2013年12月

2013年12月31日

2013年もお世話になりました

一年を振り返ると、改めて色々なことがあったものだと実感します。

個人的には大きな視点の変化がありました。
なにやら集大成的な印象も、様々な場面で感じたものです。

特に、人をプログラムとして理解しようとする観点からは
 全てのプログラムが無くなったとしても
 自然と行動は生まれてくる
ということが実感できたのは大きかったと思います。

しかも、むしろプログラムが無くなったときに自然と生まれてくる行動こそ
もっともその人らしいものだというのも面白いところ。


どうしてもコミュニケーションや心理系の一般論からすると、
 「過去の体験から作られた自動反応的なプログラムが解決されたとき
  自分の振る舞いの拠り所が分からなくなる…だから、
  人生に意味づけをして使命感に基づいた価値観に気づくのが重要」
といった考えが強調されやすいようです。

でも、必ずしもそうではないようだ、と。
自動反応的なプログラムから解放されると、
自然と湧き上がってくるものがある。

もちろん、そうした行動や、その行動によって引き起こされる結果を
人生のストーリーとして意味づけしていくことは可能です。

「あのときに、ああしたから、今の自分がある」、
「こういう道筋を通ってきたことからすると、現在の自分はこんな位置だ」、
…とかです。

そういう意味づけをすることで気持ちが整理される部分はあると思います。

しかしながら、そういった意味づけはコロコロ入れ替わるものでしょう。
新たな経験をすると、別の見方をするようになって
現状の自分の位置に対して違った説明をするようになる。

まさに『人間万事、塞翁が馬』。

あるとき人生を振り返ってストーリーを描き、
「そうだ、これが自分の使命だ!」と現状に意味づけをする。
そして、その使命に沿って行動を始める。

その後、また様々な経験を重ねて、新たに大切なことを感じるようになる。

するとまた過去を振り返るわけです。
「そうだなぁ、あのときに一歩を踏み出したから紆余曲折があって、
 それでやっと今に至っている。
 今年のあの重要な経験は、数年前の一歩から始まっているんだなぁ。
 よし。これからは、このことを大切にして進んでいこう!」
なんて。


時間が経てば、経験が追加される。
経験が追加されると、人生のストーリーに新展開が生まれる。
ストーリーが進んだところまでで、あらすじが作られ、意味が見出される。

そうやって更新されていくのでしょう。

例えば、桃から桃太郎が生まれるまでのストーリーであれば、ポイントは
「おじいさんとおばあさんの元に桃から生まれた子供が授かった」こと。

犬、サル、キジを仲間にするところまでであれば、
「報酬で部下を統制する」というリーダーシップの物語かもしれません。

鬼退治をして宝物を持って帰ってくる話だから、
あの桃太郎の意味づけが生まれるわけです。

もし、帰ってきた桃太郎のその後の人生が描かれていたら…。
ひょっとしたら、宝物で生活が豊かになった桃太郎が大地主になって
一大農家として領地を広げていったかもしれません。
だとすると
「チャンスを活かしてチャレンジした結果、
 その後の大成功の基盤を築いた」
という意味づけになる可能性もあるでしょう。

先は読めません。

自分のストーリーは必ず、現時点までで作られます。

そのストーリーの意味づけによって進んでいくことも、
そんな意味づけをすることなく進んでいくことも、
どちらも可能だと思います。

好きにしたらいい。


それでもなぜか一年の終わりには、過去を振り返って
ストーリーを更新する作業が自然となされやすいような気がします。

多かれ少なかれ、何かしらのストーリー展開が
新たな意味づけを追加してくれるものじゃないでしょうか。

そして改めて次の一年に目を向ける。

自然と進んでいくストーリーを楽しみにしていると
翌一年の終わりの振り返りも「色々と変化があった」として
感慨深く思えてくるのかもしれません。

2014年には、どんなストーリーが追加されるのでしょう?

cozyharada at 23:29|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 心理学

2013年12月29日

脳は現実と想像の区別がつかない?

成功法則や「引き寄せの法則」や、一部のNLPの本などに
 「脳は現実と想像の区別がつかない」
といったような表現が見られることがあります。

想像したことや思い出したことでも、記憶の整理のされ方に影響しますから、
その意味では、現実に体験しなくても仮想体験から再学習が可能で、
それによってプログラムや条件づけを変えられる、とは言えます。

実際、NLPや心理療法の技法ではイメージを活用して
問題となるプログラムを変える方向に働きかけます。
現実に体験しなくても再学習できるわけです。

そのことをオーバーに述べた表現のつもりなのかもしれませんが、
いくらなんでも「脳は現実と想像の区別がつかない」なんていう言い回しは
矛盾を含み過ぎています。


そもそも、「脳は現実と想像の区別がつかない」と
日本語で言い表したり、それを文章として理解できたりするのですから、
「現実」と「想像」とを区別しているはずです。

「現実」や「想像」といった言葉を理解できるということは、
 それぞれの違いが実感できるから、両者を別の概念として区別できる
という意味です。

「自分」とか「自我」とか「私」とか、言い方は何でも構いませんが、
それを言っている本人は「現実」と「想像」の区別がついているんです。

だから、
「これは現実じゃない、想像上のイメージに過ぎない」
と分かった上で、
そのイメージを加工したり、イメージの仕方を工夫したりして
夢を引き寄せたり、プログラムを変えたりしようという発想になるんでしょう。

