2014年02月

2014年02月28日

感動のタイミング

自分がどういうときに感動してきたかを振り返ってみると
最近は、少し感動の仕方にも違いが出てきたように思えます。

大雑把に分けると、2通りの感動があるようです。


1つは、ストーリー展開を追いかけていって、
自分の価値観とマッチした場面が訪れた瞬間。

ハッピーなときもそうですし、悲しい場面でも、自己犠牲的な場面でも
誰かのことを想っての行動をとる場面でも、
何かしら自分の価値観と合ったシーンで感動します。

この場合、その名場面だけを取り上げても感動しません。

何度も見てストーリー展開を覚えているのであれば
その名場面だけでも前のストーリーを思い出して感動するかもしれませんが、
それでも原則的に「その名場面までの流れ」が重要になります。

色々な伏線があって、状況を元に心情を追いかけていっているからこそ
その名場面での主人公の心境が察せられて感動するのでしょう。

その意味では、その主人公の背景がより多く分かってるほど感動も大きくなります。

映画でいうなら、続き物の第三作だけを見るよりも
一作目、二作目と続けて見てきているほうが心情を察しやすく、
より感情移入しやすい、といったところです。


もう1つは、背景やストーリー展開などとは全く無関係に、
その瞬間にその人が体験している感情そのものを捉えて
それに対して感動するものです。

その人が置かれてきた状況や、体験してきた過去などを知らなくても、
ただその瞬間の感情が感動的な意味を持つんです。

過去のストーリーの中身は想像さえできなくても、
そこに至るまでの感情の流れが想像できるような感じです。

その瞬間のその感情の強さと種類に、それまでの全てが集約されている。

濃密に圧縮された大きな心の動きは、それだけで感動的です。


おそらく以前は、1つ目の感動の仕方が多かったと思います。
ストーリーに感情移入する形で感動する。

映画や音楽で感動することが多かったのは、そのせいじゃないか、と。

それが徐々に、2つ目の感動の仕方が増えてきたようなんです。
感情表現そのものを捉えて、脈絡とは関係なく感動する。

比率は分かりませんが、少なくとも、感情そのもので感動する度合いは
以前よりも遥かに高くなっているように感じられます。

そのせいでしょう。
映画を見ても、感情表現の演技がリアルじゃないと感動しないのは。

映画で感動するのは随分と減った気がします。

逆に、スポーツなどで感動することが増えたかもしれません。
スポーツ選手は体にダイレクトな形で感情が表れやすいようですから。


このような変化が良いわけでも悪いわけでもないのでしょうが、
感動するタイミングはかなり変わったものだと思います。

日常の些細なことで小さな感動をする機会は増えたものの、
以前のように大きく心を動かかされることは減ってきた。

感情移入よりも、共感の度合いが上がったのかもしれません。

2014年02月26日

【セミナー】観察力養成講座〜個性の読みとり〜

ご案内: 3月9日(日)開催

   観察力養成講座 〜個性を読みとる〜



これまでにも観察と関わる講座を何度か開催してきました。

そのうちの1つは、観察のプロセスそのものを扱った内容でした。
どういうことに注目して、どういう風に観察していくか、ということ。
何を観察するかではなく、どのようなものに対してでも
観察によって得られるものを増やそうというコンセプトだといえます。

他には、感情の観察をメインとしたものも何度か行いました。
こちらのトレーニングは、相手の感情をどうやって読みとるかに主眼を置き、
相手の感情を把握する方法をパターンに分けて整理したものです。

また、感情を捉える土台としての共感力についてもトレーニングしました。

感情をターゲットとしたものが多いのは、
それがコミュニケーションと直結しやすいからです。
とりわけカウンセリングにおいては、感情の取り扱いが中核だともいえます。


一方、人を観察して得られる情報には、感情以外にも
もう1つ大きなカテゴリーがあります。

『特性』です。

相手の個性。
その人らしさ。
どういう傾向をもった人か。

これも観察で把握できます。
プロファイリングのようなことを観察でやる。
今回は、そのための着眼点の紹介とトレーニングを行います。


一般的には、相手の個性や傾向を知ろうとしたとき
・よく話を聞いて、相手を理解しようとする、か
・分類のツールを使って、相手をタイプ分けして理解しようとする、か
のどちらかであることが多いようです。

話を聞いて理解できる相手のことは、多くの場合、
その話の内容と関係あるものに限定されるものでしょう。
話してくれたことから相手を理解するわけです。

だから多くの人は、相手のことを知りたいと思ったとき
色々と質問をしたり、会話の時間を長くとろうとすると考えられます。

採用の面接や初対面のときなどは、会話の内容が重視されるようです。

心を開いてもらって、たくさん話してもらう…といった発想が生まれるのも
話の内容から理解しようとするスタンスが前提でしょう。

これは裏を返すと、話してもらっていない部分については
相手のことを知る由もない、ということです。

知るのには時間がかかり、また時間がたつほどに
”意外な一面”が数多く見えてくるものじゃないでしょうか。

しかも、コミュニケーションの量が少ない段階ほど、
自分の先入観に当てはめて、主観的に相手を理解しやすくなる傾向もあります。

好意的な印象を持っていれば、自分の好きな特徴を強調して捉え
嫌いな部分は見逃してしまうことが多くなり、
否定的な印象を持った場合には、嫌な部分ばかりを強調して捉えるようになる。

情報が断片的で偏っているからこそ、ニュートラルな認識が難しいといえます。


一方、プロファイリングのツールを使うと、ニュートラルさは維持しやすい。
「こういうタイプの人は、こういう風に振る舞うものだ」と客観的でいられます。

注目する部分に関してはニュートラルでいられる一方、リスクとして
 そのタイプ分けの分類で人を見てしまって、タイプから離れるところを見逃す
という可能性もあります。

全ての人がタイプ分けに登場する典型例のような傾向をもっているわけではなく
中間的だったり、混ざりあったりしたような特徴を示すこともあるでしょう。

さらに重要なのは、NLPで捉える「プログラム」という観点からすると
状況によって人の振る舞いのパターンは変わることも無視できません。

プロファイリング・ツールを使ったタイプ分けをすると
「この状況ではそうだけど、別の状況では違うタイプになる」
という部分に関しては判断が難しくなります。

おそらく、そういったことも含めて”全体的な傾向”として捉えるのでしょうが、
それは裏を返せば、状況別の細かい変化については目をつぶり
大雑把な傾向を把握することを優先している、ともいえます。

また、プロファイリング・ツールを使うに当たっては
 判断のための情報収集に時間がかかる
場合もあります。

事前に質問集に答えてもらって、採点して、集計して、やっとタイプが判定されるとか
傾向を調べるための定型の質問をして返答に表れる言葉のパターンを分析して
パターンを判別していく、とか。

つまり、コミュニケーションの始まる前の段階から調べておくか、
会話のうちの一部分をプロファイリングのための時間として割くか、
いずれかの工夫が求められるようです。


今回の講座で扱うのは、以上に挙げたようなものとは異なります。

人の特性・個性を把握するという意味ではプロファイリングともいえるでしょうが、
その進め方が違うんです。

会話の内容から相手を理解するものではありません。
観察によって相手の特性を把握します。


個性の際立った部分に目を向けますので、その注目の基準は
あくまで「平均よりも〜だ」といった判断になります。
自分の好きなところばかり偏って見る傾向は減らせるはずです。

