2013年11月

2013年11月29日

トコトン走り続ける

心理療法やカウンセリングをはじめとして
色々な問題解決の方法について触れていくと
『手放す』という発想を耳にすることがあります。

執着することをやめ、ただ『手放す』だけでいいんだ…といった感じ。

本質的にいえば、そうなんだろうと思います。
『手放す』ことができれば解決する悩みは沢山あるものです。

いや、全て手放せれば、全ての悩みからも解放されるのかもしれません。

だとしたら、どうやって手放すのか?


僕が聞いたことがあるのは
 「ただ手放せば良いんですよ。”どうやったら?”とか考えずに。」
とか
 「それをやめるだけのことです。」
とか、
そんな感じのニュアンスのもの。

もしかすると、
「手放せばいいんです」
「執着しなくていいんです」
「どっちだっていいんです」
「それでいいんです」
「人生とはそういうもの」
といったことを聞いて、
フッと悩みが軽くなる人もいるのかもしれません。

しかし、そうじゃなかった人には、いくら同じことを繰り返し伝えても
なかなか期待するような効果は得られないんじゃないかとも思えます。

「どうやって手放せばいいんですか?」という質問をする人がいたとしたら
その人はもう、その言葉では効果がなかったんです。

「そんなこと言われたって、手放すなんて分からないよ」
という反応は、「手放せない」と主張しているようなものでしょう。
「無理だ」って反論されているとも取れます。
それが質問の形になっている、と。

あるいは、真正面から受け止めて
「分かりました!手放せば良いんですね!どうしたら手放せますか?
 うーん、まだ手放せない。どうしたら手放せるんだ!?あーっ、もう!」
などと『手放す』ことに執着しているか。

手放さなきゃ、手放さなきゃって、新たな固執が生まれるケースです。

いずれにせよ、「どうしたら手放せるのか?」と疑問が沸いた時点で
「手放せばいいんですよ」というメッセージの効果が期待できるタイミングは
すでに過ぎ去ってしまっているとも考えられます。
その発想に触れても、効果が薄かったのでしょう。


その場合、逆を勧めるのも1つの手だと考えられます。

もっと追求しましょう、って。

とことん悩み尽くす。
全力で色々と取り組み、嫌っていうほど考え、苦しみにドップリ浸る…。

頑張って少し乗り越えたかと思ったら、また別のことで思い悩み、
次々に模索を続けていくわけです。

そうすると、あるとき『絶望』が訪れます。
「なんだよー、もうダメじゃん。あーあ。」と。

この絶望の底に辿り着いたときがゴールです。
そこで止まる。

この上ない絶望を体験したすぐ後に、解放が待っています。

人によっては数秒、数分。
劇的な解放感までとなると数日から数カ月ということもあるかもしれません。

絶望を体験して何日たっても一切の解放が訪れないとしたら
まだ絶望が足りないというだけのことです。

底に着いたら、その先には解放があります。

反対の言い方をすると、
 絶望の後に解放がやってきたら、その絶望が底だったと分かる
ということ。

ただ、底はあるんです。

底に辿り着く前に”諦め”なければ。

そして、その絶望のどん底の程度にも個人差があります。
そこまでに取り組んできた頑張りがあるほど
かなりの絶望に耐えられてしまうこともあるでしょう。

耐えて、耐えて、希望が全て失われた瞬間、
解放への扉が開かれる。

そういうことは良くあるようです。


だからこそ、「手放せばいいんです」という教えが生まれると思われます。

つまり、『手放す』ことを伝えている人のうち、結構な割合は
 絶望の末に”手放す(=諦める)ことしかできなくなった”人たち
だろうということです。

どうしようもない絶望の底に辿り着き、
「あーあ…」となったときに解放感が訪れた。

そして解放された状態で思い返すわけです。
「なんだよ、結局、手放すだけでよかったんじゃないか!」って。

そこに自嘲や反省、照れのようなものが混ざる。
その想いが、他者の悩みを見たときに
「手放すだけでいんですよ」と言わせるのかもしれません。

自分がそうだったから。
もっと早く手放していれば楽だったのに、と思うから。
他の人はそうしなくても良いだろうと感じたんじゃないでしょうか。

まるで休憩所を目指して走り続けてきたようなものです。

「どこに行けば休めるんだ?休めるところはどこにあるんだ?」と
必死で走りまわっていた。

それで「見つかりっこない、もうダメだー」となったとき
その場に倒れ込み、走るのをやめる。

そして気づく。
「あれ、今、休んでいる。
 …そうか、ただ止まって休めば良かっただけじゃないか」
と。

そんな感じの気恥かしさが、『手放す』教えを生むんじゃないかという話です。


しかし、上にも述べたように
「手放せばいい」と聞いた瞬間に楽にならないのだとしたら、
逆に、とことん悩み続けるのも1つのやり方です。

絶望の底に辿り着くまで。

それで自分でも体験したらいいじゃないですか。
「なんだ、手放すだけでよかったんだ」という実感を。

その後で気恥かしさをシェアするのも悪くないと思います。

cozyharada at 23:56|PermalinkComments(1)TrackBack(0)clip!心理学 | NLP

2013年11月27日

通り過ぎてから

抽象的な話ですが、
「そのことが合っているかどうか」
は、通り過ぎてみるまで
判別ができないものじゃないでしょうか。

それも、「合っている」と信じられるようになるのではなく、
「そうじゃない」と不的確さを指摘できるようになる形で。

どこまでいっても正しいことは分からないと思いますが、
正しくなさそうなことは感じとれるはずです。

なぜなら、通り過ぎた後には体験の例がありますから。
反例(例外)を指摘できます。

「こういうケースがあるんだから、そうともいえないんじゃない?」と。

事情に精通してくるほど、そうした反例にも数多く遭遇するようになります。
「こういうときには、こう。でも、こっちの場合には、こう。」
…そんな感じで違ったパターンも見えてくるわけです。

そして、両方に共通するパターンが
さらに一般化された知恵として残っていく。

つまり、1つ上の抽象度の知恵を体験的に生み出せたときが
”通り過ぎた”ということです。

こうして通り過ぎると、
通り過ぎる前の段階の知恵についての議論に遭遇したとき、
「うーん、まぁ、それもあるんだけど、そうじゃないんだよ。
 こっちのことも加味すると、不十分だと思いますよ。」
といった感じの印象になるでしょう。

ところが、通り過ぎる前の段階では、
体験したことのない部分は想像することもできません。

言葉での説明が上手い人に指摘される場合には
まだ自分の知らないケースがありそうだと思えるでしょうが、
その説明が違いを理解するのに不十分だと
「同じことを違う言葉で説明している」ぐらいにしか思えないものです。

自分の知っていることに当てはめて解釈しやすくなる。
本や人の話などから手に入れた知識の場合は尚更です。
自分が体験的に信じている知恵を言い表している表現を見つけて
自分の知恵の正しさを確認しようとしたくなるんです。


ビジネスの場合などは事例が目に見えやすいことが多いですし、
求めるものも”利益”という測れる結果で評価しやすいですから、
「上手くいく(正しい)知恵」の判別も目につきやすいといえます。

