2014年07月

2014年07月31日

頭を使って考える

最近になって自覚したんですが、
どうやら僕は研究職をしていた頃よりも、考える量が増えているようです。

一日当たりに考えごとをする時間にしても、
セミナーやカウンセリングをしている最中に頭を使うにしても、
本や論文を読みながら考えを整理したり疑問を投げかけたりするにしても、
こうやってブログを含めて何かを書くための作業をするにしても、
様々な場面で考えることをしている気がします。

研究職というと頭を使って、調べ物をして、仮説を立てて実験をして
その検証のために考察をして、結果をまとめて…という具合に
たくさん頭を使いそうな印象があるかもしれませんが、
意外とそういう時間は限られているものです。

特に実験をする人ほど、思いのほか単調な作業も繰り返すんです。

実験の進め方にしたって、仮説検証の進め方にしたって
「こういう内容を確かめるためには、この実験をする」
という方針が、研究分野として固まっていることが多いのも関係します。

それは、その決まったやり方でデータを示している限り、
「そのデータから導き出せる結論」に対して信憑性が高いからだともいえます。

既に確立された方法を使っている限り、調べ方そのものへの理解を省略できる。
話がスムーズに進むわけです。

このあたりは、心理学などでは更に顕著になります。
例えば、「うつ状態」であれば、よく指標とされる問診票などを使えば
うつ状態のレベルを実験的に計測する際の信頼度が上がるとされるわけです。

実際には、皆が使っているからという安心感に近い気もしますが、
何度も統計的に確かめられてきたものだから信頼できる、ということなんでしょう。

実験として結論を導くためには、その調べたい項目を
測定可能なデータにする必要があります。

そこで、問診の集計結果が「うつ状態の度合い」を適切に反映しているか、
キメラマウスを作ったという結果が「細胞の多能性」を適切に表しているか…
といった、論証のための実験結果の妥当性が重要になる。

一度、その分野で「妥当な調べ方」として認められたものは
スムーズに受け入れてもらいやすいので、多くの人が使うようになります。

ですから、測定方法そのものや装置、説明のための論理展開の流れなどは
同じ専門分野においては似通ってくるのでしょう。

そして、サイエンスの大部分は、過去の知見に上乗せする形で進みますから
「これまでにこういうことが分かっています。でも、まだここは不明です。
 だから今回は、こんなことを調べました。」
という議論になりやすいんです。

そのように考えると、新しいことを調べるとは言いながらも、意外と
過去の研究を調べて踏襲したりアレンジしたりすることも多いと思われます。

何より、1つの実験から結果が得られるまでにも時間がかかります。

「こうしたら、こうなるんじゃないか?」というアイデアが生まれて、
それを調べるための実験を計画して、それを実行する。
この流れにおいて実験の方法がよく使うものであれば
考える作業は細かい数値の調整ぐらいに落ち着くこともあります。

むしろ、そこからの実験の準備作業、実際の実験、データの測定、後片付け…
このあたりも手を動かす時間として大きな割合を占めます。

僕のやっていた研究の種類だと、微生物の培養に時間がかかりますから
1つの実験に一週間ぐらいかかることはザラです。

もちろん、研究といっても様々な取り組み方がありますから
実験の予定だけを立てて、実際の作業は別の人がやるところもあります。
大学の先生だと学生に実験をさせて自分は論文を書くなんてこともあるようです。
一方で、大学教授になっても自分で実験をしている人もいます。

取り組み方のスタンスは、環境によって、個人の好みによって様々ですが
研究をやっている人の中には「実験が好き」という理由の人もいますから
もくもくと手を動かしている時間も結構あるものでしょう。

個人的な話としていうと、僕の環境では
実験作業をほぼ全て自分で担当していました。

1つの実験結果が出るのに一定期間がかかる、
実験の準備や管理、測定作業に時間を注ぐ、
ある程度はルーチンの作業で実験を進める、
…こういう事情だったため、正直なところ
考えている量はそれほど多くなかったような印象があるんです。

当然、論文を読んだりすることもありましたし、
結果をまとめて報告書にしたり、プレゼンをしたりもしました。

ただ、調べてまとめるとか、調べたことについて考えを巡らせるとか、
文章を書くとか、内容をまとめて人に伝えるとか、
このあたりの頭脳労働は、最近のほうが遥かに多いと感じています。


しかも、心やコミュニケーションに取り組み始めてからのことを振り返っても
頭を使う量はここ数年のほうが増えている印象がありますし、
頭の使い方の質に関しても、違いが起きている気がします。

この分野に興味を持ち始めた頃は、とにかくインプットに集中していました。
セミナーに参加して、CDやDVDの教材を集めて、本を読んで、という具合。

知識と理論が欲しかったんだと思います。
具体的な方法も知りたかった。

それも、できるだけ効率的に。
なのでお金を投資する形で対応していました。

それから徐々にセミナーに行く頻度が減ってきて、
決まった先生のワークショップにだけ行くようになりました。
何かが固まり始めてきていた時期なんでしょう。

同時に、本については、読む量は変わらなくても
専門的な方向へと質を変えました。
分野としては関連するものを広く維持していましたが、
専門書を読む量が増えたように記憶しています。

この頃は、効果的なワークショップと専門書で
濃密な情報収集をしていた時期なのかもしれません。

セミナーをやっていた頻度も最も高かった頃ですから
実践を通じた経験の量も一気に増えていたと思います。

実体験としての具体的な情報と、
専門書と高度なワークショップによる詳細な理解。
つまり、とにかく詳しく情報の密度を上げていた、ということなんでしょう。

それもある程度まで積み上がってくると、
今度は整理や再構成の時期に移ったようです。

詳しくしてきた情報を関連づけて理解する。
共通する原理と本質的な仕組みを見る。
捉え方が繊細になってきて、精度が上がる感じです。

一度、自分の中で全体像が確立してくると
その後にインプットする情報は、その全体像に関連づける形で理解されます。

何を学ぶにせよ、情報提供側の意図と展開の方向性が読める分、
覚えるのも効果的になったように思います。

そうなると情報収集という印象よりも、チェックしているような感じが出てきて
鵜呑みにするようなインプットは困難になっています。

考察を加えながら、相手の意図と前提にしている発想を想像しつつ、
議論をするようにして本を読んだり話を聞いたりしているみたいです。

この辺りの考察や議論の感じ、
自分の中の理解の全体像と関連づける感じが
おそらく頭を使う印象を高めているのでしょう。


インプットしたことを使うのが好きな人もいれば
インプットしたことを人に伝えるのが好きな人もいます。
他者からのインプットをせずに自分の経験を整理する人もいます。
インプットの体験そのものが楽しいということもあるでしょう。

