2014年08月

2014年08月31日

分かるようになるために

どうも僕の経験上、英語力を短期間で上げてくれるのは
ライティングのような気がします。

まぁ、自分が日本語力をどうやって鍛えてきたかと考えても
その大部分は「書く」という作業だったとも思いますし。

学生時代にはレポートや論文を、
会社員時代には報告書や特許を、
コミュニケーションを専門にしてからはブログや記事を、
とにかく文字数にしたら沢山の量を書いたはずです。

セミナー講師として話した量も多いですが、
それよりも書いたことの影響のほうが大きかったと感じています。

セミナー講師として駆け出しだった頃は、
ブログにアウトプットしながら考えをまとめ、
それによって説明がしやすくなったことも多々ありますから。

日常会話で言葉を使っている量なんて
意外と大したことがないものかもしれません。

特に、聞き役に回りやすい人ほど、です。

ですから、英会話に通って話をしたりしても
それほどの量はアウトプットしていないんじゃないかと思えるんです。

少なくとも、思い浮かぶ考えを言語に変換するトレーニングとしては
たまに英語で話をするぐらいでは不十分な印象を受けます。

むしろ僕の場合は、ある程度の量の英文を書いたあとのほうが
次に英文を書くときにもスムーズさが上がっているのが実感できましたし、
会話でのアウトプットもやりやすくなったものです。

「書く」というアウトプット法は、考えを整理するだけでなく
言葉の運用能力を上げるのにも効果的なんじゃないでしょうか。


で、ある程度は「書く」ということにも慣れてくると
今度はインプットのほうにも質の変化が起きるようです。

自分がよく使う表現で書かれた文章はスムーズに頭に入ってきて、
見慣れない構文になっていたりすると理解が大変になる。

もちろん、これは日本語でも同じです。
だから洋書の翻訳は理解しにくいことが多いんでしょう。

そして面白いもので、インプットの量が増えてくると
アウトプットのときに、ふと思い浮かぶ表現があったりするんです。
今までに使ったことのない表現が。

おそらく、どこかで読んで記憶に残っていたものだと思われます。
しかし定かではない。
使ったことがないし、そういう表現があるかどうかも怪しい。

それで辞書だとかネットとかで検索してみて、
確かにそういう表現があるんだと納得して、実際に文章に書いてみると、
それ以降は自分が使える表現の一部に組み込まれる感じがあります。

きっと、日本語でも知らず知らずのうちに、
そうやって複雑な言葉を身につけてきたんでしょうね。


そんな風に、
理解しやすい英語と、パッと掴めない英語があるのを自覚すると
「頭に入る」とか「分かる」といったことの意味が曖昧になってきます。

今までも、文章を読んで「理解して」、「分かった」つもりでした。

しかし、「頭に入りやすい」ものと、「分かりにくい」ものとが区別されると
今度は「分かりにくい」もののほうが際立って印象に残ってきます。

その部分の難解な感じが引っかかるんです。

それは洋書の専門書を翻訳したものを呼んでいるときにも起きるようです。
日本語でも「頭に入ってこない」ものがある。

だからといって、その引っかかりを気にし過ぎていたら先に進めません。
そもそも本を一冊丸ごと「頭に入ってくる」形で読めたとしても
一字一句を覚えているわけではありませんから、
細部よりも優先するところが多いものでしょう。

実際、僕は多くの専門書をそうやって流して読んできました。
訳の日本語が難解で頭に入ってこないけれど、とりあえず
要点を掴むようにして先に進んできたものです。

個人的には、知識があまりなくて、とにかく色々と知りたかったときほど
沢山の本を買ったり、あちこちのセミナーに出たりしていました。

そういう時期に読んだ専門書が沢山あって、
とりあえずで読み進めた感じのものも数多く残っています。

今、読み返したら、日本語の難解さを補えるような背景知識もありますし
もしかしたら日本語そのものも理解できるようになっているかもしれません。

当時とは全然違った情報を得られる可能性が高いと思います。

英語も同じ印象なんです。

今はスムーズに入ってこないものも、数年後に読み返したら
もっとすんなりと頭に入ってくるのかもしれません。

今、スムーズに入ってきているものも、少し前に読んでいたら
頭に入ってこないものとして流されていたかもしれません。

なんというか、「頭に入ってきやすいもの」と「頭に入ってこないもの」と
両方が区別できる状態は、『何が分からないか』が分かるという点で
とても意味のあることのように感じられるんです。


どうやら今、僕の中では、特に英語に関して
「頭に入りやすいもの」と、「入ってこないもの」とが
かなりハッキリと分かれている状態みたいです。

「入ってこない」が多く感じられます。

実際には、スムーズに入ってくるものもあるんでしょうが、
入ってくるほうがあるからこそ、「入ってこない」が際立つんでしょう。

そして全体の印象として「分からない」感じが強まる。

冷静に考えれば、以前はもっと分からなかったはずです。

「スムーズに入ってくる」体験があまりないから
全体として意味が掴めれば「分かった」感じがしていたとか、
音として聞き取れて、話の流れが把握できていれば
「分かった」感じがしていたとか、そういうことだったと考えられます。

つまり、「何が分かってないか」も分かっていなかった、と。

分かっていないことが多いから、むしろ
「分かった」印象の部分が強く残っていたのだろうと想像されます。

ですが、もどかしさでいったら、今のほうが大きいんです。

「入ってこない」感じ、「引っかかる」感じが残ります。
難解な本を読んでいたときの印象と似ています。


それが自然な学習の進み方なのかもしれません。

分からない感じが沢山ある状態から
少しずつ「分からない」を減らしていく。

でも、それとは別に
なんとなく分かっているようなつもりでいながら
実際は分かっていないときもある。

前は分かっていた気がするのに、最近は分からなくなってきた
…ということがあったとしたら、それは
「何が分からないか」が分かるようになってきたサインとも捉えられそうです。

思い返せば、数学でも物理でも量子化学でも、
「なんとなく分かったつもり」で済ませてきたことが沢山あったものです。

しっかりと分かるためには
分からない状態をしっかりと受け止めるのも大切な気がします。

cozyharada at 23:13|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 心理学

2014年08月29日

バリカンを買い換えました

長年使っていたバリカンが、ついに壊れました。

といっても、まだ動くんですが
落としたときに、長さ調節のスペーサーが割れてしまって
歯が直接肌に当たりそうな状態になってしまったんです。

そのプラスチックのアタッチメントだけを変えようにも
そんなものは売っていませんから、新規購入となりました。

思えば、町田に住んでいた頃、
2005年ぐらいに買ったものじゃなかったでしょうか。

会社の近くのヤマダ電機で買った記憶があります。

当時のヤマダ電機は今ほどの勢力ではなく、
コジマと同程度の印象だったものです。

ポイントカードなんで、同じ建物の上のフロアにあった
ダイクマと共用になっていましたし。

10年には至らなかったとはいえ、
丸8年以上は役に立ってくれたはずです。

当時で4000円弱だったと思います。

一週間に一回使って、一年で52週ですから
400回以上は使った計算になります。

8年から9年と考えると長いですし、
4000円程度なのにと思えば尚更に長持ちした気もしますが、
400回ぐらいと捉えると、ちょっと微妙な印象に変わります。

毎日一回使っていたとしたら二年経っていないわけですから。

そう考えると、電動のヒゲソリを使っている人の1年間と
僕のバリカン7年分とが、使用回数で同じになる計算です。
(毎日一回と、週一回の違い)