反例にも気づきやすく、反例を指摘されたときにも
その事例が想像しやすいので、今までの知恵の”不十分さ”に納得しやすい。

一方、心の話となってくると厄介です。
何が良いかどうかの判断に個人差があります。
望ましいかどうかの基準が曖昧なんです。

『幸せ』かどうかを基準にする人は多いですが、
それが人生の基準として常に適切かどうかは、僕には断言できません。

さらに内的な体験を言葉で説明するのは大変です。
どうやっても言葉で表現できないようなものだってあるでしょう。

そうなってくると、誰かの知恵が正しいかどうかは判断しにくいんです。
”通り過ぎる”までは。

通り過ぎると反例に気づけますから、
今までの知恵が不十分だったと実感できる。

おそらく他の人の話を聞いていても、不十分な部分を感じとれるでしょう。
確認したければ、その反例部分について質問でもすればいい。
ただ、そういう指摘をする意味は微妙ですが。

むしろ大切なのは、自分にとって一番抽象度の高い知恵は
今の自分では確信することができない、ということです。

予想もしていなかった反例を体験して、さらに一般化した知恵となると、
それまでの理解が不十分だったと実感できるようになるでしょう。

そういうことの繰り返しなのかもしれません。

だからこそ、先に
「自分にとって最も抽象度の高い知恵は、今の時点で確信できない」
と納得しておくのが役立つと思います。

それによって、新たな反例の体験を拒絶しなくなりますから。

cozyharada at 23:48|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!心理学 | NLP

2013年11月25日

解説:極化の技法について

自分の中にある「ああしたい、でも、こうなってしまう…」
といった行動や感情の反応傾向は、
心理療法やNLPなど、変化の技法の対象として扱われるものです。

例えば、
「部屋を片付けておきたい、でも、片づけを先延ばしにしてしまう」
といった感じ。

正確に説明すると複雑になるので簡略化すると、
「片付けに取りかかる」プログラムと
「”まだいいか”と判断する」プログラムが
同時に働いて拮抗しているような状態です。

片付けに取りかかれば、その作業を進めるプログラムはある。
だから、やり始めれば綺麗になる。
それは分かっているんだけど、でも、やり始めない。

それが問題として捉えられます。


NLPでは、こういう状態を「葛藤」と呼びます。
そして、その解決手法として「葛藤の統合」が用いられます。

2つのプログラムの折り合いがついていないということで、
その両者で折り合いをつける方法です。

NLPでは1つのプログラムを「その作業の担当者」のようなニュアンスで
「パート」と呼び、ここでは2つのパートに折り合いをつけてもらうわけです。

そして、その解決のプロセスで「パートを統合する」段階があります。
2つのパート同士を1つにまとめるんです。

例に戻るなら、
「片付けに取りかかる」パートと「”まだいいか”と判断する」パート、
この両者を統合して1つにまとめる作業といえます。

そして新たに1つとして生まれ変わったパートが
「上手くやってくれる」というように考えるんです。

ですから、
「2つの相反するプログラムを1つにまとめて葛藤を解消する」
といった説明の仕方が多くなされるようです。

しかし、実際には説明が不十分なことが多く、場合によっては
「葛藤が解消されれば、望ましい行動ができるようになる」
といった結論が語られることさえあります。

そうなる場合もあります。
が、そうじゃないこともある。
むしろ大抵の場合は、完全に「望ましい」ほうにはなりません。

適当にバランスが取られるようになるケースが多いんです。

場合によっては
「やりたくないのに、やってしまう…」
という気持ちのレベルでの”葛藤”が
「まぁ、いいか」という気持ちに変化して
もはや”葛藤”ではなくなる、
という結果になることもあります。

確かに、葛藤は解消される。
実際に問題と捉えていた反応パターンがどうなるかとは無関係ながら。
そういう可能性もあるんです。

ただ、一般的に期待できる結果としては、
2つのプログラムの間でバランスが取られることが多い。

つまり、望ましい反応になるときもあるし、
望ましくない反応になるときもある、と。
(実際には、もう”望ましくない”とは捉えなくなりますが)

ですから、別に前にあった2つのプログラム(パート)がなくなって
新たな1つのプログラム(パート)ができるわけではないんです。

そうではなくて、
新しいパートは2つのプログラムをバランスよく使うための
コントロール役のようなものとして働くんです。

だから必要に応じて適度なバランスになる。

先ほどの例であれば、
すぐに片付けに取りかかろうと思えるときもあるし、
今日はまだいいか、と取りかからないときもある、
といった感じです。

平均的には「取りかかる」機会が増えますから
結果としては片付いている時間が長くなるかもしれませんが、
理想的に片付けられるようになる手法ではないといえます。


同様に、望ましくない行動や感情の反応パターンを変える技法として
心理療法の一派が使う「極化(極化と誇張)」があります。

これは望ましくない反応パターンに対して
 もっと大袈裟に強化した振る舞い
と、
 真逆な方向に大袈裟にした振る舞い

2つを設定して両方の練習(もしくは仮想体験)をするというものです。

「片付けたいのに片付けられない」の例であれば、
 「神経質と言われるほど几帳面に、常に部屋を綺麗にしておく」

 「散らかっている上から更に物を放り投げて、足の踏み場さえ無くす」

2通りをやってみるわけです。

とにかく両極を大袈裟なほどやってみる。
そして2つを繰り返すうちに、バランスの良いところで落ち着いてくる。
そういう方法です。

こちらの場合、「葛藤の統合」と違って
 やったことのないほど大袈裟な両極を体験する
という特徴があります。

「葛藤の統合」は、自分が持っている2つの相反するプログラムの間で
バランスを取れるようになる手法だといえますが、
「極化」の場合は、プログラムとして持っていない両極の振る舞いを
仮想体験しながら、バランスの取り方を学ぶ手法といえるでしょう。

違いは
 既にある2つのプログラムでバランスを取る
か、
 やったこのない両極の振る舞いの間でバランスを取る
か、です。

やったことがない両極は、体験したことがなくても
誰かのやり方を見たりして、想像はできるようになっているものです。
ですから、やったことがなくても、やり方は知っています。
そのため仮想体験はできるんです。

一方、「葛藤の統合」と「極化」の共通点としては、
 両方とも「バランスを取る」役割をもった新しいプログラムが作られる
部分が挙げられます。

どちらもバランスをとれるような調整機能が作られる、と。

ただし、極化のほうがバランスを取る両極がハッキリしているので
より柔軟性の高いバランスの取り方が期待されます。
「望ましいものと望ましくないものの2つのどちらか」ではなく、
「両極の間のどこか」というアナログ的なバランスが取りやすくなるんです。

これが大きな違いでしょう。


また、何が起きているかという観点からすると、
「葛藤の統合」、「極化」ともに、”望ましくない”という判断が弱まります。
”どちらでもいい”というか、気にならなくなるんです。

葛藤の統合の場合は、「望ましくない反応」の奥にある肯定的意図を探り、
今まで”望ましくない”と捉えてていた振る舞いにも
ちゃんと大事な意味合いがあったんだと思えるようになる。
その結果、”望ましくない”と捉えなくなる、という流れです。

それに対して極化の場合では、
「望ましくない反応」に付随する嫌悪感や自責感が、楽な気分で消し去られ
結果として”どちらでもいい”という感じに変わっていきます。

片付けの例であれば、
「片付けを先送りにした」という振る舞い、もしくは
「片付いていない部屋」に対してアンカーが存在しています。
「片づけを先送りにすると自責感が沸く」とか
「片付いていない部屋を見ると嫌悪感が沸く」とかです。

この「片づけをしない」状態を認識するフレームは
対象が誰であっても作動します。
片づけをしない他人を見たときにも「嫌悪感」や「叱責したい気持ち」が沸く。

誰が片づけをしていないかの違いであって、同じフレームなんです。
片づけをしない人に対して「責める気持ち」や「嫌悪感」が沸くプログラム。
それが自分の場合、「自己嫌悪」や「自責感」になる、というわけです。