さらに観察して判別する特徴の一部は、「大きい⇔小さい」のような
両極の傾向となりますから、最終的な判断がニュートラルなものになります。

あたかもプロファイリング・ツールを使ったときのような結果が得られます。

ですが、プロファイリングのツールは使いません。
事前に判定テストを行ったり、
会話の一部を判定のための質問に割いたりはしない。
観察だけで判定します。


観察可能な特徴から傾向を捉えていくわけです。

ここでも際立った特徴を重視して捉えますから、得られる情報は
「この人は、〜な傾向が強い」という形の結論です。

「○○なタイプ」とは判定しません。
ですから、何種類かのタイプに分けて、
その典型例に当てはめて理解するということにはならないんです。

あくまでも『強い傾向』を見つけていくだけのことです。


観察によって個性や特性を捉えるためのトレーニングをする講座です。

ここでいう個性や特性は、その人の持ち味ともいえます。
その特性によって、何が得意かも推測できます。

また世間一般で「性格」と呼ばれるようなものに関しても把握できますから
人間関係の相性や、関わり方のヒントも得られると期待されます。

相手の強みを捉えられるようになると言ってもいいでしょう。

人と関わる職業の方にとっては、初対面の瞬間から
相手の個性を把握する情報量が増えますから、大いに役立つと思います。
人事的な観点が求められる場合にも重要でしょう。

またカウンセリングにおいては、
その人の個性に合わせて問題解決の技法を選べるようになります。

持ち味を活かすと問題解決がスムーズになりものですし、
逆に、個性が裏目に出て問題になるケースも多々ありますから
その場合には必要なトレーニングの方向性も見えてくるはずです。

もちろん実習を通じてお互いに個性を把握するトレーニングをしますから、
自分では想像もしていなかった自分の強みが見つかる可能性もあります。

自分についても、他者とのかかわりにおいても
相手の個性を把握することができるのは有効ではないでしょうか。


今回は特に、普段こちらで使っている着眼点を紹介して
それについての事例を交えた解説も入れていく予定ですので、
「どの部分に注目して、どういう個性を把握すると役立つか」
を体験していただきやすいのではないかと考えています。

着眼点の解説とトレーニングを組み合わせながら
「その人らしさ」を捉える見方を養う。

そんな時間になると思います。

思い込みや期待で人を見ないようになるのではないかと期待されます。
「あんな人だと思わなかった」とか「あの人は一体なんなんだ?」とか
そういった感想を持つことさえ減っていくかもしれません。

「あの人はどういう人なのか?」を垣間見ることができる方法ともいえそうです。

人を知りたい、
人間を理解したい、
といった目的にも合うと思われます。

他人のことを理解できる量が増えてくると、関わり方の幅が大きく広がります。
何より、人のことを少しでも理解できること…それ自体が面白い。

他者へ興味を持つことのできる方には特にオススメです。

ご興味とご都合が合えば、是非お越しください。



◆今回の講座で期待されること

●個性を捉える際の着眼点を把握できる

●個性を読みとる観察技術を磨ける

●変えられる個性と本質的な個性の違いを捉えられるようになる

●思い込みや期待ではなく、その人らしさに目が向きやすくなる

●自分自身の個性についての洞察が深まる

●他人の理解が深まることで、人間関係の負荷が減る

●「人」というものの性質が実感されて日常の安定感が増す



◆録音/録画、再生機材に関しまして

トレーニングとして動画を再生して観察する時間を予定しています。
ノートパソコン、スマートフォン、タブレット端末などの
動画再生装置をご持参下さることをお勧めいたします。

また、ICレコーダーやビデオなどを用いた講座全体や実習の記録は
個人的なご利用の範囲でお願いいたします。

※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
 十分にご配慮ください。






【セミナーの詳細】

観察力養成講座 〜個性を読みとる〜

【日時】  3月9日(日)
       9:30〜16:00


       ※開始時間にご注意ください 
       ※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。

【場所】 五反田文化センター 第2講習室
    (JR山手線・五反田駅より徒歩15分)
    (東急目黒線・不動前駅より徒歩8分)

【参加費】 ・・・15,000円 

       当日、会場にてお支払いください。


    ★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
     ご了承ください。




終了しました

これまでに多くの人と出会ってきました。

人数とすればプロとしてコミュニケーションをするようになってからのほうが
遥かに多いように思えますが、その前にも多くの人と会っています。

学生の頃、会社員の頃、コミュニケーションの勉強を始めたばかりの頃…。

今から振り返ると、本当に何も分かっていなかったものだと感じます。
期待をして、誤解をして、思い込みで関わって
相手を傷つけたり、自分が苦しい思いをしたりしたものです。

その頃に出会った人たちの様子を今こうして頭に浮かべれば
どういう個性の人で、どういう関わりが望まれたかは、容易に想像できます。

もちろん、それがあっている保証はありませんが、少なくとも
あのような誤解でややこしいことになる理由は明らかだったと思います。

あんなにも仕草や姿勢、振る舞い、声のトーンに表れていた特徴だったのに…。

記憶にあるイメージでさえ、その特徴を残しているんです。
そのときに、今と同じような観察をしていれば、
ああいったことにはなる可能性は大きく下げられただろうと思えます。

後悔しているわけではありません。
あの頃の自分が出発点だっただけのことです。

見えていなかったんじゃない。
見ていなかったんです。

明らかに示していたことを見ていなかった。

自分にとって大切な人間関係だと思っていたのに、です。
大切な人たちのつもりだったけれど、実際は見ていなかったんです。

自分が思い込みで作り上げた勝手なイメージばかりを見て、
「あの人はこういうタイプのはずだから」と期待していたと思います。

「大切だ」と言いながら、自分にとって大切なところだけしか見ていなかった。
大切なはずなのに見ていなかったんです。

そんなに大切なものなら、もっと関心が向いても良さそうなものですが。

おそらく、あの頃の自分にとって大切だったのは、
その人たちと関わっている時間や、その人たちと関われる自分だったのでしょう。
その人たちと関われている自分が好きだったのかもしれません。

地道なトレーニングの結果、少しずつ見方が変わってきたようです。

今は、相手に関心を向けている自信がそこそこあります。
あの頃より、もっと見ている自信があります。
見ているから少しは相手のことを分かるようになった気がします。

ただ、関心を向けようとして努力してきたわけではないんです。
相手を理解するための練習が楽しかった。
観察して人の中身を把握できることが面白かったんです。

それで人を見続けてきました。

その結果、見え方が変わったようです。
気づいたら自然と多くの部分に注意が向くようになっていました。
見るところが1つ1つ増えていって、沢山に注意を向けるようになりました。

