2014年04月

2014年04月29日

葛藤の統合

葛藤( conflict, コンフリクト)は、様々な文脈で使われる単語のようです。

NLPで葛藤といえば、心理的な葛藤のことを意味しますから、
「内面的に2つの相反する気持ちがあって、どうにもならない感じ」
が葛藤と呼ばれます。

一方、世の中には、コミュニティや民族、国家同士の対立とか、
組織間の揉め事といったものを葛藤と呼ぶこともあるようです。

いってみれば、心理的葛藤と、社会的・人間関係的葛藤とがある、と。

個人の内側で起きる(イントラパーソナル)な葛藤も、
人と人との関係性で起きる(インターパーソナル)な葛藤も、
システムとして捉えれば、どちらも似たようなものです。

対立の構造も、対立への対処法も、非常によく似ている。
というよりも、社会の縮図が個人の内面になっているというか、
個人の内面で起きることと社会で起きることは相似しているというか、
それぐらいシステムとしては同じ構造で理解できます。


社会的な葛藤に対するアプローチは「コンフリクト・マネジメント」と呼ばれ
1つの研究対称として取り扱われているようです。

その社会的葛藤へのアプローチの1つが「統合」。

他にも、一方が他方を「支配」するパターンもあれば
お互いに「妥協点」を見出していくスタイルもあるとされます。

「統合」の場合は、対立している2つの集団や個人から
ニーズと利益を把握して、抽象度の高い合意点を見出す方針。

「なーんだ、よくよく話し合ってみたら、
 お互い最終的に目指すところは同じなんですね。
 表面的に重視する部分が違っているだけで。」
といった”まとまり”といえるでしょう。


この「統合」のアプローチは、心理的な葛藤に対しても使われます。

NLPでは「葛藤の統合」とか「インテグレーション」とか
「ビジュアル・スカッシュ」などと呼ばれる技法があって、
これはまさに「統合」の方針に見えます。

つまり、一人の心の中で対立している2つの気持ち(パート、プログラム)から
双方の肯定的意図(≒ニーズや利益)を聞き出して、
2つが一致するレベルまで抽象化することで折り合いをつけるわけです。

例えば、
「つい色々と食べ過ぎてしまう」のと
「食生活をコントロールしたい」のとが
葛藤している、なんていうことがあります。

このケースでは「食べ”過ぎしてしまう”」と、否定的な印象が表現されますから
自己認識としては「食生活をコントロールする」側に重みが置かれていて、
「色々と食べ過ぎる」ほうを問題視していると考えられます。

お腹がすいてくると、つい何かを食べたくなる。
そこで「いやいや、コントロールしなきゃ」と思うんだけれど
「まぁ、お腹がすいていると集中できないから、チョットぐらいなら良いか!」
なんて、つい食べてしまって、後から嫌な気持ちになる…といった具合。

実際には、普段の食事の中でも「好きなだけ食べたい」気持ちが沸いてきて
存分に食べる喜びを味わいたい時間に、
「イヤ、ダメだ。コントロールしなきゃ」という別の気持ちが沸いてきて、
食べる喜びを素直に感じられない不満も感じているはずです。

その意味では、「食べたい」ほうも「コントロールしたい」ほうも
どちらもお互いに邪魔し合っているといえます。

だから対立なんです。
葛藤なんです。

ただ、多くの場合、人は自分の普段の意識に近いほうの気持ちを重視して
「〜したいのに、つい…してしまう」といった印象を持つようです。
「〜したい」側に肩入れしている感じでしょうか。

しょっちゅう負けてしまう側に肩入れしているから、残念な気持ちを味わい、
それを問題だと感じるようになるわけです。

こうした葛藤に対しては、その双方の気持ちの奥を探る手法が使われます。
「色々と食べたい」ほうの気持ちの奥には、どんな意図があるか?
「食生活をコントロールしたい」気持ちの奥には、どんな意図があるか?と。

探った気持ちとして、仮に
 「色々と食べたい」の奥には
 「満たされない想いを埋めたい」という意図があって、
一方、
 「食生活をコントロールしたい」の奥には
 「より良い自分になって欠けている自信を満たしたい」という意図がある、
としましょう。

もう少し一般化した表現にすると、どちらも
「日頃の満たされない自分、欠けている自分を何かで満たしたい」
という意味では共通している。

直近で気軽に満たすために食べることを選ぶか、
長い目でみて自信の形で満たすためにコントロールを選ぶか、
そういった違いであって、どちらも「欠けた感じを満たす」点では同じだ、と。

そういう風に共通点に辿り着くと、
「じゃあ、状況を見てバランス良く選べば良いじゃないか」
といった結論に落ち着きます。

共通のニーズや利益が見出されることで折り合いがつくわけです。

社会的、人間関係的な葛藤に対するコンフリクト・マネジメントで捉える
「統合」のアプローチと同じ取り組み方だといえます。

もしかすると、NLPが個人の内面の葛藤に対しても
社会的な葛藤へのアプローチと同じ方法を取り入れたから、
『葛藤の統合』という名称の手法になったのかもしれませんが。


ということで、NLPで扱う『葛藤の統合』における「統合」の意味は
社会や組織のコンフリクト・マネジメントにおける「統合」と同様だろう
…と解釈できるという話です。

ところが、心理的な葛藤に対して
NLPの『葛藤の統合』の手法(ビジュアル・スカッシュ)を使った場合、
結果的には別の意味合いの”統合”も起きるんです。

こちらの”統合”の意味は、もっと日常的なニュアンスに近い。
部分が全体と一体化していく感じです。

今まで”自分”にとって思い通りになっていなかった部分があった。
葛藤を解消するプロセスとして、その奥にある肯定的意図を把握した。
すると、「あぁ、そういう意図があったのかぁ…」としみじみ納得できます。

その部分が嫌じゃなくなるんです。
受け入れられるようになる。

その部分も「自分の一部として受け入れられる」ようになる。
これが別の意味での「統合」の瞬間だといえます。

それまでは”自分”にとって望ましくないものとして拒絶していたわけです。
そんなのは”自分”らしくない、と捉えていた。

それが肯定的意図を知ることで、
「まぁ、そういうのも自分か」
と納得できるようになるんです。

それまでは”自分”に含めていなかった部分が
”自分”という全体に「統合」されたということです。

2つの対立する部分を「統合」するための手法ですが、実際には
それまで「自分らしくない」と拒絶していた部分を”自分”に統合している
とも考えられるわけです。

そして効果としても、自分という全体への統合のほうが大きいように見えます。

内面的な葛藤を統合するときには、
”自分”という存在の見直しも起きているのでしょう。

2014年04月27日

寝られない日がある

セミナーの種類によって僕の疲労度が違うのは
翌日のカサカサ具合だけでなく、
セミナー直後からの睡眠サイクルにも表れるみたいです。

直後に猛烈な睡魔に襲われて
もうダメだぁと眠りにつく。

すると1時間半ぐらいで目が覚めるんです。

そして、その後は寝られない。
とにかく寝つきが悪いんです。

だからといって2日続いていたりすると
翌日への影響がありそうなので寝ないのも困る。

布団の中でただ横になるばかり。

普段ではありえないような寝つきの悪さになります。


その次の日はボロボロに頭が働きませんから
寝なくても大丈夫なわけではないみたいです。

何かバランスが大きく崩れるんでしょう。

運動するのも手かもしれませんが、
帰りが遅くて翌日も早い場合には厳しい気もしますし…。

チョット工夫が必要な感じです。



cozyharada at 23:23|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2014年04月26日

似て非なるもの

ハリウッド映画なんかを見ていると
日本人や日本の景色として描かれているものが
全く日本っぽくないことがあると思います。

面をつけずに剣道をやっていたり、
剣道なのに足元を斬ろうとしてみたり、
剣道の防具をつけているのに組み技や投げ技があったり…。

新幹線の走るところに、やたらと看板が出ていたり、
都会のビル街のデザインが中国っぽかったり、
日本家屋なのか日本の寺なのか、カンフー映画の少林寺みたいなものなのか
色々なものが混ぜこぜになっていたり…。

日本企業の社長として登場する俳優の日本語がカタコトだったり、
中国人の俳優が日本人役を演じていたり…。

ケン・ワタナベ、ヒロユキ・サナダなど、
日本人俳優がハリウッド進出するケースも出てきましたが、
やはり脇役として登場する日本人の役は、日本人っぽくないことが多いでしょう。

おそらく一般的なアメリカ人にとっては、
そのあたりの違いは気にならないんだと思います。

というよりも、違いが分からない。


実際、僕が会ったことのある若い英会話の先生は、
親に「日本に行く」と言ったときに、
「あんた、あそこは南北で別れて争いが激しいんじゃないの?
 危なくない?大丈夫?」
と心配されたそうです。

