2014年10月

2014年10月30日

沈黙の意義

寂しいときに、誰かと話をしたいと思う人は多いのではないでしょうか。

「寂しい」ということは、自分の存在を確かめたい状態とも捉えられますから、
話をすることを通じて自分の存在を実感したいのだろうと考えられます。

一般的に、自分という存在を実感するには感情の体験が使われます。
感情が動いたときに、自分という存在が生きている感じがするわけです。

多くの人にとって望ましいのは、いわゆるポジティブな感情のほうでしょう。
楽しさや嬉しさ、喜びや充実感、達成感などを体験するときは
寂しさを感じることは少ないはずです。

ポジティブな感情で存在を確かめられない境遇では、ときに人は
あえてネガティブな感情であっても体験しようとするようです。

誰かと一緒にいても無関心で何も交流がないと
自分の存在を否定されたように感じて、何でも良いから反応を得ようとする。

そういう場合には不快なコミュニケーションのパターンに陥って
結果的にネガティブな感情を体験することになる傾向が見受けられます。

それでも、無視される感じや存在を否定される状態よりはマシだとして
厄介なコミュニケーションのパターンを繰り返すことがあるみたいです。


当然ですが、ネガティブな感情で存在を実感するよりは
ポジティブな感情のほうが望ましいものなのでしょう。

寂しさが大きい場合ほど、求めるポジティブさも強くなるようです。

代表的な求められる状態は、絶対的な安心感や、承認、称賛など。
直接的に自分の存在を認めてもらえる感じに関心が向くということです。

そうなると会話の内容は、ただ楽しければ良いという感じではなくなります。

自分の大変さに共感してもらいたい。
自分の頑張りを承認してもらいたい。
自分の正しさに賛同してもらいたい。
自分の能力や成果を称賛してもらいたい。

…そういった願望を満たすための会話が増えてきます。

とはいえ、本人はそのことを自覚していないのが大半です。
自分としては普通に話がしたいだけのつもりで無自覚に承認や称賛を求める。

その人が承認や称賛を求めて話をしていると聞き手が分かっていれば
「大変でしたね」とか「スゴイですね」と言ってくれることもあるでしょうが、
何を求めて話しているかは言葉にされないために
聞き手が察せられるケースはさほど多くありません。

だから、いくら話しても承認や称賛がなかなか得られないんです。
話す本人だって何を求めているかを自覚しないで話していますから、
その無自覚な欲求が満たされるまでは「話したい」願望は収まりません。

だから沢山話す。
承認や称賛を無自覚に期待しながら話し続けるんです。

聞き手が察して言葉をかけるまで話したい気持ちは持続しますが
現実的には聞き手が速やかに察してくれることは少ないものです。

それどころか、長く続く話に嫌気がさしてきて、真剣に聞こうとしなくなる。
人によっては自慢っぽく聞こえる話を聴きたがらないこともあります。

そうして聞いてくれなくなると、余計に寂しさが強まります。
存在を認めてくれない状態になるわけですから当然でしょう。

承認や称賛を求めていると自覚していればコントロールも効くかもしれませんが
そうでない場合には、強まった寂しさを埋めるため、無自覚なままに
さらに承認や称賛を求めて話でアピールしようとします。

話が長くなるから聞いてもらえなくなる。
聞いてもらえないから、もっと聞いてもらおうとして話をする。
余計に話が長くなって、さらに聞いてもらえなくなる。
…そんな悪循環が起きます。

寂しいから、承認や称賛をしてくれるように聞いてもらいたくて、
とにかく沢山話をしたくなる、というパターンだといえます。


ところが見方を変えると
 「寂しさ」は自分が自分の存在を認めていないことで起きている
ともいえるんです。

自分の中に、自分自身が認めていない部分がある。

自分で嫌いな部分とか、意図的に見ないようにしている部分とか、
すっかり無自覚に過ごしてしまって気づかなくなっている部分とか。

その部分が存在のアピールとして寂しさの感情を生み出す。

つまり、自分が自分をないがしろにしているために寂しくなる、と。

であれば、関心を外に向けることそのものが筋違いなんです。
自分の内側から生まれてくる存在への自己承認不足を
外側にいる他者に求めても、なかなか満たされることはありません。

それどころか、外からの承認を求めて外へ注意を向けるということは
自分の内側へ関心を向けないことになりますから、
さらに自分をないがしろにして逆効果になっている状態です。

他人に聞いてもらおうとするのではなく、自分で内面の声を聞く。
誰かに話をするのをやめて、一人で静かに心を落ち着ける。

そうすると自分の内面にあった寂しさに寄り添うことができます。


寂しいから誰かに話をして承認してもらおうとするのは
裏目に出ることが多いもののようです。

他人と話をすることで、自分の内面から目を背け
自分が自分の気持ちを放ったらかしにしているわけです。

沈黙して自分の内面を眺めるのは
「自分とともにいる」行為だということです。

話をするほどに、その自分は放ったらかしになるんです。

寂しいからといって誰かに話を聞いてもらおうとするのは
自分で自分を放ったらかしにして、自分で自分を一人ぼっちにして
余計に寂しさを募らせる行為でもあるのでしょう。

寂しいときこそ静かに自分と共にいる。
そういう時間も大切なはずです。

2014年10月28日

エリクソンのDVD

催眠療法家ミルトン・エリクソンについて
関係者が解説をしたDVDが発売に向けて進行中だそうです。

日本語字幕がつく予定だとか。

予告編の動画がこちら。



楽しみです。

2014年10月27日

安心する食べ物

久しぶりにマクドナルドでハンバーガーなどを食べてみると
(…ケチャップ抜きですが)
意外とアメリカの食文化でも大丈夫なんじゃないかという気がしてきます。

ところが
ファミリーマートの「直巻おむすび・和風ツナマヨネーズ」を食べると、
やっぱり日本の食文化は良いなぁと染みわたるような気分を体験します。


ごくごくたまにケンタッキーのチキンなんかを食べる機会があると
鶏肉だけで満腹にするのも悪くないか、なんていう気持ちになってきます。

そして次の日に、脂の多さで胸ヤケになります。

だからアッサリとした焼き魚や、シンプルな讃岐うどんなんかを食べると、
やっぱりこういう食事は体が喜んでいる感じさえするなぁなどと思います。


街中を歩いていてカレーの匂いがしてくると
たまにカレーを食べてみることがあります。

辛さ控えめのインドカレーを焼きたてのナンと一緒に食べると
インドの食事も良いもんだと感じます。

でも、これが毎日かと思うと、
やっぱりバリエーション豊富な日本文化がありがたく感じます。


そして、ごくまれに中華料理を食べると
脂っこさと味の濃さが強すぎる場合、気分が悪くなることが多々あります。

単純な好みと体質の話として、中華料理には馴染みがないようです。


おそらく、
 子供のころから食べ慣れているか
ということが
食事の好みに関しては大きいんでしょう。

文化とか生活習慣とか、行動パターンとか
様々なことが環境に影響を受けていると考えられます。

自分が何気なくしている1つ1つの行動が
どんな過程で作られてきたのか?などと思いを巡らせてみると
当たり前のことが当たり前でないと感じられてくるかもしれません。

cozyharada at 23:58|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2014年10月25日

再びの一体感

先の記事で「自他の区別」という話題について書きました。

コミュニケーションのポイントとして指摘されることの多い部分です。

とかく人は「自分のコントロールの及ぶ範囲」に対して曖昧になりがちで、
結果として「他者は自分の思い通りになるのが当然だ」というスタンスや
「自分の行動は他者によって決められる」というスタンスが起きます。