人それぞれの好みの違いだとは思いますが、
僕のインプットのスタイルは徐々に移り変わってきたようです。

初期にはセミナーや教材にお金をかけて幅広く理論や概要を学び、
それから、その骨格に肉付けをするように
専門書と高度なワークショップで知識を増やしながら実践経験を積む。
そして全ての情報を再構成して統合された全体像に整理しなおす。

その後は、その全体像と関連させたり対比させたりしながら
様々な情報を吟味していくような流れ。

そのため、結果的に頭を使うことが増えてきたんだと思われます。

2014年07月29日

受動的インプット



もうすぐ正式な告知をしますが、8月の講座では、
『グループとのコミュニケーション』をテーマに
会議やファシリテーション、意見交換、プレゼンテーションなどの場面を想定して
効果的なコミュニケーションの手法をトレーニングする予定です。

「どういう伝え方をするか」というよりは、
「どのように情報をキャッチして、どのように対応をしていくか」
といったスタイルを強調しますから、『受け取る技術』が土台になるはずです。

場合によっては、僕が意図していることなんかも解説するかもしれません。
(ご要望があれば、ですが)

人前で話す機会のある人、会議を効果的にしたい人、
セミナーやグループのワークショップなどを行う人など、
「一対多」のコミュニケーションをする方にはオススメです。

濃密なトレーニングになるんじゃないかと想像しています。




Facebook を始めてからそれなりに時間が経ちますが、
様々な情報に対して受動的になっているところは
大きな特徴であると同時に、ストレス要因にもなる印象があります。

誰かが載せた情報は、こちらの選択とは関係なく
自動的に目につくように表示される仕組みになっていますから、
人によっては自分の好みと違うものをインプットさせられて
嫌な思いをすることもあるんじゃないでしょうか。

1つのポイントは画像データに対してだと感じます。

知り合いが何かの意図をもってアップした画像は
半ば強制的に画面上に表示されるわけです。

本人にしてみれば楽しい思い出かもしれないし、
笑える画像なのかもしれないし、
美しいと思える写真なのかもしれないし、
衝撃的だからこそ知らせたい映像なのかもしれません。

しかし、適当に画面をスクロールしていて
突然目に入った場合にギョッとするものもあるようです。

そこが自分で情報を検索するタイプのネット上の情報収集や、
文字情報からリンク先に詳細を調べに行くタイプのニュースサイトなどと
Facebook などのSNSが違うところのように感じます。

つまり、ワンクッションが入らないんです。
テレビのニュースでも、バラエティ番組でも、大抵の場合は
簡単な予告が入ってから衝撃的な映像へと画面が切り替わります。

ネット上のニュース記事でも、ダイジェストのようなタイトルから
リンク先をクリックすると画像つきの詳しい話が紹介されます。

ある程度、心の準備をする時間があるわけです。
見たくなかったら見ないようにするためのステップが入るともいえます。

そのニュースや画像の内容がどうだという話ではなく、
どういう意見を持っているかという話でもなく、
ただの衝撃度、驚きの度合いとしての話です。

大げさにいうと、何気なくテレビや動画でホームビデオの一場面を見ていたら
ワンシーンだけ、ホラー映画の映像が紛れ込むような感じ。

少なくともビックリする度合いは大きいでしょう。

例えば、もし鳥が苦手な人がいて、その人の知り合いが
鳥の写真をカワイイものとして載せたとしたら、
ウッカリそれを見てしまったときには衝撃が大きい、といったことです。

僕の場合、蓮の実が苦手なので、写真でも見たくないところがあります。
ですが、蓮の花は好きな人が多いようなんです。

そして一輪の蓮の花の写真ではなく、
蓮の好きな人が外で撮ってきた蓮の花畑の写真となると
まぁ、ほぼ確実に画面上には蓮の実も写りこんでいます。

これに対して身を守る手段がないんです、Facebook では。

いつもそのような可能性に注意しながら…というのであれば
その警戒心とともにやること自体がストレスフルになってしまいます。

かといって、それを「やめてください」と伝えるのも悩ましいところ。
その人にとっては素敵な画像として載せたものでしょうから。

同様に、衝撃的な映像についても、
他の人にも見てもらいたいという想いがあって載せているのでしょうから
それを止めるように主張するのは難しそうな気がします。

嫌だと主張するのはできたとしても、やめるかどうかは相手次第ですし、
嫌だと主張でもしようものなら、その主張に対して反論する人もいるでしょう。

システムとして、画像や書き込まれた文章の内容が全体として表示されず
タイトルしか表示されないようにでもなっていれば、
見るかどうかは見る側が選べるようになるかもしれませんが、
そうなると多分、画面そのものが味気なくなって人気も下がると思われます。


画像のことだけでなく、おそらく他の人が書いている内容や
シェアしている内容についても、嫌な思いを感じている人は
少なくないのだろうと想像されます。

実際、僕が両極端の意見を目にすることがありますから。

啓蒙のニュアンスの人もいれば、
自分の好きなことを載せている人もいるでしょうが、
明らかに相いれなそうな考えが、あちこちで表現されています。

当然ですが、人の好みや意見は異なっているものですし、
ある面では想いを共有する人たちでも、別の側面ではそうでないこともある。

知り合った場面では、その人の主義や考えまでは見えておらず
Facebook などのSNSで繋がってみて初めて見てくることもあるでしょうし、
知り合った時とはお互いの発想が変わっていくことだって自然なことです。