そして人に関心を向けることの意味が実感できてきた頃、
いかに過去の自分が、他人に関心を持っていなかったかを知ったんです。


人に関心を向けるのは簡単ではないのかもしれません。
しかし、その意義は大きい。

そのための1つのルートが、相手の個性を理解しようとすることではないでしょうか。

理解できるかどうかといわれれば、正確には不可能です。
だからといって理解しようとしないのは、相手に関心を持たないのと同じです。

理解しようとする姿勢が相手に注意を向けさせる。
少しでも多く理解したいという思いが、より多くのポイントを観察させてくれる。

そういう意味でも役に立つ内容ではないかと思います。

お越しをお待ちしています。

2014年02月23日

変えるのか、変わるのか

いつの頃からかは思い出せませんから
少しずつ変わってきたんだと思いますが、
どうやら僕は人に変化を求めなくなったようです。

変えようとしない感じ。

以前は「放っておけない」傾向が強かったですし、
「なんとかしたい」と思っていた時期もあります。

「自分が何かをしなければ」と駆り立てられるように感じていたこともありました。

時にそれは社会への問題意識となったりもしたものです。


それがいつの間にか消えていました。
変える必要なんてないと感じているのかもしれません。

僕が心に興味を持ち始めた頃、まさに「放っておけない」典型だった僕は
なんとかして人を助けたいと感じていたように思います。
必死で変えようとしていた。

そして何人かの先生から「変えようとしてはいけない」と言われました。

でも、言われて済む話ではありません。

心理療法やNLPなどを学んでいる過程でも、
人への関わり方の姿勢を習ったものです。
「変わるのは本人」
「変化に必要なものは本人の中にある」
「変えようとするのではなく、サポートするだけ」
などと。

そうはいっても、関わる以上は望ましい結果を出そうとしますし、
”変化に必要なものを本人の中から引き出そう”としていた時期もあります。
結局、どこかで「変わって欲しい」と願っていたんです。


徐々に変わっていった理由の中には、
 人の変化を間近で数多く見てきた
ということが関係しているかもしれません。

どうすれば人が変わるか?
どういう風に物事が進んでいくのか?
…といったことが経験として蓄積してくることで
「まぁ、大丈夫。なんとかなるものだ。」
と安心できるようになったのではないか、と。

それによって「変え”ようとしない”」傾向は自然と強まっていったと思います。

それでも自分の想いとして、「変わることは望ましい」というものがあり、
 「わざわざ無理に変えようとはしないけれど、変わってもらいたい」
とは感じていた気がします。


どうも最近は、それさえもなくなってきたようで。
「変わってもらいたい」とさえ思っていない。

ところが面白いことに、「変わってもらいたい」とも思っていないぐらいのほうが
なぜか変化のサポートはスムーズに進むようなんです。

仕事柄、技術的なアドバイスをしたりフィードバックしたりすることがあります。
当然、「相手の技術が向上する」という”変化”を目的としています。

ただ、そういうアドバイスやフィードバックが無責任というか、
それによって「変わってもらいたい」という感じがしない。

関わる上で、最大限のことをしようとはするものの、
その先の結果として、相手の変化を求めていないのかもしれません。

相手の変化のために最も効果的だと考えられることを
できるだけのクオリティでするところまでが、自分の目的になっているような。


変えようとしないほどスムーズに変わるということを体験すると、なんだか
 そもそも人は放っておけば上手くいくように変わっていくもの
なんじゃないかとさえ思えてきます。

だから余計に変えようとしなくなる。

そんな循環もありそうです。

2014年02月21日

価値観とメタプログラム 〜価値観を変える

(※価値観とメタプログラムの話の続きです)
 価値観とビリーフの話はこちら
 メタプログラムの話はこちら


”メタプログラム”と呼ばれるものの大部分は実際のところ
「プログラム」そのものであって、
その中身は『価値観』と同じような形をしていると言える。

そういう内容を前の記事で説明しました。


そして、『価値観』は『価値』の順列であり、
ある『価値』に注目する傾向と、他の『価値』に注目する傾向とを比べたとき
どちらにより注意を向けやすいかという差であると表現できます。

例えば、「丁寧さ」と「スピード」という2つの価値を比べたとき
どちらにより注目する傾向があるかによって、
「スピードよりも丁寧さのほうが大切だ」という『価値観』が捉えられるわけです。

その際には、イメージの中で「丁寧さ」に相当する部分(サブモダリティ)が
何かしらの形で表現されています。
注目しやすいように、意味合いを感じやすいように、強調されているんです。

そのように「丁寧さ」を強調して物事に注目するような準備がなされている。
「丁寧さ」を認識するためのフレームが常に準備されているともいえます。

つまり、『価値観』とは、その大切な『価値』を捉えるために
他よりももっと強調されている認知のフレームだということです。

「スピード」よりも「丁寧さ」を大切にする『価値観』は本来、
 「スピード」の要素を捉えやすくするために強調されているフレームよりも
 「丁寧さ」の要素を捉えやすくするために強調されているフレームのほうが
 その強調の度合いが強く、印象に残りやすい
という差によって自覚できるはずなんです。


このように『価値観』は、『価値』のフレームの強調度合いの差として表れますから
そのフレームの強調度合いを調整することで、
「どちらをより強調して捉えやすいか」の傾向も変えられることになります。

一言でいえば、リフレーミングできる、と。

「丁寧さ」と「スピード」の価値のフレームを変える(=リフレーミング)すれば、
どちらを重視するかは変わるものなんです。

まぁ、当たり前といえば、当たり前です。

人は生きている間に様々な経験を通して、その人なりの価値観を変えていきます。
どの価値を優先するかは経験によって変化するものなんです。

例えば、過去に誰かを些細な一言で傷つけてしまった経験が印象に残っていれば
会話の際に、自分の発する言葉に対して「慎重さ」という価値を見ようとするでしょう。
常日頃から「慎重」に発言しているかどうかに注目するようになる。
「慎重さ」を大切にする『価値観』を身につけるわけです。

それ以前には「慎重」かどうかに注目せず、
例えば会話の「楽しさ」に注目していた人が、
1つの衝撃的な経験を元に、「楽しさ」よりも「慎重さ」に目を向けるようになる。

そういった価値観の変化はザラに起こります。

この際に起きているのが、
 どの価値に注目するかというフレームの強調度合いの変化
なんです。

実体験によってリフレーミングが起きるということです。

実体験によってリフレーミングできるのですから、当然
仮想体験によってもリフレーミングできます。
言葉によって仮想のイメージを引き出し、
その仮想イメージの中の体験でフレームを変えられる。


しかし、ここに気をつけたいポイントがあります。

このリフレーミングは外からしか起きにくいんです。

言い換えると、何か予想もしていなかったインパクトのある体験をするか、
誰かからかけられた言葉で物の見方がコロッと変わるか。
「外から」とは、そういう意味です。

自分ではリフレーミングしにくいんです。

「しにくい」というよりも、普通「するはずがない」ともいえます。

なぜなら、自分の価値観だからです。
自分にとって大事だと思っていることを、わざわざ
「いや、こっちを大事にしたい!」とは思いつくはずがありません。

仮に、仕事において「お客さんの笑顔」を大切にしているとしましょう。
一方、「利益」は重視していない。

そういう人が、誰かから「お客さんの笑顔よりも利益が大事でしょう?」
と言われたとして、その価値観を変えるでしょうか?

