2014年05月
2014年05月11日
スピノザ『エチカ』
最近、スピノザの『エチカ』を読んでいます。
他の哲学書と同様に、やっぱり読みにくさはあります。
用語や抽象度の高さが難しさの理由の1つでしょう。
滅多に例が出てきません。
もちろん、翻訳が読みにくくしているところもあると思います。
とはいえ原著はラテン語。
英語で読んでも、そこには翻訳が入ります。
おそらく、日本で出版されているのは英訳をさらに日本語訳したもの。
原著に込められたニュアンスがどうなっているのかは分かりません。
ラテン語で読めたら面白いのかもしれないとも思います。
難関とされる大学には、たまに変わり者と呼ばれる人がいて
ラテン語−フランス語辞典を片手に哲学書を原著で読んだりすると聞きますが、
しっかりと著者の考えに触れるためにオリジナルの言語で読みたくなるのは
分からなくもない気がしました。
「本と対話する」というスタンスに立つと、コミュニケーションですから
そこには言葉の違いが関係するように感じられます。
また、エチカの形式上の特徴として、大部分を
『証明』に充てているところが挙げられそうです。
スピノザはユークリッド原論に影響を受けたようで
証明のスタイルが数学的です。
まず定義を述べて、それから公理を述べ、定理を証明する…という流れ。
ただこれをラテン語(翻訳されて英語や日本語になっていますが)
でやっているので、全部の証明の流れを理解するのは大変です。
推測ですが、哲学の流儀だけでなく当時の学問の流儀にのっとることで
自説の論理的整合性を説得しようとしていたように思えます。
スピノザの考えは歴史的な背景から、徹底的に受け入れられなかったそうです。
とにかく異端扱い。
当時、もっとも学問に寛容だったといわれるオランダでも
書物は出版が禁じられ、匿名で本にしたそうです。
そこから時を経ても、スピノザを参照する科学者や哲学者は少なく、
問題点を指摘するときの例として扱われる程度だったと言います。
言及されることがあっても批判の形でないと許されず、
大部分は無視をするという形で拒絶をしていたのだとか。
ごく稀にスピノザの考えに影響を受けた人がいても
批判のような体裁を取りながら、暗に高評価を与えることぐらいしか
許されないような政治的・宗教的事情があったということです。
それぐらい異端の考えを述べているわけですから、形式ぐらいは
ぐうの音も出ないほど論理的で、かつ哲学者のスタイルに近づける
という工夫が必要だったのかもしれません。
そうでなければ考えを聞かせることもできなかったのではないか、と。
さらにはスピノザ自身が、自然という世の中の現象に
完全性を見出していたことも、数学という自然科学の手法に寄せたことと
関係しているような印象も、個人的に受けるところです。
当時としては奇抜だったのかもしれませんが
今にしてみれば決してそんなことはない気がします。
とりわけ印象的なのは、その論理的な証明の部分などではなく
主張している内容の部分です。
サイエンス全体としても、生物学的に発見されている知見からしても、
人の心と世の中との関係に対する直観的理解からしても、
「そうそう、そうなんだよ」と同意するところばかりなんです。
理性と論理を駆使して、知的な議論で考え尽くそうとして
実感や実社会の事情から離れた机上の空論になるようなことがない。
むしろ、どちらかといえば直観的な実感が先立っているように感じられます。
論理を振り回して言葉による思考に終始する人たちにも分かるように
ある程度の流儀に合わせながら、その直観的理解の内容について
詳しく述べたのではないでしょうか。
証明のプロセスや、予想される反論に対する反駁は
そのための手段であって、主張そのものは実に共鳴しやすいものです。
現代の人たちに向けて書くのだとしたら、
こんなに難しい論理の流れを述べなくても良かったことでしょう。
むしろ、実体験や多くの人に共通する事例を交えながら、
中核の部分だけを説明できたかもしれません。
時代がこういう形式を要求したのかと思います。
完全に孤立しながらも、300年以上前にこの理解に辿りついていた。
そしてそれを当時の流儀に合わせながら形に残した。
評価されたのは、ずっと後の話ですが、
知られる形に記したから歴史に残ったのでしょう。
直観的に同じところへ辿り着いた人は、歴史上に何人もいたはずです。
それを宗教家として語った人もいれば、
ひっそりと仙人のような立場で抱え続けた人もいたことと思います。
あるいは、一部の人だけに受け継がれる教えにしたかもしれません。
スピノザは、当時の知的な人たちの流儀に当てはめながら
その直観的理解を発表したのではないか、と感じられます。
その分野の人たちが分かろうとするかどうかはお構いなく。
そんな姿勢を想像すると、読んでいる自分にも勇気が湧いてくるようです。
ちなみに、スピノザを「汎神論」と捉える見方が主流だそうですが
僕には違和感があります。
広い意味ではそう言えないこともないとはいえ、
スピノザの言っている「神」はニュアンスが違う気がするんです。
スピノザは「空」の話をしているように思えてなりません。
『それ』だけが本当に存在するんだ、と。
そういう話が繰り返されますから。
きっとスピノザには、実感があったんじゃないでしょうか。
だから、つつましい生活をしながら
穏やかに孤高の思考を続けられたんじゃないか。
僕はそんな風に感じました。
他の哲学書と同様に、やっぱり読みにくさはあります。
用語や抽象度の高さが難しさの理由の1つでしょう。
滅多に例が出てきません。
もちろん、翻訳が読みにくくしているところもあると思います。
とはいえ原著はラテン語。
英語で読んでも、そこには翻訳が入ります。
おそらく、日本で出版されているのは英訳をさらに日本語訳したもの。
原著に込められたニュアンスがどうなっているのかは分かりません。
ラテン語で読めたら面白いのかもしれないとも思います。
難関とされる大学には、たまに変わり者と呼ばれる人がいて
ラテン語−フランス語辞典を片手に哲学書を原著で読んだりすると聞きますが、
しっかりと著者の考えに触れるためにオリジナルの言語で読みたくなるのは
分からなくもない気がしました。
「本と対話する」というスタンスに立つと、コミュニケーションですから
そこには言葉の違いが関係するように感じられます。
また、エチカの形式上の特徴として、大部分を
『証明』に充てているところが挙げられそうです。
スピノザはユークリッド原論に影響を受けたようで
証明のスタイルが数学的です。
まず定義を述べて、それから公理を述べ、定理を証明する…という流れ。
ただこれをラテン語(翻訳されて英語や日本語になっていますが)
でやっているので、全部の証明の流れを理解するのは大変です。
推測ですが、哲学の流儀だけでなく当時の学問の流儀にのっとることで
自説の論理的整合性を説得しようとしていたように思えます。
スピノザの考えは歴史的な背景から、徹底的に受け入れられなかったそうです。
とにかく異端扱い。
当時、もっとも学問に寛容だったといわれるオランダでも
書物は出版が禁じられ、匿名で本にしたそうです。
そこから時を経ても、スピノザを参照する科学者や哲学者は少なく、
問題点を指摘するときの例として扱われる程度だったと言います。
言及されることがあっても批判の形でないと許されず、
大部分は無視をするという形で拒絶をしていたのだとか。
ごく稀にスピノザの考えに影響を受けた人がいても
批判のような体裁を取りながら、暗に高評価を与えることぐらいしか
許されないような政治的・宗教的事情があったということです。
それぐらい異端の考えを述べているわけですから、形式ぐらいは
ぐうの音も出ないほど論理的で、かつ哲学者のスタイルに近づける
という工夫が必要だったのかもしれません。
そうでなければ考えを聞かせることもできなかったのではないか、と。
さらにはスピノザ自身が、自然という世の中の現象に
完全性を見出していたことも、数学という自然科学の手法に寄せたことと
関係しているような印象も、個人的に受けるところです。
当時としては奇抜だったのかもしれませんが
今にしてみれば決してそんなことはない気がします。
とりわけ印象的なのは、その論理的な証明の部分などではなく
主張している内容の部分です。
サイエンス全体としても、生物学的に発見されている知見からしても、
人の心と世の中との関係に対する直観的理解からしても、
「そうそう、そうなんだよ」と同意するところばかりなんです。
理性と論理を駆使して、知的な議論で考え尽くそうとして
実感や実社会の事情から離れた机上の空論になるようなことがない。
むしろ、どちらかといえば直観的な実感が先立っているように感じられます。
論理を振り回して言葉による思考に終始する人たちにも分かるように
ある程度の流儀に合わせながら、その直観的理解の内容について
詳しく述べたのではないでしょうか。
証明のプロセスや、予想される反論に対する反駁は
そのための手段であって、主張そのものは実に共鳴しやすいものです。
現代の人たちに向けて書くのだとしたら、
こんなに難しい論理の流れを述べなくても良かったことでしょう。
むしろ、実体験や多くの人に共通する事例を交えながら、
中核の部分だけを説明できたかもしれません。
時代がこういう形式を要求したのかと思います。
完全に孤立しながらも、300年以上前にこの理解に辿りついていた。
そしてそれを当時の流儀に合わせながら形に残した。
評価されたのは、ずっと後の話ですが、
知られる形に記したから歴史に残ったのでしょう。
直観的に同じところへ辿り着いた人は、歴史上に何人もいたはずです。
それを宗教家として語った人もいれば、
ひっそりと仙人のような立場で抱え続けた人もいたことと思います。
あるいは、一部の人だけに受け継がれる教えにしたかもしれません。
スピノザは、当時の知的な人たちの流儀に当てはめながら
その直観的理解を発表したのではないか、と感じられます。
その分野の人たちが分かろうとするかどうかはお構いなく。
そんな姿勢を想像すると、読んでいる自分にも勇気が湧いてくるようです。
ちなみに、スピノザを「汎神論」と捉える見方が主流だそうですが
僕には違和感があります。
広い意味ではそう言えないこともないとはいえ、
スピノザの言っている「神」はニュアンスが違う気がするんです。
スピノザは「空」の話をしているように思えてなりません。
『それ』だけが本当に存在するんだ、と。
そういう話が繰り返されますから。
きっとスピノザには、実感があったんじゃないでしょうか。