壊れたときには「長い間、よくもってくれたもんだなぁ」と、しみじみ感じましたが
毎日使われるだろう電動ヒゲソリと比べると、意外と普通に思えてきます。

一日一回と、週一回では、随分と大きな差があるんだなぁと実感しました。

計算すれば当たり前の話なんですが、
愛着という点では回数よりも期間の長さのほうが重要なんでしょう。

それはきっと思い出の量とリンクするからだろうと思います。

毎日やるというのは頻度としては大きく関わりますし、
それによって得られる経験の量はとても意義深いことかもしれません。

一方で、毎日ではなくても長年にわたって続いてきたというのも
そこに重要なイベントの記憶が結びつく分だけ、意味を大きくするようです。

裏を返せば、毎日だからこそ当たり前になって
価値を感じなくなってしまうということも。

人間関係だって、自分の体や行動パターンだって
毎日だからサラリと流してしまっていることがあるように思われます。

実際、今こうして使っているパソコンの下にあるテーブルも
バリカンと同じ時期に買って、毎日使い続けてきたものでした。

テーブルのほうが当たり前になり過ぎて、逆に愛着を感じていない気がします。
買い替えることを想像しても、心が動く程度が小さい。

当たり前にし過ぎていたことに気づきます。

こうして考えてみると、両方が大事なんだろうと感じられます。

過去を振り返って、自分にとって重要だった出来事を思い出すのと同時に、
毎日の当たり前のことも丁寧に意識に上げていく。

そんな両方向。

自分という存在は思い出によって形作られています。
思い出は際立ったものとして記憶されます。
際立っているということは、当たり前から大きくズレているということです。

いつもと同じだと意識にも上がらなくなるわけです。

大事なことも、毎日の習慣にしてしまうと
その大切さが失われていく可能性があります。

思い出を豊かにするのは、
日々を意識に上げていくということなのかもしれません。

cozyharada at 23:46|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 心理学

2014年08月27日

ネガティブなプラセボ

プラシーボ効果とかプラセボ効果とか呼ばれるものがあります。
日本語では「偽薬」なんて訳されるみたいです。

解熱剤だといって砂糖を飲ませても熱が下がる…などの話。

「イワシの頭も信心から」といった感じでしょう。

薬だと思って飲むと、実際には薬の効果がないはずのものでも
何もしない場合と比べて効果が表れる、ということです。

実際には薬だけでなく、何かしら『処置』を検討する場合には
プラセボ効果が認められます。

セラピーとか施術とかでも
「専門家に何かをしてもらった」という印象そのものに
改善効果が含まれる、と。

ですから、何か新しい手法の効果を調べる場合には、少なくとも
・何もしない場合
・専門家が意味のない(ランダムな)関わり方をする場合
・専門家が新しい手法を用いる場合
とで比較をするのが一般的です。
(さらに、よく知られた「これまでの手法」とも比べることも多いですが)

平たく言うと、「効果があると信じていれば、効果が表れる」ということになります。

心理学では、そういった暗黙の効果を色々と細分化して調べられていますが
とりあえずは「信じていると効果が出る」という範囲で話を進めます。


こちらの動画はスタンフォード大の準教授、アリア・クラムという人のスピーチで、
プラセボの効果について色々な例を挙げて紹介しています。(英語です)



例えば、手術後の鎮痛剤としてモルヒネを投与する場合、
「これからモルヒネを入れますよ」といって注射するのと
何も知らせずに自動的に点滴で投与するのとでは、
その鎮痛効果が全く違うといいます。

もちろん、教えて目の前で投与するほうが効果が高いわけです。
同じ量のモルヒネを使っているにもかかわらず。

つまり「プラセボは効果を期待されるような状況で起きる」といえます。

また、この動画ではありませんが、プラセボは
患者が「これはプラセボで本当の薬ではない」と知らされていても効果が出る
という研究結果もあります。

医者から渡されたという状況、薬というものの見た目、薬を飲むという行為…
そういった過去の全ての記憶に基づく暗黙の期待が、効果を生むのでしょう。

しかも面白いのは、その「効果」が多岐にわたることです。
痛み止めであれば、痛みが下がる。
気分がすぐれないのであれば、気分が楽になる。
期待されている効果が信じていることによって起きるようです。


こういう話は「信じたことが現実になる」といった趣旨の考えに響きやすいのか
「心の持ちようで健康になれる」という方向性と繋がりやすい印象を受けます。

そういった好みの人たちの中には
健康法についても色々と思い入れがある人も多いみたいで、
「こうすると体にいい」とか「これはよくない」とか
色々な話を耳にすることがあります。

どんな健康法でもその人の好みですから構わないと思いますし、
そこにも「効果がある」と信じることで得られるものもあるはずです。

何も、世の中の健康法がプラセボだといっているのではありません。
効果があると期待している人のほうが、より大きなメリットを得られる
という話です。

しかしながら、そうした健康法を進めていくと
「こういうのは体に良くない、だからこっちにしましょう」
という方向に展開していくケースが多く見受けられます。

例えば、味の素に代表される「うま味調味料」は
人工的で体に害があるという主張を見たことがあります。

「化学調味料」と書かれることもありますが、実際は発酵食品ですし
グルタミン酸はアミノ酸の一種です。
工場で大量生産すること以外に、人工的な要素はほとんどありません。

一方で、チャイニーズ・レストラン・シンドロームと呼ばれる症状は
中華料理に大量に含まれるグルタミン酸ナトリウム(うま味調味料)が
原因だと言われていました。

多くの科学的な研究が、グルタミン酸ナトリウムとの関連を否定していますが
今でも実際に、化学調味料を含んだものを食べると気分が悪くなる
と言っている人たちはいます。

確かに僕も中華料理を食べると、異常に喉が渇きます。
なんだか口の中がいつまでもビリビリしたような感じもします。
正直なところ、中華の次の日は体調がすぐれないことも多い気がします。

だからといって、それが全て化学調味料のせいだとは思いません。
どちらかといえば、僕にとっては中華料理の油の多さがキツイ。
匂いのするような油を使った店だと、余計に体調が悪くなりますし。

もう少し化学的にいえば、グルタミン酸ナトリウムのナトリウムは
塩化ナトリウム(食塩)の塩分と同じものですから、
多量のグルタミン酸ナトリウムは塩分過剰を引き起こすとも考えられます。

味の素を使うと喉が渇く、といった場合には
単純に塩分を取り過ぎている可能性だってあるわけです。

「化学調味料を使っていません」というような料理店は
全体的にヘルシーな印象が出るように、薄味で油も控えめな傾向もあるでしょう。

そういう店と、味の素もバンバン使ってコッテリした味付けにしてある店とでは
全体として使っている調味料や油の量だって違うはずです。

その二つを比較して体調への影響を考えるとしたら
味の素だけが悪者だとは言いにくいはずです。

しかしながら、そうした体験を元に
「化学調味料は体に悪い」と信じるようになって、
「化学調味料の入ったものを食べると体調が悪くなる」
という暗黙の期待を持つようになったとしたら、
実際に体調が悪くなることだってありえると考えられます。

プラセボは必ずしもポジティブな効果だけを生むものではない。

「これは体に悪い」と信じていれば、
そういう期待通りの反応が生まれる可能性があります。

「これは体にいい」と信じているのと
「これは体に悪い」と信じているのとは、
一見すると対極のようで、両方を取りこんでしまいそうですが、
「悪い影響」という期待を生むリスクもあるような気がします。