そうした違いを知るための手段としては「勉強になる」ともいえますが、
必ずしも気楽に遊べるものではないような印象を受けます。

相手を知らなければ気軽に発してしまえる一言も、
その人の主義や過去の経験を知ればこそ控えたくなることもあるものです。

まぁ、セミナーなんかをやっていれば、何を話題に上げるかは
その場にいる人たちに合わせるわけですから、
それとは大きく変わらないとも言えるんですけれど。

2014年07月27日

おかげさまで

そういえば僕の中には、ずっと印象に残っていることがありました。

もう何年も前のことですが、あるワークショップに参加していたとき
その先生が言ったことです。

僕がカウンセリングの原則を教わった先生。
ですが、そのワークショップはカウンセリング技術を学ぶためのものではなく
個人の内面的課題を解消する目的のもののときの話です。

そこでは皆がそれぞれ自分の問題と向き合います。
色々なワークをして問題を取り扱う。
心理療法を受けている感じです。

で、何かのタイミングでその先生が言ったんです。

「たまに、こういうワークショップに参加している人の中に
 『このワークショップのおかげで人生が変わりました』
 といったことを言う方がいます。

 ですが、私はそれを少し残念だと感じます。

 もちろん、問題が解決したのですからそれは結構なことですが、
 できることなら、人生の重要な出来事は、ご家族とか
 大切な人たちとの関わりの中であって欲しいと思います。」

…そんな趣旨のことです。


僕はその考えに共鳴するところがあって
プロとしての自分の取り組み方にも工夫をしてきたつもりです。

だからといって、その言葉を表面上そのままの意味で
賛同しているのでもありません。

家族との関係で苦しんでいる人もいれば、
その関係をどうにもできない人もいるかもしれません。

例えば、本当にどこにも頼るすべがなく、音楽だけが心の支えだった
…というような人もいます。

そして自分でも音楽を始め、ミュージシャンを目指す、なんて人もいるようです。

自己啓発の本に救われた、コーチングをやって変わった、
NLPのおかげで楽になれた、○○先生の教えに癒された…
のような経験もまた、「音楽に救われた」ということと近いと感じます。

コーチングに救われたから自分もコーチとして独立しました、といったことも
副業でコーチングをやっています、といったことも、
インディーズでミュージシャンとして活動していますとか
週末だけ仲間内でバンド活動をやっていますとかいったことと
共通するのだろう、と。

若いころ音楽だけが救いだった人がミュージシャンを目指しても
必ずしもプロのミュージシャンとして活躍しないことがある
というのは仕方のないことでしょう。

それでも前に進んで、そしてどこかで再び転機が訪れる。
今度は尊敬できる誰かとの出会いかもしれないし、
心の底から触れ合える大切な人との出会いかもしれません。

いつか大事な人との関わりが経験されるんじゃないか。
そういうことがあるものだろうと期待したくなります。


NLPやカウンセリング、コーチングを通じて過去や現在の人間関係と向き合い、
そのかけがえのない意味に気づく人は大勢います。

目標に向かって頑張るのも素晴らしいでしょうが、
過去に目を向けるのは必ずしもアラ探しではないんです。

過去に問題の原因を探し、それを責め立てるのではなく、
もう一度あらためて過去の経験を丁寧に見つめなおし
自分自身の心の傷のケアをしていくと、過去の価値が見つかることがあります。

今の苦しい自分を支えてくれる周りの人たちに気づくこともあります。

その先生が言っていたのは、そういうことなんじゃないかと感じます。

もちろん、決してそれを強制することはありませんが
きっとそういうときが来るものだと思っているのかもしれません。


セミナーやワークショップがキッカケになることはあっても
本当に人を支えているのは、他の人との関わりなのではないか。

そして、そうした人たちの存在に気づいたとき、人生の重要なイベントは
その人たちとの時間の中に生まれるのではないか。

セミナーやワークショップそのものが人生で重要な出来事なのではなく、
その前にあった出来事の大切さに気づくキッカケとなったり
これから先にやってくる本当に大事な出来事へのステップとなったりすれば、
それがセミナーやワークショップの意義なのではないか。

技術の向上や変化のキッカケとして役立つものが得られても、
それを活かした結果として自覚される人生の重要な出来事は
セミナーやワークショップとは別の時間の中にあるものではないか。

先生の真意は分かりませんが、少なくとも僕はそのように理解しています。


音楽によって救われた人がいるのと同様に
コーチングやNLPで人生が変わったという人がいても
不思議ではないと僕は考えます。

が、それでも人が変わるのは、人によってだろうと感じています。
多くの人と関わってみての実感として。

それは奇しくも、僕が教わってきた先生方が口にしていたことと似ています。

僕がやっているのも、人と人との関わりに目を向けるサポートのような気がします。
内容そのものよりも、そっちが優先。

おそらく、僕がNLPやコーチング、カウンセリング、○○セラピーなどの手法に対して
全幅の想いを寄せられないのは、その辺りの観点が関係していると思えます。

僕は方法を探究し続けるほうではないみたいです。
僕が見ているのは人そのもののほうなんでしょう。

2014年07月24日

平等に不公平

平等とか公平という考え方は
どこを基準にするのかによって、答えが変わるような気がします。

コミュニケーションにおける平等や公平は
それぞれがコミュニケーションに求めるものが異なるため
分かりやすく平等にすることが難しいように思います。

例えば、セミナーのような形式であれば
 同じ内容を同じように発信していく
と、全ての受講者に平等な機会を提供できそうです。

ところが実際には、座る場所によって見やすさや聞きやすさが違うし、
人によってセミナー会場までの通いやすさも違います。

そこまで考えれば、最初からセミナーではなくて
動画を撮って、それを発信すればいいことになってしまいます。
そのほうがずっと平等になる可能性が高いでしょう。

内容だって全員が同じものを聞くことになりますから
「あの回に話したエピソードが良かった」といった不平等もなくなります。

それでも人はセミナーのほうに価値を置くことが多い。
求める側も提供される情報だけに注目しているのではないように感じます。

仮に後からDVDとして発売される予定のセミナーであっても
ただ早く知りたいからというだけの理由ではなく、
セミナーに直接参加することで得られるものを期待しているはずです。

