャイルドを承認する形を取ったときには、
「自分が他人を承認する」という能力を応用していることになります。

他人を承認し、他人を許し、他人を愛するという能力の延長で
自分という存在に関わろうとしている形なんです。

繰り返しになりますが、それでも効果はあります。
ただ、そこで得られる効果は
「他人からしてもらえなかったことを、もう1人の自分が代わりにやってくれる」
という体験に留まります。

他者との関わりで生まれた”心の痛み”のケアなんです。
常に「他者」が存在しているんです。

もう1つの方向性は、他者を介在させないものです。
自分だけ。

自分だけですから、「他」という概念がありません。
丸ごとなんです。

英語を使って表現すると…。

 とても客観的な状態: 「 I love Taro / Hanako. 」
 客観的にパート捉えた状態: 「 I love my part. 」

 距離は近いが、目の前の他者とは離れている状態: 
               「 I love you, Taro / Hanako. 」
 目の前の他者としてパートを捉えた状態: 「 I love you, my part. 」
 目の前の他者として自分自身を捉えた状態: 「I love you, myself. 」

実際には、
「 I love me. 」
といったときにも2種類の可能性があります。

自分自身の姿を目の前に思い浮かべているパターンと、
目の前には自分の姿が見えていないパターン。

他者を介在させない、距離を取らない方向性は
後者の「目の前に自分の姿が見えていない」状態なんです。

そっち向きで、「 I love me. 」。

おそらく、僕の印象では「 me 」といったときには
親指で自分の胸のあたりを指しながら「ミー!」って言うイメージですから、
「 I love me. 」のイメージは「目の前に自分の姿が見えていない」
ほうになりやすいんじゃないかとは思います。

でも、その「ミー!」のニュアンスともチョット違うんです。
この場合の「 me 」は、他者の存在を前提として
他人と区別した独自の存在として「自分」を捉えているはずです。

なので、「俺って、自分大好き!」みたいな雰囲気が混ざりそうなんです。

そうじゃない。
もっと丸ごと、内側から、の感じ。

ですから、
「 I love. 」
だけのほうが近い気がします。

他者を想定していないで、とにかく
『自分を自分として、内側から丸ごと受け入れる』
という方向性。

こっちもあるはずなんです。

そして、この方向性を体験するためには、
擬人化して客観視していては不可能です。
別の作業だからです。

目の前にいる自分の一部分(”パートさん”や”インナーチャイルド”)を
承認し、許し、愛するという体験とは、別の種類の体験です。

擬人化の方向で取り組んでいたら、
何かのキッカケで逆方向を体験する可能性はあります。

ですが、注意したいのは
「擬人化している”からこそ”、承認できる、許せる、愛せる」
という癖を作ってしまわないようにすること。

ドライに「パート」という機能単位として割りきってしまうほうが、
意外と「自分全体を丸ごと内側から」という視点に立ちやすい。
そういう側面もあるようです。


ま、大部分の人にとっては、どっちでもいい話なんですが。

cozyharada at 23:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | NLPの基本情報

2013年07月09日

【セミナー】観察力講座&カウンセリング講座(実践編)

ご案内: 7月28日(日)開催

 観察力養成講座



とにかく観察力を高めることに絞った講座です。

 ゝい鼎韻襦
◆ゝい鼎い燭海箸琉嫐を捉えられる。

この2点に関して、原則から解説して
技術を向上させるためのトレーニングを行います。

残念ながら、ここでは詳しい説明はできません。
内容に入ってしまいますから。

トレーニングには、ビデオや動画も活用するつもりです。

実際に観察をしながら、どういう部分に注目するかなどを
その場でお伝えしていくことになると思います。


場面としては、コミュニケーションを想定していますから
人の動作や振る舞いを観察するのがメインになるはずです。

ですが、観察の仕方の原則に関しては
あらゆる状況で役に立つ考え方だと考えられます。

つまり、人相手の観察に限らない、と。

自分の過去を振り返って、研究職として観察してきた内容は
顕微鏡で覗いた微生物の姿だけではないんです。

むしろ顕微鏡は、さほど重きを置いていませんでした。

実験装置の使い方にミスがないかどうか、
微生物の培養の進み具合はどうなっているか、
培養液の状態はどうなっているか、
遺伝子の発現はどうなっているか…。

実験をする際には、とにかく観察すべきポイントが沢山あるんです。

場合によっては、数値データを”観察”することだってあります。
膨大にはじき出される数値を眺めて、何が起きているかを考察する。

何が起きているかを解釈するためにデータを取得し、
そのデータを解析して意味づけするんです。

生データそのものには意味がありません。
その生データの一部に注目して、そこに意味を見出す。
これで初めて観察をした価値が生まれます。

データ収集まではコンピュータに任せられても
データ解析は人が行うということです。
 (※データ解析のプログラムを作れば話は別ですが、
  その解析プログラムを作るのは結局、人のやることですから。)