彼が「それはコリア( Korea )の話だ」と親に答えたら、
「え?違うところなの?」と、地理的なことさえ分かっていなかった、
と言っていました。

心理学でも「西洋文化( Western culture )と
「東洋文化( Eastern culture )」あるいは「アジア文化( Asian culture )」で
比較をするような研究は見受けられますが、
アジアの中で比較することは滅多に無いようです。

そもそもそういう比較研究をする心理学者だって
アメリカの大学で教授をしている日本人であることが大半で、
アメリカ人を被験者として研究されることが中心となっている心理学分野において
アジアの各国を比較しようという人は少ないのが現状みたいです。

ですから自然と、アジア文化は1つのものとして説明されます。

日本人からすると随分と違う文化に思えるアジア諸国も
大半の欧米人からすると似たようなものに感じられて
それらを区別する基準さえも見えてこないのでしょう。


逆に、日本人からすると欧米文化の区別がついていないのかもしれません。

僕が出会ったアメリカ人の多くは、比較的
本人の出身地や家族の血統としての出身地などを気にしているようでした。
アイリッシュ系だとかユダヤ系だとか。

当然、地域ごとの特色もあるでしょうし、発音の違いなんかもあるはずです。

ですが、知らない側からすると区別のつけようがないわけです。
違っていることにさえ気づかない。

同じものとして扱ってしまう。


2つのものに違いが見えるということは、
両方を見比べ、それぞれの特色を把握して
その中から差異を見つけることができる、ということです。

両方の特色を詳細に知っているほど、多くの違いが見えてくる。

昆虫の新種を発見できる人は、それまでに知られている同種の虫に詳しくて
沢山の情報を持っているから、今までのとは違う種類に気づけると言えます。
僕が新種の蝶を偶然に捕まえたとしても、他の蝶に対する情報がないので
それが新種だと気づくこともできず、ただ「蝶を捕まえたよ」と報告して終わりです。

詳しく知っていないと違いを捉えることができないんです。


幅広い物事についても同様のことが言えます。

何か新しい情報を入手した。
そのときには詳しい内容が分かっていないことでしょう。

ですから今までに知っていたものとの違いもハッキリしない。

さらに、今まで知っていたものの知識量が少なかった場合には、
新しい情報と区別することはもっと難しくなるはずです。

カウンセリングというものを良く分かっていない段階であれば
初めてコーチングについて説明されたときには、違いを理解しにくい。

「カウンセリング?コーチング?まぁ、結局、話を聞いて
 会話を通じて、相手に上手くいってもらうやり方のことでしょう?」
…のように”似たようなもの”として感じられると考えられます。

新しいことを学んだとき、「なんだ、あれと同じようなものか」と感じるとしたら
元からあったほうの理解に関しても、新しく学んだことの内容に関しても
両方とも、違いを見つけるだけの情報量に達していない可能性があります。

ただ物事を大まかに捉える傾向があるだけ、という場合もあり得るとはいえ、
それでも違いを感じ取るのに十分な理解に達していれば
「うーん、同じかというと、なんかチョット違うところがある気がする」
といった答えになって、「同じ」という判断にはならないんじゃないでしょうか。


共通点を見ようとすれば、似ている部分は少なからずあるはずです。
ただし、共通点は抽象度を上げれば必ず見つかるんです。

その意味では、似ていないものなんてないんです。
どれぐらい似ているか。
そして、どれぐらい違っているか。

英語でいうと「 contrast 」です。

「 compare 」は「共通点に注目して”比較する”」
「 contrast 」は「共通点と差異の両方を”見比べる”」。

どちらも日本語にすると「比べる」になるようですが、
物事を理解するプロセスには「 contrast 」が求められると思うんです。

人は皆違う。
一人ひとりが別の存在だ。
…そういう視点が、コミュニケーションで強調されることはよくあるものです。

しかし、人が作ったり考えたりしたものを理解する段階では
「同じようなもの」で済ましたくなるかのような場合も見受けられます。

普段から共通点と違いとの両方に注目しながら捉えていくと
理解も深まるだろうと思われますし、何より、
違っていることが当然のようにも感じられてくる気がします。

そうなれば、自分と異なるもの、異質なものに対する恐怖や拒否感も減って、
同じであることだけで極端に安心しようともしなくなるかもしれません。

そして違いが見えてくるほど、全てのことが別物に見えてくるほど、
意外なことに、唯一の共通点を通じて全ての物事に親しみが沸いてくる。

そういうこともあると思えるんです。

2014年04月23日

混ぜるな、キケン

最近、アドラー関係の本が流行っているようです。

「アドラー心理学」という呼ばれ方をするものの
フロイトの精神分析などと並んで、サイエンスとしての心理学が確立する前に
アドラー個人が考えた”思想”のようなものと言えると思います。

アドラーの唱えた「人の心」の捉え方と「良い生き方」の指針、
つまり「教え」をまとめ上げたものという点で、学問として議論されたというより
実際に社会生活で役に立つものとして広められたように見受けられます。

その意味で、まさに昨今の自己啓発の走りのように位置づけられるのでしょう。
アドラーの教え、アドラーの思想といった感じ。
今でいう自己啓発系のセミナーみたいなものとして人気があったんじゃないでしょうか。


このように「教え」や「思想」といえるものは、
全体像としてのまとまりを持っているのが一般的です。

理論があると言っても良いでしょう。

そして、その教えは全体の統一感の中で機能を発揮するものです。
1つの教えとして全体で取り組んでこそ効果が出るように作られる。

特に、長きにわたって語り継がれてくる教えだとすると
その中に論理的な矛盾が含まれないような統一感があって、
ある考え方をベースにしなければ成立しない考え方も存在するはずなんです。

これはアドラーに限らず、様々な自己啓発や「○○先生の教え」でも同様です。
その流派の教えは、その流派の中で完結しているんです。

つまり、一部分だけを取り出して、別のものと混ぜたりすると
上手く機能しないこともありえるということ。

もちろん、実践的に使うことだけを目的にして
1つの考え方だけを取り入れて日々を過ごしてみる…
というのであれば役に立つこともあるでしょう。

そうやって色々な考え方、色々な行動習慣を自分の中に取り入れて
自分にとって上手くいく考え方を見出していくのは実用的だと思います。

「○○先生の〜をやってみたら良かった。
 △△さんの…も良かった。
 最近、なんか良い感じです。」
といった具合に、本人が満足するのが目的であれば、
とにかく色々と試してみるのも1つの方法。

しかし、「この考え方を土台にして、こっちの発想が機能する」という場合には
一部分だけをピックアップして試してみようと思っても、
土台が足りないために役に立たない可能性もあるわけです。

この点は注意が必要なところじゃないでしょうか。

「教え」全体として取り入れたときに初めて納得できることがある。
つまみ食いでは理解できないところもあるだろう、という話です。


さらに教える側の立場の人が、アドラーのような思想の一部だけを切り取って
それを何かと組み合わせて伝えたりすると、全体の統一感も失われがちです。

組み合わせた部品同士が相反するものになることもあるんです。

例えば、NLPには『肯定的意図』という考え方があります。
これはNLPの『前提』に含まれている発想ですから、
「全ての振る舞いには肯定的意図がある」という考えを取り入れないと
NLPは機能しないことになります。

『前提』とは、そういう意味です。
「これを受け入れないと、NLPは使えませんよ」と。

で、NLPにおける『肯定的意図』とは
その人の中の一部分(パート、1つのプログラム)が
「良かれと思ってやっている」という意図、期待していることを言います。

「この反応をすることで、〜になってくれるだろう」という期待をしている。
学習されたパターンに基づく予測だといえます。

ここで重要なのは、この期待はあくまで期待であって、
それが実際に達成されているかどうかは無関係だということ。

「だって、こういう良いことがあるだろうと思ったから…」といった感じです。
これが『意図』と呼ばれる所以。

この部分で、肯定的意図は二次利得とは別物なんです。

例えば、小学生ぐらいの頃、泣いている子供を慰めようとして声をかけたら
逆にもっと泣いてしまった…といった経験はないでしょうか?