もし本人が「現実」と「想像」の区別がついていなかったら、
「夢が叶った場面をありありとイメージしてみましょう」
なんていう作業そのものができなくなってしまいます。

つまり、「自分」とか「自我」とか「私」とかいった本人の意識には
「現実」と「想像」の区別がつくにもかかわらず、
本人の脳には区別がつかない、と言っているわけです。

まるで、「自分」や「自我」や「私」という存在は
脳の活動と無関係であるかのように。

そんなことはないでしょう。

「自分がイメージする」という作業だって、脳の中で行われるんです。
「今からイメージするぞ」と考えて、実際にイメージする作業ができるんですから、
「これから見る映像は想像上のイメージだ」と分かっているはずです。
その活動は脳の中で起きているものです。

脳の中で「想像」と「現実」の区別がついていなかったら
「イメージする」という作業を実行できないことになります。

何かのやり方で区別がついているんです。
だから「想像上のイメージ」というものを理解したり、操作したりできる。

仮に「イメージする」という作業が、脳以外の場所から命令されていれば
「脳には区別できない」可能性も残るでしょうが、
そういうことは考えにくいと思います。


NLPでも一部の本には「リアリティ・ストラテジー」という概念が登場して、
これで「現実」と「想像」の区別をつけていると説明されます。

「これは現実の体験の内的表象」、「こっちは想像上の体験の内的表象」
というように、分類する方法がある、と。

具体的には、サブモダリティの違いで識別されます。

一般に、イメージとして思い浮かべるもののほうが
現実に見たり聞いたりするものよりも鮮明さが弱いはずです。

まさに”リアリティが低い”。

もし現実の体験と想像上の体験が、同じように頭の中で浮かんでいたら
両者の区別はつかなくなります。

これを「幻覚」と呼ぶんです。

いないはずの人が、実際に隣にいる人と同じような鮮明さで見えていたら、
その人が想像上のもの(つまり幻覚)だと思うでしょうか?

普通に話しかけて、一緒にいる人から
「え、誰と話しているの?」
なんて聞かれることになるでしょう。

幽霊が見えるという人だって、実際の人と幽霊とは違う映像で見えているはずです。
だから「幽霊」と呼んでいるんです。

街中で幽霊が、他の実際に歩いている人と同じような見え方をしていたら、
集団の中の一人として区別できないでしょう。
幽霊だとさえ思わず、単なる通行人の一人として認識されると思います。

「現実」と「想像」とを区別するのは、その見え方、聞こえ方のサブモダリティであって、
主に『鮮明さの度合い』で違いが認識されている、ということです。

そうやって「脳は現実と想像を区別している」わけです。


ちなみに僕は、誰か個人が本人の考えで何かを信じている場合には
それが間違っているかどうかは気にしません。

どこかで会った人が
「脳は現実と想像を区別できない」
と信じて、イメージワークをしていても気になりません。

ああ、そういう考えの人なんだ、と思うぐらい。

そう信じていようが、いなかろうが、やったときの効果は似たようなものですから。

ところが、これが何かを教える側の立場となると
社会的な影響を考慮したときだけ問題意識を持ちます。

言い換えると、僕自身がトレーナーという立場をとっているときには
他の講師やトレーナーが矛盾した情報を発しているのが気になる、ということ。

これは例えば、
”お馬鹿タレント”として有名な鈴木奈々が
掛け算の九九を間違って覚えていても、それをとやかく言わないのと一緒です。

テレビで、「7×5=40」と自信満々に言っているのを見ても
それに対して良いとも悪いとも思わない。

ところが、小学校や塾の先生が
「7×5は40ですよ。”しちごしじゅう”って覚えるんですよ。」
と言っていたら、その後の影響を考えて
「いやいや、チョット、そういうのを教えてはマズイんじゃない?」
と思う。

そういう感じです。


インパクトのある言い回しにしたいのか、
効果の部分だけに注目しているのか、
どういう意図をもって
「脳は現実と想像を区別できない」
と表現したのかは分かりませんが、
その言い方そのものの理解だと矛盾があります。

良いか悪いかではなく、ただ矛盾がある。

それでも信じるか、信じないかは、あなた次第です。




《ご案内》
1月12日(日) 10:00〜17:00
セミナー 『変化を促す対話の技術』


  詳しくはこちら>>

2013年12月27日

海外ドラマに学ぶ

海外のドラマや映画を見ていると、
英語にも状況別に”相応しい”表現があるのが見て取れます。


大統領と話すときには、やっぱり丁寧な英語になっているようですし、
街中の若者同士の会話となると、かなりの省略が見られたり
教科書や本には出てこないような日常単語が沢山見つかったりします。

「日本語では主語が省略されるけれど、英語では省略されない」
といった意見についても、日常会話では一概に言えないようです。
英語でも主語が省略されるケースが結構見てとれますから。

日本語は助詞の働きによって語尾が活用するため
主語を省略しても意味合いを察しやすいと感じますが、
英語で主語を省略されると、察するためのヒントは文脈とイントネーションとなって
一瞬、理解がストップするような感じを受けてしまいます。