だから、つつましい生活をしながら
穏やかに孤高の思考を続けられたんじゃないか。
僕はそんな風に感じました。
2014年05月09日
同じことをする
達人は同じことを繰り返せると聞きます。
同じことを続けられるのも達人の1つの要素なのかもしれません。
毎日の習慣として、常人ではあり得ないような練習を繰り返すようです。
そこから、習慣化が大切であるかのような解釈が生まれるのでしょう。
しかし、ここには皮肉なことが含まれます。
いつも同じように繰り返しているつもりのときほど
結果はバラバラで、同じになっていないことがあるものです。
同じように繰り返して習慣化されるものの中には
プログラムとしてパターンが定着していくものがあります。
脳のレベルでいえば、特定のニューラルネットワークだけが発火する感じ。
いつも同じプログラムを使い続けるため、
他の方法を実行する頻度は減っていきます。
プログラムとして自動的に同じ方法を繰り返すわけです。
しかしながら、この場合、プログラムを実行した結果は同じにはなりません。
毎日環境要因は変動しますし、身体の状態だって一定ではないからです。
同じプログラムで同じように実行する指令を身体が受けたとしても、
筋力が異なっていれば、実際の行動は別物になります。
プロスポーツ選手が、日によって調子の違いを体験するようなものでしょう。
疲れてくるとイメージと違う動作をしてしまうのも同様です。
分かりやすい例は、運動会のお父さんです。
「走る」プログラムは若いころから変わりません。
若いころに作られたプログラムが、同じ「走る」動作を実行しようとします。
どのようなタイミングで、どの筋肉を、どのぐらい収縮させようとするか。
その指令は『同じ』なんです、若いころと。
ところが、実際の筋力は大きく低下しています。
同じように筋肉を収縮させるつもりの信号では
以前と同じだけの動作の量にならない。
前脛骨筋の筋力低下によって、つま先が上がらなくなる。
しかし頭の記憶としては、同じように動かしているつもりなんです。
つま先が上がらないままなのに、足を前に出す指令が出ていますから
当然、つま先が地面に当たります。
もつれる。
転ぶ。
良くある光景でしょう。
僕の母方の祖母は、せっかちな人でした。
何でも一人でこなそうとして、70歳を過ぎてからも
雨漏りの修理のために屋根に登ったりしていました。
それで結局、足を滑らせて骨折。
そこをキッカケに筋力の低下が一層進んだようです。
それでも、せっかちな振る舞いは変わりません。
「せっかち」というのは性格だと思われるかもしれませんが、
これは動作と注意の振り分けの傾向のことを言います。
自分の動作の最中に払う注意が少なく、予測に従って動作を実行する。
そして動作の途中から注意を切って、次の動作に注意を向ける。
1つの動作が予定通りに完了しているかを確認しないんです。
これは経験に基づいて動作のパターンが学習されているから可能なことです。
自動的に体が動いてくれるのに任せているともいえます。
慣れた階段であれば足元を見なくても上り下りできるようなものです。
ところが祖母の場合、高齢になって、
さらに骨折をして安静な時期を過ごしたため、
全身の筋力が大きく低下したのでしょう。
学習されたプログラムとしての動作のパターンと
実際に筋肉が身体を動かせるスピードに差が生まれてきました。
だから何をやるにしても、物が手につかない。
茶碗を手に取ったつもりが、手に持ち切れていないんです。
でも「せっかちさ」のため、注意はもう次に移っている。
茶碗を手に取ったつもりで他の作業を始めているのに
手は茶碗を掴みきっていませんから、当然、落っことします。
ガチャン!
片付けをしようとして、しっちゃかめっちゃかになってしまっていました。
本人は元々、なんでも自分でやっていた人ですから
何かあれば自分でやろうとするわけです。
そのときに使う行動・動作のプログラムは昔に学習して使い続けたもの。
ワンパターンになっているものをそのまま使おうとする。
だから自分の手の動きを見て確認もしませんし、
手触りで茶碗を掴んでいるかどうかの確認もしません。
相変わらず、作業を完了させる前に注意を次に移してしまう。
…全部、学習したパターンを使い続けているといえます。
そこに筋力の低下が起きると、
プログラムが自動的にやらせようとする動作のタイミングが
予測されているものとズレてしまいます。
同じことができなくなるんです。
同じプログラムを使い続けているから
作業として同じ結果を出すことができなくなる。
人は主に、一度作られたプログラムを使い続けることをします。
その結果、学習された内容がさらに単純化されていきます。
どんどんワンパターンになっていくんです。
ただし、そのワンパターンは動作や反応の「起こし方」の話であって
実際に起きる動作や反応の結果とは限らない。
つまり、同じことをしているつもりのとき…言いかえると
習慣的に何も自覚せずに作業をこなしている場合には…、
実は同じパフォーマンスにはなっていない、ということです。
1つ1つの作業を意識に上げながら、
どの作業を完了するためには、どういう動作が必要になって
そのためには、どれぐらい筋肉を動かす必要があるのか
…といったことを日頃から自覚していれば、
加齢によるイメージと実動作のギャップは避けやすいでしょう。
言ってみれば、毎日、自分のプログラムを少しずつ修正する感じです。
同じパフォーマンスを出し続けるためには、
自分の状態に合わせた「動作の起こし方」をアレンジする必要があります。
同じパフォーマンス、同じ結果を出せるように
毎回少しずつ違ったことをしようとする、とも言えます。
名店と呼ばれる蕎麦屋が毎日、同じように美味しい蕎麦を打つために
その日の気温や湿度、蕎麦粉の状態によって水を入れる量を変える。
…それと似ています。
例えば、プロゴルファーだとすると、
同じスイングをしていれば同じ結果になって
いつも決まったところにボールが飛んでいきそうなものですが、
実際にはそのようにはなりません。
反復練習でスイングの仕方のプログラムが作られても、
その瞬間の筋力だとか疲労度だとか、身体の意識の度合いなどで
同じスイングのプログラムが、少し異なったスイングを生み出します。
結果として、少し違った打ち方になって、毎回同じ打球にはならない、と。
プロゴルファーは毎回同じように狙った球を打てるように、
毎回少しずつ修正しながら練習をしているはずです。
同じ結果を出すためだからこそ、毎回違うことをしている、ということです。
いつも決まったプログラムを無自覚に使い続けるのではなく、
動作や行動を意識に上げながら、毎回適切な修正を加える。
そうすることで、同じパフォーマンスを発揮し続けられるのでしょう。
まとめると…。
同じことしかしないから、結果が徐々に狂ってくる。
毎回違った工夫をするから、同じ結果を出し続けられる。
同じことを続けられる達人ほど、同じことをしていないはずです。
ですが、素人目には同じことを続ける習慣が大事に見える。
そして習慣化して無自覚になるほど、達人からは離れていくと想像されます。
皮肉な話です。
同じことを続けられるのも達人の1つの要素なのかもしれません。
毎日の習慣として、常人ではあり得ないような練習を繰り返すようです。
そこから、習慣化が大切であるかのような解釈が生まれるのでしょう。
しかし、ここには皮肉なことが含まれます。
いつも同じように繰り返しているつもりのときほど
結果はバラバラで、同じになっていないことがあるものです。
同じように繰り返して習慣化されるものの中には
プログラムとしてパターンが定着していくものがあります。
脳のレベルでいえば、特定のニューラルネットワークだけが発火する感じ。
いつも同じプログラムを使い続けるため、
他の方法を実行する頻度は減っていきます。
プログラムとして自動的に同じ方法を繰り返すわけです。
しかしながら、この場合、プログラムを実行した結果は同じにはなりません。
毎日環境要因は変動しますし、身体の状態だって一定ではないからです。
同じプログラムで同じように実行する指令を身体が受けたとしても、
筋力が異なっていれば、実際の行動は別物になります。
プロスポーツ選手が、日によって調子の違いを体験するようなものでしょう。
疲れてくるとイメージと違う動作をしてしまうのも同様です。
分かりやすい例は、運動会のお父さんです。
「走る」プログラムは若いころから変わりません。
若いころに作られたプログラムが、同じ「走る」動作を実行しようとします。
どのようなタイミングで、どの筋肉を、どのぐらい収縮させようとするか。
その指令は『同じ』なんです、若いころと。
ところが、実際の筋力は大きく低下しています。
同じように筋肉を収縮させるつもりの信号では
以前と同じだけの動作の量にならない。
前脛骨筋の筋力低下によって、つま先が上がらなくなる。
しかし頭の記憶としては、同じように動かしているつもりなんです。
つま先が上がらないままなのに、足を前に出す指令が出ていますから
当然、つま先が地面に当たります。
もつれる。
転ぶ。
良くある光景でしょう。
僕の母方の祖母は、せっかちな人でした。
何でも一人でこなそうとして、70歳を過ぎてからも
雨漏りの修理のために屋根に登ったりしていました。
それで結局、足を滑らせて骨折。
そこをキッカケに筋力の低下が一層進んだようです。
それでも、せっかちな振る舞いは変わりません。
「せっかち」というのは性格だと思われるかもしれませんが、
これは動作と注意の振り分けの傾向のことを言います。
自分の動作の最中に払う注意が少なく、予測に従って動作を実行する。
そして動作の途中から注意を切って、次の動作に注意を向ける。
1つの動作が予定通りに完了しているかを確認しないんです。
これは経験に基づいて動作のパターンが学習されているから可能なことです。
自動的に体が動いてくれるのに任せているともいえます。
慣れた階段であれば足元を見なくても上り下りできるようなものです。
ところが祖母の場合、高齢になって、
さらに骨折をして安静な時期を過ごしたため、
全身の筋力が大きく低下したのでしょう。
学習されたプログラムとしての動作のパターンと
実際に筋肉が身体を動かせるスピードに差が生まれてきました。
だから何をやるにしても、物が手につかない。
茶碗を手に取ったつもりが、手に持ち切れていないんです。
でも「せっかちさ」のため、注意はもう次に移っている。
茶碗を手に取ったつもりで他の作業を始めているのに
手は茶碗を掴みきっていませんから、当然、落っことします。
ガチャン!