自分の思い通りになるはずの範囲が肥大しているか縮小しているか、です。

この区別をつけて、「自分は自分、他人は他人」と捉えられれば
人間関係でお互いに負担を感じることが減るだろう、というわけです。


ところが、頭でそのポイントが分かっていても
学習された内容が変わるのには時間を要します。

特に、不快な気持ちを伴うような反応パターンほど
強く記憶に残りやすいものですから、
厄介な場面ほど同じことを繰り返して、嫌な気分を味わうことが多いんです。

NLPでは、そうした反応パターンを「プログラム」として扱います。
どのように呼んで、どんな手法で変えようとするかは
心理療法や各種トレーニングの流派によりますが、
いずれにしても「いつも繰り返される望ましくない反応パターンを変える」のは
主要なターゲットだといえます。

これらの望ましくない反応パターンは、怒りや恐怖など
広い意味でのストレス応答(交感神経系が活発になる状態)と結びついています。

視野は狭まり、体は硬直して、心拍数が上がって…という感じ。
とてもではないですが、リラックスとは程遠い状態です。

この身体反応が沸いてしまうと柔軟性もなくなります。
自動的に過去のパターンで対応しやすくなる。
工夫しようにも体が思うように動かないし、工夫する頭の状態そのものも
緊張や恐怖、不安によって冷静さやクリエイティビティを失っています。

ですから上手くいかないパターンほど繰り返されやすいわけです。


こうした状態は、外的な刺激によって引き起こされます。
自主的に選択肢の中から選びとる感じではありません。

誰かを見ると、特定の声のトーンが耳に入ってくると…など
体の外で起きること、主に他者によって影響を受けているといえます。

思考・感情・行動の起点が他者にあるんです。

これが不自由な状態と感じられます。
だから問題と捉えられる。

そこで、NLPや心理療法では
 じゃあ、反応の仕方を変えてやればいいだろう
ということで様々な取り組みをするわけです。

望ましくない反応パターンが起きにくくなる手法とか
新たな反応の仕方を追加する手法とか、色々とありますが
ものすごく一般化していえば
 「感情的な不快感をなくしてリラックスし、
  その状態で今までと違う対応の仕方をやってみる」
というのが原則といえるでしょう。

今までどおりの不快感とワンパターンの行動で自動反応するのではなく、
気持ちを切り替えて、落ち着いて安心した状態で
新しい対応の仕方をやってみるんです。

もしそれでも上手くいかなかったら、また対応を変えてみましょう、と。

とにかくワンパターンを脱するために、感情を切り替えて整える
というシンプルな発想です。


では、どうしたらそのように気持ちを切り替えられるのか?
どのぐらいの安心感が得られれば、効果的な対応に変えられるのか?

それに関しては、「程度による」というのが現実的なようです。

ワンパターンの対応しかできなくなってしまうものにも
不快感が非常に強くて、決まった感情が強く沸いてしまって
自分ではどうにもならない感じの場合もあります。

一方で、今までは無自覚にやっていたからワンパターンだったけれど
ちょっと気持ちを落ち着けて考えてみたら、新たな対応のアイデアが
パッと浮かんでくる、なんていうことも多々あります。

この「対応がパターン化されている度合い」が弱いほど
気軽な気分転換だけでも大きな効果が得られると考えられます。

ちょっと深呼吸をしたり、姿勢を正したりするだけで
クリエイティブに新しい対応法が浮かんでくるものです。

そしてパターン化されたコミュニケーションについても
それほど厄介な状態になっていなかったでしょうから、
チョットの新しい対応で道が開けることも多いようです。

一方、強く感情が沸いてしまって、反応もワンパターンに固定され
「わかっちゃいるんだけど、変えられない」感じの場合には、
少しのリラックスや気分転換では対処が困難になりがちです。

もっと大きな心地良い状態に変わることが求められるケースです。

そのための1つの方法として、繰り返される不快な感情を
シミュレーションの場面で思いっきり吐き出してしまってスッキリさせる
というのが挙げられます。

吐き出して怒りや不満、悲しみや恐怖が体から抜け出ると
奥にあったポジティブな感情に気づけることが多いんです。

信頼や感謝、愛情、親しみ、尊敬…など。
自分の中に、相手に向けられたポジティブな想いがあったことに気づくと
次に実際、顔を合わせたときには、そのポジティブな状態をベースとして
新しい対応をしやすくなります。

今までのような不快な感情が沸きにくくもなりますし、
不快な感情と結びついた受け取り方で相手を見なくなりますから
それまでには気づかなかった部分に好意を感じることもあるでしょう。

視野が広がって、新たな関係を築きやすくなる状態だといえます。

こうして不快な感情を全てリリースして
その奥のポジティブな感情に気づく場合、そもそも
期待の裏返しとして強い不快感を抱いていることもあるものです。

つまり、奥底にはポジティブな感情も大きいままで隠されている、と。
どうでもいい相手には不快感も大して感じませんから。


以上のように、不快な感情をリリースすることで
奥底にあったポジティブな感情に気づき、その状態で新たな対応をする
というのは、とても効果的な方法です。

これをもっとシンプルなプロセスによって
さらに効果の高い状態に導こうという手法もあります。

「そのとても不快な感情やワンパターンの対応によって、本当は
 自分は何を得ようとしていたんだろうか?」
といった感じの問いかけを繰り返すんです。

『コア・トランスフォーメーション』と呼ばれる手法です。

自分が心の奥底で求めていたものを深堀します。
繰り返し自分への問いかけを行うことによって
その根源的な欲求へと辿りつこう、というわけです。

ここで得られる根源的な欲求は、人によって言語的な表現の差はあれど
原則的に同じ1つの状態だと考えられています。

内面的に平和な感じがあって、全てとの一体感と無条件の愛をもちつつ
ただただ存在としてOKな感じを体験するような状態。
「コア・ステート」と呼ばれるものです。

この全てとの一体感の中で安らぎと愛に満たされる感じがあれば、
それまでは不快な感情とワンパターンの反応でしか対応できなかった
厄介なコミュニケーションさえも、スムーズに変えられると考えられます。

問題の場面とコア・ステートで向き合ってみて
新たな対応を生み出すだけのリラックスと柔軟性を手に入れる、と。


ここで興味深いことに、『一体感』という言葉が出てくるんです。

コミュニケーションのポイントとして
『自他の区別』をつけることを心がけながら、
同時に『一体感』があることで他者との関わりを変えられる
という話なんです。

生まれる前は、文字通り「一体」だった。
「一体感」ではなくて「一体」だったんです。

「一体感」というのは、一体ではなくて分割された存在が
自分以外の他の存在に対して「一体であるかのように感じる」状態です。

「一体感」は自分と他者とを区別してから感じるものなんです。

言い換えると、
徹底的な心がけとして「自分は自分、他人は他人」という区別を明確にすることで、
何かしら我慢しなければいけない人間関係のしがらみと
自分と他人とでは別々の人生を生きているという寂しさとを実感し、
だからこそ
根源的に求めている『一体感』というものを実感とともに味わったとき
その素晴らしさに気づくことができる
ということです。

まずは『自他の区別』をつける。
それから自分が奥底で求めている『一体感』に気づく。

自他の区別に気づきながら、同時に心の奥で一体感を体験するんです。
だからこそ「自分は自分、他人は他人」という境目を受容できて
自分と相手の両方の自由を尊重できるようになる。