で、このアンカーは「片づけをしていない」ことに対して働きますが、
そのアンカーが発火した直後に、別の楽な状態を引き出すと
両方の状態(”嫌悪感”と”楽な感じ”)とが混ざり合って、かき消されます。

NLPの技法でいうと、コラプシング・アンカーです。

極化の手法では、大袈裟な両極の振る舞いを交互に体験します。
すると、もっとも強く嫌悪感がわく振る舞いの直後に、
楽な気分になれる振る舞いを体験することになるわけです。

あり得ないぐらいグチャグチャに散らかった部屋を体験して
嫌悪感を味わった直後に、
今度は、几帳面な場面を体験してスッキリした気分を味わう。

すると、この2つの状態が打ち消し合うんです。

その結果、グチャグチャに散らかった部屋に対して発火していた
嫌悪感のアンカーがなくなっていく。
グチャグチャな部屋を見ても、嫌悪感は沸かなくなるわけです。

同時に、NLPでいうスウィッシュの効果も含まれます。

グチャグチャな部屋を体験すると、次には
几帳面に整理された部屋のスッキリした感じが体験される。
この流れを繰り返していますから
 グチャグチャな部屋を見る⇒綺麗な部屋のスッキリした感じを味わう
という新しいアンカーが作られていきます。

望ましい状態のイメージが動機づけとなって、
自然と望ましい振る舞いを取りやすくなると考えられます。

これらの効果で、自責感や嫌悪感のアンカーが消えて
問題だという捉え方をあまりしなくなり、
自然と望ましい側の振る舞いに動機づけられやすくなる。


「葛藤の統合」も「極化」も、どちらも
 「バランスを取る」プログラムが作られ、
 ”問題だ”という捉え方が弱まり、気にならなくなる
という点で似ていますが、
『何が起きているか』のレベルでは違いがある、という話です。

2013年11月22日

【セミナー】NLP実践講座〜実用的モデリング編〜

ご案内: 12月8日(日)開催

   NLP実践講座〜実用的モデリング編〜



今回はNLPにおいて技法とされるものの1つを取り扱います。
『モデリング』です。

一言でいえば、モデリングとは「模倣から学ぶ」ということ。

ただ普通に誰かを参考にするのと違うのは、
NLPにおける「プログラム」の考え方を用いるところです。

模倣の対象はプログラムの中身となります。
表面的に何をするか、何を心がけるか、ではありません。
そこが本やセミナーから知識を見につける場合との違いです。

理想的には、他者のプログラムを徹底的に詳細なレベルで解析して、
それを自分に当てはめるわけですが、実用レベルとの折り合いも求められます。
「実際の話として、どこまでできるか?どこまでやるのか?」
…これも1つのテーマとなります。

ですから、
 細かくプログラムを解析して行うモデリング
が講座の中心的な内容の1つ。

こちらの特徴は、記録に残せるぐらいプログラムの中身を整理することです。
まず効果的なやり方を知的に学び、それから実用に移っていく流れといえます。

一方、もう1つは、より実用的な側面にフォーカスした内容となります。
こちらも手法としてモデリングと呼ばれますが、方向性には違いがあります。

参考とする相手のプログラムを分析するよりも、
体を通して「相手が何を体験しているか」を取り入れる感じ。
先にやってみる、と。

自分と違うやり方をやってみて、その後で学びを知的に整理する流れです。

いわば、体を道具として、他者のやり方を取り入れるわけです。

大雑把な表現をすれば、
・頭でモデリングして、体で実践する
・体でモデリングして、頭で整理する
といった違いとなります。

もちろん、入口の問題に過ぎませんから、
理想的には両方を組み合わせながら精度を高めることになるでしょうが、
この講座では、2通りのアプローチを別々に取り扱います。

実際には、個人の得意・不得意、好き・嫌い、適切な場面など
様々な要素が絡み合い、どちらのアプローチが優先されるかが決まるはずです。

そうした性質の違いを心がけながら取り組んでいただけると
実用的に活かしやすいと考えられます。


理論的には、モデリングで扱える対象に限界はありません。
人のやることなら何でもモデリングできるというのがNLPの考え方です。

とはいえ、行動レベルの振る舞いが対象となるケースが多いのが現実。
体を動かす部分を含んだ技能などが、モデリングで扱われやすいようです。

もちろん、そういった種類のモデリングも可能ですが、
アウトドアのセミナーではありませんし、室内で開催する講座ですから、
ある程度は環境要因で限界が出てくるでしょう。

実際にサッカーボールを蹴ったり、中華鍋を振るったりはできないと思います。

ですから今回は、コミュニケーションをメインの対象とします。
(シミュレーション的な作業で構わなければ、ご要望にはお応えします)

コミュニケーションの技法にも、得意・不得意が表れるものです。
世間的に「達人」と評される人たちでも、やっていることは別物です。
技能の中身には違いがあるんです。

そうした部分をモデリングで習得すると、対応の幅を広げられます。
自分自身の得意な作業と苦手な作業が、何に由来するのかも分かるでしょう。


「こういうコミュニケーションの技術をトレーニングしたい」
という対象を設定していただけると、講座の効果が上がると考えられます。

事前に決められる場合には、模倣したい対象を調べてくることをお勧めします。
ビデオ、インターネット動画などをご用意されると効果的です。

動画再生のための機種(ノートパソコン、タブレット端末など)をお持ちください。
参考にしたいDVDがある方は、お申し込みの際にお知らせください。

また、ビデオカメラをご用意可能な方は、お持ち下さると役に立つと思います。
その場で客観的に自分のやり方を確認して、フィードバックできますから。

モデリングの対象としての正確な情報をDVDや動画で調べ、
自分のやり方を客観的にチェックするためにビデオ撮影する。
この2つを繰り返すと、精度を上げていくことが可能です。

ここまでやる機会は滅多にないものです。
本職のモノマネタレント以外で、ここまでやる人は稀です。
だからこそ価値があります。

普段やらないレベルで模倣をして、想定外の学びを手に入れてください。

こちらからも細かいフィードバックやコツをお伝えします。

特定の学びたい技術がある方、
モデリングそのものを習得したい方、
自分のコミュニケーションの幅を広げたい方…
ご都合が合えば、是非お越しください。

ただし、細かい作業ばかりですから、その点はご了承ください。



◆今回の講座で期待されること

●モデリングのアプローチを理解できる

●モデリングで可能な範囲を把握できる

●モデリングのコツを掴める

●モデリングの実習を通じて、(コミュニケーション)技術を向上させられる

●モデリングの実習を通じて、達人の秘密を調べられる

●NLPにおけるプログラムの考え方の理解が深まる

●NLPにおける「ストラテジー」の調べ方のコツが分かる



◆録音・録画に関しまして

ICレコーダーやビデオを用いた記録は、
実習でのフィードバックと復習における利用として想定しています。
プライバシーや著作権などの扱いにもご配慮願います。






【セミナーの詳細】

NLP実践講座〜セルフ・イメージ編〜

【日時】  12月8日(日)
       10:00〜16:30


       ※開始時間にご注意ください 
       ※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。

【場所】 滝野川会館 304集会室
    (JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
    (東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
    (JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)