そこには、その場の雰囲気だとか、生のコミュニケーションとして
インパクトの強い体験が求められているのかもしれません。

つまり、言葉で伝えられる情報の中身だけが目的ではなく、
もっとそこで自分の役に立つ体験をしたい、ということではないでしょうか。

人によってバックグラウンドが違いますし、言葉の使い方だって違います。
講師と受講者との相性だって出るものです。

講師と相性の良い人のほうが、贔屓されているようなものともいえます。
その人にとって分かりやすく説明してもらっているわけですから。

「あの人にばかり分かりやすく話していてズルイ!
 もっと私にも分かりやすい話をしてください。」
なんていう不満が出ても不思議ではないはずなんです。

でも実際には、そう思われないものなんです。

なぜなら、多くの人は、
 説明する側は伝え方を工夫して、誰かに合わせた話し方に調整できる
とは思っていないから。

その講師には、その人のやり方があって、それは変えられるものではない、と。
そんな想定を自然としているのでしょう。

当然のことです。
大抵の人は日常的に、自分の話し方でコミュニケーションをとります。
人に合わせて態度を変える人はいても、伝え方を細かく変える人は少ない。

八方美人だといっても、相手を知るほどに合わせるようになるものでしょうから
当然、手探りの時期では、「普段通りの手探り」から始めるわけです。

そういう人ばかりを見ているし、
自分だって人に合わせて表現の仕方を変えることなんて滅多にしない。

となれば、
 セミナー講師が、意図的に誰かに合わせた伝え方をしている
という想定はしないと考えられます。

その代わり、特定の誰かの質問に答える時間が長いとか、
ある人ばかりが高頻度で発言しているだとか、
そういった「時間」に関してはコントロールできると思いがちなようです。

確かに、それは選べばいいだけのことに見えますから。

時間という観点で全員に平等なコミュニケーションを取ることもできます。
それを大切にする人も大勢いると思います。

一方で、同じ説明をしたときに、伝わりやすさには個人差がありますから
伝え方と聞き方の相性だけのことによって、短い説明で理解する人もいれば
逆に、理解するのに詳しい話が必要になる人もいます。

それは言葉の使い方の特徴とか、説明の順序の問題だとか、
使っている例の身近さだとか、周辺知識の量だとかによって異なります。

このあたりは、ただの個人差なんです。

分子生物学の専門的な話となると、専門家であれば短時間で会話が進むけれど
同じ内容を料理の専門家に話すとなると伝え方の工夫が異なる、
といったようなことです。

また、「理解した」という判断の出し方にしても個人差があります。
「なんとなくこんな感じか」という段階で先に進もうとする人もいれば
細部まで覚えながら進みたい人もいます。

日常で役に立つレベルの情報が得られれば満足という人もいれば
チョット興味があっただけだから、雰囲気さえ知れれば良いという人も、
逆に専門的なレベルで詳しく知りたい人もいる。

どれぐらいの説明を期待するかは、聞き手によって差があるわけです。

全員が同じような納得度になるように伝え方を工夫したら、
話題の選び方とか言葉の選び方とか話の組み立て方などの点で
全く平等な方法ではなくなります。

納得度という観点での『平等』を求めた場合には
時間や説明の仕方などの観点では不平等になってしまう、ということです。


もっというなら、情報提供だけを目的としたセミナーではなく
体験型のワークショップということになると、
全体として期待されるものは更に多様になります。

技術的な上達、自らの気づき、内面的な問題の解決、心理的負担の軽減…
様々な要素が絡んできます。

それぞれの要素の必要性にも個人差がありますし、
セミナーを受ける目的として、どこを重視しているかも違います。

だからこそ、どうやったって平等な結果は得られにくいと思われます。

でも、ある程度の基準として、
「これぐらいの心理状態になると日常が楽になる」
というところもあるようなんです。

そこを平等に目指すとしたら、人それぞれ、必要なものが異なってきます。
そのためのコミュニケーションは量も質もバラバラになる。

はたから見れば不公平で不平等に見えることでしょう。
えこ贔屓しているようにも見えるかもしれません。

ただ、それは見方を変えると
「必要そうな内容の個人差に対して、平等に個別の対応をしている」
とも言えるはずです。

全員を違ったやり方で贔屓している。
その意味では平等かもしれません。

平等に不平等なんです。
平等に個別対応する、という種類の公平さもあるんじゃないでしょうか。

2014年07月23日

酒文化

珍しく二日続けて飲み会となりました。

一方は普通のもの。

もう一方は、受けていた講座の後の懇親会。
参加メンバーの7割は欧米人でした。

場所を選んだのがオーストラリア出身の人だったこと、
麻布近辺で外国人が多い土地柄だということもあって、
居酒屋というよりはバーに近いビア・レストランでの飲み会。

もちろん日本人の集団もいましたが、
他にも大勢の外国人がいました。

なんとも異国情緒たっぷりの飲み会。


で、欧米人というとオープンな印象がありますが、
飲み会ではむしろ静かな雰囲気だったんです。
どのテーブルも。

一方、日本人グループはもう大騒ぎ。
賑やかなものです。

どこの居酒屋でもそうですが、
日本人にとっての飲み会は日常から離れて
日頃抑え込んでいたものを発散させるような印象を受けます。

もしかすると、
欧米人にとっての居酒屋はパブリックな空間で
日本人にとっての居酒屋はよりプライベートに近い
「無礼講」の場所なのかもしれません。

確かに日本では路上でも飲酒が禁止されていないのに対して
外国の多くでは路上で飲酒は禁じられているそうです。

だからこそ、店の中とはいえ依然として公共の場であって
他者への気遣いを忘れないようなところがあるのかと思います。

店内の他のお客さんに話しかけて一緒に飲んだりするのも
欧米文化の社交スタイルの延長と考えると
あまり大騒ぎをしない大人の交流として納得できそうです。

欧米でも若者のホームパーティーとなれば違うでしょうが、
店での飲酒をどう捉えるかには
かなりな文化の違いがあるように感じました。

2014年07月21日

ネットにはない違う魅力

久しぶりに本屋に行きました。

少し立ち寄ることはあっても、じっくりと見て回ることが少なかったので
普段だったら気にしないような本も手にとって眺めることができました。

こうやって沢山の種類を見て回るには、ジュンク堂池袋店がお気に入りです。
在庫の数もそうですし、本が見やすい印象があります。

なかなかマニアックな本も置かれていたり、
売れているだけの本を並べようというスタンスじゃないというか、
書店員さんのコダワリが感じられるようです。

しかも、あれだけ多くの人が手にとって眺めているはずなのに
大抵の本が綺麗な状態で維持されているのも驚きです。
取りやすさや棚の整理などにも力を入れているのかもしれません。


