2014年03月

2014年03月31日

ドアに挟まれた

久しぶりに大阪に行きました。

エスカレーターの立ち位置が右側なのは
「あぁ、そうだったな」と、すぐに思い出せましたが、
エレベーターに慣れるのはチョット時間がかかりそうです。

なんといっても、扉の閉まるのが早い。
しかも速い。

開閉のボタンを押さずに待っていたときに閉まり始めるタイミングが早く、
開ボタンを押して全員が降りるのを待ってから最後に出ようとすると
ドアを出る頃には既に閉まり始めていることが良くありました。

そして一度閉まり始めると、そのドアの動くスピードも速かった気がします。
見た目でガーッと迫力を感じるぐらいですから、
他の地域よりも結構速いんじゃないでしょうか。

実際、閉まりかけのドアに挟まる形でドアを開けたことが
何度かありましたから。

文化的、習慣的な違いなんでしょうか。

エスカレーターのスピードには違いを感じませんでしたが。


当然、人の行動パターンにも地域差は見受けられます。
東京都内だって駅によって違いが感じられますから、
名古屋、大阪と目を向ければ、その差が大きいのは自然なことでしょう。

中でも特に印象的なのは、歩き方の違いです。

歩き方といっても、横断歩道を渡り始めるタイミングとか、
歩道を歩くときの広がり方やスピードとかではありません。

歩くときの姿勢や手足の動かし方のことです。

平均的に見たとき、体の使い方が違うようです。
基本姿勢も地域差があるものなのかもしれません。

姿勢が違うんですから、声の出し方も当然違ってきます。

注意の方向性にも地域差が出るだろうと思えます。

そうなれば自然と、良く起こるコミュニケーションにも傾向が生まれる。
大阪でよく見かけられる会話は文化的なものだとも言えるでしょうし、
それが姿勢や発声などの体の使い方とリンクしているとも言えそうです。


どちらかというと文化的に求められる会話の種類の影響が強いのか、
平均とは違った姿勢をとっている人は、歩き方にしても
話のペースにしても平均的なものと違ってきますから、
そこで文化的に要求されるものとのズレを体験しているかもしれません。

文化的に期待されている話のリズムや行動のスピードと
本人らしいペースが違っていた場合には、そこに溶け込むのは
苦労も多いことだろうと想像されます。

あるいは、頑張ってペースを文化的基準と合わせるようにしていれば
そこには負荷がかかってしまうこともあるはずです。
そういう意味では頑張っている人が多いような気もします。

もちろん、どこにいっても溶け込むために無理をする部分はあるでしょうし、
それで苦労をしている人は大勢いることと思います。
最近の女子高生なんかも、集団へ溶け込むことへ
強いプレッシャーを感じているように見受けられます。

ただ、溶け込むために自分を抑えて目立たないように努力するのと、
自然な自分以上の活発さを表現して溶け込むように努力するのとでは、
かかってくる負荷の種類が違うだろうということです。

頑張って快活に振舞うというのも、それなりの負担のように見えますから。

カウンセリングの場面であれば個人の特性として捉えるだけのことですし、
その人らしさをどのように活かしていくかは本人の希望によりますから、
個人レベルの関わりにおいては特に気にする部分ではありません。

しかし、セミナーなど、集団との関わりを考えると
全体的な傾向にも配慮する必要性が生まれてきます。

文化や習慣に注意を向けることで見えてくるポイントも気にしたいところです。

2014年03月28日

テレパシー

何を信じようとも本人の好みだと思いますが、
何かを信じるということは、同時に、
 『そうでない可能性を考えるのをやめている』
ことを意識しておくのも大切じゃないでしょうか。

例えば、「幼少期のトラウマが現在の問題を生み出していて
そのトラウマを再体験することでトラウマが解消される」
という理論を信じているとします。

すると、その理論に当てはめて出来事を理解するようになります。
「このクライアントには幼少期のトラウマがあるんだ。
 だから、再体験してもらってトラウマを解消しよう。」と。

そのやり方で上手くいくこともあります。

しかし上手くいかないときもあるはずです。

このときに、理論を信じていると別の可能性が見えなくなるんです。
「おや、トラウマを再体験したはずなのに上手くいっていない。
 きっと別のトラウマも残っているんだろう。」
なんていう風に、理論を延長して理解しようとしがちです。

別の可能性としては、「トラウマ的な体験で学習された内容を
呼び起こした記憶を仮想体験として利用して
別の意味で体験を捉えなおすための再学習をした」
という説明もできるはずです。

つまり、トラウマ的な体験を呼び起こしたときに
苦しかった感情を存分に味わい、結果的に蓄積していた感情がほどけ
自然と出来事を別の捉え方で見られるようになった
(リフレーミングが自然と起こった)という解釈です。


「どういう理論を信じていようが上手くいけばいいじゃないか」
という考え方もあるのでしょう。

しかし問題は、上手くいかなかったときです。
そのときに別の可能性に気づかなくなる。

より上手くいく可能性が高い見方があるかもしれないのに、
信じてしまうとそれ以外を見ようとしなくなってしまうわけです。


これは上手くいくかどうかの話だけではありません。

新しい現象を発見できるかどうかにも関わっています。

科学的にあまり立証されていなそうなところで、
「生まれる前の記憶」と「テレパシー」とを例に挙げてみます。

「生まれる前の記憶」が存在すると信じている人からすると、
幼児が母親に話してくれた生まれる前の世界の話や
お腹の中にいたときのエピソードは、説得力のある根拠になるでしょう。