ここで慰めようとした行動には『肯定的意図』として
「悲しいだろうから気持ちを楽にしてあげたい」といった想いがある。
『意図』です。

しかし、その意図に反し、実際の結果として「余計に泣いてしまった」。
意図が裏目に出たケースです。

そして余計に泣かせてしまったことで自分がオロオロしていたら
先生が「あらあら、仕方ないわね。○○ちゃんは悪くないのよ。優しいのね。」
と声を掛けてくれたとしましょう。

こういう流れが何度も続いたとき、
「泣いている友達を慰めようとして泣かせてしまう」行動には
そうすることで先生に褒められるというメリットが結びつきます。

この「泣かせてしまう」という望ましくない行動に付随したメリット
(先生に褒められる)が、二次利得といえます。

二次利得の考え方では、
 望ましくない行動を起こした結果、副次的に得られるメリットがあり、
 そのメリットが動機づけとなって同じ行動を繰り返す
と捉えます。

ですから、
「泣いている友達を慰めようとして泣かせるパターンを繰り返すのは
 後から先生に褒めてもらえるからだ」
と考えるわけです。

一方、肯定的意図の発想では、前述の通り
 望ましくない行動の奥には、「良かれと思って」という意図がある
と考えます。

つまり、同じ例でも
「泣いている友達を慰めようとして泣かせるパターンを繰り返す奥には
 『悲しいだろうから気持ちを楽にしてあげたい』、
 『気持ちを楽にしてもらって、その場の関係を暖かいものにしたい』
 といった期待(願い)がある」
と捉えるんです。

2つの考え方では注目する部分が違います。
二次利得は行動を起こした結果、
肯定的意図は行動を起こす前の期待(予測)。

どちらも1つの考え方ですが、注目の方針が違うんです。
NLPでは肯定的意図を前提とする。
二次利得ではなく。
それがNLPのスタンスなんです。

こればっかりは、どうしようもありません。
作った人がそういう風に設定したんです。

確かに、人間関係のシステムとして見たときには二次利得も重要です。
二次利得によって維持され続ける”問題行動”もあります。
その場合、二次利得の部分を変えることで”問題”が解消されることがある。

しかし、それは本人の問題解決ではないんです。
同じパターンを繰り返してしまうという本人の問題を解決するには
「良かれと思って」の意図を把握するほうが役に立つ…
というのがNLPの方針なんです。

「なるほど、心の底では、そういう結果を自分は期待していたのか。
 だったら、もっと上手くいく別のやり方で対応したほうが良さそうだ。
 よし、じゃあ今度はこっちでやってみよう。」
といった具合に本人が自ら問題解決に踏み出せるわけです。

本人が個人として変わることに注目しているNLPでは
二次利得よりも肯定的意図を重視している。
それだけの話です。

これはNLPでは”システムを扱えない”という意味ではありません。
”システムを扱わない”というポリシーです。

システムを扱いたい人は家族療法の視点を取り入れればいいでしょう。

おそらくNLPは本人を重視しているんだと考えられます。

本人が自分の心の奥底のねがいを自覚し、
人間関係のシステムに対して自分の望む形で自ら働きかける。
…この「望むようにやってみる」ことができる状態を作り出すのが
 NLPの好みなんだと思います。

結果として上手くいかないかもしれない。
でも、そうしたらまた方法を変えればいい。
ただし、方法を変えられなければそうもいかないし、
何を望んでいるのかを自覚できなければ、どう変えていいかも分からない。
だから肯定的意図を把握して、自分で方法を変える自由を手に入れよう。

そんな感じのスタンスがありそうです。
趣旨の違いなんです。

ですから、『二次利得』という発想をNLPと組み合わせると
『肯定的意図』の考え方と不一致を引き起こすと考えられます。


同様に、アドラーの教えの中には『目的論』という考え方があります。

指し示すものは『二次利得』と『肯定的意図』の中間のように感じられますが、
「今、この人が〜の行動をしたのは、○○という目的を達成するためだ」
と判断する考え方です。

「目的を達成するために」ですから意図よりも、結果に注目しているようです。
ときに目的は二次利得のようにもなります。
一方で、必ずしも目的が達成されていないケースもあるようなので、
ここでは中間的だと書きました。

しかしもっと重要なのは、目的論の考え方は『理解』にあるところです。
客観的な視点なんです。
分析的だともいえます。

それも自然なことじゃないでしょうか。
アドラーが精神分析の流れから作った考え方なんですから。

ただし、この第三者的に分析して「こういう目的だったんだろう」と理解するのは
NLPの肯定的意図とは全く別物だといえます。

肯定的意図は、主観的に実感するものなんです。
本人が自分の奥底にあった気持ち、「良かれと思って」という意図を探り、
それに気づいて「あぁ、そうだったのか…。本当は、○○を期待していたんだ。」
と納得するためのものです。

『目的論』は自分の振る舞いに対しても分析的です。
「こういう目的を達成しようとしていたのだろう」と考える。
”考える”んです。

でも、ここがポイント。

アドラーの全体的な方針は、意志で行動をコントロールするもの。
意識や無意識といった分け方はせずに、本人がコントロールする。

NLPの用語で解説すると、
 反応を制御するパートに主導権を与え、
 様々な反応を引き起こすパートに対しては、制御のパートの視点から客観視して
 制御するパートにとって(=社会にとって)望ましい形になるように
 反応のパートをコントロールする能力を高めていく
となります。

NLPでは、制御のパートも、反応を引き起こすパートも対等に扱うのに対して
アドラー流では制御のパートを中心とした全体を想定する、といえます。

制御の視点が中心になるのだとしたら、自分の無自覚な反応に対して
「これにはどういう目的があるのだろう」と分析的に理解すると、
その反応を客観的に制御するのに役立てられる、というメリットが見えてきます。

自分という存在をアドラー流の観点で理解していって
それを社会の中で上手く機能する形で制御できるように整えていく。

このような全体的な趣旨の中に、『目的論』は成り立っているのでしょう。

このような発想で取り組むとしたら、『肯定的意図』は不一致になるはずです。
『肯定的意図』は、『パート』として心を部分の集合体と捉えるNLPにおいて役立つ。

NLPでは全体を『パート』の集合体とするのですから、
部分同士が対立しないように意見のすり合わせをする方針をとります。
そのためには、全てのパート(部分)の意見を聞く必要があります。

この「パートの意見」が『肯定的意図』なんです。
それは分析的に理解しても意味がない。
意見を聞いたことになりませんから。
ですから、主観的に納得する観点として『肯定的意図』が求められます。


このように方針の違いによって、前提とする考え方が異なるわけです。

アドラーの思想に沿っている『目的論』という考え方は
アドラーの教えに従って自己変革に取り組む場合に有効なのであって、
NLPの前提とする『肯定的意図』と組み合わせられるものではないと思います。

全体としての思想の中で機能する1つの考え方だけを取り上げて
それを別のものと組み合わせようとするのは不一致を引き起こしやすいでしょう。

どっちが良いとかの話ではありません。
何を意図して取り組むか、です。

方針の違い、目指すものの違いを把握したうえで、
どの考え方を取り入れるかの判断をするのが大事じゃないでしょうか。

気軽な”つまみ食い”も、食べ合わせによっては消化不良を起こしかねません。

cozyharada at 23:18|PermalinkComments(2)clip!NLP | 心理学

2014年04月21日

『自分を好きになる』か『好きな自分になる』か

世の中には、イイ話とか、大事なメッセージというのがあります。
それを聞くと「あぁ、そうだよなぁ」と感じられるような言葉。

そうした言葉の中でも特に、人生全般に関したものに注目すると
大きく分けて2つの方向性が見て取れます。



1つは、努力の大切さを強調したものです。

自ら頑張って、課題を乗り越え、目標を達成し、自己成長する。
「理想の自分」、「なりたい自分」を目指して頑張っていくスタンスです。

コーチングとか成功法則とかビジネス系とか自己啓発とか
そういった分野で耳にしやすいようです。


もう一方は、あるがままを受け入れる大切さを強調したもの。

頑張らなくていい、今のままでいい、人はそのままで素晴らしい、
足りないところではなくて足りているところに目を向けよう、
ありのままの自分を大切にしよう、あなたは何もしなくても完全なんです…
といった感じのメッセージです。

セラピー、ヒーリング、スピリチュアルなどの分野で見られやすいようで、
心理読み物やカウンセラーの言葉なんかにも見受けられます。



1つ目のほう(努力するスタンス)は
『未来』や『自己成長』を重視していて、
『できる』ようになることで自分の存在価値を高めていく方針。

『できない』ことで揺らぐ自信を高めるために、
頑張って『できる』ようになりましょう、というわけです。

できない自分が好きじゃないなら、できるようになれば自分を好きになれる。
ダメな自分は変えればいい、と。

いわば『好きな自分になる』方針でしょう。


それに対して、2つ目のほう(あるがままのスタンス)は
『今ここ』や『自己受容』を重視していて、
『できない』自分を肯定し、現状の自分を受け入れることで
そのままの状態で自分の存在価値を高いものと認めていく方針です。