【参加費】 ・・・15,000円 

       当日、会場にてお支払いください。


    ★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
     ご了承ください。




終了しました

モデリングの1つの醍醐味は、気づきにあるような気がします。

その分野において「良い、正しい」とされることを習得する場合とは
気づきの量が決定的に違うと考えられます。

良いとされる型を学ぶときには、その型通りにできているかに注意が向く。
注意の焦点が型だけになる場合もあるでしょう。

それに対してモデリングでは、自分との対比を伴います。
モデルとする人物のやり方と、自分のやり方とを比較するわけです。
その比較が精密であるほど、多くの違いが見つかります。

ここに気づきが得られるんです。

なんとなく「○○さんみたいにやりたい」というのとは異なり、
「○○さんと自分とは、どのように違うのか」を調べる作業が含まれる。

個人的には、その違いの面白さが分かってきた頃から
モデリングの重要性が見えてきたと思います。

正直なところ、
ただ模倣して、なりきって練習するだけしかしていなかった頃は
モデリングの価値が分かっていませんでした。

モデリングから気づきが得られるようになって
「人それぞれの違い」という当たり前のことが
具体的で現実的な体験として理解できるようになったように思います。

頭で「人は皆違う」と”理解しようとする”のとは別物です。
「この人と自分は、どのように違うか?」を実感しながら調べるんです。
「こんな風に違うんだ!」と体験できれば、腑に落ちることも多いでしょう。

日常的な会話では、「あの人は何故、ああなのか…」などと言われますが
この発言は実際に質問をしているわけではないんです。
「何故」などと言いながら、理由を知ろうとはしていません。

自分と相手の違いを把握できるように努力をする。
そのためのコツが自然と身につくのも、モデリングの特長でしょう。

NLPがモデリングによって生まれたというのも納得してもらえるはずです。

「この人と自分とは、どこが、どのように違うのか?」
その視点で人を調べていた時期があったようです。

まさにそれと同じことを体験できます。

好き嫌いだとか、価値観の違いだとか、そういった知識の内容を
実感として捉えられるようになる作業だともいえるでしょう。
「内面で何をしているから、その価値観になるのか」が見えてきます。

好き嫌いや価値観が原因ではありません。
むしろ結果です。
好き嫌いや能力や価値観を生み出すものを把握できる。

こういう作業は面白いと思います。

人間を理解する1つの入り口じゃないでしょうか。

心理学のように全体的な傾向を調べるところから入ることもできます。
脳や生理学の観点から調べていくこともできます。
同様に、個々の振る舞いの違いを入口にすることもできるんです。

個人差を生み出すものが分かる。
プログラムが理解できるということです。

人それぞれのプログラムが違うんだということを調べるほどに
プログラムの書き方のルールが見えてくる。

そのレベルの理解もまた共通点ということで
人間の理解を深めることになるでしょう。

NLPの初期に関わっていた人たちの中には
こうした人間の理解に興味のあった人もいたのかもしれません。

目標達成や悩みの解決、ビジネスでの成功、人間関係の改善…
そうした現実的な応用が注目されやすいNLPですが、
モデリングの中には、もっと人の本質に迫る部分があります。

NLPで基礎研究をするとしたら、その研究手法がモデリングです。

だからNLPは便利な道具の寄せ集めではないんです。
心理学や脳科学とは全く別の、プログラムという観点で
人を説明するための1分野になり得る。

脳科学は”脳トレ”で頭を良くするためのものではないように、
NLPは人生が上手くいくように変化させる”便利な道具”だけではありません。

NLPで人を理解する。
その元になるのがモデリングでもあるわけです。

もちろん、具体的に向上させたい技術がある方には
モデリングで得られた気づきが役に立つはずです。

そうした日常的な利用を目的としない方でも
人に興味のある方にはモデリングはオススメなんです。

文字通り”違いの分かる”着眼点のトレーニングです。
違いが生み出す気づきをお楽しみください。

cozyharada at 23:38|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!セミナー情報 | NLP

2013年11月20日

知識を増やすほど

皮肉なことに、勉強して知識を増やすほど、実物への関心が薄れていく。

元々はそのことを知りたくて関心があって情報を集めるのに、
その情報そのものが、実物をより現実に近い形で捉えるのを邪魔するんです。


カウンセラーがクライアントを理解しようとして、たくさん話を聞く。
過去にどんなことがあったのか、どんな状況なのか、どんな気持ちなのか…。

そうやって一生懸命に話を聞き出そうとするほど
目の前のクライアントを観察するための注意が薄れやすい。

クライアントが筋肉や姿勢、呼吸や血流、声色や声量でで表現している
多くのメッセージが、話の内容に注目するほどに見逃されていくんです。

ある流派のカウンセラーは「そのとき、どんな気持ちだったんですか?」とか
「今、どんな気持ちですか?」などと聞くようですが、
その話の内容に関心を向けるから非言語メッセージに出ている感情に
注意を向けるのが難しくなるんでしょう。

クライアントの話をたくさん聞いて、ストーリーを作り上げ
”自分の頭の中に”クライアントと問題のイメージを作り上げていく。

関心があるのは、頭の中のイメージのほうであって
目の前のクライアントの様子ではなくなってしまうことがあります。

「〜療法」だとか「…アプローチ」とかを重視する心理療法家の中にも
その方法論を使うことに関心が向いて、
その場のクライアントの様子に注意が向いていないことがあるそうです。

あるブリーフセラピーの有名なセラピストは
問題解決にフォーカスするあまり、常に空中を眺めていたと言います。
クライアントの話を聞き、解決のための方法を一生懸命に考えるので
セラピーの間中、ずっと考え事をしているような状態だった、と。

クライアントを見ない心理療法家として知られていた
…なんて話を耳にしたことがあります。

知識を活用するということは、
頭の中の情報に頼る度合いが増えるということでもあるんです。

知識に当てはめて目の前の出来事を解釈しやすくなる。


歴史的にも、催眠療法家のミルトン・エリクソンを研究して
様々な心理療法が作られてきましたが、ここでもやはり
方法や技術に目を向けて知識的な理解を進めようとするほどに
パターン化された知識に出来事を当てはめるケースが増えたと想像されます。

だからエリクソンは生徒に言っていたんでしょう。
「クライアントをよく見なさい」と。

エリクソンの方法を研究するほど、関心は情報に向いていき、
クライアントはその情報に基づいて捉えられるようになる。

もしかしたら、エリクソンの中には確立された方法論があったかもしれません。
エリクソンは説明できたのかもしれません。

でも、エリクソンが方法を説明してしまったら
エリクソンを崇拝していた生徒たちは皆、
その方法という知識に関心を向けていたことでしょう。

それこそがエリクソンのやっていたことと真逆であるにもかかわらず。

その瞬間の、目の前にいるクライアントに最大限の注意を向ける。
このことの大切さを伝えるには、方法を説明しないというのも
1つの効果的な形だったのかもしれないと思います。


人は記憶された情報に当てはめる形で、意味づけをします。
一切当てはめることをしなければ、全ては均一に見えるはずです。
境目すら認識できない。
それでは日常生活すら困難です。

知識が無かったら認識できないわけです。

ですが、違いそのものを認識するための知識は
大人になるまでの経験を積んでいれば自然と得られているといえます。

大きさや色、形、光沢、…。
そのような物事の知識よりも小さな単位の違いは識別可能なんです。

例えばブランド物の真贋を見分けるとしたら、
知識が無かったら、どちらが本物かは分からないでしょう。
ですが、どう違うかを指摘することは、細かく注意を向ければ可能です。