一方で、もしかするとこれは
母親が期待している内容を子供が「テレパシー」で受け取って
それが幼児の頭の中にイメージとして浮かんできて、
母親の質問に期待通りの形で答えている
という現象かもしれません。

母親と子供の間にはテレパシーがあるんだ、と信じている人からすれば
言語的に未発達な幼児が、教えたこともない内容なのに明確に答えるのは
母親からテレパシーで受け取ったからだ、と捉える根拠にもなり得る。

どちらがより説得力があるかということは置いておくとしても
一方を信じれば、反対の可能性を無視してしまう、という話です。

生まれる前の記憶にしたって、テレパシーにしたって
どちらも明確にメカニズムが解明されれば
大きなインパクトのある発見になるようなものでしょう。

目の前の現象を色々な角度で捉えようとする前に
1つの理論や考え方を信じてしまうのは、
そういうチャンスを捨てているともいえるはずです。

さらには自分が信じている説を裏付けるようなデータだけを集めて
自説の正しさを立証しようとする場合さえもある。

信じると、信じたように物事を捉えやすくなる場合もあるんです。

科学者と呼ばれる人たちだってやっていることがあるぐらい
誰もが自分の信じたいものを見ようとするもののようです。


「信じる」のも「拒絶する」のも簡単な記がします。
疑わなければ良いだけの話ですから。

「疑う」にはトレーニングが求められます。

あることを信じれば、そうでないものは拒絶することになるので
「信じる」のと「拒絶する」のは、どちらも似たスタンスだといえます。

疑うためには常に複数の可能性を考慮する必要がある。
様々な可能性を対等に評価して、もっともらしさの度合いで判断する。

疑う作業は楽ではないんだと思います。
疑い続けると、確証を持てるものは減っていきます。
拠り所がなくなっていくのは不安でしょう。

でも、疑わないと気づけないものもあると思うんです。

2014年03月26日

大事なことを思い出す

人生に意味を見出すやり方には、
価値観を明確にして自分の選択の基準を作ったり、
過去の出来事から自分の人生の使命を見つけたり、
大きな仮目標を設定してから目標をアレンジしながら進んだり…
様々な方法が提案されます。

ですが、それが全てということでもなく、
世の中には人生の意味なんて全く考えずに楽しく過ごす人もいますし、
「人生に意味を求めたいのは不安だからだ」と考えて
自然の流れに身をゆだねる人もいるようです。

僕自身は人生に意味を探す必要があるとは信じていませんが、
それでも「人生に価値を感じる」瞬間は、多くの人の取り組みを見てきて
おぼろげなものとして捉えているような気がします。


大抵の「価値ある」瞬間は
 『忘れていたことを思い出す』
ときじゃないでしょうか。

本当はこういうことが得意なはずだったのに
しつけや教育で抑え込んできてしまった。
それを再び取り戻したとき、可能性が大きく広がった、とか。

子供の頃はすごく素直で元気いっぱいで楽しく振る舞っていたのに
大人としての礼儀正しさやカッコよさを求めるあまり
人を元気にするようなエネルギッシュさを抑え込んできた。
それを思いきって再び体験したとき、一体感を伴った楽しさを思い出した、とか。

人から気に入られようとして、人に嫌われないようにして気を遣ってきたため
自分が皆から好かれているとは思わなくなっていたけれど、
実は子供の頃からずっと大切にされてきたことを思い出してから
人に嫌われることを気にしなくなった、とか。

ビジネスやお金儲けを頑張ってやってきたけれど、
仕事に行き詰ったときに助けてもらったことで
自分にとって本当に大切な人が誰だったのか、
本当の信頼に基づいた人間関係とは何だったのかを思い出した、とか。


例を挙げればキリがないと思います。

思い出した瞬間はハッとして、そして「なーんだ、元々あったじゃないか」
とバカバカしいような気分にさえなるかもしれません。

ですが、「思い出す」ためには忘れる必要があります。
本当は知っていたはずのことを意識から遠ざけておく時期が必要。

忘れている間に反対のことを追い求める。
そして比較対象としての基準を築いておくわけです。

それがあるから「思い出した」とき、基準と対比させる形で
その「思い出した」ことの価値を実感できる。

最初からずっと意識に上がったまま、覚えたままの状態であったとしたら
それはあまりに当たり前になってしまうんじゃないでしょうか。

普通になってしまって価値を実感しにくい。

大事なことに気づくためには、一度忘れておいて
それから思い出す必要があるのかもしれません。

cozyharada at 23:07|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!心理学 | NLP

2014年03月24日

もう泣けない歌

携帯を iPhone に変えてから、電車移動中に
TED の動画を見ることが増えました。

その関係で iPhone の容量が少なくなってきたので
最近、iTunes に入っている音楽の整理をしたんです。

おかげで以前に保存していた音楽を聞き直したり、
古いCDを引っ張り出して取り込んだりして、
懐かしい音楽に触れることがありました。

その多くは数年ぶりに聞くような曲。
中には10年以上前、頻繁に聞いていた曲もあります。

セミナーでかける音楽として取り込んでいただけのものもあれば、
個人的に思い入れの強い曲なんかも入っていました。


10年以上前、新入社員として山口県の研究所に配属された頃、
寮では福岡のテレビ局の番組が受信できていたんですが、
そこで偶然知ったミュージシャンを気に入ったことがありました。

