2014年06月

2014年06月09日

事務連絡

もしかすると、申し込みフォームの調子が悪いかもしれません。

何が起きているか僕には想像もつきませんが
不具合でフォームから情報が送信されていなかったり、
送信されたのに、こちらで受信できなかったり…
といったことが起きている可能性があります。

申し込み・お問い合わせのフォームからメッセージを受け取った場合には
通常、24時間程度のうちには返信をするようにしています。

もし、フォームを利用したのに何も連絡がない…といったことがあれば
お手数ですが、再送をお願いいたします。


また、こちらからの返信には gmail を主に使っています。

メールサーバーやメールソフトの設定によっては、
こちらからの返信メールが「迷惑メールフォルダ」に振り分けられたり、
受信されていないということもあるかもしれません。

恐縮ながら、フォームご利用後には、念のため
「迷惑メール」フォルダもご確認くださいますようお願いします。

gmail や独自ドメインからのメールが受信できない環境でしたら
直接、
 info@hrd-lab.com  (@を小文字に変更してください)
までメールをお送りいただけると幸いです。


こちらの都合でご迷惑をおかけしているかもしれません。
申し訳ありませんが、よろしくお願いします。

2014年06月08日

深入りするかどうか

例えば、巷で「脳科学の発見」として紹介されている題材などは、
かなりの割合で実は「認知心理学の研究結果」であったりします。

「脳科学( Neuroscience )」として調べられているものにも
もちろん一般受けするような研究もあります。

しかし、詳しくなってくるとデータの解釈が複雑になるため
分かりやすく推測した理論が発見された事実のように紹介されたり、
もっと親しみのある「認知の過程で起こること」の調査結果を
「脳と関係する研究成果=脳科学」として紹介したりすることが多いんでしょう。

情報としての正確さや新しさを追求して難しくなるよりも、
専門知識がなくても面白いと思える情報を説明するほうが
広く受け入れられやすいということだと思われます。

そういう情報のほうが多くの人にとって興味深く、役にも立つのですから、
情報発信の仕方としては有益なものといえそうです。

個人的には、ある程度の専門知識をベースにしながら
詳しく説明することで分かりやすくなるタイプのサイエンス・ライターが好みですが、
もっと短絡的な仮定レベルの結論だけを述べた情報も数多く目にします。

情報提供にも様々な種類と目的があって、
それぞれ対象とする人が違うということなんでしょう。

突き詰めていけば矛盾が出てきたりするとしても、
そもそも突き詰めようという人が少ないんですから
「ある程度の詳しさと正確さながら、実生活で役に立つ」
というぐらいが丁度いいのかもしれません。


こうした話は脳科学に限ったことではありません。
あらゆる分野に通じることじゃないでしょうか。

心やコミュニケーションに関するもの、自己啓発や願望実現に関するものでも
多くの人にとっつきやすい情報から、理解が大変な内容まで
様々な種類があるように見受けられます。

突き詰める人たちからすると本質的には思えない情報であっても、
とりあえず信じてやってみると幅広い人に役立つ可能性はあるんです。

それを信じて続けていくと、どこかで方向転換を迎えることが
突き詰める人たちからは予想がついても、少なくとも
その方向転換のタイミングまでは多くの人に有益となる。

「うーん、本当はそうじゃないんだけどなぁ…」なんて感じるとしても
むしろ、その「本当はこうなんだ」のほうが受け入れ難いケースもあります。

突き詰める前に興味がなくなる人だって沢山いるわけですから、
社会全体を視野に入れたときには、「ややこしい『本当はこうなんだ』」よりも
「分かりやすくて実用的」なほうが大切だとも考えられます。

『突き詰めていく』というスタンスには、そもそもニーズが少ないのかもしれません。

しかし、
突き詰める前に興味がなくなるのが多くの人にとって自然であるのと同様に、
突き詰めたい人にとっても、興味の対象に深入りするのは自然なんでしょう。

その意味では、突き詰める手段が残っていることもまた
ニーズの大小にかかわらず大切なことのような気がします。

cozyharada at 23:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 心理学

2014年06月06日

死神

ずーっと前、僕が色々なセミナーに通って
とにかく片っ端から勉強したかった頃。

本も様々な種類を読んでいました。

それで斎藤一人さんの本で、すごく印象に残っていた話があったんです。

死神の話です。

「死神っていうのは神様で、鎌を持っていたりする怖いものではなく
 本当は死を穏やかに迎えさせてくれる優しい存在なんだ」
といった感じの話。

それにまつわる逸話として、何かのストーリーが紹介されていました。
そのストーリーが僕の記憶に残ったんです。

「死ぬのを怖がっているお婆さんがいて、
 そこに優しい若者がやってくる。
 それでお婆さんと仲よくなって、安心させて、
 そっと手をとって死の世界へ連れて行ってくれる。」