すると相手の振る舞いが起点となって自分の行動が生まれるのではなく、
自分で自分の振る舞いを選択する感じが表れてくるはずです。

お互いのために対応を考える余裕ができると思われます。

2014年10月23日

まずは自他の区別から

一般的にいえば、人は一体感から出発します。

胎内では文字通り、母と子は一体ですし
そもそも、ほとんど何も学習されていない状態の胎児には
何かを認識して区別するということが非常に少ないはずです。

そして出産後、五感を通して経験が蓄積されます。

視覚情報として入ってくるもの、聴覚情報として入ってくるものと、
身体感覚として感じられるものとを統合してパターン学習をするわけです。

映像として動いたときと、その場所の体感覚とが一致すれば
その体の部位には自分の一部としての認識が生まれます。

一方、視覚情報として入ってくるものの、そこに体感覚がなければ
それは自分の体の範囲外として認識されていきます。

動くもの、動かないもの。
遠近感や物体の形としての範囲なども
視覚情報と体感覚情報の組み合わせとして学習される。

その過程で少しずつ、自分の範囲が認識されていくといえます。

一体という認識さえないほどに区別のなかった状態から
区別をつけていくにつれて、自分とそれ以外との違いが認識されていくんです。


ここで、区別をつけるというのは原則的に生存のためだと考えれば
外的な状態を認識ことでホメオスタシスが働くと推定できます。

例えば、視覚情報として目の前に背景とは異なった部分があれば
それはそこに何かの物体があるということですから、
そのまま進めばぶつかってしまうと予想されます。

もちろんそこには過去の記憶として、実際に物体のある場所まで移動したときに
頭にぶつかって痛みが走ったことが関係しているはずです。

その痛みは、標準的なレベルから外れたことを意味していますし、
それゆえに元の標準的な状態に戻そうという働きが生物的に起こります。
そこで行動を止め、因果関係を記憶に残し、次回からは避けられるようにする、と。

つまり、ベースラインとして「完全に安全で生存に全く問題のない状況」があって
そこがホメオスタシスの基準に設定されている、ということです。

その基準からズレたときに修正するような反応が学習されていく。

ここでの基準は、最初に違いを認識して以降に作られるはずですから、
違いを認識していなかった母親の胎内の安心感こそが
「最も安全な状態」という基準になると考えられます。

想像してみても、ほぼ常に一定の温度に保たれ、外的な刺激も少なく
何もしなくても一定の栄養分と酸素が供給されていた胎内と比べれば、
外の世界は遥かに刺激が多くて危険に満ちています。

純粋に生物的な仕組みで規定されているホメオスタシスの基準値もありますが
学習されたレベルでの基準値は、おそらく胎内の安全さに近いのでしょう。

そしてその安全な状態という基準から外れたと認識された場合には、
元の安全な状態に戻すために何らかのアクションが取られます。

最初はランダムなものとして起きたアクションであっても、
それが基準となる安全な状態に戻る結果をもたらせば
上手くいく方法として学習されます。

仮にチョットした肌寒さをベースラインからのズレとして認識して
身体反応としての不快感が起こったとき、泣き声を上げる反応によって
母親が抱き上げてくれて温もりを取り戻すことができたとしたら、
「泣くことで、なんとかしてもらえる」というパターンが学習されます。

ところが、しばらく泣き続けても何もしてもらえず不快感が維持され、
あるときにもっと大声で泣きわめいた場合に抱き上げてもらったとしたら、
「大きな声で泣きわめくと、なんとかしてもらえる」などと学習するかもしれません。

僕の住まいの近所には大声で泣きわめいて要求を通す女の子がいますが、
おそらくその子は
「どんどん泣きわめく声を大きくしていけば、いつかは必ずなんとかなる」
ということを学んだのでしょう。

聞いている限りでは、母親かお婆ちゃんが、いつも根負けをしています。

例えば、泣きわめかなく以外の方法で要求を伝えられることを学び、
同時に思い通りにならないことがあることも学んでいれば、
そこまで激しく泣きわめいて要求を通そうとはしなかったかもしれません。

このように基準となっていた「完全に安全な状態」からのズレに対して
なんとか戻すようにして学習が進んでいく一方で、
すぐには戻せない状況では我慢をしなくてはならないというのも
人が自然と学んでいる内容だといえます。

いわゆる「ワガママ」かどうかを分けるのは、まさにこの
「思い通りにならないことがある場合に、我慢するかどうか」
の傾向と関係していると考えられるわけです。

当然、このような我慢を学ぶ時期には
自分と他者という認識そのものはできているはずです。

名前や人称で区別できるようになっているし、
どこまでが自分の体かも理解ができているでしょう。

しかしそのことと、「思い通りになる範囲」としての
『自他の区別』は別物です。

「この人は自分ではない他人だ」
と分かっていても
「この人は自分の望ましい状態(=基準としての安全な状態)のために
 予想した通りに動いてくれるはずだ」
という暗黙の認識は残り得ます。

日常的な言葉でいえば、「期待」です。
「自分の望む通りにしてくれる」という期待です。

「こうしてくれたらいいなぁ」という期待は、いわば「他者の行動への願望」ですが
「こうしてくれるのが普通だ」という期待は、思い込みを含んでいます。

「当然こうしてくれるはずだ」と無自覚に予測しているため、
その通りにならなかったときに大きく感情を揺さぶられます。

身体や個体としての存在のレベルでは自他の区別がついているのに、
コントロールできる範囲としての自分と
コントロールできない範囲としての他の存在との間には
ハッキリとした区別がついていない状態だといえます。

経験を通じて、自分の手は予想通りに動かせるという学習をするのと同様に、
この人は予想した通りに動いてくれると学習をしているんです、自覚せずに。

他人という存在にまで自分のコントロールが及ぶという意味では
「自分」という認識の範囲内に他者を含んでしまっている、と言っていいでしょう。


つまり、こんな順番で進んでいくんです。

生まれる前に体験していた(ほぼ)完全な一体感の状態では
「一体感」や「安全」という認識すらないほど何も区別がなされていない。

そこから学習を通して区別がなされるようになっていって
自分の体と他人の体という区別がつくようになる。

自分の体は自分の予想通りに動いてくれるが、
他人は自分の予想通りに動いてくれない(こともある)と学習する。

ここで、思い通り(予想通り)に動く範囲を当然のことと捉えるようになり、
そうならない範囲を我慢しなくてはいけない範囲と捉えるようになる。

自分と他者との境界が曖昧な状態です。

多くの人は、この自他の境界が曖昧なままで大人として生活をします。
「相手はこのように行動するのが当然だ」と暗黙の期待をもって人と関わり、
期待が外れたといって嫌な思いをするんです。

他者にまで「自分の思い通りになるのが当然」という思い込みを適用するのは
表面上、様々な形をとります。

ある人は命令の形で、ある人は依頼の形で、ある人は甘えの形で、
ある人はスネる形で、ある人は脅迫の形で…。

どんな形のコミュニケーションによって相手を思い通りに動かそうとするかは
幼少期から「何をやったときに他人が期待通りに動いてくれたか」を学習し続け、
その結果を使い続けているか、ということによります。

どんな形であれ、他者を自分の期待通りにしようとする傾向は
多かれ少なかれ、誰にでも学習されているものだと考えられます。

同時に、逆方向の学習もなされています。
他者の期待に応えよう・従おうとする反応パターンの学習です。

相手の様子に合わせて自分の中に湧きあがる欲求を我慢する。
相手の様子に合わせて、自分の行動を変える。

自分の中には生存のため、安全のために
ベースラインの望ましい状態へ戻ろうとする欲求があるにもかかわらず、
それを抑えたり、それ以上に相手の期待に沿うように行動する傾向です。