「良い」と信じるのと、「悪い」と信じるのは
分けて捉えたほうが無難なのかもしれません。

まぁ、個人的には「なんでも大体は大丈夫」のスタンスなんですけど。

cozyharada at 23:52|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!心理学 | NLP

2014年08月25日

人間の骨格は例外的だ

人間の骨格や筋肉には、それなりに興味がありましたが
他の動物についてはあまり見ていませんでした。

まぁ、それだけ僕の関心が人間に向いているということだとはいえそうです。

であるなら、人間の特徴を理解するためにこそ
他の動物と比較をしてみるというのも面白い。

改めて動物の骨格模型などを見てみると、多くの発見があります。
本当に不思議なことばかり。

今までいかに「人間」という枠組みの中で比較をしてきたかを実感します。
言い換えるなら、多くの人間を見て、その中で違いを見比べてきた、ということ。

もちろん、人間同士で比べるほうが、細かい違いを発見できます。
そもそもの共通点が多い中で比較をしたほうが、違いが目立ちますから。

一方、人間と他の動物という比べ方をすると
例えば、哺乳類の共通点が見つかる一方で、
人間が他の哺乳類とどう違うかも際立ってきます。

ここで見つかる人間と他の動物の違いは
人間の中では基本的に共通する性質であって、
人間一般を特徴づけるものだといえるでしょう。


僕はこれまで人間の個人差を徹底的に細かく注目して、
その個人差を生むメカニズムを探そうとしてきました。

そうすると一人一人の違いについては、それはもう多種多様で
例えば、双子であっても、僕には全くの別人に見えるわけです。

ゲノム情報としては100%同じであるにもかかわらず
それだけの違いを生むのは何なのか?

そこに『仕組み(メカニズム)』が関わってきます。

例えば、NLPとしては『学習』というメカニズムを重視します。
経験によって、プログラムが作られる。
それが学習です。

つまり、経験が異なるから学習内容が異なって
作られるプログラムも変わってくるから個人差が生まれる。
そんな流れ。

同じ「人間」という対象を見ていても、明らかに無数の違いがある。
しかしながら、どのようにその違い(=プログラム)が生まれるか
という『メカニズム』は同じものが使われているんです。

だから、違いを生み出すメカニズムの着眼点を持てば
一人一人を全くの別の存在として見ながら、
「人間」という存在を理解しやすくなるんです。


ここで見出されたものは「人間はこうなっている」という理解であって、
「人間」という存在の『特徴』ではありません。

言い換えれば、
他の存在にも同じような『メカニズム』があるかもしれない
ということです。

学習によってプログラムが生まれ、それが個体差を生み出す。
この発想そのものは、他の動物でも通用しそうです。

ですから、この着眼点は「人間」という分類の中で
違いを調べるための1つの枠組みだといえます。

人間もプログラムとして違いがあって、それが個人差を生む。
当然、犬や猿だってプログラムに違いがあるはずです。

同様に、犬同士、猿同士で比較をしていけば
経験の違いがプログラムの違いを生み、
犬の個体差、猿の個体差に繋がると考えられます。

しかしながら、明らかに人は、猿と犬と人間を区別しています。

もし僕が猿に興味があって、猿の個体差を知りたければ
プログラム(学習)という着眼点で調べることもできたでしょう。
それは僕が実際に人間の個人差をプログラムとして見てきたのと一緒です。

プログラムという個体差を生み出す『メカニズム』を共通点として使えば、今度は
プログラム以外の部分で、人間と猿と犬を区別するものが見えてきます。

そこに人間を他の動物との違いとして理解する着眼点が含まれるはずです。
人間ならではの特徴を知ることも、人間への理解のアプローチだということです。


ということで、他の動物との違いを様々な角度で見ていくのは
なかなか面白いことではないかと感じています。

画家の中に、人物だけでなく動物も描こうとした人がいたのは、
もしかすると人間をより深く理解して描くためにこそ
動物を知ろうとしたところがあったのかもしれません。

動物の骨格と人間の骨格をチョット比べるだけでも
ビックリするほどの発見があります。

例えば、骨盤は構造上、左右でくっついていますが
動きとしては肩甲骨と共通するもののように思えます。
左右独立で背骨と連結して、運動を引き起こす感じ。

背骨だって体の重さを効率的に支えるために
多くの動物は「ネコ背」になっている。

地面との反発を上手く使えるような状態で骨格を支えているようです。

このあたりを見ていくと、人間の体への負担なども想像できますし、
効率的な体の動かし方にも興味が出てきます。

ひとまず僕は、「お尻後ろ歩き」をやってみようと思います。
他の動物の骨盤の使い方を真似してみるためです。

ちなみに、四足で歩く練習もやってみましたが、
全ての関節を4足歩行動物と同じ角度に曲げると
腕にかかる重さが大き過ぎて耐えられませんでした。
2足歩行の時間が長過ぎたんでしょう。
簡単には取り戻せそうにありません。

なので骨盤だけでも工夫してみるつもりです。

cozyharada at 23:11|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | NLP

2014年08月23日

就職難

先日、就職活動について語り合っている学生2人組を見かけました。

なにやら色々な流儀があるようで大変そうです。

多くの友達(同級生?知り合い?)と結託して情報交換しながら
仲間意識を強要されつつ、かつライバルとして就職活動する。

そこに Line だ Facebook だ Twitter だと
さまざまなSNSの繋がりが含まれるみたいです。

ネット上や会話の最中では、お互いに励ましあい
でも表に出さないところで、上手くいった友人への嫉妬や
他の人が上手くいかなかったことへ安心したりもする…。

さらには、そういった心の奥から沸いてくる気持ち、
つまり仲間意識と相反するような自分勝手な想い
に対して、ときおり自己嫌悪に陥ることもあるのでしょう。

話を聞いていて、表情を見ていて、多くの葛藤が感じ取れます。

学生時代に自己分析といったって、
過去の経験から強みを判断しようとしても経験の量が少なく、
何よりも色々な経験を通して大きく変わり続けている時期ですから
「これが自分」とか「自分のやりたいのはこれ」などと
ハッキリいえるほうが少ないものだと考えられます。

出会った人が多ければ、他者との比較の中で
自分の傾向を見出すこともできるものですが、
学生時代までに出会う人の種類なんて限られています。

そもそも大学生ぐらいが最も、似通った人たちと接する時期じゃないでしょうか。

公立の小中学校ぐらいだと勉強の得意・不得意や
家庭の生活環境などにもバリエーションがありますが、
受験を通じて選ばれた高校生以降となると共通点も増えてくる気がします。

同じような成績・点数が求められる学校となると
勉強をしてきた量、そのための生活スタイルなども似てくるのではないか、と。

高校生・大学生ぐらいになると仲間に属していることへのプレッシャー
(ピア・プレッシャー)が強まるものですし、ニュースなどで知る限り
Line などを使った仲間はずれ的なイジメもあるそうですから、
仲間はずれにならないようにする傾向は相当に強いものだと思われます。

就職活動に励んでいる学生であれば、そうした集団への帰属意識も強く、
個性という他人との違いに目を向ける機会よりも
皆と同じになるための努力が多かったでしょうから
他者との違いで「自分らしさ」を自覚することは難しいと思われます。

実際には、小学校ぐらいでも地域の差は大きいものです。
どういう世代の、どういう職種の人が選ぶ街かというのは違いがあります。
小・中学校のほうが高校よりもバリエーションが大きかったようでも、
その地域ということだけでも意外と共通点があるわけです。