省略されるのは一人称が多いようで、二人称が省略された命令文と区別しにくい。
まさに話の流れが重要になるところでしょう。

日本人の英語学習者からすると丁寧な英語のほうが分かりやすそうです。


海外ドラマで僕が欠かさずに見ているのは『メンタリスト』ぐらいなものですが、
これは刑事モノのため色々な場面が登場して、それもまた面白いところ。

カリフォルニア州が舞台とはいえ、州全体の各地が舞台になりますから
都市部から田舎まで景色も人も言葉も様々です。

コミュニケーションの観点では、メンタリズムが面白いのは当然として、
事件の後に被害者家族の元へ訪れるあたりは英語学習として役立ちます。

社会人としての礼節を表現するための言い回しや
気遣いを表すための非言語なども勉強になるんです。

もしかすると、英会話教室でやっている「ビジネス英語」を習うと
このあたりの礼儀正しい表現も教わるのかもしれませんが、
リアリティの高い演技で見られると得るものも多いように思えます。


そして文化的な違いとして勉強になるのは、英語という言語だけではありません。
風習やマナーなどの違いも見て取れます。

例えば、ノックの仕方。

日本人は「コン、コン」と二回ノックをする人が多いと思います。
僕などは、それ以外のノックをしたことさえありません。

手の形も、手の平側を顔のほうに向けるようにしてノックするんじゃないでしょうか。

アメリカのドラマを見ていると、手の向きは逆です。
手の甲側が顔に向いている。

手の平で「ポン、ポン」と叩くような動作を、手を握ってやる。
そうすると、指の第二関節がドアに当たって「ゴン、ゴン」と音を出す。
逆なんです。
音も強くて大きめ。

もしかすると日本人でもこっちのノックの仕方をする人もいるかもしれませんが、
僕はいつの間にか、手に平を顔に向けて
手の甲側でドアを叩く方法を見につけていました。

さらに、回数にも違いがあります。

2回は少ない。
3回か4回が主流のようです。
「コ、コ、コン」あるいは「コ、コ、コ、コン」と。

時には「コ、コ、コ、コ、コ、コン」と6回ぐらいのことも。

テンポが早めです。
1.5倍ぐらい早い気がします。

日本で「コン、コン」と二回ノックする間に、
海外ドラマだと「コ、コ、コン」と三回ノックする感じ。

チョットせっかちな感じがしてしまいますが、それが主流なんでしょう。


なんでもマナーとして、2回のノックはトイレのときで、
それ以外は3回以上するのが一般的だとされているんだとか。

僕は知りませんでしたが、日本でもマナー講座なんかだと
ノックを3回するように指導するところがあるそうです。

回数が多いと、どうも高圧的な印象を与えるんじゃないかと思ってしまいますが
そういうマナーがあると言われたら仕方ありません。

ただ、手の甲を自分の顔に向けるように握り込んで
スナップを利かせてノックすると、意外と回数を多くやるのも負担ではありません。
強さやスピードは、こっちのほうが操作しやすい気がします。

…と書きながら何度も練習していたら、もうすっかり
3回でも4回でも気にならなくなってしまいました。

まぁ、ノックする機会なんてさほど多くありませんから
僕の中では習慣化するほど体験の量が多くなかったということでしょう。

2013年12月25日

【セミナー】変化を促す対話の技術

ご案内: 1月12日(日)開催

 カウンセリング講座・実用編
 《変化を促す対話の技術》



2014年最初の講座はコーチング的な内容です。

新年で目標を意識する方もいるでしょうし、
何かしら区切りのタイミングで先の方向性を考えてみるのも良いものでしょう。

とはいえ、目標設定の方法をお伝えするようなセミナーではありません。

目標に向けて何が必要とされるかを明確にして、
そのための課題に取り組むための講座です。

ですから、変化の技術も扱うことになります。

世間一般で「いい」とされることを参考にしながら目標を作り上げたり、
それに向けて闇雲に進んでいったりするような方針ではありません。

,匹Δ覆蠅燭いを吟味して、
△修諒向に無理なく進むための課題を特定し、
その課題解決のための取り組みをする。

…そういう流れです。

このプロセスを体験的に実感しながら、
同時に他者のサポートする技術としても練習します。


コーチングという手法に人気がある理由には…
・困っている人が対象ではなく、目標に向かう人が対象
・会社内の人間関係など、日常的な内容に対しても使いやすい
・「コーチング」という名称のイメージが想像しやすい
・その分野の専門知識が無くてもサポートできる
など、色々な側面があるでしょう。

中でも、とりわけ重要だと考えられるのが
「作業が会話で行われる」
ということ。

話を聞いて、質問をして、会話を進めていくうちに
クライアント(プレイヤー)が自ら答えを見つける
…といった印象がコーチングの典型だと思われます。

これは「傾聴」という技法に人気があるのと共通する部分じゃないでしょうか。
会話だけで成立する、という。

これが心理療法となると、いわゆる「ワーク」だとか「技法」を使いますから、
多少なりとも特別な感じが出てくるはずです。

”催眠療法”なんて言われると怪しげな印象を持つ人もいるでしょうし、
半分眠ったような状態になるとしたら場所だって選びます。

NLPや家族療法の技法はバリエーションが豊富ですが、
椅子を使ったり、部屋を移動しながらイメージワークをしたりと
気軽な感じには捉えられないこともあるようです。

実際には、そうした特別な設定ゆえの効果の高さがありますが、
「とっつきやすさ」や「日常性」となると、少し敷居が高いこともあるといえます。

少なくとも、カウンセリングや心理療法を仕事として請け負うのでなければ、
なかなか使う場所が無いと感じる人もいることでしょう。

コーチングの流派の中にも、そうした技法を使うものがあるようですが
多くのコーチングのスタイルは会話中心のようです。

そして、その会話中心のスタイルが日常的な雰囲気を生み出し、
あたかも自然な話し合いの延長線上でサポートが可能になる
という「使いやすさ」の印象を生み出していると考えられます。