新宿のブックファーストも洗練された雰囲気やお得なシステムなど
色々と魅力があって良く立ち寄る書店の1つ。

こちらは語学関係の本を買うときに、よく利用している気がします。
雑誌類のバックナンバーなども見やすい感じがします。

新宿では紀伊国屋にも行きますが、こっちは随分と落ち着いた雰囲気。
ジュンク堂では人の動きに目が行きがちですし、
ブックファースト新宿店では少しオシャレな内装や音楽のせいか
「のんびり」という感じとはチョット違うようなんです。

じっくりと時間をかけて本屋の中を歩いたり、
少し長めに立ち読みしながら本を選んだりするのには
なんとなく紀伊国屋本店が相性が良いように感じます。

おそらく、客層の影響なんかもあるのでしょう。
同じ新宿でもブックファーストと紀伊国屋では
年齢層や服装の傾向なども違いを感じますから。

近い場所では池袋リブロも利用します。
こちらは立地が便利なのと、フロアによって狙いが分かれている感じが
利用する側としてはありがたいところ。

とりわけ語学・参考書のフロアは使いやすい気がします。
ビジネス書や新刊、雑誌などを扱うあたりは
池袋駅の地下や西武百貨店と直結しているせいもあって人の流れが多い。

ちょっと移動の途中に目ぼしいものを探す、なんていうのに便利で
別フロアの語学・参考書などは、かなり落ち着いて集中しながら選べます。

すぐ近くにジュンク堂があるのに、意外と在庫が重ならなかったりして
語学のトレーニング系の本を選ぶときに足を運んでいます。


どこに行っても共通しているのは、かなり人が多いということ。

特に池袋ジュンク堂は清算が各階ではなく、一階に集中していることもあり
休日なんかだとレジ街の行列がスゴイことになっています。

もちろん、レジの数も多いので回転が速くて待ち時間は短いですが
あれだけの行列を見ると、本の人気を感じます。

インターネットの影響や景気の影響もあって
本が売れない時代になったとか、ネット書店に押されているとか
色々な話も耳にしますが、いやいや、本が好きな人は
やっぱり書店にも足を運ぶようです。

書店で本を買う時には、ワンクリックで済んでしまうのと違って
選ぶまでのプロセスで、既に多くの体験が起きています。

立ち読みをして良さそうだなって感じるまでにも少し読んでいるわけです。

仮に「積ん読」になっているとしても、書店に足を運んで選んだ本は
段ボールで送られてきて、そのまま開封もされていないのとは
意味が違うだろうと思います。


ちなみに、こちら↓が最近買った本です。
物理の話。
ワープする宇宙―5次元時空の謎を解く
リサ・ランドール
NHK出版
2007-06-28



2014年07月18日

フォーマル・パワーとパーソナル・パワー

「コーチングとかNLPとかをやって
 会社の人間関係の悩みがなくなった」
という話がよく聞かれます。

もちろん、学んだ技術を活用して問題が解決されることもあるでしょうが、
それ以上に多いのは、『力関係』が変わるところにあるようです。


ここでいう『力関係』とは影響力の強さのようなものです。

人間関係において自分の思い通りに物事が進みやすい度合い。
頼みごとをしたら受け入れてもらえるとか、
指示に対して素直に従ってもらえるとか。

『力関係』には大きく2種類のカテゴリーがあるとされます。

1つは、形式的な影響力。
フォーマル・パワーです。

もう1つは、個人的な影響力。
つまり、パーソナル・パワー。


フォーマル・パワーとは、立場を通した影響力です。
代表例は、権威でしょう。

上司の言うことだから、
目上の人のいうことだから、
先生のいうことだから…といった感じ。

実際にその人の指示や依頼に従うか従わないかで
どのような結果になるかは考慮せずに、
ただ「上司だから」、「先生だから」という判断の場合。

当然、過去に学んできたこととして
同様の立場の人の言うことを聞く必要性を知っているから、
ただ立場がそうであるというだけの理由で従うわけです。

それでも、実際に従ったらどうなるか、従わないとどうなるか
については予想の範囲であるというのがポイントになります。

一方、ハッキリと「従わないと、こういう罰則がある」とか
「依頼を受けてくれたら、こういうメリットがある」とかいった場合もあります。

社会や組織のルールは「従わないと罰がある」というタイプですし、
仕事をすると給料がもらえるのは「従った場合のメリット」だといえます。

例えば、
 この上司からの依頼は自分の仕事の範囲ではないから
 規則として従わないと罰則を受けるわけでもないし、
 従ったからといって特別なボーナスがあるわけでもない…
 にもかかわらず、断ったら上司に悪い印象を与えて
 のちのちメンドクサイことになりそうだ
といったケースは、
罰や報酬とは無関係の、権威やポジション・パワーだということになります。

まぁ、細かい区別はおいておくとしても
 形式上の関係性として、影響力が強い場合がある
といった話です。

関係性の中で、一方が強い影響力を持っていて
相手をコントロールできてしまう。
その理由が、罰や報酬、権威などで形式的に与えられていると
フォーマル・パワーと呼ばれます。


もう一方のパーソナル・パワーは、個人としての影響力のことです。
立場とは無関係に、能力や人柄などで影響力を持つ場合。

専門性、知識、スキルなどが高いと、それだけでも他者から頼られるものです。
形式上は同じ立場でも、スキルが高い人のほうが影響力も高い。
尊敬や頼りになる度合いとして影響力が生まれるわけです。

例えば、社内の会議で意見をいう場合に
専門性や知識、能力で認められている人のほうが意見が尊重されやすいとか、
同僚に頼みごとをしたときに素直に受け入れてもらえるとか、
上司に対して意見をいっても聞き入れてもらいやすいとか、
上司の指示を断っても大丈夫だとか…、
そういったケースが、専門性というパーソナル・パワーを発揮しているときです。