大人になって他の地域で生まれ育った人と話をしてみたり、
色々な場所を訪れてみたりすると、
いかに自分が狭い世界にいたかを実感できるものでしょう。

でも大学生ぐらいのときに、そのことを自覚するのは大変なはずです。
比べる体験がありませんから。

一方で、会社の側の人たちは多くの学生や新入社員を見てきていますから
そうしたバリエーションに対して知識がある。
たくさんの人の中での比較として判断しやすいわけです。

その意味では、学生自身よりも「その人らしさ」を掴みやすいともいえます。

学生として自己分析ができていることがどれだけ重要なのか
僕にはサッパリ分かりませんし、
「自分らしさ」を参照する基準も多くない時期に得た自己分析が
どれだけ意義のあるものなのかも分かりません。

むしろ、採用側が学生をしっかりと理解できるほうが
ずっと求められることなんじゃないか、という気もします。

自分を分析できているかとか、どんな強みがある(と主張しているか)よりも、
これまでに育まれてきた個性の土台や、技術や知識、経験ではない能力など
入社後にも変化しにくい部分を判断できるような見方ができれば
本当に求めている人を見つけやすいんじゃないかと思います。


そして何よりも重要なのが、
 会社と学生の間で価値観が合うか
でしょう。

ここが合わないと、会社に入ってから苦しみます。
自分が大事にしたいことと、組織が求めることがズレますから。

当然ですが、価値観を自己分析するのも
学生時代では簡単とはいいにくいところ。

まだまだ移り変わりの途中だともいえますし、
やってみて初めて違和感に気づくこともあるはずです。

その意味で、学生の側が価値観を自覚しておくのが
どれぐらい意味のあることなのかは判断しにくい気がします。

どちらかというと、組織との価値観のズレに気づいたとき、
そこで働き続けないことのほうが幸せなことだと認めて
気軽に会社や職種を変えられるような風潮があれば
望ましいのかもしれません。
(現状からすると簡単ではないのでしょうが…)

もう1つのポイントとして、
企業側が価値観を明確にしていないことが多いようにも見えます。

ビジョンやミッション、企業理念などを示すのも大切でしょうけれど
現実として社員に期待していること、
組織として優先したい・大切にしたいこと(=価値観)を
どれだけ明確に伝えているか、ということです。

学生の側を評価して判断するのが採用の形態ということだけでなく、
企業の側を学生が判断しやすいように示すのも
双方の価値観のマッチングという観点では重要だと考えられます。

学生の話を聞くとか、個人的に目に入ってくるとか、
限られた情報の範囲内ではありますが、
どうも「価値観の合う人を採用しよう」というスタンスは
あまり重視されていないのではないかと感じます。

企業の側は自社の素晴らしいところをアピールして
いわゆる「優秀な」学生が集め、選べるように意図する。

学生の側は就職が大変だといわれる世の中だからこそ
自分の「優秀さ」をアピールするために、自分の見せ方を努力する。

双方が世間的に「素晴らしい」とされる姿を見せようと
過度に装っているようなところがあるのかもしれません。

学生としても型通りの「優秀さ」を示したほうが
企業にとって分かりやすいため
そちらの方向で誰もが努力をする。

そこで示したものが普段の自分にとっては無理のかかるものでも
目下の目標のためには頑張って乗り切ろうとすることでしょう。

結果として、採用した企業からすると
「こんなはずでは…」といった想定外を経験する可能性があります。

一方、企業としても「素晴らしい」会社アピールをしていれば、
新入社員が入社後にギャップを感じることも大きくなりそうです。

お互いが自らの大事にしたいことを明確に伝えていないのが
このように後からギャップに気づく理由の1つだと思われます。


その上で、就職難といわれる時期だからこそ
学生の側には苦労を乗り越えて入った会社に対して
期待がふくらみやすいことも想像されます。

苦労をして得た結果に対しては
「良いものだ」と思いたいところもあるんでしょう。

企業側だって素晴らしいところをアピールするわけですから
入ってみて「期待していたのと違う…」と感じることも少なくない。

期待が大きかった分、ガッカリも大きくなる、と。

最近のニュースで目にすることが多い『新入社員の離職』には
そういった「過度な期待が生み出す失望の大きさ」も
関係しているのではないでしょうか。

「良い」会社、「良い」学生、という評価もさることながら
「お互いの価値観の相性」という視点も大切な気がします。


2014年08月20日

【セミナー】ポジティブ心理学講座

ご案内: 9月7日(日)&21日(日)開催

   ポジティブ心理学講座



9月には近い内容の講座を2回開催します。

テーマは『ポジティブ心理学』。
(前置きは、こちらをご覧ください)

ポジティブ心理学という名前からすると
「ポジティブ・シンキング」を連想されるかもしれませんが、
そうではありません。

むしろ「ポジティブ・シンキングではない」ことが強調されるぐらいです。

厳密ではありませんが、シンプルにいえば
「どうしたら幸せになれるか」の研究
といった感じでしょうか。

元々は、
心理学の多くが「心の問題」や、いわゆる”精神病理”を扱ってきていて
「ネガティブな状態を”普通”にする」流れだったことに対して、
「”普通”な人たちがポジティブな状態(幸せ)になる」にはどうしたらいいか
というスタンスから始まったとされます。

まぁ、”ネガティブ”とか、”普通”とか、”ポジティブ”とかいった呼び方については
好みの分かれるところでしょうが、とにかく
 苦しんでいる人だけが心理学の対象ではなく
 もっと多くの人に役立つ心理学を模索しましょう
といった趣旨だったようです。

ポジティブ・シンキングとの違いとしては、
・苦しみや悩みから目を背けて”肯定的に”解釈するのではなく
 怒り、悲しみなどの感情や苦しみを受け入れる
・なんでもかんでもポジティブで前向きなのを目指すのではなく
 現実的に望ましいバランスとしての「ポジティブさ」を扱う
などが主なところでしょうか。

「生きていれば色々あるけれども、全体としてどれぐらい幸せか」
という幸福度を指標として研究がなされます。

ただし、「幸せ」といってもレベル分けのようなものもあって
「 Happiness (幸せ)」 → 「 Well-being (幸福)」 → 「 Flourish (繁栄)」
のように「ポジティブさ」が上がっていくと想定されます。

まとめるなら、
「豊かさ」、「満足」、「安定」、「充足」…
あたりが近いかもしれません。

つまり、
「人生には色々あるけれど安定感を保ちながら、
 満ち足りた感じをどれだけ味わい、豊かな日々を過ごせているか」
が中心テーマといったところでしょう。

「ポジティブさ」とは、補足すると
「自分の人生に対して『ポジティブな』評価をしている度合い」
とも説明できそうです。

こうした「ポジティブさ」、「いい感じの人生」のために
どういうことをすればいいか?、何を心がければいいか?
の一般論を扱うわけです。


この講座では、「一般論」というところがポイントになります。

個別のセラピーや問題解決の技術ではありません。
個人差に合わせることもありません。

中には「これは自分には合わない」ということもあるかもしれませんが、
一般論ですから仕方がないことです。

平均的に多くの人に役に立つ。
大抵の人は、心がければ、それなりに効果が出る。

効果の程度には個人差の影響があるとしても
大部分の人にとっては無駄にならない。

そういう内容です。

この一般論を知っておくのには、いくつかのメリットがあります。

まずは、汎用性のある原則を知識として整理できることです。

経験則として、なんとなくこうすると良さそうだと感じていたことの多くが
コンパクトな心理学の説明にまとめられます。

困ったときや、悩みが大きくて頭が混乱してしまうときには
整理された情報があると解決の糸口になるはずです。

また、シンプルで日常的な原則だから誰にでも使いやすい
というのも大きなメリットでしょう。

心理療法のワークやNLPのスキルには効果的なものも多いですが
実際に使える場面が限られるものです。

セラピストやNLPプラクティショナーとしてクライアントと契約すれば、
様々な手法を使えますし、かなり複雑な作業でも進んでやってもらえるでしょう。
取り組みへの意気込みを高めながら、
非日常的な作業が受け入れられる状況が設定されているわけです。