当然、学習としては、親の機嫌に合わせるとか、怒られないようにするとか
他者に合わせるほうが、より安全を維持しやすかったことが想像されます。

この他者に合わせるパターンは、いわば
「自分の行動は相手によってコントロールされる」といった
暗黙の認識に近いといえそうです。

まとめると、
「他者は自分の期待通りに動いてくれるはずだ」という暗黙の認識と
「自分の行動は他者によって変えるべきだ」という暗黙の認識と
両方が一人の中に存在している、ということです。

そしてこの両方の程度のバランスによって
・ワガママに他者をコントロールしようとする、か
・物分かりよく他人に合わせるように我慢する、か
を両極とした傾向ができると考えられます。

「自分の体の範囲を超えて、他者の行動まで自分の期待通りになる」
という思い込みは、自己の範囲が肥大してしまっているといえますし、逆に
「他者の振る舞いによって自分の行動を変えなくてはならない」
という思い込みは、自己の範囲が縮小してしまって、自分の体の範囲にまで
他者の影響を取り入れてしまっているといえます。

どちらにしても、『自他の区別』がついていないわけです。

もちろん、たまにはバランスとして丁度いい程度の人もいますが、
それはたまたま両方の反応パターンのバランスが良いだけのことであって、
部分的には「他者の行動を自分の期待通りにしようとする」パターンや
「他者の振る舞いによって自分の行動を変える」パターンも存在しています。

ですから、よほど自分の行動パターンと意図とを自覚していない限り
『自他の区別』がついている、ということは起きにくいようです。


そういう前提がありますから、コミュニケーションを学んだり、
心理療法を受けたり、自己啓発の教えを勉強したりすると、
『自他の区別』をつけるためのトレーニングや考え方が強調されるのでしょう。

「過去と他人は変えられない」などといったメッセージや
「期待を手放しましょう」などのメッセージ、あるいは
交流分析の「 I'm OK. You're OK. 」なども自他の区別を踏まえています。

また、いわゆる「アイ( I )・メッセージ」で
「私は〜だと思います/〜と願っています/〜と感じています」
と伝えるのも
「あなたは私のコントロールが及ぶ範囲ではないですから、
 あくまで私の主観として切り離した意見ですが…」
のようなニュアンスで、自他の区別をつけているといえます。

ここまでは自分のコントロールの及ぶ範囲。
ここから先は相手の範囲。
だから願いはしても、「当然だ」などと期待はしない。

ここから内側は自分でコントロールする範囲。
相手によってコントロールされる範囲ではない。
だから相手に流されるのでも、まきこまれるのでもなく、
自分の意志で行動を決める。

そういう自覚を持つのが『自他の区別』をつけるスタンスでしょう。

1つ1つの自分の行動の奥に、相手への期待が含まれていないか?
相手に合わせるがゆえに自分の欲求への我慢が含まれていないか?

そのような問いによって自分と他人の区別を明確にしたうえで
他者とのコミュニケーションをとるようにするのが、
一般的な社会生活のコツの1つのようです。

2014年10月21日

セミナーのスタイル

久しぶりの投稿となってしまいました。
色々と重なっていたのとセミナーのタイミングが合わさった感じでしょうか。

コミュニケーションや個人の内面についてのセミナーでは
当然ですが技術の紹介やトレーニング、あるいは効果的な考え方の提案など
様々な内容が用意されます。

中にはプロフェッショナルとして毎回同じように講座をできる人もいますし、
受講生を聴衆として、ショーやパフォーマンスを示すような人もいます。

講座を受けて、その人が何を持って帰り、どういう風に活かすかは
当然ですが、その受講生個人によって異なるものです。

その中で、どこに講師としての成果基準を見るかというのが
かなり大きく異なる部分だといえます。

同時にそれは、講師個人の思い入れの強いところでもあるので
ここがズレている講師同士が組織を作ったりすると揉めやすい。
それほど個人差の大きな主観的な部分なんです。


ある人は、受講生が何を持って帰り、何を活かすかは
最終的にはその人次第だと割り切って、
常に自分のできる最大限のことを繰り返します。

どんな受講生が集まろうと、「これが自分のできるベスト」というものは変わらず
それを確実にこなすことが重要だという考えなんでしょう。

場合によっては、自分が表現したいことを話すとか
これが役に立つはずだと自分が信じていることを伝えるとか、
どういう受講者であるかにはかかわらず、自分の強い信念に基づいて
話をするような人もいます。

こういうスタンスだと、自分のスタイルやメッセージに合わない人は
最初から来なければいい、と考えられるのかもしれません。
少なくとも、合う人だけが集まるようになっていきますし、
メッセージの共感性が高ければ、ファンも増えていくはずです。

おそらく、こうした表現ができると聴衆が何万人になろうと大丈夫でしょう。
舞台演劇とかコンサートとかに近い印象も受けます。

とにかく自分は一番大事なことを伝えるに徹するスタンス。
受講生に合わせるというよりも、自分に合う受講生が集まるという感じ。


似た感じでありながら、もう少し受講生のメリットを考える人もいます。

自分が最も重要だと思うところを、
「できるだけ多くの人に伝わりやすい形」で伝える。
少しでも意図した通りの内容が伝わるようにと工夫するスタンスです。

ですから内容はブラッシュアップされて計算し尽くされ、
時間配分にしても、何を話すかにしても、アイスブレークにしても、実習にしても
きちんと設計されたとおりに進んでいきます。

個人差を見るというよりは、平均的な受講者を想定しているというか
あらゆる受講者の共通点を想定しているというか、
少しでも多くの人にとって得られるものが増えるように工夫を凝らした内容を
正確に、予定通りに繰り返す感じ。

個別の対応をするというよりは、どんな人でも大丈夫なように工夫するんです。

こだわって作り込まれている印象があって、
プロフェッショナルな講師の雰囲気があるかもしれません。

おそらく研修講師とかに多いでしょう。

複数回にわたる講座になったりすると宿題も出されます。
宿題を通じて身につけてもらおう、という発想があるようです。


ここにもう少し個人差に合わせようというスタンスが加わると
講座中で内容にアレンジが入ってきます。

話の内容を予定と変えたり、受講生の様子を見ながら説明の例を変えたり、
実習の時間配分を変えたり…といった具合です。

さらにその場の雰囲気に合わせる度合いが強まると、
実習の内容そのものにも柔軟性が出てきます。
事前に余裕を持って実習の候補を用意しておき、
様子を見ながら配布する資料を選ぶ人もいます。

このあたりの工夫は、「伝わりやすさ」を想定したものといえるでしょう。
それぞれの人の様子を観察しながら、どうしたら伝わるかを考えて
その場で対応していくという方針です。

もっと柔軟な講師の場合には、大まかなテーマだけ設定したり
概要的な資料を用意しておいて、詳細な説明や実習の内容は
その場で考えるといったこともあります。


以上のような「講師基準での最善」と「受講生基準での最善」の違いは、
準備や予定をしっかり立てて、最高のパフォーマンスを繰り返せるか
その場の受講生に合わせて柔軟に、毎回その瞬間のベストを出せるか
といった方向性の差に表れる、という話です。