むしろ、知識があるほど知識に当てはめて捉えるので
細かい違いに注目せずに”同じもの”として認識する可能性が高まる。

ブランド物の判定でいえば、偽物の特徴に知識があるほど、
その部分に注目して認識しやすくなるはずです。

結果として、それ以外の部分の違いに目が向きにくくなる。
知っているはずの部分だけが認識されやすくなるということです。

同様に、絶対音感のある人は、多少の音程の違いは
12音階に「当てはめて」聞こえるそうです。

逆にいえば、中間の音を認識するのが大変だ、と。

「ド」と「ド#」では、「261.62Hz」と「277.18Hz」と
周波数にして15Hzの違いがあるのに、
その間の音は近いほうに自然と分類されてしまうようです。

「当てはめる」ための基準が知識としてハッキリしているほど
基準と”同じもの”として捉える傾向が高まっていく、という話です。


勉強して知識を得る。
すると、その知識に当てはめるように出来事を解釈しやすくなる。
「あぁ、これは○○だな」と。

本当に細かな違いに目を向ければ、その知識の基準とは
完全に同じということはあり得ないはずなんです。
少しは違うところがあるものでしょう。

ですが、知識を使うと「当てはめる」になりやすい。
記憶の中の情報が意識に上がりやすくなって
目の前の出来事への注意が下がることが多いようです。

もちろん、知識のパターンに当てはめることで上手くいくなら
それで良いのでしょう。

上手くいかないときにどうするか?

そこでも知識に頼ることはできます。
「○○理論によると、こういうことが起きているからだと考えられる」
といった感じで。

その一方で、上手くいかないときこそ
知識に頼らずに起きていることを見つめることもできます。

好みの違いなのかもしれません。

知識に当てはめるのが好きな人もいますし、
目の前のことに注意を向けるのが好きな人もいます。

それによって得意分野も変わるんでしょう。

ただ、僕は人と関わる立場として
目の前の人を知識に当てはめるのは好きではありません。

知識に当てはめるのが好きな人にとっては、特定の人物であっても、
その人に関する自分の知識に当てはめた認識がなされやすいようです。

数年前に会ったときに作られた「○○さんって、こんな人」という知識が
久しぶりに会ったときにも参照として使われる。

その知識に当てはめるように注目すれば
「○○さん、何年たっても変わりませんねー」
っていうことになるのかもしれません。

知識に頼らないとしたら、
数分前の○○さんと、今の○○さんとの間には
大きな違いが見つかるかもしれません。

常に別人のように見える可能性さえあります。

実際、数分で人は別人のように振る舞いを変えるものでしょう。
一人の中に沢山のプログラムがあり、
一瞬一瞬、違ったプログラムが表に出てくるんです。

人は本当に、見るたびに別人のようになっているともいえます。


もし、カウンセラーやセラピストやコーチや講師のように
何かしらの変化に関わる仕事をしているのだとしたら、
クライアントや受講生を「変わる存在」として捉えているか
「”○○さん”という知識」に当てはめて捉えているかによって、
その人の変化には差が生まれるのではないでしょうか。

知識に当てはめて捉えている場合、
その人に対する接し方は常に同じになりやすい。

同じように対応されれば、それに対するクライアント側の反応も
以前と同じようなものになりやすいでしょう。

逆に、違いに応じて対応をしていれば、
クライアントの望む変化が起きた部分に対して
それが活きるような形で関わることも可能だと思います。

望ましい変化が起きた部分を、体験的に強化していくことができる。

知識に当てはめれば、以前の姿を維持するように働きかけることになり、
目の前の人物のチョットした違いに目を向ければ
その変化を強化するように働きかけることに繋がっていく、ということです。

喩えるなら、
「持病」として捉えるか、「最近、調子悪い」と捉えるか
のようなものでしょうか。

知識ではなく、目の前の対象に注意を向ける。

それが求められる場面もあると思います。

2013年11月18日

もしもの話

仮に人間が不老不死になったとしたら
何かをしようと思うんでしょうか?

例えば、日本からヨーロッパに旅行に行きたいとします。

ずーっと変わらずに生き続けるんです。

急いでいく必要なんて無いかもしれません。

もちろん、サクラダ・ファミリアの完成までに到着したいのなら
それまでに移動を終えないといけないでしょうけど、
そういう目的が無かったら、
別にゆっくり移動したって気にならないんじゃないかと思えます。

少なくとも、リニアモーターカーで大阪までの移動時間を半分にしたって
その意味は、残念ほとんど無くなってしまうと思うんです。

仮に誰かに会いに行こうかと思ったとしても
お互いにずーっと生き続けているわけですから、
別にいつだって構わないと感じるかもしれません。

「2000年後までに、どこかで一回会おうか?」なんて感じかも。


当然、死なないまま人口が増え続けるわけにはいきませんから、
もう新しく生まれてくる命もないんでしょう。

自然の力で風化が起きたり、災害で物が破壊されたり、
そういったことはあるでしょうから、修復は必要なままだと想像されます。

というよりも、新しく何かを作ることが許されるかどうかも疑問です。

不老不死になる直前まで生きていた人たちの記憶は残るでしょうから、
「過去の遺産を残したい」という発想は、きっと維持される。

歴史的なものを保存するための技術は進むかもしれません。

そして、絶妙に古いままのものが維持されたり。

そうなると、最終的には歴史そのものが場所に保存され続け、
人の活動の大部分は「維持」になっていくような気がします。

新しいものも最初は新しいですが、
それさえ歴史上で生み出されたものとして、やがては保存される。

新しいものを生み出す場所自体も減っていくことでしょう。

その一方で、生み出す側の人間は相変わらず同じ人たちですから
ただただ記憶だけが蓄積されていって、
どうしても同じような発想しか生まれなくなっていく。

新しいものを表現する場が尽きるのと
新しい発想そのものが尽きるのと、
両方が同じぐらいだったりして。

便利である必要がなくなれば、技術は維持と保存のために最大化され、
クリエイティブな生産活動も減っていくかもしれません。

発想もパターン化から外れにくくなって、
新しさはドンドン生まれにくくなっていくはずです。

例えば、映画に注目してみると、その時点で映画監督をやっている人が
不老不死になって、ずっと映画を作り続けるような感じでしょう。

当然、アイデアは尽きてくるでしょうし、
見る側も昔の作品の記憶と比較しながら見るわけですから
そこに面白みを見出すことも減ってくる可能性があります。

全員がずーっと生き続けることを想像すると、
皆が好きなだけ勉強とトレーニングをできるとも言えますから、
仕事なんかも交代で色々な種類をやるようになるかもしれない。

皆が同じように全ての技術を習得して、持ち回りで分業を続ける感じ。

全員が様々な分野の超ベテランで、膨大な知識の宝庫になっていく…。


想像は尽きませんが、
 安定の方向に向かっていく
というのは、あり得そうな話じゃないかと思います。

おそらく退屈になっていくでしょう。

同じことの繰り返し。
自然の作用で失われていく部分を回復させて維持を続ける日々。

退屈しのぎのために、様々な体験をしようとするんじゃないでしょうか。

しかも交代で、です。
維持の機能は分担しないといけませんから。

食料と人口とのバランスも正確にコントロールされ始め、
他の生物だって絶滅を避けるために絶妙なバランスが維持される。

気候の変動さえもコントロールする方向に行ったりして。

もうずっと安定。

変化を感じないかもしれません。

時間感覚だって意味をなさなくなってくる可能性もあります。

5000年後も6000年後も同じ世界。
昼と夜が繰り返されるのと同じように、
ただ世界が繰り返されながら続いていくようなもの。

時間を意識すれば退屈でしかたないでしょうし、
その瞬間だけに集中すれば何も悩みはないでしょう。

変化があるから時間が生まれ、
時間を意識するから目標や悩みが生まれる。

変化がなかったら退屈になる。

いや、本当に変化がないことに慣れたら
退屈だとも感じなくなるのかも。

ただの「今」の繰り返し。


どっちが良いんでしょうか?