…こんな感じの話だったと思います。


その後も本の量はどんどん増えていきましたし、
引っ越しだなんだで、その本がどこに行ったのか
すっかり分からなくなっていました。

それが最近、ネットで検索して判明したんです。

正確には、本に載っていたのではなく、
本の付録としてついていたCDに収録されていた話でした。

その話も Youtube などで見つかりますが(そちらは置いておくとして)、
紹介されていた物語のほうも動画があったんです。

CDで話していた話は、多分これのことだろう、という動画なんですが。

『トワイライト・ゾーン』の一話分だったようです。
(英語では「死神」ではなく、「 Mr. Death 」となっていますから
 「神」のニュアンスは単語として含まれないみたいです。)

僕の印象に残っていたイメージとは多少のズレがありましたが、
「穏やかな最期」というのが美しく描かれています。


人生の最期の瞬間に優しく寄り添う。
良い話だなぁと感じました。

記憶の片隅にあいまいな話として残っていたものが
ハッキリした映像として刻まれたような気がします。





cozyharada at 23:11|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!心理学 | 全般

2014年06月04日

事実と想像の区別

記憶と想像の違いは、多くの人が区別できることだと思います。

たまに自己啓発系の説明なんかだと
「脳は事実とイメージの区別ができない」
なんて言われますが、そんなことはありません。

現に「事実」と「イメージ」と区別して言葉にできているわけですから
何が事実で、何がイメージなのかは別物として認識されているはずです。

話している本人の認識そのものが脳の活動に基づいているんですから
「事実とイメージの区別が…」と言っている人の脳の中でも
当然、それぞれの区別はついていると考えられます。

まことしやかにいわれる「脳は事実(現実)とイメージの区別がつかない」とは
『実体験でも仮想体験でも、記憶に対して影響を与えるため
 どちらも学習の材料として使われる』
ということを言いたいのでしょう。

だったら、そう言ったほうが誤解が少ないとは思いますが…。


同様に、「記憶」と「想像」という言葉の使い分けができるんですから、
多くの人は「過去にあった出来事が記憶されたもの」と
「起きたことのない想像上の出来事」とを分けて捉えているといえます。

ここで言っているのは、あくまで個人の体験の話です。
知識としての歴史の話ではありません。

過去にあったとされている「関ヶ原の戦い」と
映画の中の物語として作られた「戦国自衛隊」とでは、
どちらが史実で、どちらが空想かを区別できていますが、
ここの区別はもう少し複雑です。

どちらも体験と関係ありませんから、その情報を入手した経路とセットにして
「学校で習ったから関ヶ原の戦いは事実」、
「映画館のスクリーンで2時間の物語として見たから映画」
といった整理がされている可能性もあります。

個人的には、僕が映画の場面を映像として思い浮かべると
必ず映像の周りにスクリーンやテレビ画面の枠があって、
見たことのない関ヶ原の戦いを思い浮かべると、そこには枠がありません。

僕の場合には、映画という空想の物語は
スクリーンやテレビの端っこが見えるように記憶しておくことで
それが映画だったと分かるようになっているみたいです。

ちなみに小説の場合には、映像の場面の奥に
うっすらと文字が透けて見えますから、こちらも事実とは区別するみたいです。


むしろ問題は、自分が体験したわけではないにも関わらず
スクリーンやテレビ画面に入っていない「関ヶ原の戦い」のほう。

これがどのようにして「自分が体験したものではない」と認識されているのか?

主観的には
 「いや、だって、こんな場所に行った記憶はないし…」
という感じです。

その主観的な印象が、どのような仕組みで認識されているのか?という話です。

例えば、今度はハワイのビーチに行った場面を想像してみます。
僕は行ったことがありませんから、テレビで見た映像を利用して作ります。

そして比較のために、実際に行ったことのあるフロリダの景色も思い出します。

明るさ、鮮明さには差がありません。
映像の大きさも同じですが、強いて言うと
フロリダのほうは首を左右に振っても景色が見えます(パノラマビュー)が
ハワイだと目の前の視野の範囲にしか映像がありません。

どちらも動画として映像を進めることができますし、
どちらも音のクオリティには違いがありません。

匂いや温度は、フロリダにしかありません。

それから実際に行ったことのあるフロリダのほうは
思い浮かべていると、関連する出来事の映像が自然と他にも浮かんできます。
連想される感じがある。
頭の周りに沢山の映像が浮いている感じです。