つまり、価値観はその人にとって、自分が大事だと感じていることですから、
わざわざ自分から価値観を変えようとはしない、ということです。

それが「価値観のリフレーミングは外からしか起きない」という意味になります。


ところが、NLPには技法として「価値観(価値の順列)を変える」方法があります。

その技法では、自分から「この価値をもっと大切にしたい」と判断して
それに合うように、価値観(価値の順番)を変えるようにするんです。

これは作業として可能ですが、
実際にプログラムの中身として起きているものは別だと考えられます。

たしかに経験的には、
こういう価値の順列を変える実習にも違和感がないものなんです。

「本当はもっと自分の都合を優先したいのに、つい頼まれると断れない。
 だから「自分の都合」という価値を、頼まれると断れない「責任感」よりも
 大切にできるようになりたい。」
…といった感じで実習が始まる。

実はこの時点では、ある意味で、もう価値の順列は入れ替わっているんです。
「責任感」よりも「自分の都合」が大事だと感じている(ところがある)からこそ
「自分の都合」のほうを大事にできるようになりたいと思うんです。

そうでなければ、変えたいと思うわけがありません。
全力で「いやいや、責任感のほうが大事ですよ!」と言い切るでしょう。

にもかかわらず「こっちを大事にできるようになりたい」と言う。
不思議なことが起きています。

これは言い換えると、感情的・思考的な捉え方の価値観としては
「責任感」よりも「自分の都合」のほうを重要と位置づけていることになります。

一方で行動的には、その状況に応じた自然な反応のレベルのプログラムとして
つい「責任感」を大切にする行動をとってしまう、ということです。

こうしたことが起きるのは、
自分が常日頃から意識に上がりやすいプログラムとしての価値観
(=「意識の心」としての価値観)と、
自然ととってしまう行動レベルのプログラムの奥にある意識に上がらない価値観
(=「無意識の心」としての価値観)との間に、
大きなギャップがあるからです。

その”望ましくない行動”のプログラムの奥にある価値に気づいていないから、
全体としての自分における価値の順列(価値観)が統一されていないんです。

常日頃から意識に上がっているプログラムだけを”自分”と考え、
その”意識の自分”にとっての価値観が「自分の価値観」のように思ってしまう。
結果として、意識に上がっていない価値観との間に葛藤が生まれる、と。

”意識の自分”のプログラムが、
意識に上がっていない(”無意識の自分”の)プログラムを表面的に判断して、
それを「望ましい」か「望ましくない」かで評価するんです。

「望ましくない」と評価するから、それを変えたいと感じられる。
同時に”意識の自分”の価値観は、既にその順列になっています。

”意識の自分”の価値観(価値の順位)と
”無意識の自分”のプログラムが生み出す振る舞いの傾向(頻度)との間に
違いがある。

”意識の自分”の価値観では「責任感」よりも「自分の都合」を大切だとするのに、
振る舞いとしては「責任感」に沿った行動の頻度のほうが高い。
だから「「自分の都合」を大切にしていない」と評価する。

それで”意識の自分”の価値観と合うように
”無意識の自分”の価値の順位を変えようとするわけです。

NLPで行われる「価値観(価値の順列)を変える」技術は、このように
”意識の自分”の価値観と、”無意識の自分”の価値観との間にあるギャップを
”意識の自分”の順列に合わせるようにする手法だといえます。

つまり、”意識の自分”の価値観を変えようとすることはあり得なくて、
”無意識の自分”の価値観を変えようとする、ということになります。


この観点からすると、もう1つのやり方もあるんです。

それは”無意識の自分”の価値観を「全体の自分」の価値観に統合するということ。

”無意識の自分”のプログラムの奥にある価値を探り続ける。
そうすると、そのプログラムは”無意識の自分”のものではなくなっていきます。
常日頃から意識に上がる、馴染みのあるものになるからです。

自然と”意識の自分”の一部になっていくんです。

そうすると、”意識の自分”の価値観が
「そうか、こっちも大事だよな」といった感じで徐々に変わってきます。

それまで”無意識の自分”だけで大切にされていた価値が意識に上がるため、
そちらも自然と「全体の自分」として大切なものへと受け入れられていく。

どちらかというと、”意識の自分”の価値観が変わっていく感じです。

こちらは意図的に「価値観を変える」印象ではないでしょう。
ただ自然と統合されていくだけ。


面白いものだと思います。

一方は、
”意識の自分”と”無意識の自分”を切り離したまま
”無意識の自分”を”意識の自分”に従わせていく流れ。

もう一方は、
”無意識の自分”の価値観を意識に上げることで
”無意識の自分”だったものが”意識の自分”の一部になっていく流れ。

後者は捉え方を変えると、
”意識の自分”が”無意識の自分”へと取り込まれていく
ようにも思えるかもしれません。

どちらが正しいなんてことはないんでしょうが、
「価値観を変える」という発想は、配慮が求められるものかもしれません。

cozyharada at 23:52|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | NLPの基本情報

2014年02月19日

価値観とメタプログラム◆ 船瓮織廛蹈哀薀爐砲弔い

(※価値観とメタプログラムの話の続きです)
 価値観とビリーフの話はこちら

1つ前の記事では、『価値』と『価値観』について説明しました。
『価値観』は複数の『価値』の順位づけであって、
『価値』は、内的な体験のイメージの中で注目される部分という話です。

イメージの中で「どのように」として表される部分が『価値』に対応して
そこに自然と注目してしまうから、それを大切だと判断するわけです。


で、もう1つ似たようなものとして
NLPでは『メタプログラム』という概念が説明されます。

提案された当初のコンセプトからは離れてきてしまった感じもしますが
今では「特性の傾向分類」のように見受けられるものです。

名称に「メタ」という言葉が含まれているように、NLPでは
人生の様々な局面に表れる”上位のプログラム”のように言われます。
ある瞬間だけに限定された個別のプログラム(例えば「犬が恐い」など)
ではなく、全体的な傾向として見て取れるものだ、というわけです。

今となっては「どういうものがメタなのか?」の観点は不明瞭になっているせいか、
メタプログラムとして扱われるものは、1つの共通の性質があるかどうかで
「メタプログラム」と呼ばれるかが決まっているようです。

その性質とは、「ある基準で振る舞いの傾向を分類する」ということ。
特性に軸を与えるようなものです。

必ずしも対極的ではないのですが、大部分は「大きい⇔小さい」のような
二極をもった特性のカテゴリーとなっています。
”サイズ”に注目すると、両極として「大きい」「小さい」が設定される
といった感じです。

実際の例を挙げると、「方向性」というメタプログラムでは
「目的志向」と「問題回避」の2つの極を想定します。

その人の行動傾向として、目的や結果に注目する傾向の”強い”人もいれば
問題に目を向けて回避しようとする傾向の”強い”人もいる、と。

目的や望ましい結果に目を向ける傾向が”弱い”場合には、必然的に
問題に目を向けて回避しようとする傾向が”強い”ことになります。

その意味で対極であって、2つの極があるということになるわけです。

ですから、どちらかの”タイプ”に分類されるのではなく、
傾向としてどちらが強いか?という形で判断されます。

喩えるなら、白と黒ではなく、何%グレーかということです。


しかし、こういう分類の仕方は、あくまで他者を客観的に見て
その人の振る舞いの傾向を分析しているだけであって、
「本人の内側で何が起きているか」という『プログラムの中身』には
注目していないことになります。

実際、NLPをやる人たちにも色々な流派があって、
価値観やらビリーフやらメタプログラムやらを
「そういうものがあるんだ」という前提で
着眼点や説明の方法として使う人たちも大勢います。

その場合には、プログラムの中身は注目されません。

一方、プログラムの中身を理解しようとする人
(スティーブ・アンドレアスが代表的)にとっては、
「本人が何を体験しているか」を記述することが重要とされます。

用語として与えられた概念に当てはめて他者を判断するのではなく、
他者の内的な体験を内的表象(五感レベルのイメージ)として捉えるんです。

『価値観』について比較するなら、
着眼点や説明の方法として理解する場合には
「本人が大切にしているもので、それによって体験の評価がなされ、
 ビリーフと結びついて機能する」
といった形になりますが、
内的表象として価値観を表現すると(最初に書いたように)
「イメージの中で強調されて表れる『どのように』に対応する内容」
という形になります。