もちろん良し悪しではなく、好みの問題、思い入れの違いだといえます。

しかしながら、この視点で区別をしたとしても、どちらにせよ
そこにあるのは「伝え方」の違いなんです。
この着眼点は「どうしたら伝わるか」をベースにしています。

誰が相手でも伝わるように自分の最善を尽くすか、
一人一人の違いに合わせられるように最善を尽くすか、と。

内容が伝わるところまでが視野の範囲なんです。
この場合、「分かりやすいか」が評価基準になるかもしれません。


一方で、「受講生にどのように役立つか」という視点もあります。

伝わったとしても、役に立たない場合もある。
分かったとしても、それが大きな効果を発揮しない場合もある。

だからこそ、どうしたら役に立つかもセミナーや講座のポイントとなります。

学校の授業や会社の研修などの中には、
「伝わる」ところまでが趣旨であって、その先どうするかについては
個人の意志によるものとされるケースも見受けられます。

伝わった、理解した、納得した…であれば、
その内容をどうするかという行動の部分は受講生次第だ、と。

それに対して、講師の中には
少しでも役に立ててもらうために工夫をする人がいます。

その1つの方法が行動してもらうこと。
分かった内容を実践する、ということです。

技術であれば日々の生活の中で使ってみる。
その技術が上達するように練習してもらう。
心構えや考え方であれば常日頃から心がけてもらう。
新しい考え方で日々を過ごしてもらって、体験の違いを記録してもらう。
…宿題の形で、日常的な実践を強調するわけです。

また、長期的に心がけたくなるような工夫をする場合もあります。
大きな気づきを促すんです。

ショックに近いほどの気づきがあると、それは強く印象に残ります。
そのことについて宿題を出さなくても、常日頃から意識に上がる。
その人の人生の中で大きな位置を占めるようになります。

この場合、新しい考え方を「分かりやすく」伝えた場合よりも
遥かに大きなインパクトを持ちます。
日々の実践を強調する必要さえないでしょう。

技術的な重要性に気づけば、毎日コツコツと心がけて
自ら進んで実践をすることになります。

この「気づき」は衝撃的な発見を伴うわけですから
分かりやすい説明からでは、むしろ得られにくいはずです。

もし分かりやすい説明で衝撃的なほどの気づきが得られたとしたら
それは事前に大きな動機づけがなされているケースです。
そもそも切迫した想いから答えを求めていれば、分かりやすい説明を聞いても
「なるほど!!そういうことか!」と大きなインパクトを伴って腑に落ちます。

それほど切迫していない状態だとしたら、気づきをもたらすには
体験的な実習で、受講者が自ら大事なものを発見する必要があります。

「自分は今まで全然やっていなかった…」
「こんな種類の体験があるのか!」
「当たり前だと思っていたけれど、全くの勘違いだった」
などと驚きに近い気づきがあれば、効果は長続きします。

伝わるかどうかとは関係なく、本人にとっての重要な発見が
講座の中で起きるように工夫するという方向性もあるということです。

さらには、そもそも講座中に技術のトレーニングを効率的に行って
日々の実践などは必要ないぐらいに、その場で身につくように工夫する
というスタンスもあります。

とにかく体験学習を通じて、その場での体験だけでも
行動に自然と変化が起きるようにサポートする、と。

当然、トレーニングの効果を高くできるかどうかが腕の見せどころでしょう。

特に、特定の手法そのものをその場でできるようにするのか、
それとも、より本質的な技能が身につくようにするのかは
講師のスタンスが分かれるところのようです。

その場でできるようになった特定の手法が
実際の場面でどれだけの期間、長く使われ続けるかなると、
技術が個別なだけに忘れ去られてしまうことも増えやすいものです。

例えばNLPの資格取得コースを修了したとして、
その講座中に習った「メタモデル」の中のナントカという質問のパターンを
どれぐらいの人が覚えているかとなると決して多くはないのが実情です。

そこを覚えてもらえるように工夫をするのも1つ。
逆に、そうした個別の手法のトレーニングを通じて
コミュニケーションの土台となる観察力や共感力、
あるいは個人としての心の余裕や安定感を高めるように工夫するのも1つ。

手法が長く心に残るようにするのか、
手法そのものは忘れてもいいからコミュニケーションの土台を育むのか、
といった方向性の違いもあるようです。

もっといえば、技術や能力に限らず、内面的課題へのアプローチも
その人にとって長期的に役立つことを目指すスタンスに含まれます。

表面的には技術や考え方の説明をしていたり、
手法のトレーニングをしたりしているようでありながら、
体験的には個人の内面的課題が解消されるように工夫する。

実習での体験内容をコントロールしたり、
直接その人に合わせた言葉をかけたり、
その場の安心感や他者との交流から繋がりの意識を高めたり、
心の傷や不満が受講生同士の交流でケアされるように関係性を調整したり…。

そうした工夫によって、受講者の内面の苦しみに対してもアプローチして
『講座に参加した効果』を講座内容以外のところで長期的に起こすわけです。

以上のように、セミナーに参加した効果が「残る」ようにするというのも
講師としての方針が強く表れる部分だということです。


講師やトレーナーとして、セミナーをどのように運営するかは
人それぞれのスタンスによって異なります。

その中でも…、

「分かりやすさ」を高めるためには
 ・多くの人に分かりやすくなるよう常に自分の最善を貫く
 ・受講生の個人差に合わせて、その瞬間へ柔軟に最善の対応をする
という両極があって、

さらに別の方向性に、「セミナーが役に立つ」基準として
 ・その講座中にどれだけ納得してもらえるか
 ・講座以外の時間にまで、どれだけ効果を及ぼせるか
という両極がある。

この2つの着眼点でセミナーや講師を見てみると
特徴が掴みやすいでしょうし、合う/合わないの判断もしやすいと思います。

講師をする側にとっても、自分のやりやすいスタンスや
好みのスタンスを知っておくのは役に立つのではないでしょうか。

2014年10月15日

ホウレンソウが効果的ではないとき

コミュニケーションにおいて「正しい」やり方というのは存在しません。

ある目的を達成するのに「上手くいきやすい」、「効果的な」やり方が
あるだけであって、それが正しいわけではないんです。

特にコミュニケーションの目的が、その場でコロコロと変わる
日常生活においては、効果的かどうかを判断することさえ難しいでしょう。

一見すると社会的な常識に反するようなやり方であっても
その人が目的に沿ったものとしてやっているとしたら
上手くいくやり方だという可能性もあります。

例えば、「人の話は最後まで聞く」というのは
常識的には正しそうな方法に思えるかもしれません。

しかし、その人が急いでいて、今は会話をする時間がないとしたら
相手の話を途中で遮って、「ごめんなさい、今、急いでいるので、また…」
と伝えて立ち去るのは1つの効果的な方法といえそうです。

他にも、飲み会の席で、一人がずっと話していて皆が聞き役に回り
そのことで面白くなさそうな表情を浮かべる人が増えてきたら、
誰かが話に割って入るのは、むしろ喜ばれることもあると思います。

家族カウンセリングであれば、関係性のバランスを調整するのに
あえて話を遮って、他の家族メンバーが話せる機会を作るのも
比較的、使われる手法の1つです。

ですから、コミュニケーションにおいては、その瞬間の目的を自覚して
そのために「上手くいきやすい」方法をとる、というのが限度であって
「正しい」やり方を規定するのは難しいんです。


道端で、母親の後をついて歩いていた子供が転んで泣き始めた…。
そんなときに話しかけるのか、放っておくのかだって、
・その母親と子供への影響を想像した上で
・自分の価値観を反映させ
・「自分が望む形」という目的を明確にしてから
・何をするかを決める
という流れを含みます。