『できない』ことで自信が揺らぐのに対して、
そもそも「できなくたって大丈夫なんだ」と思えるようにしましょう、
というわけです。

「そんなことで揺らぐ必要はないんだ。できなくたって気にしない。
 できたって、できなくたって、常に素晴らしいんだから。」といったスタンス。

できない自分が好きじゃないなら、好きになればいいじゃないか。
できないとダメだなんてのは、社会に与えられた思い込みに過ぎない。
ありのままで素晴らしいんだから、できなくたって良いんだ。
…そんな感じ。

ダメな自分を好きになればいい。
そもそもダメな自分なんて存在しないんだから、今のままの自分で充分だ、と。

こちらは『今の自分を好きになる』方針といえます。


つまり、
・好きな自分になる
・自分を好きになる
の2つの方向性がある、ということです。

世の中には、両方のメッセージが溢れています。
沢山の人がこうしたことを言います。

そして、ほぼ必ず、どちらか一方が強調されます。

それはメッセージを発している本人が大事だと思うほうが表現されるから。
その人に合うスタンスで取り組み、その大事さを再確認し、
「これが大事なんだ!」と主張する。

場合によっては、反対側の意見を否定しながらでも表現されるみたいです。

「ダメな自分が嫌だと感じる、その悔しさこそ本当の自分なんだ。
 今の自分が嫌だから悩んでいるんだろう。
 そのダメな自分を受け入れてしまったら成長なんてありやしない。
 生き物は成長するのが自然なものだろう。
 一歩ずつ進むんだ!もがけ!頑張れ!」

「できないとダメだとか、自分には価値がないとか、誰が決めたの?
 頑張ってばかりじゃ疲れちゃうでしょ。
 あなたは生きているだけで素晴らしいんだよ。
 最初からあなたは全て持っているから。
 わざわざ何かを欲しがる必要も、何かを頑張る必要もないんだ。
 何もしなくて良いんだよ。
 ありのままで良いんだよ。
 それでもあなたは愛される。」

こんな感じ。

なんだか、どちらも大事なことを言っているような印象を受けそうです。



こうしたメッセージを声高に発する背景にも色々あると考えられますが、
1つの傾向としては、「上手くいかなくなって真逆に転じた」パターンがあるようです。

自分はこう信じてやってきた。
でも結局ダメだった。
そしてついに、諦めるときがやってきた。
諦めたら、反対側のメッセージの意味が実感できた。
…という感じ。

例えば、
 頑張って、頑張って、頑張って…、でも上手くいかなくて
 どんなに頑張って理想の自分に近づいても自分を好きになれなくて
 「もうどうでもいいや」って頑張るのをやめたら、
 それでも全く問題がないことが分かって、
 何もしなくたって自分は受け入れられているんだと実感できた
みたいなケースです。

当然、逆の例もあります。
 あるがままの自分でいい、今の自分で素晴らしいって言うから
 自分を受け入れるように考え方を変えて、
 ○○先生の言っていた言霊を繰り返して…、
 「確かに気持ちは楽になってきたところもあるけど
 現実は全く変わっていないじゃないか!」と、ある日に痛感して、
 もうこんな自分はまっぴらだ!って、できることから努力するようにしたら
 成長する喜びを感じられて自分が好きになってきた
など。

こういう転機を体験すると、
「こっちのほうが大事!」というメッセージ性が高まるのかもしれません。

まるで昔の自分に教えてあげようとするかのように
大事なことを発信しようとする。


ただ、こうしたメッセージを受け取る側からすると
自分の好みに合ったものしか耳に入らないものでしょう。

頑張るのが好きな人は「頑張れ!」というスタンスのメッセージを見たときに
「うん、そうだよな!やっぱり成長するから素晴らしいんだ!」
と自分の考えを強化する。

あるがままを受け入れるのが好きな人は
「頑張らなくていいんだよ」、「何もしなくても、あなたは素晴らしい」
などのメッセージを見たときに感動して癒された気持ちになって
「ああ、やっぱりそうだよね。うん、今のままで良いんだ。生きていて幸せ。」
と自分の考えに納得感を高める。

反対側の意見を見たときには、
「うーん、そうじゃないだろう。止まってどうするんだ?
 頑張って成長して人の役に立つのが人生じゃないか。」
とか、
「あーあ、そうやって頑張っているから逆効果なのに。
 足りないところを見て、もっともっとって欲しがっていたら
 満たされることなんてあり得ないでしょう。
 今で満たされていることに気づけないなんて、可哀想に。」
とか、
異論が沸いてくることもあるみたいです。

聞く耳を持たない。
むしろ反発や拒絶反応さえ起こりえます。

ですから、声高に主張された大切なメッセージは、
どれだけ熱心に、どれだけ心をこめて発信されても
最初からそれを大事だと思っている人のところにしか届かないんです。

聞いた人が「分かりました!」「気づきました!」なんて報告したとしても、
 それは最初から何となく経験的に感じていたことで、
 ただ上手く言語化できていなかったのを意識に上げられただけ
ということが良くあるものです。

そのメッセージに共鳴したということは、内面のどこかには
それと一致するものが含まれているはずなんです。

同じ価値観を持っているから、イイ話に聞こえるんです。

でも、その価値観が真逆だとしたら、それは耳に入らない。
耳に入ることがあっても、心に響くことがないでしょう。

ここが皮肉ですね。


発信する目的が、「やっぱりそうですよね!さすが、良いこと言いますね!」
と称賛されることにあるのなら、イイ話をするのは効果的でしょう。
同じ意見を持った人たちからの賛同を集められます。

しかし、本当に自分が大事だと思っていることを伝えたいのは、
過去の自分と同じような傾向の人たちじゃないでしょうか。

つまり、自分が大事だと思っている側のスタンスには見向きもせず、
反対側のスタンスを信じ続けている人たち。

「そっちじゃダメなんだ、こっちが大事なんだよ」って伝えたいのでしょう。

以前の自分がそっちで長い間苦しんだから、
少しでも早く抜けられるように、と。

「ダメな自分を好きになろうとしたってダメなんだよ。
 ダメな自分を好きになる努力をするぐらいだったら、
 好きな自分になる努力をしようよ。」
とか、
「どんなに頑張ったって完全に満たされることはないって。
 満たされている自分を追い求めるんだったら、
 今この瞬間に満たされている自分を見てごらんよ。」
とか。

残念ながら、こうしたメッセージの多くは空回りするようです。

そうしたメッセージが好きな人に響き、
その人たちの考えを強め、よりその傾向を増長する。

そして世の中には両側のメッセージが溢れているわけですから、
反対側の主張を見ると残念な気持ちになることも少なくないでしょう。

「ほら、そうやって”何もしなくていい”とか言う人がいるから
 ダメな自分を受け入れられなくて苦しみ続ける人が出てくるんじゃないか。」
とか、
「あーあ、いつまで”頑張れ、頑張れ、成長だ”とか言っているんだ。
 頑張るのをやめたときに、幸せの意味に気づけるっていうのに…。」
とか。

自分が大事だと思っている方向性のメッセージは
本当に伝えたい人のところには届かず、
むしろ反対側のメッセージが溢れるばかりに
いつまでも”間違った”考えが無くならない
…なんて感じることさえあるかもしれません。


しかし。
そんなに悲観的になることもないようです。

どうせ同じ価値観の意見、賛同できる方向性のメッセージしか聞かれないんです。

そして、昔の自分と同じように、方向性の”間違い”に気づくタイミングは
「トコトン信じ続けて、それでも上手くいかずに諦めた」ときです。

昔の自分と同じような方向性の人には届かなくても、
真逆の人たちのメッセージが、昔の自分と似たような人たちを後押ししている。
トコトンやって諦めがつく転機までの時間を早めてくれているわけです。

つまり…。

 「頑張る」スタンスの人だとしたら、「あるがまま」スタンスの人たちにこそ
 「ダメな自分を変える」努力の重要性を伝えたい。

 その重要性に「あるがまま」派が気づくには、
 「あるがまま」を続けて行き詰って、諦めがつくタイミングが必要。

 その転機となる行き詰まりに早く辿り着くには、
 トコトン「あるがまま」のスタンスを貫いてもらったほうが良い。

 実際、自分は「あるがまま」を長いこと続けて転機を迎えた。
 「あるがまま」のスタンスの時には、「頑張る」派のメッセージなんて聞かなかった。

 どうせ「あるがまま」のメッセージしか耳に入らないなら、
 むしろそっちをトコトン浴びせたほうが、一日でも早く
 諦めの境地に辿り着くのに役に立つんじゃないか。

 今の自分としては「頑張る」スタンスが大事だと思うが、
 その重要性に気づいてもらうには「あるがまま」のメッセージこそ必要だ。

といった感じです。

もちろん、逆もまた然り。

「あるがまま」のスタンスの人であれば、
「頑張る」派が「あるがまま」の重要性に気づく転機を迎えるためには
むしろ積極的に「頑張れ」のメッセージを聞いてもらったほうが良い、
ということです。