プログラムの中身を、本人の内的な体験として捉える場合には、
どんなプログラムであってもイメージに反映されることになるわけです。

そうすると、メタプログラムと呼ばれるものであったとしても
「その違いは、どんな内的体験の違いが生み出しているのか?」
という中身まで踏み込んで表現できるはずなんです。


ただ僕は、メタプログラムを内的なイメージとして説明するのを見たことがありません。

それでも僕は中身を捉えたいので、その観点でメタプログラムを説明します。

すると。

大部分のメタプログラムは
 内的表象(イメージ)の中に表現される
ことになります。

しかも「どのように」という形で。

つまり、価値観と同じように表れているんです。

なので僕からすると、メタプログラムと呼ばれるものと
価値観と呼ばれるものとの違いが良く分からないんです。

本音を言えば、価値観で良いじゃないか?という気さえします。

先に説明した通り、メタプログラムとされるものの特徴は
「両極がある」ということです。
(中には3つの項目、5つの項目に分類されるものもありますが、
 それはただレーダーグラフで表現されているだけのことです。
 「どの傾向が強いか」という意味で大差ありません。)

例えば、「効率」という価値に注目すれば
その対極として「品質」のようなものを想定できるでしょう。
工場で大量生産するのと、職人が丁寧に手作りするのとの両極です。

また、「クリエイティブ」の反対には「着実」などが想定できるかもしれません。

相反するような対極的な価値もあるんです。

そこで「どちらが大切か」という『価値観』に目を向けると、
「効率と品質では、効率のほうが大切です」といった形になる。
それは内的な体験として、”効率”に対応するイメージに
より注目しやすい、ということです。

価値に順位をつける作業ですから、まさに価値観そのものです。

これはメタプログラムと呼ばれるものにおいても同様なんです。

先ほどの「方向性」の例であれば、
「目的」や「目標」という価値に注目するか
「問題」や「課題」という価値に注目するか
の傾向の違いといえます。

当然、「目的」や「問題」も内的なイメージに反映されます。
『価値』と呼んで差し支えがないはずです。
対極として分類した2つの価値を説明しているだけ。

「方向性」のメタプログラムが「目的志向」だということは、つまり
 「目的」の価値と、「問題」の価値とでは、
 「目的」の価値により注目しやすい
という内的な体験の傾向を述べていることになります。

それは「目的と問題では、目的のほうが大切です」
といった価値観だと解釈することもできるんです。

結局のところ、内的な体験としては
大部分のメタプログラムは価値観と同じだという話です。


もしかすると、
「別に言い方が違ったって構わないじゃないか?
 対極として整理できることにメリットがある」
という考え方もあるかもしれません。

しかし、メタプログラムという発想の中には
”上位のプログラム”という見方が含まれているんです。

”上位”とは、「より影響力が強い」と捉えられがちです。
場合によっては、「メタプログラムは変えにくい」とさえ言われることもあります。

にもかかわらず、価値観は変えられるとされる。
中身に注目すれば同じです。

ですからメタプログラムも変えられます。

むしろ個人的には、メタプログラムと呼ばれる種類の価値観のほうが
よっぽど変えやすいと思います。
(※価値観やメタプログラムを変える話題は別にするつもりです)

重要なのは、メタプログラムという呼び名で分類することで
何か余計な印象をつけてしまうリスクがあるということ。

実態は価値観と変わらないと考えられます。

強いて違いを挙げるなら、
 『価値観』は本人にとっての重要度が非常に高いので
 本人が「大切だ」と自覚している傾向が強い
のに対して、
 『メタプログラム』と呼ばれる価値は本人が重要だと自覚する度合いが低く、
 その結果としての振る舞いの傾向に気づいていないことが多い
ということでしょう。

ある意味ではメタプログラムに分類されるもののほうが”無意識的”だといえますが
内的な体験の中身は、(大部分の)価値観とメタプログラムは同じはずです。


なお、「大部分の」と注釈をつけたのは
一部のメタプログラムは価値観ではないからです。

内的な体験として別の種類のものが
同じ概念として説明されているのが現状なんです。

例えば、
「主体行動」と「反映分析」で説明される「主体性」という”メタプログラム”や、
「オプション」と「プロセス」で説明される「選択理由」という”メタプログラム”は
『タイムライン』というプログラムに対応します。

「内的基準」と「外的基準」で説明される「判断基準」の”メタプログラム”や
「回数」、「直感」、「疑心」、「期間」で説明される「納得」の”メタプログラム”などは
『ストラテジー』と『価値観』の組み合わせで説明できてしまいます。

「対極的な傾向に分類される特性」という着眼点だけで
”メタプログラム”というものを整理すると、
このように内的体験が別物のプログラムが混ざってしまうんです。

中でも特に重要なのは、
 「内向」・「外向」で捉えられる「関係性」の『メタプログラム』などが、
 内的体験の中身として説明できない
ということです。

内向・外向の違いは、
 本人が体験する内容の中身を、
 ・体の内側の情報を中心とするか
 ・体の外側の情報を中心とするか
の段階で起きるものです。

いわば、プログラムの作り方の傾向なんです。

「プログラムの中身がどうなっているか?」

「プログラムがどうやって作られているか?」。

価値観やタイムライン、ストラテジー、ビリーフなどは全て
「プログラムの中身がどうなっているか?」についてのものです。
内的体験のイメージを調べることで説明できるんです。

しかし、内向・外向の違いは
「プログラムがどうやって作られているか?」
についてのものです。
内的体験のイメージの中に、そのまま出てくるものではありません。

「プログラムがどうやって作られているか?」ということは、
まさにこれこそ『メタプログラム』と呼ぶべきものじゃないでしょうか。

そしてこれは変わりにくい。
内的なイメージを扱うことでプログラムを変えるNLPの技法では
このレベルに対処するのは困難です。

どうやら、元々『メタプログラム』という概念が提唱されたときには
このような着眼点で数種類が挙げられたみたいです。

それが表面的な「対極的な特性」という部分だけで理解されてしまった結果、
「プログラムの中身がどうなっているか?」に関する対極的特性分類まで
”メタプログラム”として整理されるようになったのかもしれません。


内的な体験の中身としてNLPを理解しようとすると、
 現在”メタプログラム”と呼ばれるものには、色々なものが混ざっている
ということが見えてきます。

その中には、まさに『メタプログラム』と呼ばれるべきようなものもあれば、
『価値観』や『タイムライン』、『ストラテジー』も含まれています。

他者のプログラムを名前で分類して判断する目的であれば
現状の”メタプログラム”と呼ばれる着眼点には利用価値があります。

その着眼点を絞り込み、さらに言語的な傾向と結びつけて
プロファイリングしやすく加工した「LABプロファイル」という技術となれば、
他人とのコミュニケーションのツールとして大いに役立つでしょう。

しかし、
 人をプログラムとして捉え、プログラムを変えられるようにする
という目的に沿って考えた場合、
プログラムとプログラム以前のものとは分けたほうが都合がいいはずです。

NLPの技法を使って変えられる部分なのか?の判断に関わりますから。

NLPの技法でプログラムは変えられる。
メタプログラムはプログラム以前の傾向だから
地道な学習によってしか変えられない。
…そんなシンプルな分類にも実用的な価値があると思います。