つまり、
・NLPや心理療法の技法は非日常的だが一回の効果が高い
・会話中心(コーチング)の方法は日常的で使いやすい
という特長の違いがある、ということです。

例えば、コンサルタント、上司、教師、講師業、ボディワーカーなど
何かしらの指導に関わる人であれば、
会話を通じたサポートも並行して進められる。
ここに会話中心の技法のメリットがあるといえるでしょう。

日常的に活かしやすい方法なわけです。


念のため、カウンセリング講座で扱っていた内容との対比をしておくと、
カウンセリングがニーズと課題の絞り込みまでを対象にしていたのに対して、
今回の内容では、「課題解決」と「変化のサポート」までが対象となります。

繰り返しますが、
・どうなりたいかを吟味して、
・その方向に無理なく進むための課題を特定し、
・その課題解決のための取り組みをする、
という流れです。

そして、
その「課題解決」と「変化のサポート」を会話中心で行う。

カウンセリングではありませんから、「ねぎらい」や「力づけ」は含みません。
合わせると効果的なのは言うまでもないことですが、
内容の組み立てとして、今回の講座では扱わないことにします。

課題の絞り込み方法や、変化の技法などでは
いくつかのバリエーションを紹介するつもりです。

使い勝手の良さそうな流れを見つけていただけると
日常で活かしてもらえるのではないかと期待しています。


最後に。
注意事項というわけではありませんが、
あまり一般的なコーチングのスタイルではないかもしれません。

「私の知っているコーチングとは全然違う」
「こんなのがコーチングなんですか?」
といった印象を持つ可能性も否定できません。

「コーチング的な内容」ということでご了承ください。

逆にいえば、典型的なコーチングにも役立つだろうと考えています。

『変化を促す対話の技術』の講座です。

ご興味とご都合が合いましたら、どうぞお越しください。



◆今回の講座で得られるもの

●目標の前提となるニーズ把握のポイント

●どうなりたいかを吟味する方法

●無理のかからない範囲での課題設定法

●課題に対する取り組みの引き出し方

●課題にとって必要な変化の絞り込み

●変化を促す会話の流れのバリエーション



◆録音・録画に関しまして

個人的なご使用でしたら、録音や録画はご自由にどうぞ。
復習にご利用いただくのも良いかと思います。

特に今回は会話のパターンを練習します。
会話は進んでいくにつれて思い出すのが困難になるものです。
録音・録画したものを振り返ると得られるものが多いはずです。




講座の詳細は以下の通りです。



【セミナーの詳細】

≪カウンセリング講座・実用編≫
〜変化を促す対話の技術〜

 (併設:『ホンネを引き出すカウンセリング』講座・実践練習)

【日時】  12月23日(月・祝)
     《日中:『変化を促す対話の技術』》  10:00〜17:00

     《夜間:カウンセリング講座:実践練習》  18:30〜21:30
 

       ※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。
       ★申し込みフォームに、ご希望の時間帯(日中/夜間)をご記入ください。


【場所】 滝野川会館 304集会室
    (JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
    (東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
    (JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)

【参加費】 
      《日中:『変化を促す対話の技術』》 ・・・15,000円 
      《夜間:カウンセリング講座:実践練習》 ・・・5,000円

       ★日中の講座にご参加の方は、無料で夜間の実践練習へご参加頂けます

       当日、会場にてお支払いください。


    ★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
     ご了承ください。




終了しました

自分自身を振り返ってみて、
様々な会話が助けになったものだと感じます。

時には、ある人の一言が支えになり、
ふとした言葉が考え方を大きく変えたこともありました。

また、色々と話をするうちに自分の考えがまとまったことも、
質問によってモヤモヤしていたものがクリアになったことも、
ただ聞いてくれているだけで気持ちがスッキリしたことも、
様々な会話が自分に影響を与えていたと思います。

