2014年01月

2014年01月30日

ちょっとイイ話をする会

最近、ちょっと計画していることがあります。

そろそろ本質的な内容に整理をしていっても良いかなぁ、と。


いきなり精神論の良い話で心構えを学び、
その心構えに沿って一生懸命に自律するのも1つの方向性ですが、
ともすると机上の空論になりかねない場合もあるように感じます。

あるいは、1つの考えにハマり込んで視野が狭くなり
逆に苦しくなっていってしまうようなケースや、
自分に嘘をつき、自分の受け入れられない部分を隠しながら
無理をして人と関わっていったりするケースもあるように見受けられます。

その点、変化のための技術やメカニズムの理解から入っていって
実際に自分で変化を起こす体験を繰り返していくと、
体験的に重要なことが掴めてくるのでしょう。

さらにカウンセリングによってニーズを把握して本題を絞り込めるようになると
「どういう考え方の傾向を持っている人に、どういう方法論が好まれるか」
も分かってくるようです。

そうなると、精神論や心構え、シンプルな理解の仕方に触れたときに
その中身を鵜呑みにせずに、深く洞察できるようになります。

「その話はこういうことだろうか?」と照らし合わせる実体験が豊富なんです。

ありがたい心構えを聞いて、それを自分なりに実践していく…のではなく、
話を聞いた段階で、
「あぁ、この話か。なるほど、それは上手く言い表しているなぁ。」
と納得できるわけです。

ポイントは、経験的には持っているという部分です。

経験していて、ことの重要性にも気づいている。
ただ、言葉として整理されていないから、自分のスタンスとして
自信を持って前に進めるものとまではなっていない。

そういうときに話を聞くと「あぁ、なるほど」と納得するんです。
新しく知るわけではありません。
知っていたことを整理し直してもらうだけ。

有意義なプロセスだと思います。


また、似たような進み方をしている人の中では
他の人の話を聞いておくことで安心できる場合もあります。

事前に注意をしておくこともできます。

体験や考えのシェアが大きな効果を発揮するのは
この辺りのタイミングなのではないでしょうか?

必ずしも自分の考えを正しいこととして固執しないでいられる。
お互いの体験や考えを尊重できるような状態。
否定するのではなく、別の可能性を示唆できるような。

相手を説得してやろうとかいうことではありません。

そのようなコミュニケーションの技術を磨き、かつ
自分自身と向き合ってきた経験から自他の違いを尊重できるようだと、
『話をする』というシンプルな作業が大きな効果を発揮する気がします。

それは一人で考えていても得られないものです。
お互いにインスパイアされる。

そういう場が役に立ちそうな人がいるように感じています。


ということで、座談会ではありませんが
会話を通じた交流そのものを役立てる機会を作ってみようかという話です。

理想的には、起きているコミュニケーションの形も意識しながら
リアルタイムでコミュニケーションにも工夫を入れていきたい。

内容そのものではなく、コミュニケーションの仕方や技術に関して、
後から振り返って、次の工夫へ活かせるようにしたいと考えています。

コミュニケーション技術のワークショップとしての側面と、
会話での交流を通じた自己探求の側面と、
本質的な内容を絞り込んでいくような側面。
…そのあたりを融合した取り組みです。

なお、お酒は入れません。
自覚しながらコミュニケーションをする能力が下がる可能性がありますから。

話の内容としての自己探求と
コミュニケーションの仕方としての技術の向上を
同時に行うためには、投入する意識の総量が多いほうが望ましいんです。

ですから、大人としての場を想定します。


身につけている技術や考え方などは人それぞれでしょうから、
幅広い交流の中でも工夫した関わりができるようになっていければ、
と期待しています。

詳しくはまた正式に案内を出します。

cozyharada at 23:21|Permalinkclip!コミュニケーション | NLP

2014年01月28日

強さを求めて

仮に、自分がタイガーマスクだったとしてみましょう。

「虎の穴」と呼ばれる秘密組織で修業を積んで強さを手に入れた。
マンガのタイガーマスクは苦戦が多いそうですが、
どんなに強くても常に他者を圧倒するわけではないでしょうから、
まぁ、「頑張って真の強さを手にした」ということに注目するとします。

そしてここでは、とりあえずその強さの秘密を
「恐怖を味方にすること」
とでもしておきます。(あまり詳しくないので)


で、
そのタイガーマスクである自分が、ちびっ子から
「どうしたらタイガーマスクみたいに強くなれるの?」
と質問された場面を想像してみます。

多分、
「そうか、強くなりたいか。
 強くなりたかったら、好き嫌いせずに何でも食べるんだ。
 それでお母さんのいうことを聞いて、ちゃんと勉強もするんだ。
 そうしたら必ず強くなれるぞ。」
とか答えるでしょう。

その内容は、タイガーマスクとして身につけた強さの秘密とは無関係です。
至って一般的な”しつけ”のレベル。
でも、子供に伝えることを考えたら、様々な未来の可能性を視野に入れて、
無難な答えをするのではないでしょうか。
なぜならそのときの子供にとって重要なのは、真の答えではなく
タイガーマスクから教えてもらったという関係性のほうだと考えられますから。


またあるとき、中学生から相談されたとします。
「あの…、僕は運動が苦手で…、皆から馬鹿にされるんです。
 どうしたら、その…タイガーマスクさんみたいに…、強くなれますか?」

今度は、その中学生の個性を考慮するかもしれません。
(自信はなさそうだけれど意志の強さと一歩を踏み出す勇気は持っているらしい。
 とりあえず自信を持てるものを1つ見つけられたら…。)

そこで
「強くなるのに一番大切なのは、毎日体を動かすことなんだ。
 まずは毎日ランニングをしなさい。
 苦しくなって、もうダメだと思ってから、さらに1分。
 毎日それを続けていると段々と長い間走れるようになるはずだ。
 そうやって自分の限界を超えていくんだ、いいね?

 それから、もう1つ。
 色々なことをやってみて、
 なんとなく自分が続けられそうなものを探すこと。
 何でもいい。何か続けられること。なぜか嫌じゃないこと。
 それをやってごらん。
 その中に、君だけの強さが見つかるはずだ。」
なんて答える。


さらに、ある日、高校生から
「僕もタイガーマスクになりたいんです!
 真の強さを身につけたいんです。
 タイガーマスクさんは、虎の穴というところで修業したと聞きました。
 どこにあるんですか?
 どうすれば入れますか?
 教えてください!」
と質問を受ける。

確かに自分は虎の穴での経験を通じて、強さの秘密を見出した。
そして、それがあるから今こうしてタイガーマスクをやっている。
が、それは誰にでも勧められるものではない…。
この秘密を知った後も人生は続いていくものだ。

何より、修行の過程は決して楽なものでもない。
あの秘密にたどり着く直前には、必ず通らなくてはいけない絶望がある。
はたして、それを多くの人が通る必要があるのだろうか?

なんてことを考えて
「今の君の能力では、虎の穴の審査には通らないだろう。
 仮に入ったとしても、相当な柔軟性を発揮しないと生き抜けない。
 まずは、強さとは何かを自分で考えなさい。
 
 トレーニングの方法は沢山ある。
 それも自分で考えるんだ。
 自分で、自分の考える強さに進んでいくこと。
 真の強さとは、ケンカの強さだけではないのは分かるだろう。
 自分で工夫をして1つの答えを見つけるんだ。