片付けをしようとして、しっちゃかめっちゃかになってしまっていました。
本人は元々、なんでも自分でやっていた人ですから
何かあれば自分でやろうとするわけです。
そのときに使う行動・動作のプログラムは昔に学習して使い続けたもの。
ワンパターンになっているものをそのまま使おうとする。
だから自分の手の動きを見て確認もしませんし、
手触りで茶碗を掴んでいるかどうかの確認もしません。
相変わらず、作業を完了させる前に注意を次に移してしまう。
…全部、学習したパターンを使い続けているといえます。
そこに筋力の低下が起きると、
プログラムが自動的にやらせようとする動作のタイミングが
予測されているものとズレてしまいます。
同じことができなくなるんです。
同じプログラムを使い続けているから
作業として同じ結果を出すことができなくなる。
人は主に、一度作られたプログラムを使い続けることをします。
その結果、学習された内容がさらに単純化されていきます。
どんどんワンパターンになっていくんです。
ただし、そのワンパターンは動作や反応の「起こし方」の話であって
実際に起きる動作や反応の結果とは限らない。
つまり、同じことをしているつもりのとき…言いかえると
習慣的に何も自覚せずに作業をこなしている場合には…、
実は同じパフォーマンスにはなっていない、ということです。
1つ1つの作業を意識に上げながら、
どの作業を完了するためには、どういう動作が必要になって
そのためには、どれぐらい筋肉を動かす必要があるのか
…といったことを日頃から自覚していれば、
加齢によるイメージと実動作のギャップは避けやすいでしょう。
言ってみれば、毎日、自分のプログラムを少しずつ修正する感じです。
同じパフォーマンスを出し続けるためには、
自分の状態に合わせた「動作の起こし方」をアレンジする必要があります。
同じパフォーマンス、同じ結果を出せるように
毎回少しずつ違ったことをしようとする、とも言えます。
名店と呼ばれる蕎麦屋が毎日、同じように美味しい蕎麦を打つために
その日の気温や湿度、蕎麦粉の状態によって水を入れる量を変える。
…それと似ています。
例えば、プロゴルファーだとすると、
同じスイングをしていれば同じ結果になって
いつも決まったところにボールが飛んでいきそうなものですが、
実際にはそのようにはなりません。
反復練習でスイングの仕方のプログラムが作られても、
その瞬間の筋力だとか疲労度だとか、身体の意識の度合いなどで
同じスイングのプログラムが、少し異なったスイングを生み出します。
結果として、少し違った打ち方になって、毎回同じ打球にはならない、と。
プロゴルファーは毎回同じように狙った球を打てるように、
毎回少しずつ修正しながら練習をしているはずです。
同じ結果を出すためだからこそ、毎回違うことをしている、ということです。
いつも決まったプログラムを無自覚に使い続けるのではなく、
動作や行動を意識に上げながら、毎回適切な修正を加える。
そうすることで、同じパフォーマンスを発揮し続けられるのでしょう。
まとめると…。
同じことしかしないから、結果が徐々に狂ってくる。
毎回違った工夫をするから、同じ結果を出し続けられる。
同じことを続けられる達人ほど、同じことをしていないはずです。
ですが、素人目には同じことを続ける習慣が大事に見える。
そして習慣化して無自覚になるほど、達人からは離れていくと想像されます。
皮肉な話です。
2014年05月07日
6月の講座内容
正式なご案内は後日改めてになりますが、
6月はカウンセリング講座の一環として
【ゆるしの技術】
を紹介します。
このカウンセリング講座では感情の取り扱いを中心としていますが
その中でも若干特殊な手法となるのが【ゆるし】だといえます。
傷つき、失望などの感情は、表面的な認識として
一種類の気持ちのように感じられるかもしれませんが
その奥には複数の感情が潜んでいます。
あるいは、複数の感情が構成要素として組み合わさって
「傷つき」や「失望」といった感情として認識される、ともいえるでしょう。
どのように捉えていただいても構いませんが、重要なのは
こうした感情を解消するには複数のステップが必要だということです。
奥に潜んだ複数の感情を1つずつ解消していくわけです。
もちろん、これは何も特別な心理援助の話に限った事ではありません。
日常生活の中で「傷つき」や「失望」が解消される際にも
絡まった感情が1つずつ処理されていくものです。
そして決まって最後まで残るのが「悔しさ」。
後悔に近い場合もあれば、敵意や恨みに近い場合もあるかもしれません。
シンプルにいってしまうなら、『囚われている』んです。
いつも心のどこかで気にしてしまう。
前に進めない感じです。
だからこそ、この執着を手放して、気持ちを前に向けられるようにする。
そういう感情処理のプロセスがあります。
「気持ちを切り替えて、これからは前に進んでいこう」
そんなときには効果的な取り組みだと考えられます。
方法としては、サイコシンセシスの流れをくむ手法と
NLPにおける「ゆるしのパターン」とを紹介する予定です。
どちらも、あまり日本で紹介されていないようです。
「執着を手放す」といった言葉は、それなりに使われるものみたいですが
「では、どうすれば執着を手放せるのか?」は滅多に語られません。
大体の場合、手放した人が言うんです。
「なぁに、簡単です。手放せば良いんですよ。」
なんて。
どうすればいいのか?と聞かれても
「今まで自分で握りしめていたものがあって捨てられないというなら
ただ、手の力を緩めて手から離すだけのことでしょう。」
などと言われる。
ですが、それは後から気づくものです。
手放した後に、「そうか、握りしめていただけじゃないか!」と。
それがあまりにバカバカしいから、そういう表現になると思われます。
実際には、あるプロセスを通っているんです。
そこを通り過ぎたときに、ふと力が緩み、手から離れる。
結果的に手放されるんです。
それを加速するやり方があります。
ただし、欠かせないこととして
「本人が『ゆるしたい』と思っている」
ことが前提となります。
学びや反省は残ります。
ゆるしたからといって、全てを忘れるわけではありません。
ただ執着だけがなくなる。
記憶にはあるし、思い出されることもあるし、自ら思い出すこともできる。
けれども、いつも心のどこかに引っかかって、
常にそれに気持ちが向いてしまって前に進めない…
といった状態ではなくなります。
過去は過去として前に進めるようになるだけのことです。
傷は残りますが、必要以上に傷に苦しまなくなる感じ。
そういったことを分かったうえで、『ゆるしたい』か?