もし日常生活の中でNLPや心理療法の手法を誰かに使うとしたら、
前置きとして「こういうのがあるんだけど、やってみたいですか?」と聞いて
ちょっと非日常的な取り組みに同意してもらう必要があります。

その点、コーチングは会話の技術を中心にサポートしていくため
ビジネスなどの日常的な場面でも受け入れられやすかったと考えられます。

ポジティブ心理学の知見も、日常的で気軽に使える雰囲気があります。
仕事の場面でも、プライベートな人間関係でも、
「いい感じ」になるためのヒントとして自然に使えるはずです。

他者を指導・教育する立場にある人、
多くの人に向けて情報発信したい人、
心理学やコミュニケーションに興味のない多くの人たちと関わる人、
自分の関わるグループにポジティブな影響を与えたい人…
には役に立つ視点だろうと思います。


「一般論」としてのもう1つの側面は、『抽象度の高さ』です。

抽象的で一般化された原則として
「自分の人生に対する評価のポジティブさ」
を上げることができる。

シンプルにいえば、
・自分が好きになる
・自信が高まる
・生きるのが楽になる
・自分の人生を「良いものだ」と思えるようになる
といったところです。

実のところ、心理療法やカウンセリングの本質はここにあります。

自分が好きになって、自信が高まって、安定感や気楽さが高まってくると
苦しい出来事に対処できる度合いも上がりますし、
自分の行動や考え方の癖についても受け入れられるようになるものです。

心の問題は、特定の反応パターンだけでは生まれません。

NLPで説明すると、
・ある反応を生み出すプログラムがあって
・その反応を望ましくないと評価するプログラムが働く
ときに「問題」となる、といえます。

例えば、「神経質」と呼ばれる反応パターンは
 細かいことに気がついて、それを徹底的に綺麗にしたいプログラム
だと考えられますが、
そのプログラムを「神経質なのは良くない」と評価して初めて
「神経質」が「問題のプログラム」だと判断されるわけです。

自分の行動や反応のパターンに対して「それは望ましくない」と評価すれば
全体としての「自分」への評価も下がります。
つまり、自信が下がる。

また、自分の身の回りに起きる出来事に対しても「望ましくない」と評価するほど
「自分の人生に対する評価」はネガティブなものとなります。

悩みや苦しみが多い状態です。

そして、悩み苦しんでいるときほど
(自分の人生に対する評価がネガティブなほど)、
自分自身の行動や思考パターン、身の回りの出来事に対しても
否定的に捉えるようになる傾向がある。

1つの理由は「否定的な自己評価」に当てはまることを探そうとすること。
もう1つの理由は、悲しみや不満などの「否定的な感情」が強いときには
物事の捉え方も否定的になって、嫌な部分に目を向けやすくなることです。

また、否定的な感情は、その感情と関わる過去の出来事を連想させるため
嫌な記憶を繰り返し体験して、余計に苦しくなるのも関係します。

自分の人生に対する評価のポジティブさが低いほど
自分自身も、自分の身に降りかかる出来事も否定的に解釈しやすくなり、
結果として、自分の人生に対する評価がさらに下がる…
そんな循環が生まれているといえます。

こうした苦しい状態、つまり自分をネガティブに評価している度合いが強いとき
心理療法やカウンセリングが対処の候補にあがってきます。

技法には様々な流派がありますが、上手いセラピスト、カウンセラーは
クライアントの具体的な悩みの内容そのものを解決しようとするだけでなく、
クライアントが自分をポジティブに評価できるようにもサポートするものです。

もちろん、クライアント本人にとって最も重要なテーマを解決できれば
それに伴って自動的に、自己評価も上がります。

ですからカウンセリングで問題を的確に絞り込んで
ピンポイントで核になるテーマを扱えれば、
具体的な問題の解決と、自信を高めることとの両方を
一気に扱えるとも捉えられるわけです。

一方で、クライアント自身が中核となるテーマにまだ向き合えない
(向き合う準備ができていない)という場合もあるものです。

他にも、クライアントの個性とセラピー技法の相性や、
カウンセリング・ルームの都合で、使える手法が限られているといった場合も
中核となる問題を一気に解決するのが難しくなります。

そうした場合には、問題を解決することよりも、
安定感や自信を高め、全体的に楽になるためのサポートが役立ちます。

つまり、問題解決よりも、自信や自己評価を高めるほうを選ぶ、ということ。

問題を問題と捉える傾向そのものにアプローチして、
問題があることに悩み苦しむ度合いを下げる。
そうして早く楽になってもらう、と。

この「安定感や自信を高めるアプローチ」に
ポジティブ心理学の知識が役に立ちます。

一般論として、どうしたら安定感が高まり、自信を上げられるか。
この知識を元に、効果的なサポートの方法が提供できます。

ポジティブ心理学は幸福度を上げるためのものといいながら、
その原則はカウンセリングなどの問題解決でも大いに役立つんです。

さらにいうと、
この原則に基づいてセミナーの内容を組み立てていけば
NLPのセミナーだろうが、コミュニケーションのセミナーだろうが、
カウンセリングや催眠のトレーニングだろうが、
「自分の人生に対する評価のポジティブさ」を上げる効果も出せます。

変化の方向性は、最終的に
「自分の人生に対する評価のポジティブさ」へ繋がりますから、
その意味でポジティブ心理学の知識は
変化の原則に通じるところがあるということでしょう。

まとめると、
安定感と自信が高まって生きるのが楽になるためには…、
  攜鎚未離肇譟璽縫鵐亜Ε廛蹈哀薀爐鯤僂┐襯錙璽】
 …知識を得たり、カウンセリングやNLPをやったりして
  具体的な実際の問題を解決する方法

 ◆攸澗療な原則・生き方のコツ】
 …ポジティブ心理学で整理された知見などを利用して
  全体的に「自分の人生に対する評価のポジティブさ」を上げる方法

の両方がある
となります。

NLPやカウンセリング講座は,里曚Δ暴電世鮹屬い討い燭里紡个靴董
今回の『ポジティブ心理学講座』は△里曚Δ鮹羶瓦箸垢襦△箸翰解ください。

カウンセリング、心理療法をはじめとする援助の効果を高めたい人、
セミナーや研修などを通じてポジティブな変化を引き出したい人…
などにも役に立つ内容だと考えられます。


本講座そのものは、セミナー形式です。

実習も沢山とりいれますが、その目的は知識の定着にあります。
一般論としての知識ですから、実用的な場面と結びつける練習をすると
日々の中で思い浮かびやすい知恵になるはずです。