それはもう本当に頻繁に聞いていて、
当時、山口県で乗っていた車のカーステレオからは
常にそのミュージシャンの曲が流れていたものです。

全体に暗い曲調で悲しい歌が多く、なおかつ声質も切ない感じだったので
わざわざ車の中で自分の中の悲しみを増幅させていたような気もします。

ストレスが多かった当時の僕は、そうやって辛い気持ちを
車の中で吐き出そうとしていたのかもしれません。

ヒドイ時期は、山口宇部空港から会社の寮までの道のりを
音楽を聞きつつ泣きながら車を運転していたりもしました。
車が少なかったとはいえ、なかなか危なっかしい話です。


そんな僕にとっての「泣ける歌」も、東京へ転勤になってからは
車に乗る機会が減ったのと同時に、聞くことが減ってきていました。

セミナーに通い出した時期でもありますから、
心境の変化も関係していたようにも思えます。

その後、会社を辞め、セミナー講師として活動をするようになってからは
かける音楽も、受講生のことを気にして有名なものが中心となりました。

僕が山口にいたときによく聞いていた歌は
あまりにマイナーだったようですから。

それでも節目のタイミングには、そのミュージシャンの曲を聞きました。
やはり僕にとって心を動かす要素があったのでしょう。

そして時には歌を聞きながら涙することも…。


ところが、最近になって引っ張り出したCDを聞き直してみて
もう今の自分には、あの頃のような心の動きが無かったんです。

むしろ懐かしい感じ。

それは曲に対する懐かしさではなく、
「あぁ、あの頃はこの歌を聞いて泣いていたんだなぁ」
という体験への懐かしさ。

自分にもあんな時期があったんだ、という気持ちだったんです。

あんなに泣けて仕方なかった歌が、今はもう心と共鳴することなく
ただ目の前を流れていく感じになっていました。

随分と内面が変わってきたんだと改めて思います。


どうやら、こうした音楽への感じ方の違いは、
そのミュージシャンだけに限定されていないようです。

ときおり聞いては涙を流すほど感動していたお気に入りの歌が
最近はもう、どれも心を動かすものではなくなっていました。

なんだか少し寂しい感じもします。

今、聞いて涙が出てくるのは
『 Amazing Grace 』と
『キン肉マン Go Fight ! (キン肉マンのテーマソング)』ぐらい。

「心に愛がなければスーパーヒーローじゃないのさ」に感動。

cozyharada at 23:48|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 心理学

2014年03月22日

はみ出し注意

本屋を歩いていたら
「はみ出す」という単語が書かれた本が目に留まりました。

気になったので、Amazonで「はみ出す」と検索してみると
「はみだす力」
「常識からはみ出す生き方」
「世界へはみ出す」
「枠からはみ出す仕事術」
「日本をはみ出る」
なんていうのが見つかりました。

いずれも、ここ数年に出版されたもの。

最近はグローバルな意識が高まっているのか、
個性を重視する流れが強まっているのか、
「はみ出す」ぐらいの独創的なスタイルが評価されているのかもしれません。

確かに最近は、わざわざ「ベンチャービジネス」などと言わずに
「企業」とか「アントプレナー」とか言うようになってきたようですから、
自分で会社を始めることを
 「ベンチャー(危険を冒して〜する)」
と捉えなくなったようにも見えます。

若い企業家で影響力をもった人たちもいるようですし、
30〜40ぐらいの人たちが手を取り合って新しい企画をするなんていうのも
様々なところで話題になっているのを耳にします。

「はみ出す」人がカッコよくて、活躍できて、時代をリードする
…なんていうイメージもできつつあるのかもしれません。


「はみ出す」人が活躍するのは納得できます。

他の人とは違ったことができるし、
新たな可能性を見いだせれば、その分野を先導することもできる。

異業種から参入してきた会社が大活躍したりするのは、
以前の業種のノウハウという、その分野になかったものを使えるからでしょう。
まさにそれは、その分野の伝統からしたら「はみ出した」部分だといえます。

お笑いなんかでも同様です。

笑いが起きるのは、予測される流れを裏切るときです。
その裏切りの度合いが、一般的な流れを「はみ出ている」。
その「はみ出し」た部分が意表をついて、笑いに繋がると考えられます。

しかし、お笑いの場合、はみ出していた部分も
時間が経つにつれて見る側の頭の中で予想されるようになります。
以前は「はみ出し」ていたものが、再び予想の範囲に収まってしまう。

お笑いの場合は、アンカー(条件付け)でも笑いが起きますから
いわゆる”お約束”でも笑いを引き出すことは可能です。
”お約束”は「はみ出して」いませんが笑えるんです。

そして”お約束”にもなり切れず、予想がつくようになってしまったものは
「はみ出す」ことがなくなって、笑いを生みにくくなってくるようです。
つまり、飽きられてきた、ということです。