なんでもかんでもNLPの技法で対処するわけじゃありません。

視力が2.0の人と、0.1の人では、見えている世界が違うわけです。
プログラム以前の問題です。
それはNLPの範囲じゃない。

同様に、プログラムの周囲にあってプログラムじゃないものは
NLPの技法で扱う範囲じゃないとしても良いんじゃないでしょうか。

そこの区別ができるようになるのも、
人を理解しようとするにあたっては大切なことのような気がします。


まぁ、もう現在の形の”メタプログラム”というものがまかり通っていますから
今さら受け入れられる発想ではないと思いますが…。

cozyharada at 23:20|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | NLPの基本情報

2014年02月18日

価値観とメタプログラム  漸礎祐僂肇咼蝓璽佞砲弔い

NLPでは『価値観』をプログラムの一種と捉えます。

正確に説明しようとする人たちは、さらに『価値』と『価値観』を分けます。

『価値』というのは言語的に与えられた捉え方全般のことで
人が注目できる抽象的な対象のことを言います。

名詞や動詞の大部分は絵は動画で表すことができます。
音声までつければ大抵の動詞は動画で表現できるでしょう。

つまり、見たり聞いたりしてハッキリと分かるものなんです。

一方、形容詞や副詞など、「どのように」の要素も人は言語化できます。
「早い」とか「大きい」とか「丁寧に」とか「大らかに」とか「大胆に」とか…。

直接の名詞や動詞には表現されない「どのように」という修飾語は
イメージの中で、その名詞や動詞を加工する形で表れます。
まさに「修飾」しているわけです。

また動詞の中にも、見たり聞いたりして判断できないものがあります。
「動作」そのものというよりは、心情などの「どのように」を含むものです。
例えば「信じる」とか「期待する」とかでしょうか。

もしかすると「成長する」なんていうのは、
見た目だけで動きとして表現できそうに思うかもしれません。
「時間が経つにつれて大きさが増えていく」感じでしょうか。

しかし、それだと「拡大する」や「大きくなる」、「伸びる」と区別できません。

「これは『大きくなった』んじゃない、『成長した』んだ!」
と違いが分かるためには、「どのように」大きくなったかが重要なはずです。
おそらくポジティブな印象も含まれますから、その「良くなった」雰囲気が
イメージの中に反映されている必要があるということです。

以上のような「どのように」の内容を名詞の形にして一言で表現したものを
『価値』と呼びます。

ですから、
「早さ」、「丁寧さ」、「大らかさ」、「大胆さ」、「信頼」、「期待」、「成長」…
のようなものを『価値』というわけです。


以上のような価値は言語として共有されている以上、
全ての人が注目する可能性を秘めています。

少なくとも、言葉にして指摘されれば注目できるはずです。

しかしながら、「どこに注目する傾向があるか」には個人差がある。

例えば、「早さ」よりも「丁寧さ」のほうに注意を向けることが多いとかです。

この様々な『価値』に対する個人的な重要度の評価を『価値観』と呼びます。
「Aの価値とBの価値では、どちらが重要か」といった話です。

それは単なる一対一の比較ではなく、人生の様々な局面において
重要な『価値』のランキングのようなものとして捉えられていることが大半です。

だから、「私の仕事における価値観は丁寧さです!」なんて表現したりする、と。

まとめると、
 『価値』は「どのように」として捉えられるもの全て
であって、
 『価値観』は『価値』の重要度をどういう順位で評価しているか
ということになります。


ちなみに、この辺りの用語に関しては同じNLPの世界でも
流派によって呼び名が異なっていますからご注意ください。
当然、他の心理・自己啓発系の分野での呼び名とも異なるでしょう。

オススメは、その呼び名で覚えるのではなく、
その名称が指し示している中身で理解する方法です。

そうすると、「ああ、この人のいう『価値観』は〜のことだな」
と整理できるようになるはずです。

繰り返しますが、
『価値』はイメージ(=内的表象)の中で注目される可能性のある全て、
『価値観』は全ての『価値』の中で、個人にとっての重要度の評価、
です。

ですから、「あ、”どっちが大事か”という順番のことを話しているな」
と思った場合には、その講師の使う呼び名にかかわらず、
「重要度の評価の順位づけ」として理解すると良いんじゃないでしょうか。
(もちろん、ここでは『価値観』と呼んでいるもののほうです)

参考までにNLPの用語の関連づけておくと
『ビリーフ』と『ビリーフシステム(信条体系)』との対応と似ています。

『ビリーフ』は1つの個人的経験則です。
社会通念と一緒だったとしても、そう考えない人が一人でもいる以上
それは”個人的”な考えとして捉えます。

「〜したら、…なる」とか
「〜って、こういうものだ」とか
「〜なときは、…なものだ」とか。
そういう考えを『ビリーフ』と呼びます。

ですから『ビリーフ』は人の中に沢山あると言われます。

一方、それぞれの『ビリーフ』にも重要度がある。
常日頃から重視して生活しているものもあれば、
「まぁ、そうだけどそんなに人生に関係ない」というものもあります。

さらに、「〜なのは、…だからだ。だって、○○だし。」などと
1つのビリーフをさらに別のビリーフで捉えていることもあります。

このように沢山のビリーフが複雑なネットワークを作っていて
大事なものや、そうでもないものなど色々と含まれているといえます。
これを全体的に見たものが『ビリーフシステム(信条体系)』と呼ばれます。

『ビリーフ』は単品の考え、個人的経験則のこと。
『ビリーフシステム』は、そうした経験則や考えがネットワークとして
重要度の評価や理由づけをしながら人生全体に関わっている様子を
ひとまとめにして捉えたもののこと。

単品なのか、全体として重要度の評価に関わっているか。
この違いが『ビリーフ』と『ビリーフシステム』、『価値』と『価値観』の対応。

そういう風に整理をしても良いでしょう。


これと似たようなものとして『メタプログラム』という概念がありますが、
こちらは次の記事に続きます。
(※続き:「価値観とメタプログラム◆ 船瓮織廛蹈哀薀爐砲弔い董

cozyharada at 23:13|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | NLPの基本情報

2014年02月16日

カウンセリングの中核は感情の読みとり

先日のカウンセリング講座実践トレーニングでは
頂いたご質問にインスパイアされて感情の分類をやってみました。

カウンセリングの際に注目すべき感情の種類を列挙する形です。

そのため、喜びや安心感、楽しさなどは取り上げず
問題に伴って表現される感情にフォーカスしてみることとしました。

感情表出が静的か・動的か、
感情の対象が外的(他者)か・内的(自分)か、
という要素で分類してみると、
それなりにクラスターに分けられます。


その感情のタイプによって対処の種類を想定できますから、
カウンセリングの方向性を決める上でも感情を捉えるのは重要です。

自分では、あまり整理しない形で流れに応じて対応していたと思いますが
実際に整理をしてみるとカウンセリングの進め方がスッキリしそうに感じました。

最終的に
「ねぎらい」が必要なのか、
「解消」や「発散」が必要なのか、
「いやし」や「つながり」が必要なのか、
「ゆるし」が必要なのか、
「具体的な対処方法」が必要なのか、
「リフレーミング」が必要なのか…。