…という質問がマチガイ。

両方いっぺんにやるという発想も可能ですから。

cozyharada at 23:14|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!心理学 | 全般

2013年11月16日

アピールの仕方

特徴を説明しようとしたとき、
形容詞が比較を前提とすることがあります。

人によっては、その特徴を相対化せずに捉えることもありますが
特に能力に関する説明となると、相対化されやすいものでしょう。

例えば、「走るのが速い」だとしたら、
 どれくらい?
という情報が暗黙のうちに含まれやすい。

そこには走るスピードだとか、100mのタイムだとか、
「〜よりも速い」とか、そういった基準が考慮されます。

そして、その基準に対して相対的な「足の速さ」が評価される。
クラスの中で一番速いのか、100mを10秒で走れるのか、
何かの大会で優勝したことがあるのか、
…そのようなデータが「どのくらい速いのか」を示してくれるわけです。

特徴の説明をアピールのためにするのであれば
これらのデータが役に立ちますから、大体のプロフィールだとか
広告だとかには、色々な客観化された情報が載っているのでしょう。


一方、特徴をアピールしたい状況であっても
あまり客観的なデータを示せない場合もあります。

例えば、「親切だ」とか「分かりやすい」とか「親しみやすい」とか。

こういう特徴は他者からの評価で判断されるものです。
「私の話は分かりやすい」という表現は、自信とも取れますが、
より自然なのは「私の話は分かりやすいと良く言われます」などだと思います。

その意味で、アピールをする場合には
他者からの「推薦メッセージ」がよく使われると考えられます。

「私の特徴は話が分かりやすいということです」と自分でいうよりも
「○○さんが『あの人の話は分かりやすい』と言っています」と
アピールするほうが、より納得しやすいところでしょう。


逆に、もっと主観的な特徴もあります。

「私は慎重に話をします」
「私は時間配分に気を配ります」
といった感じ。

「慎重であること」や「時間配分」を『大切にしている』んです。
つまり、価値観を表現している。

これに関しては他者から判断される必要はありません。
誰かが「いや、あの人は慎重というほどじゃないでしょう」と言ったとしても
本人が「慎重にやるように気をつけている」と主張する限り、大丈夫なんです。

あくまで『大切にしている』ものですから。

これもアピールの場面で使われますが
その際には「こだわり」だとか「大事にしていること」として説明されるようです。

ちなみに、ただ「私は慎重に話をするんです」と主張するよりも、
その慎重さを感じさせる具体例があったほうが説得力は上がるかもしれません。

例えば
「私は以前、思いついたことを気軽に口にして、人を傷つけたことがありました。
 悪気があったわけではありませんが、それで関係が険悪になりました。
 ああいう想いは二度としたくないんです。
 だから、目の前の人がどういう人なのか、今どういう感情なのかを
 注意深く観察して、自分の言葉がどんな影響を及ぼすかを想像して
 その上で口に出すかどうかを決めるようにしているんです。
 思いつきで話すことはしたくないんです。」
といった感じ。

過去の体験談だとか、実際の行動として何を心がけているのかとか、
そういう情報を追加するというわけです。

このように、どんなに工夫をしても
この類の説明はあくまで『価値観』と通じる特徴です。

ここには比較が前提とされません。
前の2つとの違いです。


まとめると…。

ゝ甸儔修任る・量として測定できる特徴 
…例:「速い」、「大きい」、「多い」など→「話がゆっくり」、「実績がある」など

他者からの評価で判断される特徴
…例:「分かりやすい」、「親しみやすい」、「楽しい」
    「気軽に話しかけられる」、「オープンな雰囲気」など

主観的な『価値観』として判断されやすい特徴
…例:「慎重」、「バランス」、「時間配分」など


とりあえず、この3種類に注目すると
どのようにアピールをするかのバリエーションが見えやすいと思います。

そして重要なのが、
 ,鉢△任枠羈咾前提とされやすい
ということです。


,蓮⇔未箸靴撞甸儔修任ますから
「良し悪し」の判断には乗りにくいといえます。

「2000時間の実績です」、「1000人と関わってきました」…
といったデータは、ただそれだけなんです。

それを「良い」と捉えるかどうかは受け取り手次第。

人によっては「それだけの経験があるんだ!」と安心するでしょうし、
逆に「長くやっているからって技術とは関係がない」とか
「単純作業として繰り返しているから経験が多いだけで
 技術を磨いているとは思えない」
のように否定的に捉える人もいるはずです。

「話が速い」のが好きな人もいれば、嫌いな人もいる。
「テンションが高い」のが好きな人も、
それを引いて見てしまう人もいるんです。

量として捉えられるものは、判断を受け取り手に委ねやすい。
そういう表現もできると思います。


ところが△瞭団Г蓮
能力としての優劣が他者から評価されているような印象が出がちです。

説得力を高めるために他者のコメントを追加するというのも
「皆がそのように”高く”評価しているのだから、きっとそうなんだろう」
といった判断が受け取り手の中に起きやすいといえます。

これをアピールすると、暗黙のうちに
 「他よりも…において上だ」
というメッセージが含まれる可能性がある。

例えば、「僕のブログは長い」と主張すれば、
それは「1記事の平均文字数が○○」のようなデータでサポートされますが
その長さが良いことかどうかの関係は薄いわけです。
「長いから暇つぶしに丁度良い」かもしれないし、
「長いから読むのが大変だ」かもしれません。

それを「僕のブログは論理的だ」と主張したとすると、
「よくセミナーのときに『原田さんの文章は論理的ですね』って言われる」
というコメントで説得力が上がる一方で、
「世の中の他のブログ一般よりも…」という比較を含みやすくなる。

もちろん、「論理的」を良いとも悪いとも評価しない人もいますが、
「論理的である」ことが望ましい状況となると、
このアピールは優劣の表現のような印象を生み始めます。

仮に僕がロジカル・シンキングを教える講師だったとして、
講師としての自己PRの中に「論理的な文章で評判」と書いたら、
同業のロジカル・シンキング講師との比較を受け取られるかもしれません。

つまり、「他のロジカル・シンキング講師よりも論理的なんです!」
という感じのメッセージとして受け取られかねない、と。


もちろん、他者との比較でアピールすることが悪いというのではありません。
あえて同業の他者をこき下ろす方法もあります。
そうやって強みをアピールすることだってできるでしょう。

ただ、あまりに無頓着にそういうアピールをしていると
その比較が他者へ与える影響が裏目に出るケースも想像されます。

もしかすると業界で敵を作るかもしれない。
場合によっては、同僚に敵を作るかもしれません。

例えば、組織を作って活動している場合。
それぞれの人物が自己PRを書くことがあります。

セミナー業界であれば、1つの組織の中に複数の講師がいて
それぞれの講師が自己紹介や自己PRを述べるといった感じ。

1つのパンフレットやホームページの中に複数の講師のプロフィールがあって
それぞれが自分の特徴をアピールするような状況です。

こういうときに、△痢崑昭圓らの評価で判断される特徴」を述べると
同じ組織の同僚との比較がほのめかされてしまうことがある。

「私の説明は論理的です」といえば、
(同僚の講師は私よりも論理的ではありません)という意味も
同時に伝えてしまう可能性があるわけです。

「私のセミナーはフレンドリーで分かりやすく、質問がしやすいうえに
 オープンな雰囲気なので深い心の繋がりが生まれます」
なんてアピールしたとしたら、
別の講師のセミナーは
「他人行儀で小難しく、気軽に発言できるような雰囲気じゃない」
と受け取られることもあるかもしれません。