一方、行ったことのないハワイだと、1つのシーンばかりです。
すごく遠くに小さい関連映像が浮かんでいますが、
2つを結びつける「流れ」が分かりません。

…ここまでの印象では、僕の場合、事実の記憶には
・パノラマで見渡せる周辺の映像がある
・匂いや温度の情報が伴っている
・1つの出来事の映像から連想される場面の映像が複数浮かんでくる
といった特徴があるようです。


念のため、幼少期の記憶を辿ってみます。

かすかに思い出される幼稚園の記憶。
外で皆と遊んでいる場面です。

これはかなり不鮮明な映像です。
不鮮明なので主観的な印象としては
「ハッキリと思いだせないんだけど…」
という感じ。

でも「実際に体験した事実の記憶だ」という認識はあります。

ということは、映像の鮮明さとは関係なく、
「事実らしさ」を示す何かがあるはず。

フロリダではパノラマが特徴的でしたが、
やはり幼稚園のシーンでもパノラマで見渡せます。
これは大事かもしれない。

音や匂いはありません。
これは「ハッキリと思い出せる」の「ハッキリさ」と関係するんでしょう。
映像が鮮明だったり、音が鮮明だったり、匂いや温度が鮮明だと
「ハッキリ」思い出せる記憶、という認識になるみたいです。

それから、幼稚園のイメージも1つを思い出すと
他の場面が連想されてきます。
どれも不鮮明ですが、関連記憶としてセットになっているみたいです。

出来事の順序や流れは分かりませんが、連想されるのは重要なようです。


もう1つ、仮想体験で比較してみます。
一度行ったことのある場所で、やったことのない作業をしている場面。
「東京国際フォーラムの舞台で講演をしている」とでもしてみます。
これを想像してみる。

ここは行ったことがありますし、舞台の上からの景色も、音も匂いも想像できます。
全て鮮明ですし、パノラマに見渡すこともできる。

でも僕の中には主観的印象として「これは事実じゃない」という実感があります。

なぜか?
どうやら、関連する場面が浮かんでこないからみたいです。

これだけ浮いている感じがする。
そのせいで、「これは事実じゃない」という感じがある気がします。


ということで、僕にとって実際にあった出来事の記憶と、想像とを区別しているのは
 思い浮かべた出来事から、関連する場面が連想されるかどうか
といった要素のようです。

確かに、幼少期の記憶を辿ってみると、
1つの場面から関連する映像が思い浮かばないほど
「記憶があいまい」な印象を受けます。

なんかそうだった気がするけど、実際にあったことなのか
話に聞いたことなのかが良く分からない、
といった感じ。

そうすると、過去のトラウマ的体験を書きかえる、などのセラピー技法においては
僕の場合、関連する他の場面との結びつきが無いシーンを作り上げますから
過去の記憶が作り替えられるということにはならないんでしょう。

ただ、出来事に対する見方や解釈が変わる。
リフレーミングです。

ここに大きな意味があるんだと思えます。

一方、関連記憶がセットになって作り出されてしまえば、
僕の中では、想像したものも事実の記憶であるかのように錯覚してしまいそうです。

例えば、想像上の出来事を繰り返しストーリーとして話し続けていたら
1つの場面を思い浮かべたときに、関連する場面も浮かんでくるようになるでしょう。
そして事実であるかのような印象が高まっていく。

僕がもし嘘をつき続けていたら、
嘘は事実のように勘違いされていくのかもしれません。

嘘をつくと、嘘は事実になる…
あくまで記憶の中で、ですが。

このあたりのことは、エリザベス・ロフタスの研究とも関係しそうです。

こういう区別の仕方は僕だけなんでしょうか?
それとも一般に多いものなんでしょうか?

ちょっと気になるところです。

cozyharada at 23:13|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | NLPの基本情報

2014年06月02日

劣等感とか嫉妬とか

劣等感や優越感、嫉妬や羨ましさなどは
比較によって生まれると言います。

だから比較するような考えをやめましょう、と。
気にせずに自分のやるべきことに集中すればいい、というわけです。

そうかもしれません。
が、それができれば苦労しません。


そもそも劣等感や優越感、嫉妬を感じるだけであれば
人によっては問題ではないはずです。

そういう感情を体験する自分が嫌だから、その人にとっては問題なんです。

逆に、強烈な劣等感から異常なぐらいの努力をして成果を出し続けたり、
経済的に大成功して優越感に浸ることを喜びとしたり、
嫉妬が一歩を踏み出すモチベーションになって良い結果が得られたり、
役に立っている人たちだっています。