何かのワークをやって、具体的な悩みが解決するような内容ではありません。
体験型で大きな気づきが得られるものでもありません。

言われてみれば当たり前に思えるような内容も含まれます。

それをシンプルに整理するのが目的です。
日常的に使える原則となるように知識を整理します。

講座は2日間で行いますが、内容は一部重複します。

9月7日は「ポジティブ心理学とそのツール」。
9月21日は「ポジティブな組織とモチベーション」。

どちらか一方のみのご参加も可能です。

日本語でポジティブ心理学を扱うケースは多くないみたいです。
ご興味があれば、是非、お越しください。

ご自身の中にある経験を整理して、
実用性の高い原則としていただければ幸いです。



◆録音/録画、再生機材に関しまして

講座全体の内容は、ICレコーダーやビデオなどで
記録いただいても構いませんが、あくまで
個人的なご利用の範囲でお願いいたします。

※プライベートな内容の扱いに関しましては
 十分にご配慮ください。





【セミナーの詳細】

≪ポジティブ心理学講座≫

<日程 
【日時】  9月7日(日)
       9:30〜16:00


       ※開始時間にご注意ください 
       ※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。

【場所】 五反田文化センター 第1会議室
    (JR山手線・五反田駅より徒歩15分)
    (東急目黒線・不動前駅より徒歩8分)


<日程◆
【日時】  9月21日(日)
       9:30〜16:00


       ※開始時間にご注意ください 
       ※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。

【場所】 五反田文化センター 第2会議室
    (JR山手線・五反田駅より徒歩15分)
    (東急目黒線・不動前駅より徒歩8分)


     ★申し込みフォームに、ご希望の日程(7日/21日/両方)をご記入ください。


【参加費】 一日あたり・・・ 10,000円

       両日のご参加の場合・・・ 15,000円

       当日、会場にてお支払いください。
       ※2日ともご参加の場合には割引させて頂きます。

    ★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
     ご了承ください。




終了しました

例えば、マズローの自己実現理論なんて
言われてみれば当たり前に感じられるものかもしれません。

メラビアンの法則の説明していることなんて
「言葉の内容よりも非言語メッセージの影響が大きいですよ」
ということを数値化したものに過ぎませんが、
そうやって表されるとなんとなく説得力を感じる人が多いんでしょう。
だから拡大解釈された話が世間に広がったと思われます。

たいていの心理学や人間関係の理論は
聞いてみれば「そんなの当たり前だ」と感じられるものなんです。

一方、コミュニケーションや心理療法などの技術となると
自分が実践してみたときに「自分がイメージした通りにできるかどうか」
の部分で、改善や工夫の余地を実感することが多いようです。

ところが、知識や理論的な説明の場合には、
それが日常的なテーマを扱っているほど
「自分もどこかでその印象を持っていた」と思い当たることが多いために、
聞く前から分かっていたかのように感じやすい。

確かに多くの人が経験していることなんだと思います。

ただ、そのような発想を実践してみた頻度や
その発想に対する信頼度・確信度となると、それは決して高くないものです。

むしろ、悩みや迷いがあるときには
「こっちにしたらいいのかなぁ?いや、やっぱりこっちか?うーん…」
とハッキリした指針が無いことが多いものでしょう。

その2つの選択肢のうち一方が、心理学や何かの理論で裏づけされると
「ほら、やっぱり!それ、自分でも考えていたんだ」と感じる。

おぼろげなアイデアとして持っていたとしても
それに対する確信度が高いとはいえないわけです。

「どうしたらいいだろうか」という場合に選択肢の1つとしてあがることと、
「あぁ、こういうときはこうすれば良いんだ」と安心して選べることとでは
非常に大きな違いがあります。

ともすると「当たり前」とか「分かっていた」とか思えるところかもしれませんが、
それを確信度の高い原則として整理しておくと
悩みや迷いがある場合に、拠り所となるはずです。

心理学や理論が伝えている一般論は
こうした指針だといえます。

仮に、全てを経験的に知っていたとしても役に立ちます。

それは経験を元に仕事で高いパフォーマンスを出していた人が
自分のやり方を意識化できるレベルに整理したあとで
さらに精度の高いパフォーマンスを発揮できるようになるのと似ています。

経験的にもっている情報を、言語的に説明できるレベルに整理すると
的確に行動できるようになるということです。

そのような意味で、一般論を知っておくのは役立つものです。

是非、整理してみてください。
詳しくない人に説明できるようになってみてください。

知識をスッキリと応用できるようになっていると
それだけでもできることが増えます。

それが知識学習の大きな意義の1つだと思います。

技術トレーニングや悩みの解決は、一人ひとり対応が違いますが
一般論としての知識は、まんべんなく役に立つものです。

地道にトレーニングして、真剣に自分の悩みと向き合っていくのは
とても効果的ですし、充実感もありますが、
全ての人にできることではありません。

だから一般論として役立つ情報が貴重なんです。
多くの人のヒントになるものが。

身の周りの方々への影響も大切にしたい方には、特にオススメです。

お越しをお待ちしています。

2014年08月18日

ずっと変わっている

原則的な話として、人は変わるものです。
昨日と今日では、常に別人です。

毎日、寝ている間に神経回路の再調整が起こるわけですから
同じであるはずがないんです。

もし同じに見えるとしたら、
それは見方の問題です。

「変わらない」と思っているから、同じところを注目する。
「変わらない」と思っているから、違いが表れていても無視する。

「人は変わらない」と思っている人が
「その人は以前と同じままだ」という想定で関わるから、
その関わり方に応じた対応が起きやすいこともあります。

例えば、「この子は勉強ができない」と思って関わっていれば
不得意なことを前提にした教え方になることでしょう。
できたときがあっても、それを偶然だと捉えるかもしれません。

同様に、ネイティブの英会話の先生に多いのが
「日本人は英語が話せるようにならない」という無自覚な想定でしょう。
最初のレベルチェックのときの印象をずっと引っ張り続けます。
「この人の英語はこれぐらい」というレベルに合わせた話し方をするため
使うフレーズや話すスピードは上がっていかない。

「変わらない」と思って関わることが、変化を起こしにくくするわけです。

これは自分に対しても同じです。
「自分は変わらない」と思っているから、そういう目で自分を捉える。
変わっている部分に気づかないために「やっぱり自分は…」と自信を失う。
だからまた今までと同じことを繰り返そうとする。


冒頭に挙げたように、人は常に変わっているんです。

「変わっていない」という前提で捉えることで起きるのは、実際のところ
「今までの傾向をもっと強める」という変化です。

変わらないということはありえないんです。
仕組みとして、そういうものです。

ありえるのは
・今までの傾向を強めるか
・今までと違う傾向になるか(今までの傾向を弱めるか)
の2通りの変化です。

「変わらない」と言っているときには、実は
もっと今までのパターンを強化している、ということです。
それも重要な変化です。

勉強の得意な子が、もっと勉強ができるように「変化」していくのと同様に、
人は同じことを繰り返している限り、毎日、そのパターンを強めているんです。

「人は変わらない」と思っていれば、
「人は変わらない」という考えを常に強めていっている。
結果として、今までと違う方向には、ますます変わりにくくなっているともいえます。

自分を好きになりたいという人が「自分は変わらない」と思っていれば、
変わっていないところに注目して自信を失い、
「やっぱり自分なんて…」と好きではない方向を強めてしまうかもしれません。