持ちつ持たれつ、でしょうか。


だからといって、
 本当は「頑張る」のが大事だと思っているんだけど、
 だからこそ表面上は「あるがまま」のメッセージを発信しよう
みたいな人は滅多にいないと思いますが。

少なくとも、こういった視点に立つと
反対側の意見に対しても寛容でいられるような気がします。



最後に、
「ほぼ必ず、どちらか一方が強調される」
と書いた理由です。

「両方のバランスが大事」という意見は出にくいと考えられます。

それは、どちらのスタンスで進んでいっても
到達点は同じものになるから。

2つが矛盾しない観点です。
バランスの問題ではありません。

「あるがまま」を受け入れ、今の自分で満たされていて
それでも自然とやることが沸いてくるから頑張るし、成長も続いていく。

「あるがまま」を受け入れるのが大事だと感じているということは、
「もっと受け入れたら、もっと好きになれる」と捉えている部分があって、
まだ全ての「あるがまま」を受け入れてはいない、という意味でしょう。

「あるがまま」の大切さを訴えているとしたら、
その大切さを受け入れていない人たちがいる現状の「まま」では不満なんです。
その「あるがまま」だと嫌なんです。

本当に「あるがまま」を受け入れたら、
もうそれ以上「あるがまま」を大切にしようとはしないはずです。

頑張って「自己成長」を目指すスタンスだとしても同様です。
「成長が大事だ」と言っているということは、
「まだ自分には成長の余地がある」という意味でしょう。

つまり「成長が大事だ」と言っている限り、成長に終わりはないんです。

本当に「成長」が終わったときには、もう成長しようとしない。
「成長が大事だ」とそれ以上感じることはないはずです。

大切だとは、もう感じなくなるわけです。

そして、
「もう成長しようとしない」のですから
「あるがままを受け入れた」ともいえます。

どっちももう、わざわざ大切にすることではなくなる。

だから、どちらかを強調したりもしないのでしょう。

言葉のメッセージに頼らないとも言えそうです。


ま、別に「あるがまま」を全て受け入れるところに辿り着こうが、
「自己成長」が終わりを迎えようが、
一人の生き様には、どうでもいんですけどね。

大切にしたければすればいい。
好きにしたら良いんじゃないでしょうか。

どうせそれしかないんですから。

cozyharada at 23:21|PermalinkComments(1)TrackBack(0)clip!心理学 | NLP

2014年04月18日

【セミナー】新・カウンセリング講座:第二回

ご案内: 5月6日(火・祝)&17日(土)開催

   新・カウンセリング講座 〜感情をケアする技法〜



4月に開催した《新・カウンセリング講座》の第二回です。

一回目には、
 クライアントの感情を手がかりにして問題を絞り込む方法
を扱いました。

この方法のメリットは、幅広いクライアントに対して利用可能なところです。

クライアントの力を積極的に利用しながら問題を絞り込む場合には、
「どのようなお手伝いをご希望ですか?」とダイレクトに聞くことができます。

これは、
 クライアント自らが問題を整理しながら
 自分にとっての問題の重要度をチェックして、
 自分が望む状態になるために自分でできること/できないことを把握し、
 それをもとに専門家に手伝って欲しい部分を答える
という前提を含んでいます。

第一声でこの質問に答えられなくても、クライアントの自己対話を促すと
「そうか、やっぱりここが大事なんだ」と気づく瞬間があらわれ、
そのタイミングで再び
 「では、今日はどのようなお手伝いがよろしいでしょうか?」
と聞くことで、カウンセラー側の意図した答えが得られる。

「〜な状況で、…ができないのが困っていて、
 本当は○○な感じになりたいんですが、それは自分ではできないので、
 その部分を変えるサポートをしてもらいたいです」
というのが理想的な答え。

・困っている状況
・それぞれの重要度
・それをどのようにしたいか
・その過程で自力の対処が無理なところはどこか

といった情報を、
自分で整理するだけの元気
問題解決への慣れがある場合には、
「どのようなお手伝いをご希望ですか?」の質問だけで
これらの情報を整理したスッキリした返答が得られるわけです。


しかし、現実的にカウンセリングに来る相談者の多くは
そういう元気を失っていて、状況に圧倒されて混乱しているものです。
だから自己対話を促しても整理しきれないケースが良くあるんです。

では、ここで何に圧倒されているのか?

それが感情です。

厳密には、感情と結びついた状況が
本人の対処能力の幅を超えたときに問題となる


そして感情が大きく動いていて、それを自分の力でコントロールできないとき
その感情を抱え続けることが苦しくなるんです。

感情的に苦しくなければ、厄介な状況でも悩みはしないでしょう。
むしろ厄介な問題ほどヤル気が沸く人だっているものです。

自分では処理しきれないほどの感情に圧倒されるから
そこで悩み苦しみ、何とかしたくてカウンセリングに来るわけです。

この感情と状況とがセットになった問題を小分けにして、
どれが重要なのかをクライアント本人に吟味してもらう方法が
この講座で紹介しているカウンセリングの手法だといえます。

状況だけで整理しようとすると重要度の判断は理性的なものとなりますが、
実際にはそこに感情が結びついていて整理しきれないものです。

理性的に考えて何とかしようとするのは本人もやることがありますし、
家族や友人に相談して得られるアドバイスも極めて理性的なものでしょう。
しかし、それらの理性的な考えでは納得できないから悩み、苦しむ。

そしてカウンセリングに来るんです。

感情が結びついていて理性で処理できないのであれば、
最初から感情を基準に整理すれば良い。

感情を基準に重要度を整理しようとすると、人は感じようとします。
自分の問題を考えるのではなく、問題となる気持ちを捉えようとする。

そもそも好き嫌いや意志決定と関係するのは感情です。
体の中の感情的な反応をチェックして判断するんです。

だから感情を頼りにすると、どの問題が重要かを判断できる、と。

つまり、問題解決の最優先は、
 「どの感情(気持ち)が手に負えなくて困っているか?」
の部分
なんです。


具体的に何かの行動を変えるとか、何かの対処をするとかは、その後
感情がケアされた後に、落ち着きと安定感を取り戻し、
そこでやっと前に進むための一歩を踏み出せるようになる。

「まずは一番困っている感情のケアをしましょう。
 それから、具体的な対処も考えるというのは、いかがですか?」
といった感じの提案だといえます。


そのために、ここで扱うカウンセリングでは
「どのようなお手伝いをご希望ですか?」
の質問は使いません。

クライアント本人に自分自身の感情を吟味してもらうサポートをしながら、
どの感情(と結びついたこと)が重要かを判断してもらう。

どの感情のケアをするかを絞り込んでいくわけです。

そして、
「〜な状況で、○○なお気持ちになって困っているとのことですが、
 それがどのような感じになれたら望ましいですか?」

と質問します。

これによって、カウンセラー側は
 どの感情を、どのようになるためにケアをするか
を把握できるという流れです。

ここでカギになるのが、
「じゃあ、どの感情を、どのようにケアしたら良いのか?」
の部分。

この対処法が、大まかに決まっているんです。
これが特徴。

カウンセラー側は、クライアントのケアしたい感情の種類に合わせて
ある程度の決まった方法を使えば良い
んです。

ここがシンプルで使い勝手の良いところでしょう。


今回の講座では、この
『感情をケアする技法』
を紹介します。

決まった方法といっても、方向性と型があるだけで
中身はクライアントに合わせて柔軟に変更しますから、
その意味では練習も重要になります。

紹介といったのは、型に合わせて実習するところまでを含みます。

カウンセラー側とクライアント側の両方を体験していただくことで
それぞれの感情が処理されていくプロセスを深く実感できるはずです。

人の感情というのは、こうやって楽になっていくものなのか
…と納得してもらえると、今後の対応も安心してできるようになるでしょう。

日頃の人間関係でも、
「今、この人は○○な感情だから、〜を経験して、…されていくんだろう」
なんて予想できるようにもなるかもしれません。

それだけでも困っている人と接する際に余裕が生まれると思います。

特に役立つのは、感情がケアされるときの内面の動きを把握できること。
つまり、
 感情をケアするときには、どのような視点で問題を捉え、
 どんな言葉を吐き出しながら、どんな考えを思う浮かべるのか
を経験として蓄積できる
、ということです。