 その答えが分かったとき、もう一度やってきなさい。
 虎の穴へ行く方法は、そのときに教えよう。」
などと答えるかもしれません。

その高校生が、どこまで進むことになるのかを見定めるために。


そして、新人プロレスラーや雑誌記者から
「タイガーマスクさん、真の強さとは何でしょうか?」
と質問を受けたりもするでしょう。

ここでも考えるわけです。
(この質問者は何を求めているのか?)と。

ただ自分の考えを聞きたいだけなのか。
自分が至った結論と同じものを、ただ知りたいのか。
その結論を、その人自身も体得したいのか。

それによって答えは変わってくるはずです。

もし、自分と同じようにそこへ辿り着くことになりそうな相手を見つけたのなら
その人に対してだけは、答えへと導く何かを伝えるかもしれません。

自分がしたほどの必要以上の試練を通ることなく、
最短ルートで辿り着けるような指導をするかもしれません。

過去の自分を振り返りながら。

以前の自分が誰かからのヒントを必要としたように
自分からのヒントが必要な可能性を視野に入れて。

しかし、それは万人に向けたものではないわけです。
自分と同じような道を辿る人に向けてのことではないでしょうか。


まとめるなら、自分が真の強さの秘密を身につけているとしても、
質問されたときにそれを伝えるかどうかは分からない
ということです。

誰かが質問をして聞き出した返答は
「応え」ではあるけれども
「答え」を言っていないかもしれません。

にもかかわらず、返ってきた「応え」は
偉大な教えとして後世に語り継がれていく。
あたかもそれが真の強さへの「答え」であるかのように。

もはや、そこにタイガーマスク本人の意図は介在しません。

場合によってはタイガーマスクが、多くの人に向けて
健康に生活するためのエクササイズを指導する可能性だってあるでしょう。

「『真の強さ』なんてものは、多くの人が生きていくにあたって
 必ずしも重要なものではない。

 真の強さを身につけたとしても、その人の生き方はやっぱり、その人のものだ。
 ごく一部の生き方の人だけが、どうしても『真の強さ』に辿り着こうとする。

 そういう人にはヒントやトレーニングの方法を指導するとしても
 多くの人のことを考えたら、やっぱり健康のほうが大切なはずだ。」

…なんていう考えに至って、健康のためのエクササイズを広め始めたとしたら。

後世の人の中には、
「これが伝説のタイガーマスク・エクササイズだ!」
「これであなたもタイガーマスクのように最強になれる!」
といった形で広めようとする人も出てくるかもしれません。

そのエクササイズは有効なんです。
健康のために良い。
多くの人の役に立つんです。

ただ、それが『真の強さ』の秘密かといえば…。
そうではないわけです。

「タイガーマスクが真の強さの秘密を会得した」ということと
「タイガーマスクの教えが真の強さについてのものだ」ということとは
必ずしも一致しません。

教える、伝える、などのプロセスには、つきものじゃないでしょうか。


同様のことは、辿り着いた結論が「真理」とされるものに近いほど
起きやすいのではないかと思います。

真理について直接語るのかどうかも
真理に辿り着く方法を教えるのかどうかも
定かではないでしょう。

歴史上、聖者や偉人とされた人たちは様々な「教え」を残しています。

ただ、それらの教えが一度、本人の手元を離れた瞬間、
「誰に向けた、何を目的としたものだったのか」
が見失われがちなように感じられます。

教えを学ぶ側に注意が必要な部分かもしれません。

2014年01月26日

「いまここ」の夢

夢の中で「決断を迷った」ことのある人って、どれぐらいいるんでしょうか?

言い換えると、夢の中で「自分が意思決定をした」という体験です。


感情は沸きます。
焦ったり、驚いたり、苦しんだり、気持ち悪かったり…。
「怖い夢」とか「悪夢」とかいうのが知られているぐらいですから。

五感レベルの体験も当然、感じられるはずです。

人によって、どの五感が鮮明なのかは違うようですが、
可能性としては五感すべてがクリアに感じられることはあるといえます。

実際、僕は味や匂いを感じるものの、
風を切る感覚とか疲労感などは感じていないと思います(覚えていない)。
カラーの夢の人も、白黒の夢の人もいるようですし。


しかしながら、です。

そうした感覚体験や感情の変化を体験しながら、
ハッキリと自分で意思決定したかと言われると
どうでしょうか?

僕にとっては少なくとも、夢の中ではストーリーが流れるだけです。

勝手にそれをやっています。

例えば、誰かに追いかけられて、階段を急いで降りている夢で
僕は”なぜか”階段から下まで飛び降りたことがあります。

まるで映画のような感じ。

追いかけられて焦っている感じはありました。
落っこちていく場面も迫力がありました。

でも、飛び降りる決断をする前に
迷ったり恐怖を感じたりというのはありませんでした。

まるで映画の脚本通りに、
「この場所に来たら飛び降りる」
と決まっていたかのよう。


夢の面白いのは、あり得ないストーリー展開があったり
奇妙な場面展開があったり、なぜか無関係な登場人物がいたり…
と脈絡の無さではないかと感じます。

そして、一般に「夢をコントロールできない」といったとき
(世界には、夢をコントロールできる部族がいるとか聞きますが)、
日常生活と同じような想像の仕方で
「自分以外の場面や他人の行動を思い通りにしたい」
という発想があると思います。

でも、良く思い出してみると、
 夢の中では自分の行動さえコントロールできていない
のではないでしょうか。

僕は今でも研究職時代と関連した変な夢を見ることがありますが、
普通に出勤して実験をして毎日を過ごしているのに
なぜか一か月ぐらいオフィスに出向かず、パソコンも開かず、
会議にも出ないで過ごしてしまって、
「うわ、ヤバイ!怒られる!」
みたいな感じを味わったことがあります。

その一か月の展開は夢の中で進んでいるんです。
にもかかわらず、「オフィスに行くか行かないか」という
自分で簡単にコントロールできそうなところが
なぜか勝手に進行してしまっていたわけです。

夢って、そういうものじゃないでしょうか。


ここで重要になるのが、こうした
 『脈絡の無さ、あり得ない感じ』
が、どこから来るのか?ということです。

ポイントは、
 夢を見ている最中には違和感がない
ということ。

朝起きて、夢を思い出したときに
「あー、変な夢だった…」
と感じるはずです。

夢の最中に『脈絡の無さ』が気にならないのは
 夢が『今』の積み重ね
だからだと考えられます。

夢の中の自分は、前のシーンを覚えていないんです。
だから、突然、まったく変な場面に展開しても自然に流れてしまう。
起きてから思い返すと奇妙なことなのに。

ただ反応しているだけなんです。
夢の中では、何かが起きたら、それに対して自動的に自分が反応している。
その様子がまるで映画を見るように展開していくだけだ、と。

裏を返すと、普段の我々は
前に体験した場面の記憶を意識に上げながら
同時に、その瞬間の体験も意識に上げている
ということです。

意思決定をするには、過去の体験を参照にして
未来に予測を立てて、反応の仕方を選択する必要があります。

夢の中の自分は、前のシーンを覚えていないのですから
意思決定する体験は起きないと考えられます。

もしかすると、起きているときに体験した
印象的な意思決定の場面や未来の予測に感情を乱される場面などが
夢の中の一部分で改変されて出てくることはあるかもしれません。

しかし、日常生活で普段感じているほど
「どうしようかな…」と考えてから何かの行動に移ることは
夢の中では多くないはずです。
ほとんどの場面では、自動的に行動が決められていると思います。


夢の中の自分には、前のシーンの記憶が意識されていないんです。

記憶を元にした複雑な内的表象が作られないんです。

ああだこうだと考えたり、先のことを想像して困ったり、
さっきの自分の行動に対して評価を下したりしない。

夢の中の場面に応じて、なぜか行動や感情が起きますが、
それをメタレベルで捉えて判断するような二次的な作用が起きていない。

「今ここ」で起きている状況と、それに対する自然な反応の仕方を
ただ体験しては忘れていく。
その繰り返しです。

忘れていくのがポイントでしょう。

覚えているのは過去のことです。
それが夢の中の自分には体験されていないんです。
過去のものとして流れ去ってしまっている。

「今ここ」の繰り返しが夢だということです。


もし日常生活で「今ここ」をやるとしたら、
過去に体験した場面が意識に上がらないことになります。
未来の予測も起きない。
行動や感情は、学習されたプログラムに従って自動的に起こるだけ。
自分の行動や感情を「良し悪し」で判断することもありません。

いわゆる「思考」も起きないかもしれません。

そういう「今ここ」が望ましいのかと言われると、僕には分かりませんが。

そして、この観点からすると、
『無』だとか『観照者』だとかいうのは
「今ここ」ではあり得ないことになります。

『無』を捉えている主体の感じ、『観照者』という視点は
メタレベルのものだからです。
見ている自分に意識があります。

夢の中の自分には、「自分が」という意識がないはずです。
ただ起きているだけ。

夢から覚めて思い出したときに初めて
 「自分が」こういう体験の夢を見ていた
と意識できるんです。

つまり、もし座禅だとかで『無』を体験したとしても、
それは『無』ではない普段の状態に戻ったときに
やっと「自分は『無』を体験していた」という過去の記憶を意識できる、と。

ずっと『無』だったら、思い出さないんです。
ずっと寝ているのと一緒です。
「今ここ」のまま『無』を体験していたら、『無』は自覚されないはずです。

逆に『観照者』としての視点、つまり体験を眺めている自分の感じは
そこに自分としての意識があります。
脈絡を捉えているんです。
それは夢の中のような「今ここ」ではありません。