劣等感や優越感に無縁でマイペースなため特に頑張ることが無い人が、
それでも組織の中で成果を出すことを求められていた場合、
むしろ競争意識を持てたほうが楽になる可能性だってあるでしょう。

一切の嫉妬を感じることなく、上手くいっている他者を喜んでいながら
一方で「自分には何も幸せなことがない」と嘆いているとしたら、
嫉妬心から「自分だって!」とアクションに出て結果が変わることもある。

劣等感や嫉妬などの感情も、それ自体が問題ではないわけです。
本人がそうした感情を原動力として大事なものと捉えていれば
問題だと感じることはないはずです。

ですから、劣等感や優越感、嫉妬、羨ましさなどの感情が問題となるのは、
「こういう感情は良くない」という判断基準を持っている場合だといえます。

これらの感情に対する「良い・悪い」の判断基準が強い
…といった特徴がまず挙げられるということです。


そして「問題だ」という認識がある
(つまり「これらの感情を持つのはダメだ」と捉える)と、
自分に対する評価が下がります。

例えば
「劣等感を持つなんて、自分はダメだ」
という感じ。

これが本人を苦しめます。
セルフ・エスティームが下がるんです。

だから「比較して劣等感を抱いたり、嫉妬したりするのはやめましょう」
といった意見が出てくるのだろうと考えられます。

しかしながら、こうした考え方は癖になっています。
NLPでいえば、プログラムです。
複数のプログラムが組み合わさってできています。

しかも、プログラムの着眼点からすると、問題を生み出すのは
「比較する」プログラムそのものではありません。


「比較」とは2つを見比べて、共通点と違いを見つけるプロセスです。

それが「認識」の基本的な作用です。

ですから「比較しない」としたら「認識」もしないことになるので
街中がどのようになっているかを理解することもできず、
世の中を歩くことすらできなくなります。

例えば、「人間」として認識するとしたら、そこには必ず
「人間以外の全て」との区別が含まれます。
犬だったり、猫だったり、鳥だったり、虫だったり、木だったり、水だったり。

「生物」だって「無生物」との違いを知っていることで認識されますし、
「存在」と「非存在」だって概念的に理解するから
「自分は存在している」という認識が生まれるわけです。

このように、物事を認識する限り、必ず違いを把握するプロセス、
つまり「比較」が含まれてしまうんです。

そのため「自分」という存在の認識も、こうした全ての比較に基づきます。
「自分」を把握するために、他のものごとと比較するのが一般的です。

職業や立場などの『役割』のレベルでも
こういうことを大切にしているという『価値観』のレベルでも
才能や技能などの『能力』のレベルでも
生活環境や持ち物などの『所有物』のレベルでも
どういう人と繋がりを持っているかという『他者との関係性』のレベルでも、
全てにおいて「そうじゃない場合」との違いが認識されています。

仮に「私は40歳です」といえば、そこには
「他のすべての年齢ではない」という比較が含まれる、ということです。

「自分」を知ろうと頑張るほど、他との比較が徹底されていくんです。

比較をしなくなるには
「有であり、かつ、無である」
という認識で全てを捉えるぐらいの状態が必要でしょう。

一切の認識をしないよりは達成の可能性はありますが
教わってすぐに納得できるものではないかもしれません。

ですから、「比較」そのものは自然に起きることとして受け入れる。
「比較」だけで劣等感や嫉妬が生まれるわけでもなく、
ましてや、そこに問題意識が生まれるわけでもない、と。


比較をして、自分と他者との違いを捉えて、
 その上に「良い・悪い」の判断をする
から劣等感や優越感、嫉妬が生まれます。

「あの人にはこれができる。
 でも私にはできない。
 ということは、私は劣っていて、ダメだということだ。」
(できることが良いことだ)

「あの人にはこれがある。
 でも私にはない。
 ズルイ、不公平だ。私にあるほうが相応しいのに。」
(持っているほうが良いことだ。)

劣等感や優越感のほうが、幼いころに叱られたり褒められたりした
「他者からの評価で自分の価値が変動する」経験と関連していて、
嫉妬や羨ましさは、幼いころの「何でも思い通りにしたい」
万能感やワガママなどの状態と関連していると考えられます。

いずれにせよ、「このほうが正しい」、「このほうが良い」といった
判断がなされることによって引き出される感情だということです。

比較して違いを認識して、その違いに対して評価や判断をする。
この評価・判断の段階が強いほど、劣等感や嫉妬などの感情が沸きやすい。
そういう流れだといえるでしょう。