だからまた”新しい笑い”が求められる。
再びその予想の流れを「はみ出す」ことができた芸人が
新たな売れっ子になっていくと考えられます。


ここで重要なのが、
 「はみ出す」のは既存の範囲を少し上回る程度
であることです。

お笑いであれば予想されている流れからチョット外れる。
ビジネスであれば業界の常識に新たな要素を加える。

前提として、これまでの枠組みと大部分は一致しているんです。

だから「はみ出す」という単語が使われます。

「はみ出す」状態は、大部分が重なって一致していて
その範囲から少し外に出ている部分があることを言うはずです。

塗り絵を想像すると分かりやすい気がしますが、
輪郭線の内側を塗りつぶすことが想定されていて
その輪郭線よりも外側に色を塗ってしまうと「はみ出した」と呼ばれる。

大部分は枠の範囲内なんです。

もちろん程度として「大きくはみ出す」こともできますが、
それでも重なっている(一致している)部分は半分以上でしょう。

もし20%だけ一致していて、あとは合っていないとしたら
むしろ「重なっている」とか「共通する」とか表現すると思われます。

ましてや、全く重なる部分がなかったら、
それはもう「はみ出している」のではなく、「別物」です。

独創性や予想を裏切るのが魅力になるときには
「はみ出す」ぐらいが丁度いいんです。

これが「少し重なっている」だったら
ビジネスの場合、「この業界のことが分かっていない」と言われ、
お笑いであれば、「え?何?…あー、あー、そういうことか、ハハ…」
ぐらいの反応になってしまうでしょう。

重なっているところさえなく、枠の範囲から完全に外に出た部分は
通常、理解さえしてもらえないものです。
「何をトンチンカンな…」、「意味が分からない…」と一蹴される。

枠から出過ぎてしまったら、それはもう「はみ出す」ではなくなって、
「はみ出す」ことの魅力は失われてしまうわけです。


おそらくビジネスの上手い人は、この「はみ出し」具合を調整するんでしょう。

ひな壇で活躍する芸人は、丁度いい「はみ出し具合」に調整して、
長続きするお笑い芸人は「はみ出し」度合いをリニューアルし続ける。

学問だってそうです。
既存の理論や研究に対して「はみ出す」部分が「新しさ」となります。

これが「はみ出し」過ぎて、重なりがなくなってしまったり、
既存の枠には全く収まらないものになると、
それは理解してもらえないんです。

ゴッホの絵は、彼が生きている間は完全に”枠の外”でした。
「はみ出す」程度の独創性であれば、生前から人気を集めたことでしょう。

頑張って「はみ出し」ながら新しいものを生み出していける人たちは
その分野において活躍できる、恵まれた人たちかもしれません。

はみ出し者は、独創性で評価もされる。
変わり者や異端児は、奇異な目で批判と注目を集める。
門外漢や部外者は、見向きもしてもらえない。

ただ、枠から出ている人の中には、門外漢や部外者もいれば
ゴッホのように枠に収まりきらなかった人もいるはずです。

この区別は枠の中の人にはつかないんでしょうが。




ご案内 《新・カウンセリング講座 〜感情ベースの焦点化〜》

【日程 曄4月6日(日)
      9:30〜16:00

【日程◆曄4月13日(日)
      10:00〜16:30

 ※内容は同じです。

  詳細はこちら>>

2014年03月19日

【セミナー】新・カウンセリング講座:第一回

ご案内: 4月6日(日)&13日(日)開催

   新・カウンセリング講座 〜感情ベースの焦点化〜



以前にも紹介していましたが、
新しいコンセプトのカウンセリング講座を開催します。

以前の講座にご参加くださった方は、
よりスムーズに、より安全に、より課題の中核を捉えやすい形で
カウンセリングを進められるようになると思います。

以前の内容と大きく違うのは
 ‐播晴修離廛蹈札垢丁寧
 ⊂播世鮃覆辰浸点で、具体的な対処の方針が見える

ところでしょう。


まず一回目として、その焦点化のプロセスをトレーニングします。
(※問題解決までは行いません)

ここで求められるのがクライアントの感情を捉えること。
その感情に合わせる形でテーマを絞り込んでいくわけです。

具体的な進め方は講座の中で紹介しますが、
ある程度は必要なトレーニングも同時に行います。

焦点化の進め方は至ってシンプル。
クライアントに確認しながら、選んでもらうだけです。

ただ、選んでもらう題材を提示するのは
カウンセラー側が受け取ったクライアントの感情に関する話題ですから、
感情を読みとれる度合いが高いほど、本質的なテーマを逃さずに
クライアントへ選択肢を出せることになります。

その意味では、焦点化がシンプルだからこそ
感情を読みとる技術が求められるともいえるでしょう。

カウンセリングのスタイルとして、無駄のない絞り込み方が身についたら
あとは、ひたすら感情を読みとるトレーニングを積めば良いわけです。

カウンセリングの場で行う内容も明確ですし、
将来的なトレーニングの方向性も明確です。

この辺りもウリの1つ。


念のため、以前のカウンセリング講座で紹介したスタイルとの違いですが、
焦点化の際に、クライアントへ要求する作業が異なります。

以前のスタイルでは
「では、今日はどういったお手伝いをしたら良いでしょうか?」
と投げかけて、
とにかくクライアント自身に考えてもらうことを要求していました。

これに答えるには、
・クライアント自身が自分の気持ちに気づいていること
・クライアントに問題を整理する技術が養われていること
・クライアントが問題へ向き合うだけの元気を残していること
などが求められます。

そして、気持ちに気づくヒントや整理のヒントを
カウンセラー側が「突っつく」ような形で出すわけです。
「〜なように見えますが、いかがでしょうか?」なんて。

クライアントが元気で、気づける状態にあれば
そのヒントを元に「あ!そうか!そういえば…」といった具合に
問題の本質に迫っていくことができます。

結果としてクライアントは自ら自分の本質的なテーマに気づき、
「じゃあ、今日は〜に取り組みたいです」
と答えられるようになる。

繰り返しになりますが、それにはクライアントの状態と技術が求められます。

つまり、クライアントが大きく傷ついていたり、
自分の問題を整理することに慣れていない場合には、
クライアント自ら
 「今日は〜に取り組みたいんです」
と答えてくれることは多くない、ということです。