とはいえ、僕は座禅や瞑想、観照者としての体験を
否定しているのではありません。

それらは有効だと思います。
「今ここ」にとってではなく、
過去と未来に左右される普段の自分にとって有効です。

自分の行動や感情に対する二次的な評価で苦しんだり、
特定の過去の出来事に強くとらわれていたり、
未来を想像して不安で仕方なくなっていたりするのであれば、
静かで安定した感じを体験するのは非常に大きな効果があると思います。

実際に僕も勧めることがあります。


ただ、ここでの話題としては
 「今ここ」っていうのは別物じゃないか
というだけのことです。

本当に「今ここ」で生きると
夢の中の自分みたいな感じかもしれませんよ、と。

「今ここ」でいる限り、
その夢からは覚めないという意味です。

夢が夢だったと分かるのは、起きてからです。

夢の中で「自分が夢を見ていると分かる」明晰夢というのは
「今ここ」ではない体験なんです。

よく聞く言葉であっても、吟味してみる価値があるんじゃないかと思います。

cozyharada at 23:55|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!心理学 | NLP

2014年01月24日

空回り

コーヒーを飲みながら本を読んでいたときに
隣の席へやってきたカップルの話です。

二人とも20歳前後といった見た目。
大学生かなんかでしょう。

席についてしばらくしたら、二人ともスマートフォンをいじりだしました。

彼氏のほうはメールを打っているような感じ。
彼女はその様子をチラチラ見ながら、スマホで暇つぶし。


しばらくして、その女性は占いか何かのサイトを見つけたようです。
声に出して文章を読みながら恋愛占いらしきものを次々にやっています。

男性の側からすると、それがウルサイんでしょうか。
こんどはスマホでゲームを始めました。

そして女性は男性に話しかけます。
占いに必要な項目を質問する。
男性は仕方なさそうに答える。

答えを入力した女性は、占いの結果も音読します。

しかしながら、活舌と発声が悪く、早口で抑揚なく読むため
男性の真横のにいる僕にも内容が分からないような感じ。
その男性は慣れていたのかもしれないとはいえ
一生懸命聞こうとさえせずに、適当に相槌を打ってゲームを続けていました。


続いて、その女性は心理テストのサイトへ移動したようです。
やはり男性に質問して、彼の心理テストをやりたがります。

男性はメンドクサそうに質問に答えながらゲームを続ける。

この間、その男性は椅子の背もたれに寄りかかり後傾姿勢で座り
右手のスマホはテーブルよりも低い位置で持っていました。
その画面を見る顔の向きは正面よりも少し右側を向き、
当然、首の角度も下を向いている状態。

向かいの席にいる女性のほうを見ることさえ滅多にありませんでした。

よほど女性からの質問が聞こえず答えられないとき
「え?何て言った?」とか言いながら顔を上げるぐらい。

時には、スマホの画面を見ながら
「あ、ゴメン、最初のほう聞いてなかった」
なんていうことも。

遊び目的で作られた心理テストの質問項目ですから、
一文が長いうえに出てくる内容が複雑だったりして
一度だけ聞いて答えるにはハードルの高い内容だった気もします。

それを適当に聞き流しているんですから、ちゃんと答えられるはずもない。

男性の声のトーンは段々と投げやりな感じになり、
メンドクサそうな雰囲気も強まっていっていました。

女性はその男性の質問の答えに応じて心理テストを進め、
出てきた回答を例の聞きとれない発話で音読して
「えー、全然当たってないじゃん」
「あぁ…」
といった会話を繰り返す。

女性は身を乗り出して座り、テーブルに肘をつきながら
目の前の男性に向かって声を出し続けますが、
相変わらず男性は下を向いてスマホをいじったままです。


ついに女性は簡単な心理テストをもう見つけられなくなり、
エゴグラムを元にした心理テストらしきものを始めます。

もちろん、男性の答えに沿ってテストを実行したい。

エゴグラムの質問はインターネットに出てくるような簡単なものでも50問ぐらい。
量が多いんです。

それを全部質問して男性に答えさせようとしていました。

男性は途中で、量の多さに苛立ちを強めてきたのか
声のトーンがさらに投げやりな感じになり、
「まだ終わらないの?」
と何度か聞いた後、
「長ぇーよ、もう適当にやって」
と答えるのをやめました。

女性は自分で質問を音読しては、その男性の傾向を思い出しながら
「うーん、これはYesかな」
などと全てを声に出して質問に答え、
やっと最後までテストを完了しました。

その間、男性のほうはスマホでゲームをしたままですから
何のリアクションもないまま、女性は一人で心理テストを読み上げては答え、
長い”一人語り”をようやく終了したんです。

すると
「えー!!チョット、『ページが存在しません』だって!
 せっかく○○が(自分の名前、一人称として)頑張って答えたのに!」
と叫びました。

スマホに対応していないウェブページだったようです。

男性のほうは、仕方なく付き合って答えていたのに
不毛な結果となったことへ怒りを示していましたが、
女性の側が
「もー、ちょームカつくー。
 あーあ、もういいや。」
と、乗り出していた姿勢を変え、背もたれに寄りかかったところで
一連の流れはストップ。

しばらく静かになりました。

そして「お腹がすいた」とか「何か買ってこようかな?」とか
質問とも独り言ともつかない言葉を発した後、
その女性は席を離れて何かを買いに行ったようでした。


この間、ずっと同じコミュニケーションが繰り返されていたようです。

話をしたい女性と、それに疲れている男性。

最初は暇つぶしで始めた占いや心理テストも、
男性に質問を始めた時点で目的が変わっていたと思われます。

多分、関心を引きたかったんでしょう。

心理テストをやらせれば答えに興味を持ってくれると想像したのか、
とにかく会話としての応答をやりたかったのか、その辺は分かりません。

しかし、コミュニケーションの意図としては
「私はあなたの心理テストをやる程、あなたに関心を向けています。
 あなたも私に同じぐらい関心を持ってください」
といったところだと想像されます。

多分、その意図には自覚しないままで
”心理テストに巻き込もうとする”という行動を続けていたはずです。

しかしながら、男性の側は、それがメンドクサイ。
心理テストになんか興味が無い。
非言語メッセージは
「俺はそういうの嫌いだから、もうやめてくれよ」
と”乗り気じゃない”素振りを示し続けていました。

だから余計に、どうでもいいはずのスマホのゲームをやり続ける。
まともに答えない。

心理テストという形態が常に質問形式をとるため、
男性のほうからすると答えることを強制されている印象もあったと思われます。
質問されれば考えてしまうし、考えたからには答えてしまう、と。

それでもやっぱり内面には反発が起きていて
真面目に答えない形で、その不満が表現される。

同時に、相手の女性がやっている心理テストをやめさせるのは後ろめたい。
そこには「自分は自分のしたいようにするから、相手もしたいようにすればいい」
といった無自覚な想いがあったのかもしれません。

不満の対象は、少しずつ
「心理テストをやること」から
「答えを強制される状況を我慢し続けなくてはいけないこと」へと
移ってきていたと推測されます。

その後ろめたさと苛立ちの間で、中断させることもできないまま
”メンドクサそうな態度で適当に答える”という最大限の抵抗を示していたようです。


女性は「関心を向けてもらいたい」から、心理テストで次々に質問する。
男性はそれが嫌だから「やめてほしい」ことをメンドクサそうな態度で示す。

女性は、男性のその態度が自分への無関心と感じられて
もっと関わりを増やすために心理テストの質問を続ける。
男性はその強制された状況を我慢する不満に苛立ちを高める。

女性は苛立ちに気を配りながらも、自分への関心を持ってもらいたいから
一人で声に出しながら相手男性の心理テストを続ける。
男性は、やめたくてもやめられない交流のジレンマから
コミュニケーションを終えようとする。

女性は、コミュニケーションを続けることで
少しでも自分への関心を持ってもらおうとする。

…こんな循環が起きていたと考えられます。

どちらも自分の意図を自覚しないまま、
その意図を相手に伝わりにくい形で表現する。

そしてどちらも、相手のメッセージの裏にある意図を読みとろうとしないまま
自分の意図を通そうとするためのコミュニケーションを強化する。

両方とも、相手のメッセージの奥にある意図を察しようともしなければ、
自分のメッセージの奥にある意図にも気づいていないわけです。

だから空回りが続く。


女性としては
「もっと私に気持ちを向けて欲しいから、こっちを見てよ」
と一番の要求を伝えるところから始めても良いでしょう。

それを汲み取るのであれば、男性としては
「へー、なんか当たってない気がする。
 そっちはどう?自分でやると合っていると思う?本当はどうなの?」
などと、相手の話題に振ることもできるかもしれません。