「転んで泣いている子供がいたら、起こして慰めてあげるのが正しい」
という考えに沿って、目的を自覚せずに行動を起こすのは、
その人にとっては正しいことと思えるかもしれませんが、
目的が分かっていない以上、「目的のために効果的」な方法とはいえません。

その場で考えられる行動とその結果を想像して、
その中から自分の望むものを自覚して、その通りに行動をする
…というのであれば、「目的のために効果的」なことをしたといえそうです。

実際には、コミュニケーションの技術として、その目的のために
もっと効果的な方法がありながら、それを知らない人や
上手くできない人もいるものですから、トレーニングには意義があります。

例えば、例に挙げた「転んで泣いている子供のケース」で、仮に
母親は手を貸さずに遠くから「何やってんの!早くしなさい!」と言い、
子供は泣きながら自力で立ち上がろうとしているとします。

そこで子供に手を貸したら、母親は自分の教育方針との違いに腹を立てたり、
自分のやり方を間違っていると指摘されたように捉えて不快になったり、と
色々な可能性が想像できます。

その子供のほうも、泣きわめき続けて母親が来るのを待つパターンではなく、
自分から立ちあがって早く母親の元へ行こうとしている。

もしこのことで他者が関わって役に立ちそうな部分があるとしたら
子供が「なんでも一人で頑張らないといけない」というパターンを作ったり、
「自分は見捨てられる」という不安を感じたりする前に、
そうではなかったとリフレーミングすることぐらいかもしれません。

例としては
「お!自分で頑張れるんだね。
 ほら、お母さんも心配して、ちゃんと見ててくれているよ。」
と声をかけるとかでしょうか。

見捨てられているわけではない、ちゃんと心配してくれている
という意味づけを状況に付け加えることで
「見捨てられる」という不安を解消しようといった発想です。

また「困ったときにも、誰かは見ていてくれる」のような学びも起きるかもしれません。

まぁ、このぐらいであればマイルドな影響の範囲でサポートできそうです。

ただし、ここで重要なのは、
・母親の教育方針に反することはしたくない
・母親が不快になることは避けたい
・泣いている子供に応援をしたい
・この子供が将来、大人になったときの精神的安定感の土台として
 母親との繋がりを強く持っておいてもらいたい
・母親の対応の奥にある「優しさ」を子供に伝えたい
などという自分の望みを全て考慮してその場の目的が自覚され、
その目的のために効果的と思われる行動をする、ということ。

良いか悪いかは分かりません。
少なくとも、正しいやり方は存在しません。

後々そのことによって、その子供と母親にどんな影響が出るのか?
素通りしたら、それによってどんな影響が出るのか?
そんな想像を元に、その一瞬で「最善だろう」と”自分が”考える対応を考え
その目的意識にそって行動するしかない、ということなんでしょう。

ちなみに、こういった例であれば僕の場合、
具体的な行動としては何もせずに、ただその子供を
心の中で応援するぐらいなものです。

なんとかなるものだと思っているので
「その人(たち)のために何かをしたい」
といった発想は薄いんでしょう。


ということで、コミュニケーションは「何を目的とするか」が前提となって
その目的のために「効果的か」どうか、が決まるという話です。

コミュニケーションにおいて、笑顔は多くの場合に効果的です。
それは多くのコミュニケーションが円滑で親しみのある関係性を前提とし、
笑顔で接することに親しみや気軽さが得られやすいからだと考えられます。

ですが、親しみや気軽さが求められない場面、例えばお葬式であれば、
当然の話として笑顔は効果的ではないわけです。

それが文化的に規定されているという考え方もなくはないでしょうけれど
どんな文化であっても大切な人を失う悲しみの感情は共通といえますから、
「悲しみにくれる人に対してどのように関わりたいか」という目的意識を持てば
笑顔ではないやり方のほうが効果的だろうと想像できます。

仕事の場面で「報告・連絡・相談」が大切だとされるのも、
情報を正確に共有しておくことや、上司が責任を取れる状態にしておくこと、
組織の方針に沿った進め方を確実にすることなどの目的があるからです。

情報が正確に伝わっていること、お互いの考えを把握し合っていることは
そういったことが目的とされる場面だからこそ大切なんです。

ところが世の中には、コミュニケーションを意志疎通の問題と捉え
 とにかく情報交換・共有の量が多いほうが「正しい」
かのような風潮があるように見受けられます。

おそらくそれも、コミュニケーションの重要性が語られる場面が
仕事関係のところで多いからではないでしょうか。

しっかり伝わっているのが大切だ、と。

その発想で世の中のコミュニケーションを眺めると
その場面での目的を考えようとしなくなることが多いようです。

そこで何を求めているのか?という発想です。


実際、僕がNLPのセミナーなどをやっているとき、
昼休みのタイミングで、よく起きることがあります。

講座にはアシスタントとして参加してくださっている方がいるので
お昼休みには、その方々と食事に行ったりするんですが、
その際、トイレのタイミングなどで外に出るのがズレることがあるんです。

一人だけ一緒に出られず、別々になってしまう。

そういう場面を目撃した方から
「コミュニケーションの講座なのに、
 あまりコミュニケーションが取れていませんでしたね」
などと冗談を言われたりします。

この場合の「コミュニケーション」の目的は
暗黙のうちに「正確な情報伝達」のほうとされています。

ですが、別の見方をすると、
「お互いの信頼関係」と「自立した大人への敬意」を目的と考えれば、
別に一人で食事に行くことになったって問題はないはずです。

そこで逐一連絡を取り合って、
「バラバラになってしまったら大変だ」と心配するほうが
むしろその人の大人としての能力や
一人でも安心して過ごせるだけの心の安定感などを
低く見積もっていることになるかもしれません。

「あれ、はぐれちゃった。
 でも、あの人だから大丈夫だろう。」
という信頼関係を前提としているからこそ
「正確な情報伝達」が目的にならないんです。

はぐれてしまったことを根に持つ相手でもない、
「はぐれてしまって不安になっているのでは?」などと心配する相手でもない
という信頼感があって、
合流できなかったほうにも
「はぐれてしまって迷惑をかけたのでは…?」と気にするでもない
「もしかして心配させてしまったのでは…?」と申し訳なく思うのでもない
という信頼感がある。

そういうお互いの信頼関係を土台として
大人同士の尊重を維持していこうという目的が共有されていれば、
昼ごはんへ一緒に行くタイミングがズレることは、問題ではないはずです。

講座中での昼休みですから、むしろ皆の目的意識としては
お互いが心地良くリフレッシュできるほうにあるともいえます。

ですから、あえて一緒に行かない人がいても気にならない。

もちろんそれが初めての海外旅行の場面であれば話は別でしょう。
心配もするし、しっかりと情報交換しておくかもしれません。
安全のために「正確な情報伝達」が目的となる場合です。

その場の目的意識によって効果的なコミュニケーションは変わるということです。


「〜してはいけない」とか
「〜するのが正しい」とかいった教えは
その意味で慎重に受け取る必要があると思われます。

カウンセリングやコーチングの関係性で暗黙のうちに前提とされる目的は
日常のコミュニケーションでは求められていないこともあるんです。

にもかかわらず、コーチングやカウンセリング、○○心理学のようなもので
習った「正しいやり方」を普段から使うというのは
その場の目的に沿わない可能性もあるはずです。

正しいやり方を教えているものに関しては
「その教えが、どういう場面で、どんな目的を想定しているか?」
を考えてみるのが無難ではないでしょうか。

2014年10月13日

アドバイスが受け入れられないのは何が原因か?