人によっては、恨みを原動力に行動を続け
それを生き甲斐のようにして頑張っている場合もあります。
そうした人は、ゆるしたくない可能性もあるでしょう。
むやみに何でも「ゆるしましょう」という話ではありません。
ただ「ゆるしたい」なら、ゆるせるようになればいい、ということ。
そんな取り組みです。
日程は、
6月8日(日)
6月22日(日)
の予定です。
ご検討ください。
6月はカウンセリング講座の一環として
【ゆるしの技術】
を紹介します。
このカウンセリング講座では感情の取り扱いを中心としていますが
その中でも若干特殊な手法となるのが【ゆるし】だといえます。
傷つき、失望などの感情は、表面的な認識として
一種類の気持ちのように感じられるかもしれませんが
その奥には複数の感情が潜んでいます。
あるいは、複数の感情が構成要素として組み合わさって
「傷つき」や「失望」といった感情として認識される、ともいえるでしょう。
どのように捉えていただいても構いませんが、重要なのは
こうした感情を解消するには複数のステップが必要だということです。
奥に潜んだ複数の感情を1つずつ解消していくわけです。
もちろん、これは何も特別な心理援助の話に限った事ではありません。
日常生活の中で「傷つき」や「失望」が解消される際にも
絡まった感情が1つずつ処理されていくものです。
そして決まって最後まで残るのが「悔しさ」。
後悔に近い場合もあれば、敵意や恨みに近い場合もあるかもしれません。
シンプルにいってしまうなら、『囚われている』んです。
いつも心のどこかで気にしてしまう。
前に進めない感じです。
だからこそ、この執着を手放して、気持ちを前に向けられるようにする。
そういう感情処理のプロセスがあります。
「気持ちを切り替えて、これからは前に進んでいこう」
そんなときには効果的な取り組みだと考えられます。
方法としては、サイコシンセシスの流れをくむ手法と
NLPにおける「ゆるしのパターン」とを紹介する予定です。
どちらも、あまり日本で紹介されていないようです。
「執着を手放す」といった言葉は、それなりに使われるものみたいですが
「では、どうすれば執着を手放せるのか?」は滅多に語られません。
大体の場合、手放した人が言うんです。
「なぁに、簡単です。手放せば良いんですよ。」
なんて。
どうすればいいのか?と聞かれても
「今まで自分で握りしめていたものがあって捨てられないというなら
ただ、手の力を緩めて手から離すだけのことでしょう。」
などと言われる。
ですが、それは後から気づくものです。
手放した後に、「そうか、握りしめていただけじゃないか!」と。
それがあまりにバカバカしいから、そういう表現になると思われます。
実際には、あるプロセスを通っているんです。
そこを通り過ぎたときに、ふと力が緩み、手から離れる。
結果的に手放されるんです。
それを加速するやり方があります。
ただし、欠かせないこととして
「本人が『ゆるしたい』と思っている」
ことが前提となります。
学びや反省は残ります。
ゆるしたからといって、全てを忘れるわけではありません。
ただ執着だけがなくなる。
記憶にはあるし、思い出されることもあるし、自ら思い出すこともできる。
けれども、いつも心のどこかに引っかかって、
常にそれに気持ちが向いてしまって前に進めない…
といった状態ではなくなります。
過去は過去として前に進めるようになるだけのことです。
傷は残りますが、必要以上に傷に苦しまなくなる感じ。
そういったことを分かったうえで、『ゆるしたい』か?
人によっては、恨みを原動力に行動を続け
それを生き甲斐のようにして頑張っている場合もあります。
そうした人は、ゆるしたくない可能性もあるでしょう。
むやみに何でも「ゆるしましょう」という話ではありません。
ただ「ゆるしたい」なら、ゆるせるようになればいい、ということ。
そんな取り組みです。
日程は、
6月8日(日)
6月22日(日)
の予定です。
ご検討ください。
2014年05月05日
パンにカビが生える理由
仮に、2つの製造元のパンを用意したとします。
Aの食パンと、Bの食パン。
どちらも同じ製造日のものを買ってきて、
それぞれを1切れずつ、別の密閉容器に入れる。
もちろん、それぞれの密閉容器は同じ種類のものです。
密閉容器にパンを移す際には、殺菌済みのトングを使いました。
そして容器を密閉して、別の製造元の食パンが入った2つの容器を常温で
同じ条件になるように置いておきます。
それから一カ月。
容器の中のパンを見てみます。
もちろん、一か月経っていますから、どちらもカピカピに乾燥しています。
が、Aの食パンには沢山のカビが生えていて、
Bの食パンには、ほとんどカビが生えていなかった。
そういう結果が得られたとしましょう。
ここでどういう考察をするか?という話です。
もし、Aのパン屋が汚い店で、店中がホコリまみれで、
何かの汁がこぼれていたり、売れ残りのパンが店の裏に積まれていたり…
とにかく不衛生な店だったとしたら。
そしてBのパン屋は清潔で、管理が行き届いていて
髪の毛一本も落ちていないぐらいに掃除されている店だとしたら。
こういう情報が追加されると、Aの食パンに沢山のカビが生えた理由は
「Aの店が汚くて、製造過程でカビの胞子が混入したからだ」
と考えたくなるかもしれません。
一方、もし製造元の清潔さなどの情報が与えられず、ただ
Aは町の小さな自家製パンの店で売られているもの
Bは業界大手の製パン業者の工場で作られ、コンビニで売られているもの
という話だったらどうでしょうか?
町の自家製のパン屋で買ってきたAの食パンには、沢山のカビが生えた。
コンビニで買ってきた大手製パン会社のBの食パンには、カビは少しだけ。
こうなると、Aの食パンに沢山のカビが生えた理由としては
「町の自家製パンの店は添加物を加えずに作っているからAにはカビが生えて
大手製パン業者の工場では添加物が入っているからBにはカビが生えにくい」
のように考えたくなることもあるでしょう。
このようにAとBの違いを情報として与えられると
先入観としての印象が生まれてくるようです。
そして、その印象に沿って結果を解釈しやすくなる。
もっといえば、このようなAとBの違いの情報が与えられていなくても、
そもそも気になっていることがあると理由づけの方向性も変わります。
例えば、飲食店などを経営していて清潔さに気をつけている人であれば
AとBの違いを知らされていない状態でも、真っ先に
「Aの店は汚いんじゃないのか?だからAにカビが生えたんじゃないか?」
と考える可能性があります。
一方、添加物の危険性を気にしている人だとしたら、真っ先に
「Bには添加物が入っていたんじゃないか?
だからBにはカビが生えなかったんじゃないか?」
と考えるかもしれません。
同じ情報に対しても、本人が気にしているところに注目しやすくなり、
その注目の仕方に沿って考察しやすくなる、という話です。
もっといえば、AとBの比較の条件が同じかどうかも分からないんです。
袋からパンを取り出して密閉容器に移す際に、
空気中からカビの胞子が入りこんだ可能性も否定できません。
混入した胞子の量の違いが、カビの繁殖度合いと関係しているかもしれない。
この可能性を否定するためには、同じ作業を複数サンプルでやると良いでしょう。
Aのパンを5切れ、Bのパンを5切れ。合計10個の容器に移し替える。
それで5つずつの平均を見ても、明らかにAの方ばかりカビが生えるなら、
「Aの食パンにカビが生える要因のほうがBの食パンよりも多い」
と結論づけやすくなります。
もちろん、外部から菌が混入しないように、全てを無菌操作でやってもいい。
前提になるのは、きちんと同じように条件を整えているということ。
そして情報として公開した通りに、作業をしているということ。
実は、この比較をした人がBのパン屋の人で、
悪意を持ってライバルのAのパン屋を陥れようと、
Aのパンのほうにだけカビを振りかけていた…
といったインチキは想定されません。
インチキまで考慮したら、意味のある結果は何一つ無くなってしまいますから。
サイエンスの流儀であれば、このような比較実験は
2つの条件が同じであるように作業が設定されて、
そこで得られた結果に対して考え得る理由をすべて考察します。
2つのパンの製造元に清潔さの差があったのかもしれないし、
2つのパンには含まれている成分の差があったのかもしれないし、
たまたま今回用意した2袋にロット差があったのかもしれない。
…そんな風に全ての可能性を挙げて、その中から
「こういう理由で、この可能性が一番説得力がある」と結論づけられます。
さらには、そこから可能性を裏づけるための追加検証に進む。
AとB、2つのパンの製造元にいって、空気中のカビの胞子数を計測するとか、
AとBのパンに含まれる成分を化学的に分析するとか。
このように「理由を様々な可能性で考察する」というものの見方は
先入観で捉えなくするためには有効な方法だと思われます。
が、それにはトレーニングが必要なようです。
心がけていないと、与えられた情報からイメージを作り出して
ありそうなストーリーに引っ張られた捉え方をしてしまうかもしれません。
もっと先入観が強まるのは、初めから気にしていることがある場合です。
清潔さを気にしているのか、添加物を気にしているのかによって
「カビが生える、生えない」という同じ結果も、解釈が変わりやすくなります。
場合によっては、そうした先入観のために
実態とは違った結論を信じてしまうことだってあるでしょう。
本当は清潔だからカビが生えていなかったのに、
カビが生えないパンには添加物が含まれていると考えて
カビまみれのパンを選ぶかもしれない。
どのパンを選ぶのも本人の自由ですが、
これが人間関係となると事情は少し別なような気もします。
先入観は判断を速めるのに役立ちますが、
反面、実態とは違った解釈で人を見てしまうこともあり得る。
それで後々に厄介なことになるかもしれないし、
相手を傷つけることもあるかもしれない。
既にある先入観を「捨てる」のは難しいですから、
先入観に囚われたくないとしたら
複数の可能性を考察するのが役立つのではないでしょうか。
Aの食パンと、Bの食パン。
どちらも同じ製造日のものを買ってきて、
それぞれを1切れずつ、別の密閉容器に入れる。
もちろん、それぞれの密閉容器は同じ種類のものです。
密閉容器にパンを移す際には、殺菌済みのトングを使いました。
そして容器を密閉して、別の製造元の食パンが入った2つの容器を常温で
同じ条件になるように置いておきます。
それから一カ月。
容器の中のパンを見てみます。
もちろん、一か月経っていますから、どちらもカピカピに乾燥しています。
が、Aの食パンには沢山のカビが生えていて、
Bの食パンには、ほとんどカビが生えていなかった。
そういう結果が得られたとしましょう。
ここでどういう考察をするか?という話です。
もし、Aのパン屋が汚い店で、店中がホコリまみれで、
何かの汁がこぼれていたり、売れ残りのパンが店の裏に積まれていたり…
とにかく不衛生な店だったとしたら。
そしてBのパン屋は清潔で、管理が行き届いていて
髪の毛一本も落ちていないぐらいに掃除されている店だとしたら。
こういう情報が追加されると、Aの食パンに沢山のカビが生えた理由は
「Aの店が汚くて、製造過程でカビの胞子が混入したからだ」
と考えたくなるかもしれません。
一方、もし製造元の清潔さなどの情報が与えられず、ただ
Aは町の小さな自家製パンの店で売られているもの
Bは業界大手の製パン業者の工場で作られ、コンビニで売られているもの
という話だったらどうでしょうか?