ただのオウム返しが役に立つ場合もあれば、
黙って向き合ってくれることのほうが大事だった場合もあります。
質問や活発な意見交換が役に立ったこともあります。

…もちろん、余計な質問をされて頭の中がグチャグチャになったり、
逃げ場のない正論の一言で苦しさが倍増したりしたことも。


会話で届けられるメッセージは全て、
相手に影響を与えるものなんです。

時には気づきを促し、時には傷つけることもある。

時には一言で癒され、時には一言で嫌気がさす。

時には話すだけで力をもらい、時には話すだけで疲れをもらう。

時には些細な会話で一息ついて、時には些細な会話で溜め息をつく。

メッセージの持つ影響を自覚するほど会話に慎重になって、
人と接するのが怖くなることもあるかもしれません。

ですが、悩むのと迷うのは別物です。

その関係性のために最善を尽くそうとすれば迷うのは当然です。
迷うのは、それだけの選択肢が思いつくからです。

コミュニケーションの技術を学べば、選択肢が増え、迷いも生まれます。
でも、それで良いんじゃないでしょうか。
いや、それこそが良いのかもしれません。

思いつきで言葉を発するのではなく、
相手に合わせて、状況に合わせて、技術として言葉を選ぶ。

大変なことだと思います。
そんなことをやろうという人は少数派でしょう。

一瞬のコミュニケーションに最善を尽くそうという人が
その大変な道に足を踏み入れるようです。

今回の講座で迷いが少し減るかもしれません。
逆に迷いが増える部分もあるかもしれません。

そういうもののような気がします。

ただ、最善を尽くせる可能性だけは上がるはずです。

お越しをお待ちしています。

2013年12月23日

繋がりから浮かび上がること

Facebook をやってみて半年ほど。
様々な方の活動の様子を垣間見ることができます。

僕の場合、コミュニケーションやNLPといった範囲での知り合いがほとんど。

どこかのセミナーで会った人とか、学生時代の友人とか、
会社員時代の同僚とか、そういう知り合いは Facebook で関わっていません。

別に意図して限定しているわけではないものの、
今のところ、そういうお知り合いが中心です。

これから年末年始に向けて年賀状を書き始めたりすると、
学生時代や会社員だったときの知り合いが思い出されることでしょう。
そして近況を知って懐かしくなったりするんだと思います。

こうした元々の接点を思い返していくと
自分の通ってきた道を懐かしく感じるとともに、
人それぞれの生き方のバリエーションを再認識させられるようです。


おそらく、僕の場合、ある期間の行動パターンが絞られているんでしょう。
色々なことを手広くやっている、という感じではないと思います。

例えば、趣味や遊びや習い事、近所づきあい、仕事関係etc.のように
日々の生活が様々な局面を持っていると、それぞれの場面において
人間関係も広がりが出てくると考えられます。

それぞれの知り合いの日々の報告も様々で
知人の意外な一面や近況報告を楽しむことになるのだろうと想像されます。

もちろん、僕も Facebook で近況報告を楽しんでいるときはあります。

その一方で、僕の仕事の性質上、出会った方々に関して
僕は結構な情報量を得ていることが多いため、
”意外な一面”という印象を受けることは少ない感じがします。

むしろ、会って話をしているときの延長上の雰囲気です。

Facebook の記事が仕事関係の話題中心になっている方も沢山いますから
「ああ、お話していた通り、お仕事に熱心だなぁ」と思うこともしばしば。

同業種(セミナー講師やトレーナーなど)の知り合いともなれば
書きこまれる内容の多くは僕にとって関連度の大きい
”専門分野”のような話題にも感じられます。
やはり、会って話をしても、こういう専門的な話が多い気がします。

僕とは別の専門分野の知り合いが、その分野の話題に触れているときでも
学んだ内容を元にした視点で意見を書いていたりすると、
ここでもなんとなく、会っているときの延長上といった雰囲気を受けます。

そのことが別に嬉しいとか残念だとかいうことではありません。

ただ、僕にとってFacebook 上の繋がりが
現状の仕事関係と密に関連していて、日常と近い感じがする
という話です。


これがもし、例えば僕が趣味で釣りをやっているとして、
その釣り仲間とFacebook 上でも知り合いになっているとしたら、
その人たちの書き込みには、僕の知らない世界が
もっと沢山あらわれていたのではないか?…とも思えます。

つまり、今の僕とは接点の少ない世界をメインとする人たちと
趣味という限定された場面で知り合いになっていたのであれば、
趣味以外のメインの世界の話題は僕にとって相当に新鮮だろう、と。

トピックスのみならず、考え方なんかにも新鮮さを感じると想像されます。

逆に、僕にとってのメインの話題は、そういう趣味での知人にとっては
全く関心がないというか、むしろ理解しがたいものと捉えられるのではないか…
といった空想までしてしまいます。

僕のFacebook は、現状の知り合い関係だからこそ
気軽に書けている内容があるともいえるかもしれません。

ですから、仮に幼馴染みや学生時代の友人、会社員時代の同僚などと
Facebook で繋がっていたとしたら、もっと気にすることが増えていたと思います。


会社員のときでも研究職でしたから、狭い世界に深入りする傾向があるんでしょう。

研究職のままFacebook を使うことになっていたとしても、やっぱり同じように
研究生活と関係するような記事が多くなっていただろうとしか思えません。
他に趣味で書くことなんて無かったでしょうから。

Facebook をやってから、
 いかに自分が、狭い世界にドップリというスタイルなのか
と改めて感じました。

そして、1つの狭い世界から、大きく違った別の狭い世界へと
転々と変えながら生活してきたんだ、とも。

年賀状では、Facebook では繋がっていない過去の知り合いとも連絡を取ります。
まさに別の場面に身を移したことを感じる瞬間でもあります。
(もっと正確には、「どこにも完全には属さない」という感じですが)

今の自分と密な関わりではなくなった以前の知り合いの近況を耳にすると
自分が違う世界に移ったことを実感します。

もちろん、僕の知り合いにも変化の多い生き方をしている人はいますから、
実際には知り合い達と比べているのではないのでしょう。

「当初想定していたもう一人の自分」と比べているのかもしれません。

あのとき、あのまま進んでいたら…。
そういう別の可能性の自分を想起させられる気がします。

「そうか、今、あの人はこういうことをしているんだ。
…だとしたら、もし自分がそのままあっちにいたら、きっと――」
といった想像がよぎります。

他人が羨ましいという印象はありませんが、
そっちのもう1つの可能性としての自分に対して
若干の羨ましさというか未練というか、そんな小さな心残りがあるみたいです。

年賀状の季節になると、その小さな部分が呼び起こされるようです。

ま、僕の近況がどうなっていようが、
他人からすると「へぇー、そうなんだ」ぐらいなもので、
僕が気にするほどは関心が無いものだろうとは思いますが。

2013年12月20日

究極のトイレを目指して

海外から日本に来て、日本の企業で働いている外国人と話すと
その就業体系の違いが話題になることが多いようです。
(といっても英語圏の人ばかりですが)