これは我々がコミュニケーションでやっていることと同じです。
相手の発したメッセージを生データとしてインプットして、
それを解釈して理解している。

『生データの一部に注目して、そこに意味を見出す』
このプロセスは、何を観察するときでも共通しているわけです。

そして、その共通したプロセスの精度を上げるのに
コツがあるんです。

つまり、
研究職として実験の進行具合を観察していたときと、
データ解析のために数値データの羅列を眺めていたときと、
セミナー講師として受講生の反応を察知しているときと、
カウンセリング中にクライアントの非言語メッセージを読んでいるときと、
…全て、同じ原則に基づいている、
ということです。

ですから一度、原則を理解してしまえば、
あらゆる場面での”観察”に応用できるはずです。


とはいえ、何も特別なことではありません。

特別に心がけて練習をする、というだけの話です。
漫然とはやらない、と。

心理学者の中には、エキスパートの能力について調べる人たちがいますが、
エキスパートの特徴として
 『自動的に細分化して認識する』
ということが挙げられています。

まさに、観察力として求められる
 『細かな違いを捉えて、その意味を把握する』
という作業が自然と行われているわけです。

もちろん、それが自動化されているからエキスパートなんですが。

自然とそのように捉えられるために、意図的なトレーニングをする。
これが本講座の目的です。

いわば、
人間観察のエキスパートになるトレーニングを通じて
観察の原則を身につける

ということです。

人の気持ちを理解できるようになりたい方、
人に限らず観察力全般を磨きたい方、
どちらにも役立てていただけると思います。



◆今回の講座で得られるもの

●観察の原則

●感情を読みとる観察力

●効果的な推理の方法

●観察結果を伝えるときの話術



◆お持ちいただくと役立つもの

●動画再生機器

必須ではありませんが、
タブレット端末、ノートパソコン(+インターネット接続環境)、ビデオカメラ
などをお持ちいただくと
観察のトレーニングを効果的に行えます。

題材を広く求められるということです。

特に、見逃した部分を確認するためにも
録画した動画を利用するのは有効です。

★ご希望の方は、ご関心のある動画をご用意下さっても結構です。
 それを題材に皆さんと議論できると思います。
 (映画はお勧めしません)

 全てのご期待に応えられるわけではありませんが、
 ご要望はお気軽にお伝えください。




観察力のトレーニングで身につけていく能力の1つに
「違いを捉える」力があります。

大雑把に捉えるのが悪いということではありません。

全体を捉えながらも
「なんとなく違う。でも、まぁ大体こんな感じ」
と”違い”にも気づけているか。

それとも、
全く”違い”に気づかず、同じこととして対処しているか。

この差は大きいんです。

「違い捉える」力をトレーニングしておくと、
それを自覚するかどうかは別にして、少なくとも
「これは、なんとなく違う…」ということを感じ分けられるようになります。

ここが重要。

というのは、人は繰り返し体験する内容ほど
自動化されたプログラムで反応する傾向が強くなるからです。

そして繰り返すほど、その自動化が更に進んでいく。

違いを自覚せずに、日常に起きる大部分のことを同じこととして捉えて
それに自動的にプログラムで対処していくと
ドンドンと日常生活がパターン化されていきます。

いつも通りになるんです。

いわば、
 年齢を重ねるほど、人は新しい体験をしなくなる
ということです。

同じこととして認識されると、その対処には記憶された情報が使われます。
その場に起きている出来事よりも、記憶が強く活用されます。

レモンの味を体験するときに、実際の酸味よりも
記憶の中で強調された「レモンっぽい酸っぱさ」を味わうのが典型例です。

だから催眠術で「桃の味」を思い出せば、
レモンを食べながらでも桃の味の記憶を優先して体験できて
実際に舌で体験している酸味を無視できるんです。

人間には、それぐらい記憶を優先して体験する能力があるんです。

そして、多くのことを「同じもの」として捉えていると、
レモンの味の場合と同様に、
日常生活を記憶された情報を中心に過ごすこともできるわけです。

よく「年齢を重ねるほど、記憶力が悪くなる」なんて声を聞きますが、
そのうちのある割合は、
「新しいこととして物事を捉えずに記憶を引き出して対処しているため、
 わざわざ新たな情報を保存しなくなっている」
ことと関係していると考えられます。


別に、それでも構いません。
そのことと、幸せな人生かどうかは無関係です。

ただ、時々それでは上手くいかないことが起きることがある。
状況が変わったとか、身体的な(能力的な)変化が起きたとか。

今までのパターンでは上手くいかないケースを体験したとき、
上手くいくようにするためには、当然、対処を変える必要があります。

一方で、今までのパターンで上手くいく場合も沢山ある。

となると、ケースごとに分けて対処することになります。

だから、「どっちのケースか」を判断するために
「違いを捉える」力が求められるんです。

ワンパターンにならないようにするには、
別のパターンで対処できるようになることに加えて、
どっちで対処すべき状況かを判断できる必要があるわけです。

「この状況と、あの状況では、対処の仕方が違う」
と捉えるには、
「この状況」と「あの状況」を別物として認識しているのが前提となります。

”違うもの”として捉えている、ということです。

「違いを捉える」力が役立つのは、そういう理由です。


もちろん、劇的に違う種類の体験をすれば、
細かい違いを気にしなくても「新しい体験」をすることはできるでしょう。

でも、変化が大きく、刺激的な毎日だけが望ましいとは限らないと思うんです。
それが好きじゃない人だっているでしょうし、
現実的な理由で、大きな刺激を味わいにくい人もいるはずです。