町の自家製のパン屋で買ってきたAの食パンには、沢山のカビが生えた。
コンビニで買ってきた大手製パン会社のBの食パンには、カビは少しだけ。
こうなると、Aの食パンに沢山のカビが生えた理由としては
「町の自家製パンの店は添加物を加えずに作っているからAにはカビが生えて
大手製パン業者の工場では添加物が入っているからBにはカビが生えにくい」
のように考えたくなることもあるでしょう。
このようにAとBの違いを情報として与えられると
先入観としての印象が生まれてくるようです。
そして、その印象に沿って結果を解釈しやすくなる。
もっといえば、このようなAとBの違いの情報が与えられていなくても、
そもそも気になっていることがあると理由づけの方向性も変わります。
例えば、飲食店などを経営していて清潔さに気をつけている人であれば
AとBの違いを知らされていない状態でも、真っ先に
「Aの店は汚いんじゃないのか?だからAにカビが生えたんじゃないか?」
と考える可能性があります。
一方、添加物の危険性を気にしている人だとしたら、真っ先に
「Bには添加物が入っていたんじゃないか?
だからBにはカビが生えなかったんじゃないか?」
と考えるかもしれません。
同じ情報に対しても、本人が気にしているところに注目しやすくなり、
その注目の仕方に沿って考察しやすくなる、という話です。
もっといえば、AとBの比較の条件が同じかどうかも分からないんです。
袋からパンを取り出して密閉容器に移す際に、
空気中からカビの胞子が入りこんだ可能性も否定できません。
混入した胞子の量の違いが、カビの繁殖度合いと関係しているかもしれない。
この可能性を否定するためには、同じ作業を複数サンプルでやると良いでしょう。
Aのパンを5切れ、Bのパンを5切れ。合計10個の容器に移し替える。
それで5つずつの平均を見ても、明らかにAの方ばかりカビが生えるなら、
「Aの食パンにカビが生える要因のほうがBの食パンよりも多い」
と結論づけやすくなります。
もちろん、外部から菌が混入しないように、全てを無菌操作でやってもいい。
前提になるのは、きちんと同じように条件を整えているということ。
そして情報として公開した通りに、作業をしているということ。
実は、この比較をした人がBのパン屋の人で、
悪意を持ってライバルのAのパン屋を陥れようと、
Aのパンのほうにだけカビを振りかけていた…
といったインチキは想定されません。
インチキまで考慮したら、意味のある結果は何一つ無くなってしまいますから。
サイエンスの流儀であれば、このような比較実験は
2つの条件が同じであるように作業が設定されて、
そこで得られた結果に対して考え得る理由をすべて考察します。
2つのパンの製造元に清潔さの差があったのかもしれないし、
2つのパンには含まれている成分の差があったのかもしれないし、
たまたま今回用意した2袋にロット差があったのかもしれない。
…そんな風に全ての可能性を挙げて、その中から
「こういう理由で、この可能性が一番説得力がある」と結論づけられます。
さらには、そこから可能性を裏づけるための追加検証に進む。
AとB、2つのパンの製造元にいって、空気中のカビの胞子数を計測するとか、
AとBのパンに含まれる成分を化学的に分析するとか。
このように「理由を様々な可能性で考察する」というものの見方は
先入観で捉えなくするためには有効な方法だと思われます。
が、それにはトレーニングが必要なようです。
心がけていないと、与えられた情報からイメージを作り出して
ありそうなストーリーに引っ張られた捉え方をしてしまうかもしれません。
もっと先入観が強まるのは、初めから気にしていることがある場合です。
清潔さを気にしているのか、添加物を気にしているのかによって
「カビが生える、生えない」という同じ結果も、解釈が変わりやすくなります。
場合によっては、そうした先入観のために
実態とは違った結論を信じてしまうことだってあるでしょう。
本当は清潔だからカビが生えていなかったのに、
カビが生えないパンには添加物が含まれていると考えて
カビまみれのパンを選ぶかもしれない。
どのパンを選ぶのも本人の自由ですが、
これが人間関係となると事情は少し別なような気もします。
先入観は判断を速めるのに役立ちますが、
反面、実態とは違った解釈で人を見てしまうこともあり得る。
それで後々に厄介なことになるかもしれないし、
相手を傷つけることもあるかもしれない。
既にある先入観を「捨てる」のは難しいですから、
先入観に囚われたくないとしたら
複数の可能性を考察するのが役立つのではないでしょうか。
2014年05月03日
NLPのセミナーとパソコン教室の関係
NLPついて質問を受けることがありますが、その中でも
「NLPと他のコミュニケーションの手法(コーチングやカウンセリング)
とは、どう違うのか?」
といったものが多い印象があります。
でも、これは多分
「パソコンと PowerPoint って、どう違うの?」
のような質問なんです。
もっと正確な関係性としては
「化学と有機合成って、どう違うの?」
という表現に似ていますが、
とにかく注目するところが異なるということです。
NLPのコースでは通常、NLPの『スキル』と呼ばれる手法を
数多く体験学習してもらいます。
役に立つ方法を習うんです。
これらの方法はプログラムを変えるためのものです。
それらに加えて、プログラムを把握するための質問を練習したり、
プログラムの種類を解説して、自分のプログラムを理解したりもします。
NLPの全体像としては「プログラムとして人を理解する」部分が根底にあり、
そのうえで、「相手のプログラムに合わせてコミュニケーションをとる」とか
「自分や相手のプログラムを変える」といったアプローチが生まれてくる。
コミュニケーション技術や、問題解決・自己変容の手法は、
プログラムとして理解する視点をベースに応用として利用可能なものなんです。
セミナーで紹介される「NLPのスキル」は、応用手法なわけです。
土台は「プログラム」という着眼点のほうにあるはずです。
人をプログラムとして理解することができれば、
それをベースにして良好なコミュニケーションについて考えることもできるし、
能力アップの方法を考えることも、心の問題の扱い方を考えることもできます。
セミナーでそういった手法(スキル)を中心に紹介するのは
何よりも「プログラム」という着眼点に慣れるのに手っ取り早いからです。
「プログラム」というものがどうなっているのか?
プログラムはどうやって作られるのか?
プログラムによって、人はどう行動するのか?
どうすればプログラムを変えられるのか?
こうしたポイントを納得するのは、言葉だけでは難しい部分があります。
なぜなら、普段の生活ではプログラムを意識していないから。
普段意識していないものを意識に上げていく作業を通して
プログラムの性質や仕組みが、徐々に実感できていくんです。
NLPのスキルを体験することで、プログラムという発想に馴染んでいく。
そしてプログラムとして人を理解できるようになれば、
相手のプログラムに合わせたコミュニケーションでビジネスを円滑にしたり、
新しいプログラムを学習するための関わり方を用いて教育をしたり、
相手のプログラムを変えるサポートとしてカウンセリングやコーチングをしたり…
様々な応用ができるようになります。
しかしながら、NLPのセミナーの大部分が「スキル」に充てられていて
実際にはプログラムを変える手法を紹介する時間が多いことから、
NLPを「便利な手法の寄せ集め」のように捉えるケースも見受けられます。
効果的な手法(スキル)を集めたものがNLPであると捉えると、
新たに開発した手法もNLPの中に次々に追加されていって、ついには
「NLPには、こんなに沢山のテクニックがあります」といった説明も出るようになる。
有名な海外のトレーナーが自分で作った実習やテクニックを
”最新のNLPスキル”のように紹介し、それらを数多く知っていることが
トレーナーとして「よく勉強している」といった評価に結びついたりもするようです。
新しい実習が作られるのなんて当然なんです。
プログラムという着眼点から、何か1つの分野、1つの行動パターンを分析すれば
効果的な方法が見つかってきます。
その方法を実習として紹介すれば、最新スキルということになる。
実用的な方法を紹介するほうがセミナーとしては人気があるのかもしれませんし、
多くの人は役に立つものを手に入れたいのであって、
人を理解するためにプログラムという着眼点を身につけたいのでもないのでしょう。
そうするとNLPのスキルの側面に注目が集まる。
「NLPは役に立つテクニックの良いとこ取り」のように受け取られて
NLPという「テクニック集」が広く紹介されるようになる。
そのテクニック集の中には、人間にとって役立つものが色々と含まれていますが、
自分に対しても他人に対しても役立つテクニック集となると目的が絞られません。
そこで、便利な説明の仕方として
「NLPでは他者とのコミュニケーションの方法と
自分とのコミュニケーションの方法の両方を扱います」
といった発想が出てくるようです。
色々と役立つテクニックの中から、
言葉の使い方、質問の仕方などは他者とのコミュニケーション技術、
プログラムを変える手法は自分とのコミュニケーション技術、
といった分類をするわけです。
だから、NLPはコミュニケーションの手法なんだ、と。
実用・応用の側面から手法に注目すると、そういう分類もできるでしょう。
その反面、このような
「自分にも他人にも使えるコミュニケーション技術」
という説明の仕方が、
「じゃあ、他のコミュニケーション技術とは、どう違うんだ?