その判断基準として、取り扱う感情の種類がポイントになる。

過去の記憶に戻るような、いわゆる”トラウマ・セラピー”の手法は
上記の対処法の中では一部でしかありません。

クライアントに合わせて対処法を選ぶためにも
『整理したい感情』の種類を特定することが役立ちます。

なぜなら多くの場合、1つの感情は1つの問題(課題、テーマ)と
セットになっているからです。

もちろんクライアントの状況も関わりますから話の内容も大切ですが、
話の内容だけで整理すると、1つの話題に複数の感情が関わっている場合
的確に問題を絞り込めないことが起きてきます。

にもかかわらず、大抵の人は話の内容に一生懸命になり過ぎて
感情を捉えようとしない傾向があります。

その意味では、話の内容以上に感情の種類を捉えることで
問題を焦点化して、対処の方向性を決めるように心がけると、
表面的な”傾聴”で終わってしまうことは避けられるメリットがあるでしょう。

焦点化もスムーズになる上に、重要なポイントも見逃しにくくなり、
かつカウンセラー側が対処の方針を考えるのも明確になる。

カウンセリングをシンプルで効果的なものにする
1つの有効なスタイルになりそうです。

適当な名前でもつけたら、それなりの形として展開できるかもしれません。
…まぁ、僕は興味がないので誰かに譲りますけど。


ただし、色々と表れる複雑な感情を読みとるのが前提ですから、
そこのハードルが高いと思われる可能性もある気がします。

「どんな気持ちですか?」なんて質問して言語化できるレベルの感情であれば
その感情に伴った悩みを抱えることは滅多にないものでしょう。

複雑な感情が入り乱れて、しかも自分の手に負えないから悩むんです。

それを捉えて整理して、解消するお手伝いをするのがカウンセラーの役目。

その前提は、観察力、共感力、同調能力を駆使して感情を読みとることであって、
同時に、感情を読みとれる度合いこそがカウンセリングの効果にも直結する。
そんなスタイルのカウンセリングといえるかもしれません。


言うまでもなく、
その後の対処で「〜セラピー」のような大掛かりなことをしなくても、
日常の人間関係で他者の悩みの支えになることは可能です。

「ねぎらい」が必要なのか、
「解消」や「発散」が必要なのか、
「いやし」や「つながり」が必要なのか、
「ゆるし」が必要なのか、
「具体的な対処方法」が必要なのか、
「リフレーミング」が必要なのか…
といった方向性さえ分かっていれば、
どういう関わり方が望ましいかも判断しやすいでしょうから。


ということで、
カウンセリング講座中のご質問に答えながら
その場の思いつきでまとめただけのものとはいえ、
なかなか使い勝手の良い着眼点が整理できた感じがします。

現時点ではザックリしていますから、もう少し細かいところまで調整して
何かしらの形で紹介するときが来るんじゃないかと思っています。

しかし、整理しようとしてみると意外と形になるものですね。

有意義なご質問を頂けるのは、考える楽しさだけでなく
予想もしていなかった副産物も見つかることもあって
なんとも嬉しいものです。

2014年02月14日

共感できる○○

「共感」という言葉は様々なニュアンスを含むので
なかなか一言で説明するのは大変です。

ですが、どのような種類の共感を頭に思い浮かべたとしても、
自分が「共感している」という自覚をする以上
そこには必ず主観的な判断が含まれます。

完全に他者と同じものを「共有して感じている」わけではないんです。

仮に同じものが体の中に起きている場合があったとしても、
それを同じように自覚する(=感じている)かは定かではありません。

当然、同じものが体の中に起きていない可能性だってあるわけですから
同じものを感じるという意味での共感ができることは稀だといえます。

まぁ、だからこそトレーニングのやりがいがあって、
本当に共感できたときのコミュニケーションには
人と人が触れ合う喜びが感じられるのでしょうけれど。


で、『共感において必ず主観が含まれる』ということは
裏を返せば、「相手に共感する」ためには
極力、主観の割合を減らしていきたいことになります。

もうチョット詳しくいうと、「主観が含まれる」とは、
 自分が他者の体験内容を理解する過程において
 自分の経験が参照される必要がある
ということです。

相手に共感する度合いを高めるためには、つまり
その参照する自分の体験を正確なものにしたいんです。

「正確なもの」とは、「相手と同じもの」という意味。
参照する自分の体験と相手の体験が同じであるほど
相手に共感できていると考えられるわけです。


ただし、ここに1つの重要なポイントがあります。

自分の経験を振り返って「たぶん、こういうことだろう」と判断する際に、
 相手の体験していることに注意を向けるか
 自分の記憶に注意を向けるか
の度合いです。

これは、思い返している自分の体験の記憶が
相手の体験内容と正確に同じようなものだったとしても
充分に起き得る違いなんです。

仮に、相手と99%同じ体験をしていたとしましょう。
その記憶が思い返された。
相手と自分の違いは、主人公だけです。
自分が体験したか、相手が体験したか。
もう、それ以外は正確にピッタリ同じ。

だとしても、もし自分の記憶のほうに注意を向けていたら、その共感は
「共有」はしているかもしれませんが、自分のための共感です。

「そうだよね。そういうことってあるよね。実は自分も全く同じことがあって…」
というその瞬間、主役は相手ではなくなっています。

もちろん、コミュニケーションですから、目的をもって
あえて自分の体験談を話すことが役に立つ場面もあります。

ただ、そのやり方は、「相手に共感している」とは言いにくいと思います。
少なくとも「相手の体験と同じものを共有」してはいません。

あくまで「相手と共通点の多い体験に浸っている」んです。

反対に、相手の体験のほうに注意を向けている度合いが多いとしたら
そちらは「相手に共感している」といえる可能性が高いでしょう。

つまり、自分の体験が思い出されているのは、あくまで参照であって
相手の体験を理解するために照らし合わせて利用しているだけだということ。

自分の記憶を利用して相手を理解することに注意が向いているわけです。

この度合いに差があるという話です。

相手と正確に同じ体験の記憶を持っていたとしても起き得るのですから、
思い出した自分の体験が相手のと全然違うものだったときには
相手とは全く違った感じに注意を向けることになってしまいます。

全く別の体験を思い出し、そちらに注意が集まったときには
それは「相手の話に触発されて思い出した」というだけのことでしょう。

共感からは離れたものになってしまうはずです。


ところが、一般的に使われる日本語では、そのように
「誰かの話から触発されて自分の体験を思い出して、その思い出に浸る」
ことも”共感”と呼ぶようなんです。

例えば、「共感できる映画」、「共感できる歌」とかです。

これらの場合では、「相手の体験に共感」しているとは言いにくいでしょう。
少なくともカウンセリングでクライアントに共感するのとは違う。

むしろ、自分の体験と似たようなストーリーや気持ちの描写を聞いて、
そこから思い出される自分の記憶の中の感情に浸って感動すると思われます。

その意味では、
「自分に共感してくれているような歌」
などと呼んだほうが良いかもしれません。

いわゆる「共感できる映画」、「共感できる歌」は、
自分が体験した気持ちを的確に表現してくれることで
「自分の気持ちを代弁してくれた」、「自分の気持ちを分かってくれる人がいる」
といった『分かってもらった感』を引き出すものだと言えそうです。