因果と相関の区別をつけるのは難しいものかもしれません。

因果というのは「原因ー結果」の関係を示すもの。
相関は「〜のときには、…になる傾向がある」と示すもの。

相関に「原因ー結果」の関係は含まれないんです。


例えば、
「東大に入るには、親が東大出身だと有利だ」
という考えを示したかったとします。

仮の話として、両親の出身校も入学審査で見られているかもしれない
とか、そんなことを想像した人が調べてみたくなった、と。

それで統計的にデータを取る。

その結果、
「東大出身の両親の元では、子供も東大に行く確率が高い」
という結論が得られたとしましょう。

これは相関です。
両親が東大に入っていれば、それが原因で子供が東大に入るわけではない。

様々な要因が重なっているということです。

両親の出身校が考慮されている可能性も含まれるかもしれませんが、
それ以上に様々な要因が絡み合っているはずです。

遺伝とか、教育とか、教育にかける金額とか、生活環境とか、
「両親が東大出身」ということで起きる様々な結果が、
さらに様々なことを引き起こす原因となるわけです。

自分が勉強していたから、子供にも勉強を教えるのが上手いのかもしれない。
親が家で勉強しているのを見ると、子供も一緒に勉強しようとするのかもしれない。
親が東大を当たり前だと思っていると、子供にもそういう思い込みが生まれて
一生懸命に勉強しようとするのかもしない。
東大出身だと平均収入が高くて、教育にかける金額も多くなるのかもしれない。

とにかくもう、そこには沢山の要因が関係します。

何が原因かというのは結論づけられないはずです。
調べたければ、個別の要因をピックアップして、厳密な比較が必要になります。


しかし、自分が「これが原因だ」と思って物事を見てしまうと、
その枠組みで判断するのが自然なことになってしまいます。

データを自分の結論に結びつけるように解釈してしまいやすいんです。

例えば、コミュニケーションに興味のある人の中には
「ラポールが深いと、アドバイスが受け入れられやすい」
という因果関係を信じている人もいるようです。
(※ラポールの程度を便宜的に「深さ」で表現することにしています)

つまり
「ラポールを深めれば、アドバイスを受け入れてもらいやすくなる」
という結論。

そこからは
「アドバイスをしても効果がないのは、ラポールが足りないからだ」
「アドバイスが届きやすくなるには、ラポールを深めればいい」
という教えが生まれます。

おそらく、
「ラポールが深いと感じたときに、アドバイスを受け入れてもらった」
という経験が重なっていたのでしょう。

これは本来は『相関』です。
因果を示す根拠はありません。

ですが、
「ラポールが深い(信頼関係がある)ほど、アドバイスが受け入れられやすい」
と言われれば、
なんとなくそんな印象に納得する人も多いのではないでしょうか。

多くの人がその相関を体験的に味わっているからだといえます。


ですが、ここには何か別の要因が絡んでいる可能性も考えられます。

あり得そうなのは、「分かってもらえた」という印象です。

誰かが相談をしてきた。
それに対してアドバイスをした。
…結果として受け入れられたかどうか?

この着眼点だけだと、相談の最中、アドバイスをするまでの間に
どんなコミュニケーションがあったかという視点が抜けています。

後から振り返ると、傾向として
 ラポールが深かったときはアドバイスが受け入れられていた気がする
という印象が際立つことでしょう。

その「相談中にどんなコミュニケーションをしていたか」を視野に入れていないので
他の要因を考えようという気にさえならないといえます。

実際には、相談中の会話によって、相談してきた人が
 「あぁ、この人は私の悩みを分かってくれた」と感じたときに
 ふっと心が緩んで、苦しかった感情が解消されて、前に進む意欲が生まれた
という可能性が想像できます。

その前に進もうという意欲が、積極的にアドバイスを取り入れようとした
『原因』かもしれないわけです。

同時に、「分かってくれた」感じが信頼感を増し、ラポールを深めたとも考えられます。

つまり、
・ラポールの深さ

・アドバイスの受け入れてもらいやすさ
も、両方とも
 「分かってもらえた」という印象
によって引き起こされた可能性があるわけです。

因果としては「ラポールの深さ → アドバイスの受け入れられやすさ」ではなく、
 「分かってもらえた印象 → ラポールの深さ」
 「分かってもらえた印象 → アドバイスの受け入れられやすさ」
となっているとも考えられる、と。

個人的な印象としては、「分かってもらえた印象」こそが
アドバイスが受け入れられるかと密接にかかわっていると捉えています。

まとめるなら、
「ラポールの深さ」と「アドバイスの受け入れられやすさ」以外にも
第三の要因として「分かってもらえた印象」が関わっていて、
その第三要因こそが、相関している2つの原因となっている
という可能性です。


こちらの立場からすると、
「アドバイスを受け入れてもらうには、ラポールを深めればいい」
などという提案は生まれません。

むしろ
「ラポールは目指すものではなく、結果として深まるもの。
 目指すのは、相手が『分かってもらえた』と感じてくれること。
 『分かってもらえた』と感じたとき、その人は
 こちらのアドバイスを1つの提案として受け入れる準備ができる。
 そして同時に、分かってくれる人に対してだからラポールが深まる。」
といった説明になるでしょう。

この着眼点をもって人とかかわると、相談されたとき
 「分かってもらった」印象が充分にあっただろうか?
ということが気になりだします。

アドバイスについても、そことの関係で見るようになるでしょう。
アドバイスが受け入れられなかったとき、
 今の関わりで、自分は相手から「分かってもらえた」印象を引き出せただろうか?
と振り返ることになります。

一方、「ラポールが深まれば、アドバイスが受け入れられる」という観点からだと
アドバイスが受け入れられなかったときには
 「今のはきっとラポールが不十分だったんだ。
  確かに、相手の表情からは打ち解けた雰囲気が足りなかった。」
などと分析することになるでしょう。

結果として、次からは「ラポールを深める」ための努力を重ねます。
そして
・上手くアドバイスが受け入れられた時には、ラポールが充分だった
・アドバイスが受け入れられなかった時には、ラポールが不十分だった
と結論づけることを続けます。

盲点はそのまま残り続けるんです。
根拠をすでに決めつけてしまっていますから。

もちろん、「分かってもらえた印象を引き出せたか」についても
その因果を決めつけてしまうと盲点が生まれる可能性はあります。

ですが、「ラポール」という全体的な状態の印象を評価するよりも
「分かってもらえた、と相手が感じた瞬間」は、はるかにピンポイントで
非言語メッセージの『変化』として特定できます。

つまり、「分かってもらえた、と相手が感じた瞬間」が観察できたかどうか
という、より明確な指標で判別できるわけです。

それによって、
 分かってもらえた感の表情があったのに、アドバイスが受け入れられなかった。
 ということは、もしかすると他の要因も関係していたのかもしれない。
といった具合に、別の考察に繋げやすいんです。

これが具体的で瞬間的な出来事を、要因として考えるメリットです。

さらに、「ラポール」よりも「分かってもらえた印象を引き出せたか」のほうが
関わる要因が少ないのも重要なポイントです。

「ラポール」を深めるための手段は沢山あります。
因果関係の流れとして、上流に沢山の要因があるんです。

ラポールそのものがアドバイスの受け入れられやすさの原因であったとしたら
どんな方法でラポールを深めても構わないことになりますが、
例えば、「呼吸を合わせる」という方法では効果が薄いのに
共感的な言葉がけをした場合には効果が高いとした場合には、
ラポールそのものが原因ではない可能性がうかがえます。