コミュニケーションの手法としてコーチングとかカウンセリングとか聞くけど
そういうのとは、どう違うんだ?」
といった疑問を生み出すことにもなるのだろうと考えられます。
同じ「コミュニケーション技術」という土俵に乗っていると想定するからです。
しかし、それは「NLPのスキル」をコミュニケーション技術として捉えた場合の話。
「NLP」と「NLPのスキル」は別の抽象度です。
NLPは人をプログラムとして理解しようとする物の見方。
物質を化学式で見るのが化学、
力を数式で見るのが物理学…、
というように
人をプログラムとして見るのがNLPだといえます。
その見方から生まれてくる手法が、実用的なテクニックとして紹介されているんです。
だからこそ、パソコンでいうなら
NLPは『プログラミング』のほうに当たるわけです。
自分でプログラムを書いたり、他人のプログラムを読んだり、
すでに使われているプログラムを修正したり。
こうしたことはプログラムの原理を知っていて、
プログラムを理解しているからできることでしょう。
プログラミングを学んだ人には、それが可能なはずです。
そうしてプログラミングを学んだ人たちは
役に立つパソコンのアプリケーションを開発します。
ワードだとか、エクセルだとか、パワーポイントだとか、
インターネットの検索ソフトとか、ウイルス対策ソフトとか、
画像編集とか音楽・動画再生ソフトとか。
NLPの応用的な手法に注目すれば、
プログラムの着眼点から生まれる効果的な方法は
コーチングにも、カウンセリングにも、教育にも、ビジネスにも…、
とにかく幅広い範囲で使えます。
それはちょうど、パソコンを使えば
書面の作成、計算、プレゼンテーション、情報検索、画像編集など
様々なことができるようなものです。
こっちの具体的な使い方が『NLPのスキル』に相当します。
一方、プログラミングは知らなくても、例えば
エクセルの使い方を詳しく知っている人もいるわけです。
簡単な表計算だけでなく、自在にグラフを作ったり
いつも使う計算を自動でできるようにしたりできる。
これがコーチングやカウンセリングを専門にすることと対応します。
コンピューターのプログラミングを知らなくても、エクセルを使いこなせるのと同様に
NLPにおけるプログラムの着眼点で人を理解しなくても
コーチングやカウンセリングは可能だということです。
NLPの土台は、コンピューターでいうプログラミングのほうにありますが、
とはいえ、パソコンに触ったこともない人に、いきなりプログラミングは厳しい。
まずはパソコンに慣れてもらって、それぞれのアプリケーションで
どういうプログラムが使われているのかを知ってもらったほうが都合がいいでしょう。
そういう意味で、NLPのセミナーでは色々な手法を体験するところから始まります。
ワードやエクセル、インターネット、画像処理などを一通り触ってもらう、と。
それらのアプリケーションは当然、コンピューターのプログラミングの産物です。
詳しく踏み込んでいけば、プログラミングの原理にも触れることになりますし、
さらには自分でプログラムを書くような作業もすることになると思われます。
ただ、そこまでやりたい人は多くないみたいです。
大抵の人は、ワードやエクセル、インターネットができれば十分なのかもしれません。
だから多くのNLPのセミナーは、
パソコン教室のような体裁になる。
「この教室ではパソコンの色々な使い方を一通り学べます」
というのと同様に
「NLPではコミュニケーションの手法を一通り学べます」
といった印象で。
そして
「仕事に役立てたいんですけど、パソコン教室に通うのと
エクセル専門の授業を受けるのと、どっちが良いですか?」
という質問と同様に、
「人間関係に役立てたいんですけど、NLPをやるのと
コーチングをやるのと、どっちが良いですか?」
という質問が出てくるのでしょう。
その流れがありますから、「NLPを学び続ける」と言った場合にも、
まるで色々なパソコンのアプリケーションを使えるようになって
エクセルやワードの便利テクニックを身につけるような形で、
NLPのスキルを数多く知りたくなる。
…これも納得できるところです。
もっと別の方向性として、
コンピューターのプログラミングを学ぶような形で
「NLPを学び続ける」というスタンスもあると思うんですけど。
実際、世の中でコンピューターのプログラミングを学びたい人と
パソコン全般の使い方を知りたい人とを比べたら、
明らかにパソコン全般の受容が高いだろうことを考慮すると、
NLPに関しても、手法を紹介するセミナーに人気が出るのも妥当な気がします。
きっと、パソコン教室的なNLPのセミナーが大半で、
僕のようにプログラミングを志向するのは例外的なんでしょう。
パソコン教室の先生もいるし、プログラミングの専門家もいる。
それと同じことなんだと思います。
「NLPと他のコミュニケーションの手法(コーチングやカウンセリング)
とは、どう違うのか?」
といったものが多い印象があります。
でも、これは多分
「パソコンと PowerPoint って、どう違うの?」
のような質問なんです。
もっと正確な関係性としては
「化学と有機合成って、どう違うの?」
という表現に似ていますが、
とにかく注目するところが異なるということです。
NLPのコースでは通常、NLPの『スキル』と呼ばれる手法を
数多く体験学習してもらいます。
役に立つ方法を習うんです。
これらの方法はプログラムを変えるためのものです。
それらに加えて、プログラムを把握するための質問を練習したり、
プログラムの種類を解説して、自分のプログラムを理解したりもします。
NLPの全体像としては「プログラムとして人を理解する」部分が根底にあり、
そのうえで、「相手のプログラムに合わせてコミュニケーションをとる」とか
「自分や相手のプログラムを変える」といったアプローチが生まれてくる。
コミュニケーション技術や、問題解決・自己変容の手法は、
プログラムとして理解する視点をベースに応用として利用可能なものなんです。
セミナーで紹介される「NLPのスキル」は、応用手法なわけです。
土台は「プログラム」という着眼点のほうにあるはずです。
人をプログラムとして理解することができれば、
それをベースにして良好なコミュニケーションについて考えることもできるし、
能力アップの方法を考えることも、心の問題の扱い方を考えることもできます。
セミナーでそういった手法(スキル)を中心に紹介するのは
何よりも「プログラム」という着眼点に慣れるのに手っ取り早いからです。
「プログラム」というものがどうなっているのか?
プログラムはどうやって作られるのか?
プログラムによって、人はどう行動するのか?
どうすればプログラムを変えられるのか?
こうしたポイントを納得するのは、言葉だけでは難しい部分があります。
なぜなら、普段の生活ではプログラムを意識していないから。
普段意識していないものを意識に上げていく作業を通して
プログラムの性質や仕組みが、徐々に実感できていくんです。
NLPのスキルを体験することで、プログラムという発想に馴染んでいく。
そしてプログラムとして人を理解できるようになれば、
相手のプログラムに合わせたコミュニケーションでビジネスを円滑にしたり、
新しいプログラムを学習するための関わり方を用いて教育をしたり、
相手のプログラムを変えるサポートとしてカウンセリングやコーチングをしたり…
様々な応用ができるようになります。
しかしながら、NLPのセミナーの大部分が「スキル」に充てられていて
実際にはプログラムを変える手法を紹介する時間が多いことから、
NLPを「便利な手法の寄せ集め」のように捉えるケースも見受けられます。
効果的な手法(スキル)を集めたものがNLPであると捉えると、
新たに開発した手法もNLPの中に次々に追加されていって、ついには
「NLPには、こんなに沢山のテクニックがあります」といった説明も出るようになる。
有名な海外のトレーナーが自分で作った実習やテクニックを
”最新のNLPスキル”のように紹介し、それらを数多く知っていることが
トレーナーとして「よく勉強している」といった評価に結びついたりもするようです。
新しい実習が作られるのなんて当然なんです。
プログラムという着眼点から、何か1つの分野、1つの行動パターンを分析すれば
効果的な方法が見つかってきます。
その方法を実習として紹介すれば、最新スキルということになる。
実用的な方法を紹介するほうがセミナーとしては人気があるのかもしれませんし、
多くの人は役に立つものを手に入れたいのであって、
人を理解するためにプログラムという着眼点を身につけたいのでもないのでしょう。
そうするとNLPのスキルの側面に注目が集まる。
「NLPは役に立つテクニックの良いとこ取り」のように受け取られて
NLPという「テクニック集」が広く紹介されるようになる。
そのテクニック集の中には、人間にとって役立つものが色々と含まれていますが、
自分に対しても他人に対しても役立つテクニック集となると目的が絞られません。
そこで、便利な説明の仕方として
「NLPでは他者とのコミュニケーションの方法と
自分とのコミュニケーションの方法の両方を扱います」
といった発想が出てくるようです。
色々と役立つテクニックの中から、
言葉の使い方、質問の仕方などは他者とのコミュニケーション技術、
プログラムを変える手法は自分とのコミュニケーション技術、
といった分類をするわけです。
だから、NLPはコミュニケーションの手法なんだ、と。
実用・応用の側面から手法に注目すると、そういう分類もできるでしょう。
その反面、このような
「自分にも他人にも使えるコミュニケーション技術」
という説明の仕方が、
「じゃあ、他のコミュニケーション技術とは、どう違うんだ?