この心の動きが分かっていると、
 どういう言葉をかけたら相手の心がケアされるのか
も想像できるようになります。

相手の抱えている感情に合わせて、暖かい言葉をかけるのにも役立つわけです。


ということで、今回のメインは『感情をケアする技法』の練習です。

全体の流れを把握するためにも、
感情を指標にして問題を絞り込む流れも練習します。

一通りのカウンセリングとして、
問題の絞り込みから感情のケアまでをトレーニングする機会となります。

カウンセリングに興味のある方、
整理したい感情のある方、
心理療法やNLPの技法に興味のある方…

いろいろな方に役立つ内容だと考えられます。

4月にご参加の方や、これまでのカウンセリング講座にご参加された方は
スムーズに取り組める内容だと思いますが、
初めての方には、目的によって馴染みやすさが異なる場合が想像されます。

初めてのご参加でご心配がありましたら、申し込みフォームの
「ご意見など」の欄にご記入ください。


☆カウンセリング最大の秘伝を練習するかもしれません…。
 様子を見ながらになりますから保証はできませんが。



感情のケアは、日々の中で非常に大切な部分です。
ストレスへの対処として、ご自身のためにも知っておいて損はないと思います。

ご興味のある方は、是非お越しください。


【講座の進め方】

実習が中心です。
解説もありますが、大半の時間は体験学習となります。


5月6日と17日は、同じ内容でトレーニングを行います。

理論的な解説は重複しますから、両方にご参加くださると
復習として知識が定着しやすくなります。

何より、今回は感情のケアの方法を実習としてトレーニングしますから
経験の量を積むことが大きく役立ちます。

流れを掴むのにも、基本的な心の動きを把握するにも
数を経験しておくのがオススメです。

ご都合のつく方は、二回ともご参加なさることも検討してみてください。

両日のご参加でも参加費は変わりません

ただし、一方のみのご参加の人数によっては
講座中のフィードバックの量に偏りが生まれる可能性もご了承ください。



◆録音/録画、再生機材に関しまして

実習の模様は録画・録音を元に振り返ると学びが多いものです。

特にクライアントの非言語メッセージを見逃していないかチェックしたり、
迷いが生じた部分を吟味したりできるのは、録画の強みでしょう。

必須ではありませんが、ご活用をお勧めいたします。


また、講座全体の内容は、ICレコーダーやビデオなどで
記録いただいても構いませんが、あくまで
個人的なご利用の範囲でお願いいたします。

※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
 十分にご配慮ください。





【セミナーの詳細】

≪新・カウンセリング講座 〜感情をケアする技法〜

<日程 
【日時】  5月6日(火・祝)
       10:00〜16:30


       ※開始時間にご注意ください 
       ※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。

【場所】 滝野川会館 303集会室
    (JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
    (東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
    (JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)


<日程◆
【日時】  5月17日(土)
       9:30〜16:00


       ※開始時間にご注意ください 
       ※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。

【場所】 五反田文化センター 第五会議室
    (JR山手線・五反田駅より徒歩15分)
    (東急目黒線・不動前駅より徒歩8分)


     ★申し込みフォームに、ご希望の日程(6日/17日/両方)をご記入ください。


【参加費】 ・・・15,000円

       当日、会場にてお支払いください。
       ※両日のご参加でも同料金です。

    ★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
     ご了承ください。




終了しました

多くの場合、一歩を踏み出せれば何かが変わるんです。

少しでも行動を変えれば、そこから広がっていくことがあります。

上手くいかないときは、ちょっと違うことをしてみればいい。
シンプルな原則ですが、とても本質的で有効なものです。

しかし、困っているとき、悩みが大きいときには、
なぜかその一歩が踏み出せない。

行動を起こせないときがあるんです。

それが、感情によって行動が妨げられているとき。


また、頭で分かっていても気持ちが追いつかないこともあるものです。

考え方を変えようとしても、自分を言い聞かせようとしても
なかなかそれが変えられない。

思考もまた、感情によって影響を受けます。


気持ちがついていかないなら、その根底にある
”わだかまり”となっている感情をケアする必要があります。

感情の処理ができると、スッと一歩を踏み出せることがある。
感情に整理がついたら、自然と考え方や物の見方が変わる。

あんなに憎んでいたはずだったのに、その感情を解消したら
実は奥底にあった感謝で胸が一杯になった
…なんていうことが良くあるものです。


逆に、いつまでも感情を溜めこんでいると
それが鬱積してくるようなこともあります。

それだけ感情のケアは大切だということです。

感情を心の奥底からのメッセージとして捉え、
その声に耳を傾け、丁寧にケアをしていく。

そういう取り組みの積み重ねで、日々が楽になります。
心身ともにバランスが取れてくることもあるようです。

場合によっては「状況が変わらなかったら意味がない」と
思いたいときもあるかもしれません。

しかし、意味はなかったとしても、価値はあります。

感情をケアすると楽になりますから。


ご自分のためにも、関わる周りの方のためにも
感情を大切になさっていただければと思います。

2014年04月16日

自分を大切に

「ワガママ」とか「自分勝手」とかいうのは、
『自分を大切にする』とは別物です。

むしろ「ワガママ」や「自分勝手」は、
 自分を大切にしていない
といえます。


「ワガママ」や「自分勝手」の中には
 自分がワガママに振る舞っているとか
 自分勝手なコミュニケーションをしていることに、気づいていない
ケースがあります。

過去に学習した行動パターンを自覚することなく使って
周りを自分の思い通りにしようとする。
自分が「思い通りにしたい」ことにも自覚していない。

自分のプログラムとして沸き起こってきた反応を意識に上げることなく
素通りする感じで、表に行動として出てくる状態です。

本人はいたって自然。
周りに対して不満があって、自分はそれを正そうとしているだけ。
あまり本人は悩まないといえるでしょう。
困るのは周りの人たち。

こういったケースで沸き起こっている反応(行動や感情など)は
1つのプログラムだといえます。

そして、それらのプログラムには意図があります。
意図というのは、期待していること(予想)です。

「このような反応をすれば、きっとこういう結果になって
 この価値観が満たされるはずだ」
という予測がプログラムの中に含まれている。

つまり、プログラムとしてその「ワガママ」で「自分勝手」な振る舞いが出るときには
そうすることで期待しているものが奥底にある、ということです。

「こういうのを望んでいるんだ」といった気持ちがある、と。
そういうメッセージだと捉えられます。


ここで重要なのが、こうした要望や期待のようなメッセージは
必ずしもそれが叶わなくても大丈夫なことが多いことです。

小さな子供が駄々をこねたり、泣いたりしているようなものでしょうか。
「痛かったね」「ビックリしたね」と声をかけるだけで泣きやんでいく感じ。

同様に、ワガママや自分勝手な振る舞いをしている人に対しても
その意図を汲み取って、共感的なメッセージをかけると
「そう!そういうことなんだよ!なぁ、分かるだろう?…もう。」
といった具合に気持ちが落ち着いていくことが良くあります。

ですから、大部分のワガママや自分勝手な振る舞いは
「分かってもらいたい」メッセージだとも言えるわけです。

じゃあ、誰に分かってもらいたいのか?

意外と誰でも良いようです。
大事なのは「分かってもらえる」こと。

ワガママや自分勝手な振る舞いがメッセージであって
その奥に「分かってもらいたい」意図がある。
この意図を分かってもらったときに落ち着くんです。

その「分かってもらう」相手が誰でもいいというのは、
『自分でも構わない』ということ。

いや、むしろ本当は自分に一番分かってもらいたいのかもしれません。

自分でプログラムの反応というメッセージに気づき、
その奥にある意図を自覚する。
すると、ホッと落ち着く感じが出ます。

ワガママや自分勝手な振る舞い、感情的な反応などが起きていることだけに
ただ気づくだけでは、この「ホッと落ち着く感じ」にはならないんです。

プログラムの意図に気づけると、
そこに「良かれと思って」という期待があることを自覚しますから、
そのことがなんだか「大切なもの」であるように感じられてきます。

つまり、その自分のプログラムを大切なものと思えるようになる、ということ。

自分で自分の一部を大切に感じられる。
自分を大切にしている状態なわけです。

ワガママや自分勝手な振る舞いに気づき、
その奥にあるメッセージとしての意図を自覚することが
「自分を大切にする」ことに繋がる。
…そういう流れです。


裏を返すと、ワガママや自分勝手という状態は 
 自分のプログラムからのメッセージとしての意図に気づいていない上に、
 さらにプログラムが反応していることも自覚していないため、
 そのプログラムという自分の一部を大切にする機会を失っている
といえます。