同様に、人柄として好かれているとか、仲が良いからとか、
共通の知り合いがいるとか、偉い人と知り合いだとか、
そのような人間関係での繋がりとして、影響力を持つ場合もあります。

典型的な例は、
タバコを吸う人が喫煙所で会社の重役と頻繁に顔を合わせて仲良くなって
気軽に会話ができるようになってくると、
タバコを吸わない同僚から一目置かれるようになる、というものでしょう。

あるいは社内のゴルフコンペに参加して社長と仲良くなって、
それから頻繁にゴルフに誘ってもらえるようになった…
のような場合も、人間関係の繋がりで影響力が高まる場合だといえます。

もちろん、仲の良い人からの頼みごとだから断れないとか
この人はいつも堂々としていて凄そうだから従っておこうとするとかも同様です。


コーチングなどをやる1つのメリットは、この専門性やスキルの向上を通じて
パーソナル・パワーが上がるところにあります。

あの人は、そういう技能を持っている。
そういう認識で、組織内の影響力が上がるんです。

学んだ技術をコミュニケーションに活かせれば、
その専門性はさらに周りから評価されるようになりますから
パーソナル・パワーはより高まるでしょう。

そしてもう1つ大きな要素として挙げられるのが、
NLPやらコーチングやらを学んだという自信です。

振る舞いに自信が出てくるんです。
その雰囲気だけで周りの人は、相応の対応をします。

「なんかこの人は違うぞ」と感じさせられる。
堂々としているとか、存在感があるとか、
そういうレベルでも影響力が上がるわけです。

つまり、技術を活用してコミュニケーションがスムーズになるだけでなく、
実際には、技術を学んだ人特有の振る舞いが、専門性や自信を通じて
パーソナル・パワーを高めていることが想定される、ということです。

そのパーソナル・パワーの高さで組織内での影響力が上がる。
だから自分の依頼や主張が通りやすくなる。
上司もフォーマル・パワーで言うことをきかせられなくなる。

周りが自分の思い通りに動いてくれるような影響力を持ち始めるんです。
思い通りにならなくて嫌な思いをする機会が減ります。

コーチングやNLPを学んで会社での人間関係の悩みが減った…
という場合には、こういう可能性もあるでしょう。

技術を学ぶメリットは、技術そのものを使いこなす部分だけではないんです。
技術が生きるかどうかとは関係ないところでも、
技術を身につけたということが役に立つ場合が多いものなんです。

2014年07月16日

パートは役に立ちます

先日、質問を受けました。

NLPをカウンセリングとかコーチングとか、他者のサポートとして使う場合ではなく
自分のために使うとしたら、どのスキルが一番有効ですか?

もちろん、それは目的によりますが
最終的には『パート』ということになると思います。

アンカーやサブモダリティはプログラムを形作るものとして必要ですが、
プログラムを変える方法は、大きく分けると
・リフレーミングする
・アンカーを繋ぎかえる
の2種類だといえます。

プログラムを変える方法を細かく見ていくと、
構成要素としてのアンカーとサブモダリティが重要になりますが、
そのレベルまで詳しく理解しなくてもプログラムは変えられます。

発酵のメカニズムを生化学のレベルで理解していなくても
家庭で味噌を作れるのと似ています。

人の心というものを詳しく理解したいのだとしたら
サブモダリティやアンカーのレベルで注目する必要があるものの、
自分のプログラムを変える目的であれば、そこまで詳しい理解は必要ありません。

プログラムが変わるときには、
.螢侫譟璽潺鵐亜弔弔泙衒事の受け取り方を変える
か、
▲▲鵐ーを繋ぎかえる…つまり自動的な反応を減らしてコントロールしていく
か、
いずれかが原則となります。

▲▲鵐ーを繋ぎかえる、に関しては
自動的な反応が起こったときに自覚して、
心と体を落ち着けるようにすることで
徐々に反応を小さくしていくことができます。

結果として選択肢を広げることができる。
ワンパターンの自動反応ではなくなるんです。

NLPのスキルには、このアンカーの繋ぎ換えを
スピーディーかつ強力に行えるものがありますが、それは言ってみれば、
それだけ頑固な自動反応(恐怖症とか)に有効だということです。
(当然、マイルドなケースにも効果を発揮します)

日常的でマイルドな自動反応であれば、そこまでしなくても
自動的な反応にスイッチが入った瞬間に止める努力をするだけで
充分にプログラムを変えていくことができます。

また.螢侫譟璽潺鵐阿砲弔い討蓮
意図的に物事の受け取り方を変えることもできますが、
実際のリフレーミングはもっと自然な形で起きています。

リフレーミングの作業で変える(変わる)「フレーム」とは
出来事に対して注目するときに重視する部分だといえます。

均等に物事を捉えていないんです。
過去の経験から大事だった部分ばかりに注目する。

だから好きなものには目を奪われるし、
嫌なものほど凝視してしまうし、
苦手な人や態度などが気になってしまうんです。

好きでも嫌いでも、強調して注目しているわけです。

一方、どうでもいいものは注目さえしていません。
サラッと流れるものでしょう。

リフレーミングの結果として、苦手なものを好きにすることも可能ですが、
「どうでもよくなる」ことも重要なんです。

今までの自分の価値基準から「嫌だった」ものが、受け取り方が変わって
「良い面」にも気づけるようになる。

すると「良い」とも「悪い」とも判断できなくなる。
どっちでもよくなるんです。

この状態が「執着がない」ということ。

リフレーミングが進むと、物事への良し悪しの価値判断が減っていって
苦手意識や過剰な好みなどの執着が減ります。


ここでパートが役立つんです。

NLPにおける「パート」とは、プログラムそのもののことです。
もう少し擬人化して、自分のプログラムを自覚しやすくする手法ともいえます。

とにかく自分の持っているプログラムを意識に上げる。
アンカーが発火するタイミングに注意を向けます。

ここでプログラムに気づけるだけでも反応を変える効果はあるわけですが、
さらにパートとしてプログラムに集中することによって
その反応の結果として予測・期待していることを自覚できます。