そのため、
 クライアントに元気と問題整理力があるかどうかを指標に
 カウンセラー側が整理をサポートする度合いを調整する
スタイルを提案していました。

長い目でクライアントとの関わりを考えたときには、
現実的な話として、こうしたスタイルの使い分けは必要になります。

教育的な要素が入ってくるからです。

クライアント自身が、自分の問題と上手く向き合えるように
カウンセリングのプロセスを通じてトレーニングもしていく。

そうすると最終的には、第一声で
「今日はどういったお手伝いをご希望ですか?」
と聞けば、
「最近…なので、〜に取り組みたいんです」
と明確な答えを返してくれるようになるでしょう。

この教育的な流れまでを視野に入れると、
・クライアントに気づきの種を投げかけながら
・基本的にはクライアントが自分でポイントに気づき
・クライアント自身が、何に取り組めば良いかを決定する
というスタンスは非常に効果的です。


しかし、裏を返せば、学習する側としては作業が多くて大変。
クライアントに応じてカウンセリングのスタイルを変える前の段階として
汎用的に使えるスタイルを持っているほうが都合が良いでしょう。

この新しいカウンセリング講座でお伝えする方法は、
そういった『汎用的なカウンセリング』の流れです。

クライアントの元気の度合いや、問題整理への慣れの度合いにかかわらず
安定した基本方針として使えるプロセスだといえます。

言い換えるなら、長い目で見たときの教育的な側面は削ぎ落として
一回のセッションを無駄なく効果的に進められるように工夫したものです。

以前の方法に含まれていたメンター的な関わりの部分を取り除き、
純粋にカウンセリングの部分だけを残した
といっても良いかもしれません。

練習する際には、相手を選ばず同じような指針で取り組めますから
早くコツを掴みやすいと思われます。

そして一度、カウンセリングの流れを掴めば
感情を捉えることにも集中しやすくなるはずです。
捉える感情が的確なほど、中核のテーマを捉えやすくもなります。

もう1つ安心材料を追加するなら、
仮にカウンセラー側が見逃してしまった感情があったとしても
基本方針に沿っている限り、クライアント側の要望から離れてしまって
話が逸れてしまったりするリスクもありません。

感情を捉えられる技術が短時間の解決を可能にするとはいえ、
それは解決を早めるプラス要因であって、
方針に沿ってさえいれば時間は長くなっても進んでいける
…ということなんです。


ですから、かなり使い勝手の良い方法だろうと思います。

こだわりを追加していけば上限はありません。

しかし、何よりもまず骨格じゃないでしょうか。

ギリギリまで削ぎ落とした骨格としてのカウンセリング法です。
無駄なく、安全に、本題へと辿り着くためのプロセスです。

話を聞くときの基盤になると期待しています。

どうぞご活用ください。



【講座の進め方】

実習が中心となりますが、必要な要素を小分けにしながら練習して
一連の流れを作れるようにトレーニングしていきます。

以前のカウンセリング講座にご参加された方には
取り組みやすい内容だと思われますが、
そうでなくても骨格部分が身につくように工夫します。

世間一般のカウンセリングの印象とは異なる可能性がありますから
初めての方はご注意ください。

また、ビデオを使った振り返りも行う予定です。
自宅で見直したい方は、ビデオカメラをご持参ください。
こちらでも1台用意しておきます。


4月6日、13日と同じ内容でトレーニングを行います。

理論的な解説は同じになりますが、
トレーニングとして経験の量を積むことは役立ちます。

ご参加のメンバーが異なったり、実習中に聞く話の内容も異なったり、
同じ実習でも得られる経験は違うはずですから、
復習は特に効果的なものだと考えられます。

ご都合のつく方は、二回ともご参加なさることも検討してみてください。

両日のご参加でも参加費は変わりません。

ただし、13日のみのご参加の人数によっては
講座中のフィードバックができなくなる可能性もご了承ください。
人数の多い場合には、復習としてのトレーニングとして
取り組んでいただけましたら幸いです。


次回、同じ内容を扱うかどうかは未定です。

ご興味のある方は、是非お越しください。



◆録音/録画、再生機材に関しまして

ICレコーダーやビデオなどを用いた講座全体や実習の記録は
個人的なご利用の範囲でお願いいたします。

※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
 十分にご配慮ください。






【セミナーの詳細】

≪新・カウンセリング講座 〜感情ベースの焦点化〜

<日程 
【日時】  4月6日(日)
       9:30〜16:00


       ※開始時間にご注意ください 
       ※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。

【場所】 五反田文化センター 第一会議室
    (JR山手線・五反田駅より徒歩15分)
    (東急目黒線・不動前駅より徒歩8分)


<日程◆
【日時】  4月13日(日)
       10:00〜16:30


       ※開始時間にご注意ください 
       ※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。

【場所】 滝野川会館 401集会室
    (JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
    (東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
    (JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)