特徴を述べるときには、その特徴そのものが持つ前提について
注意をしておくのも役に立つことじゃないかと思います。

2013年11月14日

変えなくても変わる

端的にいってしまえば、
「変化」は最終目標ではありません。

もちろん、変化は起こります。
そもそも時間とは、変化の度合いを測る基準です。
人間が時間を感じる以上、そこには変化が伴います。

その変化を成長と捉えたければ、それも良いでしょう。

ただ、何もしなくても変化は起きるものなんです。
どのような視点で見るかの違いだけのこと。

自分が物凄く頑張って変化したと感じられることもあれば、
とりたてて気にしていなかったのに、自然と変わっていることもあります。

NLP的に「プログラム」という観点で見たって、
経験を重ねていることで自然とプログラムの変化は続いています。
変わらないことはあり得ないんです。

色々と変わるのが普通。


だからこそ、「変えよう」という”意識”が薄れるほうが
より楽な状態になれるんじゃないかと考えられます。

つまり、
 「変える」という作業は
 「変えなくてもいい」状態までの一時的なプロセス
だろう、と。

「変える」ことそのものが目的ではありません。
「変える」作業によって意識が広がるほうが大切でしょう。

別に「変えよう」と”意識”しなくても、変わります。

重要なポイントは、
 「変えよう」という”意識”が、まさに
 心の中で意識に上がっている一部分に過ぎない
ということです。

「変えよう」、「変えたい」、「変わりたい」と思っているのは
心全体の中の一部分なんです。
一部のプログラムの働きです。

その一部のプログラムが他のプログラムを好ましく捉えていない。
だから「変えたい」という気持ちが沸き上がってくる。
そういう反応を生みだすプログラムとして作動するんです。

あくまで一部のプログラムに過ぎません。

しかし、多くの人は、その一部のプログラムを意識するのに慣れている。
そのプログラムばかりを常日頃から意識に上げているんです。

心の中には様々なプログラムがあるのに、
一部だけを意識に上げている。
そのように普段から意識に上がっているプログラムの範囲が
いわゆる”意識の心”ということになります。

そして、普段あまり意識に上がらない部分が”無意識”と呼ばれます。
(正確には”無意識の心”です)

”意識”とか”無意識”とかいう表現は、
心の中のどの部分を常日頃から意識に上げているかだけの話であって、
どれも結局、「自分の心」の一部なんです。

にもかかわらず、多くの人は常日頃から意識に上がっている
”意識の心”と「自我」を強く結びつけて捉える傾向があります。

”意識の心”が”自分の心”だと思い込んでいるわけです。

だからその反対として、”無意識(の心)”を自分とは別物の
何やら深淵で手に負えないもののように考える。

ただ意識に上がっていないというだけであるにもかかわらず。


結局のところ大事なのは、『意識に上げる』ことなんです。

”意図的に”コントロールできるかどうかは関係ありません。
ただ『意識に上げる』だけで良い。

結果的には、意識に上げられるようになると
コントロールできる感じがしてくるものです。

元々そうだったんです。

今、自然と指を曲げる”コントロール”したりできるのも、
指の形の視覚情報と、筋肉の触運動感覚情報とを意識に上げて
両方の感覚情報のバランスを見つけてきたからです。
「こういう感覚のときに、こうやって動く」っていうのを把握してきたからです。

大人になってからでも、例えば、足の指を開けるようになります。
練習すれば、グー・チョキ・パーを足でもできるようになるでしょう。
耳を動かせたり、頭皮を動かせたりする人がいるのと一緒です。

バイオ・フィードバックを使って脳波をコントロールできるのだって同様です。

意識に上げれば、それはもう”自分の手に負えない無意識”ではなくなります。


そして、それぞれの意識していないプログラムにも意図があります。
より正確にいえば、普段から意識しているプログラムにも意図があって、
自分の行動を意識できても、その意図を意識していないことも多いものです。

意図もまたプログラムの一部。
単なる結果の予測のようなものですから。
このプログラムも普段はあまり意識に上がらない種類のものだということです。

ですから、振る舞い(行動、思考、感情)についても、その意図についても
両方を意識に上げられるようになれば、
それだけで”コントロール”感が出てくるはずです。

なぜなら、意識に上げたものは、もはや”無意識”ではないからです。

今まで”無意識”というラベルを貼って、
自分の手に負えないものとして捉えていた部分が、
”意識(の心)”という自我の一部に編入されるわけです。

それも「自分の心」になります。

それまでは「変えたい」と捉えていたターゲットとしての”無意識”のプログラムが、
今度は、捉える主体の側の”意識”的な自我に入ってくるんです。

「変えたい」と思われていた側が、
「変えたい」と思う側に組み込まれる、ということです。

当然、多くのプログラムを意識できるほど、
「変えたい」ターゲットとしての”無意識”のプログラムは減っていきます。
減るというか、範囲がズレてくる。

喩えるなら、領地を広げていくようなイメージでしょうか。
しかも相手は敵ですらない。
ただ領地を広げたら、その場所は自分のものになってくれる。
そんな感じ。

「自分」の範囲が、心の中で大きくなっていくんです。

最初に気づいた瞬間に、一気に自分の一部となる感じはしないかもしれません。
もう少しジワジワと組み込まれていきます。
慣れると、いつの間にか自分の一部になっているみたいです。

常に意識に上がっているという状態は自然に感じられるものです。
だから、その範囲を「自分」だと捉えるわけです。

慣れてしまうと常に意識に上がった状態になって、
そのプログラムはもはや”無意識”ではなくなり、
当たり前に意識される「自分」の中に含まれて、
以前は”無意識”として「変えたい」対象だったことさえ忘れてしまう。

そのようなプロセスが起きていくようです。


「変えたい」という気持ちを体験するのは大切です。
それによって、向き合うキッカケが生まれます。

そして、その「変えたい」プログラムに注目する。

変える方法は色々ありますし、方法自体の効果も様々でしょうが、
変える作業を通じて「意識に上げる」効果がかなり大きいといえます。

プログラムを変える方法に馴染みがでてくると、
今度はプログラムを意識に上げることにも慣れてきます。

そうしているうちに、自然と多くのプログラムが意識されるようになる。
つまり”無意識”の領域が減っていくんです。
「変えたい」ターゲットが減っていくわけです。

これが「変える」ことそのものが目標ではない、という意味です。

ポイントは意識に上げること。
プログラムの存在に気づき、その意図を自覚すること。

別に対立はしていないんです。

「〜したいけど、…してしまう(できない)」というのは、
「〜したい」の側に肩入れしていることの表れかもしれません。

「〜したい」のプログラムが常日頃から意識に上がっていて
そちらが自我と強く結びついている。

もう一方の「…してしまう」のほうは、意識に上がっていない。
当然、意図の部分も意識できていない。
手に負えない”無意識”の側に分類してしまっているのでしょう。

ところが、そのプログラムの存在と意図を意識できると
「〜したいけど、…してしまう(できない)」は
「〜したいし、…もしたい」に変わります。

色々と並行して、全てのプログラムはやりたいようにやりたいんです。

「トイレに行きたいけど、ご飯を食べてしまう」
といって悩む人は少ないんじゃないかと思います。

どちらも意識に上がっているからです。

トイレに行きたければ行けばいい。
ご飯を食べたければ食べればいい。
両方の程度に合わせて自然と調節しているはずです。

意識に上がれば、そういう調和の取れ方が生まれてきます。

その過程で、もっとトイレを我慢する必要が出てきたら、
自然と我慢する能力が上がるようにトレーニングが進んでいくでしょう。

学習は環境への必要性に応じて自然と起きていますから。

意識に上げられるようになれば、格段に楽になります。


ちなみに、僕が”無意識”という言葉を使わないようにする理由の1つが、
自分とは別物の”無意識”を深遠な働きをもったもののように捉えると
意識に上げる作業を妨げる可能性があるからです。