自分の注意は、過去の自分の体験に向いているケースです。


相手の体験に注意を向け、自分の体験の記憶は相手を理解するために使うか、
それとも
相手の体験から思い出された自分の体験に注意を向けて思い出に浸るか。

どちらも”共感”という言葉で表されることがあるようですが、
コミュニケーションにおける意味合いは全くの別物のはずです。

区別しておくだけでも役に立つことがあるんじゃないでしょうか。

2014年02月12日

紆余曲折があって



3月のセミナー予定

・3月9日(日) 日中
・3月16日(日) 夜間
・+その他(多分)




小学校では、円の面積は「半径 × 半径 × 3.14」で正解です。
中学校に移ると、円の面積は「 π r ^2 」(パイ× r の2乗)になります。

中学校では球の体積は「4/3 π r ^3」(3分の4 × パイ × r の3乗)という
公式を教わって、それを覚えて計算ができれば正解です。
円すいや四角すいの体積も「底面積 × 高さ × 1/3 」の公式を覚えれば
それで十分とされます。

高校に入ると『微分・積分』を習うので、球の体積や円すいの体積の公式も
積分を使って導き出せるようになり、やっと「4/3」や「1/3」の意味が分かります。

もちろん、大学の『微分学』や『積分学』ではもっと本質的なところに踏み込み、
その専門家ともなると、もう僕にはチンプンカンプンなことを考えるわけです。


じゃあ、積分学を専門とする数学者から見たら
小学校で使う円の面積の公式は間違っているのかというと、
おそらくですが、そこに目くじらを立てる数学者は滅多にいないでしょう。

それは、その先の段階が分かっていて、
まずはカンタンな計算問題として、内容を理解していなくても
先に繋がる練習をしておくことが有意義だ、と思えるからではないでしょうか。

小学校の先生だって、高校や大学の授業で
公式を導くところを色々と勉強しているはずです
(覚えているかは知りませんが)。

それでも小学校の授業では、『公式』という覚えれば良いものとして
算数を教えているんです。

こういうのは正しいとか間違っているとかではないんだと思います。
ただ、段階的に学んでいくだけのこと。

「これまでは、こういう風に習ってきたでしょうけど、
 実際には、こっちの考え方のほうが理にかなっているんです。
 だから、これからはこっちを使っていきましょう」
と教わったとしても、それは別に今までウソをついていたわけではありません。

前段階として一度仮の理解して経験を積んでおいたほうが
新たな理解の仕方を使っていくうえで、土台ができていて都合が良い。
いきなり本質的なところから始めると、作業が追いつかないこともあるはずです。

確かに、場合によっては前提を覆されてショックを受けることもあります。
「サンタクロースはお父さんだったのよ」ということに近いかもしれません。

そのようなショックでさえ、次のステップに進むのには必要なのでしょう。


何かを学び、身につけていくプロセスには
こういった段階的に修正されていくものが含まれているようです。

僕が心理だとかコミュニケーションだとか自己啓発だとかで学んできたことにも
同じような段階があったものだと実感します。

時には衝撃的な理解もありました。

しかし、僕が心に興味を持ち始めた頃に、いきなり
今の自分が捉えている本質的な部分だけを学んでいたとしても
おおよそ実感できなかったでしょうし、挫折していたかもしれませんし、
逆に余計なものを信じ込んでしまっていたかもしれません。

必要な無駄もありましたし、ただの無駄もありました。

削ぎ落とせるものと、土台作りのために一時的に通ると効果的なもの。
この辺のステップを整理しておくのは有効かと感じています。

2014年02月10日

天才の目

2008年にノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎氏。

素粒子物理の世界に重要な貢献をした天才の一人です。


世の中に「天才」と呼ばれる人たちは沢山いますが、
特にサイエンスにおいては理論物理と数学の天才は特別だと思います。

僕は生物化学の分野にいましたが、そこでは理論を編み出す斬新さよりも
実験手法の真新しさや偶然の発見が業績に直結します。

つまり、予想しただけでは論文が書けないんです。
「たぶん、こういうことだと思います」という素晴らしい意見があったとしても
それを学術論文として投稿できるケースは非常に少ない。

実験的に示して初めて受け入れられる分野でした。

そうすると、重要な発見とは、現象を上手く説明する理論の発見ではなく
今まで示されていなかった実験結果を出すことになってくるわけです。

どんなに頑張っても、運が悪ければ成果が出ない分野なんです。

もちろん、業績の全てが運だというのではありません。
地道な積み重ねと緻密な計画が徐々に望ましい結果へと導いてくれる。
最初から無理なことは、運の問題ではありませんから。

ですから、大きな業績は
 ずっと頑張ってきた人に対する「ごほうび」
だと言われます。

それこそが「セレンディピティ」と呼ばれるものです。
運の要素が含まれる大発見。

一方、理論物理の天才には、セレンディピティよりも
その人の頭の中で繰り広げられる思考が辿り着いた「閃き」が関わるようです。

数式で理論を作ろうとするときに起きてしまう矛盾を解消する発想。
その新たな発想を取り入れて数式を解くことで上手く説明できるようになる。

…そのような物理の大発見は、全てが思考の中で完結している分、
文字通りの「天才」といえるように思うんです。


ノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎氏も
そうした理論物理の天才の一人。

数式ばかりで世の中を理解しようとできる学者が世界中で行き詰っていたものを
1つのアイデアを取り入れて矛盾の無い理論への一歩を切り開いたそうです。

1921年生まれで、2014年現在、93歳。

ひたすら頭を使ってきた天才だということが、顔に表れています。

画像や動画を検索すると80歳以降のものが沢山見つかりますが
是非、その目つきに注目していただきたい。

全くといっていいほど老いを感じさせません。

ネットで見つけてきた動画を1つ載せておきますので
興味があれば見てみてはいかがでしょうか。

↓こちらは2009年10月の講演会だそうですから、
もうすぐ90歳になろうという頃の様子です。

滑舌が悪くなるのは口の筋肉の老化でしょうし、
歩く様子にも全身の筋力の低下は見て取れます。
(それでも90歳にしては若いほうでしょうが)

注目すべきは、そうした老化と全くリンクしない眼光の鋭さです。
思考の世界を物凄くクリアな状態で捉えているように見えます。



穏やかな目元は人柄を表していると思いますが、
しっかりと見開かれ、真っ直ぐに向いた力強い目は
今も強い関心を持ちながらこの世界を見つめている様子をうかがわせます。

おそらく、内的に捉えている視界は
スッキリとして明るく、透明感のあるものでしょう。

その視野の中で軽やかに抽象度の高い世界がイメージされるんだと思います。

理論を生み出せる天才の頭は、いつまでも老いないのかもしれません。

いや、若い頃はもっと凄かったのかも…。

いずれにせよ、発明家や実験者、探索家とかとは
理論学者の頭の使い方には違いがあるのではないかと感じます。

ある意味では非常にファンタジーな世界を追い求めながら
妥協のない削ぎ落しによってファンタジーを数式化する。

やはり特別なものだと思えてなりません。

おしらせ
 ◆ セミナー情報 

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《カウンセリング講座》
〜セルフイメージの整え方〜


【日時】 2017年4月23日(日)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    303集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分


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次回開催は6月の予定


《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜

終了しました

【日時】 9月15日(月・祝)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    304集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
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《勉強会》 
終了しました
    
【日時】 3月16日(日)
  夜間 18:30〜21:30


【場所】 滝野川会館
     304集会室

     JR上中里駅より7分
     JR駒込駅より10分
     南北線西ヶ原駅より7分

【テーマ】 変化の流れを考える

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次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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