     ★申し込みフォームに、ご希望の日程(6日/13日/両方)をご記入ください。


【参加費】 ・・・15,000円

       当日、会場にてお支払いください。
       ※両日のご参加でも同料金です。

    ★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
     ご了承ください。




終了しました

人が困るとき、そこには感情を伴います。

その感情の大きさが悩みの大きさといっても良いでしょう。

同じ出来事でも人によって受け取り方が違って
結果として体験する感情の種類も違うわけです。

そして同じ出来事に対して、同じような感情を抱いたとしても、
その感情の大きさに違いがあることもあります。

悩みの大きさは、出来事の種類で判断されるものではないということです。

悩みにまつわる感情が強いほど、それはその人にとって
重要度の高い「大きな悩み」だといえるはずです。


人の困っていることを聞いて
「そんなの大したことない。自分なんて…」
という感想を持つとしたら、
それは出来事の種類で比較をしているといえます。

出来事の種類で比較をすると、
「こっちの出来事と、あっちの出来事では、どちらが大変か?」
という基準で判断がなされます。

「自分なんて、あの人の状況に比べたらマシだ」
なんて考えるかもしれませんし、
「それぐらいの悩みなんて問題ない。簡単に解決できるだろう。」
なんて思うかもしれません。

しかし、感情の強さを悩みの大きさとして捉えると、
出来事や状況によらず、相手にとっての問題の大きさを察せられます。

他の誰かにとって感情が動かないような内容でも、
その人の中で大きく感情が動くものであれば
それは重大な問題といえるわけです。


そのように考えると、クライアントの感情の度合いを捉えることなしに
クライアントの問題を把握することはできません。

逆にいえば、クライアントの感情を元にして話を整理すれば
どの問題に取り組みたいかを絞り込むのもやりやすいわけです。

すごくシンプルな発想だと思います。
当たり前に感じられるかもしれません。

ですが、話を聞こうとすると、余計なことをしたくなるもののようです。

自分の過去を振り返っても、
感情を中心に扱うことの重要性に気づくには時間がかかりましたし、
常に感情に目を向けながらカウンセリングするようになるまでにも
紆余曲折があったものです。

徐々にシンプルになったんです。

今、思いつく範囲では、このやり方が最もシンプルで、
かつ実用面で効果的であって、
そして身につけやすいものだと考えています。

使ってください。

2014年03月17日

魔法は使えない

ドラゴンクエストを知らない人には
なんのことだか分からないかもしれませんが…。

僕は、ファミコン版のドラクエ靴鉢犬世韻老觜修笋辰燭鵑任后

機↓兇賄当に済ませたぐらいで、
弘聞澆呂笋辰燭海箸發覆い里覗漢鈎里蠅泙擦鵝

まぁ、それでもドラクエシリーズの雰囲気は印象に残っていて、
経験を積んで魔法を覚えたり、強い武器を集めたりするのは
楽しい作業として今でも覚えています。

ゲーム中ではストーリーが進むほどに強い敵が登場しますから
徐々に主人公たちを強くしながら冒険を進める必要があります。

このとき、人によってはギリギリの戦いを繰り広げながら
積極的に物語を進めていくこともあるようですし、
逆に、ストーリーを進めるよりも修行を優先して主人公たちを強くし、
物語を進める部分は余裕をもって取り組む人もいるようでした。

僕は無理のない程度の修行で物語を進めるほうだったので
中間ぐらいだったかもしれません。

ただ、「残りは最後のボスだけ」という状態になってからは違います。
そこで思いっきり停滞するんです。

ボスを倒すときには余裕でやっつけられるようにする。
そのために経験値を稼いで主人公を強くして、
可能な限りのアイテムを集めに戻っていました。

ゴールが目前になると、クリアしてしまうのが惜しかったのでしょうか。
物語を進める楽しさを味わいきった後から、
主人公を強くする楽しさを堪能していた感じだと思います。


どうやら、ドラクエを進めていたときの取り組み方は
他の分野でも共通したところがあるようなんです。

例えば、心理・コミュニケーション系に取り組み始めたときも、
序盤のほうが一気に沢山を進めようとする傾向が強かったんです。

もちろん、全く分からないままで沢山のセミナーを受けたわけではなく、
ある程度は身になっている実感を伴いながら
むさぼるように勉強していた時期があります。

当時の僕なんかよりも遥かにハイペースでセミナーを受けた人も知っていますから
必ずしも僕が「一気に物語を進める」ほうではないと思いますが、
それでも「修行をしてから余裕をもって先に進む」ほうではなかったはずです。

ある程度は身につけてから先に進んで、さらなる学びを深めていた。
完全に納得できるまで練習して、それから次に進む感じではなかったんです。
進むときは一気に、でも身につく度合いも高めつつ…そんな感じでした。