NLPでは「肯定的意図」と呼ぶものです。

プログラムができたとき、つまり学習が定着した段階は
多くの場合、幼少期であるものです。

幼少期にあまり賢明ではないやり方で工夫して対応したんです。
何か望ましい結果を期待しながら。

大人になって考えれば、もっと効果的な方法で
その望ましい結果に向けて工夫をすることも思いつきますが、
幼少期の選択としては精一杯のやり方をやったのでしょう。

期待した通りの結果になったこともあるでしょうし、
裏目に出て苦しい気分を味わったこともあるはずです。
いずれにしても、感情が大きく動けば、そのパターンが学習されます。

「こういう状況では、こういう反応をする。
 (そうすれば、きっとこのような結果が得られるだろうからと期待して)」
…といった一連の流れが記憶に残ります。

元々の期待が「良かれと思って」という『意図』だといえます。
その意図は肯定的なものだった。
必ずしも期待した通りにならないわけですが。

それでもとにかく「こういう状況では、こういう反応をする」というパターンが
アンカーとして学習されることになります。
そして多くの場合、意図していたこと(つまり期待していた結果)は
意識から外れますから、徐々に意識に上がらなくなっていきます。

同じような反応は繰り返されて自動化されていくのに対して、
肯定的だったはずの意図は意識から遠ざかっていくんです。

この自動反応の先にあった元々の肯定的意図を自覚できると
何よりもまず気が楽になります。

意識の範囲の外にあった自動反応から、意識の範疇へと戻ってくるんです。

そして自分が期待していたこと、つまり肯定的意図を自覚できると
その意図を満たすように日々を工夫することもできます。
同じ意図を満たすために、自動反応に頼らなくても良いんです。

多くの場合、自分が大切にしたかった意図に気づけることで
そのことの大切さをしみじみと感じて心が満たされる。
そして、日々の生活でそれを自然と大切にし始めるんです。

それまでは自動反応を利用して必死で満たしていた肯定的意図が
日常の様々な場面で満たせるようになっていくと、
その自動反応の必要性が落ちて、反応の強烈さが下がるようです。

今までのような自動反応が小さくなるから、
そもそも問題だと捉える程度も下がります。
だんだんと気にならなくなるんです。

自然と起きてしまう反応について気にしなくなっているわけですから、
当然、その反応を引き起こす対象(引き金)についても
あまり注目しなくて良くなっていきます。

今まで問題と捉えていた反応を起こすキッカケだった対象が
もうあまり問題の反応を起こさなくなったとなると
その対象が「どうでもいい」と思えてくる。
執着がなくなっていくんです。

執着がない、つまり過剰に気にするようなフレームを使わなくなって
リフレーミングのような効果も起きることになります。

それで余計に、それまでの問題だった反応が弱まるんです。

アンカーも弱まり、リフレーミングも同時に加わって
自然と問題だったはずの反応が弱まっていくわけです。

ゼロになるかは分かりませんが、自分で気にならない程度にはなりますし
他の対応を工夫する余裕だって生まれてくるでしょう。

ですから、パートとして自分の変えたいプログラムに注目して
その肯定的意図を見つける作業をするだけでも、
かなりの場合、問題がなくなっていくものなんです。


ということで、
 パートとしてプログラムを自覚して、肯定的意図を把握する作業
が、
「プログラムを変える」目的でも効果的なんですが、
他にももっと重要な意味合いがあります。

パートの肯定的意図こそが、自分の求めているものなのにもかかわらず、
大抵の人は、それを自覚しないまま自動反応で意図を満たそうとします。
そして空回りして、望ましい結果が得られずにガッカリする。

本当に自分の求めていること、つまり肯定的意図が自覚できれば、
それを相手に伝わりやすい形でストレートに言語化すれば良いんです。

そういう工夫ができるようになります。

これを自分のあらゆるプログラムに対してやっていくと
自分の一挙一動の意図を自覚できるようになります。
自分が何を望んでいるかに気づけるようになるんです。

あとはその望んでいるものを得るために何をするか?という話。

ここでも様々なプログラムが働きます。
「こういうことを言ったら、こんな結果になってしまうんじゃないか?」
といった心配が思い浮かべば、そこにも肯定的意図があります。

「自分の個人的な期待はこうだけど、
 相手にも相手自身の気持ちを大切にしてもらいたい」
なんていう想いもあるかもしれません。

自分が何をするか?を決めるとき、
そこでは沢山のプログラムが同時に作動します。

沢山のパートが動いているともいえます。

そこで全てのパートを意識に上げる。
そしてそれぞれの肯定的意図を把握する。

自分の中の全てのパートの意見を汲み上げるんです。

そして最も後悔のない選択をする。

つまるところ、ここに行きつくものでしょう。

選択の結果が良かったかどうかは、いつまで経っても結論を出せません。
まさに「人間万事、塞翁が馬」というヤツです。

その意味では、最善の選択とは後悔しないものだといえそうです。

後悔しない選択のコツは、自分に嘘をつかないことじゃないでしょうか。
自分の気持ちを誤魔化したり、押し殺したりすると、
あとからその抑え込んだ部分が意識に上がってきます。
「やっぱり、あれが気になっていたんだ…」と。

その点、全ての気持ちを意識に上げて納得の結論を出せれば
少なくとも結果に対しては「仕方ない」と受け入れられるはずです。

何が望ましいかは言えないとしても、
後悔の無いように納得した選択をすることはできる。

そのために役立つのが、自分の中の全てのプログラムを意識に上げて
それぞれのプログラムと結びついた肯定的意図を把握することです。

言い換えれば、関わるパートを全て自覚して、
それぞれの意図・考えに耳を傾ける、ということです。

そうすると、自分の中にある想いを全て自覚した上で決定をくだせます。

「自分のためにNLPを使う」ということであれば、
ここが最も本質的なところになるのではないかと思います。

ひいては、自分の人生を受け入れる、ということへ繋がるでしょうから。

cozyharada at 23:02|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | NLPの基本情報