自分の一部が分かってもらいたがっているメッセージをないがしろにしている。
だから「自分を大切にしていない」という話です。


自分のワガママさを知っていて、それを問題視している場合には、
「プログラムの反応が起きている」ことは自覚しているといえますが、
その奥にある意図という「良かれと思って」のメッセージには気づいてない状態です。

ですからこちらも、そのプログラムを「大切なもの」とは捉えておらず、
自分を大切にしているとは言えないわけです。

また、ワガママや自分勝手とは対極にあるような
「他人の期待に応えて」「我慢する」傾向の人であっても同様です。

一時的には不満や怒り、思い通りにしたい気持ちなどが沸き上がる。
ただ、その瞬間に別のプログラムがそれを抑制する。

「そういうのは良くない。ここは相手の立場を優先しよう。」といった具合に、
自分勝手な振る舞いをしようとするプログラムとは別の反応が表に出ると考えられます。

つまり「我慢する」とか「他人に合わせる」とかいった振る舞いのパターンには
「ワガママ」で「自分勝手」な振る舞いをするプログラムを抑え込み、
そちらの抑え込まれたほうのプログラムを気づかなくしている場合がある、ということです。

我慢しているのを自覚しているとしたら
自分勝手な反応のプログラムがあることには気づいているといえますが、
それでも、その自分勝手な反応の奥にあるメッセージは自覚していないはずです。

こちらでもやはり、自分勝手な反応のプログラムを「大切なもの」とは捉えていません。
自分を大切にはしていない、と


このように捉えると、
「ワガママ」で「自分勝手」な振る舞いをしている人であっても、
「他人に合わせて」「我慢する」ような振る舞いをしている人であっても、
『自分の中から沸いてきている意図というメッセージに気づいていない』点において
どちらも似たようなものだといえるわけです。

「ワガママ」で「自分勝手」なのも、
「他人に合わせて」「我慢する」のも、
両方とも
自分を大切にはしていない。

自分で自分のプログラムの意図に気づく。
それが自分に沸き起こるメッセージを「分かってあげる」方法であって、
そうすることで自然と「自分を大切にできる」のでしょう。

cozyharada at 23:39|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | NLPの基本情報

2014年04月15日

データの解釈に気をつける

インターネット上には様々な意見が溢れていますが、最近
ニュース記事など様々な形でそういう情報を目にする機会が増えました。

「こういう理由で私は、こう思う」といった形なら主観ですから
それをどのように捉えるのも人それぞれでしょう。
「うーん、私はそうは思わないかな」と言いやすい。

ところが、そうしたニュース記事や少し権威づけされた人の見解などでは
多少のデータが含まれていて、客観性があるように見えるみたいです。

データの信ぴょう性だけでなく、データの解釈の部分でも、ツッコミどころが多い。

「そのデータからだと、他の結論だって考えられる」
といった見解がよく見受けられるわけです。


先日見たのは、
「近年の日本人の死亡原因の第一位はガンで、ガン死亡率は世界一位だ。
 最近の日本の食卓には発ガン物質が沢山含まれている。
 そういう危険な食品は排除しよう。」
といった意見。

健康のために食品の安全性に注意を向けるのは結構なことだと思います。

とはいえ、
「発ガン性のあるものを含んだ食品が増えたから、ガンで死亡する率が高い」
という因果関係には疑問があります。

別に
「発ガン性が報告されている食品が多いから気をつけましょう」
とだけ言ったって構わないはずなんです。

ガンによる死亡率というデータを引っ張ってきて
自説の説得力を上げようとしたのかもしれませんが、
論理的にはツッコミどころが多いといえます。

「ガンで死亡する割合が一番高い」ということと
「ガンになる人が増えた」ということとには
必ずしも因果があるとはいえません。

実際にはガンになる人は減っているかもしれませんが、
他の理由ではなくガンで死亡する割合が上がったのかもしれません。

つまり、
「日本では、医療の進歩によってガン以外の病気は治るようになった。
 昔の日本や、現在でも他の国ではガン以外の病気でも亡くなる人が多い。
 現代日本ではガン以外の死亡原因が減ったことによって
 相対的にガンによる死亡率が以前と比べて上がり、
 他の国よりも高いガン死亡率になっている。」
という可能性もあるだろう、と。

もちろん、病気だけではありません。
貧困や事故、災害、戦争など、様々な死因が考えられます。
日本はそうした要因が少ないために、結果的に医療では対処しきれない
ガンによって死亡する割合が高くなっているとも考えられます。

アメリカなんて医療技術では最先端とされますが、
医療保険制度が日本と大きく異なるため
その最先端の医療を受けられるのは限られた人でしょうし、
貧富の格差の大きさによっても充分な医療を受けられない人もいるそうです。

実際、日本人の平均寿命は上がってきていますし
日本の長寿のレベルは世界でも上位に入っているわけです。

ガンの特効薬がないこと、
進行してしまった場合には外科的にも対処しきれないこと、
…そうした現状からすると、ガンは防ぎきれていない死亡要因だといえます。

また、ガン細胞そのものは普通に生まれては免疫系によって排除され、
加齢とともに発がんのリスクが高まっていくともされていますから、
高齢になるほどガンで亡くなる確率が高まるのは仕方ないところなんでしょう。

他の病気を治すことができるようになり、生活環境が安全で便利になり、
健康面でも福祉面でもサポートが充実してくるにつれて高齢化が進み、
対処しきれずに残っているガンだけが、その死亡要因として際立ってくる。

そういう流れだって考えられるはずです。

というよりも、僕にはそっちのほうが説得力が高いと思えます。

日本のガン死亡率の高さは、
「いかに日本の生活環境が安全で、多くの人が高度な医療を受けられて
 ガンで亡くなるまで長生きできるか」
を示しているとも結論づけられます。

日本のガン死亡率の高さは、
「発ガン性食品の多いから」
だとは必ずしもいえないわけです。


こういったデータに対する考察の仕方、論理的な結論の導き方には
考え方のトレーニングが求められるようです。

データの解釈に対して細かく疑問を持つようにしていないと
パッと見の説得力で鵜呑みにしやすくなるようです。

データから導かれる結論に疑問を呈して、
他の可能性がないかどうかを考察してみる。

同じ結論を出すためだとしたら、他にどういうデータが必要か?
と考えてみる。

そういったトレーニングが有効でしょう。

そこでオススメなのが、この本。



統計のデータを元に、
「〜な人は、…だ」
という論点を沢山挙げています。

統計プロセスは削除されていますから、
本当に統計的に有意なのかは分かりません。
疑わしいのもありました。

ただ、データが有意な差だと考えたうえでも
結論の導き方には異論をはさむ余地が色々とあります。

「このデータは、本当はこういう意味なんじゃないか?」
「このデータが表れる裏には、こういう別の関係性が含まれているだろう」
「この結論を示すには、この数値に加えて、これらのデータが必要だ」
…などと考察してみると面白いと思います。

良いトレーニング教材じゃないでしょうか。

著者の趣旨とは違って申し訳ない気もしますが
まぁ、著者ご自身も遊び感覚で書いたものだと想像されますから
どんな読み方でも楽しめれば良いんじゃないかなぁ…ということで。

2014年04月12日

黒板の消し方で分かる

黒板でもホワイトボードでも良いんですが、書いた文字を消すときの話です。

「白板消し」とはあまり聞かないので、便宜的に
「黒板消し」で統一して話を進めさせていただきますが、
黒板消しで文字を消すときの動作は、大きく2通りに分けられます。

・黒板消しを持ったほうの手と反対の手が、
 黒板を消す動作と連動するように動く 

・反対の手はダラーンとなったままで動かない
か。


右手で黒板消しを持って、ゴシゴシと消す動きをしているとします。

黒板をキレイにするために時間をかけて上下一方向で動かす場合ではなく、
授業中に書いたものを急いで消して、また書こうとしているときの場面。

このときの右手の動きは「バイバイ」と手を振る感じに似ているはずです。
この「バイバイ」の動きに2種類あるわけです。

右手で「バイバイ」の形で黒板消しを動かしたとき、
体の横に垂らした左手が一緒に動くのか、垂れたままで動かないのか。

一緒に動くといっても連動しているだけであって
同じ方向に動くのではありません。
逆方向に動きます。

つまり、黒板消しを持った右手を右方向に(体から遠ざけるように)動かすと
左手は胴体から遠ざかるように左方向へ動く。
右手を左側に(胴体へ近寄るように)動かすと、
左手は胴体へ近寄るように右方向へ動く。