ドラクエをやっているときと似ています。

そして色々と学んである程度の全体像が掴めてきたあたりからは
ひたすらマニアックな修行の方向にシフトしました。

どこかで勉強して資格を取るとか、新たな分野にも手を伸ばすとかではなく
一端その場に滞在して、そこで経験を積み、レベルを上げるような具合。

ひとたび腰を据えると、そこからは可能な限りの武器やアイテムを集め、
レベルをあげて魔法を覚えて…といった感じになっていたわけです。

沢山の資格を取るとか、精神科医になるとか、
そのように「物語を進める」方向性もあるはずですが
そっちには行きませんでした。

ひたすら技を磨いたんです。


結果、僕にはドラクエで出てくる魔法のような技能が
色々と身に着いた気がします。

例えば…。

ベホイミ(仲間一人の体力をかなり回復)
 =カウンセリング、セラピー

ベホマラー(仲間全員の体力をかなり回復)
 =セミナーの裏でこっそりとセラピー

シャナク(仲間一人の呪いを解く)
 =トラウマ解消

ザメハ(眠っている仲間全員を目覚めさせる)
 =リフレーミングで気づきを促す

ラリホー(敵1グループを眠らせる)
 =催眠誘導

マホトーン(1グループの呪文を封じ込めて使えなくさせる)
 =催眠術で数字の4が言えなくなる、とか

メダパニ(敵を混乱させる)
 =催眠の混乱技法、驚愕法

ルカナン(敵の守備力を下げる)
 =ペーシング、コールドリーディングで相手の警戒を解く

ピオリム(仲間の素早さを上げる)
 =時間歪曲

ニフラム(敵1グループを消し去る)
 =あまりお客さんが寄りつかない…

バイキルト(仲間一人の攻撃力を倍にする)
 =クライアントの持ち味を引き出す

スクルト(仲間の守備力を上げる)
 =ストレス・ケア

マホカンタ(自分にかけられた呪文を跳ね返す)
 =詭弁、スライト・オブ・マウス

アストロン(鉄のかたまりとなり、敵の攻撃を無効化する)
 =適当に受け流す

モシャス(仲間の一人に変身して、その能力を使えるようにする)
 =モデリング

…といったところでしょうか。

こうやって並べてみると、攻撃呪文がありませんね、当たり前ですが。
炎を出したりはできません。

まぁ、その気になれば「カミナリを落とす」ことぐらいはできますか。
「こらー!けしからん!」って。

その気になれば
ザラキ(敵1グループを即死させる)
 =弱点を突く
とか
バギクロス(真空で切り裂いて敵にダメージ)
 =相手の矛盾した意見を遠慮なく切り捨てる
とかもありそうです。


ところが、です。

ドラクエと実社会は違います。

僕はずっと、あたかも悪者(敵)がいるかのように考えていたようです。
でも、どうやらそうじゃないらしい…と思うに至った。

これはドラクエでいうなら
 王様から「悪者がはびこっているから退治してきて」と命令を受け
 (よし、あとはボスを倒すだけ!)という段階になったら
 「ごめーん、なんか悪者がいるっていう噂は間違いだったんだって」
と報告されたようなものです。

もう集めたアイテムも身につけた魔法も、使う機会がない。

平和なんだから良いじゃないかと考える部分もあるけれど、
せっかく持っているものなら使ってみたいという願望があったようです。

最近は、それにも諦めがついた感じですが。

2014年03月15日

見守る

例えば、小さな子供が
「僕は大きくなったら仮面ライダーになるんだ!」
と言っていたとしたら、
それに対して反論するでしょうか。

「仮面ライダーにはなれないのよ。
 もっと現実的な夢にしましょうね。」
と注意する人は少ないと思います。

むしろ可愛らしいと感じたり、
ほほえましい気持ちになったりする気がします。


それは小さい子供に限ったことでもないようで、
例えば、クイズ番組で30歳ぐらいの女性タレントが
出演者の男子高校生を見て「かわいいー」と言っていたことがあります。