終身雇用が期待されていて、仕事を人生の大部分とし、
残業が普通にあって、密接な人間関係を築こうとする。

忘年会なんていうのも不思議に感じられる習慣なんだとか。

他の国では「職を得る」という意味で「 job 」を「 get 」しますから
まさに「就職」という言葉が合うようですが、
日本の場合は「会社に所属する」という意味合いのほうが強く
「就社」と表現したほうが適切なケースさえあるでしょう。

長年会社に勤めていると、仕事の内容も部署も転々とする
といった話は日本ではよく耳にします。

実際、僕が以前に勤めていた会社でも、研究職として採用されて
その後、製造部門に行ったり、営業に行ったり、知財に行ったりと
「職種」は平気でコロコロ変わっていくものでした。

人間関係にしても、日本のほうが家族的な繋がりを求める傾向が強いようです。
社長が父親のような立場となり、社員は子供として家族のために働く。

だから社員旅行なんていうのがあるんだろう、
とアメリカ人の知り合いが言っていました。
彼はそういう関係が嫌だったそうです。


もちろん、日本でもIT系を中心に
若い世代が集まって作られたベンチャー企業などもあるでしょう。

プロジェクト単位でチームを作って仕事に取り組み、それぞれのメンバーは
他にも様々な関係を持つ独立した存在になるという形なども。

自由度が高く、新しいアイデアを出すことでビジネスを生み出していくようです。

既存の枠組みにとらわれず、仕組みから新しい価値を生み出して
そこからビジネスを作っていくというスタイルは最近の主流のようにも思えます。

しかし、その一方で終身雇用の古い日本型企業だからこそ
生み出されてきたものもあるんじゃないかと思うんです。

例えば、トイレやお風呂、マッサージ機などです。

ウォシュレットが作られたのは大発明だといえるはずですが、
その後のトイレの進歩は改善の繰り返しだと考えられます。

最新のお風呂についた機能は目を見張るものがあるそうですし、
マッサージ機のこだわりなんて凄まじいものです。

いずれも「何もそこまで…」といったレベルまで機能が上がっています。

トイレのフタが自動で開いたり、水が勝手に流れたり、
ウォシュレットの水流を絶妙に調整したり、
洗浄効果の高い水を自動で作って散布したり…。

そこまでトイレの機能を改善させる文化は他に無いのでは?と感じます。

マッサージ機だってそうです。
何十万円もするような超高性能機種が沢山あります。

その値段を腕の良い整体師に払えば、根本的に体の負担を軽減できるのに
わざわざ高額のマッサージ機を買う人がいるんです。

こうした技術の発展は、その商品に全力を注ぎ続ける企業のおかげでしょう。

その企業で働き続ける人たちは、とにかく新商品を作らないといけない。
かといってトイレやマッサージ機に抜本的な改革を起こすのも大変。
新たなビジネスモデルを提案するというよりも、
既存の主力商品を改善し続けることでビジネスを続けるスタンスになる、と。

そこで働く人も終身雇用のため、その商品に全力を注ぎ続け、
技術は弟子のような関係性の新入社員へと引き継がれていく。

外国とは違ったスタイルの日本企業と就職が、
こうした妥協なき改善を可能にしているところもあるんじゃないかと思えます。

終身雇用には弊害があるという意見も耳にします。
しかしながら、日本のトイレは世界一だという話も有名なところ。

こだわりをもって、ひたすら技術を研鑽していくのが好きな僕としては
地道な積み重ねが引き継がれていく文化にも思い入れがあるようです。

「そこまでしなくてもいい」
でも、それに全力を注ぐ。
この美学はカッコイイと思うんです。

cozyharada at 23:16|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!心理学 | NLP

2013年12月18日

超弦理論が分からない

何年ぶりか分かりませんが、「ブルーバックス」の本を読みました。

理工系の一般書・雑学書として、
理系の高校生や理科の先生なんかに人気のあるシリーズ。

僕もたまに読んでいた記憶があります。

とはいえ、縦書きの日本語を中心に、数式を排除しながら解説するスタイルは
ある程度の専門知識がある場合には、逆に分かりにくかったりもします。
よほど専門書や、専門書の簡単なヤツを読んだほうが分かりやすい。

ということで、さほど僕はハマったほうではないと思います。


が、僕は数学に苦手意識があるので
物理や数学の専門書を読むのには抵抗があります。

もっと高校と大学一年のときに、沢山練習をしておけば…。

いや、高校はそれでも物理・数学ともに成績が良かった覚えがありますし、
内容も楽しみながら聞けていたと思いますから、そうすると
どうやら大学1,2年のときが問題だったんでしょう。