男性側の意図を素直に表現することだって、
女性側が不満を読みとって対応を変えることだってできるわけです。

多くの人は自分の意図に気づかないままメッセージを発信します。

心理テストで質問攻めにした女性は、心理テストをしたかったわけではなく、
多分、自分に興味を持ってもらいたかった。

そういう気持ちが沸いてきたときに、直接「私に興味を向けて」と
言葉にして伝える人は滅多にいません。

そうやって学習してきていないからです。

たまたま自分に関心を向けてもらえたやり方を”効果的”と勘違いして
ずっと続けているだけのことです。

場合によっては、周りの人が意図を汲み取ってくれる可能性もあります。
そういう人が周りに多ければ、意図を自覚しないまま同じことを続けます。

ですが、大部分は意図と違うところでコミュニケーションをするんです。

自分の意図を伝わりやすく表現することもせず、
相手の意図を汲み取ろうともしない。

それが普通。
程度の差はあっても、両方を頑張る人は滅多にいません。

自分の意図を自覚しながら伝わりやすい表現をして、
相手の意図を汲み取った対応をしていけば、
コミュニケーションの結果は、確実に円滑なものとなるはずです。

それは言えます。

あとは、自分だけがその頑張りをするかどうか。

そこが最も悩ましいところかもしれません。

2014年01月21日

【セミナー】共感力強化 集中トレーニング

ご案内: 2月9日(日)開催

   カウンセリング講座・集中トレーニング〜共感力を強化する〜



今回の講座はコミュニケーションの土台を集中的にトレーニングします。

『共感力』です。

共感という言葉の定義には色々ありますから
あくまで「ここで何を養うのか?」に絞ってご理解ください。

トレーニングの対象は、相手の感情や価値観を察する上での土台です。


他者の感情を捉える際には、大きく2つの方向性があります。
「観察」と
「同調」です。

観察は、他者の感情を他者のものとして外から眺めて判断する方法。
同調はペーシングによって自分の内部に沸き上がるものから判断する方法。

今回の講座は同調よりも、「観察」を中心に構成します。
(実際には両方の感情の捉え方に効果を発揮するトレーニングです)


そして、「観察」にも大きく分けると2通りの方向性があります。
「客観的に判断する」か
「共感的に想像する」か、です。

他者の感情を客観的に判断するには、
自分が他人とコミュニケーションしてきた経験を通じて
 「こういう様子のときには、こういう反応をする傾向がある。
  世間では、これを○○という感情の名前で呼ぶらしい。」
のような理解を積み重ねる必要があります。

他人の様子をうかがって、それに合わせて自分の振る舞いを変えるようにして
人間関係を乗り切ってきたような人は、こうした客観的判断の能力が上がります。

また、心理学の本などに多い「〜しているときは、…のサインだ」といった
”大まかな動作や表情との関係性”を知識として持っている場合にも、
その知識を当てはめて他者の感情を判断することがあります。

これも客観的判断です。

客観的に判断する場合の特徴として、経験か知識を利用するため
”知っている”場合には速やかな判断が可能となりますが、
アレンジが利きにくいリスクもあります。

実際には別の感情も一緒に表れていたとしても、
自分がその経験や知識を元に注目してしまった場合には
他の部分の非言語メッセージが意識に上がりにくくなるわけです。

結果として、いつも観察する部位が偏ってくることも多いでしょう。
「あの人は感情が読みにくい」と感じた相手は、ただ
自分が注目しない部分で感情を表現している…なんということも起きやすい。

さらに、自分が経験したことのない表現をする人が相手の場合や、
自分の知らない動作については、捉えることもできません。

判断の速さのわりに、正確さと対応範囲は限られてしまうんです。


その点オススメなのが、もう1つの方法、
「共感的に想像する」やり方です。

この講座では、その「共感的に」の部分を集中的にトレーニングします。

他者の感情を共感的に想像するとは
 「あの人は今、こういう非言語メッセージを表現している。
  もし自分がそれを表しているとしたら、どんな感じだろうか?
  …この感じは、世間では○○と呼ばれるから、
  おそらく、あの人は今、○○の状態なんだろう」
といった流れのものです。

一度、自分の体の中に相手と同じ状態を想像して作り出すのが特徴です。

合っているかどうかの保証はありません。
ただ想像して仮に体験する。

もしかすると「合っているかどうか分からないのに想像して意味があるのか?」
と思う方もいるかもしれませんが、「合っているか分からない」のは全て同じです。

どんなやり方で読みとろうとするにせよ、合っている保証はありません。
直接質問したとしても、です。
相手が「悲しいんです」と言ったところで、それが本当だとは言いきれませんから。

むしろ、相手が言語化したくない感情だってあるのが自然なものです。
それを質問せずに読みとって、言語化したくない気持ちまで含めて
対応の仕方を考えていくほうが、現実的には望ましい対応をしやすいでしょう。

また、相手自身が気づいていない感情もあり得ます。
それは質問では聞き出せません。
こちらが読みとるんです。

複雑に入り乱れた相手の感情を、相手自身さえ気づいていない精度で捉える。
それによって、相手一人では整理できなかった気持ちがまとまってくるわけです。

相手の気持ちを質問するのではなく、観察によって読みとる価値があるのは
この部分だといえます。

そして、その観察の際に『共感』を使う。
これがポイントです。

相手の話を聞いて、気持ちを聞いて、
その状況に対して思いを寄せるのではありません。
それを共感と呼ぶ人もいるようですが、ここでは別物として扱います。

相手の動作やしぐさ、表情や姿勢、声のトーン…、
あらゆる振る舞いに含まれた非言語メッセージを捉え、
それらを自分の身体に再現する。
そして、そのときの状態を相手のものとして想像するんです。

慣れてくると「注目して、想像して、体の中に再現して…」という流れは
大部分がショートカットされて自動的になってくるものです。

例えば、人がビンタされている場面を見ると
自分まで「ウッ!」と肩をすくめて体を緊張させたり、
といった経験のある方もいるかもしれません。

「想像して体の中に再現して…」という流れを自覚していないでしょうが、
自然とそういうプロセスが起きたケースです。

特別なことではありません。
ただ思い出しているんです。

その思い出す度合いに個人差がある。
だからトレーニングの効果があるんです。

つまり、相手の様子を見て、それと同じ状態を思い出すということです。

ただそれだけ。
ですが、これを細分化して思い出す作業を丁寧にやる人が少ないんです。

そこを徹底的にトレーニングします。

どんな些細な非言語メッセージに対しても、
どれだけ複雑な形で同時に表現された非言語メッセージに対しても、
「自分がやっていたときのこと」として思い出して想像できるようになれば
相手の繊細な感情の動きまで『共感』することができるわけです。

繰り返しますが、あくまで想像です。
思い出しているだけです。
ですから外れることはあります。

しかし、合っていないとしたら、それはむしろ
 非言語メッセージの捉え方や、自分の体の中での再現の仕方が不十分
という可能性のほうがずっと高い。

細かな違いを正確にとらえ、それを正確に再現できるようになれば
その”想像”が相手の実際の状態と一致する確率は上がっていくはずです。


相手の非言語メッセージを細かく注目して、
そのメッセージを自分が出しているときの状態を思い出して再現する。
…この流れを『共感』と呼ぶことにする。

そして、『共感』によって起こったその状態を自覚して、言語化する。

こういう観察の仕方です。
相手の感情を「共感的に想像する」観察法だといえます。

そのためには
 ・相手の非言語メッセージを細かく分けて注目し、
 ・その非言語メッセージを正確にコピーして、
 ・それに伴う身体の状態を思い出し、
 ・その状態を言語化する
ことが求められます。

例えば、皆でビデオを見ながら、ある瞬間で静止画にして
「ほら、ここに悲嘆の様子が出ているでしょ?」
と指摘したとすると、
上記の4項目が全て含まれているということです。

指摘された部分に注目した時点で
一番目の「細かく分けて注目する」はクリアされていますが、
それをどれだけコピーして身体の状態として思い出し
その状態を”悲嘆”という名称と結びつけられるかは、
トレーニングの量によります。