人は常に変わっているんです。
そういうものですし、そう捉えているほうが楽になります。

違いに気づくようにするだけのことです。
その小さな違いが、いかに重要なことかを実感するだけのことです。


小さな違いに気づかない人もいます。

セミナー講師やトレーナーをやっている人の中にも
「この人はこういう人」と一度理解したら
そこから「変わらない」想定で関わり続ける人がいるようです。

僕から見れば、もう別人のように劇的に変わっているのに
それでも以前のような関わり方を変えないわけです。

「変わらない」と思っているから変化を見ないのか、
違いを捉える着眼点の問題なのか…。

とにかく違いそものに気づいていない。

また、違いに気づいていても、
小さな違いでは意味がないと考える場合もあるようです。

ですが、一気に大きな違いを生み出すのは無理がかかります。
本人の今までのセルフイメージともギャップがありますから
それまでのプログラム同士の相互作用に不一致が生じます。
結果として、元に戻そうという働きが生まれることもあるでしょう。

また、一気に大きく変わると周りの人が戸惑います。
一般的に多くの人は「この人はこういう人」という
決まった見方で人と関わる傾向が強いようですから、
以前と同じように関わったり、変化を否定するように関わったりして
元の状態に戻そうとすることが多いようです。

海外のセミナーに参加してハイテンションで帰ってきて
一週間もすれば日常に戻ってしまったり。

もちろん、ここでも変化は起きています。
変化を起こすためにやった分の影響は出ているはずです。
何かしら柔軟性が上がったり、習慣が変わったりはしているかもしれません。

ただ、それ以上に「あぁ、あんなにやったのに、やっぱりダメだった」
という方向に、むしろ自信を下げるように強めているともいえます。

元に戻るのではなく、元の傾向を強めるということです。

だからこそ、小さな変化が重要なんです。
負荷がかからない。

自分の中でも不一致が小さく、
全体のバランスを取りながら徐々に変えていける。

周りの人から止められる可能性も少ない。
周りの人も少しずつ、その人への見方を変えていくわけです。


そして小さな変化は持続します。

習慣にするとか、行動パターンを完全に変えるとかしたら
そのほうが変化のスピードは上がるかもしれませんが、
必ずしもそれが必要なわけではありません。

より大切なのは、選べるように柔軟性を上げること。

仮に、10kg痩せたいという明確な目標があったとしたら
それは毎日習慣的に行動を変えていくほうが達成は早いでしょう。

しかし、1か月で達成しようが、5年でジワジワと痩せていこうが
結果は10kg減で変わらないはずです。

厳密に毎日の習慣を変えなくったって、生活の中に変化が起きていれば
その変化は今までと違った結果へと導いていってくれます。

毎日2000kcalとっていれば、一週間で14000ckal。
一週間に1日でも2日でも食事を減らす工夫をしたら
一週間の摂取カロリーは、確実に減るわけです。

全く運動をしていなかった人が、たまに気が向いたときに運動するようになれば
それだけでも体への効果は違います。

何もしなければ筋力は低下する方向に変わっていく。
体は固まる方向に変わっていく。

チョットでも運動をすれば、その分の効果はありますし、
筋力がついて楽に動けるようになることで、運動量が増える可能性もあります。

やるのは無駄にはならないんです。

小さな変化が導く方向性は、何もしなかったときとは全く別のところなんです。


何より、小さな変化に自分で気づき、それを自ら評価できるようになると
自分を受け入れる方向に変わっていく。

これが大きい。
とても大きいんです。

自信がついていきます。

自分を否定する方向で、「人は変わらない」と考えて
自信を下げるように強化し続けるのと、
「人は変わる」と考えながら小さな変化を認めて
自信を上げるように強化し続けるのとでは、
到達点は全くの別物になることでしょう。

小さな変化に気づくこと。
それを認めること。
「人は常に変わっている」という前提で。

長い目で見ると、大きな違いを生み出します。


まぁ、「長い目」といっても、実際には
半年もしないで劇的に変わってしまうことも多いんですが。

cozyharada at 23:29|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 心理学

2014年08月16日

聞かせる話し方

落語家の話し方は、決してハッキリしているわけでもないし
それほど聞きやすいものでもありません。

スムーズかといえば、そうでもない。
「あー」とか「えー」とか、繋ぎの音も多いものです。

政治家の討論や結婚式のスピーチで、あんな風に
「あー」、「えー」といっていたら、退屈な感じがしてしまうと思います。

抑揚が大きいかといっても、それもそうではありません。
関西出身のお笑い芸人のほうが、はるかに抑揚は大きい。

にもかかわらず、落語家の話はのめり込めるものです。
退屈しないし、ボーっとしてしまうことも少ないようです。


1つには内容が具体的でイメージしやすい、というところがあるのかもしれません。
だからボーっとしない。
セリフも沢山ありますから、場面を想像しやすいはずです。

あるいは、展開が読めないために興味が生まれるのも
退屈せずに聞ける1つの理由でしょうか。

そういう内容の点だけであれば
「話し方」として落語家を参考にするのは工夫のしどころが少ないですが、
非言語メッセージの使い方として注目できれば
もうちょっと役に立てられる部分が多いような気がします。


となると、声のトーンは重要だと思えます。

決して響きのある低音の良い声ではありません。
胸やお腹で響かせる声ではなく、どちらかといえば
喉で響かせる度合いも小さいように感じられます。

むしろ口の中で声を響かせる感じ。
声を飲まないみたいです。

その分、声が前に飛んでくるため
聞く側は自分の耳に注意を集められて
意識を積極的に話の内容に集中させられそうな印象を受けます。

また、ちょっと聞き取りにくい声質で話すのも
聞き手側が意識を積極的に「聞きとる」ことへ集中させるのに効果的。

そして抑揚は大きくなくても、話のスピードの変化は大きいといえます。
決して単調ではないんです。

これも飽きさせない工夫の1つだと考えられます。


全体的な工夫としては、
「聞かせる」ような声の使い方をしている、といったところでしょうか。

「聞いてもらう」でも「届ける」でも「伝える」でも「説明する」でもない。
「話しかける」とも違うようです。

少し聞きにくい声質で、状況描写を中心にした話をする。
聞く側がその話の内容に「聞き耳を立てたくなる」ような話し方。

そうすることで、聞く側が積極的に話に意識を集中させるため
一生懸命に聞いてもらえる状態を作り出せるのかもしれません。

伝えようという工夫が多かったり、聞きやすい話だったりすると
聞く側としては「自分から話を聞きとる」という意欲が下がると考えられます。

あえて少し聞きにくくして、あえて話を届けないようにして、
聞く側の積極性を引き出している、ということなんじゃないかと思えます。

まあ、僕は個人的に、話を聞いてもらいたいほうではないので
落語家のような話し方を目指すつもりはないんですが。

2014年08月14日

マインドフルかマインドレスか


東洋的な伝統が西洋文化に取り入れられて
そちらで流行ってから日本に逆輸入されることは少なくないようです。

ヨガの流派とか、代替医療とかもそうですし
『マインドフルネス』もその代表的なところでしょう。

マインドフルネスという単語そのものの意味は
日本人のセンスからすると掴みにくい気もしますが、
「 mindful (マインドフル)」という形容詞の日本語訳は
「気を配る・意識している、〜を心に留めている」
といったところ。

「心」や「精神」というニュアンスでの「マインド」ではなくて
「注意」、「集中」というニュアンスの「マインド」なんでしょう。

僕が最初に「 mindful 」という単語を知ったときには
「 mind 」が「 ful (いっぱい)」なわけですから
「心が満たされている」ような感じかと勘違いしたものです。