ということで、
原因となりそうな要因を考える場合には、なるべく直接的で
ピンポイントに判断できるものに注目したほうが望ましいと思われます。

「ラポール」という様々な要因が関わる状態を
何かの原因として想定する場合には、
まず、ラポールに影響する個別要因をそれぞれ洗い出してみて
それから評価していったほうが無難ではないでしょうか。

そして結果として、どんなやり方で高めたラポールでも
アドバイスの受け入れられやすさを高める…という結論が得られたら
そのときに「ラポールが原因」と判断する。

それでも遅くないでしょうし、何より大事なものを見失わなくて済むはずです。

2014年10月11日

プロレス

そういえば、もう何年も前の話になりますが
当時、いつも名古屋でのセミナーでアシスタントに入ってくれていた人から

 「原田さんのセミナーは、ストロング・スタイルのプロレスみたいですね」

と言われたことがあります。

僕はあまりプロレスがに詳しくありませんが、どうやら
派手な大技で見た目のインパクトが高いタイプのもののことではなく、
打撃系や関節技で勝負が決するようなものを言っていたようです。

それが他の格闘技ではなく、プロレスだというその特徴は
 相手の攻撃を全て受け止める
という部分なんだとか。

多くの格闘技では、防御も重要な技術のはずです。
相手からの攻撃を避けつつ、自分が相手を攻撃する。

そのときに相手の攻撃に合わせてカウンターを放つタイプもいれば
スピード勝負でコツコツとポイントを重ねていくタイプや、
自分からガンガン攻撃をしかけていくタイプ、
一発逆転の派手な大技で決めるタイプなど
…様々な戦い方のスタイルがあります。

それでも原則として、
 相手から攻撃されずに
 自分が相手を攻撃する
というのが、
勝負を有利に進める上で、いたって自然な発想なんでしょう。

一方、プロレスでは
 わざと相手の攻撃を受けて、それを受け止め
 「そんな攻撃では倒されないぞ」というアピールをしつつ
 自分から相手への攻撃が上回ることで相手を倒す
といった流れが見受けられます。

つまり、相手からの攻撃を防御して有利に勝負を展開して
最終的な勝つことに「強さ」の意味を見出すような多くの格闘技とは違い、
プロレスでは、相手の攻撃を受け止めてなお相手を倒すという
防御なんて必要ないと言わんばかりの「強さ」が重視されている、と。


コミュニケーションのセミナーに攻撃や防御があるかどうかは置いておくとして
その人が表現したかったのは、どうもその「受け止める」の部分だったそうです。

確かに、トレーナーや講師の立場からすると
受講生からの質問や意見は、挑戦とまでいわなくとも
1つの「試されどころ」ではあるのかもしれません。

まぁ、僕個人としては知らないことを「知らない」というのに何も抵抗はなく
「答えられなかったら…」といった緊張を感じることもありません。

しかしながら世の中には確かに、質問されたとき
「講師としての知識を試されている」と捉えて頑張る人もいますし
「質問は挑戦だからサラリと受け流す」というスタンスの人もいます。

実際、僕が受けたトレーナーとしてのトレーニングや
人前で話す人向けの講座内容においては、講師の人から
 「質問はまともに受け答えてはいけない」とか、
 「自由に質問や発言をさせるのではなく、まとめて質問の時間を作れ」とか、
 「質問は紙に書いてもらって、その中から選んで答えるようにしろ」とか、
 「『良い質問ですね。他にはありませんか?』などと受け流せ」とか、
 「『なるほど、あなたはどう思いますか?』と逆に意見を聞き返せ」…
そんな感じのことを教わった記憶もあります。

中には、質問が出なくするための方法なんかもありました。

講座の時間や流れをコントロールしたい人は
質問や発言で時間が読めなくなることを嫌うようですし、
1つの質問がキッカケで全体の雰囲気が変わるのが嫌な人もいるようです。

ですから、受講生からの発言や質問、あるいはもっと広い意味で
トレーナー・講師側と受講生側との交流の量には
かなりの個人差が生まれているのが現状なのでしょう。

言語的・非言語的なメッセージのいずれにしても
受講生側から発せられるものをどれだけ「受け止める」か。

受け流したり、抑え込んで自分のペースに持っていったり、
自分からの発信に集中して進めたりして、受け止めない方法もあるわけです。

というよりも、そのアシスタントをしてくれていた人からすると
受け止めないトレーナーや講師が多いように見えたようです。

色々なトレーナーと関わっていたり、様々なセミナーに出たりしていましたから
多くの講師やトレーナーを見ていて、印象の違いを感じていたんだと思われます。

で、多くの講師・トレーナーは、多くの格闘技が相手の攻撃をかわしながら
自分が有利になるように試合を進めていくのと同様に、
受講生からのメッセージを受け流したり、かわしたりする。

それがその人の分析だったんです。


でも僕のセミナーは、プロレスのように全てを受け止める、と。

受講生からのメッセージを質問や発言、非言語の反応など
全部を一度受け止めて、それに対応する。

受講生側からのエネルギーを全て受け止めているように見えたそうです。

それがちょうど、プロレスラーが相手のチョップやラリアットをわざと受けて
倒れずに堪えている様子と似ている、という話でした。

当時はあまり気にしていませんでしたが
なるほど確かにそういう感じはあるかもしれません。

それで何かをしたい気持ちが強くあるわけではないんですが、
そのほうが相互交流として得られる体験学習の量が多いような気はしています。

まぁ、自由にやってもらいたいだけだともいえそうですけど。

2014年10月10日

12月の講座

11月は予定が立て込んでいますので
セミナー・ワークショップの予定はありません。

次回の開催は、12月7日(日)です。


詳しい内容は後ほどお知らせしますが、
コミュニケーションのトレーニングを想定しています。

カウンセリングに近い内容で、
もう少し日常的な雰囲気を出すことを考えているところです。


カウンセリングの形式にしてしまうと場面が限定されてしまいますので
その技術を踏まえながら、場面ごとに対応を使い分けるような形を
実践的に練習してみようか、と。

カウンセリングでもコーチングでも、断片的な手法を
普段のコミュニケーションの中に交えていくことは可能でしょうが、
日常会話で急にカウンセリングやコーチングの形式で話し始めるのは
相手にとって違和感のある場合が多いようです。

何より、カウンセリングやコーチングは
ハッキリとした目的をもった関わりのスタンスを含んでいます。

そこには暗黙のうちに相手に対する要求があるんです。
例えば、自立を促すとか。

しかしながら、日常のコミュニケーションでは
自立を促すだけが全てではありません。

この部分に、形式としてのカウンセリングやコーチングを
日常で使えるかどうか、という注意点があるといえます。

「日常的にカウンセリングやコーチングを『使っています』」
と言っている人たちであっても、
それが必ずしも形式としてそうなっているとは限りません。

むしろ、
「カウンセリングやコーチングで習った手法のいくつかを
 日常のコミュニケーションで時折、使っている」
というぐらいが
実態としては多いのではないでしょうか。

カウンセリング・コーチングという特殊なコミュニケーションスタイルを
そのまま日常会話に持ってくるのは不自然なところがあるものです。

そこをどのようにアレンジして、普段の会話の目的に合わせるか?

場面ごとの目的を明確にしながら
トレーニングを進められればと考えています。

おしらせ
 ◆ セミナー情報 

New!

《心を調える実践会》

【日時】 
  2017年12月23日(土)
  10:00〜16:30


【場所】 
  滝野川会館
  304集会室

   JR上中里駅より7分
   JR駒込駅より10分
   南北線西ヶ原駅より7分

詳細はこちら>>
次回は2018年の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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