どれかが欠けても正確性は落ちますから、
この講座では各項目のトレーニングを行う予定です。

当然、一日のトレーニングで劇的に変わるわけではないでしょう。
トレーニングは日々の中で心がける必要があると思われます。

が、人によっては今まで自覚していなかっただけで
注意の向け方のコツを知ったら、それだけで飛躍的に感度が上がる
という可能性もあります。

苦手分野はどこなのか、何を中心に練習していく必要があるのか。
そのあたりのことを掴んでいただくだけでも有用なはずです。


理論的な話は、以上の話でほぼ網羅されていると思います。
後は、どんなトレーニングをするか。

ビデオに撮りながら細かくチェックするような作業も行います。

些細な違いを気にしない人だと「同じようなことばかり…」と
退屈さやイライラを感じたりするかもしれません。

細かい作業を「メンドクサイ」と感じる人には楽しくないかもしれません。

そういうものです。

相手の繊細な心の動きを読みとるための共感力強化です。
最初から細かいんです。
細かい部分が大事だという前提で進みます。

人の気持ちの機微を大切だと感じる方にはオススメです。

「お気軽にどうぞ」とは言いにくいですが、
人の心は細かく捉える価値があると思う方は是非お越しください。



◆今回の講座で期待されること
【メリット】
●共感が起きる流れを把握できる

●共感に必要なトレーニング法を練習できる

●自分の気持ちの変化に敏感になれる

●他者の気持ちを細かく読みとれるようになる

●感情表現への理解が深まる

●非言語メッセージと結びついた個性を理解できるようになる

【デメリット】
×常日頃から人の気持ちが気になって仕方なくなる

×他者の苦しむ様子で、自分の身体にも苦しさを感じやすくなる



◆録音/録画、再生機材に関しまして

トレーニングとして動作を録画・再生して
細かくチェックするときがあります。
ビデオカメラやスマートフォンの録画機能などをご利用いただくと
客観的なチェックがしやすくなると思われます。
ご持参下さることをおススメいたします。

また、ICレコーダーなどを用いた講座全体の記録は
個人的なご利用の範囲でお願いいたします。

※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
 十分にご配慮ください。






【セミナーの詳細】

カウンセリング講座・集中トレーニング 〜共感力を強化する〜

【日時】  2月9日(日)
       9:30〜16:00


       ※開始時間にご注意ください 
       ※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。

【場所】 五反田文化センター 第一研修室
    (JR山手線・五反田駅より徒歩15分)
    (東急目黒線・不動前駅より徒歩8分)

【参加費】 ・・・15,000円 

       当日、会場にてお支払いください。


    ★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
     ご了承ください。




終了しました

脳科学の分野で「ミラーニューロン」と呼ばれる神経細胞が報告されています。

ある動作をするときに発火するニューロンが
他の個体の同じ動作を見たときにも活動する、というものです。

見ているだけなのに、あたかも自分が行動しているかのように活動するニューロン。
まるで鏡映しのように真似をして活動するので「ミラーニューロン」と。

一部の脳科学者や心理学者は、
「ミラーニューロンのおかげで人は自然と模倣をして学ぶことができ、
 ミラーニューロンのおかげで他者の気持ちを感じとることができる」
といった説を提唱しているようです。

しかし世の中には、その捉え方に異論を唱える研究者もいます。
そして個人的にも、この解釈には反対です。

ミラーニューロンを拡大解釈している人たちは、
「これがあるから模倣するように体験できる」というニュアンスで
あたかも生まれ持った自然な機能のように説明しがち。

多分、そうではないと思います。
ミラーニューロンは結果。
生得的なものではないでしょう。

単純に、「誰がするかに関わらず同じ行動」として捉える機能をもった
”抽象度の高い行動の概念に対応したニューロン”があるだけ。

例えば、「食べる」であれば、自分が食べようが他人が食べようが
「食べる」という概念として把握するためのニューロンがあって、
「食べる」に関連する体験をするときには活動する。
活動すると「食べる」に関する様々な機能と記憶も活性化される。

「食べる」に限らず、こういうニューロンが沢山あるのでしょう。
だからミラーニューロンは様々な脳の部位から複数見つかっているんだと思います。

それぞれの動作の概念に対応するニューロンが沢山存在していて、
それぞれのニューロンが、いわゆる”ミラーニューロン”の活動パターンを示す。

”ミラー”になるのは、自分の動作と他者の動作の両方を抽象化した
「動作主に関わらない行動」の概念が作られているため、
他者の動作を見たときにも、自分がその動作をするときにも共通して発火する
…ということが起きているからだと考えられます。

自他の区別をしていないために”ミラー”のような活動をするのであって、
自然と真似してしまう機能とは別物だろう、と。

むしろ、他者の体験を見たときに、同じ体験をしている自分の状態が
記憶から再活性化されていると考えるほうが妥当だと思います。

自然と真似をする機能ではなく、思い出す機能。

つまり、「他者の体験を見て、自分が体験した時のことが思い出される」という
いたってありきたりな学習の産物だという考え方です。


まとめると、

×「生まれつき真似をする仕組みが脳には備わっていて、
 それがミラーニューロンと呼ばれる神経細胞で、
 その真似の仕組みが共感の源泉になっている」

…という発想ではなく、

○「動作や体験を一般化された概念として認識するニューロンが沢山あり、
 その中に自他の区別なく、同じ種類の体験として認識するものがある。

 そのニューロンは他者の体験を見ても、自分が体験するときと同様に発火し、
 これが”ミラーニューロン”と呼ばれる神経細胞群に対応している。

 他者の体験を見たときに活動したこのニューロンは
 自分の体験記憶を活性化するため、過去の体験の身体反応が再生される。

 思い出された身体反応は、他者の体験への『共感』として意識にあがる。」

…という考え方です。

ですから、”ミラーニューロン”と呼ばれるものは生まれつきのものではなく、
自分と他人との間で、同じ種類の体験を積み重ねていった結果として
体験の種類の数だけ何個でも作られていくものだ、と考えられます。

言い換えると、
 ある体験に対して”ミラーニューロン”が作られていれば
 その体験をしている他者を見たときに、自然と共感が生まれる
ということです。

「ミラーニューロンが共感の源泉となる」という表現そのものは同じですが、
想定している仕組みが別物なんです。

生まれつき持っているミラーニューロンが共感力の源泉だとしたら
共感力の個人差をトレーニングで埋めるのは大変でしょう。
生まれつきミラーニューロンが強い人は共感力が高く、
弱い人は共感力も低い…といった説明になってしまいますから。

しかし、そうではないと考えます。

”ミラーニューロン”は数が大事。
共感できる体験の種類がミラーニューロン群の数と対応していると考えると
数を増やすことで共感できる量(=共感力)を高められるわけです。

つまり、カギになるのは
自分と他者とで同じ種類の体験をすることです。

同じ種類の体験を重ねることで、自他の区別なく
その種の体験と遭遇したときに働く神経細胞が増える。
ミラーニューロンを増やせる、と。


その結果、同じ体験として認識されたときには、自分の記憶が引き出されます。
対応する自分の記憶には生理状態に関する部分もありますから、
その瞬間に再体験するかのように生理反応が蘇ることもあります。

一方、ミラーニューロンが作られていない
(=他者の体験と、同じ種類の自分の体験が結びつけられていない)場合には、
他者の体験を見ても、同じ種類の体験として認識されません。

当然、自分の体験記憶にはアクセスされず、
身体感覚として蘇ってくるものはないわけです。

ここが、この講座における『共感』が起きるかどうかの分かれ目だといえます。

 どうしたら自他で共通する体験を増やせるか。
 しかも、できるだけ正確な分類で。

その部分をトレーニングします。

いわば、精度の高いミラーニューロンを増やすトレーニングです。

数を増やします。
数が多いほど共感力が高いんです。

脳の測定はできませんが、そういう想定でトレーニングをします。

共感力は上げられる能力だということです。

重要性を感じる方は取り組んでみてください。

2014年01月19日

統計とエビデンス

統計を入門から勉強し直してみました。

試しに買ったこの本。
とても分かりやすいです。


中学校までの数学で説明されている上に、
独自の工夫があって内容も掴みやすい。

とはいえ、
「統計で何をするのか、何が分かるのか(できるのか)?、どうやるのか?」
を説明した入門書ですから、
「なぜ、そうなるのか?」
といった理論は書かれていません。