誰もが世界中を飛び回ったり、海の底や山の頂上へ冒険したり、
スカイダイビングやバンジージャンプをしたりできるわけではありません。

そこまで劇的な「違い」を求めなくても、
「違いを捉える」力を上げていけば、日常から新しいことを体験できます。

その「違いを捉える」能力が、柔軟な対処の基盤になる。
いざという時の備えになると思います。

新鮮な毎日や、日常の困難への対処を求める方には
観察力のトレーニングが効果を発揮するでしょう。

そんな観点からご参加いただくのもいいと思っています。


繰り返しになりまずが、
同じことをパターンで反応するスタンスを否定しているのではありません。
むしろ、そのほうが幸せなことが多いような気さえします。

そして、同じように毎日を過ごして、幸せに長生きできるのは
とても恵まれたことじゃないかとも感じます。

ただ、世の中にはそうじゃない人もいる。

上手くいかないときは、”違い”に目を向けてみる。
それも1つの手段だということです。

観察力の重要性を感じられた方、
お仕事で観察力を磨く必要のある方、
人間観察に興味のある方。

お越しをお待ちしています。

気軽に楽しくトレーニングしましょう。



講座の詳細は以下の通りです。



【セミナーの詳細】

≪観察力養成講座
 (併設:『ホンネを引き出すカウンセリング』講座・実践練習)

【日時】  7月28日(日)
     《日中:観察力養成講座》   10:00〜17:00

     《夜間:カウンセリング講座:実践練習》  18:30〜21:30
 

       ※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。
       ★申し込みフォームに、ご希望の時間帯(日中/夜間)をご記入ください。


【場所】 滝野川会館 303集会室
    (JR京浜東北線・上中里駅より徒歩7分)
    (JR山手線・駒込駅より徒歩10分)
    (東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)

【参加費】 
      《日中:観察力養成講座》 ・・・15,000円 
      《夜間:カウンセリング講座:実践練習》 ・・・5,000円

       ★日中の講座にご参加の方は、無料で夜間の実践練習へご参加頂けます

       当日、会場にてお支払いください。


    ★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
     ご了承ください。




終了しました

最後に1つだけ注意事項です。

気づけるようになったら、気づく前には戻れません。

今まで見過ごしていたものが見えるようになります。
嬉しいことも、嫌なことも、両方に気づくかもしれません。

それは喩えるなら、
どんなワインを飲んでも「ワインはワインでしょ」って感じるのか、
上等なワインと、そうでないワインの違いが分かるようになるのか、
といった差のようなものです。

カギになるのは、
ワインの違いを識別できても、できなくても、
『ワインが好きかどうか』です。

「どんなワインでも良く分からないけど、酔っぱらえれば良いんだよ。ワイン最高!」
なのか、
「どんなワインだろうと、あの味が嫌い…」
なのか。

「美味しいワインは良いけれど、安物は私の口には合いませんわ」
なのか、
「確かに、たまに飲めたもんじゃないワインもあるけれど、
 その違いが分かるからこそ、本当に美味しいワインが
 至福のひとときを与えてくれるんだよねぇ」
なのか、
「高級ワインも良いが、手ごろなワインも魅力的なものだよ」
なのか。

違いに気づくようになったとき、
どのような感じ方をするかは人それぞれでしょう。

中には、苦しさが上回る方もいるかもしれません。

それは、こちらからでは予測できません。
ご了承ください。

もし苦しさが大きくなった方がいたとしたら、
そうした方のお手伝いができるように
こちらも修練していきます。

まぁ、今でも、気休めぐらいは言えると思いますが。

リスクとメリット、両方を考慮したうえでご参加ください。

2013年07月07日

雑誌記事

『介護人材マネジメント』という雑誌に新連載です。

介護人材9月号2013

















内容は、非言語メッセージの観察の仕方について。

非言語メッセージを捉えて、どのように言葉をかけるか、といった方法や
観察全般のコツなどを解説しています。

介護の場面を想定して書いていますが
一般的なコミュニケーションにも役立つ内容じゃないかと思います。


定期購読誌のため書店での購入は難しいかもしれませんが
ご興味があれば読んでみて下さい。

おしらせ
 ◆ セミナー情報 

日程確定

《心を調える実践会》

【日時】 2017年12月23日(土)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    304集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分

詳細は後日>>
次回は2018年の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



 ◆ お問い合わせ 
  技術向上、
  コンサルティング、
  スーパーバイズ、
  執筆・講演…

  諸々のお問い合わせはこちらへ>>



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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