2014年07月14日

ポジティブな組織

日本ではあまりポジティブ心理学は紹介されていないようですが
一般論としての応用を考えると、かなり役に立つだろうと思います。

特に、会社や組織などの集団に対して適用する場合には
ビジネスの分野で一般的に紹介されるツールよりも
望ましい結果を生み出しやすいことも多いように見受けられます。

実際、ポジティブ組織心理学の研究結果としても、
ロジカルシンキング、問題解決、トップダウン型マネジメントなどと比べ
高い成果を示すことも多いそうです。

心理学は統計的に議論する性質がありますから
一般論として集団を相手にするには都合が良いわけです。

個人への応用を期待したポジティブ心理学の内容も
世間に向けた啓発としては一般化された傾向がヒントになりますが、
目の前の個人へのアプローチを想定した場合には
個人差の影響まで考慮できるほうが役に立つことも多いと思います。

ある程度、心やコミュニケーションに向き合ってきた人に対しては
一般化された知見が当てはまらなくなってしまう場合も見受けられます。

一方、組織という集団を一括して対象とするときには
個人差に目を向けた方法よりも効率が良い場合もあるようです。

多少の効果のバラつきが個人差によって起きるとしても、全体としては
かける労力と得られる成果とのバランスとして効率的だといえそうです。

とりわけ、一般的な会社組織の大部分の人たちは、
一人一人の違いを細かく理解しようとしたり
人の心の機微を繊細に捉えて、最善の関わりをしようと努力をしたり
一挙手一投足が相手の人生に与える影響まで考慮しようとしたり…
といったことまでは心がけないものでしょう。

相手の気持ちを汲み取るためにコミュニケーション技術を磨いたり、
全ての人間関係に全力を注いだりするのは、ごく少数派です。

自分の心を理解しようとすることだって、
自分の内面的な問題を解決しようとすることだって、
世間一般からすると少数派のほうに含まれます。

そういう努力をする人たちにとっては、
様々な役に立つツールが世の中に存在しています。

いわば個人と丁寧に向き合う手法ですから、
個人差を含めて一人一人を別個に扱えるといえます。

ですが、それには労力が必要です。
時間と継続的な努力が求められます。
興味を持てるかどうかも重要です。

その点、組織心理学は一人一人を細かく理解しようとする努力が少なくても
研究によって得られた一般論としての知見を応用することで
ある程度の成果が期待できるんです。

組織の規模が大きい場合、短期的に変化を求められる場合には、
全体を一気に扱える方法は、かなり役に立つのではないでしょうか。

付け加えるなら、ポジティブ組織心理学を元に開発されたツールが
組織のメンバー全体へ影響を与えながら、かつ
メンバーそれぞれの自発性を引き出せるのは、大きな魅力だと考えられます。

リーダーがポジティブ心理学を学んで、その知見を応用して
組織を改善したり、問題を解決したり、目標を達成したりする方法を
一人で自ら考える、というのとは違うんです。

むしろリーダーは、「組織がポジティブになるための方法」を導入して
各メンバーに方法を考え出してもらい、実践までやってもらう。

ある意味では、リーダーが解決の努力から離れることで
メンバーが自発的に工夫をして、パフォーマンスを高めてくれる、
という方法だといえそうです。

カリスマ的なワンマン経営者が評価される風潮では
リーダーにとって物足りないやり方だと思われますから、
受け入れられにくいところもあるかもしれません。

それでも有効な方法の1つになるような気がします。

2014年07月12日

楽しい話

「人と話をするのが楽しい」というのは、どういう体験なんでしょうか?

僕にもそういうときはあります。
以前と比べると随分減っていますが、それでもあります。

言い換えると、楽しいときと、そうでないときとがある、ということです。


1つには「気を遣う度合い」があるような気がします。
気を遣う量が多いと、心労がかかるのかもしれません。

それは頭を使うこととは関係ないんです。
頭を使うのはむしろ楽しい部類。

ああだ、こうだと考えを巡らせる材料が多いのは
話をしていて楽しいときによく体験することです。

それを考慮すると、似たようなテーマ、関心が共通するテーマについて
色々と話をしながら考えを巡らせられると楽しいともいえそうです。

また、気を遣う度合いが関係するのは
相手との距離感を思い返しても納得できるところです。

やはり馴染みの度合いによって気を遣う程度は変わります。

距離感が近い関係ほど、気を遣わずに話せることが増えそうです。
相手の考えについても情報が増えていますから
どういう話をして大丈夫かの線引きも分かってきているんでしょう。

だから言葉を発するときの気遣いの程度が下がるんだと思われます。


何より、「距離感が近い」というのは、相手への関心の程度とも関係します。
僕が相手に対して関心を持っている。

相手に興味があるので、相手の近況を聞こうとすることもあります。
その人が頑張っている様子を聞くのも楽しい時間の1つのようです。

ただし、相手に関心を向け続けるのにも限度はあるらしく、
一日中それが続くかといえば、そうでもなさそうな感じ。

だからこそ気を遣わずに済むというのが大事なのかもしれません。
相手への関心が下がる瞬間があっても大丈夫、という。

セミナーの最中は日常ではありえないレベルにまで注意を上げますから
ある意味では、気遣いの量が物凄く高まっているともいえます。

その後でも気を遣うとなると、そこには負荷がかかります。

セミナー中の気遣いとは、セラピー的な要素の必要性と関係するので
セラピー度合いを下げられる人たち、つまり
セミナー中に気を遣う必要性が下がっている人たちの場合、
自然と雑談のように話をするのも楽しくなってくるんでしょう。

一対一の対応と違って、複数を相手にしたセミナーに
セラピー要素を追加していくと、注意を上げておく度合いは高まります。
その分、影響が大きいみたいです。

気を遣うことなく、気軽に、共通の関心ごとについて話ができる。
そういう時間は楽しいものなんだと思います。

そして、関心の対象が相手本人であれ、人生のテーマであれ、
知的に理解したい内容であれ、僕自身の注意が向くのも大事そうです。

気を遣わず、相手に対して関心があって、
さらに興味の対象にも共通点がある。
そういう人は、ありがたいものだと感じます。

おしらせ
 ◆ セミナー情報 

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《カウンセリング講座》
〜セルフイメージの整え方〜


【日時】 2017年4月23日(日)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    303集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分


詳細はこちら>>
次回開催は6月の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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