「なぜ」の部分を説明すると、微分・積分だらけの数式が並ぶでしょうから。

かといって、単なる読み物でもありません。
読み物の場合は「どうやるのか?」の説明がなく
「何をするものなのか?」の説明に注力するのが一般的です。

この辺りは、例えば心理系の分野などでも同様です。
心理読み物では概要説明で「何をするものなのか?」が中心となり、
「なぜ?」や「どうやるのか?」は含まれません。

入門書の場合には、「どうやるのか?」という方法論が含まれますが、
やはり、その背後にあるメカニズム(=「なぜ?」)は説明されない。

この統計の本でも、少しは「なぜ?」の部分がありますが
難しい数学を使わずに説明しようとしているため、
どうしても数学的な正確さはなくなってしまうようです。

ですから、正確で詳しいわけではありませんが、
中心となる部分だけを簡略化して説明してくれているという点で
入門書として使い勝手が良いと思います。


何より、世間一般(特に医療・心理分野)で良くいわれる
「エビデンス」というものの正体が掴めるはずです。

この本では直接的にエビデンスという単語は出てきませんが、
いわゆるエビデンスは、この統計を用いた数値的な説明になります。

中でも、心理系でよく使われるのは「検定」というもので、
この本でも中心として解説されています。

検定では、まず棄却したい仮説を立てます。
言い換えると、示したいことの逆を仮説とするわけです。

例えば、「心理療法Aには効果がある」と示したければ、
仮説として「心理療法Aをやるのと、やらないのでは同じ結果になる」
という具合に設定します。

それで実際にとったデータを統計の手法を使って調べてみる。

仮に効果があるとしても、たまたま選んだ被験者には
偶然で効果が認められなかったという可能性があります。
選ぶときの運が悪かった、と。

逆に、本当は効果が無いのに、たまたま選んだ被験者だけ
何か別の要因で効果が観察されてしまうという可能性もあります。

そういう風に、偶然で結果に違いが出てしまう場合が想定されるわけです。

だから統計的に「偶然違っちゃった」のか
「偶然では考えにくい」のかを調べるんです。

さっきの例に戻ると、
「心理療法Aをやるのと、やらないのでは同じ結果になる」
の仮説からではデータに差がないと想定されますが、
実際に得られたデータでは全く同じではない…ということが良くあります。

この”全く同じではない”データの”同じでない度合い(=差)”が
統計的に考えて、「偶然起きてしまった差なのか」それとも
「偶然では考えにくい差なのか」を調べるわけです。

で、「偶然でこういう差がデータとして得られる確率は5%以下です」
と統計処理が示したとき、
「この差は偶然では考えにくいですね」
となって、
最初の「心理療法Aをやるのと、やらないのでは同じ結果になる」
という仮説が棄却されることになります。

つまり、
「『心理療法Aをやるのと、やらないのでは同じ結果になる』とは考えにくい」
と結論づけられる。

このとき、「その差は統計的に有意である」と表現されます。

ここで心理療法Aを使ったほうが”改善”の結果が大きいのであれば、
「その差は有意」なのですから、「効果はあったと考えられる」となるんです。

これが1つのエビデンスになります。


かいつまんで言うと…。

2つの条件を比べてみた。
,両魴錣鉢△両魴錣任蓮結果に違いがあった。
でも、この違いは偶然かもしれない。
統計的に調べてみよう。
統計的には偶然とは言えないようだ。
じゃあ、「違いがあった」と結論づけても問題なさそうだ。

…といった感じ。

例えば、体重60kgの人が一週間ダイエットをやって
一週間後の体重が59.5kgだったとしたら、その差0.5kgは
「ダイエットに効果があった」と結論づけるのに充分かどうか、ということです。

「0.5kgなんて、ちょっとした生活習慣の違いでカンタンに変わるでしょう」
という可能性もあるし、
「いやいや、この人は一年間毎日体重を測り続けていて
 いつも決まった時間に体重を測ると59.8kgから60.2kgの間にしか
 収まらないんだから、この差は59.5kgは大きな違いだ」
という可能性もある。

そのあたりの差の評価の仕方が統計のポイントになるようです。

ですから、囲碁を例にとると
先手の勝率51.86%は、15000局の対戦結果からすると
統計的に有意な差だと結論づけられています。
つまり、先手が有利だ、と。

元々、先手が有利の考えのもとで後手に5目半のハンデがあったそうですが、
それでも先手の勝率が51.86%だったということで
ハンデを6目半に上げたんだとか。

ものすごく小さな差ですが、統計的には有意な違いと言える例です。


そうすると、エビデンスに対しても注意が必要になってきます。

1つは効果の『度合い』を議論できないエビデンスが沢山あるということ。

上で説明したような検定の考え方では
「2つの違いが偶然ではない」ことまでしか結論づけられません。

「心理療法Aをやったら、やらなかったときと比べて
 (良い方向に)結果で違いがありました」
という話なんです。

「どれぐらい」の議論ではないんです。

仮に、ガンの治療薬の効果を調べるとして、
腫瘍の大きさの変化でデータをとったとします。

治験薬を投与したグループでは腫瘍のサイズが平均1.8mm小さくなりました。
プラセボのグループでは腫瘍サイズは平均1.0mm小さくなりました。
統計的には、この差が有意だと示されました。

そういうデータがあったとき、この治験薬がどれぐらい効果的なのかまでは
この調査からだけでは分かりません。

ましてや、腫瘍を小さくできることと、
飲み続けたらガンが完全に無くなることとは別の話題です。

また、うつ病に対する効果測定ではHRSDなど、有名な評価尺度があって、
この評価で症状の改善度合いを調べるような実験は多々あります。

ただ、ある方法のうつ病に対する効果を、この評価尺度を元に調べて
「改善した」というデータが統計的に示されたとしても、
その方法によって社会へどのように関われるようになるかは分かりません。

「良くなる」という表現は簡単です。
「HRSDでスコア22だった人が16になりました」は、
「良くなった」といえる結果でしょうが、
その人の生活がどうなのか?、今後の生き方はどうなるのか?
…といった観点には一切触れていないわけです。


エビデンスといっても、その統計が示している内容までは
ハッキリと語られないことが多いようです。

「この方法にはエビデンスがあります」とか。

そこで示されるのは、
「どのぐらいの違いかどうかまでは言えないが、効果に差があった」
ということが大半。

そして、その効果を測定するための基準が、
どれだけ現実の生活を反映しているかも不明瞭なんです。

「改善」と「解決」が別物になることだって沢山あるはずです。

統計的エビデンスは、そこを隠してしまう恐れがあります。

にもかかわらず、統計以外の方法で示せないことも多い。

ここにジレンマを感じながら統計を利用しているのか、
それとも
統計でエビデンスを取れば科学的に根拠が証明できたと信じ込むのか、
…この違いは大きいと思います。

2014年01月17日

審査の仕方

NHK Eテレ(元・教育テレビ?)で毎週金曜日18:55から放送されている
『スクールライブショー』で書道パフォーマンスをやっていました。

3週連続の企画ということで
1月24日、31日にも放送されるそうです。

書道パフォーマンスとは
 音楽に合わせて集団でダンスを踊ったりしながら
 大きな一枚の紙に文字を書いて時間内に作品を仕上げる
というもの。

一般的な書道の形ではありませんが
NHKのこの番組に審査員で出ている先生方は
デザイン習字屋や筆文字アーティストではなく
一流の『書家』としてご活躍の面々。

そして審査員の先生が出張して学生にレッスンする光景や
先生自身が大作を書き上げるシーンなども登場するため
書道パフォーマンスそのもの以外の部分でも楽しめます。


中でも僕の注目は、審査員の審査の仕方とコメントの内容です。

もちろん、各審査員に好みがあるでしょうから
審査内容に差が出るのは当然のことでしょう。

とはいえ、書道部の高校生が踊りながら書くものです。
一般的な書道の展覧会で審査をするのとは違います。
普段に書道の作品を審査するときとは違った基準になりやすいはずです。

だからこそ、各審査員の着眼点の差が面白かったり
何を意図してコメントをしているかに表れる特徴が面白かったりするわけです。

例えば、「技術」、「構成」、「情熱」の3項目に分かれている審査基準にしても
審査員によっては「構成」を「書作品としての構成」として見ているようだったり、
「作品とパフォーマンス全体としての校正」として見ているようだったり、
評価の仕方にさえ違いがあるように感じられます。

この審査員の先生は何を意図して評価しているのか?
…という基準で番組を見ると、違った角度から面白い気がします。

そして、得点のつけ方も注目ポイント。

ここに「審査員」という立場の難しさがあると思います。

例えば10点満点での評価だとして
どこを10点とするか、という話です。

書道の技術として10点満点で評価をしたら
書家の先生からすれば10点満点なんてつけるはずがありません。

きっと、その先生が尊敬する大先生の作品ぐらいが10点で、
自分の作品が8点から9点ぐらい。
そんな基準で他の先生と比較をしていることでしょう。

その基準に照らし合わせたら、高校の書道部の生徒の技術は
いったい何点になるんでしょうか?