コミュニケーションの手法としてコーチングとかカウンセリングとか聞くけど
そういうのとは、どう違うんだ?」
といった疑問を生み出すことにもなるのだろうと考えられます。
同じ「コミュニケーション技術」という土俵に乗っていると想定するからです。
しかし、それは「NLPのスキル」をコミュニケーション技術として捉えた場合の話。
「NLP」と「NLPのスキル」は別の抽象度です。
NLPは人をプログラムとして理解しようとする物の見方。
物質を化学式で見るのが化学、
力を数式で見るのが物理学…、
というように
人をプログラムとして見るのがNLPだといえます。
その見方から生まれてくる手法が、実用的なテクニックとして紹介されているんです。
だからこそ、パソコンでいうなら
NLPは『プログラミング』のほうに当たるわけです。
自分でプログラムを書いたり、他人のプログラムを読んだり、
すでに使われているプログラムを修正したり。
こうしたことはプログラムの原理を知っていて、
プログラムを理解しているからできることでしょう。
プログラミングを学んだ人には、それが可能なはずです。
そうしてプログラミングを学んだ人たちは
役に立つパソコンのアプリケーションを開発します。
ワードだとか、エクセルだとか、パワーポイントだとか、
インターネットの検索ソフトとか、ウイルス対策ソフトとか、
画像編集とか音楽・動画再生ソフトとか。
NLPの応用的な手法に注目すれば、
プログラムの着眼点から生まれる効果的な方法は
コーチングにも、カウンセリングにも、教育にも、ビジネスにも…、
とにかく幅広い範囲で使えます。
それはちょうど、パソコンを使えば
書面の作成、計算、プレゼンテーション、情報検索、画像編集など
様々なことができるようなものです。
こっちの具体的な使い方が『NLPのスキル』に相当します。
一方、プログラミングは知らなくても、例えば
エクセルの使い方を詳しく知っている人もいるわけです。
簡単な表計算だけでなく、自在にグラフを作ったり
いつも使う計算を自動でできるようにしたりできる。
これがコーチングやカウンセリングを専門にすることと対応します。
コンピューターのプログラミングを知らなくても、エクセルを使いこなせるのと同様に
NLPにおけるプログラムの着眼点で人を理解しなくても
コーチングやカウンセリングは可能だということです。
NLPの土台は、コンピューターでいうプログラミングのほうにありますが、
とはいえ、パソコンに触ったこともない人に、いきなりプログラミングは厳しい。
まずはパソコンに慣れてもらって、それぞれのアプリケーションで
どういうプログラムが使われているのかを知ってもらったほうが都合がいいでしょう。
そういう意味で、NLPのセミナーでは色々な手法を体験するところから始まります。
ワードやエクセル、インターネット、画像処理などを一通り触ってもらう、と。
それらのアプリケーションは当然、コンピューターのプログラミングの産物です。
詳しく踏み込んでいけば、プログラミングの原理にも触れることになりますし、
さらには自分でプログラムを書くような作業もすることになると思われます。
ただ、そこまでやりたい人は多くないみたいです。
大抵の人は、ワードやエクセル、インターネットができれば十分なのかもしれません。
だから多くのNLPのセミナーは、
パソコン教室のような体裁になる。
「この教室ではパソコンの色々な使い方を一通り学べます」
というのと同様に
「NLPではコミュニケーションの手法を一通り学べます」
といった印象で。
そして
「仕事に役立てたいんですけど、パソコン教室に通うのと
エクセル専門の授業を受けるのと、どっちが良いですか?」
という質問と同様に、
「人間関係に役立てたいんですけど、NLPをやるのと
コーチングをやるのと、どっちが良いですか?」
という質問が出てくるのでしょう。
その流れがありますから、「NLPを学び続ける」と言った場合にも、
まるで色々なパソコンのアプリケーションを使えるようになって
エクセルやワードの便利テクニックを身につけるような形で、
NLPのスキルを数多く知りたくなる。
…これも納得できるところです。
もっと別の方向性として、
コンピューターのプログラミングを学ぶような形で
「NLPを学び続ける」というスタンスもあると思うんですけど。
実際、世の中でコンピューターのプログラミングを学びたい人と
パソコン全般の使い方を知りたい人とを比べたら、
明らかにパソコン全般の受容が高いだろうことを考慮すると、
NLPに関しても、手法を紹介するセミナーに人気が出るのも妥当な気がします。
きっと、パソコン教室的なNLPのセミナーが大半で、
僕のようにプログラミングを志向するのは例外的なんでしょう。
パソコン教室の先生もいるし、プログラミングの専門家もいる。
それと同じことなんだと思います。
2014年05月01日
本の読み方
初めて自分でお金を払って勉強しに行ったのは、速読教室でした。
当時はまだ研究職。
東京に転勤になったばかりの頃です。
英語の論文を速く読めたほうが都合が良いだろうと考えて
速読をやってみることにしました。
わりと地味なタイプのトレーニングで、
自分にとって内容を理解できる限界のスピードを見つける
といった感じの趣旨のスクール。
目を動かすトレーニングだとか、単語を映像化するトレーニングとか
三段論法のトレーニングとか、識字速度を上げるトレーニングとか…
とにかく目を速く動かしながら文字情報をキャッチする力を上げるわけです。
そのうえで、一分間に何文字を処理できるかを測定していきました。
結果として毎分何文字で読めるようになるか、が指標だったんです。
「内容を把握できる範囲で」ですから、
どんな文章を読むかによってスピードが変わる、という
極めて現実的なスタンスのところだったものです。
哲学書なら遅くなるし、新聞だったら速い、といった感じ。
結果的にどれだけ本を読むスピードが上がったかは分かりませんが、
速読教室に通っていたおかげで、本を読む量は増えました。
ビジネス書や心理読み物、能力開発などをテーマにした本が中心。
気に入って読んでいた著者もいましたし、似たような内容の本でしたから
理解力そのものも上がっていったんだと思います。
好きな著者の場合には、話の展開の仕方が自分のと似てもいたんでしょう。
あるいは自分の思考の展開が、その人に近づいていったとも考えられます。
いずれにせよ、理解しやすい文章で書かれた、馴染みのある分野の本ですから
普通にジックリ読んでいるつもりでも、読む時間は短くなっていたと思います。
200ページ・1500円ぐらいの本なら、45分ぐらいだったでしょうか。
地味なトレーニングが効いていた可能性もありますが、
分かる範囲で最速を目指して読むスタイルは、僕の主流にはなりませんでした。
結果的に速く読めるようになったのには、
読むのが楽しくて数多くの本を読んだという経験の量が重要だった気がします。
その経験量によって識字スピードも、パッと見て意味を捉えられる文字数も増え、
様々な文体で書かれた話の展開の仕方でもスムーズに頭に入るようになった。
結局、きっちりと文章を追いかけながら本を読む経験が
文章を読むスピードを上げるためのトレーニングになっていたように思えます。
ですから今でも、慣れていないスタイルで書かれた本は読むのに苦戦します。
内容ウンヌンでなく、「話の展開が、僕の思考の流れと合わない」というだけで
まったく頭に入ってきてくれない感じがあります。
洋書の訳本だったりすると、その傾向は顕著です。
一回元の英語を想像しながら読んだりしますから、すごく時間がかかる。
いかにその文章のスタイルに慣れていないか、
つまりトレーニング不足なことが、読むスピードを落としているのか
という話です。
ちなみに、速読教室に通って意味がなかったわけではなく、
バーッと流し読みをする能力は上がったように感じます。
パッと目を通して何が書いてあるかを把握するとか、
情報収集のために本を読むような場合には、速読の方法で対応できます。
使い分けができるようにはなったのでしょう。
こうして振り返ってみると、
本を読む行為の効果は、ただ速く読んで、情報を収集するだけはない
ということが実感できます。
確かに、情報収集や、本に何が書かれていたかを知る目的なら
速読が役に立つと思います。
しかし速読で入れた情報は、
書かれた文章の話の展開のままで理解されているのではありません。
カギになる情報は収集できますし、それを記憶に留めることもできる。
一通りジックリ読んで覚えている情報だって、さほど多くないことを思えば
速読でインプットできる情報で充分だという考え方もあるといえます。
全体の流れや、あらすじを説明しようと思えば、速読で充分可能です。
ただし、ここでの理解は、それまでに読者が持っていた思考の流れと
その流れに沿って作られた知識のネットワークに基づいている。
読者自身の考え方と知識に”当てはめる”ように情報が追加されるんです。
ですから、あらすじをアウトプットしようとすれば、自動的に
読者自身の考え方に沿った説明になるはずです。
つまり、「何が書かれていたか」はインプットできていても、
「どのように書かれていたか」はインプットされにくい、ということ。
繰り返しますが、もちろん、それが役に立たないのではありません。
情報を自分の考え方と知識に追加する目的なら効果的です。
反面、話の展開のバリエーションを増やすとか、
自分が持っていない思考の流れを取り入れるとか、