別に何かをしたわけでもない。
普通の高校生。
ともするとイマドキからは離れたマジメな感じでした。

それでも「かわいい」と感じられるようです。

また、人によっては「カワイイおばあちゃん」と感じることもあるようです。


そういう感じが広がっていくと
反発や反論の気持ちも減っていく。

人との接点が穏やかになっていきます。


ただ、それが何によって起こるのかは一口には説明できないところ。

ゆっくり起きてくるものみたいですが。

2014年03月13日

カサカサ

セミナーの種類にもよるところが大きいんですが、
翌日に疲労が物凄く表れることがあります。

目がかすんで五感が閉じたような感じになってグッタリする。

以前からそうだったんですが、そのメリハリが大きくなった気がします。

特に顕著に表れるのが皮膚。
唇や口の周り、目の周り、指先あたりがカサカサになるんです。

まさに生気がなくなった感じ。
水をあげてなくて、しおれてしまった草木のような状態なんでしょうか。

水分は積極的に取っていますし、帰ってからも水分補給をしっかりしますが
それでもなぜかカサカサになります。

食べ物もセミナーのときには普段より食べているはずです。
食事の回数も増えます。

でも明らかに、翌日がカサカサになる。

そして調子が戻ってきて、普段ぐらいに目が見えるようになってくると
その頃にはカサカサも治っているんです。

よく分かりません。


しかもこのカサカサ、セミナーの後に限りません。

誰かと会って話をするような機会でも起きます。

別に普通の会話をしていたつもりなのに
なぜか翌日の消耗が激しい。

頭がボーっとして、指先や口のあたりがカサカサになることがあります。

別に体を動かしたり、頭を使っている感じでもありません。
テストを受けたりすれば疲れますが、それはオーバーヒートっぽい疲労感。
カサカサとは別物です。

何が起きているんでしょうか。

カサカサを指標に活動する必要があるのかもしれません。

2014年03月11日

見ているだけで上手くなる

書道をやって、もう5年ぐらいになりそうです。

僕が教わっている先生は、最初に4,5ヶ月だけ「習字」をやって
後はずっと「臨書」をやらせるスタイル。

僕がずっと持っていた典型的な書道教室のイメージでいうと
皆がテーブルの前に座って、静かに練習をする感じでした。

最初に全員が手本をもらって、それを見ながら皆それぞれ練習する。
先生は皆を見回って、たまに指導をしてくれるような、
そんな想像をしていました。

ですが、僕が通っている書道教室の実態は全くの別物です。


ほとんど生徒は練習しません。
教室に書道道具を持っていくことさえ滅多にないんです。

「古典」と呼ばれる昔の人たちの書を記録した本を見ながら
先生がお手本を書いてくれます。

生徒は書かずに、先生が書くんです。

古典を参考に真似して書いてみる作業を「臨書」と呼びますから
先生が古典の臨書をするのが、教室で行われることなんです。

1クラスの間中、生徒全員分のお手本を書く。
生徒は先生の周りに集まって、それを見ている。

一人ひとり毎回違うお手本をもらって、生徒は宿題として家に持ち帰る。
それで自宅で練習して、書いたものを次回に持っていく。

先生はそれを赤で添削して、また次のお手本を書いてくれる。

…そういう繰り返しです。

筆の持ち方や姿勢については教えてくれません。

生徒はただ先生の書く姿を見て、
家でお手本を見ながら真似て書くだけ。

なのに皆、上達するんです。
それもかなりの速さで。

どのくらいの上達かというと、年に一度開催される書道展で
平均の入賞率の倍以上が高い評価の賞を取るようになるほど。
それも通い始めて1,2年ぐらいからです。


生徒は皆、見よう見真似で覚えていくのでしょう。

特に重要だと思われるのが、先生が書くときのリズムや力感。
間近で見ているうちに、自然と「移ってしまう」感じのようです。

つまり、言葉でアドバイスをするのではなく、
高い技術が記憶へ焼きつくようにインストールしてくれている、と。

この影響力が大きい先生なんだろうと思えます。

皆を知らず知らずのうちに上達させられる。
見本の見せ方が上手いから、学ぶ側の効率も上がるということです。

もちろん、
 どれぐらい丁寧に見ているか、
 どれぐらい細かく真似しているか、
によっても上達の速さは違うはずです。

真似の能力が上達と関わっていそうなことは、
スポーツの得意な人の上達が速いことでもうかがえそうです。

ダンスをやっている人なんかだと、見本の動きを再現する技術が高いので
先生の行っている動作を吸収するのが上手いようです。

逆に、ずっと前から書道をやっていて、自分の書き方が固まっている人ほど
先生の技術を真似しきれないことが多い。

「書道でやることは、こういう作業」といった感じの思い込みや癖があって、
自分の幅を出られないみたいなんです。
どんな種類のものを書いても、似たような印象になってしまう。

確かに、どれだけ先生の真似を緻密にやろうとしても
どこかには必ず、その人っぽさが出るものではあります。

同じお手本を元に生徒がそれぞれ書いたものを見比べれば
どれが誰の書いたものだかを当てるのも可能なぐらいです。

しかし、そうやって見比べたとしたら、
真っ先に誰の書いたものかを特定できる人もいる。
その人の癖が強く出る人です。

言い換えると、
 意図的にバリエーションを出そうとしても
 同じような感じになってしまう
ということ。

変えようと思ったときに変えられる部分が少ないわけです。
癖の部分はどうしても変わらない。

つまり、自分の癖が強く残りやすい人ほど
表現の幅も狭くなりやすいという話です。


僕の通っている書道教室のように、真似を通じて学んでいくスタイルでは
どれだけ細かく真似できるかがポイントになりそうに感じます。

それは細かく真似をしていく中で
先生の技術を再現できる度合いが高まるからだけではなく、
自分でコントロールして変えられる部分が多くなることで
様々なやり方をするための柔軟性も高まるからでしょう。

知らないうちに身についてしまっていた自分の癖から出られると
意図的に扱える範囲が広がるわけです。
対応の幅が広がる。

そのためには一度、その癖を自覚しておくのが効果的。

真似から学ぶのは、自分のやり方との違いに気づいて
自分の癖を自覚するのにも役立つようです。

と同時に、先生のやり方を徹底的に真似できるようになってくると
今度は、その先生の癖まで吸収しやすくなるはずです。
先生の癖の部分は、生徒の側でも扱いきれない無自覚な領域になる。

そうなったときには、別の先生を真似することで
先生から引き継いだ癖の部分を変えられるようにする必要が出るのでしょう。

師匠のやり方を徹底的に真似してから、師匠の元を離れ
新たな師のやり方を真似する。
その繰り返しで、コントロールできない癖の部分を減らしていく。

そんな流れで上達するものなのかもしれません。

良く聞く話として、
後継ぎ候補が別の師匠の元へ勉強に出させられる
ということがあるようですが、
それも師匠の癖の範囲を出られるようにするためには
効果的なやり方のように思えます。


喩えるなら、癖とは
パイプの詰まりのようなものでしょうか。

表現されることになっている何かが
体を通じて表に出てくるためのパイプがあって、
ところどころ詰まって流れの悪い部分がある。

その”詰まり”を解消するほどスムーズに流れて
表現されるべきものが自然と出てくるようになる感じ。

”詰まり”を減らしてスムーズな表現を可能にする1つの手段が
『真似をして癖を自覚する』ことだ、と。

その意味では、先生自体に癖が少なくて、自在に色々と変えられる人だと
生徒も余計な癖を吸収しなくて済むので、上達が速くなりそうです。

変な癖を与えない先生ほど、
生徒の個性を引き出す可能性があるのかもしれません。

cozyharada at 23:55|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 心理学
おしらせ
 ◆ セミナー情報 

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《心を調える実践会》

【日時】 2017年10月15日(日)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    304集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分

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次回開催は11/5の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


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《勉強会》 

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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