絶対に満点はつくはずがありません。

どこか別のところに満点の基準を用意する必要があります。

この審査のための基準設定に
評価者・教育者としてのスタンスが見えるのではないでしょうか。

仮に、厳しい審査員という立ち位置を取り
常に技術的な未熟さを指摘するとしたら、
どの高校も4点から6点ぐらい、最高でも7点なんてこともあるでしょう。

どこの生徒も技術の問題点ばかりをコメントされて
高評価のコメントがなかったとしたら、
得点の差の根拠を知ることさえできません。

あっちの高校は7点で、自分のところは5点。
どちらも「もっとこうしたほうが良い」しか言われていない。
良かったところの違いは何か?
7点と5点の違いは何か?
そういう疑問が残ってしまう可能性があります。

何より、決勝戦としてテレビに出て、
10点満点で5点しかつかず、問題点ばかり指摘されたとしたら…。

高校生の今後のヤル気は取り組み方への影響も
審査員のコメントや評価によって左右されると考えられます。

審査をするだけなら、そんなことは気にしなくても良いのでしょうが、
高校生への教育という観点を持っているとしたら
審査の基準にもコメントの仕方にも、違った配慮が生まれるかもしれません。

また、大会を見る側の発想からすると
優勝校が10点満点で7点しか取れていないようだと
なんだか少し残念な感じがします。
レベルの低い大会だったんじゃないか?と。

できれば、優勝校は満点に近い点数であって欲しい。
その上で参加校の得点に差がついていれば審査が適正な印象を受けます。

優勝校の得点に7点をつけて、最下位に4点をつけるとしたら、
最高が10点、最下位が7点でも構わないはずです。

見る側として、参加する側として、どちらに魅力を感じるでしょうか?

だからといって甘くつけすぎると、10点の高校が沢山になってしまう。
もしかすると技術点10点でも、本当はすごく差があったのに、
最初の設定を甘くしすぎたために、明らかな技術の差が
両方とも10点満点に収まってしまう場合だってあるかもしれません。

ここが審査員としての技術の表れるところなんでしょう。

10点がついているチーム同士で比べると優劣はつけ難い。
でも9点とは明らかに違いがある。
それでいて10点から順当に点差がついて、6,7点ぐらいまでで収まる。

そんな感じの採点ができたら名審査員、といったところかと思えます。

この辺りの
・教育者としての配慮
・審査基準の適正さ
に注目すると、
書道パフォーマンス以外のところでも楽しめそうです。

もし、「書道には興味が無い、でもコミュニケーションには興味がある」
といった場合には、審査員の様子を観察するだけでも
一見の価値ありじゃないかと感じます。


ちなみに、全く話は逸れますが、
僕は高校生が頑張っている姿を見るだけで
ホロリと来てしまいます。

年を取ったんだなぁと思う瞬間です。

2014年01月15日

大人の世界

東京生まれの僕にとって、山手線は大人の象徴のようです。

東京生まれといっても練馬に近いあたりで育った僕は
いわゆる住宅街で生活の大部分を送っていました。

中学までは当然、近所の学校と家の往復ばかり。
塾に行くとか買い物に行くとかいっても、最寄り駅のあたりまでです。

行動範囲のほとんどが自転車で行ける所まででした。

そして、たまに外出するときには新宿や池袋が中心。
中学校のとき、参考書や問題集を買いに
新宿の紀伊国屋に行くのが、僕にとって最大の遠出だった気がします。

旅行の際には乗換えで東京駅や品川駅を利用したこともありますが、
それとてあくまで乗り換えのため。
駅から出ることなんてありませんでした。


高校の電車通学も、家の最寄り駅から学校の最寄り駅までの往復ばかり。
山手線を経由することもなかったので、相変わらず狭い行動範囲でした。

部活の合宿で乗換駅として上野まで行くようになったのが
高校時代における行動範囲の広がりだった気がします。

大学に入っても行動範囲は似たようなもの。
高田馬場から通っていたので、池袋〜新宿間がメインです。

とはいえ、毎日のように高田馬場へ出るようになったという変化は大きく、
山手線圏内に行くのが当たり前になったのがこの時期でしたから
自分の中で大分、都会に慣れてきた気がしていました。

友人と野球を見に東京ドームへ行ったり、千葉マリンに行ったりと、
移動への抵抗がなくなってきたのは大学4年ごろからだったと思います。

このあたりで、やっと自分も大人になってきたと感じていたものです。
当たり前のように都会に出て、移動ができるようになった。
山手線の圏内に足を運ぶ頻度が、それを反映していました。

それが大学に入ってやっとですから。
我ながら、狭い世界で生きていたものだなぁ、と。

今どきの女子高生が渋谷で遊んでいるのとは大きく違います。


行動範囲が大きく広がったのは社会人になってからです。

会社に入って大手町の本社で新入社員研修を受け、
懇親会で秋葉原に出る。
配属先の山口県に行くために、羽田空港を頻繁に利用して
この頃から山手線の東半分への頻度が上がりました。

それでも降りたことのある山手線の駅は相変わらず少なかった。

大きく都心の移動範囲が広がったのは、東京に転勤になってからです。
町田に住んでいましたが、セミナーを受講するために
都心部へ出ることが増えたんです。

そして会社を辞めて引越し。
セミナーをする側になって山手線の内側の行動範囲が広がりました。
地下鉄の駅も色々と利用するようになったと思います。

それから打ち合わせやら仕事やらで
徐々に足を運ぶ場所にもバリエーションが出てきました。

それで最近になってようやく
山手線や地下鉄の路線図を見て親しみが感じられるようになったんです。

山手線の駅ではまだ大崎と巣鴨で下車したことがありませんが、
ぐるりと一周を眺めてみても、関連する記憶が蘇ります。

「あぁ、大人になったなぁ…」と、しみじみ。

山手線圏内が大人の世界への入り口のように捉えていた幼少期が
こうした実感に繋がっている気がします。

あくまで僕の生まれ育った環境に依存しているんでしょうけれど。

cozyharada at 23:12|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | NLP

2014年01月13日

叱って行動修正…よりも

心理学の行動主義では、行動修正など教育的な観点も強調されます。

その中には「しつけ」や「叱る」といった「 punishment (罰)」に関して
動物を使った実験での研究が沢山あります。
どういう罰の与え方が行動を修正するのに効果的か?という研究。

そして、その得られた結果を元に
普段の人間社会における罰の効果を考察すると、
多くの場合、罰の与え方が望ましくないことが結論づけられます。

例えば、
・望ましくない行動をしてから罰を受けるまでの時間が長過ぎる
 (すぐに罰を与えるのが望ましい)
・望ましくない行動が見つかって罰を受ける確率が低い
 (全ての望ましくない行動が罰せられるのが望ましい)
・罰の強さが徐々に上がっていくため、罰に慣れてしまいやすい
 (最初に強めの罰を与えるのが望ましい)
といった内容です。

もちろん、これらは全て学術的な研究を土台としているので
実社会で考察するには、他の沢山の要素にも目を向ける必要がありますが、
心理学的には罰で人の行動をコントロールするのは
現実て社会では難しいことが多いというのが一般的見解のようです。


で、こうした研究ベースの考察の中に
「罰を受けるときにだけ関心を向けてもらえる関係性の場合、
 罰の中に含まれる関心の側面が報酬として機能することがある」
というものもあるんです。

つまり、
普段から無関心だと、望ましくない行動をしたときにだけ
罰という形で関心を向けてもらえるので、
その関心が報酬となって、望ましくない行動をむしろ強化してしまう
ということです。

関心を向けてもらえない関係性においては
罰を受けるために、望ましくない行動をするのが癖になることがある、と。

実社会では、このような可能性もあるため
罰を用いて「しつけ」たり、「叱ったり」するのは難しいというわけです。

この見解は、行動主義以外でも、それなりに耳にするものじゃないでしょうか。
決して真新しい意見ではないと思います。
親の注意を引くために悪さをする子供…なんていう話は良く聞く気がします。