そういった効果は期待できないでしょう。
最初は読みにくい文章でも、量を重ねるうちに慣れてくることがあります。
ジックリと時間をかけながら、文字情報と自分の経験とを繋げていく。
抽象的な内容でも、自分の経験から一般化された概念は作られているものです。
ただその一般化された概念が言葉と結びついていないだけ。
言葉と経験的実感とを結び付けるのには訓練が必要です。
そして、その抽象的な概念同士を組み合わせて作られた文章からも
経験的な実感が引き出されるように訓練される必要があります。
この経験を積むと、1つの文章を理解するスピードが上がるんです。
話の展開の仕方と、思考の流れをトレーニングしているともいえます。
物事を理解する力そのものを鍛えてもいるわけです。
このトレーニングのためには、ジックリと理解しながら読むのが効果的です。
心の中で声を聞くようにして文章を読み、
その文章を体験的な実感と結びつけるようにして、
話の進め方や理由づけの関係性なども把握するようにする。
こうすると、読書は思考力や理解力のトレーニングになるはずです。
実際、ずっと同じ人の話を聞き続けていたり、
お気に入りの著者の本を読み続けていたりすると、
話し方や文体が自然と似てくるものです。
頭の中に浮かんでくる文章の流れ、思考の流れが影響されるんです。
もちろんこれは、文章や話をインプットしたときに一度
頭の中で再生するから起きることです。
読んだものでも、聞いたものでも、頭の中で文章として形作られる。
このときに話の展開の流れ、思考の流れ(順番)が
「思考パターン」のようなものとして刻み込まれていきます。
何度も言っているうちに口癖になるのと同様。
質問のパターンを練習するうちに、頭へ浮かびやすくなるのと同様です。
何度も頭の中で再生されるから、パターンが定着していくわけです。
だから、ジックリと本を読む経験を重ねることで、
著者の考え方や文章の作り方を取り入れることができる。
思考力、文章力、読解力を向上させるためには
ジックリと読書するのが1つの効果的な方法だといえます。
情報収集の効率だけでいえば、速読に軍配が上がるかもしれませんが、
読書の効果は情報収集だけではないはずです。
地味に読書をすることで得られるものもあるんです。
何より…、
大切な人や憧れる人から貰った手紙を
速読しようと思う人なんていないでしょう。
どういう目的で、どんな結果を期待して本を読むのか。
そこに使い分けの基準があるのではないでしょうか。
当時はまだ研究職。
東京に転勤になったばかりの頃です。
英語の論文を速く読めたほうが都合が良いだろうと考えて
速読をやってみることにしました。
わりと地味なタイプのトレーニングで、
自分にとって内容を理解できる限界のスピードを見つける
といった感じの趣旨のスクール。
目を動かすトレーニングだとか、単語を映像化するトレーニングとか
三段論法のトレーニングとか、識字速度を上げるトレーニングとか…
とにかく目を速く動かしながら文字情報をキャッチする力を上げるわけです。
そのうえで、一分間に何文字を処理できるかを測定していきました。
結果として毎分何文字で読めるようになるか、が指標だったんです。
「内容を把握できる範囲で」ですから、
どんな文章を読むかによってスピードが変わる、という
極めて現実的なスタンスのところだったものです。
哲学書なら遅くなるし、新聞だったら速い、といった感じ。
結果的にどれだけ本を読むスピードが上がったかは分かりませんが、
速読教室に通っていたおかげで、本を読む量は増えました。
ビジネス書や心理読み物、能力開発などをテーマにした本が中心。
気に入って読んでいた著者もいましたし、似たような内容の本でしたから
理解力そのものも上がっていったんだと思います。
好きな著者の場合には、話の展開の仕方が自分のと似てもいたんでしょう。
あるいは自分の思考の展開が、その人に近づいていったとも考えられます。
いずれにせよ、理解しやすい文章で書かれた、馴染みのある分野の本ですから
普通にジックリ読んでいるつもりでも、読む時間は短くなっていたと思います。
200ページ・1500円ぐらいの本なら、45分ぐらいだったでしょうか。
地味なトレーニングが効いていた可能性もありますが、
分かる範囲で最速を目指して読むスタイルは、僕の主流にはなりませんでした。
結果的に速く読めるようになったのには、
読むのが楽しくて数多くの本を読んだという経験の量が重要だった気がします。
その経験量によって識字スピードも、パッと見て意味を捉えられる文字数も増え、
様々な文体で書かれた話の展開の仕方でもスムーズに頭に入るようになった。
結局、きっちりと文章を追いかけながら本を読む経験が
文章を読むスピードを上げるためのトレーニングになっていたように思えます。
ですから今でも、慣れていないスタイルで書かれた本は読むのに苦戦します。
内容ウンヌンでなく、「話の展開が、僕の思考の流れと合わない」というだけで
まったく頭に入ってきてくれない感じがあります。
洋書の訳本だったりすると、その傾向は顕著です。
一回元の英語を想像しながら読んだりしますから、すごく時間がかかる。
いかにその文章のスタイルに慣れていないか、
つまりトレーニング不足なことが、読むスピードを落としているのか
という話です。
ちなみに、速読教室に通って意味がなかったわけではなく、
バーッと流し読みをする能力は上がったように感じます。
パッと目を通して何が書いてあるかを把握するとか、
情報収集のために本を読むような場合には、速読の方法で対応できます。
使い分けができるようにはなったのでしょう。
こうして振り返ってみると、
本を読む行為の効果は、ただ速く読んで、情報を収集するだけはない
ということが実感できます。
確かに、情報収集や、本に何が書かれていたかを知る目的なら
速読が役に立つと思います。
しかし速読で入れた情報は、
書かれた文章の話の展開のままで理解されているのではありません。
カギになる情報は収集できますし、それを記憶に留めることもできる。
一通りジックリ読んで覚えている情報だって、さほど多くないことを思えば
速読でインプットできる情報で充分だという考え方もあるといえます。
全体の流れや、あらすじを説明しようと思えば、速読で充分可能です。
ただし、ここでの理解は、それまでに読者が持っていた思考の流れと
その流れに沿って作られた知識のネットワークに基づいている。
読者自身の考え方と知識に”当てはめる”ように情報が追加されるんです。
ですから、あらすじをアウトプットしようとすれば、自動的に
読者自身の考え方に沿った説明になるはずです。
つまり、「何が書かれていたか」はインプットできていても、
「どのように書かれていたか」はインプットされにくい、ということ。
繰り返しますが、もちろん、それが役に立たないのではありません。
情報を自分の考え方と知識に追加する目的なら効果的です。
反面、話の展開のバリエーションを増やすとか、
自分が持っていない思考の流れを取り入れるとか、
そういった効果は期待できないでしょう。
最初は読みにくい文章でも、量を重ねるうちに慣れてくることがあります。
ジックリと時間をかけながら、文字情報と自分の経験とを繋げていく。
抽象的な内容でも、自分の経験から一般化された概念は作られているものです。
ただその一般化された概念が言葉と結びついていないだけ。
言葉と経験的実感とを結び付けるのには訓練が必要です。
そして、その抽象的な概念同士を組み合わせて作られた文章からも
経験的な実感が引き出されるように訓練される必要があります。
この経験を積むと、1つの文章を理解するスピードが上がるんです。
話の展開の仕方と、思考の流れをトレーニングしているともいえます。
物事を理解する力そのものを鍛えてもいるわけです。
このトレーニングのためには、ジックリと理解しながら読むのが効果的です。
心の中で声を聞くようにして文章を読み、
その文章を体験的な実感と結びつけるようにして、
話の進め方や理由づけの関係性なども把握するようにする。
こうすると、読書は思考力や理解力のトレーニングになるはずです。
実際、ずっと同じ人の話を聞き続けていたり、
お気に入りの著者の本を読み続けていたりすると、
話し方や文体が自然と似てくるものです。
頭の中に浮かんでくる文章の流れ、思考の流れが影響されるんです。
もちろんこれは、文章や話をインプットしたときに一度
頭の中で再生するから起きることです。
読んだものでも、聞いたものでも、頭の中で文章として形作られる。
このときに話の展開の流れ、思考の流れ(順番)が
「思考パターン」のようなものとして刻み込まれていきます。
何度も言っているうちに口癖になるのと同様。
質問のパターンを練習するうちに、頭へ浮かびやすくなるのと同様です。
何度も頭の中で再生されるから、パターンが定着していくわけです。
だから、ジックリと本を読む経験を重ねることで、
著者の考え方や文章の作り方を取り入れることができる。
思考力、文章力、読解力を向上させるためには
ジックリと読書するのが1つの効果的な方法だといえます。
情報収集の効率だけでいえば、速読に軍配が上がるかもしれませんが、
読書の効果は情報収集だけではないはずです。
地味に読書をすることで得られるものもあるんです。
何より…、
大切な人や憧れる人から貰った手紙を
速読しようと思う人なんていないでしょう。
どういう目的で、どんな結果を期待して本を読むのか。
そこに使い分けの基準があるのではないでしょうか。