「自分には心の中に、まだ意識に上がっていない部分がある」
ぐらいの捉え方のほうがスムーズじゃないかと思います。

2013年11月12日

英語のアクセント色々

ちょっと調べ物をしていたら、ネットで発見した動画です。
英語の発音の違いを見せてくれています。

面白い。

こちら↓はイギリス英語の違いを中心に、色々な国を真似しているもの。


言葉の内容はヒドイですがアクセントの違いは良く感じ取れます。
とりわけ上流階級のもの(4番目)がお気に入りです。

僕にとっては12番目のアメリカン・アクセントが一番聞きやすいですから
今までの勉強がいかにアメリカ英語だったかを実感します。

秀逸なのは20番目の中国語アクセントの英語。
これは広東語訛りでしょうね。

以前に、インターナショナルスクールで育った中国人と会ったことがありますが、
本人の英語ペラペラ感と比べて、ものすごく聞き取りにくい発音で苦労したんです。
その理由が納得できました。

あれは広東語訛りの強さだったようです。
これとソックリです。
彼のほうが、もっと聞きにくかったですが。

そして、
是非とも聞いてもらいたいのが24番(最後のもの。6分55秒ぐらいから)。
ナイジェリアのアクセントです。

これがもう、ボビー・オロゴンそのままなんです。
モノマネかってぐらいに。

実際、ボビーはナイジェリア出身。
彼の日本語の特徴は、元々のナイジェリアのアクセントが出ているんでしょう。
面白いです。


同様の動画で、アメリカ各地の違いを示してくれているのが↓こちら。



本人の特徴が混ざっているんだと思いますが、
全体的にテンションは高めです。
皆が皆、こんなに元気のある感じではないでしょう。

とはいえ、違いは良く分かる。

聞いていて分かりやすいのは、やっぱり一番最初の標準的アメリカ英語です。
一方、日本語はもう少し平坦なものですから、
日本人英語として身につきやすいのは3番目のフィラデルフィア・アクセントかも。

7番の中西部アクセントは、ニュース番組みたいな雰囲気でしょうか。

面白いのは25番、イタリア風。
1つ目の動画のイギリス人もイタリアン・アクセントをやっていますが、
こっちのほうがステレオタイプなイタリア人の雰囲気があります。
というよりも、日本にいるイタリア人タレントに似ているだけの気もします…。

33番のアラブ系アクセントも似ている感じがします。
映画に登場するアラブの英語はあんな風に聞こえますから。
ただ、ベースとしての情報量が少ないので実際とは違うものかもしれません。

そのように感じられるのは、アジア系のクオリティ(27〜32)、
特に中国、韓国、日本のアクセントの質が低めに聞こえるからです。

日本語は特に、音節の構造が英語と根本的に違いますから
アメリカ人がアクセントを意識しながら真似しようとしても難しいのでしょう。

その上、僕にとって最も経験の量が多いのが日本語なので、
細かい違いにも気づきやすいんだと思われます。
だから日本語訛りの英語が全く似ていないように感じられるのだろう、と。

そう考えると、僕があまり詳しくないアラブ系なんかは
実際にアラビア語を話す人からすると
「似ていない」と感じられる可能性もありそうです。

でも、そういうのを抜きにした率直な感想として
34番のインド英語は楽しい。

学会なんかで見てきたインド人の英語でのプレゼンは
あんな感じの発音だったのを思い出します。


最後にNLPの観点から、こちらも紹介しておきます↓。


個人撮影のお楽しみ動画のようですので日常的な感じが強いですが、
英語の模倣へのコダワリは非常に強いように思えます。

特に、ステート(感情・状態)を再現する意気込みが高い。

プレゼンテーションとして参考にするというよりも、
ステートの入り込み方として見てみるのがオススメです。

3分30秒ぐらいまでは前置きですから、
そのあたりから見始めても充分かもしれません。

スピーチを再現し始めて数秒で
グッと入り込んでいくのが見て取れると思います。
途中、集中力が切れたり戻ったりするのも含めて
見てみると面白いんじゃないでしょうか。

なお、6分47秒あたりから、マーガレット・サッチャーに”なります”。

NLPの資格取得講座でも「モデリング」ということで
模倣して学びたい人物のやり方を体験する手法を扱いますが、
なかなか皆さん、ここまで”やりきれる”ものじゃありません。

なかなか楽しいお手本かと思います。

2013年11月11日

バランス調整

ここ最近、三半規管と視覚のバランスがズレてきている感じがします。

体で感じとる平衡感覚と視覚情報の平衡感覚が
あまり上手くマッチしていないのかもしれません。

妙にクラクラすることが多いようです。


渋谷の西口にバスターミナルがあって
そこに大きめの歩道橋があるんですが、
これがチョット揺れるんです。

揺れることは前から知っていました。

が、最近はその揺れが異常に大きく感じられます。

一緒に歩いている人に
「あ、地震じゃないですか?結構揺れてますね」
なんて言ったら、
「え?まぁ、この歩道橋はいつも少し揺れますよね」
と返ってきました。

僕としては震度3ぐらいじゃないかと思ったんですが。
心のどこかには
「ひょっとしてこれがp波だったら、大きいのが来るかもしれない…」
なんて警戒心も生まれていたぐらいだったんです。

でも一緒にいた人は大きな揺れとは感じていなかったようです。

他の2人に至っては、揺れそのものを感じていないほど。

僕だけ随分と過剰に揺れを気にしていたみたいです。


自分の呼吸にともなって視界が動くのが気になったりもしていますから
視覚的に揺れを大袈裟に感じ取っているのかもしれません。

体が揺れとして捉える度合い以上に
視覚が景色の変化を大きく捉えているとすると、
いわゆる「ビックリハウス」とか、遊園地のアトラクションとか
映像の変化で臨場感を生み出す装置を体験しているのと
似ているような感じもします。

”めまい”とか”立ちくらみ”などとは違うんです。

むしろ、初めてメガネをかけたときに似ているような感じ。
あるいは、メガネの度を強くしたときのような。


人間は、あくまで視覚情報と体感覚情報とを照らし合わせて
帳尻が合うように脳内で処理をしているだけだと考えられますから、
双方のバランスが崩れると不自然な感じになるんだと思われます。

視覚か平衡感覚のどちらか、あるいは両方が
少し変わってきているんでしょうか。

目が悪くなっているのか、左右バランスが変わってきているのか…。
倒れそうな感じは一切ないので、ただ視野が気持ち悪いだけ。

慣れれば大丈夫だろうと予想はしているんですが、
ちょっと気になっています。

cozyharada at 23:12|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | NLP
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【日時】 2017年4月23日(日)
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【場所】 滝野川会館
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    JR上中里駅より7分
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【日時】 9月15日(月・祝)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
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【場所】 滝野川会館
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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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