実は、この「相手の関心を得るために、相手にとって望ましくない行動をする」
という振る舞い方には、個人の中でも似たようなものがあるようです。

本人にとって望ましくない行動の癖や感情的反応の傾向、思考パターンなど、
ある決まったタイミングでのみ表れる望ましくない振る舞い。

こうした振る舞いを引き起こしているモノを擬人化して想像してみると、
ちょうど、ある人が他人にとって望ましくない行動をしているのと対応します。
自分の中のある部分が、別の部分にとって望ましくないことをしている、と。

そしてほとんどの場合、その望ましくない振る舞いをする部分は
いわゆる「無意識」の反応として、普段から意識されていません。

「意識」の部分にとって、「無意識」の部分からの反応が望ましくない…
そういう状態になっているはずです。

「意識」の部分は、常に意識にあがっているんです。
いつも気づいてもらっている。
関心を向けてもらっているわけです。

ところが、「無意識」の部分は、文字通り無意識ですから
常日頃から関心が向いているのではありません。

「無意識」なんていう呼び方をすることで
その部分に関心を向けることを放棄する場合さえあり得ます。
(※エリクソンは「無意識」という呼び名を使って関心を向けさせようとしていたはず)

その「無意識」の部分の立場からすると
常日頃から無関心な関係性にいるといえます。

そこで、「意識」のほうにとって望ましくない反応を引き出す。
するとその瞬間、関心を向けてもらえるようになるんです。

表面的には「意識」の部分から
「嫌だ」とか「またやっちゃった」とか「不愉快だ」とか「なんでこうなるんだ!?」とか…
そういった否定的なメッセージを受け取ることになります。
まるで「怒られたり」、「罰を受けたり」しているような状態。

ですが、そのような形でも関心を向けてもらえています。
これが報酬になるわけです。

望ましくない反応をする「無意識」の部分は、
それを引き起こすことで関心という報酬を得てしまっているんです。
「意識」によって否定的な捉え方をされるとしても、
否定的であっても関心を向けてもらうことが大切なんです。


だから、望ましくない反応をしたときにだけ関心を向けるのではなく、
常日頃から関心を向けるようにすると、その反応をする必要が減っていく。

「無意識」を「意識」へと取り入れていく感じです。

セラピーの効果では、ここがかなりの比重を占めていると思います。

常に関心を向けているということです。

望ましくない反応が起きたときだけでなく。
まして他人に関心を向けてもらうのでもなく。

cozyharada at 23:33|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 心理学

2014年01月11日

「私のために」

「あらゆる人の振る舞いには『意図』がある」
という考え方があります。

NLPでは特に、その意図は全て「肯定的」なものと想定します。
それで「肯定的意図」と呼ばれる。


この肯定的意図は、その反応(プログラム)を担当する部分に注意を向け
探っていくことで調べることができます。

どんな反応を生み出すプログラムであっても、
「良かれと思って」やっているところがあると考えるわけです。

必ずしもその意図が満たされているわけではなく、
あくまでそれを「満たそうとして」やっている、ということがポイント。

「良かれと思って」といったのは、そういう意味です。
結果的に裏目に出ていることもあるけれど、
意図を満たそうとしてやっている、と。


手法として、この肯定的意図を調べるやり方にはバリエーションがありますが、
反応を担当する部分(=パート)に注意を向け、
そのパートを擬人化して会話を試みるやり方が主流のようです。

パートに質問するんです。
「そういう反応をすることで、何をしてくれようとしていたんですか?」
といった感じ。

で、この質問のフレーズにも色々な種類があるみたいなんです。

元々は英語で行われていたものを輸入していますから
英語から日本語に翻訳する上でのニュアンスの違いと、
翻訳者が必ずしも元の狙いを理解していない事情が重なり合って、
有効な質問のフレーズが曖昧になっているのが現状のように思えます。

場合によっては、アメリカで流派が広がっていく過程においても
重要なポイントを見逃しながらアレンジが加わった可能性もあります。

「そうすることで何が得られますか?」とか
「それによって何を教えてくれているんですか?」とかいった質問は
『意図』を把握するという観点からすると、不具合を起こしやすいはずです。

これらの質問だと、二次利得や合理化した考えが浮かぶ可能性があります。

もちろん、問題のない人もいるんです。
ただ、ポイントは「普段、意識にあがっていない意図を意識に上げる」ことなので
知的な作業をしやすくなるフレーズは避けたほうが無難だと思われます。
多くの人が「頭では分かっているけれど…」という部分で悩むわけですから。


その点、最もシンプルで的を得ていると考えられるフレーズが
「 What do you want for me? 」というもの。
(※ you はパートに対しての語りかけ)

これはコア・トランスフォーメーションを開発したコニリー・アンドレアスが
肯定的意図を聞き出すときに使うフレーズです。

ちなみに、コア・トランスフォーメーションというのは
肯定的意図を深掘りしていって心の底で追い求めているものを探り当て、
その”コア”とも呼べる状態に浸ることをメインの目的とした手法です。

肯定的意図を的確に探れる聞き方になっていないと
手法として上手くいかなくなる可能性もありますから、
さすがにこの辺のニュアンスには狙いが読みとれます。

「 want 」で質問しているのも、
「何かを求めてやっている」という『意図』の雰囲気に忠実です。
追い求めている何かがあるけれど、空回りしている感じ
…というのがイメージしやすい気がします。

そしてもっと重要なのが「 for me 」の部分。
「 me 」は言うまでもなく、パートの意図を探っている本人です。
部分ではなく、全体としての自分・私ということ。

つまり、
「私の一部分であるあなたは、全体としての私のために
 (普段から)何を追い求めているんですか?」
といった聞き方になっている、と。

「(普段から)」と書いたのは、英語の現在形が、その瞬間の現在ではなく
一般的に繰り返される傾向を述べるものだからです。

もちろん「 want 」であれば、その瞬間に欲しいものに焦点も当たりますが、
肯定的意図の観点からすると、「常日頃から追い求めている」という
ニュアンスがほのめかされるのが望ましいと考えられます。


それで、この「 What do you want for me?」という言い回し、
日本語に訳すのが難しいようです。

パートの肯定的意図について実感のない人が訳した場合、
「あなたは私のために何が欲しいのですか?」
とかいった良く分からない表現になりかねません。

「誰か他の存在のために、何かが欲しい」…
この感じがイメージできるかどうか。

喩えていうと、組織のために良かれと思って
「こうしたいんだ!」、「これが必要なんだ!」
と個人が主張するイメージでしょうか。

パートは常に、本人である全体としての自分のために
良かれと思ってやっている、
というのが「肯定的意図」の考え方のポイントなんです。

「 for me 」には、そこが反映されている。

この「 for me 」が抜けてしまうと、
「(パートである)あなたは、何が欲しいんですか?」
といった表現になってしまいます。

これだと、欲しがっているのはパートだけということになる。
パートがそれを良いと思っていても、
意識としての全体の私にとっては望ましくない可能性も出てしまいます。

「そのパートが何を欲しいのか知らないけれど、
 私はやっぱり嫌なんです!」
などの対立が続きやすい。

パートの意図を聞く目的は、全体としての統合にあります。
受け入れたい。
だからこそ「このパートは私のために頑張ってくれていたんだ」
という実感が求められるんです。

そのためには質問の仕方としても
「全体としての私のために良かれと思って」
というニュアンスを込めたいわけです。

それが「 for me 」の部分。

ですが残念ながら、このニュアンスが含まれた訳が少ないようなんです。
「あなたは何を望んでいますか?」なども目にします。

前述のコア・トランスフォーメーションが日本語訳として紹介されるときにも、
肯定的意図を深掘りしていくときの質問
「 If you could have that and if you have it now fully and completely,
 what do you, this part of me, want for me through having that,
 that is even more important? 」

「あなたが、望みどおりに、完全にそれに満たされたなら、
 そのことを通してあなたが欲している、もっと重要なことはなんですか?」
といった形に翻訳されているようです。

「そのことを通してあなたが欲している」の部分に
「私のために」が含まれていない。

あくまで、「全体としての私のために」というのが「肯定的意図」なんです。


この狙いをもっと分かりやすくしてしまうなら、
「そうすることで、私のために何をしてくれようとしていたんですか?」
とか、
「そうすることで、私のために大切な何を求めていたんですか?」
とか
「そうすることで、私全体がどんな感じになれると思っていたんですか?」
とかいった表現でしょうか。

細かい言い回しよりも、クライアントである本人が
狙いを分かって内側に問いかけられることが重要だと思います。

「空回りもあっただろうけれど、全体としての私のために良かれと思って」
というニュアンスが『パートの肯定的意図』のポイント。

そのニュアンスが伝わりにくい可能性がある表現には注意が必要でしょう。

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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