背骨を中心にして左右対称の方向に動くということです。
両手が体に近づくときと、体から離れていくときとを繰り返す形です。

右手が遠ざかったら左手も遠ざかって、
体軸を中心としたバランスを取っているといえます。


もう一方は、右手で「バイバイ」するように黒板消しを動かしても
左手が動かない傾向。

こちらは「バイバイ」の動きの中でバランスの大部分を取るといえます。

つまり、右手が右方向へ(体から遠ざかるように)動いたときには
右ヒジが左方向へ(体へ近づくように)動き、
右手が左方向へ(体へ近づくように)動くときには
右ヒジが右方向へ(体から遠ざかるように)動く、と。

右手と右ヒジの中間地点に運動の軸がある感じです。
だからヒジが大きく動く。

手の動きとヒジの動きでカウンターバランスをとる形ともいえます。

この場合、腕の動きが背骨を起点としておらず、
肩から先を体幹部分と切り離すようにして使っているため、
背骨を中心とした左右対称の運動でバランスを取る必要がないのでしょう。

だから右手で黒板消しを使っても、左手はダラーンと垂れたままなんです。


両者は運動の中心を体幹部分に置いているか、
体の末端部分に置いているかの違いとも考えられます。

体幹部分から運動を始めると、末端の動きは
体の反対側で対称的な動きによってバランスをとられる。

末端部分で運動をコントロールすると、関節で切り離されるような動きが出て
末端同士でバランスがとられる結果、体幹に不動点が生まれる。

そんな感じの調整が起きていると思われます。

こうした動作の特性は、スポーツをするときに
どういう運動の仕方をすると上手くいくかとも関連するでしょうし、
意識の配分として心の特性とも関係しています。


傾向としては―。

黒板を消すときに反対の手が連動して動いてしまう人は…
一度に1つのことへドップリとのめり込むため感情の起伏が大きく、
逆に、邪魔が入るとそちらに意識が向き過ぎて、気が散りやすい。

黒板を消すときに反対の手が垂れたまま動かない人は…
複数の作業を並行して進めるため淡々としている印象があり、
感情の起伏が小さくて、「何を考えているか分からない」と言われる。

―といったところがあるかもしれません。
あくまで傾向ですが。

このような動作の傾向は幼少期から見て取れますから
内面的な傾向としても、かなり変わりにくい素養といえるのではないでしょうか。

2014年04月10日

そのままは書かない

Facebook って半ば強制的に
色々な趣味嗜好、考え方を目にする感じがあって
刺激的というか、色々と考えさせられるところがあります。

いかに自分が社会に溶け込みにくくなっているかなども自覚しますし。



ところで、以前に僕の書道の先生が
「感謝の気持ちを表現するのに、『感謝』と書いてしまうのはダサい」
と言っていました。

なるほど、芸術家の意見だと感じたものです。


「芸術」の定義は難しいと思いますが、
僕の中では
『本人の価値観と、それに基づく感情の動きを
 直接的な一言の言葉ではなく、間接的に表現すること』
といった感じで捉えています。

”間接的”と言いましたが、本当は、芸術のほうが直接的だともいえます。

一言の言葉に変換してしまうと表現しきれない内面をそのままの形で表す。
そのための媒体として絵画、書、音楽、踊り、造形、詩…などがある。

「一言では、まぁ○○ってことなんですけど、その言葉にしてしまうと
 簡単に集約され過ぎてしまうというか、人それぞれ言葉の理解も違うし、
 自分にとって○○っていうのは、こんな雰囲気のことなんです」
…って、その雰囲気そのものを表現したものが芸術ではないか、と。

例えば、「思いやり」の感じが大切だと思っている人がいて、
思いやりのある姿に自分がどれだけ心が動くのかを示すことで
その大切さを主張したいとします。

そのときに「思いやりって大切ですよね」と言ってしまったら、
それは自分の内面を全て表しているとはいえません。

その言葉に触れた人は、
「そうですね、思いやりは大事ですね」
と答える可能性は高いでしょう。

しかし、その言葉を受け取った人が捉えている「思いやり」は、
その言葉を発した人にとっての「思いやり」と別物かもしれません。

聞いた側は
「そうですね、思いやりって大事ですよね。
 女性の重そうな荷物を持ってあげている男性とかって良いですよね。」
なんて返答したとき、
伝えたかった側としては
「いや、そういうことじゃないんですよ…」
ということがあるものです。

「私の言いたいのは、むしろ
 混んでいる駅の階段を登っているお婆さんの後ろを
 サラリーマンがゆっくりと歩いている感じなんですよ。

 少しスペースを開けて、お婆さんが万が一フラフラしても
 サッと手を出して支えられるように準備をしているのが分かるような。
 
 でも、後ろから押しているわけじゃないんです。
 お婆さんが自分のペースでやっていることを尊重している。
 同時に、安全へは最大限の注意を払っている。
 そのことが姿勢と目線に表れているんです。

 それに、混んでいる駅の階段だと、
 イライラして急かすような人もいるじゃないですか。
 そういう人がお婆さんの周りに来ないよう守るために、
 お婆さんの周りに少しスペースができるような感じで
 自分の立ち位置をコントロールしながら後ろを歩いているんですよ。

 そういう気づかれないサポートみたいのが、私にとっての思いやり。

 そんな思いやりって、深く、暖かく包み込みながらも
 甘えとかベッタリした感じのない涼やかな気品があるじゃないですか。

 思いやりって、そういうことでしょう。」 
 
…というように、伝えたいことを言葉で表すのは大変なんです。

ここで言葉に書いたことだって、
「お婆さんのペースを尊重する」とか
「安全へ最大限の注意を払っている」とか
「守る」とか
「深く」、「暖かく」、「包み込む」とか、
「ベッタリしていない」、「涼やかな」、「気品」とか、
また伝えるのが大変なものを含んでいます。

これらの表現を伝わる形に言い換えていったら
さらに文章の量は増えていきますし、どこまでやってもキリがありません。

こうした文章化の作業を長いストーリー展開で表現したら文学なのでしょうし、
最小限の情景描写で達成したら詩のようなものとなるんだと思います。

一方、文章では表しきれないと判断された場合には
文章以外の方法…絵画や書や音楽や造形などで表現がなされる。

そういうのが芸術なんじゃないかと僕は思います。


ですから、芸術はコミュニケーションとして見たとき、
伝える側に大部分の焦点が当たっているといえます。

「自分は、こういうのが大事だと思う。こういうのが好き。でしょ?」
といった感じ。

会話であれば、相手の受け取り方が優先されます。
どういうつもりで言ったかよりも、相手がどのように受け取ったかによって
コミュニケーションは進んでいきますから。

「思いやりが大事」という話題であれば、
双方にとっての「思いやり」が、それぞれ大切なんです。
そこに違いがあるのは自然なことです。

ですが、芸術では伝える側が主役。
主張があるんです。

「思いやりが大事!
 思いやりってこういうこと!」
と、自分の想いが出ている。

それと違う捉え方の人に対しては、ただ無視されるだけ。
心に響かないでしょう。

同じような想いをもって、同じような注意の向け方をしている人は
その芸術作品と出会ったときに、心を動かされるんです。

言葉を介さずに、ある意味では言葉よりも直接的に
内面の表現をそのまま伝達して気持ちが沸いてくる。

「あぁ、思いやりに溢れている作品だなぁ…」と
言語的に印象を意識できるかどうかは定かではありませんが、
少なくとも思いやりに触れたときに起こる感情は体験するはずです。


つまり、芸術には
・価値観に基づく心の動きが
・その価値観の単語そのものではない形で表現されている
といった特徴があるという話です。

その意味では、「感謝」の気持ちを表現するのに
「感謝」という文字を書いてしまうのは芸術ではないことになります。
それは手紙とか感謝状でしょう。

もちろん、手書きで筆文字で書かれた感謝状には
「感謝」以外の気持ちが乗っていますから、そちらには
人の心を打つ要素が入っているとはいえます。

感謝という内容とは別に、相手を大切な人として慕う気持ちがあることでしょう。

「感謝」という単語を書くことで
「相手を大切な人として慕う気持ち」を表現する
という芸術はありえると考えられます。

ただし、「感謝って大事だよなぁ」という個人の想いを表現したいのだとしたら、
そこで「感謝」という文字を選ぶのが最適かどうかは分かりません。
自分にとっての「感謝」の中身を表しきるには、
「感謝」の文字面が逆効果になる可能性がありますから。

文字の中身ではないところに表現された心の動きが
観賞する側の心を動かすわけです。

ルノワールの甘酸っぱい愛おしさ、
ドガの抑えきれない恋心、
レンブラントの神々しい光、
フェルメールの悠久な時の流れ…。

絵に描かれた対象物とは別のところに表現されたものが
人を惹きつける芸術性ではないでしょうか。

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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