そのうえで、先に述べたように
「劣等感や嫉妬を感じるなんて自分はダメだ」
という自己評価が加わって、問題になるわけです。

まとめると、
ー分と他人を比較をして、違いを認識する (全員に共通するプロセス)
違いに対して評価や判断を加える結果、劣等感や嫉妬が沸いてくる
 (個人差のあるプロセス)
N等感や嫉妬を自覚したときに、そういう自分を問題視する
 (個人差のあるプロセス)
という段階を経ていることになります。

ですから、
違いに対して「正しい・間違っている」、「良い・悪い」の判断をしなければ
 劣等感や嫉妬は沸きにくい
N等感や嫉妬があることに対して「それは悪いことだ」と判断しなければ
 「そんな自分はダメだ」と問題意識を抱えることもない
はずです。

ここにアプローチのポイントがあります。
「良い・悪い」、「正しい・間違い」などの判断を弱めるんです。


ところが、「だから判断(ジャッジ)をやめましょう」と言われても
それが自然に起きてしまうプログラムなんだから困るんです。

「考えるな」というのは、本当に考えが沸かなくなれば望ましいでしょうが、
実際に「考えないようにする」ときに起きるのは、
沸いてきてしまう考えを否定したり、抑え込んだりするだけのことです。
そこに感情が伴っていれば、苦しい気持ちが蓄積していきます。

ですからオススメは、『判断できない状態にしてしまう』こと。

「良い」とか「悪い」とか言えなくしてしまう。
「どっちもどっちか…」と感じられてしまえば、判断のしようがなくなります。

劣等感や嫉妬に関していえば、徹底的に想像力を働かせることで
評価や判断を下しにくくなってくるはずです。

これらの感情が起きるときには、他者のある一面だけに注目しているはずです。
あの人にはお金がある、あの人は〜ができる、あの人は成功している…など。

それに伴う代償に注意が向いていないといえます。

例えば、生まれつきお金持ちで、お金に対して一切の苦労を知らないとしたら
その代わり、仕事をしてお金をもらう喜びは体験できないでしょうし、
お金で苦労している人の気持ちを察することもできないで
「パンが無いならケーキを食べればいいじゃない?」みたいなことを言って
ひんしゅくを買うようなことだってあるかもしれません。

周りの人間関係だって、お金持ちを前提としたものになって
心を許せる友人とか、一人の人間としてだけ見てくれる相手とか
そうした心の交流に飢える可能性だってあります。

お金持ちに生まれたからこその責任や不自由もあるんじゃないでしょうか。

このような「その人の境遇すべてに対する想像」を徹底的に働かせると、
劣等感や嫉妬の対象となっている「一部分のもの」を自分が手に入れるには
とても自分では受け入れ難いような体験をしている可能性に気づきます。

「いやー、その部分だけ見ていたら羨ましいし、劣等感を抱いていたけど、
 そこでまの体験をしないといけないんだったら、うーん…
 チョット厳しいかなぁ…、遠慮しておきます」
といった印象になるかもしれません。

人それぞれの苦しみや気の毒な部分に目を向けて同情するほど、
「あの人には○○があるのに、自分には無い」などと一面だけを見て
一喜一憂するような余裕はなくなってくるものでしょう。

自分を含めた全ての人の「気の毒な部分」を想像する。
その一瞬だけでなく、背景にある全ての影響に想いを巡らし
「それは大変だっただろうなぁ」と感じられるようになれば、
何が良いとか悪いとか判断していられなくなるはずです。

皆、気の毒なんです。
それを存分に想像すると、劣等感や嫉妬だけでなく
多くの悩みが楽になっていくようです。

おしらせ
 ◆ セミナー情報 

New!

《コミュニケーション講座》
 〜人を育てる指導力〜

【日時】 
  2019年6月16日(日)
   10:00〜16:30


【場所】 
  北とぴあ 601会議室

   JR王子駅より2分
   南北線王子駅直結

詳細はこちら>>


《瞑想講座》

【日時】 
  2019年6月22日(土)

  午後の部 13:30〜16:30
  夜間の部 18:00〜21:00

【場所】 
  北とぴあ 第2和室

   JR王子駅より2分
   南北線王子駅直結

詳細はこちら>>


《怒りの取り扱いマニュアル》
 〜期待の手放し方と
  ゆるしの技法〜


【日時】 
  2019年7月6日(土)
     7月7日(日)
   10:00〜18:30


【場所】 
  滝野川会館

   JR上中里駅より7分
   JR駒込駅より10分
   南北線西ヶ原駅より7分

詳細はこちら>>
次回未定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



 ◆ お問い合わせ 
  技術向上、
  コンサルティング、
  スーパーバイズ、
  執筆・講演…

  諸々のお問い合わせはこちらへ>>



ホームページ
バナー1


プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
Archives
最近のコメント
QRコード
QRコード