予習・復習なんてしてなかったし、
授業中も寝ているか似顔絵を描いているかでしたから。

とりわけ、一年のときの微分・積分学の講師がヒドかった。
9割が「不可」になって、翌年に再履修をしていたほど。

大学一年生に理解できるはずのない自分の専門分野の内容ばかり。

あのときにハッキリと数学を諦めた記憶があります。

多分、もう少し丁寧に時間をかけて式を追いかければ
今のほうが理解できるんじゃないかと感じます。

そんな若干の悔しさもあって、なんとなく物理系のことを知りたくなりました。


で、読んだ本がこちら。



超弦理論の入門書です。

この分野の研究者がアウトリーチとして書いていて、
歴史的な研究の流れから説明してくれているので”読みやすい”と思います。


ですが、僕には分かりませんでした。

多分、もうチョット数学を使いながら説明してくれたほうが分かりやすい気がします。

数式から導かれる結論の部分が日本語だけで解説されるので
どうしても論理的に飛躍するところが沢山でてきます。

流れを追いかけて、法則の解釈を表面的に”知る”だけであれば充分なんでしょうが
僕には”分かった”という実感は一切ありませんでした。

頑張って数式を追いかけて、その解釈を解説してもらったほうが分かりやすい。
式変形は難しい数学だと思うので、そこは排除してもらうとしても
何をどのように解釈した結論なのかまで省略されると、
僕にとっては「分かる」という実感に辿り着けません。

特に、
 6次元のカラビ-ヤウ空間を使うと
 超弦理論が成立する9次元空間を3次元にコンパクト化できる
なんていうくだりは、全く分かりませんでした。

複雑すぎて省略した部分なんだと思いますが
かなりキモになるところだと感じたので少し残念。

9次元空間を物理学者がどのように捉えているのか?
それが3次元にコンパクト化されるというのは、どんな感じなのか?
…この辺りの「頭の中の理解の仕方」を知りたいものです。

僕は映像的にイメージを動かして論理展開の辻褄が合ったときに
「分かった」という実感を得る傾向が強いので、
「9次元が3次元にコンパクト化される」イメージが得られないと
分かったという気持ちにはなれないようです。

物理学者や数学者は、どういう状態を「分かった」と呼んでいるんでしょうか?

僕の興味は、そっちにも向いています。

少なくとも、前提知識なしでこのブルーバックスを読んで
「なるほど、超弦理論っていうのはそういうものか。”分かった”ぞ」
というニュアンスで「分かった」を使う人とは全く別の「分かった」だと思うんです。

今までの僕の経験では、数学や物理に関して
「問題を解けた」という「できた」の感じは体験したことがありますし、
「正解の解き方を見つけられた」という”分かった”の体験もありますが、
それとは違う「分かった」なんじゃないかと思えてなりません。

専門書を読んでみたら、少しは近づけるんでしょうか。

2013年12月16日

数学が難しい

歴史上、天才と呼ばれる人は沢山いますが、
僕にとって数学の天才は別格な印象があります。

芸術やスポーツ、ゲーム、学問…
分野は違えど、色々なところに天才と呼ばれる人たちがいます。

その中でも、全くといっていいほど想像がつかないのが数学者なんです。

ただ僕が数学を苦手なだけかもしれません。
でも、スポーツだったりすると、決してスポーツが得意ではないとしても
全く想像がつかないほどではありません。

具体的に見て取れるものとして想像できる範囲があります。
できるかどうかとは関係なく、直観的に凄さを想像できる。

表現を変えると、
 超一流の職人と、その分野の天才との境目が分からない
という感じ。

例えば「天才陶芸家」だとしたら、一流陶芸家の先にいる印象があります。

イチローが天才バッターだとしても、順番に並べていける感じがするんです。

小学校で野球を始めたばかりの子供から上手い順番に並べていって
高校野球とか日本のプロ野球とかメジャーリーガーとか、
バッティング技術に沿ってズラーッとランキングが完成したとき、
さほど隙間なく人が配置できるように思える。

仮にバッティング技術を数値化できるとして、
イチローが初心者の1万倍上手いとしたら、
初心者の技術は1、イチローは10000と表現できます。

この数値評価において、全野球人口を調べていったときに
1から10000まで、該当者が普通にいるんじゃないか、ということです。

「普通」というのは、正規分布になっている、と。

確かにイチローは何億人のうちのトップ100ぐらいに入りそうですが、
それでも分布図の右端にいて、その分布図は釣り鐘型になっている気がします。

連続した分布の延長上にいるというのは、そんな印象です。

ですから、全体の何%にいるかで「平均」、「二流」、「一流」、「超一流」、「天才」
といった感じの分類になるんじゃないかと思えるんです。

グラデーションになっている感じ。


ところが数学となると、これがグラデーションにならないような印象を受けるんです。
綺麗な釣り鐘型の正規分布にならない。

どこかに切れ目があるというか。

数学レベルも1から10000までに表したとき、
大学受験の模試で全国一位になるようなのも含めて500以下に集まって
1000を超えるような人が稀に表れて数学者として活躍する…
といったイメージ。

数学者以外の分布と、数学者の分布に開きがありそうな気がします。

実際はどうなのか知りません。
野球と同じような分布になっている可能性もあるかもしれません。

とにかく、数学の天才には、僕の想像が及びません。

数学者というだけで別格な感じがありますから、
その数学者の中で天才と呼ばれるような人は
たぶん、トンデモナイことなんでしょう。

オイラーの等式で有名なレオンハルト・オイラーなんて
もうチンプンカンプンです。

スゴイのかどうかも分かりません。

オイラーが残した
 1+2+3+4+5+6+7+…= -1/12
という式なんて、意味が掴めません。

1から順番に数字を無限に足していったら、マイナスの値になる?
1+2+3+4+…って足し続けていくと、-0.083ぐらいになるというんです。
1よりも小さくなってしまう。

こういうのを扱える天才というのは
一流とか超一流とか、そんな表現では当てはまらない感じがします。

だから数学の天才は別格な気がするんです。

cozyharada at 23:27|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 心理学

2013年12月14日

チーズは動くか?