でも実際には、「注意(mind)がいっぱい(ful)」ということで
「気を配る、心に留めている」の意味なんだと思われます。


で、この「 mindful 」の名詞の形が「 mindfulness 」(マインドフルネス)で
「様々な物事に気を配って、心に留めていること」を意味します。

そうした心の状態が大事だということで
マインドフルネスをトレーニングしましょうといった発想が生まれたようです。

ここでは
「現在進行中の出来事を、受容的・無批判なまま気づいている」
という意味合いが強調されます。

その瞬間に起きている体験内容の全てを
そのことについて判断を加えることなく、ただ眺めている感じ。

,箸砲く全てのことに対して意識的である(自覚している)
意識に上がった内容については受容的であって、良し悪しの判断をしない
…大きく分けると、この2つの要素だといえそうです。


自覚する「全てのこと」には、体の外で起きている出来事
(見たり、聞いたり、触れられたりするものごと)も、
体の内側で起きている出来事(思考、感情、身体反応、動作など)も、
どちらも含まれます。

外の世界を注意深く見て、「あぁ、美しいなぁ」というのは
マインドフルネスの一部だということです。

「あぁ、美しいなぁ」という気持ちが沸いてきたら
その気持ちに対しても、良し悪しの判断を加えずに自覚しておく。
そこまで含めて「全てのことに対して意識的」といえます。


東洋思想の影響を受けているということで
ZEN(禅)の関係として坐禅や瞑想の雰囲気が強調されがちですが、
瞑想はマインドフルネストレーニングの一部です。
それは「マインドフルネス瞑想」と呼ばれる手法だと。

実際には、目を閉じて一人で静かにしているときに限らず
日常生活の全てでマインドフルであることを目指す。
それがマインドフルネスのトレーニングとされます。

つまり、
目の前の景色にしても自然物だろうが人工物だろうが、
そこに他の人がいれば、その人の動作、仕草、表情、声色…、
そこで自分に湧いてくる考え、感情、体の反応、行動…、
あらゆるものを意識に上げ、しかも判断を下さない
ということを実践するわけです。

老いの研究で有名なエレン・ランガーは、特に
自分の気持ちや行動に対してのマインドフルネスを強調して
自動的で無自覚な習慣化された言動パターンで振る舞うことを
「マインドレス」と呼んで警告しています。

マインドフルかマインドレスかが
老後を分けるんだ、というんです。

自分の行動や思考、感情を自覚して
周りの状況や相手の気持ちを察し、
その上で自動的ではない振る舞いを決定する。

このような日常生活におけるマインドフルネスは
ビジネスやマネジメントにも効果的だと示されています。

瞑想の最中や、自然の中に足を運んで
マインドフルな体験をするのも大切でしょうし、
そこで得られるものにも意義があるでしょうが、
日々の生活の中でも、絶えず
環境にも人にも自分にも注意を向ける
というのもまた役に立つということです。

いわば、
ストレスのない場面でのマインドフルネスと
ストレスの多い場面でのマインドフルネスの
両方が勧められている、といった感じ。

そんなに気を配っていたら疲れると思うかもしれませんが、
疲れが溜まったことにも気づけるようになることで
適切なタイミングで休みを取れるようになるわけですし、
疲れを癒してくれる存在も存分に体験することができるので、
むしろ健康度も上がる可能性だってあります。

何より、人はどうでもいいことには無関心なものです。
厳しくいえば、
マインドレスなのは自分に無関心ということ。

つまり、自分に関心を向けることそのものが
自分を大切にすることでもあるわけです。

マインドフルネスの意義は
自分に関心を向けられるようになることにもあるはずです。

2014年08月12日

謙虚さが足りない

最近、自分に謙虚さが足りないことを感じます。

以前はもっと謙虚だったかというと、それも少し違う気がしますが
とにかく前とは違った姿勢になっているようです。

批判的な傾向は前からありましたし、
何かの情報に対して「そうじゃないだろう」と反論することは
むしろ以前のほうが多かったような気もします。

その意味では、謙虚だから何でも受け入れるということではないようです。

有名な人の話でも、違うと思えば批判が次々に湧いてきたものです。
本人には伝えずとも、それを誰かに話すこともありました。

だから権威や立場、経歴などへの謙虚さも、ずっと低いままだったと思います。
それも「謙虚さが足りなくなった」実感とは関係なさそうです。


セミナーやカウンセリングの仕事をしていると
当然、自分よりもずっと人生経験の豊富な方とも関わります。

必要以上の謙虚さはプロとしての立場に影響しそうに思えますから
専門性という観点で堂々と関わるようにするところはある気がします。

「本人」とか「人生」とかいったことについても
必ずしも自分自身がエキスパートではない、という視点でしょうか。

喩えるなら、
 僕はここ10年ぐらい、東京メトロを頻繁に使っているものの
 僕の東京メトロに対する知識は、地下鉄マニアの10歳児に及ばない
といった感じでしょう。

特に、本人にとって無意識になっている部分への理解は
第三者のほうがずっと詳しくなることもできます。
その辺に専門性があります。

その専門性をもって関わることで、
人間関係の謙虚さが減っているところもあるかもしれません。

とはいえ、これは一人ひとりへの敬意とは無関係です。
謙虚ではないでしょうが、尊敬はもっているつもりです。


むしろ、敬意が様々な存在に対して平等になってきた分、
何かを教わるという姿勢において謙虚さが減ったような気もします。

以前のほうが、専門性の高さに対する尊敬の念とか
達人の技術に対する尊敬とかが大きかったと感じます。

裏を返せば、「このトレーナーは何を言っているんだ?」
と感じてしまうと、尊敬しなくなっていた…
ということでもあるわけですが、正直に言うと。

今はそれがもっと平等な敬意になってきているようです。
専門性や技術があるからという理由で尊敬していない。
もっと別の観点から敬意を向けています。

その分、何かを学びたいという欲求が減っているというか、
その専門性に対する強烈な魅力が減ってしまっているような印象です。

以前は、高い専門性や技術を、どこか輝かしいものとして見ていた。
まさにサブモダリティとして輝きのある形で思い浮かべていたんです。

でも、今はそれがない。
均一な感じ。


言い換えると、以前はもっと探し求めていた、ということなのかもしれません。

批判的だったり、ガッカリすることもありましたが、
その強さは裏を返すと、期待の大きさでもあったわけです。

どこかにもっと素晴らしいものがあるんじゃないか?
どこかにもっと学ぶべきものがあるんじゃないか?

そんな風に追い求めていました。

だから専門性や技術の高さを垣間見ると、その輝きに目を奪われて
そこから何かを学びとりたいという強烈な欲求が生まれていたんでしょう。

その強烈さが最近は減ってしまったみたいです。

興味はあるし、自分の知らなかったことを教わるのは面白い。
そこは変わりません。

ただ、輝きという意味で減ってしまっている感じ。

それはつまり、追い求めるべき何かへの欲求がなくなったというか
「きっとどこかに素晴らしいものがあるはずだ」という期待が減ったというか…。

その「探し求めていた何か」に対する謙虚さ、
「知る」、「学ぶ」ということそのものへの謙虚さが減ったのかもしれません。

どうやって取り戻すのか、そもそも取り戻したいのか
ちょっと気になるところです。

おしらせ
 ◆ セミナー情報 

日程更新

《コミュニケーション講座》
〜内容は後日〜


【日時】 2017年8月20日(日)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    304集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分


概要はこちら>>
次回開催は9月の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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