以前に『チーズはどこへ消えた?』という本が流行りました。

原題は『 Who Moved My Cheese? 』だそうです。
直訳するなら「私のチーズを誰が動かした?」。

英語のタイトルには
「誰かが自分のチーズを、どこかへやってしまった。
 いったい誰がやったんだ?」
というニュアンスがあるように感じられます。

言語的に英語のほうが主語を明確にするとかいった話以外にも、
「状況を説明する際に、どこに注目するか」に違いがあるんでしょう。

自分のチーズを置いておいた。
気づいたら、その場所にチーズがない。
…この状況に対して、どういう感想を持つか?ということです。


日本人の場合、
「あれ、チーズがな無くなっている。どこへ行ったんだ?」
とチーズに焦点を当てて、状況を述べやすい。

「あ、チーズがない。誰が取ったんだ?」と
取ったであろう誰かの責任を思い浮かべる人は少ないんじゃないでしょうか。

もちろん、冷蔵庫の中のプリンが無くなっていて
同居している家族がいるのであれば
「あ、取られた!」と考えるかもしれませんが、
それでも「あれ、どこに置いたかな?」と
自分の記憶を疑う人も多いと思われます。

一方、英語(もしくはアメリカ)の場合、
「あれ、チーズが無くなっている。誰がやったんだ?」
という発想が出やすいのでしょう。

「誰が取った?」と考えるか、
「誰が別の場所に動かしたんだ?」と考えるかは
個人差がありそうですが、それでも人に注意が向くようです。

そっちの発想のほうが一般的だから、
「誰が私のチーズを動かしたんだ?」
というタイトルにしたと想像されます。

『 Where has my cheese gone? 』ではないんです。
これだとチーズが自分で勝手に動いていったイメージなんでしょう。

チーズがなくなるには誰かが関わっている。
その人に注意が向くという話です。

それが日本の場合、
「あれ、チーズはどこにいったんだ?」
とチーズに注意が向く。

英語のほうが言語的に
 動作の主体と、その主体がどのような影響を及ぼすか
へ注目しやすい特徴もあると考えられます。

おそらく、例えば「会社の業績が上がった」といった話でも
日本語なら「山田さんが社長になってから業績が上がった」と言い、
英語だと「新しく社長になった山田さんが業績を上げた」と
言いやすいんじゃないかと推測されます。

英語の他動詞は、まさにそういう影響を説明する単語だといえます。
勝手に何かが変わるのではなく、何かが変えているという発想。

言い換えると、日本人のほうが状況全体を捉えるのに対して、
英語圏の人のほうが影響の方向性を捉えやすい、となります。

実際、写真を見せたときにも英語圏の人のほうが
その中で目立つ、動く(はずの)モノに注目して、
日本人のほうが全体を眺めるという心理学の実験があります。

言語と関係した注意の向け方の違いが責任の所在意識に関連して、
それが本のタイトルのニュアンスにも関係したということなんでしょう。


ちなみに、人の責任をハッキリさせる傾向も
アメリカのほうが強そうな印象がありますが
(裁判の多さ、議論やケンカの傾向などを含めて)、
そちらは必ずしも言語とばかり関係していないようにも思えます。

失敗に対しては、日本人も相当に責任意識が強いようですから。

仮に花瓶を落っことして割ってしまったとしたら
「すみません。私が割りました。」
と言うのは自然だと思います。

ロシア人のステレオタイプでは
「花瓶が落ちて割れました。」
と表現するんだとか。

こちらは文化的な影響が関係していそうです。

cozyharada at 20:14|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!心理学 | NLP

2013年12月12日

変な場所に



《お知らせ》

1月は12日(日)にセミナーを予定しています。

もう1日ぐらいと考えていますが、少し予定が立ちにくい状況。
19日(日)にして、二週続けての開催とするかもしれません。

内容は、やや言葉を使った技法寄りで想定中です。
年始ですからコーチングっぽいのも良いかもという気がしています。

決まり次第、ご案内を載せます。




どうもここのところ、注意が頭に集まっている感じがします。

頭を遣う作業が多いので仕方ないとも思いますが、
とはいえバランスが悪く感じられます。

もっと体の裏側と下半身まで注意を向けたいところです。

それと関連しているのかどうか、変な頭痛があるのが気になります。
あまり経験したことのないタイプの痛みなので気になるんでしょう。

頭頂部、ホンの少し右側。
かなり頭皮に近い部位ですが、それでも表面ではありません。

局所的に若干ヒリヒリするような痛みなんです。
偏頭痛で出てくる痛みとは質も場所も違う。

とりあえず注意深く様子を見てみるつもりです。

おしらせ
 ◆ セミナー情報 

New!

《カウンセリング講座》
〜セルフイメージの整え方〜


【日時】 2017年4月23日(日)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    303集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分


詳細はこちら>>
次回開催は6月の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

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次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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